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地場・旬・自給

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箱根駅伝の5区が元に戻った。

2016-02-29 04:12:41 | 地域

5区だけを長くしたのは、おかしな変更だと何度か書いた。それが今回元に戻すことになった。ホッとした。5区を長くしたのは、男子マラソンが弱くなったことが理由とされていた。この10年男子マラソンはさらに弱くなった。5区の選手からマラソンの強い選手が出たという事もない。結局5区を長くする理由などなかったのだ。メガネスーパー前に移した理由は、中継所を小田原の街中に持って来たかったぐらいにしか思えない。今回、前に戻す理由を読むと、5区に比重が大きくなりすぎたという事である。かつては花の2区という事で、ここに各校のエースが集まり、ここから世界レベルのマラソン選手が生まれたのだ。駅伝は先行逃げ切りが戦術とされている。序盤で一旦リードすると、次からの選手は余裕のある走りができ、実力を出しやすい。全般抑え気味に走り、後半力を出し尽くす走りである。出遅れたチームの選手はどうしても、追いつこうとして自分のリズムを崩してしまう。

1区で差がついたとしても、一区間分である。そこで2区が重要になる。昔の箱根駅伝はここでその後のレースの性格が決まっていた。ところが箱根への急な登りの5区を長くしたがために、5区で一位の学校が優勝校に成る確率が高くなった。2区どころではなく重要度が5区偏重になった。しかも、戦略的に各チームが選手を構成していた微妙なバランスは、5区の延長でまるで意味をなさなくなった。それまでの箱根駅伝の醍醐味は10人そろって初めて勝てるという、チーム戦の良さであった。陸上競技は個人ゲームの傾向が強い。そこに駅伝という、まさに日本の伝統に基づいた競技を作り出したところの面白さである。駅伝では力が出るという選手がいる。大学対抗という要素が生まれて、かつての六大学野球のような盛り上がりが出来た。しかも六大学のような伝統校に独占されていないところが良い。頑張れば、新設大学でも出場できる自由さがある。新興大学の中には駅伝に大学こぞって力を入れるところが現れるほどである。

こうしてコースが変更されるたびに過去の記録が無意味化する。道路整備に伴うものは我慢するしかないが、発想の間違いで起きることは、運営の悪さそのものである。100メートル競技をその都度、101メートル、99メートルと変えれば、世界記録というものは無意味化する。駅伝をオリンピック競技にするためには、世界共通の納得のゆく、競技ルールを作る必要がある。東京オリンピックの際には、箱根駅伝を公開競技として行ってもらいたい。世界にこういう競技があることを広く伝えてもらう良い機会である。各国の代表が箱根駅伝を走ったとしたら、どのくらいのタイムが出せるのかも興味がある。世界中に存在する都市マラソンを街道駅伝として、復活するのだ。地域チームで出る駅伝など、地方の良さをアピールできる機会である。マラソン好きの知り合いによると、四国の四万十マラソンに仲間と行ってきたなどと言う話を聞く。仲間で行くから楽しいらしい。

江戸時代商業の発達によって整備された飛脚の伝統がある。東海道駅伝は出来ないものであろうか。かつての宿場町が連携して、東京から京都までを走るのである。と言っても新しい発想ではない。箱根駅伝が出来る前に、東海道53次駅伝が行われたのだ。来年はその100年である。1917年4月27日、京都を午後2時にスタート。約508kmを走りゴール地点不忍池に到着したのは29日の午前11時34分であったという。500キロを20人で走るのであれば、今の選手ならば、前日の朝出れば翌日の夕方には着くはずである。駅伝が日本の伝統の東海道の歴史を踏まえて作られれば、今のマラソンブームに、チームゲームの面白さが加わり、楽しいものになると思う。その時は当然半分は女子選手でなければならない。海外友好都市の招待チームの参加などもあれば、さらに楽しい交流になる。

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欠ノ上田んぼの対岸の伐採

2016-02-28 04:16:23 | 自給

欠ノ上田んぼでは19日に対岸の樹木の伐採を行った。一番大きな木で根回りでは抱えられない太さのある、白樫であった。7本切ったことになる。切るのも運び出すのも、いつも会の活動に協力してくれるお二人の方に頼んだ。自分たちではできない範囲の仕事であった。農地が放棄されるという事が起こるようでは、当然周囲の山はその前に荒れている。防風林のはずが、20メートルもある巨木になって、日陰を作っているところが良くある。継続して畑を管理されている方には、大いに迷惑なことなのだろうが、放棄されている状況がわかるだけに、現状を受け入れる以外にないという気分だと思われる。私たちも地主さんには話はするのだが、無理なことはわかっている。良く絵を描きにゆく篠窪では、集落のかなりの部分の耕作が続いているから、美しい景観が保たれているのだと思う。

欠ノ上田んぼでは、対岸の木が何十年も手入れがされずに伸び放題になっていた。少しでも管理が出来ればという事で、その荒れた土地を地代を払いして、竹藪を切り払い整備をした。キノコの栽培地などにした。タケノコを取ったりもしていた。ところが、そのことでタケノコを盗んでいるという風評が広がり、田んぼの運営にも影響が出たので、貸借契約を解消して対岸には入らないことにせざる得なかった。するとまた竹藪が茂り、木も伸び放題で田んぼまで日陰になり始めた。大水の時には大木が倒れて来て対岸の農地を覆ってしまうというような事故まで起きた。これは、県土木が森林組合に依頼して片付けてくれたが、日常管理は怠れないという事を痛感した。そこで、今回専門の方に依頼をして、伐採を行った。

篠窪ではNPO法人を作り、山の手入れをしている。だから絵になるような地域が保たれているのだろう。しばらく前まで竹藪に覆われていたところも多かったと聞いた。山仕事がボランティアになって、収入のある仕事にはならない。木の価格が手間賃にならない。よほど伐採と搬出に条件が良い場所ならともかく、たいていの場所では仕事にはならない。だからの共有林などでも、維持が持ち出しになっているところが多いいという。共有林を返上した地域もあるという。久野では白山中学の学校林がかつてはあって、建て替えの準備がされていたようだ。中学生が下草刈りや枝打ちに登ったという。久野地区の住民の共通の懐かしい思い出になっているようだ。しかし、その学校林というものも今はない。

地域の維持というものは、価格とは別のものだろう。もちろん国際競争力とは別物である。収入になる仕事だけを尊いと考える風潮である。どうやって美しい地域を作り出すかである。中山間地の農地を守るという事は、農地周辺の山の管理もするという事になる。全く収入につながらない山仕事をどうするか。資本主義の中で、どのように国土を維持するかは地方創生の中心に据える必要がある。今後しばらくは厳しい状況になるだろう。生き方として地域を守るというお年寄りが年々居なくなる。少しづつではあっても、久野の農地を守ることは続けたいと思っている。そして、自給的な暮らしをしてみたいという人が来て、山の管理まで少しはやれるようになればと思っている。自分の耕作している周辺だけでもきれいにしたいものである。家の周りを掃除する以上に、周りの里山の手入れをすることの方が大切ということだ。 

