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地場・旬・自給

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赤峰勝人氏となずなの会

2008-11-30 08:11:08 | 
赤峰勝人氏となずなの会昨日開成町の福祉会館で後援会があった。あしがら農の会の仲間の田中大樹さんは、東京農業大学を卒業してから赤峰さんのなずな農園で2年間研修生として学んだ人である。有機農業をやるためには農業大学をでてから、さらに研修を2年もしなければならないというのが、現状だとすると大変困ることだ。昔なら、親と共に働きながら覚えたものだったはずだ。有機農業では今はそうした継承はほとんどなくなっている。田中さんは10月に福太郎君が産まれて、その幸せ感を一杯にして、師匠の講演会の準備に飛び回っていた。昨日もその喜びが、全身からあふれていて、オーラがあふれ光り輝いて見えた。そうした彼の力が親方と呼ぶ、赤峰勝人氏から授かった物であることがうかがえた。赤峰勝人氏は元気な農業者だ。充分畑で働いている人だった。その点は山下惣一氏も同じだったが、川口由一氏は農業をされている人のようには見えなかった。もちろんされている。

こうした絶対的な力量のある農業者に学ぶと言う事は、人生を学ぶと言うことだろう。今の時代では珍しい姿。到底生意気者の私のようなものには出来ない。なずな農園では弟子には、(研修生ではなく弟子だと思う。)先ず徹底的に体力を付けさせるらしい。身体で覚える式の農業修行のようだ。我々の間では、最初は金太郎で通っていた田中大樹さんだ。最近は金太郎振りでもない。昨日は久し振りに金太郎に戻っていた。有機農業者として新たな道を開くことは、あの赤峰氏でも12年かかったそうだ。当然普通の者が新たに道を開くと言う事は、12年以上かかると言う事になる。その12年は巣立ったそれぞれがそれぞれの力量で切り開く、赤峰さんとは別の道であろう。又そうでなければおもしろくない。赤峰さんにが蒔いている種は、枯れることも、親株以上になることもあるだろう。

愛知の新庄だかで新規就農された、田中さんと同じ頃修行していた、星さんという方が参加されていて、色々話をすることが出来た。これはとてもありがたいことだった。この方は赤峰さんが講演の中で、新規就農3年目で、10俵とったと言う方だ。10俵取ると言う事は、赤峰さんがわざわざ講演の中で伝えたくなるほどの事だ。話してみれば星さんも悩みは色々あるようだ。当然の事だ。これからの農業を考えれば、そう簡単な事ではない。経営の事もあるだろうが、それより農法の事で考えることがあるようだ。所変われば農法も違う。なずなでやっていたときの通りとはいかない。自分流も当然でてくる。又でてこないようではおかしい。そのあたりの感触が、とても参考になった。

赤峰氏が言われた「田んぼのコナギはその内無くなるから心配いらない。」まだどういう意味か頭に残っている。コナギに覆い尽くされる恐怖にさいなまれているから、とても気に成る。やはり名人なのだろう。竹林は竹が作り出す。ミネラルによって、竹が必要なくなれば、自然に消えてゆく。ススキはススキが作り出すミネラルによって、土壌にそのミネラルが充満すれば自然消えてゆく。遷移の事をいわれているようだが、時間の単位が、農業とは、人の生命とは1万年ぐらいのずれがある。果たして植物がミネラルを作り出すというのは、幾ら赤峰氏の深い経験から割り出したとしても、にわかには信じがたい。このあたりの飛躍が宗教といわれるゆえんであろう。しかし、こう言い切ってしまうところなのだろう。開成福祉会館の会場に立ち見が出るほどの盛況であった。
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裸の付き合い

2008-11-29 06:43:10 | 身辺雑記
私はスーパー銭湯好きだから、風呂屋さんでは知り合いができる。まさに裸の付き合いと言う事だが、形態的には裸の付き合いだが、実に表面的なその場限りの付き合いである。皆さんその辺はよく心得ていて、名前や住所を名乗りあうようなことはよくないことだと成っている。そこでの一番の話題はパチンコ、スロット、の話である。どういう機種はどうだこうだと、薀蓄と対応策が話される。次には競輪である。もちろん小田原競輪の話題だ。幾らとったと言うのが中心である。人間は博打好きだ。これはおおよその人に当てはまる。もう少し広げれて言えば、勝負事が好きだ。勝ち負けが大好きだ。これは人間の生き物的本能、闘争本能からきているのだろうか。博打を投資とか、きれいな言葉で言ったところで、賭けて、儲けようと言う所は同根である。株の話もよく出ている。株価が今日は8000円を超えたの超えないのと。

次の勝負事はスポーツだ。巨人西武の日本シリーズでは、第6戦の巨人の負けを八百長だとみんなで怒っていた。大半の人が巨人びいきなのだ。第7戦をやれば、儲かるので負けてやっているのだ、向きになっていた。大相撲もすぐ八百長の話が出る。安馬が白鳳に本わりで勝った相撲を、八百長だというのだ。そのお返しが千秋楽に決定戦で白鳳が勝つことになっているんだ。すぐそういう話で盛り上がっている。八百長の続きで、でるのが政治の話。政治の後継者の話。霧島とか言うのが居るだろう。カーテンだか、のれんだか、店員さんのようなのがいるだろう。河野洋平氏の後継候補とされる。牧島かれん氏のことである。よそ者を連れてきたことをみんなで怒っているのだ。これも民主が勝つか、自民が勝つかの勝負事だ。民主の神山洋介とか言う若い奴は地元のもんじゃ。他所もんよりよかんべぇー。というのが風呂屋のその場の総意である。あくまで裸の話題である。

おおよそが私と同年輩以上の人。青年も居るが、常連という人はまずい無い。よって発言をたまにはするも、その場のいい加減すぎる波長に乗ることは出来ない。何しろ昨日と今日が逆の結論になることも良くある。白鳳の優勝決定戦をみんなで手に汗握って見ていた。何しろサウナの事である。自由主義経済の長所はこの人間の競争心を生かすところにある。こうよく言われた。これは頑張れば勝者に成れる。アメリカンドリームがあった時代。どんなに頑張っても普通はオリンピックにはでられない。このとき頑張れば可能性はあるというのは正論だが、大多数の者には実は、幻想である。競争社会には鼻の先に吊るされるえさが必要だろう。このえさが我々世代にはアメリカの暮らしである。自動車や冷蔵庫のある暮らしは実現できたけど。果たして今のままの競争を続けていてどうなるの、と言うのが今の状況ではないか。果たして社会に勝者などあるのだろうか。

昨日は久野の公民館で、加藤憲一市長の講演会主催の市長と語る会のようなものがあった。出かけた。入り口に加藤さんがいた。とっさに、ああーこの同じ場所で、小澤市長に是非お祝いの言葉を一言だけ、ぜひにお願いしたいと、迫った。ダックの裁判で勝訴した日だ。それが久野で恫喝されたと言う事になってしまった。あの失敗を思い出した。その後小澤市長とはどうも上手くなかった。久野の3ひげが悪い、と言われていたそうだ。加藤市長が今おかれている状況は、実に厳しい。財政がどこまで悪くなるか、底なしであろう。新たに費用のかかることなど、一切出来ない。昨日は優良田園住宅を推進して欲しいと言う言葉が出た。それに対して、ナルホドと言う正確な解答がその場であった。すでに進んでいる所では進んでいるようだ。申請は相当数にのぼるとのこと、7件の認可があったと言う事だ。しかし、農業の価値はこれから高まる。農地の安易な転用はできないので、現在の認可基準を見直すつもりはないという事も、言いにくい話の流れの中で、きちっと抑えていた。なかなかの市長ぶりであった。
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明星ヶ岳登山道整備

2008-11-28 05:50:37 | 里地里山
舟原で朝な夕な見上げる山は明星ヶ岳である。畑仕事、田んぼ仕事、腰を伸ばして広がる山が明星ヶ岳だ。箱根の外輪山の東の輪は金時山、明神ヶ岳、明星ヶ岳と続く。さらに南に下れば、箱根駅伝の中継で必ず出てくる、搭の峰のコブがある。山の西斜面には箱根大文字焼きが描かれている。この眺めは強羅温泉からの眺望である。彫刻の森を東に囲むように眺める山が、明星ヶ岳。この優雅な名前の山の名は、箱根を訪れていた文人がなずけたとも読んだことがあったと思ったのだが、調べたがそのことは判らなかった。小田原側から見ると、西の空にかかる明星が強く光る辺りが、明星ヶ岳であることは確かだ。これが名前の由来であろうか。標高は1000メートルもない924メートルながら、立派な山である。特に、眺望が際立って良く。足柄平野越しの相模湾の眺めは、他に変えがたいものがある。

地元の中学では、尾根からすぐ降りた辺りに、以前は学校林を管理していた。そのこともあって、地元の者はこの山には格別の親しみが今でもある。私が住む舟原は小田原からの登り口のである。戦後開拓でさらに3キロほど奥に、和留沢の集落がある。現在14戸の方が住まわれているそうだ。最盛期は50戸近くの家があったという。それくらいの人が充分に住める、広がった窪地である。酪農や、栗栽培を目指したが、現在は茶畑が一番の面積を占めている。標高が400メートル近くあるので、茶摘み時期がずれるため、作業の都合が良く、高い所で茶畑を管理するメリットがある。昔牛を放牧した、場所が今は美しい雑木林になっている。この付近は古くは箱根修験道の霊場でもあり、寺院跡の礎石が見つかったこともあったが、今は又不明になってしまった。釜石の採掘場跡があり、これは久野川の源流ではこうした場所がいくつかったようだ。人が暮らすには別天地のような、素晴しい場所で、これから注目される小田原の秘宝のような場所だ。

和留沢の集落の一番奥から、登山道に入る。なだらかな道で、簡易水道の水源の管理道として作られた道が2キロあまり。下3分の一の林道との合流点まで続く。久野川の支流に沿って上るのだが、ここの沢は水が枯れている事が多いそうだ。水源の沢は当然50軒が暮せた、水源だから水量は充分ある。水源には大きな水神の石碑が昭和42年建立と刻まれている。ここからもう一本上の林道までが、林の管理道から、尾根道と続く、なかなか本格的な登山道となる。以前は川沿いに道が切られていたそうだが、その道は堰堤が作られて切れてしまったようだ。林の中は作業道だから、登山のためにはもう少し整理しなければ、いけないようだ。いずれ植林地を抜けた辺りから、険しい岩ののぼりになる。この辺は登山道としての安全対策が特に必要になりそうな場所だ。この辺りからコナラやマモミジの林となり、遠望できる足柄平野を含めて、登山道中一番の見せ場である。岩場を登りきると、すぐ上の林道に出る。ここから尾根までは既によく整備された。登山道となっている。熊笹や箱根ザサが目立つようになって尾根に出る。尾根からの富士の眺望は金時と駒ケ岳を従えて圧巻である。

久野里地里山事業の本年度の事業が、登山道の整備である。昨日はその下見を行った。所が下見前に、行政の方や和留沢の方が随分草刈など管理をしてくれて居た。森林組合の方も、目印や草刈をしてくれていた。基本の登山道は既に出来上がっているようだった。後は案内板や、細分調整となるだろう。この道が再建整備されると、小田原と明星ヶ岳がぐんと親しくなる。市民の山になる。舟原の和留沢入り口のバス停で降りて、3時間ぐらいで明星ヶ岳登山ができるようになるだろう。頂上でお弁当を広げて、宮城野方面に下りて、貫太郎の湯にでも入って帰るコースは、なかなかの魅力である。近いうちに又行って見たいものだ。

昨日の自給作業:ジャガイモ堀1時間 累計時間:25時間
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絵を書くことの変貌

2008-11-27 06:12:10 | 水彩画
ある美術評論家が美術界に巨匠が居なくなった話を書いていた。それについては少しの異議もない。確かに美術界には大家というか、大物などまったく居ない。その評論家は、そのことを絵画の衰退と同じことと捉えている。美術評論家の見方だなぁーと思う。たぶん巨匠の美術史だけが美術史で、大多数の大衆の行う美術的行為の方は、今のところ美術の枠外と言う事なのだろう。これは歴史を武将とか政治の成り行きを歴史と考えていた、古い見方と同じだ。私は20世紀の美術を商業美術化の時代と名付けている。美術作品が金融商品化した時代という意味だ。そして21世紀を創作者の時代と見ている。芸術の大衆化というほうが普通かもしれない。が、芸術の意味の方が変貌して、関わるもの等しく創作する側に回ったという考えである。だから、美術評論家が巨匠が居なくなったというのは、20世紀的評論と言う事、あるいは19世紀的評論になろうか。大家の名作よりも自分の描く絵画の意味の方が問題である。

20世紀の美術の商業化の時代という意味は、美術が制作者から考えたり、その芸術的意味から考えるより、取引する側の見方のほうが重くなった時代と言う事だ。制作者にはそれなりの哲学、思想はある。それを受け止めたり、議論したりするより、その絵画が世間で注目を浴びるかどうかが、絵画評論の中心になった。先見の明があったとか、持ち上げるとか。そうしたことが美術雑誌の中心的話題だった。ニューヨークで活躍しているとか、パリの個展が評判だとか、情報を先取りして紹介することが、評論の役目になっていた。多くの興味の本音はどの作家が先物買いできるかを知りたがる読者。そうした経済の流れ、投機の流れに巻き込まれ、芸術としての絵画の意味は忘れられた。19世紀こそ、いかにも絵画が芸術として観られた時代であろう。それはそれ以前の長い、装飾としての時代から、わきあがった美術の変貌だった。

21世紀は創作者の時代。つまり描く行為に意味を見る。人間は何より生きること、生きることをより深く味わうこと。その為に絵を描くことが関わる時代。19世紀の芸術としての表現の時代と、少し似ているが、芸術作品の価値から、自己存在の価値を見つけようとしたのが19世紀美術。素晴しい価値ある絵画を制作する存在であるから、自己存在が確認できる。しかし、21世紀の創作者は創作した絵画の価値に客観性を求めない。もちろんいつの時代も、前の時代を引きずるものだから、相変わらず、商業的評価を求めて描く人も多数を占める。あるいは19世紀的に大家になって価値ある絵画を制作する社会的目的性を引きずる者も居る。しかし、純粋に絵画制作に没頭する者を見ていると、まったく製作行為がその人の生き方であるという人が多数を占め始めている。

簡単に言ってしまえば、絵画の趣味化の時代でも良い。他者から見れば盆栽いじりであっても、国風盆栽展などに行けば、もう人生をかけている作品としかいえない姿に出会う。趣味が嵩じてというか、他人にはどうでもいいのだが、本人にとっては命がけという、笑うに笑えないような趣味の世界に絵画が入っている。良い趣味ですねー。などと言われると、しっくりしていなかったが、最近は自身で趣味そのものだと思えてきた。客観的に見て、それしか居場所がないという事もあるが、どうもそれの方が、自分の制作には相応しい。千日回峰行だって、趣味といえば趣味だ。何の生産性もない。修行などという物はおおよそそういうものだ。もちろん絵を描くと言う事は、楽しいことだから、苦行的修行とは程遠いが、これはこれでやりようだと思っている。
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有機農業協議会

2008-11-26 06:48:31 | 地域
昨年の有機農業シンポジューム以来となる、「有機農業協議会」を目指した、2度目の集まりがあった。ほぼ、協議会を結成することとなった。当面は集まった。「ジョイファーム」「報徳農場」「MOA自然農法」「あしがら農の会」の4団体で話を進めてゆく。出来ればと言う事だが、小田原市農政課に事務局的機能をお願いすることになった。帰ってからも色々考える所があって、昨夜は眠れなかった。4つの組織とも、(MOAは2グループのようでもあった。)それぞれに活動している訳で、一緒に何かやるような組織にはできていない。小田原の農業を何とか活性化したい。これだけが共通の思いであることが確認できた。新規に農業を始めた、農の会のような組織が既存の農家の方とどのように連携がとれるか。それを考えている。

農業の将来が今までのやり方では困難であるとしても、今まで地域の農業を支えてきてくれた。又、今も頑張って道を切り開いている皆さんに対し、「あしがら農の会」が良い印象を与えない。我々のような新規参入の団体が、目障りなことは当然である。最近広まっているのが、「15年農地を借りていて、自分の物にしてしまうのが、農の会の目的だ。」こう言う事がまことしやかに流されている。何か根拠があるのかは不明だが。そんなありえない話を広めて、農の会に土地を貸さないようにしたいという気持ちが現れている。1年前も、私が農地を購入しようとしたら、農業委員会で、理由無く止められたことがあった。それなりの判る理由があるならいいのだが、全くの不明であるだけに、対応が出来ない。最近は、田んぼでヒエを生やしていて困る。これが広まっているそうだ。農の会の者に田んぼを貸すと、ヒエだらけにするというのだ。あり得ないことだ。どこのどの田んぼだというなら、否定も出来る。否定できないような形で、農業委員会の密室でそんなことが語られている。原因や目的は分からないが、何か障害が生まれている。

そうした、言われなき悪評のようなものを払拭するためにも、今回の有機農業協議会の存在は大きい。あしがら農の会に何か特別な目的はない。あえて言えば、新規就農者に情報提供をするぐらいだろう。情報は多様なほど良い。農業委員会にも、農協にも、農政課にも、情報はある。しかし、農の会にも情報はある。情報は輻輳している程、利用できる。昨日の話では、農の会に制限が加わる、三つの要素があると話されていた。1、農地を貸しても得は出来ない。2、隣の芝生説。3、財産管理説。充分分かっているつもりだ。しかし、やりたい人が居て、農地が使われていない状態がいいとは言えない。例えば、その土地が納税猶予の土地であるにしても、誰かが耕作することは大切だと思う。みんなが判っている事で今更の事だ。

農の会の役割があるとしたら、市民的の農業への参加の推進である。農業者にとって、採算性の取れない畑が、耕作放棄されている場合が多い。長谷川氏によると、250ヘクタールの遊休農地のうち、せいぜい使えるのは10ヘクタールぐらいだといわれていた。しかし、私が久野を歩いている感触では、久野だけで使える農地が、遊休化しているところが10ヘクタールはある。市民的には却って素晴しい場所が、農家には使えないという事がある。農家には使いがたい農地が、市民が有効に使えるなら、そこに農の会の役割がある。例えば坊所のお茶畑は、川の奥にあって、細い橋があるだけである。農家にとっては最初に止める畑だと思う。しかし、農の会ではもう10年も使わせてもらった。この茶畑で始めて農業に触れた人もおおいいと思う。農の会としては、有機農業協議会で新たなことをするというのではなく、今までの事業を通して協力して行ければいいと思っている。
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ダンボールコンポストのその後

2008-11-25 06:48:23 | 環境関連
生ごみを堆肥化する。これがごみ対策の基本だ。生ごみはごみの20~30%にもなり、水が70%も含まれる。焼却するにはとても不向きなごみだ。これが小田原では80トンあるそうだ。何とか、40トンまで減らす。これが当面のごみ対策の、方向性だ、と考えている。加藤市長も生ごみの堆肥化を明言している。市民として何が出来るか。ここの家庭の暮し方、家族構成。あるいは地域の状況次第で、対策が異なることが見えてきた。だから、先ず生ごみを減らす、実験を開始することが、当面の課題だ。市民が出来る実験としては、「ダンボールコンポスト」がある。私も9月の10日ごろから実験を開始したから、現在73日目に入った事になる。そのときの課題が以下の7点である。
1、臭いが出ない。
2、虫が出ない。
3、手間がかからない。
4、家庭で出る生ごみは全て処理できる。
5、出来た堆肥で、野菜が作れる。
6、お金がかからない。
7、室内に置く。

この中で、2、虫が出ない。これは失敗した。小さな小バエがでる。最近寒くなった為でない。他については、生ごみを畑に埋めていたときより、楽になったと好評である。野菜を作れるに関しては、先輩の素材を使い実験した。コカブを蒔いて比較した。とてもいい材料であることが判った。比較調査では販売されている肥料より選りすぐれている。熟成されていて、使いやすい。この点では私のところの発酵鶏糞より、優れていた。お金がかからないと言う点では、我が家では最初の腐葉土と言うのを、300円ほどで買ったが、これは土も買わなければならないという人のためである。そのほか米ぬかや、鶏糞も買わなければならない人には、僅か費用がかかる。

73日経って、ダンボールコンポストの発酵能力がガクッと落ち、堆肥に若干ネト付が出てきた。少し休ませて見ている。その間に第2のダンボールコンポストを開始した。原理的に塩分など、ミネラル分が一定量を超えると、発酵は落ちてくるはずだ。そのあたりで畑に返し、肥料として使うのが現実的な感じがする。現在行っているのは、実験であるのでさらに継続してみる。新たにもう一つダンボールを設置してみると、状態で入れ分けるというのも、スペースさえあれば良い方法である。ごみは極端に多いい日もある。こう言う時には2つに分けて入れる。一つで大きいのを作るというのもあるが、どうも2つにして、状態を見ながらの方が、楽なようである。これも今後観察を続けてみる。

現在、ごみ処理広域化が検討されている。この中で、焼却場の位置。最終処分場の位置などは、市民が検討に参加するのは、困難が予想される。ぎょうせいがかたくなに秘密主義をとっているのも判らないではない。しかし、どのような処理法にするのか。市民の参加した実施実験経なければ、まったく机上の空論になるだろう。例えば溶融炉にして、何でも燃やせばいいというような、焼却炉にするならば、分別とか、リサイクルとか、少しでも減らすための今までの努力も水泡に帰す。その意味でも、17年3月に出された基礎調査を洗いなおす必要がある。ごみ量の推計値の見直し。焼却炉一つ、最終処分場一つの案の見直し。炉の耐用時点をほぼH26年とする推定の見直し。小田原市に焼却炉を設置すると言う安易な見方の案の見直し。基礎調査から4年近くが経過し、基礎調査での推計が既に、齟齬を生じている。今の時点で基礎調査をやり直し、合理的な判断を行うべきである。

以上の基礎調査を行うに当って、環境省の提示しているごみ会計がなされていない。この会計方式で、先ず、各市町村を荒い直すことが先決である。その上でなければ、広域化した場合の経済合理性など、推測できるはずがない。それをせずに、安易に距離関係だけで、小田原市に焼却場をおくことが、輸送の側面から見ただけで経済有利性があると結論付けたことは、現実性にまったく欠ける。焼却炉が出来ることで、周辺地価が下落する。あるいは観光地であり、イメージが悪化する。周辺住民数が多く、生活に影響があるならば、これもごみ会計的にはマイナス要素になる。あらゆる要素を加味しないかぎり、経済合理性は推測できない。本当はそうして細密に判断すると、広域化することには、何の経済的な合理性が無いことが見えてくるはずだ。

昨日の自給作業:ほうれん草ダイコンの種蒔き1時間 累計時間:24時間
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秋の収穫

2008-11-24 06:15:54 | 自給
ジャガイモ、サトイモ、山芋とイモ類の収穫が続く。ジャガイモは春秋とできるので、一年切れることは先ずない。タマネギは冬越し栽培が1回なので、今の小さいたまねぎを食べれば、たぶん年内で終わる。ある時は、そればっかり食べて、なくなればしばらくは食べない。今年はピーマンはずいぶん採った。まだ採っている。まだ採っている言えば、ハウスのトマトもまだ採っている。スープに入れて充分食べている。ミカンは切ってしまうので、収穫を一気にしてしまった。ジュースにして、みんなに飲んでもらおうと思っている。そんなにあっても、食べれる物ではないのでいつも困る。来年からは、ネーブルが2本のみになるので、柑橘はちょっと寂しくなる。収穫と言えば、牛蒡はやはり掘るのが大変で、まだ畑にだいぶ残っている。食べる分だけ掘っているが、何時までも減らない。

収穫と言えば、昨日は大豆の会の収穫日だった。30人近く居たようだ。作業も去年どおりで、みんな担当を自分で決めて手際が良い。それぞれが準備して、9時には脱穀開始になった。機械を貸してもらっているので、一気に進む。以前は手作業で脱穀していたので、機械のありがたさが身に染みる。大豆の出来はとてもよかった。3年目で連作の障害と言う心配もしていたが、まったくその傾向も見えなかった。他の作物でも同じことなのだが、トマトなど8年も同じ所で作っているが。何の問題もない。大豆は粒がとても大きかった。一本の木に成る鞘の数は少ないようにも見えたが、実が立派なのでそこそこの収量はありそうだ。問題と言えば、まだ青い木が半分はあった。それは残しながら、収穫して一週間先の30日の9時から2度目の収穫となる。

他の人の情報でも、実る時期にバラツキが大きいと言うのが、今年の大豆の特徴で、出来はいいという事だ。では全てを来週にできるかと言えば、既に鞘がはじけている物もあった。乾いてはじけた大豆は、まん丸である。青い大豆はまだ俵型である。水につけると、又俵型に戻る。小豆やインゲン豆は乾いても俵型。大豆は鳩にでも食べられ易くて、丸くてころころ転がって、隠れたやつだけ生き残ったのか。とても不思議だ。この自分たちで作った大豆というのが、味が良い。みんなの作る味噌が美味しいのは、この大豆のお陰もある。この大豆は納豆にしても、とても良い味に成ったし、ただ煮豆にしても美味しい。以前、総量が不足して、買って来た有機大豆というのを同時に似た。みんなには言わなかったが。味が全く違った。理由はわからない。特別の事をしている訳ではないが、美味しい大豆が出来ている。

自給畑には、ほうれん草を撒こうと思う。深溝栽培の実験。石灰の散布の実験。今までほうれん草は何度も撒いたが、できたことがない。土がまだ良くないと確認の為に蒔いていたようなものだ。しかし、今回は石灰を始めて撒く。以前家畜保健所で置いていったものが、固まって残っていた。石灰など入れたくないと思いながらも、一度試してみたくなった。どの本のほうれん草の作り方にも、石灰の散布が書いてある。たまには本にあることを実験してみるのもいいだろう。私が農作業を継続しているのは、この試してみたいという思いが尽きないからだと思う。自給作業は1人でこつこつやる地味なことだから、大抵の人が繰り返しに飽きる。継続が難しい。楽しくやるには毎年の夢が必要だ。味にこだわるのもよし。栽培法にこだわるのもよし。出来れば、1人より二人、2人より3人と仲間でやれれば一番楽しい。

昨日の自給作業:大豆の収穫2時間、片付けなど1時間 累計時間:23時間
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地価の下落が始まる

2008-11-23 05:20:53 | 地域
地価の動向が景気の状態を一番反映していると思う。株価は投機傾向が強すぎて、思惑だか、実態だか判断付かないことがある。しかし地価はかなりの正確さで将来に対する、実需の強さを反映する。一時バブルで、地上げとかが起こり、地価が異常に人為的に高騰したことはあった。あの時も、地価の高騰にかかわらず実需もあり、投機が導き出した荒唐無稽と言うだけではなかった。あの当時も農地の価格は、開発転用の可能性でもあれば別だったが、普通は動くものではなかった。もちろん当時、将来の高騰を見越して買った人は居た分、すこし上がったが、都市近郊を除けば、結局は前と同じである。地価が下がっている。世界経済から見て当然の事だ。銀座辺りを歩くと、世界のブランドが大きな店舗を急速に広げた。バブルの再来かと言われていたが遠からず、海外ブランドは引いてゆくだろう。

地価の下落が意味する物は人口減少であり、経済の肥大化の調整を意味している。今回の特徴は、都市部から下がり始めていることだ。都市部がバブル再来と言われて、実態の薄い値上がりをしていた。背景には首都圏への人口の集中がある。転入超過数が、2006年07年と連続して15万人程度の増加をしている。08年も同様の傾向である。しかし、土地価格はここに来て低落傾向にある。この原因はよく分析してしておく必要がある、将来の傾向を内在している。都市に人口が戻っているのは、地方の不景気に伴っての事ではないか。社会の余裕が都市部にあるが、その余裕部分を食いつぶしている状態。結果、もう土地が値上がりするようなことは、2度とないという事か。これは事業の考え方において全ての基本となり重要な考慮要素となる。あしがら農の会のこれからのような、丸で関係ないようなものでも、関わりがある。公共事業でも、今までとは違う発想になるだろう。不動産業界、建設業界は当然このことは考えているだろう。

小田原においては、どうなるかと言えば、下落幅が目立ってくるのはこれからである。首都圏の外郭部に位置する、20万都市小田原は、人口衰退が目立ってくるだろう。雇用が減少する。企業においては当然の事だが、どの分野も人余りになる。現在建築分野では、やらないよりは仕事があればましという形で、ダンピング的な請負が起きている、と聞いた。不動産分野では高値では売れる見込みが乏しい、事業そのものが赤字的な開発でも、やらないよりはましと言う事でやっている、と聞いた。地域企業では残業が目立って減ってきている、と聞いた。全て伝聞ではあるが、経済は急速に悪いほうに予兆がある。それが土地価格の下落に現れる。来年は今まで以上に下がるだろう。

田園優良住宅構想が進められようとしているが、その後大きな変化はない。荻窪方面で計画があると聞くが、果たして経済的に可能な状況であろうか。普通の住宅の発想なら、よほど安い価格で売るのでなければ、移住する人は居ないだろう。新幹線の7万円の定期代が、安くなるぐらい、地価が安ければいいのだが。むしろ特徴の際立つ、周辺の農地まで含めた個性的な展開なら可能性はあるかも知れない。潜在力は大きい場所である。小田原駅周辺では再開発事業が計画されている。事業として成立する可能性は、こちらはほとんどないとおもう。今やれることがあるとしたら、事業規模を可能な限り縮小することだ。事業で一番重要なことは、機をみること。もう明らかに逃している。一度逃したら、次に回って来るまで我慢する方がいい。中に居る関係者は、市の職員を含めて、全てを知っているが為に、外から見るような冷静な判断が出来ない。外野は利害関係も、責任も無いから、かえって全貌が見える。しかし、市有地については、無関心とはいかないので困る。

昨日の自給作業:ミカンの摘み取り1時間 累計時間20時間
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エビフライの店

2008-11-22 05:10:02 | 身辺雑記
なぜか私の行くレストランは閉店してしまう。あそこもここもと小田原市内だけで、10店ぐらいは止めた。新しいお店はたくさん出来るのだけど、どちらかと言うと、ちょっと違う店がほとんどだ。行ける店が減ってゆく。そうした中で、1年ほど前に発見した、なかなかの店がある。エビフライが美味しい。なぜかエビフライが食べたくなるとゆく。その昔は、エビフライと言うようなものは家で食べたことは無かった。天麩羅も食べなかった。ともかく揚げ物と言うのは、家庭ではめったに食べることは無かった。油が高価と言う事があったと思う。名前は書いてもいいのだろうが、場所は秘密にしておく。何しろ8畳ほどに10席しかない店で、混んでる日は時々断られる。わざわざそこで食べるために出かけて、食べれないのだから、すごすご帰ることになる。それなら予約しろよ。と成る所だが、ちょっと予約と言う雰囲気の店でもない。予約が必要な店は大体嫌いで入る気がしない。向こうのほうでも来て欲しくはないだろう。

ビックリしたのは、熱海で宴会があり、そこでその店の名前が出たのだ。ビーフシチューが美味しくて、有名な店だそうだ。テレビの食べ物番組では何度も紹介されたとか、と言う事だ。ビーフシチューの薀蓄を散々聞かされて、いかに大変な料理かはわかったが、ジャンルが違う。それじゃー箱根湯本にもある店。と聞いてみると、どうも違うらしく話がまったくかち合わなかった。その店は箱根湯本にもある。そう小田原の私の行く店に書いてある。どうせ書くなら、熱海にもあると書きそうなものだが、それは書いてない。熱海に同じ名前の店があることは確かだ。もちろん箱根湯本の店は行ったことはない。小田原から外まで食べに行くようなことは、私にはめったにしない。レストランも基本、地場である。ついでに書けば、スーパーも出来る限り地場である。私は気に入った場合、同じ物を頼む。「葡萄舎」では海の幸カレー以外食べたことがない。入ったとたん、「今日はカレーがありません。」と言われたぐらいだ。家での作り方をシェフが教えてくれた。それぐらいカレー以外食べない人間と思われている。

その店では、エビフライ以外食べない奇妙な人間と思われている。唯一他の物を頼んだら、「今日はシーフードではないんですね。」ビックリ顔でいわれた。その店は、肉が得意メニューで、ビーフシチューには、特別限定と書いてある。バランスの悪い変な客に思われる。変に思われるのは慣れているのでいいのだが、店の雰囲気を壊す、ということもあるだろうから、こだわりのあるような店には、入りたくもない。誤解覚悟で書けば、汚いような店の方が好きだ。ゴキブリぐらい居ても何でもない。休みにはバルサン炊くような店よりはましだ。否そのエビフライの店にはゴキブリは居ません。その店は予想外の所にある。まさかレストランがあるとは、誰も思わない。ここでレストランを始めようと考えた所がすごい。しかし、一階にあるからそれでも良い。そこには、なんと、歩いて三階まで迷路を上がって、食べる食堂もある。そのどこが入り口だか関係者以外にはわからないという、不思議な食堂も入ったことがある。そういう店を見ると、一度は入りたくなる性癖がある。

以前、小田原担当だった太った食べ歩き記者と、イエローページ足柄を作ろうと話した。私はマイナー店舗を担当するからと言っていたのだが、記者が転勤になって立ち消えになった。さすがに10年も経つと、店の方が止めたところばかりで、マイナー担当は難しい。遅ればせながら最近気付いたのだが、私の好みが、結局年寄り向きなのだ。刺身を除いた魚介類にかぎる。刺身は外で食べる気がしない。焼き魚が食べれる店が先ずない。バンバン煙を出して、煙の染み込んだような店は出来ない。フランス料理風も好まない。しかし、そこのシェフはまさにフランス料理そのもののような人だ。見るからに、シェフ以外の何者でもない。太っていて、ひげを生やして。声は低音。いかにも食べ物好き。見たところは一流のシェフだ。味も一流らしいが、一流と言う所で食べたことが無いのでわからない。。只者ではない。そのえびフライの美味しい店は「ス○○ト」という。
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水彩画のパレット

2008-11-21 05:02:29 | 水彩画
水彩画の良いパレットがない。以前から困っていて、良さそうであれば使ってみていた。多分、めったに使わないパレットが10以上ある。もったいないことだ。使い勝手の良いパレットについに当った。写真の物である。水彩画のパレットで大切なことは、色の色調が正確に見えることと、水に溶かした濃度が自由になることである。そこで、陶器製の白い皿がいいのだが、これが日本画とは違う訳で、日本画の菊皿などでは使いにくくてダメだった。そこで、陶器店に行くと必ず探す。当然画材店より多種類あるし、いいものに当たることもある。今までは小皿で使い勝手のいいものを、あれこれ使っていた。所がこれだと、混色などが自由に出来ない。とっさの判断で、反射的に混ぜてゆくので、広く水の貯まる場所が無いと上手く行かない。そんなことを重ねていて先日、たまたま、家具のニトリがシティーモールにあって、そこで良い皿を見つけた。

見たときは一体どういう目的の皿か、皆目検討が付かない皿だった。こんな食器で、食事をするのだろうか。そういう人もいるかと考えたから、売られているのだろうが、どう見ても不思議な皿だ。唯一使えるとしたら、水彩画のパレットである。皿が可哀想に見えたので、どうせダメだろうと思いながら、二枚買ってしまった。一枚600円程度である。きわめて安いともいえるのだが、使えない物なら、えらい高い買い物である。本当に、食器として買う人がいるとすれば、この一マスにご飯も盛るのであろうか。後おかずが3種類か。それじゃー食べにくい。おかずだけ4種盛る、しかもかなり水分のおおいいおかずとなる。最初は恐るおそる絵の具を出してみた。私は12色程度を使うので、これだと8色と言う事になる。8色を斜面に出して、それを皿のそこで溶かして使ってみた。色の濃度が見えやすい。斜面の角度が適当で、水を多く入れれば、50CCくらいは一マスに入る。

今やこの皿無しに絵は描けないというほど手に馴染んだ。本当はもう一皿あれば、12マスになってさらにいいようにも思うが、面積的に現在使っている、テーブルの面積がちょっと手狭に成る。その点度胸が無くてもう一枚を買えないでいる。600円が惜しいという訳ではなく、絵の道具はそうは簡単に慣れた物を変えられない。しかし、あまりの使い勝手のよさに、もう3枚は買っておく必要があるかも知れない。こんなヘンテコな皿が何時までも売られているとは思えないのだ。本当はこの皿はオリジナルな目的でもあるのだろうか。北欧の何とか料理では一般的だとか。幕の内弁当を家庭に持ち込んだつもりかも知れない。もしこれを考えたのが、日本のデザイナーだとしたら、只者ではない感覚だ。只者ではないが、会社ではちょっと先に行過ぎていて、困りものかもしれない。イギリスの最新の雑貨店で売られていたパクリ。と言うようなことはないか。

その際ついでにと言うか、水差しも買った。この急須もおかしな急須で、蓋が変だ。丸で安定しない。上部全面がふたで、スッキリしているようで野暮ったい。いまひとつ決まっていないが、これまた、水彩画の水差しとしては、文句のつけようがない。この水差しで、溶く水分量を調整しながら、パレットに注ぐ。実に主張しないし、過不足がない。蓋だけはとっておいて使ったほうが良い。筆洗は日本画の筆洗いの一番大きい物だ。もうこの3点セットで、水彩の筆廻りの道具は結論が出たようなものだ。もう1点乳鉢があった。何でと思われるだろうが、これも必需品。どれも白の磁器。昔の電線の碍子のような、そう質の高いものではないから、殺風景な白である。その殺風景、実用一点張りの感じが、却って気分を邪魔されず。制作向きなのだ。どれも表面の滑らかさが筆を傷めず、水が切れるところも良い。落として割れず、滑らかさは金属たわしでも傷まない。
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自給農経済

2008-11-20 06:13:16 | 自給
急に寒くなった。今朝は霜が降りている。畑のほうも仕事がだんだんなくなってくる。それでも、寒さに向かって芽を出す者達もいる。冬小麦が代表的なものだ。何故、寒さに向かって芽を出すのがいいのか。不思議なのだが理由は想像出来る。冬の寒さでも枯れない植物の場合、春先に幼穂を形成することは有利な側面がある。生育初期には他の植物との競争が少ない。その上に日に日に暖かくなるに従い、実を膨らませることが出来る。一番大変な子孫を残す仕事が、一番いい季節に行えることになる。それはエンドウやソラマメなども同じ性質だ。好き好んでこの寒さに小さな姿で耐える。虫も少ないし案外生き残る。暖かい内に撒くと、どんどん大きくはなる。しかし、寒さに耐えることができるのは小さい内だけで、伸びすぎると霜枯れしてしまう。だから、発芽ができるギリギリ遅く撒くのがコツで、どうせ春になって大きくなる。寒い時は寒い時にできるものを食べるのが、自給農の経済だ。

自給農の生産価格は、売られている食品価格と較べるて、安いと思うから成立する。例えばお米だ。10キロで、4000円くらいで売られている。農家が受け取るお金はせいぜい2000円ぐらいだ。自分で作る人はもし作らないで、買おうと思えば、4000円が頭にある。だから、4000円するなら作ろうと考える。このときには農協の出す。2000円は関係がない。加えて、大抵の場合遊んでいるより、田んぼでもやっていた方が良い。少なくとも地域での見栄えが違う。年寄り扱いも嫌だ。ゲートボールどころでない。まだまだ、田んぼぐらいは出来る。一丁前であると思いたい。これは私のことでもある。まして、無農薬でやる。有機でやる。天日干しでやる。不耕起でやる。冬季湛水でやる。そんなお米買うとしたら、1万円にもなる。それなら自分でやるのは、随分安いことのなる。

おおよそ、私たちのやり方の手のかかる田んぼの労働時間で、年間60時間だ。それでほぼ120キロのお米が分配できる。自給1000円の6万円の労賃を計算に入れたとしても、参加実費の1万円を加えて7万円で。10キロ6000円で、こんな美味しい、自分たちが望むお米が手に入れば悪くはない。これが自給農の経済になる。まして労賃を入れないで考えるから、自給農を淘汰することは絶対に不可能だ。しかし、自給農が出来るのはその場に暮しているからだ。最近フードマイレージと言う事が言われる。アメリカ製の食パン1斤を食べる場合と、北海道産の小麦で近所のパン屋さんの製造のパンを比較する。CO2の排出量で較べるようで、3分の1位で済むと表示されていた。東京から足柄地域まで出かけてきて田んぼをやる場合どうなるか。これはアメリカのお米と較べてどちらに成るか、似たような物なのか。

やはり、そこに住んでそこで作って、そこで食べる。これが可能であれば、フードマイレージでは、一番合理性がある。そして農法も、できる限りCO2を出さない方法を選ぶ。その集約された主張が、「地場・旬・自給」である。20年程前に死んだ窪川さんと迷走中の地球がどこに軟着陸するか。会うたびに話していた。特に日本の状況は、悲惨な未来が予測される。惨劇を少しでも軽減するには、食糧の自給を目指すしかない。その日がますます近づいてきている気がする。機械の使用を少なくすること。誰でも楽しく取り組める自給農の技術を確立する。そうした小さく循環する自給農業の経済合理性を確かめてゆくこと。2,3日前最後の路地トマトとキュウリを食べた。そして畑を片付けた。それは極め付けに美味しかった。もう少しハウスにトマトがある。これもそろそろ片付けに入る。

昨日の農作業:ほうれん草播種の準備1時間 累計時間:19時間
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警視庁警視の飲酒事故逃走

2008-11-19 05:28:10 | Peace Cafe
何と、警視庁の警視ともあろう人間が、酒に酔って車を運転、当て逃げする事件が起きた。しかも、その場を逃走し、自損事故を起こして捕まったと言う。もうここまで来ると言う言葉がない。飲酒運転で事故を起こし、しかも被害者を救済するどころか、何キロも引きずって、死なせてしまうと言う。信じがたいような怖ろしい事件が相次いでいる最中だ。人間と言うのはどうしてここまで駄目なことをしてしまうのか。悪魔に魅入られたとしか思えない。他人事で言うのではない。私自身事故を起こして、逃げてしまう夢を見る。目が覚めて、ああー夢だ、逃げなくて良かったと、冷たい汗をかく。先日、5時間ほど前に飲んで助手席にいたとき検問にあった。是非検知器で計っていただきたいと、お願いした。警官は嫌がったが、ぜひにとお願いして試した。その時は検知器に現れなかった。運転をしていなかったにも関わらず、何故かホッとした。事故を起こして、逃げてしまいそうな自分が居る。

警察庁資料によると、平成18年に発生したひき逃げの発生件数は、1万8366件に、H10年の9千件程度だった。交通事故数は、やや減少であるから。ひき逃げしてしまう人間が急増である。要因は、いくつか推測できるが、飲酒運転の厳罰が一番であろう。逮捕された人間が飲酒していた例が目立つ。交通事故は恐い、自分が事故を起こした姿を想像しただけで、ゾーとしてしまうことがある。誰にでも不可抗力の側面もある。先日運転していて、横断歩道にいた人が、一度その場を離れた。そこで横断歩道を進もうとしたら、突然、横断歩道にめがけて飛び込んできた。急ブレーキをかけて停車できた。40前後の女性であった。その態度が、なんとなくだが意識的な感じがした。そのまま道路を渡らず、小走り路地に入っていった。幸いかなり手前で止められ、事なきを得たが、もし当っていたら、恐くなった。車を運転すると言うのは、かなりのリスクのあることだと思わなければならない。どれほど注意しても、誰にでも事故の可能性はある。

人間事故を起こしたらば、誰でも狼狽すると思う。その時に人間の弱さが出ることも想像出来る。それが飲酒状態であれば、尚更、逃げたい気持ちが強くなるだろう。しかし、これはあってはならないことだ。飲酒運転がどれほど悪い事か、誰でも知っている。それでも飲んだ上で運転してしまう人が後を絶たない。不思議なことだが、人間は情けない物だと思うしかないのか。事故を起こしても、すぐに対処していれば助かることの方が、はるかに多い。車を運転する者は常に考えておかないとならない。命に勝る物などなどない。飲酒運転で事故を起こせば、当然犯罪者だ。社会的にも失格になる。しかし、そこで逃げてしまうことを思いとどまり、負傷者の救助が第一。全てはその後の事である。逃げなければまだ道は残されている。この逃げてしまう心理と言うのは、弱くなってきている現代人の精神状態が良く現れていると思う。不利状況に対処できない。すぐパニック状態になる。

実はひき逃げを減らすすべはいくつかある。ひき逃げした時に、必ず事故現場に証拠が残る車を作ることだ。独特の塗料がいいのだろう。簡単に被害者の衣服に残るようにする。そんな塗料も工夫できるはずだ。車の工夫は様々あるだろう。大いに研究することを、車の製造会社に義務付ければ良い。
罪を重くすること、これも抑制には成る。と同時に事故での被害者救助に全力を尽くしたことによる、飲酒運転の罪の軽減を行う。
もう一つは逃げ得をなくすこと。ひき逃げの逮捕率が30%まで下がっている。交通部署だった警視が逃げられると考えた訳である。日高容疑者の呼気から基準の4倍の1リットル当たり0.6ミリグラムのアルコールが検出された。 調べに「酒を飲んだので、車内で2時間ぐらい仮眠をしてから運転した。酔いがさめると思った」と供述した。帰宅しようとした理由を「翌日、仕事があったため」と話している。
何たることよ。

昨日の自給作業:タマネギの植え付け1時間 累計時間:18時間
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生ごみの削減法

2008-11-18 05:34:05 | 環境関連
「生ごみを少しでも減らしたい。」これが養鶏を続けた動機のひとつだった。餌になるものは餌にする。2000万トンも存在すると言う、食品廃棄物の量は輸入畜産飼料の総量に匹敵する。この2000万トンをごみとして燃やしてしまう、この無駄は、畜産の飼料の考え方を変えれば、解決できることだ。そのための技術開発が、私が試みた20年の養鶏業だった。私が育った時代は、そうやって生活の周辺で家畜は飼育されていた。それが臭いとか、うるさいとか言う事で、徐々に隅に追いやられ、人目につかない巨大な工場のような、閉じた空間で行われるようになってしまった。養鶏について私なりに提案はしてきたつもりだが、自然養鶏はむしろ後退してしまった。養豚の方も、同じことである。その大きな要因になったのが、食品リサイクル法と言う悪法である。出来る前はこれで廃棄物問題が、解決できると期待した。所がこの法が出来たために、畜産関係者の収集が排除されることになった。

廃棄物取り扱い資格を持つ者が、発生源と利用者の間に入る事になった。食品廃棄物を1箇所に集め、堆肥や飼料を生産する。そこで、価格の問題が出てきた。廃棄物業者は廃棄物の引き取り費用をもらう。1キロ25円とか。70円とか言う価格である。これは1軒の豆腐屋さんで、100キロのオカラが廃棄されるとして、1ヶ月10万円にはなる。昔なら、畜産業者が引き取りに行き、お互いに無駄なく回っていた。このオカラは例えば富士宮の方まで運ばれて、堆肥になっている。私が使う方が全てにまさることが判る。学校給食廃棄物でも同じことである。以前は、地域で使えた。小田原市でもこれを認めていた。所が法があると言う事で、私たちは貰えなくなった。先日再度申し込んでみたが、無料で引き取ると言うのに、法を根拠に拒否された。

先日報徳小学校の学校給食廃棄物の処理システムを見学させてもらった。生ごみ処理機が置かれていて、そこで、地域の生ごみや、学校給食で出る生ごみを処理してゆこうと言う仕組みだ。とても良く考えられている事例であった。問題は現状では活発化するというより、少々衰退の方向にあるようだ。一番は誰がこれを担うのかの、主体の存在の弱さである。ボランティアで支えられているために、善意の人が、一人減れば、活動が途絶えると言うような状態とのことだった。一言で言えば、市民の出す生ごみの焼却が減れば、1キロ減れば、25円の経費が削減できると言うコスト意識だ。自治会が集めて、持ち込む量はわかっている。月に100キロなら、2500円はお払いすべきだ。

生ごみの削減はその地域の特徴に併せて行わなくてはならない。小田原のように、様々な暮らしが複合的に存在している地域では、方法を組み合わせる事が重要だ。そして、削減した生ごみの量に併せて、減らした者が少なくとも1キロ10円程度のコストを受けることだ。生ごみは焼却炉で燃やせば、炉は傷めるし経費もかかる物だ。市はそうした支出をおこなっても、財政的にはマイナスになることはない。
例えば、
1、生ごみを出さない自治会を募集する。応じた自治会が100世帯なら。1軒あたり4000円。年間40万円の自治会費を市は補助する。時にその自治会のごみを検査すればいい。
2、個別に行う家庭にも、補助を出す。市役所の環境部に出かけて、誓約書を提出する。私は生ごみを入れません袋を配布する。そこに名前を書いて、ごみを出す。

徐々にそうした自治会が増え、市民全員が生ごみを出さなくなれば、4000万円程度の経費がかかることになる。これは高すぎるか。どの辺りが、廃棄物会計として適正であるか検討する価値がある。

昨日の自給作業:タマネギの植え付け準備1時間 累計時間17時間
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定額減税

2008-11-17 06:25:24 | Peace Cafe
定額減税が不評である。今まで減税が提案されて、国民多数から不評だったことなど無かった。報道でも疑問視する意見が大半を占めている。日本人も変わって来たのかもしれない。世界は未曾有の経済後退が予測される。それはひたひたと迫っている。日本はサブプライム問題で、被害は少ない方であったとされているが、大半の輸出によって成立している企業は、来年は実際の打撃が現れ始める。こうした不安に対して、政府が打てる手は限られている。内需拡大。人口が下降線に入り、これも期待できない状況。しかし、ある種自転車操業に陥っていっている大多数の企業は、方針の転換など出来ない。銀行の貸し渋りと言うが、新たな事業展開など難しい中、当面の資金繰りに融資するなど渋るのは当然の事だろう。成熟化した社会では、新たな設備投資をする必要が減少してゆくのは普通であろう。

例えば住宅産業である。建設業界は不景気不景気と言われながら、住宅建設から転換できる内に、撤退しようと言う所は聞かない。より競争を激しくしながら、仕事がないから、無理やり仕事を作り、ある意味最後のあがきに入っている。新たに家を作る人の方は、どんどん減少している割には、新規の住宅建設が目立つ。そう思うのは、舟原に住んでいるからかもしれない。現在7棟の住宅地の開発が、私の隣地で行われている。10メートルぐらいの所には、2棟建売住宅があり、1棟はまだ売れない。50メートル行くと、やはり2等の宅地が整備されている。200メートル下ると、8棟の宅地整備が進められている。どこも素晴しい場所だから、住むにはいいと思う。近所の私としてもお勧めの物件だと思う。土地価格や開発費を知っているだけに、おおよそ幾らで売られるかも、それで売れたとしてどのくらい利益が出るかも、推測は出来る。業者の利益など無いと思う。お買い得ではある。しかし、申し訳ないが売れそうに無いと思う。家を探している人より、出来てくる宅地の方が多くなれば、買い手市場である。

そうした自転車操業状況はどの分野にもあると思う。ここに定額減税である。誰が考えても、判断が悪い。経済の総理と言う看板だったが、トンチンカン総理だ。今は公明党を悪者にして済ませている。公明党は定額減税を選挙資金に吸い上げる。こう言う事をテレビで言う人がいた。なるほど、選挙が先延ばしで、資金不足を定額減税で補う。責任者は麻生首相だ。高額所得者問題は地方に判断を任した。ほとんどの自治体が、事務処理が面倒だから一律と言う事らしい。当人が辞退すると言う前代未聞の意見もあった。それで思ったのだが、税に対する不満は気に入らない目的に使われるからだ。例えば六ヶ所の核燃再処理に使う税金の無駄遣いが、腹が立つ。私の税は、これとこれに使う。こう言えるようにしてくれたらいい。

今回もし私にも定額減税をしてくれるなら、この12000円は。伊藤さん基金に寄付したい。

 アフガニスタンで8月、武装集団に拉致・殺害されたNGO「ペシャワール会」(福岡市)の職員、伊藤和也さん(当時31歳)の両親が、アフガンの平和復興に役立てようと「伊藤和也菜の花基金」を設立することが分かった。基金の口座は「静岡銀行掛川支店 普通預金0840055 伊藤和也アフガン菜の花基金」。

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小麦の播種

2008-11-16 05:26:36 | 自給
         写真は草に埋もれた白菜など
小麦は山北にいた頃は作っていた。だんだん田んぼのほうに力が入りった。小麦の収穫と田んぼの苗作りが重なって、どうにも頭が混乱するようになってしまい、小麦は止めた。田んぼの抑草技術の確立ができるまでは我慢することにした。それが今年のソバカス抑草でほぼ完成できたので、いよいよ、小麦の作付けを今年は行った。田んぼに小麦を蒔いた訳ではない。畑のほうに丁度1畝だけ種蒔きをした。ただし、田んぼのほうでの作付けが可能か、同時進行で様子は見ている。稲刈り後、すぐに耕運をした。もし田んぼに裏作として、小麦を作るなら、可能かどうかの作業経過も見たいと思っている。堆肥を入れる代わりに、クリムソンクローバーの種まきをした。クローバーのほうは本葉が出始めたところだ。11月に入ってすぐ、畑は耕し始めた。そして、二見の健やか肥料を3分の1、発酵鶏糞を3分の2の面積に入れて比較実験をする。

2週間置いて耕しながら、小麦の種蒔きをした。11月半ばがこの辺りの適期のようだ。一畝の種蒔きで3時間ほどかかった。これが1反だと30時間かかる訳で、やはり手蒔きは人数がいる。田んぼの裏作で2反5畝やると、10人で一日仕事になる。それでも秋の方の作業は何とかなるにして、春の方の、苗床作りから稲のセルトレー蒔きやら、アレコレの煩雑さがどうなるか。ここを見極めた。6月の小麦の収穫と、多雨の兼ね合いが、問題になる。小麦の天日干しはとても無理だろうから、この辺りの作業方法が、問題になるだろう。コンバインで刈り取って、粒をビニールハウスで干す。この場合はせいぜい、1反までだ。今後の検討課題である。

国産小麦は今やパンブームで、先日も諏訪の方から、パン屋さんをされている方が見えた。平塚の方の麦師を表明されている方と、連絡があるらしい。パン小麦を自分で作りたいとも言われていた。考えさせられる所があった。小麦を自分で栽培してパン屋さんをやると言うのは、在り得ない話だ。農家にお願いしてとなれば、農家で小麦を作る採算性はどう計算しても、想像が出来ない。それはお米以上に採算性の悪い事になるだろう。北海道の方でよほど補助金でもあって、初めて成立するものだろう。それでもやられている人はいる。全てが経済では動かないと言う事なのか。蕎麦屋さんで蕎麦を自作する。これも現実にはありえない。体験的にそばを作ると言う事までは、出来たとしても、継続することはなかなか難しい。それでもそういう気持ちを持つと言うのは、大切なことだし、全ての原点だろうから、そこから発想しなおすと言うことは、必要だ。

小麦の栽培では、二見健やかファームと笹村農鶏場の床とを比較調査する。野菜ではコカブを使って比較した。20センチの鉢に、10%と20%と混ぜて、コカブの播種実験を行った。なかなか難しい肥料だ。そのとき同時に較べたのが、ダンボールコンポスト。これが案外成績がいい。畑の土だけの鉢も用意して、同時に蒔いているが、さすがにこれは生育が悪い。健やかファームは発芽が悪かった。先日二見の専務にそのことを話したら、難癖をつけるのは止してくれと言う感じで、とても怒っていた。二見の肥料は生と考えた方がいい。8時間で作るものだから当然の事である。畑で再発酵を始める。虫が湧いた所もある。だから使えない肥料と言うのでなく。使い方が独特なものだと言うのが、今の経過だ。

昨日の自給作業:小麦の播種3時間 累計時間:16時間
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