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一人では何もできない性格

2024-04-30 04:03:06 | 自給


 一人では何もできない性格にちがいない。今でも畑仕事をコツコツ一人でやり切るような気力がない。生産者としての農業者には向いていないのだろう。このようにブログを何年も続けるような、ひつこいところはあるが、今は畑仕事は誰かが来ないと始める気になれない。

 みんなでやるとなると、俄然やる気が出てくる。みんなでやるなら、結構頑張れる方だと思う。ダメでもいいジャン。が座右の銘なのだが、どうも「ダメだからいいジャン」だったようだ。一人ではやれない性格なので、みんなの力を借りる。それで、協働で取り組むことが出来たのだと思う。

 人目を気にするとか、人の役に立ちたいとか、そういうものとも違う、一緒なら頑張る気力が湧いて来る。みんなでやる農業を目指ざしてきたのだと思う。一人ではやる気が出ないから、みんなを誘って、楽しいグループ自給をやってきた気がする。一人ではやれない事が良かった。

 今でも小田原で一緒に、ジャガイモを作り、タマネギを作り、小麦を作り、お米を作っている。足手まといにならない内は続けた。石垣島でもみんなで「のぼたん農園」を作っている。一人では始めたはずもない。みんなでやるのが楽しいから、やらないつもりだった石垣島の農業も始めたに違いない。

 なぜみんなでやると、出来るのかと思うが、石垣島の暑いときに農作業をやるのは、危険なほど厳しい。それでも、年寄りが汗をかきかきやり切ろることが出来るのは、一人ではないからに違いない。一人ならまず始められない。先日の水源の森づくりも、大勢が来てくれたから、やり切ることができた。一人では始めることさえできなかっただろう。

 人間という動物は、太古から群れで暮して来たのだ。みんなで力を合わせて、逃げ回りながら、ずる賢く協力をして餌を探し、生き抜いてきた。力を合わせることが出来たから、今まで生き抜くことができたに違いない。そうでなければ、非力な人類はどこかで死に絶えただろう。最近みんなで出来なくなって、生存が危うくなってきた。

 そう考えてみれば、人間は群れでなければ、気力が出ない方が、普通なのかもしれない。世間では一人でやり切ることが普通のような立派な人もいる。「私は一人でも農業ができる」とえばった人がいた。そういうけた外れの人もいるが、普通の人はみんなで力を合わせる道の方が、力を出し尽くせる気がする。一人で出来たら、今度はみんなでね。

 確かに、自給自足に入ったのは一人でやる自給だった。これは切羽詰まった自分の建て直しのようなものだったから、一人でやる以外になかった。回りにいた人も、協力はしてくれたのだが、自分としては、協力者がいるとかいないとかは、自分が自給農業をやり切ることとは関係がなかった。

 人間一人が、自分の体力だけで自給自足に生きることが出来るのかを試すことが目的なのだから、協力者はその人自身の自給の為にやっているのだろう。と思うばかりだった。ともかくわき目を振る余裕もなく、一人の自給を目指した。そして3年、4年、5年が経過したときに、何とか自給が出来ていた。その時の安心は忘れることができない。

 田んぼは2畝に広げた。田んぼで麦も作った。大豆も畔に作った。他に畑が5畝ぐらいあった。そして養鶏業をやった。この形が、今石垣島でやっている「のぼたん農園」原型である。ここで家族4人で暮したのだ。自白すれば、4人分の自給は出来なかったと思う。厳密に言えば、3人分ぐらいだ。

 山の中に行ったら、また鶏を飼う事だけは決めていた。趣味で飼い始めた日本鶏がだんだん養鶏業になり、なんとそれで生計を賄うようになった。まさか養鶏を生業にするなど思いもしなかったことなのだ。これこそ、家族4人だからできたことだと思う。

 実はここからが今日書こうと思った主題だ。絵を描くことも一人ではできないと考えている。ゴッホだってそうだったのだ。絵は究極の一人の芸術のように見える。どうやってみんなで絵を描くのかという事になるが、そういう事を本当に大学の時にはやっていた。絵を描き継ぐという俳諧連画である。

 180㎝角のキャンバスを置いて置き、それを自由に描き継いでゆく。その過程が芸術行為だと考えたものだ。4月1日に死んだ。何かが身に染みてきた。坪田紳二さんが考えたことだ。彼はコンセプチュアル・アート を追求した。日本でもいわゆる概念藝術が流行していた時代があった。新しい動きを彼から教えてもらった。

 坪田さんは理屈っぽい人で、絵を描くのでも絵を描く意味論を常に口にしていた。実際には抽象表現主義的な絵を描いたのだが、かなり達者な絵を描く人だった。どういう絵が見栄えがするかという事を良く分かっていて、そういうものを描こうとすれば幾らでも描けたが、絵はそういうものではないと、何かグルグル考えていた。

 その考えていることを語り続けるのだが、私には正直よくわからなかった。分からないなりに、ずいぶん教えられた。家は金沢にあるにもかかわらず、私の下宿に転がり込んできて、一緒に暮らしていたので、一晩中訳の分からない絵画の概念の話を聞かされていた、ということになる。

 そう難解な本の解釈を、彼から随分聞かされた。九鬼周造「「いき」の構造」などという本を読んでいた。彼は凄い自信家であり、またすごい臆病な、優柔不断なところのある人間でもあったと思う。彼は自分というものを持て余していたのかもしれない。

 大学を出てからも、横浜のBゼミに通うので、東京の私の家にいたこともある。そして京都に行き、いろいろやっていたので、時々京都にゆき、京都の美術関係の人など紹介してくれた。それはたぶん、フランスから帰ってからの事になる訳だ。

 そのうち版画の仕事を始めて、東京の作家の作品を作る仕事を紹介してあげたりした。しかし、なかなか気難しい性格なので、仕事としてやるのは難しい感じだった。そうして少し縁遠くなった。それには理由があるのだが、そのことはここには書けない。

 そして金沢の自分の家の場所で、現代美術の画廊を始めた。それでも時には訪ねた。いよいよ気難しくなっていて、話していることを理解するのが、昔以上に難しくなった。声が小さいから、耳が遠くなってきている私には、半分くらいしか聞き取れないのでなおさらである。
 
 一度共同制作のことの意味を、もっと私なりに話しておくべきだった。あの考え方は面白いと今でも思う。描き継ぐという事はそこまでの制作を理解しなければできない。その上で自分の絵を描く。そこに、ほかの人が描き継ぐ。コンセプチュアル・アート的に考えた場合、どんな意味があったのかと思う。

 あれから、結局のところ、水彩人で絵を描くことは一人ではできないということを、継続している。私絵画を標榜しながら、ある意味の自己矛盾である。結局は一人ではやれないという、弱い性格からみんなでやろうとしているのだろう。ダメでもいいジャン。という事になる。

 一人では何もできない人間にとって、坪田さんとの金沢大学の美術部での出会いは、大きな意味があったことだった。彼から得たものが何であったかは分からないが、いま『私絵画』に出会った一つの要因なのだろう。冥福を祈るという事も坪田さんには似合わない。ジャーまた。というぐらいの別れだろう。


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自給農は希望

2024-03-26 04:28:43 | 自給


 日本の農業の現状は、まさに老齢化である。農業者の半分が70歳以上になっている。産業としてはもはや消え去ろうとしている。政府は食糧自給率の向上を、国の安全保障政策だとしながらも、もう何十年も改善されないままである。農業に健全な未来は無い。

 農業が衰退する原因が、政府の推進する大規模経営や企業農業の優遇なのだから皮肉なことだ。農地が大規模経営企業に集約されて、より合理化された農業に変ることは間違いが無いが。そこには政府は莫大な補助金を投入されている。食糧自給率の向上という名目があるから、ある意味正当性がある。

 その結果、大規模経営の農業企業が補助金で競争力を高めていることになる。国際競争力の背景が補助金という現実。補助金を目的に作付けしている農作物はかなりある。大豆や小麦やサトウキビなどが、私もいくらか関わる事例になる。

 こうした補助金農政の結果、補助金を貰えない普通の農家であれば、その作物を作れなくなっている。これが農業衰退の皮肉な現実になっている。大企業農業と行っても、まだ半分に満たないわけだから、普通の農家が追い込まれながら、食糧自給率をになっている現実がある。

 補助金の無い小さい農業が競争力を失うことで、農地の集約化が図られていることになっている。小さい農家を淘汰しながら、農業全体は縮小化している。それが、政府が農家への直接払いをしない理由である。本音では小さい農家はなくなれば良いという方針が透かして見える。

 大規模化農業が可能な農地は日本の農地のせいぜい半分程度だろう。政府は2030年には農業者数は半減するとみている。それはそうだ。70歳超えた半分の農業者はやりたくても農業を出来なくなるだろう。もちろん80歳の現役農家も多いから、例外はある。

 2030年には農家数が半減した分、農業企業が農地の65%を占めると予測して居る。この予測は当たるだろう。農地自体の放棄が進み農地が減るからだ。農地自体が今より、2,3割減少して、企業が使える今は半分である農地が65%に成るという意味だろう。

 企業が使えない農地は放棄がさらに進む事も間違いが無い。日本の中山間地の農地は、条件不利な農地で、企業が経営として行うことは無いと考えた方が良い。企業的農業であれば、日本の農地よりも、海外の農地で、海外の労働力を使い経営した方が利益が出ると言うことになる。

 ただし、大規模農家で無ければ、十分に農産物が生産できる優良農地が、大規模化出来ないという理由で、競争力を失い、放棄されて行く。この優良農地を誰でも希望者が利用できるという時代が近づいている。農業が好きなものには、恵まれた時代が近づいている。

 日本国内で運営される企業農業はあくまで限定的と考えておいた方が良いはずだ。海外生産の日本企業の農産物は、やはり輸入品であろうから、食糧自給率が高まるとは言えない。それでも国内での企業農業は、政府の補助金で運営されているはずだ。

 農産物は企業が生産するものと、輸入するものとに二分されることだろう。輸入の中に日本企業の生産品も多くなることが予測される。お金があり、輸入できる間はまだ良いが、なかなか思うようには行かなくなるだろう。中国に輸入されてしまい、輸入できなくなるなどと言うことがなければ良いが。

 条件不利地域の農地はどうなるだろうか。自給農業を目指すものが利用することになると考えて良いだろう。日本は階層化社会が進む。低階層に位置づけられ、自給的に生きる人達が一定数現われることだろう。江戸時代の農民のような位置づけ。

 どの程度数が増えるかは分からないが、少なくとも自給的に暮らせる農地が放置されているのだから、生活が苦しい人の中には、そこで自給的に暮らそうという人が出てくるはずだ。放棄される家も人口減少の時代だから、いくらでも出てくるはずだ。

 人間の暮らしがそこまで、戻らざる得ない時代が必ず来る。しかし、その時代は人間らしい暮らしに戻れると言うことなのかもしれない。悪くだけ未来を想像する必要は無い。人口が6,7千万人まで減少すれば、食料は何とかなる。日本列島という豊かな国土がある。

 自給農業の暮らしは、競争などしないで自分が生きて行く方法がある。シャベル1本で神奈川県の山北の山中で、私に実現できた。自給農業の技術は確立した。みんなでやる自給農業であれば、一日1時間食料のために働けば、食糧自給は出来る。

 今石垣島で亜熱帯での自給農業技術を模索している。今回は時間が無いので、機械力総動員でやっている。3年目に入り、かなり先行きが見えてきた。亜熱帯の農地で、豊かな土壌を作り出す技術だ。循環して行く農地の利用法が見えてきている。

 「アカウクサ農法」と「ひこばえ農法」である。まだ農業技術としては完成はしていないが、方角はつかめた。後は実証実験農業を数年繰り返せば、たどり着けるはずだ。もう石垣島での一日1時間の自給農業の確立は、かなり現実的なものになってきた。

 自給農業ほど楽しいものはない。100坪の自給である。2セの田んぼであれば、手取り除草だってそれ程大変なことではない。完全に雑草を取り尽くしていれば、草はたいして増えないものだ。誰でも出来る、楽しい自給農業。みんなでやる共同自給。作りたい人が作り、必要な人が食べる世界。

 人間は自分のためだけよりも、人の為も加えた方が力が出てきて頑張れるものだ。日本の経済が停滞し、時代は混乱するとしても、一人一人が人間として自己を探求するの生き方を見付けられる場は作れるはずだ。そのためには一人でやる自給ではだめだ。一人で出来たらみんなでやる自給に進むこと。

 自給は一人でもやり抜くものだ。その覚悟の上で、みんなでやらなければ成らないものだと考えている。自給農業は一人よりみんなでやれば、助け合うことで、人間を磨くことになる。人間らしく成長しながら、生きる事になる。一緒に働くと言うことはそういうことだと思う。

