地場・旬・自給

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放射性物質は海に流れていた。

2015-03-31 04:38:56 | Peace Cafe

東京電力は昨年の5月、屋上に貯まった水が高濃度の放射性物質を含んだまま、側溝に出て、海に流れ出ていた事を把握していた。しかし、それを公表する事は無かった。その対策も特に行うことなく。今日に至った。何と言う愚かな会社であろうか。どこまでずうずうしく、迷惑をかければ済むと言うのだろうか。原発事故という途方もない事故を起こしてしまい。何の反省もない会社が、何故何の責任も負わずにこの社会に存在できるのであろうか。ひど過ぎる話だ。やはり、東電は事故の責任を問われる必要があるのだ。口をつぐんで、身をかがめていれば、ほとぼりがさめると思っているのだろう。安倍氏の世界に公言した、福島原発はコントロールされていて、海への汚染水の流出は無いという、バカバカしい断言が、やっぱりウソだったのだ。全部ウソだった。これほどひどい総理大臣と東京電力。日本と言う国はどうしてしまったと言うのか。

この間、原発の山側から来る地下水を迂回して海に流していいかどうかさんざん議論をしていた。結局のところ、「すべて水に流す。」というのが本音なのだろう。それ以外にないと考えているのかもしれない。水に流しす。そう考えているのではないだろうか。時間さえ経過すれば、すべてが分からなくなると考えているように見える。だらしのない会社と政府。本来であれば、そうしたいい加減な会社を取り締まることが、法律のはずだ。海に流してはいけない放射性物質を、承知して流していたのだから、東京電力は犯罪を犯したのだ。その自覚もなければ、それが追及もされることもない。こんな正義の通らない社会の仕組みで、良いのだろう。報道も事実は流しているが、その追求までは発言が少ない。世界十そうなのだから、仕方がないという空気を蔓延させている。漁業者の抗議は報道されるが、何故こんな犯罪行為が告発されないのだ。これは明らかに犯罪行為である。知っていて流していたのだ。湾内に迂回させる程度の簡単な工事さえしなかったのだ。

福島原発事故で見えてきた、日本社会の利権の構造は、何処まで行っても温存されてゆく。このでたらめが行われている中、電力会社の経営が優先され、東電は儲かっているらしい。原発再稼働が迫っている。安全が確保されたと成っているが、安全の基本はそれを運転している人間である。その人間たちが、ここまで無責任で、適当である事は、原燃の度重なる事故隠しの経過を見ていても良く分かる。日本原燃は原発を管理する資格がないとまで、規制委員会に烙印を押された。人間が利潤の価値観で腐ってしまったのだ。原発村社会という悪環境の中に長年暮らしていて、どうせ、住民に真実を語っても分かってもらえる訳はない。原発村の中の腐った論理が育ったのだ。住民は騙せばいいという伝統である。原発安全神話がその法典である。事故など起こるわけがないが、今度は2度と事故は起きない神話である。

何故、自然エネルギーの開発に進む事が出来ないのだろうか。日本は何処か活力を失ってしまい、新しい事に臆病になっているのかもしれない。自然エネルギーと言っても、実は発電の機器は、巨大な産業になるはずだ。原発事故を起こし、自然エネルギーの開発に国が投資しても、不満が起きにくい状況だろう。日本に技術力があるなら、ここに第3の矢を集中し、大転換を計る事が日本の国益だろう。私はそうなると思っていた。所が現状では、むしろ世界の潮流からさらに遅れ始めている。原発は放射性廃棄物の処理法が見つからず、また、その管理と始末まで考えると、究めて高価な発電方法という事が見えてきている。それでも原発を見捨てる事が出来ない。何故原発が止められないのか。こう考えると、結局のところ、イランや、北朝鮮と同じで、核爆弾の保有国になる希望が捨てられないからではないか。

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古賀茂明氏のテレビ追放

2015-03-30 04:56:35 | Peace Cafe

この記事をブログで見かけて、そんなことがあったのかと知った。8時以降のテレビ番組というのは、めったに見ないので、古賀さんという人も良くは知らなかった。どうも、「I AM NOT ABE」という手作りの紙を勝手に出した事が、独自行動は禁止という事と、官邸の怒りを買うのではないかという、怖れを抱いたディレクターが降ろす事にしたという事らしい。「I AM NOT ABE」というのは、「I AM KENNJI」というようなインターネットにあった、アピールをもじったものなのだろう。確かに私も安倍で有りたくない。話は飛ぶが、昨夜テレビで、シリアに入ったジャーナリストの映像をテレビが流していた。夕方の報道特集である。遠藤さんという人で、杉本さんという旅券を取り上げられた人ではない。遠藤さんはようするに黙ってシリアに向かったのであろう。何も言わなけれトルコに行く事は出来るし、そこからシリアに向かう事はできる。こういう事はこれからもありうることだ。

後藤さん湯川さんの殺害に対して、日本政府は何もできなかった。本気で救出するどころか、その事件の最中に安倍氏は中東訪問を行い、イスラム国を刺激した。これは安倍政権の一貫した方針を感じる事件だった。近隣諸国をふくめ、世界各地の暴力的な対立を激化して、日本人の国防意識を刺激しようという、思惑がある。それが自民党憲法の成立への作戦なのだ。私が自民党なら、そういう作戦を当然考える所だ。だから、今後さらなる対立をあおる作戦が展開されるはずだと想像する。対立を作り出して、国民投票に向かうことになるだろう。尖閣に中国軍が上陸すれば、自民党憲法が出来るだろう。それなら、どうやって中国軍を尖閣に向かわせるかということになる。同じく竹島では、日本の跳ね返りが上陸を目指す。もしかしたら、自爆的な行動をとるかもしれない。国民が政府の筋書きに簡単に乗ってしまいそうで怖い。このやり方と、日本の安全保障問題とは別の事だ。

こういう電通の広告戦略の様な国民の分析で、政府は動いている。だから、国会での三原発言が試されたのだ。中国がどう反応するか、韓国はどう抗議するか。分析の結果が、安倍氏のアメリカでの国会演説に繋がる。そして、7月の70年の戦争反省の声明である。どうやって、中国や韓国が非道の国であるかを、浮かび上がらせて、国民の反感を高めるかを考えているはずだ。「八紘一宇」人類みな兄弟と言っているのに、何が悪いのだ。兄弟の家を守るために、土足で上がり込んで、開拓やら、社会インフラ、日本語教育までしてあげたのに。このあたりのいがみ合いが狙いだ。日米防衛協力のガイドラインの見直し等必要が強調されているのも、いがみ合いをどうやって焚きつけるかを考えての事だ。日米軍事同盟が強化されると言う事は、米韓軍事同盟の見直しの問題になる。韓国のアジアインフラ投資銀行への参加で分かる、中国より政策への圧力。

