地場・旬・自給

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溜池工事、味噌づくりの会、田んぼの畔直し

2023-01-31 03:57:03 | あしがら農の会



 まず小田原に来た翌日、早速に溜池の工事をおこなった。準備段階で石垣から連絡を取り合いながら、何とか資材の用意をお願いしていた。13人の人が集まり、集中して作業をした。石垣に沿って土を盛り上げて、その高さまでは水が石垣の隙間に漏れて行かない状態に工事を行った。

 何度か溜池では石垣の穴にモルタルの目地で詰めるという事をしたのだが、それでは水漏れが止まらないところまで、穴が開いてしまった。石垣の中は空洞が相当にあると思われる。なかなか水漏れを止めるのは難しいものだ。そこで一定の高さまで土を盛り上げてしまう事にした。前から石垣際は浅かったから、可能だと考えた。

 少なくとも土を入れた高さまでは水位が保てるようになるはずだ。盛り上げた土の量は2トンダンプ2台分。その土をネコで運んで、溜池の下でセメントを土に混ぜながら積み上げていった。泥セメントである。前回も上下の溜池のダムを泥セメントで固めたのだが、水漏れは上手く止まった。



 今回はもう少し場所を広げて、工事をした。人数がいなければできない工事だったのだが、平日にもかかわらず、13人も集まってくれた。仕事を休んできてくれた人までいた。おかげで午前中に終わることができた。何しろ、午後雨の予報である。雨が降れば土が濡れてしまい、運ぶことも、工事も困難になる。

 全力で午前中に工事をやり切った。午後は予報どうりかなりの雨になった。みんなで気持ちをあわせて、協力するという事は実に爽快なことだ。こういうことが可能なのは、この工事が誰かの利益という事ではないというところにある。久野に人が集まり始めた江戸時代初期の農業遺構、元治の舟原溜池を何とか守ろうという事だけが目的だからだ。

 農政課がダンプ2台の土とセメントを10袋現物提供してくれた。有難いことだ。それがなければできない。こちらには一切予算がある訳ではない。里地里山協議会のボランティア活動という事なのだ。この溜池の再生は小田原での最後の仕事だと思っている。上手く完成まで持ち込めるところまで来た。

 溜池の掃除から始まり、10年がかりである。後世に残れば、未来の小田原の大切なものになると考えている。久野の傾斜地に、棚田が作られた時代。そしていまそれが終わりを迎えようとしている。溜池と棚田が具体的に生きたものとして、見える形で残されることが、久野の昔の暮らしを考える起点になると考えている。

 29日には味噌の仕込みを行った。諏訪の原のマゴノ森で大釜2つで行った。前日の午前中が大豆洗い、大釜の設置という準備作業。準備にも10人以上は集まった。いつもそうなのだが、味噌の仕込みは前日準備がかなり大変なのだ。ここでもみんなが積極的に準備をしていた。私が小田原を離れて、自主性がずいぶん増している。

 翌日のいよいよ仕込みは朝早くからやるとは思っていたのだが、6時に行ったときにはすでに大勢が集まっていた。10人以上いただろう。これも昔とは違う。誰もが自主的に集まり、やる気満々である。この空気が懐かしい。何か気持ちが朝からはやる。

 朝の内からどんどん集まり、80人にはなっただろう。早速にみんなが自分の敷物を敷いて、味噌を仕込む場所を作った。さすがに広いマゴノ森だけれど、かなり森の中全体が人であふれたのは壮観だった。私は車の中で味噌を仕込んだ。この方がだいぶ楽だ。

 大豆は11時ごろには煮あがった。それをみんなに配るだけで、1時間はかかった。すべて渡部さんが一人でやり切った。すごい体力である。全員に大豆を配り終えたころには早い人は仕込みが終わっていた。大きなみんなでやる活動は、コロナ発生以来久しぶりのことのような気がした。

 楽しいみんなの活動がなければ、農の会も元気が出ない。時々はなにかこうしたことをやりたいものだ。今度は収穫祭に餅つき大会ぐらいできないものかと話した。収穫祭も室内では難しいので、欠ノ上の田圃ではやれるのかもしれない。マゴノ森の野外収穫祭もその昔一度やったことがあった。

 欠ノ上田んぼの3か所の畔直しをした。こちらも軽トラ2台分の土が入った。水の入水口、排水口で水漏れが起きている。一度掘って埋め戻したが、周りもだいぶ傷んでいる事が分かった。これではまだまだ工事が続くことだと思う。ユンボを借りてきて、思い切って作り直さないとダメそうなところが多いい。

 土もかなり足りないので、今後土を購入して、田んぼのそばに置いておき、一気にやる必要があるのではないか。まあそんなことは今更私が口を出すことではないのだが。このままでは水管理が大変になるばかりだ。一度思い切って直さなければだめだろう。

 もっと畦全体を掘り取り直さなければ、水を入れてから壊れるはずだ。これでは十分な水管理ができない。田んぼを作ってから20年近くになる。もう手直しぐらいでは済まなくなっているようだ。結構大変なことになるが、そこまでやれるかどうかが問題である。

 新しい人が、3人参加していた。やめて行く人もいるが、入ってくれる人もいる。こんな楽しい田んぼの活動だから、いつまでも続くに違いない。楽しい自給活動。こういう場があるという事が大切なんだと思う。いつも子供たちが来てくれるが、ここで蒔かれた種が、必ず育つと思う。

 農の活動の良さは、みんなで協働するというところにある。協働して初めて自給が実現するという事を身をもってわかる。もちろん一人でも自給農業は出来る。しかし、みんなでやれば、労力は半減する。みんなの農業では初めて農業をやる人にも、その役割がある。

 その上に良い仲間が出来る。現代社会で信頼できる仲間が出来るという機会はなかなかない。一緒に汗を流して働くという事が大切なのだと思う。特に子供には良い機会だと思っている。時々子供を腹を立てて怒ってしまう。親のほうが緊張する。それでも子供は怒る時は怒った方がいいと思っている。そうしてだんだん子供はどこまでぐらいなら許されるかが分かる。

 道具を粗末にすること。田んぼの中をめちゃくちゃにすること。これは子供でもダメだ。段々に子供が働けるようになればいいのだが、それは別に期待しているわけではない。大人自信が面白と思ってやっていることを見る機会になればいい。嫌なことをやらせていいことなど何もない。

 今回も短期間であったが、いろいろやることができた。タマネギと小麦の畑も草がなく、きれいになっていて今回はやるようなことはなかった。穴あきビニールも少しもはがれた様子はなかった。早くからビニールを張った私のタマネギが一番活着が良く、期待が出来そうだ。

 
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海外永住者の増加

2023-01-30 04:43:16 | 暮らし


 海外で永住権を取り、日本から離れる人が増加している。「永住者」は20年連続で増加し、10年前と比べても約14万人超増えた。地域別では北米(約27万4千人)、西欧(約9万人)、豪州・オセアニア(約7万6千人)が多い。男女比は女性が約62%と多い。 ーーー朝日新聞

 一年に1万人以上が日本を出てゆくという事は、少子化以上に深刻なことではなかろうか。日本を捨ててゆく人が増えているという事だ。少ない子供が大人になって日本を去ってゆく。それほど日本が魅力ない国になったという事なのだろうか。

 どういう形で日本を去るのだろうか。明治期以降の棄民政策とは違う。政府は人口減少を食い止めようと、少子化対策に本腰を入れると言っているのだ。いかに少子化対策など無意味なのかという事が現れている。人口増加を政府が望む中、日本から出ていく人が、増えているというのだ。

 いよいよ移民受け入れになるのかもしれない。日本が暮らしにくい国になってきたと考えなければならないのだろうから、移民を募集しても、もう日本に来てくれる時代は終わろうとしている。この状況をもう少し考えてみたい。

 想像しがたいことだ。確かに政治のひどさや、人心の荒廃はすさましいが、国民がしっかりこの国で暮らす覚悟をすれば、何とか立ち直ることだ。日本列島という水土は素晴らしい地域だと思う。この土地を生かして、自給的に暮らそうとするなら最高の場所だ。

 つまり暮らして行くことの未来が暗く感じられるようになったのかもしれない。衰退してゆく過程の日本の姿なのだろう。沈んでゆく船から早く逃れた方がいいとしているのだろうか。あるい外国の方に素晴らしい金儲けの可能性があると考えるのだろうか。

 様々な形で現地に根付く元日本人が増加していると言うことなのだろう。女性の方が多いいというのは、その国の人と結婚してその国で暮らし始める女性がかなり居ると言うことのように感じる。私がフランスのナンシーで暮らしていたときも、そういう日本人女性が10人くらいはナンシーにいるとのことだった。

 日本人の女性は男性に競べてフランス人には人気があるという感じがする。岸恵子さんとか後藤久美子 さんが著名だ。結婚でなくとも日本人女性で、海外に一人で出て生きているという人は結構いる。ヨーロッパで一座を作り、人気者になった貞奴や花子。花子はロダンのモデルになり、ロダンの家に部屋まであった。48体もの作品を残した。ロダンの作品で、クローデル像と花子像には魂があると思う。

 ノーベル賞を受賞した学者が海外の大学で研究しているというようなことはよくある。研究者で海外で活動をしている人はかなり多いはずだ。ナンシーにも数学者でナンシー大学で教えていた先生がいた。そこの数学の教室には日本人の研究者が日本から2人来ていた。

 中国には日本の研究者が好待遇で行くと良く言われる。日本ではやりたい研究をやる予算が貰えない状況なのだから、無理もないと思う。お金につながる研究が奨励されている。中国では例えば、ひこばえ農法が研究されていて、その為の品種も作出されているらしい。

 日本のイネ研究の状況とは大違いである。中国がイネの研究に力を入れているのは、食糧は自給すべきという、当たり前の思想があるからだ。日本のように食糧を安い国から買えばいいなどというのは、国の安全保障に対して、無責任だからだ。

 食糧のなくなる前に、国から抜け出す方がマシだというのも当たり前かもしれない。様々な形で、国の運営を間違っているのだ。間違いを正すよりも自分が出て行けば済むことだと考えるようになっている気がする。変える努力をするより、諦めて日本を捨てるという選択のような気がする。

 中国に行った研究者は、中国に行ってみて中国人のすばらしさを感じているはずだ。日本で宣伝されている中国人、観光客としてくるやかましい中国人とは、全く違う素晴らしい能力の中国人がいる。魅力にあふれた信頼できる中国人が沢山いる。

