地場・旬・自給

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ネットカフェ難民

2007-04-30 06:26:15 | Peace Cafe
難民と使ったところが、なかなかひきつけられるセンスだ。早速ネットカフェというものが、どんなところか見てきた。小田原には3箇所、あしがら地域では他にはないようだが、秦野には一軒。若干薄暗い場所だ。若い人ばかりが、動いていた。どうも、群れではないので、たむろしていると言うような感じではない。図書館のように静かにしているか、というとそうでもない。落ち着かない空気のところだ。ここで泊まっている若者がいるという。小田原のネットカフェに難民がいるかは確認できなかった。見たところでは難民生活といえそうな人はいた。ネットカフェの料金というのは、どうなっているのか、一見確認できないのだが。夜るの間、ここにいても、1500円程度のようだ。これでいられるなら、昔のオールナイト営業の映画館のような感じかな。そのほか、個室か衝立仕切りの場所か。たぶん料金は違うのだろう。

漫画が沢山あるようだ。パソコンももちろんある。携帯電話の場所というのもあったが意味がよくわからない。電話などどこでもかけられうだろうが、どんな仕組みになっているのか。補導員かなと思われる人もたまたま見た。たぶん、22時以降は15歳未満は入場禁止とか書いてあった。聞くところによると、結構高校生年代にとっては物騒な所でもあるらしい。そうした様子は全く見かけなかったが、見えないところで、何かがありそうなトコロではある。そんな空気じゃなければ、若い人が集まる事もないだろう。入ると飲み物や食べ物が、無料の物もあるらしい。モーニング0円という表示があった。聞けばいいのだけれど、忙しそうで見学の叔父さんがあれこれ聞けなかった。

難民として一晩居るには、悪くない場所だ。但し、一晩椅子に座っているのだから、椅子がリクライニングならいいが。種類はあるようで、これがいい椅子を選べるかどうかが重要とは聞いた事がある。1500円で一ヶ月居たら、45000円。安直ではあるが、安いかどうか。小田原ではシャワー設備のあるところはなかった。しかし、コロナの湯が隣にあるから。この辺りで何とかなることはなる。私はそうした難民を選択する人を悪いとも、困るとも思わない。一つの選択だろうと思う。報道ではこれを調べた人達は、生活保護対象者が居たら困る。というような事が書かれていたが、何か焦点が違う。

ネットカフェ難民の姿に、この時代のある側面が現れている。いかにも受身の楽な暮らしが見えてくる。フリーターとか呼ばれる人達の感じと、通じ合う物がある。気力の欠落。気力が萎えやすい社会状況の方に、問題を感じる。これが格差社会の作り出している空気。その格好に受け皿が、ネットカフェ。ネットゲームの麻薬性に引きこまれているのだろう。そこから難民になるまでの距離は近い。カラオケ・ボックスというものにもその匂いはあった。タマゴッチというおもちゃの流行にも、兆しは合った。ネットカフェ難民はきっと難民嫌いの政府には、在留許可は出ないだろうが、この難民をどう低賃金で働かすか。そんなことを考えている人は間違いなく居る。昔新宿のたむろしていたフーテンと呼ばれた人を集めて、荻窪のほうの洗濯工場で働かせていた人が居た。金沢の友人に働かされた一人が居る。洗濯屋に行ってからは結構働いたそうだ。
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強制換羽の是非

2007-04-29 06:13:15 | 自然養鶏
笹鶏の孵化はお陰さまで順調に進んできた。今年は雛鶏の孵化に集中できず、不安の中で進んだ。だから、今年は私がやったというより、カヨ子さんが殆どを行った。一番難しい、育雛舎の床も最後の物は初めて私がやらなかった。何とか無事切り抜けたのは、幸運だった。今年は何故か、ネズミが大量に発生していて、ヒヨコが初めてやられた。可哀想な事をした。何とか穴を塞いでしのいできたが、簡単な事ではない。どうも周辺の環境バランスが崩れているように感じられる。暖冬の結果なのか。餌の問題なのか。観察を強める必要がある。そうしたことに関連するのか。カラスの100羽ほどの群れが現われて、周囲をいつもうろついている。ヒヨコが狙われたと言う事もないのだが、ネズミを食べているのか、餌もないところで、地面に降りている。

自然卵通信に名越さんの考えとして、強制換羽の有効性が書かれていた。以前から、これは危険なことだから、止めるように私は主張してきたので、名越さんが、強制換羽を評価している事は、全く意外だった。自然養鶏は行う者の個性によってそれぞれに総合的な形で出来上がっているので、単純に他の人の考えや、方法を取り入れないほうがいい。先ず自分なりに咀嚼して、可能性があると感じた時は、先ず実験と観察から始めなければならない。強制換羽とは、産卵期間を延ばす為にできた技術だ。例えば、産卵を始めて、13週目で産卵が落ちて来た場合。そこで餌を1週間ほど与えない。体重を20%から30%落とす。すると鶏は羽を抜け換わらせる。卵輸管という器官の萎縮が起こると、と養鶏書には書いてある。その後産卵を再開し、又、若鶏のような卵を産むようになる。という技術である。

鶏にとって何が、好ましい事はどんな事なのか考える時は、野鶏の自然の状態を想像して見る。鶏が1週間も餌を食べない事があるだろうか。あるぞ!なるほど、ヒヨコを孵化する時はそのくらい絶食する。どうもこれと関連している、のではないか。就巣性が産卵鶏は取り除かれている。本来、産卵を春先行い、鶏は巣につく。そして、絶食して雛を孵化する。これが自然の雌鶏の姿だ。これを再現してやるとするなら。このことは合理性がある。しかし、私のところの笹鶏のように、就巣性が少しあり、休卵期間が存在する場合は、又違う要素を考慮しなくてはならないだろう。鶏の持つ産卵のサイクルにあわせて管理を考える必要があるのだろう。巣についた鶏の別飼いは今も行っている。餌をやらずに、1週間ほど置く。これはいい方法かもしれない。試して見る必要がある。

しかし、鶏本来の習性を取り除いた品種改良を行った結果から、取り除かれた絶食期間を、もう一度、人工的に再現してやるというのは、なにやら不思議な方法とも言える。強制換羽を動物愛護団体が、動物虐待だと指摘するので、これを切り抜けるために、食べてはいるが、身に付かない餌と言うのも、開発されている。普通に食べているようだが、栄養にならない餌だ。飼料中のナトリウムレベルを下げ、亜鉛やヨウ素を上げる餌だそうだ。こうなると、流行のダイエット食のようで、なにやら、人間の姿がダブってくる。20%から30%ダイエットさせる技術。80キロの人が、60キロぐらいになるなら、そんなものか。だとすると、すでに痩せこけている、我が家の鶏には、やはり強制換羽は不要な技術だろう。
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菜花の出荷