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篠窪の風景を描く

2016-02-27 04:34:06 | 水彩画

相変らず篠窪を描きに行っている。冷静に描いたり、熱中して描いたり、その場を見ていて描きたくなったようにただ描いている。何かに近づいているのか、おかしなところに入り込んでいるのか。よく分からないのだが、描きたい気持ちが続いているので、描き続けている。今度水彩人の研究会があるのでその時には持ってゆきたいと考えている。人に見せることで、少しやっていることが確認できるのではないかと思っている。風景はこのところ急速に色が変わってきている。落葉樹の梢の赤みが増して来て、霞がかかったように見える。枯草の中にわずかずつ緑が見えるようになる。地面の色も強い光に反射して輝きを増してきている。

なぜか固有色という事を考えている。すべての色は光の反射で見えているのであって、そのものに備わっている色などない。と考えることもできる。色を移ろいやすいものと感じるとすれば、色は光の反映と見えるだろう。そして物という存在の実在を強く感じるのであれば、そのものに色は備わっていて、光がなくとも色というものは固有にあるとも考えうる。絵画における色は見ている側の問題と考えた方が良いと考えている。地面を描いていて土の色を見れば、作物に良さそうな土だというのが、百姓には最初の感想である。その時は土の持つ成分の比率とか、微生物の量とか、腐植の含有率とか、を総合する生命保持力の様なものを見ている。当然色もその観点の材料として見ている。それが良い土と見える結果になる。良い土の色。これは光によって変わる色ではなく、朝の光ではこのような色。真昼の光ではこんな色。というように光の違いを超えて、出来るだけ光の変化を除いて一定の評価基準で色を見ている。これが土建屋さんならまた違う分析眼によって土の色を見るのであろう。金鉱堀なら目に見えないシグナルが見えているかもしれない。

写生に於いてはどんな光に当たるかによって、土の色は変わる。夕日に染まれば真っ赤な土の色になる。ここで絵描きが見ている土の色の見え方は、一体どんな観点になるのかであろうか。私は百姓の眼で土を見ようとしている。絵描きの眼の方は色を自分の思想というか、哲学というか、世界観で見ている。自分という存在をそこに反映させて物を見ようとしている。だから物の眼は移ろう光を追い求めながら、そこに介在する変え難い自分というフィルターになる眼を確認している。だからこそ、モネの描いた絵がモネの絵になっているわけだ。そのモネというフィルターを絵として味わい感動する。そのフィルターはものという人間の何にかを強く反映している。色を考えた時の固有色とは何かである。モネのフィルターが見た、つまりモネという絵画眼が見通した色であって、光の移ろいをたどりながら、移ろわないところのモネという眼をより強く意識させる結果であり、客観色ではない固有色が存在する。

誰かの見た見方から学んだものの多いいこと。自分が見ているという事は、変わりはないのであるが。人の絵の見方に惑わされているのであれば、自分の眼というものに近づくことはないだろう。自分の眼というものは、たぶんモネの眼ほど優れたものではないに違いない。それでも里地里山を作り出した、日本の百姓の眼で風景を見ていると思う。そこに至ることが出来れば、本望である。篠窪の今描いている風景が描けるのは、あと1か月ぐらいだと思っている。新緑が風景を遮ることになる。草が地面を覆うことになる。地面がよく見えている間に、何かが描ければと思うのだが。今年も今の調子では、前進とまでは言えないだろう。

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シャープが台湾企業に

2016-02-26 04:02:57 | Peace Cafe

シャープが業績不振の末に、台湾の世界企業ホンハイに買収されることになった。そういうことはこれからは普通に起きるのだろう。4年前に一度ホンハイに吸収されることが合意されたのにもかかわらず、撤回されたことがあった。あの時ずいぶん悪く言っていた。そして韓国のサムスンから支援を受けた。その後もサムスンが吸収するという話もあった。その都度日本の技術が海外流出するというような反対論があった。企業と国家というものの関係をどう考えていけばいいのかと、この吸収で思うことだ。産業革新機構というものが、シャープを支援するという話が出てきた。その背景にある考えは、日本の企業を海外企業に買収されることで、日本の先端技術が、中国に流れることを抑えようという考えがあるようだった。しかしそれは取りやめになった。

産業革新機構は官民共同出資により設立された投資ファンド。その目的は関連性の高い技術・事業の集約や取締役の派遣など、経営への参加・助言も行う。産業活力再生法に基づいて設立。という事であるが、その官民共同のシャープを維持すべきという力より、ホンハイのシャープの企業価値の見方が強かったという事なのだろう。日本政府はシャープの件では産業革新機構を後押ししないと表明している。そういうことはこれからもあるだろう。日本の企業とか、日本の技術力という見方がおかしいのであろう。企業とか経済は国境を越えている。中国をいくら敵視しようとしたところで、技術は国境を越えている。それは軍事技術においても少しも変わりはない。アメリカが日本に最先端の軍事機器を輸出するかどうかは揉める。日本の潜水艦技術がオーストラリアに流出するとも言われている。軍事的に優位という事が国家という枠組みのことであり、企業の優位というものは国家を超えているという現実。政府もそう考えているから、シャープの支援をしなかったのだろう。

経済は地球全体に動くものである。日本政府は日本出身の世界企業を後押しすることで、日本全体の景気を浮上させようとして、なかなか結果を出せないでいる。企業は日本一国の経済よりも、企業そのものの利益を追求する。時には国家に損害を与えても、企業が利益が上がることであれば動いてゆく。仮想敵国の有利に働く取引も行う。それが今回のシャープのホンハイの買収である。そのように政府が考えなかったかが少し不思議である。JALの支援は税金を使って行った。銀行の支援も政府がした。東電の支援も政府が行っている。シャープという電気製品の会社は支援する価値がないのか、支援する根拠が見いだせなかった。ホンハイはその技術にそれだけの価値を見たという事だろう。中国の軍事産業にその技術を売れるという判断もそこには加わっている。日本政府の判断が正しかったのか、間違っていたのかは、数年後に出てくることだろう。

世界経済はすでに曲がってしまった。日本企業が特出して有利に動けるというようなことは、まずないと考えなければならない。シャープに象徴的に見られるように、IT技術や、液晶技術において、世界市場に於いて遅れ始めている。本当の原因はわからないが、想像するに日本人の独自性の様なものが薄れてきている可能性はある。日本は何千年も独特の国として存在した。独特の自給的世界を作り上げ、細やかな感性を醸成した。それが工業製品の開発においても、他の国にはない心配りのある製品を生み出したのだろう。所が暮らしが変わり、日本人もそうした潜在的な資質が衰退した。他にないものという事では、物足りない国になり始めている。その為に新産業の創出が滞っているのだろう。日本人が日本人らしく生きる。その為には日本の水土に根差した、暮らし方を見直す必要がある。暮らしの日々をしっかりと見つめなおさない限り、日本の衰退は年々顕著になることだろう。