一連の対立激化戦略には報道機関の協力が不可欠になる。それが報道の自主規制に表われてきている。そもそも報道は自由に行われている訳ではない。演出されたものだから、演出を認めない古賀氏は降ろされたのだ。安倍氏と裏返しの同じ立場だ。電通の広告戦略はテレビ利用による国民の洗脳だろう。花見に行こうかなと感じるのは、繰り返される開花予報。そして開花宣言、花見の映像。夏になったと知るのは、テレビのアイスの宣伝だったりする。空調管理の生活では暑い、寒いもテレビで知るぐらいの物になる。近隣諸国のリスクだって、テレビで簡単に作り上げられる。自分の感覚でシリアで起きている事が感じられない。だから、本物の映像が必要という、戦場ジャーナリストの主張。しかし、自分の肌感覚で暮らしているのなら、イスラム国が最悪の暴力集団であり、思想もなければ、倫理もない連中だと別にテレビに教えられないでも分かる。私は遠藤さんのシリア映像を見ても、特別新鮮な物は感じられなかった。

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中国の影響力の見方

2015-03-29 04:36:51 | Peace Cafe

中国の影響が世界を変えている。英国政府が、中国の創設した国際開発金融機関である「アジアインフラ投資銀行」(AIIB)への参加を表明した。日本政府は無視していたにもかかわらず、菅官房長官のコメントは混乱していて、対応が取れないように見えた。 英独仏や豪州は、AIIBに加盟することで、今後ますます増えそうな中国によるアジア向けのインフラ投資に参加でき、自国の金融界や産業界に利益が生じる。と考えているらしい。日本政府が対応に泡を食う訳だ。入りたいのだが、アメリカが入らない以上、隷属国としては独自行動が取れないのが日本。韓国も同様に、難しい状況にある。経済的には中国依存であるが、軍事的にはアメリカ依存である。結局のところ、韓国は経済優先だから中国を選択するだろう。という事は、日本はアメリカとの軍事同盟を強めると言う事になるのだろうか。このアメリカ隷属政策は経済で見れば、韓国よりむしろ先の見通しは暗いと言わざる得ない。

いよいよ経済でも軍事でも、アジアの中心国は中国になるという事は計算に入れなければならない。あれだけの人口があり、アメリカに迫る経済規模である。しかもこ経済成長を続けている。中国を軽んじたがる評論家は多いいのだが、私は侮る事はできないと考えている。中国の軍事的な拡張主義も、目立っている。日本も中国変化に対応せざる得ない状況が迫っている。しかし、日本はまだましな方である。アジア各国は中国の内需の拡大で輸出を伸ばし、リーマンショック以降経済の落ち込みを回復してきた。その為に極端な輸出依存の構造を産む出した。中国輸出の落ち込みがそのまま、経済の落ち込みにつながっている国が続出している。この傾向はここしばらく続くと思われる。日本経済が落ち込んだ一つの要因は、中国の低廉の製品との競争にさらされたからだと思うが、幸い日本の中国への輸出依存は比較的低い。その一方で、日本がドルと運命に共にする経済政策である以上、アメリカの衰退に伴い日本の、経済崩壊も遠くない時期に起こり、中国に乗り換えた国の勝利になる可能性も高くなっている。

日系の中国進出の企業も、中国からの撤退を考え始めているらしい。人件費の高騰、不正の横行、労務管理の難しさ、反日感情暴動のリスク。その結果中国に工場を持っているメリットが無くなってきているという事だろう。韓国の中国進出なども、沿岸部ではなく、内陸部に変わってきているようだ。中国に進出したこと自体が、利益の為であるから、利益が出にくくなれば撤退したいという気持ちが起きてくるのは当然である。スリランカの新しい政権は中国離れを宣言した。そしてインドとの関係を強化しようとしている。アジア各国とも、複雑な対中政策を展開し始めている。

グローバル企業に対して、八紘一宇の精神でやってほしいと、三原議員は国会で質問をした。その事が間違えとは思わないが、この財政再建の行き詰まっている中でも、法人税を下げて企業の活動を優遇しようと言うのが、自民党の経済政策である。企業の景気が良くなり、そのうち末端まで景気の恩恵が及んでくるので、もう少し時間をかければ好循環が起こると主張している。人類みな兄弟であるなら、この危機的状況でなぜ法人税を下げるのであろうか。大企業だけが恩恵をこうむり、給与も上がっているという状況が起きている。この事によって格差社会がより深刻になるとしか見えない。兄弟の間で、格差を産むのが人類愛であろうか。むしろ中国に八紘一宇を求めると言う事が本筋という事になるが、到底無理な事は誰にでもわかる。つまり、観念論では経済は動かないという事である。

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久野イオンタウンの進捗状況

2015-03-28 04:14:43 | 地域

久野にはイオンタウンが出来る。その事で、連合自治会ではこの1年に5回ほどの説明を受けた。その内容の繊細な所は公表しないという約束をした説明だったので、内容を書いた事はなかった。しかし、自治会長を終われば、イオンの進行状況についても知る機会が無くなると思われる。書いて良い範囲で、記録してておきたいと思う。久野連合自治会では、かなりの事項に渡る要望書を出している。それに基づき毎回説明があった訳だが、要望書に対する回答はまだ出ていない状況。しかし、イオンの出店計画自体は、行きつ戻りつしながらも、一貫して近い時期に着工すると言う事が説明されている。総面積は8ヘクタールというから、大きな物である。一部が住宅になり、かなりの面積のショッピングセンターが計画されている。イオンタウンと言っても様々なようだが、久野の場合はテナント募集をして、店舗を形成すると言う事のようだ。大きなビルが建てられてデパートの様な物が出来る訳ではない。

誰しも心配になるのが、この場所が道路状況が悪いという事である。これは秦野の場合も似た状況だった。何しろ久野では道路は行き止まりに近い状況である。しかも小田原と南足柄を繋ぐ、重要な路線に当たる。市役所の方向から、南足柄に抜ける道路の奥まった所に予定地はある。そこに日本たばこの大きな工場があった。昔から、このあたりは渋滞の問題は出ていた。市役所、市立病院、小田原警察と集中している上に、近くにスパーが3つある場所だ。歩道が無いという事で、バス停にバスがいるときは、すれ違いもできない道路しかない。都市計画では、小田原厚木道路のトンネルのさらに下に、トンネルを掘って、南足柄に抜ける道路計画がある。その道路が出来れば状況は変わるのだろうが、現在のところその着工については、具体化されていない。イオン周辺の道路問題というより、道路計画が自体が停滞している所に、根本問題はある。