2007-04-28 08:34:18 | 自給
最小限の家の前には、自給畑がある。現在菜花が咲き乱れている。5月に入ったら、これを整理して、いよいよ畑にする。苗がビニールハウスで準備が進み、それなりに植えられるようになっている。先日の畑の勉強会では地温の重要さを石綿先生から教えていただいた。これは、頭に残っている。あれこれ問題にするより、1度の地温を上げる事の方が大切だ。そうしていたら、田んぼの稲葉さんの発言が現代農業にあって、田んぼでも地温を上げる為の早期湛水が奨励されていた。すぐにもやりたくなるが、これは来年以降の課題と我慢しよう。ともかく地温に注目。その意味では、5月5日頃と10月10日頃。これを作業の季節の境にしていた。もう大丈夫。もう終わり。記憶しやすい事と、やってみて大体これで進めたからだ。それにしても、苗の販売は早くなった。今年など、ナスの苗が、4月始めに売られていた。

早い者勝ちが商売の鉄則だから、そうなるのだろうが。遅いのはともかく、苗を早く植えていい事はない。商売としては、1回目の苗が、枯れてくれればもう一度と言う事かな。自然に従った農法は、ゆっくりに成る。生育も遅いが、植え付けも近所が終わってからになる。自信がないもので惰農と見られそうなところが困る。田植えも早くなっている。他所より遅くなると気が急くというのはあるが、この5月の連休というのが曲者で、ここで田植えをしてしまおうという人が出てくる。そうなると、つられて水路の清掃など、畦の草刈を含めて、やることはでてくる。結局早い者にあわせて、田植えの時期が変更になる。これは地区によってだいぶ違うが、連休田植えが小田原でも出てきている。

タマネギが収穫期に入った。今年は気がつくと草を取った。何度もとった。これも、石綿さんの教えだ。ネギ類の根圏は他の植物を嫌う。結構様になるたまねぎが食べれる。ところが、どうもこれが円錐形が尖っているのだ。そろばん球のようにならない。もちろん種類もあるのだろうが、丸いのもあるのだから種類ではない感じだ。そこで、朝の出荷の時に、みんなに聞いた。そうしたら、ネギの話が色々でた。これが貴重だ。植え付けの深さ。これが形に出るそうだ。深植えにすると玉が細くなる。しかし、家が浅いのは間違いない。それでも初めて、後から土寄せというのをやったから、慣れないことをやったせいかもしれない。土を寄せるには草が生えていては出来ない。大体は草だらけで、土を寄せようがなかったのだ。観察しながら今度は抜いて見るつもりだ。

ネギの塔立ちの話もでた。大苗を植えると塔立ちが早いというのだ。小さめの苗を適期に植える。これが一番だそうだ。と言っても、天候が安定しないなか、これを実践するのは運もある。菜花だ。菜花の出荷をした。野菜を出すような事は先ずない。出せるレベルの野菜が中々作れないのだ。でも、今は端境期。何かあれば是非出荷をと言う事で、菜花を出荷させてもらった。開墾した後、何からスタートしようか思案した結果、花が一面咲けば綺麗だろうと言う事で、菜花を栽培した。というかばら蒔きした。畑には、2度堆肥をまいて、耕した。その後もある程度生育してから、更に堆肥撒き。元気な菜花になった。今は蕾が終わり、花盛りだ。農家の方はこの美しい一面の花を見るとぞっとするそうだ。雑草が広がるようで怖いのだそうだ。あまりに美しいので、中々刈り取れないでいる。
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レジ袋と買い物篭

2007-04-27 06:10:43 | Peace Cafe
レジ袋、別段レジの所で貰うからと言って、レジを入れるわけでも、レジから出てくる訳でもないので、おかしな名前だ。マイバック運動。買い物に袋を持って行きましょうと。これも、スッキリしない名前だ。名前が悪いと成功しない。でも買い物篭持参運動。これではさらにまずい。こんな事になる前は、当たり前だった買い物篭は、暮らしに余裕があったからだ。買い物はついでの事ではなかった。貧しいけれど、時間があったり、人手があった。大家族と言う事もあるだろう。捨てると言う事が少なかった。先ずは取っておいた。カンでも、ビンでも、どの家でも貯めておいた。使う機会が必ず来るからだ。我が家では今でもレジ袋は、購入しなくてはならないほど、有用なものだ。随分便利に有効に使える。きちっと有効に使えば、マイナスだけではない。ともかく簡単には燃やさない事だ。何度でも破れるまで使えばいい。

買い物篭これには愛着がある。様々な自然素材で、編まれていた。最後にはビニール紐で編まれた、モダンな奴も出た。モダンに成って消えた。自然素材の方が良い訳でもない。ビニール製だって、充分使えば同じ事だ。ビニールを悪者にしても意味がない。NO2の削減。京都議定書。ここでは、日本が削減を約束した。6%のうち、森林による寄与が1,300万炭素トン(1990年排出量比3.9%)が計画されている。今更、日本の森林が増やせるわけがないので、2通り考えられている。一つは海外での植林。我が社はブラジルの森を育ててとか、コマーシャルでやっているあれだ。偉そうに主張しているが、義務をこなしているのだ。もう一つはすでに荒らしてしまった、人工林を整備管理すれば、植林したのと同じように計算します。3条4項にそういう規定がある。これが良くわからないが、ともかく、下草刈りをする。枝打ちをする。間伐をする。森林管理はどうもインチキ臭い。

植物が大昔堆積した物が石油、まわり回ってビニールになっているのだから、そもそも、植物由来の資源をどう使うかで、燃やさない使い方なら、悪い訳ではない。色々疑問はあるが、温暖化というものが、着目されて森林管理に繋がるのはいいことだと思うが。温暖化の要因はそれほど単純ではない。化石燃料をつまり、地球に蓄積された。植物起源の資源をゆるやかに使おう。こう言う事なのだろうが、結局は時間は延ばすがあるだけ使い切るのであって、これでは解決案ではない。化石燃料を使い切る。その上のことだ。天然ガスだって同じこと。先に延ばしている間に、次の方策を考えるという時間稼ぎ。ここで、必ず、原子力エネルギーが出てくる。これを止めて欲しいのだ。原子力を出す為に、NO2問題を持ち出している。

