地場・旬・自給

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日本をあきらめきれない。

2019-04-30 04:29:19 | Peace Cafe
日本文化素晴らしいものだ。作物の生育に呼吸を合わせるような暮らしのことだ。里山の暮らしのことである。そこにある暮らしは、実に厳しいもので簡単なことではなかった。いつ病気にかかり死んでしまうかもしれない。厳しい災害もいつ起こるかもしれない。年貢を納められるかどうかの不安もある。これは確かに克服されなければならないような、暮らしに違いない。しかし、この厳しい暮らしの方が良い面もあった。鎖国下の江戸時代の暮らしを見直す。里山の暮らしを見直す。ここに日本人の失ってはならない大切なものがあると思う。国が滅びに向っている。支配階級が登場する。アベ政権の姿は上級国民というおかしな言葉の出現が当然のように感じさせる。国民に広がり始めた、所属意識の喪失。それが依存意識になり支配者の不思議な優越意識を生み出している。若い世代ほど、支配されることに安堵を覚えるようだ。若者が新しい時代を切り開くような意識よりも、現状の中で要領よく自分が優位な立場に立ちたいという意識になっている。競争に目を奪われ、競争の方向には是非を問わないという事のようだ。例えば、それがゲームの世界であれ、上手になりプロになり、高収入に成れれば人生は成功と考える。

日本文化ではスポーツであっても、道というものに繋がるという意識であった。強いという事は目標ではなく、過程である。強いという事の奥にはさらに深遠な世界が広がっているという意識である。大相撲ではモンゴル出身力士が強い。しかし、朝青龍、白鵬、日馬富士、強い横綱が人格としてはかなり問題を抱えている。少なくとも日本文化における相撲道というものからすれば、横綱は人間としても崇高なものであり、道をわきまえた者である。なぜこうした違和感が生じるのかと言えば、モンゴル文化と日本文化とは異なるからであろう。こうしたことでも、若い人たちには何故白鵬の行動が問題なのかは皮膚感覚では感じられないのではないだろうか。相撲のしきたりに違反していて問題という事は理解できるのであろう。しかし、白鵬が間違っていると私が感じるのは、日本文化の理解不足である。それは言動のすべてに、横綱としてのふるまいではないな。と思わざる得ないわけだ。それはバトミントンの世界ナンバーワンの日本選手が、スポーツで競争を極めていたもので、賭博の勝ち負けにも惹きつけられたと話した時と同じである。日本のかつての文化からすると方角が違っている。

道徳教育が義務教育の成果にされるという。ここで言う道徳では、日本の伝統文化をどう扱うのであろうか。また、こうした競争主義をどう扱うのであろうか。拝金主義をどう扱うのであろうか。私には扱いようがないと見える。社会に倫理的な規範というものがない。アベ政権の振る舞いが規範にならない。傲慢政権である。忖度などという、隷属意識が蔓延している。既得権益集団の存在を許している。その集団が守りの姿勢で、上層階級を形成している。新しい勢力は出現せず。自分をなんとか上層階層に勝ち登らせようともがく。そこには当然腐敗が生じている。その腐敗に対して、社会はほぼ批判力を失いつつある。あの安倍氏の奥さんが行った安倍小学校汚職も、当たり前だろう程度に収まりつつある。もういい加減にしてくれと言うような投げやりな無気力感が社会に蔓延を始めている。不正をただすというより、不正が出来るような立場に上手く自分が立ちたいという人たちが多数派を占めつつある。

一人一人が自分の暮らしを正しく頑張れば日本は良い国になるのだと思っていた。日本の素晴らしい文化がさらに広がるのだろうと思っていた。これは間違っていたようだ。もう全体が良くなるようなことは期待できなくなってしまった。衣食足りて礼節を知る。と思っていたが、逆であった。日本国という単位では諦めざる得ないようだ。日本文化の中に生きようとしたら、自分たちと価値の共有できるもので、繋がる以外にないのだろうと思う。一つのユートピア思想なのかもしれないが、日本の伝統文化を共有できる仲間の形成である。それは具体的に言えば、「地場・旬・自給」思想ではないかと考えている。それそれの地域で自分の暮らしを模索してゆく。一人の自給を緩やかに連帯する。孤立するのではなく、新しい連帯の方法を模索する。悪い時代は必ず破たんをする。それでも自分たちの日本文化根差した暮らしは守れるように生きる。敗北主義のような感じもするが、ここまで来てしまった以上ほかに道はないようだ。

 

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日本は西洋崇拝で間違ったのではないか。

2019-04-29 04:24:36 | Peace Cafe
写真は欠ノ上田んぼの昨日の桜。

日本は行く先を、どこかで間違ってしまった。間違って歩いている内にずいぶんおかしな国になってしまったようだ。明治維新に始まる欧米崇拝に間違いの元凶があったのではないか。明治維新の方向の誤りである。文明開化とは日本の屈折である。文明に対する妄信が明治帝国主義に突き進み、ついには敗戦そして原発事故に至る。文化に対する確信のようなものが持てない、根幹を失った国になっている。その十分の反省がないまま、また亡霊が出現している。日本が現状ほど、世界の水準から遅れてしまったのは、建国以来初めてのことでは無いかと思う。にもかかわらず、日本がそれほどひどい状況では無いと思い込んでいる。ここに問題の深刻なところがある。方向の認識のずれた状況がアベ政権の悪政を生んでいる。アベノミクスは成功しているとアベ政権は一貫して主張している。もし現状を成功と本当に考えているとしたら、すでに状況を冷静に認識することすらできなくなっていると考えるほかない。失敗を認めることができないから、泥沼にますますのめり込んでいる。

多くの国民はそれほど悪くないじゃない程度に日本経済を甘く想像させられいる。世界の状況が悪い中では、日本はそれなりにやっているのだろう。程度の認識では無いだろうか。ところが、特別に落ち込んでいるのは日本なのだ。一人あたりのGNP水準は急速下降曲線にある。1990年には主要先進7カ国(G7)の内で第1位。ところが2017年にはイタリアをわずかに上回ったが、同率最下位なのだ。まず、日本が大変な状況にあると言うことを認識しなければならないのだが。日本国民はどうやらアベ政権に洗脳された状態にあるらしいというのが、最近の思いだ。こういう考え方が間違えである方がいい。もし私の判断の方が正しければ、日本は取り返しがつかない所に行くのもそう遠くはないことになる。

日本は世界で最年長の国だ。一番のお年寄り国である。これはアベ統計では無く、厳然たる事実だ。それだけでも危機的状況なのだ。この状況は外国人労働者でしのぐというようなことでは、問題解決にはならない。ならないどころか、より深刻化するだろう。問題の本質が認識できないために、対処療法だけを行う。子供の貧困率がこれほど高ければ、子供が生まれる数が減少するのは当然のことだ。一人親の半分の子供は貧困状態とされている。この背景には産めないと考える親がどれほど多いことか。外国人労働者は確かに一時しのぎではあるだろう。石垣でも、求人数は過去最大の1,518人になったと、八重山毎日新聞に出ていた。外国人アルバイトはかなり目立つ。外国人で急場の労働力の不足はなんとかしのげるが、外国人労働者に対する社会対応は全くできていない。このことは将来に禍根を残すに違いない。出身国の違法な人集め組織の存在。事前の健康診断など大丈夫なのか。日本に無かった病気が持ち込まれないか。日本での教育問題。医療問題。福祉対応。外国人労働者に対する必要経費は誰が見るのだろうか。日本人並みに福祉を行うと言われている。来日する労働者は福祉対象になることが日本人より多くなる可能性がある。これは税金で対応するのだろうか。雇用した者が負担するのだろうか。現状でも大量の不明の外国人労働者がいる。自殺者や犯罪者の比率は高いと言う話もある。アベノミクス対応は屋上屋なのだ。原因の根本には触れずに、対処だけしようとする。そのために日本の財政赤字は世界でも最悪国の一つになってしまった。しかも、その解決は先送りだけで解決の方策すら見えなくなっている。

