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韓国釜山市では、生ゴミを燃やさない。

2007-06-30 06:01:49 | 環境関連
韓国釜山市では埋め立てや焼却をやめてメタンガスの回収や飼料化や堆肥化を促進しています。釜山市の人口365万人から発生する、1日あたり856トンの内786トンを資源化しているそうです。岡山大学の田中勝氏の報告が日経エコロミーに掲載さえていた。生ゴミと下水汚泥とを混合して、そこからメタンガスを回収する方法のようだ。日本では、小田原とその周辺の30万人のゴミ処理が、焼却以外考えられなくなっている。プサン市の実態は見てきたわけではない(どうも総量が少ない。)ので、正否は何とも言えないが、韓国人のバイタリティーを感じる。一方日本人の挑戦意欲の衰退を感じた。小田原市の市長答弁が、「ゴミ処理のような迷惑施設の問題に、市民を参加させる訳には行かない。」この後ろ向きな、市民に対する認識は、いかにも国の命令に従っておけばいい。特出した事は避けた方が無難だ。こんな、弱い精神を感じてしまう。

徳島の上勝町で、ごみ焼却をやめた。回収もやめた。やっている自治体もあるんだ。こう話すと、必ず小さい所ならできる。と言う事になってしまう。大きい所なら、大きいなりに方法はあるはず、とは考えない。行政の人は体質的に冒険は考えない。目立つようなことはなるたけ避けようとする。無難に、無難に、やろうとする。当然の事だ。だからこそ、市民がゴミ処理に積極的にかかわって、新しい試みに挑戦すべきなのだ。このことを市長が行政の人と同じ、無難な姿勢になっているところに、小田原の不幸がある。城下町ホールでは随分斬新な、設計を選択したのに、ゴミでは県の言いなりのようだ。

「ゴミを減量する」いずれの方法を選択するにしても、これが目標だ。どうすればゴミは減るのか。これを常に念頭において、考えなくてはならない。私は、13年間ゴミ回収がないところで、暮した。年に一度、ケイトラでどうしても処理できないゴミを、山北のゴミ処理センターに運んだ。これも止めたいと考えていたが、自分で燃やしては良くないゴミが、どうしても貯まった。たぶん一年間で、家族4人が、100キロ程度のゴミで済んでいた。もちろんゴミを出さない暮らしをしようという、考えもあったので、ゴミになるものは持ち込まないと言う事が、前提だ。最近スーパーで見たのだが、私より少し上の紳士が、食品を全て包装を剥がし、自分の容器に移しているのだ。つい見入ってしまった。全てのゴミを捨てて、帰って行かれた。

県の広域ゴミ処理の基本方針は、溶融炉の導入だ。24時間の連続炉で、高温処理して行く。焼却灰もスラグの形になり、体積的にはすごい減量に成る。しかし、この弱点は、ゴミの量が安定的になければ成り立たないという事だ。しかも、高温で燃やす為に、プラスティックゴミは歓迎となる。分別も何もなくなるのだ。間違いなく、ごみ量は増加する。しかもこの方法には、不安定な化学物質の生成が懸念されている。市長や助役は、市民をまるで愚民のように発言したが、市民の中には行政職員より、ゴミ処理法に詳しい人が何人か、存在することを知っている。365万都市プサン市で生ゴミをバイオマスで処理しようと進められている。新たな挑戦意欲さえあれば、小田原が取り組める事はいくらでもある。長井市と言ってもどんな町かも知らないが、そこで行われているレインボープランの事は、多くの人が知る所だ。小田原市が、意欲を持って、ゴミの減量できるゴミ処理に挑戦することを、願っている。
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ふるさと納税

2007-06-29 05:28:52 | 地域
ふるさと納税が、参議院選挙前の話題化している。どんなものかと少し調べてみると、なるほど、これは安倍政権そのものだと思えてきた。一見思いやり的で、地方格差是正が旗印に出来て、弱い物の味方のような振りも出来る。ところが、これが単なる精神論にすぎない事は、税に詳しくない人間でもすぐにでも分かる。これが出来ると、1兆2千万憶円が地方に移行する可能性がある。と言ってもふるさとのある全員が、希望した場合だそうだ。私などはどこをふるさとにすればいいのか。東京で育った人が、今沖縄に居る場合などはどうなるのだろう。経費がかかる割りに、効果はないと言う試算が出ていた。やり方がいかにも表面的なのだ。地方の独立性を持たせ、財源を地方に移管する。こういう方向で行くと、繰り返し発言しているのだから、その通りやれば良いだけの事。それをやらないで置きたい。あるいはやりたくても簡単には出来ない。そこでしょうがないから、やるそぶりだけは見せておこうと言う政策だ。

一方、地方交付税を削減すると財務省は力説している。地方の独自の権限を与えると同時に、財政的にも独立しろと言う考えだ。競争原理を地方行政にも持たせようと言う、考え方だ。それで駄目なところは、夕張市のようにしろ。こういう考えだ。つまり地方の行政が、信用ならないのだ。訳のわからない、要らない箱物を作っては、その運営経費に音を上げているのだ。こんな馬鹿なことをさせては置けない。と言うのが、財務省の官僚の考え方だろう。地方地方で自分の力量を考えろ、と言う事だろう。確かに、財務所の言うとおりだ。ところが、この競争原理的考えだけで行けば、弱者はいよいよ弱者として、放棄されることになる。資本主義的な能力主義が格差社会を作り出す。これが、見え見えになったのでは、参議院選挙が危ない。

安倍氏持論の憲法改定論も、極めて似ている。再チャレンジ論も同根だ。競争原理で、行こうじゃないか。平等の競争なら、結果差が開いても仕方がないじゃないか。こう言っている。結果強いものは、強く。弱いものは更に弱くなる。日本の憲法は、軍事競争を否定しているのだ。全ての国際紛争を、非暴力的に解決する事を、日本人は希求している、事になっている。再チャレンジの機会があるのは、確かに大切だ。しかし、私が何度挑戦しても、朝青龍に勝てるわけがない。そんなことは、誰もが実は認識している。地方の山村で、農業に従事しているものが、挑戦権はあるとしても、商品経済の競争に勝てるわけはないのだ。持っている条件が違う。