 一度中国の庶民の間に入り暮らしてみなければそういう事は分からないはずだ。そのことは、7年間軍人として中国に行かされた父が、いつも言っていたことだ。父は徴兵されたときに民俗学の研究者の眼で中国を見ようと考えていたそうだ。父は柳田国男の弟子のままで、中国に行くと考えたそうだ。

 中国語を覚えて、出来る限り中国人の中に入れる仕事をしたらしい。そして戦時中であるにもかかわらず、中国人のなかに、素晴らしい人がいることを知り、人間としての交流を心掛けたそうだ。中国人から学ぶものが沢山あったと言っていた。

 その話を聞いていたので、中国へ行く機会があったので、中国の農村部で自然養鶏のことにかかわった。指導するという事で行ったのだが、大したことはできなかったが、中国人のすばらしさを痛感し、日本は忽ちに追い抜かれると確信した。あれから20年経った今その通りの結果である。

 こういうやり方があると話すと、次に行けば実践しているのだ。日本の農家の人は自分流が一番だと思い込んでいて、修正が利かない。しかし、中国の農家の人が、良いという事には柔軟で、思い切って変えてゆく。そして成果が出ると実に喜んでくれる。

 指導にやりがいもあるという事になる。それでこちらもますます本気になり、真剣に中国で出来るやり方を探した。中国に住んでこちらで指導してもらえないかとも言われたのだが、自分の養鶏場もあり、行けなかった。しかし、中国の貧しい農村の力になるのも、自分の役割かと考えない訳ではなかった。

 中国の力になっている日本人に、中国で沢山であった。日本での研究所での仕事を止めて、中国で無農薬の果樹栽培を指導されていた。その方が、中国で本当に尊敬されている事が分かった。その研究者の方は、なんとなくその時、私を避けるような感じがあった。

 日本を捨てたという気持ちがあるのかもしれなかった。日本人にどう思われるかを気にしていたのかもしれない。しかし、立派な業績を中国で残していると感銘を受けた。そうした研究者の方は今もたくさんいて、中国で本気で研究されているのだと思う。

 それは中国と限らず、世界中のあちこちで、能力の高い日本人が研究や、開発に力を尽くしている。それは素晴らしいことだと思う。その意味で、日本の高い頭脳の方が出てゆくことは、良い日本を世界に知ってもらうことにもなっていて悪いことではない。問題は日本の国内の空洞化の方である。
  
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第146 水彩画 日曜展示

2023-01-29 04:59:06 | 楽観農園
第146 水彩画 日曜展示

10号前後の作品です。







81「ミカンと海」
2023.1







82「佐世保赤崎岳とドック」
2023.1





83「霧ヶ峰」
2023.1






84「妙高」
2023.1





85「石榴」
2023.1





86「赤い海」
2023.1







87「花鳥山の秋」
2023.1






88「瀬戸内夕暮れ」
2023.1






89「箱根富士」
2023.1







90「のぼたんの溜め池」
2023.1


  少しづつ好きに描いているようにな絵になってきた。良い傾向だと思う。好きにしようとか考えているわけではない。ただ絵が嫌なところがなくなるまで描いている。何か違和感がある所は失くしてゆくように描く。おかしいと感じているのは、反応的なものだ。

 自分というものと、その表現されたものが、繋がっているはずだと考えているが、自分そのものだとは考えている無い。ある意味自分が作り上げようとしている自分のことかもしれない。自分の方角を表すものとして、描く絵があるのかもしれない。

 絵が自分の指針であり、自分の目標であり、希望なのかもしれない。それは分かりやすい整理だが、それだけではないのだろう。あまり考えないで描き続けようともう。日々の一枚である。自分でも何処まで行けるのか、その果てにある絵を見たいと思っている。

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ロシアは非難されなくてはならない。

2023-01-28 04:07:10 | 楽観農園


 水牛の「わかば」である。今は放牧地にノボタンと一緒に放し飼いである。もともとの名前は「わか」である。最初にわかばだと教えられたので、いまさら変えられないので、わかばのままである。わかば本人はどう思っているのかはわからないが、わかばと呼ばれるようになったことは分かっている。2年以上飼っているので、ずいぶんなついている。

 何時もとんでもないことを口にしてしまう森元総理大臣が「 ロシアの負けは考えられない。ウクライナに肩入れしすぎではないか。」とまたまた、許されない発言をした。どうしてこのタイミングでこんなことを言わなくてはならないのだろう。

 たぶんボケが来たのだろう。あるいは五輪汚職がばれるのが怖くて、おかしくなったのかもしれない。今思えばアベ氏が生きていればもっとひどい事になっていたのかもしれない。何しろプーチンの親友だったのだ。日本とロシアの関係は、経済制裁の中で行われたそもそも抜け駆けであった。

 領土問題があるから、許されたまともな外交ではなかった。結局領土を返すかのようなほのめかしにつられて、極東開発に協力させられて、上手く利用されたうえに、全く領土など返す気がなかったという事が今になればわかる。ロシアはそういう国なのだ。

 自由主義圏の一国として、ロシアを強く批難し経済制裁をしなければならない。今できる唯一の日本の外交努力である。経済制裁が充分に出来ないで、抜け駆けをすれば、日本は自由主義圏から信用されない国なる。インドのような、あるいは中国のような立場になる。

 インドと中国は同盟で安全保障を作っている国ではない。核保有をして国の安全保障体制を独力で構築している。原爆を保有しない日本は同盟国アメリカの核の傘を背景としての、安全保障体制だ。将来はNATOと似たような、東アジアの同盟を模索してゆくべきだろう。

 森氏は日本がどんな国になりたいというのだろうか。日本が北朝鮮のように原爆保有しろと言うのだろうか。日本だけが漁夫の利を得るようなことが、倫理のある国と言えるだろうか。人間もそうであるが、国家だって信用が大切である。

 苦しい時に助け合う事で、互いの信頼が生まれるのだ。今がその時だろう。ウクライナに支持と支援を表明する時だ。ロシアにウクライナに負けないように、日本のできることを精一杯行う。国にお金がないなら、国民からウクライナ支援金を募金してもらってもいいだろう。ウクライナ子ども基金への募金が良い。

 日本は軍事支援はできないのだから、少なくとも経済制裁では徹底した努力をするべきだ。日本の安全保障は日米同盟が基本となっている。非核保有国として、そうでなければ、核保有国からの圧力に抗しきれない。いつまでもこの形が良いとは思えないが、少なくとも現状ではこの状況を忘れるわけにはいかない。

 ロシアと友好関係を持つという事は、アメリカと敵対するという事でないのか。どちらがマシかと言えば、アメリカとの友好関係だ。アメリカ嫌いであるが、仕方がないと受け入れている。将来世界から核爆弾がなくなるまで、今は経過的な状況と考えるしかない。悔しいことだが、この点では日本の右翼と同じ考えである。

 ロシアとの友好関係と言っても、プーチンと盟友だと言っていた、アベ氏はウクライナ侵攻後この戦争に対して一切口を閉じた。同じダメでも、森氏よりは理性があったのだろう。盟友なら、プーチンと会って、戦争などやってはならないと、諫めるのが役割だったはずだ。それは森氏だって同じことだ。

 プーチンが行っている、一方的な軍事侵攻は世界が全力を挙げて、潰さなければならない行為だ。武力による現状変更を許してしまう事は、これからの日本の外交にとって、大きな後退になる。いつまでも独立国家になれないという事だ。敵基地攻撃力などでは到底追いつかない事になる。

 不当な軍事侵攻は世界が、国連が力を発揮して、止めなければならない。それは極めて難しいことではある。ロシアという核大国の軍事独裁国家が、突然隣国に対して、軍事侵攻をしたのだ。較べてみればはるかに軍事的には劣るウクライナが、突然軍事侵攻を受けたのだ。

 強盗殺人犯が暴れまわる状態である。人道的に言って許されるところはどこにもない。その殺人犯とうまく付き合うべきだというのが森氏の発言である。一体そこまで、ロシアとの利権に拘ることにどんな意味があるというのだろうか。

 ロシアはウクライナと親せきのような国だった。歴史的には複雑な関係ではあるが、ウクライナ人の多くの人がロシア人の親せきや友人がいるのだ。幾ら領土問題があるからと言って、話し合いが出来ないはずがない。ロシアがその話し合いをせずに、軍事侵攻である。

 ロシアの行っている行為は戦争犯罪である。ロシアは世界から犯罪国家として、徹底的に責められてしかるべきだ。どこにも酌量の余地がない。確かにロシアは負けないかもしれないが、これ以上長引き、徴兵を強化して行けば、ロシア国内から、反プーチンの動きが始まる可能性はかなり高いはずだ。

 今はウクライナが負けないように、支援してゆく。それしかない。日本はウクライナと友好国になる。それは利害を超えた、精神的共鳴を持つことだろう。一切ロシアと断ち切るという事である。後先のこと等考えずに、ロシアを排除しなければならない。

 批判は、インドと中国に向けるべきだ。確かに世界には日和見国家は多い。倫理がない国がある。日本はそんな国になってはならない。金儲けのために要領よく立ち回る必要はない。人間をそれほど卑劣なものと考える必要はない。もっと人間を信じて、倫理ある方向に進むべきだ。

 森氏は日本は中国やインドのようであれと言っていることになる。それがどれほど卑劣なことかわからないのだろうか。つまり日本の総理大臣をやった人が、この程度低い卑劣官ということだ。しかし、残念なことに今の日本人はこの森発言に共感する人がかなりいるという事だ。

 お金が儲かる方がいい。少々卑劣であろうが、そんな倫理は要らないという人が多いいのではないか。ロシアとの関係も維持しておいた方が、ロシアからの恩恵があると考えそうな気がする。経済至上主義である。
 

 
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小田原から台湾へ

2023-01-27 04:46:33 | あしがら農の会
 
 水牛のさくら、網をくぐり脱走するのを覚えたので、今は紐で繋いである。しばらくすれば、繋がないでも逃げなくなるかもしれない。入口が二重の扉になったならば、紐から放そうかとおもっている。水牛も紐がないとやはり元気が違う。放牧が一番だ。人間もその方が楽だ。

 今日から小田原生活である。一番寒い季節に、わざわざ温かい石垣島から来るのだから、身体を壊さないようにしなければならない。一昨年の冬に小田原に来て、身体がおかしくなった。今回の小田原生活には色々のことが詰まっている。今日初日の27日は、まずは溜め池の修復工事である。

 溜め池の一部で水漏れが起きていて、なかなか修復できない出来た。大きな木が石垣に根を張っていたのだ。その木が風でゆれるもので、根がだんだんに石垣を壊していった。石垣のそばに大きな木はだめだ。その木は切って半分に割り、溜め池の入口の丸太橋にしてある。