バブルが崩壊した。それ以来経済が低迷していると言われる。全く経済の見方が違う。なぜバブルが起きたのか。それは投機的な不動産や投資にお金が集まり、実質の無い投機に奔走したのかと言うことだ。拝金主義下では繰り返し起こることだ。なぜ投機に走ったのかと言えば、製造業にお金を投資することができなくなったからである。余っているお金を使える有望な製造業が無くなったからだ。戦後社会は今までになかった物作りで日本経済は急成長した。新しい仕事を創意工夫したのだ。本来であれば、新しい例えばアメリカが成功した、IT関連の新規事業に投資して次の産業を興すようなことに向かうべきだったのだろう。ところがそういう未知への挑戦をする芽を摘んでしまっている。押さえているのは拝金主義と、既得権益集団だ。その結果、再生可能エネルギーの研究開発に方向を変えようとしてもできない現状がある。日本は原発事故という最悪ではあったが、大きなチャンスを逃しつつある。相変らず、経団連会長は原発再稼働をやれと後ろ向きな発想しかできないでいる。投機以外にお金の行き場が無いのは、バブルも今も同じなのだ。

政治がやるべきことは、日本の方角を示すことだ。多くの未来予測は経済についてである。拝金主義国ではお金の未来だけが関心事である。行うべきことは日本の国土と適正人口を考え、それに見合う健全な国作りである。安部氏は昔は美しい国、瑞穂の国の国作りと著書に書いた。それを本音で探るべき時だ。日本は一人あたりのGNPでも、国連の幸福度でも、成長の可能性でも、アジアの中位に位置する普通の国である。正しい位置づけを自覚することから始まる。普通に国であるという自覚ができれば、食糧自給もしなければいけない。外国人労働者のむやみな導入はまずい。軍事費の増強などできない。新しい日本の基本となる産業の育成。ごく当たり前のことが見えてくるはずだ。中国と張り合おうとか、韓国には負けていないという認識が世界から見れば、茶番になのだ。日本は大丈夫だという幻想を振りまいているアベノミクスにだまされてはだめだ。日本の危機的現状をきちっと認識してそれぞれが暮らす必要がある。報道機関がアベ政権を忖度して、政権の都合の良い雰囲気作りをしているのでは、悲惨な末路しか見えてくない。



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手作業でやる「小さな田んぼのイネ作り」の一年。①

2019-04-28 04:01:23 | 「ちいさな田んぼのイネづくり」


「小さな田んぼでイネ作り」の本を5月30日農文協からだすことになった。私なりに田んぼの結論をまとめたものだ。あしがら農の会で行ってきた、30年間の田んぼを笹村出としてまとめた。小さな田んぼの価値が、これから高まるに違いない。人間が生きるという事の意味を田んぼは教えてくれる。論より証拠である。本にあることが、実践でどうなるかをどなたでも確認できるように「欠ノ上の見える化の田んぼ」にしたい。本に書いたそのままに、実践してみる。場所は小田原市欠ノ上の小さな田んぼである。観音堂の真下にある田んぼなので、どなたにでも真上から見ることができる田んぼだ。小田原駅から諏訪の原行きのバスが30分に1本ある。欠ノ上観音堂で下車したらすぐその下が田んぼである。バスのまどからも見える田んぼだ。目印に農の旗を掲げておく。この田んぼは美しい久野里地里山協議会の田んぼである。この田んぼは私を小田原久野に誘ってくれた小林ナーセリーさんの田んぼである。お借りしたときは、シャクナゲが植えられていた。そこを田んぼに作り直したところから始めた。直してから10年は経過した。

4月28日6時レンゲの花が咲き始めている。もう少しこのままにして置き、種が実るまで耕すのを我慢したい。

面積は286㎡と自給にはちょうど良い田んぼだ。収量の経過は、2013年―165.2キロ 2014年ー167.6キロ 2015年―159.3キロ 2016年ー171.7キロ 2017年ー184.7キロ 2018年 ー169.3キロであった。それより前の記録は田んぼ一枚ごとの記録はない。周囲の普通の田んぼが8俵程度である中、有機農業で畝取りを続けている。この田んぼで、171.6キロ採れると畝取りになる。その理由は有機農業技術にある。有機農業は植物にとっては最善の栽培だ。欠点は手間暇がかかることになる。この手間暇をどれほど減らせるか確立した技術がある。かかる時間をこのブログで記録してゆくつもりだ。

苗床の様子。トンネルの中は10度ぐらいだった。下がるのは構わないが、昼間どのくらい上がるのか。
種が蒔かれ、燻炭を播き、その上からソバカスぼかし肥料を播いた。

小さな自給の田んぼをやってみたいという人には、必ず参考になる実践だと思う。小さな手作業の田んぼは技術の集積のようなものだ。技術がないと、倍の労力を掛けて、半分の収量になってしまう。草を抑える方法などは、田んぼごとに違う。どなたでも参加してもらいたい。ぜひ、「小さな田んぼのイネ作り」を購入してもらいたい。これはコマーシャルである。やりたい人には田植えも稲刈りも参加してもらえる。もちろん見学は自由にしてもらいたい。勝手に見ていただいて構わない。一シーズン通して参加したいという人には作業の連絡も行う。私も年齢的にあと何回田んぼができるかわからない。これが最後の田んぼ仕事だと思っている。自然養鶏も止めてから、今でも教えてほしいという方から連絡がある。残念な思いだ。田んぼの技術を伝えられるのも、あと何年であろうか。

畦には白クローバーがあり、田んぼはレンゲがある状態を目指している。

〇田んぼの様子や作業はこのブログにできるだけあげてゆく。
〇方針としては、「小さな田んぼ」に書いたとおりに行う。
〇苗は5,5葉期の分ケツしたものを1本植えにする。
〇すべての作業に機械をできるだけ使わない。
〇手作業だけでどこまできるかを、確認する田んぼとする。
〇水が難しい田んぼであるが、できるだけ深水にする。

今現在の様子はレンゲ緑肥が茂っている。周りの畦には白クローバーである。
2019年の作業の経過。
2月  3日   溝掘り、畦直し。10番はしなかった。
3月24日   もみ洗い。 久野川上流に種籾を浸種しておいた。これはお願いした。(1時間)
4月21日   苗所作り。これもお願いした。(2時間)
4月27日   種籾播種 苗床は同じ欠ノ上の3番田んぼ。2時間
       緑肥の状態によっては、ボカシ肥料をまく。
カッコつきの時間は全体の作業時間想像して10分の一にして、一応表示した。一人でやればどうなのだろうか。
この後の予定
5月25日26日 畦直し 荒起こし
5月31日   代掻き 畦塗り 
6月  1日2日  線引き、田植え
6月8日    転がし。


 





 

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石垣には音楽会場がいくつもある。

2019-04-27 04:30:40 | 石垣島
石垣島は唄の島である。いくつもの音楽を楽しめるお店がある。聞きたくなったら生の演奏をいつでも聞きに行くことが出来る。わかりやすく整理しておきたい。まだ行ったこともない店ばかりだ。知らない店には入りにくいものだ。しかも音楽の身内がたむろしていそうな不安がある。その辺の所を徐々に解明したいと思っている。毎晩、本格的な音楽が楽しめる石垣島なのだ。どのお店も、音楽は本格的である。良いお客さんがいるから、良い音楽が生まれる。

1,まだ知らないところがいくつもあるようなので一番を空けておく。だんだん付け加えるつもりだ。

2,CITY JACK バスターミナル裏。40人ぐらいは入れるスペースがある。本格的な音響設備がある。ロック、ブルースという感じか。オリジナル曲がドンドンできて、これがまた、結構いいのだ。常連の方も温かく、受け入れてくれた。これが石垣の良さ。多分ほかの店もそうだろう。

3,かふぇCLASS 本格的な八重山民謡の日もある。元ネーネーズの比嘉真優子さんの唄を聞きに行った。具志堅用高記念館に近い。建築会社が経営している会場。ライティングが客席に向いていて、すこし気になった。ネーネーズも唄いに来たことがある。簡単な料理が気が利いていた。

4,すけあくろー ユウグレナモール内の昔のジャズバー風なお店。生演奏が多い。場所がわかりにくいが、そこがアングラ風で良いかもしれない。

5,bar Bb 三崎町センター通り ブルースやシンガーソングライターの演奏日がある。まだ行ったことはないが、かなり本格的な人が来ている。

6,市民会館大中ホール、毎月八重山古典舞踊保存会が演じている。そのほか八重山民謡の会などもある。

7,アートホテル 毎晩宿泊者向きに沖縄ライブがある。時間は30分あまりと短いのだが、結構聴き応えがある。時にホールで音楽イベントもある。今度宮地おさむさんだそうだ。

8,「うさぎや」「ゆい風」などたくさんあるのが、民謡酒場。以前は八重山民謡の専門のお店もあったらしいが今のところ見つからない。必ず探して書き込みたい。観光客向きの沖縄ライブ民謡酒場が多い。誰が唄うのかで大分違うから、調べてからゆく方が良い。特別ライブで八重山民謡が唄われる日もある。

9,ANAインターコンチネンタルホテル ディナーショーも結構行われる。

10,カフェたにふぁー 大川188 様々なライブが行われている。まだ行ったことはないが、そばなので是非ゆきたい。歌を聴いて、飲んで、酔っ払って家に帰る。これが最高。

11,ユイロードシアター 普段は映画館。島アイドルの公演もあると新聞にあった。追っかけをしているわけではないので詳しくはわからない。高校生のダンスフェスティバルもある。

12,ゆんたく家 ユーグレナモール内のお休みどころで、時に民謡が聞ける日がある。その場合無料である。

13,たかしの店 新栄町ここには自称ミュージシャンが申し込んで唄うことができるらしい。その場合、飲み放題になるそうだ。三線の練習を励んで、飲み放題になりたいな。石垣の音楽のレベルの高さを思うと、到底無理な話だ。





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石垣島の未来展望

2019-04-26 04:14:36 | 石垣島
石垣島暮らしは、最高だ。流れに逆らわず石垣島に来た。今では定めに従い、石垣島に流れ着くことになっていたような気がする。30年前山北の山中で自給生活を始めたときに、ササムラアイランドと名乗っていた。だからメールアドレスはあのころから笹村アイランドだった。そのときには山の中の開拓場所を島のように独立した場所という思いがあった。石垣島に来たら、何かとアイランドという名称が目につくので、あの頃を思い出した。もしかしたら、前から島に住みたかったのかもしれない。石垣島には絵を描きたくなる田んぼがいくつもあって、まさに絵描きの天国だ。言うことの無いほど気に入ってしまった。さらによくなるための思いつきが4つある。来たりものが、余計なことなのかもしれないが、他のものだから見えるということもあるので、第一印象を書いてみる。

一つ目はブロック塀である。狭い路地をブロック塀が続いている。地震のときにどうなるのか、散歩をしながら心配をしている。歩いてみると危なそうなブロック塀の箇所がかなりある。道も狭い。石垣島と言うくらいだから、石垣もたくさんある。明和の大津波の歴史があり、我が家も津波で被災した場所にある。海抜5メートルぐらいのところだ。海からの距離で1キロぐらいだろう。地震が来たら、真っ先に避難すべき場所だ。地震があればすぐ避難場所の小学校まで避難しようと考えている。小学校はそう遠くは無い。この避難経路にもブロック塀があり、小学校までゆけるのか不安がある。塀が倒れてきて下敷きになる危険がある。通学路でもある、避難路となる道沿いだけでも、ブロック塀の強化が必要ではないだろうか。

二つ目が、心配なのがゴミである。事業系ゴミの急激な増加である。観光地ではどこも同じであるが、住民一人あたりのゴミ量は増加してゆく。これを住民が負担することになっている。事業系ゴミの回収価格は適正価格の別枠にしなければならないだろう。石垣市はゴミ回収が戸別収集である。初めての経験であるが、素晴らしいことだと思う。おかしなゴミを出せば、その場においてゆかれる。アパートやマンションではゴミが残ることを見かける。道ばたにゴミが残るのは見苦しいことだ。そのことは出した当人が自覚せざる得ない。罰則がなくとも分別収集がかなり徹底せざるえない。多分ゴミ処理経費は普通の市町村より高額になっているはずだ。そこに、観光に伴う事業系ゴミの増加の影響が加われば、高額な市民税にならざる得ないだろう。すでに、石垣の市民税は高くて大変だという声は聞いている。離島という条件を考えればやむ得ないこともあると思うが、受益者負担という意味で、事業系ゴミは事業者の負担増でお願いする必要がありそうだ。あるいは入島税を徴収する対応か。

三つ目が、交通問題である。町の中央部の商店街地区に自動車乗り入れ禁止地区をもうける必要があると思う。観光客が増加して、ユーグレナモール周辺部はかなり混雑をする日がある。危ない思いを何度かした。年寄りがのんびり商店街を歩くという感じではない。クラックションで押しのけて車が通る。近回りしようというだけの自動車が、かなりの速度で人を押し分けて通過している。どうじに、タクシーが客待ちをしている。客を拾おうとゆっくりと何度でも通るタクシーもある。急速な自動車と観光客の増加に、町の中の交通問題が整理されていないのではないだろうか。商店の利便性ということもあるのだろうが、早朝のみの通行許可などおこない、観光客が増える時間は車の進入を禁止するほうがいいと思うが。

四つ目が、中心市街地の石畳化である、現在も市役所通りは琉球石灰岩の石畳になっている。これを広げてユーグレナモールや三崎町あたりも、石畳にする。併せて市役所跡地を、大阪の民族学博物館の分館にする。ここには、日本人はどこから来たか部屋を設ける。日本最古の人骨の出た石垣島である。日本最古の人骨の展示を行う。どのような暮らしであったのかの展示を行う。舟で南から渡ってきたのでは無いかという、推理がある。宝貝や可能性のある舟の展示なども行う。八重山の文化の中心をなす、芸能文化を演舞してもらう場所を作る。八重山上布の衣装で、八重山舞踊を上演いただく。八重山古典民謡を聞くことができる場所を作る。お祭りの衣装や仮面の展示。映像の上映を行う。できれば、一緒に踊ることができるような、場面が作れるとよい。このあたりは個人的な夢だ。



そして最後に付け加えて、もう一つ。赤土の流出を避けなければならない。雨の都度にこんな状態である。守るべき珊瑚がこれでは死んでしまわないか心配だ。温暖化で珊瑚が白化するという前に、赤土の流出の方が先決問題だ。世界一美しいと言われるカピラ湾が真っ赤に染まり、グラスボートは中止になった。私の見たところでは、畑の耕し方に問題がある。今サトウキビが刈り取りが終わり、次の作付けが始まっている。このとき畑を深く、耕す。まるで真っ赤な畑になる。ここに雨が降ればたちまちに赤土は
海に流れ出る。サトウキビ畑には赤土流出止めはない。牧草地が増えていることも赤土流出には影響しているかもしれない。すぐにでも対策をとらなければ大変なことになるだろう。冒頭の写真は自衛隊基地の工事の様子である。ここからも赤土は流出していた。



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絵は陽気なものでありたい。

2019-04-25 04:24:36 | 水彩画

今回の石垣滞在の最後の絵。良いところはあるが、絵の良さという意味でまだ大切なものがないような。

昔、「ごようきで」と最後に言う漫才士がいた。笑い転げているうちに陽気な気分になる。これは素晴らしい。絵も陽気がいい。描いた絵が、明るい気分にしてくれるものであればうれしい。私の描いた絵を末期がんの方に贈り物にしてくれた人がいた。亡くなるまで枕元でその絵をとても大切にしてくれたと、後で聞かせてくれた。私のような者の絵でも役に立つことがあるのかと感激した。私の同志のような人のご主人で精神科医の方がいた。私の絵を診察室においてくれた。窓がない部屋なので、窓になる絵だと言われた。それは私を励ますためであったと思うが、患者を明るい気持ちにできる絵とも言われた。嬉しいことだった。あれから、もう40年も経った。今でも明るくなる絵を描いているだろうか。私絵画である以上、私が陽気でなければ陽気な絵にはならない。漫画なら、赤塚不二夫さんだ。くそ真面目な絵より、ふざけた絵の方がまだいい。心が陽気によって洗われるような絵が描ければと思う。


この絵は大井町の篠窪で描いたものである。この絵と今描いている絵とどのくらい変わったのか、並べてみている。

朝、写生に出かける。どういう絵を描こうとか考えることはない。ただただ、無我夢中である。手が脳に反応して、その場のその絵をなんとか自分の見ている世界に近づけようとするだけだ。風景の写生に専念している。描きたいと思う場所に正面から向かい合う。描きたいと思うところを大きく中央に置く。構図とか、構成とかは考えないことにしている。見ているそのままを描く。同じに見ているにもかかわらず、毎日違う絵になる。大体絵は一日で描き終わる。後は、アトリエに見えるように並べておく。そうかと何か思いついた絵は、もう一度描いた場所に持ち出して描く。そうかと思いついたことをするわけでもない。何を思いついたかもわからなくなって、また一から描いている。思いついたと言うことは、描きたくなる絵と言うことなのだろう。これがよくわからないのだが、違う場所で違う絵を描き始めることもある。例えば、橋の上で上流を見て描いていたはずの絵を、下流方向を見る絵にして描いてみたくなる。こうなると何を見ているのかわからないようなものだが、私が見ているという何かはそれでもいいようなものらしいのだ。


前より暗くなっているのかな。かなり描き込んだ絵。

水彩画の技術的進歩とはどれほど描いても、暗い絵にはならない技術だと思っている。描き込むとどうしても暗くなる。その水彩画の性質のために、突き詰め方の足りない表面的な絵になりやすいのだ。描き続けると暗くなり、考えている絵と離れてゆき、戻れなくなるのが普通だ。何か技術的な解決があったのだと思うが、いくらか描いても暗くなることがなくなった。つまり、陽気な絵であり続けられるようになったと思っていたのだが。絵がどんな状態であるかはよくわからないが、わずかな進歩は感じている。暗くなっても、自分の絵でなくならなくなったと言うことなのかもしれない。自分のことはわかりにくいものだ。水彩画の技術は一筋縄ではいかないほど様々である。私には私のやり方があるようで、そのやり方を繰り返しているうちに、すこしづつ身について来たようだ。技術と言ってもこういうときはこういうやり方でというような手順が頭に浮ぶようでは、どうにもならない。手が勝手に動いていながら、手が選択している状態にならないと役立たない。だから模写して身につけたような技術は災いをもたらす。他人の見方が手に乗り移るからだ。この点では手に他人が出てくることは少ないようだ。



最後の絵の前に描いた絵。もう少し描きたいと思うところがある。

絵はできてくると底光りをしてくる。画面に力がこもってくる。どこ段階からなのかはわからないのだが、できたかなと言うところまで来ると、絵が輝き出す。色のバランスがとれてくるのだろう。筆触の流れた整うのだろう。画面に統一ができる。そうすると、画面はえもいわれぬ、底光りを始める。よくできたような気がしても、この底光りが出てこなければできたとはいえない。だめだと思うところがあろうとも、この強い光が出てくれば十分である。滅多にそういうことはないが、そういう絵はアトリエでも強く光る。多分思い込みなのだろう。絵は思い込みの積み重ねのようなものだ。やることとすべてがわからないことになる。でもこのあたりが自分が生きると言うこととぶつかり、たしかに大事なことだ。何か絵の奥の方から、さあこの世界だというような光が出ているように見える。一言で言えば、絵が立ち上がる。自立して描いている自分から離れたような感じだ。もっと描いてくれとは絵が言わなくなる。絵はここを直してくれと言い出す。そう言われてもできないよと言うので、引き出しにしまうことになる。いつも中途で絵が終わる。




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石垣市は「自治基本条例は実際に運用されることは想定していなかった」と回答した。

2019-04-24 04:10:11 | Peace Cafe
石垣市行政は自治基本条例は理念を意味しているのであり、実際の運用を想定していなかったと不備について弁解した。こんな言い訳は市民の権利を安易に考えていないだろうか。全くご都合の解釈である。これでは議会や市長が行いたい住民投票だけが実施されると言う条例になる。住民の請願の意味はどこに位置づけられるのか。住民の90%が住民投票を要求したとしても、住民投票は実施されないことになる。3分の1もの住民による請求のあった住民投票は行わなくてはならない。地方自治の当たり前のあり方だ。これができないのであれば、民主主義ではない。地域住民が市長と話し合いを持った。石垣は地域が公民館という単位で運営されている。自衛隊予定地周辺の5つの自治会が反対を表明している。この反対に対して、石垣市は十分な説明すらしないまま、現在に至っている。今回、その地域の公民館の代表が、市長と話し合いを行った。市長は国の専権事項に対して市としては発言しないと相変わらずの態度のようだ。これに対して、地元自治会代表は住民投票の実施を強く要求した。もし、住民投票で自衛隊基地の受け入れが多数を占めた場合は、地元公民館としては反対を取り下げる。と言う新しい条件を示した。しかし市長としては行わないと言うことをただ繰り返した。

アベ政権は尖閣をだしに使い、自民党憲法に変えようとすることが目的である。作家石原慎太郎の書いた軍国主義の亡霊である。領土問題は解決してはならないと考えているのだろう。政治的に国民を操る良い餌なのだ。領土がとられると言えば、世論がたちまちに軍国的に変わる。近隣諸国を常に領土を狙っている悪い国にしておきたいのだ。中ロでも国境紛争があった。しかし、それは話し合いで解決できたのだ。政権の都合に合わせて、その国の非道さをアピールして、政権の正当化を図ろうとする。このやり方は明らかに憲法違反である。平和外交を政府に命じている憲法の考え方からすれば、まるで逆行している。そもそも無人の離島など死守するほどの価値はない。海底に資源があるなどと言うことも、小さなことだ。資源に頼るなどという考え方は、人間をだめにする考え方だ。人間は自分自身を磨けばいいだけのことだ。国もあるものを充分に生かせばいいのであって、棚ぼたの資源などない方がいい位のものだ。いらない離島などいくらでもある。大きな島でも無人島になる時代だ。北方領土が返ってくれば、税金の負担が増えるばかりである。米軍が喜んで北方基地を造るかもしれない。



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日米地位協定に触れないで、沖縄に寄り添うアベ政権

2019-04-23 04:13:59 | Peace Cafe
岩屋毅防衛相は16日の会見で、日本や欧州4カ国と米国との地位協定を比較してまとめた沖縄県の調査報告について「国によって背景や事情もさまざまだと思うので単純に比較できるものではない」と述べた。河野太郎外相も12日の会見で「(地位協定は)さまざまな国内法を含めた一つの体系なので、その中の何かを取り出して比較するということに全く意味はない」と話し、県の調査に苦言を呈した。ーー琉球新報

日本でありながら、アメリカの支配下にあるの実情が日米地位協定である。安倍内閣は沖縄の不快感を理解できない。それなら寄り添うなど言うもんじゃない。はっきりと沖縄を犠牲にしてと言え。なんと醜い人間であろうか。沖縄占領下の1960年に地位協定は結ばれて以来、固定化されたままである。世界中が支配的地位協定を廃止した。アメリカから、敗戦国イタリアもドイツも主権を取り戻している。にもかかわらず、日本だけは未だ過去の遺物である地位協定の支配下にある状態。しかも、日本からお願いして地位協定を守っている。何故、日本だけがと信じがたいままに60年が経過しようとしている。この間日本政府はアメリカに依存し、アメリカに従わなければ、日米同盟という日本の地位が維持できないと思い込んできた。この差別状況はいつまでも放置されているのだろうか。不思議なことは右翼政権と言われるアベ政権が、このアメリカの支配をよしとする姿である。つまり、国粋主義者と言われながら、実は日本という国の自立は、怖くてできない弱腰政権なのだ。それは瑞穂の国と言いながら、米作りを軽視する姿と重なる。アベノミクスが既得権益を守るのであり、新産業の創出などできないこととも重なる。

本来同盟関係と言えば、日独伊の三国同盟がそうであった。国の主権は維持された上で互いの危機に協力して当たる関係であろう。ところが日米の関係は、日本の危機を守ってやるから、日本の基地は自由に使わせてくれ。と言う同盟とは名ばかりの隷属的契約である。それはアメリカの沖縄利用の方法に由来している。アメリカはアメリカ国内でも反対されるような危険な訓練を、治外法権の日本の基地において、自由自在に行うことができる。危険な生物兵器や化学兵器の開発であっても、沖縄では環境調査の権限は日本にはない。基地内で何をやっているかは全く軍事機密である。アメリカ国内で生物、化学兵器の研究を行えば、一定の範囲の警察力は及ぶ。沖縄の治外法権状態をいいことに、不十分な戦闘ヘリコプターのオスプレーの危険な訓練が続けられている。過酷な訓練状態や、戦闘地域への派兵による精神的苦痛にある兵士のはけ口が、米国国民に及ばないこともアメリカ軍の利点なのであろう。

日米地位協定の見直しを日本政府が行なおうとしないのか。むしろ、沖縄に犠牲をさらに拡大して押しつけ、辺野古に軍事基地を増強しようとしている。加えて南西諸島に自衛隊基地を連続的に配備している。この自衛隊基地はいつでも、アメリカ軍に提供しますのでと言う、アベ政権の密約があるのではないか。アベ政権の安全保障の本質は米軍隷属に違いない。これでは占領下と何も変わりはない。そこで負担を沖縄に丸投げである。沖縄の70%の意思は米軍基地反対である。奴隷の安全を望んでいないのだ。アベ政権には自立心がない。専守防衛の研究を行わない。戦争というものを政治利用している。現状維持、既得権益を守ることに専念する。憲法改定だけを政治目的にしている。よって日本の将来像を提示できない。アメリカにへつらうことだけのその日暮らし。そして、アメリカの兵器の購入で日米経済摩擦を避けようとする。すべての矛盾が沖縄に噴出する。

アベ政権は既得権益政権である。新しい状況を避ける。現状維持だけが政治目的化する。新しい状況に順応できない、既得権益集団である経団連の後押しをしている。新しい産業が生まれれば、危うくなる連中である。再生エネルギーが軌道に乗れば、すぐさま廃棄される、原子力村である。現状維持が目的化されたときには、もう末期状態と考えなければならない。新しい原発はさすがに不可能であることは、誰の目にも明らかである。にもかかわらず、古い耐用年数の過ぎた原発を再稼働させて、場つなぎを考えるなど、衰えの表れとしか見えない。その点でアメリカと意見が一致しているのだろう。アメリカの一国主義はアメリカ優位の現状の維持である。中国のような新しく登場する国を脅威としてしか見ることができない。もし日本がまともな成長力のある国であれば、隣に成長する国があれば、協力させてもらうことが一番良いはずだ。大東亜共栄圏を唱えたのはどこの国であったのか。アベ政権は沖縄の選挙で、繰り返し敗北している。民主主義はすでに失われているのか。地方自治はそもそも成立しなかったのか。





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宮良川を描く

2019-04-22 04:27:47 | 石垣島
宮良川を描いている。宮良川は沖縄で2番目に長い川である。於茂登岳を源流として宮良湾に流れ出る。全長12キロメートルある。上流にダムがあることを除けば、ほぼ全域が自然の姿を残した川だ。石垣に暮らすものにとって神聖な川。於茂登岳が聖なる山であり、そこから流れ出て農地を潤し、海を育んでいる。宮良川を描くのは何か楽しい気分になる。明るい気分になる。川を描くことと道を描くことは似ているが、川の方が自然度が高い。自分で流れの方角を決めている。この自由さというかわがままな感じがおおらかでいい。昔、代ゼミの地理の先生が教えてくれた、川はなぜ蛇行するかという話だ。水は常に横に広がろうとするベクトルがある。このベクトルが働くので、弱い側面を切り崩し、蛇行を繰り返すことになるという。それが最後には三日月湖になる。その代表例が、石狩川の下流域である。宮良川の特徴は水位が極端に変わるところだ。雨が強く降れば、たちまちに濁流になり、中流域でも川幅は10メートルを超える。普段は1メートルほどせせらぎにしか見えない。川の色も透明に澄んだこともあれば、黄土色になり海に赤土を押し出している。白保の珊瑚は大丈夫かと心配になる。

河岸は立ち入れないほどの茂みだ。この茂みの様子がまた石垣らしく面白い。赤い花。白い花。黄色い花。青い花と一年中何かしらの花が咲いている。みどり色濃い木々に点在する花は絵を描くには好都合である。この河岸の樹木や草は年に何度水没する。水没しても水没しても再生して、独特の形状になっている。川の両岸の一段高いところには道がある。砂利道なのだが、車は滅多に通らないので、草がすぐ覆い始める。その道の自然な加減もいい。道は川から3メートルから5メートルほど高低差があるのだが、水位の高い日にはその道が水没するかと言うほどになる。川が中央の線になり、両岸を道が挟む。その周囲はサトウキビか、牧草地か、田んぼになっている。この人の耕作する自然との関わり具合が実に見事なのだ。手入れというものが、目に見えるように現れている。田んぼの畦はあくまで土だ。畦に生える草木が、風よけになっているのだと思う。

代ゼミの地理の先生の話が記憶に残り、石狩川の三日月湖を見に行ったことがあった。石狩川の茂みの中を歩いた。北の河岸は草が深いと言っても、なんとか歩ける範囲のものだ。おじいさんが留萌で布教活動をしていたという話に重なり、月形という駅名だったと思うが、そのあたりを一日歩いた。あれは60年前になるのだから、ずいぶん変わったことだろう。河口というものがとても興味深かった。陸をたどる水が、海に注ぐ。河口という水の出会い。河口ばかり描いて歩いたことがある。河口には人間の暮らしが現れていて、大体に町がある。町はなくとも何か施設のようなものがある。宮良川の河口はマングローブの林である。そばには貝塚などもあるから、その付近に人が住んでいたことは確かだろう。まだそのあたりは一度も絵に描いたことは無い。中流域には田んぼが多くあり、川と田んぼの関わりを書くことが面白い。

川沿いに4カ所の描くのに面白い場所がある。一番よく書くのは橋の上から、宮良川を描ける場所だ。割合広い橋なので、軽自動車ならなんとか邪魔にならない。上流に向かって描く日もある。下流に向かって描く日もある。いつの間にかその両方がまぜこぜになっていることもある。流れてゆく川なのか、登ってゆく川なのか。一番反応してしまうのは川に映る光だ。ゆれながら輝いている。田んぼの反射もそうなのだが、風景の中での光の巡る姿が面白い。水は水らしくとか、触れば濡れるとかそう言うことは考えたこともない。川を描いて別段川という意味はどこかに行ってしまっている。そこで作られている色と形と、光の循環する姿に惹きつけられている。描き終わってみると、それなりに、意味がわかる。こうした絵の描き方は学生の頃からほとんど変わらない。絵にしたいものはかなり一貫している。その描きたいものにはたどり着けた感じはないのだが、色と筆触で自分の描きたいものに向かっている。石垣に来てから、何でもやってみようとなった。白を使う。黒を使う。洗う。厚塗りする。何でもやりながら、水彩の表現の幅を身につけようとしている。絵にはならないのかもしれないが、あと一年ぐらいやれば、すこし方向が開けてくるかもしれない。





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石垣島には毒虫がいますか。

2019-04-21 04:06:10 | 石垣島
石垣に越すと話したら、ハブがいるでしょう。変な毒虫に刺されるじゃないの。こんな風に不安を盛り上げる人が結構いた。実は今でもそういう不安はある。ハブいることはいるらしい。昨年ハブにかまれた人は16人と出ていた。そのうち先島ハブが15人と出ている。後の一人が何ハブにかまれたのかはわからない。やっぱりずいぶんかまれるものだ。しかし、ハブにかまれて死んだ人というのはもう長らくいない。かまれたらすぐ血清を注射するからだと考えているのではないだろうか。私もそう考えていたのだが、そうではない。先島ハブにかまれた場合、血清を打たないでも大丈夫直るのだそうだ。ハブ毒が大分弱いらしい。まだ、ハブを見たことはない。車で走っていて、ひかれたハブというのも見たことがない。大きいものは2メートルを超すと言うから、見逃すはずもない。小田原では月に1回ぐらいはひかれたヘビを見たものだが。普通に暮らしていればハブに出会うことはないと考えて大丈夫だ。石垣の人にハブを見たことありますかと聞いてみても、見たことがあるという人に出会ったことがない。先日のヤエヤマヒメボタルの鑑賞会では、15年間一度もハブに出会うことはなかったと言われていた。毎晩、ハブの出そうな場所に出かけて出会わないのだから、滅多にいないと言うことだろう。

では、毒虫はいないのか。もうすでに夏の気候で、蚊は確かに出ている。いることいるが刺されたことは一度もない。家の中にもたまに入ってくる。しかし、刺されない。一つにはかなり動きの遅い蚊なのだ。3年前頃から手で打ち付けて蚊をやっつけられなくなった。蚊の動きにもうついて行けない。小田原ではよくさされた。家の中に蚊が侵入したら本気で追い回したが、捕まるもんじゃなかった。年をとったとしみじみ思ったものだ。ところが、これが信じがたいのだが、石垣ではすぐたたき落とせる。蚊の動きが大分のろい。そのほか、のみやダニやシラミなど一切指されたことがない。中国ではかなり刺されたものだ。何しろ、草深いところで絵を描いている。指されても仕方がないと思っているのだが、さされないのだから不思議だ。蚊取り線香は用意している。一度使ったぐらいで後は使ったことさえない。毒虫も今のところたいしたことはない。蘭に虫は来ないかと、毎日じっくり見ているが、まだバッタの小さいのが一度来たくらいで、ナメクジもカイガラムシも来ない。風通しが良いからのようだ。何か変わったは虫類の大きいのがいて、家に忍び込むという噂も聞いた。鳴き声が聞こえるというのだが、見かけたことがない。

石垣には4種の野生の哺乳類がいますが。4つ答えてくださいというクイズがあった。1,リュウキュウイノシシ2,ネズミ3,ジュゴン4,オオコウモリではないかと思う。イルカや鯨も入れるべきなのか。回遊性だから入れないのか。石垣のイノシシはそれほどの被害ではないと思われる。電柵は途端で囲んだ畑はまだ見たことがない。田んぼでは足跡を探すが出くわしたことがない。田んぼが被害に遭った様子もない。新聞にはパイナップルのイノシシ被害と電柵の写真は出ていた。被害が近年増えていると言うことだ。イノシシの猟は正月前にバンナ公園のところで見たが、捕まったようではなかった。肉は時々売られているし、お店でもイノシシ料理があるから、いることはいる。しかし、足柄地域から比べれば遙かに密度が低い。先日、イノシシは、配備される自衛隊に駆除してもらえないか、などというとんでもない意見があった。

石垣に移住を考える人がいて、毒虫やらおかしなは虫類や、ハブが心配という人がいたら、全く心配はいらないことだけは確約できる。石垣の町中で暮らせば、まずは遭遇することがない。小田原では時々、マムシを見た。ヤマカガシはほぼ毎日見た。石垣の方が密度が低い。小田原では蚊には週に一度は刺された。蜂に刺されるのも年に1度はあった。石垣では今のところそういう不安はない。この先の不安はあるので、この後の報告はしたい。グリンイグアナとクジャクが野生化している。グリンイグアナは駆除が進められているようだ。今の100ぐらいの段階なら駆除できるだろうと言われている。クジャクは凄い数に増えてしまった。もう駆除と言っても無理なのではないだろうか。クジャク料理を始めるしかないだろう。クジャク捕獲箱を作る必要がある。捕獲箱にしきりを入れて、捕まえたクジャクを入れておく。そして餌で呼び寄せてはいったら閉じる仕掛けにする。畑の害はクジャクが一番多いのではないだろうか。



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また間違って、アマゾンプライムに入っていた。

2019-04-20 04:48:22 | 暮らし
タントの屋根に日除けを掛けようと考えた。車検をお願いした自動車修理工場に相談に行った。自分で買ってきたらつけてやるよ、と言うことになった。ちょっと使い方が変則なので、間違えるよりは本人の責任で材料は購入してもらいたいと言うことのようだった。炎天下で車を止めて絵を描いている。ツヨイ日射しで車の屋根がフライパン状態になる。絵を描く場合、座る場所はできるだけ高い位置にする。気づくと頭の上が暑くなってきて驚いた。さすが石垣の日射しはすごいものだ。そこで、屋根の上にルーフキャリアをつけてそこにアルミの断熱シートを取り付けようと考えた。車を止めているときだけでいいのだから、屋根の上に浮かせた屋根がついて、2重になるだけで相当違うはずだ。ついでにひさしのようにすこし出っ張らせないだろうかと考えた。ルーフキャリアから棒を差し出せるようにしておけば、簡単にひさしができそうだ。南向きに描くばあい、日射しが車の中に入って絵の画面に日が当たり困ることがある。ひさしがすこしあるだけで、大分違うはずだ。

自分で探すと言っても当然通販で探すしかない。ルーフキャリアにもいろいろあって、自分のタントに合うものに行き着くのはパズルのようであった。年式とか、車のタイプで付くものと付かないものがある。そのことすら最初はわからなかった。一社やっと見つけて問い合わせたら、それは付かないタイプだと言うことがわかった。その結果やっと付くものがどれかがわかった。そして、アマゾンでの購入になった。アマゾンはアメリカの会社なので、最後の選択になる。地元産品で同等品があれば、高くても購入する。ない場合は国産品愛用と言うほどでもないのだが、できればアマゾンはどうかと思うところがある。それでもどうしてもアマゾンになる。それは送料である。キャリアは純正品が23000円くらい。同じものが15000円くらいで売られている。石垣までの送料が5000円くらいになる。これが、アマゾンだと無料になる。多分アマゾンの負担ではなく、納入業者というか、登録業者の負担になるのだろう。業者は石垣からの注文があれば、がっかりではないだろうか。アマゾンに入れてもらうには、石垣島でも送料無料が条件になるのだろう。

4月10日に注文した。まだ来ていないのだから、さすがに遠いアマゾンからくるのだかから時間はかかる。ここまでは通常の手順で良かったのだが、購入時点でプライムに入らないための注意が必要である。なんやかんやと知らずと入ってしまうことがある。3回ほどの購入手順でプライム会員に導入される。今回2回目の失敗をしてしまった。商品にプライムというマークがあるものがある。これに気づかず買えば、プライム会員になる。会員に申し込まないとしてもプライム会員に申し込んだことになってしまう。会員になれば、当然会費が生じる。会費は避けたい。アマゾンの罠にはまる気分が良くない。プライム会員になって無料ゲームをする可能性はない。無料ビデオも見ない。そこでプライム商品は買わないのだが、このルーフキャリアは3点そろえなければ、製品にならない。多分、3分の1を商品として出せば、通販として安く見えるからだろう。楽天などと価格比較したときにアマゾンが安く見えるようにしているのだ。だから、横棒だけの商品と、屋根取り付け金具と、シールの3点になっている。このシールがくせ者だった。3点セットだな、間違ってはならないと気をとられている内に、おまけのようなシールだけが、実はプライム商品が組み込まれれていたのだ。それに気づかず買ってしまう人は、絶対にいる。うまい。実に巧みだ。アマゾン手強し。ほかの主要商品はプライムでないところが味噌だ。

失敗に気づいたのは、メールが来てからだ。プライムの会員にはこういう特典がありますというようなメールだった。あれ、おかしいぞ、またやっちまった。よく調べたら以上の状況がわかったのだ。ただし、1ヶ月の間に退会届をすれば、間違いは許される。前回はこの1ヶ月の間にプライムでさらに間違えて購入してしまったので、もう会員取り消しはだめだと言われた。しかし、間違えは間違えなので、どうしても止めたいと主張したら、今回だけは大目に見ましょうと退会を認めてくれた。しかし、今回は2回目の失敗である。すぐ退会届を出したが、まだ不安である。実は、ニフティで知らないうちに入会したサービスがあり、5年間も月々会費を払っていた経験がある。月400円ぐらいなので、25000円も全く無駄になった。ドコモの料金も同じである。何が何やらわからないまま、先日は引っ越しに伴い違約金を取られた。取り消せばいいのだから無料期間だけ一応入会してください。これがなかなかのくせ者なのだ。こうした手続きが不案内である。わかりにくすぎる。年寄り対象の詐欺商法の一種と言いたいぐらいだ。多分オレオレ詐欺よりも100倍は被害額は大きいはずだ。ネット会員権詐欺と名付けたい。



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人間との出会いの生かし方

2019-04-19 04:27:29 | 水彩画
たくさんの人に出会った。そのおかげで今の自分という人間はある。全くありがたいことだ。出会いに感謝の気持ちがわいてくる。そのお礼が描いている絵のようなものだ。幸運な人生である。さらに、石垣に来ていろいろの人に出会っている。昨日は自動車の中古屋さんに行ってみた。小田原にある車に荷物を載せて石垣に送り、石垣で自動車を買ってもらえないかと考えている。その相談に行ったのだ。ご主人には会えなかったのだが、そこのお兄さんがとても気持ちのよい対応をしてくれた。いつも、どこに行っても、幸運なことだ。すべて感謝である。金沢で出会った人たちのおかげで今がある。あの笠舞の下宿で眠ったら、石垣で目覚めた。50年もたったとは到底思えない。あの金沢での多くの人との出会いのおかげで、自分の生き方を見つけることができた。それを50年貫けたことは幸運だった。一人では到底無理なことだ。あの頃の生き方も自分に至ると言うことだった。今も自分に至る道にいる。絵を描くと言う具体的なことでしか、自分を極めることができないと、あの頃自覚をした。座禅修行のような、形のないものでは無理な人間だという自覚をした。その自覚をできたことが友人との出会いであったともう。人生論をぶつけ合うような、青臭い時代を持てた。本を読み、議論をする。同人誌を作り、議論をする。絵を描いて、議論をする。

そういうことがなければ今の私という存在は考えられない。今もそのまま絵を描いている。まったく多くの友人の絵が描いていると登場してくる。心の中に残った感動が絵となり、現れてくるのでは無いかと思う。それはもちろん、マチスであり、ボナールでもあるのだけれども、金沢の友人でもある。水彩人の仲間でもある。素晴らしい仲間を持てたおかげで、この先の絵に立ち向かってゆく勇気が出る。そうで無ければ、評価されたことが無い私が絵を続けていられるわけも無い。絵をかくことだけで生きることは十分であるとまで思えるわけがない。私の描く絵はそれほどのものではないのだろう。私がいなくなれば消えるだけなのかもしれない。それでも、そのささやかな到達点も、多くの出会った人のおかげで成り立っている。だからこの先正しく進むことができるような気がしている。生きているという実感である。ありがたいことだ。私の希望としては私も私とふれあった人の、夢でありたいと思う。あんなによくしてもらい、それに答えられないとすれば、情けないことだ。できることは絵に自分の真っ正直に向かうということだと思っている。日々描くと言うことにつきる。

石垣に来たら、知り合いもいないし寂しいこともあるかと思ったが、全くそういうことはない。昨日は初めての場所で絵を描いた。美しい田んぼをまた見つけた。一町歩ほどの田んぼがあり、その外れの小高いところに家がある。田んぼの中の一軒家である。全体としては川沿いで谷間である。人気もなかったので、黙って奥まで入れてもらい、田んぼを描いていた。家の方に人影が動いたので、すぐ絵はがきと名刺をもって挨拶に行った、怪しい気分にさせては申し訳ないと思う。絵を描くのですかと言うことで、いつでも描いてくださいよと穏やかに言ってくれた。一日描いて、帰ろうとすると、田んぼで草取りをしていた。挨拶をするとまた絵を描きに来てくださいよ。と言ってくれた。本当に気持の良いかたである。こうして出会いがあり、ありがたい気持ちで絵を描ける。

田んぼにはその人が現れている。生き物のたくさんいる田んぼだ。除草剤を使っていない。1町歩の田んぼを果たして草取りしきれるだろうか。描きながらそんな心配をしてしまった。畦塗りがしていない。おおよそ、石垣ではあまり畦塗りはしない。それで大丈夫な土質なのだろう。また畦にはかなり大きな草木を生やす。日陰にならないのだろうかと思うが、真上の太陽だから、問題がない。密林と田んぼが共存する桃源郷である。自然に織り込まれた田んぼ。そこに織り込まれた人間。そういう素晴らしい人に出会えた。石垣に来て自然の中に生きている人に出会える。その人の作っている、自然に織り込まれた田んぼを描くことができる。私の絵が、なんとかそういうものを描き切れればと思う。



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石垣の人のことが、わかってきた。

2019-04-18 04:11:22 | 石垣島
石垣の人が少しわかってきた。小田原にいる頃は沖縄の人についてずいぶんと誤解していたようだ。沖縄の人は、南洋的でおおらかで、楽天的、そしてテェーゲーである。こういう通説に惑わされていた。ところが、どうも三線をやっていて、三線に関わる人が、厳しく厳格である。どういうことかと思っていた。石垣で暮らすようになってやっとそのことの本当の意味がわかってきた。石垣の人はすごく相手のことを思いやる人たちのようだ。そのために、自分をテェーゲーに見せようとする。自分が気楽な人間である方が、相手には楽だろうと考える。実は石垣の人たちは繊細でどちらかと言えば、細やかな人たちである。この神経を使うところがすごく奥行きがあって、こちらの心持ちを深く読んでいる。読んだ上で全くそんなことに気づいていないかのように振る舞う。相手のためにテェーゲーに見せようとしている。先日、田んぼで描いていると、雀を追うためにドンドンと音を立てる人がいた。すぐ挨拶に行った。そうしたら、私を気づいていなかったと話される。つまり、ドンドンという音で、追い出そうとしたわけではないと気遣う。

こうした、気使いがすこしづつわかってきた。まずは、漫画的シーサーである。家の入り口になぜ冗談のようなシーサーを置くのかという心理である。普通であれば家の格を表すような立派なシーサーを起きそうなものだろう。そこをあえて、自分が権威的な、威厳を求めていないと言うことを示していると思われる。冗談風のシーサーで気楽で、気さくな家族ですよと表現している。ホテルや病院の前には立派な大理石で作られたシーサーがある。いかにも高価そうである。よくある中国製のようにみえるが、実際にそれなりの価格はするだろう。家の前にああいうものを置く家庭は間違ってもない。家を堅苦しく見せない漫画シーサーである。それは壁に絵を描くのも似たような心理なのかと思われる。シャッターに絵を描くの東京でもよくあるが、あれは店舗だろう。ところが石垣では普通の家庭の壁に絵が描かれていることがある。しかもその絵がサザエさんであったり、ヤッターマンだったりするのだ。

そして、外から見えるように花を飾る。ヤエヤマシタンの盆栽を置く家もあるが、ほとんど花木があふれんばかりに置かれる。ブーゲンビリアやハイビスが多い。ドラセラ、モンステラ、トラノオ、に始まり南米やアフリカの初めて見るような熱帯の観葉植物が不思議な花を咲かせている。外を通る人が楽しんでほしいという思いがある。門で閉じてはいない。文字通りわざわざ、扉や窓を開け放している日もある。家を閉じていると言うより、福を迎え入れるような感じがする。福は外から来る。良いものがやってくるという意識が反映しているのではないだろうか。まさにおもてなし文化である。

石垣の伝統的お墓は大きな前庭付きのものだ。家族がお墓の前庭で食事をする。お墓は小さい家のようなものである。その家の屋根の上にぴょこっと日本風のお墓が乗っている。埋葬の風習はそう簡単には変わらない信仰なのだろうが、あっさりと本土風を取り入れている。それは、ピラミッド型のお墓もあるし、純和風建築のお墓さえある。自らにこだわらない姿勢が徹底している。八重山民謡はそもそも唄だけだったという。その唄は男女の掛け合いが素晴らしいものだ。実に声の重なり合う音楽的調和が美しいものだ。男の声は極めて日常的な声。女の声は高音で独特の切ない声である。ここに琉球王朝から来た音楽担当の役人が三線の伴奏曲をつけたという。琉球王朝では三線音楽を役人の職務とした。女性は三線を弾くことは許されなかった。八重山の唄は三線を見事に受け入れ、世界でも特別と言って良いほどの音楽性を持つことになる。外から来たものを受け入れながら成長する文化がここにもある。

なぜ、こんなに人手不足なのに、沖縄県の平均給与が安いのかである。石垣のファミマの募集が850円で出ている。小田原だと1000円以上だ。小田原よりもさらに人手不足だと思う。給与が安いままの理由は安くても横並びがいいので、なかなか賃金水準の上昇が起きないということらしい。沖縄では正規職員に自分だけがなると言うことを嫌うのだそうだ。店としては高い給与で人の募集などを行い、周りから何か言われかねないと、まわりに気を遣い、特出することを避けるらしい。互いに周りの情勢を気にしすぎるので、高い賃金の募集をかけられないらしい。高くすれば、人は来るが、なぜ周りに合わせないのかという風評が不安。同時に人前で目立つ行為というのも避けたい心理が強い。目立つというのは、よく目立つも、悪く目立つのも、好ましくない心理がある。



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銭湯絵師の盗作騒動

2019-04-17 04:12:58 | 水彩画
銭湯絵師の描いた虎の絵が盗作であると騒がれているようだ。宣伝のために意図的に騒動を起こしている匂いを感じるが。もしまねたものが盗作というのならば、銭湯の絵はすべて盗作である。様式に従って描いているのだから、原画があるのは当たり前ではないか。富士に三保の松原をそれらしく描くのが仕事のはずだ。騒動の絵は虎の絵で、元画の方にはどれほどにオリジナリティーがあるものなのだろうか。その元画の人も銭湯絵師なのだろうか。写真で見たところアニメ風イラスト画というようなものだ。確かにこういう絵はまねられたら困るような絵かもしれないが、そもそもこの絵にオリジナリティーがあるとも思えない。昔、東郷青児氏の絵は特許があるので、娘さん以外描くことはできないと聞いたことがある。東郷氏の絵は扇子や菓子箱に印刷されたりしていた。噂話なのか、冗談なのかわからないが、イラスト風作品であることを馬鹿にして芸術作品ではないと言っていたのだろう。東郷氏は絵画を芸術から商品絵画にした先駆者のようなものだ。もし銭湯絵師の絵が問題なら、世間に出回っている絵はすべて盗作のようなものだ。バラを花瓶に挿して描いて、盗作でないと言い切れる絵がどこかにあるだろうか。梅原龍三郎は他の人が似たようなバラの絵が登場しても、盗作とは言わなかった。似たようなバラは様々出現した。日本には大家のバラの絵というジャンルがあるといえるほどだ。効果に取引されるから、画商が作り出した世界だ。本当の盗作は、サインまでまねて梅原作品として売ることだろう。

問題は商品絵画の販売が、新しい時代に入っているという点である。イラスト画が人気であるが、イラスト画的な絵を商品絵画として販売するには、昔からの画商は戸惑うのだろう。たいした違いはないと思うのだが、芸術風の匂いすら消えた作品をどうするかなのだろう。新しい販売ルートが生まれているのではないか。その開店セールが炎上商法なのかもしれない。書道は書写から始まる。墨絵も模写が基本のようだ。描き方を覚える所から、修行である。おおよそ日本の芸道の世界はそういうものだ。その日本の伝統には家元制度がある。免許皆伝で販売許可が出るわけだ。騒ぎになっている人は銭湯絵師に弟子入りして学んでいるようだ。東京芸大に在学している上に、モデルをしているという目立つ人らしい。芸大のモデルと言っても描く方で描かれる方ではない。まして世間の注目を高めるためには、盗作騒動は大いに利用できるだろう。

作品を作る上で、盗作全く問題なしと考えている。その境目などそもそもない。商売ばかり考えるから、盗作と言うことが出てくる。私の絵をどこでどう利用しようが全くかまわない。利用できるものなら、誰にでも利用してもらえればいい。ダリはサインだけした紙を大量に遺族に残したそうだ。この紙にダリのリトグラフを刷れば、作品になるというわけだ。このサインだけの紙の相続税が問題になったらしい。確か刷ったときに相続税が発生すると言うことになった気がする。商品絵画世界のくだらなさを告発したのだと当時は言われたものだが。インターネットでは画集の絵を一枚づつに切り離し、作品として販売している。印刷物にしてはやけに高い。本物と間違って購入する人を待っているのだろう。技術的には本物と判別ができないほどの複製が作れる技術が確立した。モナリザが世界に何千枚も存在しうる。私は50年前に絵を描き始めたときに、そういう時代が来ることを予測した。もし、芸術として絵画を描くつもりであれば、その前提で制作しなければだめだと考えてきた。技術で見せるような絵画は芸術として存在しなくなると考えた。機械ならもっとうまく描く。

芸術としての絵画は、自分という人間にどこまで向かいあえるかと言うことだ。できた作品が売れそうかどうかと言うことは、商品としての問題で、芸術を志すものには関係のないことだ。絵画を生活の糧にすると言うことは別段間違ってはいないが。芸術を飯の種にしようという発想は間違っている。商品芸術が行き過ぎた結果、芸術というあり方が狂った。若い人が絵を描いて食べてゆくために、炎上商法までしたくなる。若い内は親のすねをかじり、年をとったら子供のすねをかじる。これが絵描きの生き方だと言った人がいる。どんな生き方でもかまわないが、香具師が商売ものをバッタモンであることを忘れたらだめだ。最近はコンピューターゲームの職業が登場した。お金になるから、大いに騒いでいるが、何の意味もない。生きると言うことは大切にしなければならない。一時も無駄にはできない。絵を描いているとそれほどにやりがいがある。69歳になるが、昨日より今日の方が進んでいるような気になる。昨日はだめだったが。ブラインドタッチで今文章は書いている。どのように指を使っているかよくわからない。絵も同じである。ブラインドタッチである。どう描いているかはわからない。手が動いてゆく。目にしたがって、脳の動きに従って、手が動く。一日絵を描く充実。それ以外に何もない。




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韓国の水産物禁輸、日本が敗訴

2019-04-16 04:42:47 | Peace Cafe
韓国は原発事故で東日本太平洋沿岸の水産物の放射能汚染を理由に禁輸している。日本政府はこれはおかしい輸入制限だとして、WTOに提訴した。ところが日本の敗訴が決まった。日本の国際感覚の乏しさを痛感する。政府からは裁定がおかしいという声も出てはいないが、政府がなにも反応できないでいるという姿に、敗訴した場合の対応がなかったことがわかる。復興大臣が復興より同僚議員が大事だという人なのだから、まともな対応ができなかったのか。日本としては日本で行っている放射能の測定値が基準値を上回らないから安全だとしている。日本国内でも、そうはいっても不安だといって、福島沿岸の魚介類を食べない人はいる。子供には食べさせたくないと言う人もいる。食べるのも、食べないのもそれぞれの判断である。韓国が国として食べないことにしていることを、国際ルールとしておかしいと言い切れることだろうか。日本の検査や安全基準が世界に通用すると決めつけて、WTOに提訴した日本政府の甘さを痛感する。日本政府は放射能を風評の一つぐらいに考えているのではないか。尖閣問題でも、竹島問題でも、戦闘機照射問題でも、従軍慰安婦問題でも、徴用工問題でも、日本政府は自分の判断の正当性だけを見て、世界からの見方を冷静に判断する能力が不足している。外国の目は冷たいものだ。原発事故を起こして、大量の放射能で海を汚染して日本は迷惑な国と見られているのだ。その迷惑を顧みず、もう汚染は収まったのだから水産物を自由に輸出させてくれと主張する。それを禁輸していることは違法行為だと考えて疑わないのは甘いだろう。

井の中の蛙大海を知らず。日本政府は相手側に立って考えると言うことができない。相手側に立つ人間を見るとと、たちまち売国奴だとか、中国のスパイだろう。日本人ではないのだろうと決めつけるヘイトスピーチと同じレベルの発想力。向こうには向こう側の事情がある。水産物の輸入を制限すれば、自国の水産業が助かるのかもしれない。その場合、なんとか通用しそうな理屈を見つけてくることだって、当たり前としなければならない。放射能については、どのレベルが安全なのかは国際的に決まりがあるわけではない。いやだと思えばいやなのだ。福島の魚を食べない人は間違った人ではない。そこに国益が関係してくるとなれば、WTOに訴えて勝つとは限らないだろう。領土、慰安婦、徴用工、どれも裁判をすれば勝つか負けるかわからないと考える必要がある。照射問題ではアメリカは韓国の側に立った。結果的に黙っていたということは、韓国を支持したと言うことである。日本はアメリカにとって属国である。トランプは日本などどうにでもなる簡単な国と見ている。日米地位協定も改訂の兆しさえない。軍隊を引き上げると脅せば、これから始まる経済交渉でも有利と考えている。

日本は独立国としての基盤がない。軍事的にはアメリカ依存である。食料は海外依存で60%は輸入しなければならない、実に基本的な安全保障が脆弱な国なのだ。甘えた国なのだ。甘えがあるから、大震災で大変な被害を受けた国に対して、輸入を禁止するのはおかしい行為だと思い込んでしまうのだ。国家基盤をおろそかにしてきた付けがここに来て表面化してきた。自立国家ではないのだから、世界から甘く見られてしまう。日本を脅したところで、何の損もないと甘く見られた日本。世界は拝金主義が蔓延して、損か得かだけで動いている。日本もその代表的国家の一つである。これから始まる日米通商交渉をよほどの覚悟で挑まなければだめだ。アメリカのゴルフ仲間だから、そう悪い扱いはないなどと考えたらとんでもない。

中国との友好関係を強めることだ。それが一番の日本の安全保障である。中国と同盟関係を作り出す方が、アメリカの配下であるより、よほどましである。日本は立ち位置が、国際的にはほぼ韓国と同程度の中国家であるという冷静な判断が必要である。経済大国ではないと言うことだ。しかも、老齢国家であり、衰退が予測されている。新しい産業も模索できないでいる。経団連会長が国民的議論で原発再開をと、繰り返し述べる後ろ向き姿勢なのだ。このままではさらに国力は低下してゆくことだろう。文化的衰退も深刻である。芸術院会員のメンバーを見れば、どの程度の文化レベルかがわかる。絵画部門では一応判断ができるつもりだが、年々低下している。この点では私をどれほど批判する人でもほぼ異論がないところであろう。国家としての独立心を失い、進取の気迫をなくせば、すべてに衰えてゆく。過去の先入観を捨てて、日本の国力を冷静に判断しなければならない。次々に間違った政治に引き込まれてゆく。





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