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タングドラム3

2016-02-25 04:15:37 | 楽器

大型タングドラム7号。横に75センチある。天板はパドックで厚さが23ミリくらい。音に奥行きがある。余韻が深い。木を敲いている感触がある。相当目的に近づいてきた。

タングドラムをその後7号、8号と作った。音楽をやられている方にも敲いてみてもらい、改良を重ねている。まず検討材料であるボックスについていくつか分かったことがある。さらに、課題も見えて生きた。ボックスは底板がなければならないという事はまず当たり前だが確認した。しかもこの底板の厚みや硬さは音の大きさや反響の調子に大きな影響があるという事がわかった。次に、箱の大きさは天板のサイズに合わせて、高さをどれくらいにするかであるが、今のところ天板の巾程度が良いようだとわかってきた。箱の高さを55センチある物を作ってみた。ところが全く駄目だった。そこで徐々に低くしてゆき、20センチくらいになると、音が響きだした。13センチでも音は響くようだが、一番良い高さがどのくらいになるかまでははっきりしないが、天板が15センチ巾なら15センチというくらいのようだ。

地元の白樫材で実験的に作っているもの。2016,2,19日伐採、制作は20日生木である。重量1800グラム。経過観察をするつもりだ。25日現在で1700グラム。かなり反ってきた、割れてはいない。横の穴は構成の美しさもあるが、木の揺れを増やすためでもある。

箱の材質が次の課題である。箱は15ミリベニヤでも可能である。但し底板だけは硬い方が響きがよくなるようなので無垢板が良いかと思われる。ラワン材20ミリ厚、桜材25ミリ厚、ケヤキ25ミリ厚、と作ってみた。むしろ板の厚さに音が影響されるようだ。敲くと箱全体が振動するのがわかる。三線の箱胴と同じであるが、三線なら箱胴の上下は蛇皮で側面がケヤキの刳りぬきになっている。三線では上面の蛇皮は強く張り、裏面は少し緩く張るという事らしい。底の板が薄いベニヤの場合どうなるかも検討したがだめであった。25ミリあるケヤキの板で全体を作ったものが、今のところ一番良い音がしている。今制作中のものは、ケヤキの20ミリ板で箱全体を組んで見ている。次の予定では箱全体を楠で作ろうと考えている。タングドラムは素朴な木を敲く音を失わない方が魅力がある。木魚的な木材を敲いたという反響を期待している。

天板の材質が音に一番影響を与える。三線の竿と同じで、硬い木ほど音の音色は澄んだ音色になる。雑味がなくなる。たぶん周波数的に出る音が限定されてくるのではないだろうか。木琴に使われるような材で作るのが普通にはいいようである。黒檀、花梨、パドック、ローズウッド、紫檀というような硬い木なら大体良い音がする。もちろん音の好みもあるが、木の比重が高くなり水に沈むような材ならば、音は金属的なものになってゆく。それが0,5程度の楠までくると木魚のような柔らかなリズムを兼ね出るようなものになる。ケヤキなどでもそれなりに面白い音のものが出来た。結論としては、天板は硬めの木の良く乾燥したものであれば、音の好みで何でも使える。天板の幅は15センチから30センチくらいまで。15センチ以下では楽器としては面白くないようだ。長さは40センチから50センチまでが一般的であろう。硬い木になるに従い長めにした方が良い。15センチ幅あれば、スリット4本を入れて、7音くらいが作れる。上手く音が配置されればドラム楽器という感じになる。天板の厚みは15ミリ~25ミリくらい。厚いい他の場合天板は大きくした方が良い。

30センチ幅の木であれば、8本のスリットを入れて、14音が作れることになり、2オクターブの音階をつくることも可能になる。スリットの幅は3センチ以下になると敲きにくいものになる。根元だけを細くするように穴をあけてみた。3,5センチとして25センチの舌の幅になる。舌の長さ半分にすると、音は二オクターブ高くなる。スリットの幅を同じにした場合である。微調整は裏側から木の厚さを調整すれば可能になる。先の方を薄くすれば、高音になり、根元を薄くすれば低音になる。まだ音階の有る物は作ったことはないが、それなら木琴の方が良いだろうという事になると考えている。むしろ音の配置を工夫して、ドラムという考えを強調した方が良い。その為には6音あれば十分でないかと考えている。ドラムという考えで行くと、時に側面を敲くという事を想定したい。太鼓でも時に縁を敲いて調子を入れる。異質の音が入ることで多様なリズムが作れるのではないか。これも次の課題である。

 

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北朝鮮リスク

2016-02-24 04:38:27 | Peace Cafe

北朝鮮の暴発が日本の安全保障にとって、最もリスクの高いものである。何度か書いてきた。中国は安全保障上問題がない。それはロシアも同じである。日本が勝手に、憲法改定のために仮想敵国化して騒ぎ立てているに過ぎない。軍事力の強化をしたり、領域を強化したりしても、日本の安全保障の問題とは違う。近隣諸国で唯一本気でリスクを考えておかなければならない国は北朝鮮である。その理由は北朝鮮がイスラム国と同質の独裁国家特有の冒険主義を抱えているからである。この先考えておくべきことは、戦争よりテロが安全保障の対象である。大国による戦争が起こる可能性は相当に低くなっている。その北朝鮮がさらに原爆搭載のミサイルを所有したのである。韓国では核武装が国会で議論されている。韓国国民の半数以上が核武装すべきという世論調査の結果まで出て来ている。今考えなければならないことは、テロ国家に対して日本がどうするかである。

日本は先日のロケット実験の際に、迎撃命令を防衛長官が出した。石垣島の港付近に迎撃ミサイルスタッドが配備された写真が出ていた。この対応がまるで茶番のようで、まともな防衛戦略とは思えない。ロケットが上空を通過するたびに、迎撃ミサイルで対応する必要はない。本気で北朝鮮という暴発国家に対してどう対応するかである。まず中国が動かないがために、国連の制裁は一向に進まない。中国が対応しないのは、朝鮮半島が分断されていて、対立がある形の方が望ましいからである。国連で対応ができないことを見越したうえで、北朝鮮は挑発を繰り返している。朝鮮の国家分断を上手く利用して漁夫の利を得ようというのが中国の発想だろう。対立があると何が良いかと言えば、中国にみんながお願いに来る状態になる。中国の存在意義が高まる。アメリカや日本への威嚇を代わってやってくれるのだ。北朝鮮という捨て駒を上手く利用して、自分の世界での位置を確保しているのだ。

中国の武力的補助効果。それは以前はロシアがそういう形で北朝鮮をつけあがらせた結果起きた状態である。ロシアは冷戦の中で、北朝鮮を暴発国家に育てた。ロシアのやり方を今度は中国が奪ったのだ。その中国にお願いして経済封鎖をするなどという発想をすること自体無意味である。経済封鎖作戦も一つの戦略ではあるが、その効果が中国という抜け道をさらに強化している。北朝鮮にしてみれば、中国が最後の蜘蛛の糸だ。切れそうで意外に利害が一致していて切れない。解決があるとすれば、情報戦略である。北朝鮮の国民が世界の現実を知ることだろう。対立するだけでなく、あらゆる機会を利用して情報を送り込むことだ。人の往来を日本は禁止したが、何か意味があるのだろうか。正面政府がこぶしを振り上げるにしても、側面で何らかの交流を取らなければ、さらに暴発の可能性が高くなる。近隣諸国との友好関係をことこそ、安全保障の第一である。交流を深めることで友好を少しづつ模索する。

中国への経済封鎖が出来ないという事が中国との安全保障だ。日本は中国と仲良くしなければだめだ。アメリカも、EUも中国との経済は相互依存状態である。それでいて、日本が中国を仮想敵国としている状態に導かれるとしたら、理由は憲法改定にある。北朝鮮の国民が貧困にあえいでいるという宣伝報道も嘘である。貧しいとはいえ自給的にそこそこの暮らしはしているとみていた方が良い。北朝鮮問題を解決しようとするなら、中国と友好関係を構築するところから入るべきだ。仮想敵国の中国に期待するなどというのは矛盾であろう。中国にケンカを売ったのは日本である。尖閣諸島を東京都知事の石原慎太郎が買い取ると言い出した事が発端である。日本が持つべき目標はアメリカの51番の州にしてもらう事ではなく、EUモデルのような、東アジアの経済連携地域である。それを嫌がるアメリカが、無理やり日本をTPPに巻き込んだのだ。アメリカの言いなりの安倍政権も仮想敵国中国を憲法改定の材料にするため、アメリカのお先棒を担いでいるのだ。

 

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水風呂の効能

2016-02-23 04:36:36 | 日帰り温泉

水風呂によくはいる。暑くなれば毎日入る。クーラーを使わない分、水風呂に入ることになる。湧き水があるので今年は湧水の水風呂を作りたいと考えている。湧き水は畑の脇にあり、飲み水はすべて湧水を使っている。何か、問題があるものが混入していないかという心配がない訳ではないが、歴史的に問題のなかった湧水である。一応農の水質検査はしている。この湧水の湧いて来る標高で集落の位置が変わったという話を聞いた。舟原地区のの古い家には湧水のある家が結構ある。通年枯れることはない。その湧水で2畝ばかりの田んぼを作った年もある。自給生活の実験である。そこで100キロのお米がとれた。今はその水は畑の水やりに使っている。この夏は水風呂を作って入る。湧水の水温は通年15,5度である。貯めたとしても20度までだと予測している。まず水風呂になる容器を探すことからである。

何故、水風呂のことを考えたかと言えば、単純に入ると気分が良くなるようになった。10年くらいの間に徐々に起きたことだ。風呂屋に行きサウナに入る。その後は外で風にあたり、ぬるいお風呂に入る。そして、冷水につかる。冷水に入るのは、体の中の強制循環を行うためである。スポーツ選手が氷で冷やすのと同じことである。身体を熱くしたり、冷たくしたりすることで、体液の滞りが解消される。そして不要な物質が排出される。サウナ内は90度ある。体温は40度を超えるのだろう。そして、今度は17度前後の冷水に入る。体温は30度に近づくのだろう。この身体の温度差で体液の循環が促進され、余分なものの排出がされるような感じがする。汗をかくことは大切である。筋肉疲労や、肩こりなどはこれで解消できる。

水風呂の勝手な入り方を記録しておく。水温は17度前後が良い。180数えながら入る。時間にして、3分から5分ぐらいだろう。これを4回繰り返す。最初は当然冷たい。70を数える頃に冷たさに慣れてくる。100を超えると、冷たいというよりだんだん無感覚になってくる。170ぐらいになると、ぶるっと冷たさがぶり返すこともある。大体の場合は、100から180の間はお風呂に入っているのに近い感触になる。180にしているのは、あまり理由もないが、以前は250くらいまではいっていた事もある。少し短くしてみたりしながら、180にした。ただその時の身体の感触に合わせて、ゆっくり180で5分を超えるときもあるし、急いで3分を切るときもある。むしろ冷水を感じながら自分の体調を確認している。サウナや、お風呂に入る。夏ならそのままでいる。そしてまた水風呂に入るを4回繰り返す。水風呂の中でゆる体操のように身体を動かすこともする。大体これで身体の冷えは取れる。頭がきりっと回復する。

冷水に入るのは長年やせ我慢であった。所が水風呂ほど気持ちの良いものはないという人が結構いる。風呂屋に水風呂に入るためにきているという人もいる。私は長年つめたいのを我慢して入っていた。冷たいのが気持ちいいなど、やせ我慢な人だと思っていた。ところが最近、冷たくて辛いが少し変わってきた感触がある。冷たい痛さを気持ちよく味わえるようになってきた。これにはびっくりポンである。辛いから良いと言う感じである。この歳になって初めての感触である。長年繰り返すことで、感覚がいまだ変化することがあるという事に気づいた。先入観というものは捨てなくてはならない。水風呂では身体に良いという結果があるので、少々我慢をしていた。ところが10年して変わった。10年間の思い込みが、解き放たれたような新しい体験をした。絵を描いていても、何年も同じところを描いていても、今日初めて気づくという事はある。家に水風呂を作ろうと考えている。風呂の周りはヨシズで囲う事にしよう。露天水風呂である。

 

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丸山和也自民党参議院議員の暴言

2016-02-22 04:13:41 | Peace Cafe

丸山議員も元タレント弁護士である。恐ろしい発言をしている。テレビと国会の違いを理解できない。テレビであれば、オチャラケで目立てば気が利いているという事になるが、国会は目立てばいいというものではない。オバマ大統領を奴隷と呼んだのだ。そのことも問題ではあるが、日本がアメリカの一州になった場合の憲法上の問題を発議しているのだ。何を語るのも議員の勝手ではあるが、その意図が狂っていないだろうか。アメリカの一州に日本が成ることをユートピア的と語っているのだ。冗談ではない。日本がアメリカに加わるという事は、断じて許せることではない。例え話にしても、こんな悪質な冗談を、国会の憲法審査会で語る国会議員がいるという事自体、自民党もついにここまで来たのかという最悪の事態だ。冗談が冗談ですまなくなることもある。日本の財政問題もアメリカに成っていたならば、生じなかったと言っているのだ。そんなことはないはずだ。カリフォルニア州は財政破綻で火事に消防車がいないという事を聞いた事がある。

これだからタレント議員はだめだというのだ。日本の選挙制度の悪さと、有権者の利権思考が合わさり、この体たらくである。それにしても自民党に連続の暴言ではないか。放射線量の制限を根拠がないと言い切る、元女子アナ議員のひどさ。相次ぐ発言の取り消しであるが、取り消して済ますわけにはいかない。この言葉で傷ついた心の痛みにはどのように、取り消しでは済まない。言葉の暴力である。思っていたから口から出たのである。しかも時間がたって、人から指摘を受け、しぶしぶ撤回しても撤回にはならない。先日友人から、小田原のお米は放射能に汚染されているので食べたらだめではないか。と言われた。放射線量の測定を繰り返し調べている。検出限界以下だから大丈夫だと言っても、その測定はおかしい。執拗に安全な訳がないというのだ。言う方は善意のつもりで教えてくれているつもりらしい。小田原で自給している者としてつらい思いだけが残った。

放射線量年間1ミリシーベルトを一つの基準で考えようという事は、世界基準である。そのラインを一応の基準にするほかない状況の厳しさをわからない女子アナ大臣の愚かしさ。オバマ奴隷発言以上に問題なのは、日本のアメリカ編入問題である。これは日本語を止めて、英語を国語にしようとした明治の脱亜入欧の発想と同じである。日本の文化というものをどう考えているのだろう。日本という文化によって形成されている日本国というまとまりをどう考えているのだろうか。単なる一地域という事ではないはずである。アメリカは確かにネイティブアメリカンが暮らしていた地域に、移民で押し寄せて作ってしまった特異な国である。日本が編入させてもらうこともできるのかもしれないが、それは日本が消えてなくなるという事である。一体自民党は保守党ではなかったのか。日本をどのように残し、大切にしてゆくかが政治ではないのか。打算でアメリカになるなどテレビだけにしてくれ。

以下、丸山和也参院議員(自民党)の17日の参院憲法審査会での発言は次の通り。

 憲法上の問題でもありますけれど、ややユートピア的かもわかりませんけれども、例えば、日本がですよ、アメリカの第51番目の州になるということについてですね、憲法上どのような問題があるのか、ないのか。例えばですね、そうするとですね、集団的自衛権、安保条約はまったく問題になりません。例えば、いまは拉致問題というのがありますけれど、拉致問題すらおそらく起こっていないでしょう。それから、いわゆる国の借金問題についてとかですね、こういう行政監視のきかないような、ずたずたの状態には絶対なっていないと思うんですよ。

 これはですね、日本がなくなることではなくて、例えば、アメリカの制度になれば、人口比において下院議員の数が決まるんですね。比例して。するとですね、おそらく日本州というのは、最大の下院議員選出数を持つと思う、数でね。上院もですね、州一個とすれば2人ですけれども、日本もいくつかの州に分かれるとすると、かなり十数人の上院議員もできるとなる。これは、世界の中の日本と言うけれども、要するに、日本州の出身が米国の大統領になるって可能性が出てくるようなんですよ。ということは、世界の中心で行動できる日本という、まあ日本とはその時は言わないんですけれども、ありうるということなんですね。

 バカみたいな話をすると、こう思われるかもしれませんが、例えば、いまアメリカは黒人が大統領になっているんですよ。黒人の血を引くね。これは奴隷ですよ、はっきり言って。リンカーンが奴隷解放をやったと。でも、公民権もない、何もない。ルーサーキングが出て、公民権運動の中で公民権が与えられた。でもですね、まさかアメリカの建国、あるいは当初の時代にですね、黒人、奴隷がですね、米国の大統領になるなんてことは考えもしない。これだけのですね、ダイナミックな変革をしていく国なんですよね。

 そういう観点からですね、例えば、日本がですね、そういうことについて憲法上の問題があるのかないのか、どういうことかということについてお聞きしたい。

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TPPで日本の食はアメリカ基準になる。

2016-02-21 04:28:37 | 自給

TPPが実施されると、2030年代の日本農業は2極化すると想像している。普通の農家はなくなり、企業農業と自給農業である。そして中山間地の農地は大半は放棄地となる。企業農業の方は労働力を海外の労働力に依存している。農業を行うことをご先祖から受け継ぎ、次世代に引き継ぐ事を役割と考えてきたのが農家である。それが瑞穂の国の文化的伝統であったのだが、この文化は消える。かつては農協を支持母体の一つとしていた、保守政党である自民党がこれを実行しようとしているところに、日本の未来像の大転換がある。あらゆるジャンルで企業こそ効率が良いという見方。大企業をエンジンとすることがアベノミクスである。そのため大企業の権益を守ることが、日本の国際競争力を高めるという読みなのだろう。かなりの国民はそれを支持しているようだ。いわゆる農家は消滅するだろう。その前提で自給農農業のこと考える事が良い。

食生活がさらにアメリカ化されている。食品自体が変わるという事である。アメリカの安全基準を受け入れざる得なくなる。私がおそれるのは遺伝子組み換え食品のアメリカへの同調である。アメリカの農業は企業農業である。利益を上げるためには、特許権というものを重んじている。作物の品種にも特許を課そうとしている。特定の除草剤に耐性のある作物を作り、作物の栽培のシステムを合理化する。その遺伝子組み換え作物の種子と除草剤の組み合わせ販売で利益を上げる。モンサント方式である。殺虫効果のある作物というものもある。いずれにしても、その長期的安全性には疑問があるうえに、自然界にそうした作物が広がった時に、自然がどのような影響を受けるのかも、検証されていない。ヨーロッパでは基本受け入れを拒否している。日本も揺らぎながらも、何とか受け入れないでここまで来た。しかし、TPPが批准されれば遮ることはますます難しくなるだろう。文化を捨てるという事はそういう事なのだろう。

畜産物においては、ホルモン剤や狂牛病の問題がある。今までのところ、かなり杜撰であるし、押し切られてきたのだが、それでも何とか一応の歯止めはある。さすがにアメリカ肉を食べない理由である。しかしこれもTPPが批准されれば、歯止めが利かなくなることは目に見えている。食生活をどうしたらいいかである。自給をするか、アメリカ式にやるしかなくなるのだろう。富裕層の食べ物が別になるのだ。そうした安い危険な食品を富裕層は食べない。いわゆる有機作物に日が当たるのかもしれない。有機作物の生産者は富裕層のための作物を作る農家という形で、存在価値を高めてゆくのかもしれない。私はまっぴら御免である。となるとまともなものを食べたい人は、自分で作るほかなくなるという未来である。自給農業を続ける人こそが、日本文化の継承者という事になる。いつの日かの目覚める日を待つことになる。全体のことはあきらめざる得ない。諦めてはいけないのだが、現状の社会を見れば、正面攻撃よりは当面迂回である。

世界は食糧危機に陥る。これも考えたくもないことだが、2030年には今より20%も増える人口を満たす食料がない。アメリカ様式の食糧が今より20%の人口増加に対応できないだろう。これもまた、貧困層の問題になるだろう。食糧が不足し大飢饉が起こるような事態が確実に待っている。その時になって初めて、食糧が工業製品とは違うものだと気づく。食糧はなければ1か月で人は死ぬ。世界企業の競争に巻き込まれてゆく農業は、人口増加を良しとすることだろう。3%の人間で、次の世界に繋いでゆく農業を継続することではないか。全体のことで、消耗してしまうよりも、心ある者で未来に希望をつなぐことではないだろうか。それが自給農業である。したたかにあらゆる状況を利用して、3%の暮らしの模索である。

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自給力の向上のために

2016-02-20 04:20:25 | 自給

自給力向上には方向の定まった努力が必要だ。1、自然を感じる感覚を磨くこと。2、科学的思考を深めること。3、実行力を継続すること。感が悪いとなかなか大変である。以前田んぼの水管理を説明した。地面が出ているので、もっと水を深くしなければ草が出てしまうと話したら、入水口から水を多く入れるようにした人がいた。いくら水を増やしても水位が上がらないという連絡があって行ってみると、排水口を上げることは考えなかったわけだ。勘所が違っている。一を教えられ、十のことに気づくような感の良さが自給力には必要だ。感じる力を養うには、感じることのままに生きる訓練が必要である。嫌なことは嫌と言える暮らしを貫く事ではないか。嫌なことを我慢している習慣が身につくと、感が悪くなる。要領よく楽で確かな方法を見つけることがないからだ。言われたことをひたすらたどることになる。好きなことをやる。絵を描くとか、音楽をやるというのはまさに感性を育てることになる。感性には結論がなく、自分の良いというところを発見し想像し続けることなのだろう。

科学的思考とは明日の天気が読めるという事になる。感だけでは明日の天気は外れる。天気図を読める科学性である。過去のデーターにさかのぼれる思考力である。天気予報士は科学を駆使して明日の天気を予想する。自給をするものは自分の住んでいるところの天気を高い確率で予想できなければならない。そこでは、肌感覚も加えた総合力が重要になる。データーを集める能力も必要だ。パソコンで情報を集めることができるようになれば確率が高まる。加えて自然の観察である。虫の様子や雲の流れ、風向きや日照の強さ。あらゆることを総合すれば明日の天気を当てる確率が高まる。天気は例えである。自給力は作物の明日を読む力である。いつ種を蒔くか。いつ草取りをするか。いつ土寄せをするか。いつ追肥をするか。畝たてをどうするか。収穫はいつになるか。すべて過去の蓄積を踏まえた読みである。読みを裏付ける科学的思考力である。それでも失敗を繰り返すわけだが。その失敗を読み解く能力が科学性である。取れなかったら食べれない本気状態で、思考する。

そして、実行力である。どれほど感が良く、科学的思考が出来ても、行動を継続する力がなければ自給はできない。自給など近所のおばあさんがみんなやっていると馬鹿にした人がいた。おばあさんの持続力を甘く見ているのだ。自給は表面を撫でていれば退屈なものだ。考えているところから行動に入るには壁がある。単調な農作業を面白いものという目で見えるようになれば持続力が高まる。同じようなことの繰り返しが、実はすべて初めてのことなのだ。日々思いもよらないことの連続であれば、発見の日々だ。そうなれば退屈どころでなく持続できる。行動が行動を広げ、自然界に起こるあらゆる事象を、生き生きとしたものとしてとらえられることになる。視点が変えられるかが行動に繋げるカギになる。受け身の楽しさに慣れさせられているので、なかなか、行動する面白さにたどり着けないものだ。工夫することの面白さを知れば、畑ほど面白い場所がないことに気づくはずだ。

この3つを意識して高めることが、自給力向上になる。奥は深いものだと思う。もう30年近く自給を模索してきたわけだが、いまだ力不足である。それでも、若い頃は不足分を体力で補う事が出来た。そして今は、蓄積した知識で何とかまだ乗り切れている。作業時間は昔の半分で済むようになっている。その大きな要素は良い仲間が出来たことだ。助け合うことができる。私が役に立つこともまだあるし、助けられることもある。一日1時間もかからない自給生活になっている。仲間が出来たから、自給生活に張り合いもあるし、楽しい農作業である。3%しかいない自給に興味のある人がうまく集まることが重要だ。小田原の人口からして、6,000人は自給に興味を持つ人はいる。その100人に一人が気が合うとしても、60人は同じ志の人がいるはずである。そういう人と出会えるかどうかは天命なのだろう。

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写生の材料準備

2016-02-19 04:17:36 | 水彩画

絵の仲間のたいていの人が、写生に行くときには、かなり大量の画材を持ってゆく。私も絵の具などまさかというほど持ってゆく。使い切るなどという事が起こらないように、あれこれいらないものまで持ってゆく。例えば絵の具は予備を必ず持ってゆくのだが、予備でありながら2本無ければ安心できない。水はアルミボトルに3本は必要。使うのは一本なのだが、気分的に3本は必要。筆は5本は最低でも持ってゆく。タオルは3枚は必要。紙は5枚くらいなければだめだ。加えて予備のスケッチブック。一枚の絵を描くのに、最悪の事態を想定して、一応は持ってゆく。それができるのは、車で行くからである。絵はすべて車の中で描いている。以前は、家にいるのにわざわざ車の中で描いたことさえあった。車で描きにゆき、降りて描くという事はない。場合によっては一度も車から降りない事さえある。だから書く場所は限定されているともいえる。描く場所のそばの車の中から描く。

ダイハツタントという軽ワゴン車の中から描いている。写生用の車としては、4代目である。描きたくなる場所が農道の先というようなことがよくあるので、軽自動車でなければ今はだめだ。私の描き方であれば、車が画室であるうえに、交通手段という状態であろう。車にはカーナビがある。これで絵を描く場所は登録してある。それは長野県であろうが、房総、伊豆、篠窪、みんな一緒である。描いた場所を忘れたら大変なことになる。わずか100メートル離れただけで、見つからない場所はある。意外に2度と行けない場所がある。同じ場所に行って、前回そこで描いた絵を描いているのに、風景を見ないで描いていることもある。私にとってよく見るというのは、肉眼的によく見るではないという事のようだ。その場の空気の中に存在するという事が重要になる。そして同時に、車という枠の中からその場を見るという事になる。車には写生の道具は常備してある。普段もしかして、通りがかりで描きたくなったら困るからである。家の近所でもすごい風景が出現することがある。

材料が山のようになければ、何かを作れないというのは、タングドラムでも、篆刻でも、染色でも、家具作りでも、陶芸でも、字を書くのでも同じである。やりたいという気持ちが湧いてきたときに、材料を買いに出かけてやるというのでは、やりたくない。気持ちが盛り上がれば夜中でもすぐに始める。すべては、目的もないし、期限もない。期待もされていないし、自分勝手なことである。やりたいという気持ちに従いたいというだけである。無駄なことである。無駄な割に材料が山のようになるという、怖ろしい事態である。今一番心配しているのが、古酒である。あれこれ作っているのだが、死ぬまでに飲み切れるかである。それで無駄にしないようにせっせと飲まなければならないのだが、これで身体にいいわきゃない。絵具だって、板材だって、私以外の人にはほぼ無駄なものだ。さらに、作られたもの、描いた絵など、迷惑以外の何物でもない。

絵の材料であった。紙もたいていは中判全紙3種類は持ってゆく。結局はファブリアーノで描くことになるが、一応はアルシュもインドの紙も持っては行く。結局のところ、描けないで帰ることもよくあるのだが、描きたくなった気持ちに従いたいと考えている。畑をやるのも、染色をやるのも、タングドラムも、絵を描く準備運動の様なものだ。準備運動で終わることが多く、制作にはなかなか入れないが、そのたまたま来る制作したい気持ちがいつ来ても対応できるようにしている。多分小学校4年生の時に絵を描くという意識を持って以来、絵を描くという事をいつも主目的に生きてきた。だから、私の生きるという事は絵を描くという事でしか結論が出せないようだ。ろくな絵が描けないという事は私がろくなものでないという事になるのかとも思うが、そうではないかもしれない。しかし、ろくな絵が描けたからと言って私がろくなものであるという事にもならない。

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水彩絵の具のこと

2016-02-18 04:36:09 | 水彩画

水彩人でクサカベの絵の具工場の見学を行った。そのことは以前書いた。講師の技術者の言われていたことに、いろいろ疑問が出てきている。結論から言えば、クサカベの水彩絵の具の考え方がすべてではない、と今は思っている。コバルト系統の色の鮮やかさが好きで使ってきたのだが、これが本当のコバルト顔料が使われているのかどうかという疑問である。それくらいニュートンのコバルト系の色味が変わった。また、顔料の重さと大きさも変わった。以前より軽く、細かくなった。特に混色をするとその違いが明瞭に表れる。昔の名前で出ています。という形で、高い値段で売るために、名前を変えないだけではないか。コバルト顔料ではない気がしている。シュミンケではコバルトバイオレットはなくなったという話をその時に聞いた。シュミンケはこの点では正直なのだろう。良い色なので使っているが、但し混色は出来ない絵の具である。絵具の不安定さと、色味の良さが反比例するのだから厄介である。

水彩絵の具が塗装用の顔料の影響で大きく変わり始めている。クサカベの技術者はクサカベの絵の具はすべて、工業用の顔料を購入して作っているために、混色が可能なのだとと言われた。その工業用の顔料は世界中で作られていて、絵具に使われる料など1%に満たない量である。どこの材料というようなものでもなく、金属顔料という事だった。しかし、それはクサカベの絵の具に限ることで、クサカベの水彩絵の具が学童用から始まっていることによると思われる。口に入れても安全で、価格も安いという前提で作られている。その結果色味を犠牲にしているという事になる。どの程度犠牲にしているのかは、先入観は捨てて見直してみる必要はある。混色自由。耐光性が高いという事は、大いなる利点である。たぶんホルベインの絵の具でも同じことがいえるのだろう。舶来品に憧れはないが、使うのはレンブラント、ニュートン、シュミンケである。もうでたらめでごちゃごちゃである。しかも春日部先生から頂いた、年代物が山ほどあるので、製造年度で色味も性格も異なるという厄介さである。

水彩絵の具の良いものとは彩度が高いこと、透明性があること、耐光性に優れていること。その為に申し訳ないがクサカベの絵の具は使わない。しかし、シュミンケでもバーミリオンという色は発売されてはいるが、バーミリオン顔料は使われていない。厄介である。シュミンケやニュートンの絵の具の特徴は単一の顔料で絵具を作るものがほとんどだという事である。それは描画における絵の具の問題を簡潔にすることである。しかし、混色禁止の絵の具の方が存在する結果となっている。絵具は単独で使うという考え方で出来てているという事が言える。これは伝統的な考え方である。学生の頃勉強した考え方そのままである。クサカベの色調で絵が描けるのであれば、すべて混色に問題がないと言い切るクサカベの絵の具は優れている。しかし、クサカベの絵の具では鮮やかさが不足する。あるいは透明性が物足りないとなると、どうしてもニュートンとなる。ところがニュートンの色彩も10年ほどの間に、濁りを増した。そこで、仕方がないので、色によってはシュミンケやレンブラントを使うことになった。しかし、紫系の色が混色ができないという問題は自分の描写方法から言って負担が大きい。

結局絵の具についてはまたよく分からないところに戻った訳だ。その為に、色ごとに好きな会社ものを選ぶ以外にない状態。しかも、混色をしてしまうのだから、混色禁止の絵具がいくら良い色であっても加えることは出来ない。つまりクサカベ方式が描写するものとしてはいい。色が気に入らないところが悩みである。せめてクサカベやホルベインが単一顔料で絵具を作るようになってくれればと思う。絵具を作るときに混ぜてしまう方式が、絵具全体の彩度を落としている。加えて体質顔料の量を減らすべきだ。値段が高くなるかもしれないが、日本でも本物の絵の具が出来ることを願っている。

 

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雨の日は写生日和

2016-02-17 04:32:25 | 水彩画

雨の日は写生日和である。晴耕雨読とはよく聞く言葉だが、晴耕雨描ということになる。晴雨にかかわらず畑をやるのはせいぜい週に一日であるから、晴れたから耕すという気分はない。最近は絵が描きたいのでほぼ連日絵を描いている。そして雨の日は写生日和という事になる。雨が降ると農作業に人来ないので、心置きなく畑の絵が描ける。農作業をされている人にしてみると、うさん臭い車に違いない。車の外で絵を描いているならまだ何をやっているのかわかるのだろうが、車が止まっているだけだ。絵を描くのによい場所に車を止める場所がある訳でもない。車をすれ違うための場所に車を止めて描くほかない。畑に来た人が車を止めている場所に止めて描かせてもらう場合もある。いずれにしても、描くことをお願いしようにも、その畑の人がどなたかもわからない。通りがかりの車の人に何をしているのかという顔で見られるぐらいである。こんなところで寝ているんじゃないと怒られたこともある。絵を描いているというのは畑をやる人にしてみれば寝ているようなものだ。

中井町から大井町の丘陵地帯には細い農道が巡っている。思わぬところに熱心な畑がある。篠窪、山田、赤田、古怒田、など言う集落である。田んぼがつく地名が多い。田んぼができる土地は少なく貴重だったのだろう。だから田んぼでなくちょっとした湿地があれば〇〇田とつけた場所も多い。遠く、西に富士山を望み、南に相模湾。北に丹沢東には渋沢丘陵が続く。高いところでも300メートルほどの山並みである。丘陵全体がかつては畑であった時代もある。眺めがいいからと言って眺めを描いているわけでもないので、近間の畑さえ見えれば十分である。向かいの山がかすんでいるような日でも絵は描ける。見えない方がいい場合がある。濡れ色というものが良い。等伯の霧の絵があるが、雨に煙る畑の色というものはいいものだ。枯草のはずがオレンジ色に燃えて見える。木の幹が濡れて黒々としてくると、木の地面に対する在り方がよく分かる。いつもは光で紛れていることに気づくことがいろいろある。畑の植物が雨を喜んでいる。

 雨の方が姿を現すものがある。例えば銘木屋さんなどでは、板の木目を見るのに濡らしてみるという事をする。地面も濡れてわかることが山ほどある。土に混ざっているものが見えてくる。腐植の量は雨の方がわかる気がする。植物の土への馴染みも見える気がする。畑は満作に見えても無理をしているなというところもある。もちろんそれの方が良いのかもしれないが、私はそういう畑は描くことはない。雨の日にだけできる川もある。渋沢丘陵の谷は枯れ川である。私にとって雨は隠してしまうものではなく、その土地の実相を見せてくれる機会になっている。だから雨が降ると映画館に行きたくなるような感じで、景色を見に行くことになる。先日は春の大嵐で雷の中で絵を描いた。何も困ることはない雷は車の中にいれば安全である。むしろ落ち着いて絵を描いていた。

空けた窓からひっきりなしに雨が降り込んだが、座席が濡れても絵を描くことには問題がなかった。車は軽のタントなのだが、中判全紙の絵を描く位の空間は十分にある。中でゆっくりコーヒーを飲む。描いている方向以外はカーテンを閉めている。そうしないと安心して描けない。穴倉の中から、外を覗いている猫のような気分だ。時には見ている方向も閉めてしまい描いていることもある。よく見るためには見ないという事も必要になる。江の浦漁港を描き続けた中川一政氏のことが特別とは思えなくなった。同じ場所を5年も描いているのだが、飽きるという事は全くない。進歩も今のところないのだが、ここでやれるだけはやってみる気だ。他に自分の絵に近づける道がないと思う。これでダメだとしても、それはそれで仕方がないのでやりつくそうと考えている。もう少しで分かりかけるという気もする日はある。

