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鹿児島と沖縄の選挙結果

2014-04-30 04:26:18 | Peace Cafe

北アルプス 10号 アルプスへの道という、児島善三郎の傑作がある。それがどこで描かれたものなのか、良く分らないのだが、安曇野あたりからなのだろうか。何度も描きに行くのだが、ここだという場所は見つからない。





鹿児島2区と沖縄市では、ともに自民党と公明党の推薦する候補が当選した。これを持って安倍政権の政策が支持されたと、菅官房長官が解説をしていた。これは明らかに不十分な自己引水的解釈である。今回の選挙では、公明党の推薦だけが、選挙結果に影響している。一人を選ぶ場合、公明党がくっついた方が勝利するのである。沖縄市の市長選挙はまさにその事例で、公明党が推薦し、太田大臣も沖縄入りした。鹿児島2区も同様の結果である。選挙としては、それだけのことだ。前回の名護市の市長選では、公明党は自民党候補を推薦せず、自由投票にした。その為に、辺野古移設反対の稲峰市長が再選された。それくらい、公明党の選挙での役割が大きくなっている。この点で、思想の近いみんなの党や、石原氏グループが自民党と連携しても意味がないのだ。公明党の支持者は、一致団結して党の指示に従うという点かが肝心なのだ。党よりも宗教的な人間支配なのかもしれない。こうしたものに、自民党の実態は支えられているのだ。

自民党は、新憲法制定が党の大きな目標である。公明党は、一応今のところは護憲政党である。この2党が連立内閣を作り、肝心要の平和憲法の集団的自衛権を解釈変更で、海外派兵の道を開こうとしている。両党によると、この点でも、選挙結果の判断が違うようだ。山口代表は明確に、憲法では集団的自衛権を認めていないとしている。そして今回の選挙結果でも自民党の解釈憲法変更の考えが、支持されたのではないとしている。今後どう変わってゆくのかが注目である。沖縄市の選挙では、公明党が加わっても、近差の接戦選挙であった。ということは、県知事選でも公明党の動向が問題になる。ということは、自民党は安易には公明党を軽視して、集団的自衛権の解釈変更が出来ないということになるはずなのだが。公明党との調整が現在も行われているのだろう。公明党の内実というものが分らないが、創価学会の池田大作氏の考え方ということなのだろうか。それとも民主的な政策検討というものがあるのだろうか。

沖縄県知事選挙では、すでに不人気の仲井真弘多知事の三選はないようだ。そこで、自民党県連、公明党県本部は、両党と経済界や各種団体、保守系首長などで構成し、副知事高良倉吉氏(66)が有力候補のようだ。公明党沖縄本部では辺野古移設反対を表明しながら、どういう論理で、自民党候補を推薦するのだろうか。いつもこうした矛盾が理解しがたい。こういう公明党のあり方が、日本の政治を論理を越えて動かす、利害政治にしている。健全な野党が全く存在しないような、日本の政治状況を導いているのは、政党の理念よりも、野合して利益誘導という、自分達の利害で結びついているだけの状態が良くない。何とかこの閉塞的状況を乗り越えるためには、小選挙区制を辞める以外ない。ところが、報道はどうだろうか、今回の選挙結果の最大原因である、公明党の動向に触れない。宗教政党が怖いのだろうか。

自民党議員の中には、公明党という思想の違う政党を尊重せざる得ないという、いらだちがあるだろう。しかも、自分の選挙では、お世話にならなければ当選できないという弱みがある。また裂き状態である。その自覚もない当選主義の社員議員ばかりなのか。原発をロード電源とすると言っても、公明党は将来廃止の方向である。ことごとく、両党は異なる政策を掲げて、連立内閣を作っている。そして、それぞれに当選の為には口を拭っている。こんな状況が続いているのでは、日本の政治は悪くなる一方である。経済が悪くなった時、どういうことが起こるのだろうか。自民党がダメだとされたとき、いよいよ、迷走飛行に入る。ソフトランディングが出来なくなる。この政治状況が続くなら、その覚悟もしなければならないのかもしれない。地場・旬・自給を原点として、自分の暮らしを、自分で確立して行く以外に、生きることを、深く生きることはできない時代が目の前まで来ているようだ。
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水彩画研究会に際して

2014-04-29 04:40:29 | 水彩画


浅間山 10号 畑があって、山がある。それだけの場所なのだが、最近はそういう場所を描きたくなる。以前からかもしれないが、人間と自然のかかわりが分る所が描きたい。





水彩人では、伊豆下田に於いて、水彩画の研究会を開催する。水彩人が出来て以来、研究会の開催を続けてきた。それは、水彩人という団体は、水彩画をともに研究して行こうという組織だからである。絵を描くということは、確かに一人の行為である。しかし、誰もが一人で努力をして行くのが、絵画の世界のことではあるが、一人での研究では限界があると考えて、研究会を始めたのが、水彩人である。そのために、会の規約に於いても、互いの絵画の相互批評が決められている。一人でやりたいという人は、水彩人という組織の趣旨にそわないということである。水彩人の仲間であるということには、まず、この相互票を大切にするという自覚が必要ということになる。

水彩画というものが、どういうものであるのか。その可能性はどこにあるのか。これを共に探求しようということである。私としては、全員に自分の考える水彩画とは、どういうものであるか、レポートをお願いしたところである。中川一政氏は春陽会に於いてそういう試験をし、採点をしたそうだ。ただ、何となく水彩画が好きだから、水彩画を描く。というのでは、水彩画の本質に至ることはできない。それぞれが自分の考えで構わないのだが、水彩画の意味と、可能性を見直す機会を何度でも作ってほしい。ただ、その時の印象を、いつものように描くというのでは、水彩人の研究会ではないと自覚してもらいたい。そういう研究会を行いたいと考えている。

この機会に、いまだかつてない自分に向けて、始めての挑戦をしてもらいたい。私もそのつもりで、この研究会に、大きな期待をしている。自分を突破するということは、一人ではできない。今までと似たような絵を描くならば、黙って家で描いていれば済むことである。絵を描くということは、今までどおりでは後退ということだと思う。評価された自分を自己否定して、前に進むような、意欲が必要である。その意欲と勇気をもらえるのが、水彩人の仲間である。私を始め、多くの同人、会員が参加し、始めて出会う事が出来るかもしれない自分に、期待をしている。このどこの会にもない、水彩人の挑戦をぜひとも生かしてもらいたい。

実際には、下田の海を、港町を、漁港を描くことになるのだが、あくまで見えている世界を写すということではないと考えてもらいたい。見えている世界を、きっかけにして、むしろ自分の中の世界を展開してもらいたい。自分の心の中を掘り下げてもらいたい。見えているものは、あくまで入り口である。ここで行う研究はあくまで、冒険であり、挑戦的研究である。良い絵を描く必要もない。技法的にも、今までの得意なやり方にこだわらないでもらいたい。やってみたこともないものを一つでも、学ぶ機会にしてもらいたい。一人で描くことは、いつでもできる。むしろ、この機会に仲間たちがどう挑戦しているかを探ってもらいたい。

今までも、この研究会の場で、新しい自分を発見した人がいたと思う。そして、私も、この研究会を続けることで、自分の絵を展開することが出来たのと考えている。だから、あえて水彩人の研究会を続けてきたのである。この研究会が有意義なものになるように、一人でも多くの人に参加してもらい。水彩人の水彩画を共に探求したいと切に願ってる。もう間際であります。どうか、水彩を描く仲間が、この機会を生かしてもらえるように期待しています。開催日は5月7日(水)8日(木)9日(金)
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小保方晴子氏と理化学研究所

