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地場・旬・自給

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2014年を終わるにあたって

2014-12-31 04:43:35 | 身辺雑記



夜更け 中判全紙 原発事故に思い余って描いた絵である。
一年間毎日冒頭に、絵を載せてみた。来年は絵は載せない事にする。




65歳と言う定年の年を終わろうとしている。終わるわけだが、いよいよ本番が始まるという意識もある。今年をけじめの年にするつもりだった。義理は今年で終わりにする。義理の一番が自治会長であった。これはこの地域に暮らさせてもらって、このくらいの事はしなければと思ったからだ。残ったことが始末が付くまでは自治会長の延長としてやらしていただくが、その後は一切の義理的な世界から離れるつもりだ。自治会長は正直私には不向きな仕事であった。多分、相当に不十分なバランスの悪い自治会長であった。出れなかった防犯パトロールが2回ある。万やむえない事情ではあったのだが、やはり申し訳ない気持ちだ。出れるものはすべて出る覚悟だったのだが。週に一度くらいは出なければならない仕事があった。飲み会的なものも、出なければいけないのかどうか分からないのだが、5回もあった。こういう事は全く想像できない事だった。やはり出れないものもあった。

養鶏業を終わりにした。これは始めた時からの計画であった。小田原に移動して10年以上は養鶏をやるつもりだった。それが15年になった。その前に13年やったから、28年養鶏業をやったという事になるのだろうか。無事終わる事が出来たのは、有難い事に、多くの方の助けがあったからである。実感として今はそういう事を思う。一番は卵や肉を買ってくれた人のおかげである。結構わがままな卵屋さんであったとおもうが、根気良く付き合ってくれた。縮小した時に、無理をお願いして辞めてしまった方も多く、申し訳ない思いが残っている。今は気持ちが楽になった。気楽にやらしてもらっていたようだけど、宅配の卵が足りないたびに、つらかった。辛かったからこそ、ニワトリの飼い方も工夫をした。その方法は、このブログでも記録したし、発酵利用の自然養鶏の中にも書いた。1例としての参考にはなると思う。実例と言うものは、矛盾している。この事だけは忘れないようにして欲しい。

農文協からの絵本を出したいという話があった。正直私自身の養鶏は終わる事になっていたので、無理だと思った。それなら、私が終わり後継者に引き継いでゆくという、ドキュメントとして作りたいという事になった。そして「ニワトリとともに」という本を出して頂けた。この本作りに私が何かをしたという事は、ない事なのだが、養鶏を頑張ったご褒美の様な素晴らしい本を作って頂けた。有難い幸運である。ともかくこの本は、写真を担当してくれた常見さんが素晴らしい。この本の物語を紡ぎだしている。私が言うのもおかしなことだが、被写体としては、不十分で申し訳ない。所がこの不十分なところを、小さな養鶏業の意味として、上手く生かしてくれている。こんなささやかな養鶏場でも生きれるよと言うメッセージだと思っている。実際に25年こうして養鶏業をやりとおし、暮らして来れたわけだ。小さい農家の実際の雰囲気が伝われば、一つの意義はあったという事だろう。

絵の方では、来年から水彩人の事務所を引き受ける事にした。水彩人はグループ展から、公募団体に変わり、岐路に立っている。どうせここまで来たのだから、公募展を本当の絵の研究会にしたい。その努力を精一杯やってみたい。それが私の絵の為だと考えた。本当の絵を描くために、水彩人の事務所をやるというのも変かもしれない。しかし、私はいわゆる名画を描きたいと考えている訳でではない。私絵画として、自分の本質まで至りたいと考えている。その為には、水彩人と言う仲間が、何より大切なものなのだ。畑を耕す事が、畑の絵を描くために必要なように、絵の仲間と本気で絵の研究をしないようでは話にならない、と考えている。その為には、水彩人をそういう場にする努力をしなくてはダメだ。そうでなければ、そこそこの水彩画の公募展になるだけで終わる。そんなことは目的ではない。ここは初志貫徹である。今やるべき事は水彩人という組織が、組織として水彩画の研究の団体になれる為の、仕組みの整理である。
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絵を造るということ

2014-12-30 04:54:38 | 水彩画


平戸 10号 平戸は移住したいと考えたほど興味があった。厳しい空気と、温かい空気が共存している。私の中にある、霊的な感受性の様な物が、開かれたような状態になった。不思議な少年や、見えないはずの墓場の人にもあった。今では本当の事であったのかが分からない。




どの絵もまず、現実に存在するものを前にして、写生をして描くところから始まる。描きたいという気持ちに従うのだが、最近は里山風景に惹かれて始める事が多い。自分でもはっきりしないのは、里山の様子が描きたいというのでもない。里山の作りだしている暮らしの空気の様なものに、惹きつけられて描きたくなるようだ。谷間があり、段々畑があり、山がうねっていて、遠くに海が見える、あるいは高い山がかすんでいる。そして空がのぞく。というような所なのだが、どの場合も、写生で描けたという気がする事はない。その事をもう少し考えてみる。その場を写し取りたくて描く訳ではない。その場にある毎日の時間経過の様なものも含めて描きたい。畑があれば、いつ頃開墾されたものであろうかとか、昨年は何を作ったのだろうかなどと、徐々に山に戻っているようだが、いつ最後に耕されたのだろうか。そういうその場の履歴の様なものもはとても気になる。

当然どんな人が耕してきたのだろうか。ここで今耕している人は、どんな人なのだろうか。この里山全体がどんな生活を作り出しているのだろうか。土はどんな状態だろう。水の管理はどうなっているのか。そう様々な事を含めてが描きたい物が出てくる。まず、見えていると考えたままに描く。そしてアトリエに置いておく。1ヶ月位眺めている。眺めていると、見る都度色々の事を考える。そのうち、その実際の景色を忘れる。そこから絵が始まる感じである。様々に絵が動こうとするのを見定める。そのころには、写生した場所の事はかなり忘れる。時々思い出しながらも、絵の世界の方が独り歩きして行く。そして、行きどまりの様な所にたどり着く。そこで、一年ぶりとか言う時間を置いて、又写生地にその絵を持って出かける。そこではまた新しい絵を描いてみる。1,2枚描いてみた後、昨年の絵を取りだしてまた描いてみる。何か扉が開いて描きだせる事もあるし、何もできない事もある。

そしてまた、家に帰り、しまってしまうか、描けそうなら見える所に掛けておく。それで新しく描いたものを見ている。そのうちそっちをあれこれやっていると、前からのものも参考に見たくなる。それで並べてみる。それが、3年も4年も繰り返されるうちに、あるとき急に進むような気になって突然終わったような感じになる。そうしたら、完成の方の箪笥に仕舞ってしまう。だから、完成の箪笥には、現在400枚くらいの絵がある。そして、水彩人展が近付くと、完成品の箪笥から今回はどれにしようかと選ぶ、選んでいるうちにもう少し、何とか出来そうな感じに大抵はなる。それで絵がまた始まる。そうして一応出品という事になる。これで終わりかと思うのだが、出品したのだから、大抵はそれで終わりという事でいいのだが、すごい間違いに気づいてまた描く事もある。こんな感じで描いている。出来るだけ正確に今の状態を書きとめてみた。この先どんなふうに変わってゆくのか、そのときには今の感じが思い起こせないだろうから、記録してみた。

こんな描き方なのによく見て描いていると強弁している。私の考えるよく見るという意味は、こういう見方を意味している。見るという事以外にやれることもないと思う。見方の問題なのだ。見るという事を突き詰めると、眼に映っているという事は、なにも本質的な見え方ではないという気になる。見ているとは自分の抽出をしているのだと思う。自分が描きたくなったのは、眼に映っているものを支配している、時間とか、空間とか、そういう奥に横たわる何者かに感動して描きたくなったのではないか。だから見えているものに近付けたいということが、やけに複雑化して行く。そして、他の人が見れば、どこを描いたのだかわからなくなることもままある。丸で抽象画ではないかという事すらある。へたくその為に、見て普通に描く事が出来ないために、こんなややこしい事になるとすれば上手くなれなくて良かった。
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絵画の特徴