もう一つ止めて欲しいのが、バイオエネルギー。良いようで問題は深刻だ。アマゾンの森林を伐採して、トオモロコシを植える。サトウキビを植える。しかも食べるわけではないから、化学肥料に農薬を多投する。遺伝子組み換え作物が蔓延することになる。バイオエネルギーが地球を滅ぼす一歩を進めた事に間違いがない。人間が増えすぎた事と、消費的な暮し方に偏りすぎた事。これがを何とかする以外。人間が不時着する場所はない。
太陽エネルギーの利用。ひなたぼっこ。暮らしをひなたぼっこ型に変えること。
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高校野球特待生制度

2007-04-26 05:21:51 | 身辺雑記
高校野球は高校の教育の中で行われている。当然の事だ。しかし、高校野球連盟の言う教育とは何を指すのだろう。野球に優れている者を、特待生とすることを禁じていたとは、驚きだ。アマチアリズムというのか、オリンピックですらプロも参加している中で、どんな教育を目指していたのだろう。この背景にある虚偽的事実を、増長させただけと言う事を充分承知でありながら、何故今更こうした建前論が出てきたのだろう。一般に、野球部の特待生は、直接は禁止されているから成績優秀。あるいは、優れた人格と言う事で特待生扱いに成っている。たまたま、専大東北高校がその抜け道に気付かなかっただけ、というのが実態。そうした実態を知っていながら、みんなで知らない振りをして、騒いでいる報道もどかしている。この騒ぎで傷つきかねない特待生に対し、真摯な態度を取って欲しい。

学業優秀の特待生が問題にされる事はない。何故なのか。学問がができると言う事は神聖な事だからだ。どんな扱いを受けたとしても許されるような特別な事だからだ。しかし、この事とて、高校経営の一つになっている場合もある。東大入学者数を経営の看板にしたくて、優秀な中学生を様々な形でスカウトする。これが、特待生のような、金銭的恩恵ならまだいいが、中学に対し、他の生徒との抱き合わせ入学とか、中学教師に対する何らかの優遇。こうした事も、教育が経営的になる中で、やむ得ない事として、一般化している。その経営法の一つが、スポーツで有名校になる事である事も、常識化している。学校関係者にしてみれば、きれいごとを言って経営が出来なくなったら、どうなる。こういう、気持ちがある。子供の減少する中、私学経営は困難を極めている。又この競争激化が親のニーズを取り込む事となり。公教育離れが起きている。

スポーツで優秀である事は学業ほど神聖視されていない。これは武士道的に言えば、逆だろう。腕っ節の方が、頭の小賢しいより上が武士道だ。文だろうが、武だろうが、教育的に評価できるから、模範となるから、特待生扱いをされて来たわけではない。経営的に有利だから、授業料などを免除した、と言う事が読み取れる。であるなら、特待生制度そのものを批判すべきだ。いや、そうした私学経営の背景を問題にすべきだ。その矛盾の結果である、生徒を云々される事になり兼ねない現状は、早急に文部省が解決すべきだ。何故傍観するのだろう。そして、一部の野球高校生を特待生にした学校を罰して済まそうとするのか。

教育は本来無料でしかるべきものだ。教育を営利事業として取り組む、又そうした学校ほど、評価されやすい現状を、見直すべきだろう。学ぶ者が集まり、教えてくれる教師に来てもらう。これが原点だと思う。教える側が集まって、生徒を募集する形式は、間違えの基になる。教育は勝ち抜く為の能力を磨くところではない。一人ひとりが人間として成長する場所だ。他者と比較するところではない。他者と比較できない物こそ、教育が大切にしなければならないものだ。「愛する力。感ずる力。想像する力。創り出す力。」こうした力は企業的競争社会では、いらないか、邪魔になるかもしれない。しかし、人間が生きるという原点に立ち戻れば、計算が速いとか、複雑な思考ができるとか、要領がいいなど、と言う事は人間のほんの一部の能力に過ぎない。学校教育は世界での経済競争に勝つことが目標、こちらを止めるのが本筋だ。
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バージニア大学32名殺害

2007-04-25 07:12:29 | Peace Cafe
この事件を個人の精神障碍によると一義的には考えるとしても、それを生み出した要因に、踏み込んで考えておく必要がある。人権とか、国家間の問題とか、複雑な問題が関係するとして、問題の真相に踏み込まない事は、良い結果を生まないと思う。移民社会の問題や韓国社会の問題、これが根底に存在する。バージニア工科大で32人を殺害した銃乱射事件のチョ・スンヒのケースは、移民労働者の子どもたちがたどってきた負のコースの果ての極端な例だと見ることができる。韓国からの米国への移民は極端に多い。留学生も際立って多い。韓国社会の持つ、上昇志向の競争意識が、反映している。移民し、留学して、経済的により高い階層へ上昇したい。こうした社会的、人種的傾向が、韓国社会で生み出されている。もちろん日本にも、末は博士か、大臣か。というあり方を若者の生き方とする傾向は続いた。

今回の事件を、能力主義による競争社会がもたらすものの、最悪の結末と考えるべきだろう。大多数の韓国人は私が知る限りでは、競争的な人ではない。受容的で、許し合うことのできる、儒教的な思想を大切にする人が多数である。それが現在韓国人は極端に能力主義的になった。現状打破的になった。オリンピックでの活躍を見ても、いかに韓国人が頑張っているかがわかる。当然、頑張る事が悪いわけではない。その中で、頑張れない人もいるし、競争能力が劣る人もいる。乱射犯も優秀で競争を勝ち抜いてきた人だ。その人が、心を病み、経済的優位性のみに目が行き、破綻する。異民族の中で生きると言う事は、経済的競争だけが目的に見えるようになりがちだ。勝利する為だけに、競争に勝つ為だけに生きるようになりがちだ。

日々の暮らしが出来るだけのものがあれば、それ以上のものを望む必要はない。大切な事は、一人一人がそれぞれの人間性を十二分に発揮して暮らす事にある。経済的優位性は、その一部に過ぎない。ところが、現在の世界を覆う経済のみ重視する、競争的資本主義化では、愚かにも、経済的優位がすべてを解決する鍵のように思われている。いや、そんな風に思い込まされる若者が現れている。今晩の夕食が、めざし1本とご飯だけであるとしても、十二分にしあわせである事はできる。人間が生きることの本質と、経済的優位とは何の関係もないことを、自信を持って主張するべきだ。たぶんこの韓国青年には、思いもよらぬ事であろう。韓国の青年層の多くが、アメリカに留学し、競争に勝ち抜く事を望むような社会状況が、そもそも間違っていると自覚すべきだ。

8歳から渡米し、この青年は英語での教育を受け、どれほどの読書量があっただろう。外国で暮す生活は、その暮らしの根を失う場合がある。両親は韓国語で暮したのだろう。優秀だったこの青年の精神は大きな負担を受けたのではないだろう。韓国という国家の、競争的傾向。そしてアメリカという、能力主義の国での競争。アメリカンドリームという、経済的成功を人生の目的としてしまう。間違った目的。こうした中で、彼が社会との接点を失って行った事は想像できる。土に根ざし、地域に根ざし、自給的に生きることを忘れてしまってはならない。人間は食べる物を育て、それを食べて生きることが原点だ。1日2時間その為に費やせば、それは可能な事だ。その原点に立ち返ることこそ、本当の安心がある。
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小田原市市民活動応援補助金

2007-04-24 05:16:54 | 地域
明日市民活動応援補助金の報告会がある。3年間30万、20万、10万、と合計60万円を戴いた。すべて農機具を購入した。3年目の10万円は田車を購入した。田んぼで大勢が一辺に、田車を回せば、草取りが随分楽になる。農の会のやり方は、市民が大勢参加するから、人手のかかると言う事がそれほど苦ではない。今年の草とりは楽になることだろう。田車は草取りだけでなく、田んぼの土の攪拌と言う事もある。初期田んぼに水を入れると、有機物の腐敗が始まる。かき回して、酸素を加えてやる事で、土の醗酵の方向が整う感じがする。農機具は案外高価な物だ。そう数が出るものではないから、大量生産という訳には行かず、しょうがない事なのだろう。

補助金をいただいたことは、農の会の活動の意味を考えるきっかけになった。補助金を貰うと言う事で、自分たちの活動の公共性と言う事が、問題に成ったのだと思う。公共性の意味は案外難しい事で、どうにでも取れるところがある。どんな経済活動でも、公共性がないわけではない。悪く言われる、消費者金融だって公共性がある。しかし、小田原市が補助金を出すいわれない。だから、この補助金の審査の基準の公共性と言う事は、一見正しいようだけれど、危険な反面もあることには気をつけないとならない。つまり、単純に公共性というと、単純にだけ考える人には、福祉関連、子供の教育関係を評価しやすいだろう。

小田原市民にとってプラスになるもの、行政が税を使っても納得行くもの、これが基準だろう。更にいえば、行政が行うより市民が行えば効率的であり、費用対効果が高いと言う事。そして、その活動に市民がかかわることで、小田原に愛着が生まれる活動。この辺りで考えて欲しいと思う。農の会の活動はこれに当ると思う。広がり続ける、耕作放棄地の減少の為、行政自らが草刈りをしたら、経費はたぶん私たちの100倍にはなるだろう。考えるべきところは耕作放棄地を管理すると言う事が、足りない税金の使い道として、市民の合意を得られるかどうか。少なくとも、3分の2程度の市民が、了解できる物でなければ、使うべきではないだろう。こんな事を、農の会の参加者が、考える機会にいくらかでもなったのではないかと思っている。

今年度より、整理された、三つの中心事業。「田んぼの会」「大豆の会」「お茶の会」NPO法人としての農の会の活動はこの三つの事業を中心に行う。こんな方向になった。もちろんそれ以外の活動もあるわけだが、それらをどう位置づけるかは、参加者各人に意識化されているとも思えない。三つの活動が、自立して動き出す。ところまで行っているかも、難しいところだが、それなりにスタートは切れた。と言う事だろう。方向を定めるここが一番大切なのだと思う。その意味で、市民活動応援補助金を戴いた事が、会の方向付けに大いに役立ったのではないかと思っている。

1.活動の記録
○田んぼの会は12グループが夫々に田んぼの耕作を行い、充実と広がりがありました。
○大豆の会は大豆の栽培に始まり、味噌作りまでの自給の姿を一通り行う事が出来ました。
○お茶の会は150名が2日に渡るお茶摘み、そして年5回のお茶畑の管理を行いました。
2.事業に対する自己評価
例年通りではありますが、毎年前年より夫々の活動が工夫され、この活動が今後の日本の農的な市民活動の、大きな事例になるだろうと考えております。とくに、種を蒔くところから、食べるところまでの、全てを市民がかかわる形は、他にはないものと思われます。外部評価の確認の為、地域に根ざした食育コンクール2006に応募し、食育協議会会長賞を受賞しました。
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小田原の市議選の結果

2007-04-23 07:52:04 | 地域
小田原の市議選の結果は、なんと投票率が49.1%だった。一番身近な市会議員選挙が、ついに50%を切る、半分の有権者が参加しない選挙となった。天候も投票率が上がる、朝雨、後晴れだ。小田原の市議会に対し、改革の期待が全く失われた結果だろう。今回8名の新人が立候補した。それぞれに新しい投票層の獲得がされ、間違いなく前回以上の投票数が期待できた。にもかかわらず、前回よりさらに3,49%減少したと言う、哀れな結果になった。小田原市議会全体に対し、失望感が広がっている。この点を深刻に受け止める必要がある。一度でも傍聴に行けば、議員の勉強不足が深刻な状態であることがよくわかる。市長および行政が、提案する議案に対し、チェック機能が全く機能していないのだ。その最たる事例が、城下町ホールだった。基本構想から、大きく逸脱しているにもかかわらず、「基本構想に市民の声を加え」設計したと強弁している。何故見逃したのか。

50%を切った一番の背景は、35000の城下町ホール見直し署名とみて間違いないだろう。小田原市民はこのうち、21000あった。内有権者が、2万。この人達の投票は、当然反対者の現職5名か。反対を明確にした新人に投票しただろう。多数の署名はしないが、この奇妙奇天烈なホールに、そしてその進め方に、不信を抱いた人は多かったはずだ。さすがに、これを推進している議員に投票する気に成れなかったのだ。もう市議会議員選挙など行く気に成れない。こんな声を聞いた。