 漏れている石垣に沿って土を入れてしまい、細い道を作る。今までも途中までは道があったのだが、それを延ばすことにする。ドドノ程度の幅で出来るのかは土の量があるだけ入れたい。土をダンプ2台市が運んでくれる。セメントも小田原市が現物支給してくれることになった。

 小田原市の土地に在る溜め池で、管理責任は小田原市がしているため池である。その管理委託を里地里山協議会が受けている。以前は欠ノ上の水利組合が管理していたのだが、管理しきれなくなり、こういう形になった。ごみ捨て場に忽ちになってしまったのだ。

 この溜め池をカキツバタの群生地にする。そうすれば維持されると考えている。花は人を引き付ける。美しい花が咲いて居れば、それを汚そうとはしないと思う。また誰かがその花を、守ろうとしてくれると考えている。あと数年すれば、カキツバタの群生地と言えるだろう。

 今回市が用意しえくれた土を溜め池に入れる作業を行う。土はセメントと混ぜ込みながら、固めて行く。上の方は土だけで大丈夫だと思うが、石垣際の漏れているカ所はかなり深刻なので、泥センメントでしっかりと固める予定。人は7,8人は一輪車持参で集まってくれそうだ。

 修復地点が、土を運び込める場所から、30mある。ここを頑張って一輪車で運ぶ予定である。ともかく人手がなければできない仕事になる。天気ももう一つのようだし、どうなることか心配である。天気の回復を祈るばかりである。

 今回の工事が溜め池工事の最後のものになる。これ以上は修繕はいらないと思う。後は日常管理だけだ。2月に小田原に来たときに、草刈りをして、またカキツバタの移植をしようかと思う。昨年秋に移植するつもりが、出来なかったので、2月なら大丈夫だろう。

 28日は欠ノ上田んぼ修復工事がある。畦が弱くなっているらしい。こちらも出来ればユンボを入れて、大がかりな工事が必要だと思う。しかし、今回はそこまではやれない。今回畔直しをしながら次回の工事予定を考えておきたい。

 29日は大豆の会の味噌造りだ。いつも以上に盛大に行われるようだ。大豆も豊作だった。今回味噌造り参加費は無料である。なんと私が大豆生産量クイズのニアピン賞だったのだ。私などが当てたのはまずかったのだが、当たってしまったので仕方がない。

 30日は小麦の草取りか。玉ねぎの管理もある。どんな状態なのかは分からないが、やれることを探してやりたいと思う。欠ノ上の畦直しが終わらなければ、この日も続けて作業をやりたいと思う。小田原に来た時しか手伝えないのだ。

 そして、31日が水彩人の総会。今回は25回の記念展に向けて、色々準備がある重要な会議。記念展では展示主任の役であり。部屋ごとに特徴を出す、新しい試みを考えている。今回、水彩人同人会員をすべてに投票をしてもらった。その結果は、展覧会会場で表現される。

 大きな作品だけの部屋と、小さな作品だけの部屋とを設ける。今までは小さな作品が大きな作品の穴埋めのようになっていた。これでは一点一点を尊重した展示と言うことにはならない。未だに水彩人も作品は大きいほど偉いというようなおかしな考えがあったのだ。小さい作品はおおきなものの引き立て役ではないのだ。

 もう一つは水彩人の同人会員が考えている、水彩人の方角を示しているのでは無いかという絵を集めた室をつくる。そのためのに投票を行った。その部屋に飾られる人は、今回大いに頑張って選ばれた人に、水彩人に相応しい作品を制作して貰いたいと思っている。

 そして、いよいよ2月1日には台湾に向かう。やっと台湾に行けるようになった。台湾はコロナに対して厳しい制限をして、感染者の数は少なかったのだが、やはり一時は感染が広がった。やっと今年に入り、入国条件が緩和がされた。待ちに待った台湾行きである。

 今回は台湾で王さんという方にお会いできる。台湾の農業の種苗のことを色々聞かせていただくことになっている。聞かせていただいた上で、出来れば種苗店を尋ねてみたいと考えている。台湾の稲作、大豆、小麦その辺の事情を教えてもらいたいと考えている。

 台湾は食糧自給に真剣である。今も台湾の水土に適合する品種の作出を続けている。石垣島の気候は台湾に似ている。日本本土の品種を作っても十分な作柄と言うことにはならない。そこで、石垣島の水土に合う台湾の品種を作ってみたいのだ。持ち出しが禁止されていない品種を探してみたい。

 もう一つやってみたいことがある。台湾から石垣島に荷物を送ることだ。コンビニから荷物が送れるらしいのでそれも調べてやってみたいと考えている。送れるものが限定されているらしい。何が送れて何が送れないのかも調べたい。洋蘭は台湾から送ることが出来る。

 短期間の小田原滞在だが、色々おもしろそうなこと満載である。まだまだ動ける間はこうした2地域居住を続けたいと思う。そしてそのついでに台湾による。居住というか、2地域農業と言うことになるのかも。それでも石垣の農業の方がだんだん重くなってきている。小田原は参加者という範囲になってきた。

 溜め池の作業は大工事としては最後かと思っている。動ける間にここまで出来て良かったことだ。ここまで出来れば後は維持管理だけで良いことになる。余り動けなくなっても、草刈りぐらいはまだまだ出来るはずだ。続けていれば必ず道は開ける。

 それにしても、寒さは厳しい。外はマイナスの気温だ。石垣とは大違いだ。パソコンの前の温度計が14度である。このくらいなら寒いとは言えないのだが。暖かさになれてしまったのだろう。
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家族農業から自給組織の構築へ

2023-01-26 04:46:33 | 暮らし


 世界の農業を支えてきたのは家族農業である。家族で行う小さな農業が日本でもまだ主流である。家族農業はご先祖様から受け継いだ農地を子孫に繋いで行く、いわば一子相伝の農業である。伝統農業はその受け継いだ土地と折り合いを付ける形で継続されてきた。

 こうした家族農業が崩壊し始めている。農家を継ぎたいという子供は極めて少なくなった。親も出来ればしっかりしたところに就職してもらいたいと言うことが普通になった。普通の家族農業では食べて行けないのだから、継がせるわけにはいかないというのは、世界中でごく当たり前のことになった。

 なぜ一番残って欲しい家族農業が苦しいものになってしまったのか。資本主義の競争が農業にもおよび、生産により有利な地域の農産物が安価にどこからでも輸出入されるようになったからだ。綿の適地で安価な労働力があれば、食べるものも作らず綿を作る。

 そして食料を輸入して綿を海外に販売する。いわゆるプランテーション農業である。適地ではない国の綿は競争に負けてなくなる。日本でも江戸時代は綿の栽培は自給分行われていたのだ。どこの国でもそれぞれに衣料の原料を作っていた。

 自由貿易という名の下に、車を販売するためには自国の主食作物すら、経営が出来なくなる。農業国が食糧危機に陥る。日本では食糧自給率は38%程度でどうしても改善することが出来ない。岸田内閣ではこの問題に積極的に取り組むとも言わなくなっている。もう諦めたのだろうか。

 政府は大企業農家を育てて、食糧自給率を上げようとしているが、実際にはそこで働くのは外国人研修生と言うことになる。もしこの形で自給率が上がったとしても、食糧自給とは言わないのだろう。食料という国の安全保障の根幹が、日本人自身で支えられないのだ。攻撃的軍事力どころではない。

 家族農業は実は自給農業の側面があるから、家族の食べるための田んぼと、家のそばの畑だけは続けていると言うことがよくある。つまり自給的農家と農水省が名付けた農家である。終わりを待っているような家族農業である。こうして徐々に家族農業の時代が終わろうとしている。

 では、企業的農業が日本の農業のすべてを担うことになるのかと言えば、それはありえないと思っている。企業はあくまで経営を考えて有利な農業を行うだけだ。これから競争が激しくなればなるほど、そういう構造に農業も成って行くはずだ。地域の連携を守るためとか、農地維持管理の為というようなことはなくなる。

 家族農業が無くなって行く以上、新しい農業が必要になる。それは市民が行う自給農業だと考えている。小さい農業であれば、企業のような大規模化の必要が無い。傾斜地であったり、細切れや変形の農地であったとしても、その土地に応じた柔軟な使い方がある。

 今行っているのぼたん農園の農地はまさにそうした農地である。市民が楽しく自給農業であれば、すばらしい農地になるが、経営で考えればまったく利用が出来ない土地であろう。なぜ市民であれば、この条件不利の農地が利用できるのか。

 なんと言ってものぼたん農園は景色が美しいと言うことがある。たぶん日本で一番美しい場所の農地だと思う。景色を何年も眺め続けているが、見飽きることがない。美しい石垣島の中でも、特別な場所だとおもう。この美しい場所で田んぼ作るということ自体が、大冒険に華をそえことになっている。

 こういうことはまったく企業的農業には関係の無いことになる。傾斜があるとか、風が強いと言うような作業効率の観点からだけ見ることに成る。のぼたん農園ではわずかな湧き水と天水で田んぼをやっている。これもまた、手間暇かかることで、到底企業農家には考えられないことだろう。

 しかし、このわずかな湧き水を水神として祭り、有り難い尊いものだと考えて、使わせてもらっている。汚染のない、ミネラル分を豊富に含有しているこの水を、在りがたいものとみんなが考えている。こういうことも自分が食べる自給だからこそで、企業農家には考えられないことだろう。

 作業には水牛を使う。水牛が素晴らしい動物だと言うことがかわせてもらって分かった。水牛よりもトラックターの方が、効率の良いのは当たり前だ。しかし、水牛と共に働くと言うことは、素晴らしい体験である。水牛も喜んで働いてくれて、働いた日の方が、嬉しそうなのだ。

 採算を考えない自給農業をやると言うことは、効率とは関係の無い、喜びが次々と出てくる。その土地に適合する農業を探求する。石垣島の水土に合う農業を見付けて行く。例えば、石垣島ではふつう「ひとめぼれ」が作られている。気候に合わないために、生産性は低い。しかし販売可能なお米だから作られている。

 のぼたん農園では、石垣島の気候に適合するイネの品種を探して作っている。その結果、ジャポニカ種とインディカ種の交配種が向いていることが分かった。何とかそうした品種を探して作るところまで進めたいと考えている。「とよめき」は少しそうした傾向のお米である。

 売れなくてもかまわない。作りやすいお米が自給には必要なのだ。味は自分が納得いけばそれでいいのが、自給である。目標は毎月新米を食べると言うことである。毎月稲刈りをする。お米の保存が難しい石垣島であれば、保存しないで、一ヶ月で食べきる形が良い。こういうことも企業農家であれば考えないことだろう。

 ひこばえ農法を目指している。一度田植えすれば、7回収穫を続けるというものである。スマトラ島にある農法である。最近では中国の南方でも行われているらしい。石垣島の高い気温であれば可能である。一年中稲は枯れることがない。この農法もいかにも自給農業向きである。

 アカウキクサ緑肥である。アカウキクサの窒素固定能力を利用した方法である。しかもアカウキクサが水面を覆うために田んぼ雑草が発芽がおさえられる。肥料を持ち込まずに、上手く循環して行く永続性のある農業である。これも自給的農業であるからこそやれる農法である。

 市民が集まり行う自給農業には家族農法よりも優れたところがある。協同できると言うことだ。のぼたん農園では30人の仲間だが、参加者にはそれぞれに特徴がある。その特長を生かして、全体でのぼたん農園は有機的な結合が生まれてきている。

 今度、新しい田んぼグループがが生まれようとしている。そことも連携を持ちたいと考えている。次の時代の農業は企業的農業と、市民的自給農業の2つが、上手く棲み分けて行くことになるのだろうと考えいる。

 
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のぼたん農園には仲間が居る。

2023-01-25 04:00:44 | 身辺雑記


 仲間が居ると言うことはかけがいのないことだ。同志がいなければ冒険は難しい。のぼたん農園の冒険が始まり、すこしづつ仲間が増えてきた。今30人ぐらいがラインに登録している。関わり方はそれぞれであるが、一年の間にここまで参加者が増えるのはすごい。

 今度、同じような田んぼグループが名蔵の方にも出来ることになった。先日みんなで見学に来てくれた。もっと遠くでも新しくやりたいという話が出てきている。お互助け合って石垣島のどこにでも田んぼグループが出来るようになれば良いと思う。

 石垣島には移住者が多い。どの範囲を移住者と呼べば良いのか難しいのだが、住民の半分ぐらいが移住者であると考えて良いと思う。その結果他所から来たものへの排他的な空気があまりない。例えば、のぼたん農園の在る崎枝は半分ぐらいが宮古島からの移住者で、半分ぐらいが最近内地から来た人になっている。

 田んぼをやってみたいと考えるのは最近石垣島に来た人が多い。石垣に来たら、農的な暮らしがしたいと思っていたという人が多数派である。そう思っていたからと言って来て始める人は少ないのだと思うが、中には本気でそういう暮らしに興味を持つ人が居る。

 退職してから、石垣島に来た人も居る。若い人で何か仕事を持ちながら興味を持ってくれる人も居る。のぼたん農園の存在もすこしづつ伝わってきているので、まだ参加者は増える可能性はある。しかし、おおよそ8グループ30人というのはのぼたん農園の大きさには丁度良いメンバーの数ではないだろうか。これからは誰か止めないと入れないと言うことになる。

 仲間で農業をやるというのは難しい。やれない人の方が多いと思う。のぼたん農園ではできる限り緩い繋がりにしている。また参加費に見合うだけの収穫物が配られなければならない。1田んぼで1万円で120㎏のお米が配られることが目標である。

 また田んぼに付随する畑はそれぞれの田んぼで作りたいものを作ることになっている。その他に、果樹園と小麦と大豆の畑がある。ターイモもつくっているのでこれも収穫できたらみんなで分けたい。それぞれが興味があることをここやり、学んで独立してゆく。

 こんど、ツリーハウスを作りたいという話が出ている。是非実現したいものだ。海の見える所におおきなヤラブの木があるから、その上に木製のパレットで床を作り、寝られるようにしたい。夏そこで寝てみたい。気分が良いことだろう。

 いま、バイオガス発生装置も作られている。上手くトイレと繋ぐ予定である。ガスが出来たらば、このガスでお湯ぐらい沸かしたい。サウナは出来ないものだろうか。興味のあることは誰でも自由に取り組み、みんなの協力で実行されて行ければとおもう。

 なぜ仲間のことを書いたかというと、多くの新規就農者が一人でやっているからだ。折角素晴らしいことをやっているのに、それがそれぞれの仕事で、一つの城のようにやっている。農業でも事業のつもりなのだ。確かにすばらしい経営者である。

 当然のように見えるが、そのために農家も競争社会に飲み込まれている。経営が目的のようになってしまう。作物を育てると言うことは経営とは何の関係もない。稲を育てる面白さが、経営によって台無しになっている。経営と関係の無い農業ほどおもしろいものはないのに、残念なことだ。

 そんな甘ちゃんなことを言っていれば生きていけないと考えているのだろう。しかし、暮らしてゆく才覚は作物を作る面白さとは関係が無い。今農業で生きてゆくのも、当たり前の農協出荷では不可能になっている。だから農業人口が激減している。

 作物を作る面白さを突き詰めようとしたら、農業は止めなければならなくなる。しかし、絵が売れないからと言って絵を描くことを止める必要は無いわけで、自由に書けば良いだけのことだ。作物を作る面白さを突き詰めてゆくには自給農に限る。

 自給農の仲間が集まることが出来ればこれほどおもしろいことはない。自給の技術も、専業農家に勝るものになる。当然のことだ、30人がそれぞれの得意を生かせば、どれほど優れた農業者をも上回る力になる。仲間の中で力が蓄積されてゆく。

 仲間が集まれば後は継続である。上手く継続が出来れば、どんどん良くなるのは畑の土と同じだ。のぼたん農園でもまだ、仲間同士の付き合いは浅い。他のグループの人のことはほとんど分からない。だんだんに作業を共にすることで、互いのことが分かってくるはずだ。

 農の仲間は共に働かなければ分からない。共に疲れるところまで働くことで、それぞれのことが見えてくる。作業を共にしなければ、農業の仲間の本当のところは分からない。こういう時代になれば、人間様々である。心を許せる仲間を作ることは困難な時代なのだと思う。

 ある意味、仲間作りなのかも知れない。良い仲間が出来ることが人間の一番の喜びだと思う。必要なことだと思う。良い仲間が居れば大抵のことは乗り切れるものだ。誰しも不十分な存在である。その不足分を補い合う仲間でなければならない。

 一人はみんなのために、みんなは一人のために。そういう仲間が生まれるためにのぼたん農園をやって行くのだと思う。もうそこまで来ている。それぞれがその良さを発揮し始めている。このまま必ず良くなる。そう信じられるところまで来た。
 
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少子化対策

2023-01-24 05:27:08 | Peace Cafe


 岸田首相は施政方針演説の中で、今世界は時代の転換点にあると延べた。同感である。気候変動やコロナパンディミック、そしてロシアのウクライナ侵攻。世界が破綻に向かって進んでいると思わざる得ないほど、手に負えない状況にある。

 そして多くの国が少子化に向かっている。これは人類の種としての危機感が、起している反応と考えざる得ないだろう。未来にこれほどの不安を抱えていて、どうして、人口が増えるだろうか。人口増加自体が危機のおおきな要因なのだ。

 出生数の減少を踏まえ、「従来とは次元の異なる少子化対策を実現したい」と強調。 昨年の出生数は80万人を割り込むと見込まれるとし、「社会機能を維持できるかどうかの瀬戸際と呼ぶべき状況に置かれている」という強い危機感を示した。

 総理大臣が呼びかけたとしても、少子化は続くだろう。少子化は政府が予算的に手厚く対応するというレベルでは、変わるようなことだとは思われない。子供が3人居れば働かないでも食べていけるくらいの、手当が支給されるのであれば、少しは変わるだろうが、そこまで思い切ったことは出来るとは思えない。

 社会的機能が維持できないというのはどういうことなのだろうか。子供が減ってゆくことで、年寄を切り捨てるほか無いと言うことだろう。仕方がないことだ。そういう厳しい状況が待っているのは、子供が爆発的に増えた恩恵の裏返しなのだ。

 高度成長期はそうし他人口増加に支えられ生まれた。なぜ、日本の戦後社会で人口爆発が起きたかと言えば、社会に希望があったからだ。誰もに自由を感じて、努力すれば報われる社会が来ると思えたからだ。実際に日に日に生活が良くなってゆくという実感が持てた。

 そうした時代の空気が、いつか社会は良くなる。きっと何とかなるという気持ちがしたのだ。もっと自由に生きることの出来る社会が来る。努力すれば、やりたいことが出来る社会が待っていると思えた。だから、次の社会に希望を持ち、子供は増えていったのだ。

 今子供が増えるはずがないと言う空気が社会に蔓延している。この先さらに悪くなるに違いないと、総理大臣自体が、このままでは社会機能が失われるとはっきりと言っているのだ。そんな状況でなぜ、子供が増えるだろうか。子供にかかる費用のすべてを社会で持ってくれるとしても、ダメだろう。

 希望のない社会に子供を送ることは出来ないだろう。日本や韓国や中国で少子化問題が深刻化している。一方でインドやアフリカでは人口爆発が起きている。むしろ人口増加で人類の未来を不安にしている。インドやアフリカでは昨日よりも今日、今日よりも明日の方が、暮らしが良くなると感じているのだ。

 経済の問題は確かに少子化に影響を与える。経済の未来が暗いから、少子化になる。経済がおかしくなっている原因は資本主義の行き詰まりだろう。これも岸田氏の持論であると言う、新しい資本主義。倫理のある資本主義の構築と言うことになるのだろう。

 つまり、岸田氏が拝金主義である現実の資本主義を、倫理のある資本主義に変えることが出来れば、少子化は終わるだろう。同じ施政方針演説のも一つの柱が、賃上げであった。岸田氏が本気であれば、賃上げの可能性はある。なにしろ、賃金は物価高に追いつかない状況が続いている。

 持続的に賃金が上がる構造とは、まさに子供の頃経験した高度成長期の状態である。10年間で所得倍増と総理大臣が呼びかけて、7年間で実現したのだ。この生活が良くなる実感が必要なのだ。物価上昇程度の賃上げではないのだ。

 企業は企業を守ることに命がけである。世界での競争に勝たなければ、企業は衰退する。世界には日本よりも条件の良い、様々な国や地域がある。そうした競争に勝たなければ、賃金は上がらないわけだ。例えば、半導体のように、一時は日本が世界の生産の中心であったにもかかわらず、今は台湾である。

 日本は競争に敗れたのだ。日本が新しい産業が生まれない理由も様々あるのだろう。日本の高度成長期は世界と比べて見れば安い労賃であるが、極めて高い品質の製品を作れる、労働者がいたからだ。しかもその労働者を宝として、世界に無いような製品を作り出そうとした、有能な経営者がいた。

 それだけ日本人が勤勉で、学習努力をした。それが出来たのは社会の空気である。どれほど大変でもここを切り抜ければ、実際に良くなると言うことがあった。それは農村にもおよび、出稼ぎでも、三ちゃん農業でもやりながら、豊かな暮らしを実現しようとした。

 背景には江戸時代の農村での日本人の暮らしがある。日本人の大半が百姓である。百姓が蔑称とされた時もあるが、素晴らしい人間という意味でもある。万能の生活人という意味だ。何でも出来るたくましさがあり、自然と共に生きるのが百姓である。

 百姓は自然と折り合いを付けながら、日々の観察を怠らない。そして、地域部落で、共同して働くと言うことが必要な仕事である。農家からで稼ぎに来る労働者の質は極めて高い。中卒で地方から都会に出て、勤める若者は金の卵と呼ばれたのだ。

 岸田氏が倫理のある資本主義に、この末期的な日本の資本主義を変えられると思う人は少ないだろう。だから、少子化は続くとしか思えない。岸田氏が実際にやるべきことは、少子化であったとしても、社会の機能が維持できるような危機対策である。

 現在の社会保障制度のままであれば、老人の医療や福祉の負担で若者の暮らしが潰されるのは確かであろう。と言って、老後が厳しいとなれば、誰もがお金を使わないことになる。今や老人が一番の貯蓄者なのだ。老人は若者から切り捨てられるだろう、社会は面倒を見てくれないと考えている。

 老人が安心できないから消費は増加しない。ため込むばかりで経済が回らない。ここに政治がやるべきことがある。老人のお金を利用して、老人の安心な老後を用意することだ。そうすれば老人が貯め込んだお金が動き出す。これは政治にしか出来ないことだろう。

 
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岸田総理が常軌をはずれた

2023-01-23 04:06:40 | 暮らし


 コロナ、春から平常対応に、行動制限なし「5類」移行へ。マスクも室内でもいらないと言うことらしい。年寄にとってはとんでもない話だ。ますます電車など乗れない。飛行機でも春からマスクなしなのだろうか。そんなことはまさかまだ無いだろうが、年寄はいよいよ外に出られない。

 確かにコロナという病気を受け入れるほか無い。嫌でも人間は死ぬ。死ぬことだって受け入れなければならない。特に年寄にはインフルエンザよりも致死率が4倍も高い怖い病気なのだ。60歳以上では感染した人の2%は死に至る病なのだ。ところがこのデーターも、インフルエンザと変わらないと何のためにか、宣伝がされている。

 中国で起きていると言われるコロナ地獄が日本でも起きないのだろうか。5類と言われて、有料になれば、大半の人がワクチンを打たないことになるのだろう。インフルエンザと同レベルになる。それでいいと言う判断を政府がしたのだ。一体医療関係者はこのことを認めているのだろうか。

 インフルではワクチンは打たないが、コロナではワクチンを打つ。理由は年寄にはコロナはインフルより厳しい病気なのだ。もしワクチンを打たないで感染したら、73際であれば、半分の人は重症化し、後遺症を残すだろう。その上に10%は死に至ると考えるべきだ。

 コロナでは年寄と若い人は別扱いすべきだ。年寄だけで考えれば、引き続き2類の病気と考えざる得ないのだ。しかし、社会をコロナがある社会として動かしていかなければならない以上、先ずは医療機関の整備と対応を考えなければならない。医療を整えることが5類への変更の前提になる。その上で70歳以上に対して別扱いを考えなければならない。

 70歳以上であれば、飛行機でもバスでもレストランでもマスクは必要である。できるだけ室内での集まりなど避けた方が良い。その上でワクチンは少なくとも年2回ぐらいは打った方が良いだろう。年寄にお金をかけるのは無駄かも知れないが、そうしないと医療が崩壊する。

 病院は現在、医療崩壊が始まっている。八重山病院でも一般診療を断ることになった。今交通事故を起してケガをしたら、助かる命も助からないことになるのだ。年寄だけの問題ではない。この最悪のタイミングで、総理大臣としてこんな発表をするのはどうかしているだろう。少なくとも春まで待てないのか。

 岸田氏はとんでもない総理大臣だ。耐えきれない。配慮のないところがまともではない。なぜこの過去最大のコロナパンディミックの中で、5類から2類への変更を発表した。タイミングが悪すぎる。今のコロナ死者は過去最大であることは、誰もが知るところだ。

 死者が過去最大と言うことは、隠れ感染者が膨大に居たと言うことだ。しかもオミクロンが病原性が弱いなどと言うことは無いと言うことだ。今年寄はかつて無いほど注意しなければならない時だ。にもかかわらずのこの総理大臣発表では安全宣言に見えてしまう。悪く勘ぐれば年寄は感染して早く死ねと言って居ると同じことにならないか。

 なぜこの状況で、年寄の対策を放棄するのだ。コロナを封じ込める手段がないから放棄したと言うことか。それでは中国と同じていたらくではないか。政府が国民の命をないがしろにして、経済を優先したのだ。経済も大事だとは思うが、命より大事なものはない。

 有効な手段がないというのは分かる。手段がないから、受け入れてくださいも仕方がない。そのことと対策を放棄するのは違う。忽ちに医療崩壊になる。多くの人が死の淵に追い込まれると言うことだ。少なくとも第8波が終わって、社会の気持ちが落ち着いてから考えれば良い。

 コロナで多くの老人が死んでも、それでいいとしたのが岸田氏であることは、忘れないようにする。安倍氏よりひどい総理大臣など考えられなかったが、岸田氏の無神経はそれを上回り際立つ。この人はアベとは違い自分の頭で考えて人の意見を無視するのだろう。頭が切れるつもりなのだ。

 経済最優先の拝金主義者が世間にはごまんといるのはわかる。その連中を重んじた方が、支持率が回復できると踏んだのだろうか。世界が末期的な状況だ。コロナ対策を放棄して死ぬのはほとんど年寄だ。それなら財政負担軽減のために死んでもらう方がましだというところが本心なのかと言いたくなる。

 本音でそのように考える人が現われているように思える。若い人には確かに、インフルエンザと変わらないのだ。どうせ年金でも医療保険でも年寄に迷惑をかけられているのだから、今更年寄の病気のためにこれ以上税金を使うのは無駄だ。そんなところが本音だろう。

 そういう社会の本音を岸田政権は受け入れたのだ。それがコロナ2類への変更だろう。まあ仕方がない。今更不満を持ち続けても気分が悪だけだ。諦めて個人的な努力をするほかない。

 日本の政治には期待できないと最近は考えている。諦めている。経済の不調で倫理的な判断力を奪われているのだろう。お金が一番の価値観だからである。人の命よりもお金の方が重要なのだ。これを批判すればお金がなければ、死ぬことになるのだと言いつのることだろう。

 経済が苦しいことは分かる。コロナのためと言うこともあるが、企業が新しいことに挑戦する力が無いことが原因だ。ソフトバンクのように仕事で利益を上げようというのではなく、お金を運用して利益を上げようというようなことになっているのだ。金さえ儲かれば良いという企業風土。

 問題はそれを仕方がないと受け入れている国民にあるのだろう。もちろん私にもある。仕方がないとは思ってはいないが、結局の所、諦めているわけだ。諦めて何もしないのは、要するに受け入れていることになる。まずいことになっている。ひどい状態だ。

 元気な間にのぼたん農園を完成させよう。自給の生活は野外生活が大半である。感染症の感染もしにくいことになる。ますます新しい時代の生き方になるはずだ。資本主義経済が限界になり、社会は階層化してきている。生きづらい時代が、さらに苦しい時代になる。

 どんなに困難な時代であっても食糧を自給できれば、自分の生き方を貫くことが出来るかもしれない。食糧自給生活の研修施設を作る。これが楽観主義の具体化である。次の時代に向けて冒険に乗り出す。不満を書いたらいくらか元気が出た。

 



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第145 水彩画 日曜展示

2023-01-22 04:24:47 | 水彩画
第145 水彩画 日曜展示

 今回は小さい作品である。






71「山の春」
2023.1








72「田んぼ越しの鳥海山」
2023.1








73「夕焼け富士」
2023.1








74「肥前寺浦」
2023.1








75「三津富士」
2023.1








76「戸隠の家」
2023.1







77「大里近郊」
2023.1







78「飯盛山」
2023.1







79「赤い木」
2023.1







80「夕暮れの海」
2023.1



 6号前後の作品を集めてみた。小さい作品になるほど、色彩の絵になるようだ。水彩の色彩が生きてくる。100号もあるような大きな作品になると水彩の色は頼りない感じになりがちだ。小さい繪ではその頼りない色が生きてくる。

 色は大きさでまるで違うものに見える。画面のサイズによって丁度良い加減がある。ネットで見てもらうとその点が分かりにくいことになる。むしろ絵を大きさで見ないで、その一枚一枚で見る為にはむしろネットの方が良いかと思う。

 水彩絵の具の発色が生きてくる作品はやはり小さい繪だ。しかもその良さがネットで見ると分りやすい。自分でも確認できる。この水彩の色が生かされる大きさは中判全紙ぐらいが限界だと思っている。昔はそのことに気付かずおおきな絵を描いていた。水彩のことをまだ知らなかったからだ。

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播種一週間目

2023-01-21 04:31:40 | 楽観農園

 1月9日海水選、溜め池からの水に漬ける。14日に水から上げる。1日新聞紙の間で陰干し。15日にばらまき播種をする。21日1週間目の発芽の状態。「ゆがふもち」

 1月14日にイネの種まきをした。今日が1週間目である。普通に生育していれば、針のような鋭い芽が出はじめているはずだ。この最初に出てくる葉がほそく鋭い1本の芽が出るものを単子葉植物と分類される。

 農作物ではショウガ科、ユリ科、サトイモ科、ラン科、イネ科などがある。農業をしていて、いつも種を蒔いてからの1週間が一番ドキドキする。条件が整わず発芽しないときもある。芽が出る条件は適切な水分量と、日々の蓄積温度である。どの植物も何時種を蒔くかの適期がある。

 小田原の稲作では5月の遅霜が降りなくなった頃が播種時期になる。石垣島ではどんなに寒くても小田原の5月と同じくらいだ。だから、普通の稲の種であれば、何時播いても必ず発芽はするはずだ。1月に播けば、小田原と同じように、1週間ほどで発芽するはずだ。

