地場・旬・自給

ホームページ https://sasamura.sakura.ne.jp/

40人学級と35人学級

2014-10-31 04:20:28 | 暮らし


箱根芦ノ湖 中盤全紙 やはり同じゴルフ場に上ってゆく所から描いている。この複雑な地形の組み合わせに惹かれるのだろうか。活火山としての駒ケ岳は生きているような山だ。




財務省が40人学級に戻したらどうかと、打診を始めた。この子供が減少している時代に理由が分らない。40人にすると予算が節約できると考えているとしたら、大間違いだ。「40人に戻すと、必要な教職員数が約4千人減り、人件費の国負担分を年間約86億円削減できる」との試算を提示している。現在小学校教育は危機的な状況にあると考えた方がいい。現在小学校の乱れは、年々深刻化してきている。中学校で起きていた様々な問題が、小学校にまで及んできている。昨年度のいじめはさらに深刻化した。まず、4千人の人件費が削減できるという試算が怪しい。すでに40人学級どころでなく生徒の減少が起きている地域が全国に広がっている。こうした地域には何の関係もない話なのだ。過疎地域の教育の存続をどう考えて行けばいいのかという、もっと深刻な状況なのだ。いかに閉校をせず過疎地域の教育の存続するというのが、緊急対策だろう。

40人でも30人でも教育効果等さして変わらないと考える。問題は直接子供の教育に当たる、教師に直接の教育以外の負担を減らすことが必要である。父母対応。こういう問題に巻き込まれると、担任の負担は一気に増えてしまう。モンスターペアレントはいつどこに出現するか分らない。渉外処理専門の人間が、学校には必要である。また、経理専門職員も必要。学級担任が、お金の集金を負担するようなシステムでは効率が悪すぎる。また、生徒の心身の健康問題へのアプローチも医療専門職員が必要であろう。不適合児童を専門に扱うカウンセラー職員も必要と成る。さらに教員のIT能力の向上のための、指導員を学校に配置する必要もある。農作業などの作務教育の職員の導入。さらに言えば、学校を多様化して、生徒の学校選択の余地を作る必要がある。公教育は全面見直しが必要な状況である。その上であるなら、45人に戻そうという考えもあり得る。

教育は10人なら10人の為の方法があるし、100人なら100人の方法がある。どちらが有効とかではなく、教育の内容による。学校と言う場は、社会の矛盾が集まってくる場に成る。家庭内暴力が頻発している。家庭崩壊も珍しいことでもなくなっている。そうした格差社会の矛盾が集中してくる場所が学校現場だ。そうした社会矛盾を教育という枠で、向かい合わざる得ない場所が学校である。40人だとか、35人だとか、そんな末梢的な問題ではない。学力の低下と言うことが言われるが、その学力の目指す所が、道徳教育の強化であったり、英語教育の導入である。倫理を国が強制してもどうにもならない現状である。導入すべき教科は、作業教育である。瑞穂の国の伝統農業を教科に入れるべきだ。実務作業経験こそ学ぶものがあるはずである。英語教育などやりたい児童が、塾にでも行けばいいことである。

公教育の目指す所は、国の目指す所を反映する。日本が瑞穂の国、美しい国づくりを目指すと言うなら、どんな教育が必要なのかを考えればいい。軍国主義国家に成るなら、国民学校だろう。国際競争力の能力主義なら、韓国の様な教育と言うことに成る。方角が分らず、ただ競争力を高めたいということでは、学校の負担が増加するばかりである。美しい国の意味する所は、美しい人間が、美しく暮らしている国と言うことだろう。美しい暮らしとは、競争に追われた暮らしではないことはわかる。一人ひとりが自分の生きる目的に向かって、充実した日々を送ることだろう。人を踏みにじるような競争社会に暮らし、学校は能力主義の養成所に成る。そのストレスをカジノで発散するような国がまともな訳が無い。67億円を惜しんで理由なく、40人学級を主張する政府の目指す所は、ずいぶんいやな世界と思うのだが。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

沖縄の知事選挙

2014-10-30 04:07:26 | Peace Cafe


箱根駒ケ岳 中盤全紙 これは、ゴルフ場へ行く道で描いている。とても良い場所があるのだが、ゴルフ場で怒られそうなので落ち着かない。





沖縄の知事選挙はよほどのことが無い限り、前那覇市長の翁長雄志氏が当選しそうだ。それほど、現職の仲井真氏への怒りが沸騰している。仲井真氏は米軍基地の辺野古拡張計画で、沖縄県民を欺いたと見られている。仲井真氏としては、要領良く安倍政権と取引をして、沖縄振興計画を勝ち取ったつもりかもしれないが、そのようには受け取られていない。むしろ、政府に媚びて、沖縄を売ったと言うように見られているようだ。辺野古移設反対を約束したことはないと、今に成って主張している。前回明確に前選挙に主張すれば、当選できなかったはずだ。あのときものらりくらりその場しのぎの態度だった、選挙に入ってから辺野古移設反対を明言した。選挙戦の中で、そう言わざる得ないと、そうでなければ当選できないと考えたのだろう。こうした態度が沖縄県民を欺く態度と受け取られているのだ。今回の選挙でも、選挙戦に入れば何を言い出すか分らない所がある。

今回の沖縄知事選挙は、10月30日公示11月16日投票である。4人が立候補予定している。公明党は自民党の再三の仲井真支持の要請を断り、自主投票を決めたようだ。と言うことは、実態としては、翁長雄氏支持に公明票は流れると言うことである。沖縄の選挙はいつも公明党の動きで決まっている。公明党は安倍政権の与党と言うことではあるが、さすがに沖縄党本部は党員の意思を無視することが出来なかったのだ。それくらい、辺野古移設反対の主張は沖縄の県民の中に強い。また、歌手の喜納昌吉氏にもほとんど票は入らないと予測する。自分を辺野古担当副知事にするなら、立候補を取りやめてもいいという様な事を言っているそうだが、すでに辺野古移設反対を明確に翁氏が主張している。もしそれを大切に思うなら、選挙に出ないことだ。喜納氏の発言を聞いていると、政治家には不向きだということを感ずる。歌手としては魅力的なのだが、残念である。

沖縄の地域の特性を考えると、安倍政権の目指す能力主義を徹底して、国際競争力ある経済。こういう考えとは適合しない。沖縄らしさと言うものが、何かということまでは私には分らないが、琉球王国という独立国だった意識が今も息づいている。特に近年においても、悲惨な地上戦を体験した。そして1971年の沖縄返還までの、アメリカ占領は耐え難い歴史がある。そして返還後も沖縄に基地を押し付ける形で、日本全体がその負担を逃れてきた。こうした差別を受けたことに対する怒りは、日本国民全員が深刻に考える必要がある。実際に沖縄基地負担軽減と言いながらも、一向に進まない現実がある。確かに歴代の政府が口先では軽減を主張している。それなら、無人島に基地を作ればいい。適当な無人島はいくつもあると言われている。しかし、それは米軍が受け入れない訳だ。米軍はいまだ占領軍意識でいる。海兵隊員が息抜きが出来るような地域に基地が欲しいと言うことではないか。

沖縄知事選挙は不幸な選択を迫られた選挙だ。辺野古移設反対は、沖縄差別反対ということだと思う。なぜ沖縄だけにいつまでも基地た集中させておくのか、という怒りを感じる。それに無反応な、日本全体への怒りを感じる。あの名護市長選挙の時に石破氏が沖縄開発基金構想が、裏目に出たことでも分る。お金で基地と言う迷惑施設を我慢させようという政府の方針への怒りだ。しかし、どれだけお金を出そうとも、核廃棄物の処理施設が出来ないと同じことである。お金で暮らしを買い取ることはできない。沖縄基地軽減以外に、道はないのだ。どこか外国と言っても無理である。無人島に行ってもらう以外方法が無い。その米軍基地の島に自民党の好きなカジノでも作ればいいだろう。あの竹島はどうだろうか。韓国と日本と、アメリカで共同管理して行く。と書きながら思うことだが、安倍政権の本音は、基地軽減どころか、日本軍創設である。沖縄の基地軽減など、待っていたのでは間違ってもないと考えておくべきだ。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