たまたま山村でも、沢蟹の養殖で成功する人は居るかもしれない。特殊解を持ち出し、そういう人も居るのだから、平等の競争だと力説する。特殊解はどこまで行っても一般解にならない。政治は一般解を求めるものだ。実は安倍氏のふるさと納税は、地方から極めて遠い感性だ。毎日、1つの集落が消えている。消える集落すらなくなるらしい。この事態を解決するには、都会生活者の思いやりなどではなく、きちっと税制を変えるしかない。食料は世界の平等の競争など持ち込んでは成らない。その上で、食糧の自給が日本に必要なことを認める。山村の存在が、日本の環境保全に、暮らしの見直しに必要な事を認識し、その維持を政府の責任で行う。実は安倍政権は地方の事など、眼中にない。ふるさと納税と呼ばれるまやかしは、単純に参議院選挙対策のアドバルーンだ。
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食品表示110番

2007-06-28 06:50:50 | Peace Cafe
ミートホープの事件で、初めて知ったのが、農水省にある食品表示110番という存在。これは消費・安全局表示企画課というところが管轄しているようだ。ここに毎月1000件を越える情報が寄せられる。その内容の事例も載せられているが、これが又、「どこそのスーパーのお米を買ったが、魚沼産のコシヒカリ新米と書いてあったが、食べて見たら、まずくてどう考えても古米のようだ。」と言うような苦情ではない。「大豆のイソフラボンの含有量も表示して欲しい。とか、高齢者にも分かるように、表示の文字を大きくして欲しい。とか、牛肉を含んだ食品には、原料現産地表示を義務付けるべきだ。」こんな感じのようだ。じつはこれが、ミートホープの内部告発が寄せられた頃の、1447件の内の事例。この内部告発は、帳簿と思わしき記録まで、つけて送られているのだ。もしかしたら、最後の牛肉の話に要約したのかな。

驚いたのは、こんな話が毎月1000件を越えて寄せられて居ると言う事。事例として当たり障りのないものが、ズラーと並べてある。この感覚がお役所仕事。事例として、おもしろくもおかしくもないものを、嫌味のようにわざわざ並べてある感覚がすごい。具体的な内部告発が載せられないのは当たり前にしても、当たり障りのない事例などわざわざいらない。110番と緊急性をうたいながら。いかに、ここは現実を持ち込むところではなく、観念論の部署ですからと、逃げを打っているように読める。こんな所に話を持ち込まれても何も解決は無理ですから。そんな風に読める。しかし、すごい。1000件も越えて、あれこれ農水に問題を提起している人が居る。そういえば、鳥インフルエンザの事で、電話をしたのはここだ。

肝心の時に全く役に立たなかった、110番だが。鳥インフルエンザの時には、聞くだけで、何か答える部署ではありません。と言う感じだった。厚生省が、危険をさかんに訴え、農水省はうろたえるだけで、きちっとした方針がなかった。私のように放し飼いをしているものに対し、放牧地も野鳥やネズミが入れないように網を張って下さい。それだけを繰り返していた。そんなことは出来るわけがない。ウインドレスの鶏舎でも、ネズミも野鳥も、どんどん入っているのが普通だ。建前として、農水省は入れないでくださいと言ってきた。後の事を聞かれても困るのだ。そんな空気が見え見えだった。厚生省のタミフル備蓄政策の、情報戦略に押し切られているのだ。

ミートホープ事件が食品表示事件だったことが、驚き。田中社長が20代の頃から、馬肉に牛脂を使って、牛カルビにする技術を持っていたという話があった。つまり、田中社長が特別という訳じゃない。食品業界は今、躍起になって、田中社長の特殊性を強調している。農水も110番に寄せられた情報の見直しをするとか。どう調整されても、何も変わらない。食べ物は自己管理するものだ。それぐらい食べ物にまつわる、恐ろしい話があるのだ。証拠があるわけではないし、情報源が問題ありだが、さも有りなんという厭な話は、山ほど聞いてきた。氷山の一角。表示110番など、お笑い種。お役所が、自分の身体を何とかしてくれる訳がない。食べちゃまずいような物が、幾らでも出回っている。馬肉牛カルビなら、どうでもいいが、それらしくする為に、使うワザのほうには恐い薬の使用があるかも知れない。
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迷走飛行

2007-06-27 05:13:36 | Peace Cafe
日本の社会が迷走飛行を続けている。ソフトランディング地点を模索して、速度を落とそうと考える人も居る。もう一度出力を上げて、さらに飛び続けようと主張する人もいる。一番困るのは、今の状況を、迷走状態であることに気付かない人だろう。システムのほうはこのままにしておいて、対応の方で何とかしようと、考える人だ。出力を上げるには、エンジンを変えなければならないし、速度を落とすとすれば、人間の対応能力を上げなければ成らない。何かを根本的に変えることは避けて、手直しで済まそうとする。これでは、問題を先送りしているうちに、ついに墜落と言う事になる。エンジンを変えようと考える人は、例えば、原子力エネルギーを利用しようとする。少々問題や危険があっても、新しい方法に切り替えて乗り切る方法を考える。私のように、早く、燃料を捨てて、軟着陸態勢に入るしかない、と考える者は、人間の性能の向上の方に、簡単に言えば、冷房機がなくても暮せるようにしようと考える。

人間は本性として、楽な方へ、楽な方へと傾いてゆくものだ。寒ければ、火が欲しい。我慢は出来るだけしないようにしてきた。その一番に姿が、アメリカの姿だ。石油文明だ。随分と私も恩恵を受けている。感謝しなければならない、しかし、その分随分堕落もさせられた。その堕落を立て直す為に辛い思いもした。その対極にあるのが、日本の江戸時代の姿だ。省力、辛抱の世界だ。確かに、これはこれで辛い。今更そんなことが出来るか、人間の本性として、当然の気持ちだ。苦労に戻る事は難しい。しかし、どうも人の幸せ観と言うものを考えると、そう言い切れるものでもない。この辺が難しい。お米を作ることは、大変な労力だ。熱い時の草取りなど、やれるものではない。売るほど作れば、そう言う事だけになる。でも自分の食べる分ぐらいだと、なんとか、楽しい運動ぐらいの範囲に収まる。

日本政府は温暖化対策で、大見得を切ったらしい。日本の省エネ技術を世界に提供してゆく、などと甘利経済産業大臣は自画自賛している。それでは、日本に先進的な、根本解決できるような、省エネルギー技術が存在していると考えているのか、是非聞かせてもらいたい。問題は、中国とアメリカだ。この2国のCO2排出に対し、どのようなに削減できる、省エネ技術が存在すると考えているのだろう。例えば、ハイブリット日本車の技術だろうか。それが世界中に普及して、排出量が2分の1に成るとする。そのころには間違いなく車の数は今の倍以上になっている。問題の根本は、車と言う交通手段の方にある。更に言えば、車を多用しなければ暮せないような暮らしの方にある。と私には思えるのだ。