 日本の農家は一人になってしまったことで、弱いものになったのだ。江戸時代の農家は一人では無かった。名主を中心に部落単位での協働で成り立っていた。助け合わなければ、生き抜けなかった時代だからこそ、江戸時代の自給生活は洗練されたものになった。

 知恵のあるものは知恵を出し。力のあるものは力を出し。弱いものは助けて貰い。ぎりぎりの暮らしを支え合った。確かに実運制度の厳しい社会ではあったが、あの自給世界で差過酷をしていた日本は成立していた。日本人は日本列島にで生活をしていた。


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イネ株一つでコンビニおにぎり1個が出来る。

2024-03-18 04:31:12 | 自給


 1反の田んぼにはイネ株が何本あるか。1反は300坪。1坪に60株植えならば、18000本のイネ株があることになる。1反の田んぼで畝取りすれば600キロお米の収穫がある。おおよそひと株で40グラムぐらい採れることになる。

 稲は一つの穂で2グラム近くある。1株に20本穂があれば、40グラムになる。40グラムのお米は炊けば100グラムぐらいのご飯になる。コンビニのおにぎりならば、これに具が付いて、110グラムになる。「イネ株1つでコンビニおにぎり1個」と見ておけば良いことになる。

 1反の田んぼのお米で、コンビニおにぎりが18000個できる。1個130円程度と単純計算すると、1反の田んぼで、1万8千個のコンビニおにぎりだから、234万円になる。お米を作るより、おにぎりを作る方がはるかに儲かることが分かる。1万8千個のおにぎりを売るのが難しいことはまた別問題。

 コンビニが簡単とは言わないが、田んぼをやるのもなかなか大変なのだ。米農家が1反の田んぼで畝取りしたとして、10俵で良くて20万円である。有機米でキロ600円で売れたとして、36万円と言うことになる。いかにも安い。

 毎日オロオロとクタクタになるまで、田んぼの見回りをして、1㏊で360万円である。1㏊のコロガシは出来ない。もしやれば、寿命を縮めることになる。やはり田んぼは自給がいい。自分が食べるものを作ると言うことほど、おもしろいものはない。

 おにぎりの製造費と人件費などを考えると、原価の倍と見るといい。つまり、お米原価が20万円で、具材が20万円としても40万円の材料費とみればいいだろう。これに人件費や様々な経費を見ても80万円。もし農家がおにぎりにして売れば、80万円が234万円になる。

 これが6次産業化と言うことだろう。1㏊の小さな稲作農家であれば、おにぎりにして売るまでやれれば、2340万の売り上げになる。一日7~8万円の売り上げぐらいのおにぎり屋のお店だ。これで生きて行けるだろう。逆に言えば、これをやらなければ、経営が出来ないと言う事がよく分かる。

 実はこういうことをやっている人が居るのだ。土の竈を作り、羽釜で炊くご飯を提供している。おにぎりを何万個も売るのはすごいことだ。私ならばおにぎりだけでは無く、養鶏をやってこれに卵かけご飯だ。醤油も自家製を使う。

 多分卵かけごはんの店であれば、おにぎりの倍の売り上げになるだろう。卵かけご飯の専門店もある。卵かけご飯は日本独自の食べ方らしいが、これはほど美味しいご飯の食べ方は無い。しかも、健康に一番だ。卵には自家製納豆やキムチを混ぜて、毎日食べているが、飽きることが無い。

 農業の規模は3反の田んぼに縮小である。3万食分である。1日弁当を入れて、100食の販売である。これなら現実的な規模になる。100個の弁当を作ったことがあるが、4人で4時間ぐらいだった。そのくらいの飲食店なら普通にあるだろう。

 まあそれだってかなり難しいことは分かっている。出来不可能な話ではない。何でも商売は難しいものだ。納豆だって、醤油だって、ただ作ってもだめだ。化学調味料入りが美味しいという、世間の味覚に対抗しなければならない。

 お店は眺めの良い棚田の上に作る。脱穀や精米は水牛にさせよう。卵かけご飯を食べに来たお客さんは、自分の食べるお米を収穫したり、脱穀したり体験も出来る。鶏小屋から卵を探して自分のご飯にかけて食べることも出来る。

 こうして体験で付加価値を付けて、卵かけご飯で1000円は取る。1000円はケチだからだ。1000円以上は払えないからだ。2000円の朝食を食べるような人種に、苦労したものを売りたくないというひがんだ気持ちもある。日に10万円の売り上げ。

 残念なことに、もうこの歳では始められない。でもいつもこういうことをあれこれ考えている。もう一つ考えているのが、米でつくるカレーパンのお店である。やはり田んぼの見える丘の上にお店を作る。こちらは移動店舗が良い。揚げたてを食べて貰うように、パンを揚げる設備のキッチンカーである。

 油も米ぬか油が良いと思うが、美味しく揚がるか、どうだろうか。カレーの材料は、玉ねぎとジャガイモニンジンは作りたい。カレーに入れるハーブなども作った方がおもしろい。カレー米パンのお店の場合は田んぼは5反だとして人に任せてもいい。野菜畑が3反ぐらいになる。

 生産部と米パン製造部とを分ける必要があるかも知れない。頑張る人なら家族で全部やるのがおもしろいだろう。いずれにしても農業技術と、美味しいかレーパンを作る技術が無ければ不可能なことになる。これはこれで難しいことではある。

 小田原だって出来ると思うが、石垣島ならさらに成功確実だろう。誰か若い人でやってみようという人は居ないものだろうか。資本提供をしても良い。石垣島に移住して、やってみたいという人が居ればおもしろい話になる。本当に興味が持てる人なら、成功するだろう。

 問題は田んぼがやれる技術が身につくかかである。野菜畑が出来る技術を見付けられるかである。田んぼや畑をやる力があれば、おいしいカレーパンも出来る。今からでもやりたくなるが、日々の一枚の絵がある。のぼたん農園のこともある。ここはがまんしておこう。

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食糧の安定供給の確立

2022-12-19 04:33:43 | 自給

 のぼたん農園の麦畑予定地の土壌の様子。

 日本は食糧が自給できない国になった。それはここ50年ほどの間に起きたことだ。江戸時代の日本は完全自給の国だった。食糧自給は国を維持する上で最も重要なことだ。食糧は価格の安い国から買えば良いというのが、竹中平蔵の指導したアベ政権の考え方であった。安倍が目指すとした瑞穂の国とは随分と矛盾した国だった。

 この50年日本人の主食がお米でなくなったと言うことがある。50年前は1年間で2俵120㎏食べていた日本人がその半分以下しか、お米を食べなくなった。今は一人が1俵のお米も食べない。1年に50㎏のお米しか食べなくなった。日本人はお米が主食で無くなったと考えて良いくらいのことだ。

 主食ばかりの食事から、副食中心の食事になったと言うことがある。昔はご飯をおかわりする子供が、元気なよい子と言うことになっていた。食が細くて食べられなかった私は、お代わりするのが大変なことだった。それでも無理をしてお代わりをしていた。良かったのか悪かったのかはいまでは不明。

 お米から肉を食べる食事に変化している。肉は食べない食事だった。経済成長と共に肉の消費量が増えるのは、世界的な傾向である。縄文人もやはり肉が好きだったらしい。イノシシと鹿の骨が遺跡からでる。沢山取れれば、肉を多く食べたらしい。

 健康と食事というものが完全に覆った。ご飯だけでなく、炭水化物の取り過ぎが不健康の原因と言われるようになった。1日に250gから325gの炭水化物を摂取することが望ましい とされている。これはご飯3杯分ほどである。この炭水化物の1日の摂取基準量は食事から摂取するエネルギーの半分ほどを良しとする。

 私の場合で言えば、年寄だからご飯を軽く2杯と泡盛100ccと言うことになる。このほかに間食は一切なしと言うことになる。せんべいやクッキーなど間食をすれば、泡盛はその日は飲めなくなる。それが嫌で間食はしない。これが一年50キロの泡盛を含めたお米の消費量になる。実際はもっと少なそうだ。

 体重を55キロで一定するように食事で調整している。超えたならば、泡盛を飲まない。時々超えるので泡盛休みが入る。週2回ならば丁度よい。一日玄米4合(600グラム)もお米を食べていた時代がある。いくら肉体労働をしているとしても、これでは長生きは出来ない。日本食が健康食というのも、ご飯を減らしたときの話である。

 宮沢賢治の詩のように、3合の玄米を食べたいたら年165キロである。それくらい日本人がお米を食べた時代ならば、日本は瑞穂の国である。食糧自給は稲作で可能になる。これから世界は食糧難時代に入ってゆく。飢餓は今まで以上に深刻な問題になる。その時また日本は瑞穂の国に戻るほか無い。

 小麦の輸入はだんだん困難になる。価格はお米に競べてかなり高くなるだろう。国産小麦と言うことになるのだろうが、これは現状ではかなり難しいとみている。戦後の日本は関東平野の里山はほぼ麦畑と行って言い。日本が小麦を大量に作っていた場所は、傾斜地であるか、現在市街地になっている所だ。

 食糧危機が訪れて、かなりの無理をしても日本の農地で麦を作るとすれば、また米麦の二毛作と言うことを考えなければ無理だろう。二毛作は東北では出来なかった。関東から南の温かいところであれば、冬に麦を作り、夏にお米を作った。しかし、これが百姓に過酷な労働になった。

 私も米麦の二毛作に挑戦していたが、なるほど難しいと言うことが挑戦してよく分かった。二毛作をするには機械が無ければ出来ないと考えた方が良い。すべて手でやろうとすれば、身体を壊すほどの過酷な労働に成る。特に梅雨時に麦刈りをして、田植えに入る。

 この時期を乗り切るには、コンバインと乾燥機が必要になる。大農家でなければ無理だ。こうした大型機械が出てきて、米麦の二毛作が可能になったころには、米余りが言われだした。米麦の二毛作は戦後の食糧危機時代のやりかただった。麦は麦畑でつくり、大豆などとの二毛作の法が具合が良い。

 すでに海外から食糧危機が始まっている。日本の38%の食糧自給率を早急に今の倍の75%ぐらいまで上げなければ、国の安定がなくなる。簡単に考えれば、農家も農地も2倍必要と言うことだ。政府も建前としては食糧自給率の向上を掲げている。しかし、向上どころか相変わらず低下傾向である。建前だけで本気に成らないからだ。

 理由は明確である。農業は企業が取り組んでいないからである。日本の政策は企業中心に考えられている。もし三井農林が米の一〇%を生産していれば、政策も変わるはずだ。農家など止めれば効率的だというのが政府の考え方なのだが、なかなか農家はすっきりとは止めない。

 政府はどこかでこのことを苦々しく考えているので、農家を保護するような政策が出てくるはずがない。しかし、もうそんなことも言っていられなくなってきた。このままでは国内の農業がさらに衰退する。安い海外の食料を買えば良いというような甘い考えは通用しなくなる。

 具体的に田んぼと麦が作れるような体制を確立しなければならない。例えば行政が機械を所有し、貸し出す仕組みが全国どこでも行われるようにする。大型機械の貸し出しがあれば、米麦の二毛作も復活できるかも知れない。貸し出し機械があれば、若い人の新規就農もかなり楽になる。

 地方では人口減少が急速に進んでいる地域がある。農地の放棄も進んでいる。放棄農地を政府が集約、新規就農者に無償で貸し出す制度を作る。農業技術はその地域地域で違う。地域の就農学校を充実整備する。そして卒業者への農地の斡旋の責任を持つ。

 たぶん政府は予算が無いと言うだろう。軍事費予算なら安全保障のために倍増するが。農業予算など無いと説明するはずだ。国の安全保障を考えたときにどちらが重要だろうか。明日の食料を確保すると言うこと以上に、重要なことなど無いはずだ。ここに国民の合意が出来るかどうかである。

 食料は確実に不足して、価格が高騰してゆく。それは原油の供給以上に明確に、遠からず起こる世界の問題である。エネルギーは価格が上がれば、供給も自然に増える。しかし、食料は作らない限り量は増えない。世界の人口増加に競べて、食料生産可能な面積は限界に達している。水資源も同様に限界である。

 今整備さえすれば、日本の農地は十分に活用が出来る。一番の問題は農業者の減少である。経営が出来ないから、減少している。経営が出来るようになれば、間違いなく農業者は増加する。農業はおもしろい仕事だから、生活可能なら間違いなく増える。