2014-04-28 04:13:38 | Peace Cafe


日の出の海  6号 相模湾で描いた。海はどこも海なのだが、少し違う。海がある切り口を見せると気がある。その奥をもっと見たいと思っている。





小保方晴子氏の大発見については、感想がなかった訳ではないが、書かないでおこうと思っていた。しかし、あまりの展開に書いてみることにした。スタッフ細胞があるのかどうかなど、当然門外漢には分らないことだが、今回の騒動のレベルの低さには全くあきれ果てた。一般社会がノーベル賞レベルの研究者に、常識を求めているのだ。全く世も末だ。時代が弱まっている、劣化している姿だ。ごく普通の人間に、新しい発見など出来るわけがない。いまだかつてないものを見つけようという人間は、大抵はとんでもない人なのだ。普通の人を期待するなら、驚異的な発見など期待しなければいい。常識人ばかりでは、新しい発想は生まれない。ピカソだって、マチスだって、ゴッホだって、ゴーギャンだって常識人ではない。当たり前のことではないか。天才中の天才のモーツアルトなど、全く不思議な人だったらしい。子どもながら、大人が感銘を受けるような曲を作曲している。こんな天才が生まれる時代というものを考えてほしい。自分達の常識の枠に、天才たちをとどめようとするのは、やっかみである。

この展開は、時代がいかに衰退してきているかを表している。どの時代も、次の時代を切り開くのは常識人ではない。医学に於いて新しい発見をして、命を救ってくれている人たちほど、素晴らしい人はいないと思う。感謝してもしきれないほどのありがたさである。こういう人たちが、たまたま、写真の切り張りの仕方がおかしいとか何とか、全くどうでもいいことである。我々は在りがたく、崇拝すればいいだけのことである。天才というものは、どうせ普通人ではない。普通ではないから、次の時代に切り込めるのだ。全く研究ノートがおかしいなど、小学生ではあるまいに、天才は何をするかなど分る訳がない。もしかしたら、犯罪者の場合だってある。アンリー・ルソーは銀行強盗をしたことがあった。殺人を犯した、カラヴァッジョなど絵があまりにすごいので、許されたほどだ。天才を我々の常識で判断しようなどとんでもないことだ。確かに天才は迷惑なものだ。ゴッホがどれほど迷惑であったかしれないが、あれほどの絵を残したのだから受け入れるしかない。天才もつらいのだ。

研究者ほど尊い存在はないと思う。学問をされる方は、人間の輝きのようなものだ。我々一般人のレベルで考えてはならない。切り張りした、写真をねつ造と攻め立てたてていた人が、今度は自分も切り張りしていた。ところが、その切り張りの意味が違うと、謎の弁解をしている。実に本物の学者らしい応対で、ほほえましくもあり、学者はそんなものと考えた方がいい。調査などという実務的なことをやらせる方がおかしいのだ。要するに研究の成果を、ありがたく頂けるのは次の人類だ。そういう研究者の非常識世界を大切に育てることが出来るのかどうかが、社会の熟度だ。社会常識でその自由を奪うことは、いかに社会の損失であるか。もし社会常識を重視するなら、凡庸な世界を受け入れるしかないことになる。次の時代など来ないだろうし、ノーベル賞を取るような学者など期待しない方がいい。

最近の日本社会が活力を失い始め、揚げ足取りや、人を育てる余裕を失っている。実はこれが格差社会の実態である。格差が天才を認めない。おかしいようだが、こういう天才たちの揚げ足を取るような空気で、格差の鬱憤晴らしをしているのだ。はけ口を求める社会。はけ口がなければいたたまれない社会。カジノ解禁も同じ流れなのだろう。健全な暮らしが普通に行われていれば、差別主義や、揚げ足取りなど、不要である。近隣諸国との軋轢も同じことである。社会に余裕がなくなっている。小保方氏が我々凡人とレベルの違う研究者であることだけは確かであろう。もっと、気ままに研究を出来る環境がなければならない。真理の前には、結果を急がない、特許がとか、発見がどうとかいう低レベルのことはどうでもいいだろう。
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村上華岳という不思議な画家

2014-04-27 04:17:26 | 水彩画


「二月の頃」




田植えの頃 二月の頃を描いた翌年の絵である。




村上華岳という明治から、大正期の画家は、長い間気になっている画家である。しかし、その気になり方は不思議なものだ。理解出来ないし、何がいいのかも分らないのだが、気になりだすと抑えきれないように、解釈したくなる絵なのだ。ひどい絵とも思うのだが、自分などはるかに及ばない絵の深い精神世界に存在していうようにも思える。実際に見る機会があれば時に見ているし、また、複製画をアトリエに飾ってすらある。それは、京都芸術大学所蔵のもので、大きさはB版全紙くらいのものある。卒業制作《二月の頃》は1911年の第5回文展で褒状をうけた。東山の明治時代の農村の風景を描いている。全く描写的にも見えるし、模様を描いているようにも見える。構図も悪い。まあ訳が分らない絵である。この絵を良い絵だと評価した人が偉い。気になってしょうがない絵である。本当に絵とは何だろうと思う。この人は、51年という生涯で、向かうべき絵がずいぶん動いている。どうも、結論を求めて描いていたのではないのかもしれない。





山種美術館蔵 重要文化財指定 《裸婦図》村上華岳制作年 1920(大正9) 絹本・彩色・額(1面)
寸法(タテ×ヨコ) 163.6x109.1

もっとも著名な絵だろう。重要文化財に指定されているのだから、良い芸術作品と言われているのだろう。私には不思議に見えるだけで、いわゆる良い絵だとは思えない。裸婦図といっても、常識的な裸婦の絵とは、全くかけ離れている。どちらかと言えば、仏像のような雰囲気である。といってももちろん仏像なのだと言い切ればそれもまた違う。やはり、裸婦のような気もしてくる。本人の説明などどうでもいいともいえるのだが、一応承れば「私はその眼に観音や観自在菩薩の清浄さを表わそうと努めると同時に、その乳房のふくらみにも同じ清浄さをもたせたいと願ったのである。それは肉であると同時に霊であるものの美しさ、髪にも口にも、まさに腕にも足にも、あらゆる諸徳を具えた調和の美しさを描こうとした、それが私の意味する『久遠の女性』である。」 ますます、何か不思議な世界に生きた人のような気がしてくる。

仏画の背景となる仏教という面も含めて、人間というものがくっきりとしていない。簡単にいえば、近代的でない。日本の伝統とも違うと思うのだが、幻想的情緒に流されている。人体というものの構造的な存在把握が出来ていない。雰囲気とか、情緒で精神性を表現しようとしている。これは良くないことだと私は考えている。人体の把握が出来ていなというより、あくまで図像としての人体であり、明治の限界のような感じがある。この点岸田劉生などと較べると、時代の逆行の匂いも感じる。人間をとらえきれないから、仏画になるのかもしれない。しかし、これが畑や、田んぼを描くとなると、われわれとはけた外れに、農村というものの実感のなかに生きている。畑を耕す、感触まで線に現われている。これは当時の日本人の凄さなのだろう。線に魂がこもる。絵描きである村上華岳が農村に生きる実感を理解していたということである。