また、そのトンネルの一番上には、久野の峰線と言われる、道路計画もあり、フラワーセンター方面と将来つながる様な噂を聞いた事がある。フラワーセンターからは、箱根方面の1号線に抜ける道路が計画されている。この峰線は古い時代には箱根越えをして酒匂川を渡る、東海道と並行した道があったという事である。イオンタウンの予定地は交通の要所である。そこで、イオンタウンも将来を見越した道路計画を、県や県警から要望されているのではないだろうか。また、こうした郊外型のショッピングセンターが出来ると言う事は、中心市街地の衰退につながる。多分、イオンは久野から南足柄に掛けての配達型の販売を考えるのではないだろうか。老齢化に伴い、今後そうした需要が増大するはずである。今では、久野は宅配サービスの範囲に入っていない。久野に出来ればそういう点でも状況が変わる気がする。

県の未病の仕組み作りにイオンタウンは協力して行くそうだ。具体的には、未病をテーマにしたテナントを入れると言う事らしい。想像するに、薬局の様な物が、自己採血型の血液検査機能を備えると言うような事なのか。併せて健康食品の販売とか、健康相談所の開催など考えられるのだろうか。しかしあくまで営業テナントがいるのかという事なのだろう。そうしたテナントが入らない場合実現はできない。従来の説明では、来年の春くらいには出来ると言うような事だったが、現在着工もしていないのだから、それまでには到底できそうにもない。それでも周辺道路の整備のために、動いている事は確かで、向かいのパチンコ屋さんの脇を通り抜ける道路を作る事になったそうだ。説明では周辺道路の計画調整をしているという事が着工が遅れている原因とのことである。しかし、その原因の詳しい説明はなかった。

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土砂災害危険地区の指定説明会

2015-03-27 06:16:20 | 地域

 

26日の晩、舟原自治会主催で、土砂災害危険個所についての説明会を開催した。神奈川県小田原土木センターの河川砂防第2課から田宮課長、山口さん、平山さん、山内さん、そして小田原市の福田さんと来ていただいた。舟原自治会の参加者は15名か、16名だったようだ。今回は久野川の舟原地点で予測されている、土砂災害危険地区(レッドゾーン)と警戒区域(イエローゾーン)の指定の根拠を説明していただいた。これは2年前、久野全体での説明会があり、ここで一度説明をいただいた事であったが、指定の理由が良く理解できなかったので、舟原に特定して、詳しく説明してもらいたいと言う事だった。分かりにくい話なので、出来れば過去のデーターから、似たような所で起きた、事例を持って説明をお願いしたいと申し入れた。しかし、事例はないらしく、私はないと確信しているので、あえて事例をとお願いした。結局のところ一般論としての説明に終わった。

イエローゾーンと言われる物に、舟原地区の大半が含まれている。その理由は舟原は扇状地である。その扇頂地点を決めて、そこから30度の角度で広がる所は、イエローゾーンであり、それは土地の傾斜度が2°以下になるまで続くという事である。谷の深さは勘案されていない。また上流の地形や、土質も考えていない。土石流や雨量も勘案していない。つまり、扇状地地形に置いては、単純に扇頂から30℃の角度で全域を土砂災害警戒区域にしていたという事である。その理由は国が法律でこの基準を決めたからという事だけの説明であった。果たしてこれで説明になっているのだろうか。確かに、土砂災害が起きたときの、いい訳にはなる。広島のように指定が遅れたことで随分行政の責任が問われた。ともかく怪しい所はすべて、イエローにしておけというような大雑把な地域指定であると、ますます思えてきた。

説明の図では渓流の底から、高さ5メートル地点までの幅となっている。所が渓流から20メートルの高さの所も指定されている。この理由が知りたい所なのだ。どうも、30°の角度で扇状に広がると言う事を優先して範囲を決めたという事で、5メートルの高さは無視されているのではないかと思われる。谷底の深さによって30°が20°になる事もありうるはずだ。上流部の土石流の量は同じなのである。広島のように、ほとんど平らな地形の所に流れ出すとするなら、当然30°で警戒地区を決めなければならないだろう。しかし、舟原のように谷が深くなっている場合土石流は当然谷筋を流れ下ってて行く。山の斜面を土石流が登ってゆくという事は考えにくい。この事は何度も質問したが、回答はなかった。指定した人がその根拠を明確に説明できないという事が極めて不思議だ。回答らしきものがあったとすれば、あえて広い範囲を警戒区域に指定して注意を喚起しているという事だった。

昨夜の説明会の結果、イエローゾーンは逃げる必要はないという、各人の判断に繋がる。そして、何かあれば行政はイエローゾーンに指定していたという説明が出来る。実にすっきりしない結果である。今回分かった事は、レットゾーンは確かに危険がある。その根拠も詳しく調査してあるようだ。しかし、イエローゾーンは根拠のじつに乏しいものだと言う事である。注意を喚起するためにイエローゾーンを作ったというにすぎないようだ。私個人はイエローゾーンというものを無視する事に決めた。自治会としては、レットゾーンに住んでいる人にもう少し注意を喚起したい所である。自治会長としてやろうと考えていた最後の仕事を終わった。個人としては、舟原に越してくるときに自分なりに調査して出した、安全な土地だという判断を優先した。

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マイナンバー制について

2015-03-26 04:33:41 | Peace Cafe

マイナンバー制についてコメントがあったので、もう少し考えてみる。この秋から施行される。その目的は大まかに言って3つある。1、行政の作業を効率的に行うこと。2、国民の利便性を向上する。3、公平な社会の実現。行政の業務が極端に増大し、限界に近付いている事は確かだ。行政の業務費用負担も大きくなり、充分な住民サービスに支障がきたす恐れが出てきている。目的の一番は税の公平な負担という事になるのだろう。土地売買を行い莫大な金銭を得て、税を逃れるために夜逃げをしてしまった人を2人知っている。その人は、そう遠くない所に引っ越して暮らしていたらしいのだが、そのまま脱税をしてしまったと思われる。そうした事例を考えると、マイナンバー制度は基本的には必要だ。公平な社会を作る為にも、ない訳にはいかない仕組み。行政の仕事の範囲に対する住民の要求は年々広がっている。行政はどの分野でも十分にこたえられていない。その為の事件も良く起こる。

10月には住民票に基づき、すべての日本で暮らしている人に番号が付けられ、送られてくる。マイナンバーは、社会保障、税、災害対策の分野での利用に限定されている。 年金・雇用保険・医療保険の手続、生活保護・児童手当その他福祉の給付、確定申告などの税の手続などで、申請書等にマイナンバーの記載を求められる。 例の厚生年金の記録を厚生省が無くしてしまったというような、馬鹿な事故が起きないためである。私がたまに講演をして、講演料をいただくときとか、又農の会などで講演をお願いしたときに、マイナンバーが必要になると言う事が起こる。

問題は、その悪用の不安だと思われる。政府は、
「制度面の保護措置としては、法律に規定があるものを除いて、マイナンバーを含む個人情報を収集したり、保管したりすることを禁止しています。また、特定個人情報保護委員会という第三者機関が、マイナンバーが適切に管理されているか監視・監督を行います。」と曖昧に述べている。