2014-12-29 04:34:58 | 水彩画


宮古島の耕作地 5号 宮古島では4枚の描いた。少しづつ描き進めている。沖縄で始めて絵を描いた事になる。



絵を描く道に進んで良かったと思っている。65歳になったが、これから自分の絵に向かい合えるかどうかだと考えられる。大抵の仕事なら、けりが付いている年齢である。所が絵を選んだために、これから15年位がいよいよ自分の絵と向かい合うときのように思っている。絵と言うものは、生きている以上描く事が出来る。これは幸せなことである。大抵の身体を使う仕事であれば、引退は仕方がない年齢である。芸術の道であれば、年齢は関係がないかと言えば、絵は特別にどんな老齢でもやれる可能性のある仕事だと思っている。その前提としてだが、絵は天才の仕事ではある。天賦の才能とでもいうような、努力や生き方以前の完成と言う事がある。こうした神様が与えたような不思議な生まれ持った魅力の様な、若き天才がたまに出現する。50歳のときに自分が天才ではないという事は確認できたので、この後は、自分の為に絵を描く事に徹することにした。私絵画である。

絵画は第2の挑戦に向かう事が許されている。絵を選んで良かったと思う所である。音楽や、文学でも、絵に比べれば年齢の限界がある。文字さえ書ければ、文学なら何とかなるのかと言っても、さすがに頭がぼけてきては文学は難しいだろう。ボケた調子がいいという文章は理解に困る。手が震えるようになれば、楽器は弾けない。声が出なくなれば歌は歌えない。絵はこの点が違う。頭が少々ボケていても、痴呆症の傾向があっても、本当のところを描いてしまう事がある。アルツハイマーになっても素晴らしい絵を描いた友人がいる。手が震えるなど何の問題もない。それが一つの魅力になる可能性すらある。絵で表現する事は、総合的な世界ではあるのだが、心の根底にあるイメージの様なものなのだ。大げさに言えば、宇宙の全貌を感性で把握していなければ描けないし、同時にそういうものを一切忘れて眼前のものを見ていなければならない。ある意味高僧の悟りの境地を、絵にしてみろというようなことだ。

高僧と言うものが何も特別に偉い人と言うものではない。その人自身に至っている人と言う意味である。絵はその人自身が到達した地点からの、心の図像なのだ。絵とはと全体で言っては誤解が生じるだろう。私絵画に於いてはである。その人々の真実と言うものは、心を打つものである。ちゃんと生きてきた人の、人間と言うものはすごいものだと思う。だから、絵画には技術と言うものは、必要でありながら、邪魔でもある。絵を描く意味が分かり、自分が見るという事を深められるのであれば、絵の勉強は何の意味もないのである。自分が見ているという事の深さ。これには大きな違いがある。この違いが分かるという事が大切。百姓の稲の葉色を見て、稲が今何を欲しているかが分かる眼。漁師は海の色で春が来た事を知る。見えるという事は、見る人間の力量によって変わってゆく。絵を描く眼は、百姓や、漁師以上に、見えなければ描けないはずだ。

ここまで幸運にも、絵を描いてこれた。自分の絵を確認できる水彩人と言う仲間もいる。どこまでいけるかは今後の運次第という事だろうが、自分がやれる事はやりつくしてみたいと思う。そう考える時に、絵に取り組んでよかったと思う。生きている時間、追及を続ける事が出来る。自分のインチキも絵で分かるし、本気も絵で分かる。好い気になったって、偉そうにしたって、絵にはすぐ現れる。絵は自分の奥底への航海の羅針盤である。自然の総合性まで見えないとならない。見えていると結論に現れた、宇宙の摂理まで見えなければならない。見るという事は、自分の意思がそう見させている。これが個人のゆがみである事がままある。あるいは誰かの擦り込みでそのように、自分が見えているような気がしているという事がある。梅原の目で、富士山を見ていたりするものだ。そういうものをすべて捨てて、自分の目で見て、描く所まで、行きたい。
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新コントロール政治

2014-12-28 04:46:14 | Peace Cafe


志賀高原熊の湯の廃園 中判全紙 今熊の湯は雪に埋もれている事だろう。5月になったらまた行ってみたい。



日本の政治は実は新しい形の、独裁になってしまったのではないかと思い始めた。香港で自由選挙を求める路上占拠が、ついに撤去された。中国を見れば、成るほど一党独裁の政治だ、と誰にでもそう見えるだろう。しかし、日本の独裁型政治は、分かりづらい新しい形のものではないか。自由選挙ではあるのだが、経済の呪縛にコントロールされたような不自由選挙だ。中国では立候補が制限されている。選挙とは名ばかりである。こんなおかしなやり方が続けられている物ではない。自由を欲する人間の希望を抑えられるわけがない。日本の場合はヒタヒタと迫る経済崩壊の不安が操作の材料である。反動としての、経済成長のアベノミクス幻影ではないだろうか。経済成長の限界を感じている人は多いいと思う。しかし、もしかしたら何か摩訶不思議な妙法があるのかもしれない。藁にもすがろうというか、安倍氏に騙されたいと言うようなおぼろげな希望を、操る政治。確かに独裁と言う物とは違うが、お金にマインドコントロールされた政治。

幻影コントロール型、新独裁政治と言うものではないかと思い始めた。安倍氏にどこか実在を感じないのも、背後に安倍氏を操るぬえの様なものを感じてしまうのも、幻影にコントロールされているからなのではないだろうか。これは私のように平和憲法の実現を夢見る人間までもが、反対する必要な存在として含みこんでいる、おそろしく漠然としているのだが、コントロールである。反対が自由にできる社会という担保が、実は計算の範囲で許されている、がんじがらめの独裁。メディアは自由に物を言っているようで、あの朝日新聞たたきに表現されている。朝日新聞の落ち度など、随分前から言われていたことだ。それをどのタイミングで暴き立て騒ぐか。何も産経新聞に指示を与えるわけではない。ここを押せば、こうなるという、絶妙な呼吸が巧みなのだ。先日の総選挙の仕込み方には、その新独裁政治の真骨頂を感じる。もう今しかない。という絶妙な誘導と、そこへの持ち込み方である。消費税等本音ではどうでもいいはずだ。あまりに巧みだから、多くの人は背景のヌエの意図に気付かない。

イメージコントロールから、マインドコントロールと言うようなことである。オウム真理教が麻原と言う人形に支配されているという感じと同じである。勿論自民党はそんな悪の集団ではない。むしろまともな方だと思う。しかし、オウム真理教が充分な知識のある人達を、不思議なコントロールを出来たように、政治を商品の消費者動向の調査のように、先を予測し、販売戦略の流れを作り出し、誘導している気がする。少なくとも自民党はそうした世界で、勝ち抜いてきた優秀な人材を集めているのではないか。所が、こうした人達には、理念と言うか、思想とものが無い。あれば勘が鈍るのだ。株屋と一緒である。明確な理念が見え見えであれば、現代の大衆のコントロールはできない。先行きの不安と言う影を操る。円や株価の動き、TPPの行く末、中国の脅威。北朝鮮の跳ね返り。韓国の反日キャンペーン。こういうものを巧みに操作して、不安を増幅して行く。ネットによる世論操作も、計算ずくで行われている感じがする。

新独裁には方角が無い。支配したいという欲望は満たされるかもしれないが、思想が欠落している。例えば憲法改定を最終目標にと言う事は、石原氏ではないが満たされがたい。目標はあくまで、大衆のコントロールが先だからである。水を売りたいなら、先ず喉を乾かさなければならない。こういう商品を欲しくなる。そこに商品が登場する。憲法を改定したくなる環境を作り出す事に専念はしてみたが、そこまでは無理だという読みだろう。経済が良くなるようなイメージ作戦も行った。しかし、いずれも実態と言うものはイメージでは変えようがない。幻影はあくまで幻影である。私自身が自分の暮らしから、足元を見て自己確立する以外、マインドコントロールから逃れられない。
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農家所得は倍増したか。

2014-12-27 04:42:03 | 稲作


月光の海 中判全紙 これは震災後絵が描けなくなって、だいぶ経ってやっと描けた海の絵だ。鎮魂の気持ちである。



忘れもしないが、安倍自民党によると、農家の所得は倍増するはずだった。大規模化し、国際競争力のある農業を目指せば、稲作農家は所得が倍増するはずだった。所が2年経ってどうだろうか。今年の秋の米価は倍増どころか、下落が著しい。ここまで下がれば、国際競争力は出てくるかもしれないと、皮肉に思うほどだ。政府を方針を信じて転換した大型稲作農家ほど、当ての外れてひどい状況である。赤字が大型化しただけの結果になっている。TPPどころかその前に日本の稲作農家は壊滅の危機が切迫している。兼業農家をつぶして、大型専業農家を作るという事が、政府の方針の様であった。民主党の戸別補償が小さな農家の温存をして、農地の集約化を阻害していると盛んに言われた。所が、現状どうだろうか。むしろ政府に従わず、細々と小さい農家としてやっている人のほうが、水田の維持の可能性を持っているように思えてならない。農家所得は倍増等どうやって実現できるというのだろうか。いつになれば農家所得は倍になるのだろう。

農業問題を考える時には、稲作農業と、野菜や果樹農業、そして畜産。この3部門に分けて考える必要がある。都合良くリンゴの輸出の話を持ち出して、稲作も同じはずだという論理はすでに通用しない。自動車と和紙の輸出を同等に考えても無駄なことと同じである。稲作には稲作の事情がある。稲作については、国際競争力の前に、2つの事を考えなくてはならない。一つは日本の国柄である。日本人というものを作り出した、日本の自然と、水土を大切にしたいという、美しい国、瑞穂の国論である。もう一つが、食料の安全保障論である。需要が落ちてきたとはいえ、やはり日本の基幹食料は、お米である。一定量のお米を確保しておく事は国の安定のために必要なことである。そんな事はどうでもいいというのであれば、考えても仕方が無いのであるが、自民党政府においても、この2点への考え方はそうは違いはないと思っている。だから、何故具体案がずれてしまうのかを考えたい。

再任された西川農水大臣によると、稲作も国際競争力も可能だ。アメリカにもお米の輸出が出来ると、主張している。誇張しているのではない。そういう持論の人なのだ。そういう人が、TPP担当から、農水大臣になった。政府の意図は明らかだろう。政府の考える稲作の、国際競争力をぜひ聴きたいところだが、そのような構想や試算はどこにも示されてはいない。しかし、なんとなく政府は、稲作も大規模化して、機械農業を行えば、国際競争力のある稲作になる。こんな曖昧なことを考えている可能性がある。西川大臣の主張を聞いていると、お米でも高級なブランド米なら、アメリカのお米に対抗できるという話である。そうした、高級ブランド米は、大規模機械農業では無理だ。確かに美味しいお米は付加価値が高いが、それだけの手間暇をかけた農法になる。場所も魚沼産というように限定されるし、作る技術力の問題も出てくる。どんな製品でも、大量生産では高品質と言う事は困難である。ロールスロイスとトヨタの車では、作り方も売り方も違う。農業を考える時にも、細かく頭を巡らせなければダメだ。

稲作を残すためには、あらゆる手段が必要である。大規模も良い。小規模も良い。飼料米も良い。燃料米すら認めようではないか。ただ、漠然とではダメで、戦略が必要である。目的手段は多種多様である事の方が生き残れる。その目的は、瑞穂の国を残そうという事だ。希望の無い所得の倍増ではない。田んぼがあるという事の価値は、究めて大きいものだ。このことを合意できないとするなら、日本は農業をやめるという事になる。どれほど悲惨な事になるのか。あの福島原発事故で、耕作をやめた地域を見ればよく分かる事だ。風景が変わるという事は、人間に大変な影響がある。美しい国土を作るという意味は、人間を作る上で大切な要素である。良い人間が産まれて来なくなれば、国際競争力どころではない。コンクリートでできた都会では、残念ながら人間の、特に日本人の成長は難しい。豊かな自然の環境によって、はぐくまれる人間の情緒は生きる上で、とても奥深い豊かさを育てる。それが日本の国力の基本ではないだろうか。
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死刑廃止について

2014-12-26 04:05:19 | Peace Cafe






2013年に窃盗事件で検挙された13万8947人のうち48%が再犯者だったことが、14日公表の2014年版犯罪白書で分かった。

以前死刑廃止には問題があるという事を書いた。そのとき死刑は廃止すべきという意見を頂いた。今も死刑を廃止すべきとは考えておりませんが、その後も死刑については、様々な意見に目を留めてきた。又無期懲役刑についても考えてみなければならなかった。但し、無期懲役刑についてはこのホームページに分かり易く解説してあり、世間に誤解があるようだという事も分かる。その上でもう少し死刑廃止について考えてみたいと思う。刑罰はどちらかと言えば、少しづつ重罪化しているというのが、判決の最近の傾向だ。それは、想定外と言えるのかもしれない。裁判員制度の判決結果が影響している可能性がある。一般的な市民感情が凶悪犯罪の厳罰化を望んでいる傾向という事だろう。裁判員裁判の前例事例より、重い刑罰判決が出るという事になる。

一般に、複数の殺人を犯した成人が、死刑と言う事になっている。18歳の殺人犯はどうなるかという事は、配慮の範囲であるようだ。最近では17歳の少年が無期懲役刑を受けている。流れとしては少年法の改定でも、厳罰化、低年齢化への変更が繰り返されている。処罰よりも保護と教育に主眼を置いてきた傾向が、変わりつつある。こうなった背景の一つは、裁判員裁判がある事だけは確かだ。裁判を一般の社会常識に合わせようとしたら、重罰化の結果になったという事に見えるが、むしろ重罰化への道筋を付けるために、裁判員裁判を行ったとも言える。ではなぜ重罪になるかと言えば、刑務所と言う所の懲役が、罰であって、矯正ではなくなっているという事だろう。本来刑務所は矯正施設の一つである。所が、冒頭の記事のように、窃盗犯の半数が再犯者だったというのでは、矯正が機能していないといことだろう。矯正が機能しないのであれば、刑罰的意味を重く見て、重罪化するしかないという事になる。

こうした流れの中で、裁判員裁判が悪用されたと思われる。何故、裁判員裁判が議論はあったにもかかわらず、強行されたかと言えば、「刑事系裁判官たちが、民事系に対して長らく劣勢にあった刑事系裁判官の基盤を再び強化し、同時に人事権を掌握しようとしたことにある 。」 という推察を元裁判官の瀬木比呂志さん(明治大学法科大学院教授)が書かれている。裁判官たちの権力闘争の中で、裁判員裁判によって、刑事裁判というものへ社会の視線を向けようという作戦だというのだ。こうして、刑事事件の重罪化への道筋と言うものが開かれたと思う。裁判所の判断が、前例主義であったものを、無理やり重い方に動かす事が出来たわけだ。だから弁護士会などが、裁判所の閉鎖的体質を改善するためには、裁判員裁判が必要と主張していたことが、民の声の導入によって、悪用されたと言えるのではないか。

死刑と出所の無い終身刑とどちらが人道的でないのだろう。そして殺人という罪をどのように償う事が出来るのかである。恩讐の彼方では、隧道を掘るという人の為に生きることで、罪を償おうとする。生涯を人道に生きると言う刑罰はありうるのか。殺人をおかしたが、絵が上手いという事で許されたスペインの昔の絵描きもいる。帝銀事件の犯人は冤罪ではないかと死ぬまで再審請求がされたが、獄中で絵を描いていた。確かに、掃除当番が学校の罰則であったりする。ある組織の田んぼを協力したら、罰則で田んぼに来させられたと聞いて、がっかりした事があった。相変わらず、結論が出た訳ではないが、死刑の問題は、刑罰全体の問題でもある。矯正と言う事が機能していないことは確かだ。矯正に取り入れて欲しいのは、犬の訓練士をしてもらう事ではないかと思っている。盲導犬や、介助犬を、警察犬を刑務所で訓練してもらう。犬には人間を矯正する力があると思うからだ。
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「歴女」「城ガール」

2014-12-25 04:37:46 | 地域


千曲川の眺め 中盤全紙 どんどん描いて行くと、こんな風に変わってゆく。何に従って変わって行くのかは良く分らないのだが、不思議に変化して行く。





秀吉軍に対して、抗戦か降伏かで意見が分かれたことが源となる「小田原評定」は北条氏の比較的民主的な領民統治を表している。久野ではこれに加え、「久野寄り合い」という言葉がある。地域に置いて何かを決める際に行われる徹底した話し合いのことである。明治期以前の日本の地域の合議の仕方をもう一度考えてみる必要がある。明治政府によって、江戸時代以前の日本の農民像がまるで奴隷の様なイメージが作られている。これに目を曇らされると、江戸時代の暮らしを想像することが出来ないことに成る。対馬だったと思うのだが、昭和初期に古文書の調査をする際に、古文書の借り出しをお願いする話がある。これを地域で相談することになった。すると、津々浦々から、泊りがけで人が集まり、全員が一致するまで相談を重ねたと言う。地域の権力者や、有力者が決めてしまい押し付ける。と言うようなことは日本の地域には実は少なかったのだ。それは二宮尊徳の烏山藩の立て直しを読んでもそういう場面がある。

農民と言う存在の自主的な行動がなければ、地域と言うものが成り立たないものだったからである。それは、一次産業を中心に地域の運営が行われていれば、その様に成らざる得ないものあ。働く者の意思は軽視できないのだ。私の自給体験を通しても、農民は税金なしに暮らすとすれば、豊かなものなのだ。農業技術さえ持っていれば、どこの土地でも生きて行くことが出来る存在だと実感した。特に、稲作に置いては、地域の協力が不可欠で、陰日向なく協力し合う体制が無ければ、良い耕作はできない。そうした地域の良好な人間関係を維持することが、地域運営の重要な要素に成る。その為には、直接働く人を隷属させる様な、農奴の様なものとして扱うことなど、何の益もないことだったのだ。一人ひとりが自主的に考え、判断する能力が高いということが、何より生産性を上げる要因なのだ。稲作と言うものは、勤勉さと、観察能力で、収量が倍も違ってくる。自主性を摘み取る等、愚かなことだった。

歴女とか、城ガールとか言われている。小田原城も最近訪れる人が増えているそうだ。悪いことではないのだが、それは歴史への入り口であるということを、考えてもらいたいものだ。秀吉とか、北条氏とか言うものは、歴史の肩書の様なもので、本当はその背景に存在する、無数の庶民、常民と言うものを見なければならない。関ヶ原の戦いが何年であったというようなことは、日本史の試験の悪い所で、そんなことはおおよそ500年前位で大した意味はない。むしろ、当時の人口が、1500万人と推測されるということは重要なことに成る。驚く事に今の8,5分の一しか人口が無い社会なのだ。そこから当時の日本人の本当の暮らしと言うものを推し量ることが出来る。食糧生産はどういうことに成っていたのか。これから人口減少に入るとして、日本と言う国土の適正人口と言うものはどのくらいにあるのか。もし100%の自給になるためには、どのくらいの耕地面積が必要なのか。こういうことを歴史から学ぶ必要がある。そういう、歴史女子に登場してもらいたい。むしろそうした観点こそ女性の得意分野ではないか。

また、明治期の富国強兵政策が、いかに日本人の暮らしを歪めていったかということを考えなければ、安倍政権の国際競争力一辺倒の、市場原理主義と言われるものがいかに危ういものかは分からないはずだ。日々の暮らしが実は、必要な歴史である。それが民俗学と言うものだ。地域に残る風俗をたどることで、何百年この場所で暮らしてきた、常民の思いが見えてくる。そのことに城ガールも目を開いてもらいたいものだ。小田原城よりも、元治の溜め池に目を向けてもらいたい。坊所山の水路トンネルに目を向けてもらいたい。和留沢のかまど石の石切り場に目を向けてみてほしい。酒匂川流域の水車の研究など、誰かやっているのだろうか。御殿様を研究することより、足柄平野の水車の研究の方が大切なはずだ。権力者は権力者が好きだ。行政はついつい、北条氏を持ち上げる。そうして置けば苦情が出にくいと言うことに成る。しかし、これから本当に必要になるのは、お城ではないということを、城ガールの人には考えてもらいたい。
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ニワトリとともに

2014-12-24 04:23:02 | 


海 中判全紙 渦巻く海、・・・。海は美しいが怖いものだ。自然と言うものはそもそもそういうものだ。


「ニワトリとともに」表紙




農家になろうというシリーズで「ニワトリとともに」という写真でできた本を農文協から出していただいた。この本の企画については私は全く受け身で、農文協の芳賀さんが作ってくれた本である。全く、有難く、申し訳ない限りだ。写真を撮影してくれたのが、常見藤代さんと言う方である。写真が素晴らしい。被写体がみすぼらしいので、問題はない訳ではないが、暮らしの感じが出ていて自分で驚いてしまった。たしかにこんな気分でやっている。写真で写した所で、その実態が写し取れる訳ではない。所が、常見さんの写真はある意図を明確に写している。つまりある世界を創造物として作り出している。この事に驚き感動した。むしろ常見さんと芳賀さんの物語を笹村農鶏園を通して、映し出している。養鶏業をやめるにあたって、こんな素晴らしい写真集を出して頂けた事は、何と言うご褒美かと思う。何と感謝して良いのか分からない。まさかこんな嬉しい形があろうかと思いもよらなかった。

養鶏業をやったのは、好きな事で暮らしたかったからだ。本当は鶏を飼っていればいい事だった。絵を描いて居ればいいというのと同じだ。それくらい、子供のころから鶏が好きだったのだ。爬虫類が好きで、犯罪と言われてでも隠れて、大量に飼う人がいる。私は子供のころからの鶏好きで、ビルの屋上に兄と二人で鶏の楽園を作った。自分の鶏種を作りたいという願望があった。江戸時代にはそういう道楽に生涯費やしてしまう、道楽者というか、粋に生きる者が結構評価され、語り継がれている。私の場合、鶏を飼う事は止めようもない。しかし養鶏業は一区切りついた事である。こんな私の事を本にしてもらうという事には、申し訳ないという思いがあった。申し訳ないが、そういう生き方をそのまま本にしていただければ、好きな道を生きようという人には価値もあるかもしれないと、少し考えお受けした。

好きな事を好きにやっても、何とかなる。こういう事だと思う。そうした精神の一つが農文協の提唱する田園回帰ではないか。競争から抜け出ても怖い事はない。いや、むしろ楽しい。そうした無数の庶民の一例であるのが私だと思う。小さな農家である。仲間と共同する自給である。それでも生きていけるという、地場・旬・自給がある。技術がある訳でもない。みんなで助け合えば、何とかやれる。何処かで農業を学んだこともない。全く好きと言うだけの自己流である。好きこそものの上手という、あれである。本当に好きな事をやれば、何とか生き抜けるものだ。そういう実感が65歳まで来てもてた。今は完全な安心がある。生きるという事は自分の好きにやっても、どうとでもなるという確信がもてて、人に勧める事が出来る。私は父からそれを教えられたが、この本が、そういう気持ちを載せて伝える事が出来れば、どれほどうれしいだろう。

後は絵を描くという好きな事である。こういう自分らしい絵を描くという事である。私の絵を見れば、好きな事をやるのが一番だと、分かるような絵を描きたい。今はそういう気持ちである。今日はクリスマスでもある。本当は皆さんに、この本をプレゼントしたい。読んでみたいという人全員に差し上げたい気持ちだ。読みたいが買うお金がないという人には、私からプレゼントさせてもらってもいい。何とか買えるという人には、一人でも多くの方に購入してもらいたい。それでなくては、せっかく作って頂いた、農文協の芳賀さんに申し訳ないからである。私と言うどうにも絵にならない材料で、こんなに素晴らしい写真を取ってくれた芳賀さんにも、申し訳ないからである。人間65歳まで生きていると、こんな素晴らしい事が起こるのだとういう、感謝いっぱいの年であった。そうもう一度、後は好きに絵を描くことである。
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田園回帰

2014-12-23 04:02:13 | 地域


箱根駒ケ岳 中判全紙 久野から描いている。箱根外輪山の向こう側まで久野なのだ。この絶好地点が、最近、柵が作られて入れなくなった。確かに不法投棄が目立っていた場所だ。




農文協の提唱した田園回帰のことが頭に残っている。この言葉にある、桃源郷願望的な響きが自分の心の何かに反応するのだろう。生まれは、山梨の藤垈という山の中の古寺である。田園ではなく山の中の1軒屋である。田園の響きにあるのどかさは全くなく、自然の厳しさが生きる事の切実さとして、常に感覚にある場所だった。その後東京に移ったのだが、その山の中に戻っては、ねぐらに帰る小動物の様だった。おじいさんとおばあさんがいた頃は、おじいさんとおばあさんが私の故郷だった。結局、都会暮らしになってしまったのだが、どうすれば山の中で暮らせるのかという事を、常に考えていた。そして、やっと山の中で暮らす事が出来るまでには時間が掛かった。結婚する前の30から本気で移住を模索していたのだが、やっと山に戻ったのは、30後半だった。結局自給生活を無理だと考えていた。絵描きを目指すには、東京に居なくてはダメだと思っていた。年に5回も6回も個展をするような暮らしをしていた。消耗する暮らしをしていると、何処かに回帰したいという事になるのだろう。

ついに山北の山中に越せたのが、大島噴火の時だ。年齢はすぐ忘れてしまうのだが、大島の噴火の火炎が赤黒く見えたという記憶だけは残っている。それで調べれば1986年と分かる。今から、29年前の事になる。夜山北に居たのだから、物置き小屋に泊っていた時代に見えたのだろう。土地を購入できたのはその数年前である。家をすぐ作るというより、その山の中を開墾して畑を作るような事を何年かしていた。今思い出しても一番おもしろかった頃だろう。一時間もかけて、山道を水を背負い上げていたことなど、大変だったというより、楽しくて仕方が無かったと思いだす。張り切って、張り合いがある田園回帰である。まだ、学校に勤めていて、その給与を当てにして、山暮らしを模索した。つまり私の田園回帰は、当時ある意味流行したヒッピー的な思想と言うより、帰りなんいざと言うような陶淵明の田園である。それは子供の頃の藤垈の暮らしが忘れられなかったという事が、圧倒的に大きい。

田園回帰はそうたやすくはない。幸い子供時代に、見よう見まねでやっていたので、何とかなったという気がする。私の田園回帰は開拓願望である。未開の地で暮らすロビンソンクルーソーや15少年漂流記の方が近い。田園と言うように出来上がった場所ではなく、手つかずの自然を、自分が暮らせるように手入れして自分の暮らしを織り込むという事だった。だから、山中の家の無いような場所を選ばざる得なかった。それには田舎の何かと、うるさい暮らしはご免だという、共同が出来ない内心の傲慢もあった。今思えば舟原で自治会長をやるなど思いもよらないことだ。田舎暮らしの堪らなさは、子供心に身にしみていた。あの深沢七郎の世界である。深沢氏の随筆には藤垈の事が出てくる。自分がどうであるかより、人にどう見られるかが、生きざまの選択になるような暮らし。本当の田園は鬱陶しい場所なのだ。それは当たり前で、地域に根ざして人が暮らすという事には、共同と言う事が必要なものだからだ。それを耐えがたいものとして、気楽な都会に出る。気楽な都会者は田園に憧れを持つ。ここがなかなか、意味ある所だと思っている。

田園は厄介だ。そもそも日本に田園なぞなかった。勿論古代中国にもなかった。存在しない厄介な場所だからこそ、なかなかのものだと、最近考えるようになった。ごみの分別講習会にも出なければならないし、あいさつ運動の日には、朝道路に出て挨拶が奨励される。家の周辺の一斉掃除の日がある。ボランティアと言う役員まで地域にはある。しかも、地域全体としては暮らしが分解されて、崩壊の寸前である。行政は自分の役割を減らしたいがために、協働を奨励する。田園地域では全体の調整が切羽詰まっていて、行政に依存度を高めざる得ない。「田園まさに荒れなんとす」政府は地方創成を主要課題にしている。人口減少に焦点があるようだ。人が多くなければ競争に勝てないというような事だろう。国際競争力の発想で地方が豊かになるわけがない。視点が経済偏重である。心豊かな暮らしをするためには、人はまだ多すぎる状態である。物に埋まって暮らす事が豊かだと考える事がおかしい。田園暮らしは、自助共同。新しい共同の模索だろう。脱ぎ捨てるべき古い外套を、又かぶろうとする共同では、息苦しいばかりだ。
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小田原市の農地の売りたい貸したい

2014-12-22 04:15:59 | 地域



加部島佐賀 3号 北九州に描きに行ったのは、20年も前になる。そのときの絵をもう一度描いたものである。島の畑が面白かった。




小田原市の農業委員会では、「農地の売りたい・貸したい」という人の斡旋をしている。私は個人でも、あしがら農の会としても、農地を借りたいと登録をしているので、年に2度ほど資料が送られてくる。今回の分は、2601番という2014年4月1日の登録分から2690番までの11月12日分までの90件を一覧にした資料が送られてきた。いつもは農業員会に行って、紹介してもらい見に行くのだが、今回は資料に基づいて、直接見に行ってみた。自分の住んでいる久野地区にある貸したいという農地である。所が家のすぐそばなのに、道を間違ってしまい。Tさん個人の行きどまりの畑への道に入りこんでしまった。みかんの収穫をされていた奥さんをびっくりさせてしまった。ご主人が来て、どこのだれかというんで、色々説明したら、農の会の事をご存じの方だったので、来た理由も説明したのだが、山の中で知らない人が来たのだからびっくりしたことだろう。申し訳ない事をした。一山間違えて欠ノ上田んぼの対岸の山の畑に降りて来ていたのだ。

小田原市で半年で、90件という数は増えていると思う。内容は更新されているので、以前より、どなたか熱心な方が精査されているようだ。こうして、農地の貸借が起これば素晴らしいと思う。以前から頼まれている久野で田んぼをやりたいという方の事があるので、見に行ってみた訳だ。悪くはないのだが、日当たりが少し問題かと思った。その他畑を3件みた。こちらはとてもいい場所で、何故貸すのだろうと思うような所だった。今回気付いたのは、売りたいが結構増えたという感じだ。以前から気になっていたあの場所というような所が、売りに出ていたりする。今農業を始めようというのであれば、迷うことなくその農地を購入して農業を始めていただろう。そう確信できるような素晴らしい農地が売りに出ている。新規就農しようという人には、30年前と比べて、夢のような状況である。という事は、こういう政策を30年前にやっていたら、今の様な事にはならなかっただろうと思う。時すでに遅しの感はあるが、まだ間に合う。

農の会では新規就農者のお世話をしている。新規就農者が信用できる人かどうかわからないというのが、なかなか農地の貸借が進まない理由である。そこで、一定期間農の会にかかわって頂き、この人であればという事になれば、農の会を通して、農地の貸借を進め、又農家申請を行う。その為に、農の会に貸して間違いが無かった。こういう状況を作ろうとしてきた。先日も、農の会の人に貸してえらい目にあったという話が伝わってきた。びっくりして、お会いしてお話しを聞いてみた。幸い、農の会の人ではない新規就農者が突然いなくなったという話だった。ホッとしたのだが、農地の貸借というのはなかなか難しく、アパートの貸し借りと同じような感覚でやられたのでは、堪らない。しかし、若い人に対して完全を求めず、試みてみないとならない部分もある。だから私は尻拭いをする覚悟で今までもかかわってきた。勿論、大半の人は期待以上の成果を上げてくれている。

農地は買えば、小田原周辺では大雑把過ぎるが1反100万位ではないだろうか。条件が良ければ価格は全く違ってくる。畑としての条件ではなく、将来の転用の可能性で価格が高かったりする。借りたらば、1反、年1万円程度だ。この価格で100年間借りていられるなら、借りて居た方がいいという事になる。問題は借りている安定度という事になる。土壌がやっと農地になってきたという所で、返してくれと言われると思うと、土壌を育てるような農業をやる気になれないだろう。出来れば公的なものから借りられる制度が出来れば一番ありがたい。農地を、相続税の物納の対象にすればいい。一気に農地は国有化されてゆくはずだ。それを貸し出すのだ。50年すれば農地の半分以上が国家のものになるはずだ。本来国の食糧を作る事は、国家の事業と言っても良い事ではないか。
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外国からの視点

2014-12-21 04:54:13 | Peace Cafe


荒波の鳥 中盤全紙 浪のシリーズが5点ほどあり、そのひとつである。何故こういう絵をこの時描けたのかと思う。絵を描く事にもう一度という事はない。そのときそのときのことだ。





テレビ番組で、外国の人が日本を見てびっくりすることは何か。という番組を見た。世界の秘境の地で暮らしている日本人という放送も見た。日本人は海外の人からどう見られているかという事を、必要以上に気にする民族だと、昔から言われている。人を気遣う人間関係の中で、日本人の社会が出来て、日本人がいる。しかし、最近のテレビの外国人もびっくりの特徴は、日本がこんなに素晴らしいという方の特集が目立つという事だ。昔のこうした放送では、外国人に言われて初めて気が付く日本人の特異性であったと思う。むしろ日本人が世界から奇異の視線で見られている、異端民族であるという事を確認することで、日本人が分かるという精神が感じられた。所が、最近の放送は日本人も結構自信持っていいんだ。というような再評価の視点である。この心理的な背景には、日本人の自信喪失があるにちがいない。テレビを見て、慰められたい日本人。外国の人がテレビの雛段に並んで、日本をほめている姿は、何処か奇妙である。

民族固有の文化を通過して、人類共通の価値に至らなければならない。後半部分の視点を失いかかっている。良く言われる外国人もびっくり事例は、日本の固有文化を、どのように反映しているのだろうか。例えば、すぐ謝るというのは、日本人がという離れられない運命共同体の中に、長い間暮らしていた結果だろう。対立より、調和を重視して、善悪の判断の前に、どうやって事を荒立てないかを考えている。無宗教なのに、縁起をやたら担ぐという意見は面白い。日本人は、本当は無宗教ではない。ごく当たり前くらいのレベルで、宗教的である。信仰的である。普通に言えば縁起を担ぐ人達である。しかし、その宗教が原始宗教的な意味合いを残していて、キリスト教とかイスラム教のような、宗教学が成立するようなものではないだけである。パプアニューギニアの高地人を無宗教と言えないのと同じで、日本人は原住民的要素を残したまま、近代人に変貌した民族という事の一つの証拠ではないか。この事は特徴であり、誇れる事でもある。

世界で評価されている日本の絵画は、日本の文化に根差した絵画だ。例えば、宗達や北斎。棟方志功氏。世界各国に印象派風の絵画というものが存在するが、間違いなくフランス本家の印象派より見劣りする。黒田清輝の絵をモネと並べてみたらわかる。受け売りというものは、その場では一見新しいものに見えていても、時代や地域を越えて眺めると、やはり民族固有のものとは比較にもならない。所が、岸田劉生の油彩画は日本の油彩画になっている。日本の絵画は中国から始まる。真似るという事が上手いといわれるが、忽ちに中国絵画以上の日本人らしい絵画というものを作り上げている。中国への絵画留学生の雪舟が日本に戻り描いた、天橋立図は既に日本の風景を写生した物である。これは当時で言えば画期的なことだ。これが日本人の特徴ではないか。細やかな自然の観察力である。稲作を行う里山の暮らしの中で、そうした自然を本当に知っていると言えるような、特別の自然観察力を獲得する事になる。日本絵画の良さは、日本の自然の良さとも言える。

憲法9条を世界遺産にという運動が、一時注目された。憲法9条こそ、外国人もびっくりの事例第1である。日本人の固有の素晴らしさに根ざしている。日本人はそもそも喧嘩を嫌う平和主義者だった。署名運動の甲斐も無く、世界遺産にはならなかったが、日本に憲法9条という、特異な平和憲法があるという事が、いくらかでも世界にアピールできたという意味では、素晴らしい事だった。スイスが永世中立国だという、世界中からの認識を得るという事は、とても大切なことだ。同じく、日本が平和憲法の国であるという事を認識してもらえれば、一定の抑止力になる。まあ、解釈変更で外国にも軍隊を派遣できるなどとして、実態を変更させてしまう政府の国では、日本は何ともずるがしこい国という印象になってしまうだろうが。世界平和の為の努力を不断に行う。これが日本国憲法の精神ではないか。この点でこそ、是非外国人にびっくりしてもらいたい。
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絵を描く流れ

2014-12-20 04:15:55 | 水彩画


下田湾 中判全紙 ヤシの木が面白い。なんか変なのだが面白い。近いうちにこの先を描きに下田に行くつもりだ。





絵を描くにはそれぞれのやり方、それぞれの流儀の様な物があるようだ。よほど描きたいと思わない限り描かない事にしている。絵の事はいつもどこか頭の中にあるのだが、絵を描くことを毎日定期的に行うというような事は、しないようにしている。どうしても描きたいと気持ちが煮詰まって来るのを待っている。何ヶ月も間が空くと、描かなきゃなー。という感じが起こる事もない訳ではないが、そういうときに描いた所で何の意味もないと思って、受け流している。絵は訓練で上手くなるというような必要もないし、上手いは絵の外。そう熊谷守一氏は言われている。絵を描くには大した技術は要らない。それが絵の良さだ。デッサンをやらなければとか、絵の勉強をしなければ絵は描けないなどと考えるのは、絵の職人を目指す人の事だ。自分の絵を描く道は職人的技術は越えなければならない。そのよい証拠が、セザンヌとマチスである。二人とも描写的デッサン等全くできない。職人技術を絵だと考える人には、許しがたい、理解できない人ではないだろうか。しかし、分からないというのも癪だから、分かったような顔を大抵の繪職人の方々はしているだけだろう。

セザンヌが驚くほど不器用で、へたくそな人だったから、近代絵画の父に成れたのである。マチスが現代絵画の父である事も、余りにへたくそだったからである。二人とも上手な絵を描くことなどできなかったし、興味もなかったからこそ、新しい時代を切り開く事が出来たのだ。絵画の本質や哲学という意味で、まっすぐに本質に向かうためには、上手くなる事は関係のない以上に、害悪である。絵を描く上での重要な指針にしている。絵は自分の為に描いている。マチス以降の絵画は、私絵画の時代だと考えている。上手い必要など少しも関係がない。良いご趣味の絵とも、縁のないものだ。自分に分かるように描ければそれで、必要かつ十分なのだ。ヘタで沢山だが、自分の考えている事が表現されていなければならない。自分の考えを表すためには、自分の表現方法が必要になる。その自分独自の方法を見つけるという事が、大切な事である。それを何十年もやっている。マチスをまねた所で、自分から遠ざかるばかりである。良いなあ―と思った絵をどう忘れるかも大切である。

「考えていること」と簡単に書いたが、これがなかなか厄介なことで、自分の絵として考えというものには実に奥深い意味がある。頭に浮かんだ映像とか、目の前にある風景とか、そういうものは確かに考えを表す、一つの材料である。材料にすぎないとも言える。どうやって自分という存在のすべてを絵の上に表現するかである。自分とは哲学であり、思想であり、感性である。あくまで、画面というものはそうしたものを表す手段である。自分らしいとか、こういう事を考えているんだというような事を、どうやってそういう自分の本当の事を絵にできるかである。中島敦を読んでいたら、文字ではできない事も絵ならできると書いてある。これが絵の素晴らしさだと共鳴した。具体的には畑をやっているときの感じが絵に出ているかである。畑の絵をよく描きたくなるのはそういう事なのだが、畑というものを分かっていない限り、私の畑を描くことはできない。畑はきれいだ。田んぼは面白い。こういう事だけでは、上っ面を写すことになる。畑と作物、季節や、水土。そいうすべての反映を私絵画は求める。それでいつも出来たとは思えない。

だから、畑を耕さなければ畑は分からないから、畑は描けない。勿論これは私の場合である。海や空も良く描くのだが、自然というものの持つ絶対性の様なすごさに触れる時に描く。別段絵になりそうだから描くような事はない。あるとき突如描きたい虫が動き出す。絵は何十枚も見える所に置いてある。見ていて急に気付き、何かをきっかけに絵を動かす事が面白くなる。目の前にある画面を変化させてみる事に、興味が湧いてくる。現場で描いたものをわすれたころ、絵を壊す勇気が出てくる。現場で描いた何かを忘れる事が出来て、今ある画面の問題に入れる。この転換が出来るまでには、絵によっては何年もかかる事もある。見ているものを、自分の繪の中のものに、転換する様な心理的な作業があるようだ。この感じはまだ分かったとまでは言えない、何かそんな方向の気がするというだけだ。もう少し進めば何か見えるような気はしているのだが。
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宮古島の温泉

2014-12-19 04:39:58 | 日帰り温泉


宮古島の耕作地 5号 まだもう少し描くが、今回宮古島で描いている絵。






宮古島には、2つの温泉がある。泉質はナトリウム塩化物温泉である。ひとつは1250メートル掘って湧いたという、シギラ黄金温泉と言う。薄茶色を黄金の色と命名したのだろう。全体がリゾート開発された地域である。ゴルフ場やマリンスポーツ。海底の散策。私はそういう事には全く関心が無いので、温泉だけである。温泉としてはなかなかいい感じである。ぺたっとした若干粘るような肌触りで、実に暖まる。但しここの問題は塩素消毒が強い。塩素の匂いか、温泉の含有成分なのか分からないが、見立てでは塩素である。サウナは大きくはないが清潔なものがある。但し、水風呂が無い。お風呂は2つで、高台にあるお風呂からは海が見える。女性用の方が眺めがよい。南国のサンゴ礁の海の見える爽快な眺めだ。特に夕景が良かった。朝ならさらにいいと思う。その他水着を着れば、温泉プールなども入れるらしい。価格は2000円と高め。しかし、1600円という割引がある。掃除はとても行き届いている。何しろ環境がこれ以上はないというくらいの場所である。奇跡の温泉と書かれていたが、確かに奇跡の様な夢ごこちの温泉である。

もう一つが1500メートル掘ったという、宮古島温泉である。こちらの方が、若干あっさりしている泉質。塩素は気にならない。ここは、リハビリ病院のとなりにあって、そいうしたリハビリの長期滞在型の温泉なのかもしれない。温泉には「宮古島温泉メディカルホテルRIGHT」というものがあって、1泊3000円で泊まれるとなっている。長期滞在は相談できるらしいので、リハビリをするなら、こういう所に滞在したいものである。こちらはどちらかと言えば、関東の日帰り温泉に近い施設である。気軽な感じで、900円である。設備としてはジェットバスは当然あるし、打たせ湯まである。男性の方は使用されていなかったのだが、全体にあちこち修理は必要なようになっている。地元の人も来るようで、和気あいあいの空気が流れていた。ブラウン管テレビの14型位のものがあるのだが、映っているのが不思議なくらい良く映っていた。温泉は源泉かけ流しで、特に露天の方は実に気分が良い。眺めは無いのだが、お風呂のぬるさかげんが良い。お湯が流れ込むあたりは40℃くらいで、そこから離れると、36度位かと思う。自分の調子で入る場所を変化させながら、相当にゆったりした気分になれる。

ユッタリが宮古島なのだ。それはどこのお店もそういう感じで、嫌な思いをすることがない。皆さんここに居ると人に嫌な思いをさせたくなくなる。温泉の受付をしている方も、何とものどやかで、気さくで、嬉しそうに話しかけてくれる。つまり、おもてなしの島、宮古島だ。だから、美しい海だけというような宮古島が、急に人なつかしい島に変わる。ある人のブログに、宮古島はパワーストーンの島だと書いてあった。パワースト―ンはいかがわしいと思うが、宮古島の人達と接していると、何故かそれを信じたくなる。土地のエネルギーが他とは違うような気になる。活気があって、働きぶりがいい。畑を見るとどれほど熱心かが分かる。そういう土地のエネルギーの噴出が温泉である。温泉は直接的であるが、例えば、宮古島の黒砂糖や、塩にはそういう他所にはない何かが籠っているのではないか。こういう土地に暮らすという事で、きっと人間は変わるのだと思う。JALの雑誌は沖縄の工芸特集だった。皆さん沖縄の作品を感じさせるものなのだが、実は、内地生まれの人が多いいのだ。

宮古島には大きな木が無い。30センチ以上の太さの木はまずないと言い切って大丈夫だろう。漲水御嶽気にあるガジュマルの古木は一番大きな古木だと思われる。風が極端に強いため、台風で折れてしまうのか。米軍の艦砲射撃で木がすべて無くなったのか。あるいは燃料として切りつくしたのか。ともかく大きな木はない。これがある種のこの島の風景を作り出している。沖縄に暮らすことで、土地の力に影響されて、にょきにょきと育って、作品に表われてくるのだろう。当然、それは自然の持つ総合の様なものなのだろうが、温泉と言うものはその象徴的なものだ。食べ物はすべてに美味しい。特に魚が上手い。マクブという魚の味噌汁を飲んだが、これほどおいしい魚汁は初めてだった。今回初めて沖縄の絵を描いた。宮古島の耕作地である。3枚描いた。見て描いたのだから、写生画であるのだが、何処と言う事はない。宮古島の耕地と言う事である。あの風にゴウゴウと唸るサトウキビや、それを熱心に刈り取る人も含めて、宮古島の水土と言うものを描きたかった。
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麦踏始まる

2014-12-18 04:12:09 | 自給


磯辺 10号M やはり夜の海。月がくだけちってゆく。








麦の会の麦踏が始まる。麦は1畝当たり、1キロの種が蒔かれている。畝の間隔は30センチである。全体で1反なのだが、3畝は電気柵ででつぶれている。畝の間隔は色々考え方があるようだが、30センチくらいが適当だと思っている。今年は、麦の播種が11月22日であった。発芽するまで8日で11月30日。その後2週間で2,5葉期と言う所か。雨は適度に降っている。例年播種して発芽は10日と思っている。少し早かった。生育は悪くないのだが、若干ひょろひょろしたひ弱な感じがある。そして、12月13日に麦踏を始める。種まきから3週間で麦踏。これも少し早い。麦踏みは何故行うのか。踏まれて強くなる雑草魂と言うか、なかなか面白い農作業である。実験的に、毎日通る部分に麦を撒いて、麦の上を通路にして実験してみた事がある。どれだけ麦踏効果があるかである。実は思っていたほどは効果はなかった。麦踏も、畑の状態によって一律の効果ではないようだ。この場合の効果と言うのは、麦踏で収量が上がったかという事である。分げつは増えたのか。茎は太くなったのか。



良く言われる効果は、茎が折れ曲がったり、傷がついたりして、水分を吸い上げる力が弱まり、麦の内部の水分量が少なくなるため、寒さや乾燥に強くなる。さらにエチレン効果と言う事もあり、折れ曲がった傷を治すためにがっしりした株になってゆくという事もある。上部の株を止めることで、根の成長や増加を促進するともされている。。また、霜柱が土を持ち上げて、根を傷めることを防ぐ効果もある。足で踏むことで浮き上がった土を押さえ、しっかり土に根を張らせ、まっすぐ伸びる丈夫な麦に育てることができる。確かにそれなりの効果はあると思われるが、それほど顕著な効果を感じた事はない。がっしりとした分げつを増やしたいという事が、一番の目的であり、わずかでも効果があるようならやってみたいという範囲である。麦踏は小田原ではさしたる意味が無いというのが今のところの判断である。昔なら倒伏防止と言う事もあるが、今の品種を、自然農法で作って、倒伏と言う事はめったにない。家の畑の麦は、先ず平らに耕して、そこに播種機で40センチ間隔で蒔く。麦の上を歩くように麦踏をすると、そのラインだけ、4,5センチへこむ。風が吹いて土寄せをしてくれる。



どちらかと言えば、麦は作業が少ないので、農閑期の農作業として、何かやる事でもないかという、気分を満たしてくれる作業なのではないかと思っている。麦踏はそれ程気持ちの良い作業である。ただ、無心に地面を押している。その単純作業が必要な農作業であるとすれば、言う事が無い。土を踏みしめ土と語り合う。寒い時期にかじかみながら、地団太を踏んで大地を味わう。徐々に暖まって来る心と体。他の農作業にはない身体が澄み切ってゆくような爽快感がある。心と体の麦踏養生の様な気になって来る。これが麦踏の一番の目的ではないだろうかとさえ思う。増収を期待するようなあさましい心でいるなら、麦踏は止めても同じである。麦は踏まれても踏まれても芽を増やしてゆく、と言うような言葉が聖書にあるらしい。と言う事は、麦踏は紀元前からあったのであろうか。一粒の麦と言うような言葉も聖書の言葉らしいから、やはり西欧では、麦が主食だったのだと思う。主食が信仰の意味を語る材料になるのは当然のことだろう。葡萄酒もキリスト教と関連する様だから、日本ではお米と日本酒に格別な意味があるのは自然だ。




麦の唄は色々あるが、最近では一度は聞いた事のあるものが、朝の連ドラの中島みゆきさんの麦の歌だろう。スコットランド民謡の麦畑の唄もある。私の記憶の奥には、麦踏ながらというまさに麦踏の唄もある。三橋道也さんの歌う麦の唄と言うものもどこか記憶にある。調べたら、これも麦踏坊主と言う子供の麦踏の歌だった。どちらも、藤垈の子供時代に役場の、スピーカーから聞こえてきたものではなかろうか。麦畑は山の段々畑である。段々畑を麦踏している姿と言うものは唄になるという事なのだろう。麦踏を普及したの権田愛三氏と言う事だ。日本でも暖かい地域では麦踏などしない。当然本家のヨーロッパでは麦踏など考えられない。明治初年に権田愛三という埼玉の人が、麦踏技術を普及したとある。埼玉当たりの霜柱のすごい地域の技術なのかもしれない。
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宮古島にて

2014-12-17 04:03:04 | 身辺雑記


岸辺 中版全紙 ガラスの反射でおかしい。この文章はなれないタブレットでかいていて、おかしい。




沖縄好きになって、何度か沖縄に来ている。 今回は宮古島に来た。まずレンタカーで一周した。2時間かかった。本島とはずいぶん違う様子だ。島全体が熱心に耕作がされている。平な島でどこでも畑ができる島のようだ。土は赤土で乾くと白土のようにかわる。珊瑚が隆起してできた島だから、石灰岩が風化した土壌なのだろう。耕土は浅く、少し掘れば石が出てくる。石は大理石のように硬い物から、ほぼ土の様なものもある。その石で畑の低い側面を積んでいる。それでも段々畑というほどの段差はない。ここまでの畑にするには、どれ程の年月がかったことだろうと、称えるような気持ちになった。水田もあったはずと調べてきたが、今はその痕跡もわからなかった。耕作地の80%はサトウキビである。背丈が3メートルもあって、密集している。これが風景を作っている。刈りとりのすすんでいる畑もあって、いつ植えるというような季節的な決まりはないらしい。本来はこれからが刈り取りらしい。すでに耕された畑では白い石が顔を出していた。

製糖工場もあるし、バイヲガスの実験施設もあった。宮古牛の牧場もある。宮古馬も飼われていて、乗馬ができる。だから牧草地も当然あるが、しかし風景としては、サトウキビの島である。サトウキビの丈が高すぎて、印象を支配している。そこに、コンクリートブロックの四角い家が、草に埋もれるように点在する。これは中国の 農村風景を思い出させるものだった。古い時代の琉球の民家は一軒だけしか見なかった。風の強い、大きな台風のとおる地域だから、これも致し方ないことと思う。博物館には古い時代の家が再現されていたが、葦を編みあげた、なんとも風情の良い家である。これは琉球に支配される前の時代のものなのだろうか。宮古は琉球に支配され、琉球は薩摩に支配され、薩摩は江戸幕府に支配される。人間の愚かさの歴史ではないか。家の形にそういうことが現れているともいえる。それならこの四角い家は誰に支配された物なのか。

宮古は宮古上布だ。これは日本の歴史上最高の織物のひとつである。そう判断したのは明治、大正の日本の庶民である。この織物は麻織物と思っていた。これが書物の知識である。チョマという植物が麻の一種で、いわゆる麻織物と思い込んでいた。麻織物と強弁したのは、販売のためかもしれない。これがなんとあの、「からむしおり」なのだ。カラムシは小田原のどこにもある草だ。それで織物ができるとは聞いていたので、繊維を取り出すところまでやってみたことがある。しっかりした繊維だとは思ったが、これでは到底繊細な仕事は無理だと思ってしまった。たぶん、そのカラムシをチョマという品種に改良を重ねたのだろう。葉を見れば明らかに麻ではなく、カラムシだ。1メートル以上に枝分かれせず延びるそうだ。枝分かれがあるとそこで切れてしまうらしい。35日で一回刈れると言うから、南国である。これを琉球藍で染める。この染色が絹とは違い、繊細な仕事がいると言われていた。畑や栽培する人で状態が違う、その上糸繰りで又様子が違う。これを染めで均一に仕上げる。今年仕上がった反物が4反と言われていた。工芸研修所には女性が7名作業をされていた。

芭蕉布も、びんがたも含めて琉球は織物の文化ではないか。1400年代にはすでに宮古の織物は独自に成立していたらしい。染色の技術も確立していた。中国に流れ着いた人の記録に、着ていた衣服が特にあったということは、漁民が織物の衣服を着ていたことに驚きがあったのではないだろうか。宮古上布は東京の織物問屋の柄の要求に答えて、より繊細に高度化したようだ。びんがたもすでに平安時代のみやこの影響を受けているというから、文化の交流と進歩というものが見てとれる。そして、戦後一気に衰退に向かう。着物が洋服になるからだ。これこそ欧米の影響なのだが、世界に類を見ない高度な織物が伝統工芸を残すという、文化遺産の中で命を永らえている。資本主義文化の競争文化の浅薄さを目の当たりにする。今、稲作文化が競争の正義に伝統文化を棄てろと迫られている。人間が育て上げた尊いものを、経済の合理性だけで選択して行くことが、人間の幸せではない。宮古に来て改めて確認したことだ。
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