地場・旬・自給

ホームページ https://sasamura.sakura.ne.jp/

ビックモーター騒動の違和感

2023-08-31 04:18:40 | 暮らし
 


 ビックモーターがあれこれ叩かれている。損保ジャパンにもそれが飛び火して今度は、大企業の利潤優先主義があからさまになり、日本の資本主義の本音が見える。倫理のある資本主義どころか、儲かれば何でもやるという醜さが当たり前の事のように蔓延している。

 ビックモーターでは店舗の前の歩道に植えられた街路樹が、たぶん視界を遮るのだろう。もっと目立ちたいので除草剤で枯らしてしまった。土壌から除草剤の成分が検出されて、器物損害罪に成るらしい。除草剤を根から吸わせて、木を枯らすほど使うというのはすごい。会社側はすでに自首を申し出ている。美しい街路樹が邪魔という自己本位感覚が、この会社の社風だろう。

 樹木を枯らすのであれば、その道の悪のプロは、神社の境内の大木などをわざと枯らしてしまい。その木を安く買い取るやつがいる。ドリルで幹に穴を開けて、そこに除草剤を注入するのだ。これだと土壌には除草剤の痕跡が残らないから、犯罪の成立は難しいだろう。

 ビックモーターでは社長の息子さんが、あの韓国飛行機会社の落花生娘と似たような人格らしい。「降格」と言われるとそれで終わりらしい。店の前にゴミが落ちていて、降格宣言がされた人もいるとの報道。こういう報道は面白おかしく細かに繰返し取り上げられる。テレビのワイドショーにはもってこいだ。

 そうした、パワハラ的な問題や社会常識の無い社風の問題もあるが、犯罪として罪が重いのは、自動車の保険修理の問題である。ビックモーターには一台当たりの修理のノルマがあるらしい。一台15万円は修理を出せと言うような会社としての指示があったという。

 10万円の修理しかない場合は、5万円分あえて車を壊して15万円にしていたというのだ。証拠写真が必要になるから、軍手に何か金属を入れて、ぶん投げてぶつけて壊したという。タイヤに穴を開けてパンクにするというのもやったらしい。保険で保障されるから、車の持ち主には関係ないようにも見える。

 損保ジャパンとしてはビックモーターとの保険関係を維持したいという気持ちが強かったのだろう。ビックモーターの保険金水増しの手口を分かっていながら、認めていたと思われる。どう考えても保険会社にばれないわけがない。その後の損保ジャパンでは社長含めて幹部の会議での発言が何故か外部に出てきてそのことがばれてしまった。

 重要なことは保険契約の継続である。保険会社の御陰で事故をしたのにかかわらず、助かったと加入者には思ってもらわなくてはならない。保険会社の対応がおかしいとおもば、会社を変える。私の場合、今回交通事故で車が全損になった。両者がたまたま損保ジャパンに加入していた。240万円の2年落ちの車に対して、最終的に160万円ほどの保険が払われた。

 これが高いか安いかは分からないが、私は交渉はしなかった。電話がかかってきたので分かりましたと言っただけだ。事故での補償のお金の交渉が嫌だったのだ。怪我も未だに膝には残っている。それだけの怪我だったのだが、怪我は無いから補償はいらないと答えた。

 損保ジャパンの那覇の支店からの電話で、車は見に来ないという。確かに車はひどく壊れて車軸までひん曲がってしまったので、直しようがなかったのだ。この車をどうしても直せば、新しい車を買うよりお金がかかるだろうと車屋さんは言っていた。でも見ないで良いものだろうかとは思った。

 今更ビックモーターのように、さらに壊しても始まらない状態だったのだが、車屋さんを信用しているのか。見に来ないまま廃車が決まった。私としては、軸が曲がったような車を直すのでは困るで、お金はともかく買い換えようと最初から考えていた。アトリエカーは一日の大半を過ごす、大切な車なのだ。

 保険の御陰で出費なく、アトリエカーが戻ってきたので、不幸中の幸いである。この間1ヶ月以上、機械小屋で絵を描くしか無かったのは、問題とはいえるのだが、それはそれとして、外の場所で描く良い機会でもあったと思うことにした。アトリエカーから無理矢理出されたのも何かの巡り合わせかもしれない。何でも良い方に考えればその方が楽だ。

 こうした保険会社と修理工場と自動車会社の関係は持ちつ持たれつのところがあるのだと思う。15万円ノルマはおかしいが、ぶつけて壊れた車を保険で直すと言う場合、その価格は修理工場と保険屋さんに任せる以外、当事者にはどのみちよく分からない。しかも保険で払ってもらうと、翌年からの保険料が変わるから、保険を使わないで直すという人も多いだろう。