老人になることと免疫力

2014-10-29 04:20:49 | 身辺雑記


根府川付近 中盤全紙 点在する小屋と畑と、農道。そして海。どちらを見ても面白いのだが、その面白い原因が良く分っていない。





歳を取れば免疫力は落ちてくる。人間も生き物だから、当然のことで受け入れる他ない。しかし、免疫力の衰退を少しでも長引かせたいと考えるのが、人間である。免疫力は人間の健康維持能力の基本要件である。がんに人間は日々なっている。がんに成るのだが、自己免疫力ががんの増加を防いでいる。すべての人間ががんを持っているが、病気として増加して行くことを、免疫力が防いでくれている。この10年の間に免疫に関しては、こういう考え方が、一般的に成ってきている。人間の健康は、生活の仕方で免疫力を高めることが重要だ。免疫力と言うのは、自分の細胞が持っているものではあるのだが、自分の身体の中に存在する、細胞数と同等数あると言われる、様々な極小の生き物・マイクロバイオームとの連携が重要な要素に成っている。身体の中で共存している、何兆個の生命に支えられているのが、自分の生命と言うことに成る。

以上の様なことはすべて受け売りで、読んで学んだことだ。ただ、鶏を長年飼ってきた。良い卵を産んでもらうために、鶏体実験を続けてきたことに成る。どんな餌を与えると、どんな卵を産むのか。実験と観察を重ねてきた。良い卵とは生命力の強い卵のことで、生まれてから2ヵ月間経っても孵化できる卵のことだ。良い卵を作る為には、どんな飼い方をすればよいか、試行錯誤した。それが免疫力を高める、発酵利用の自然養鶏である。その結果を自分の身体でさらに確認している。あくまで素人考えではあるが、自分なりの最善を日々実験観察をしている。そして、年齢と言うもの、老化して行くと言うことも、実感している所である。しかし、その中でも生命の強さを長引かせる方法を暮らしに取り入れている。それが免疫力を維持する、生活法である。何度も書いているのだが、また今のことを書いてみる。

1、食事は空腹時の小食。夕食は食べない。

2、多種多用な食品を食べて、偏らない。野菜とお米は素晴らしい。

3、発酵食品を食べる。味噌醤油漬物、納豆。ヨーグルト。

4、良い水を飲む。生きた湧水がいい。どんな名水でもペットボトルで時間がたてば死ぬ。

5、菌を遠ざけず、菌と良い関係で暮らす。除菌殺菌のマイナス効果。

6、早寝早起き、昼寝もする。自分の最良の睡眠時間を知る。

7、日々の暮らしに運動を取り入れる。畑仕事をする。

8、身体を、特に足を冷やさない。靴下3枚ばき。

9、自分の身体を測定し、内感する。身体の変化を知ること。

10、頭を使う時間を持つ。前向き思考で、ダメでもいいじゃん。


さして変わらない健康長寿の10カ条である。つまり今まで通りで行くと言うことに成る。のだが、以上の考えが正しいかどうかは、100歳を越えたときに分る。12月に人間ドックに行くことにやっと決めた。先日、美術部の同窓会で松木さんから健康診断くらい受けろと言われたからだ。65歳になったら行こうとは決めてはいたのだが、中々決断が出来ず延びていた。それでも年内にはと思い、やっと予約をした。結局病院が苦手なのだ。近づきたくない気分。それでも、身体測定は重要である。一日1回は内感する。これは風呂の中が多い。足はどうか、心臓はどうか。等自分の身体を順番に感じてみる。違和感があればさらに、気にしておく。それくらいのことだが、習慣化すると効果があるようだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

団地ともお・アニメ

2014-10-28 04:30:05 | 水彩画


足柄平野 中盤全紙(この大きさは手漉きの水彩紙の基本のサイズと言う意味です。P-25号位です。大判全紙と言うものもあります。B番が基本で、良く言われるわら半紙はB-4サイズです。全紙と言うことは、B-1と言うことです。2が付くと半分に切ったということです。3はその半分、4は4回裁断したということです。) 家からの景色も色々描く。最近は遠くに行くより、家のそばで描くことが多くなった。







たまたまお風呂屋さんで見たアニメが「団地ともお」であった。このペーソス感が中々良い。子供より昔子供だったおじさん向きだ。日本のアニメはレベルが高い。だいぶ前から「紙兎ロぺ」にはびっくりさせられていた。両者似たような空気感がある。脱力系アニメ。しらじらしい、無意味な会話と白け笑い中に潜んでいる、本当の気持ち。川柳系アニメ。言葉にできない「あの感じ」が満ちている。懐かしいとか、あの頃は面白かった。では言い過ぎでしらじらしい、どうでもいいし、何でもなかったのだけど、あの時代のことだなあ―というため息。そういうエモ言われぬことで、世界はできている感。アニメならではの特別な世界だ。思い出すものと言えば紙芝居。紙芝居では、黄金バットにストーリーがある訳でもない。ただある一場面を紙芝居調に語るだけである。ストーリではなく、黄金バットの世界を眺めていただけだ。だから、黄金バットが何者かなど、どうでも良いことだった。正義なのか、悪なのかもわからない。それを受け入れるには文化レベルが必要。

何物かという観点での把握を拒絶している世界。黄金バットであるだけで、何かをなすものではない。天狗的存在感だけを見せている。ストーリーはどうでもよく「そのヒーローの感じ」を味わおうとする世界。その系譜にある「団地ともお」であり、紙兎ロぺの世界だ。何故、こんなことを書いたかと言えば、最近は日本のアニメとして、宮崎アニメがあり、アメリカにはデズニーアニメがある。世間ではそれが評判だ。どちらも評価できないからである。紙兎でも、団地ともおでも絵になっている。アニメの絵画に昇華されている。絵と言うものがどういうものかを理解している。だから、ただ現実を写しとろうなどと言う、あさましさが無い。写真的リアルであることが、表わしている範囲が実に絵画として浅いということがよく分る。宮崎アニメであれば、いわさきちひろ風の甘い作画が、嘘ぽい世界だと思わされるところだ。現実はそんなじゃない。心の世界を表すためには、置き換えることが必要なのだ。

今大流行している、デズニーアニメはそれ以前に図柄のリアルっぽいぬめり感がコンピュータグラフィックの限界なのか、絵として耐え難たさを醸しているのだ。幼稚さにアメリカの文化レベルを感じる。と言いながら、あのアニメが日本で大流行と言う恐怖がある。日本人の美的感覚が壊れ始めているのではないか。大丈夫だと思うが、心配に成ってくる。絵画全般にも及んでいる文化の幼児化が心配に成る。日本のアニメは、絵巻物と言う、世界最高の芸術品としての伝統がある。鳥羽僧正の鳥獣戯画は日本最高の国宝の一つであろう。そうした、感性が宗達に伝わり、そして写楽や北斎漫画に導かれる。これが日本の文化の奥行きである。まさか、それがデズニーアニメにイチコロとは驚く。デズニーも白雪姫ぐらいまでは、劣るとは言えそれなりの絵柄を追及していたとみていいのだろう。スーパーマン漫画が冒険王よりレベルの低いことは、日本人の子供は良く知っていた。

紙兎はとくに、後ろに写真を良く使う。この効果がなかなかいい。一種のアナーキーな逆説がある。写真であることを、紙兎と対比させることで、リアルさをバカにしているのだ。これだっていいだよとウソブイている。てきとう、テキトウ。とスカしてしまう。こんなのありかよ。と思わせながら、自分の世界観をむしろ強く打ち出してくる。すべては伝えられないものを伝えようとする努力。それが、芸術なのではないか。力みを一切捨てている所がすごい。日本のアニメのレベルは間違いなく世界一級だということを示している。団地ともおをアメリカ人が理解するように成るかである。確か格闘系のアニメとしてはドラゴンボール等々、日本の作品は世界で評価が高いが、その次は、まさに日本的な川柳系、脱力系、アニメの凄さが伝わるかどうか。お風呂屋さんはすばらしい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