 定年もないから、80歳代の現役農業者もいる。自衛官を増やすらしいが、80歳では採用されないだろう。自衛官は生産をしない。労働人口が減少する中で、どちらが緊急的に重要なのかは明白なことだ。まだ間に合う。国民が明日の食事が一番重要だと当たり前に認識すれば、日本も変わる。

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納豆の作り方

2022-12-16 05:20:10 | 自給


 納豆は毎朝食べる。納豆は自分で作ったものを食べている。自分で作るというのは、大豆を自分で栽培し、収穫した大豆で納豆を作ると言うことだ。大豆は小田原で作った小糸在来種である。石垣では小糸在来を育てることは出来なかった。

 品種は重要なことになる。小田原で作るのであれば、小糸在来種が一番美味しい。色々の大豆を栽培して試した上で分かった結論である。石垣でも石垣にあった大豆の品種を探したいと思っている。今度、台湾で買ってきたいと考えている。

 自分で栽培してと偉そうに書いてしまったが、今は、渡部さんが作ってくれたというのが本当のところだ。小田原の家の庭で栽培している。いくらか協力はさせてもらっている。大豆の会の作業もいくらかは参加している。しかし、先日味噌造りの参加募集の案内では、麹造りに参加しない人は参加できないと書いてあった。麹造りは日程が合わない。どうしようか。

 最近、その納豆の作り方を少し変えてみたら、とても粘りのある美味しい納豆が出来た。美味しい納豆を作るコツがわかった。先ずは美味しい大豆を使うことだ。これは当たり前でコツではないか。市販の大豆や納豆では味わえない素晴らしい味わいの物になる。

 納豆作りのコツは大豆を柔らかくなるまで、蒸すと言うことだった。米麹を作るときにお米は蒸す。大豆も同じではないかと考えた。煮大豆のように、ベタベタな大豆では中まで納豆菌が浸透して行かないのではないかと推測した。

 見た目からしても煮た大豆では水分が多すぎる。しかも水分に大豆の味が出てしまう。煮汁が無いように煮るのは難しい。まず大豆は24時間水に漬けておく。米麹と一緒の考えで、蒸す大豆は良く水を切る。乾いたタオルでくるんで表面にある水を完全に取り去る。

 大豆を蒸すのは電気高圧釜で蒸している。一時間も蒸した。さすがにベトベトしない柔らかい大豆になった。色は少し茶色くなって納豆色になる。この大豆は特に冷やすようなことはなく、熱い状態で使う。納豆菌というものは素晴らしい能力があり、120度でも死ぬことがない。と同時にマイナス120度でも死なない。

 大豆が熱いまま使う事ができるから、雑菌が入ることがない。養鶏をやっていたときに、納豆菌で発酵させると、80度近くまで温度が上がる。それで大抵の雑菌を殺すことが出来た。ものが腐ると言うことが無くなるのだ。

 熱い大豆に市販の納豆を少量混ぜる。少量でじゅぶんである。まず少量の大豆を取り出して、熱湯をかけてよく混ぜる。パラパラになったところで、熱い大豆に混ぜる。よく混ぜたならば牛乳パックに入れる。牛乳パックに入れるのは、ヨーグルトメーカーで納豆を作っているからで、本当は良い形ではない。

 そんなことをしたらヨーグルトを作るときにおかしくならないかと言うことだが、そんな経験はない。牛乳は乳酸発酵しかし無い。ヨーグルトメーカーで24時間発酵させる。体温より少し高い温めのお風呂の40度で暖めておけば良いのだが、別に温度はそれほど厳密でなくとも大丈夫だ。

 クーラーボックスにお湯を入れたペットボトルを入れて、そこに平らな容器に入れた蒸し大豆と納豆を混ぜたものを入れる。ペットボトルは冷めるので入れ替えたら良い。温度計を入れておき、どの程度温度になるかを確認しておくと良い。感じとして温めのお風呂で大丈夫だ。保温状態のお風呂に発泡スチロールの箱を浮かせて作ったこともあるが大丈夫だった。

 納豆菌の発酵は酸素が必要なので、藁で包むような形が一番良い。平らなタッパーのような容器で作るのがよいが、蓋はしない。網で出来た容器があればそこに入れた方が良い。スレンレスのざるは良さそうなので今度やってみる。

 酸素を供給するために8時間後、16時間後と2回ほどかき混ぜる必要がある。いわば米麹の手入れと同じ考えである。米麹よりも大雑把な作業で美味しい発酵が進んだものが出来る。余り濃厚な発酵はいやという人は、温度を下げ、時間を短縮すれば良い。

 発酵が終われば、冷蔵庫で保存をする。なぜか朝食べる。納豆は自分で作ったものを食べている。ここで自分で作るというのは、大豆を自分で栽培し、収穫した大豆で納豆を作ると言うことだ。小田原で作った小糸在来種である。品種は重要なことになる。小田原で作るのであれば、小糸在来種が一番美味しい。散々試した上で分かった結論。

 自分で栽培してと偉そうに書いてしまったが、今は、渡部さんが作ってくれたというのが正直なところだ。いくらか協力はさせてもらっている。大豆の会の作業もいくらかは参加している。しかし、先日味噌造りの参加募集の案内では、麹造りに参加しない人は参加できないと書いてあった。麹造りは日程が合わない。どうしようか。

 最近、その納豆の作り方を少し変えてみたら、とても粘りのある美味しい納豆が出来た。美味しい納豆を作るコツがわかった。先ずは美味しい大豆を使うことだ。これは当たり前でコツではないか。市販の大豆や納豆では味わえない素晴らしい味わいの物になる。

 納豆作りのコツは大豆を柔らかくなるまで、蒸すと言うことだった。米麹を作るときにお米は蒸す。大豆も同じではないかと考えた。煮大豆のように、ベタベタな大豆では中まで納豆菌が浸透して行かないのではないかと推測した。

 見た目からしても煮た大豆では水分が多すぎる。しかも水分に大豆の味が出てしまう。煮汁が無いように煮るのは難しい。まず大豆は24時間水に漬けておく。米麹と一緒の考えで、蒸す大豆は良く水を切る。乾いたタオルでくるんで表面にある水を完全に取り去る。

 大豆を蒸すのは電気高圧釜で蒸している。一時間も蒸した。さすがにベトベトしない柔らかい大豆になった。色は少し茶色くなって納豆色になる。この大豆は特に冷やすようなことはなく、熱い状態で使う。納豆菌というものは素晴らしい能力があり、120度でも死ぬことがない。と同時にマイナス120度でも死なない。

 大豆が熱いまま使う事ができるから、雑菌が入ることがない。養鶏をやっていたときに、納豆菌で発酵させると、80度近くまで温度が上がる。それで大抵の雑菌を殺すことが出来た。ものが腐ると言うことが無くなるのだ。

 熱い大豆に市販の納豆を少量混ぜる。少量でじゅぶんである。まず少量の大豆を取り出して、熱湯をかけてよく混ぜる。パラパラになったところで、熱い大豆に混ぜる。よく混ぜたならば牛乳パックに入れる。牛乳パックに入れるのは、ヨーグルトメーカーで納豆を作っているからで、本当は良い形ではない。

 そんなことをしたらヨーグルトを作るときにおかしくならないかと言うことだが、そんな経験はない。牛乳は乳酸発酵しかし無い。ヨーグルトメーカーで24時間発酵させる。体温より少し高い温めのお風呂の40度で暖めておけば良いのだが、別に温度はそれほど厳密でなくとも大丈夫だ。

 クーラーボックスにお湯を入れたペットボトルを入れて、そこに平らな容器に入れた蒸し大豆と納豆を混ぜたものを入れる。ペットボトルは冷めるので入れ替えたら良い。温度計を入れておき、どの程度温度になるかを確認しておくと良い。感じとして温めのお風呂で大丈夫だ。保温状態のお風呂に発泡スチロールの箱を浮かせて作ったこともあるが大丈夫だった。

 納豆菌の発酵は酸素が必要なので、藁で包むような形が一番良い。平らなタッパーのような容器で作るのがよいが、蓋はしない。網で出来た容器があればそこに入れた方が良い。スレンレスのざるは良さそうなので今度やってみる。

 酸素を供給するために8時間後、16時間後と2回ほどかき混ぜる必要がある。いわば米麹の手入れと同じ考えである。米麹よりも大雑把な作業で美味しい発酵が進んだものが出来る。余り濃厚な発酵はいやという人は、温度を下げ、時間を短縮すれば良い。

 発酵が終われば、冷蔵庫で保存をする。一日冷蔵保存したぐらいが一番味が良くなる。冷蔵庫ならば美味しい味が一週間は続く。何故発酵食品なのに冷蔵庫保存をするかと言えば、納豆菌は常温では発酵を続けていて、味が変化をしていく。

 食べれなくなるわけではないので、それぞれが一番好実の味のところで食べれば良いのだが、普通は製造してから冷蔵1日目から一週間の間がいいようだ。発酵食品の味はそれぞれ作る人が好みで家の味を味わうものだ。
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小田原の冬の農作業

2021-12-07 04:25:56 | 自給

 
  小田原で行った農作業のことを書いておく。大豆の収穫をして、15キロの大豆を石垣島に持ち帰った。家の脇の畑でとれた分である。渡部さんが作ってくれたという方が本当の所である。何とか蒔くところと収穫は一緒にできた。縁側で十分干してあったので、良く乾いている。これで一年分の納豆大豆が確保できたことになる。

 石垣島生活では毎朝納豆を食べる。常に納豆を仕込んでいることになる。自分でやっているのではないので偉そうなことは言えないのだが。小糸在来の納豆である。日本で一番おいしい納豆である。健康の源である。その貴重な納豆大豆が収穫できたことは大きな喜びである。もうユーパックで送った。

 大豆のあとには麦の播種を行った。大麦、小麦、ライ麦とすべてに蒔いたのだから、3反ほどである。大麦はもう発芽している。上手く出来れば、600キロぐらいになるのだろう。除草が大変なので、除草には小田原に来る約束をした。やろう遣ろうと言いだしぺがそうしなければみんなに迷惑をかける。

 小麦は家庭用製粉機を買う事にしている。今まで精粉所に出していたので、活動がうまく続かなかった。製粉代が高いし、時間がかかりすぎる。持ち込んだ小麦が工場の隅で虫だらけになっていたこともある。持って行く場所も遠い。

 これからは食べる前に粉にするという方式にするつもりだ。これならうまく行くかもしれない。粒のままでもいいという人もいて、その人は醤油を作る人だ。私も醤油は作りたいのだが、その時期寒すぎて、小田原に居られないかもしれない。

 ライ麦は緑肥として蒔いた。寒くても生育が良いので、一番陽の当らないところがライ麦である。3月5日にジャガイモの植え付けが行われる場所である。3ヵ月で30センチくらには成長しているかと予想している。冬の間少しでも草がある方がいい。風で表土が飛ばされることを防いでくれる。そして漉き込めば、緑肥となり腐植を増やしてくれる。

 大麦は地ビールを作る活動の前哨戦のようなものだ。黒柳さんが小田原地ビールを取り組んでいるので、それに便乗させてもらっている。いつか小田原の大麦で、地ビールが作れるかもしれない。麦芽を輸入している地ビールではどうも違う。

 今回麦はすべて45センチ畝幅で撒いた。草取りが追い付かなくなったならば、一畝潰してしまう事にした。90センチ畝ならば間を耕運機が間を通れる。収穫は減るだろうが、草取りが追い付かなくなれば仕方のないことだ。私は1月末と3月初め、そして5月ごろと2カ月おきには草取りに小田原に行くつもりだ。

 タマネギは大豆の後に植え付けた。1メートル幅で14メートルぐらいの長さがあるベットを作った。実際に植え付ける場所は50㎝幅くらいである。そこに4本ずつ並べて植えたから、500本ぐらいの苗を植えたことになる。今までで一番多く植えたかもしれない。その内150本ぐらいが自前の苗である。苗が充分には出来なかった。後の400本は購入した苗。中晩生ネオアースが300本、紅葉3号100本。農の会苗は赤玉ねぎとネオアースと早生。

 鶏糞を深めに一袋入れて、ベットを30㎝ぐらいと高くした。高い方がいいという渡部方式を取り入れている。そこに植え付けてから燻炭を播いた。そして雨を待ってからトンネルをかけた。トンネルをかける前にそば殻を敷き詰めた。草抑えと乾燥防止である。

 トンネルは2穴にした。玉ねぎは黒マルチで作るのが普通かと思うが、穴あきトンネルの方が良く出来る気がしている。気がしているだけで良く理解はできていない。玉ねぎは舟原では寒すぎることと、冬の乾燥した風とで、よくできない。そんなことは無いという意見もあるのだが。

