地場・旬・自給

ホームページ https://sasamura.sakura.ne.jp/

籾がらクンタンを作る。

2013-10-31 04:08:45 | 自給


籾がらクンタンを作り始めた。これで今年3回目である。ヤオマサの田嶋さんから頂いた、クンタン製造機も使って、2窯同時に進めている。30リットル入りの袋で、8袋入ったから、250リットルくらいの容器である。出来上がりの量で、5袋前後150リットルである。クンタン作りはコツが必要である。何故か、毎回燃焼の時間が変わる。たぶん、まだ技術が安定しないのだろう。籾がらの湿気具合と、煙突の長さがかなり影響する。最短では6時間ぐらいで出来るが、下手をすると、20時間もかかったりする。それでも何とかかんとかできている。クンタンを作ることは、苗作りの準備として必ずやることにしている。良い苗が作れるということもあるが、苗土の増量剤のようなつもりでもある。どれだけ作っても余るようなことはない。



詰めて燃えだしたところである。今回は煙突の長さを半分にした。前回はこの倍の長さでやったら、かなり早く燃えた。早すぎると、良いクンタンが出来ないような気がして、半分にしてみた。ところが、時間が30%ほど長くかかるようだ。クンタンが湿気ていたせいもあるかもしれないが、クンタンの出来が良くなったということもないので、煙突は次回は又繋いで倍にすることにする。倍にしてみたが、そう早くならなかった。湿気の違いもあるようだが、むしろ下からの酸素が少しは入るのかどうかということがあるようだ。下から酸素を少し入れても、灰にならないなら、それは早くていい。



5時間くらい経過したところ。ここまで来てもう一度かき回して、もう2袋加えた。そうしたら急に時間がかかり、さらに、4時間が経過して、まだ燃え切らなかったが、そこで水をかけて、消した。この消し方が難しくて、10リットルくらいの水をかけて、ビニールで酸素を入れないように蓋をするのだが、これで上手く消えないこともままある。もっと20リットルくらいの水を加えてもいい。そのうえで、絶対に酸素が入らないように閉じる。そうして、2日は置いて置く。周りを触って冷たくなるまで置いて置く。

袋詰めは、ともかく再発火に気を付ける。結構冷えていても、もう一度水をやりながらくらいの方がいい。どうせ濡れているくらいで使う際には問題がない。再度火が出ないということが肝心である。符詰めして、2日ほど燃えてもかなわない場所に置いておかなければならない。それから倉庫などに取り込む。

後2回分くらいはある。だから、総量として、40袋×150リットル=6000リットルにもなる。籾がらがこれだけでるということは、それだけお米を作っているということになる。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

減反見直し

2013-10-30 04:08:00 | 自給
長年問題とされながら、継続されてきた減反政策がいよいよなくなりそうだ。減反政策は日本の農政の無策を表してきた。作らなければお金がもらえるというような考え方は、異常である。こんなことが解決につながるはずがない。この背景にあったものが、補助金農政であり、農協を中心とする、農業旧勢力の存在である。と言って減反さえ止めれば農業が良くなるということではない。減反を止めるのは当然として、今後の農業を国家戦略の中でどのように位置づけるかである。政府は企業参入と、農地バンク。農村所得の倍増。を課題としてあげているが、農業政策の整合性が収まるとは思えない。最近私が想像する稲作分野の将来は、巨大な企業的稲作会社が現れて、10社によって日本の米を生産する姿である。政府はその巨大稲作会社の設立が上手く進むように、動いて行くのではないか。今より生産性が上がり、国際競争力とまでは行かないが、50%くらいの関税で収まることになる。一方に、相変わらずの兼業農家は採算とは関係なく稲作を続けてゆくが、10年後にはそれも老齢化が進み、消えてゆく。これが日本の稲作の将来像ではないか。

日本の食糧自給の為に必要な水田農地は、おおよそ今の半分位で良い。だから、食料自給のことだけを考えるならば、耕作放棄地は稲作では問題にならない。鶏卵業では、20年くらい前に卵の生産は8社+αーで占められているといわれていた。その後も中小の零細の養鶏会社は徐々に淘汰されてきたはずである。政府の考えでは、お米も企業的農家によって、大半が生産されるということを期待しているのだろう。その方が効率もいいし、政府も生産調整や価格操作など話が付きやすいと考えている。そのためにもJAの抱えている農家はいらない物になりつつある。今回も、JAによって強烈なTPP反対運動があった。私もその一人として参加したのだが、反対の声は今や埋もれてしまっている。JAの反対の背景が、農家の所得補償や、減反補償を背景にしたものだから、国民一般の共感が得られにくい気がした。減反補償とか、戸別補償を受けながら、自由化反対を主張すると、既得権にしがみついているようにしか映らない。

もう一つの流れがある。どれほど生産性が低いとしても、価格と関係なく農業を続ける農家のことである。これも生き残るはずである。理由は簡単である。稲作なら、兼業農家で可能だからだ。お米は買った方が安いくらい農家の人は誰でも知っている。それでも総合的に考えれば、自分の暮らし全体の整合性から、田んぼは続けたいという気持ちがある。私が絵を描きたいという気持ちに近い。人間が生きるということは経済だけでなく、価値観は多様なのだ。田んぼがそれだけ興味深いし、日本人の原点のようなものを秘めている気がする。田んぼが好きな人が居る。田んぼを本気でやることによって、安心して暮らせることになる。感受性は豊かになる。物を見る目は深まる。田んぼをやりながら生きるということは、生きるということの魅力が倍増してくる。そういうことを知ってしまうと、何とかなるなら、田んぼだけは続けようということになる。農村というものがある間は、兼業農家は生き続けるだろう。

考え方の大きな分岐点は地方農村の消滅の是非である。山間地から集落が消えてゆくことになる。大規模化できない地域から農村が消えてゆく。僻地の集落が成り立たなくなることは、日本という国の成り立ちとして、問題が生じないか。私には都市住民しか人の居ない国、そんな日本は想像もできない。日本人を捨てるに等しいと考える。日本人で無くなってまで、国際競争に奔走すべきとは思えない。日本人であるという原点はどんな時代に向うにしても、育ててゆく必要がある。その大切なものが、山間地の稲作に存在する。山本七平氏の言うところの、日本教の信仰の核心のようなものだ。稲作は日本教の行だったのではないか。本来稲作には向かない、東北地方の棚田で神田を作るという行為は、信仰そのものではないか。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

特定秘密保護法の狙い

2013-10-29 04:13:33 | Peace Cafe
安倍首相の特定秘密保護法の国会答弁を聞いていて、率直なのでびっくりした。「各国情報機関との情報交換は、秘密厳守が大前提だ。日本版NSC(国家安全保障会議)の機能を発揮させるためにどうしても必要だ。」つまり、アメリカから軍事機密情報をもらうためには、秘密保護法が必要だと言っているのだ。アメリカは、同盟国日本の大使館の情報もスパイしていた国である。ドイツの大統領の携帯電話すら傍受していたとされる。そういう諜報活動の結果安倍政権の軍国化を一番心配しているのが、アメリカ政府となったのだ。戦争の出来る国になりたいという安倍政権に対して、その前提として秘密保護をアメリカから要求されているということになる。情報管理が出来ない国であるということは、アメリカの諜報活動の中で、実感しているのが日本に対する認識に違いない。アメリカは日本をスパイをしてきた結果そう考えるようになったのだ。安倍氏を軍国主義者だと看破したのは、アメリカの情報機関なのだ。