食料自給率の目標値の撤回

2014-10-27 04:17:44 | Peace Cafe


紀伊半島 中盤全紙 民宿の窓から何度も描いた場所だ。不思議な景色なのだ。




2020年度の50%の食料自給率を目指してきた。日本の方角である。ところが、いとも簡単にこの目標を撤回したらどうか、という案が財務省から出てきた。迷走日本である。39%がこのところのやっとの数字である。食糧自給という国の基本目標すら曖昧にしてしまう政府なのか。50%と決めたときに、よほどの手を打たなくては、不可能な数字だと思った。所が政府案には具体性はなく、補助金がいくつか出たにすぎない。それについては自民党も、民主党もない。どうやって食糧自給を実現するのか私には皆目見当がつかなかったが、ずるずる延ばしにここまで来た。そして目標までの半分の6年が経過しようとして、何とも目標の撤回である。政策の一貫性がなければ、国の未来は危うい。そしてTPP交渉である。何をどうやって50%に持ってゆくのか、まじめに考えていた方がバカを見た。食料自給率50%は結局絵に描いた餅だったのだ。

昭和40年度には73%あった自給率が、現在では39%である。一番は日本人がお米を食べなくなったということがある。今でもお米を昔の様に食べれば、50%クリアーは簡単なことだ。しかし、パンへの支出がお米を越えたという事がいわれている。まんまとアメリカのパン食推進戦略にやられた。あの学校給食のコッペパンが災いした。食料自給率回復は、地場・旬・自給である。このような食生活に戻れば、忽ち食料自給率は改善される。と同時に日本人の健康も回復して、医療費の削減までできるはずだ。CO2削減にも成るし、日本の安全保障にもつながる。食料の半分ぐらいは国内で賄わないと、国家としての存立が危ういというのが、先進国の国家としての最低条件ではないか。現在財務省が主張し出した、50%の目標数字の撤回は予算不足ということのようだ。こんな状況で農業予算が無いというのでは、このさきTPP対応はどうなるというのだろうか。日本が韓国のように、貿易に極端に傾斜した国に成ることは、避けた方がいい。日本の国柄を守り育てる意味でも、食糧自給は高めなければならない。

実践してきた発酵利用の自然養鶏は、食品残渣を利用した養鶏である。地域で出る食品残渣を発酵技術を使い良質な餌に変える。飼料の輸入量と、食品残渣の量はほぼ同じである。もし食品残渣の利用が推進されれば、飼料輸入が無くなる。これだけでも50%達成が近付く。何故食品残渣の利用が出来ないかと言えば、2つある。一つは利用法が未開拓。もう一つは大規模畜産の圧倒的な支配である。50年前は豚やさんといえば、地域の庭先で飼うものだった。地域で出てくるあらゆる食品残渣を餌として、養豚を行っていた。現代でいえば、地域の食品残渣の発酵利用を行い、地域での循環を作ることだ。このとき一番の障害に成るのが、畜産への偏見である。食品残渣は人口密集する地域ほど、多く出るものだ。輸送コストをかけては、輸入飼料に対抗できない。地域のお豆腐屋さんで出るおからを、地域の畜産農家が使う。こうしたこまめな利用の輪を作り出さなければ、輸入豚に負ける。その為の最初の転換は、養豚と言えば汚いという偏見を捨ててもらうことだ。

鶏なら、早朝からうるさいという考えを捨ててもらうことだ。人間の暮らしというものが、どういうものか思い出してもらいたい。市街化調整区域、農業振興区域での畜産は、認める気持ちが無ければならない。確かに騒音や悪臭は良くなかった。しかし、養豚でも、養鶏でも良い事例は沢山ある。そういう積み重ねが、食糧自給には必要である。人口の減少は人間の暮らす場所の、整理と言うことが可能になる。人口が予想通り減少すれば、自給率も上昇する。人口減少局面での、日本の国土の再利用計画。国家100年の計を立てる最善の時だろう。企業的養豚や養鶏は政治的発言力が強い。また政府も大企業育成が方針である。その為に、小さな本来あるべき、地域の畜産が衰退した。こうしたことが、食品残渣の利用が出来ない理由である。自給率50%は補助金などなくとも、やる気があれば出来る数字である。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

まち・ひと・しごと総合戦略

2014-10-26 04:13:54 | 地域



根府川海岸 中盤全紙 この断崖がみかん畑だったのだからすごい。石を積み上げた人間の努力が風景に現われている。




安倍内閣がこれから一番力を入れるのが、地方創生ということだ。素晴らしいことだ。是非やり遂げてほしい。微力ながら、地場・旬・自給を掲げやってきたことである。安倍氏は瑞穂の国、美しい日本を目指していると言われている。本当は農の会と同じ道を目指していると信じたい。今までのところ、アベノミックスでは、第3の矢という新規産業の育成という意味で、成果を上げることはできなかった。新規産業の立ち上げに力を入れたはずだったのだが、成果は出ていない。その意味で地方創生は新規産業の立ち上げを含めた、内閣最後の勝負のはずだ。是非とも、本腰を入れてやってほしいものだ。国民全体の最後の期待という気がする。「まち・ひと・しごと総合戦略」というのは一体どんなものだろう。内閣府のホームページで読んでみても、私の理解力不足なのか、具体的に何をやるものなのかが、さっぱり分らない。難しい政策だから、簡単に具体策などないのだとは思うが、それでも抽象論だけでは事は進まないはずだ。

まず地方の人口減少を食い止める。という目的が第一に書かれている。どうやって食い止めるかの有効な手段までは示されていない。すべてが観念的な、上手く行くとすれば風に書かれている。法律化する必要があるというのだから、なにか具体的な政策方針があるものと信じたい。まだ示されていないと思うしかない。趣旨も志も良い。後は具体策の検討だろう。まち・ひと・しごと総合戦略という命名から想像して、地方の活性化の戦略が示されるはずだ。全国知事会のホームページ(毎日新聞論説委員 人羅 格)にこの法案の説明が出ている。地方の人口減少をどうやって食い止めるかが最大の目的のようだ。しかし、この説明でも有効な人口減少対策については、何も書かれていない。どうもこの解説によると、アベノミックスの挫折からの視線をそらすための、地方創生案と思われても仕方がないのか。安倍内閣は気を見るに敏である。それでも目的とする地方の人口減少を食い止めることが可能だと感じさせるような具体策が無ければならない。

地方の人口減少を受け入れて、消えて行く地域が多数出現する中で、残り得る地方をどう再構築するかのほうが、緊急的な政策課題である。以前、ゴミ焼却炉の統合の時に、西湘地区の将来のごみ量の予測が、人口増加のもとに計算された過大なものであった。もっと小さなもので十分間に合うのではないか、という質問に対して、行政はこれから努力して、人口増加を図るのだと答えていた。これでは無駄な公共投資に成ることが目に見えていた。あれから10年経って、私の予測通り、西湘地区の人口は減少を始めた。消滅予測地域すらある。今後地方のごみ量は自然減してゆく。その中で焼却炉をどう考えるかである。にもかかわらず、人口増加を努力して図るから、大きな焼却炉が必要という議論では、無駄な投資に成る。焼却炉はごみが足りないと、無駄な燃料を必要とすることに成る。燃焼効率が下がり、コストが上がる。すでにそういう自治体が出ている。今回の地方創生も、地方の人口減少を受け入れないで案を立てれば、無駄な公共投資が行われることに成る。大きなトンネルを作って、過疎の村にインフラを整えたと思った頃に、人がいないという結果に成りかねない。

今必要なことは、地方の人口がどこまで減るかの現実を認めて、受け入れることだ。先日の静岡大学の小和田先生の話では、戦国時代の日本人口は1500万人と言うことである。その人口なら、やりやすいことが沢山ある。人口が減少するということを受け入れて、その上で、どうすれば地方での暮らしが素晴らしいものに成るのかである。人口が減るということは悪いことばかりではない。農地があり、家がある。移住者には恵まれた条件が準備されているということだ。視点を変えれば地方の過疎地域こそ、新たなフロンティアである。人生の冒険に出掛けるチャンスだ。若いころであれば、勇んで出かけて行く所だ。小田原でも同じことである。人口は減少して行くであろう。農地は山に戻り始めるだろう。この地域にどんな人間の暮らしを作ることが、日本人にとって、幸せであるのか。大いに期待できる所だ。農地の公有化である。農地を個人所有から外すことだ。農地を資産としてではなく、国民全体の食糧の生産地として、組み直してゆくことだ。農地は利用して初めて価値が出るものと考える。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

お米は何処から来たのか

2014-10-25 04:57:38 | 稲作

志賀高原 田の原湿原 中盤全紙 7月の田の原湿原である。緑の色がだいぶ濃くなっている。子供の頃、標高350メートルの所で田んぼをやっていた。長野には1000mを越える田んぼがある。松原湖で田んぼをやると、採れるない年もままあると言われていた。




日本は瑞穂の国であると古事記に記載されている。最近の研究では日本列島の稲作の起源は縄文晩期と言われ始めている。2700年前から田んぼの稲作が始まっていたことが、分ってきた。稲は7000年前、中国浙江省余姚市にある河姆渡(カボト)遺跡で耕作されていたことが分ってきた。長江河岸にある野生の稲が、徐々に耕作という形を産み出してきた。7000年も昔に稲作が始まっていたことが分ってきた。長江中流域の河岸に野生の稲があった。最初は採取的に集めて食べたのだろう。こぼれた籾から芽が出たのかもしれない。それが徐々に稲作へと繋がり、さらにそれが田んぼという特殊な形態の農業に育まれる。日本にはその後、4000年を経て、伝わることに成るのだが、朝鮮半島経由という考えと、南の島を経て伝わってきたという説があるようだ。いずれにしても南の方で始まる稲作が徐々に北上して関東に伝わってくる。稲作は中国から来たと確定された。

天皇家は水土に関する知識と、能力を、先端技術者として、中国からの渡来技術として、保有していたと思われる。この水土の技術と、稲作とが結びついて、徐々に日本という瑞穂の国が生まれて来たことが、想像される。お米と麦を較べてみると、お米は麦に比べて肥料というものが要らない。豊かな山があれば、山の落ち葉や枯れ草で出来た堆肥からの絞り水だけで、お米は耕作することが出来る。日本という国が豊かな沢山の人が自給的に暮らせる国に成ったのは、この里山と結びついた稲作の恩恵が全てといってもいいことだろう。山には山神様が居て、川や湧水には水神様がいる。そうした自然の中に、自分達の暮らしを織り込むことで、安定した暮らしを作り出せた国。これは世界でもまれにみる恵まれた条件の国だ。その為に、繰り返し起こる自然災害の集中する地勢にもかかわらず、日本人はこの地をふるさととして粘り強く暮らしてきた。永遠に暮らしが継続し行く、安定した稲作のできる場所。それが自然環境に恵まれた日本列島である。

2700年もの間、同じ場所で同じ稲作が続けられても、土地は疲弊することなく、人間の暮らしを支え、食料を提供してくれる稲作。その為に、稲作を続ける知恵が、日本人というものを変え、日本教の信者と言えるような共通の精神性を、作りだしてきたとも言える。縄文人も弥生人も民族としては同じであろうという研究が、最近の研究には多い。稲作を行うということで、まるで違う民族のように大きく変化をした。それほど稲作にかかわることは、人間の暮らしを変え、考え方を変え、民族の特徴まで変えて行く様だ。稲作を行うということは、集団的な暮らしを必要とする。収穫物としてのお米は富の蓄積と成る。水土を管理する技術は、国家というものを形成して行く。武力的な支配ではなく、水土と稲作という、平和的な技術を国を司る技術として、日本という国を形成して行く。だからこそ、古事記には豊葦原の瑞穂の国、日本と書かれているのだろう。それほど日本の国柄と、稲作は切り離せないものであった。

しかし、経済が大きく変化して、日本は製造業の国に成ったようだ。もの作りの国。すぐれたものを、世界中の人が喜んでくれる物を作る国。これが特に戦後の日本人の目指したものだろう。そして一定の成功を収めた。その背景には、稲作によって形成された人間の性格があったと思われる。共同する、慮る。自己犠牲。そして、類まれなる観察力。分析力。推理力。応用力。こうしたものは稲作を、地域で共同に行うことで、研ぎ澄まされた日本人的な優秀さであろう。伝統的な稲作が失われるなか、日本人の性格は大きく変わり始めている。変わらざる得ないということがある。しかし、伝統的稲作を継承する人間も必要である。そうでなければ、日本人という存在が見えなくなる。最近、とんでもない根なし草の愛国主義が横行してきた。それは、単なる国際競争的な愛国であって、日本という国柄を自覚しての物ではない。平和国家はアメリカが押しつけたものではなく、2700年もの深い歴史があるということを知らなければならない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

選挙と政治の関係

2014-10-24 04:38:21 | Peace Cafe


房総海岸 中盤全紙 水彩人の講習会で描き始めたものだ。この海なりの海岸の力を描きたかった。つまり海と陸とのせめぎ合い出来上がる、岸辺である。



相次いで閣僚が辞任した。あまりに素早い。もう少し粘ってもらいたかったが、あっさりとしていた。こうした所に安倍政権の運営スタッフの優秀さを感ずる。大切な問題が山積みだから、確かにこんな問題にかかわっていない方がいい。今回の教訓は、政策選挙の実現である。うちわ法務大臣によると、あのうちわのようなものは、討議資料ということらしい。討議資料とわざわざ印刷されていたうちわ。うちわを有権者にタダで提供すれば、選挙違反に成ると思ってのことだろう。ここに討議資料と書いておけば、選挙違反に成らない。こう考えたようだ。所が討議資料にしては、似顔絵と標語だけだ。どうも裏側に色々書かれている可能性もある。なんだかよく分らない。もし、うちわに本当に自分の伝えたいことを記載したとしたら、素晴らしいアイデアではないか。うちわの柄が付いていることが問題という結論らしいが。それでは競技用紙飛行機が作れる点線入りの討議資料等と言うのは違法だろうか。

公職選挙法がくだらな過ぎる。松島氏は法務大臣なのだから、このうちわ型討議資料の合法性を充分に検討し、認識していたはずだ。所で討議は行ったのだろうか。資料だけ配って、盆踊りをしていたのではちょっと違うだろう。盆踊り会場で討議資料を配って、討議を始めると言うのも非常識だろう。議員と言うものは、常に売名行為的選挙運動をしているということだ。情けないやら悲しいやら。こういう生き方をしている内に、政治と言うものと、選挙と言うものを混同してしまう。一生懸命選挙運動をすることが、政治活動だと考えるようになる。だから、政務活動費の使い方が、小渕氏の場合ベビー用品やらと言うことに成る。政治家は人のつながりを大切にしなければならないと言うのが理由だ。人間であれば誰でもそうだ。政務活動費をインターネットで1円まで明確に公表する。それを投票の判断材料にさせてもらう。成否の判断は有権者が行うことだ。

選挙がおかしく成った一番の原因は、現役議員の既得権の主張である。極端にいえば、選挙活動など禁止したいぐらいだと思われる。そうすれば、現職有利にきまっている。そしてそもそも現職議員の議員活動というのは、ほぼ選挙活動と同じものを意味している。あちこちに顔を出して、お祝金を包む。下仁田ネギも、うちわもある。もちろん場合によっては選挙違反に成りかねないが、そこは上手くやる訳だ。現職議員はそういう選挙活動を堂々と、政務調査費と言う、公金で行えるということのようだ。議員はすべて、インターネットで日々の活動日誌を公開すべきだ。それを有権者は判断材料にする。こうすれば、もう立候補する人は居なくなるのではないか。上手い汁が吸えなくなれば、たぶん大半の議員は止めるはずだ。すでに市町村議会では、立候補者が不足する地域が出てきている。