日本人の絵画というものを考えるときに、村上華岳は私には外せない絵描きなのだ。時代の限界に見えるものが、むしろその生きた時代の精神を深く把握している為なのではないか。明治時代の農村に生きた人の空気を、深く真実に表している気がする。雪舟の天橋立図が、日本の風景を描き、始めて日本という国の空気を表現した。それは、芭蕉が「古池や かわず飛び込む 水の音」と読んだとたんに、風景が見えてくるということだ。「分け行っても、分け行っても緑、」と山頭火が読んだとたんに、風景は一変する。絵を描くということは、具体的に見えるということであり、ある切断面を見せていることで、その本質を表すことだ。村上華岳が見せた断面こそ、世界の一断面である。ただ見えているということを越えて、本質を見ること。そのす覚ましさがここにある。
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TPPで稲作はどうなるのか。

2014-04-26 04:07:13 | 稲作


男鹿半島 10号 とても面白い場所で、何枚も絵を描いてみた。5月が特によい。家の感じがとてもよい。



田んぼが始まった。苗床では、発芽が始まっている。オバマ大統領が来日して、TPP交渉をした。分ったことはアメリカは関税の撤廃を主張していることぐらいだ。これではいくらなんでもまとまらないだろう。要するに、農業をどう犠牲にするかを調整している。ともかく決まらなかっただけでもよかった。日本がTPPでアメリカのような国の価値観に巻き込まれてゆく姿が浮かび上がってくる。以前、神田であったTPP反対集会で発言したのだが、あれこれ主張した後「デズニーランドに遊びに行くより、田んぼで楽しもう。」思わず出た言葉だったが。みんなから笑いがとれてよかった。要するに人間というものが主体性を失い、消費者という企業の都合のよい存在にされてはならないということだ。田んぼで主体的に行動して、本当の楽しさを知ってもらいたい、ということだ。デズニーランドに行くということは、アメリカ文化を享受するという、受け身文化ということに気付く必要がある。田んぼは自分が生きる基本となる食料を生産するという、生きる基盤となる経済的生産行為だ。楽しさも違うのだが、自分が得るものが本質的に違っている。TPPの本質は、アメリカに日本が染まるということだ。

アメリカの文化はすべての人間を消費者としてとらえる文化だ。常にお客さんなのだ。稲作も経済性の側面からだけ見て、より経済合理性のあるという観点だけを、価値の比較基準にする。これが経済のグローバリズムであり、ある側面から見れば、実に合理性のある考え方である。戦後の日本もアメリカから学んだこの経済主義で、お金には色がないということで、世界との貿易で経済の規模を拡大するということに躍起になってきた。そして一定の成功を得たおかげで、今の日本の経済的な豊かさというものを手に入れた訳だ。しかし、このことを良く分析してみると、日本人というものの能力がその根底にあったということだ。江戸時代までの日本人も、世界の多様な民族が存在する中、日本列島という恵まれた国土を生かし、文化的に実に奥深いものを培ってきた。それは、絵画に於いてみても、全く世界のどの地域のものと較べても、遜色のない立派なものである。

そうした豊かな感性を持った日本人がいたからこそ、戦後の経済発展もあった。日本人の根底の文化を武士道というように主張する人もいるが、これは間違っていると思う。東洋4000年の永続農業が日本人を作ったと考えた方が、はるかに筋が通る。一部の支配階級としての武士道が儒教的な思想に基づき、日本独特の精神文化として存在するのは確かであるが、大半の日本人の根底にあるものは農民としての自給永続の思想である。豊かな文化的感性は、自然とのかかわりを手入れの思想として、精密に組み上げた農業という営みにもとずくものなのだと考えた方が、しっくりとくる。日本人は、と里山の精妙なかかわりを、大きな改変なく、調和させてきたのだ。これは日々の人間の生き様に反映されたものに成ったのだろう。文明開化と言われた明治以来西、欧の機械文明を巧みに日本的に応用できたのも、日本人の里山的文化の下地があったからだろう。

世界と付き合うのを辞めて、過去に戻れということではない。どのように、日本人の良さで世界に貢献できるかかである。日本人が生み出した、循環型の暮らしは、次の世界の方向の大きなヒントのはずだ。人様に迷惑をかけずに暮らすということだ。このまま、アメリカ的な能力主義の経済競争を公平とする、強者の有利の論理に巻き込まれてゆけば、必ず、世界は行き詰まることになる。経済格差はますます、深刻化して弱者は能力がないのだから、下積みに置かれても仕方がないという、人間というものが尊重されない、能力による人権の差別社会を認めてしまうことになる。日本文化ががアメリカ社会化してゆく、TPPは岐路になるだろう。グローバリズムを認めるか、地域主義を尊重するかである。両者は共存できない思想なのだ。すでに、日本は弱い地域を切り捨て始めている。経済的能力のない地域が滅びるのも仕方がないだろうという方向になっている。TPPから食糧を除外するのは、各国の当然の権利である。
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韓国でのフェリー沈没事故

2014-04-25 04:37:00 | Peace Cafe


塩山桃源郷 10号 今が塩山は素晴らしい。





韓国で修学旅行の高校生を沢山載せた、フェリーが沈没した。一週間経過したが、事故の詳細が日本でも連日報道されている。あまりに可哀そうで見るに堪えないこ記事ばかりだ。確かに、韓国のフェリー会社はひどいし、救助の遅れも困りものだ。しかし、それをあげつらって得意げな、日本の報道はひどすぎないか。以前から韓国について指摘してきたように、韓国で起こる不幸は、必ず日本でも辿る可能性が高いと考えておかなければならない。他人事ではないのだ。経済至上主義の行き着く先がどういうものになるかは分りきったことだ。安全が軽視され、経済が優先される。日本では、JR北海道のあまりに目に余る安全確保が、明るみに出た。脱線事故が起こって、線路の幅の確認がされていなかったことが分った。しかも、その安全確認の点検報告が、偽装されていたというひどさである。あの脱線事故で人的被害がなかったことは幸運に過ぎない。中国で日本向けの冷凍餃子に、会社内の不満分子が農薬の混入を行った。やっぱり中国の労働条件のひどさはこういう事件を生むと思った人が多かったと思う。ところが日本のマルハニチロという大手の冷凍食品の工場で、契約社員がやはり農薬の混入の犯罪を行った。

いずれの日本の事件も、喉元を過ぎて忘れ去られてゆくが、実情が変わった訳ではない。むしろ、社会の格差は広がっているし、安全より経済優先の社会により成ってきていることは、自覚しておく必要がある。その一番が、原子力発電所の再稼働の問題だ。安倍政権の原子力発電所の再稼働の根拠は、経済的に有利であるということだ。その実情は、安全対策を十分にやらないで、耐用年数の40年も軽んじて、核廃棄物を発電所の中のプールに、いつまでも積み上げて於いて、というような経済優先で行けば、他の発電方法より、安価なベースロード電源である。というような訳の全く不明な根拠なのだ。本当に安い電源であるというなら、先ず核廃棄物の処理方法はどういうやり方で、幾らになるのか、示す必要がある。そういうことは次世代がやればいいというのでは、日本の未来はとんでもないことになる。

韓国は北朝鮮との国家分裂という深刻な、対立を抱えている。深刻な背景から、すべてに経済を優先して、世界の経済競争に勝とうとしているのだろう。フェリーに関して安全対策に、これほど手抜きや欺瞞が行われているということは、利益を何より優先しているからである。しかも、船長が正規社員でなかった。細部を聞けば聞くほど、あきれ果てるのだが、翻って日本のことが心配になってきた。日本はあれほどの原発事故を経験した。にもかかわらず、喉もと過ぎて、安い電源だけにとらわれて再稼働に向かう。安全については、実は限界がない。結局個人の暮らしの日々でも、安全はそれぞれの妥協の産物である。この範囲ならまあ大丈夫だろう、ここまで行けば危険だ。農作業に於いても、そういうことはよくある。しかし、これが経済の中で考えると、農業だって安全が軽視される可能性が高くなる。農薬や、遺伝子組み換えは、そういう方向だ。また熊本で、鳥インフルエンザの感染があったのだが、早速、神奈川県警では、養鶏場を警察官が回っている。何を聞いて歩いているのか知らないが、防疫の知識が全くない人間が、次々の養鶏場を歩き回るなど、無知が危険を増幅しているにすぎない。