佐々木さんと歩いて、いや、走るから、選挙の白旗を持って追いかけるから、室町の雑兵のような感じか。自転車に乗れば、自転車で追いかけて、小田原の住宅街をサイクリングした。そして、選挙カーに同乗して、ウグイス叔父さんもやらしてもらった。子ども達の反応はすごかった。チンドンか紙芝居について歩く子ども達のような感じだろう。「ナオミが来た!ナオミが来た!」高校生ぐらいになると、どれがナオミだ。ドレダ、どれだ。これが学級委員なら、トップ当選間違いなしだろう。当然な事で、テーマは子供の人権を守る、政治。小田原にCAPを広める会の活動の背景がある。「子供の気持ち、議会へとどけ!」出来る限り、考え方を伝えようとした。5分走ると選挙カーを止まらせ、佐々木さんの政策を語った。しかし、走っている時は一切しゃべらないという訳には行かなかった。まだまだ、改善の必要はある。

佐々木さんは2629票で10位当選だった。理想的な選挙をつくづく考えた。それぞれの候補者の、考え方と今まで生きてきた姿が、そして市議会議員になり何をやりたいかが、わかるような資料の一覧があり、それを読んでもらい、判断するような選挙だろう。知り合いだからとか、世話になったからとか、そんなもので、投票してもらうことは、又貰おうと言う事は、避けなければならない。少しでも、政策の選挙になるように、行動したつもりだ。私の日常の中で、暮らしの日々を崩すことなく。市民として当然の協力の範囲で、かかわらせてもらった。そんなチームナオミキャプテンだから、ちょっと加熱を冷やすような結果になっていたかもしれない。考えた選挙構想の半分も実現できなかったが、今回の活動によって、小田原の新しい一歩が、踏み出せたような気がしている。昨夜はと言うか今朝まで、あしがら全体での、これからの活動の夢をみんなで語った。
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JMMメールメディア

2007-04-22 08:52:13 | Peace Cafe
JMMと言うメールメディアがある。村上龍氏が編集しているらしい。膨大な量送ってくれるので、あり難いが殆ど読む事はない。気になるテーマのとき、いろいろの方の見解が読める点がありがたい。これは無料で送ってくれるのですが。どういう仕組みなのか。どうやって運営が成り立つのか。そう言う事は、想像もできない。ただ、かなり専門の方が意見を出して言う事は確かだ。と言っても、私の考える方向とは乖離している場合が多く、こんな風に考える人も居るのだ、と言うむしろ腹立ちながら、参考に読むと言う事が多い。送ってもらい始めたのは、随分前の事で、何度か読んで腹が立ち、停止を申し込んだ。ところが、停止したにもかかわらず、送られてくる。それで、スパメールに指定してある。ところが何故か、削除のほうに行かずに来ている。それでつい、気になるテーマでは読む習慣がついた。

アメリカでの大学での銃での32人の殺害事件の事が、送られてきた。冷泉彰彦氏というニュージャージー州在住の作家の方からの長い文章がある。確かこの人はキャンパスレポートと言う形で、文章が時々あった。何となく、肌が合わない文章だと思って、余り読まなかった。しかし、今回は大学でも教えているらしいし、アジア系で暮していて子供も居るのだろうし、どんな風に考えているか興味があった。私も、フランスで暮した時、ビニール袋の中で暮しているような、疎外感と言うか、不思議な感覚で、失語症のような状態になった。また、フランスの在住の家族の、子ども達が、精神的に大変な状態なのだと言う事も、何度も感じる事があった。もちろん、アメリカの韓国人の問題は違った状況とは思うが、どこか、私にはその心理が通ずるような気がして、ぞっとしたところがある。

今回の事ではアメリカで銃規制はあまり問題にされていないそうだ。アメリカ人は怖いのだそうだ。銃を怖くて手放せない、そんな心理に居るらしい。もし誰かが、銃さえ持っていれば、32人も死ななくて済んだ。そんな風に感ずるらしい。確かに、銃による殺人が頻発している社会では、普通に暮す人が、そんな心理状況に成るのも無理はないのかもしれない。そんな、アメリカ人が911後のイスラムへの敵意を持つようになり、より軍事的優位を保ちたいと言う、社会状況が生まれているらしい事は想像がつく。日本憲法の平和主義など、不安で想像もできないことだろう。あれほど、銃規制の厳しい日本でも、長崎市長の銃撃があったことが、引き合いに出されるらしい。

暴力の連鎖、これが一番怖い事だ。暴力に対する不安をどう断ち切るかは、暴力で対抗するのでは、不可能だと考えておかなくてはならない。暴力が横行しない社会を作り出すことだ。格差社会こそ、暴力の温床になる。武家社会の象徴である、刀を武士だけが所持すると言う思想の背景は、権力者の不安だ。社会が階級的なれば、権力に近いものほど、不安が増す。その不安を正当化するために、暴力による支配を強めようとする。今日本はその方向に進み始めている。格差を失くすほか、社会の暴力を失くす事は出来ない。安倍政権の再チャレンジは能力主義を、助長しかねない。チャンスがあるとしても、能力主義だけでは必ず敗者は存在する。その人がその人の能力を十二分に発揮できる事が、大切な事で、他者との比較で人間をはかることは、あってはならない。
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城下町ホールでの質問

2007-04-21 05:40:14 | 地域
昨夜、マロニエで、説明会があった。これは説明であって、一切変更はしないと断言した。どこが市民が運営にかかわるホールだ。運営上問題があるからお願いしているのに、一切意見は聞かないと言う態度は、信じがたい物がある。
以下は私が行った質問だ。
1、曲面の形が災いして、壁面展示がいい形では不可能。吊り下げの厚みのない衝立方式の展示は今の時代、行われていない。絵を鑑賞するには空間の広がりが大切。絵までの距離こそ一番重要になる。
2、平面作品の展示会場の基本的思想は中立性です。会場が独特の物では、作品が主張できなくなる。だから単純な平面の必要がある。例えば、壁に模様があれば、絵は展示できない。壁にレンガによる装飾のでこぼこがあるようだ。こんな会場で、いい絵画展が開けるわけがない。
3、絵の展示期間は1週間あるいは2週間が一般的だ。この間はホールとして、使用が不可能だ。すると、音楽関連の利用が、日曜ごとに飛び飛びに希望されても、絵画展示は実際には出来ない事になる。
4、共用の為椅子は移動式で、収納は離れた場所になっている。曲面から来る無駄な設計だ。
5、以上の観点から、サブホールの展示と演劇の兼用は不可能と考えるが、お答え願いたい。

市民課に聞きに行った時も返事がなかったが、今回もどの問題にも、解答がなかった。説明したと言う形式を整えればいいという事で。まともに説明する気など始めからなかった。全くがっかりした説明会だった。大体、資料も充分用意しないで、何を説明できると考えているのだろう。

このホールが、今後50年の小田原の市民文化活動の中心になる。運営は市民中心に行う。こう基本構想で決まっている。全国規模の、あるいは海外からの良質な演劇や、音楽会を市民が享受できる場。これが中心のメニュであるとしても、市民の行う発表会や、おさらい会に利用される事も、同等に大切な目的になる。時間を掛け充分検討することをせず、何故拙速に進めてしまうのか、私には全く理解できない。今出ている市民からの多様な意見こそ、市民ホールが、市民運営ホールになる、第一歩のはずだ。ここで市民が期待している思いこそ、市民ホールの運営基盤になるはずだ。何故それを全てつぶしてしまうのだろう。いい展示会場が出来るなら、運営のお手伝いをしたいと初めて感づるようになった。

小田原にはまともな絵画展示スペースがない。にもかかわらず、作ろうと言う、機運もなければ、構想もない。今は市民会館の大会議室に穴あきボードを並べて展示している。絵が可哀想で、私には出来ないことだ。そんな環境で、いい絵画展が来る訳もない。ともかく、市民会館が古くて、耐震的にも危険だから、建て直すと言う事が、今度の城下町ホールのスタートだ。ホールは奇妙奇天烈でも建て直すのだから、まだましだ。絵の方は、その危険極まりない、と行政が強調する。その古い会議室で、いつまでもやってろ、と言う事になっている。お情けで、サブホールを使えるようにしてあるから。これで我慢しろ。

今回の市議会議員選挙では、最大のテーマだ。なぜ、こんな奇怪なホールが進んでいるのに、平気で見逃したのか。市議会議員の皆さんの責任は大きい。しかし、まともにこれに対して、反対意見が言えたのは現職では5名のみ。新人の4名は、明確にこのホールは問題だとしている。佐々木ナオミさんもこのホールを見直せ、と主張している。この9名が、落選するようでは35000の署名が泣く。是非署名した人は反対を表明している人に投票して欲しい。それが、この馬鹿げた設計のホールを見直してもらう、民主主義の道筋の1つだ。
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教育再生

2007-04-20 06:44:50 | Peace Cafe
教育再生と言う事は、かつてはいい教育が行われていて、それが崩壊してきたため。再生しようと言う感覚だろう。そのかつて行われたいい教育のイメージは、どこにあるかが一番の問題ではないだろうか。私には自分の子供の頃の学校教育が、今より優れていたとは到底思えないのだ。1949年生まれだから、昭和30年代の教育の暴力的な人格無視の教育は、今の時代であれば、日々が犯罪のような状態だと思う。教師が、生徒に対し暴力を振るう事が、当たり前のように公認されていた。教育というものは、矯正のようなものと考えられていた。それでは、大正自由教育のような教育をイメージできるだろうか。個性尊重の紳士の教育など、タガが緩んでいるのを、絞めなければという、今の検討の方向から言えば全く違うだろう。再生と言う発想がダメなのだ。よく言われるのが駅前商店街の再生。再生の発想では、どうにもならない。新しく創造しなくてはならないことだ。

アメリカの教育を先進事例として、例えば大学教育の産学協同、あるいは教員の評価性の導入。こう言う事が考えられている。教育にも能力主義の導入。例えば、学校教育などまどろっこしいから、予備校に高校教育を任せたほうがましだ。こういう考え方だ。つまり、教育が何を目指すかが、わかりさえすれば、そこへの道筋は立てられる。その目指すところが、分裂、崩壊しているから、教育がおかしくならざる得ないのだ。教育が経済的豊かさを求める物なのか。どうも中国の教育はそんな傾向があるようだ。経済優先主義が、教育を崩壊している。格差差社会の深刻化が、教育を無目的化している。今の深刻に崩れ始めている教育現場の状況は、そこにあると考える。

思い浮かぶのが教育の自給。地域自給と言う事を考えてゆく上で、教育の自給を大切にしないと、ある種のタイプの人達が、地域社会から抜けることになる。勉強が出来ると言うような人が、地域社会に必要かどうかは別にして、立身出世が、明治以来の価値観になって、地域社会をバランスの悪い物にしたことは確かだろう。読み書きそろばんはともかくとして、地域らしい食糧生産の技術の教育が不可欠だ。農法と言うものが、夫々の生き方と関連しているので、なかなか難しい。機械を多用する大規模農業技術など、教育分野では不要な技術だと思うが、農業高校ではこちらが主流だ。有機農業農家の研修の場合は、その個人の思想の伝達のように見えてくる。教育は具体的な方法を伝えればいいので、個人的な思想などは出来る限り控えるべきだ。もし、いささかでも思想があるのなら、その生き方や、農法に、現れているはずだ。

伝えるべきものは、人間の生き方だ。よく生きるすべを伝えるのが、教育だろう。国家は、国家として都合のいい人間を教育しようとする。企業は企業に都合のいい人間を教育しようとする。人間は誰の都合で生きているの存在ではなかろう。その1個の人間がその人間を全うする為の、すべを見につける道筋に教育がある。だから、本来教育は学ぶ側が、その学ぶ内容に相応しい、教師を連れてくる必要がある。学ぶ物の希望で、学ぶ内容が決められる必要がある。国家が統制しようと言う事が、そもそも教育には相応しくないやり方だ。農の会の仲間に、そうした教育的な要素を口にすると、何となく拒絶的な空気になる。みんな、教育にともなう強制的空気を嫌悪しているからだろう。しかし、私自身が一番教育を受けていると感じるのは、農の会の活動を通してだ。身を正される、日々だ。
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佐々木ナオミさん

2007-04-19 06:04:28 | Peace Cafe
いよいよ日曜日が市会議員選挙だ。どうもあの票を数えなおすような、ぎりぎりの線に成りそうな気がしている。ブッシュ大統領はあの数え直しがまずかった。1票でもという気持ちでいる。もう簡単にお願いできる所は、お願いして居るわけで、後はちょっとお願いしにくい所も、お願いしないとならない。こういう時に、他所から来たものが、動けるところはそうはない。同級生が居るわけでも、親戚がある訳でもない。だから、地域の選挙ではよそ者が当選することはきわめて難しい。ここに地域が良くならない原因の一つがあるだろう。本当の選択は能力と、政策。これに尽きる。予算のチェックが出来る能力。問題点に早く気付く感性。そして、思想的方向性。こうした事で選択すべきだ。

息子の事ではお世話になった。あの議員の奥さんは実に面倒見の良い人だ。こんな言葉がよく聞かれる。もちろん地域の事だから、そんなこともあるだろうが、今や小田原は危機的な状況になっている。職員が内向きになってしまい、落ち度なく、言われたとおりこなそうとしてビクビクしている状態だ。市民も、市役所に行くと、ストレスが大きくなるような空気があり、ついツンケンして緊張に包まれる。殆どの大きな予算が、市の中心部に集中しようとしている。確かに中心市街地の空洞化問題はある。しかし、それは経済の問題であり、その救済を行政が行う案件であろうか。同じに耕作不能の進む周辺の農業地域では、目だった農業振興政策も出されていない。

例えば、小田原市が小田原のお米を直に地元の農協から、買い上げる事はできる。農家にとっては今より有利な販売が可能になる。週2回の米飯給食をせめて全国平均の3回にすべきだ。国もそう要請しているところだ。何故、小田原市は2回にこだわるか。しかも県の給食会から、炊いたご飯を高価に購入するのか。パン食の方が主食費としては安いと言う事が信じられない。こうしたことはお米が足りない時代の、悪い慣習に過ぎない。佐々木ナオミさんは米飯給食推進で、運動をしてきた人だ。佐々木さんは感性の方向性がいい。これは重要だと言う事が、閃いたのだと思う。きっとこれからも米飯給食実現の為に動いてくれると思う。当然子供の事から繋がってきたことだ。母親としてのテーマなのだと思う。お母さんが市議会に出て行くことが大切。

小田原で一番重点を置かなければならないのが、子ども達のことだ。小田原は子育てにいい町だから、小田原に住みたい。こう言われる様になればいいのだ。新幹線の補助もいい。駐車場の補助もいい。しかし、小田原に住みたくなる一番の動機は、子供を育てるのにいい町かどうかだ。産婦人科が、助産士さんが、充実しているかどうか。こう言う事が大切だ。市立病院でも、妊婦さんの受入数が制限されている。子供が減少している時代に、こんな事では困る。小田原は子供が産みやすい町だ。こんな風に言われるようにしなければならない。駅舎への出費。お城通りの再開発。そして城下町ホール。どれも何億、何十億の出費だ。そんなことばかりしていて、何と児童館が1つもない町になっている。同じ人口規模の厚木には37もの児童館がある。中井町にも3つある。子供の視点で、と言う事は、小田原の未来のためと言う事だ。佐々木さんは間違いなくその中心になって小田原を変えてゆける人だと考えている。
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城下町ホールの説明会

2007-04-18 06:11:21 | 地域
昨夜、市民ホールの説明会があった。小田原の市民会館ホールが、相当に古いもので、建替えることになった。その為に長い時間をかけて、基本構想というものが作られた。それにも基づき、設計コンペが行われた。その中から、山本理顕設計工場が選ばれた。何故選ばれたかは全く解らない。あまりに基本構想と乖離しているからだ。ところが、市の説明では山本氏の設計は、基本構想にしたがい、市民の意見を取り入れ作らた、としている。さすがに無理なこじ付けだ。基本構想で言っている2点。「シュウボックス、今回初めて知りましたが、靴箱のような四角い箱で作れ。」こう明確に言っているのに、奇妙奇天烈な、タコのような形になってしまった。これで基本構想どおりとは、驚くべき詭弁。2番目は「市民が運営に参加するホールにする。」ところが、この設計の進め方は全くの市民無視。設計段階で、市民を排除しながら、なぜ、運営に参加できるのだろう。

山本氏は前段で長々とこのホールのすばらしさを酔った様に説明した。ところが、肝心の、何故、この不思議な形が小田原にふさわしいかは、一言も触れなかった。この不思議な形でも、機能は四角と同じに出来る。こう強弁を繰替えした。それはお金を幾らでも使えばできるかもしれない。しかし、すでに財政的に苦しい小田原市に、そんな無駄が金を使う余裕はない。だから、聞きたいのはなぜ、この奇妙な形が、小田原市民にとって、小田原らしさを確認できるようなホールであり、世界に誇れる文化施設であるかだ。確かに、設計家山本理顕氏はその設計思想を世界に誇れるだろう。しかし、そんな個人的な趣味は公共事業では止めて欲しい。民間のホールでやればいい。個人の趣味でなく、小田原の文化に基づいていると、考えているなら聞かせて欲しかった。

市民が運営する開かれたホール。これを設計の3つの指針のひとつにした。こう言われた。それが本音ならば、何故設計に市民の意見を取り入れる。仕組みを加えなかったか。各文化団体から、考え方を先ず聴取する。そして基本構想を作った委員の人達と話し合いを持つ。全くやらない。しかも、市民から寄せられた意見は、充分伺いましたと言いながら、何も取り入れない。狭い敷地に、この奇妙な形ゆえの無駄が多く合理的な設計が出来なくなっているのだ。サブホールは小田原名産かまぼこ型だ。これかな。このサブホールは市民が参加には一番利用頻度が高くなるものだ。ところが、椅子はかなり遠くの狭い倉庫からの運び出し。しかも、硬たそうな、重そうな不思議な木の椅子の写真。これでは、お年寄りのグループには利用不可能。

何とこのサブホールは絵の展示もするという。何でも出来るは、何にも出来ない。変形の為、壁には絵は掛けられない。真ん中に衝立を立てて、飾ると言う。今時こんな展示会場を考えるなど、素人もいいところだ。そういう飾り方を止めようと言うのが、絵画の世界では当たり前の事になっている。絵は広い壁にゆったりと掛けたい。その肝心の壁が曲面なのだ。これではどうにもならない。装飾としてロビーに絵を飾るのではない。作品として、絵の精神を伝えようとするのだ。器は語って欲しくない。器が多弁では、適合する作品が限定されてしまうのだ。何故こんな、不思議な成り行きになったのか。新しいホールを作ろうと言う市民の夢が。こんな形で、設計家の驕りにもてあそばれていいのか。
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ビニールハウス

2007-04-17 05:51:21 | 自給
昨日は小雨の中、ビニールハウスの屋根を張り替えた。選挙の最中にこんな事をしていては、怒られてしまいそうだが。実はもう何週間も養鶏場の屋根が、風邪で飛ばされていた。応急処置だけで、張り替えるチャンスを窺っていた。そんな高い所の作業を、雨の中でしたのかといえば、風が全くない日を待っていた。待っていたら、ついに昨日まで延びていたのだ。以前、わずかな風の日に、カヨ子さんと2人で張った事がある。微風にもかかわらず。まるでハンググライダーのように飛ばされかけた。しかし、張り始めて、広げてしまった以上止める訳にも行かず。それは恐ろしい思いをした。そのときは、幅、1,5メートルの細い物だったたので、まだ何とかなったが、今度は幅4メートル長さ、19メートルの養鶏場の天井部分だ。時間があるときは、風もあるの繰り返しで、3月29日から取り寄せなどしていて、18日後と言う事になる。情けないが、大体の事が、こんなペースになる。

自給の暮らしにはビニールハウスが必要だと思っている。こんな考え方は、大方の自然派の自給を目指す人達には、ヒンシュクもの。ケートラとビニールハウスはお許し願いたい。石油製品というと言う事で、塩ビ管を嫌悪して、例えば水道管もステンレスにしている人が居る。ポリ塩化ビニールはそれほど悪者とは考えられない。燃やした時ダイオキシンが出るというので、悪者の筆頭になったが、燃やさなければいい。燃やすとしても配慮した炉で単独で燃やせば、すばらしい燃料になる。注意を払えばこれほどすばらしい素材はない。以前はこの透明フィルムが無かった為、油紙で代替していた。子供の頃の苗代は油紙を使っていた。それは扱いも厄介な、ビニールの便利性とは比較にもならない。

ビニールを使い捨てにするからいけないのだ。大切に使えば10年大丈夫だ。野菜農家は2年ぐらいで、変える。この使い方はいただけない。もったいない。と主張していたが、養鶏場の一番風に当るところが、9年で破れ飛んだ。アチコチ補修しながらではあるが、9年は持ってくれた。しかし、30%さえ張り替えれば、他は今の調子なら、10年以上使えそうだ。洋ランの温室はビニールハウスの二重張りだ。この保温の良さはずば抜けていて、殆ど加温がいらない。ガラス温室の暖房で使う石油を考えれば、はるかに合理性がある。(あれ、洋ランなどやらなければいいか。)養鶏場は明かりが大切なのだ。天井をトタン張りにすれば、暗くなる。暗いのは本当にダメだ。鶏は寒いのや暑いのよりも、暗いのはダメ。

自給に必要なビニールハウスは苗作りをするからだ。ハウスがあれば、踏み込み温床も簡単に出来る。その上で苗を作れば、2ヶ月は早く作業が動き始まる。すると、狭い畑が、一年上手く回ることになる。直播だけでやっていれば、畑が広くなければならない。空いてしまう期間もできる。広いと管理の手が回らなくなる。自給だけするのが、60坪位が作業量から考えて合理性がある。広いと頭の中に収まらなくなる。そこで回してゆくには、ビニールハウスが必要となる。同時にこれが倉庫にもなる。倉庫があれば、捨てないで次に使えるものは幾らで出てくるのが、自給農。農家の方はよく捨てるので、結構いただける。ビニールハウスは冬の農作業の、天国だ。寒い日はハウスの作業が一番。真冬でも充分農作業した気分になれる。家の6坪のハウスも、今の時期は、あれこれ苗で一杯になっている。苗が出てゆくと、トマトの雨よけハウスになる。
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国民投票法

2007-04-16 06:50:19 | Peace Cafe
国会の仕組みからか、この法案は5月3日の憲法記念日までに、成立するらしい。憲法を変えたい。特に9条2項を変えたいこのように考えている。安倍総理を始めとした、大半のと言ってもいい国会議員の皆さんにとっては、国民投票法は低いハードルであればあるほどいいと、考えているに違いない。1947年5月3日、日本国憲法が発布された。日本人はこの憲法の基で、平和主義国家として進む事を、世界に懺悔の気持ちと共に示した。近隣諸国に与えた甚大な被害を反省し、2度と軍事力を保持しないと誓った。そして、日本国憲法も60年の還暦を迎えた。過去の清算は済んだのだから、普通の国家として、美しい国として、軍事力を持つ国家として、やってゆきたい。こうした、空気が徐々に広がりつつある。これに対し、近隣諸国からは懸念の声が、高まっているが、近隣諸国も軍事力の強化に余念がない。

日本国憲法は第二次世界大戦に対する、世界全体の反省も込められ、新しい世界平和の枠組みの構築に向けた、極めて意欲的なアプローチであった。しかし、それを提案したアメリカは、舌の根も乾かぬうちに、日本の再軍備を提案する。当然のごとく、世界はこの憲法を模範として、平和国家としての道を歩む国は少数の例外的な国を除いて、現われることはなかった。日本はこの微妙で、有利な立場を十二分に生かしながら、経済至上主義の国に変貌した。幸い、60年直接的には戦争に巻き込まれることはなかった。国力を軍事力という形で反映できない以上。経済至上主義で、世界に打ち出す以外に道はなかったのだろう。しかし、この経済競争を平等に行うためには、応分の負担を行えというのが、繰り返し要求されるアメリカの主張なのだろう。

しかし、世界では経済自由競争の名の下に、実は南北問題に象徴される、貧富の拡大が起こった。更に、先進国と呼ばれる、経済至上主義国家の価値観が、世界に蔓延することで、いわば各民族固有の倫理は崩壊した。あるいは大きな摩擦を起こすことになる。経済が豊かになれば、美しい世界へ向かうはずが、対立の世界は先鋭化することになる。その一番の対立が、イスラム社会との対立であろう。イスラムの文化の持つ倫理と言うか、根本理念が、経済ではないのだ。アフリカにはアフリカ諸民族の文化的伝統があり、先進国と言われる、経済主義をすんなり受け入れる事はできない。その場合、普通は先進国に利用され、民族としての理念を失って行く事になるが、たまたま、イスラムには、石油が埋蔵されていて、経済の競争原理に埋没する事がなかった。

本来、各民族は民族としての自立性の尊厳を尊重しあい。対立的でなく、平和的な関係を構築すべきだ。他民族に対し、支配的な経済関係を恩恵のように、まるで福祉のように押し付ける事は止めるべきだ。そこに、日本国憲法に込められた、世界平和への願望を、思い起こすべきではないだろうか。オーストリアはヒットラードイツとの併合を、国民投票によって決めたそうだ。その反省から、憲法改定になるほどと言うハードルを設けているそうだ。例えば、国会議員の3分の2が改定に賛成した時には、再度総選挙を行い、国会議員を選びなおし、もう一度3分の2の賛成があれば、国民投票に進む規定がある。投票率の問題でも、政治に対する失望が基に、なっていることを忘れては成らない。投票しても無駄だ。こんな投げやりな状態を作り出して、国民投票に向かう、こんな場合も想定して、国民の過半数賛成を必要とする国もある。
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