 私は今まで壊れても保険で直したことはない。その方が有利だと損保ジャパンの代理店をやっている友達が言うので、そんな物かと思っている。もっとぶっ壊して、みんなが儲かるようにすべきと言うわけには行かない。保険を使って直さない方が良いという保険もおかしな保険では無いかとは思っている。

 実は父は三軒茶屋で損保ジャパンの代理店をやっていた。安田火災という時代だ。車の保険よりも火災保険を中心にやっていたらしい。当時三軒茶屋では放火による火事が多かった。私の家も放火されたことがある。ボヤですんだのだが。そういうこともあって火災保険をかけるお店が増えた。

 その犯人が捕まって、実は渋谷の大きなビルの建設中の大火災もその犯人の放火と言うことが自白によって、後で分かったのだ。工事関係者の失火と言うことで処理されていたのだから、あとで大騒ぎになった。その犯人が家の放火で連れてこられて、詳細を語ったのだが、家族の誰よりも家の中のことをよく記憶していたので、みんなで驚嘆した。

 火災保険を商店街のみんなが入ったのは、父に信用があったからだ。不動産屋さんもやっていた。地域で特別に信用されていたので、信頼で成り立つ仕事には向いていたのだと思う。私が今こうして絵を描いていられるのは父の才覚の御陰である。

 そう、信用が無くなったら、損保ジャパンも危うい。今の時代ウエッブ保険が主流になりつつある。何だ、ビックモーターと連んでおかしな事をやっていたらしいとなれば、たちどころに苦しくなるだろう。私は今回の事故処理を感謝しているので、損保ジャパンを変えない。

 ただ、最初にきてくれた石垣の代理店はいただけない。どんな事故でも私にも責任があるのだ。と主張した。事故直後の現場で怪我で救急車で運ばれる際に主張した。事故の実態も知らないでよく言ったものだ。けっきょく100%相手の責任になった。当たり前の事だろう。居眠りをしていた相手の命を救ったのだ。

 ビックモーターと損保ジャパンが今回話題になったが、外の会社も同列と考えた方が良い。厳密に言えば、似たような事例はどこにもあるはずだ。しかし、あまり揚げ足を取るようなことはしない方が良い。ある程度融通がなければ世の中旨く回らない。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ひこばえの田んぼの稲刈りが進んでいる。

2023-08-30 04:53:19 | 楽観農園


 ひこばえの稲刈りが進んでいる。1番田んぼの「ゆがふもち」は終わった。3番田んぼの「ミルキーサマー」も終わった。6番田んぼの「とよめき」と7番田んぼの「とよめき」も終わった。残っているのは、2番、3番、4番、5番である。ともかくすべての田んぼで収穫できるところまではきた。

  すべて手で刈る稲刈りだ。田んぼにはいくらか水が残った状態で、稲刈りをしている。石垣島の土壌の性質から一度水が完全に切れると、水を戻すのが不可能に近いからだ。また湧き水が十分が十分な水量ではないと言うこともある。

 2畝の田んぼだと4人でやって2時間くらいである。みんなで作業をするという意味では、稲刈りが丁度良いと思っている。ひこばえ農法では、田植えがないわけだから、稲刈りだけは共同作業が良いと思っている。

 1番と、7番は1期作よりも良かった。それでもせいぜい5俵止まりだ。5俵というのは、沖縄の平均収量である。3番と6番は一期作の方が良かった。と言っても1,7番はそもそも1期作が悪すぎたので、あまり威張れない。まだひこばえで十分に収量を上げるところまで、農法が分かっていない。何とか収穫までたどり着いたという程度である。

 日本で初めての7回連続で収穫するひこばえ農法の稲刈りなのだから、不十分なのは仕方がない。2回目の稲刈りをして、すでに3回目の稲が生長してきている。この3回目の稲刈りが、11月になると思っている。ひこばえは3ヶ月すると収穫できるまでになる。

 3回目のひこばえは涼しくなっての稲刈りだから、また生育が違うだろう。4回目のひこばえは15度くらいまで下がる、冬の物になるから、その生育がどうなるかも、今から興味深いところだ。ひこばえも十分に育つ季節があるのだと思う。

 2期作だけで、終わりにして、代掻きをしてしまうところと、そのまま、3回目4回目を目指すところに分かれてゆく予定である。但しウイルス病の出た、とよめきに関しては、今回で終わりにして、品種を換えようと考えている。それでも3回目の様子を見るという意味で、6番田んぼだけは3回目の収穫を目指してみる。

 4回目の収穫辺りまで進めば、はっきりと日本では初めてのひこばえ農法と言うことになる。今のところの2期作の収穫だけなので、まだその真価は出てはいない。それでも2回目で普通に収穫が出来たことは、気持ちの上ではかなり希望は出てきている。

 中国の2期作で終わるひこばえ農法では、2期作目の方が一期作よりも収量が多いいと書かれている。実際にのぼたん農園でも分ゲツ数は一期作よりも二期作の方が多くなる。それは切り株から出てくるひこばえに加えて、脇から新しい分ゲツが出てくるからだ。多く成りすぎて粒が小さくなる。

 問題は粒が小さくなることや、不稔籾が多くなることである。病気が出ると、ひこばえに継続するという問題もある。ネズミの問題がインドネシアではあるというようだが、ひこばえをネズミが食べたというようなことは今のところ無い。

 ひこばえが一見普通の田植えした稲のように成長しているように見えるが、実際は十分なイネの太さにはなかなかならない。7番だけが太いイネになった。7番が外と違うのは、稲刈り前後水が足りないで、かなり渇いた田んぼと言うことである。田んぼの土はかなりひび割れていた。乾いて土壌環境が偶然良くなったのだろう。

 イネが十分に成長できない原因はまだ土壌に力が足りないと言うことがある。ひこばえ農法では葉の数がせいぜい5枚くらいで穂を付けなければならない。5枚の葉が揃えばまだ良いが、3枚くらいで穂を付けてしまうことも多い。ひと株が30分ゲツ近くあるので、葉の数は数えないと十分のように見えてしまう。

 葉の数が不足するために、よほど大きな止葉が出ないと、株に力が足りなくなる。根は十分でも葉が不足して光合成が不十分になり、収量が下がるのだろう。稲刈りしてから3ヶ月で次の稲刈りになるから、この短期間にもう少し葉を多く付けさせる方法を模索したい。

 一番の要素は追肥だろう。アカウキクサを上手く広げるというのが一番良いことになる。まだアカウキクサの増殖方法も見えていない。アカウキクサもレンゲなどの緑肥と同じで、成長には肥料が必要なようだ。バットグゥアノを与えてみたら確かに増殖をした。

 分ゲツの出方にばらつきがあるので、穂がバラバラに実ってくる。稲刈りの時期にばらつきが出てくる。次々に分ゲツが増えてくるから、遅れ穂がどうしても出てしまう。それを待ってからの遅めの稲刈りにしたほうが良いようだ。始めの方の穂が刈り遅れになるが、この点ではある程度我慢するほか無いのだろう。

 残っている田んぼでは稲刈りを遅らせてお米の水分量が15%近くなってから稲刈りをしてみたい。そこまで待てばお米が充実してくるかも知れない。イネ株は穂を付けてからも、後半太い分ゲツを出してくる。始めのひこばえよりも大きな穂になる。

 その意味では一度出たひこばえを刈り戻すことには意味があるような気がする。農総研のミャンマーの試験栽培では、刈り戻しや、高刈りには意味が無いとしている。田んぼを稲刈り前後乾かすことは意味があると書かれている。しかし、一度の実験結果だから、しっかりした穂を付けるために技術は、これから試行錯誤して探して行くことになるのだろう。

 やはり資料としては、中国の栽培経験が重要になるだろう。少し本気で調べる必要がある。中国ではひこばえ用の品種が10種類ぐらいあるとされている。石垣でも少ない栽培事例だが、それでも品種間の差はあると感じる。中国のひこばえ品種を手に入れることは出来ないし、お米も美味しいとは限らないので、当面はミルキーサマーで挑戦をしてみたい。

 これからやってみることを整理しておく。
 1,お米の水分量が15%から18%に成るまで待って、稲を刈る。
 2,追肥は稲刈り前1週間に行う。次はひこばえを刈り戻したときに2回目。
 3,アカウキクサをできる限り増やす。
 4,40㎝角で栽培する。
 5,「台光」と言う台湾の品種の種が手に入ったので、これを試す。
 6,稲刈りの前後2週間は田んぼを乾かす。
 7,一回の収量目標を反収5俵ぐらいに下げ気味にする。
 8,1畝30キロを目標に年3回の収穫で90キロ。反収年間で15俵程度。
 9,草を完全に取り切る。
 10,藁を戻す。落ち葉堆肥を入れる。
 11,ひこばえ米を漢方米と言うことで中国では販売されていたという。
 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

汚染水海洋投棄で中国が怒りだした。

2023-08-29 04:20:32 | Peace Cafe


 中国からの東電に抗議の電話が6000件あったそうだ。何故中国がここまで怒りにかられたのだろうか。中国政府としては反日爆発は願っていることだろう。しかし、何故こんなにも単純に怒りだしたのだろうか。それほど中国の人は単純なはずが無い。なにか背景がある。

 日本人学校に投石というところまで起きたのではただ事でない。中国政府事態が汚染水海洋投棄をきっかけに、何故日本との対立を深めようとしているかの理由が重要だろう。中国政府には困ったことが起きているのだ。それはやはり不動産バブルの崩壊が、中国経済の転換をしなければならない事態なのだ。

 中国国内で方向の転換が起きようとしている。その小さな材料の一つに汚染水の海洋投棄が成ったのではないだろうか。中国の経済活動は中国政府が動かしている。不動産バブルを煽って、どんどん巨大マンション群を建設させ続けたのも政府である。国民がまだまだ購入するとみていたのだろう。

 ところが、国民が買わなくなってきた。これは建設ラッシュで経済を動かしてきた中国としては、予想外なことかもしれない。経済成長が大きな時はあらゆる分野が自転車操業である。建設をし続ける仕事を作らなければならない。泊まった住宅建設をどう納めるのだろうか。

 アメリカは中国に経済戦争を仕掛けている。中国が公正な取引をしないとして、様々な圧力をかけている。バイデン大統領が、半導体と量子技術、そしてAIの3つの分野について中国への投資を規制する権限を財務長官に与える大統領令に署名した 。

 アメリカから中国は先端技術を盗んでいるとして、様々な貿易規制をかけている。日本も同調させられている。ところが、米中の貿易は拡大を続けて、米中の貿易額は、基本的に増加傾向にある。2000年に1,163億ドルだった貿易総額は、2022年には過去最高の6,906億ドルに達した。 何やら疑問がある。

 情報通信技術は、サプライチェーン上のリスクや脅威を評価する対象に指定され中国企業であるファーウェイなど、が製造する通信機器などの政府調達を2019年8月から禁止した。 中国の急激な経済成長をアメリカや日本からの情報流出にあると考えているのだろう。確かにその可能性は高い。

 アメリカは国の安全保障上の観点から中国からの輸入制限を加えているもの以外でも、50%以上を中国からの輸入に依存している製品が500以上あり、ウイグルの強制労働などを理由に、輸入制限を加えているものもある。中国側にしても、アメリカへの輸出が経済を動かしている主要な要素であるから、重要鉱物などでの強い規制には限界がある。

 こうした中国と自由主義圏との経済戦争が緊迫を高める中で、中国政府は国民の意識を経済不安から、目をそらす必要があるのだろう。自由主義経済と違い、中国経済は一辺倒になり、綱渡り的である。政策に柔軟性がないと言うことがある。政府としてみれば、不動産バブル崩壊から意識を変え次に移行したいと言うことがある。

 SNSの映像などが、日本への抗議活動への拡大に繋がっているらしいが、中国政府がそうしたSNSを消さないだけでも不自然である。むしろ、政府が仕掛けていると考えた方が自然なのだろう。ただし、中国人の大半は福島原発汚染水海洋投棄などに無関心なはずだ。

 汚染水問題は長期化せず収まると考えて良いだろう。しかし、中国政府が日本に対してかなり強い反発の気持ちを思っているという点では、注意する必要があるのだろう。やはり、台湾における「戦う覚悟がある。」と言う麻生発言は最低の物だったのだ。

 岸田政権は中国政府がどういう反撃を見せるかを理解していたのだろうか。もしまともな外交感覚があるのであれば、汚染水投機の直前に「戦う覚悟」はないだろう。中国はどう戦うのか、見せてくれと返してきているのだ。戦争は経済で始まっているのだ。

 日本政府には覚悟だけで戦う準備など無いのだ。これでは覚悟の方もないと考えなければ成らない。麻生氏に覚悟があるのならば、汚染水対応でその覚悟の腹の内を見せて欲しい。水産物の中国輸入規制はかなりの打撃になる。その補償を政府と東電は風評被害補償として行うのだろうか。これは風評ではなく、麻生被害だ。

 それにしても中国人の怒りが余りに単純なことにはびっくりした。中国人はもう少し複雑な人達かと思った。これでは歴史ある大国の国民とは見えない。中国では、知識だけの詰め込み教育が激化したあまり、人間力の劣化が始まっているのだろうか。確かにそのきらいが見え隠れする。
 
 政府の先導にこれほど乗りやすいとは驚きである。もしこれが意図的な演技ではないとすれば、中国の一辺倒な在り方が、人間を単純化している可能性もある。そんな中国人の訳がないと思うが、もし押せばキュート泣く人形化したのであれば、中国の未来も危ういと考え直さなければならない。

 本当に大国であり、自信がある国家、国民であれば、放射線廃棄物の問題は総合的に判断できるはずである。中国の原爆実験が残した放射能汚染物質は黄砂とともに中国全土にまき散らされている。中国の原発の出す汚染物質の管理には不安を持つ人が居るのが普通だ。もしそれがSNSに出ればたちどころに消されるだろう。

 日本は米中経済戦争に巻き込まれているのだ。その認識を強く持たなければならない。それこそ覚悟が必要である。一番は食料である。飢餓になれば、放射能汚染の食べ物だって食べなければならないはずだ。飲む水がなければ、汚染水だって飲む。1年後よりも今の今と言うことになる。食料は安全保障の根本だ。

 まず、国が覚悟を決めると言うことは、食糧の国内確保をすると言うことだろう。覚悟などないから、自給率が39%の国から抜け出せないのだ。外国はすべて優しい国なので、日本の飢餓を見捨てないとでも思っているのだろうか。中国の方が経済力が上になるという事は、中国に食料を買い占められるのだ。

 中国人の怒りは演出だと考えて良い。日本政府の態度次第で、忽ちに収まるだろう。私は中国人を相当にしたたかな、有能な人達だとみている。経済戦争はこれから本格化する。今回の事でも日本政府にはその覚悟が丸でないのがよく分かった。能天気なのは日本の劣化なのか、本質なのか。

 
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中国人が日本に来る

2023-08-28 04:25:02 | Peace Cafe


 何度か書いてきたことだが、米中経済戦争がかなり深刻になってきた。日本では中国経済が忽ちに破綻するような経済記事が多数掲載されている。勝ってる勝ってると言いたいのだろう。水産品全面輸入禁止も経済戦争だと思えば理解しやすい。お互い屁理屈を付けて経済攻撃をしているのだ。

 中国経済崩壊を書いていれば、提灯行列記事が読んで貰えるのだ。日本国民が一番楽しみにしている記事なのだ。停滞の日本の溜飲なのだ。中国はそう簡単に経済崩壊をしない。その理由は資本主義経済に於いて、中国はまだまだ経済成長をする要素があるからだ。14億の消費者と安くよく働く労働者。

 中国経済は世界の生産基地時代を終わろうとしている。日本や韓国や台湾の企業が徐々に撤退を始めている。安い労働者や安い施設費安い税金というような時代をやや終わろうとしている。アメリカよりも成長余地が多く残されているところが強みだ。

 14億人の教育の高い国民が存在する。消費余地がまだまだある。不動産バブルと言うが、中国の人口から見れば、家が余っているわけではない。価格が調整されれば、買う人は居る。不動産投資は行政と連携されている。独裁的国家の経営指導が徹底している。ウクライナ侵攻以降の世界情勢は中国に有利に働いている。

 中国の問題点を数えていれば確かに切りが無いほどだ。戦争だから、アメリカ側では崩壊を待っているのだ。だから安易に中国の悪い所を取り上げることになる。北京紫禁城水害。三峡ダム崩壊。長江の渇水。砂漠化拡大。高学歴就職難。良い所を取り上げたところで、注目記事にならないから、そうした記事はほとんど無い。

 そのために日本人の多くは明日にでも台湾侵攻があるとか、バブル崩壊で中国経済が崩壊するとか、思い込まされている人が驚くほど居る。冷静に分析すればそんなことはない。中国の方が、日本やアメリカよりも、経済が拡大する条件がまだまだある。発展途上国の側面がある中国なのだ。

 不動産バブル崩壊と言っても、まだ住宅が不足しているのだ。富裕層以外では手が出ない価格だから、暴落を始めた。土地所有を個人は行えないから、土地は投資対象にならない。建物しか購入できない。土地を所有している地方公共団体、あるいは国から、土地を借りる形でマンショを作るらしい。

 各地方が競って建設会社と共同で、マンション開発をする。これを富裕層が投資対象にして購入する。農地に関して言えば、部落の共同所有のような形らしい。部落単位で、会社を作り共同で運営する。有機農産物村であれば村単位で会社組織になる。嫌でも有機農業をやらざるえない。

 自由はない代わりに、効率が良い。この村はキノコ村となれば、日本のきの子会社の数十倍のキノコ工場が出現する。もちろんすべてが整理されているようでもなくて、実に複雑な形が存在するので、土地制度については教えられてもなかなか理解できない。

 良い面から言えば、その集落にいれば、役割が与えられる。農業機械が得意。根気よくやれる。体力があまりない。それぞれに会社の社員のように働く。しかし、やる気のある者は自由を求めて都会に出て行くことになる。先ずは勉学に励んで、より高度な学校を目指す。

 そうした国家資本主義とも言える状態が、アメリカとの経済競争に勝り始めたのだ。中国の上層部の商売人としての判断が良かったことと、実働部隊の行動が素早いために、経済競争に勝利をし始めた。そこでアメリカは様々な制限を加えて、成長を止めようとしている。これが経済戦争と言える状態にまで深刻化している。

 自由に生きると言うことは人間の根源的欲求である。中国人に於いてもいささかも変わらない。国家が自由を制限を加えすぎれば、経済は停滞をする。やりたいことをやるのでなければ、人間は能力を十分に発揮できない。この点では確かに中国は曲がり角にきていると言える。

 経済的に余裕が出てきた時代に成長した今の若者世代は、やりたいことを仕事にしたいと、就職をえり好みし始めている。それが20%を超える失業率と言う驚くべきことになった。一方で希望の職に就くことの出来た高学歴の若者の80%の人達は意欲的に働いているのかも知れない。

 日本と違うのは、3K職場を厭わない沢山の人口がまだあるという点である。農村から出てくる多数の若者が、都会での過酷の労働をになっている。まだまだ発展途上国的要素が大きいのだ。中国はまだまだ経済発展を続けるとみて間違いが無い。

 今後何が起こってくるかである。まず台湾侵攻はやらない。このまま5年の時を稼げば、台湾との平和的統一の可能性が高まる。もし平和的統一が出来れば、習近平は毛沢東を超えて、中国中興の祖になれると考えているはずだ。間違いなく平和的統一が第一の狙いだ。

 そして、いよいよ中国からのお金や人間流出が起こると予測する。豊かになっても自由が無いからである。十分な資産を持ったとしても、何時国家に不当な理由で取り上げられるかも分からない。これでは不安だろう。海外に資産を移す人が増える。当然日本で土地を買う人も増える。円安の今は投資の機会とみているはずだ。

 土地を所有できない中国富裕層にしてみれば、日本の土地神話を安定資産とみるはずだ。脱出基地にできるかも知れないと考えるだろう。上昇意欲の強い中国人である。海外で生きる事を恐れない中国人である。いつの間にか世界中に移動を始めている可能性がある。

 日本にも来るはずだ。すでに来ているのかも知れない。中国人も変わってきているが、日本人が中国人を受け入れられるかどうかが重要なことになる。中国の富裕層は現状でもきているはずだが、外見がおなじだし、余り目立たないように日本で暮らしている。日本で働くこともないのだろう。

 子供の教育のために日本で暮らしているのだろう。日本にもそういうインターナショナルスクールが沢山あるようだ。英語教育なのだろう。どれだけ日本の社会と接点があるのかは分からないが、日本にとっては有望な人財になる可能性がある。日本の新しい成長要素になる可能性もある。

 中国からの観光客も重要な交流だ。大切にしなければならない。爆買いなどと言う嫌らしい言葉を早く辞めなければならない。日本経済はそれで持ち直すかも知れない可能性すらあるのだ。顧客として重要なだけでなく、日本を知ってもらうことで、中国人も変わるはずだ。

 日本と中国の国民同士が理解し合えば、戦争など起こらない。経済だって、中国経済の上昇の余波を受けることが出来る。中国人は何時までも独裁国家に我慢しているはずがない。国家資本主義の優秀性を評価しているのだ。まだまだ、この方式で世界の競争に勝てると考えているのだ。


 
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

第175 水彩画 日曜展示

2023-08-27 04:00:33 | 楽観農園
第175 水彩画 日曜展示

10号前後の作品。






334「のぼたん農園」
2023.8






335「名蔵の田んぼ」
2023.8







336「天竜川」
2023.8






337「赤いハイビスカス」
2023.8






338「マッツンダ田んぼ」
2023.8







339「雲海」
2023.8









340「のぼたん農園」
2023.8

 安定して絵を描くことが出来た1週間だった。アトリエカーはやはり落ち着く。熱くて居たたまれないような毎日だったが、アトリエカーの中で、心頭滅却して絵を描いていたので、心地よい毎日だった。風が吹き抜けるので、強烈な陽射しでも耐えることが出来る。

 農作業も土曜、日曜と稲刈りがあるので、それに向けてこの1週間は草刈りや、ネット外しなど、それなりに作業はあった。それでも熱いから、長時間はやれないと言うこともあり、アトリエカーで下着まで着替えて、さっぱりして絵を描いていた。

 タオルを冷蔵庫で冷やしておけば、かなりすっきりして気分が転換できる。有り難いことだ。水牛のこともあり、遅くまで農園に居たので絵に集中できたかも知れない。一枚一枚に、割合時間をかけて描いていたのだと思う。納得の行くまで描いたようだ。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

福島汚染水海洋放出

2023-08-26 04:30:51 | Peace Cafe


 福島原発事故から11年5ヶ月を経過して、政府が漁業者との約束を破り、汚染水を海洋放出することになった。いつかどこかに捨てなければならないことは最初から分かっていたことだ。東電は絶対に汚染物質を海洋投棄はしないと、約束をしていたのだ。そんなことはそもそも無理な話に決まっている。

 凍土壁で水の流入が防げるとしてすごいお金をかけて、失敗したのだ。凍土壁ではなく、取り囲むコンクリート地下ダムを造るほか無かったのだ。そう主張する人は多かったのだが、凍土壁で完全だと、ここでも東電はウソをついた。それがまるで失敗だったことはすぐにばれた。それで地下水が原発に流入し、水が溜まり続けたのだ。

 政府も東電も原発に関しては、出来ないウソを散々言ってきた。安全神話がそもそもウソだったのだ。事故後の放射能汚染は小田原にもおよび、お米も食べてはならないと言うレベルに達した物もあった。汚染された食料を関東、東北の人間は随分食べたが、寿命に現われるような疫学的な顕著な結果は、今のところ出ていない。放射能については未解明なことが多い。

 原発放射能汚染廃棄物は、処理することは出来ない。ただ永遠に地下深くにでも保存しておく以外に方法がない。そんなとんでもない汚染物質が出来てしまう機会を使うこと自体がおかしいだろう。原発を世界中で使っているが、すべての原発が廃棄物処理については行き詰まっているのだ。そういう物を利用して便利な今の生活が成り立っている。

 中国外交部の毛寧報道官は、日本の放射能汚染水海洋放出について「もし安全なら海洋放出の必要はなく、安全でないならなおさら放出すべきでない」と述べ、「日本はいかに過ちをごまかそうと、放出計画を正当化することはできない」と強調した。
  
   原発事故汚染水の海洋放出は世界に先例がなく、共通の基準もない。これは科学の問題であり、態度の問題でもある。中国は日本に対し、国際社会と国民の合理的な懸念を直視し、海洋放出計画の強行をやめ、誠実な態度で周辺隣国と十分に意思疎通し、責任ある方法で放射能汚染水を適切に処理し、国際的な監督を受けるよう促す。

 この発言に対して「正論である」と言う意見が原発反対派からすごい数上がっている。私も原発反対派の一人であるが、がっかりである。正論にはまったく見えない。目くそ鼻くその類いだ。原発を止めるためにはどうすれば良いかを考えることだけが、正論である。原発事故の汚染水と原発冷却の汚染水のトリチウムは違うものではない。毛報道官自身が科学的に考える必要がある。

 原発を保有して、地上核実験を繰り返してきた中国がそもそも言えるようなことではない。その放射能汚染は黄砂となって、日本にも降り積もっているのだ。小田原で放射能汚染調査を続けたときに、どうもその年代の物と思われる汚染の方が福島のものより強かったことが分かった。

 アメリカの核実験の放射能、中国の核実験の放射能。散々浴びてきたのだ。その時の放射能は、我々の世代は十分取り込んでいる。それでも日本人の長寿は継続中である。放射能は微量な場合、同人体に影響するのかは、まだサンプルが少ないのだろうか。

 放射能汚染物質の処理の方法を中国が研究して、結果を出しているならともかく、何も対策もしないで垂れ流している中国なのだ。まず自らが原発汚染水のトリチウムの排出を正すことの方が先だ。原発実験での放射能拡大の謝罪模する必要があるだろう。確かにメルトダウンした原発から出ている、事故汚染水を貯め続けた国は日本以外にはない。今までの事故ではアルプスも使わず、そのまま流し続けたのだ。原発の稼働汚染水とは違うが、トリチウムに変わりは無い。