 今回は2年目で、播種も4回目になるので、すこしづつ石垣の水土環境がつかめてきている。1月14日に播種して、今日で1週間目になる。昨日はまだだった。今日はきっと出てきている。そう期待している。わくわくドキドキである。

 石垣島では12月から1月にかけて播種して、稲を育てることが一番望ましい時期になる。台風が来る前に収穫にたどり着ける可能性が高い。だんだん日が長くなる時期で稲の成長や生理に不具合が起きにくい。これが7月播種の2期作であれば、だんだん日が短くなる時期になり、成長に不具合が起こる可能性がある。

 ジャポニカ種のイネは、日の長さが短くなると花が咲く植物(短日植物)で、花をつけるホルモン であるフロリゲンを合成するための遺伝子(Hd3a)は、10 時間日長(短日条件)栽 培では働いて花芽をつけますが、14 時間日長(長日条件)栽培では働かないことがわ かっている。

 つまり、石垣でジャポニカ種を育てると、短日条件が来ない5月のうちに花を咲かせて、実を付けることになるために、13枚目が留葉になる可能性が高い。まだ理由は不明だが、15枚の葉がそろわないうちに、穂を付けようとしてしまう。

 小田原でサトジマンを栽培すると稲は本来の生育になり、15枚の葉を出すが、石垣島では13枚の葉で穂を付けることになる。しかし石垣島でインディカ種の稲を作ると15枚の葉が出て穂を付ける。たぶん、日照の影響のない熱帯の稲だからだろう。

 熱帯に原産地のある、インディカ種の稲は日長変化のない赤道付近の原産であるので、花芽の形成に昼と夜の長さの変化が影響しない、中日植物と言うことになる。そこで、石垣島での栽培にはインディカ種とジャポニカ種の交雑した品種が栽培に適していることになる。

 かつて石垣島でも作られていた、台湾で作出された蓬莱米はまさにそうした交雑種である。日本が台湾を植民地としていた時期に、磯永吉という農業技師が、当時は無かったインディカ種とジャポニカ種の難しい交配を成し遂げたのだ。そして台湾から日本へお米の輸出をしたのだ。

 但し味覚が現代人にはあわなくなり、現在台湾では台粳9号 、台南16号、台南19号や台中18号、台中194号のような、インディカ種とジャポニカ種両者の良さを取り入れた、台湾の気候に向いた品種がいろいろ出てきている。

 石垣島の12月から2月までは天候が不安定である。日照が少ない年が多い。今年も晴天の日は週に1日在るかどうかだった。冬の晴天日ほど気持ちの良いことはない。一年で一番過ごしやすい一日に成る。種を蒔いてからの1週間は5日が雨で、風が強く、2日だけ陽が差した。

 それでも遅れていた発芽は徐々に始まりそうだ。先日バンが1羽来て網の中にいた。ネズミは入ろうとすれば入れる。すでに食べているのかも知れない。不安は今も続いている。どうもよく分からない。ネズミを防ぐためにはどうすれば良いのだろうか。不安を抱えながらの1週間が過ぎた。
 
 

 昨日は石垣島への移住希望の方達の農業体験があった。クルバシャーをやってみて貰えれば、一番良いと考えた。それで福仲先生に来ていただき、指導していただいた。私ではとても水牛が上手く動いてくれない。甘やかしすぎだといわれている。しかたがない。

 何とか皆さん、上手くクルバシャーをやってくれた。転んだ人も居てドロドロになってしまったが、日本でこの体験が出来るのはのぼたん農園だけだから、是非ともやってもらいたかった。水牛がどんなに賢い動物か分かってもらえたことだろう。

 農業経営を石垣島でやることはとても難しい。移住して農業をやるのはほとんど不可能だと思う。もちろん実現されている方も居る。様々な特殊解である。当たり前の形で農家になることは無理にみえる。一番の理由は石垣島の気候はかなり厳しいと言うことにある。

 石垣島の農業技術を身につけると言うことが、なかなか出来ないだろう。小田原で35年やってみた私であっても、石垣の環境を簡単には把握できない。寒さのない環境。生き物の違い。たぶん微生物のおおきな違い。土壌の成り立ちの違い。分からないことだらけだ。

 子供の頃から石垣では雨が降ると土壌はどう変わるというようなことを知っているならばまだ良いのだが、他所から来たものには想像が出来ないほど違う。数年の体験ではたぶん先が見えないだろう。それは技術が身につくまでの5年間収入が無いと言うことになる。

 石垣島では農業は厳しい状況にある。どんどん辞めて行くと思われる。いくらか希望があるのが、果樹や肉牛であるが、これも展望があると言うほどの状況ではない。小田原よりも厳しいというのが私の見たところである。全体を分かっているわけではないのだが。

 石垣の農地を維持できるとしたら、経営と関係の無い、自給のために農地を使う人達だ。何か勤めをしながら、自分の食べるものを生産する。この形であれば、石垣の魅力在る農業に関われることになる。先ずは、石垣での働き口を探すことだろう。

 

 昨日管理機が来た。早速麦畑の間を耕してみた。案外上手く耕すことが出来た。これで時々耕していれば、草を抑えることが出来るだろう。
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理想の田んぼの授業案

2023-01-20 04:02:29 | 楽観農園


 田んぼの授業が出来れば、生徒は沢山のことが学べると思う。大げさに言えば、日本の教育が再生されると思う。日本は教育が実学に偏重し、小学校で英語まで学ぶおかしなことになった。その結果日本人の劣化が進んでいるのだ。しかも恐ろしいことにその誤りを指摘する人が少ない。

 学校では農の作務の授業が必要だ。身体を動かし、食べ物を作り、それを食べることで、自分という生き物が生かされているという、人間の基本となる能力を自覚できて、身体が覚える事ができる。義務教育が生きることに必要な能力を育てるものであるならば、今日本人全体で失われた農の作務は不可欠である。

 その学習目標を具体的に挙げてみれば、
1,イネという植物を健全に育てるために、観察を通して、ものを深く見るという能力を高める。
2,自分の身近な自然環境が稲にどのような影響を与えているのかを知り、稲の生育を通して環境への対応力を高める。
3,自分が生きる基本となって居るのが食料であることを学ぶ。食料を作ることの大切さを知る。
4,身体を動かし、自然との関係に折り合いを付けてゆく。この体験を通して身体の扱いを覚える。
5,農作業に於いて、みんなで協働で働く喜びを感じる。

 人の見る能力は育てる事で高まるものである。育てなければ、眼から入る情報量は伸びることがない。ただ目に映るだけでは実は余り見ていないと言うことなのだ。ぼんやり見ていることを、図に書いてみることではっきりと認識することが出来る。

 葉の色を絵の具で出してみようとすれば、緑にはその色合いは様々である事に気付く。イネは成長に合せて、葉の色を変えている。生育段階にしたがって、どのようなみどり色が良いのか、見えているものの意味知らなければ生育判断が出来ない。

 葉の大きさ、葉の厚さ。植物の葉には様々な形イネは水の中で育つ単子葉植物である。イネの場合生育段階に従い葉はどのように変わって行くのか。何枚の葉がでるものか。品種によってイネの葉の数は違う。多くの品種が15枚の葉を出す。石垣島で栽培したら何枚の葉がでるだろうか。13枚であった。

 沖縄県のお米の収量が日本で一番低いことには理由がある。全国平均の反収は1反で539㎏。沖縄県は325㎏しか取れない。一番の山形県の半分ぐらいしか取れない。それには理由がある。沖縄県の自然環境にあったお米の品種が作られていない。宮城県で作出された「ひとめぼれ」と言う寒い地方のお米が作られている。

 稲は水の中で生長する植物である。日本で主に作られている品種はジャポニカ種という稲の品種である。南アジアやアフリカなどではインディカ種と言う暑い地域向きの品種が作られている。石垣の気候条件はむしろインディカ種に向いている。

 暑すぎる条件で作るジャポニカ種は十分な生育が出来ない。昔は石垣島でも蓬莱米という、台湾で日本人の技術者磯永吉 氏がインデイカ種とジャポニカ種を掛け合わせた品種を作っていた。その頃はもっと沢山取れていた。しかし、味が良くないので販売できないと言うことで、いまは「ひとめぼれ」を作るようになった。

 のぼたん農園では「とよめき」と言う熱圏におられる小林先生が作出に関わられた、石垣島に向いている可能性があるという、インディカ種が交雑された品種を作っている。果たしてどんな生育になるのだろうか。石垣に向いているのか試験栽培をしている。

 お米は一粒の種籾から1500粒になる。玄米1粒の重さは、0.0215g 。一株のお米は33gにも成る。1500倍にもなる素晴らしい主食作物だ。茶椀1杯のお米の粒(約65g)を数えると、約3000粒。 つまり、2株の稲でお茶碗1杯のご飯になる。

 この主食作物として、最も優れたイネを作ることで、自分が食べるものを自分の手で作ることが可能なのだと言うことを知ることが出来る。これが生きてゆく根底の自信になるはずだ。稲を作ることで日本人というものが生まれてきた。

 水があるために稲の管理は陸上の作物よりも管理が楽なものになる。そのために、日本では主食として3000年も同じ場所で繰返し作られてきた作物である。田んぼの土壌は、稲を作ることでだんだん稲に向いた土壌に変わって行く。

 水があることで、土壌は太陽光の紫外線を防ぐことが出来る。紫外線が弱められた水のある土壌では、微生物が沢山発生する。その微生物の死骸や排泄物が、土壌を細かな粘土状のもに変えてくれる。水がある事でもやウキクサが表れる。

 藻やウキクサは太陽光を受けて盛んに繁殖し、それが土壌の腐植を増やすことになる。田んぼは水があることで、肥料を作りながら、稲の生育を助ける。そのために田んぼは一年一年肥料がいらないものになって行く。特に石垣島に在るアカウキクサはその効果が大きい。

 田んぼには水を一年中溜めておくことで、より豊かな土壌を作ることが出来る。これは通年通水とか、冬水田んぼという。石垣島の土壌は通年通水しても沼かしない、素晴らしい土壌である。一般に本土の土壌では通年通水を続けると、田んぼが沼のようになり、硬盤という田んぼの土壌の下にある硬い層が柔らかくなってしまう。

 こうした石垣の土壌を生かすことで、石垣の自然を豊かにしてゆくことにも田んぼは役立っている。田んぼには微生物に始まり、それを食べる昆虫、トンボの幼虫ヤゴや、変えるの子供のオタマジャクシが増える。それを食べる小動物が増える。

 そして、それをエサとする鳥がやってくる。特別天然記念物のカンムリワシは田んぼで増える小動物をエサにして生活をしている。湿地を守るためのラムサール条約ではこうした通年通水の自然の田んぼを、湿地として認定している。

 田んぼの水は湧き水を利用している。田んぼの一番上に湧き水があり、そこに溜め池が作った。溜め池は沢沿いに5つ作られている。できる限り水を大切にしなければならない。こうしたわずかな湧き水と雨の水を利用して行う田んぼを天水田という。

 天水田は与那国島で行われてきたイネ作りの方法である。畦の幅は4m必要である。雨が降ることに併せて、一気に水牛や与那国ウマを利用して、田んぼの代掻きをする。何十時間もかけて田んぼを踏み固めて水を漏らないようにする。一度溜めた水はできる限り切らさないようにする。稲刈りも水のあるままに行う。

 水道の蛇口から出てくるぐらいの水の量でノボタンノウエンの田んぼは維持されている。しかし、このように地中から湧き出てくる水はミネラル分を多く含み、稲の生育には良い水と言うことになる。島で生きてゆく上での水の大切さを学ぶ。

 

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陸上部の記憶

2023-01-19 04:49:18 | 暮らし


 高校時代は世田谷学園の陸上部に入っていた。練習は熱心にやった方だと思う。指導する人はいなかった。だから練習方法も全くの自己流で、ただ走っていただけだった。今思えば良い方法で練習していたら、もう少しは強くなれたのかと思う。ただ私には指導者が居ないで良かったなと思う。

 陸上部に入部したら、部長と言う人から、長距離希望か短距離希望かと聞かれ、長距離希望と答えた。その日から長距離グループに加わり、練習を繰り返した。練習はまず準備運動をして、インターバル走を何本か行う。あるいは10数㎞走る。

 無計画に気の向いたことをその日その日にやる。繰返しが日々の練習であった。世田谷公園に行き、10周して戻ってくるとか、玉川の河原まで行って戻ってくるとか、走ればそれでいいと居言うことだった。良く国士舘大学の陸上部の人達と一緒になった。

 インターハイの全国大会に行く人は上の学年にはいたのだが、私たちの学年では一人もいなかった。今と会議員をやっている松本文明という人は陸上部の幽霊部員であった。世田谷学園の陸上部も駅伝には必ず出ていた。東京都では出場高校が80校ぐらい在ったのだが、大体はその真ん中ぐらいの順位だった。

 私自身は競技に出たくて出ているわけでもなかったし、上位になりたいというような気持ちもなかった。私の目的はただ走りたかったと言うことだった。高校に行ってから、うつ病状態に陥っていた。それで運動でもしたらどうだろうかと言うことで陸上部に入った。

 走ることで気分が良くなるかも知れないと考えた。それはある程度良い効果があったのだと思う。記録は1500mで4分50秒ぐらいだった。800mで2分03秒だった。記憶だから正確ではないかも知れないが、いずれにしても陸上部にいたなどと人に言えるほどの記録ではない。

 このタイムは選手とは到底言えないようなレベルである。上位の選手は1500mでは3分40秒を切る。つまり周回遅れである。800mでは1分50秒を切るのだから100mは遅れるのだろう。一緒に走ることさえ出来ないわけだ。普通の人よりは、早かったぐらいの所だ。

 それでも練習はかなりやった方だと思う。ただ分からずデタラメに練習をしていたからか、足を痛めてしまい、最後には走ることが出来なくなってしまった。くるぶしのところが大きく腫れてしまった。直ればまた走り、また腫らしていた。昔の靴は悪かったのだと思う。

 世田谷学園のとなりにあった井福病院に行った。学校の校医でもあったのだ。院長先生があなたの身体にはとても無理なことだから止めなさいと言われた。それでも止めないで、普通は3年になると余り部活はやらなかったのだが、高校の卒業まで一人で練習を続けていた。

 確かに虚弱児だったのだ。体重は43キロぐらいだった。骨も細く、無理な運動に耐えられないと言うぐらいのことは自分で分かっていた。それでも、練習に身体が耐えられないと言う理由で、陸上を止めると言うことが出来なかった。結局ずるずると高校を卒業するまで続けた。

 前回の東京オリンピック後で金メダルを取った女子バレーボールの大松監督の鬼の練習が注目されていた。根性である。根性さえあれば何でもできると言うことになっていて、弱いのは根性が無いからだと言うことになっていた。私も厳しく日本一の練習をしようと思っていた。

 同学年では最後まで染谷君と安藤君と私の3人が長距離を続けた。名前を今でも覚えているくらいだから、良い仲間だったのだが、卒業後どうしたかはまったく分からない。安藤君の家は学校から一つ通りを挟んだくらいの場所で鉄工所をしていた。6年間の付き合いだから忘れるはずもない。

 鉄工所の隣には小さな食べ物屋さんがあり、学校帰りにそこによって焼きそばやらラーメンを食べた記憶がある。本当は学校帰りに食べてはいけなかったはずだが、なんとなくそこで食べるのは黙認されていた気がする。注意された記憶は無い。

 運動部で何かを学んだかと言うことは無い。根性が着いたなどと言うことも無い。良い思い出とも余り思わない。何かを耐えて生きていたので、どうしようもなく、致し方なく、日常にいたたまれなくて、陸上部に入って練習に明け暮れて耐えたと言うことなのだろう。暗いばかりの高校生であった。

 その意味では走ることで助かったとも言えるのだが、陸上部で学んだと言うことは何もないと言いきれるだろう。陸上部に入らないで一人で走ることを選ぶことも出来た。何故そうしなかったのかと今では思う。そんな50年以上も前のことを後悔しているわけではない。

 なんとなく思ったのだ。今でも運動部に入部すると人間の修養が出来るようなことを考えている人がいるのではないかと。それは明らかな間違えだと言いたい。体験者として言えると言うことなのだ。上下関係とか、暴力的指導とか、先輩に対する言葉遣いを教えられるということは、まったくない方が良いことだった。
 
 後に世田谷学園の教師をしたときには美術の指導をした。それは結構楽しかった。生徒が授業を終わると必ず来るので、毎日6時頃まで一緒に何かしていた。美術部員の中には芸大に行った生徒もいた。彼はその後私の個展を見に来てくれたりしていた。今どうしているかは分からない。

 生徒に何かを指導すると言うより、自分も一緒に絵を描く。それしか出来なかった。それが一番良いことだと考えていた。事業がないときは学校でいつも絵を描いていたわけだ。授業でやることもかならず自分も一緒に作った。その頃大理石モザイクを覚えた。

 滋賀県にある八橋大理石まで行き、八橋先生から廃棄された大理石をもらったこともあった。八橋先生は芸大の教授だった。立派な工房があり、そこで泊まり込んで自分の作品を作っている人も居た。とても良い雰囲気の昨夏の居る工房だった。

 八橋先生のような作家指導が理想的だと思えた。何かをしろというのでは無く、一緒に制作をすることを通して、何か伝わることがある。それは生徒との関係でもそうなのだともう。陸上部も本気で競技する人の近くで練習すると言うことが、一番良いのではないだろうか。

 学校の教師が指導するよりも、そうした一流選手から指導を受ける機会を作ることが良いのではないかと思える。しかも、その選手は生徒を強くする指導はしない。自分の練習環境のそばに生徒を受け入れてくれるだけで良いのだと思う。

 生徒は自分自身が強くなりたいのであれば、選手を見て学ぶはずだ。強くならないでも良い。何かを学べばそれで十分ではないだろうか。運動部が教育的に、意味あるものだとは到底思えない。健全な肉体に健全な精神が宿るとは言えない。学校では運動部など辞めて、農業クラブの方がよほど良いだろう。
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のぼたん農園のイネ播種

2023-01-18 03:53:29 | 楽観農園

 写真は「ゆがふもち」の種籾。このくらいの発芽状態で直播きをする。海水選を行い。沈んだ種籾を溜め池から流れ出ている水に6日間漬けておき、一日陰干しした状態。今回の種籾は9番田んぼにばらまきをした。

 のぼたん農園では1月14日と15日に稲の播種を行った。14日には17名集まった。15日は大人4名と子供2名だった。15日には石垣島マラソンがあり、のぼたん農園の仲間には参加する人も4名もいた。応援で行く人、手伝いで行く人が多数いた。これからは重ならない配慮が必要である。

 14日には昨年4番田んぼで収穫した「とよめき」を2㎏播種した。海水選をして6日間浸けておいた状態だ。苗床に播いたものが700グラムぐらい。30センチの点蒔きで2番田んぼ、3番田んぼに300グラム程度を播いた。6番田んぼには700グラムほどを直播きで播種した。

 3番田んぼは渡部さん夫妻がすべてを行った。朝から線引きを行い、その後点蒔きをした。草取りが一番大変だったと言われていた。田んぼの石拾い、周囲の溝掘り。と始めから終わりまで進めている。この調子で、収穫まで行ければ素晴らしいことになる。

 とよめきは乾かす時間が無く、水から上げて3時間ほど新聞紙の上で乾かして、播いた。大勢が居たので、この日にほとんど終わらせるつもりで行った。3番田んぼは大勢で一気に点蒔きした。30分ほどで終わった。みんなでやるのは楽しい間に終わる。

 そのあと、6番田んぼにばらまきで播種することにした。線を引いて播いても良かったのだが、ばらまきで出来れば一番省力的な方法になる。今回試みとしてばらまきを行うことにした。ばらまきをして、発芽がそろったところで、コロガシを行う予定である。

 15日は三線田んぼとぬちぐすい診療所の参加だった。そこで、三線田んぼの補植と、9番田んぼに「ゆがふもち」を播種行った。9番田んぼと10番田んぼにある程度在った、苗を取って、7番田んぼに補植した。補植をして田植えをしたような田んぼになった。

 9番はやる予定はなかったのだが、「ゆがふもち」の種籾が余ってしまったので、もったいなのでばらまきで播いてみた。1㎏もあった種籾をすべてまいてしまった。捨てるよりはいいかと考えた。ここで出来た苗を0番や10番に植えてもいい。



 今回はできる限りネットを張って、鳥やネズミを防ぐことにした。かなりしっかりとやったつもりだが、どうなるかはまだ分からない。ネズミだとすれば、今回の程度のネットでは防げないはずだ。鳥の方は入れないはずだ。今のところまだやられていない。

 写真ではよく見えないが、ブルーのネットが張られている。水は播種した晩にかなりふって、どの田んぼも水が溜まったが、この後割合は約すべて抜けて、ヒタヒタ状態になった。一度雨が降ってくれたのも悪い事ではない。すべてが繋がった田んぼなので水管理はかなり難しい。

 播種した後はヒタヒタ水1週間。芽が出てきたところで徐々に苗が水没しないように水を戻す。水を戻さないとひび割れてきて、水が溜まらなくなる。水がギリギリなので、苗が水没するのも困るのだが、何時までも田んぼを乾かしておくことも出来ない。


 苗代は4番田んぼに作った。苗土に不安もあったので、苗箱に播いた苗土は今回は購入したものを使っている。こういうことはしたことがないのだが、ともかくあらゆることを想定したために、苗土は他所から入れた有機農業で使える苗土を購入してやってみた。

 五袋購入して、35くらいの苗箱入れることが出来た。苗箱は稲用のものではなく、野菜や大豆用の苗箱である。最近小田原でもこの苗箱を使い上手く行っているからである。下にある穴の具合が悪くなく、田んぼの中に根が入り込んで行くのだ。

 白い細かいネットで全体を完全に覆った。これならば、ネズミも入れないはずだ。水は通り抜けるし、光も入る。その上強い風も遮ってくれるから、案外苗代で苗を守るためには向いているかも知れない。それでも油断は出来ない。

 苗代では苗箱蒔きと、ベット蒔きの両方を行った。前回の失敗を考えて、色々の方法を行ってみて、最善を期した。土に問題があれば、ベットの方が上手くゆかないはずだ。どの方法がのぼたん農園向きなのか、今回は色々試している。

 苗代の種まきは4人で行い。2時間ほどでネットをかけるところまで出来た。もっと時間がかかるかと思っていたが、軽トラダンプの荷台で作業したのが、以外に調子が良く、素早く箱に播種できた。みんなの手際も大分良くなった。

 田植えの予定日は2月11日12日になる。苗の成長が早いようならば、4日5日もあり得る。今の時期であれば、小田原と同じくらいの成長になると考えておいて良いだろう。最低気温が、20度を超える日が多かったが、このところは16度である。このくらいならばイネの発芽から成長には良い温度だろう。

 直播きは6番はばらまきの直播きで行ってみた。これで上手くゆくなら、一番楽な方法である。多めの種をばらまきして、全体をネットで覆った。ネットを張ることが相当に難しかった。秋にもイノシシ対策でネットは張らなければならないから、ネットの張り方は経験を積む必要がある。



 写真は線を引いて、交点に3粒ずつ蒔いてゆく方法だ。時間があればこれが一番良い。ばらまきは苗が多すぎるはずだ。コロガシを縦横にすることで、苗を30センチ角で播いたように残そうかと考えている。余り発芽しなければ、そのまま進めても良いかと思っている。

 田んぼに入ると土壌が良くなってきたことを感じる。トロトロ層が出来てきた。まだ普通の田んぼに競べるとトロトロ層は薄いのだが、確実に田んぼの土壌らしい部分が出来てきた。腐植を増やす努力がすこしづつ成果を上げてきたと思われる。

 アカウキクサはすべての田んぼに広がってくれた。アカウキクサは1月になってから、また姿を現した。稲の成長に従って広がってくれれば一番良い状態になる。今後のウキクサ緑肥の広がりを観察して行きたいと思う。

 石はまだまだ多いのだが、去年に競べれば半減した。足にあたるものをさらに拾い出して行けば、いつかはなくなるはずだ。
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生活改善クラブの食事改善

2023-01-17 04:36:13 | 暮らし


 生活改善クラブの標語に、「なんでも食べる子元気な子と」いうものがあった。私は虚弱児童であったので、もっと食べろ家でも学校でも言われていた。食が細く、少しのものしか食べることが出来ない子供だった。そこで何でも食べるを目標に食べさせられていた。

 その結果なのか好き嫌いはなかった。しかし、身体の小さいものと大きいもの、体質も違うものが、同じ量を食べなければならないというのは、おかしな考えだ。食べることが苦しくて、子供ながらに我慢できなかった。それでも何でもできる限り食べると言うことは、食い意地で頑張っていた。

 それでも今ほど、肉や魚は食べなかったのではないかと思う。子供の頃の食事は今から思えば、とても健康的なバランスの取れたものだったと思う。野菜中心で、肉より魚だった。野菜だけという食事も多かったように思う。味噌汁と納豆と豆腐は定番だった。

 そして、73歳の今元気に農作業をしている。目標は絵が描ける100歳である。食事は少しは気にしているが、ファミマの弁当も食べる。昔のままの小食だ。小食の方が良いと考えている。毎日体重は計り、55キロを超えたら酒は飲まないと決めている。お酒が飲みたいので小食である。間食はしない。少量の酒は身体に悪くないと決めている。

 健康のために菜食するという考え方はしない。野菜だけ食べる考えは思想としてはあり得るが、菜食では健康に良くないと考えている。ビーガンとか、ベジタリアンとか、様々な範囲が在るようだが、思想としてそれを実行するのは立派だとは思うし、かまわないことだが、健康のためであれば間違っていると思う。

 余計なお節介だから、人のことはどうでも良いことではある。自分の身体で感じてきたことはできる限りまんべんなく食べることが健康には良いと言うことだ。偏食が良くない。出来おる限り広くまんべんなく食べる。その中には魚や肉や卵があってもかまわない。

 そもそも食べられるものは何でも食べるのが人間だ。あらゆるものを食べることが出来たので、弱い人間が生き延びて来れたのだと思う。人間は雑食に出来ている。ビーガンで生きて行こうなどと原始人は思っても、出来なかったはずだ。縄文の遺跡でもイノシシが沢山捕れた時期はイノシシの骨ばかりがでるらしい。

 問題はこのまま肉の消費量が増えて行けば、地球環境の維持が出来ないと言う事になるなる。肉の生産には広大な草地が必要になる。飼料作物の生産のために、お米や麦の生産が減少する。石垣島でも石垣牛のために、農耕地は徐々に草地になっている。

 人類の多くが肉中心の食事になる前に世界は肉不足になる。食べたくても肉は食べられなくなる。急激な価格上昇が起こるだろう。草地が不足するはずだ。それでも豊かな国が肉を求めて、世界の環境の破壊を進めることだろう。その意味ではビーガンの思想は優れている。しかし、蜂蜜も食べないというのはどういうことなのだろうか。

 たぶん肉食が昆虫食に変わるのだろう。昆虫養殖であれば、環境破壊にはならない。昆虫養殖は最も効率の良い食料生産の方法のはずだ。そこまでしても動物性タンパクを食べるべきなのかどうか。たぶん食べた方が健康に良いはずだ。昆虫タンパク質は、なんとなく肉よりも良さそうな感じだ。

 自動車や石炭火力発電所よりも、地球環境の変動に一番影響を与えているのが、人間の肉中心の食事への変化である。それを考えると肉はできる限り食べない食事が正しい食事なのだ。4つ足の肉食を禁じた江戸時代ぐらいの食生活に戻った方が良い。隔日ぐらいに卵は食べて、何か特別な日に鶏を絞めて食べるぐらいが丁度良い。

 家族の数だけ鶏が居るという状態が自給生活の基本形だ。そのくらいの数の鶏であれば、食品残渣で飼うことが出来る。生ゴミ処理機が鶏になる。鶏は最も飼料効率が良い生き物だ。昆虫と近い効率になる。雑草の処理もしてくれる。鶏の糞であれば、畑の肥料になり環境汚染にはならない。

 自給生活になれば、自ずと肉を食べることはなくなる。豚を飼って豚肉を食べるというようなことはなかなか大変である。せいぜい鶏だ。江戸時代も鶏は食べても良かった。鶏はその点自給生活に織り込みやすい。畑から出る残渣もまず鶏小屋に放り込めば処理してくれる。無駄になるものがない暮らし。

 食事は朝と昼のみ。夕食はない。もう働かないのに飯を食べる必要が無いと言うこと。この辺は仏教の戒律からきているところもある。しかし、座ってお経を読んでいるお坊さんと肉体労働者の庶民とは違うから、江戸も中期になると夕食も食べるようになる。

 仏教で言えば薬席である。夕食を食べるようになれば、当然夜なべ仕事である。夜の間に筵をおったり、俵を編んだり。百姓はありとあらゆる道具を作り、内職として売りに行く。忙しい暮らしになって行く。金次郎は田んぼの裏作に菜種油を栽培した。明かりの登場である。

 食事が3食になると言うことはそれだけ働くようになったと言うことなのだろう。当時はご飯を一日4合も食べるのが普通。600gである。年間219キロも食べた。ご飯だけ食べる偏食である。余り良い食事とは言えない。だから寿命が短いのだろう。

 庶民の食事は一汁一菜程度の粗末なもので、上層階級だけが魚まで食べていた。寿司やウナギもあったわけだ。食事におおきな階級差があったわけだ。魚も食べた方が健康に良いという考えはあった。しかし、魚介類、鳥、酒、たけのこ、きのこ、油揚げ、酢の物、玉子、梅干し、粕漬などが食べてはいけない物と書かれたものも在るそうだ。

 医食同源と言ってもどうも得体が知れない。中国の養生訓から来ているらしいが、この中で気になるのは酒くらいだ。どちらかと言えば健康に良さそうなものが禁じられているのがおかしい。何時の時代も健康法というのは不健康なものだと考えれば良いのかも知れない。

 どうも江戸時代の食事を健康に良いものとは到底言えない。戦後アメリカの影響を受けながら、生活改善クラブが進めたような食事が良かったということだと思う。藤垈の家には配られたポスターが貼られていた。3つに分かれた図で、炭水化物、脂質、たんぱく質 の3大栄養素を毎食食べようと言うことだった。

 今は5大栄養素でミネラルとビタミンを追加したものになっているらしい。さらに食物繊維を加え、6大栄養素と考えることもある。どんどん何でも食べろという方向に変わって、日本人の寿命は世界で一番になったと考えて良い。何しろ戦後80年の間に寿命は30年も延びたのだ。

 これは食生活の変化以外には考えられない。そして、とても良い食事を通り越して、だんだん悪い食事になってきたと考えても良いだろう。肉や脂質の食べ過ぎである。ファーストフードの影響もある。油の値段が下がったことがある。昔は油は極端に高いものだった。一番価格の変化した食品である。

 天ぷらなど滅多なことでは食べれるようなものではなかったのだ。私の感覚の中にはまだ揚げ物信仰が残っていて、揚げものは贅沢品なのだ。それが今やファーストフードの主流なのだから、当然不健康食事にならざる得ない。しかも、油信仰は肉や魚にもおよび、脂身のような霜降り牛。脂身そのものの大トロ。

 
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