議員と言うのは民主主義社会では、選挙で選ばれる。有権者の判断材料はインターネット時代に成って、すべてを変えなければならない状況である。これを変えようとしないのは、現職議員の既得権意識である。変化したら落選するかもしれない不安。選挙運動でやきもきしながらも、今のままでいたのである。政務活動費、日常の勤務日誌。そして政策。こうしたものは、無料でいくらでも公開できる。だから政務活動費と言うのは、いらない。もし政策研究の為に、必要なら議会事務局を通して、購入するようにすればいい。うちわの出費の判断は、議会事務局と、有権者が行う。これだけで、まともな民主主義に近づくはずだ。政治家なのだから、政策の研究に専念してもらう。その内容を読んで、有権者は選挙をするだけである。こんな簡単な変更を出来ないという所に、日本の政治の既得権の強さによる停滞がある。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

自治会長体験折り返し地点の報告

2014-10-23 04:24:58 | 暮らし


舟原からの眺め 中盤全紙 これからもっともっと描いてみたい所である。




舟原の自治会長をやらしてもらって、半年が過ぎた。中間報告を書く。自治会と言うのは、多様な人間で出来上がっているというのが、一番の感想である。当然のことで、地域の暮らしが多様化している。その結果想像以上に多様な人間の集合体に変化している。舟原の自治会長と言っても、実際の仕事としては、久野連合自治会の仕事が多い。仕事はいわゆるボランティア的なものの、動員と言う感じが多い。例えば、ゴミを減らすにはどうしたらいいかという地域での目的がある。こういうことは、自然養鶏で暮らしてきた根本の問題である。自然養鶏での餌は、地域の食品廃棄物である。ゴミに成るものを、有効利用して農業を行う。また、段ボールコンポストの普及に熱中したのも、生ごみを堆肥化して有効利用しようということだった。連合自治会でのごみ減量の取り組みは、分別の徹底と言うことである。分別の徹底を進めることももちろん重要である。しかし、現状の暮らしを考えると、その徹底は学習だけでは、改善できないと思う。

自治会の仕事では、そうした自分の個人的な考えは出さないようにしている。分別講習会にも参加するし、ゴミ焼却場の勉強会にも行く。決められたことをこなしてゆく、ということに成る。先日は、自治会長会議の席に紙ごみの3分別処理について、紙業者の方が説明に見えた。この紙分類法による紙再利用が行き詰っていると考えている。もっとシンプルなものにしなければ、今後さらに紙ごみが燃やせるごみに混入するというのが、昔からの私の考えであった。それは、ごみ検討委員会のメンバーだったときに主張していた所である。その考えを発言しかかってしまった。分別講習会で勉強すれば、紙分別は可能だということが連合自治会の総意だった。ごみ処理でいえば、ごみ有料化を検討して行くことが、ごみ減量の有効な手立てはないと考えている。しかし、そういうことを話し合う場ではない。

おとといは、仕事が終わってから、自治会長大会と言うものに出掛けた。ホテル岡田に泊まりがけで出かけた。200人を越える自治会長と思われる人が、集まっていた。女性は3名だけ気が付いた。到着したのは、3時30分に成っていた。静岡大学の名誉教授の小和田氏の北条5代に関する講演があった。なかなか面白い話だった。当時の日本の人口は1500万人と言われていた。12時30分から開始だったから、すごい遅刻である。そして夕方は6時から宴会と成っていた。これは6時に入ったのだが、実は5時30分に集合してみんなで行くことに成っていたらしい。ここまでは気が回らず、また又遅れて迷惑をかけた。6時に行ったらば、全員がすでに着席していた。スケジュールに6時からと書いてあって、どうも5時半に一度、部屋に集まらなければいけなかった。どうもこういうことが上手くできない。申し訳ないし、がっかりである。先日の防災訓練でもそうだった。8時集合と言うことで、8時に行ったのだが、9時に変更に成ったということだった。どちらの場合も、変更に気付かなかった。注意散漫である。

集団行動が上手くできない。そういう自分に問題があるらしいということを、久しぶりに思いだした。勝手解釈で一人で行動してしまう。幼稚園のころからそうだった。その後どの場面でも、違和感を常に持ち続けてきた。どこか自分のなかに全体が見えなくなる欠落があるらしい。自分のペースで勝手にやってしまう。いじめの対象に成る様な人間なのだろう。まあ、いじめられっ子と言うより、いじめっ子の方であるが。自治会長の間は、ともかく自分の角のある性格を抑えて、無事に役割をまっとうしなくてはならない。4月からの一つ成果としては、一時避難所をフラワーガーデンにすることを進めて、看板も付け替えたこと。先日は、舟原地区にも土砂災害避難勧告が出て、実際に避難所の開設がフラワーガーデンに行われた。2つ目の成果として、緊急時の名簿の作成が出来た。3つ目に、やりたいと考えていることは、自治会規約の作成である。これは年明けに進めたいと考えている。一年という短い期間の役割であるが、あまり迷惑をかけずに終わりたいものだ。
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

橋下市長と在特会の面談

2014-10-22 04:47:11 | Peace Cafe


乗鞍岳夕景 中盤全紙 冬に成るとスキー場に成る場所だ。昔ここに、村の施設があって、何度かスキーに行ったことがある。今はまるで違う所に変わっているが。乗鞍岳の姿は昔のままである。





橋下市長と在特会の面談は全く見苦しい暴言のやり合いで、何も具体的な会話はなかった。こうなるだろうと思っていたが、予測通りだった。ニコニコ動画にその時の様子が写されている。まるで喧嘩ごしである。さすがヘイトスピーチ代表は百戦錬磨で、在特会会長の方がけんかが上手いということは分ったが、そんなことは大した意味はない。在特会のヘイトスピーチがどれほどひどいものか。一度そういう場面に出くわしたことがあったので、良く分る。人間があれほどまでに、口汚く成れるのか、一つの芸の様な感じすらした。何年もヘイトスピーチをやり続けていれば、どういう言い方が一番人を傷付けるかが身についている。憎悪する言葉を良くもこれだけ探し出したかというような、すさましさがあった。何故そこまで言い募らないといられないかが不思議だ。悪口芸道の道の様なもので、その道に入ると極められずにいられないということなのではないか。人が嫌がらせる名人芸である。

たぶんこういう悪い気持は、日本全体にじわじわと広がってきている。このブログにも、ただ貶めよう。嫌がらせよう。自分の嫌がらせの巧みさを見せよう。こういう不思議な人達がコメントをしてくる。相手をケチョンとさせることで、鬱憤晴らしをする人達と想像する。私が左翼的であるから、当然右翼的な人と言うことに成る。右翼的な文章に対して、左翼的な嫌がらせコメントと言うのはあまり見ないので、嫌がらせは右翼的な傾向と、関係のあることなのだろうか。以前は、誤字脱字を指摘してくれる人がいた。親切なのかと一見思うが、どうもそういうことより、人の間違いを許せないというか。人の文章を読むと揚げ足を取らずにはいられない人がいるようだ。もちろんタダ親切と言う人もいる。いやがらせの鬱憤晴らし文化。もちろん社会の閉そく感が背景にある。そういう時代の傾向なのではないか。それが無名性をいいことに蔓延し始めている。

その代表格が在特会のヘイトスピーチである。在特会は一見愛国団体の様だが、もし本気で愛国的であるなら、こんな日本を貶めるような行為を繰り返しはしないだろう。愛国というより、嫌朝鮮を目的化しているようだ。ヘイトスピーチを行うことで、在日の人たちを追い詰めようと言うことだろう。他人の人格を否定するような発言を悪芸と言える様な領域にまで高める。これはすごいことだ。こんなことに情熱を燃やしてしまう人間というものがいる。人間は情けなく哀れなものだ。私は、安倍氏の「瑞穂の国・美しい日本」発言がどうしても心ない言葉として残っている。何故こういう思いを心に秘めながら、美しい日本から遠ざかってゆくのかが不思議なのだ。そう思うと、安倍氏を、仕立てあげているゴーストライターの存在が見えてくる。安倍氏も大臣の息子で、小渕氏同様人にお任せにする能力がある。突如持ち上がった地方創生も、標語ばかりが目立って、実が無い。