その安倍氏が軍事的国家の基本として、秘密保護法が必要だと考えているのは、当然のことであろう。日本版スノーデン氏の登場を畏れているのだ。秘密保護法の裏側では、国民に対する情報収集が行われる。これは2つ揃わなくては、軍事的機密の意味をなさないはずだ。むしろこちらの方が、主目的と考えておかなくては成らない。武力に頼ろうとするものは、恐怖心にさいなまれている。だから、国民各層の情報収集に熱心にならざるえない。テロ対策とアメリカでは言われているが、本音としては国民のコントロールの為に、国民全般のあらゆる情報収集が行われている。すでに、日本でも熱心に行われているはずである。だから、私としては、すべてをあからさまにすることの方が、むしろ気持ちが楽だし、身の安全だと考えている。私が危険分子というほどではないが、冤罪の不安である。その時に、何かがおかしいと分るように、日頃からすべてを公開していた方がいいという考えである。もちろんこんな小人物が大げさなことに、と笑われるようなことだが、小人物ならではの、自己防御本能のようなものだ。出た杭は打たれるが、出過ぎた杭は打ちにくい。

秘密保護法で報道の取材が問題にされているが、それは大したことではないと考えている。この程度の法律で委縮するような人間にはどうせ何もできない。私は報道には期待していない。むしろ、いざという時に報道は悪い方に作用すると考えている。期待していないので、制限などされても大したことではないと考えている。福島原発事故で、本当のことを報道できなかった事実を目の当たりにした。報道というものは、何か理由を付けて、いざという時には逃げ腰になると考えた方がいい。報道機関は肝心の時になれば、大本営発の都合のいい記事だけを、伝える可能性が高いと考えている。そのために、肝心な時には国民にとって悪いものになるとみている。報道の批判精神などというものは、初めから埋もれてしまっている。報道機関の中に、私などよりはるかに確かな批判精神を持っている人を知っている。しかし、そういう人であっても、発言できないような体質が報道機関の内部に生まれている。報道を信頼することでの危うさの方が心配である。

確かに情報隠しに悪用されるという心配な側面はあるが。この法律の主題は秘密保護にかかわる公務員の活動を規定する法律である。そのために、公務員の身辺調査まで行われるとある。警察内部の公安情報が、ネットに公開されて、その犯人が特定できないのがネット社会である。情報ネットワーク社会がさらに広がる中で、何を秘密にしようとしているのか、時代錯誤の法律の感がある。情報を知ろうとしたら、ありとあらゆる大量のものを集め、より分け分析するということになる。アメリカが世界に向けてやっている手法だ。イランが何をやっているのかということは、イランの公務員をスパイするのは、007の時代である。イランのあらゆる情報を広く集める。それを分析にかけてゆけば、化学兵器を作っているということは見えてくる。ネットワーク情報収集こそ企業でも国でも次の戦略である。そしてそれはすでに、徹底して行われていると見た方がいい。
コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

コウノトリの山口への飛来

2013-10-28 04:19:08 | 地域
コウノトリは豊岡市が熱心な保護活動を続けることで、ついに野生化に成功した。10羽のコウノトリが、山口まで飛来したという、ニュースがあったということは、将来の見通しが立ち始めたと考えてもいいことだろう。トキも人工飼育が成功し、放鳥を続けている。近い将来自然繁殖にも成功するのではないか。北海道の釧路湿原ではタンチョウヅルも、長年の保護活動の結果北海道では10羽が1000羽を越え、先日のテレビでは1500羽程度と数を増やしたと報道していた。アホウドリの場合もほぼ絶滅を免れたという成果を出している。いずれの成功も大型野鳥の復活ということで素晴らしい成果だ。日本の自然保護活動の、すばらしい結果である。活動されてきた方々の、大きな努力が背景にあるに違いない。日本のタンチョウヅルは一度は絶滅したと思われていた。たまたま、渡りをしない一群が釧路に残っていたという幸運によって、復活がされたという奇跡がある。しかし、現状でも冬の給餌活動がなければ、10分の一の数に減少すると言われている。

大型野鳥が絶滅に瀕した理由は、日本の自然が、というより田んぼが農薬や化学肥料に汚染された事が一番の原因である。そして、冬の田んぼの乾田化が餌の減少に拍車をかけた。その他アホウドリのように、羽毛をとるために捕り尽くしてしまった、というような事例もある。復活の背景は自然環境が改善され、増加してきたということでもない。あくまで人工的な手助けがあっての復活である。釧路湿原でも開発の中で、営巣地が今でも狭められている。幸いタンチョウヅルの場合営巣地を十勝地方まで広げながら、生息数を増やしている。新しい問題は、農業被害である。ツルは日本の農村では、田んぼを荒らす害鳥というイメージが強かったようだ。コウノトリの保護活動でも、農業被害の実態調査が、保護活動のスタートになっている。田んぼを踏み荒らすという事がどの程度のことか時間をかけて調査をした。これが意外に被害を与えないということがわかり、豊岡市全体の取り組みになった。現在はコウノトリ米の販売などに活動が広がり、コウノトリの暮らせる豊かな田んぼ作りに進んでいる。

減少の要素の一つが、冬季の乾田化である。乾田する理由は工業用水の確保にあったと思われる。農水省も乾田技術を増収方法として、農業技術普及所を通して、普及して行く。今では、乾田化は当然の技術として受け入れられている。実体としては、もし冬季に田んぼで耕作をしないのだとすれば、乾田化すべき田んぼもあれば、水を張っていた方がいい場合と、その自然環境に応じて考えなければならないことである。いずれにしろ、水路には水があった方がいい。一律に全国に普及する技術の意味はなかったのである。田んぼの環境維持力を考えれば、地域の環境に応じた手法を探るべきである。冬季の間水路に水が流れないということで、地域の小川の生態系もかなり影響を受けた。稲作地帯であるからと言って、生物相が豊富とは言えないのが、現状である。そうした、工業的な稲作を否定する訳ではない。自然環境の為に、維持すべき稲作を指定して、環境保全すべきなのだと思う。

鳥類は近親交配を乗り越える遺伝的な力を持っている。それゆえに、10羽以下の羽数になっても復活する可能性がある。この点では、哺乳類とは少し違う事情があると思う。山階鳥類研究所では希少鳥類の生存と回復に関する研究をされている。特にアホードリに関しては、長期に及ぶ保護活動を継続している。その記録を読むと日本鶏でお世話になったことのある、柿澤先生のお名前もある。500万羽のアホードリを殺戮するのも人間であれば、数羽になってしまったものを何とか復活させたのも人間である。考え方一つで、鳥の未来が変わってくる。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本経済の先行き

2013-10-27 04:35:26 | Peace Cafe
日本経済が、戦後急速に成長し、アメリカに追いつき追い越すような勢いがあった。それは、日本人が優秀で、勤勉であったからということもあるが、むしろ条件に恵まれたのだ。低賃金。高品質の在り余る労働者。教育の普及。公害の規制の甘さ。格安の軍事費。労働人口の急増。低賃金競争国の未成熟。努力が報われる社会。格差解消の流れ、国民の方向が、経済成長にそろった。すべてが日本が急成長する方向へ作用した。それが現状では、当たり前の日本の国力に戻ってきたと考えるべきだ。嘆くことではなく、普通の国になってきたのだから、これでやって行ける道を模索すべきなのだ。今もって、経済成長だけに日本の方向を向けようとすることは、狭すぎる間違えである。国際競争力もいいが、それは企業の問題が中心であり、日本全体の問題でない側面もある。農業まで国際競争力のある農産物を作れと政府はハッパをかけている。馬鹿げているだろう。安倍さんならアラスカで農業をやれるのか。農業には、その国の国土という条件があり、国土を育みながら、食糧を生産するということが農業分野の健全な姿なのだ。

輸出を目的とした、プランテーション農業。収奪的な農業。こうしたものが世界には存在する。そうした経済の合理性だけで動く農業と、対等に競争して勝てる農産物が条件になる。企業的資本が農業を行う場合、日本で行うより、気候的に適合する地域に、労働力の安価な場所に、移動して農場を経営しようとする可能性も高い。それが企業の考える国際競争力である。もちろん、特殊な農業であれば、日本でも可能であろう。日本で偏った農業だけが行われることになれば、食料の安定確保は農業の問題でなくなる。問題の核心は、農業全体というより、稲作のことなのだ。主食である稲作をどうするかを考えなくてはならない。競争に目を奪われているために、国土全体を見る視点が失われている。何故私の主張が農業にこだわるかと言えば、国債競争力のある経済ということは、国家の枠をすでに離れているからである。国際競争の中で企業は利益を優先して、グローバル企業化している。この傾向は今後さらに強まるだろう。

アベノミックスによる日本経済の挑戦は第3の矢で躓いている。1、金融緩和、2、財政出動、これでインフレが進んでいる。消費税の値上げぐらいでは、収まらないほど財政は悪化している。問題は代3の成長戦略が、もう一つなのだ。この分るようで分らない抽象的目標では、道を切り開く成長戦略になならない。成長戦略という以上、具体的展望が大切である。膨大なプランなので、私のある程度想像がつく農業分野に絞って見てみる。たぶん他の分野でも似たようなものだろう。
・農林水産物・食品輸出額:現在の4500億円→1兆円へ(2020年)
・6次産業市場規模:現在の10倍の10兆円へ(2020年)
・農業・農村全体の所得:今後10年間で倍増
という目標が掲げられていて、肝心な具体策はまだ示されていない。いくらか出てきたのが、減反廃止。農地バンク。企業の自由参入。

建前がきれいに並んでいて教科書的である。具体展望があるわけではない。農村の所得が10年後に倍増しているイメージを持つことはできない。農村人口が10年で半減していることは、ほぼ確実だろう。農業は産業に入れていないのか、格差が広がる方向を目指していることはわかる。有能な人材が、一部の農業企業を利益に導くのだろう。稲作も日本に10社の農業企業が行うことになる。平等とか、公平とか言っていれば、国際競争に負けるというのが、共通認識になりつつある。つまり極端な能力主義の国が登場して、そういう国に追い越されかかっているという恐怖感があるからだ。しかし、格差社会は必ず失敗をする。もうその兆候は表れ始めている。低賃金の自由のきく労働力を持っている間は、成長するが、いつまで続くものではない。大きな破たんが待っている。その社会的フラストレーションの矛先が、日本を持ち出す、ガス抜きなのだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

老齢者健康法

2013-10-26 04:41:46 | 身辺雑記
老齢者の体力が5歳若返ったとの文部省の発表である。素晴らしいことだ。長生きしても元気でなければ始まらない。養鶏を始めた時に、60歳まではやろうと考えていたが、何とか64までやれている。ありがたいことだ。最近90歳くらいで元気で農業をされている方をテレビでやっている。一昔前なら、80歳くらいの感じだ。元気な方は10歳くらいは若返っている感じだろう。あやかりたいものだが、こういうことは持って生まれたものが、大きな要素だから限界はある。それでも最善を尽くす事はこころがけたい。ずいぶん多くのお年寄りが、スポーツジムに通っているということも言われる。若い人にはそんな時間もないというのが実態だろう。余暇をスポーツジムで楽しむというのは、なかなか良い傾向だと思う。と言っても、働く方が好きな老人も多い。ただスポーツをやるというより、社会に貢献しながら、体力を増強するということが一番良いのではないだろうか。

久野でも、多くの人がウオーキングをしている。犬の散歩をする人にもよく出くわす。世田谷でこういう人たちが防犯パトロールの活動を兼ねて運動をいているため、犯罪が減少したと言われていた。私としては、何歳まで自給生活が出来るかである。生涯自給が理想ではある。身体を動かすことが、健康にも、自給にもなるとすればなかなかの暮らしである。改めてスポーツジムに行くとか、健康体操をするというのでなく、自給畑をしながら、健康増進になるということを考えたい。一番の効能は、安定した気持ちで日々が暮らせるということである。農作業をするというのは、自然相手であり、常に感覚を研ぎ澄ましていなければ出来ない。熱波が来る。雨が降る。風が吹く。霜が降りる。日々おろおろうろたえているようなものだ。自然と向かい合うということが、農業である。人間のどうすることもできない自然の大きさの中で生かされていることを知る。

絵のことも同時に頭の中にある。これも大切なことだと考えている。雨にぬれるハザ掛けを見ても絵のことを考えている。絵に出てくる訳ではないが、こういう光景が頭の中で蓄積され絵になるようだ。毎朝こうしてブログを書くのも、健康維持のようなものだ。頭の体操の一つだ。健康には体力が一番かもしれないが、頭の活力こそ、健康の根源だと思う。頭は休息していると衰える。頭は使えば使うほど元気になる。前向きに頭を使えば意識が活性化してくる。自給生活の健康法は、頭の体操である。中でも絵を描くことが良い。いまだかつてない世界をイメージしようと、挑戦しているからだ。絵の世界の広がりを空想し、確認しようとすることはとても健全なことだ。絵描きが長生きすると言われるゆえんである。どちらかと言えば、本当は、長生きした人しか、本当の絵は描けないということだろう。

私は「ゆる体操」に月1回通っている。身体をゆるめるという考え方に魅力ある。緩める動きを教わっている。大体のところは覚えた。覚えたので、風呂屋に行ってやっている。はたから見ればおかしな奴だと不気味がられるかもわからないが、案外腕立て伏せをやる人、スクワットをやる人、真向法をやる人。様々いるので、目立たないようにやれば何とかその場の空気に収まる。ゆる体操はこじんまり出来るのもいい。身体を温めながら緩めると、ゆる効果が増すようでもある。それよりなにより、スーパーセントーが私の健康法である。私が5歳体力が若返っているとすれば、お風呂効果である。身体の回復を早める。免疫力が上がる。スーパーセントーに行くようになって、病気らしい病気をしたことがない。身体を酷使して、明日は節々が動かないかなというような時でも、ゆっくり温泉に入れば、翌日は回復している。疲れを後に残さなければ、老人でも元気でいられる。サウナに良く入る。このことはいいとばかりとは言えない気もするが。今のところは良いようである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

原発コントロール問題と国会

2013-10-25 04:19:54 | Peace Cafe
国会では、委員会質疑の中で汚染水について何人かの人が、政府に質問をした。その議論は予想通り表面だけの深まらないものである。こんなことだから、予算委員会のみの総理大臣の出席が政府から提案される。議論を避けることは、民主主義の滅亡である。安倍氏は上手くごまかしているつもりのようだが、コントロール、コントロールと力説しても、外洋からも放射能は検出されている。脱原発が出来ない理由として、1、日本がエネルギー資源が乏しいこと。2、エネルギーの安定供給。3、島国で電気の融通が付かない。などを上げているが、ドイツが可能で、日本にはできない理由がわからない。放射能の問題は、リスクの程度が測れないところに、問題の根源がある。脱原発や汚染水問題が、極私的議論に陥りやすい。どこまでが安全であるかという、国民のコンセンサスのない中での議論だからだ。文明論的な問題点まで、掘り下げて思考できるかである。

はたして、微量の放射性物質なら、海洋に流しても大丈夫だというようなことは、世界の了解を得られるのだろうか。六ヶ所村の核燃リサイクル施設では、すでに汚染水の海洋投棄が行われている。いや、世界中の原子炉で海洋投棄は行われてきた。海というような大きな量にスポイトで落とすようなことだから、現実的には問題は起きない。起きたとしても、自然界にある放射能に比較すれば大勢に影響がない範囲だ。というのが、政府というか、電力会社というか、原子力推進派の人々の、本音なのだろう。一方に、放射能の影響で南足柄はすでに人が住めない地域になったというような講演を行った人の、極論も存在する。この両極の中で、現実の社会は時間を経過している。はっきりしているのは、安倍総理がIOCで発言してしまったことは、やらざる得ない国際公約となっていることだ。どうやって、港湾から外に放射性物質を出さないかである。コントロールされずに出ているのだ。これは言葉のごまかしではだめだ。

世界の人々はこのことで日本人というものを判断することになる。農産物の国際競争力を高めようとする努力さえも、影響を受ける。水というものは海洋に出てゆく。いくら貯め込んでいても、最後は海に流れてゆくことになる。完全に放射性物質を外に出さないということは、もう出来ない状況なのだ。原子力発電を行うということは、そういうことなのだ。事故がなかったとしても、六ヶ所村の原燃リサイクルの排水を考えれば、分ることだ。化学工場でも排出基準というものがある。重金属であっても、排出基準内であれば、工場から流れ出ている。絵を描く絵の具なども、美しい色であればあるほど、精製の過程で汚染水をだす。だからイギリスでは生産できないので、中国に工場を作ったという話がある。一定のリスクを伴うというのが、人間が暮らしてゆく現実なのだ。だから、放射能もある程度は構わないというのではない。放射能は人間が今後ロール出来る技術ではなかったのだ。安全なものに変わるには、10万年という年月が必要なものなど、人間の100年という寿命から考えれば、人間にはコントロールしきれないものだったのだ。

福島原発では遮水壁を、土を凍らせて作ることになっている。凍土壁である。これは失敗すると思う。これでは水は止まらない。国会の答弁では、山側から、原発に向かっていくつもの配管がある。これを維持したまま水を止めるには、鉄板での遮蔽より凍土壁がいいという判断のようだ。山側にかなり深いコンクリートダムを作る以外にないのだが、費用がかかり過ぎるということだ。こうして、費用を惜しんで来たために、事態は深刻度を増しているのだ。東電は活力を失いかかっている。有能な人材が、退社を始めているという。批判ばかりされていれば、辛いことだろう。そうして、現場の事故対策が、外部発注になってゆく。経営破たんしている東電を温存したままでの、事故対策は不可能である。福島事故対策を東電から切り離し、政府の責任で対応する以外方法はない。同時に脱原発の方向以外、人類の道はないということも気付かなければならない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

集団的自衛権の拡大解釈

2013-10-24 04:51:39 | Peace Cafe
安倍政権は集団的自衛権について、国連憲章にある自衛権を持ち出して、日本国憲法の拡大解釈を行おうとしている。日本国憲法には、憲法9条があり、自衛隊自体がかなりの拡大解釈と言わざる得ないものだ。国が、憲法という統治の方法を定めた、根本理念を拡大解釈を続けることは在っては成らないことだ。軍事力の行使を「積極的平和主義」などというきれいな言葉を持ち出してごまかそうとしている。日本の方角を定めた憲法の平和主義は、敗戦による反省に基づくものである。軍事力によっては、平和な社会を作れないという理念が込められている。この憲法はアメリカに押しつけられたものだから、改憲すべきという考えを安倍政権は主張している。しかし、新憲法が制定されるという時は、常に前政権が革命や、敗戦によって覆され、消滅した時だ。敗戦という状況下で、新憲法が制定され、そこにはアメリカの意志が働いたことは確かなことではあるが、二度と戦争を行っては成らないという、人類の平和への希求の結果と考えるべきものだ。

日本が直接的戦闘に巻き込まれず、ここまで平和に来れた一番の原因が、この憲法9条があったおかげである。集団的自衛権の拡大解釈論の出現は、安倍政権成立以来、悪化している中国、韓国との歴史解釈や、領土問題との関係がある。同盟国アメリカの外交の影響力の衰退による、失敗が続いているということもある。安倍政権が軍事力による平和以外、信じていないということもある。「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」とする憲法の理念とはほど遠い現実認識である。確かに、中国政府が公正で在るとは思えない。信義に基づく様でもない。しかし、ここでは中国の中にある、善良な国民に期待しているのである。どこの国にも、正義と公正を求める人間は存在する。そうした善良な部分を信頼し合い、育ててゆくことが、世界平和への道であると考えているのだ。

日本が武力主義になるということは、中国にも潜在する、平和主義を追い詰めることになる。互いの平和勢力を、成長させる以外日本の理想とする世界平和はないだろう。せめて日本だけでも、世界の平和への理想を掲げよう。これが憲法9条を掲げてきた日本人の誇りである。日本国憲法前文では「自国のことのみに専念して他国を無視してはならない。」とも述べている。日本の権利だけを言いたてるのであれば、平和外交などあり得ない。積極的な平和というものが、武力の均衡によってのみあるとするならば、限りない軍拡の道にまた戻るということになる。それでは、明治政府の求めた、富国強兵の帝国主義の失敗をもう一度たどることになる。日本が、敗戦によって掲げることになった日本国憲法の理念は、世界の平和を願う人々の、希望なのだ。

憲法の拡大解釈をどうしてもしたいのであれば、むしろ9条の改定を議論すべきだ。9条がおかしいと安倍氏は主張してきた。その問題点を正面から議論することの方が、はるかに健全である。9条の考え方、その解釈に国民の賛否が2分していることは、日本の現実である。だからこそ、日本という国の行き先が定まらないのである。定まらないということが、日本の国力の停滞の一番の原因である。96条の改定とか、集団的自衛権の拡大解釈とか、周辺部の解釈論とか、あまりに政府自民党のやり方が姑息である。姑息であるということは、実は裏があるということで、尖閣や、竹島の領土問題で、隣国との軋轢を増して、憲法改定を行おうという勢力があるのだ。こういうやり方は、いかにも冒険主義的で日本平和のために安心が出来ないということになる。もし、平静な議論を踏まえて一定の軍備を持つということが、日本の大勢を占める国論であるなら、憲法9条の改定もやむえないこととなる。その前段として、国民全体でわかりやすい議論を行うことだろう。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小田原駅地下街問題

2013-10-23 04:01:09 | 地域
小田原駅の地下街を再生し、昔のような商業施設をまたやる計画らしい。全く理解できない政策である。行政が何故、税金を使って商店経営にかかわるのかが、理解しがたい。多額の税金を、小田原駅前の何度も倒産した地下街に、注がなければならないか。こんなことを考える商業コンサルタントはいるだろうか。市長は元コンサルタント業をしていたらしいが、よほど見当違いである。小田原市議会ではこの予算案に対して、議案第63号平成25年度小田原市一般会計補正予算中、(款)8土木費、(項)4都市計画費、(目)1都市計画総務費、小田原駅・小田原城周辺まちづくり経費、小田原地下街再生事業費の削除にいて、大村議員、大川議員、井上議員の3人が修正案を提出した。そして、16対10で修正案は否決された。地下施設の改修には22億円かかり、開業後も毎年3億円はかかるという。こうして突っ走ろうとしている理由が見えない。

確かに駅前の地下が廃墟の様であるのは、街のイメージとしては甚だ良くない。だからと言って商店経営では又失敗し、失敗の上塗りになる。今までも、何度も行政は資金を注ぎ込み、失敗を重ねてきている事業なのだ。どこの町も駅前のシャッター通りという話は珍しくない。小田原の場合も、大きなショッピングセンターが川東地区に出来た。駐車場のある、車の利便性のいいところに出来ている。さらに久野にはかなりの規模のイオンタウンが出来ることが決まった。久野の自治会長会議にも説明があったそうだ。地元雇用などの要望をしたそうだ。むしろ地元全体としては歓迎ということなのだろう。イオン側も地域にとってもプラスになるショッピングセンターを作ると述べたという。もう駅前商店街の時代は終わろうとしていると考えるべきだ。お年寄りの利便性ということが言われるが、現実には、お年寄りを対象とした宅配業が今後広がるに違いない。こういうことは、イオンの方がむしろ期待できるのだろう。

小田原駅周辺の商店街が窮地に追い込まれているさなかに、駅前の地下に行政が、商店を経営し、さらに足を引っ張るなど、信じがたいことである。駅前の地下商店が成功すれば、その分を周辺の商店が苦しくなるだけである。小田原の経済規模が膨らむような事業ならともかく、現在の経済を分け合う意味だけの地下街の再生計画である。一体こういう案に賛成する市会議員が16名もいること自体が理解しがたい。この市民の税金をどぶに捨てるような案がまかり通る理由の説明が、どこかにあるのだろうか。市のホームページでは趣旨、目的が理解できない。駅前地下街を有効利用しようとするなら、小田原に人が集まるような、魅力を増すような企画案でなければならない。御殿場の友人が、わざわざ、ロビンソンデパートに来たと言って寄ってくれたことがあった。人口減少時代では、便利で魅力ある商店が出来るということは、今までの商店がその分苦しくなるということだ。もし、小田原にお客をたくさん呼べば、どこかでお客が減るだけなのだ。

小田原駅の地下という場所ならば、列車の利用者がおもに立ち寄る施設なのだろう。今後、小田原駅から、お城に抜ける線路わきも再開発施設が進むだろう。ここにも商業施設が出来るだろう。いよいよ、街中に出向く人の減少が予測される。こういうことに行政が、拍車をかけるということは在っては成らないことだ。もし地下街を再生するとするなら、街中にはない施設を作る必要がある。その企画が立たないなら、閉鎖した方がましである。本来であれば、車を使わない市民が使いやすい施設が駅前にある必要がある。図書館とか。託児所とか。市民交流スペースとか。スポーツジム、カルチャーセンターもいいかもしれない。そういうものがやれないなら、閉鎖してしまった方が、よほどいいような気がする。久野以外のことは、なるたけ目を瞑るつもりが、あまりのことなのでつい書いてしまった。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

皇后さまと五日市憲法草案

2013-10-22 04:37:35 | Peace Cafe
皇后陛下は79歳を迎えられたという。ミッチーブームというものが子供のころあった。美智子妃がすごい人気で、その日々の行動までもが注目された時期があった。馬車に乗った結婚式のパレードの姿は、テレビで放映され今でも記憶に残っている。随分と時間が経過し79歳を迎えられたことに驚き、自分も年をとったのだと改めて思う。誕生日に際し、五日市憲法草案に言及したということは、大きな意味を持つと考えられる。皇后は類まれに聡明な方である。だからこそ、初めて民間出身者がお妃に選ばれたのだろう。そしてその役割を、静かに果たされてきた。この時期に明治初期の民衆憲法を発言する背景は、深いと言わざる得ない。明治の自由民権運動は小田原にも及んでいる。五日市のある西多摩地区には大きな運動が存在した。江戸という世界有数の消費地に対して、エネルギー供給地として、関東周辺の山林を背景にした地区は大きな経済が存在した。五日市憲法草案は明治14年に草案されたものだ。

以下皇后陛下の誕生日に際してのお言葉

五月の憲法記念日をはさみ、今年は憲法をめぐり、例年に増して盛んな論議が取り交わされていたように感じます。主に新聞紙上でこうした論議に触れながら、かつて、あきる野市の五日市を訪れた時、郷土館で見せて頂いた「五日市憲法草案」のことをしきりに思い出しておりました。明治憲法の公布(明治二十二年)に先立ち、地域の小学校の教員、地主や農民が、寄り合い、討議を重ねて書き上げた民間の憲法草案で、基本的人権の尊重や教育の自由の保障及び教育を受ける義務、法の下の平等、更に言論の自由、信教の自由など、二百四条が書かれており、地方自治権等についても記されています。当時これに類する民間の憲法草案が、日本各地の少なくとも四十数か所で作られていたと聞きましたが、近代日本の黎明期に生きた人々の、政治参加への強い意欲や、自国の未来にかけた熱い願いに触れ、深い感銘を覚えたことでした。長い鎖国を経た十九世紀末の日本で、市井の人々の間に既に育っていた民権意識を記録するものとして、世界でも珍しい文化遺産ではないかと思います。

憲法を国民全体で大いに議論すべきだ。こういう考えを言われたのだと思う。上からの憲法ではなく、庶民の議論をもとに作り上げられる憲法の大切さ。つまり、96条の改定のような姑息な、足をすくうような方法ではなく。憲法を改定するのであれば、あらゆる立場の人間が、討議を重ねて、十二分に日本の将来を考えなければならない。こういう実にまっとうな正面からのお言葉ではないか。私は今回の言葉を、人間皇后としての、日本人に対する遺言のように受け止める。この後、亡くなられた、先達の名前を次々に挙げられているのは、そういう気持ちを意味している。それゆえに、この言葉を政治的に利用することは在っては成らない。日本人一人ひとりが深く心の底に受け止め、考えてゆく必要がある。ということではないだろうか。人権がないがしろにされた江戸時代という考え方は、一面的な見方だと思う。大切にしなければならない人権とは何を意味するのか。

明治の自由民権運動が、明治帝国主義によって押さえつけられた歴史は、明治という富国強兵の時代の在り方を表している。むしろ江戸時代にあった村社会の中にある人権思想が、明治政府の帝国主義的願望によって、押さえつけられたのだ。江戸時代が封建的で、個人の人権が無視された時代という、イメージは明治政府によって、作り出された面が強い。江戸時代の村には、日本的な人権の意味があった。儒教的とも、仏教的ともいえる、人間主義は日本になかった訳ではない。だからこそ、若いごく普通の庶民があつまり憲法の草案の作成まで、実現しているのだ。明治13年に草案が練り上げられていたということは、当然江戸時代に育った人たちだ。明治維新の日本人の姿を含め、日本の稲作文化から生まれた共同体と、その中にどういう人権意識が育っていたのか。考えてみる価値は高い。

現代の人権問題であれば、お金の為に人間を失っては成らないというのが、アベノミックスに対する気持ちである。競争に勝つためには、能力主義が重視される。能力主義と人権の関係を考えなければならない。五日市憲法をはじめとする、市民発案の憲法草案は明治憲法には生かされることはなかった。その後の富国強兵一辺倒の時代に突入する。日本帝国の敗戦への歴史である。この教訓を生かし、世界に対して本当の意味の、軍事力以外の積極的平和主義を打ち出す必要がある。競争による人間の成長ではなく、自己革新により自分を深める努力が出来ないかではないだろうか。他人を押しのけ、敗者を作る人権ではなく。それぞれが自分の能力を生かすことのできる人間への成長へ、努力をしてゆく世界観。能力主義をどう乗り越えるかが、人権の確立への課題だ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

お米の保存

2013-10-21 04:05:31 | 稲作
田んぼの収穫も終わり、ホッと一息はまだである。しっかりとした保存をしなければならない。ハザ掛けで乾燥し収穫したお米は、保存にはもう一つの乾きである。15%以下までハザ掛け出来る年は、半分ぐらいだろう。よく乾かそうと考え過ぎると、台風で倒されたり、大雨で濡れてしまう。保存に良いと言われている水分量が、13%だから籾擦りしてから、玄米を一度広げて乾燥する必要がある。昨年までは、半分は籾のまま保存して置いた。半年過ぎたらば、籾擦りをしながらのお米を食べることになる。これは籾すりの機械の掃除など考えると、結構面倒だった。そこで玄米のまま良い保存が出来ないか、色々やってみている。たどり着いたのが、真空パック器のパックンを使って保存する方法である。お茶の会でお茶の保存の時に使って、とてもよかったので、お米の保存のために購入した。小麦粉の保存にも使える。



今回は付属で付いてきた、ビニール袋全部を使ってでやってみた。今年のお米の分配量は120キロである。一袋平均8キロぐらい入るのようなので、12袋で、90キロくらいを真空パックしてみた。この袋が案外に高いもので、全部で1500円にはなる。使い捨てにしないで、一回りづつ小さくして使えば数年は使えるだろう。付属でないビニール袋でも出来ることはできる。



何度も連続で使っていたら、ビニールのシール部分の熱がだんだん高くなり、焼き切れてしまった。だんだんにシール時間を短くして行く必要があるようだ。よく出来た機械だと思った点は、上手く空気を抜ききれないときには、シールをしないのである。どういう構造か分からないがこれには少し驚いた。



こちらは種もみの保存である。種籾も広げてしばらく干して風を通し、茶箱にしまう。どの袋もパックしたうえで茶箱の中にしまった。こうしておけば、ネズミにも猫にもやられない。湿気る確率も低い。



まだ袋に入れられない分もあるが、寒い間に食べてしまう分だ。米袋に入れて、茶箱に入れれば、玄米保存で問題がない。今年は、天候に不安を感じた。お米が減収することも計算に入れなければならない。1年以上持ち越して保存しておくことも考えたいと思っている。

お米は、ハザ掛けをして天日干しをする。これが1週間から10日である。お天気任せのことだから、大雨、大風にやられることも多い。イノシシに引きづり倒されることもある。だから、少々乾いていない内でも取り込まざる得ない年が多い。この場合、籾で広げて干して置いて、籾擦りをする。1日、2日風を通すことでずいぶんと違ってくる。籾擦り機の調子も良くなる。それで籾擦りを終わったらもう一度1日2日広げる。玄米の表面が湿気ているような、湿気ではないのかもしれないが、さっぱりしない感じがするときがある。これを広げて日陰干しすると、保存のためにとても良い状態になる。保存を考えなかったら、15%くらいの水分量が一番美味しいようだ。美味しいよりもう少し乾かすことで保存が良くなる。温度的には、5度くらいが良いのだろう。冷蔵庫にパックして保存しておければいいが、普通その余地はないから、暖かくなるまでは、茶箱で、暖かくなったなら、冷蔵庫に移すつもりだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

10月の畑

2013-10-20 04:10:47 | 自給

一回目鶏フンを蒔いて耕したところ。


2回目を耕して、種を蒔いたところ。

8月、9月と畑はほとんど出ることがなかった。暑かったということもあるが、水彩人の秋の都美術館の展覧会があり、頭が絵の方に向ききりであった。稲刈りも終わり、やっと畑の準備に入った。まず畑の草刈りからである。ハンマーモアーを使ってきれいに草を砕いた。ハンマーモアーの入れない傾斜部分は、草刈り機で草を刈った。これでほぼ一日仕事になった。次に鶏フンを播いた。鶏フンと言っても、私の家の鶏小屋の床の鶏フン堆肥である。1畝一袋ぐらいの量にした。だいぶ土が良くなってきているので、草が分解されるぐらいの量でいいのではないか。刈った草が早く腐食してくれることを期待している。その後、すぐに一度耕運を行った。雨を見計らって、降り出す前の作業である。雨が降り、在る程度乾いてきたところで、トラックターで2度目の攪拌する。そして、2週間ほどしたら、さらにもう一度耕す。これで種まきでも苗の植え付けでもできる状態になる。

