地場・旬・自給

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越冬トマト

2015-12-31 04:46:13 | 自給

前部分は巻き上げ式になっている。

小さなビニールハウスがある。1間の3間だから、6畳ほどという事になる。北側と東側には自然石の擁壁が積まれている。その石垣を利用して作ったハウスである。西側に家があり、箱根からの吹きおろしを遮っている。陽だまりである。上の畑のおばあさんによると、こういう地形を屏風というのだそうだ。作物が良くできる場所として貴重な畑の地形だそうだ。その屏風型のビニールハウスを作った。ハウス内の石垣の石が昼間の熱を蓄熱してくれて、朝までいくらか暖かさが残っている。だからよく猫が中で寝ている。ハウスの中には踏み込み温床もある。踏み込み温床は2酸化炭素も発生するし、堆肥もできるので、冬のハウスには必需品である。12月初めに落ち葉を集めてきた。踏み込み温床の設置である。貯めてあった蕎麦の糠と混ぜて、濡らしながら積み上げてある。

一本のトマトで赤くなった16個のトマト。まだまだ青いトマトがなっている。

この小さなハウスにはいつもトマトがある。越冬トマトである。自然の成り行きなので刈れてしまう年もある。越冬できる年もある。今年は12月でもまだ実が赤らんでくる。品種は桃太郎である。いつもはミニトマトを越冬トマトとして1本残すのだが、今年は間違って、切ってしまったので、桃太郎が残っているのだ。トマトができるというのは、10段まで取れることだと、織座農園の窪川さんから言われたことがある。10段採れたことは過去1回しかない。その1回は窪川さんから頂いた苗を育てた時のことだ。野外で育ててのことだから、品種と苗の違いがいかに大きいかと痛感する。それでも今年の桃太郎は何とか、6段か7段まで採れて、そのあと放任にした。その方が寒くなってから強いような気がする。ぼつぼつ実が赤くなる。実を食べるというより、冬を乗り切れないかの方を楽しみにしている。青いままのトマトはかなりなるので、これでトマトスープを作る。

屋根はアクリルの塩ビ版で張ってある。結局この方が長持ちする。

ハウスには、青物がまかれている。小松菜は冬の間もそれなりに成長するので、毎年お雑煮に入れることにしている。後はニラである。これはハウスを作って以来根付いて頑張ってくれている。自給にはビニールハウスがあるとずいぶん便利なのだ。春になれば、ここで苗を作る。積んである堆肥を積みなおしながら、90センチ角の踏み込み温床をつくる。その上に苗箱を並べて管理をする。夏野菜の苗がそれなりにできる。

こんな感じで、赤いトマトが実っている。今年の暖冬が影響していると思うが、トマトは加温なしでも越冬することは何度かある。翌年上手くゆけばこの枝を差し芽して、株を増やすこともできる。そうすれば苗作りなしの越冬トマトである。自給農業では、小さいビニールハウスがあると実に多様性が確保される。ビニールは使わない、というこだわりのある人には許しがたいことだろうが、ビニールを大切に使えば問題はないと考えている。一枚のビニールを5年は使わなければだめだ。今日は大みそかである。あちこちの片づけをしよう。

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韓国の和解

2015-12-30 04:13:47 | Peace Cafe

韓国と日本が従軍慰安婦問題で、政府レベルでの和解を果たした。国民こぞって和解に進むように対応しなければならない。決断した安倍政権を評価したい。安倍政権ができて以来、日本は軍国主義化の道を進み、絶望的な気分に陥ることが多かった。今回の従軍慰安婦問題の政府の対応は正しく、勇気ある判断だ。安倍氏が個人的な思いを乗り越え、日本という国の正しい方向を選択できたことを、心より喜び評価したい。歴史の方角というものは、一政権の思惑では代えがたいという事を意味しているようだ。隣国である韓国と良い関係を作り上げるという事は、政府の外交政策の根幹となってほしい。これから、世界はさらに厳しい冬の時代を迎えると考えておく必要がある。隣国と良い関係を作ることは、吹きすさぶ暴風に耐え上で重要なことになる。それは中国を仮想敵国とする日本政府の間違った方角を修正してゆく上で、重要な要素になるはずである。

日本政府が、河野談話を引き継ぎ、軍の関与を認めたことは重要である。そして、政府として反省に基づき、10億円の基金を提供することを決めたことも一歩前進である。隣国との関係が好転すれば、互いの利益はそれどころではない。日本政府は、従軍慰安婦問題における反省を基盤として、揺るがない姿勢で約束を貫かねばならない。ドイツにおける100万人の難民受け入れのNPOの代表の方が、ナチスのユダヤ人虐殺の歴史を踏まえれば、ドイツ人として当然のことだと発言していた。そこには負の歴史に正面から向き合う姿勢が感じられた。日本がアジアで行った侵略戦争に対して、弁解じみた解釈をする人がいることは、実に残念である。今回も、つまらない発言をして、問題の解決を邪魔しないことを願う。靖国神社に固執して、戦没者国立墓苑を作ることすらできないでいる政府はここでも政策の転換を図ることだ。そうした、歴史のゆがんだ解釈では世界に通用しないという事が現実なのだ。

中国に対して、侵略戦争を行った事実をゆがめた解釈でごまかそうという姿勢も、結局は歴史の前には、ごまかしは効かない。。南京の大虐殺の人数が違うというようなことをいくら主張しても、戦争において市民に対する殺戮があったという事実の前には、空しいことなのだ。歴史にはさまざまな解釈があるだろう。しかし、未来志向から歴史を見るとすれば、反省し、弁解をしない姿勢こそ、負の歴史に向かい合う姿勢である。世界に暴風が吹き荒れる原因は、資本主義経済の限界からくる。行き過ぎた競争の原理が世界のゆがみを深刻なものにしている。今後世界全体の格差は、さらに深刻化するに違いない。豊かな国であるアメリカにおいてすら、貧困の問題が深刻に存在する。豊かになるためには、競争が必要で、競争の結果弱者が踏みにじられても、それは弱者の自己責任とされる資本主義の正義。能力がなければ貧困に陥ることはやむ得ないという、自己責任の価値観では乗り越えられないものがある。

韓国には反日感情が強く存在するだろう。今回も、きっと反政府的な動きも表面化する。それに挑発されてはならない。韓国政府が日本以上に国民の反発を買うであろう選択をした原因は中国の経済的環境の変化だ。韓国は中国との接近で経済の進展を目指した。しかし、中国の経済は危うさを見せ始めた。韓国にしても中国一辺倒の危険を強く感じ始めたはずだ。アメリカの韓国への中国政策転換の圧力も強まった。北朝鮮の中国に対する態度も不穏な動向が見られる。中国がこれからアジアの不安定要素になる。韓国の経済展望が政策転換のきっかけである。今後の世界経済の変化には多様性がなければ乗り越えられないという事になる。安倍政権には対中国政策の転換が求められる。アメリカの軍事同盟をいくら頼りにしたところで、アメリカが頭越しに中国との関係を変えるに違いない。後ろ盾の方が変化したとき、日本がどうなるかを考えておく必要がある。

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柿渋染め筒袖

2015-12-29 04:08:48 | 自給

柿渋染めの筒袖である。正絹の白の着物をただ同然で購入した。裾模様として、汕頭の刺繍があった。刺繍部分を袋物の材料にしようと、切り落としてしまい。上部の白い着物を筒袖にした。縫い直しは少し難しくて、自分ではやり切れないので、カヨ子さんがやってくれた。そして、柿渋染めにした。7回繰り返して染めて、気に入った色になった。柿渋液を10倍ほどに薄めて、そのまま漬け込んで置く。そして引き上げて日光に晒す。乾いたら、洗濯機で水洗いして、良く絞って、また、柿渋液に付け込む。そして日光にさらす。一回ごとに徐々に色が濃くなってゆく。たぶん、写真よりもう少し濃い感じである。少し迫力のある色彩になった。何ともいい色になった。

なかなかうまく映らないものだが、色むらがなかなかいい。同時に白の結城紬の布も染めたのだが、なかなかいいものである。これは、種袋にするつもりだ。「麦種」とか墨で書くつもりだ。実用なのかと言われると疑問点はあるが、墨の色と柿渋が合うようなのだ。まず、正月明けの書初めで、柿渋染めの布に、「東海晴西山雲と」いうのを一枚。もう一枚が、「立春大吉」と書くつもりだ。書いて玄関に掲げておく。別段意味があるわけではないが、毎年の習慣である。柿渋染めにははまっている。時間が出来たら次の染に入るつもりだ。

 

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踏み込み温床の作り方

2015-12-28 04:50:55 | 自給

 踏み込み温床は毎年12月初めに作る。まず落ち葉を集めるところからである。踏み込み温床に関しては、草堆肥ではなく落ち葉堆肥にしている。それの方が温度が長く持つようである。落ち葉集めをするのは、12月初めと決めている。最近は12月でも葉が落ち切っていないことがあって、もう少し遅らせるかなど毎年考える。暮れが迫ってからではせわしい気がして、12月に入るとやる気になる。自給仕事はやる気になった時にやらなければできない。落ち葉を集めているのを人に見られると、笑われるような事が気がする。それくらい農家の人はやらないことになった。踏み込み温床を笑う人はいつか大きな見落としに気づくのではないだろうか。踏み込み温床はそれくらい大切な作業だとおもっている。3つの価値がある。ビニールハウスの状態がよくなる。温床で育てた苗は丈夫である。出来た堆肥を苗土に混ぜると、とても有効である。

まずは落ち葉を集める場所の目星である。最近集める人がいくらか増えたとはいえ、到底集めきれないほど山にはよい場所がある。落ち葉が堆肥化している場所を探すことだ。ここ数年の落ち葉が溜まっているような場所を探しておく。落葉樹の林が条件。そして、吹き溜まりのような窪地を見つける。誰かの山なのだとは思うので、道の隅などで取ることにしている。但し車のめったに通らない道である。そんな場所が舟原から車で10分以内に10か所はある。今年はあそこかと行けば、わくわくするほどの宝庫がある。たぶん釣りをやる人の気持ちと同じだろう。これほど貴重なものを自然から頂けるという喜びである。落ち葉堆肥ほど素晴らしいものはないと思う。軽トラに一杯積み込む。800リットルの袋に、12,3袋である。完全に堆肥化したところから、今年落ちた枯葉まで混ざっている。重さにして、40キロ詰めぐらいだろうか。500キロにはなるから、軽トラの積載量違反である。と言っても、さしたる量ではない、一坪の場所に空けるのだが、1メートルにはならない。

作り方は簡単である。回りに枠を置いて、その中に、落ち葉と蕎麦の糠とを交互に入れてゆく。落ち葉が乾いていたなら、水を足しながらやる。最初に積み込むときは、踏み込み温床と言っても、踏み込まない。ただ積み上げておくだけである。これで1週間もすれば結構暖かくなる。そのまま1か月ぐらいは置いておく。1月の後半あたりで、再度積みなおす。この時は、しっかりと踏みつけながら、もう一度そばぬかと、落ち葉を足してゆく。水も加えてしっかりと踏み込む。そして1週間もすれば熱が出てくるので、その上に苗箱を並べる。種の芽が出るまではビニールをかぶせておく。熱は2か月くらいは保てる。このやり方は、鶏の育雛にも使う。雛を踏み込み温床の上で育てる。この場合、雛の上から側面からも熱が来るように、全体を落ち葉堆肥で囲ってやるようにする。ガスが出て雛がおかしくなるようなことは一度もない。

踏み込み温床は熱と2酸化炭素が出る。これが冬の間のハウスの植物の少しの足しになる。そして、春になったら又落ち葉を足して積みなおし、苗床にする。こうして作った苗は丈夫なのだ。トマトや、ナスのような温度のいる苗も加温なしに結構できる。むしろ陽射しで苗がやられたことがある。また放射冷却で外より寒くなると言われることもあるが、石の壁の蓄熱の為か、ハウス全体でも5度より下がることはない。踏み込み温床の中は、15度以下にはならないと思う。中には、熱帯性の植物や、柑橘類が置いてあるが、弱ることはあるが枯れることはない。年によってだが、トマトは越冬もする。今年は暖冬の成果、桃太郎が元気に実を赤くしている。

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木製太鼓を作る

2015-12-27 04:20:03 | 自給

木を敲く音が好きだ。子供のころ、木魚で遊んだ体験から来ているようだ。向昌院の本堂には古い朱塗りの木魚があった。8寸ぐらい有る物だったと思う。お寺にあるものとしては大きなものではない。朱塗りの漆が赤黒く変色をしていて、あちこちがはげ落ちていた。それでも貧乏寺にとっては貴重な仏具であった。むやみに遊んではならないとされていた。叩いて鳴らす、ポクポクという響きは乾いた木の木霊のようで他にはない音である。子供の気持ちをいやす心地よいものなので、何の意味もなくたたいていて遊んだ。あの懐かしい音を自分で作りだしてみたいと、ときどき思い浮かぶ。特に木の塊を見ると、ついくりぬいたらいい音がするのではないかと、想像を巡らせてしまう。昨年の冬に森林組合にあった、欅の羽材中に10センチくらいの穴なら刳りぬけるぐらいのきれっぱしがあった。貰ってすぐに穴だけは空けた。すぐにやらないと割れるからだ。中を空洞にしてしまえば割れにくい。

本来、木魚は楠で作るようだ。楠の方が彫りやすいし、柔らかな木だから音も柔らかに響く。しかし、何故か楠より欅の方が好みの木なのだ。アメリカの原住民たちの考えていた、マザートゥリ―という物ではないかと考えている。欅の木を抱きかかえて静かにしていると、心がとても落ち着く。木目の硬さがいい。叩いた時の音も少し硬くなるのだが、硬い音を上手く操作したら、さらに良い音にならないかとつい考えてしまう。木琴は堅木の紫檀などが使われている。硬いものを上手く加工すれば、面白い音になるはずだ。木魚の構造は中空である。木琴は木が浮かされて置かれている。この中間型を考えたらどうか。つまり、中空の上部の板に切り込みを入れて、板がある程度浮いた状態になった場合の音の変化である。ウッドドラムは板で樽のような箱を作り、四角も丸もあるが、上部に切れ目のある板を張る。もちろん全く切れ目を入れないで、薄い板を張る物もある。

私が作ろうとしているものは、スリットドラムとか、タングドラムとか言いうものらしい。木の塊は木魚のようにすでに中空になっていて、それなりの音がするようにはなっているので、さらにこれに切り込みを入れるのはかなり迷った。2本のスリットを入れて中央部分を切り離し、左右から舌が突きだした形にしてみたのだが、案外音の変化がない。板の厚みや、空洞の形が影響するようだ。微妙に厚さや隙間を変えているうちに、以前のスリットのない時とは、全く違った響きが現れた。これは面白い。何か、振動で共振が起こるようだ。叩く場所でも大きな変化が表れるようになった。ただこの音を上手くつなげるには、演奏技術が必要なようだ。リズム音痴という事もあるので、音楽に合わせて叩くということは出来ないが、静かにたたいていると気分がよくなる。なって響いた音より、わずかな余韻の違いの方が面白い。アフリカのジャンベのCDに勝手に合わせて敲いていると、なんとなくその気になる。

今度はボックス型の物を作る予定である。上部の板にスリットを4本入れて、3本の下を工夫する予定である。板は、昔から保存してある、縞黒檀を使うつもりだ。木の幅が18センチくらいで一部割れている。厚みは、1センチくらい。ボックスの方は、加工の簡単な木でやってみたい。上部板に線を入れるのは糸のこでないとだめなので、どこか加工所を借りてやってみたいと考えている。以前は県の工業試験所でやらせてもらえたが。写真はボックス型の試作品。三角型のベロを一つのものだ。回りは杉材である。そこは塞いでない。舌の厚さを調整して、音を徐々に整えている。上板の材料はさくらである。厚さは25ミリある。少し、厚過ぎるので舌の中を丸るくへこませてある。まだ調整中である。仕上げとしては、全体をもう少し黒っぽく仕上げるつもりだ。底の浮かせ方も音に影響するのだが、なぜ、タングボンゴが底まで閉じてあるのかまだわからない。

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緑肥実証圃場の中間報告

2015-12-26 04:12:49 | 自給

舟原田んぼの大麦とヘヤリーベッチの様子。12月22日

田んぼの緑肥作物の実証実験を続けている。7か所の田んぼ、1、18ヘクタールの面積である。

播種は10月中に大体の田んぼが行った。耕した田んぼ。そのまま播種した田んぼ。覆土した田んぼも、藁をかけ田んぼもある。

12月10日現在の、緑肥の発芽状況を記録しておく。

欠ノ上の8番田んぼの緑肥の様子。

1、欠ノ上田んぼ30アール

秋起こしを行い、緑肥種を蒔き、覆土して、藁を上から全体に敷いた。よく発芽している。日陰の田んぼでは大麦の発芽が悪い。ヘヤリーベッチは日陰でも、影響なく成長している。クローバー、レンゲの発芽は適度な水分の条件に左右される。

クローバーの発芽。

2、舟原田んぼ20アール

大麦をすじまきにしたものが、15センチくらいに伸びて、生育が見事である。バラ蒔きにおいても、覆土した場所の方が発芽良い。赤クローバーなども一番の成長である。秋起こしを行い、緑肥種を播種している。

欠ノ上のレンゲの発芽

3、山室さん田んぼ3アール

菜の花とレンゲが発芽している。まだ成長は初期段階。発芽時期が少し遅いと初期成長に大きな差が出る。播種は稲刈り後早いほど良いようだ。

舟原の赤クローバー

4、子の神田んぼ10アール

吉宮さんの田んぼは、耕さず、ヘヤリーベッチと大麦が発芽している。発芽した麦が、なぜか白化している。多分一番日照が少なく、又寒い田んぼなのでは仲い。岡本さんの畑ではヘヤリーベッチがよく発芽していて、敷き藁の効果がみられる。敷き藁は、12月の段階でかなり腐食が進んでいる。漉き込みを考えるとやはりこの方法は悪くない。

5、坊所田んぼ相馬さん20アール

レンゲが発芽しているが、入水側では発芽がなく、何か菜の花のような草が密生している。水の条件が影響しているのかもしれない。

6、新永塚田んぼ20アール

ヘヤリーベッチがそこそこ発芽している。しかし、日照の条件は良く、しかも暖かい場所であるのだが、意外に成長が遅れているのは、たぶん播種時期の影響が色強く出るのだろう。

7、永塚田んぼ15アール

レンゲがよく発芽している。やはり耕運して蒔いたとしても発芽は悪くない。秋起こしをしてはいけないという事はないようだ。水分条件の影響が強いので、耕した場合覆土しなければ、発芽が悪くなるだろう。

8、石綿さんの田んぼ(比較参考)

レンゲを耕さずそのまま播種している。よく発芽していた。

〇全体の感想

今年の11月12月雨が多いい、暖かい日が続いた。緑肥の発芽には条件の良い年であったと思われる。石綿さんによると耕さず播種することがレンゲの発芽は良いと言われていた。これは、水分量の問題なのだろう。また、ヘヤリーベッチの発芽の良さ、成長の良さが目立つ。大麦に関しては、意外に播種方法の影響、日照不足が目立ち、栽培方法によって影響の出るようだ。レンゲとクローバーはそれなりにどこでも発芽したが、今後違いが出てくるのかどうか、気になるところ出る。菜の花を蒔いたところでは肥料不足の感じがする。このままではそれほどの乾燥重量は期待できないのではないか。

 

合計、118アール

〇緑肥の種類は、

1、大麦 

2、ヘヤリーベッチ 

3、レンゲ 

4、クローバー クリムソンクローバーと赤クローバー

5、菜の花

 

 

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自給力

2015-12-25 04:26:13 | 自給

自給は出来る人とできない人がいる。残念ながら自給は誰れにでもできる、とまでは言えない。簡単なことなので、何故できないのだろうと思っていた。結局のところ自給が好きかどうかだった。好きこそものの上手なれで、自給の工夫が面白くて、あれこれやりたくてしょうがない。先日も塩は自給しているのですかという質問を受けて、残念ながらやっていないと、やる寸前までいって、原発事故で海が放射能汚染してしまいやる気にならなくなってしまった。と話しながら一度はやってみたかったと思い出した。塩の自給はどうすれば誰にでもできるやり方があるか、というようなことを考えていると、妄想が限りなく広がる。夢物語であるのだが、そんなことを考えること自体が面白くて仕方がない。自給農業が広がってもらいたいとすれば、どうすれば自給力が高まるのか。具体的な自給力向上方法を提案しなければならない。

第一は確かに体力である。私の現在の体力では始めることは出来ない。すでに軌道に乗って維持の段階に入っているので、まだ大丈夫だが、年々きつくなっている自覚がある。体力については、農作業を体力増進法だと思って毎日やることだ。どんな健康法でも続けられるかどうかなのだが、自給農業を一年継続してやれば、体力のない人でも体力がついてくる。農作業の体力は、持久力の方だ。楽しく一日働くには疲れない身体が基本である。

第二は物を見抜く眼力である。目に映るという事と、物を見るという事は違う。物をよく見るという事は、なかなか難しいことだ。同じものを見て、そこにある兆候を読み取れるかどうかである。だから、明日の天気がわかる人かどうかと言っている。情報は山ほどある、その集め方を知らなければだめだろう。そして、その地域性とあたりの様子で、明日の天気を予測しなければならない。明日の天気予報の確率が高い人ならば、作物のこの後の展開も読める。作物の去年との違いを見抜いて、記憶できるかどうかである。

第三は科学的な思考力である。近代科学の成果を十分に利用できる人である。江戸時代の自給方法を近代科学の目で、組み立てなおせる人である。自然農法は、科学的でなければならない。自然を分析する科学的な思考を持たなければならない。それは近代農法以上に自然を熟知しなければ、自給農法は出来ないという事である。自然農法はとかく妄想にとらわれ、たまたま起きたことを神の力にしがちなものだ。どれほどの不思議でも、必ず科学的根拠があるので、徹底した探求の科学思考をしなければならない。

第四が妥協力である。諦めが肝心という事だ。諦めとは明らかにして理解すればいいという事だ。自給農業は失敗から学んでゆくようなものだ。ダメだったとという中に、より多くの真実が隠れている。上手くいったときが偶然の産物という事もある。失敗でめげる。自給の食べ物以外は食べないとルールを決めてやってきたのだが、平気でそのルールを破って外食をしている。原則にこだわる人には、案外に自給は出来ない。機械力を上手く取り入れるのも妥協ではあるが、こだわらないことだ。

そして、最後に自給力の一番は自給が好きという事になる。問題は好きになるには、やってみなければわからない。思い込みで初めて見たら、案外に本当に好きになってしまった気がする。山梨の山奥で自給の山寺で育った経験から、農作業は嫌でつらいものであった。それが観点を変えたらば、不思議に好きになってしまった。人間好きなことを見つけられれば、半分はやれたようなものだ。絵も好きだし、三線も好きだ。鶏も、犬も、猫も好きだ。自給も面白くて、今ではやらないと我慢できない。何とか生きていられれば、好きでない他のことはどうでもいいことになる。絵が好きだから、自分の絵を描きたくて自給生活に入った。そして自給の工夫が面白くてたまらなくなった。

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果樹の作り方

2015-12-24 04:12:17 | 自給

自給生活には何本かの果樹があるといい。中でも梅と柿と枇杷はなくてはならないとおもっている。果樹は仕立てるまで時間がかかるものだし、移動も簡単ではないので、長期的な農園の構想のものとに、植えなければならない。それがまた、農園全体の将来構想にもなる。品種の選択も十分検討をして自分に必要な果樹を選ばなければならない。苗の種類探しも簡単にはあきらめないで、いろいろのつてをたどり、気に入った苗を手に入れる必要がある。一度植え付けてしまえば、生涯行動を共にするようなものだから、まあ、仮植という事で、やってしまうと後で悲しいことになる。次に必要な果樹は柑橘類を一種。クリ、ブルーベリー、プラムとか杏も作りやすいのであるといい。ブドウや桃やリンゴ、サクランボ、イチジクとなると栽培に気お使わなければならないので考え物である。

まず、柿が一番だと思う。日本の気候に合っているので、栽培は放任で問題がない。柿が赤くなると医者が青くなると言われる。柿は人間の体にも良い果樹である。もちろん赤くなって生食するというのが一番普通であろうが、干し柿にするという食べ方もある。干し柿は甘味料として使われたくらいの甘さがある。干し柿を毎日一つ食べるという健康法もある位だ。熟柿もなかなかの食べ方だ。これを冷凍保存して、シャーベットのように食べるのもいい。柿酢を作る事もできる。さらに青柿で作る柿渋は、柱や床に塗れば、建物の保護材になる。柿渋で布を染めればこれまた、素晴らしい染色ができる。となると、むしろ甘柿より、渋柿の方が良いという事になる。渋柿は寒さにも強いし、さらに丈夫だ。ハクビシンにも食べられない。有用かつ美しい樹木である。簡単に渋抜きは出来る。渋抜きした柿の方が好きだという人もいる。私は富士という品種の渋柿を植えている。

次に、必要だと思うのが枇杷である。枇杷は冬実る果樹である。独特の個性があり、薬効が高い。葉をお茶にするのは柿と同様である。枇杷葉は古い葉を使う。これを煎じて飲むと、なかなかいいものである。健康茶筆頭ではないだろうか。寒いところではできないのだろうが、山北の360メートルでもよく出来たので、耐寒性はそこそこある。何の世話もいらないが、とどんどん背丈が伸びるので、高さ制限は必要だろう。枇杷は6本も植えてあるのだが、枇杷葉シップで、肋間神経痛の時にお世話になったので、枇杷には感謝の気持ちがあり、身近においておくと安心感がある。枇杷の実は、ジャム、シロップ漬け、焼酎付け、といろいろに使える。もちろん生食が一番おいしい。先日頂いた、枇杷の種の杏仁豆腐は絶品であった。

そして、梅である。梅酒が好きだという事がある。梅酒は砂糖を入れるから体に良くないという人がいるが、私には必需品の健康酒である。梅酒を壺屋焼きの甕に付け込んで、古酒にする。時間をかけて熟成させることで、さらに体に良いお酒になる。もちろん熟成されて味も最高のものになる。古くなった梅酒は味が落ちるという人もいるが、良い保存をして熟成させれば、20年物こそ最高の味である。梅は南高梅が良いと考えている。果実が大きいし、作りやすい。梅酒に一年漬け込んだ梅を、そのあと梅ジャムにする。2段活用だが、気に入っているジャムだ。

いろいろ果樹はあるのだが、ともかくこの3種があればと思っている。栽培法は堆肥で根回りを常に覆っておくという事だけはする。カミキリムシに入られることがあるので、防虫のテープはいいかと思うがまだやったことはないが、何とかなっている。果樹にいくら堆肥を与えたとしても、枯れるような心配はない。葉色に十分の緑がなければ、弱ってきている証拠である。熱心に堆肥を入れてやれば、果樹は活力を維持する。果樹というものは、無理をして実をならせている。野生に近い品種であれば、ほどほどの堆肥で健康を保てるが、今の栽培品種は実を多くならせ、また糖分を高めているから、病気になりやす物なのだと思う。

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醤油絞り

2015-12-23 04:04:10 | 自給

醤油を絞った、2013年の2月に仕込んだ醤油の残り半分である。2年9ヵ月物となる。2升三合になった。これを来年の前半で使い、又次の物を絞ることになるのだろう。使っているのは大体3年仕込みの醤油の繰り返しという事になる。発酵が進んでいて、とても気に入っている。これさえあればという感じである。不思議な味の充実が湧いてくる。これが自給の醍醐味という事だと思う。

絞り方は簡単なもので、鍋の上にステンレスのざるを置いて、そこに仕込んだ醤油の塊を入れる。一昼夜置いておき、その絞ったものが、醤油である。だから、この絞り方は、滴り落ちるだけの絞り方で、圧力をかけて絞り切る方法と比べて、とても贅沢な絞り方なのだと思う。完全に絞ればもう1升は取れるはずである。それはとても道具立てが大変だと思う。昔は醤油屋さんが来てくれるところだ。今は醤油絞りをされる方があしがら地方には一軒もないので、自分で絞るしかないのだ。そのために一度は醤油づくりをあきらめていた。いろいろ試行錯誤した末に、今の方法にたどり着いた。味も気に入っているのでこの絞り方で満足している。

このやり方では、搾りかすに価値がある。この搾りかすを有効に使えれば、絞り切らない醤油麹の良さが出てくると考えている。塩麹があるのだから、醤油麹は価値があると思う。今やっているのが、搾りかすに米麹を混ぜて寝かせて、金山寺味噌の素を作ることである。すでに2013年の前半のものは麹と混ぜて寝かせてある。以前は、搾りかすに直接野菜を漬け込んで、醤油漬け野菜のような、醤油麹漬けというものを作っていた。しかしこの方法だと、漬け込む時間の割に、しょっぱくなることとがあった。甘みもぬか漬けより出にくい感じもした。そこで金山寺味噌の作り方を参考に、醤油麹を一段甘いものにするために、同量の米麹と漬け込んだのだ。半年は待ちたいので、試作品しかやってみていないが、相当に期待できると考えている。内心農の会名物にできるぐらいのものにならないかと、期待しているのだが。

自給農業では野菜は作りやす物、作りやすい時期に固まりがちである。これを上手く延ばして使えれば、楽だし変化が出る。夏野菜を塩漬けにしておいて、必要な時に、醤油麹漬けにすると、一年中野菜が楽しめるのではないかという考えだ。以前から、醤油麹の一夜漬けは良くやっているのだが、これをもう少し進めて、米麹を加えたらどうなるかである。コメ、麦、大豆を発酵熟成させたものだから、面白いものができるはずだと思っている。今年の味噌づくりの時の一品持ち寄りはこれに決めている。

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資本主義のギャンブル性

2015-12-22 04:01:35 | Peace Cafe

日本はギャンブル依存症が世界で一番深刻な国だそうだ。厚労省によると、ギャンブル依存症の疑いのある人は、国内で536万人にのぼり、その割合は成人男性で9.6%と、諸外国と比べても突出しいる。背景には「娯楽として日常に広く浸透しているパチンコの存在がある」と指摘されている。一般に外国では依存症は1%台となっている。それにもかかわらず、政府は景気浮揚策として平然とカジノを作ろうとしている。つまり、1割のギャンブル依存症の背景には、ギャンブルを肯定している文化がある。カジノの提案が選挙に悪影響どころか、票集めになると考えているようだ。いわゆる公営ギャンブルの垂れ流し状態である。政府が公的にギャンブルを独占して儲けている胴元なのだ。これではギャンブルに対して倫理的抑止力は働くわけがない。

日本人の倫理観において、不労所得に対する罪悪感が不足している。このことは株式投資にも表れている。政府が公的年金を株式投資をして、株価を高値誘導しようとしている。政府は公営ギャンブルを推進する。金儲けを最高の価値と考えている政府であり、現代の日本文化だと考えるしかない。拝金主義がいつの間にか日本人の共通価値観になりかけている。街の至る所にパチンコ屋というギャンブル場が存在する国になってしまった。こうしてギャンブル依存症の特出した国になってしまった。この現実を悪いことと受け止めなければならないのだが、果たしてどれだけの人が困ったことだと考えているだろうか。わたしも簡単ににギャンブル依存症になる可能性の高い人間である。将棋にはまったこともあったし、ピンボールゲームにはまったこともあった。

最近はコンピューターゲームのプロというものがいるらしい。1億円プレーヤ―が存在するという。将棋でも、囲碁でも、麻雀でもプロがいるのだから、不思議なことではない。これからはどんどんゲームをやらせようという親も登場するかもしれない。好きなことであれば、それに熱中することは別段悪いことではない。それが好きなのであれば仕方がないことだろう。野球選手も、サッカー選手も、おなじである。お金になることが正しい職業であり、間違った道ではないという判断はあるだろう。ゲームばかりしていて困るという親の声はよく聞く。電車の中でもゲームに熱中している大人がいくらでもいる。依存症になるくらいやらなければ、その道のプロにはなれないだろう。ゲーム依存症だから悪いことで、学問の依存症であれば素晴らしいことという事になるのだろうか。

勉強をする動機と目的が、良い会社に入るためというのであれば、別段ゲームも勉強も変わりはない。勉強が学問となり、人間のためになることであるから尊い価値があるのだ。これは農業であれ、絵を描くことであれ同じことのはずだ。政府は国際競争力のないものは価値のない農業のように主張している。日本という国土を守り、地域を守ってきた中山間地農業の価値を、お金にならないから切り捨てるという姿勢である。お金になるからカジノは奨励しようというのだ。人間が暮らすために拝金主義は害悪である。資本主義は拝金主義になりがちなのだ。人間の切磋琢磨する気持ちを競争に変え、より優れた技術を生み出すという事は悪いことではない。問題は資本主義の先にある人間の幸せな暮らしを、きちっと把握しているかだろう。

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産経記者加藤達也氏の恥ずかしさ。

2015-12-21 04:40:07 | Peace Cafe

産経新聞のソウル支局長、加藤達也氏が無罪になった。当然の判決だと記者会見で発言した。恥げもなく顔を出している。どの面下げてとつい顔をまじまじと見てしまった。さすが産経新聞の記者だという顔をされていた。どれだけ産経新聞の記事の信用を落としたか。まあ以前からそうは信用は高くはなかったが。こんな記事を書いてしまって新聞記者として恥ずかしくないのかという事だ。報道の自由などと振りかざす前に、自分の記事のくだらなさが恥ずかしくないのかと、あきれてしまった。そもそも問題の迫り方が、大統領の密会疑惑の噂話という幼稚さだ。新聞記者というより、低俗雑誌の記者という精神なのだろう。産経新聞低俗を公言しているようだった。こうして、自らの尊厳を貶めているのだ。そのことにも気づかず、報道の自由を口にするところが、ますます情けない。がせねた記者が口にするようなことではない。

韓国に報道の自由があるのかという、問題の前に、何故、報道の自由を守るために、自らの記事に責任を持たないかである。報道の自由の背景にある思想は、報道が持たなければならない批判精神である。大本営発表を垂れ流しているだけであれば、報道の自由など考える必要もない。権力から、圧力が加えられるという事は、権力に対して批判精神があるという事だ。自分の思想を持ち、権力が独走し、自由を圧迫し、人間の権利を踏みにじることがないかを、監視してゆくのが報道の役割なのだ。産経新聞はそもそも、韓国のあらさがしをするために、それが政府の望むところだと考えて、提灯記事を書いているのだ。その目的でくだらない記事を書いておいて、慌てて報道の自由を持ち出した。それを慌ててバックアップしたのが、安倍政権である。日本のほかの報道機関も一斉に報道の自由を持ち出したが、一社ぐらい産経新聞の加藤記者ののくだらなさを指摘する報道はないのかと情けない限りである。

自由を守るためには互いの節度が必要である。ブログに対するコメントでも根拠のない誹謗をついでに書く人が多数いる。私と違う考えの人が存在するのは当然である。そうした人と議論することは大切だと考えてきた。ところが議論の前に、根拠のない中傷を書いてしまう人が実に多いい。産経新聞の加藤氏も同様なのだと思う。考えの違う相手が憎いので、考え自体を批判するのでなく、誹謗内容で信用を無くし、考え方の信用を落とそうとする。そのたぐいのコメントは削除している。かかわること自体が無意味だからだ。ところがそういう人に限って、コメントを削除するのは自由な議論を侵害している。正面から議論しないのは、卑劣な行為だと主張する。他所の国の大統領の根拠のない中傷記事を書いてしまった人間など、相手にする必要はない。そんな人間に報道の自由などそもそもないと考えている。

本来であれば、産経新聞の責任者がこの記事の内容に対して、謝罪すべきなのだ。それがすべての始まりである。根拠のない噂話報道をもとに、他国の大統領の誹謗記事を書いたことは、新聞社として間違った行為でしたと謝罪すべきことだ。謝罪をしなければ産経新聞の信用がますます下がるという事だ。ところが記事の内容に関しては、誰も問題にしない。韓国の報道の自由の問題にすり替えてしまった。この姿勢は報道の自由を制限したことになる。つまり自社の記事は、権力の片棒担ぎなので、先頭を切って他国の中傷記事を今後も書かせていただきます。という宣言になってしまった。権力におもねることは簡単なことだ。最近どこの報道機関も権力批判の矛先が鈍ってきている。灰色の霧が立ち込め始めている。おかしいと思うことを書きにくい状況があるのだろう。それは、経営という圧力が考えられる。政府批判をする報道には企業広告を載せるなと自民党には主張する人間がいた。これがボディーブローになっているのだろう。

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傾斜地農業

2015-12-20 04:33:35 | 自給

周囲に家が出来てきた。緩い傾斜があり、この中にも微妙な変化がある。麦が出てきているが、その出方にわずかな違いがみられる。

自給農業の農地は傾斜地の方がむしろ良い。地表には気流が起こり、地中には水の流れが生じるから、傾斜地であることは極めて大切なことになる。動きがあるという事は、そこに力が生じ、作物に何らかの影響がある。この影響を上手く導くことが出来れば、健全な作物が生育することになる。自然の地面にはわずかなうねりがあるものだ。このうねりは何万年の年月によって、環境的に出来上がったものだ。農業をすることで、高いところが低いところに移動することになる。そのわずかな変更が、意外に長く作物の出来に影響する。例えば風によってできた吹き溜まりには、他とは違う蓄積が起きている。当然水もその窪地に集まることになる。水の道というものがある。それは地上ばかりでなく、地中にも存在している。自然によって土壌というものは変化が生まれている。大きな機械力を使わない農業では、このわずかな違いが作物の出来に影響をする。

日照というものが作物の出来に影響を与えることは、目に見えるものだ。電柱一本が畑の作物に変化を与えていることは、見ればわかることだ。畑の傾斜にはある複雑な影響があるが気づきにくい。それは田んぼが平らだと言っても、同様のことで、田んぼ自体がどのような傾斜の中に切られ作られているかという事は、水管理の着目点である。大きな地形というものが、畑には重要なことになる。大規模機械化農業では傾斜地は、不利条件になるのかもしれないが、自給農業においては、緩い傾斜は必要なことである。その傾斜の方向は当然のことながら南向きが良い。そして背景に山があればなおいい。山の方向から、良いものが畑に流れ落ちてくる。山の頂上は良くない。何もたまらない場所で、すべてが下に流れ落ちてしまっている。山の頂上は気も再生しにくい。だからはげ山になりやすい。頂上の木は切ってはならないものだ。

平らに見える斜面であっても、その平らな中に、元は下がっていたというか、水のような地形があるはずだ。平均的に平らな場所などというのはないものだ。水が流れれば、必ず水の道が出来ている。同様に、風が吹けば風の通り道もできている。こういうことは何万年かけてできたことで、それがどんな土壌を作ったかを観察する。古い時代に畑化された場所であれば、土壌の耕作がその自然の作った、土壌の傾斜とどのようにかかわったかを見つけることができる。その変化を読み取ってどうなるという事でもないのだが、作物の出来に何らかの影響を与えていることがある。良くできた原因、ダメだった原因、畑で起こる様々な不思議を解読してゆくヒントになる。畑には不思議に良くない場所というところがあったりする。作りにくい、おかしな草が生える、虫が出やすい、病気が出る、1反の畑でもそこは様々な違いがあり、その違いには何かの原因がある。大したことではないかもしれないが、それを読み解くことあ、自給農業の技術を向上させることになる。

ほうれん草というものがある。酸性土壌ではうまく作れない作物である。これをあちこち場所を変えて撒いてみる。実に出来が違ってくる。石灰を蒔けば土が良くなると一般に言われる。酸性の調和に即効性がある。それは人間の体に即効性のある薬を使うという事と同じだ。当面直るのだけど、原因はよく分からないことになる。また同じことになる。さらに石灰を入れる。こうして土壌は混乱をしてゆく。そこにほうれん草ができないなら、出来るようになるまで、他の物を作り、土壌を育ててゆくことだ。堆肥を使う耕作をしていれば、だんだんにほうれん草ができるようになる。5年はかかるかもしれないが、土壌の調和がとれてきた証拠である。作物は土壌を観察する材料になる。ほうれん草が5年間くらいだめだとしても、もっと得るものがある。

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畑の作り方

2015-12-19 04:22:12 | 自給

私は杉林を畑にした経験があるが、これから畑を作ろうとするものなら、もともと畑だったところで始めた方が良い。たとえそこが山に戻っていたとしても、昔畑だったところの方が、畑を作るにはずっと楽である。一度でも畑になった土は、交錯しやすくなっている。畑の場所を探するなら、日当たりの良い場所である。日当たりは、朝日よりもむしろ西日の方が良い。西日の方が温度があるからである。作物には西日の方が熱を持っていて良い場合が多いい。最近まで畑として使われてきたところを、そのまま借り受けるという事も多いいだろう。そうした場合は、土壌は砂漠化していると考えなければならないことが多い。心配はいらないが、いつまでもそのままの土壌で作物ができるとは考えない方が良い。一般に畑の土壌は腐植質が不足している。作物を育てる要素となる、土が含み込む力に不足している。土壌が水耕栽培の基材として使われる化学繊維のマットと同じようなものになっていると考えておけばいい。

日照のある場所ならば、土壌は育てることできる。それは元杉林であった場所でも同じことで、時間がかかるかどうかという事に過ぎない。畑だったところなら、3年もすればかなりの収穫が見込める。杉林であれば、5年である。いずれにしても、日当たりの悪い場所というものは、何万年も悪い場所なのだ。100年で良くなるというものではない。日当たりの良い場所が見つかったら、まずは誰でもそこにある草や木をどけるだろう。当たり前のことだが、どけるときに、土壌をかく乱させないことである。もし草なら、その場に敷き詰め戻すのが一番だ。その上に、米ぬかのようなものをまき散らしておく。そして、その草がとろけるのを待って、ウネを切って、枯草の間に作物の種を蒔けばいい。平らにしようとして、土を動かすことはできるだけ止めた方が良い。

もし、木が生えていたとしたら、根元から切り倒し、出来るだけ細かくして畑の隅にでも積んでおけばいい。この時米ぬかを混ぜておけば、やはり分解が早まる。残った木の切り株は、そのままにしておいて、その周辺で作物を作ればいい。機械を入れて耕すのであれば、邪魔になるのでどけなければならないが、自給の範囲であるなら、むしろ根を掘り起こす手間暇と、土壌の攪乱を考えれば、そのままで3年もすれば無くなると考えておけばいい。腐ってからどけるのは簡単なことだ。はじめは良い作物は出来ないかもしれない。たぶんおかしな雑草が生えてくることだろう。これを根気よく取り除いて、作物の根元に敷き詰めておく。そして、又米ぬかをまき散らす。もちろんその時に堆肥があれば、堆肥の方が効果が高い。最初に作る作物は、緑肥作物が良い。冬の間ならヘヤリーベッチは土壌を肥えさせるし、雑草との競争にも勝つので、蒔いてみるのもいい。季節によってはもったいないので、土壌をよくする作物を作ればいい。

 良い畑とは、気の流れの有る畑である。良い気流があれば、美しい畑になる。美しい畑で働くのは、気持ちが良い。気持ちが良ければ作業もはかどる。細かなところに目が行く。ゆっくりと観察ができる。苗箱などで苗を作り時間稼ぎをして土を整えて、苗を植えるといい。大豆、麦、玉ねぎ等の苗を植えたとすれば、一番大切なのは、徹底した観察である。その観察から畑の良しあしが見えてくる。麦の種を蒔いたとしたら、同じに出てくるわけではない。畑の場所場所によって違いがある。その違いをゆっくりと観察できる畑でなければならない。自分の美しいを目標に、畑を作ってゆくことだ。私は定規で引いたような線を美しいとは感じない。傾斜に沿って美しくゆがんでいる線が美しいと感じる。里山を描いていると、そういう美しい畑があるという事に気づく。それは、意識されたものでなく、何十年という年月が、作りやすい形を求めている間にできたものなのだろう。

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国家というもの

2015-12-18 04:09:09 | Peace Cafe

今年の世相を表す漢字というものが毎年話題になる。「安」という字が今年の字として選ばれたそうだ。安心というより、不安の安と考えるしかない。さて日本はどうなるのやらという不安にさいなまれた一年であった。私のように、憲法に従って平和主義で行くべきだという人間の不安は、安倍政権の軍事力依存の危うさに対する不安である。一方、軍事力がなければ、中国に押しつぶされると考えている人たちにしてみれば、アメリカの核頼みという状態に、それこそ不安にさいなまれているのではないだろうか。中国の軍事大国化と、同時に国内に抱える不安定要素の増大は、実に危険な領域に入ってきている。中国だけでは済まない。世界中でテロが頻発する状況である。日本でもテロが起こる可能性が高まっている。しかし、それに対する備えには限界があると、誰しも不安を高めている。アメリカでは、イスラム教徒の入国を拒否するという主張が、一定の支持を集めているほど何かが変わり始めている。

世界の不安が高まるほどに、強硬な意見が支持される結果になる。安倍政権の経済政策は、6本目の矢も一向に効果がないにもかかわらず、強い支持をする人が一定数存在する。不安が高まるにしたがって、安倍氏の軍事力依存の強硬策を支持する層が増加するのであろう。核武装していない日本程度の軍事力ではどうにもならないという事なのだから、結局のところ、アメリカの軍事力頼みの日本の国防政策である。アメリカとの戦争に負けて、アメリカに占領され、その結果アメリカを見返すというのではなく、アメリカに隷属するという道しか選べなかった。それは、不思議なことに国粋主義者の方がそうした傾向が強いようだ。その結果アメリカの能力主義というものが、日本の社会にも広がってきている。能力格差は仕方がないという考え方である。この能力主義が、大企業は能力があり、価値が高く、それを優遇し、世界との競争に勝つという事になるのだろう。

農業においても、同じような競争主義が主張される。日本の農業は競争に勝たなければならないと発破をかけられている。日本の農業が世界での競争に勝てないのは、今までの農業者の努力が不足したからだという事になっている。この見方はゆがんでいる。農業者も努力はしているし、他の産業分野の日本人と同等の能力の高い人もたくさん存在する。しかし、国の補助金政策や、農地制度や、歴史的条件や、そして国土の条件によって、その力がうまくかみ合わなかった。確かに、世界との競争に勝つことの可能な、日本の農業も存在する。そこを育てようというのも間違いではない。そのためには、農協の問題、中山間地の問題、環境保全の問題、地方消滅の問題。政策的な整合性を持って取り組まなければ、解決は出来ない。現状は企業に補助金を出して、大企業の農業生産法人を育成しようというような事になりそうだ。それでは、繰り返されてきた、補助金政策の新たな失敗になるだけだろう。

今年の一字を選ぶとすれば、国である。国家という単位をどう考えたらいいのか、頭を悩ました年である。イスラム国や、クリミヤ半島の独立を通して、国家というものが何なのかを考えた。企業というものは国を超えて活動をする。ベトナムで米を作って日本に販売する方が利益が出ると考える企業に対して、日本で農業をしろと言う国家の意味は、どこにあるのだろう。日本というブランドはある。しかし、魚沼産コシヒカリのブランドは、魚沼の小さな農家の類を見ないような努力によって作られたものである。こうした日本ブランドを企業農業が利用して、労働者は外国人研修生という中で、何が起こるのだろうか。私には無理に思えるが。地域に根差した、4000年の循環農業で育んできた人間という日本の財産は、今失われてきている。私はこの、瑞穂の国というものの暮らし方が、日本という国であったのではないかと感じている。

 

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城下町ホールの仕切り直し

2015-12-17 04:40:44 | 地域

小田原にはお城のそばに市民会館という老朽化した建物がある。この中に、ギャラリーがあることにはなっているが、集会室で展示を行うという、全く使う気にならない悪い状態である。これを直したいというのは当たり前の話である。ところが話が出てから、30年だそうだが、これができない。上手く進まない。前小澤市長が奇妙奇天烈な市民会館を提案し、その批判の波に乗り加藤市長は当選した。そこで、新市長肝いりで、芸術創造センターというような、理想のホールを作ろうという計画が市民検討委員会のもとに進んできたように見えていた。ところが、いよいよ具体的な入札になったら、お金が足りないという事になった。このことは、小澤氏の主張した、先に延ばせばお金が足りなくなるという予測通りになった訳だ。プロレス興行を想定した市民会館にするのも困りものだが、建て直し出来ない現状よりはましだったのかもしれない。

市民会館の立て直しに対して、市の方向性が見えない。小田原市のゴミ問題にかかわって、加藤市長には意見がないという事を身に染みた。ごみの検討委員として、2年間相当に勉強を重ね、小田原のゴミ処理の方向を答申した。検討委員会の報告書を読んだのだろうかと思える。全く感想すらないまま、捨てられて終わりという感じである。私は市に対して、もうどうでもいいと言う気になった。生ごみクラブの活動は今も続いているが、ごみ処理におけるその位置づけは一向に見えない。場当たり的に方向性なく市長の業務をこなしているだけで、市長には考えというものがない。その結果、市民力などその昔主張していたという体たらくである。今回の市民ホールのちゃぶ台返しが、市長の決断というのであれば、今まで努力を重ねた人たちに対して、全く非礼だ。市民力と言いながら、市民に努力をさせて、何の見解もないまま没である。現実の市長の姿は小田原の既存の権力にへばりついて、どうにかこうにか延命を図っているようにしか見えない。

これに対して、明確な意見を述べている市会議員がいないというのも小田原の低調を示す。これが小田原評定というところか。旗色鮮明にするのを恐れているのか。自分の意見がないかである。周辺から市長の態度を批判をしている人はいるが、こうすべきという明確な提案がない。みんながすぐにつぶし合う体質があるのかもしれない。そもそも、この計画は根本が間違っているのだ。これも、10年越しで同じことを書いているのだが、あの場所に市民ホールなど無理だという事である。小澤市長の奇妙奇天烈ホールも困ったものだったが、一番は市民ホールはお城の正面に作る施設ではないという事だ。ところが、旧市街の衰退の歯止め策としての期待が、市民ホールに集中しているらしい。旧市街の人たちにしては、場所を変えるなど到底できない状況があるのだろうか。そうした空気に押されて、方向を見失ったのが今の状況なのかもしれない。

少なくとも大ギャラリーは海の見える明るい丘の上に作ってもらいたい。中心市街地には、画廊スペース程度がいい。お城の前には街の賑わいを形成できるものでなければならない。人の集えるスペースが作られる場所である。そこには当然画廊も必要であろう。小田原の伝統工芸の制作工房もいいだろう。小ホールを作り、演劇の公演も行うのもいい。小田原宿を再現したような、城下町界隈や、小田原らしい食事や食材、立ち食いが出来るのもいい。基本的に歩きを対象とした施設にすべきだ。大ホールや大ギャラリーは駐車場の取れる、別の場所にしなければ、利用するものが困る。県西地域全体の大ホールと考えるべき施設である。大ホールが一夜城あたりにできたとしても、周辺駅からバス利用を考えればいい。小田原一市のものと考えない方が良い。周辺自治体からも人が来るという事を想定して考えなければだめだ。市民に検討させておいて、不都合になったので、もう関係ないという市長の態度では、市民のやる気はなくなるばかりである。

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