先ず、自分が食べる物を、自分の手で作って見る事だ。思いの外、簡単にできるはずだ。日本は恵まれている。幾らでもいい水がある。そのお陰で、たいした苦労なく、食料の自給自足が可能だ。一日2時間の労働で、自分の食べる物はすべて確保できる。そこが出発だと思う。そうなると、後の時間は食べる為以外に使えるじゃないか。矛盾したことはしないで済む。厭な事もしないで済む。その時に不時着地点が見えてくる。と思っている。アメリカ的な石油消費社会が、世界モデルとして、進められてきたが、それがいかに馬鹿げたことであるかも、気付くことになる。クールビズとかいって、冷房温度を下げるそうだが、冷房などなくても暮せる事を、思い出して欲しい。
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すごい肉屋がいたのだ。

2007-06-26 05:31:21 | 身辺雑記
北海道苫小牧に驚くべき肉屋がいた。ミートホープ、肉屋の希望の星のつもりだったのかな。食べ物を、特に畜産にかかわるものとして、これはさすがに参った。居直って、「安いものばかり求める消費者が悪い。」こう発言したようだ。まぁーその通りだけど。ミートホープのひき肉は混ざりものがあるという噂は、業界ではあったらしい。実は私もここではないが、ひき肉はあれこれ混ざっていて普通だ。と言う話を肉の業界の人から聞いたことはある。私が聞くぐらいだから、ひき肉を使っている業者が、だまされていた訳ではないと思う。承知の上と言うか。そんなもんだと思っていたのでしょう。そんなモンで済ましていたと言うのも、すごい。生協もそう。肉は家の鶏肉を食べるぐらいで、めったに食べないけど、特にひき肉は食べない。何でも混ざっていると、子供の頃から、そう考えている。ネズミやら、なにやら恐い物も入っているかもしれない。かも知れないものを、平気で食べる必要はない。

食べ物は自己責任。食べた者が悪い。安い肉なんて、相当に危ない。田中社長と同意見だ。ともかくこの社長混ぜ方は半端じゃない。何せ、文部科学大臣表彰創意工夫功労賞受賞している。牛に見せる為の工夫がすごい。悪いことしようという技術は、さすが深まる。どうも羊、鶏、鴨、豚、内臓とか、皮。チャーシュウくず、と言うのもあったが、これをどうやって牛肉にしたらいいかの工夫など、たぶん徹夜でやったと思う。一人でやっただろうな。おもしろくて、止められなくなったんじゃないかな。それで、出入りの業者に今度のひき肉はどうだい。何て試して見たかもしれない。それでいけそうなら、ラインに乗せたんだろうな。肉色を赤く牛ぽっくするのに、血液も使ったらしいから、大丈夫かな。古い肉をごまかす技なども色々あるに違いない。硬い鶏肉を柔らかくする技術など、幾らでも思いつくだろうな。ああ・・・もったいない。

様々な肉を混ぜこぜにしてしまう機械がすごいらしい。我が家でも、鶏のミンチをやるのだけれど、そう簡単じゃない。肉の中にある繊維が、邪魔をする。これをいちいち取ってと言うのは容易じゃないし、すりつぶしてしまうと、食感が悪い。この辺を上手く処理するのにどうも、鶏皮を入れるんじゃないかな。中国の鴨肉がインフルエンザで、キロ30円になったのを、牛ミンチにした時は、この会社すごい利益が出たらしい。そのお金で大臣賞も戴いた、ということじゃないだろうな。肉の硬さや、食感を変える薬もあるらしい。これも業界では常識らしいが、使っちゃいけない薬らしい。種鶏を、ひな鳥にごまかして売る時には、必要な技だ。牛100%入りコロッケとの記載が問題だったわけで、ただのコロッケは色々は入っていそうだ。色々でもいいけど、危ないのは困る。殆どは、レストランとか、社員食堂で、あるいは加工品で使われていた。

この事件は、一年3ヶ月も前に、農水省に内部告発があった。中川現政調会長が農水大臣の時代で、BSE牛肉アメリカとの交渉で揉めていたころだ。農水省と言うところはどうも、食べ物に対してずさんじゃないか。BSE牛も結局、アメリカに押し切られただけで、食べるものの安全性に対して、アメリカの言いなり。他の利権と引き換えに食べ物が犠牲になっている。この件では農水は北海道庁に連絡した、と言い逃れている。連絡したら終わりと思った人間もすごい。その後1年半の間、どうなったかと一度も思わないのだろうか。すっかり忘れていたんだろうな。こういう役人は、やった田中社長より、国民に対しもっと罪が深いと思う。悪いやつは切りなく居る。それをどう防ぎ、管理してゆくかが仕事なんだろう。その自らの仕事の責任を、理解出来ないのだ。社会保険庁の役人と同様だ。もう、何か日本の骨組みが崩れてきている感がある。だから、食べ物は自己責任。
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田園居住

2007-06-25 06:16:36 | 地域
田園居住が想定する、住環境は豊かな自然環境に恵まれた、農村環境あるいは里地里山環境に、一定のルールに従った、ゆとりある住宅がつくら、地域住民として生活することであろう。田園居住地域に指定された場合の地域側の受け入れ態勢のほうを考えて見たい。この法が対象としている小田原の市街地調整区域は、農業が営まれている場所と、考えなければならない。現実には対象地区の多くが、従来の農業的利用に限界があると、考えられ、耕作放棄されないまでも、将来の農業的利用が不安視されている。小田原の将来像を考える中で、新しい枠組みを模索する事は必要であろう。ここで最優先で考えておくべき前提は、小田原の農業の展望であろう。これを明確に設定した上で、その枠組みを生かすような、田園居住の取り決めを行うと言う事であろう。

すでに平成13年に、小田原市は小田原市市街化調整区域整備・保全構想策定調査業務委託をしている。本構想は、小田原市の市街化調整区域の10年先の将来像を検討したもので、国土交通省の田園居住区整備事業を活用した国庫補助調査です。具体的な検討内容としては、市街化調整区域の土地利用基本構想の検討、調整区域地区計画制度の運用方針、優良田園住宅建設促進法の基本方針等の検討と共にケーススタディとしての本市西部丘陵地整備の検討を行っています。今回の田園居住検討がこの荻窪の丘陵地区を前提として、提案されてる構想と考えうる。しかし、一地域を想定して、この計画を検討するのであれば、小田原の将来構想の中での整合性が問題となるのではなかろうか。

早川、根府川、久野、曽我、の各丘陵地帯が、潜在的候補地としての可能性を持っているのであろう。特に、私の暮す久野地域は、現在里地里山構想のなかで、意見としては、田園居住区の要望はすでに出ている。ここでは、里地里山の維持はそれを支える、住民の増加が必要とされる。農業や、林業を健全に営む背景が、成立して、初めて里地里山が守られる。その意味で、農業者や、林業者が、その地域での経営の為に新たに、移り住む事を受け入れることが、重要と成るであろう。農業の担い手の為の、田園居住の検討こそが、小田原の農業の将来の可能性を開くことになるであろう。小田原での新規就農が、困難な理由は住宅問題にある。この解決が可能であれば、これからの時代の農業に、小田原は相当に有利な地域である。更に言えば、この法が想定する、豊かな田園生活とは、農業や林業が作り出して来た環境の中での暮しの事であろう。

田園居住が、農地の宅地への、転用を可能にするためだけに利用される事になれば、今までかろうじて維持されてきた、優良な環境が、破壊される可能性も大きい。耕作放棄地があるからと言って、単純に農業不適地とは言えない。担い手の新たな参入を可能とする、田園居住との組み合わせこそ、里地里山地域と重なる市街化調整区域の健全な管理に繋がるであろう。荻窪地域が、行政提案の里地里山構想から、突然はずされた背景も、この荻窪丘陵を限定的に田園居住の想定が推測される。田園居住地区構想の提案が今後考えられるのだろう。しかし、里地里山地区にこそ、単なる住宅地開発でなく。その地域の農村的環境を守り育てる為の、住居地区の育成を考えるべきではないだろうか。
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ゴミ広域処理、市民には知らせず。

2007-06-24 06:31:36 | 環境関連
21日佐々木ナオさんが一般質問をした。傍聴をした。ゴミ広域化の問題を質問してくれた。市長や副市長が普通の事を答えているようで、良く考えると大変な答弁をしていた。広域ごみ処理について、現在小田原、湯河原、真鶴、箱根で、広域ごみ処理協議会を検討している。1、これは国、県、からの指示でしていることで、当然の事をしている。2、こうした、いわゆる迷惑施設の伴う問題の検討に、市民を加えると、とんでもない事になる。3、現在検討している内容、素案公表の時期については答えない。このような事を繰り返し答弁した。何も言わないのだ。と最初は、そんなものか程度に聞いていた。しかし、時間が経つにつれて、これはこの一年の小澤市長の態度変化に基づいていることが分かる。一年前は市民を加えた検討を考えると言っていた小澤市長だ。

ごみ問題こそ、市民と共に考えなければ、解決不可能な問題だろう。迷惑施設こそ、市民と共に考えると言う事が、より重要に成るだろう。私が環境課に聞きに行っても、何も教えてくれない原因が分かった。ゴミ問題の解決に県も県民と協働してゆく事を表明している。以前は小澤市長も市民との協働を発言した。それが随分と後退したものだ。市民への信頼感のような物は微塵もない。市民は愚かな、取るに足らない、存在だ。そう宣言している事に気づいていないのだろうか。小澤市長が言う市民は、迷惑施設などの検討に加えたら、どうにもならない市民だ。そんな愚かな市民だから、小澤市長を4回も選択してしまったのだろうか。市民の代表として、市長になっていることを理解できているのだろうか。市民を愚弄して、市長の立場はありえないことも、理解できないのだろうか。

ゴミ問題の解決。これをなぜ市民が検討しないでいいのか。市役所に任せておけばいいのか。そんなことだから、ゴミの減量が進まないのだ。市民がゴミを自らの問題として、取り組まない限り、ゴミは減量できない。これから、生ゴミの堆肥か。など取り組むべき課題は大きい。広域化するなら、手分けして新たな取り組みをしなければ意味がない。そうしなければ、ゴミが見えないところで処理される、市民から離れた問題になってしまい。ゴミ問題の解決は遠のくことになる。本来、ゴミは小さく見えるところで処理すれば、減量できる。上勝町はゴミの収集をやめたそうだ。そこまでやれば、ゴミは減る。ゴミはその辺においておけば、知らないうちに、全てなくなり終わり。これでは絶対に減量はできない。

市民を信頼しない、行政と市長。結論がでるまでは、全てを秘密にして進める手法。これで小田原が、良くなるとは思えない。城下町ホール。駅前再開発。そしてゴミ処理広域化。どれもが問題化してしまうのは、行政がやることは間違いないという、思い上がりから来ている。市民と共に考えると言う、市民自治を忘れたところに原因する。市民を加えると、混乱すると思い込んでいる。これでは市民も成長できないし、行政も堕落する。あまりに旧態依然とした、市の姿勢に落ち込んでいる。これは市長を4選した市民が問題だったと言う事だろう。市長の言う市民の意思は、自治会にあるらしい。それなら、是非とも久野の自治会に確認して欲しい。現在検討している、焼却施設を久野に持ってくることの是非を、自治会に確認して欲しい。市長の好きな連合自治会長に確認して欲しい。
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「水彩人」の今後

2007-06-23 06:08:53 | 水彩画
水彩人は10回展までは、何があってもやろうと、7人で始めた。一人脱落したが、6人継続している。仲間が増え、同人15名になっている。10月5日から14日東京都美術館に於いて、9回展が開かれることになる。事務局担当として、いよいよ10回展以降のことを詰めなければ成らない。明日そのことを相談する集まりがある。10回展以降の展望が決まらない中で、新しい同人の募集ができないという現実がある。水彩人に対する気持ち、考え方は、それは様々で、15人違う。15人がいわゆる絵描きタイプである訳で、個性も強い。そこで話し合いをまとめる事は困難を極める。今回は、事前に意見を戴いた。戴いたからと言って、それでどうこうではないが、話がまとまりやすいのではないかと思っての事だ。正直手に余る、会議になるだろう。

水彩画というものは、最近2回目の流行状態にある。古くは明治時代は帝展とか呼ばれた展覧会には、水彩画が油絵と同じぐらい出品される時代があったようだ。その後は油絵全盛になり、小学生が使うのが、水彩絵の具で、中学校位になると気の効いた所では油彩画に取り組む、と言うような空気が一般に成った。美術教育も今はだいぶ変わったようだが、油絵科などという名称が、あったりした。いまの流行は中高年の趣味と言ったらば、いけないのか。ともかく、カルチャーセンターなどに集まる人達には、水彩画はそこそこ人気があるようだ。当然、その中からはすごい絵が出てくる。専門家と言っても、公募団体の会員程度では、別段カルチャーでやっている人と基本的には意識が変わらない。絵も少々手馴れているだけで、その質はむしろ劣ることも間々ある。絵と言うのは、技術部分は小さい。結局は人間だから、どこからでもすごいものは登場する可能性がある。

水彩人は、そうした姿勢でやってきた。どこぞの会の会員であるからと言って、お断りすることもあるし、何の経歴がなくても、仲間として受け入れてきた。それを当然の事と考えてきた。そして、同人であるからと言って、よくないものはよくないと、明確に言い合える環境を作ろうとしてきた。この辺りがいつも難しい。駄目だとみんなが指摘したからと言って、良くならないと言う場合もある。言われるのが否だから、言うのが否だから、と言う事で躊躇する人もいる。お互いの絵に対して自由に言い合える環境は作り出さなくてはならないが。しかし、それが傷付け合うような場では困る。この加減が難しい。いつも色々の意見は出る。何かを変えてみるのもいい。

水彩人が水彩画の停滞した世界を変えてきた自負はある。水彩画が、日本画や油彩画より、劣る物であると言う、画商の観点は少し動かしてきたのではないか。それは日本の画商が、基本的には古物商的な意識だから、おかしかっただけで、本来絵画というものに素材の違いなど存在しない。水彩画の魅力は本質に直裁に迫るところにある。持って回った言い方でなく、結論だけ述べるようなところが、いいと思う。科学者が何か思いついた、閃いた事を、ちょっとメモしたようなところがいい。そのメモには説明はない。だから、メモした人以外には理解不能かもしれない。ところがその何かほとばしる物が見えたりすると、実におもしろい。作者にはそのひらめきから、無限の広がりが見えたりする。だから、説明は得意だが、閃かない人には、ちょっと難しい方法なのではないか。
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田んぼ抑草技術

2007-06-22 05:25:46 | 稲作
田んぼの抑草技術については、田んぼを始めて以来、様々に取り組んできた。どこでも誰でも出来る技術にしたいと思ってきた。近所で自然農法で長年取り組んできた石綿さんは、米糠を田植え直後に撒くことで、草を押さえている。そこから、何とか、米ぬかを使って草を押さえようと、10年取り組んだ。しかし、出来る田んぼと出来ない田んぼがある。これでは、技術とは言えない。名人の技であり、どうも納得がいかなかった。そこで、昨年は現代農業でも特集されていた、赤木さんの菜の花抑草に取り組んだ。菜の花を大きく育てる事に手間暇かけて、それで居て、大失敗に終わった。今もって何故あれほど草が生えたか、理解も出来ないでいる。そこで、今年は、少し切り替えて、原点に戻ってみた。新しい田んぼで始めるので、気分を新たに、取り組んで見ることにした。2反5畝。3段に別れた田んぼだ。

入水温は現在朝方は15℃前後です。しかし、今年は日照が強いので、昼間は水温が30度を越えています。現状を書く前に、抑草技術の整理をして見る。1、除草剤と同等の効果は必要。2、費用がかからないこと。3、手間がかからず、誰にも取り組めること。4、環境に負荷をかけないこと。5、裏作が出来る事。以上の条件に、米糠は適合していた。ただし、肝心の1、番の除草剤よりは効果が偏在していた。その原因を色々考えてきて、昨年は自然農法研究センターの石綿さんより、米糠は雑草を呼ぶ。と言う事を伺った。石綿さんからは他の事でも指導を受けて、相当の人だと思ってきたので、その考えを納得した。稲雑草は田んぼに共生する。稲の持つ何かが誘引物質となっている可能性が高いと言う考えのようだった。

そこで、米ぬかと同等の効果が期待される、米由来でない素材を考えた。そこで、考え付いたのが、そばの製粉カスだ。蕎麦は分解が早く、アンモニア化すぐにすると言う事も、石綿さんに伺ったこともある。この製粉カスはそばの糠ではない。蕎麦の糠は鳥のエサに使っているのでもったいないと言う事もあり、製粉カスのほうでいいはずと考えた。これにはそば殻2割程度入っている。当初は米ぬかと同様に田んぼに入り撒くつもりだったが、実に軽い物で、田んぼの表面に浮遊する。そこで、入水と同時に流し込んだ。簡単に田んぼ全面に広がった。広がって、3日間ほど浮いている。その間に、風下に貯まってしまう。これが欠点だ。そこで、一辺に撒かないで、1枚に小麦粉の袋1袋10キロほどを一回。これを3日ごとに繰り返すことにした。風上の畦から静かに水面に広がるように撒いた。

今朝で、入水してから、16日目。ほぼ草を抑えている。米ぬかと同等の効果はある。今年は田植え後が暑く、どこの田も草は早い。しかし、今のところそばかすを撒いた田んぼでは草を押さえている。まだ油断は出来ないが、もしこのまま経緯すれば、5つの条件を兼ね備えた方法になる。今の不安はコナギが出ている部分があること。これは今のところ、上手くソバカスが回らなかったところと見ている。そばから出る液が、抑草するわけではない様だ。粉状のものが沈殿して、あるいはそば殻やそばの種が沈殿して、そこで土に影響を与えている。コケ状のものが出来る。現在ミジンコやアカ虫が発生している。おたまじゃくしもたくさん居る。これも偏在している。米ぬかでは臭いの発生が困ったが、ソバカス抑草では匂いは出ない。

補足、これを書いてから、転がしを少しやりに行ったが、田んぼの中の方まで、草はほぼ抑えられている。コナギが出てきている部分は、田んぼの畦の修復の為、代かきが深くなたところ。又土が不足して深みになった部分のようだ。
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山田村祭り

2007-06-21 06:13:04 | 地域
昨日は小宮さんのブルベリー摘み取り園の夏祭り、山田村祭りの打ち合わせがあった。去年よりだいぶ流れがスムースに成った。特にこの1年の小宮さんの変わりようは大きい。ブルーベリー園も軌道に乗り、自信がついたという感じだ。昨年は主導的に進める気がなかったが、今年は自分の主催する祭りと言う事で、明確に動いている。又、3回目と成るので、参加者も自然に集まる方向になって来ている。それに加えて、小宮さんの暮す、山田地区の方も参加してくれそうだ。地域発の自主的な祭りがしたい。と言っていた、小宮さんの願いが実現できそうだ。山田村が内山と並んで、あしがらでは暮らし易いところとされていた。よく言われるのが、燃し木がある。水がある。田畑がある。そう言う事だろうが、その結果というか、人間が良い。実は住みやすいところとは人間関係のいいと言う意味だ。

今回私は古代部門の担当になる。山田村は古くから、人が暮してきた場所で、関東以北で最も古いと言う炭化したお米が出土している。そこからは、容器型土偶も出土している。これは重要文化財にも指定されている。この山田村の古代よりのおもしろさを、土偶や土鈴を作る。野焼きをする。おいしく食べる。古代人の服を着る。古代の旗を描く。そんなところから、古代を体験できる祭りにしたい。古代の暮らしをしてゆくには、食糧の自給が出来ること。それは自然を大きく改変しないでも、備わった環境と言う事だろう。田んぼを大きな土木工事なしに、水利工事なしに、作ることが出来た。自然災害も少ない。薪が取れる林がある。海が近く海産物も豊富。そんな山田村の暮しやすさは、実は現代のあしがら地域そのものだ。

山田村祭りを作り、伝えていくと言う事を、暮らしを深める機会にしたい。これは集団と言うものの意味を、考える機会だとも思う。農業者は人とのかかわりなく暮そうと思えば可能だ。だから、いつの間にか、がんこで閉じた人間になりやすい。これをときほぐす役割も祭りにはある。人の集団が作り出す空気感は、誰かが意図して出来上がるものではない。そこに集う人間の相互に織り成すものだ。かつての祭りが形骸化して、あるいはショウアップされ。本来の暮らしの中での祭りは自分たちで作り出さない限り、ないものだと思う。その折なす人間が、宗教的でもなく、政治的でもなく、個々の独立した自由な精神の人間でありながら、個々の自由意志に基づき全体性を作り出す。そんなことが出来ないかといつも思う。

ここでの祭りは、先導する主催者がいてはいけないのだろう。参加者が自分の意思で、自由に表現してゆける場にすること。受身の参加者が一人も居ないような祭り。昨年、初めて参加した人が、こんなに開放された、許された気持ちになれたことはなかった、と手紙をくれた。当然そんな空気に合わない人も居るようだ。合わないだろう人が、一人で居られる場所も作った。来る事は来るが、距離を置きたい、そんな気持ちも実は大切だと思う。昨年は昼と夜を併せると、550名の参加だった。今年は、駐車場の事もあり、夜の部は今のところやらない予定だ。ちょっと寂しい。しかし、野焼きのほうは夜までかかるわけだから、この辺も工夫したいものだ。少しづつ形が見えてきて、本当に楽しい。これからは、毎週水曜夜には集まる事になるので、興味がある人が居れば、是非準備会から来て欲しい。
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最小限の家

2007-06-20 07:33:41 | 最小限の家
ついに、建築確認を申請した。6月18日だった。5月始めに、申請内容を整理し、担当のSさんのところに伺った。しかし、まだ不充分のところがあり、もう一度整理修正してくることになった。慣れないことと言う事もあるが、意味のわからない数字とか、倉庫業を営まない倉庫。とか独特の記載様式がある。Sさんは行政マンらしく、かたくなな所はあるが、親切な人ではある。丁寧な人である。しかし、その能力のない私に、説明しなければならないというのは、辛いバカバカしいものがあるだろう。何度か切れていた。何故、私がこんなことで、怒られなければならないのか分からないが、起こりたくなる気持ちは、よく分かった。バカバカしいのだ。何とか建築可能にしてあげようとしているのに、何故その趣旨を理解し、いうとおりにしないのだ。

11回目で申請に到ったことになる。この間空いたのが、田植え。田植えの事で頭が一杯だったので、この申請は気に成っていたが、手がつけられなかった。結局慣れない事で、理解できていない事を、やってしまうには、助走が長くかかる。どの書類も3部いるという。こんなことはすぐやれるはずだが、結構気が重く、渋っていた。そんなこんなで、修正して出せばいいことに1ヶ月かかった。いつも小屋を作る準備のため、積み上げてある、材料の木材の山が、なんとも恨めしそうに見ていた。木の色もすっかりねずみ色になった。これが時間が経過して、良くなっている面と、保存が悪くて問題化している点とがあるようで、木の方が何とかしてくれと悲鳴を上げていた。まだ紆余曲折はあるだろうが、遠からず着工になるようだ。

一番の問題は、ここで養鶏業をやることにある。初めて市役所に言ったのは、「養鶏場をやりたいのですが。」と言う事だ。「養鶏場をビニールハウスで行う事は出来ません。」と言う驚くべき見解から始まったのだ。あれこれたらい回しにされて、Sさんのところに流れ着いたのだが、Sさんも養鶏場というものに触れないで、進めようとしている。養鶏場をやる為に小屋を建てるのは、現実だ。にもかかわらず、現在の書類上は、あくまで、倉庫業を営まない倉庫、だ。私としてはこれをおかしいと感じている。ところが、養鶏作業小屋というと、建てることはできないと言う。それならそれで申請するから、建てられない理由を明確にして、拒否してくれ。これが私の方針だった。ここで手間取った。Sさんが言うには、「行政が養鶏業をここで営む事を、承認したと言う事にしようとしているなら、とんでもないことだ。」このように言われる。

確かにそうなのだろう。養鶏場はトリインフルエンザで嫌われものだ。行政としては、どんな形であれ、かかわりたくないのだろう。しかし、鶏を飼う事が、こうして、暗に排除されてゆく事は、危険だと思う。実際養鶏場をやるには、地域の暮らしから、一定の距離を持ってやるのだろう。それが、情けないが今の現実だ。養鶏が無理としても、ここで最小限の暮らしの畑を体験してもらう事はできる。むしろ主旨はそこにある。自宅のほうも、そうした開放した場に徐々に変えてゆくつもりだ。最小限の家は、それでも、倉庫業を営まない倉庫として、建てられることになりそうだ。養鶏をやれないでも、ここの農地に作業小屋が必要なことは確かだ。作業小屋を建てて、ここで遠くの海を眺めながら、お茶を飲める日が来ることを、待っている。
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上原公子氏立候補

2007-06-19 05:54:53 | Peace Cafe
上原公子氏にはピースカフェの一周年記念の講演会に来ていただいた。その国立市長だった上原氏が参議院選に立候補する。社民党からの立候補だ。国立市長選挙に立候補をしなかった時に、何となくこういう成り行きを想像していた。憲法の改定をはっきりと止める事を、明確に表明している社民党に力を持ってもらう為には、いい選択だと思う。社民党に変わってもらわなくてはならない。社会党と言う名前だった時代。その存在が国会議員の3分の1以上いることが、憲法の改定をかろうじて止めてきた。しかし、社会党の体質を私は嫌悪してきた。一言で言えば何でも反対の、後ろ向きの政党というイメージがあった。労働組合の悪く擦れてしまった吹き溜まりのような感じがにじみ出ていた。利益至上主義がいつも臭っていた。だから、紆余曲折はあったが、土井氏がこの党を終わりにしたと言うイメージがしていた。

上原氏にこの党のイメージを払拭してもらいたい。市民活動を基盤にした党に変えてもらいたい。そうした力のある人だと思う。すでに、市民は変わり始めている。その受け皿としての政党が存在しないだけなのだ。本来そうあるべきだった。民主党が擬似自民党程度の内容しか、持てないでいる。例えば、小沢氏の持論である。食糧自給100%の根拠がいかにも弱い。先日小麦の日本の生産性の低さを発言していた。欧米と比べてだ。これを高めると言うのだ。日本の多雨の気候で、麦の生産性を乾燥地域以上に高めるには、農薬の多投入になりやしないか。標語だけで、いつまでも通用するとは思えない。分かり易く、どうすれば食糧自給が少しでも上昇できるのか、発言しないとならない。小泉さんの2000円のりんごの輸出論を、一蹴できるのか。ところが確認したところ、社民党の政策には食糧自給については触れてもいない。どうなっているの。と心配になる。食糧自給は安全保障だ。

上原氏は憲法と温暖化問題を参議院選のテーマにしている。その点では安倍自民党と問題点では同じだ。温暖化は、ダイオキシン問題と同じだ。ダイオキシンを煽っておいて、溶融炉の普及を目指した。ゴミ処理に不要な焼却法を持ち込んでしまったのだ。同じことで、温暖化は必ず原子力利用に向かう。思う壺なのだ。国民の合意を得ながらいくらでもお金を使える、大資本の狙いなのだ。誰もがよしとする事は危ないところがある。温暖化を問題にするなら、暮らしを変えるしかない。暮らしをそのままにして置きたいという、何となくのグウタラが、誰もの心にあるから、そこが狙われる。もちろん上原さんはその点も指摘している。

社民党のホームページの中に上原さんの発言しているテレビがある。是非これを見て欲しい。分かり易く、今の政治状況を語っている。社民党をヨーロッパの緑の党のようにしようと言われている。環境や福祉から社会を捉えている。確かに市民的な自治が一番大切なのだと思う。安倍氏がしがみつく、改憲がいかに馬鹿げたことか、理想の旗印を下ろすことが、日本と言う国家にどれほどの損失になるか。集団的自衛権を現憲法下の解釈論で可能とする。安倍自民党がいかにも、憲法無視の集団であるか。その憲法無視集団が、なぜか改憲にしがみついている。上原氏の立候補は、私達市民にとって、参議院選を考えるきっかけなのだろう。
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ピースカフェ20号

2007-06-18 05:54:03 | Peace Cafe
ピースカフェも20号になった。現在3000部が配られている。毎月17日に集まりをしている。だから、昨夜は20回目の集まりだったのだろう。最近人の集まりが悪くなっているが、20号を機に、体制を整えたい。と言う事で、11名が集まった。プチピースカフェと言う形で、臨時的な集まりも開かれる。最近では、久野の里地里山について、プチカフェをした。先日、佐々木さんを中心に行った、広域ごみ処理についての情報交換の集まりなども、プチピースカフェのような物だと思う。名目はともかく、ピースカフェで培われてきた、人間のつながりを利用して、何かを起こしてゆく。地域での問題に取り組もうとする人に役立つことが出来る。それがピースカフェの役割だと思う。「思い立った1人の為に役立ちたい。」これがピースカフェの基本姿勢だと思う。その意味では、ピースカフェを通じて広げてきた、人の輪が役立ち始めていると思う。

昨夜のピースカフェでは、久保田さんから提案されていた。有機農業推進に関する法律で示されている、行政の取り組みについて、あしがら地域でも勉強して見ようと言う事になった。あしがら地域における、平和的市民活動の取り組みを、立ち上げる手伝いをする、この辺りにピースカフェの役割があると思う。だから、ピースカフェは、平和的活動をしたいと言う人が利用しやすい形にしておくことが重要だと思う。ピースカフェ自身の色合いが、ある方向にだけ濃くなると、人を繋ぐ役割が弱くなると思う。又、ピースカフェ自体が運動主体になることも、多くてはいけないと思う。それぞれに担っている活動がある。それが主だと思う。その上で、それらの活動のつながりをつけて行く。そんな役割でありたい。

地域にはそれは様々な課題がある。現在も田園居住の推進について、行政が動き出している、様子が見える。小田原市の行政手法として、市民に見えてきたときは、すでに話が決まっている事が多い。今回の提案としての田園居住推進も、悪いことではないが、実はこれが何か思惑に基づいていないか。情報整理をしないといけない。特定の地域や個人への利益誘導的な動きにならないか。そうしたとき、ピースカフェの集まりは役に立つ。有機農業推進法でも、有機農業研究会から、委員として出ていた久保田さんがいる。議員提案した、事務局長ツルネンさんと繋がりを持つ人もいる。来月の特集は「あしがらの水」だ。これについては酒匂川流域グリンフォーラムの山田純さんがいる。こうした人の繋がりを生かしてゆく。

その意味では紙媒体のピースカフェはほんの一部だと思う。いわば閉じてしまわない為の旗印のようなものだ。個人の暮らしが基本。しかし、その個人の暮らしを外に開いた形で、展開してゆく事が大切。その開いてゆく姿に、協力をすることが役割。注目すべき活動は無尽蔵にある。見えなかったり、気付かなかったりするだけだ。農業を普通にしている。商店を普通に営業している。その中に、実は深い意味合いが存在したりする。例えば、先日の岩堀鮮魚店の引き売りの話は、極めて興味深かった。地域で行われている暮らしを、ピースカフェの視点で、見直してみる。それだけでも十分に地域の暮らしのおもしろさが見えてくる。なんでもない日々の暮らしを、平和の視点から注目してゆく。その大切さが、ピースカフェのこれからの方向だと思う。
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太陽光発電

2007-06-17 07:38:14 | Peace Cafe
我が家では太陽光発電で電気はまかなっている。細かい議論では、太陽光発電が必ずしも、省エネルギー的ではない。と言う人もいたりするが、自給的でありたいと言う事で、自分の家で使う分は自分の所で発電すると言う事を選択した。今のところ、電力自給できている。太陽光発電の発電量を考えて見る。もし日本の原子力発電施設53基分をまかなうとすると。日本の一戸建て住宅数2600万戸全てを太陽光発電にして、ほぼ同じ発電量を得ることが出来る能力なのだ。もし政府がエネルギー政策を転換し、全額補助で、太陽光発電を行うとすれば、52兆円の費用が必要となる。原発1基にかかる経費は4000億円ぐらいのようだ。後始末やその他の対策費を考えれば、52兆円ぐらいはかかっているのだろう。同じ費用なら原子力をやめて、各戸に太陽光発電装置を設置したらどうだろう。

以前は日本は太陽光発電では世界1だった。ところが現在はドイツに抜かれて、2位だ。それも大きく水をあけられた。政府も何故か2005年度で補助を打ち切った。この辺が原因しているのだろう。何故政府は政策を転換したのか。2010年度の発電量の目標は482万キロワットとなっている。現在は167万キロだ。昨年度は25万キロの増加にとどまっている。この辺が安倍首相の温暖化対策が、単なるパフォーマンスに終わっている証拠だ。見栄えだけで良さそうなことを言ったところで、細部においては、何の実行のある政策も取っていない。それが日本の温暖化対策だ。たぶん、原子力エネルギーへの転換を計ろうと考えているのだ。今やらなければ成らないのは、太陽光発電を全力で取り組む、そのことだ。

太陽光設備の現在の経費の期間的損益分岐点は15年程度とされている。今後の石油事情を考えると、期間が延びることは考えられない。だから現状だって決して割りの合わない設備ではないのだ。それなら、政府は無利子で貸し付けて、15年で返済するように新築住宅には義務ずけるとか。方法はある。何故やらないか。それは、たぶん電力会社の圧力だ。基本的には独占企業としての電力会社など失くせばいいのだ。電力調整の為の政府機関としてのみ存在すれば良い。輸送ロスとコストを考えれば、電気を多量に必要とする企業は自家発電にすれば良い。それも出来るだけ太陽光だ。廃棄物によるごみ発電も工場の駆動力としての蒸気利用も考えれば、採算が合うと東海パルプでは実践している。

もう一つ水力利用があった。これは現在利用されていない、小さな水路発電を誰にでも出来るようにすべきだ。無駄になっている水力のマイクロ発電をあらゆる場面で考える。昔は久野舟原にも5基もあったという水車。一基の水車で、5軒分のエネルギーがまかなえるそうだ。だから舟原では25軒は何とかなる。現在80戸の集落だから、馬鹿にないならない発電量だ。奥の和留沢なら水力で暮せる集落になる。東京駅では改札を通ると発電すると言う装置があるという。東陶ではトイレの流し水での発電を研究しているそうだ。暮らしを工夫する技術開発。大きくまとめてやるのが、企業の得意分野だろうが、小さく家庭単位で、エネルギーを自給する。これを研究することが、大いに必要だ。
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田園居住

2007-06-16 06:34:44 | 最小限の家
田園居住は言われだして、もう20年以上が経つが成果が出ていない。良さそうに思われるが、何故実際に動き出さないのか。その辺を考えて見たい。小田原市もいよいよこのことで調査を始めるようだ。市街地調整区域に農地を所有する者に、アンケートを行っている。近所の方で息子さんの家を作るのに、大変苦労されて、結局は作れなかった方がいる。その方の家は、たぶん350年はその場所に暮らしてきた方だ。長く勤めをされてきたが、現在退職されてお茶などの農業をされている。勤めはされていたが、お茶の栽培では県下では著名な方だ。大変立派な農家作りの家に住まわれている。ところがこの家に息子さん家族と同居は難しい。それは全てが、ふすまや障子で仕切られただけの家で、今の時代2世代が暮らすのは難しいと言う事だ。無理に一緒に暮して、出て行ってしまった家も少ないくない。

そこで、家の脇に農地があるので、そこに息子さんの家を建てるべく、申請した。ところが、これが以外にも不許可になった。良く農家の利権として、子供が農地に家を建てることが出来る。と言う事が言われる。二男住宅とか言われるが、実体さえ伴えば、三女であろうと、当然可能だ。ところが実はそう簡単ではない。様々な用件がある。実態と言う事が重視される。農業への影響と言う事もある。この場合、市街化区域にも土地を持っていると言う事が、問題に成った。それは良いにしても、では市街化調整区域の人口の減少は、農業の担い手の減少は、どのように保全するのだろう。息子さんに手伝ってもらいながら、農業を頑張ってゆく。近くに住むほうが良いに決まっている。

農地を住宅地化するために、田園居住制度を利用しようと言うのが、一般に行政が志向する所だ。これでは問題を悪化するだけだ。その為に、実態この制度が進まないのだ。今の小田原の状況で言えば、荻窪の丘陵地帯が、この対象と見られている。海を臨む極めて景観の良い地域だ。この丘陵が以前より宅地開発の希望が出ている。このすばらしい景観の丘の農地を、住宅地化するためだけに、この制度を利用してはならないと言う事だ。先ず、大きな方向付けをする条例の制定が必要だ。志摩市は行っている。地域ごとに明確な小田原の方向を定める事だ。宅地化すれば、利益が出る。こうした農地を財産として考えると、地域は方向なく荒れてしまう。こうしたすばらしい地域を小田原共有の財産と考え。方向を決めたうえで、取り組むべきだろう。

私の暮す久野にもそうした候補地があり、先行投資で農地が買われている。これでは健全な農業は育つわけがない。先ず、市街化調整区域の農地は今後とも農地として保全してゆくことが大前提だろう。その上で、農地の中に、その農地を保全してゆく為の人が住む住宅を配置して行く方法、を考えるべきだろう。都会生活者のための住宅を開発すると言う発想では、良い地域の形成は出来ない。この地域を活性化する人が、、この地域を支えてゆく人が、この地域に暮す為の住宅を作る。あくまで地域を良くするために田園居住を考える。この基本的な発想を大切にしなければならない。そのための歯止めが必要だ。
1、地域設定が住民・行政合意で作られる。2、居住者は農業者であるか、それに順ずる職種であること。3、土地は条件付の賃貸にする。地権者が売買を望む場合は、公社が買い取り、運営を行う。現在は、今思いついたことを書いただけだが、よく検討して、市に対し意見書を出したいと考えている。
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