冬の青物や、タマネギの植え付けなど、自給生活には不可欠の作業が始まる。タマネギの苗だけは、セルトレー播きを行い。一応育っている。これを11月に入ったら植え付けたい。しかし、例年通りというか、今年も苗が足りないようだ。その分は買うことになる。これがいつもそうなのだが、実力どうりで買った苗の方が良く出来るのである。まあ、今年も挑戦である。昨年は玉ねぎは良く出来た。草をよく取ったからだと思う。土もだんだん良くなっているということもある。何としても草取りが出来ないというのが、性分というか、状況というか、遅れ気味になってしまう。この暑かった夏などもう諦めて、放棄していた。それでも、キュウリ、大豆、里芋、カボチャはある程度は出来ていた。来夏は初めから、手のかからない、草負けしない作物だけにするつもりだ。トマト、ナス、ニンジン、などは、すべて箱作りにするつもりだ。家で食べる分だけならそのぐらいで十分である。ハウスでは、トマトとゴーヤがまだいくらかづつ出来ている。徐々に畑は縮小しながら、自給だけは確保するつもりだ。

ほうれん草すぐにも蒔きたい。ほうれん草もおいしいものは売られていない野菜の一つだ。自分で作らない限り、あの癖の強い独特の味わいはない。土がだいぶ良くなってきたので、昨年はある程度できた。たぶん今年は出来ると思う。遅れてはいるが、まだ、キャベツや、大根、白菜、の種まきが出来る。間に合わなければ、苗を買ってきて植えるのでもいいのだが、一応は種を播いてみた。ほうれん草、キャベツ、白菜、ブロッコりー、ニンジン。あと、大根、こかぶ。一通りは蒔いてみたが、どうなることか。月末にタマネギのベットを又作るつもりだ。両側から、草取りがやりやすいベットにする。120幅で長さ15m、3列作れば、一年分のタマネギになる。ハウスのトマトも少しは出来るのだが、そろそろ片づけて、小松菜を蒔こうと思う。少しづらしながら蒔けば、冬の青物が確保できる。

畑は少し狭めるつもりである。中段の果樹畑をソーラーパネルを付けようと考えている。その分、少し下の畑に移そうと考えている。枇杷の木を隣との境に4本。下の斜面に、みかん。ブルーベリーは畑の淵辺りに移すつもりだ。柿は上の段に移したい。畑も少し狭くなるが。野菜はプランターを中心に作ろうと考えている。どうも自分の分だけなら、この方が管理が楽なようだ。水やりさえ忘れなければ、畑より管理が良くなる。畑では、タマネギとか、ジャガイモのような、ある程度まとめて作る必要のあるものに、限ろうと考えている。夏は又作業が出来ないのだろうから、一番掘っておける作物にするつもりだ。里芋、トオモロコシ、カボチャぐらいだろうか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

BLOGOSについて

2013-10-19 04:34:58 | 身辺雑記
BLOGOSブロゴスというのだろうか。ときどき読ませてもらう。色々のブログ記事の集積のようなものらしい。話題は新聞と似たような題材である。最近は新聞が主張のある記事はあまり面白くない。新聞の予定調和のようなありきたりの記事より、ブロゴスのほうが個性がはっきりしている。極端にゆがんだ、変なことが書かれている事が多いのだが、中にはましなものもある。何をバカなと思いながら拾い出して読むから面白い。責任がどの程度あるのか分らない記事。しかし、当事者以外に書けないようなものも良くある。私としては残念なことは、農業分野の記事がない点である。自民党の石破幹事長が集団自衛権について書いている。概ね正しい意見だと思うが、憲法9条と集団的自衛権の武力行為の範囲は明確でない。この議論が正しく行われていないと、一方的な感情論で、集団的自衛権が否定されているとしている以上。石破氏自身も、9条との関係と範囲を明確に述べるべきだろう。そうでなければ、単なる思い込み論の一つということになる。

集団的自衛権を考えるときには、あくまで具体的事例で考えることが必要になる。国連の安全保障委員会の決議があるのかどうか。これも一つの材料になる。例えば北朝鮮の行動に対して、国連は制裁決議を行っている。これに呼応する日本の北朝鮮に対する、経済、交流の制限も一つの集団的自衛権の行使ともいえる。自衛とはまず軍事力という発想ではないはずである。やるべきことをやりつくして最後の手段が、武力の行使ということである。現在アメリカはシリア政府に対して、サリンを自国民に対して無差別にミサイル攻撃をしたという理由で、武力行為を行おうとしている。この攻撃日本が加わることは、集団的自衛権の行使であるのかどうかである。結局、ロシアの外交力で窓が開いた。シリアが、アメリカを攻撃している訳ではない。同盟国アメリカが、軍事的攻撃を受けた場合、日本がアメリカを守るために、武力を行使すべきかどうかの問題である。

今日のブロゴスのトップには、小泉主張の原発錯覚論というものが出ていた。これままた幼稚な議論の組み立てである。どういう人が書いているのか知らないが、全く低レベルな主張である。しかし、だからブロゴスは目を通す。人の意見は様々で、幼稚なものから、深遠なものまで、レベル差もある。しかし、民主主義では、どれほど幼稚な意見でも、きちっと話しを聞く。この態度は大切である。ブロゴスで意見は出せば、在る程度の時間が経過吸えば、この人はこの程度のことしか言えない人なのかと判断がなされる。今行われている原発に関する意見も、誰のものが錯覚であるかは5年もすれば明らかになる。又、明らかになる様な判断がそれまでに行われないようなら、日本がだめだという事態だろう。

ブロゴスというものは、誰が何のためにやっているのかは分からない。色々のコマーシャルが入っているから、こういう費用で運営がされているのだろう。タグランキングというものがあり、以下のようになっている。1河野談話 2米国デフォルト 3靖国神社参拝 4やなせたかし 5教育再生実行会議 6解雇特区 7mixi 8秘密保護法 9大学入試 10みずほ銀行 となっている。これはアクセス数を表しているのだろう。靖国参拝についても誰かがどこかに書いているブログである。それをブロゴスに登録しているのだろう。誰でもできるということでもないようだから、編集部というところが、判断をしているシステムなのだろう。著名な人であっても無名の人であっても、議論の中では、同じ条件である。今まで現れては消えた、ネットのメディアが成立するのかどうか。興味深い。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

二大政党制の失敗

2013-10-19 04:15:34 | Peace Cafe
アメリカでは、議会の様子がおかしい。2大政党制が機能していない。日本が目指したはずの2大政党制が、実は機能しないらしいということが、アメリカ議会で明らかになってきている。下院では共和党が多数党で、オバマ大統領の医療制度改革に反対している。どのような政策でも、全員一致などあり得ないのだから、そこは話し合いによって、両者不満のある妥協案で進めるのが民主主義である。その民主主義が最もうまく機能すると言われたのが、2大政党制の議会制度ということになっていた。ところが、国の財政が破たんするまで揉めてしまい。話が付かないという事態に立ち至っている。デフォルトといえば、ギリシャとアメリカが同じということになる。アメリカが世界一の経済大国であることは明らかなのだから、両党の議員の国民向けのパフォーマンスが、引くに引けなくなっているに過ぎない。民主主義政治の基本である、妥協することが出来ない。オバマ氏が登場した頃指し示した方向が、すっかり輝きを失っている。