愛国を標榜する人達は、どんな日本を理想としているのだろうか。強い軍隊のある国らしいと言うのは分るが、どのように日本人が暮らしている国なのだろうか。日本人の暮らしについて、何らかのイメージはあるのだろうか。また、自分の暮らしは日本人にふさわしいものなのだろうか。もしかして天皇家の暮らしを模範として、その様な暮らしを目指しているのだろうか。たぶんそういうことではないはずだ。自分の人格とは別に、自分の暮らしとは全く別物として、日本と言う国をイメージしているのだろう。だから、在特会はヘイトスピーチを行うことに成る。日常生活が全てだと思っている。言葉にすることは実践を伴なうように努力したい。地場・旬・自給と書いてきたのは、そう生きてきたいからである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

エボラ熱の脅威

2014-10-21 04:04:41 | Peace Cafe


庭の眺め 中盤全紙 庭も良く描くものだ。毎日部屋から眺めているのだから、頭の中にある景色に成っている。だから、見て描いているのだか、思い出して描いているのか。たぶんその両方なのだろう。




エボラ出血熱の2次感染がアメリカで2例起きた。WHOではアフリカのリベリア、シエラレオネ、ギニアの3カ国感染地域での初期対応がでたらめだったことを認めている。アメリカでの感染の詳細は公表されている。アメリカでは、南部テキサス州ダラス市内の病院で、エボラ出血熱で死亡したリベリア人男性の治療に関わった女性看護師がエボラウイルスに感染したのに続き、15日、別のスタッフが簡易検査でエボラウイルスの陽性反応が出たことが明らかになりました。アメリカのCDC=疾病対策センターのフリーデン所長は電話会見で、2人は死亡したリベリア人男性が体調を崩して入院した直後から治療に関わり、2日後にエボラ出血熱と診断されるまでに接触する機会が多くあったことを明らかにしました。フリーデン所長は、「この段階で防護服は着ていたもののさまざまな着方をしていた」と述べ、死亡した男性がエボラ出血熱と診断されるまでに2人が感染した可能性を示唆しました。防護服を着ていたにもかかわらず、感染した。という可能性よりも、最初の診察時の段階での接触によって、感染した可能性が高まった。

問題はエボラウイルスが、前回の感染拡大の時から、変異しているのかどうかである。今の状況から見て、感染しやすく変異を起こしてはいないようだ。もし変異していれば、アメリカでの3次感染が今起き始めているはずだ。最初の病院ではエボラ熱の疑いを持たず、診察ミスをして、患者を帰宅させている。信じがたいほどの安易な対応である。アメリカではアフリカのエボラ熱の流行地域から、入国する人は一日150人くらいいると報道されていた。それでもその後の感染者の拡大はないのだから、必要以上に恐怖心を持つ必要はないようだ。日本は幸い、流行地域からの入国は少ないらしい。それでも数人はいるらしい。この人に関しては、出来る限りの経過観察処置を行うべきだ。ともかく初期対応が重要で、WHOが発表したように、リベリア、シエラレオネ、ギニアの3カ国での初期対応に問題があり、こうした感染拡大が起きた様だ。

鳥インフルエンザの養鶏場での流行の際、ワクチンのない病気の流行に備えなければならない話を何度も書いた。人間の暮らし方の変化で、大規模畜産を行うことで強毒化する変異の起こる可能性が高まる。新ウイルスの登場。あるいは今まで眠っていた奥地のウイルスがいつ大流行するか分らない、状況がある。鳥インフルエンザはその発端にすぎない。鳥インフルエンザが人人感染するということを、過剰に宣伝して、WHOは大きな誤りを犯した。有り得ない誤解だ。その背景には、世界の製薬会社の利権がある。不要なワクチンのストックをさせる利権。一方に、ワクチンのない病気の蔓延の予測を出来ない現状。エボラ熱の登場はもう40年以上前の話である。何度も蔓延を繰り返してきている。チンパンジー、ゴリラ、オオコウモリ、サル、レイヨウ、ヤマアラシ等に接触して、人間が感染することがあるようだ。野生動物の持つウイルスが、人間に感染するという事例の場合、人間に感染しやすく変異する事はそう簡単には起きない。鳥インフルエンザの場合は、豚の体内での変異の可能性が高いとされている。

WHOは鳥インフルエンザでも、対応がでたらめである。人人感染がすぐにでも起こる様な、言い方をして、莫大な費用をかけて薬の備蓄を行なわせている。薬は一年ごとに廃棄されるのだろうから、世界中でも無駄な費用は驚異的な数字であろう。このことでWHOの職員が製薬会社から賄賂を受け取ったということまである。WHOが今回の初期対応に関してでたらめであったことは、過去のエボラ出血熱の感染状態とはまるで違う経過をとっていることでも分る。ともかく初期対応が重要である。まだアフリカでの感染は拡大するかもしれないが、きちっと対応すれば、案外早く鎮静化するはずだ。どうやって病気を抑え込むかだ。アメリカ国内でもミスが度重なっている。日本ではまず、感染地域からの入国者には、厳格な経過観察が必要。そして不用意に感染地域に出掛けないことだ。
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

かまど炊き、ご飯。

2014-10-20 04:04:06 | 稲作


小田原植木さんの森の木 中盤全紙 大きな木だ。この植木屋さんの森は、毎年里地里山のイベントで使わせていただく。久野川の清流があり、水路が引かれていて、夏でも涼しい。





良く出来たもので、かまど炊きご飯が一番美味しい。昔の人は不便なようで、一番美味しい食べ方をしていたのだ。子供の頃は五右衛門風呂の風呂係りだった。昼間の間に、薪を集めてきて置き、炊き口に積んでおく。炊き口には農作業などで出た、様々な燃えるものが置かれている。家のかまどの方が、良い薪を燃やす。薪によってごはんの味が変わってしまう。変なにおいのする薪では、美味しいご飯は炊けない。ご飯に移る、薪の煙の香りも味の決め手である。だから、家のかまどでは薪小屋から持ってきた、良い薪だけを使う。今年のお米はかなりの味のものに成った。特に粒張りが良い。もちもち感も強い。これは、最後の間断灌水にあるのではないかと思っている。もちろん良い水で栽培しなければ、良いお米はできない。良い水とは、豊かな雑木や柴山からなの絞り水である。その水が、淀むことなく、岩に砕けて酸素を十分に含んで、田んぼまで流れ下ることだ。雨水では美味しいお米は作れない。豊かな山があり、清流があり、田んぼがある。その水が海に流れ下る。この水土の姿が米作りの基本だ。



有機農法で作るお米は、稲が元気で活力に満ちていなければだめだ。消毒をしないから病気が出ると言うようなお米が良いお米の訳がない。また、栄養不足で5俵ぐらいしか取れないお米では、お米の能力が十分に発揮された物にはならない。25年失敗を繰り返しながら、良いお米の作り方を模索してきた。私の叔父の彫刻家の草家人は、玄米だけを食べているので、健康なのだと主張していて、上野原の奥の山中に暮らしていた。つくしとか、サンショのつくだ煮とかと玄米ごはんだけ食べていた。長生はしなかったのだから善悪は分らないが、元気ではあった。良いお米とは何か。当然種なのだから、何十年も生命力を保つお米であろう。50年保存しても発芽するお米が良いお米ではないか。むしろそういうお米をおいしいお米として、味わう能力の方を高めなくてはならない。舟原も坊所も、欠ノ上のお米も長期保存したことが無いが、もう50年は生きていないので結果は分らない。しかし、今年作ったお米も、日本に来てからだけでも2700回の栽培の結果であることは確かだ。



今年は欠ノ上田んぼで収穫を祝う食事会を行った。欠ノ上では始めてのことだ。田んぼにかまどを作りご飯を炊いた。自分達の採れた野菜と、味噌醤油で汁物を作った。農の会全体では、12月14日に自給祭があるが、まず欠ノ上田んぼで収穫を祝った。まだ稲刈りをしているグループがある中、一足先に収穫を終わったおかげである。美味しいかまどご飯を炊こうと思って準備したのだが、まあまあぐらいにしかならなかった。しんがあったり、柔らか過ぎた訳ではないのだが、少し炊き始めの火力が弱かった気がする。そこそこに炊けては居て、美味しいことは美味しかった。かまどご飯も微妙なものだ。水加減は人差し指の先で行うとか、色々みんなに蘊蓄を話していた。炊きあがりが難しい。お釜に触ってぐつぐつを感じることなどと説明していた。そうしたらみんなが全然ぐつぐつ言わないと言うので、匂いを嗅いだら、すでに出来上がっていた。匂いを説明しようと思っていたのだが、その前に慌ててかまどから降ろした。下ろすタイミングは良かったようだ。



持ち寄った野菜と、畑の里いもでいも煮会である。私は白菜とカブが提供できた。ご飯もおいしかったのだが、この鍋はとても美味しかった。今年の田んぼも無事終了したことを心から感謝出来た。田んぼの仲間に何人かがジャンベをやっているので、練習を兼ねて演奏をしてくれることになった。これがまた自然の中に溶けこんで太鼓のリズムが心地よかった。田んぼの脇に清流があり、その岸辺に栗林がある。そして田んぼへと繋がっている。見上げれば明星岳が見える。かまどは常設したので、昼ご飯を食べ、お茶を沸かすことが出来る。みんなでやる田んぼとして欠ノ上は、実に条件が整っている。結局田んぼをやるのはこういう幸せな時間を持てるからなのだろう。今年はメンバーの一家族が、長野に移住した。それで一枠だけ参加者の空きが出来た。もし本気で田んぼの勉強をしたいと言う人がいたら、参加者を募集します。有機農業で、畝どりをする技術を伝えて行きたいと思う。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小渕経済相辞任へ

2014-10-19 04:12:53 | Peace Cafe


妙高いもり池の夜明け 中盤全紙 山の視覚的実体というものが、視覚的に徐々に表れてくる。暗闇で見えないと言うときも、山はそこにある。見えなければないということになる。それが夜明け少しづつ見え始める。見えてきて、ある時実態に成る。






小渕経済相は週明け辞任ということらしいが、残念ながら辞任の方向であることは確かだ。「うちわ大臣」も頑張ってほしいが、そう長くはないだろう。安倍内閣もアベノミックスのほころびが明確に成るにしたがい、お金の為なら、大体のことは受け入れようという世論の風向きも変わり始めた。いよいよ、安倍政権の本質と言える、軍国主義的傾向に向かい合うことに成る。日本の未来にとって、あるいは世界情勢に関して、最も重要なことは、世界中を巻き込むような戦争をいかに回避するかである。イスラム国の自爆テロリストが、エボラ出血熱に感染して、アメリカに潜入したら、そう思うと恐怖である。世界は相当に危うい淵に来ている。国内には核武装まで視野に入れた、田母神新党まで登場している。自民党でも靖国参拝が内閣入りの踏み絵ではないかと思わせる様な勢いである。揃っての発言が、「国難に際して、命をささげた英霊に対し、哀悼の誠を掲げさせていただくことが、国会議員の務めである。」とのことだ。それには異論はない。但しそこに神として祭られている侵略戦争の責任者を、尊崇すると言う点は異論がある。

小渕大臣は自分の収支報告書を始めてみたと国会答弁している。報道で内容を知った所であると、国会の答弁で繰り返し述べていた。自分のサインはあるのだろうか。それで済むものだろうか。私には、明治座の歌謡ショーが政治活動とは到底思えない。これは地元の有権者への選挙活動の一つであろう。合法か非合法化は良く分らないが、こういう議員が日本中に無数に存在することだろう。議員というものは、哀れにも家族を巻き込み選挙活動を続けるものだ。政策選挙への議員一人ひとりの成長である。政策で議員を選ぶように国民が成長することだ。小渕氏は、自分の考えというものが無い。それは以前子育に関する大臣をしていた時に、国会答弁があまりにひどく、官僚からの指示が無ければ何も答えられない人だという事態だった。自分が子供を育てているのに、たぶんその育て方が、普通に暮らしている人達の子育てとは、相当に違うらしいということが分かった。総理大臣の一族はそういうものかもしれないと、以前は思った。それが今回は経済相であるが、自分の収支報告書に目も通していない。あるいは見ても分らない。

それが、安倍政権では何故か、次期総理大臣候補ということで、若く入閣した。国会の答弁には注目していたが、自分の言葉というものは、ただの一つもなかった。官僚の作った答弁書を読んでいるにすぎない。始めて自分の言葉での答弁が、収支報告書は始めてみた発言である。そういう人だと思っていた通りの人だった。問題は何故こういう人が、大臣にまでなってしまう仕組みかである。女性登用を急いだことがある。普通の大臣選択なら、収支報告書ぐらい、総理大臣側でチェックを入れるだろう。こうした所に怠りがある。女性を目玉にすることが、そもそも女性蔑視の変形である。日本の社会の女性の立場は、いつも書くが社会そのものの体質の問題である。だから、自治会長に女性がほとんどいないのである。制度を変えようが、内閣で形式標語を掲げようが、経済の為には女性の社会進出が必要だと考えようが。根本にある、女性が大切にされる社会に成る為には、日本人そのものが変わらない限りだめだ。まだ相当に時間がかかるのだろう。

小渕氏もうちわ法務大臣氏も結局辞任するだろう。私は辞めない方が安倍内閣の性格を表していていいと思うし、長く頑張り評判を落としてほしい位である。勇ましい3人の女性閣僚はそろい踏み絵のように、靖国参拝した。この姿が、安倍内閣である。自民党に有能な女性議員がいない訳ではない。自分の政策がある人もいる。しかし、そういう人では困る。間違っても自分の対抗馬に成る様な人は困るというのが、安倍氏の意向に違いない。このことは内閣改造の時にも書いたので。今回の内閣の女性閣僚の人選が、安倍氏の女性登用の見識だろう。自分勝りの女性大臣は困るのだ。経済相というアベノミックスの重要閣僚が、自分の収支報告書も初見という人だ。間違っても経済に強いという人選ではないだろう。経済は自分のブレーンが決めるから、言う通り動く人が良いというのが本音だろう。その結果だから、又陣笠を挿げ替えるだけになる。国民は安倍内閣の本質を見なければならない。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

地方創生の本質

2014-10-18 04:17:56 | Peace Cafe


野尻湖からの妙高山 中盤全紙 その昔、皇室の方等が泊まった宿があった。絵描きも多く滞在したらしく、沢山の絵があった。





地方は消滅する所もあれば、にぎわいを取り戻す所もある。それが社会の変化であり、歴史の流れである。別に地方の活性化も、消滅も善悪でとらえることではないと思う。政府が法律まで作って、地方創生などという所に、安倍内閣の政策の方向の矛盾がある。瑞穂の国と言いながら、TPPを推進していることと同様である。政府の発想は、競争社会を根本に置いている。国際競争力を絶対のものとした価値観である。国際競争と地方創生は矛盾がある。競争的価値観を維持したままで地方の消滅が止められる訳がない。にもかかわらず、地方創生と主張するのは、選挙対策と人気取りと考えて置かないと、とんでもないことに成る。内容のある様な政策が出てくるはずもない。バラマキ公共事業の復活と、無目的なお金の提供をするぐらいで終わりだろう。地方創生の為の新しい法律まで作ると言うので、政府の説明を読んでも、具体的に何をしようとしているのかが、さっぱり読めない。

地方と都会とでは、経済地理的条件が違う。その結果として生産の傾向が違う。時代の傾向に合わないものは、人為的にいくら保護しても消えてゆく。安倍政権は既得権益ということを、引きづっている。実際の政策は新しいことというより、すでに存在する大企業を擁護するものが多い。それは第3の矢というものが、新しい事業ということではなかったことでも分る。すでに矢が放たれたとしているとする第3の矢は、地方創生にすり替えられている。都会には次の競争に勝ち抜こうという、新しい事業を模索する企業が集中するのは自然だと思う。企業のことは良く分らないが、例えば、絵描きに成ろうと考えた人は、大抵は都会にでて、画商との接点を求める。どこでだって絵を描くことはできるのだが、都会に出る人がほとんどである。教師をやりながらとか、カルチャーセンターの先生をやりながら奈良地方にも絵を描く人はいる。絵を売って暮らそうと考えれば、都会に出て画商との接点を増やすこと以外に道はない。

ここは発想の転換である。地方から人口が減少するなら、少ないことをおかげさまとして、地方ならではの豊かな暮らしを作り出せばいいはずである。何も、日本中が東京化される必要はない。地方らしく豊かな里山暮らしを、自給的暮らしを再生させればいいだけだ。人口減少を良い機会としてとらえることではないだろうか。農地が広ければ、余裕のある農業が出来る。耕作放棄地が増える。田んぼもこれからさらに放棄されてゆくだろう。長年耕作して、田んぼの土が出来上がった田んぼが、放棄されるのである。里山の状況、河川の状態、そして田んぼへの水路の状態。こういうものが立派に存在しているのもかかわらず放棄されてしまう田んぼがある。最高のお米が作れるはずの田んぼが、国際競争力がないという理由で、止めざる得なくなる。国際競争力の競争の観点がくだらないのだ。のんびりやっている人のお米の価値。こういうものは価格とは縁がない。人家が減れば、水の汚染も減少するはずだ。上部に人の住んでいない田んぼだって見つかるはずである。

地方を大切にするなら、発想を全く変えなければならない。地方に国際競争でない社会を作ることではないだろうか。日本全体としては、経済が本気で行き詰まらない限り、そこまでの転換はできないだろう。そういう最悪のシナリオを考えるならば、自分の暮らしの地場・旬・自給は考えておくことだ。絵を一生描ければいいなら、自分の食べるものは自分で作ることだと考えた。地方には私の様な他所者を受け入れてくれる条件が、初めて生まれてきている。むしろ、過疎化して、消滅の危機にある様な地方こそ、地場・旬・自給の暮らしが、模索しやすくなっている。農の会が、25年前に出来て来た頃は、田んぼを貸してもらうことが出来なかったのだ。貸してもらえても、車等入らない所ばかりだった。ところが今は条件が良くなった。新規就農者が農地の良し悪しを選ぶ時代に成った。地方で自立して生きる。これが地方再生の本質ではないだろうか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

侵略戦争と植民地

2014-10-17 04:10:03 | Peace Cafe


信濃川 中盤全紙 畑、田んぼがあって、川が流れている。人の暮らしがある。全く当たり前の眺めだ。しかし、こういう眺めは本当に珍しくなった。




日本は過去近隣諸国を、侵略し植民地化した。このことを認めない人達がいる。侵略戦争を行ったことを認め、反省するという前提が無いのであれば、近隣諸国との正常な外交関係は持てない。安倍政権は態度に曖昧なところはあるが、小泉政権の見解を踏襲している。この歴史認識に私が何故至ったかを書いてみたい。

日本とは、日本民族とは何かということがある。ナンシーにいたとき、日系ブラジル人の留学生がいた。ナンシーには日仏協会もあり、毎月例会が開かれており、10人余りの日本人留学生も当然参加していた。新しくナンシーに来た日本人には、日仏協会の集まりがありますよと、気が付いたら伝えていた。この日系ブラジル人の人も日本人だと思い、日本語で話しかけた。もちろん日本語は通じないし、片言のフランス語で、この人がブラジル人だということが分った。間違いなく日本民族の血液ではあるが、ブラジル人である。その人を時々学食などで見かけたが、特に避けていたのではないが、日本人とかかわることはなかった。最初に日本人なのかと考えたのは、見た目である。ところがこの人の心情は完全に日本人ではなく、ブラジル人であった。この感触は不思議なものだった。その感触からいえば、江戸時代の日本人から見れば、現代の日本人は日本人とは思えないだろう。

人種としての日本人と言うものと、所属する国の国民と言う関係は、その人の外見ではなく、イザンヤペンダサンの言う所の日本教の問題なのだ。札幌市議の金子やすゆき氏は「アイヌ人は居ない。」発言で自民党を除名された。議員はこの意味を色々書いている。アイヌ人と言うものは何かと言えば、アイヌ語をしゃべり、アイヌ人としての宗教や生活習慣を行っている。総合的にアイヌ人としてのアイデンティティを持っている人と言うことのようだ。この人の発信の仕方は幼稚で問題が大きいが。考え方としては、あり得る考え方である。私は日本人であることを大切にしなければ成らないと考えている。アイヌが居ない以上に、江戸時代からの日本教を信奉する日本人は減少している。日本人が江戸時代に培った循環型の社会こそ、人類の進むべき方向と考えているので、このことが歯がゆくてならない。

日本列島と言う自然環境の中ではぐくまれた日本文化と言うものは、類まれなものであり、残すしてゆく価値があると考えている。日本はこうだという、暗黙の了解というか、一定生まれてくる方向性が無いならば、3代も世代が変われば、日本人は漂流の民になっている。日本列島という島国において、鎖国と言う特殊な外交政策をとり、循環型社会を、自給自足社会を、ほぼ構築した。日本語を話し。日本教と言うべき様な特殊な宗教形態を持ち。独特の風俗を形成し、日本的生活形態を作り上げた。その日本人の国が日本である。

ここからが、今日書きたいと考えたことだ。朝鮮人や台湾人に対して、日本人化を試みようとした。これを侵略との実態だと思う。日本語を話すように推進し、日本式神社をつくる。教育も日本式の物として、日本と同化させようという考えで統治を進めた。このことを侵略の根源だと思っている。それを近代化だと考え、朝鮮や台湾の一部の人が自ら望んで行った事例が良く主張されるが、それも確かにあるだろう。例えば、脱亜入欧政策で、日本語を止めて英語にしようとした日本人人も明治時代にはいた。こういう人は売国的日本人である。日本には近隣諸国を日本人化したいという意図を持った人が存在した。アイヌが、望むと望まざると、日本人化したように、近隣諸国も日本人化できると、その方が互いの幸せであると考えたのだろう。欧米の帝国主義に対抗するには、それ以外にないと考えた。外圧によって、その民族の宗教や習俗を、同化させてしまう政策を取るということが、侵略なのだと考える。アイヌは日本人によって、侵略され、日本人に同化した。

その意味で、アメリカが日本の占領政策の中で、日本人の暮らしを変えようとした。例えばパン食を推奨するということは、食生活への侵略の一歩だ。軍国主義を形成した封建主義を是正して、アメリカの考える正義の民主主義を根付かせるという、アメリカの考え方は、社会正義とか、日本が民主主義社会に変わる為だという理由だろう。しかし、アメリカは英語を強制したわけでも、キリスト教を強制したわけでもない。日本民族が日本人として方向を正すことを模索したし、日本人もおおむねそのやり方を上手くこなしたのだと思う。

ところが、アイヌ問題だけででなく、現状では世界のすべてが、資本主義によるグローバル企業の存在によって、経済侵略されていると言える。日本原理主義に成ることはいい事だと思わないが、英語を日本の初等教育に取り入れるなどと言うことは、日本人に対する侵略行為の一つだと思う。もちろん日本人が自分の判断で、やっている。しかし、その背景にあるものは、グローバル資本主義の圧力である。生きてゆくには英語が不可欠だという幻影に、追い込まれているのだ。

長く成ってきたがもう一節加える。移民と言うことがある。最初に書いた日系ブラジル人はその結果である。この移民政策と言うものも、国家と侵略と言うことに大きくかかわる。満州国を建国し、満蒙開拓団を結成して、日本の権益を広げようとする。背景には日本人の人口増加がある。日本の国土にあふれてゆく。長男だけが、農地の相続を行い。それ以外の4人も5人もいる子どもたちは、どこかへ出てゆく以外ないという状況が、人口爆発の背景にして起こる。富国強兵政策の結果、農村は重い重税にあえぎ、飢餓に陥るほどの貧困状態になる。その解決策が移民政策に向かう。アメリカおよび中南米にも、移民が続く。同時にアジア諸国にも移民政策が取られる。これが近隣諸国に置いては、軍の進出と相まって、辺境の自警団的な組織として開拓団が考えられ、軍の意図にしたがって移民が行われる。これも侵略行為の一つである。書き尽くせないが、私の考える日本の行った侵略の一端である。
コメント (12)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする