地場・旬・自給

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派遣法の改正

2014-02-28 04:18:22 | Peace Cafe


下田 10号よく描く景色である。最近も行って来た。何度行っても面白い。何故この場所に引きつけられるのだろう。そういうことが分るまで行ってみたい。





派遣労働のすべてが悪いものとも言えない。その運用に問題がある。特殊な技能を所持した人を、一時的に必要とする。たとえべ水彩人でも、展覧会の搬入時にパソコンの打ち込み作業をお願いした。水彩人のメンバーには審査や部屋割りなどの、メンバーでなければできない仕事がある。そこでパソコンの打ち込みは、専門家にお願いした方が早いし、正確ということに成る。テンプスタッフにお願いした。会社であれば、当然そういう仕事が出てくることは珍しくないだろう。一時的な仕事を派遣業者に依頼する。それが、徐々に広がり、仕事の能率を上げるために、派遣で済む仕事は、正社員にはやらせない体制が生まれてきた。正社員は正社員でないとできない仕事をやるということだろう。企業が効率を考えて、派遣に任せた方が利益率が高いものは、どんどん派遣に変えるという流れが生まれた。そして、その派遣が日雇い派遣という形で、肉体労働者の供給方法に成った。

昔の日雇い派遣は口入屋である。口入屋が早朝、労働者の溜まり場にを作り、、労働者をトラックなどで集めて、土木工事現場等の人夫仕事に送り込む。当然、かなりの額のピンはねが行われる。怪我の補償もなければ、雇用保険もない。苦情でもいえば、暴力団が現われるという仕組みである。これを禁止しようとしたのが、日雇い派遣の肉体労働の禁止である。それが徐々に門戸が広がり、小泉内閣の時は、ついに製造業の派遣労働が解禁された。工場で同じ労働をしていても、正社員の半額くらいの給与で、働く人たちがどんどん増えていったのだ。能力給ではない。同じ仕事をしていながら、給与は3分の1という状態。あの狂気の秋葉原事件をおこしたのはK工業の契約社員である。そして、今度もアグリフーズの契約社員が、農薬を食品に混入したらしい。同じ労働をしていて、賃金があまりに違うのでは、やりきれない。労働が健全な人間を作り出すことにはならない。

3年という期限は何を意味するのだろう。働く人にとっては、派遣は正社員とは立場が違うということに成る。3年という期限を設けて人の交代をしなければ、派遣ではなく正社員ということだろう。人を変えてその分野の仕事は派遣に任せる。それが工場労働者であれば、永遠に派遣でその仕事を埋めようという在り方では、会社自体が健全でない。何とか安上がりの雇用方法を作り出そうということに過ぎない。一人の対等な人間を雇用し、ともに会社を反映させようというような愛社精神等というものは、どこかへ消えたのだろう。この派遣法改定の背景にあるものは、企業が何でもやれるようにしなければ、日本経済が衰退する、そして海外に企業が出てゆく。こうした政府が広めている、切迫した考えが背景にある。国家と企業というものが整理されないまま、企業が国の枠を越えてしまった。サムスンと韓国の経済の関係を分析すべきだ。サムスンの社員と、その他の韓国人とでは別のものである。

派遣法が出来て、国内の格差がこれ以上広がるとどうなるか。格差が賃金だけでなく、階層の固定化に繋がってゆく。江戸時代の士農工商を思い出すが、実質、人権の侵害された社会ということに成る。企業の論理を野放図に、社会が受け入れてしまえば、経済の合理性だけで、人間の労働者という側面だけで、切り売りされてゆく。日本が高度成長に向かったのは、敗戦後誰もがすべてを失い、原点から平等に頑張ったからだとおもう。身分制度の中で、固定化された社会では活力は生まれない。目先の経済合理性にこだわれば、むしろ国際競争に敗れる。日本人の優秀性は、稲作文化で培った、阿吽の呼吸による、チームワークである。行為した文化が失われてきているのだから、もう一度、日本人の再生に向かう方が賢明である。この恵まれた国土で、地について暮らすことを誰もが体験できる教育しかない。
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辞表の預かり

2014-02-27 04:14:38 | Peace Cafe


月夜 2号 夜の海は何度も描く。まだ描けたということもないのだが、まだまだ描いてみたい。





NHKの会長の籾井氏は「辞表の預かりは、一般社会では良くあることだ。」との認識のようだ。果たして本当のことだろうか。私は幸いにもかつてそんなことに遭遇したことはない。聞いたこともなかった。もし辞表の提出を強制されたとしたら、その場で辞めるか。提訴するだろう。しかし、NHKの経営委員の人は、12人全員が黙って従ったのだから、そういうものだと思ったのだろう。つまり、NHKの経営委員会というのは、相当に自立心のない組織だということが分る。こういうときに、抗議が出来ない人たちというのでは、肝心な時に役には立たない人たちだということである。それにしても、一般社会が籾井氏の言うように、こんなことを認めるようになっているとしたら、もう日本の組織はどれもこれもダメだということではないだろうか。そうは思いたくない、あくまで籾井氏が異常感覚の人だと考えたい。が、これはたぶん官邸サイドからの差し金だと思う。就任会見にふさわしくない、持論の展開と同様のことだ。

安倍氏というより、安倍氏を操っている人たちのやり方は段々に見えてきた。あるパターンがある。NHKの報道内容が問題だという認識をもったのだろう。どうやってその報道内容に影響を与えるかである。経営委員の人選が第一であろう。そして、会長の人事を行う。経営陣がどのような考えを持っているかを、明確に打ち出してゆく。それが就任の挨拶の余計な発言である。直接的な報道への介入をするのではなく、法律の外で、じんわりと圧力をかける。これは憲法の改定問題でも、同様の手口で進めようとしている。法制局の人事に介入し、小松という政府と同じ考えの人にした。遠回りに遠回りに周辺への圧力で事を進めようとしてきた。武器輸出や集団的自衛権についての、解釈の変更も問題ないと小松氏は発言している。法制局の長官次第で、憲法に対する重要な考え方が、変わるというのもおかしい。おかしいがそのために、人事を変えて準備した訳だ。様々な審議会がこういうやり方で、進められれば安倍氏の周辺の思い通りに事が進むようになった。

次は、原子力規制委員会の人事に手を付けるだろう。原子力推進の人に変えることは可能だ。今回NHKの会長を辞めさせることが出来なければ、この手法は一般化することに成る。原子力員会でも委員長に辞表を預けているのだろうか。少なくとも、籾井氏の社長だったユニシスでは、管理職には辞表を出させていたということだろう。これはいわゆるブラック企業ということに成る。こんなことは一般企業で行えば、労働協約違反で、告訴される。何故、こういうことをしたのかと言えば、会長の独裁でやるという事を、経営委員に言い渡したということだろう。民主党時代に選ばれた委員に対し、自分に逆らえば辞めてもらうということを、明確にしておけという指示だろう。そのせいか、籾井氏の就任会見の持論展開に対して、異論を述べた委員がいなかったという結果に成っている。すべては、筋書き通りに進んでいるということだ。これでは国営放送であって、公共放送ではない。

NHKの放送内容は、今のところ特におかしな感じはないが。今後どう変わってゆくのか注視しなければならない。放送内容の変化など、注意していれば分ることである。報道機関には、批判精神がなければならない。それは公共放送でも同じことだ。権力に対する、チェック機能が報道の生命である。権力が期待することを、垂れ流すのでは報道ではない。原発事故報道では全く失望した。日本人が海外の報道から、放射能の拡散予測を知ったという事態であった。しかも、情報は報道機関にも把握されていたのだ。パニックを避けるためというのが、いい訳のようだ。それではいざという時には報道は役に立たないということに成る。憲法改定もいざという時の一つだ。果たして、報道はこのことに向かい合い、問題点を浮き上がらせることはできるのだろうか。それが憲法を守る公共放送の役割のはずだ。
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TPPの行方

2014-02-26 04:20:09 | Peace Cafe


白い家 一号 これもまた小さな絵である。顔料が漉きこまれた紙で描いている。ピンボケの写真でまずい。


TPP交渉は暗礁に乗り上げているように報道されている。政府としては日本国内の世論を見定めているというところだろう。アベノミクスや、賃上げお願いの政府のやり方は一貫している。大企業が良くなれば、日本が良くなるという考え方である。これも一つの考えであって、間違いということではない。今回のTPP経済協定ではっきりしているのは、大企業は利益をこうむり、日本の稲作は壊滅するということである。それでもいいという考えも、これまた一つの考えである。このあたりを正直に正面から議論することが、必要なはずだ。TPPは国の枠を外して経済競争を促進しようということである。経済競争をすることが、それぞれの国にとっても利益に成るという考え方である。確かに、進歩なく停滞のままで良いとは思わない。稲作でも江戸時代は1反5俵ぐらいのものであった。それが今は10俵である。機械力を駆使し、化学肥料や除草剤、農薬が登場して倍増した。

しかし、工業製品の競争による生産性の向上と較べれば、お米の生産性の改善は緩やかなものだ。農業分野に競争の原理を導入したとして、日本のお米の生産性の向上はそれほどはないはずだ。現在のある意味片手間稲作には片手間稲作の合理性があって、農家が止めないのは、勤めをしていても楽に暮らしに織り込めるからだ。勤めに出は給与や、アパート家賃の収入を、稲作機械の購入に充てても、田んぼを放棄しなかったのは、農家の実態に微妙に対応したものだったのだ。だから、減反政策などという、農業の未来を放棄したような政策が、推進されたのだ。そして、先延ばしをしてきた、矛盾の塊が、いよいよ世界経済に直面させられたのだろう。日本の伝統文化に強く結びついた、稲作農業が問われている。この点では、安倍氏の主張する、瑞穂の国という日本主義画、大きな自己矛盾をきたしている。

経済の合理性などとは違う次元で、日本教の信仰のように残されてきた山村での稲作を、世界のプランテーション農業と同列に考えようとしている。これはある意味イスラム世界と、キリスト教世界のぶつかりと似ている。日本という国の歴史と習俗を、大切にできるかである。安倍氏が靖国にこだわるとするなら、天皇家や伊勢神宮の背景にある、稲作という文化的支柱をどう考えているのだろう。日本主義者であるなら、稲作はなくなってもかまわないとは、思えないはずだ。靖国の先にある日本とは何かを、よくよく考えてみれば、稲作を心のよりどころとして、日本教の信仰の柱として日本全体に暮らしを広げていったのが、日本人である。日本が経済的に豊かな国に成るということは、誰も反対はしないだろうが、日本の山村の棚田は、景観上のものだけではなかった。ほとんど作ることが出来なかった東北地方にまで、経済性などとは関係なく、稲作をしようとした日本人の魂のようなものをどう考えるかである。

大半の日本人はそういうことを忘れかけている。忘れても良いという意見もあるだろう。今行わなくてはならないのは、TPP交渉の機会に日本がどこに向かうべきなのかの議論である。経済競争は強者の論理である。アメリカが有利になる。確かに乗り遅れれば、不利益を被るかもしれないが、結局はアメリカが勝利する道である。江戸時代の藩を考えればいい。今の県単位でも良い。国内は自由競争であるが、豊かな地域や得をする地域というものがある。それはおおむね企業立地であり、大都市である。世界競争の中で生きてゆかざる得ないとしても、上手に稲作を残す工夫が必要である。中山間地の地域維持の為の稲作。都市近郊の自給的稲作。そして競争的な大規模稲作。日本国土を守ること。食料の確保の為。一定の稲作を残すことは、日本の国柄を考える上で、重要なことになるはずである。
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水彩人同人展

2014-02-25 04:42:14 | 水彩画


柔らかい花 1号 小さな絵である。みるということがどういうことを意味するのかを考えている。




水彩人同人展開催
場所:gallery一枚の繪 中央区銀座6-6-1 月堂ビル3F
日時:2014年3月3日(月)~15日(土)11:00~19時まで



水彩人同人18名の展覧会である。私は小さい絵を3点出品している。

水彩人では、毎年一回の大きな展覧会を行う。東京都美術館で9月に行っている。そして、小品展という形で、ほぼ年1回、銀座の画廊で展覧会を行ってきた。今年は、それに加えて、会員展という形で4月にも展覧会を予定している。

水彩人は水彩画を研究するグループとして、発足した。自分の絵画を深めるために出来たものである。公募団体に成った今も、運動体というより、研究のグループである。

水彩人の展覧会では、一枚一枚の絵が大切に展示され、見ていただき、意見を戴くということを目的にしている。同人間でも、互いの絵に対し、率直な批評を目的にしている。批評の場を設けることは、会の規約にも明記している。つまり、水彩人は勉強の場ということだ。

私は、3月3日5日12日13日には会場に行きたいと考えています。

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裁判員の死刑執行停止要望

2014-02-24 03:39:50 | Peace Cafe


果物篭 1号 小さいものを描いてみた。小さい作品が水彩画の本来のようなものだ。色や調子において、水彩独自の表現ができる。作品に於いて、大きさとは何なのだろう。




死刑執行「一時停止を」 元裁判員死刑判決に関わった人を含む裁判員経験者約20人が、執行を一時停止した上で死刑制度の情報公開を徹底するよう求めるー―東京新聞

裁判員制度ができた時から危惧していたことが、現実化した。普通に暮らしている人に、人を裁く義務を与えることは、とても辛いことだ。しかも、それが死刑となれば、その判断以外になかったのかを、一生悩むことに成る可能性がある。しかも、それが間違った判断だったのかもしれない可能性があるのだとしたら、生涯罪の意識に苛まれかねない。判決に一切の疑念のない判決などあろうはずがない。裁判員制度は早急に廃止すべきだ。裁判員制度は日本の社会に適合しない。私が当たってしまったら、必ず断るつもりだ。しかし、断って済むものではないらない、義務に成っているのでこれは困る。あえて言えば、どれほどわずかであれ、疑わしきは無罪と決めている。極めて常識を欠いた判断をする人間であるということを、理由にしたい。死刑廃止論を支持しているかは聞かれるらしい。これもおかしな話だが、廃止論者であれば裁判員はやらないで済むというのも、何かおかしくないだろうか。

裁判員一人ひとりの価値観は異なるはずだ。それがふうつ暮らしている人の姿だ。それを法律という統一した基準で、罪を軽重を決めるのが裁判である。統一基準に対する訓練が不十分なものが、簡単にやれるようなものではない。それをもしやろうとしたら、その時の社会の潮流に従うことに成る。もし私が裁かれる側であれば、客観性の乏しい、一般の人より、専門の裁判官の判断にゆだねたい。ところがその裁判官の客観性という信頼度が薄いというところが問題なのだろう。裁判官が特殊な世界の住人に成り、一般社会とはかけ離れた生活空間に生きるようになる。そして、普通の判断が全くできない人間に成る。そういう批判から逃れるために、裁判に国民全体を巻き込もうとしているのではないか。


人間が人間を直接裁くということに、国民の誰もが義務化されなければならないことはおかしい社会だ。私は鶏を捌いて、食べる。とても辛いことだ。やらないで済むならやりたくない。養鶏をやる以上、仕方がないのでやっている。しかし、こういうことを誰もがやるべきだとは思わない。やるには、覚悟と訓練が必要だからだ。鶏を捌くというようなことでも、不用意に行えば、心に傷を残すことに成る。裁き頂いた鶏のことを時に思い出すことがある。良い気持ちはしない。しかし、食べずに捨てるようなことはさらにできない。生きるということは食べるということであり、命を戴くということだと思う。しかし、そういう体験を誰もがした方が良いとは到底思えない。増して、同じ人間である。その人の生命に、人権にかかわる判断を任されるなど、耐えられることとは思えない。

アメリカには陪審員制度という長い歴史があり、そこから真似て日本にも導入されたのだろう。しかし、日本の社会に、そいう市民参加の制度が適しているとは思えない。市民参加は一見民主的なように見えるが、安倍総理が審議会制度を悪用しているように、市民参加も形式的民主主義を補完する役割に成っている。教育委員会制度、農業委員会制度。自治会制度、アメリカから教えられた制度は色様々あるが、日本の社会で上手く機能してきたとは到底思えないものが多い。国の成り立ちが違うからだ。日本はお上が治める国の歴史が長い。確かにその結果民主主義の成熟が遅れている。民主主義を育てるために、導入された仕組みが、むしろ民主主義を阻害し、形式化することに成っている。無理やりよその国から仕組みだけを導入しても、付け焼刃に成るだけである。むしろ、裁判官を尊重、尊敬する社会を作り、良い裁判官が生まれるようにすべきだ。
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醤油の仕込み2014

2014-02-23 04:02:25 | 自給



那智の滝 10号 滝を信仰する思いのようなものを描いてみている。確かに何かの世界があるのだが、それを描くことはできない。





一日目の朝7時の状態、19時間経過。加温はしていないで29度。上がるのが怖いので、様子を見ている。木の箱の上に、毛布をかけてある。上に載せてあるのが、アラーム付きの温度計。28度から34度の設定にしてある。
写真に見えている最高最低温度計は便利だ。




醤油の仕込みがずいぶん手際よくなった。回を重ねれば要領は良くなる。4回目になる。今年はなんと、朝6時から始めて、12時30分には終わっていた。今までは、どうしても一日仕事に成っていたが、今年は5人で協力して手際よく作業が進んだ。一人分大豆2キロ、小麦2キロ、の仕込みなので、塩が1,25キロ、水は5リットル。これでたぶん10リットルぐらいの醤油が作れるのではないだろうか。1年分あるのではなかろうか。今年のやり方では、費用も2000円ということだから、自給にふさわしい形が出来てきた。前日、大豆の洗いや仕込みをした。かまどの設置も行いに1時間かかった。機械小屋が整備されたので、とても作業の流れが良くなり、なにしろ、大豆を煮ている間に、トイレの穴掘りまでやることが出来た。最後の後片付けは、仕込んだ醤油麹が冷めては困るので、手早く終わった。みんなで協力して行う自給は、やはり意味がある。

大豆は前日の朝に良く洗った。よく洗うのは意味があるようで、洗いが足りないと、あぶくがやたらに出るようだ。今回は20キロ釜で10キロを煮るので余裕があった。今回は前日作業を朝に行ったので、20時間も釜の中でふやかした。この時少し水加減が多かった。30分燃やしたら、大豆が湧いてきた。あふれてくる様子もないので、そのままどんどん炊いて、10時には大分柔らかくなった。11時過ぎに火を落として大豆を冷まし始める。しばらくしてから、水きりのざるに大豆を取りだして、水を20分ほど切る。それから、新聞紙を敷き、布を広げた上に、大豆を空けて冷ましてゆく。一方で、9時ごろから、小麦を炒り始める。1,5キロ程度を一回にして、炒っては広げて冷ましてゆく。40度くらいになった小麦を、コーヒーミルの一番粗い状態で、砕いて行く。小さなミルなので、休み休み進めた。それでも12時少し前にすべての小麦が引き終わった。さらに、塩を1,25キロづつ5袋に分け、袋詰めをした。

1日目:11時45分から、小麦に55グラムの麹菌を混ぜた。よく菌と混ぜた小麦を、今度は大豆の上に混ぜてゆjく、良く攪拌した。そして、5つに分けて、米袋に入れた。一つの袋の重さが、7,1キロに成った。終わった所で、全体が30度くらいの感じであった。12時過ぎには終わっていた。それから、慌てて、麹が冷めないうちに帰ろうと、一気に片づけを行った。家に戻ってすぐに、麹を囲いに入れ保温をした。5時間が経過して、品温が29度である。方針としては、品温が40度を超えないように管理して行く、夜11時の時点で34度を越えたので、加温は終わりにする。


2日目:一番手入れを朝6時に行う。この時点で温度の高いところも一部にあった。中心と外れではだいぶ温度が違う。19時間経過。加温はしていないで29度。上がるのが怖いので、様子を見ている。木の箱の上に、毛布をかけてある。上に載せてあるのが、アラーム付きの温度計。28度から34度の設定にしてある。7時過ぎに28度まで下がったので、もう一度加温を始める。その後温度は上がり下がりが激しく、微調整を続ける。15時に成って、34度である。何とかこのまま2番手入れまで保ちたい。

3日目:朝3時です。温度が35度まで上がり、急きょ下げる対応をして、現在29度に成りました。又、徐々に戻してゆきます。8時に3番手入れ。温度管理はだいぶ慣れてきた。32度前後で安定させている。手入れをした後、22度くらいまで下がる。そこでしばらく加温して温度を戻す。戻ったところで加温を止める。夜8時4番手入れをしようかと思うが、そのまま置くことにする。

4日目:朝8時に出麹。ビニール袋に入れて冷蔵庫に保存。

5日目:1日保存しておいたものを、午後5時、伊豆高原の湧水5,4リットルで仕込む。塩は1,25キロ。水を温めながら、塩を加えかき回して溶かす。ビニール袋を2重にして、中に麹を入れ、塩水を注ぎ込む。良くかき回してあぶくを取り、ゴム輪で口を閉じる。段ボール箱に入れ、買い物かごに入れて置く。次の作業は3週間後、かいいれを行う。



3月17日 甕に醤油麹を仕込む。今回は2重のビニール袋で水蓋をする。3ヶ月後に、かき回すために作業をする。それまでは、静かに於いておく。もう良い匂いがするようになった。
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冬季オリンピック

2014-02-22 04:18:46 | 身辺雑記


空と海と陸 5号 こんな感じの絵を莫大に描いている。何枚描いても何をやっているのかが分らない。それでもこの先に何かありそうな気がして、又描く。




冬季オリンピックでは、日本選手が素晴らしい活躍をしている。そして、その特徴は海外で暮らしている選手が多数を占めているということだ。オリンピックで上位の成績を取るような選手は、海外に暮らして海外のコーチに教わっている場合がままある。日本に暮らしの基盤を置いているにしても、海外の試合を転戦している人が多数だ。こういう選手でも、自分で費用をねん出するために、かなりの苦労をしているようだ。アルペン競技や、フィギヤー競技などでは、小さなときから特別な環境で、訓練を続けた人が普通だ。このことは、日本の国内のスポーツの環境を良くあらわしていると思う。金メダルをたくさんとって、国威を発揚しろと、政府は考えているが、それが精神論に成ってしまう。東京オリンピックの組織委員会会長の森元総理は、協議途中の浅田選手への暴言にそれが良く現われている。金メダル候補が失敗したことに対して、「あの子は大事な所でいつも転ぶ」という言い方であった。

選手に対する人間的な尊敬の念が全くない。日本人の大半の人は、金メダルの重圧が、浅田選手のプレッシャーに成ったと考えただろう。だから、そういう期待をかけすぎた、自分達の態度が問題だったのではなかと、可哀そうで涙したのではないか。それは、高梨選手の時もそう感じた人が多いのではないか。スポーツ界を運営する、部の人たちは。選手のスポーツする意味より金メダルの数なのだ。それは予算配分ということが、関係している。今の時代大きなお金をかけない限り、オリンピックで良い成績など、なかなか出せるものではない。特に巨大な施設の維持を必要とする、冬季オリンピックに於いては、長野市のように素晴らしい施設を作ったものの、その維持が出来ないという現状がある。ハーフパイプという、日本人がいくつものメダルを取った種目では、27台が現在運営されているそうだ。雪国の北陸、東北でもない県が多い。神奈川には2つあるが、東京・大阪・京都にはない。カーリングのリンクは45ある。その内、カーリング専門施設が11.

子供のころからやらなければ一流にはなれないのは、バレーや音楽でも同じである。それは開発すべき子供の頃ならではの能力ということもあるのだろう。たぶん絵もそうだと思う。子供のころから、素晴らしい絵が生活の周辺にある環境であれば、その後の絵画感覚も違うものになるだろう。つまらない絵が暮らしの中にあれば、そういうものを絵だと思い込んでしまうだろう。良い絵やよい音楽を子供のころ暮らしの周辺にあるということは、その後の情操に重要なことだと思う。オリンピック選手は特別な恵まれた才能のある人だ。そういう人が、子供の頃、何かに出会い、その道を極めるように生きる。それは素晴らしいことで、誰もがそういう環境で暮らせるようになりたい。しかし、そんなお金は普通はない。マチスの絵が家にある人などまずはいない。マチスの絵の印刷物でも良い。逆なことを言えば、くだらない絵が飾られていることは、情操をダメにしていることだ。

オリンピックで活躍するような日本選手が沢山いることは、素晴らしいことだと思う。そしてそのことが経済と密接に関係していることだということだ。精神主義だけではどうにもならないことだと思う。確かに施設のことや選手のサポートということもあるが、一番は指導者ではないか。その選手が求めるコーチに出会えること。活躍する選手の多くが、良いコーチを求めて世界中を歩いている。これは雲水修行のようなものだ。こうしたことが、選手のその後の生き方に生かされるものであることを願う。日本のスポーツ界を覆っているものは、森元総理のような感覚の人が多数である。柔道界で実態が垣間見えたようなろくでもない世界だ。素晴らしい現役選手が、その純粋な生き方を貫いてくれることを願うばかりである。
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浅田選手の失敗から

2014-02-21 04:33:17 | 身辺雑記



桂林 10号 手前の家と、遠景の山を強くした。だからどうということではないが、山水の空間というものを色々やってみている。







冬季オリンピックで日本のフィギィアースケートの女子選手が、3人ともうまく行かなかった。期待が大きかっただけに辛いことだろう。自分のことを考えてみれば、失敗を繰り返しているのが、私の暮らしのようなものである。失敗の多くが、恥ずかしいという忸怩たる思いの失敗である。その場の興奮で、言いたいことを言い散らしてしまう性格である。言わなければ良かったという反省。そして、言わないで居ることはできない性格に対する反省。何故、言わずもがなのことを、言ってしまうのかと言えば、相手の行動や、発言の意図を読んでしまう性格だからだと思う。相手の発言には、実はこういう意図が隠されているからだと読んでしまう。その思惑のようなものに反応をしてしてしまう。率直にその意図を述べて、話し合いたいという気持ちがあるので、ついその意図を表面化させようとする。逆にいえばそれくらい世間の関係は、本当のことは隠したまま、関係のないようなことで、意図を通そうとしている。目的のための手段が、思いもよらぬところから現われる。人間は厄介で面倒くさいものだ。そのあたりに我慢ならなくなるのが失敗の原因である。

何故本当のことを話し合おうとしないのかと言えば、日本人の島国での逃げ場のない、生き方なのだろう。それが保身のためには必要だということを、社会で暮らして、世間から学ばされるのだのだろう。私の場合独立生活の、自給ということで、世間というものにあまり関与してこなかったので、その辺でどうもおかしくなるのが、常である。これから1年、自治会長の役割をこなさなければならないので、大いにそのあたりを注意しなくてはならない。失敗から学ぶということが言われる。失敗は成功のもととまで言われる。失敗は発明の母。確かに、中山教授でも、古保方晴子さんのような世界最高の科学者に成るには、失敗の連続の末に大発見にたどり着く。凡人なのだから、愚にもつかない同じ失敗を繰り返しているのは当然ともいえる。農業をやっていると、成功ということはほとんどないと言える。失敗の程度の違いである。なるほどこれかと反省し、大発見した気分で、今年こそ反省に基づいて、これでと考えてやってみている。ところがやっぱり違う。

自然の摂理というものが巨大すぎて、そう単純な計算にはならない。そこで、結局のところ失敗覚悟で試みるということになる。そして、またダメだったかということになる。その失敗の山ずみの中で、もがき苦しみ、恥を忍んで、暮らしてゆく実感。絵にも失敗はあるのかと言えば、失敗というものは一つもない。これが絵の面白いところだ。失敗の仕方が絵のようでもあり、良くならないところが絵であったりする。つまり思惑があるような絵は、絵ではないと思っている。思惑とは、目的である。座禅や、回峰行のような修行には目的がない。目的があっては、道は開かれないという経験がその背景にあるのだろう。公文式ではないが到達点が明確であれば、学習ということははかどる。しかし、目的が見えない状態が生きるということである。金儲けがしたいとか、権力を握りたいというなら、それを人生とするなら結論が早いが、生きるということはそういうことの先にある。絵を描くことも目的が明確であるなら、イラストと考えた方がはっきりする。もちろんその善悪を言っているのではない。

失敗があるということは、成功という目的があるということなのだろう。現状で良しということであれば、進歩もない。失敗したと悔やむのは、成功することだけを望んでいるからだろう。勝負であれば、勝つことに執着する。メダルという、勝ちたいという思いがなくなって、浅田選手は自分の演技が出来た。前回のオリンピックの時も1番に成れると思いながら、失敗に終わった。普通の人は常にそういうものである。勝てないのが人生のようなものだ。私も絵描きで1番に成ろうと頑張った時期があった。一番に成ろうと頑張ることも良いのだが、1番以外の人は1番に成れなくとも生きてゆく訳である。むしろ、その失敗をスタートに自分の生き方が始まる。他の分野で一番に成ろうとする人もいるだろう。それも良いけれど、私は人と較べない自分の中に入っていこうと考えた。自己新の一番深くである。
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東京都美術館で展示作品の撤去命令

2014-02-20 04:13:56 | Peace Cafe


桂林七星岩 10号 桂林市内の岩山である。何十枚も描いた。周辺に人家や道、そして畑もある。山水の中に人が暮らしている。この姿が面白い。





東京都美術館(東京都台東区上野公園)で展示中の造形作品が政治的だとして、美術館側が作家に作品の撤去や手直しを求めた。撤去を求められたのは、神奈川県海老名市の造形作家中垣克久さん(70)の作品「時代(とき)の肖像-絶滅危惧種」美術館の小室明子副館長が作品撤去を求めたのは翌十六日朝。都の運営要綱は「特定の政党・宗教を支持、または反対する場合は使用させないことができる」と定めており、靖国参拝への批判などが該当すると判断したという。ー―東京新聞

公設の美術館というものが、政治的な主張を持った作品に対して、展示の拒否をするなどあってはならない。それは反政府的であろうが、体制翼賛であろうが、同じことである。このことによって、この団体に対して、次回の貸し出しを拒否する行動を、東京都美術館が匂わせていることが最大の問題だろう。どのような政治的な意図の作品であれ、展示を拒否する美術館が登場したことに、日本の文化意識の衰退を表われてきている。今までになかったことだ。しかし、正直な所こういうことを私が書くこと自体、少し不安がよぎる。そういうプレッシャーの中で、作家は制作をし、発表をしている。会場を次回貸してもらえないかもしれない、という不安。東京都美術館では、そういう雰囲気がいつも付きまとっている。そういう恣意的な許認可権が東京都美術館側に存在するから、都美術館の批判をすることも躊躇するものが出てくる。間違った指示にも従わざる得ない。それではダメだと思うのであえて書く。東京都には抗議文を出した。

今回の事例は、運営要綱の拡大解釈である。これは行政が良く間違える政治の解釈部分だ。例えば憲法を守る会ということでの活動を行政が政治的利用で、禁止することがある。これは、政治の意味を間違えているのだ。公務員はそもそも憲法をを守ることが義務ずけられている。憲法を守る活動は政治活動的ではあるかもしれないが、特定の政党政治の活動ではない。この違いはとても重要なことなのだ。「特定」のと付いている意味は、党派政治という意味である。選挙運動のような例えば、自民党に投票しようと書いてあるような作品という意味である。宗教性も同じで、創価学会に入ろうと宣伝することが許されないと言う事である。政治や宗教性、そのものの主張を制限しているものではない。広く考えれば、政治的でない芸術作品というものはあり得ない。宗教的でない芸術作品もない。自由の哲学や、信仰の願いが作品の源泉になることは、当たり前のことだ。

今はまだ、都美術館での作品の展示拒否の問題である。大半の人には、それほど深刻な問題に見えないかもしれない。美術館は政治的な主張をする場ではない。そういう意見もあるだろう。美しい美術作品を見に行った場で、一方的な政治主張を見せられて、不愉快と思うかもしれない。しかし、作品というものの独立性を、行政的な立場から制限するということは、余程法律に触れるようなことでない限り、避ける必要がある。それが表現の自由を互いに守ってゆく、基本姿勢だ。軍国主義を賛美する作品であれ、展示すべきだ。それが芸術のありようである。政治というものは、すべての人の暮らしを覆っている。政治のありように対して、意見を述べることは国民の義務でさえある。以前、小田原でも遠来のピースウオークの人たちを、拒否した公共施設があった。この時も政治活動の公共施設の使用制限の要項を主張した。しかし、この時はきちっと抗議をして、今後二度と行わないようにすると、約束を交わした。

不愉快だと思う人がいるから展示をしない。ということであれば、たいていの美術展に於いて、不愉快な思いをする。しかし、不愉快と思うことも含めて美術作品の意味合いである。不気味なものや、不潔なものを描き出そうとする人もいる。以前、都美術館でごみを展示して、展示拒否に成ったものはあった。しかし、この時は衛生上や、臭いの問題での拒否であった。心地よいものだけを求めるだけでは、芸術の役割とは言えない。社会に心地よく受け入れられている作品が、いつの間にか消えてゆくということは、美術史ではごく普通のことだ。汚いと捨てられたゴッホの絵が今は評価されている。権力者が嫌うようなものを突き付けてゆく、世間から嫌われるようなものを、表現する。こういうことも芸術の役割の一つである。今、都美術館の展示拒否を見逃すと、いつか自分の暮らしまで、追い詰められてゆくことに成る。だいぶ怪しい世の中に成ってきた。

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東電に対する国庫負担

2014-02-19 04:32:10 | Peace Cafe


桂林 漓江下り  10号 桂林から陽朔までをゆっくりと川下る。船の上で食事をする。絵を描いた。何故今に成って、競輪の絵を持ち出してみているのか。絵画の精神性のようなものを、絵から現われる世界観のようなものの意味があるのかもしれない。しかし、今はあまり考えないで、ともかく描きたいものを描いてみる。






東電は経営破たんしているはずだ。東電が企業であるとすれば、原発事故で経営は終わったのだ。自分の力で再建できない事故を起こした。それはどの電力会社でも同様で、企業リスクを考えれば、原発推進など出来るわけがない。現在、東電は柏崎刈羽原発の再稼働を、会社再建の基盤に於いている。政府も同様の考えのようだ。東電に対する国庫負担をこれ以上増やせないからである。もし再稼動しなければ、莫大な維持そして廃棄費用を考えなければならない。そのいみでは原発再稼働が一番格安エネルギーに成らざる得ない。後の放射性廃棄物処理のことや、もう一度起きるかもしれない事故のことを考えなければ、そうなる。すべて、自転車操業の日本経済の、目先の、当面対策である。中長期のことを考えれば、原発ほど高く付くエネルギーはない。これは福島事故が今証明している現実である。この現実を見ても、見ようとしないのが、政府と、東電である。嫌なことは見ない、考えないというのは人間の常ではあるが、未来世代にこれほど始末の悪い核廃棄物を残してゆくのは、犯罪ではないか。

東電の経営破たんは政府が国庫負担で、乗り切ろうとしている。つまり、東電は我々の税金で、救済している。と言っても最終的には、電気代で返すことになるのだろう。燃料費で東電の経営は苦しくなるとしているが、その前に事故でつぶれたのだ。すべての原発事故の処理費を、電気料金に上乗せして、高額なものにすべき電気事業法という法律がある。ところがそれでは、東電が経営破たんする。住民は電気代が高くて耐え難い。政府はどんどん東電への国庫負担を増加している。汚染土壌の除去、汚染水対策、すべてを国が行うことになってきた。原子力事業が国策であったのだから、仕方がないということなのだろう。こういう状況をみると、もう一か所で事故があれば、日本は耐え難い状況に陥るだろう。事故が次に起こる前に、何とか状況を整理して、方向を定める。これが普通の考えだろう。競争に負けるにしても、選択がない。

まず放射性廃棄物の処理である。政府が候補地を決めて、半強制的に進める方針らしい。今原発をすべてやめるにしても、放射性廃棄物の処理は残る。莫大な費用が必要になる。この費用は電気料金に上乗せされるということになる。本来これが筋道で、その分電気料金が上がる。こうして、正当な原子力発電の経費が見えてくる。他の産業であれば、困るからといって、税金で助けてくれるというようなことはない。電気代が高く成り過ぎて困るというようなことは、国民の生活ということもあるが、基本はグローバル企業の国際競争力である。いつもの、海外生産拠点の移転につながる。国策で電気代を極端に安くする国もある。しかし、日本という国の条件を考えなければならない。原発立地に向いていない。世界でまれに見る地震国である。火山列島である。

東電の中に、原発専門会社を作るのがいい。東電は分社化と、福島第2の廃止を認めた。廃止を認めるということは、廃棄費用を経営計画に盛り込まなくてはならないので、決算できないということらしい。しかし、これも政府が特別扱いをした。銀行もすごいお金をつぶれる会社に貸し出している。普通の企業ではありえないことが、特別な扱いで許可されている。電力会社はまるで、役所の一部門のようだ。違う電力会社があり、選択できるなら民間企業である。電気料金が高いから、日本経済の競争力がないというのは、デマに過ぎない。もし、企業に自由に発電が出来るなら、企業自身が原子力発電すら行うはずだ。自分で発電するのが安いのであれば、工場に発電設備を作るはずだ。電力会社の経営は、民間企業とは言えない。税金の投入とともに、政府の意図に沿った経営者が送り込まれる。矛盾を抱えつつ、経営破たんの道を歩み続け。しかも、政治献金は行う、周辺対策費を垂れ流す。公務員より良い給与をもらう。
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エネルギー基本計画

2014-02-18 04:35:10 | Peace Cafe


桂林陽朔 10号 南画と水彩画の関係というものは、常に考えている。何故日本画がつまらなくなったのかということもそのあたりにあると考えている。






国のエネルギー基本計画は矛盾だらけである。私のような素人が読んでもあちこちにおかしな部分があり、腹が立つ。富士通総研の高橋洋氏がシノドスで問題点を上げておられる。何故、コストが計算されないかの意味が、良く分った。やはり原子力発電は割高なエネルギーという結論だ。ソーラー発電などおかしいだろうという意見は、私自身も良く考えるところである。ソーラー発電がもうかるからやる訳ではない。エネルギー基本計画にもあるとおり、自民党は再生エネルギーは止める方針である。私にはそう読める。再生エネルギーの買い取り価格も一気に下がるだろう。その意味でも利益が上がるからソーラーをやった訳ではない。すべては原発を止めさせたいからだ。原発を続ければ、日本は滅亡すると考えるからだ。福島の事故が起こる前に、もっと原発阻止の努力をしなければいけなかったと思っている。努力が足りなかった。それで福島の事故を起こしてしまった。未来の世代に私自身大きな負の遺産を残したと考えている。今、政府のエネルギー政策に反対しなければ、後で後悔することに成る。

結論から書けば、自民党政権が原発を止められないのは、核抑止力である。いつでも核武装できる体制でいたいからである。可能性の薄い核廃棄物の再処理を止められないのも、同様の理由である。これは電力コストとは関係のない理由である。核武装準備も一つの考え方であるのだから、正面からそのことを議論すべきだ。核武装論議をあいまいにしたまま、実は安倍政権も潜在的核保有状況を重視している。重視しているからこそ、あらゆる偽装的論理をもちいて、原子力発電の再稼働を目指している。原爆保有についてはすでに十分の、プルトニュームを日本は確保している。ロケットのミサイルかも、準備済みである。いまさら、新たな原子力発電などしなくとも、核武装の準備は出来ている状況である。もちろん建前としては、原子力は平和利用である。その意味では建前的にはイランと同じ状況ということだろう。そしていつでも、北朝鮮のような転換をする準備をしている。日本だけがきれい事を言ってはいられないという、安全対策が核武装論だろう。原発再稼働の前に、このことをきちっと議論すべきだ。

話はさらに外れてゆくが、中国が軍事大国化している。しかも、北朝鮮同様の不安定要因を秘めている。後10年すれば、中国は日本の軍事力をはるかに越えてゆくだろう。日本の国防対策をどうすべきなのかを、正面から議論することが重要である。やはり、国の安全保障を考えるときに重要なことが、アメリカとの同盟関係である。アメリカは日本の核武装を深刻に心配を始めた。日本がアメリカの核の傘を出そうだからである。沖縄の米軍基地は、アメリカへの核爆弾の投下を避ける犠牲と考えているとしか思えない。それは日本政府も同様で、沖縄に米軍基地を集中させ、沖縄が壊滅させられても、日本本土は生き残り得るという戦略なのだろう。だから辺野古移設以外にないのだ。それならば、報復原爆を受けても、被害が最小にとどまる。離島の無人島の基地というのが由一の妥協策だと思う。もちろん、私としては武器を放棄する方が安全だと考えている。しかし、それもすぐに実現できないのだとしたら、道筋としては、先ずは、沖縄の犠牲で日本の安全を確保するという構図は、止めなければならない。

エネルギー基本計画は論理的に、書き直さなければならない。民主党は曲がりなりにも、国民の声を聞き、2030年代には原発を0にすると決めた。今でも世論調査では、原発を徐々に縮小し、30年代には再生可能エネルギーに転換するということが、世論の中心である。この国民の声を聞くことなしに、うやむやにして、180度転換し原発依存を打ち出すのは、目先の経済にとらわれているからだ。大きな日本の将来を考えれば、今苦しくとも、自然エネルギーの技術開発に取り組むべきだ。原発に未練を持つことは、進取の精神を失っているからだろう。日本に石油が出ないのと同様に、日本は地震と火山の国なのだ。その条件を正面から受け止め、原発に踏ん切りをつけるべきだ。ソーラー発電に問題があると考えながらも、あえて取り組んだのは、原発を止めるために少しでもやれることをやりたいからである。
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安倍総理のおごりとゆがみ

2014-02-17 04:17:47 | Peace Cafe


川の流れ 10号 久野川である。この絵の写真も縦横が間違えている。仕方がない。






最高の責任者は私だ。私は責任者であって、政府の答弁にも私が責任を持って、その上において、私たちは選挙で国民から審判を受けるんですよ。審判を受けるのは法制局長官ではない、私だ。

国会での安倍総理の発言である。憲法解釈の変更について、法制局長官に質問しようとした時、逆切れして、遮った安倍氏の発言である。安倍氏は日本が立憲主義の国家である意味を誤解している。総理大臣は憲法に従って国の運営を行うことが決められている。その時の情勢によって、憲法解釈を変えてゆくようなことは、基本的にはしてはならないことだ。しかし、長年平和憲法と自衛隊の関係に無理があり、憲法解釈を広げて対応してきた事実がある。その責任を担ってきたのが法制局である。総理大臣ではない。今行おうとしている、集団自衛権の解釈の変更は、さらに別の問題である。自衛隊については、自衛権というものは憲法以前に、あらゆる国家に存在するものということが世界的に、確認されているという見解が、根拠なのだろう。それ故に平和憲法に於いて、武力による国際紛争の解決をしないと決めたとしても、攻撃してきたものに対して、武力をもって自衛上の抵抗はいかなる場合にも存在するという考えは、一応成り立つ。

しかし、集団的自衛権ということになると、同盟国の自衛の為のということになる。イラク侵攻にまで自衛隊が加わることが、現行憲法上許されるという解釈変更に成る。立憲国家に於いては、これは解釈の拡大ではなく、憲法を否定していることではないだろうか。国際紛争を武力によって解決しようとするのである。この憲法解釈はたとえ選挙で選ばれた総理大臣であれ、責任を取ることが出来ないことだ。武力行使を解釈拡大で済まそうとすることは、立憲国家の三権分立を侵すことに成る。どうも安倍氏は本音がどこにある人なのかが分らない人だ。靖国神社に総理大臣として、参拝することこだわった。では、国会での質問で、靖国神社の考え方を支持しているのかとなると、意見を言わないとしている。では、村山談話、小泉談話、や河野談話を認めるのかと言えば、これまた何を言っているのか明確ではないが、認めているようだ。第二次世界大戦を侵略戦争と考えているのかと聞かれても、曖昧模糊としている。こういう態度だから、たぶん安倍氏の本音は、靖国神社の精神と同じなのだろうと考えざる得ない。なんとも優柔不断というか、理解しがたい人だ。

安倍氏は実は文楽人形なのではないか。自分の考えというものはなく、数人に操られている。靖国参拝は世界中の戦没者の為だというような、誰かに教えられたようなごまかし発言をする。これは安倍氏の本音からすればほど遠いことではないか。世界の戦没者の鎮魂の為に、靖国を参拝する訳がない。靖国神社でなく千鳥ヶ淵霊園に行けばいい。あるいは国立霊園を造ろうとするはずだ。誰もが、ああはいうが、安倍氏の本音は靖国精神の人なのだと考えざる得ないと言う所だ。石原慎太郎氏等は、明確にそう信じ、安倍氏を支持している。田母神氏も同様であろうし、さいきんのNHKの経営委員や会長などもそういう考えだろう。そして、様々な内閣府の審議会を構成する人たちは、侵略戦争を認めない人たちで構成されているように見える。それが憲法改定の多数決論に繋がり、今度は憲法解釈責任者論である。

アベノミックスは4月以降化けの皮が剥がれてくる。実質経済が変わっていないからである。産業構造の改編に向かっていないからである。他のことは知識が少なくてよく分らないところもあるが、少なくとも、農業分野では第3の矢は放たれることもなかったからである。日本の現状はソフトランディングの地点を探すことが緊急要件である。発展途上であれば、様々な矛盾が変化の中で吸収される可能性もあるが、成熟した日本に於いては、安定を求めて、競争を徐々に降りる方法を探るしかない。世界の1番を続けることなどできないで当たり前だ。そこそこでも、幸せに、豊かに暮らせる道を探るべきだ。安倍氏を操っている人たちは、最後の責任は安倍氏に押しつけて消えるだけだろう。安倍氏には自ら傀儡であることに、疑念があるのだろう。安倍氏は国会で逆切れして、その自己矛盾を答弁していたと見える。
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TTP論の山下一仁氏

2014-02-16 04:40:27 | 稲作



北海道 糠平湖 10号 水没した湖である。誰も人のいない、静かな水面に映っている林を描いた。



「反TPP論の誤り」「TPPで日本農業はつぶれない。」という記事がある。キャノングローバル研究所の山下氏が書かれている。元農林省の課長だった人である。農業分野では数少ない論客であると思う。私も山下氏の書いたものからずいぶんと教えていただいた。以下は山下氏の示した数字である。ーーー1961年に農地面積は609万haに達した。その後公共事業などで105万haの農地を造成した。農地は714万haあるはずなのに、455万haしかない。現在の全水田面積や農地改革で小作人に開放した面積を上回る260万haの農地が、半分は宅地などに転用され、半分は耕作放棄されて、なくなった。  このような指摘は、整理され分りやすい。山下氏の中心に成る主張は「日本の農業をダメにしたのは、農協」としているようだ。農業がダメだという現状認識はいつもされている。すでにダメと主張している農業が、TTPでつぶれないという主張は少々矛盾している。だからTTPでつぶれないが、農協の主導で日本農業がつぶれるということかと思い読んでみたがそうでもない。日本農業の中で、稲作を別扱いしているのだ。これはNHKなども良く間違っているのだが、「TPPで稲作がつぶれるか。」という論議にすべきなのだ。

主食である稲作を守ることは、国の基盤ある。稲作は瑞穂の国の守るべき習俗でさえある。この問題を正面から議論しない限り、TTPを論ずることは意味がない。こんにゃくの関税と、野菜の関税を比較して議論したところで、農業を語ったことにはならない。日本の稲作は、一部を除けば、中山間地に点在している。つまり稲作は日本の国土を、特に地方の村落を維持し、地域を保全するた仕組みの基盤になってきたのだ。その中山間地の稲作が経済競争という枠組みの中で衰退するに任せるのでは、日本という国が維持できないというのが、自民党の農政であった。この側面は評価すべきである。農協の役割もこの時点では評価すべきことである。確かにJAが金融業を行う必然性はすでにない。農協は本来の日本農業者の組合としての原点に戻るべきなのだ。JAが巨大企業に成り、金融業まで行うということが、農地の資産化に拍車をかけた。農地は資産であり、運用すべきものと成り、アパート経営や、転用しての工業用地化を、行政も税収の増加の為に推進してきたのである。

稲作農業は国の安全保障作物として、又日本人の成立基盤として別扱いすべきものだ。山奥の一枚の棚田であれ、日本人として守る価値がある。それは伝統農業と言っても良い。日本人が日本人とは何かを考えるための重要な意味を持っているのが稲作である。その観点から、資本主義的な産業とは、別の価値観でとらえ、国民共通の価値として、稲作農業を意識すべきである。減反に税金が投入されることなど、現状では全く無意味なことであるが、中山間地の棚田が守られることは、日本人の暮らしにとって、総合的な価値を持っている。当然のごとく経済性がない。しかし国土保全の意味からも守らなくてはならない。そのためには、農地法的の段階から農地の意味をとらえ直す必要がある。1、国際競争に耐えうる稲作の為の地域。2、中山間地の地域を守るための稲作の地域。3、都市近郊の転用圧力を制限すべき農地。この地域分けに基づき、農地法の管理を農業委員会ではなく、第3者機関が中立公正に行えるようにする。

農地は将来に向けて長期にわたり安定させなければ、農業は継続できない。農業への新規参入もあり得ない。そのためには転用による資産化を不可能にしなければならない。都市近郊の稲作農地は、細分化され、大規模化による経済性の向上は期待できない。そして、資産的観点からの転用圧力は一番強い。都市近郊の農地を明確に永続的に農地として固定維持する社会的な合意を形成しなければならない。美しい国とはそういうものだと思う。そして、都市住民による、農地の保全の仕組みを作ることだ。経済性とは別に、生物多様性や、環境保全を中心に考え、都市住民がリクレーションを兼ねて自給的に維持して行く。耕作放棄地については、公的機関が借り上げるなり、買い取るなりして、都市住民が使えるように提供して行く。現在の農家はそうした、都市住民への管理業的な産業化をはかる。
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甘利経済再生相へ電力9社献金

2014-02-15 04:18:21 | Peace Cafe


庭の眺め 10号 キューイの棚である。私の絵は、中心が強くなる。明暗で強くなることもあれば、色の対比のこともある。この絵は周辺がぼやけている。





朝日新聞が「甘利経済再生相のパーティー券・電力9社覆面購入」というスクープ報道である。もし事実であれば、大臣を辞任しなければならない内容のことだ。ところがどういうことか、すでに忘れ去られようとしている。政治献金規制法での20万円以下の寄付は公表しないでいいという、抜け道を利用して、電力会社が献金している事実を、見えない形で取りまとめて行ってきた。甘利氏が電力会社を所管する経済産業相に就いた06年、電力9社は1回あたり約100万円分のパーティー券を分担購入していたということだ。電力会社は電気料金から、得た収入を、担当大臣に向けて献金しているのだ。一番悪質な献金事例である。許認可権者がこれを貰うのでは、原発の再稼働も当然のことになる。まともな神経の人なら、こういう関係会社には献金のお願いには行かないのがまともな政治家である。李下に冠を正さずということだろう。甘利氏だけあって、実にわきが甘い。この人は様々な業界から、献金をもらい集めるので有名らしい。全国貸金業政治連盟、パチンコメーカー、トラック業界の政治団体、等から集めている。

靖国神社に参拝する議員連盟の一人でもある。甘利氏のことを調べてゆくと、日本の政治の暗黒部分が透けてくるようで、少々不気味である。この人は高市氏の前の自民党の政調会長である。ある意味今の自民党的世界の要に居る人らしい。原発事故以降は電力会社からはもらえないというのが普通の神経ではないか。経営に苦しむ会社からのむさぼりである。しかも、公共的事業である電力料金のお金が献金に成る。20万円以下の献金にして見えなくしてきたというのが実に厭らしい。こういう輩が出るから、政治が腐る。税金から政治活動費を出している意味がない。甘利氏はいわゆる商工族の大物議員でエネルギー政策に強い影響を持っている。89年に旧通商産業政務次官に就任した時から始まったとみていい。「次世代を担う商工族議員に育てようと旧通産省がまず目をつけ、資源エネルギー庁に代わり日本のエネルギー政策を実質的に牛耳っていた東電が、旧通産省・エネ庁官僚と歩調を合わせて、囲い込みを始めた」と書かれている。

そもそもなぜ政治献金にまで、電力料金に上乗せされなければならないのか。許しがたいことである。その昔市川房江さんが電力会社の政治献金を追及して、一円不払い運動というものを展開した。今回の事件は原発の再稼働や、電力会社の独占を崩されないための献金ということだろう。電力会社は絶対に利益が出る仕組みに成っている。どれほどずさんな経営を行おうが、原発地域の周辺対策にどれほどのお金をつぎ込もうが、かかった経費から、逆算して電気料金が割り出されている。こんな電気会社に都合の良い仕組みが許されるだろうか。会計検査院の検査のない、官庁のようなものだ。特殊な経済構造の上に、胡坐をかき続けた企業だ。その電力会社が見えない形で政治献金を、関係閣僚にしていたということは、国会で追及されなければならない。法に触れないから許されるという問題ではない。政治家の倫理として、あってはならない献金である。ところが、甘利氏の弁明は、問題がない、どこの企業でも同じである。そのことで政策が変わるようなことはないと、記者会見した。確かにこの人は、以前から原発推進で、献金を貰って来たのだ。そして主張も変わらない。

電力会社は政治献金の禁止である。そして、20万円の裏にある、見えない接待を暴くべきだ。電力会社による報道関係者や、政治家への接待の凄さは想像を絶するもののようだ。こうしたあくどいやり方で、政治家や報道を言い成りにさせ、現在も電力会社の独占解体を止めている。たぶん一切の政治献金を公表すべきというところが、甘利大臣の追及をできないところだろう。どこの政党に寄付をした。ということが公に成ることを嫌う人もいるはずである。少数者が圧迫される恐れがある。支持政党で、差別を受ける可能性もある。たしかに本質的には政治献金は、20万円などという枠を設けず、一切を公表すべきだ。しかし、共産党などは反対をしたはずだ。だからと言って、追及の手をゆるめてはならない。差別されても、自分の政治的立場を主張できるようでなければ社会は変わらない。
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農業委員会とは

2014-02-14 04:32:07 | 地域


雲海のアルプス 10号 

日本農業の問題の一つに農業委員会のことがある。地域農業の方向性を打ち出せない組織に成っている。大雑把にいえば、農業委員は慣例で地域の有力者が成る名誉職のような側面がある。月に3万円くらいの手当てがあるはずだ。本当に農業委員の仕事に取り組めば、3万円で出来るような仕事の範囲ではないし、行政が同じ役割を行えば、数倍の経費が必要となる。一般に、前例主義に成り、大きな農業改革を発案するようなことは、ありえない仕組みとなっている。地域にとってはそれほど大した問題とは捉えられていないのだろう。小田原では行政が農業特区による改革を提案し、農業委員会がそれに反対するということがあった。日本の農業の問題が議論されるときには、必ず、農業委員会の農地転用の許認可権が問題にされる。農地法では重要な位置づけである。新規就農者の認定なども、農業委員会の恣意的な結論に成りやすい。私が山北町の農業者という立場で、隣町の小田原に住所を引っ越した。ところが小田原の農業委員会煮農業者としての登録をしようとしたら、拒絶された。理由を聞きにいったらば、何と農業者は引っ越しなどしないということであった。

そこで、神奈川県の農業会議というところに出向き、小田原ですでに農業を行っている事実があると、苦情を申請したところ、人権侵害に当たる可能性があるということで、小田原市の農業委員会に対して、意見を出してくれた。このように、農業委員会には、市町村の壁がある。その壁は人を見るというような、古いしきたりのようなものを重視しているところがいまだに残っている。しかも、農業自体が、衰退の過程の中で、かろうじて維持している。その結果都市近郊では、農地を財産として管理して行こうという意識が強くなる。となれば、農地を農地としてではなく、土木作業場や資材置き場、駐車場などに、運用している事例の判断は、昔からの人間関係が配慮され、重視される。もちろん地域での和を重んじることに成る。新規就農の申請の時に、1っぽん持って挨拶に行かなければ、地域の農業委員の推薦がもらえないなどと言われる。又、ヘタに動きを起こせば寝た子を起こすことになるので、見て見ぬ振りがお互いの為の大人の対応ということに成る。すべてはその背景にある、農地法の現実離れした実情がある。

農業委員会は、教育委員会と同じことで、形式的民主主義が改革を阻んでいる。農業委員会改革をするとすれば、先ず農地法を次の時代の農業を導き出すものに変えて、その上で農業委員会の役割を決める必要がある。農地法は、旧小作農を守るための法律精神で出来ている。農地解放で農地がそれまでの小作人に割り振られた。日本ではすぐに小作人の農業が行き詰るだろうと考える意見が多かった。農家経営をしてゆく能力がないとみられていた。そのために、農業委員会は農地の縛りを監視の下に置くことで、地域ぐるみで農業全体を守る組織となった。新規参入の調整。企業的農業の制限。農地の転用の監視。しかし、農業全体が衰退し、全体の産業の中での位置づけが変わってきた。そうした農業委員会の役割が、後ろ向きに作用することが目立つようになる。

農業委員は地域農業の方向を示す必要がある。こうやれば、農業で生活ができるという形を示せる人でなければ困る。農業で生計を立てて来た経験のある人が望ましい。そういう人は70過ぎても現役農家で、忙しくて農業委員どころではないと言えるかもしれないが。少なく専業農業者の代弁が出来る人であってほしい。現状を踏まえ、将来どういう農業の地域して行くかを提案できるような組織に成ってほしい。視点を変えれば小田原の農業は可能性に満ちている。都市近郊で、温暖で、風光明美。この条件を生かして、次の時代の農業を提案できるはずだ。そうした転換を促すために、農地法が制限に成っている。全国一律の法律ではなく、地域を区域分けし、都市近郊には近郊にふさわしい農業が出来るような法律改正をしてもらいたい。
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