 そして、今回の溜池作業としては改修工事をした。上下の池を繋ぐ太い塩ビ管の周辺から、水が漏り始めてしまった。3本並んでいたのが良くないようなので、今度は1本にして、その一本の周りを土とセメントを混ぜながら埋め戻した。現状では水を戻したが、漏れ出してはいない。心配はまだあるのだが。

 水が戻らなければ、カキツバタがだめになってしまう。今は十分水が溜まり、美しい溜池が戻った。そもそも3本配管したことが間違っていた。意味なく3本にしたために、水漏れが起きやすくなったのだ。1本でも洩れるようなら水路を迂回させるしかないと思っている。工事して10日が経過しても漏れていないので、先ずは大丈夫だろう。

 欠ノ上田んぼの直しでは3日に水路の詰まりを直した。道路側にある水路が、地中を通るところで詰まっているために、田んぼの中央を通る水路が水が多すぎて、壊れている。何とか道路側の水路の詰まり部分を抜いて水を迂回させたい。実は欠ノ上田んぼを始めた時から考えていたことだ。

 今回、半日かけて何とか水が通るようになった。しかし、まだ完全に中煮詰まっている何かが取り除けたようでも無い。完全に水が通ったようでもないので、一応という事で注意しながらやってゆくほかない。こうした地中を通る田んぼの水路はどうしようもないものだとと思う。地中が20メートルくらいあると、何かで詰まるもうどうしようもないことになる。

 それでも相当の苦労して、大きな石を取り除いた。30センチの管の中に、45㎝の大石があった。こんな大きな石が何故入ったのかと思うが、入っていたのである。その石の上部に大袋1杯になるプラステック系のごみが詰まっていた。まだ石があるともうのだが、そこは曲がっているあたりでどうしても届かなかった。ついでに水路掃除もしたが、すごいごみの山であった。道路からごみを放り投げる人が後を絶たない。

 作業最後の12月5日に明星が岳見晴登山道の看板設置作業をした。案内看板は登山道を作った時に設置してあったのだが、壊れてしまって建て直しを行った。そもそも登山道を作ることには反対だった。登山道を作ればその整備を続けなければならない。自分にはその自信がなかった。

 小田原市行政にはそういう事に補助してくれることがない。南足柄の登山道整備作業には補助金が出ている。それでも11年経過した今も、登山道は維持されている。草刈り作業は大変なことになる。最近は参加できていない。申し訳ない思いだ。

 美しい久野里地里山協議会が行った事業である。時々この登山道を利用する人を見かけるようになった。歩く人が増えると踏み分け道がしっかりとしてくる。新しく登山道を管理する人が出てきてくれている。素晴らしいことだ。私には思いもよらない福音であった。次の時代に希望を感じることだ。

 渡部さんからは大量の干し椎茸と、里芋を頂いた。いつも頂くのだがやはり美味しい。いつも帰るときは農産物で一杯である。石垣で試験栽培する予定のイネの種籾もサトジマンと、ハルミを持ち帰った。

 これからは石垣島の農作業と小田原の農作業の日程調整をしてゆかなければならない。次の予定が1月後半の味噌の仕込み。その次の予定が3月の初めのジャガイモの植え付け。そして小田原のイネの播種から田植え。その間に、石垣のイネの播種と田植えが入ることになる。オミクロンが広がらなければ問題ないのだが、気がかりなことである。
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大麦の播種

2021-11-26 05:34:45 | 自給
大麦の種。二条大麦「サチホゴールデン」

 11月24日大麦の播種を行った。麦は11月11日と決めていたのだが、大豆畑の跡地に大麦を播くので、大豆が片付いてから、畑の準備をして大麦を播く手順でいくらか遅れる。大豆の収穫が終わったのが、21日である。生乾きの大豆は舟原畑の陽の当たる奥に集めて干してある。この大豆は27日に脱穀する。

 22日に畑を片付けてそば殻を撒いた。そば殻は1反に16袋撒いた事になる。そば殻を播き続けて、土に腐植が増えて、ふかふかになってきた気がした。大豆がそれなりにできていたので、土はだいぶ良くなってきたのではないかと思っている。そば殻はほとんど肥料分はないかと思う。腐植を増やすことになる。大豆の根も畑でそのまま漉き込んだ。

 今年画期的だったことは大豆が総生寺裏の畑と、家の脇の畑がほぼ出来が一緒だったことだ。家の脇の畑は15年畑を続けてきて、土壌がとても良くなった。その畑と総生寺裏の畑では少し出来が違っていたのだが、今年は総生寺裏の土が改善されたことが、作物の出来で分かった。

 畑が浸透性が改善された結果だ。畑に1メートルを超えるタテ穴を5㎡に1個掘った。これで畑が劇的に変わった。今度麦を播けば、土が良くなったことがわかるのではないかと思っている。大豆が差がなくなったのだから、きっと麦も大丈夫ではないかと思っている。土壌は浸透性が良くなければ還元化してしまう。

 たぶん石垣の土壌は腐食を入れて、浸透性を改善しなければ良く出来るようにはならない。斜面の畑の方が良く出来るはずだ。腐植をどうやって増やすのが合理的なのか、これから考えてゆきたい。道路わきにすぐ降ろせる、堆肥置き場を作るという事だろうか。

 今年作る麦の品種は「サチホゴールデン」という品種だ。栃木県農業試験場栃木分場(指定試験地)において、「大系R4224」と「関東二条29号」の交配より育成された品種。栃木県ではずいぶんと充実した試験栽培をした上で、奨励品種に取り入れている。極めて大事なことだ。

 これならば、北海道の春大麦を小田原で作るより、適性があるのではないだろうか。去年どうもうまく出来なかった。佐賀県など九州でも奨励品種になっている品種。播種時期は小田原の気候であれば、栃木よりも暖かいから、11月24日は遅めではあるが、許容範囲ではないかと思われる。

 畝幅は45㎝にした。90㎝にしなければ、耕運機で間を入り、除草が出来ないという意見もあり、話し合いの結果。45㎝にして置き、手取り除草が遅れたら、一畝潰してしまい、90㎝にしてしまおうという結論になった。

 播種量は2通りやってみたい。家の脇の畑の下半分はゴンベイ播種器のベルトそのまま。上半分がヒトこま落し。つまり上下の畑で、播種量が倍量違う。穴には3粒ほど麦が入る。多く播いた方がいいのか、少なくても構わないものか、播種量の違いでの生育の変化を見たい。

 家の畑は特に肥料は撒かなかった。大豆の草抑えに、ソバカスがかなり撒いてあったので、そのままトラックターで耕運してくれた。トラックターはどこも渡部さんがやってくれるのだが、実に手際よくなっているので、あっという間にきれいな播種の準備が出来た。

 午前中の作業で終わった。5人での作業だった。3人が交代で播種をしたのだが、播種器の調整が深くて、雨が降った後の重い土という事もあって、女性では押せないほどきつい作業だった。往復すると息が切れるほどだ。大豆の播種の深さ調整でこうなった。

 直さないでその深いままで、播種した。どうだろうか。麦には深蒔きになっていなかっただろうか。大丈夫だと思うが、今までで一番深い。1反2畝蒔いて、午前中早めに終わるぐらいの作業だった。以前一人で撒いたことがあるが、やはり午前中で終わった記憶がある。

 12月、1月と麦踏と土寄せ。これには残念ながら来れない。水彩人の集まりがあるから、それに合わせて短期間だけでも来て、タマネギと、麦の草とりをしたい。その頃には味噌づくりもやるのかもしれないが、その参加は無理だと思っている。

 2月に来たいのだが、石垣の田植えとの調整になる。このあたりがまだ見えないところだ。なかなか、両方で農作業に全部参加してやるのは難しいところがある。果たしてどういう事になるか。みんなのお陰で、タマネギも、ジャガイモも出来たが、今年はさらに無理そうなきたしている。

 せめて、タマネギの植え付けだけはして帰りたいとお願いした。5日に植え付けの日を決めてくれた。ベットづくりなど、28日あたりにやろうかと思っている。玉ねぎは鶏糞肥料を入れたいので、早めに入れて、1週間あけて5日に植えれば丁度良いだろう。

 問題はビニールトンネルをしてよいかどうかである。ビニールトンネルをしたいのだが、草取りが大変になるという事だ。迷惑はかけられない。1月に草取りに来るという事が出来れば、トンネルを使えるかもしれない。舟原畑は寒いことと、風が強いことで、トンネルを使わないと、タマネギは良く出来ない。

 そういえば、今回、石垣の田んぼで栽培を試してみる、ハルミと、サトジマンの種籾を忘れないように持ち帰らないとならない。来年のシーラ原田んぼはともかく試験栽培をしてみる。うまく、崎枝田んぼの準備が出来れば、そちらで試験栽培を始めることも出来るかもしれない。

 ともかく今年も大豆が収穫が出来て、大麦を播くことができた。感謝しなければならない。こうして、小田原に来て、充実して農作業が出来ることに感謝しなければならない。農の会の仲間の活動が充実しているお陰である

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梅干し麦茶の作り方

2021-07-20 04:26:48 | 自給
 
    

 熱中症対策の決め手は「梅干し入り麦茶」だ。ともかくのどの通りがよく飲みやすい。田んぼの作業の合間や、絵を描いているときなど、いつも飲んでいる。午前中400CC。午後400CCは飲んでいる。麦茶のミネラルと、梅干しの塩分が合わさり、熱中症を防げる。

 梅干し麦茶を頻繁にすこしづつ飲んでいる。麦茶の効能はミネラル分が豊富と言うことがよく言われる。もちろんそれもあるが、それ以上に市販の清涼飲料を飲まないですむと言うことが良いかと思う。糖分、カフェイン、ジュースの高カロリー、合成甘味料、これらを取らないですむ。

 こういうものがなんとなく良くないと言うことは誰でも思うものだろうが、糖尿病の家系だから、カロリーの取り過ぎはとても気をつけている。夜55キロを超えていたら、酒を飲めない。こういう厳格なルールを決めている。酒が飲みたい余り、清涼飲料は飲まない。

 そこで、麦茶である。夏を越えるだけの麦茶が真空パックしてあるので、一安心である。麦茶の作り方は、まず、大麦を栽培するところから、ということになる。そのことはまず置いておいて、麦を煎るところから、とこれも次に置いておいて置く。

 1リットルの鍋に水を満杯にして、その上から表面を覆いいくらか山盛りになったぐらいの麦茶を入れる。そこに梅干しを一つ入れる。そして、13分煮出す。そのまま止めて、4時間さます。始めるのは4時だから、8時に携帯用のボトルに入れて出かける。

 4時にコーヒーを入れるときに、同時にこの作業をする。何でも同時進行が好きなので、この間トイレに行き、歯をみがき、顔を洗い、パソコンを立ち上げる。すべてが終わるのがおおよそ13分と言うことになる。何故13分が分かるかといえば、電磁調理器の燃焼時間を13分という所に設定するからである。

 すべてが終わる頃には、パソコンの前に座り、熱いコーヒーを飲みながら、メールとフェースブックを見ている。そうだもう一つこの間にやっていることがあった。忘れがちなのだが、書くのまで忘れていた。お風呂にある洗濯乾燥のために窓を閉めて、乾燥機を2時間かける。こうしておかないと、朝の動禅体操が終わった7時に洗濯物で風呂には入れないのだ。

 梅干しの効能は夏場の体調調整には外せない食べ物だ。昔漬けた三年もの、四年ものがまだ沢山ある。梅干しも古いほどエライと思い込んでいるので、ついついため込んである。梅干しも梅の栽培からと言うことになるがこれもここでは置いておく。

 夜中など目が覚めたときにも飲んでいる。案外夜中に汗をかいて、熱中症の危険がある。何しろ、石垣島の夜温は29度以下にはならない。冷房を入れて寝ているが、それでもかなり寝苦しい。夜中に目が覚めてしまうこともある。

 一つ外せないことだけ書いておけば、完熟落ち梅を使うと言うことである。かなり味が違ってくる。深みがあると言うか、まろやかさを伴う梅干しになる。そのまま長年つけ込んであるから、少し乾燥気味になっている。これを一つ麦茶の浮いたところにポチャンと落とす。

 冷め切ったところで、濾してボトルに詰めている。冷たい麦茶をがぶ飲みするのは避けている。お腹がだぶつき、むくみが生じる。もちろん氷を入れて冷たくして飲んだ方が美味しい。美味しすぎるのも問題なのだ。常温というのはからだが一番受け止めやすい。

 口に含んだときに麦の懐かしい香と、梅干しの爽やかな塩分を感じる。もちろん押しつけがましいほどの主張のある味では無い。気にしなければ味がしなかったのかとおもう程度で済む。絵を描いているときにはこの程度の味が丁度良い。のどを潤すぐらいがよい。

 本当は熱いコーヒーが絵には良いのだが、ファミマにはまだ行きたくないので、アトリエカーでは1年以上飲んでいない。身体を考えれば、コーヒーより梅麦茶に決まっている。コーヒーはどうせ午前中だけなので、熱いうちは麦茶で通すつもりだ。
 
 麦茶の作り方は依然書いたが、大麦であれば二条でも六条でもそれぞれの味だ。麦は完熟になったほど良いらしい。今回は二条が完熟だったこともあり、そちらの方が味が良かった。上品な味がした。比べなければ分からないぐらいの味の違いだろう。

 大麦の焙煎の好みは黒くなるほどのイタリアンローストである。鉄鍋でゆっくりとかき回しながら焙煎する。時間はかかるが、コーヒーと同じで好みの焙煎が誰にでもあるのだろう。焙煎したてが一番美味しいが、作ったらすぐに真空パックしてしまう。

 大麦は品種の選定を間違えないようにしたい。北海道の大麦を頂いて、蒔いたために、とても作りづらかった。また、刈り取り時期に雨が多いので、刈り時の選定は難しい。完熟してから刈るためには早く蒔かなければならない。と言って大豆の後では早いと言っても限度がある。

 お米と違い干しやすいと言うことがある。天気さえ良ければ、刈ってそのまま畑の地面に干しておいても、よく乾いた。田んぼで干すお米とは大違いだった。石垣島ではお米も一日で乾くと言われていた。刈った稲は紐で束ねないでも、道路に干しておけば一日で乾くと言う話だ。

 梅干し麦茶は夏の最高の飲み物だ。のどの渇きを納める。熱中症を避けることが出来る。お腹がゴロつかない。身体がむくまない。夜中でも飲める。梅干し麦茶はいつでもすこしづつ飲む。何故か1日分が調度で余ることがない。
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麦茶の焙煎:淺煎り、中煎り、深煎り、黒煎り

2021-06-09 04:09:44 | 自給


 東さんと麦茶づくりをした。半日で8キロの麦茶を作った。いつもはドラム缶を半分にした釜で、いっぺんに大量に作っていたのだが、今回は昔卵油を作っていた、60㎝の鉄の平鍋で作った。どこかに行ってしまったかと思っていたのだが、機械小屋で見つかった。

 今回は試飲が目的である。どの位の焙煎の具合が自分に合った美味しさなのかを試すためだった。麦茶の焙煎も様々で人それぞれに意見がある。だいぶ繰り返してきたが、深い焙煎が好みである。コーヒーの焙煎で言えばイタリアンローストである。

 コーヒーのイタリアンローストはフレンチローストよりも煎りがさらに深い。脂が浮いてくるくらいまでローストする。今回は浅煎り、中煎り、深煎り、黒煎りと4段階の焙煎を試した。麦茶も、焙煎でコーヒーと同じくらい味が変わってくる。

 と言っても焙煎の途中で取り出しただけだ。最後に黒煎りまで行ったという事になる。以前から私は黒煎りイタリアンローストの麦茶が好みだった。所がみんなで麦茶を作ると中煎りぐらいの状態でもうできたという意見が圧倒してしまって、進められないことが多かった。

 みんなの麦茶だからそれは仕方がない。今回は思う存分焙煎をさせてもらった。私の飲む麦茶を作らせてもらう計画だからだ。もう一つは2条大麦と、6条大麦の味が異なるかである。一般には6条大麦が麦茶用とされて出回っている。しかし、ビール用と言われる2条大麦の麦茶もない訳ではない。

 焙煎は強火のたき火で行った。一度よく燃やして熾火になった状態で焙煎をした。黒煎り迄おおよそ1時間である。以前、ドラム缶ガマの時はもっと時間がかかった。卵油用の鉄の平鍋はなかなか良い調子で焙煎が出来た。

 10分程度で淺煎りを取り出す。20分ぐらいで中煎り、45分ぐらいで深煎り、そして1時間ぐらいかけて、黒煎り取り出した。全体で3回やったのだが、だんだん釜が熱せられたためか、時間は短縮された。量は1回に2キロである。

 3時間ぐらいで6キロの麦茶が出来たことになる。焙煎の間はかき回し続けていた。最後には大きな杓子が黒く焦げた。そしていよいよ、試飲である。試飲は4名で行った。味はそれぞれの好みがあるので意見を聞きたかった。

 麦茶の抽出の仕方は、500ccのみずに20グラムの麦茶を入れた。多く入れた方が美味しい。そのまま火にかけて、沸騰してから5分間沸騰したままにして置く。そして火を止めて、30分置いて置き飲んだ。順次4つを作り、較べながら飲んでみた。

 色は明確に焙煎時間に従って濃くなってゆく。色だけで言えば、黒煎りが一番美しい。コーヒーのような色である。色に関しては、全員が濃いほどおいしそうに見えるという事だったと思う。そして、飲み味に関してはどうだったか。

 これはそれぞれのものだと思うので、何とも言えないが、淺煎りを評価した人は居なかった。一人から、中煎りが麦の味が出ていて、甘さも感じられてよいという意見があった。後の3人は強い焙煎の方が苦みも出てきて、麦茶としては良いのではないか。特に冷たくして飲むとすれば、濃い方がさっぱりするのではないか。という意見があった。

 そして、2条と6条の違いは、2条の方が麦らしい繊細な味がしたようだ。6条の方が麦茶らしい味がすると思えた。これは6条の味に慣れているからかもしれない。意外に2条も悪くないというのが、全員の感想だったかと思う。

 補足で、以前小麦で作った時には麦茶の味とは言えないものだった。たぶん裸麦では麦茶は出来ないという事ではないだろうか。麦のもみ殻の焦げた味が麦茶の香ばしい味を作っている気がした。その為裸麦である小麦では麦茶は出来ない。

 本来、2条大麦の方が6条大麦よりも粒が大きい。今回北海道の2条大麦は春蒔き小麦である。小田原の冬に蒔く栽培では十分なものは出来なかった。この2条大麦は北海道の地ビール会社から種籾を頂いたものだ。次回は冬小麦の2条大麦を栽培してみたい。

 暖地向きの2条大麦を作れば、粒の大きい実が収穫できて麦茶の味も変わるのではないだろうか。6条大麦に関しては東さんの大麦で、田んぼへの転換という事があり、少し成熟が足りなかったという事がある。粒は十分大きく、むしろ2条大麦よりも大きいくらいであった。

 2毛作の課題として麦の成熟にはあと2週間ぐらいの時間が欲しかった。麦の苗作り栽培の考えを取り入れる必要があるのかもしれない。麦茶は夏の飲み物の定番である。一番さっぱりしている。温めた麦茶もいいし、ぬるめのものも良い。

 カフェインが入っているものは午後は飲まないことにしているので、どうしても麦茶が良い。さんぴん茶という物を石垣では飲むが、どうしても子供のころから飲んでいた麦茶の方がいい。麦茶を飲んでいれば脱水症にはならないだろう。

 
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あらためて、自給のことを考えてみる。

2020-12-28 04:17:46 | 自給

 名蔵の奥の田んぼである。12月の終わりに代掻きが行われた。今年は道普請がされていたから、代掻きが遅かったようだ。昨日も畦を治している方がいた。石垣の田んぼは冬水田んぼである。そばの田んぼの方から、理由を教えていただいた。

 石垣の土は一度乾くと、日干しレンガのように堅くなる。だから、常に水を溜めておけば堅くならないと言うことだそうだ。鳥類保護のためと言うことでは無かったのだ。農家のための技術が水鳥たちのためにも成っていたのはすばらしいことだ。

 代掻きされた田んぼの濁りは一週間は無くならない。それくらい細かな土壌で水持ちが実に良い。良すぎる。この濁りをうまく使い、コナギの発芽を抑えることが出来るのではないだろうか。8センチ以上の深水にして、一週間ごとに水を濁らせば草が生えないのではないだろうか。

 この田んぼも一度水を入れただけで、後は天水だけである。それでいて、濁ったままで水が引くと言うことが無い。浸透性が悪いということにもなる。この浸透性の悪さが、石垣の稲作の収量向上を困難にしているのかもしれない。

   山北の山の上で30代後半に自給の暮らしを始めた。自給に挑戦した。絵を描いて行く上でどのように暮らしをするかを考えたかった。シャベル一本の自給は意外に簡単に5年ほどでできた。そこから、みんなの自給と言うことを考えるようになり、あしがら農の会に繋がった。

 社会をよくするために絵を描くと考えてきた。それはいまでも実現できないのだが、今も挑戦をつづけている。人間のために、自分という存在を追求したい。だから、ひとりの自給ができたときに、そこまでで終わるわけにはいかなかった。

 自給は種一粒から始まる。窓辺でトマトを育ててみる。このことがすでに自給なのだと思う。考え方を分かっておりさえすれば、それだけでも充分なのだ。自分の存在は日々の食べ物から出来ている。この原点を見つめてみることが生きることの理由を考える上で役立つ。トマトの苗の生長を見ながら、考えてみる。

 トマトの苗一つの中に、自然のすべてがある。人間もその自然の一つ。蒔かれた種は芽を出す。この不思議は命というものすべてに共通する。いくつもの段階を経て、トマトという実りを結ぶ。この世界観をどう受け止めるかだろう。トマトは美味しいしい食料であり、次の世代に繋がる種である。そしてトマトは枯れて終わる。

 食糧を自給するとは、自分の命を育てると言うことなのだろう。人間は100年前までは、食糧自給の暮らしが当たり前のことだったのだ。今や食糧を作ると言うことは、社会から見えないことになってしまった。この原点が見えないで絵を描くことは出来ないと考えた。

 ひとりの自給が達成できたときに、みんなの自給を考えたのは、自給を体験することは、誰にとってもかけがいのないものになると考えたからだ。大豆を作ると言うことはどこまでも総合的なものだ。ひとりでやるよりみんなでやることが、本来の社会というものの理にかなっている。

 ひとりの自給の3分の1の労力で、みんなの自給は可能だ。ひとりの自給を日々3時間の労働で達成できる能力の人が10人集まり自給をすれば、1時間の労働時間で味噌は出来ることになる。みんなの自給にはひとりでは自給が無理な人もいる。子供も居れば老人もいる。

 農作業には子供の仕事もあれば、老人の仕事もある。多様な人が社会にはいる。ひとりの自給が出来る能力の人は3時間働くだろう。老人も、子供も働く。3時間も働けないかもしれない。しかし、10人の自給はみんなが提供した労働で、総合的に達成できる。ひとりの自給ができる人も、3時間以上働くわけでは無い。

 能力の高い人を中心にして、その回りを様々な人が支えるような形ができれば、合理的な自給が可能になる。これは人間が共同体を作った原型だと思う。能力主義や経済優先の社会になり、価値観まで自分を優先し競争に勝たなければ生きて行けないと、考え方が変化したのだろう。

 みんなの自給は楽しいからやる自給である。自給のための労働はつらいだけではなく、楽しい労働であると考える。それは自分のためだけの労働では無く、みんなのためにも成る労働だから、よりいっそう楽しくなる。人間には人のためならば頑張れるという人もいる。経済合理主義で考える者であれば、きっと馬鹿馬鹿しいと切り捨てる考え方なのだろう。

 自給を志したときに化石燃料は使わないことにした。どこまでやれるものか、自分を試してみたかったからである。機械力が無いとしても、自給ができると言うことを確認したかった。今でも農の会のは機械力に頼らない農作業である。

 しかも、自給農業は無農薬、無化学肥料、天日干し、そして収量においても周辺農家以上収穫量の達成が可能なのだ。遊びの農業では無い。自給農業は自分の命を支える農業である。不都合なら止めれば良いというような気楽な農業では無い。

 農の会の味噌造りも、最初は北海道の有機の大豆を購入して味噌造りをした。地域にも大豆はあったのだが、有機の大豆では無かった。果たして、遠くから有機大豆を買うことと、地場の慣行農法の大豆を購入することを選ぶとすれば、どちらが正しい選択なのか。当然地域のものである。

 有機野菜の方が身体に良いという考えよりも、地場の有機農業を育てることが大事だ。紆余曲折を経て、農の会で味噌造りをするのであれば、北海道から購入するより、自分たちで作る方が良いとと言うことになった。お米もあるのだから、麹も自分たちで作る方が良いと言うことになる。

 こうして大豆の会が始まったわけだが、その始まりは苗一つの自給である。大豆も蒔けば、芽を出したくさんの実を付ける。それをいただき味噌を仕込む。この循環を感じることが自給なのだろう。購入する大豆とは意味が違う。この循環は途切れることは出来ない。命をつないで行き、それをいただくと言うことである。