養鶏業が安全に行われるためには、経済優先ではだめなのだ。今まで感染が起きた養鶏場は、大規模なウインドレス鶏舎の所だけだ。こう言うと、以前、例外的に趣味で飼っていた肥後チャボが感染したと、特殊な事例を持ち出す人もいる。が、これはまた別の要因である。話が広がり過ぎたが、韓国のフェリー事故は、必ず日本の未来を暗示しているということだ。JR北海道がどこまで改善出来ているのか、繰り返し事故を起こす、小さなバス会社の仕組みは見直さないで大丈夫なのか。笹子トンネルの崩落事故後、全国での似たような、コンクリートの劣化個所が指摘された。充分に直しているとは思えない。儲からない安全対策が、国際競争優先の中で、軽んじられるということは、日本にも目に余るほどあることだ。ともかく原発事故を思い起こし、安全神話を作らないことだ。原発事故がもう一度起きれば、日本は終わりだという覚悟で、やらなければならないことだ。
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人口の減少と老齢化

2014-04-24 04:08:26 | 地域


海越しの鳥海山 10号 和紙 残雪、春。雪国の一番美しい季節。




日本の人口は減少傾向になった。この傾向は今後加速して行くだろう。特に老齢化が目立つ。4人に一人が65歳以上だという。もう何年もしない内に、3人に1人が老人の国になるということである。その実態は、小田原の久野の状況である。久野の社会福祉協議会のアンケート調査によると、3人に一人が65歳以上になっているとのことだ。悲観的に考えることは全くない。人口が減ることは別段悪いことではない。私は個人的には老人として、社会福祉から切り捨ててもらって構わないと思っている。日本の未来のことを考えたとき、子供たちのことの方がはるかに大切である。同じお金をかけるなら、子供たちに使ってもらいたい。それから、老人はとことん働き、力を出し切る必要がある。働き抜いて、死んでゆきたいと思う。楽をして遊び暮らした所で、一生。働き抜いて、死んでゆくのもあるなら、私は働き抜きたいと思っている。元気で一日も長く、迷惑にならない日々を送りたい。

人口が減少する分、技術が人間の手から機械に代わるだろう。だからそう人手不足を心配することもない。工事現場で労働力不足がいわれているが、もう人海戦術の時代でないということだ。農業分野でも、労働力を当てにしていたのでは、日本の国内では産業として成立しない。どうやって省力化するかを徹底して考えなければ、産業としての農業はないのだから、人口減少は良い機会ともいえる。農地のや山林の管理に関して言えば、日本人の暮らしの見直しである。江戸時代少ない人口で、今よりは環境のコントロールが出来ていたのだ。自然環境を受け入れて、その中でどのような暮らしが織り込めるか、江戸時代の永続農業を、現代の技術と融合させることが出来れば、日本の食糧自給ぐらい、何の心配もいらない。その意味でも、人口の減少は悪いことではない。自然を人口に改変するのでなく、自然を生かすことである。

私の知っていることで役立つことと言えば、自給技術である。これからの社会では、地方が老齢化し、空洞化して行く。その時にいくらかでも役立つ技術は、地域自給の技術である。年寄りでもやれる農業。要領よくやれる小さな農業。技術があれば、年寄りでも十分できるのが江戸時代の農業だ。今や、農業者の平均年齢が70歳を越えたという時代だ。こんな状況の中で、年寄りでも少しでもお役にたてるものがあれば、1年でも長くこの国土に恩返しをしなくてはならない。人口が減少してきているということは、悪いことばかりではない。国内で自給的に生きてゆこうとすれば、誰にでも可能な条件がそろってきた。例えば住宅でも、今更新たに作らなくとも、今あるものを大切に直してゆけば、充分に暮らせる。私が今住んでいる家は、今から、85年前に出来た家だ。充分に使えるし、たぶんあと50年くらいは何でもないだろう。手入れを続ければ、新しい家など作らずとも、日本人全体が収まるようになってきている。

資本主義的な拡大再生産を辞めることだ。そういう考えは、グローバル企業とそれに頼る政府にしてみたら、危険思想ということになる。しかし、人口が減少し、地方が放棄されてゆく現実を前にして、経済競争だけでは、切り捨てざる得ない地方があることを直視すべきだ。そうした、非効率に一見見える地域によって、総合的に日本という社会が成立してきた。この先、国際競争に敗れ、疲れる、側面が必ず出てくる。その時に、人間が癒され、育つ場所はどこにあるかを考えて置くべきだ。日本の多様で、豊かな自然環境こそ、素晴らしい日本人を作り上げた場所だ。この国土に生きる意味をもう一度見直す時代が来る。稲作を単なる生産技術としてではなく、人間の生き方として見つめ直す時が来る。それくらい、田んぼは奥が深いし、やりがいがある。そして日本人という、協調性があり、きめ細やかで豊かな感性を持った人間を作る場である。人口減少を前向きに考えよう。
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NHK籾井会長辞任要求

2014-04-23 04:03:14 | Peace Cafe


勝沼の桃 10号 今はちょうど桃の季節である。描きに行こうと考えたら雨が降る。今日は行けるかな。






NHK籾井会長辞任要求運動が動き出している。籾井勝人氏のNHK会長辞任を求める受信料支払い凍結運動を起こします。ーーーNHKを監視・激励する視聴者コミュニティ 運営委員会国会に於いての追及はあったのだが、結局は籾井会長は居座り続けているようだ。いままでもNHKの報道が、公共放送として適切ではないことはあった。しかし、今回の籾井会長就任から現在までの動向は、安倍政権の在り方を反映している、公共放送への政治介入だ。NHKに対して圧力をかけて、報道の傾向を変えようという、方針が見え隠れしている。その為の籾井氏の会長就任があったのだろう。籾井氏は安倍政権の意向を、忖度して、就任会見での発言になったに違いない。あの極論を繰り返した、就任会見はNHK圧力の第一歩だった訳だ。職員を震え上がらせようという、意図に基づいていた。理事には、退職願を出させたというから、すべては計算の上行われたことと考えられる。

今回の籾井事件は、秘密保護法とも深く関連した、一連の報道の制限をはかる意図が背景にある。だから、籾井会長一人の問題とは到底言えない重要な問題である。これほど偏った発言をした、籾井会長が罷免出来ないのであれば、今後のNHKの進路変更は、じわじわと浸透して行くに違いない。いままでのNHKが理想的な公共放送であったかと言えば、確かにそうとは言えない、おかしな報道もあった。特に原発事故直後の報道は、不十分で、放射能被曝を広げる結果を生んだ一つの要因である。しかし、万全の公共放送と言うものは、天から与えられるものではない。国民の意識を反映しているのが、公共放送の現実の姿なのだろう。そう言う社会全体のことを含めて、一応の合格点だと考えている。努力を今後も続けていけばという前提である。ところが、そのNHKの良心的な職員の意識を委縮させようというのが、籾井会長の居直り発言である。これは絶対に認める訳にはいかない。もう非常手段をとるしかない状況に至った。

籾井会長が居座る以上、公共放送という意味すら認めるわけにはいかない。国会では、かなりの追及があったと思うが、結局のところ、追及に対して真摯に向き合うことはついになかった。数の力で無視を続けた。発言の場がまずかったが、発言の内容は問題ないということを、繰り返し述べたにすぎない。国会というところの無力さを痛感した。これほど偏った人が、公共放送の会長で構わないとする、否、むしろ自民党の考えを反映した人とする、政府の在り方は、これから先の日本の政治の絶望を感じさせるばかりであった。では、どうしたらいいのだろう。不愉快な思いを続けてきた。良い公共放送になってもらうために何をしたらいいのかである。私は以前、NHKの不祥事に伴う、受信料の返還を要求したことあある。そしてその分を自分なりに計算して、不払いにした。結局はまともな回答もないまま、今でもその分の請求が来る。請求されるのは構わないが、不祥事に伴う処理に関して、視聴者に説明をしないということが許せなかった。

結局は、籾井会長の辞任までの受信料を払わないしかないのか。そう考えていた矢先、そういう運動があることを知った。NHKの現在頑張っている人達のことを思うと、不払いということに大きな問題があるとではあると思う。しかし、ここで籾井会長の罷免が出来ないのであれば、公共放送の将来はないと考えた方がいいのだろう。この意味では、NHKの職員の為の不払いと考えてほしい。あまちゃんも終わって、特に見たい番組がある訳でもないので、まず半年の間は、NHKを見ないことにする。もちろん見る見ないと、不払いが関係ないことは理解しているが、自分なりのけじめである。正確にいえば、不払いでなく半年間の保留である。半年なら、NHKに訴えられないというのがみそである。半年経ったら一応払う、しかし、まだ籾井氏が辞めていないなら、又半年保留する。案外効果のある戦略のような気がする。
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小選挙区制の害悪

2014-04-22 04:04:10 | Peace Cafe


伊豆西海岸 10号 西伊豆にも面白い半島、入江が沢山ある。東海岸と光が逆になる。






小選挙区制は日本の政治風土に合わないものである。選挙制度が変わってから政治家の、能力が下がってきている。新憲法制定の自民党と、護憲勢力の公明党が野合しているのが現状の国政である。憲法は政府や国会に対して、この政治理念で、日本の政治を行うようにと、国民が政府に命じているものである。「平和主義、基本的人権の尊重、国民主権」この3つの柱は、日本が敗戦の悲惨を踏まえて、新しい民主国家を目指して、戦後70年余り歩んできた道である。この政治理念の根幹が食い違っている、自民党と公明党が連立政権を作っている現実は、小選挙区制に原因がある。かつては、小田原の選挙区では、3名の国会議員が出た。河野洋平氏は長くこの選挙区で衆議院議員に選出され、新自由クラブを設立した時代もあれば、自民党の総裁の時代もある。現在、河野談話によって、自民党政権からは批判の矢面に居るともいえる。しかし、河野氏以外にも2名の衆議院議員が選出されていたはずである。

全国で中選挙区に基づいて衆議院選挙が行われ、同じ自民党内でも違う思想の持ち主が、違う派閥に所属して、自民党内に多様な思想の存在が許されていた。ところが、小選挙区制になって以来、自民党の議員は、自民党の社員の様である。それぞれの固有の考えを持って、多様に議論が交わされる傾向は無くなった。所属議員が党の執行部のいいなりの状態なのではないか。現在、牧島かれん氏がこの地区の衆議院議員であるが、そのホームページを時々見るが、独自の思想を表現しているとは、到底思えない。農業政策では「多様な後継者確保のため、足かせとなる税制の見直し。•自然の循環を保つため、治山治水、里山保全を進める。 •農商業連携でブランド化。販路拡大により海外に売り込む。」このように掲げられている。農協の総会にも見えていた。TPP交渉に自分らしい考えを示したことはない。小田原の稲作の今後に対して、考えを表明したこともホームページでは一度もない。

個人のことはともかく、すべての自民党議員が、自民党の社員のようにしか見えなくなってきた。会社の方針の伝達はしているが、政権の思想と違う自分の独自考えを打ち出す力量が落ちている気がしてならない。そういうことを禁じる自民党になってきている表れなのではないか。神奈川17区で自民党の衆議院議員になるためには、自民党の公認を得るということが不可欠であろう。又、公明党の支持は得なくてはならない。こんなまた裂き状態の中で、自分の政治思想を主張するような、意欲のある政治家が現われるとは思えない。無難に党の意向や顔色を見て発言するのが安全なやり方である。それでは、自民党以外の議員がこの選挙区で当選できるかと言えば、公明党次第である。公明党と他の野党が連携すれば、当選の可能性が高い。つまり、小選挙区制では、公明党の議員の単独の当選も可能性がない。こんな膠着した選挙制度が、民主主義を育てるわけがない。何故、政治家がこの現実に反発しないかと言えば、所属議員で十分という範囲の、自己保身には都合がいいからだろう。

マニュアル議員である。党の意向に沿ってうまく発言して行くだけの議員になる。各党の衆議院候補が、本当の議論を有権者に向けて各選挙区で行い。その政策力を向上させることが出来ない。選挙民の中にある多様な考えが反映できない制度は、民主主義の成長の芽を摘んでゆく。政治への関心度がさらに下がってゆくだろう。一部の特殊な人たちの就職先に政治が成ってゆく。マニュアル議員たちは、日本の新しい時代を作り出すことは、避けるに違いない。一部の党執行部とそれに従う大半のマニュアル下部議員。これは、国会議員の公務員化の様なものだ。脱官僚どころか、選挙で官僚を作り出しているような状態。すべては小選挙区制を辞めるところからだ。しかし、小選挙区を既得権とした、自民党と公明党は、これを壊すことはまずしないだろう。議員定数の削減など、問題の根本でないところでの、選挙制度の改革を述べているにすぎない。
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集団的自衛権は戦争への道

2014-04-21 04:26:04 | Peace Cafe


伊豆海岸 10号 どの入江にも集落がある。この集落や畑の様子が自然との景観を産み出し、魅力あるものになっている。






集団的自衛権の解釈を変えることは、アメリカの行う戦争に日本が巻き込まれることに、必ずなる。アメリカの正義がいかに不安定なものであるかは、中東や、イスラエルの関係を見た場合、即座に分かる。アメリカが世界に於いて、相対的に力を失い始めている。中国の台頭は、ソビエトとの冷戦時代以上にアメリカの不安定化を生んでいる。イデオロギーの対立というより、手ごわい経済競争の成り行きである。経済は、両国の競争と協調を背景にして、世界の力関係を変え始めている。この世界の対立に、日本を利用したいというアメリカの考えと、アメリカに依存しながら中国に対抗しようという、日本の考え方もある。平和主義、基本的人権の尊重、国民主権の日本国憲法の、3本の柱は、憲法の改定なくして変えられないものだ。石原氏は対立を先鋭化して、日本国憲法を変えようと考えたのだ。この時代を読めない戦略が、日本を困難な立場に追い込んだ。外圧を作り出し、軍事的不安感を煽る。そして軍隊を持てる国家になる。

日本出身のグローバル企業は世界にその活動を広げている。そうした海外での日本企業の安全の確保も、深刻さが増しているのだろう。日本の防衛能力を越えて、日本発のグローバル企業の活動が広がっている。リスク覚悟で、紛争地域に進出する。これを日本政府は保護しなくてはならないと考えている。はたしてそんなことが出来るのだろうか。又その必要はあるのだろうか。世界の警察のようなことは、日本の能力を越えている。基本的には日本は憲法9条に従い、国際紛争の解決には平和的な手段での対応する、という姿勢を貫くことしかない。日本が、軍事力を持って対応するより、日本がアメリカに加担しない、軍事的な野心を持たない、覇権主義ではないという姿勢を貫くことも、日本出身の企業の安全確保の一つのやり方のはずだ。どういう方法をとったとしても、世界に進出する以上、テロや暴徒のリスクは、必ずあるとして進出企業の責任の範囲で対応してもらうしかない。

それでもどうしても、集団的自衛権を見直すならば、憲法の改定が必要である。軍事力の放棄の意味は、憲法の根幹をなしている。確かに、日本国憲法が空想的な理想主義であるという意見もある。しかし、現実にこの憲法が歯止めになって、日本の再軍備に抑制がかかってきたことも事実である。また、日本が覇権主義に戻らない、平和主義の国としての宣言をすることによって、侵略によって迷惑をかけた国々に対し、謝罪と安心を得て来たのだ。平和主義を取り除くということになれば、近隣諸国は又日本が軍事的野心の国になるのではないかと、不安による対抗心を高めるのは、当然のことである。だから、今東アジアで起きている軍事的な対立の影は、日本に主たる原因がある。本来であれば、北朝鮮の核武装が一番の深刻事態であるにもかかわらず、6カ国会議すら開けない状況にいったっている。この困難な国際情勢の中で、憲法改定の議論なく、内閣や法制局の判断だけで、憲法の根幹の解釈を変更するということは、あってはならないことである。

軍事力を持って、日本を守るべきだという意見も当然ある。しかし、憲法の解釈論の変更の範囲で、集団的自衛を理由に、武力主義に代われば、すぐにでも戦争に参加することになる。日本の平和外交戦略に主体性がなくなる。平和外交という道は、実際には行われたことがない。政府がその努力をしていない、あるいはそんな道はないと居直っている。まず、憲法に従い、平和的な努力というものがどういうものか、徹底して進めてみることだ。国際災害救助隊の設立など是非やってもらいたい。どの方法にも、完全ということなどあり得ない。平和主義は、空想にすぎないと決めつけているのは、憲法を無視していることになる。国連も全く機能しない。それなら、中国韓国といかに仲良くするかを考えてみるのも、一つの、国家の安全確保ではないだろうか。尖閣、竹島、北方領土。本当の国益を考えて、共通に国際司法裁判所にゆだねたらどうだろうか。
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苗床始まる。

2014-04-20 04:43:44 | 稲作


春の花 6号 時々花を描いてみる。わざわざ花瓶に入れて描いてみるというのも、おかしなことだが、何かそういう気分になることがある。




19日苗床にセルトレーが置かれた。その後冷たい雨が降り続き、12度である。早く天気が回復するといいのだが。



今年の苗床が始まった。舟原田んぼでは、13日に種まきだった。欠ノ上田んぼ,坊所田んぼでは19日に種まきが行われた。今日20日は、新永塚田んぼの種まきである。春分の日に籾洗いを行い、1ヶ月川に浸けてあった種籾である。水温は12度くらいまでで、昨年より2度も低かった。低かったので、発芽は安心していたのだが、何ともち米だけ発芽を始めていた。もち米というのは低温で発芽するものなのだろうか。もち米を作った経験が少ないので、キジュモチという品種の性格が良く分らない。昨年はソラヤさんから分けていただいた種もみを使い、今年は農協から購入した種もみである。来年自分達の種籾でやってみたい。うるち米はサトジマンでずいぶん長くなる自家採種である。15キロの種もみが必要だった。いずれにしても、もち米の田んぼは湧水が常に湧いてくる条件の特殊な田んぼということもあって、いもち病が出た。そこで種もみを変えることになった。品種も変えるという考えもあったが、食べてとても美味しかったので、もう一度作ってみたいということである。

種籾はセルトレーに播く。5葉期の分げつの始まった苗が目標である。6月1日が田植えの予定で、6週間の育苗である。19日には、280枚のセルトレーに播いた。48枚が、子ノ神分。30枚がもち米、欠ノ上分が200枚。それと予備を兼ねて、普通の苗箱での実験が10枚。これは20日に行う。9時から開始して3時にやっとすべての作業が終わった。20名は参加して、手早く熱心に行った。来年は8時初めにしないと無理かもしれない。準備では種もみに、泥がこびりついていて、やりづらかった。前日に良く洗って、干しておくべきだった。何故か芽が出てしまう不安が強くて、当日の朝まで水に浸けておいた。それでも良く洗えば良かったのだが、泥がかなり残った状態で種まきをやってしまった。準備が悪かった点を反省しなければならない。舟原の種もみが、発芽してしまっていたのを見て、不安に成ったことがそもそもである。準備が悪かったのは申し訳なかったのだが、メンバーが集中して、乗り切ってくれた。

それにしても、今朝も寒い。冬のような日の種まきであった。小雨も時々降るという状態だったので、作業は少しきつかったが、種籾にはいい状態だったと思う。水没の危険が高いので、しばらくは水は止めて置く、発芽が終わるまでは、水やり程度にしておく。1週間経って発芽が始まれば、徐々に水を入れてゆくことにする。苗代の土の状態は、17日に代かきをして、水を止めて置いた。19日の午後苗箱を並べるのにちょうど良い状態であった。一部平らでない為に、水が溜まり、土が緩いところがあった。田んぼを平らにするということがあるのだが、なかなか直らないものだ。セルトレーを並べた後、コンパネを載せて、高いところは大勢で乗って抑え込んだ。低いところは揺さぶりながら、土と密着させた。この点では、代かきを丁寧にやったので、かなり良い状態が出来たのではないだろうか。ともかく土が良くなっていることを痛感する。良い粘土分が毎年畜先されてきている。土の粘りが強く、細かくなっている。

今年は機械小屋に、トイレが設置されたので、皆さん結構利用されていた。きれいなトイレなので、みんなが喜んで使ってくれている。子供たちには、ああいうトイレの経験はないだろう。水洗トイレだけでは、トイレの実態が見えない。子どもたちは穴を覗き込んで、カエルを見つけた。堆肥を入れているので、匂いもなくとても良い状態である。額田さんからもらった、骨董のような便器も評判がいい。午後は、坊所田んぼも始めたので、子供を入れると40名を越える人が出入りをしていた。それだけ大勢の人が集まり作業が何とかできる場所があるというのも、幸運である。今日初めて見えた方も何人かいた。こうやって、少しづつ、農の会の自給活動が、充実してきているのが嬉しい。しかも、どの田んぼもそれぞれに、独自に動いている。苗の作り方もそれぞれである。これから6週間苗床の管理を真剣に行い、間違いなくしなければならない。
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入学式に親が行く

2014-04-20 04:21:37 | 身辺雑記
入学式の当日学校の担任の教師が、有給休暇を取って、自分の子供の入学式に出たという。それが許されることなのかどうか、話題になっている。どうも話題の方向がおかしい。子供の入学式に親が出ることが、正しいかどうかを議論すべきだ。学校というのは、子供にとって独立した社会だ。子供の成長の場だ。義務教育期間を終えれば、入学式に親が行くのは、良いことには思えない。入学式に行きたいと考えるのは、親の気持ちの問題にすぎない。ここは我慢した方がいい。親が入学式に出たいから便乗して行くのだろう。学校の教師なら、入学式がどういう日かぐらい十分知っているはずだから、子供の問題ではない。今の学校は、様々な問題を抱えている。社会の矛盾が学校に集約されてゆく。社会はより、格差的な状況に進んでいる。階層社会。貧困の問題。学校と社会がどう関係するべきか。親と学校のかかわりを、きちっと見直すべきだ。どうも形式論議になっている。

私の親が入学式についてきたのは、小学生の時だけである。当たり前のことだと思っていた。中学生になって、親が入学式にいなければならない理由などない。この点私の親は、意思が強かったと思う。大学にまで親が付いてくる時代というのは、どういうことになっているのだろう。バカバカしいというか、恥ずかしいというか、全く私の学校という感覚とかけ離れている。学校に行くというのは、子供個人の問題である。高校に行くのも、私の人生である。親がどうとか、全く関係がない。入学式についてまで行くから、子供にしてみれば、人の為に学校に行ってやってるというようなことになる。この点、世の中ずいぶん変わってきている訳だが、親子の関係については、ちょっとびっくりする位変わった。私の親が特殊だったとは思わないが、子供の学校という世界に顔を出すばあい、一定の親の節度が必要なんではないか。学校というのは、むき出しの子供という人間が、人生で初めて生き抜いて行く場面である。のこのこ親が顔を出したのでは、子供の沽券にかかわる。

何があろうと、そこでは自ら戦いぬくしかない場所なのだから、覚悟しろという感じなのではないか。大げさでなく、ごく当たり前に子どもの世間は、そういう感じだった。小学校の入学式と言えば、桜である。桜の華吹雪が、今でも思い出される。あの幸せ感が、すべての始まりだった訳だ。あのときに、嬉しさにあふれたことが、その後ずーと頑張れたもとだったと思う。おじいさんがランドセルを買ってくれた。一番に良いランドセルを買ってほしいとおじいさんに頼んだ。何故そんなことを頼んだのか分らないが、私が色々とひがんでいるのではないかと、心配していたところのあるお祖父さんは、あえてランドセルを買ってくれたのだと思う。伊達正人的な感じがあったのかもしれない。おばさんは小学校に行く、制服というものを作ってくれた。そんなものを着ている子供というのは、全くいなかったのだが、私のお婆さんという人は、小学校の制服を大正時代に普及活動をしていた人だったらしい。なにしろ私の父が、モデルになって、あちこちの小学校を歩いたという話を聞いたことがある。

昨年、一昨年と小田原の中学校では、相次いで学校崩壊のような事態が起きた。そのことに対して、具体的な対策がとられた訳ではない。また何が起こるか分らない状況があるはずだ。回覧板でも、学校からの便りが2通あった。地域と学校という関係も、色々模索されているらしいとは思われるが、地域一体教育を目指すとある。3つの心、ーー「温かい心」「広い心」「燃える心」3つの力ーー「関わる力」「学ぶ力」「創る力」と示されている。白山中学からは、また学校としての目標がこれとは別に示されている。教育委員会と、現場の中学とは目標に連携はないようだ。さらに、小田原市子ども会連絡協議会というところからも便りが回覧されている。それは様々な組織が子供に対して、熱心な活動があるかに見える。もう少し、具体的な対応が必要なのではないだろうか。路上生活者への襲撃問題でも、具体的に何をするかである。そうした直接の問題を通して、具体的に子供と、学校と、地域が問題を共有して行くことではないだろうか。
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第4の矢

2014-04-19 04:07:13 | Peace Cafe


妙高岳 雪 10号 始めて雪が来るころの、妙高岳は自然の実相がむき出しになるような感じだ。正面に小さな集落があるのだが、その姿が人間のむき出しの姿を感じさせる。





もう誰も安倍政権の第3の矢が今後放たれる、など信じてはいないだろう。あれは、がんばろう節のようなものだった。新しい産業の提案など、何も出てこないまま、アベノミックスは終わろうとしている。多くの人がアベノミックスの先行き不安を感じてはいたのだが、一年経過して、新しい方角は、何も出すことが出来ないままだ。第3の矢がどこかで準備されているのかもしれないという、期待感はあったので、株価などムードで上がった。ところが安倍政権は第3の矢の準備もないまま、ここまで来てしまった原因を明確にしようともしない。何故、第3の矢がないのか、何が予定外だったのかを反省することからだ。経済は、極めて具体的なものだから、精神論は全く通用する訳がない。今のところ、原因を原発の再稼働が出来ないということに、あげつらっている。エネルギーコストだ。本当は原発を再稼働したところで、経済が良くなる訳はない。当たり前のことだ。しかし、そこに原因を押し付けておけば、何もしないでいるいい訳には成る。

安倍政権は既得権の側に立っている。古い自民党の構造を前面に出している。前向きな新鮮な発想というものが、全く感じられない政権に成った。既得権を順繰りになでさすっているだけのことだ。既得権を壊すようなことは、絶対にやらないという信念のようなものすら感じる。だから、第3の矢が新しい経済政策とされてきた以上、既得権に触れるに違いないのだから、一切の新しいことは、避けねばならないと、実は考えているようだ。大企業の給与は上がったかもしれないが、その分国民の経済格差が出来たにすぎない。靖国神社にあれほど行きたがる理由は、過去に執着しているからだ。その意味でも、新国立戦没者墓苑など、とんでもないことになる。ともかく昔からあるものを、後生大事にしていこうという以外、考えが見えないのだ。本当の所は、始めから第3の矢など全くどこにもなかったということが、ばれてしまった状況。

この際、第4の矢ではないだろうか。第4の矢は日本の確実な実力に戻るということだ。相手を倒して、勝ち取ろうということではない。国際競争に勝つ為ということを理由にしない政策だ。原発を理由にしない、日本の展望である。原発が何の理由にもならないことを認めた上での話だ。宙ぶらりんの原発が再稼動出来ればという、都合のよいいい訳は無駄だ。安倍政権には第3の矢すら、準備できなかったのだから、日本の為には、政権を降りることだ。グローバル企業とは関係のない、日本という国家の本当の実力に戻ることだ。日本人が普通に生きて行ければいいというところに戻ることだ。そして、国民を無意味な競争に駆り立てないことだ。競争の揚句は、戦争への道である。安倍政権の方針で進めば、戦争の道が待っているだけだ。既得権益だけに目が行っているということは、必ずそういう対立に進んでしまう。自然エネルギーを産業にする。このこと以外に日本が成長する道はない。原発事故という試練を体験して、日本人には、むしろそのチャンスがあるのだ。

自民党のエネルギー基本計画は、まさに既得権の死守の姿だ。原子力村を再建し、電力会社を温存し、利権を復活しようということに過ぎない。こんなやり方では、日本はじり貧になる。この機会に古い、既得権をぶち壊し、しがらみを捨て、未来を見据えてエネルギー政策を根本から変えなければならない。既得権にこだわっているのでは、それこそ世界の潮流から置き去りにされる。原発事故ということを、教訓として生かすことだ。そして、かなりの犠牲を払っても、次の時代のエネルギー戦略に移行することだ。時間がかかるとしても、今は我慢して次への実力を蓄える時ではないか。過去にこだわっていてはだめだ。今自民党のやろうとしていることは、滅びのみちだ。破れかぶれの、既得権依存だ。古い体質の勢力が幅を利かし始め、政治を支配し始めている。捕鯨協会と政治の関係を見ればよく分る。諦めるわけにはいかないのだが、ますます、息苦しさが続きそうだ。
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富裕層85人で35億人分の資産

2014-04-18 04:01:08 | Peace Cafe


根府川の海 10号 春の海である。ある日海の色は変わる。春の色になる。





世界の富は、富裕者85人で35億人分の資産になる。という記事が目に着く。こういう計算を、どうやってやるのかよく分らないが、要するに富が偏在しているということなのだろう。世界の経済格差がいよいよ拡大しているということだけは、異論はないだろう。これは、ローマ帝国であれ、大英帝国であれ、ここまで富の集中はなかったはずだ。しかも、この経済競争に乗り遅れまいと、日本も今あがいているところである。競争に勝てば少しは楽になるのだろうということで、無駄に鞭打たれている感がある。世界の競争は、平等に見えるが極めて不平等なものだ。85人に入ってしまっているものと、35億の方に入れられたものが、競走など出来る訳もない。経済競争は、強者の論理なのだ。能力主義というものが、正義の一つになっているが、これはまやかしなのだ。子供の学力が親の経済格差に比例するという、分析結果も最近出ていたが、貧しい原因を努力不足という、個人の問題にしてしまう。本当は、どれほど頑張ったところで、貧しいものは、あくまで貧しいという世界なのだ。

頑張れば、そこそこまで豊かになる。これは事実であろう。中国が最貧国を脱し、普通の国家になってきた。これは素晴らしいことだ。中国人全体でいえば、平均的な国民経済はずいぶんよくなったはずだ。と同時に、恐ろしいほどの経済格差が国内に生じた。経済格差が生じるような、社会であるから、経済競争が起こり、世界の競争に勝ち抜けるということがある。そういう競争心が、社会的に活力を生み、すさましいカオスの渦巻の中で、やり抜いたものが勝利者になる。だから、すべての人間にチャンスはあるのだから、この競争は正義の競争だという理屈である。しかし、これが全くの幻影であり、実は、勝者の作ったごまかしの平等なのだ。資源のある国と、資源のない国では、そもそも条件が違う。気候もちがえば、人口もちがう。経済的蓄積もちがう。国家間の競争というものは、すでに置かれた条件という結論が出ている。

TPP交渉に於いて、国家間の交易のルールの壁が取り除かれれば、地域間格差は、さらに大きくなるだろう。確かに加盟国全体でみれば、交易の量が増えて、総合的な経済は活性化されるはずだ。と同時に強者はより強者に成り、弱者は切り捨てられてゆく。そういう社会を望む一番の存在は、グルーバル企業である。自動車会社にとっては、悪い訳のない話である。しかし、自動車会社が良くなることで、日本の経済が良くなるとは限らないという結果が、最近の経済にはあらわてきている。日本国内の経済を考えてみても、地方と、都市の間では、平等の競争が行われている訳ではない。地方が教育を担当し、老後を引き受け、その果実を都会がとるということがいわれる。過疎地域は人間が住まなくなり始めている。こうして、全体でいえば、社会がアンバランス化し始めている。これと同じことが、国家間でも起こるということだ。そういう社会に人間は耐えられるのだろうか。

このまま行けば、日本も韓国のような社会になると考えなくてはならない。日本国内にも外国人を排斥しようという、人種差別論が蔓延し始めている。恥ずかしい傾向である。これは、日本が格差社会になってきた一つの兆候である。人間的な余裕が失われてきている。明治時代に鼓舞された、国粋主義の傾向と似ている。競争心を煽り、自分達だけを尊いとする思想。富の偏在、そして、富への執着。これは文化的価値を見失った結果だ。それぞれが本当に幸せに暮らすということを見失っている。経済以外の価値を見いだせない地代。江戸時代にあった日本的な安定継続の生き方。これをもう一度、封建的でなく取り出してみる必要がある。生きて行けるなら、後何が必要なのか。充実して生きるということはどういうことなのか。このまま日本人が国際競争に翻弄されてゆけば、人類の生き延びる価値観を見失うことになるだろう。
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調査捕鯨のまやかし

2014-04-17 04:21:30 | Peace Cafe


牛窓 10号 





日本捕鯨協会というものがあり、調査捕鯨の正統性をホームページで主張している。何でも主張するのは構わないとはいえ、国際司法裁判所で判決が出て、それに従うと政府が宣言した以上、いつまでも見苦しいことはやめた方がいい。世界の常識に従うことが、日本の国益に沿っている。林農林大臣が、思わず口にしたように、クジラは日本人の食料という意識がまだある。調査捕鯨と言いながら、実は日本人の食料を捕っているという、まやかし行為が良くないのだ。捕鯨協会によると、科学的な調査の為には、クジラを殺す以外にないと強調している。しかし、捕鯨協会はどれだけ、生きたまま行う調査をやってきたのだろうか。やりきれないほど、生きたままの追跡調査をして、やむ得ず殺しているのかということではない。殺さない調査はほとんどやりもしないで、殺す以外にない調査の必要性だけを、強調している。誰が考えても、調査の名を借りた、商業捕鯨だ。この論理を読んでいると、北朝鮮を思い出す。

このことは、実は稲作にも言えることだ。稲作はまさに、既得権の哀れな結果である。減反やら、転作やら、あらゆる保護政策を行い、産業としての力を失った。稲作をまともな生産に戻すためには、調査稲作などという、ごまかしではだめだ。産業として日本国内で、どこまで合理的な稲作が可能か、徹底してやるべきだ。私の計算では、北海道や一部東北地方なら、国際価格の2倍くらいの生産コストには、可能かと思う。2倍なら、日本産を食べようとい人もいるだろう。徹底した経済合理性の中で、稲作の洗練をやり尽くした上で、どう考えても成り立たないが、残す必要がある稲作があるのかを考えるべきだ。日本全体を考えたときに、地方の社会いうものは必要に思える。人間が育ち、老後を過ごす地域。若い時に働く地域というのもある。全体がうまく機能して、日本という国全体が豊かな国になるはずだ。その日本の活力を再生産するような地域として、地方社会が存在するのではないだろうか。

調査捕鯨は、林大臣の主張の通り、日本人の食料確保の歴史なのだ。今回南極海の調査捕鯨は禁止になった。そして残りの北西太平洋の捕鯨をどうするかである。やるなら、調査などというインチキの主張をせず、食糧確保の為と言ってやるべきだ。当然費用的にも、国の補助金など一切なしでやるべきだ。何故、捕鯨反対かと言えば、既得権を死守しようという流れに未来はないからだ。原発の既得権益思い出す。既得権にしがみつく生き方では、日本の未来がないからである。捕鯨にかかわる一部の既得権者の利益を守るために、日本という国全体のイメージが損なわれる。ずるがしこい国だの印象を広げている。調査と言い張りながら、上手く食料をかすめ取る国、というイメージが補強される。誰だって、他所の国の要領よいやり方は、不愉快になるのだ。調査捕鯨という言葉にある詐欺行為が問題なのだ。調査の為に税金の支出が行われている。しかも、石巻の復興予算が流用されたことまである。すべては既得権の死守なのだ。

確かに捕鯨をやめれば、失業者も出るだろう。どんな産業でも同じことだ。その対策はしなくてはならないが、鯨研は年間50億円程度の予算を組んで調査捕鯨を行ってきたが、これまで毎年受けてきた7億円~10億円程度の国庫補助金に加えて、2012年度からは約45億円(鯨類捕獲調査改革推進集中プロジェクト)という多額の補助金を追加で受けることで事業を維持している。そもそもクジラ肉の需要が減ってきているのだ。食べるものが不足した戦後ならともかく、クジラ肉など上手いものではない。調査捕鯨で捕ったクジラ肉がだぶついてきているのだ。調査捕鯨がなくなり、商業捕鯨が再開できるかと言えば、もう不可能な状態にまで来ている。国際司法裁判所の判断に従い、一切の捕鯨を辞める時だ。それが日本の国益である。どうしても食べたいのであれば、日本近海の捕鯨の範囲である。補助金をそこに使えば、わざわざ遠くまで行くより、はるかに効率的だ。
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