日本も2大政党制に向けて、小選挙区制に変更した。そして期待を集め民主党が政権をとった。しかし未熟な政党であったために、2大政党制の悪い面だけを引き出し、決断力が失われた。その結果、今後30年くらいは、自民党政権が肥大化したまま続きそうな気配だ。これは55年体制の逆戻りであり、実態としてはさらにひどい事態になってしまった。悪いものと、もっと悪いものは入れ替わることはあるのだろうか。それでも中選挙区制であれば、同じ自民党内でも、意見の違う議員の存在がある程度可能であった。農業系議員と、土木系議員が同じ選挙区内にいる場合が多かった。加えて、鳩派とか呼ばれる民主的議員も自民党内に存在が許された。ところが、小泉劇場の頃から、党内の異分子排除になった。自民党長期政権への絶望感のようなものが、国民に次第に政治への期待感を減じていった。

2大政党制こそ可能性のある政治形態だと言うことになった。選挙制度改悪が行われ、小選挙区制となる。これが民主党政権への期待感を抱かすものとなり、能力があるなしではなく、チェンジ、チェンジでともかく変わることの方が、重要ということになってしまった。民主党政権は能力がなかった。特に官僚から見放され、経済政策で行き詰まる。当分、自民党から政権が変わることはないと考えた方がいい。今の選挙制度の中で、能力のある野党が育つとは思われない。様々な野党が、少数勢力として分散して存在はするが、政権を担当するような能力は育ちようがない。自民党政権がさらに強化されてゆくことだろう。その自民党自体が、小選挙区制により、新陳代謝を失い、世襲制党の性格をさらに強めてゆくことになる。腐敗の権力構造が待っている。こうして、日本の政治の劣化がさらに進むと予測される。これは中選挙区制によって出来た、過去の自民党政権とは本質的に異なる事態なのだ。ある意味独裁的政権に育つ可能性がある。

そんな分析をしていてもはじまらないことで、どうこの事態を解きほぐすかである。一番は自民党の中に、日本のことを本当に心配している善良な部分があり、自浄作業を開始し、小選挙区制をやめさせることが出来るかではないか。自民党内の多様性の確保こそ、現実の日本政治においては、期待されるところではないだろうか。中選挙区制の3人区があり、2人が自民党で、一人が野党であったとしても、今の状態よりは良いはずだ。自民党では小泉元首相が一人、脱原発への政策転換を主張している。これに対して、政府の態度が鼻でせせら笑うような、不愉快な発言である。まっとうな議論を嫌えば、民主主義は成立しない。自民党内にも存在するはずの脱原発派は発言で応ずることが出来ない。脱原発議論をすれば、干されることが目に見えているからだ。こんな政党のままで国が良くなる訳がない。諸悪の根源は小選挙区制である。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大島豪雨災害

2013-10-18 04:22:24 | 地域
大島で大変な豪雨災害が起きてしまった。現在も救助が続いている。大島で起きたことは、他人事ではない。私の住んでいる、久野舟原は豪雨災害の危険地域と指定されている。大島も火山で出来た島だが、久野地区も箱根の火山の東斜面地域である。土壌が流れやすい可能性は高いと考えなければならない。実際に斜面では土砂崩れの跡が何箇所かある。関東大震災の際には、崩れた場所もかなりあったということだ。最近のように過去に例のない豪雨が降れば、大変な土石流災害が起こる可能性は高い。少なくともそのつもりで、準備をしておく必要がある。今回の大島豪雨では避難勧告も、指示なかった。その理由について、大島町では、夜中の2時になって、避難を呼びかけても、豪雨の中危険と判断したということらしい。日頃から、住民には自己判断、自治会による判断を呼び掛けていた。こう説明した。しかも、町長、副町長の両者が同時に主張中のことだ。多くの自治体がこのようなものだと考えた方がいい。

舟原の土砂災害危険地区に指定されたレッドゾーンの公民館に、一時避難場所が小田原市より指定されている。先日来、自治会長と小田原市との話し合いで、他に移動することは見えてきたようだ。事情を知らないで、一時避難場所に避難して、災害にあわれた場合、その責任はどこになるのかと、県土木の担当に質問した。小田原市にあるのだろうが、自治会にも一定の範囲で責任が及ぶかもしれないと言われた。その意味で、私は今回の雨でも不安で仕方がなかった。大島での豪雨は何と4時間で300ミリ。6時間雨量549.5ミリ。 12時間では800ミリを超える雨量であった。この雨が台風の進路と、気圧配置の関係で小田原に起こる可能性がないとは言えなかった。大島の方々には、本当に不運なことであったが、小田原でも他人事ではない。問題は、状況を判断する材料が、大島町にはなかったということである。以前から川の氾濫があったという川には水位計も、雨量計もなかった上に、土砂災害に関する監視カメラもなかった。

26号台風は3日ほど前には、関東沿岸に向かっていることは、明らかなことだった。気象庁も繰り返し発表していた。それではどう対処すべきであったか。まず台風当日は、警察、消防、担当行政職員は各持ち場に待機している。そして、気象庁と情報を交換しながら、住民が動ける時間の間に最終決断をする。土砂災害が起きた時間が、2時過ぎのようだ。2時には職員が役場集まり相談をしたが、あまりの豪雨で避難指示を出しそびれたようだ。徐々に雨が強まる傾向の判断は12時ごろには、かなりの精度で出来る状況だった。12時が最終判断をすべき時間だろう。私はアメダスの情報。久野川上流部の雨の変化。川の水位の変化。これらを見較べて、又外の様子を見て、小田原は今回は大丈夫との判断をした。もし危ないということであれば、まだ移動できる状態の間に、避難するつもりだった。

こうした判断を、自治会でも行うということを、一瞬のテレビではっきりしないことであるが、大島町役場の方の発言があったように思う。これは私にはできないことである。そこまでの情報を住民として把握できる状況ではない。住民の自主判断をお願いする。こんな言い方は止めた方がいい。行政が出来ない判断を、何故住民には可能なのか。沢からの水、聞きなれない音。こういうものを消防なり、警察なりに報告することはできるが、それを持って住民自身が避難を呼びかけまでは、無理なことではないか。今やれることは行政として、避難指示を出すまでの情報収集能力を高める、人の配置、機器の整備をすることだ。指摘するまで、小田原市の防災課では、久野川の雨量計の位置すら把握していなかった。現状では避難指示を期待することは無理としても、避難準備情報は早めに出すことだ。そして、日頃危ないと感じている人は、自主避難を自身の判断で心掛ける。もちろん、安全なところに一時避難場所を決めることが先決であるが。

その後の報道情報の追記
土砂災害警戒情報は土砂災害の危険が高まった場合、各自治体へ発令される。大島町には土砂崩れが発生する前日の十五日午後六時五分、都から町役場に警戒情報が出たことを伝えるファクスが送られていた。町総務課は町民に伝えなかった理由について「伊豆大島全体に警戒情報を出されても、どの地域を避難させればいいか分からないから」と釈明している。

気象庁と都が発令した「土砂災害警戒情報」に、町が約六時間にわたって気付いていなかったことが十八日、分かった。都が送ったファクスに町職員が誰も気付かず、放置されていた。町のずさんな態勢が厳しく問われそうだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする