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水彩人ワークショップ

2013-09-30 06:31:07 | 水彩画
水彩人ワークショップでは、水彩の話をさせてもらった。上手く話せるはずもないのだが、帰り際に、ブログで読んでいた印象とだいぶ違うと言われた。ブログではとても人当たりの悪い印象があるようだ。そういうつもりもないのだが、文章が下手なのだろう。「私的絵画」の話をした。次の時代の絵のことである。絵画芸術というものは私化することで、意味を持つのではないかという見方である。まあ、40分だから、話がダイジェストになってしまい、肝心なところが伝わったのかどうか心配ではある。絵画というものが、描かれ役立つものになる。という時代が終わったということである。このことも話したかったのだが、話せなかった。○○の為の絵画の時代はとうに終わって、自分の表現としての絵画になった。そして、様々な方法が登場し、絵画が芸術表現としての意味を失う。直接には社会的意味のないものをどう考えればいいのかという、不思議。

商品絵画の時代ということには、異論はないだろう。一般の投棄の対象に、株と変わらない感覚で絵が取り扱われる時代。商品価値があるものが意味ある絵画。クールJapanの問題。訳のわからない、稲田行革相が「ゴスロリ」、に着飾って、フランスに売り込むのだそうだ。誰のアイデアだか知らないが、電通的である。不気味なことだ。金になれば何でも売りこむノがクールJapanのようだ。国際競争力のある芸術もいいけれど、この背景をよく考えて置く必要がある。農業と同じに考えれば見えてくる。国際競争力のある農産物の強調は、競争力のない農業は趣味の農業だから、消費者と位置付けるということになる。国際競争力のない絵画は、価値のないものだという時代が見えてきている。国家による文化の方向付けの可能性を感じる。国際競争力のある、金になる絵描きには補助金を出して、大いに活動してもらうなどと言いださないか。

趣味と位置付けられる膨大な絵画の意味。この中にこそ、現代社会における、芸術の意味が隠されている。描かれた絵を問題にするのでなく、描くという行為が重要なのだ。絵を描くということに、人間の解放があり、精神の高揚や深まりがある。それこそ芸術のはずだ。その出来上がった絵を問題にする必要のない描き方。そうした絵の描き方を私絵画と呼びたい。会津の方の牧師さんで生涯水彩画を描いた人がいる。その方は、絵を発表することがなかった。絵を描くことを見られるのも嫌で、夜の間に街に出て町の風景を電柱の明りの下で描く。この人にとって絵を描くことはとても重要なことであったのだが、作品としての絵は存在しない。20年前位にその話をゆうじん画廊をやっていた和田さんから聞いて、衝撃を受けた。絵は存在しないのだが、絵を描くという行為がある。水彩画であったそうだ。

水彩は内的なものを表現することに優れている。自分の心と向かいあうことになる。私的絵画に置いては、水彩であることが意味を持つはずだ。心の中に湧きあがる姿が、水彩的な人が多数のはずだ。ワークショップでは笹村の考え方を精神主義と受け止められた方が居たようだ。それもだいぶ違う、あくまで個人的な問題として絵を考えた方がいい。自分の何かを人に伝えるための方法と考えない方がいい。こういうことが言いたかったのだ。水彩人展の絵を見ていると、作者の人間が確かに見えてくる。しかし、そういうことも副産物であり、大切なことは、作品より描くということその行為に意味がある。出来たものが立派で価値あるものでありたいという野望は、実現できない時代なのだ。だからその道に入り込むと、滅ぼされることになる。下手をするとクールJapanの一翼を担うことになりかねない。改めて書いてみても、言いたいことが言えない。まだ考えていることがあいまいなのかもしれない。ワークショップではよい勉強をした。人に話すということで、考えが整理できた。又こういう機会を作りたいと思う。46名という大勢の参加された方にお礼をしたい。
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JR北海道の問題

2013-09-29 04:06:27 | Peace Cafe
JR北海道で、貨物列車の脱線事故に始まり、安全思想からいえば信じられないような、杜撰なことが行われていることが分かってきた。原因ははっきりしている。儲からない赤字体質の会社が国の補助金で運営されていれば、精神が緩んでゆくということになる。旧国鉄が会社が分割され、企業として再出発した。しかし、JR北海道は赤字から抜け出せない路線ばかりを抱えている。国も鉄道業の、公共性から補助金を入れている。そんな赤字の地域に競争する鉄道会社などあり様もない。頑張ってやっても儲かるはずもないし。その穴埋めはどうせ、補助金である。やる気のない職場になっていることは、間違いないだろう。人命にかかわる仕事なのだから、緊張を持って取り組めと精神論などではどうにもならないことだ。職場の空気も相当に悪いのだろう。努力しても無駄な仕事、こういう仕事にただ給与の為に働いていれば、人間自体がおかしくなる。

何の為の仕事か、どこに向かって努力しているのか。そういうところから見直さなければだめだろう。これはどの分野でも同じである。農業分野もこれでだめになった。田んぼを作付しなければお金がもらえる。それは稲作日本一の人も、日曜農家も同じである。努力しても意味がない。むしろ止めてもらいたい。こう言われているような農業がダメになったのは、当然のことだった。電力事業も似たような体質のものだ。原子力発電と経営の関係はどうなっているのだろう。相変わらず、原子力発電を再開しないと、電気料金は値上げになるとばかり発言している。放射性廃棄物の処理、原子炉を廃炉にする費用。こうしたものは電気料金に見込んでいない。だから、今廃炉することになれば、莫大な費用が必要になる。つまり、どうにもならない展望のない原子炉再開である。これも、経営と原子力発電を企業自体が判断できなかったところに、問題がある。

企業としての経営と、国策との関係。そこに莫大な税金が注ぎ込まれる性格の企業。こうしたあり方が、企業の精神を崩壊させてゆく。健全な経営精神が育ちようがないものになる。では競争があれば何でも良くなるのかと言えばそれも違う。その仕事が楽しく、好きでやっている。これが基本ではないだろうか。つまり、人間はやりがいがある仕事をしなければだめになる。どういう体制であれば、あらゆる仕事が張り合いのあるものになるかが、政治なのだろう。監督して、指導してとそういう監視をいくら強化しても、却って悪い空気の職場になる。の普請という共同作業は、それぞれが自分の能力を発揮し、楽しく、やりがいを持って行われた。それが、給与で行われることになれば、監視される仕事に変わり、負担感のある、ごまかせるものなら見えないところでごまかそうというような仕事になる。

すべての原因は資本主義の矛盾にあるのだろう。資本主義が煮詰まれば煮詰まるほど、矛盾が増大するということは、マルクスが予見したとおりだ。それをどのように修正できるのかが、政治の課題となっている。あまちゃんでは三陸北リアス鉄道の再建が取り組まれていた。鉄道というものが地域社会の、絆のようなものだ。採算とか、仕事であるとか、そういうことを越えた理念があるのでは、と投げかけていると思う。私も同感である。しかし、税金で負担しなければ、営業が出来ない仕事を、どういう誇りとやりがいで支えてゆけるかなのだろう。JR北海道にも、優秀で立派な鉄道マンが沢山いるのだと思う。それが何かが狂いだすと、こういう信じがたいような事態になる。政府は他人事のように、監督を強めるとしているが、判断がおかしい。もっと深刻な原因は、鉄道事業の将来の方向を示すことのできない、政治の責任である。
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強まる国家主義の本質

2013-09-28 04:03:41 | Peace Cafe
中国や、韓国の指摘があるからではなく、また、批判の為の批判ではなく、安倍政権の考えている国家主義とは何かを事実に沿って考えてみたい。国連に置いて、積極的平和主義ということを主張した。その本意は憲法の解釈を変えて、集団自衛権の解釈を拡大する。そして、同盟国アメリカの行う、武力攻撃に同調できるようにするという意味である。アメリカの武力攻撃を世界平和の為と、絶対視することが前提となっている。その上、積極的という意味は、いわゆる平和的手段は、あまりに消極的なので、積極的に武力攻撃を行うということだ。積極的平和主義は矛盾した言葉だ。平和主義ということは、武力を用いないで、世界平和を目指すことだ。武力を使うことを前提とした平和主義などある訳がないだろう。しばらく日本は国家主義的な方向に進むのだろう。そう思わざる得ないことが起きはじめている。尖閣や竹島のことから、隣国との緊張が強まった。憲法改定と自民党憲法草案に方向が示されている。

発端は石原東京都知事の尖閣購入発言に始まる。石原氏は力による、日本の世界における、尊敬される立場の確立を主張している。ふさわしい武力を持っていればこそ、日本にふさわしい評価を受けられるという考えであろう。維新の会はおおむねそういう思想の持ち黹地なのだろう。安倍氏も同様であると考えていいのかどうかである。どうも安倍氏は、武力以上に経済力こそ、日本が世界から一目置かれ、尊敬される位置に立てると考えているようだ。たぶん新自由主義とか言われる、経済競争に勝つことこそ最も重要なことだという、吉田茂、池田隼人氏以来の自民党政権が目指した、経済至上主義ともいえる方向を、持っているのではないだろうか。従来の自民党政権には、どちらかと言えば、軍事力とは距離を保つという了解があった。

それは、核の傘ただ乗り論のようなものだ。明治政府以来の日本の軍事力偏重の方向が、第2次世界大戦を導き、敗戦するという大きな痛手を受けた、反省のようなものだったのだろう。軍事より、経済で優位に立てば、日本国が尊敬され、国際社会でふさわしい位置に立てるという考え方だろう。それが、危うくなったことが、中国、韓国の経済的な躍進である。アジアに置いて、圧倒的経済力を誇る日本という立場が、崩れ始めた。経済というものが自給競争であるのだから、どこの国民であれ、ふさわしく努力すれば、勝ったり負けたりして当然である。特に膨大な人口と豊富な資源を持つ大国中国。能力競争に尖鋭化した韓国。当然、それなりに競争に勝つ面が出てきた。そのために、日本人だけが優秀なのだという、思い込みのようなものが崩れ始めた。ここが日本人の弱点でもあるのだが、一気に自信を喪失した。それが、民主党政権になり、さらなる失望を味わい、再度安倍政権のアベノミックスである。

しかし、経済で頑張ろうということは悪いことではないが、すでに日本は高度成長期を通して、価値観の統一を失っていた。つまり何の為の豊かさかということである。幸せな日本人の暮らしを本来求めるはずが、お金のためには人間らしい暮らしを失っても仕方がないというような方向に進んでいた。にもかかわらず、経済が苦しくなり、どこに向かって日本人は目指して進むのかが全く見失われた。これが社会の大きな不安要素になった。その結果目立つことは、外国を批判する傾向が出てきた。自分が失われるとき、他者の悪口を言い、溜飲を下げようとする。悪いのは自分たちではなく、近隣諸国だと思いたいのだ。また政治がその方向に目を向けさせようとした。それが石原氏の尖閣の国有化論である。問題を棚からおろし顕著化させたわけだ。溜飲を下げるはずが、ますます問題は、不愉快なところに進んでしまった。そして出てきたのは、軍事力の強化ということになる。
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水彩画論

2013-09-27 04:26:07 | Peace Cafe
芸術としての美術は、社会的な位置が大きく変わった。19世紀末から20世紀にかけてのセザンヌからマチスまでの美術推移は、絵画という自己表現方法が社会に対して、影響を与えてゆく能力の衰退ということが背景にある。それ以降、絵画も商業主義の中に巻き込まれながら、商品としての位置づけがなされてゆく。その意味で、現代描かれている美術を美術史的に見れば、商業主義絵画時代と言っても良いはずである。そうした資本主義的なものの見方から、つまり、クールJapanというような名称で世界に対し競争力のある、作品ということが言われる。一方に、商品でない絵画が膨大に生まれている。商品としての競争のなかでは、当然価値のないものは、社会的な意味が存在しない。それらのかつての美術史にないほどに、描かれている大量の絵は、いわゆる趣味的絵画と位置付けられている。

趣味という言葉での位置は、商品の消費者という意味である。だからこれも商品絵画の裏返しのようなものである。しかし、膨大にある、公募展の絵画は、単なる消費と位置付けられるのだろうが、その意味をもう少し深く社会的な意味から分析的に考えると、私的絵画と考える必要があるのではないだろうか。絵画という手法で社会にかかわったり、影響を与えたりする意思はない。しかし、自分が生きてゆくためには、趣味という、柔らかな穏健な言葉ではかたづけられないような、絵を描くことが生きるということの目的化したような、描き方を続ける人たちもいる。資本主義的な位置づけでは消費者。しかし、絵画することが、人生の目的化する人の群。これは、私的絵画として位置付けられるのではないか。ゴッホやゴーギャンは社会を変えてやるぐらいの目的を抱えて挫折する時代の人だとすると、全く社会的意識がなく、自己探求、はやり言葉でいえば、「修行」しているように描く大多数の人。

「私(的)絵画」は当然人間を反映している。一見、私絵画に見えるゴッホの絵はゴッホの人格表現とは言えない。ゴッホの目的とする絶対の美への探求と考える。そう思えるくらい、私絵画はその修行が深まれば深まるほど、絵はその人そのままに向かってゆく。しかし、発表を目的にしていないのだから、発表することで、社会に、人に変化が起こればいいと考えているとは言えない。自分の個人的なものであるから、日記のようなものであり、人に見せることを受け入れている人のものはブログのようなものである。こうした位置は、商品としての競争から、脱落したものが大半を占める訳だが、その諦めを含めて、修行としての意味を持ち始める。この時に、水彩画が意味をもつ。水彩画は、内的なものをメモすることに優れている。頭に浮かぶイメージのようなものは、おぼろげで、曖昧である。この頭の中と語り合うことが、私絵画では、主要な作業になるために、水彩画の特徴が生かされることになる。試行錯誤の痕跡が残ることを重視する人は、油彩画を行うのだろう。

日本人の感性の蓄積の中には、伝統的な受け止めとして、線やにじみに対して、反応できる能力が高い。ある意味文化的素養ともいえる。書道の成立や、文字に対する反応の深さは、東洋的な伝統であろう。水墨画の世界が一つの道として確立される。水墨の世界は極めて、精神文化的なものとして確立してきた。中国画では画面の中に詩が書かれたりすることに、何の違和感もない。中にはその絵を見た人の感想が書かれ、それまでもが、作品として鑑賞される。こうした、水墨の人格的とも、精神的ともいえる、日本の伝統絵画と、私絵画が出会う時代。この時に、水彩画という描法が、意味を持ち始めている。水彩人の宣言では、水による、最も単純で素朴な方法を課する。むしろ、「内」に向かっての探求である。こう宣言した。この原文は松波氏の書いたものであるが、設立メンバー6人の共通する思いであった。
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水彩人展始まる

2013-09-26 04:08:47 | 水彩画
東京都美術館の水彩人展が始まった。今年は画集の制作もあり、事前の作品の撮影に始まり、審査を行い、作品の6つの部屋への割り付けがあり、そして、昨日陳列が行われた。水彩人は水彩の研究会をそのまま大きくしたような手作りの会なので、すべてが同人の合議制に基づいて行われる。その点手間と時間ががかかるし、すべてがとことん丁寧に行なわれる。今回、良くここまでたどり着けたものだと思うほど、大変な作業だった。実際はいつものと同じことが、15回目ということであるのだが、今回ほど大変なことはなかったという実感がある。年をとったということかもしれない。考えてみれば、昨日は批評会まであった。飾り終わった会場で、本人を交えて、作品を出来るだけ率直に話し合った。それぞれ、本気で描いている絵だから、互いに真剣になってしまう。とても大切な水彩人ならではなものだ。自分の絵がどのように見てもらえるかということもあるのだが、仲間の絵についても本気で考えるということは大変なことだ。これが疲れる。

いよいよ、28日にはワークショップがある。とても好評で、昨日申し込み開始と同時に定員まで、残り少なくなってしまった。今年のように、講義中心のワークショップということでは、興味を持ってもらえるか心配だったのだが、人が集まってくれるというのは、ありがたいことだ。昨年の参加者が今年も是非ということで、先着順なので受付開始を待っていて申し込んだということのようだ。昨年は2日あったものが、1日になったので当然かも知れない。私は水彩画論を話させてもらうことになった。水彩画の可能性のようなものを考えている。何故、水彩画が重要になってゆくかである。それは絵画芸術というものが、私的なものになってきたということがある。これには長々と説明が居るが。そして、日本にある、書の表現、水墨の画の伝統、そして日本画。これらのものが融合し、発表を目的として居ない制作となれば、水彩画が最も適合した表現法なのではないかと考えている。このことを整理して考えてみたいという試みだ。

画集もすでに搬入がされたが、とても良い出来である。筆触までわかるような印刷になっている。水彩の印刷はとても難しいものなのだが、良く出来ている。編集からすべてを担当してくれた、大原さんのさすがの仕事だと思う。印刷屋さんの力量も高いのだろう。そういうことになって1冊1800円になったが、これで販売しても、大きく赤字になる。1冊でも多く売れることを願っている。水彩画を勉強している人なら、間違いなく参考になるものだ。メールで申し込んでもらっても送らせてもらう。自画自賛になってしまうが、過去最高のレベルの水彩画の画集だと思う。水彩人の考える水彩画はこの画集を見れば分かってもらえると思う。私の主張する、私的絵画という意味も少し理解してもらえるかもしれない。会場で作品を見てもらう以上に、画集で確認できることがある。

会場の飾り方は、1室から、6室まであるのだが、どの部屋だから良い部屋ということなく飾ろうということが、担当の三橋さんの考えであった。普通の公募展では、1室がゆったりと飾ってあって、他の部屋よりも見せ場になっていたりする。大家部屋というものが、特別に作られていたりする。そういうことを一切排除して、どの部屋を対等に尊重して、陳列するという水彩人らしい試みである。300号もある作品も、8号の作品もある。これも全く対等に飾ろうというのである。見ていただくということを目的とした当たり前の展覧会である。この当たり前が他の公募展では実現されていない。3段にも絵をかけてあり、上の方の絵は反射して見ることすらできない。水彩人が1段掛けで展示をしたら、何と絵が足りないのではないかという人すらいた。公募展というものが、絵を見ていただくという精神をすでに忘れているのかもしれない。今回もここまで全力を尽くしたことは確かだ。是非一人でも多くの方に見ていただきたい。
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倒れた稲をどうしたらいいか

2013-09-25 04:23:45 | 稲作

キジュモチが倒れている。ひどいところを縛った。


サトジマン背丈が平均107,4センチあった。


苗床の後で一番倒れている。

今年は稲が倒れた。初めての経験である。ソバでやっている自然農法の石綿さんの所でも倒れている。こういうことは初めてのことだ。理由は複合的なものだと思うが、十分に考え来年に行かさなくてはならない。後10日後に稲刈りを控え、どうすることが良いかである。出穂が1週間早くなったので、やはり稲刈りも1週間早める。5日の予定であったものが、29日でも稲刈りが始ることになった。個人的な予定では、絵の展覧会の真っただ中で少し困るが、そうも言えないので29日はなんとか空ける。有機農業では刈り遅れということはないと考えている。以前、立ったままで水分量で15%くらいまで乾かして稲刈りをしたことがあったが、味はとてもよかった。それはハザ掛けをしないでも、そのまま籾保存できるということを試した時である。その年は、畝取りしたほど良く出来た上に、倒れなかった年だ。今年も倒れさえしなければ、予定通り5日からの稲刈りに出来た。しかしかなり倒れ始めているので、刈れるところから始めることに変更した。

この田んぼが倒れる主要の原因は、稲の背丈が高くなったからである。48株の背丈を計り平均してみた。1074ミリであった。単純に考えれば、窒素分が多すぎたということになる。果たしてそうだろうかという疑問がある。窒素が多くなるほど肥料を入れてないと思われる田んぼの方が背が高い状態である。水温が高かったということが、一番の原因と考える。今まで、水温が冷た過ぎて、窒素を吸収できなかった。ところが、今年は春から水温が高く、入水温が20度を始めから越えていた。その後水温は驚くほど例年より高かった。疑問もあるが、来年、窒素を減らすような方向にすること。さらにカリ肥料を入れたいと思う。カリが入れば硬くなり倒れにくくなる。背丈が高いから倒れているともいえないのは、計ってみてわかった。背丈が高いうえに、地面が緩んでいるので倒れる。湧水というか、水路からの伏流水が出てくる場所がある。

そもそも水路が常に水が流れている。川からの取り入れを止めても、水路自体に水が湧いてくるところがたくさんある。まず水路からの伏流水のようなものもある。水路の修復も重要な要素。水廻しや、水管理の方法もかかわってくるこのことからすると、田んぼを乾かし気味に管理した方がいいのだろう。少なくとも後半の水管理はかなり節水気味にするしかない。湧水が耕盤の形成に影響しているようだ。他にも理由はあるのだが、湧水があるということは、一部に常に田ずらそのもに湧いてくるということになる。その為に、耕盤がない場所がある。浅い耕運にしたほうがいい。田植えが出来るのであれば、浅いほどいいのだろう。藁を戻すことが土を柔らかくした傾向もあるので、冬の藁の堆肥化をもう少し丁寧に行う必要があるだろう。まず堆肥を作る場所は、水が湧きにくい位置にすること。

緊急処置として、稲穂が地面につきそうな稲を縛った。3,4株づつで縛っていった。根元が折れている訳ではない。地際からそのままかしいで弓なりになって穂が地面に接している。株自体はまだしっかりしている。上手く管理すればまだ収量は伸ばせそうだ。しかし、株を立ててゆく作業は手間が大変だった。もう一つの不安は品種が変化したことだ。自家採種してきて、背丈が徐々に伸びた不安がある。その意味では、今年は種もみを変えた方がいいのかもしれない。堆肥をしっかりと熟成することも課題である。冬の間に堆肥の切り返しを確実に行う必要があるだろう。水路の修復もどうしても必要である。土の移動を行うと倒れるという気もする。浅い代かきで、平らな田んぼを維持することも心掛けたい。
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魚の目について

2013-09-24 04:10:10 | Peace Cafe
魚住昭という人が編集責任者になっている、「魚の目」というウエッブマガジンがある。以前は様々な異質な人々が記事を書いていた。自分達で報道を行わなければならないという思いが根底にあるのだと思っていた。3,11以降この意図はほぼ終わりになった。しかし、魚住氏だけは、週刊現代連載「わき道をゆく」に書いた記事を転載している。だから細々と続いているという感じである。こういうウエッブマガジンというものは、成功しないという結果とも思える。たぶんある角度からの編集がされるということが、読む者にはダメなのだと思う。大手新聞社などは、報道の中立性とか、社会の公器とかいうものの枠にあるということになっている。自分の主張を極端にはしない。産経新聞が一番偏った全国紙だと思うが、それでも赤旗のような明確な主張はない。一定の中立報道の位置を確保していて、そこにあるものは公式見解のようなものに過ぎないとう、暗黙の了解を持っている。

あるメガネで見た報道。それを3,11で誰しも痛感した訳だ。そのメガネは国民のための配慮というメガネである。海外の報道のようなものを全国紙がそのまま行った場合、パニックになったかどうかである。パニックになったはずだ。それをしなかったことを評価すると主張したのが、魚住氏であった。それから魚住氏の書いたものに目を止めるようになった。この人は、共同通信社の記者をしていたが、自分の考えのままに記事が書けないということで、新聞社を止め、フリーのライターになり自由に書きたいことを書いている。そういう人がパニックになることに配慮して、事実を知った上で事実を報道しない、という選択を一定評価していることに驚いた。同時に、本当のことをかけない大手の報道というものは一体何かという疑問も書いている。出来る限りの真実を、洗いざらい出すのが報道の命だと思っている。だらしない報道機関の編集姿勢の為にそれが出来ていないのだと考えていた。

最近開くウエブ記事では、ブログスというものがある。このことは改めて考えたいと思うが、様々なブログを寄せ集めたもののようだ。どうやって寄せ集めたかは分からないが、腹が立つようなすごい数の記事と、なるほどそういう考えもあるかという参考になる記事がいくらかある。正しい情報というものは、多様になるはずである。大抵のことの真実は一つではないのだ。鶏の品種の東天紅はこんな性質の鶏だ。という記事であれば、てんでんばらばらであるはずだ。Aさんの考える東天紅は人に攻撃的に向かってくる鶏。Bさんの考える東天紅は人懐っこく付いてくる鶏。飼う人によって同じ系統の鶏でも変わってくる。つまり近視眼的な経験報告であれば、様々な偏向がある。しかしこの変更を承知で、Aさんの、餌の考え方。卵のふ化の仕方。等々辿ることでわかることがある。そして、やっと、東天紅の性格を書いた、Aさんの見方が分かってくる。人の意見というものは、そういう面倒くさいものではないだろうか。だから大手の報道が魅力がない。

魚の目のことであった。魚住氏の文章がどんどんすごくなっていると思う。以前の記事とは真実への切り込みが違ってきている。文章が私に居直って面白くなった。小説の方が、報道より面白い。命がかかった様の文体になっている。文章の力がすごい。今でもはたして、真実を報道できなかった、日本の大報道機関の姿勢を少しでも評価できるだろうか。この人が本当のことを書くようになって、その周辺の人たちの姿がなくなった気がする。周囲が居なくなって本当のことを書くようになったのか。何故一人になったのかはもちろん何も分からないが、一人になろうが、1万人になろうが、全くそんなことには関係がないのが、ブログではないだろうか。文章と読む私とは、一対1である。最近は料金を取るウエッブマガジンもある。こうしたものは基本的に読みたくない。本はやたら買うのにおかしいのだが、ウエッブの世界が、いつまでも無料の世界であるべきだと考えているからだ。
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自給農業の道

2013-09-23 04:07:07 | 自給
やまかくさんからご意見をいただき、参考になりそうなので考えてみた。
1)ネットワークコミュニティで支え合う
2)地域通貨
3)雇用の多様化
4)税還付方式の導入


農業を取り巻く環境は、急速に変化している。どのような農業であれ、形を変えない限り存続できないだろう。その点は自給農業も同じであろう。TPP論議に併せて、国際競争力という言葉が出てくるように、農作物がテレビと同じになるということである。国際競争力のある、安くて、品が良く、安全な農作物が、日本に向けてどこの国からも輸出されてくることになる。消費者はそれを見分ける能力を持たないだろうから、イメージ戦略の強い業者の、農産物が市場を占めることになるだろう。現状では農産物は商品ではあるが、地場とか、旬とか、自給余剰とか、言う形で地域と結びつき、存在している。農産物は、他の商品とは少し違う、地域性を残しながら生まれた土地の農産物だからとか、東北のものを食べようとか。沖縄が好きだからとか。日本の食糧生産を守りたいからとか。環境のためには日本の農地を守る必要があるとか。商品としての電化製品とは異なる性格のあるのが農産物である。この一般論がTPP移行し崩れてゆくだろうと感じている。

1、ネットワークコミュニティーで支え合う。
思想的な方向性を持たない形で、果たしてコミュニティーが作れるかである。緩やかな関係を作り出すことは、イデオロギー的関係や、宗教的関係より、一人ひとりの人間の成熟度が問題になる。農の会で箱の試行錯誤を行っている訳だが、可能性も見えるのだが、上手くいっているとも言えない。自給的農業者とは言え、生活に追われる若い世代は、商業主義にならざる得ないように見える。農の会では、専業的な農業を目指す人たちと、市民的に自給農業を試みる人たちとの、融合した関係を目指してきたが、これは成立出来なかった。やはり経済財的基盤が違うものが、同じ価値観ので関係することは、極めて難しい。又このコミュニティーに地域政治が絡んでくる。従来からある、自治会のような地域コミュニティーとの関係も困難がある。

2、地域通貨
自給農業で生産される農産物も、大規模化し機械化する農業が、国から補助を受けて生き残ろうとしている農産物の影響を受けることになる。自給農業が一般農産物の価格の影響を受けない形が必要。商品経済から離れられるのかが課題になる。農会で行う、実費を参加者で均等に分担するという形を、もう一つ広げ、地域通貨を取り入れる形はあり得るが、複雑化しすぎる感じがする。又、同じ畑に違う目的の者が参加する場合。支えるものと、享受するものが、地域通貨の経済関係になり、支えられるものをいつまでも都合のよい享受する側に残してしまう。消費税の設定とも連動する。消費税が高くなればなるほど、地域通貨は生活者にとって意味を持ち始める。消費ではなく、交換経済ということになる。流通経済から退くという意味で、今後地域通貨の意味は補完的な意味以上に重要になるだろう。

3、雇用の多様化
どこに暮らしても仕事がある状況が作られるかであろう。消費者自身が作り出す仕事。農村地域とと都市の関係がさらに深刻なものに変わる。東京一極集中、都市集中の、競争有利の判断。通信網、交通網、病院、教育、いずれ自給するものが、近代的技術をどこまで受け入れ、使いこなしてゆくのかが課題となる。自給生活者が特殊なグループになる恐れ。雇用を自給農業者自身が作り出す、コミュニティーの必要。教育とか、保育。医療、住宅。昔の村落の社会での仕事。普請の研究。

4、税還付方式の導入
情報管理が完全な国家管理になる絶望的な状況の中で、どのような形で個人の自由が確保できるかが課題。確かに税還付方式以外に、合理的な解決方法がない社会である。それを理由にして、国民の把握を国家が悪意を持って行うことが出来ない情報の管理を考える必要がある。国民に対し、情報管理についての現状と、未来の構想を示す。そして国民的な論議が必要。その漏えい保護の手法も示す。国家が安心信頼できるものでなければ、情報の一括管理はとんでもないことになる。
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水彩人の水彩2

2013-09-22 04:52:00 | 水彩画
実は水彩人の水彩ということで、話してほしいということだったが、最終的には私の水彩画という、無難なものだが、私には荷の重いものに変更されていた。私と付いた、話は出来ないし、意味がないと思うので、事務所のIさんに、事前に話し合う必要があるのではないかと、お願いをしたが。大丈夫でしょうという返事だった。何が心配で、どんな調整が必要か私にもよく分らないのであるが、「水彩人の水彩画」というものを、どこまでも考えてゆきたいというのが、今回のワークショップの立脚点である。確かに水彩というものの考え方は同人18名が異なるであろう。当たり前のことである。違うから話しても無駄だというのではなく、違いを知り、考えを深めるという意味で、同人である以上頭を向けなければならない。絵描きの集まりではあるが、少々ややこしく理屈ぽいのが、水彩人だと思っている。

水彩画というものは、分野が確立していない。下書き程度のものとの認識というのが、商業絵画の世界の位置づけである。それでも水彩人の搬入日に、松波さんと小野さんとあれこれ話してみたら、少し感じがつかめてきた。以下そのメモである。松波さんは「私の」とあえて入れることが大切という意見だった。それでは良い議論にならないというのが私の考えである。「私の」哲学と言われてしまえば、議論が始まらない。一般論として水彩画をこう考えると、言うことになれば、いやそれはこういう面でおかしいのではないか。と議論が始まる。「私が」防御線になるのでは、水彩画というものがどういうものかが、水彩人の水彩画が煮詰まることがない。

もう一度水彩という材料を整理してみる。
まず材料的な意味から生ずる一般的性格。
1、仕事が早い。
2、明るいところから、暗い所に向けての仕事である。
3、透明色が基本で、その重ね塗りが特徴である。

それがどのように実際の制作に関係してくるか。
1、一般に水彩紙という、白い平面の上に描くことが多い。水彩絵の具が透明性が強いため、この白い紙色が、絵に大きく影響を与える。もちろん水彩でも色のある紙に描いたり、水彩キャンバスに描く場合もあり、下塗りを行う方法もある。あくまで一般的にという意味。

2、水で溶かして、薄く描くことが多い。他の材料より、薄く着色することが出来る。これは材質感というか、物質感が乏しいということになる。ただし、水彩だから透明で、薄いと限定してしまうことはできない。水墨のような薄さとは異なる点が重要。

3、水を使うため、乾燥の速度の調整が自由で幅がある。作業の早い速写性もあるし、たらしこみのような、時間をかけてのしごともある。ただし、仕事が手早く出来ることから、要点を素早くつかむような場合や、絵の構想のメモを取るようなことがやりやすい。

4、客観的な細密描写に向いている。油彩画より材質感の表現には劣るが、ボタニカルアートや、科学的表現の客観性があり、標本画に使われる。速写生と細密性の、二つの対立されるような性格が、融合するところが特徴ともいえる。

5、水墨画や書のような多様な筆触が表現可能である。筆触は書道では表現のほとんどを占めるように、人間の感じている物を、微妙に反映する能力が高い。そのために、人格が反映していると、東洋では考えられてきた。水の変化によるにじみによる表現という偶然に起こるものを、自然がもたらしてくれる美として、自己と自分にはどうしようもない世界というもが、出会う場としての絵画として意識されている。

6、頭の中に湧くイメージのようなものを捉えることに向いている。頭の中の空想は、ぼんやりもやもやしている。平均的に言えば、水彩画が頭の中に湧いてくる映像に近い。この性格が、水彩を多くの人が下図のアイデアスケッチに使う理由ではないか。セザンヌのように、構想をしつこく試行錯誤して行く作家には、油彩画がふさわしい。しかし、その最初の骨格をメモしたような水彩画は、セザンヌの本質に直接触れることが出来るような、魅力がある。

○水彩絵の具を使っているから水彩画という考えは、間違えである。又つまらない話である。水彩人展では応募要項では、水溶性絵の具を使うから水彩画であるということになっている。が。これは便器的な意味で、本質的な水彩画論としては、こうした区分けは意味がない。素材は重要な要素ではあるが、むしろ、水彩の特徴を生かして描く、油彩による水彩風の絵というのもある。わざわざそういう無理なことをする必要があるのかということだ。

○透明性だけで描かれているものだけを水彩画というのも意味がない。水彩の透明性を生かして描く水彩画ということだろう。

○まず、水彩人同人18名の絵が水彩画にふさわしいものとと考えていたが、そうとも言えないなと今は考えている。水彩画の限界に位置するような作品もある。しかし、この限界に位置するようなものも水彩画の一部であると言えるぐらいに今は思っている。限界を排除することはないが、水彩という材料を生かした制作を感がてみる必要はあると思っている。水彩の中に異質なものがあると、悪く目立つということがある。目立ちたいから、水彩らしくないことを特徴とする、という精神が現われてくる。この場合は井の中の蛙である。
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トウモロコシの作り方

2013-09-21 04:15:33 | 自給

2回目のトオモロコシ、

トウモロコシは昔はもっと深みのある美味しい食べものだった。今のトオモロコシは甘くてやわらかくなったが、私の好みではない。昔のモロコシは香ばしく噛めばだんだん深みのある味がしてくるもので、結構堅かった。スイートコーンという感じのものではない。あれこれ昔のだという品種を作ってみたが、あの山梨で食べていたモロコシには及びもつかない。風呂炊きが子供の頃の役割の仕事だった。木小屋の薪を風呂炊きで使うことは、禁じられていた。風呂など、その辺の木を拾ってきて炊くものだとなっていた。外だから生木でもいいし、火の調整が要らないのだから、畑の枯れ草でもいい。夏の風呂炊きのついでの楽しみが、モロコシを焼いて食べることだった。風呂の火つけが一段落したところで、畑から取ってきて、炭のおきが出来た灰の中にくべる。火種と上手く距離を取る。何度か回しながら焼くのだが、最後に醤油を付けてもう一度焼くのがコツ。これを灰を払ってそのまま食べた。

実入りは爪を立てて、堅くなっている位がいいとされていた。今の品種をそこまで置こうとすると、しわが寄ってきて味が抜けてしまう。ちょっと硬いぐらいが、食べごろだった。今のトオモロコシは、粉に出来るような保存用のものではない。そこまで置くと、しわしわになり水分が抜けてくるだけで味は落ちてゆく。飼料用トオモロコシという牛の餌などに使うものは、これまた違う品種である。昔の山梨のトオモロコシは、もう少し置いて干せば、そのまま鶏の餌になった。棹に下げて、冬まで貯め込んで置き、少しづつ餌のない日には混ぜた。これをどんな味かと食べてみたことがあるが、食べられたものではないかった。ついでなが、鶏の餌を思い出したので。普段はコメ糠に、大根葉のようなものを刻んで混ぜ、水で練って与えていた。トオモロコシを与えるのは、特別の時だった。

噛むと味わいがあるトウモロコシに出会いたいものだと探していた。(1)デントコーン(2)フリントコーン(3)ポップコーン(4)スイートコーン5)フラワーコーン(6)ワキシーコーン日本での栽培は、保存のきく、甘さは少ないが香ばしい「フリント種」または「ワキシー種」が各地で栽培されていた。今も残って栽培されている有名な品種が札幌8行種。細くて長いものだ。これは岡本さんが以前種をくれて作ったものに近い。何故、栽培されなくなったのは簡単なことで、採りたて以外生食に向いていない。流通が出来ない品種である。まさにこれこそ自給用品種ではないか。その探していた種がついに見つかった。「甲州とうもろこし」野口の種である。間違いなくこれだ。今から栽培するものではないが、思わず取り寄せてしまった。370円だった。ちゃんと保存をして来春播くつもりだ。

トウモロコシの作り方は有機栽培でも難しいことはない。肥料として大目に堆肥を入れる。肥料のあるなしではっきりと生育が違う。生育によっては、堆肥の追比も良い。まず、出来る限り早めに作るのが1回目の栽培。苗をハウスの中で、トマトなどと一緒に播いて育てる。5月初めに暖かい日が続くと思えば、畑に植え付けてしまう。遅霜で枯れることも良くあるので、注意が必要。畑は肥料分があれば堅くても大丈夫。植えたならば、周囲に保温を兼ねて藁を敷く。十分敷いておけば後から出てくる草に負けることはない。風で倒されることがあるので、雑草の中に埋もれている形も風よけになる。もう一回は抑制栽培で、7月になってから、直播で行う。堆肥を入れて耕して置き、雨が来る前に種を播く。熱い時期なのですぐ乾くようなら、水やりが必要。雑草に負けるようなことはないから、草取りなど適当で大丈夫である。7月、8月に受粉を外して収穫をするように持って行けば、アワノメイガの被害は一気に減る。
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尊敬されたいという厄介

2013-09-20 04:22:41 | 身辺雑記
尊敬されたいと考えて、行動しているのだろうと言われたことがある。その時は意外な感じがしてびっくりしたのだが、よく考えてみればそういうことかもわからないと思う。名誉欲とかはあまりない方だと思う。社会で認められたいというのは、ほとんどない。絵で世間的に評価をされたいとは全く思わない。しかし、自分という存在を尊重をしてもらいたいとは思っている。この尊重してほしいと、尊敬されたいとはかなり近いものだ。自分らしい自分を認めてもらいたいと考えている。自分らしい自分というものは、表現しない限り人にはわからない。そこで、絵を描いたり、ブログを書いたりしているということなのではないか。絵を先日も頼まれて描いて、画廊に持っていったのだが、自分でも驚くほど見せるのが恥ずかしかった。自分の描く絵を人に見せるのは、幼稚園生の時から恥ずかしかった。先生が良く描けてますね。などというものなら、真っ黒に塗りつぶした。

絵は自分にとっていつも恥ずかしいものだ。自分の本音が表れているからだと思う。そこに、自分が尊敬されたいというような、気持ちが出ているからだと思う。そういう良く見られたいというようなことを、露骨に見られるのが恥ずかしいということだろう。評価されたいという気持ちが、あからさまになることが嫌だとすれば、否定はしているが、尊敬されたいという気持ちが、自分の底にあるということなのだろう。その絵を人に見てほしいというのだから、馬鹿らしいような2重の恥ずかしさが湧く。ブログでは書き留めて置くということを重視している。書いておけば役立つことがある。絵を描く心境でも、田んぼの台風に対する結果でも、書いて置くと忘れないですむ。私の場合すぐ過去のことを忘れている。忘れているだけならいいのだが、違ったことを思いこんでいる。そこで、山北に越した時から、毎日記録を残した。開墾をして、食糧の自給が可能かを実験していたので、実験記録が必要だった。だから記録を残すようになってずいぶんの時がたつ。この記録は自給生活にはとても役立っている。

同時に絵の記録もしてきた。どこでどういう季節にどういう状況で絵を描いたかである。良い絵がかけた時は、どういうときであったのか。描く前にコーヒーを飲んだとか。夕方、急に晴れて来たとか。○○旅館の桔梗の間が、富士山が描けるとか。これは、春日部先生のまねである。春日部先生は、今度長崎に描きに行くと話すと、何というホテルの何号室がいいよ。などと手帳を見ながら教えてくれた。そういう実際上の意味が強いのだが、じゃあ―それを公表し内でもいいだろうということがある。ブログを始めた時に、実に整理がついていいものだと感じた。田んぼの昨年の記録と言っても、すぐ出てくる。それを公表しないタイプがあるのかどうかは知らないが、公表しないタイプがあるとしても、それでは今書いているものとは違うと思う。実際に、昔書いていた記録ノートでは、よけいなことはほとんど書いてない。ただただ、必要事項のみである。今の形式に落ち着いたのも、ブログを始めてしばらくたってからだ。

ブログは人に読まれるという意識が反映したからだろう。ブログを通して尊敬されたい気が発散しているともいえないことはない。絵も当然そうで、人に見られるという意識はある。自己表現であり、主張であることがかなりの重さであること確かだ。ということは、やはり尊重されたいという自意識なのだろう。この自意識の扱いはなかなか厄介なものだ。人目に押されて、自分を歪めてしまう可能性がある。ありのままの絵が描ければと思う。ありのまま文章が書ければと思う。ありのままにまで到達できないから、いや、ありのままと、自己の望む自己とに乖離があるから、背伸びをしてしまっている意識がある。そのために外部からの見方が気になるということなのだろう。自己の望む自己に向かって努力することと、そう見せるということは、似ているようでかなり違う。尊敬されたいはかなり厄介で、重要である。
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風評とか風土とか

2013-09-19 04:23:19 | Peace Cafe
風下、風上、風光、風月、風花、風音、風祭、風評、風標、風神、風の便り、風待ち、風向き、風俗、風合い、風韻、風雲、風化、風雅、風紀、風狂、風景、風采、風刺、風習、風情、風神、風塵、風水、風雪、風情、風前、風霜、風大、風体、風天、風土、風伝、風靡、風売、風物、風聞、風貌、風味、風来、風露、風呂。風の付く字を並べてみた。何とも面白い風という字だ。

「風」 字義:かぜ
    解字:形声。意符の鳥(後に虫に変わった)と、音符の凡(おおきい意)とから成る。大きい鳥鳳凰の意。借りて、「さぜ」の意に用いる。風はもと鳥型の神であったが、のち竜形の神とする観念が起こって、風の字が作られたのであろう。風はこの神鳥の羽ばたきによっておこるものと考えられていたのであろうか。


風という字は単独で考えてみても、とても面白いものだが、他の字と付けてもより面白くなる。風祭は小田原の箱根の入り口にある地名である。本来は210日の頃、大風を治めようという神事である。稲が実り、日々重くなってゆき、首を垂れる。この収穫の一歩手前は、祈るような思いで田んぼを見守る。ここまで来たのだから、あと一歩である。風よ来ないでくれ。田んぼをやる誰しも祈る思いだ。おわら風の盆が有名になったが、あれも風祭の一つである。風祭は全国にある。開かれる時期は様々なようだが、その起源は農作物を風から守ってほしいという祈りだ。今回の18号台風はかろうじて、予測コースより北を通り、小田原を迂回した。迂回はしたが、稲の倒れた田んぼもかなりある。欠ノ上田んぼも倒れた。いろいろ理由は考えられるが、今年の春先の気候は倒れやすい稲を作った。良く出来ているからこそ風で倒れる。

このにくたらしい風のやつ。風の又三郎のやつのちょっとした遊び心が、百姓の一年の苦労を無にしてくれる。宮沢賢治は、冷害の辛さを、子供を人買いに売らなければならないような悲しみを、風の気まぐれに紛らわすしかなかった。風を鳳凰の羽ばたきから起こるとした、中国の故事。口から吐くという説より、羽ばたきの方が感じが出ている。鳥は気ままで人間の及ばないものだ。行動も意外性に満ちている。季節によって居なくなり、現われる。神出鬼没であり、風のようだ。風というとらえどころのないものを、鳳凰の羽ばたき、に見たというのは大げさではあるが、すごい。と同時に風土という言葉はどうも日本の感触とは違う。風土は中国のような、ゴビ砂漠から、黄色い風が吹き寄せる国で生まれた言葉だ。中国古代では風土記というものが各地で編纂される。日本でもそれに倣い、風土という慣れない言葉を日本にあてこんだ。私には日本の言葉とは思えない。

瑞穂の国日本なら水土だ。中国では風は、季節的な気候の周期がある。日本でいえば、梅雨の用にある季節を代表すると言えば雨である。水の増減である。この水の増減を管理するということが、政治である。その水土管理の総括が天皇であると思われる。水というものはもう一方からいえば、海である。日本人が海と密接であるということが言える。海から来たものであり、海に帰ってゆくという感じ方。今回、「海と空との原の上」という絵を描いた。つまり、人間が生きる場所である。この海は山でもいい。風景画というものはそういうことではないかと思ったのだ。人間が生きるところを描くのものが、風景画だと思った。雲を描くとしてもこの雲の下に人の暮らしがある。そういうことを描きたいと考えた。「海と空との原の上」上田敏の詩の一節である。

風の付く言葉は実に多彩である。風天になって又旅に出るというのが、寅さんの喜びであり、悲しみである。そしてあこがれ。水土に張り付いて暮らす、百姓の豊潤な暮らし。安堵感。そして土地から離れられない閉塞感。もちろんそれは百姓だけでなく、人間すべてのことだろう。それら人間の暮らしをひっくるめて描くのが、絵ではないだろうか。と最近当たり前のようなことを、思うようになった。老化なのかもしれないし、諦めなのかもしれない。そう思うと、分ることも出てきた。少なくとも、絵はわかりやすくなった。人間の暮らしの当たり前の、すごさ。幸せな家庭は軒先から火を吹いているという、八木重吉の詩の意味。普通に山を描き、普通に海を描き、空を描く、そして風を描く。だから風景というのだろう。
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安倍 晋三 という人間

2013-09-18 04:08:11 | Peace Cafe
安倍総理大臣は文楽人形のようだ。操る人がいて動いている。IOC総会で、日本国として、真っ赤な嘘を、堂々と演じてしまった。この人の行動や発言を見ていると、きれい事が過ぎて、自分から出てくる言葉とは思えない。言葉としての汚染水発言は、度肝を抜くものである。分っている人からは出てこない言葉だ。しかし、一方からいえば、すごい戦略家であり、さすがともいえる訳だ。日本のためには嘘ぐらい平気で付くという覚悟とも思える。そうは言っても瑞穂の国、美しい国に始まる、きれい事と、現実政策との乖離は頭の中が、空洞になっていると考えるしかない。この人は子供の頃から、周囲からこうあれよと操られて生きてきた。操られていることと、自分であるということが分からなくなったのではないか。日本の現状のように、民主政治が機能を失っているような状態の中では、こんな危ういことも起こり得るのかと思える。どこかに、電通系の演出者会議のようなものがあり、あなたはタレントなのですから、一切頭を使わず言うとおりに動いてください。ということなのではないか。まあそこまでははっきりとは言わないだろうが。

安倍氏が愚かな人とは思わない。理解しなければ役者はできない。安倍氏としてはどうしてもやりたいことがあるので、我慢しているつもりなのではないか。安倍氏の考える日本の再生を使命としているのだろう。その一事のために、演出をお任せしたのではないだろうか。たぶん演出のプロデューサーグループには、各分野の専門家が居るのだろう。手振り身振りの指導まであると思う。それは東京オリンピック誘致戦略の、あの「お・も・て・な・し」の演技指導だ。当然総理大臣の発言内容の、自信に満ちた嘘も演出指導が入っている。演出できるということは役者ぶりがいいということで、猪瀬東京都知事とはこの点が違う。猪瀬知事は演技者としては失格だ。ニューヨークタイムズのインタビューで露呈したので、その後小学生操りのような、あっちむいてホイのようなぎこちない動きだった。安倍氏の役者としての凄さは、全く自分の考えにこだわらず、言われた通り出来ることではないだろうか。役者だって自分の意見はあるだろう。勝新が影武者で黒沢監督からおろされた例がある。

言われたことを言われた通りにできるということが、安倍氏の育ちから来る資質なのだろう。浅原彰晃も、周囲から演出が入っていたような気がする。演出グループにしてみれば、浅原の様な狂信者をおだてて、仕立て上げ、自分たちの野望を遂げようとしていたのではないか。以前足裏占いの教祖が、興信所を使い調べ上げて於いて、お告げをノタマウという宗教詐欺事件があった。中心というのは、周辺が作り上げる。アベノミックスという点が今のところ表面にある政策である。第3の矢まで放たれ、7年先の東京オリンピックが第4の矢だと言われ始めている。いわゆる、新自由主義経済と言われる楽観的成長論である。こういう考え方を本来安倍氏が持っていたとは思わない。デフレ脱却をお題目にして、国際経済競争に勝ち抜くことが国民受けをする。結果、能力型社会を、受益者負担型社会を、格差社会を進めていることになっている。その仮面として、美しい日本が讃えられてゆく。

小泉劇場は座長公演のようなものであった。座長の派手な演技で客集めが出来た。今度の安倍人形浄瑠璃は、手のかかり、足のかかり、頭のかかり、と黒子が取り巻いて上演されている。はっきり言ってしまえば、口パクのあまちゃんの鈴鹿ひろ美のようなものだ。鈴鹿ひろ美はその嘘を役者の覚悟として受け入れた。あべちゃん人形一座は座長公演のあやうさを知っているのだ。手厚い黒子陣が控えている。そして最大の問題は、言われている国粋主義的傾向である。安倍氏の、日本主義である。今のところ、その傾向は抑えている。演出陣としてはまだ早いのか、止めておけ、なのか。前回靖国に行けなかったことを、あれほど悔しがった人が、今回平気で反故にしている。あの変わりの英霊発言も練った演出なのだろう。この人は日本主義の人ではないのかもしれない。この人の周りに、あるいは先代からの参謀に、日本主義有利の情報があるにすぎないのではないか。そういうリサーチ結果で動いている様な気がしてきた。このあたりの真実はアメリカの情報機関に教えてもらいたいぐらいだ。
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シリア危機

2013-09-17 04:43:07 | Peace Cafe
シリアの内戦は極めて深刻である。アサド政権が国民に対して、暴虐を振っていることは確かなようだ。国連もロケット弾によって、無差別にサリンが使用されたことを確認した。シリア政府もサリンの保有は認めている。そして反政府勢力と言っても一枚岩ではなく、民族的にも、宗教派閥的にも様々なようで、何が起きているのかさえ、明確にはわからない。その中で、アメリカのオバマ大統領はアサド政権が国民に対して、サリンを使ったことを理由にして、ミサイル攻撃を行い、サリンのような化学兵器を使えば、どういう結果になるかを、制裁攻撃の必要があると、主張している。ロシアは、アサド政権が化学兵器を放棄させることに、外交的に進めることに成功しそうである。2つの大国を較べるとロシアという国のしたたかさと、プーチン大統領の能力の高さが目立つ。アメリカの軍事攻撃を材料として、上手く外交交渉を進めているように見える。まずはひとまず、アメリカの攻撃がなさそうなことだけは良かった。武力で、制裁を行ったところで、自国民に対してサリン攻撃をするような人間が、反省をするとは考えにくいだろう。

と言ってアサド政権を壊滅させるほど、アメリカが軍事介入したところで、ベトナム、アフガン、イラク、の二の舞三の舞になるだけだろう。結果を見てみれば武力攻撃で解決できることなど何もないことがわかる。軍事力というものは、防衛的抑止力として意味はある。つまり、軍事力の背景に自国民が存在して状況では、武力は意味がある。政府と国民が一体化しているときに、初めて軍事力は意味を持つ。外国に対して軍事攻撃を行う場合、反政府勢力が居たとしても、その反政府勢力がどこまで当てになるものかは疑問である。その反政府勢力が、アメリカの軍事力を背景として政権に就いたとしても、状況が変わるのではなく、新しい反政府勢力が誕生し内戦は継続する。もちろん、一時的な意味で、国連軍のようなものが、仲裁を行い、国民に対する暴力行為を止めなければならないという場面はあるだろうが、その国の政治にまで介入し、統治するというようなことは不可能と考えた方がいい。

サリンにより、人が殺されるなどあってはならないことではあるが、軍事介入して何かが解決できるとは考えない方がいい。ロシアが行ったような外交的解決法は画期的だと思う。同じようなことを中国のような国が、北朝鮮のような、制御の利かない暴力的な国家に対して行えないのかと思う。日頃の外交方法の問題なのだろうが、中国がなぜ、ロシアのような役割が果たせないのかが、不思議な気がする。したたかな中国に、北朝鮮の核武装を断念させる、能力がないとは思えない。中国は北朝鮮という国を切り札に使おうと考えているのだろうか。いずれにしても、この間の日本政府には憲法に定められた、国際紛争を平和的手段によって解決するということは、やろうともしないし、出来るような基盤もない。

軍事力というものの意味を考えるべきだ。シリアの内戦のような事態は、武力が国内向けのものであることを示している。日本の自衛隊の武力も、国内にも向けられていることは自覚しておくべきだ。民主的な日本という政治体制を覆すためには、自衛隊の武力が必要だと考える人はいる。三島事件が茶番にしか見えなかったことは良かった訳だが、国民向けに自衛隊を使いたいという勢力はある。今検討されている集団的自衛権の解釈の変更が、シリアへの軍事介入というような、暴虐な内政に対して、制裁を行う軍事攻撃に参加することになりかねない。自衛権の拡大解釈など、無理やり行うことが日本の安全保障に対して、意義が存在するとは思えない。こうしたアメリカの圧力はアメリカの一部の勢力の圧力である。イギリスも、アメリカも、議会が軍事攻撃を抑制したということはこれからの政治的意味は大きい。
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絵に専念する家

2013-09-16 04:05:05 | 水彩画

写真の左にあるのが今この文章を書いているパソコンである。
食卓は自分でこさえたものだ。山北に居る頃、東電の架線管理の人が切り倒したケヤキを、板にしたもの。作って20年は過ぎた。甕は梅酒が仕込んである。立てかけてある大きな絵が150号。

今の暮らしは、アトリエに暮らしている状態である。つまり、明るいうちはご飯を食べても、パソコンの前に居ても、絵を描いているような具合である。常住坐臥絵と向かい合っている暮らせるようにした。以前は、アトリエには絵を描くとき出掛けてゆくという状態であった。改めて絵を描くというようにしていた。このように変えたのは、64歳の誕生日を契機にである。農の会の集荷場に行くのも止めた。卵を販売するということは続けているが、ご近所の範囲にしようと考えている。農作業自体も絵を描く範囲にしている。今までは、農作業の空いた時間に絵を描くという生活であったが、いまは、絵を描く合間に農作業をするという感じに変えた。だから、農作業時間の記録も止めてしまった。毎日記録していると、絵を描くという意識の邪魔になるからである。もうそういうことでいいのかと考えている。窓は南向きで明るい。この外光で描いている。つまり暗い時には描けないし、描かない。だんだん、太陽光と同じ明りをつけようかなどと考えてきている。

出来る限りで、絵を描く万全の態勢に入った。態勢が整ったからと言って、絵が描ける訳でもないのだが、やれる限りをやってみようと考えている。まだそう変えて、1ヶ月もたたないのだが、何か、絵を描くということの質が変わってきた気がしている。人間気持ちだけで変わることは少ない。環境を変えるということも重要だと考えて実行した。


自分の絵の展示室である。真中にあるテーブルと周辺の台は自分で作ったもの。松と桑の一枚板で、2間ある大きな板で作ってある。テーブルはやはりケヤキ。
籐のイスは満仲さんという忍野に住んでいる人が作ってくれたものだ。
中央の大きな絵が150号。大きな絵を描いたのはこの絵が最後。


ここは人の作品の展示室である。30ほどの水彩画等が置いてある。
水彩画と言っても様々なものがあることがわかる。色々の人の作品を見ることで自分の絵が見えてくるということがある。すべて自分が勉強になるだろうと思ったものが並べてある。
いつでも興味ある絵が見れるということはいい。

いつも絵と接している。しかし絵を描くということはなかなかできない。一日中描こうして眺めているだけで終わる日もある。農作業と較べれば、ずいぶん無駄なような気がしてしまうのだが、分らないまま描いたところで、どうにもならないので眺めている。ところがある瞬間、こういうことだったのかと、気付いてどんどん絵が進んでいる気がする、ことがある。そういう一気に作業が進む日を待っている。外に描きに行くこともあるのだが、外で描いて完成という気がしなくなった。もう一度見に行くのだが、それでわかる場合も少ない。家に戻り全く違った絵になったりする。あれこれわからないことはあるのだが、前より絵を描くということに近づいてきた気はする。それは一枚の絵に時間がかかることが多くなったら、絵に盛り込むことが減ってきて、つまりずいぶん削るようになって、自分にはやるべきことが分りやすくなった。
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