現在の、政府や行政の様子では、危険に感じざるえない。現在政府が表明している程度の対策で悪用を防ぐことなど絶対にできない。本来であれば、どうやってその悪用を防ぐかの問題が解決するまでは、採用を見合わせるのが当然のことである。振り込め詐欺蔓延国である。情報の流出は必ず起こるとしなければならない。全くの見切り発車である。最近私の所にも、保険の勧誘の電話が頻繁にかかって来る。そこでどうやってこの電話番号を手に入れたのかと聞く事にした。何と、アトランダムにダイヤルをまわしていてたまたま、笹村の家にかかったのだといい訳をする。もしそれが本当であるなら、そんな迷惑電話を営業方法にしている会社は、悪質だと思うので消費者センターに相談するので、あなたがどういう会社なのか述べて下さいと言う事にしている。するとすぐ切る。それでも、新手の営業電話がまた掛かって来る。どうもどこかで65歳の一覧とでもいう、電話番号が出回っている。

さらに不安な点はマイナンバーを政府自身が悪用する恐れも考えられる。第三者機関が監視をするというが安心できない。その機関を作るのが政府である。自分の監視を、自分が指名するのでは話にならない。しかし、実を言えばマイナンバーの情報どころではないのが、現実の情報管理である。マイナンバーは政府の情報管理を便利にしようという程度の氷山の一角である。既にそれどころではない、情報の集積が起きている。これからの社会情報を制御する事が出来ない社会だと思う。私の場合、すべての情報が把握されているという前提で暮らしている。ありとあらゆる情報が、整理され、蓄積されている。私が今日の昼何処にいて、昼ご飯は何を食べたくなるかだって、予測できる日が来る。否応なしの未来社会だ。情報を政府に把握される事を嫌がるより、悪用しないような、良い政府を選択する事だろう。

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籾洗い

2015-03-25 04:25:01 | 稲作

こんな所に種籾は置かれている。

籾洗いは毎年、春分の日に行う。今年は3月21日であった。今年行った籾は、メダカ田んぼ分の「山田錦」1キロ。 「喜寿糯」2,5キロ。「サトジマン」15キロ。吉宮田んぼの「サトジマン」3キロくらい。を行った。籾洗いは塩水選の事である。春になり、稲の種である籾に春を告げる作業である。自然に自生する稲は河畔の作物である。自然の稲は秋に、みのり冬の間に倒れて行く。川は冬の間水かさを下げて、稲の有った河畔の場所は湿地状態になり地表に出ている。春になり、徐々に川は水位を上げて、河畔の稲を水没させてゆく。そして、水温も日に日に上がり、15℃を迎える。そして発芽となる。冬の間いだ寒さの中に眠っていた稲が眼を覚まし、新しい生命を芽生えさせるという事なのだろう。この自然の摂理に出来るだけ従って、稲作を行いたいと思っている。そこで、春分の日に稲を水に浸けて、春になった事を知ってもらう事になる。そもそも籾洗いという言葉がある訳ではないかもしれない、余りに良い言葉なので、使っている。

水路排水口に置かれている。

種籾には水の記憶があるのではないかと推測している。この雨は違うな、この川の水こそ自分が発芽すべき水の記憶ではないか。そうして目覚めてくるのではなかいと考えている。だから、田んぼに入る水に種籾は浸したい。塩水選であるが、軽い殻の籾を取り除き、実った種もみを選抜する。一般の稲作では、1,12%の塩水で行う。10%以上の塩分は入れると言う事になる。しかし、そこまできつい選抜する事はなんとなくしっくりこない。良い種籾が良い稲作の継続にはならないと考えている。種もみを永続して、自家採取して行くためには、そんなにきつい選抜を行う事は、危うい気がしている。むしろ平均的である事が、永続性の一つの方向である。だから、田んぼの中でも良く出来た所というより、平均的な所から種籾は残す事にしている。そして、海水には、3,4%の塩分を含んでいる。1.025%になる。塩水選と言えるほどの塩分はないが、調度ころ合いではないかと考えている。江戸時代には塩水選はないようだ。苗代での苗作りでは、自根で成長するから、種の栄養分は小さな要素になる。

しっかりと結びつけてある。

同時に、海水という総合的な水に、先ず出会ってもらうと言う事も大切な事になるかもしれないと、考えている。海水に充分に浸けて浮いた空のもみ殻を捨て去る。おおよそ10%くらいの種籾が取り去られる。もち米の方が通常浮く籾が多いい。この時に今年の稲作の願いを込める。特段柏手を打つとか、頭を下げると言う事はしないが、気持ちとして、一つの儀式として、今年も良い稲作が出来るようにとお願いをする。年々、そういう気持ちになった。それくらい、自然の気まぐれに影響を受けてきたという事である。ほんの一瞬の晴れ間が救ってくれた事もある。こうして自然に準じた稲作を続けていると、自然という物の絶対的なありがたさを感じざる得ない。海水で籾洗いするという事も、一種の祈りである。山に降った雨が海に帰る。それを繋ぐのが、田んぼである。すべての物、放射能さえ含めて、良いものも、悪いものも、すべてを飲みこんでいるのが、海という総合である。海の中には母がいるとはよく言ったものだ。

今年の朝の水温である。10℃毎年、こうして水温を計っていると、少しづつ水温が上がってきている事が分かる。昼間再度計ったが、やはり10℃であった。27日12度になる。4月4日13度になる。6日は12度。昨年は、4月に入って、日中は14度になった。これほど上がったことは始めてであった。発芽が始まるのではないかとひややしたものだ。この時、なるほど、もち米の方が低温で発芽するのかと気付いた。それでも何とか、種まきの障害になるほどではなかった。昨年の失敗は種もみの乾かし方が少し足りなかった。あまり乾いてもまずかろうと言う事があったのだが、撒きやすい状態をもう少し考えておきたい。1キロの種籾で、3畝分と考えて余裕がある計算している。つまり100坪で1キロの種籾。欠ノ上田んぼ3反で10キロの種籾を用意する。所が、不安で、今年は15キロを使った。失敗しても取り返しがつくようにという気持ちである。あまった種もみは冷蔵庫に保存する。案外その方が良い発芽になる事もある。

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自衛隊が普通の軍隊に

2015-03-24 05:11:13 | Peace Cafe

日本を取り巻く国際情勢は、中国が台頭する一方、米国のパワーが相対的に低下するなど逼迫(ひっぱく)しています。日本が集団的自衛権の行使を容認することで米国を巻き込み、抑止力を高めないとこの危機を乗り切れないと考えています。これまで日本の防衛は自主防衛と日米安保の2本柱で成り立っていましたが、対中融和に傾く米国から見捨てられないためにも、自前の自衛力を積極的に展開しなければなりません。自衛隊の活動をアジア・太平洋地域や中東地域に広げる必要があります。

以上は川上高司さん(拓殖大学大学院教授)の話である。

国会では安全保 障の憲法解釈の内閣による解釈変更に基づく、新たな周辺法の提案がなされている。国会議論を聞いていても、今回の、憲法解釈の変更という物が、以下に時自由な中で提案されているかが分かる。矛盾だらけで、議論がかみ合わず、それをとうとうと述べる安倍さんならではの、意味不明である。本質的に矛盾というような事には、無頓着の人だから意に介さずというか、せりふを語るように朗々としていた。自民党憲法草案が本当の憲法になったとすれば、確かに、安倍氏の述べる事に矛盾は無くなる。本音に、自民党憲法があって、それに従って答えているのだから、現憲法下では意味不明な事になる。その意味不明部分に、国際法に従えばという、新しい観点を持ち出している。日本の法律を決めるにあたって、憲法という制約があるのは、当たり前のことだ。それを、国際法で認められているから、憲法はひとまず置いておくと言うのが、安倍氏の言い分のようだ。

国会では冷静な理論的な議論をしましょうと、安倍氏は何度も語っていたが。どうせ、絶対多数の与党であるので結論は出ているという姿勢である。今回の解釈変更も、法律の制定も、どう考えても理論的には無理がある。こんな無理が通るようになってしまったのだ。日本の政治状況は変わってしまった。冒頭にコピーした川上氏の様な、世界情勢に対する姿勢が蔓延している。憲法との整合性ではなく、この国際情勢の中仕方がないだろうと言う。学者らしからぬ現実論である。確かに、軍事バランスだけで国際情勢を考える人にあっては、こういう理屈が出てくるのも確かである。むしろ、こういう現実を作り出して、日本の軍備を整えようと言うのが本当の筋書きであろう。中国との関係を悪化させて、日米関係を強化の必要性を強調する。これが日本の戦後一貫した保守の防衛論理である。

中国の台頭、これを武力的脅威として考える事がおかしいのだ。それこそ、過去の大東亜共栄圏の八紘一宇(はっこういちう)の思想からすれば、中国の自立は望んだ事のはずである。中国が繁栄する事を望まない心が日本人の中にあるとすれば、それは僻み根性にすぎない。共に共栄すると言う事が、日本中心にから、中国を中心としてであっても少しも意味が変わらないはずだ。兄弟として中国の繁栄を喜ぶべき事だと思う。そして、中国がより自由な民主主義国会になってゆくことを、交流の中で促してゆくことである。その為には、日本自身が軍事国家になるのではなく、日本が手本として武力を放棄し、平和主義の国として世界の中に存在することである。その可能性のある国が日本ではないだろうか。

日本が平和主義をあきらめる時は、また世界が軍事競争に入り、核軍縮どころではなく、日本が核武装せざる得ない事になる。そしていつか、核戦争が起こってしまうだろう。現在イスラム国の様な、暴虐なテロリストが登場している原因を考えるべきである。それは世界の貧困と格差である。このまま行けば世界はさらに、国家間の経済格差が広がるだろう。特にイスラム圏のように、石油という物が国の豊かさを決めてしまうような不合理が、人間の破たんを導いているのではないか。健全に働いて、生活をするというような価値観を失ってしまったのではないか。まず、世界の経済的格差をなくして行く努力である。グローバル企業の経済の支配がこれ以上進んで行けば、国家の意志よりも、企業の利潤を求める論理が世界に大きな格差を作り出して行く事になる。企業を優先し、戦争に進まざる得ない現実論に騙されてはならない。

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自分の絵をよくよく見る。

2015-03-23 04:40:08 | 水彩画

自分が絵を描いてゆく上で、最も大切にしている事は自分の絵をきちっと見ることである。絵を描く立場でなく、見る立場で見てみること。表現者として絵は描いている。それは私絵画であれ、私小説と同じで、表現方法の一つであることには変わりがない。私絵画という物が少し、私小説と違うのは、私を表す表現方法としての手法という意味の絵画方法ではないという意味なのだが、分かりにくい。自分の内面をえぐり出す手法で、小説の表現ジャンルとしてあるのが私小説とするなら、私絵画は、私に閉じこもることで、私の人間の底にまでいたろうと言うような、自己循環的な要素がある。座禅修行において修業目的という物が無いことが重要なように、出来上がった絵画の意味という事を捨てるという事がある。禅宗の開祖が菩提達磨が、帝かなわずして、面壁したという意味である。自己探求などという物は、究めて役立たずの反社会的なものだと思う。それでも成果を求めないという事は、禅の修業の第一義である。

鑑賞者としての自分は、見ると言う行為に自分をゆだねる。心底まで見る事が出来ればそれで十二分ということである。これは岡本太郎氏が書いているが、最後には指で指示せばそれでいいと言った様な意味だ。山を見て、見る事が出来て、それを指し示す。示すということで、十全であるのが芸術という意味なのではないか。示すには見ると言う事が出来なければ出来ない。この見ると言う事は、一見誰にでもできることである。所が見えると言うことには、写真のように映っているだけの水準から、もう少し意味あるものまである。いわく言い難いが、見えていない物まで見ると言う事がある。見るには、経験と訓練が必要なのだ。私が稲を見る事の出来る範囲という物がある。収穫という物まで見据えて、究めて総合的に見たいと考える。今後の天候を予測したうえで見えると言う事が繋がって来る。この事を子供のころランチュウノ選別の経験で知った。頭の煙を見ろというのだがついに見えなかった。

稲や金魚ならまだいい。生きると言うことの面白さは、自分の生命の実証の様なものを見えるかというのだから、ある種神がかりである。しかしこの所に絵を描くと言う大切なものが潜んでいる。見えなければ描けない。これは私が私の納得のゆく「見える」にならない限り描けないという意味である。他人と比較して見えるかどうかという事でもない。ランチュウの煙は、多分実在していると想像できる。沖縄で言えば、何もないウタキにこそ見える物がある。しかし、「山」を見えたときの衝撃の様な物は、果たして肉眼的な物なのか、妄想なのか。あるいは、幻影なのか。あるとき、ある瞬間、違った決定的なものとして見える時がある。ああこれさえ描き止めればいいという事に気付く。描き止めれば、自分が見たという実相が伝わるかもしれない。そう考えて、その見えている物に迫ろうとする。それが私が絵を描くと言う行為になる。だから、見ている物を描いているとしか言えないのだが、この見ているは、かなり肉眼的でもないわけだ。

絵画における見えるの違いは、ベラスケスの見えていると、ゴッホの見えているが違うように、歴史の影響がある。宗達の見えたものと、マチスの見えたものも違う。社会環境の違いも、見え方に影響を与える。私の見えると言うものがどれほどの真実かで、絵の真実味が表れるのだろう。表現者は見ると言う本物にならなければならない。私が、自給的な生活を送り、その眼が見ている物を絵にしたいと考えている。こういう気持ちになったのは、最近の事である。随分遠回りして、眼も衰え、体力も衰えた頃になって、やるべき事に気付いたという事になる。あと何枚の絵が描けるのかという事態になって、どこに行くべきなのかだけは分かってきた気がする。たどり着けるのかどうかは別だが、進めるだけ進んでみるつもりだ。

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唄三線のタケシー

2015-03-22 04:49:04 | 身辺雑記

小田原のJAKAJAKAというライブハウスにタケシーの唄三線を聞きに行った。田んぼの仲間の太田さんから教えてもらった。タケシーの唄を聞くのは2回目である。タケシーは赤い派手な色のズボンの人だ。みんな似たような帽子をかぶっていて面白かった。こんなに楽しいライブはめったにないと思う。一人で盛り上がってしまった。沖縄ムードと美味しいお酒で大満足だった。三線の演奏を真近で見られたのも、うれしかった。また石垣出身の歌手のサヤカさんは、(黒い服を着ている人)沖縄の島育ちで元気いっぱいで良かった。コンビニで働くために、石垣を出たんじゃない。と頑張ったというジョークには泣かされた。コーディネーターをされているのが、一番左の宮里さんというやはり沖縄出身の方で、この方の人柄がまた温かくて良い。まったく沖縄には魅了される。タケシーは小田原生まれながら、本場の八重山でも評価されるほどの実力派である。

ライブハウスというような所に行ったのは、初めての事だったが、なかなか居心地が良かった。昔のこういう場所は、あるハードルがあった。仲間の空気が出来上がっていて、異物の混入に時間が掛かる様な所だった。しかし、今は違うようだ。加わりにくいような感じは全くなかった。今の若い人の良い所だろう。お酒を飲んでいたから、勝手に盛り上がっていたのかもしれない。年を取って、鈍くなって、何にでも平気で踏み込んでしまうようになったということもある。太田さんのお酒を勝手に飲んでしまって、お金も払わず帰ってしまい、誠に申し訳ないことです。

左のちょんまげの人が宮里さんと中央のオレンジ帽子のひとが田んぼ仲間の太田さんである。太田さんはやはり演奏をされる。こうして演奏の前に皆さんの自己紹介があってから始まった。このライブはFM小田原で番組を担当している宮里さんを中心に企画をされたようだ。FM小田原という物は聞いた事が無い。車に乗っている時以外ラジオは無い。捜せば防災用のザックの中にあるかもしれないが。軽トラのラジオも、FMも入るらしいが、一度FM小田原というのを探したが、入らなかった。壊れているのかもしれない。宮里さんを知ったのは、三線の練習である。毎日見ているので、私としては顔見知りである。つい友人の様な気分になってしまって、なれなれしかったかもしれない。反省する所である。とても良い声の人で、宮里さんの生の唄が聞けるかと思っていたのだが、残念ながらこの日は唄わなかった。

最後にみんなでカチャーシーは有ったのだっけ。盛り上がったのは覚えているのだが、踊った記憶はない。

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ヤフーオオクション

2015-03-21 04:50:25 | 身辺雑記

三線を購入したのはヤフーオオクションである。生まれて初めて宝物を購入した。この三線は沖縄のある老舗の三線店に委託されて、置かれていたものだ。制作したかたは、与那国島の上間さんという方だと伺った。与那国島で何か仕事をされながら、三線も作っているらしい。そしてその材料は与那国島のクルチだと言われた。その物語を信じている。三線を鳴らすと、与那国島の音がするからである。それくらい、八重山クルチの三線という物に憧れがある。物語がある。楽器の棹は硬い変形のしない材質が必要だ。そこで、黒檀という事になる。黒檀にも色々の種類があるようで、今は八重山には三線が作れるような黒檀はない。あったとしても、伐採が出来るわけがない。それ程貴重なものになっている。そこで台湾にも同じような黒檀があって、それも良い材という事で使われる。今では、アフリカの黒檀まで三線になるようだ。きっとアフリカの音が鳴るだろう。

沖縄好きとしては、なんとか八重山クルチの三線が欲しかった。申しわけない位ぜいたくな話である。長い事憧れていて、ついに、ヤフーオオクションで買ってしまった。買う前に、間に入られていた、三線作りの長老に本当の八重山クルチのものかと電話でお聞きした。間違いない品だと言われた。それを信ずる事にした。それが本物の八重山クルチであれば破格に安いものであった。しかし、安い理由の話しがおまけとしてあった。その与那国の上間さんが長い事温めていた、クルチで棹を作った。そして病気をされ那覇の病院に入る事になった。そのとき入院費として、その棹をいつも委託している、三線店にお願いしたということである。緊急にお金がいるので、格安で良いので販売したいと言うことで、ある方がヤフーオオクションに出した。誰もまさかという感じで購入しなかった。本物の与那国島のクルチがオオクションに出てくるなどという事が、あるわけがない。

と思いながらも、この物語を信ずる事にして、購入した。今は、信じて良かったと思っている。先日、那覇の三線店さんにもお尋ねをし、物語の確認をしてきた。どうもこの物語は、ノンフィクションだったようだ。信じて良かった。治療費になるのであれば、とても良かったと思っている。毎日三線を手に取る。そして水牛の角で作った爪で、鳴らしてみる。水牛の角の大きな爪は、三線の日のイベント会場で、山の様に有った爪を一つづつつけて見て選んだものだ。選んでいると、親切な諸先輩が、選び方の事を教えてくれた。爪も自分の勉強の方向で大きさや材質が違うのだそうだ。薄いギターのピッグの様なものから、8センチもある巨大なものもある。爪は手に取らなければ、自分にあった物は選べない。勿論三線もそうなのだが、直接お店で買う事が出来なかった。それもあってオークションで購入した。お店に行けば、どうぞ弾いてみてくださいなどと言われてしまう。私は、大工哲弘さんじゃないし、沖縄人でもない。弾けもしないで買おうと言うのだから、困るのだ。

先日、三線の演奏者のタケシーにもこの三線の自慢話をした。一度見せて下さいなどと言われて、嬉しくなってしまった。ヤフーオークションはいい。この時代にぴったりである。長年探していた、桐の絵をしまう箱が、やはりオークションで見つかった。大きな戸棚の様な物なのだ。何故こんな不思議な物があったのかは分からないが、所有者は困っていただろう。置き場にも困るが、随分上等なものだ。捨てるわけにもいかない。タダ同然で買わせてもらった。多分日本中で私以外にこれを欲しいと思う人はいないと思えるほど、特殊な家具を誂えたという具合で、絵を描く台として使っている。消費税分が送料と考えれば、出掛ける手間いらずだ。これからオークションはさらに広がるのではないだろうか。一種の物々交換ということにもなる。物を大切にするということにも繋がるであろう。

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八紘一宇(はっこういちう)とは驚いた。

2015-03-20 04:25:00 | Peace Cafe

自民党の三原じゅん子議員が「八紘一宇(はっこういちう)は日本の建国以来、大切にしてきた価値観だ」このように予算委員会で国会質問をした。何故、こういう事を言わされたのかである。あるいは言いたくなったのかである。安倍政権忠誠の踏み絵なのだと思う。議員として優遇されたいがために、こんな発言をする役割を担うのだ。援護射撃のつもりもあったのだろう。今の自民党の言い成り議員の姿があからさまに出ている。八紘一宇自体の言葉としての意味はともかく、戦時中の大東亜共栄圏の根幹となる思想を意味する標語で有った言葉を、いまさら国会で口にしているという自覚があるのだろうか。何処かにこの言葉で、グッとくる人たちがいると言うことだ。女優に言わせる所が憎い。喜ばせれば優遇がされると、見返りを考えている。こういう、自民党に忠誠を誓うだけの議員ばかりになってきている。上ばかり見ているから、世間という物が見えなくなる。

もう一つの想定は、ここで、目立つ女性議員に戦時中の標語を言わせる効果を考えた、演出家の存在である。そもそも、三原氏の世代の人が、こんな言葉を知っているはずがない。こんな言葉を植え付けた人がいると言うことだ。戦時中にこの言葉がどんな役割をしていたかを、充分認識していたかである。原発事故を死んだ人もいない小さな事故だと発言した、自民党の女性政調会長と、似たような感覚である。この標語で被害者になった人がいると言う事を理解しているのだろうか。日本の侵略戦争の看板の言葉である。世界中が一家族の様な物なのだから、弱いアジアの民を優秀な日本民族が、親代わりになって、守ってあげなくてはならない。大東亜の同胞。こういう建前で、他所の国に進出していったのだ。だから、鬼畜米英と裏返しの言葉の標語だ。さすがに、まだ鬼畜米英の発言は無いが、いつかは出てくると思っている。それこそ、安倍氏が待っている言葉かもしれない。

しかし、三原氏の様な、一見無知を装ったカマトト女優がある役割を担うと言う事はありうる。「一番強いものが弱いもののために働いてやる制度が家である。現在までの国際秩序は弱肉強食である。強い国が弱い国を搾取する。世界中で一番強い国が、弱い国、弱い民族のために働いてやる制度が出来た時、初めて世界は平和になる。日本は一番強くなって、そして天地の万物を生じた心に合一し、弱い民族のために働いてやらねばならぬ。」このように自身のホームページに引用している。日本の政治の演出家がいる。多分自民党の宴会の席では、こういう与太話は良く出るのだろう。今までの日本の保守的な政治家でも、この言葉の意味する所に、日本の独善性を感じていたはずだ。所が、いよいよこんな戦時中の標語が無神経に登場するようになったのだ。国会や国民の反応を見ている人がいる。演出家がこの投げた石で、どんな波紋が起こるのかを、確認しているのだろう。

国会議員はどの会派の議員も鈍い。それこそ、ヤジすら起きなかった。どういう意味で使われていた言葉かすら、知らない議員が多かったのだろう。この国会での発言が、アジアの諸国でどういう波紋を起こすかも、見ているはずである。大した波紋が無いようだ。ここまでは大丈夫と、計っているのではないだろうか。無知が日本を変えて行っている。日本が侵略戦争をしたはずがないという、歴史認識も誰かが広げようとしている。まさかそんな事を考える人がいるはずがないと思っている間に、日本がアメリカと戦争をしたということすら知らない人の方が多いいという状況らしい。三原氏は日本の企業の租税回避ということを質問していた。その中で唐突に出てきた質問である。企業にたいして、八紘一宇という考え方で会社を経営しろということが、まともな国会の質問であろうか。また精神論である。竹やりで戦えということのようだ。

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食糧自給力

2015-03-19 04:03:25 | 自給

農水省は食料自給の目標を50%から45%に下げた。39%でこう着状態で、50%などと大きすぎる数字をいつまでもみっともないという事だろう。本来食料自給率は100%が健全な国家である。50%の目標すら、下げざる得ない現実を情けないとは考えないのだろうか。早く人口減少が進むほか45%の目標の達成もないだろう。お金にならない事は価値が無いという、考え方がこうした状況を生み出したのだろう。一方で聞き慣れない「食糧自給力」というものを持ち出してきた。食糧輸入が途絶えた時に、日本の農地と農業で、どれだけの食糧が作れるかという計算である。さつまいもを作って食べれば、飢える事は無いという、エネルギー計算だそうだ。正直不可思議な数値が出てきた。確かに、食糧安全保障という意味で、こういう数字を出して安心してもらうと言うことも必要なことかもしれない。

それにしても、「食糧自給」は本当の数字であろうか。どんな産出の仕方をしたのだろう。一番の疑問点は、誰が作るかという事を、どう想定しているかである。現在の食糧生産で一番の問題は、労働力である。労働力が倍増しなければ食糧生産が倍増するわけがない。農業技術の有る労働力はどうやって確保するつもりなのだろうか。食糧生産では労働力が一番の課題だ。戦中戦後の食糧難時代は、大半の日本人は農民だった。しかも、伝統的農業技術を身に着けていた。現在は農業技術のある人は、急速に減少している。販売農家数が141万軒。農家数は減り続けている。農業者の平均年齢が66.2歳。毎年老齢化は進んでいる。農地は放棄が進んでいる。多分、農地の面積から食糧自給力を計算しているにすぎないのだろう。農業というものを素人でもすぐにできると、少し甘く見ていないか。確かに、指導する農家がいる間は、まだ可能であろうが、その技術力をどのように想定するかである。

芋を食べる想定をしている。多分北海道ではジャガイモという事だろう。場所によっては、里芋ということもありうる。色々の芋を食べる。悪い発想ではない。戦後の食糧難でもイモを食べた。それも飼料用のサツマイモの代用食で、まずかったそうだ。この植えた戦後の時代でも、サツマイモの育て方が分からず、相模原の入植農家が飢え死にしたと言う。父と母は、この入植地で出会った。母が農業が出来るので、祖母が是非にということで、結婚したらしい。東京の一家は入植したものの、全く農業生産が出来なかったのだそうだ。その頃復員した叔父は、東京大学の農学部の大学院にいたのだが、農業の役に立たなかったといつも言われていた。食糧自給力の発想が現実離れしているのは、田んぼの裏作に麦を作れると言う事を考えていないようだと言うことだ。少なくとも、農地を表裏で200%利用すれば、現状生産力に比べて、簡単に倍増する。畑も同じ事である。

食糧生産の基本を教育に取り入れることだ。食糧自給科目を義務教育の必須科目にしなければならない。さつまいもは、種を撒くのではない。芋を植えるのでもない。挿し木をする。挿し木はどうやれば枯れないで育つか。そういう基本的な事を義務教育で学ばなければならない。食糧輸入がとだえる時代を想定するのであれば、エネルギーも自給的に考えなければならないのだろう。確かに国家というものを考えた時に、日本列島という地域で、どれくらいの人間が、どのように自給的に生きることが可能なのかは、常に想定しておく必要がある。多分その事を突き詰めて行けば、外国と戦争をするなどという事がいかに馬鹿げているかが分かるはずだ。農水省も、もしかしたら、「地場・旬・自給」の思想に目覚め始めているのかもしれない。是非とも、あしがら農の会の行っている実証実験を参考にしてもらいたいものだ。

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補助金と政治献金

2015-03-18 04:23:41 | Peace Cafe

西川農水相が辞任した。問題は、国から補助金をもらった企業から、1年以内に献金を受けていたということだ。要するに補助金のお礼が、政治献金と言う仕組みだ。その後、色々の議員からそういうことが明らかになってきた。しかし、どの議員も違法性はないと主張している。補助金が出ていた事を知らなければ、違法性は無いというひどいいい訳である。さらに、返したので問題はない。と言う事が言われている。こんなひどい話が、法に触れないという事がおかしくないだろうか。補助金をもらうために献金しているとなれば、幾らでもそういう企業は有るだろう。貰ってからの1年間だけが法律で禁じられている。困るのは、どうせ政治の世界はこんなものだと、世間が感じているということだ。企業と持ちつ持たれつで政治の世界は成り立っていると言う現実を受け入れてしまっている。この点では共産党の主張する企業や団体の政治献金の禁止が正しい主張だ。当たり前の主張のはずだが、政治にはお金が掛かるのだから、現実的ではないという事になっている。

安倍氏は企業の政治献金は、政治を進めるにあたって必要だと言うのが、国会での答弁であった。政治にかかるお金を誰が負担するかの問題だと妙な説明をしていた。補助金がもらいたい企業は、政治献金をしなければ貰えないというのが現実だろう。政治家は政治にお金が掛かると常に主張するが、ここでいう政治は、選挙の為であったり、利権の為の政治ではないか。本当の政治を行うのであれば、必要経費は公費で出ているはずである。結局の所、国際競争力の為に政治と企業が一体化した形を求めているのだろう。政治はきれいごとではできないということも世間は認めてしまっている。最終的に景気が良くなればいいじゃないかと言う考えである。儲かるなら、宝くじだろうが、まじめに働くのも一緒だという倫理である。韓国型経済の追随である。こうして格差社会へまい進すると言う事になる。その方が競争に有利と考えているのだ。

まず、政治にかかる本当のお金を公表してもらいたいものだ。各議員の表面的に掛かっているお金と言うものは確かに公表されている。しかし、小渕優子議員の事例でも、その経費の内容は、ぐずぐずである。訳の分からない、政治勢力の形成の為にお金が動かされていたらしいという事が言われた。例えば、県会議員や、村会議員を育成して行くような資金になる事が想像される。地元の自民党議員の政治活動日誌を見ていると、この方は政治の為の研究をいつやっているのだろうと疑問になる。又そうした政治研究の成果が、ホームページで主張された事は無い。何のために議員になり、何をしているかと言えば、自民党の社員になり一議席を確保しているだけに見える。後は見えない所で、利権的な結びつきを培っていると、憶測する事になるが、この点は全く分からない。他に政治家になる動機が見えないので不思議でならない。河野洋平議員の70年談話に対する主張を、どう考えて聞いているのだろう。

良い政策を考える為の勉強にお金が掛かると言うのなら、仕方がない。しかし、勉強している国会議員などどれほどいるだろうか。勉強する時間などまったくないほど、選挙運動をやっている。選挙運動というのが、地域に利権的な結びつきを作り上げるかである。政策選挙にすることである。議員には政策で投票する。これだけで、政治にお金はかからなくなる。河野太郎氏はよく勉強している。河野氏より勉強している議員はそうはいないと思う。同時に、小田原の国会議員ほど勉強していない議員もそうはいないのではないか。ホームページを見ると、全く勉強の跡が見えてこない。何のために政治家になったのか、不思議に思う。それゆえに、見えない利権の世界を想像してしまう。企業の政治献金を禁止することだ。

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スリットドラムを作る

2015-03-17 04:01:26 | 自給

表面

以前からスリットドラムを作りたいと考えていた。良さそうな、ケヤキの塊が手に入ったので、保存してあった。木魚は一般に楠で作るようだが。ケヤキが好なのだ。我が家の倉庫にはそんな訳のわからない材木が沢山保存してある。時々、テーブルを作ったりして楽しむ。先日作った竹楽器もまだ途中である。そもそも木魚の音には、子供ころから親しみがある。あの柔らかな朴訥な音には、えも言われぬ悠久感がある。本堂に行ってよく木魚を敲いて遊んだ。向昌院の木魚は40センチくらいのもので、多分元々は赤い朱塗りのものだったようだ。その朱塗りがはがれてきていていたが、なかなか音は良かった。後に他所の寺で気づいたのだが、少し高音の音のものだったようだ。頼岳寺の木魚は立派なもので、70センチくらいはあって、なかなか深い音がした。物は新しい感じだったが、豪華なもので随分裕福な寺だなんだと驚いた。あの頃の向昌院は貧乏寺そのもので、すべてが壊れかけていた。

裏面

木魚という物は、魚が眼を閉じて寝ないということから来ていると聞いた事がある。木魚を叩いて、眼を覚まして修業に励むと言う事を言われた。まあそんなうまそうな事をすぐ言うのが坊さんである。そんなはずはない。大ぜいがお経を読むときの、統一した速度を示す道具だ。木魚が無ければ、何十人で唱和すると言う事は難しい。お教を読む、言葉や調子を壊さない指揮の楽器としての木魚であろう。床を叩いても悪い訳ではない。だけれども、あの邪魔をしないポクポクと言う音が最善である。指揮者が視覚的に合図をしないでも、全体がハーモニーして行くために必要な楽器に違いない。スリットの無い木版というものもある。魚の形をしているホウと呼ばれる魚型の板もある。食堂に掛けてあって食事の合図に鳴らす。将棋のコマ型のもう少し扁平な板もある。大抵は何かもっともらしい言葉が書かれている。こちらは普通時報の合図に使う。ただの板の場合は音は響くが、鋭くなる。ぬくもる様な含んだ音にはならない。

中のスリット部分

良い音をさせるには、中の空洞が重要なのだと思う。残す板の厚さも薄い方がいい音がする気がするが、あまりに薄いとわれてしまいそうで怖い。今回作った物は、まだそこそこの音しか出ない。徐々に改善して行くつもりだ。それでも竹で作った打楽器とは違う、やわらかな音がする。座って膝に載せて、手でたたくような感じで、良い音がすればと思うのだが。相当乾いていたはずだが、掘り出した木屑は結構湿っていた。しばらく中から乾いてくれれば音も変わってゆく事だろう。現在周辺に残っている木の厚さは25ミリくらいかと思う。この後20ミリくらいまで減らしたいと考えている。全体を均等に薄くして行くことも音に影響する様だ。作ってみて分かったことだが、スリットドラムを作るのは、相当大変だと言うことだ。

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