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アイドル自民党候補

2016-02-16 04:02:45 | Peace Cafe

スピードの今井絵理子氏が自民党の参議院比例区に立候補である。18歳選挙権がある。自民党としてはイメージアップ作戦のつもり。聴覚障害がある子供を育てているシングルマザーで、注目度の上がっていた、今井氏に目を付けたのだろう。自民党よ!政治を舐めんのもいい加減にしろ。今起きている政治状況は時代の変わり目ともいえる、重大な局面だ。イメージアップなら経済の専門性の高い人だろう。自民党の選択はどう思われようが選挙に勝てばいいという考えのようだ。電通的調査結果が出たのだろう。そういうことばかりやっているから、宮崎氏のようなとんでもない青年局次長が登場する。私は沖縄ファーンだし、沖縄唄者に憧れているから、スピードにも好感がある。子供を一生懸命育てているというテレビも見た。こうなるとあの辺から筋書きが始まっていたのかと疑問が湧いてくる。選挙の投票には行かないが立候補したという伝説の、女子アナ議員はいまや失言大臣である。

女子アナ大臣の丸川氏は、放射線量を年間1ミリシーベルトと決めたのは「『反放射能派』と言うと変ですが、どれだけ下げても心配だと言う人は世の中にいる。そういう人たちがわあわあ騒いだ中で、何の科学的根拠もなく時の環境大臣が決めた」さすがの女子アナ感覚だ。全く何の勉強もなく大臣になったようだ。誰が女子アナに台本なくしゃべらせたのかと、自民党内では大騒ぎだろう。投票に行かないが代議士にはなりたかったくらいの人だから、何を発言しても不思議はない。二人目の女性大臣の高市氏は、原発事故のことを死んだ人もいない。大したことのない事故だと言い放った事があった。さらに3人目の沖縄選出の島尻安伊子・沖縄北方領土担当相が2月9日の記者会見で「歯舞(はぼまい)群島」を読めなかった。いくら遠い沖縄からの大臣にしても、だいぶ時間がたつ。お粗末な話だ。ずいぶんの、女性大活躍である。自民党のイメージ戦略によってでたらめ女性大臣せい揃いである。本家本元の安倍木偶人形も同じような、エリート政治家一族出身のイメージ総理大臣と言わざる得ない。

こういう張りぼて揃いの政治状況になったのは、選挙民の責任である。日本人の政治意識の低さが、アイドル今井氏の目くらましの候補という結論につながる。自民党に1票を入れる人はここで踏みとどまってほしい。このままでは自民党自体が良くならない。しっかりした現実路線の政策を持っているから保守党なのではなかったのか。イメージ先行で憲法を変えられたらたまらない。沖縄出身の今井氏が辺野古移設にどういう考えがあるのか、それだけでも確認しなければならない。今度の選挙は沖縄の命運がかかっている。政策的に自民党支持者であるとしても、アイドルで票稼ぎをしようというややこしい態度には批判すべきだ。と言っても、結局はイメージで動くのだろうというあきらめが湧いてくる。一方で安倍人形は憲法9条の改定を口にしている。憲法改定の命運をアイドルが握るのか。

何故政策選挙にならないかと言えば、有権者が政策で候補者を選ばないからだ。政策など日本の希望であれ、明るい日本であれ、大差がないという事になる。その結果政策の方でも、女性活躍とか、地方創出とか、具体策がないままイメージ先行である。TPPでは亡国のTPP絶対反対のはずが、何事もなかったかのようにへらへらと課題が解決されたので、賛成になったなどという国会答弁である。アメリカの大統領選挙では、政党内での候補者選びが政策議論の公開である。政策がしっかりしていなければ間違っても選ばれないように時間をかけて選択されてゆく。この大統領選挙のやり方を日本も研究する必要がある。立候補者同士の議論を公表してゆくことだ。分かりやすい議論の可能な議会にすべきだ。いつまでも自治会のお祭りめぐりが議員の顔見世という時代ではあるまい。

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市民検討委員会とは何だったのか

2016-02-15 04:23:50 | 地域

小田原では8年前加藤市長に変わった際、市民協働を前面にして動き出した。私はその前の落選した選挙の時はスタッフとして協力させてもらっていた。加藤氏との関係はあしがら農の会の初期の活動からあった。その後農業を止めて、市長に立候補するという相談を受けて、何故市長になりたいのかという事も、農の会の中でも何度か話し合いがもたれた。私なりに協力をさせてもらった。当時の加藤氏は市民参加、市民協働の小田原市という事を主政策として述べていた。そして一度落選し、次に当選をした。2度目の選挙の途中で、私は政策スタッフから外された。政策グループが置いてきぼりになった。このころから、市民協働には怪しげなところを感じていた。

当選し、行政と連動した市民協働が動き出した。様々な分野で検討委員会が生まれ、農の会の関係者の幾人かがかかわりを持った。私はごみの検討委員会への参加の希望を出した。発酵利用の自然養鶏を実践しているという事で、堆肥化の実際にはそれなりの知識もある。家庭生ごみの発酵処理については、小田原で一番詳しいはずだ。それまでも生ごみのたい肥化の活動を長年してきた。市民協働という加藤氏の理想に、私なりに協力したいという思いもあった。検討委員会が出来た時には、小田原のごみに関して検討して、その報告書を出して欲しい、という事だった。が、その結果はどういう形で議会や行政の方針に反映するのかという事が、まず最初に議論をした。これについては意見が大きく分かれたが、市の環境部が検討結果を全面的にバックアップするという事と、加藤市長もその報告書を尊重するという事だったので、最終的には全力でやりましょうという事になった。ただその時に議会との関係は気になったままだった。

2年間専門家の話を聞いたり、見学に行ったりしながら、報告書にたどり着いた。特にこの間廃棄物会計を勉強した。これには環境省に廃棄物会計の審議会があり、その委員の所に何度か伺い勉強をさせてもらった。大きな方向としては、ごみのコスト計算を明確にして、受益者負担という考えに移行したいという環境省の思想があった。ごみ処理費の地域によるばらつきが大きいという事もわかった。メンバーには会計士の方もおられたので、その方の分析や解説を聞かせてもらえたことが、勉強には大いに参考になった。焼却場の土地費や、解体費用も、ごみのコスト計算に加える必要がある。さらに、焼却場が出来ることで、地域経済に与える影響も、コスト計算に加えることができる。ごみ処分場が出来て、周辺の地価が下がるのか、道路が出来て周辺地価が上がるのか。公園を作るとか、環境に良いごみ施設はイメージアップできるメリットもあるというような、地域全体のコスト計算をどうごみ処理コストに載せて計算できるかである。

全精力を費やして報告書を書き、次段階としてはその報告書を実践に移すことになった。検討を実践にという事で、検討委員の方中心に、小田原生ごみプロジェクトのスタートになった。これはそれ以前から農の会で行っていた生ごみのたい肥化の活動の展開でもあった。市民協働のモデル事業にしたいという考えが私には大きかった。報告書ではこの生ごみたい肥化事業は最初の導入口である。次にごみステーション方式にする。そして、全体の生ごみたい肥化という3段階目に入る。それを推進するためには、ごみの有料化は避けて通れないという事を報告書では明記した。ところが、何もかもはっきりしないまま、第一段階の段ボールコンポストを市民が行うという事で、足踏みが続いた。再三再検討を要請したが、市長の態度は一向に見えない。もう駄目だと感じたので私は降りることにした。結局のところ、立ち上がりで危惧したとおり市民協働と検討委員会の位置づけの曖昧さが、頓挫の原因となった。

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