 コロナウイルスが蔓延し、人が集まることさえ困難になっている。自給の暮らしを忘れてしまった人間が導き出した、新しい感染症の出現である。コロナの次もあるに違いない。人間は生き方を変えなければならない。

 社会の中で生きる人間が、孤立を強いられている。人間は暮らし方を見直さなければならないはずだ。経済合理性に従って居る間に、最も大切な人間の暮らしの自給という原点を見失ったのだろう。

 こうしたときこそ、苗一つの自給の原点を思い出すべきだろう。種は芽を出す。芽は育ち実を付ける。その実がひとの命を支えてくれている。コロナは必ず終わる。感染症はどれだけ猛威を振るおうとも、終息が来る。それは今地球上に存在するすべての生き物の姿である。

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2020年一人の味噌づくり

2020-12-05 04:18:41 | 自給


  煮あがった大豆と、ビニール袋に入った塩切した麹とこれから詰める甕。

 今年はコロナ自粛で味噌づくりを集まって行う事は難しくなっている。追い込まれたような気持を払しょくする意味でも、味噌づくりは一人でもやりたいと思っていた。今まで長く味噌づくりをして来たのに、コロナ自粛で味噌づくりを中断するという事はあってはならないと思う。

 食糧の自給は出来る限り止めてはならないものだ。身体が動く間は続けたい。味噌づくりを行うという事は、自給の覚悟を持つ手がかりのようなものになっていた。味噌はただの食糧ではなくなっていた。発酵食品の長い熟成の時間が自分の生きる時間と重なる。

 もう20年になる。農の会として取り組み始めてからも10年は優に超えただろう。大豆・お米を栽培して、味噌・醤油を作る。これは農の会の自給を象徴する総合活動だと思ってきた。たぶん他にはここ迄やれている組織はないはずである。それが当たり前のようにできているところが農の会の力ではないだろうか。

 1反の田んぼがあれば、一つの家族が米、味噌、醤油と確保できる。お米は田んぼで作り、畔で大豆を作る。600キロのお米と10キロの大豆があれば、味噌醤油と基本となる食糧が確保できる。1反の自給百姓である。

 味噌を作るためにはまず米麹づくりである。去年のお米の余ったお米を麹にする。麹を作るためにはむしろ古米の方が上手くできる。お米は日々の暮らしのためには途切れるわけにはいかない。新米が出来ても古いものから食べるのは農家では普通のことだ。そして麹を作る分だけの古米になったところで、新米を食べ始める。それが12月ごろという事になる。

 今年は古いお米が14キロぐらい残った。これを精米したら、12キロぐらいになった。実は恥ずかしながら、一袋の口が開いていて虫が食べてしまい使えなくなっていた。しかし、12キロという量は十分な麹の量である。味噌づくりには麹を3キロ使う。

 麹は11月29日に仕込んだ。5番手入れまで12時間ごとに行い。2日の朝に出麹となった。良い麹が出来たと思う。家の庭で、渡部さんとやったのだが、何から何まで渡部さんが準備してくれて、便乗させてもらったというのが、実態である。

 12キロのお米の量はちょうど米袋ひとつで出来る。米袋麹づくりはとても簡便で、しかも散らからず汚れない、良い麹が家庭でも出来る。蒸し上げたお米に麹菌を植えて、そのままコメ袋に直に入れてしまう。麹菌はまんべんなく植え付ければ、揉み込むようなことは必要ない。

 29日の1時に始めて、15時に植え付けが終わった。そのまま30日の朝7時までそっとしておいた。ホットカーペットの上である。上に毛布を掛けてあげた。温度は40度にはならないように管理をする。

 麹の中には長いコードのある温度計の検温部を差し入れて、枕もとで麹内部の温度が見えるようにした。動きを監視して30度台で保てるようにした。翌朝、米袋をそのまま袋に開かずに、上下反転させながら、かき回し一番手入れをした。お米がこぼれない様に、袋の入り口はガムテープで止めた。

 その後は12時間ごとに袋を開けずに何とか、かき回す。その方が衛生的である。1日の夜4番手入れの時に袋を切り広げた。切り開いた袋一杯に麹を広げて、電気カーペットはやめる。上からダンボールで覆いをして、12時間。2日の朝5番手入れをしてに出麹とした。そのまま覆いを取り除いておいた。3日の朝頃には完全に冷えた。

 この間田んぼの工事をしていたわけだが、管理には全く問題がなかった。部屋にはその間洗濯物を干していた。乾燥が強いよりは湿気ている方がいいかと思ってだが、どれほど効果があったのかはわからないが。例年通り良い麹が出来ている。

 12キロの麹の内3キロは味噌づくりに使う。残りの9キロは十分に発酵が終わり、袋に入れても再発酵しないようになったところで小分けして袋詰めする。そして冷蔵保存をして一年間何かと使う。主に甘酒である。

 甘酒は好きでよく飲む。ご飯を軟らかめに炊いて、同量の麹と混ぜて同量のお湯を入れる。40度程度に一晩保つとできる。ステンレス網で濾すと滑らかになり美味しい。夏の間の健康飲料である。飲む点滴と言われるほどからだの栄養補給になる。

 田んぼ改修工事も無事終わり、4日は朝から一人の味噌づくりである。3日の夜5時に大豆3キロをきれいに洗い、水に浸けた。4日7時30分から大豆を煮始めた。10時30分に煮あがった。大豆が十二分に柔らかくなった時に、水分が大豆に沁み込んでなくなるように炊いた。こうするとおいしい大豆に煮あがる。

 そのまま1時間置いておき、冷めたところですりこ木でつぶした。柔らかくなっていたので簡単に粒はつぶれた。つぶれたところで米麹と混ぜる。米麹は先に塩と混ぜる塩切をしておいた。混ぜながら、甕に詰めた。一段詰めては塩をまぶし、一段詰めては塩をまぶしを繰り返し、一番上には残りの塩を一面にかけた。

 サランラップで密閉して床下にしまった。間に昼ご飯を食べたが、すっかり終わって2時だった。味噌の甕への詰込みは1時間ぐらいで出来た。味噌づくりは案外に神経を使いつかれるものだ。終わって少し疲れていた。昨日までの田んぼの改修工事では感じなかった疲れだ。

 一人で味噌を作るのは山北以来だ。手際としては確かに一人は簡便である。しかも気に入ったものになった。何か面白くはない。みんなでやる楽しさがない。みんなで協力する味噌づくりはお祭りである。人間は同じ気持ちの人たちと集まり、気持ちを合わせることが必要な生き物だとしみじみと思った。

 それでも味噌づくりが終わると、何か役目が済んだ安ど感がでてきた。自給作業の確認点検が終わったような気分である。今朝はやる気魂が出てきている。今日はタマネギの植え付け作業である。改修工事を行った舟原の奥の畑である。雨が降りそうで心配だが、ダメなら明日がある。



 

 
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檜原村で採取生活をしていた人が居た。

2020-10-07 04:16:40 | 自給


 檜原村の崖のような斜面に、しがみつくような家があった。その小屋には鮭が20匹は吊るしてあった。その小屋の前を通りかかったのは、窪川さんと山歩きに行った帰り道だった。もう40年も昔の話なのだが。その家がどういう家だったのかはずいぶん後になって、テレビ番組で知った。

 その時の山歩きは、成果のない移住先を探す山歩きで疲れて歩いていた。家を見ると、あれは貸してくれないものかと、図々しい想像を巡らせていた。その時の二人の考えたのは、あの小屋では暮らせないという小屋だった。あんなに不便な場所に家を作らなければならないとすると、この辺辺りに移住先を見つけるのは難しいと思ったわけだ。

 奥多摩駅まで戻ったところで、夕飯を駅前のいかにも昔の喫茶店でカレーを食べていたときに、直下型の大きな地震が起きた。震度5の直下型地震があった時、と言うことで調べればいつだかわかるはずだ。トラックでも隣の店舗にぶち当たったのかと、あわてて外に出てみたのだが、何もない。地震があんなに大きな音がする物だとは思わなかった。

 喫茶店に戻り、コーヒーを又飲むことにした。何しろ電車が不通になってしまい、当分来ないというのだ。それにしてもあの塩引き鮭は何故あんなに吊されているのかと言う話になった。鮭が奥多摩で捕れるわけがない。そもそもあの不思議な小屋は一体何者が住んでいるのかという話になった。

 奥多摩に行ったのは家探しであった。どこかに越そうとして探していた。ところが奥多摩の当たりの家は家墓である。墓があるので、人には売れないし、かさないという話だった。叔父の彫刻家の草家人の家も棡原にあるが、家にお墓がある。今は家に墓は作ってはダメなのだろう。草家人の墓は生きている内に作ったのだが、何故家墓にしたのだろうか。残された家族には手に余るであろう。

 その頃窪川君と私は二人で月に1回はこうして家探しに歩いていた。どこか山の中に入植しようという計画なのだ。何故そういうことになったのかはもう思い出せないのだが、その頃仲間で北都という同人誌を出していた。何でそんな物を出したのかも今ではよく分からないが、フランスから戻って久しぶりに会ってそんな話になったのだ。高校生の頃一緒に同人誌を出していたことがあったので、又やろうと言うことになったに違いない。

 その同人誌には窪川さんは映画批評。私は西洋美術史の10人というものを書いた。初めから10号まで出すつもりだったので、私の興味のある10人について書いてみようと考えていた。マチスとか、ボナールとか、ベラスケスとか、書いたのだと思う。まだ世間的には同人誌を作るというような活動はめずらしいものではなく。何しろ手書きの文章を、ガリ版の原紙に切ってくれると言う人が、三軒茶屋には居たのだ。手書きのガリ版刷りの雑誌である。自分で切ったページも当然ある。ガリ版刷りの作品というものをつくり、表紙や挿絵にしていた。

 そのうち、写真製版の機械が出てきて、タイプで打ったものを写真製版すると言うことに変わった。今度はその写真製版を利用して、こった作品を作っていた。もうあの雑誌もすべて廃棄したので幸いというか、どんなものだったか、どんな文章だったのか。見ないですむ。どうせ恥ずかしいようなものに違いないのだ。

 その雑誌の文章の中で、窪川さんが有機農業の話を書いたのだと思う。それで、東京を離れてどこか農業が出来るところに行きたいという話に自然なった。私は農業をやると言うより、絵を描く暮らしから逃れたいと言うことの方が強かったのだろう。

 そう塩引き鮭のことだ。あのとき全く不思議で終わった塩引き鮭が後々に、テレビで解明されたのだ。そこには自給自足の仙人のような方が、住まわれていた小屋だったのだ。何しろその仙人は元々は仕事で活躍されていたような方だったらしい。それがあるとき一切を放棄して、奥多摩の山の中にこもってしまったらしい。

 それを心配した友人達が、何か欲しいものはないかと言うことになる。すると塩鮭ぐらいがあれば十分だと答えたらしい。それならと沢山の友人が塩鮭を送りつけることになったのではなかったかというおぼろげな記憶だ。

 すると当然食べきれるものではない。そこですべての鮭を天井から吊して、何か吊せるところはすべて吊した。いただいたものは間違っても食べなければならないというので、ひたすら塩引き鮭を食べていると言うことらしい。あの鮭の釣るし干しの現場の理由がテレビ番組で分かった。いただいたものを捨ててはいけないのだ。これは印象深かった。

 今思えば、山の中で農業を始めようという二人が、奥多摩の山の中で採取仙人に出会っていたのだ。あのとき拒否されたと言うことでもなかったが、もちろん歓迎されたわけでもなかった。山の中で小屋を作り暮らしている人が居ると言うことで興味津々だった。自分ならもっとうまく小屋を作れぞ。あれこれ見せて貰った。

 ところがその人は農業はやっていなかった。この人が仙人であるのは採取生活と言うことである。頂き物が多かったのかもしれない確かどこか外国で暮らしていた人という話だった。その人の家は実に不便な作りで崖にへばりついたようにあった。農業をやらないと決めてしまえば、又暮らし方も違うのかもしれない。

 上野原の奥を歩いていたときにもっとすごい小屋に暮らしている人に会ったことがある。粗朶を立て掛けただけの家だ。左右に日本の長い棒を組み、結わえて建てる。そのY字部分に一本の長い棒を渡す。その棒に向けて木の枝が立て掛けてあるだけの家だ。つまり木の枝の屋根だけの家だ。沢山の枝がぎっしりと立て掛けてあるので、雨は入らないのだろう。中にも木の枝が敷いてあった。人ひとり寝るだけの家である。その人の説明では山に来たときはここに泊まると言うことである。

 その人は炭焼きをしている人なのだ。山で木を切り炭焼きの材料の準備をしている。炭焼き窯一杯の木が切り終わったならば、穴窯で焼くのではないだろうか。炭焼き小屋があると言うわけでもない。焼き終わったならば、又場所を変えて、どこか他の山に行くのかもしれない。不思議な暮らしであるが、実際にそういうひとにであったことがあるのだ。

 窪川さんは長野にひとりで越してしまった。老女がひとりで暮らしていて、孤独死した家だった。何で長野の山の中で、都会から老女がひとりでたどり着き、暮らしていたのかは不明である。そして歳をとり孤独死をした。見つかるまで時間がかかったらしい。

 誰もが気味悪がってその家に近づかなかった。住んでくれる人が居れば誰でも良いので住んでくれという話に窪川さんは乗ったのだ。その頃何故か仕事は大理石の販売であった。日本の大理石が売れるとも思えなかったが。

 その村で採れた大理石を製品化して、販売しようというのだ。レストランの調理の要の大理石などを作っていた。余り売れるはずもなかった。どだい窪川さんにセールスの仕事など出来るわけもなかった。その後大理石が商品になったという話はない。

 2年ほどして、窪川さんは八千穂の方に越した。あれこれ工夫をして随分大きな家を建てた。今もその家が、オリ座農園になっている。その窪川さんが13回忌であると言う手紙が奥さんから来た。今では奥さんが有機農業の仙女のようになっている。

 窪川さんが八千穂に越してから、さらに2年ほどしてから、私は山北の山の中で開墾生活に入った。八千穂は寒い。子供の頃育った山梨の藤垈も寒かった。寒いところは無理だと思い山北になった。

 山北で仙人になることは出来なかったわけだが、何とか人間には成れた。農の会という仲間が出来た。仲間が居なければ何も出来ないと言うことを学んだ。みんなでやれるようになったのは、ひとりでやれたからだと思う。

 今もみんなの農業に入れてもらえるのは、あの時一人の農業から、みんなのの農業に変わることが出来たからだ。小田原の農業生活もなかなか良いものだ。

 
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2,100歳までの健康体操

2020-08-11 04:08:53 | 自給


 何度も健康法は書いているのだが、これまで実戦してきた健康法は、人にお勧めしてもいいくらいのものではないかと思っている。100歳まで生きてから、実証されるのだが、後29年待たなければならないので、団塊の世代にはもう間に合わない。そこで、中間報告として書いていることになる。

 現在の年齢は8月21日で71歳になる。しかし、タニタの体組成計が示す年齢は42歳である。フィットビットの示す有酸素運動によるフィットネス数値は67である。これは一流アスリート並である。この値は私が自慢で言うのではなく、タニタとフィトビットがそのように言うのである。まあ、こう書いてしまえば自慢になるのだが。

 まずは体操である。朝6時から45分間全力で健康体操をする。ちょうど小学校の体育の時間が毎日あるようなものだ。大学の体育の授業で教わったことなのだが、どんな体操でも全力でやれと言うことだった。ラジオ体操でも全力でやれば、第一と第二を続けてやれるものは競技者でも少ないと言われていた。

 確かにこの全力でやると言うことは意味がある。正しい体操を全力で行えば、もう第一ラジオ体操だけでふらふらである。こういうことはやってみなければ実感できないものだ。この先生の体育の授業は鉄棒でけ上がりまで出来ないと単位をくれなかった。その頃はけ上がりはできたのでなんとか単位がもらえた。

 全力で45分どんな体操をやるかと言えば、1,スワイショウ 2,八段錦 3,太極拳二四式 4,膝蹴り30本3回 5,腹筋ひざ上げ200 以上である。どの体操も全力でやるのはなかなか難しい。教わる必要は無い。何年か工夫しながらやれば、自分の形が出来上がるものだ。

 1,初めはスワイショウから

 腕振り体操と言うことだが、これを正しく行うのは意外に難しい。腰ではなく骨盤で身体を回す。腕には力を入れないで、投網を撒くように悠然と降る。これを左右の振りで一回として、50回行う。最初は緩やかに10回準備体操をしてから、本格稼働する。

 スワイショウは達磨大師が中国に伝えたと言われている。そもそも達磨大師が実在かどうかは分からないのだが、慧可という中国人の弟子が作り出したとも言われている。達磨大師は禅宗の開祖である。

 慧可は達磨大師の弟子にしくて欲しくて、穴の中で座禅を組んでいるだるまにお願いをする。何度お願いしてもダメなので、自分の腕を切り落として、達磨に投げつける。雪中断臂と言われる。これが伝説だと思われるのは、何故腕のない慧可がスワイショウができたのかと言うことになる。

 いずれにしても中国の宋の時代、日本にはまだ仏教が伝来していない古墳時代にはスワイショウは始められて居たようだ。伝わっている最も古い体操ではないだろうか。そう考えただけでもありがたみのある体操である。

 菩提達磨大師が面壁9年でも時々立って、スワイショウをしたのだろう。スワイショウは動禅の一つの形でもある。実に瞑想状態に入るには良い動きなのだ。だから、まず朝起きてスワイショウから始めるのが一番良い。

 スワイショウは背骨を中心に身体を振るという体操である。骨盤の上に背骨が立ち上がっているいことを想像して、背骨の周りを揺り動かす。これをしていると、頭から、身体の中にいろいろのものが抜け出て行く。体操なんか面倒くさいな。と言うような邪念がいつの間にか無くなり、全力で体操をしたくなる。

 動きは身体を回すという単純で難しくないものだ。ところが初めて見ると1年ぐらい毎日やっても、まだまだ本当の形はつかめていないなと言うぐらい、奥の深い動きである。だから、スワイショウの姿を見れば、その人の領域はすぐ分かってしまうごまかせない動きである。

 2,八段錦が中心の体操である。

 難しい呼吸鍛錬法である。コロナの時代うってつけの体操である。これもまた中国古代から行われていた世界でも2番目に長い歴史のある体操ではないかと思われる。800年前の書物にあるとされている。

 八段錦は厳しい体操で、これを正しく行えば、立っていられないほどの運動量になる。一動作一呼吸で行う。だから呼吸が長く続くようになれば、長い体操になる。呼吸は一気に吸うのではなく、入ってくるに任せて鼻の穴を通すという感覚である。

 吐くときも鼻の穴を空気がすこしづつ抜けて行く感覚である。力を入れて吸い込んだり吐いたりするのではなく、身体の動きに合わせ、鼻の穴を開放しているだけである。空気が入ってきて、酸素が使い切った排気になって、少し苦い空気になって出て行くという感覚である。

 取り込んだ空気が完全消費されて出て行くという感覚。8の形に分かれているのだが、一つの形を1かづつでもいいが、3回づつやると書かれているものもある。好きな形だけをかづを増やしてもいいかと思う。

 呼吸に集中できるようになると、感覚が目覚めてくる。ハット気付くと匂いに敏感になっていることに気付くようになる。音にも鋭く感覚が反応するようになる。そいうした音や、匂いは止まることなく、受け流して行く。

 目は半眼が正しい。半眼とは目は薄く開いているのだが、その目には移るものにはとらわれない。見ていないのだが、目に映っているという状態。正しこれは難しい。半眼が出来るまでは目は閉じていた方がいい。

 最後の8段はつま先立ちなのだが、目をつぶれば身体は揺れ動くだろう。これが熟達の域に達すると、微動だにしなくなる。目を空いていれば、資格に頼ってバランスを取るだろう。これではまだまだで、半眼で目に頼らないで、つま先立ちを居ている状態が目標である。

 どの動きも呼吸の限界まで行うことが理想となるので、人によって長さが違う。私はゆっくりと10を一動作で数えるようにしている。8段錦を一通り行えば、身体から汗が噴き出してくる。

 呼吸は自分の筋肉が意識をして行うものである。心臓と肺とは機能する理屈が違う。呼吸は年齢と共に衰えて行く。呼吸が浅くなる。これを八段錦を行うことで、強化することが出来る。腹式呼吸で行う。呼吸する筋肉を鍛えると言うつもりで、自分なりに工夫すればいい。

 3,番目が太極拳二四式

 戦後中国にあった伝統的健康体操を、まとめたものである。二四式はその中の代表的な動きである。半年ぐらい毎朝ややってやっと覚えられた。動きは複雑で難しいものだ。70過ぎても新しい体操が覚えられるのか、自分に勝負をした。それでやっと覚えたものである。

 だから、まだ初心者である。偉そうなことはまだ言えない。気の動きを操るものだとされているようだ。身体の中の気の流れを整え、滞りを無くす。正直この辺はまるで分からない。今のところは形に従っているばかりである。

 4、膝蹴り30本3回 
 
 これはNHKの健康番組を見ていて、取り入れた。膝蹴りを全力で行う。自分の顔を蹴るぐらいである。顔を前に出さないことだ。膝はだんだん上がるようになる。左の膝で右の耳を蹴るつもりで行う。

 30回行い、一呼吸入れて、又30回。またまた30回行う。合計90回の膝蹴りである。この体操は朝昼晩と一日3回行う。だから、一日に270回膝蹴りをすることになる。一年に1万回ぐらい蹴り上げることになる。

 何故こんな変なことを始めてしまったかと言えば、これが肝臓に良いというのだ。これをやれば泡盛を100CCを飲んでもいいという話だ。泡盛が飲みたいので、頑張っているわけだ。三番までの中国体操は、絵を描くための体操である。四番はお酒のための体操となる。

 5,最後が腹筋足上げ体操

 これは腹囲が80を超えないための体操である。腹囲とはお腹周りで一番大きい場所のことだ。あれこれ体操はしてもへそ周りの運動が不足する。すべての男性が、身長や体型を無視して、85を超えるとメタボだということになっている。

 厚生省が決めたというこの基準はどう考えてもおかしい。ボディービルダーで腹囲が85以下の人は少ないだろう。内臓脂肪が減少しても、筋肉が増えてくると言うこともある。歳をとれば、筋肉量が減少する。これは努力で補える。


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小田原の農作業10日間

2020-07-13 03:58:21 | 自給

 舟原ため池 上の段の池に水がたまらなくなっている。冬には直したい。

 7月3日(金)
 小田原に到着が夕方5時30分だった。飛行機は割合空いていてた。直行便が復活したので、3時間で着く。羽田からはコロナに気を付けて、乗ったこともないグリーン車両に乗った。車両には私しかいなかったので大丈夫だ。費用には代えられない。

 着いて息をつく間もなく、田んぼや畑をを一通り見てあるいた。見ているだけで気持ちが上がる。さあいよいよ農作業が出来るぞという気分だ。農作業はやはり好きなんだとつくづく思う。まだ、何とか普通に作業できそうなので良かった。

 日曜日に種を播く大豆畑をまず見た。綺麗に耕運してあり、一安心。これなら当日雨が上がれば何とか播種できそうだ。然し天気予報は悪い、しかし九州のすごい雨を思えば、この程度で大変などとは申し訳なくて言えない。九州の農家さんもつらいだろう。苦労されていることだろう。

 田んぼに回ると、どうだろうか少し不安な面もある。色が少し浅いように見えた。夕方だからだろうか。6日に観察会をやるのでその時じっくりと見たい。

 7月4日(土)
 この日は田んぼの草取り、4番田んぼをとにかく取り切る。ここはどういう訳か、草がはびこるようになった。十分転がしてあるのに、草が出てくる。特に手前側が草がひどい。

 それでも久しぶりの草取りも楽しい。昔より草取りの速度は落ちたが、楽しんで続けられるようになった。根気が出てきた。余り疲れないでやれる。現在

 7月5日(日)
 雨がすぐにでも降りそうな空模様。ともかく急いで播種してしまう事になる。いつもは子供や、初めての参加者にも播種器で播いてもらうのだが、今回は慣れたものでどんどん進めてしまうことにする。雨が降り出せば、たちまち播けなくなるからだ。

 全部で2反5畝ぐらいの大豆畑である。それが、2か所に分かれていて、一か所が1反5畝ぐらいで傾斜地で畑は4段に分かれている。8時前に蒔き始めて、人が増えてきた9時には1反は播種が終わった。

 すぐ、舟原圃場に移る。3人一組で播種器を操作する。舟原はそば殻からそばが芽吹いていて、播きづらいところがあった。それでも10時半には播き終わった。播き終わったころに、雨が降り出す。急いでやってよかったよかった。

 そのころ諏訪の原でネットを張り終わった人たちが来て、舟原圃場もキラキラテープを張り巡らせる。11時過ぎにはすべての作業が終わった。こんなに早い播種は初めてのことだ。雨のつもりで、充分準備がしてあったからうまく行ったのだろう。

 7月6日(月)
 田んぼ観察会だ。久野にある、欠ノ上、子の神、舟原の3か所の田んぼを見て歩く。どういうところを見るかと言えば、以下の点である。再掲

 1、株の背丈 ーーーサトジマンで60㎝が基準。葉の幅は12ミリ。 
 2、分げつの数 ーーー1本植で10本以上、20本あっても悪くない。 
 3、株の堅さ ーーー株全体が手に一杯になる量あり、弾力が強いほど良い。
 4、土壌の深さーーー 田んぼに入り歩きにくいほど深くない方がいい。深い場合は、間断灌水で土を固めてゆく。 
 5、葉色ーーー濃すぎないこと。黄ばんでいないこと。周囲の雑草と同じくらいなら心配ない。田んぼ全体に色ムラがない方がいい。この後どんどん色を増してゆくが、どす黒い色でなければ心配ない。色が濃すぎる場合は、穂肥を控える。
 6、トロトロ層の厚さーーー 土を触って表面のふわふわなところがトロトロ層。これは微生物が作り出している。これが厚い方が良い。トロトロ層より下の深い層の土を取り、匂いを嗅ぎ確認。腐敗臭がしなければいい。 
 7、入水口と水尻の違いーーーこの時期に入水口が遅れているのはそれほど心配はない。生育の違いでその年の水管理の状態の良し悪し、水温などがわかる。
 8、泥のわきの具合ーーー 歩いて泡の出具合と泡の匂いを確認。
 9、コナギの状態ーーー 草があればとる。この時期より遅れると、草取りが大変になる。
 10、虫や病気の有無ーーー ツトムシ、ずい虫、幽霊病、イモチ、たいていの場合はそのままでも収まることが多い。その年の様子を記憶して、どの程度に広がるかがで、対策の有無が判断できる。

 夕方から、市役所で中山間地南舟原集落の事業の打ち合わせ。今度の担当の方は女性の方で、とてもしっかりした方で良かった。5年が経過して、新しい事業に変わった。農の会の久野の活動が、全体の活動の中で連携が取れることを期待している。

 7月7日(火)
 田んぼの草取り、5,6,7番田んぼ草取り。ここは手作業の田んぼ。機械でやりたいという人が多いらしい。農の会の自給の意味を考えれば、どこかに手作業の田んぼがなくてはならないと思っている。機械を使わなくとも、田んぼは出来るという実際の姿を残すことは大切なことだ。

 コロガシが充分に入っていて、草はほとんどなかった。手作業の田んぼの状態は他より良い。アラオコシが大変だから、機械でやりたいという気持ちはわかるが。農の会の、地場・旬・自給の意味を身体で感じる場所も必要だと思う。

 アラオコシもしないで、水を入れるだけで、田植えをするという事も検討してみよう。

 7月8日(水)
 田んぼの草取り、10番たんぼ。15番田んぼ。15番田んぼは急遽田んぼに戻した。とても状態が良い。レンゲを寸前に漉き込んだので、草が出ないのだと思う。青草を寸前に漉き込む農法は確かにある。

 7月9日(木)
 何をやったか忘れてしまった。多分この日は寝ていたのだろう。

 7月10日(金)
 午後、田んぼの草取り、2番田んぼの半分まで、

 7月11日(土)
 午前中、舟原ため池草刈り。午後カキツバタの手入れ、株分け。ため池は年々良い環境になってきた。昔のような良い雰囲気が再現されるように努力したい。冬には松を植えたいと思っている。

 溜池は上の池から、下の池にまだ水漏れが続いている。これも冬には工事が必要になっている。上の池にもう少し水がたまらなければカキツバタにも良くない。

 カキツバタは10株を2年前に植えた。一度目に購入した株は全部枯れた。そして、2度目の株を植えてなんとか、昨年は根付いて30株ほどになった。それが今年は150株ほどになっている。それをかなり広い面積に株分けをした。今度は一応水が来るようになったので、何とかなるかもしれない。

 夜は定例会。

 7月12日(日)
 午前中、和留沢林道草刈り。久しぶりにいろいろの方にお目にかかることができたが。余り密にならないように草刈りをする。朝、7時半から始めたので、10時半ごろには終わる。

 和留沢林道の草刈りももう10年くらいの参加になるのだろうか。今年も40人近い方が参加されていた。和留沢の方が半分くらいだろうか。和留沢集落は戦後開拓の入植地である。開拓75年ということになる。小田原では一番自然環境の良い集落である。

 小田原に移る時には和留沢に暮らしたかったのだが、家が探せなかった。昨日の様子では、新しく和留沢に住むようになった人も加わっているような感じがした。和留沢林道は舟原から、4キロほどの道である。今は車道になったけれど、入植当時は歩くだけの道だったそうだ。

 この道が和留沢で暮らす生命線なので、何としても管理は続けなければならない。自分たちでやるほかないことだ。例年、7月の第2週の日曜日が年一回の管理日なので、参加できる間は参加させてもらいたいと思っている。

 午後はマコモダケの抜き取り。3分の2まで取れたのだが、3分の1は取り切れなかった。午前中の草刈り疲労が残り、結構きつかった。もう少し昼寝をすればよかった。この日は久しぶりに暑かったこともある。

 7月13日(月)
 午前中、田んぼや畑をじっくり見て歩くつもり。午後石垣に向う。
 
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春の農作業11日間

2020-07-01 04:24:52 | 自給
 
 石垣空港の見送りの人。ブログにはっきりと小田原行きを書けるのも、もどって三週間が経過したからだ。又小田原に行くのだが、こういう小田原との行き来を余り気持ちよく見られないだろうと思う。石垣島には余所から来た人を見ればコロナと疑えという空気がある。絵を描きに人のいないところに出るくらいなので、心配しないで貰いたい。


 欠ノ上田んぼ7番一本植え。田植え後四週間の様子。予定では9葉期になっていないとならない。写真だけでは分からないが。開張型に株が分ゲツして開き始めてはいる。

 コロナ騒ぎで小田原に行くのが大分遅れた。一応の自粛明けになり、5月28日から6月8日まで小田原に行くことがかろうじてできた。来年の参考にこの10日間を記録しておこうと思う。小田原の春の作業に最低限参加した記録である。

 5月28日(木) 石垣空港を9時05分発で羽田空港に向かう。直行便がないために、那覇乗り換えになる。飛行機はかなり空いていて、3席に一人もいない状態。1時間で那覇着。那覇空港も人影はまばら、1時間乗り継ぎで待って、羽田まで2時間ちょっと、こちらも3席一人がけ。羽田も人は驚くほど少ない。

 羽田から、京急線で横浜へ向かい。途中寝過ごして、杉田で起きる。スギタでつい笑った。戻って、小田原に着いたのは4時頃。バスも人は少ない。ここまで感染の不安のような状態はない。バスの窓から、欠ノ上田んぼの準備と、舟原田んぼの準備完了が見える。ほっとする。

 小田原の家に戻り、すぐに田んぼに行って明日からの打ち合わせ。帰りに、スーパーに行き11日間の食料を冷凍食品を中心購入。スーパーそうてつローゼン。石垣ほど混んでいない。安心して購入できる。石垣ほどコロナに対する緊張感は感じられない。11000円ほど。一日1000円の食料を買ったことになる。 8,160歩

 6月29日(金) 朝から欠ノ上田んぼで苗取り。苗は多すぎるくらいあり、取り尽くせないまま、漉き込む。田んぼ2枚の線引きも終わる。15人の苗取りで過去最高の参加者数。それでも夕方まで苗取りをしても終わらない。4時半から、渡部さんが苗床代掻き。苗が漉き込まれたのは悲しかったが、何しろ苗が多すぎた。どうも3本植えもしたいという要望があり、増えたようだ。しかし、苗取りが一日でできない分量では困る。2本植えまでである。

 15番田んぼの荒起こしをお願いする。いる人全員で畦立て。そして一気に入水を始める。6時半になっていた。15番は崖崩れで、やれないと考えていたが、崩壊部分の外側に畦を作り、急遽田んぼにすることにした。 11,665歩

 6月30日(土) 朝9時から田植えを始める。その前に15番の水がたまらないので、トンボで代掻きをしておく。1時間ほど。上で田植えのために水を調整するので、一番下の15番にはなかなか水が来ない。田植えは25名くらい集まる。昨日線を引き終わっていた。8番と12番を最初に植える。その間に9番。12番と線引きが進む。
 
 線引きは3名で一日がかりで全部終わる。線引き作業はとてもきついので、精鋭が担当。この日の田植えは8,9,10,11,12,13,14,と下の田んぼが終わる。おおよそ、5分の3が終わったことになる。そして、15番の急遽作った田んぼのトンボを行う。なんとか、水が広がり始める。 11,160歩

 5月31日(日) 朝9時から田植え。やはり25名の参加。この日も15番のトンボがけを田植え前の朝1時間ほど行う。ほぼ全体に水が回る。荒起こしだけでも手植えでは田植えができる。このやり方をみんなに知ってもらいたいと言うこともある。上手くゆけばこの方が田んぼの土の状態がいいと言うことがある。

 午前中に15判を除いた、すべての田植えが終わる。田植えが終わった人から、担当の田んぼの補植に入る。午前中に各自担当の田んぼの補植が終わる。水が入ると浮く苗ができる。早めに補植をする。午後、水が回ったところで、そばかす播き。すべて順調に終わる。

 15番も昼前にトンボがけも終わり、畦塗りも終わる。何しろ人数がいるから何でも早い。昼食中水を抜いて、午後の線引きに備える。1時から、線引きをして貰い、すぐに田植え。案外に植えやすい。すべてが終わったのが、3時。実に順調。この後あちこちの直しなど行う。 15,187歩

 6月1日(月) 冨田田んぼの田植え手伝い。良く準備ができていた。冨田さんの丁寧な性格が出ている。田んぼはやはり作る人で違う。午前中で田植え終わる。 4,745歩

 6月2日(火) 家の片付けと荷物の発送。ため池の新しい畑の玉ネギの収穫。タマネギの整理と干し。 タマネギは赤タマネギは良く出来ていたが、他は今ひとつだった。これは小田原ではどこでもそうだったらしい。何が違うのだろうか。赤タマネギは湘南レッド。7,227歩

 6月3日(水) 午前、舟原ため池周辺の草刈りを行いました。(参加12名、刈払機10台、ハンマーナイフ1台、チェーンソー1台)次回は3週後に行う予定。(作業:田仲康介、近藤増男、近藤忠、笹村、近藤孫範、廣川登、渡部、富田、斎藤薫、杉山、東、石井)田中さんには久しぶりにお会いできた。嬉しかった。

 大麦収穫。コンテナに入れて家で干す。東さんの田んぼ荒起こし。舟原奥の通路の田んぼの荒起こし。一番奥の田んぼへの配管部分の穴を掘る。 15,276歩

 6月4日(木) 午前、大麦収穫。東さんの田んぼ荒起こし。舟原奥の通路の田んぼの荒起こし。午後、ため池西側、田んぼ経由水配管作業。材料は農政課支給、当日13時に届く。塩ビ管1本余り、ため池脇の太い管が保管してあるところに一緒に置く。 13.344歩

 6月5日(金) 小麦刈り取り機械準備。大麦をハーベスターで脱粒してみる。大麦は16キロしかない。夕方から小麦畑で機械の試し。バインダー順調。 11,307歩

 6月6日(土) 小麦の収穫。収穫して機械小屋で干す。午後、東さんの田んぼの代掻き水調整。 11,793歩

 6月7日(日) 午前、東さんの田んぼの田植え。 午後、5,6,7,15番のコロガシ。 17,830歩

 6月8日(月) 朝、びわの収穫。11時に石垣に向かって出発。小田原駅まで渡部さんが送ってくれる。 飛行機は一つおきに座る程度の一杯。 まだ直行便はないので、那覇乗り換え。石垣空港はがらんとしていた。石垣島は羽田より緊張している。街を歩く人のほとんどが、マスクをしている。 10,514歩

 まだ、体力的には充分にこなせた。それほどの疲労もなく、快調に動けた。動ける間は小田原に行き、農作業がしたい。農作業すると、気持ちが一新する。やはり、農作業は原点である。これが出来なくなると、絵も心配になる。今度小田原に行ったらば、田んぼの草取りを精一杯させて貰う。

 田んぼのことをあれこれ言うなら、田んぼの草取りをしてからだ。そのように昔から主張してきた。農業のことにはやった人にしか分からないことがある。だから、田んぼに入り、一番辛い田の草取りをやってみて貰いたい。これは自分に言い聞かせていることだ。

 田んぼはどうなっているだろうか。楽しみだ。


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