 どこの国のどの原発からもトリチウム汚染水は出続けているのだ。そして海に流しているのだ。トリチウムは自然界にもある危険かもしれない放射性物質である。雨にも含まれていて、降雨中のトリチウムの量は原発から出る物より多いと書かれているものもある。

 日本全国の原子力発電所から海に放出されているトリチウムは、合計で年に約380兆ベクレル。福島に溜まったトリチウムは780兆ベクレル 。だからたいしたことが無いというのが、東電の説明である。こんな説明をしているから、それなら、福島の汚染水は安全なら水道水にしろとか。国会で配れとか言うことになる。

 すべてウソだと思っている。安全なはずもないし、飲めるような物ではない。いつか遺伝子を傷付ける蓄積になるかも知れない。それはマイクロプラステックとおなじだ。手に負えない処理困難物を人間は作り続けている。このままでは人間は自分で作った汚染物質で、滅ぶことになる。

 プラステックも禁止すべきだし、禁止できるまでは燃やしたってかまわない。処理が面倒くさいから、その辺に捨てられてしまうのだ。燃やしても仕方がないとなれば、マイクロプラステックはいくらかは減る。そして原子力は一切禁止である。

 それが出来ないから、人間は妥協している。中国の報道官が主張した主張は屁理屈に過ぎない。正論などとは到底言えない。中国も原爆も、原発も止めた方が良い。それが正論である。中国があえて嫌がらせのように主張して、日本の食品を全面禁輸するのは、米中経済戦争が起きているからだ。

 日本はアメリカ側の一の子分なのだ。相手の商売が上手くゆかなければ、自分が得をするのだ。それが資本主義の能力競争である。商売のために汚染水も利用している。中国は日本からの水産物すべての輸入禁止をした。まさに非科学的公道である。しかし、中国国民は旨くやったと思っていることだろう。

 国家資本主義の方が決断が早くて、競争に有利なのだ。民主主義が危うくなってきている。国民の合意を待てなくなっている。だから漁業者の賛成がなくても海洋投棄することになる。中国が原発も原子爆弾も止めないのは、国民の安全よりも、経済競争の勝利が優先されているからだ。

 毛報道官にその自覚はあるとは思えない。在るとすれば、共産党へのあるいは習近平氏への信仰心だろう。中国のトリチウムならば、この人は飲めるだろう。信仰心から平然とウソをつくために、聞いた人が正論だと思い込まされるのかも知れない。

 日本の反原発の人達の知性の劣化には驚く。たんなる感情論だけでは原発はなくならない。毛報道官を正論だと持ち上げるようなことは、中国の原発を認めることになるのだ。原爆保有まで認めることになるのだ。毛報道官の発言を評価するのは大間違いだ。

 トリチウムだけではない。放射能で汚染された表土はどうなったか。相変わらずビニールシートで包まれているだけだ。これも薄めてばらまくのか。放射能で汚染されたお茶を、お茶畑の隅に置いておいた。その当たりを後から、測定してみた。まったく周囲と変わらない状態で、特別に高濃度と地点は見つからなかった。野外に置かれていれば場所によっては、いつの間にか地中に流れて行くようだ。

 結局の所、人間が作り出した放射能の汚染物質はすべて海に流れ込んでいるのだ。マイクロプラステックとおなじだ事だ。人間はかなり危ういところまで来ていると考えるべきだ。暮らし方を変えられないければならない。このままでは、人間は滅亡がそう遠くはない。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

慶応高校のエンジョイベイスボールが優勝

2023-08-25 04:39:26 | 暮らし

 竹富島と石垣島の間の海は石西礁湖(せきせいしょうこ)と呼ばれる、日本最大の珊瑚礁の海だ。海は様々な様相に変化する。色もアカから黄色まで、色々に変わる。空が反映しているようだ。砂の白さが影響している。浅い海だ。竹竿で舟を操り、西表島まで、田んぼの出作りに出掛けていたらしい。

 高校野球は慶応高校の優勝で終わった。このところ高校野球廃止論が言われていた。気温が高すぎるというのが、主たる理由のようだ。止める必要など全くない。折角100年も続けてきて、ここで止めたらダメだ。継続する方法などいくらでもある。早朝と夕方から夜の野球にする朝朝5時から始めて、夕方も5時から。朝夕2試合づつ行うぐらいにする。

 これから日本は熱帯で暮らして行かなければならない。暑さ対策はあらゆる場面で必要になる。しかし、高校野球廃止論を読んでいると、どうも暑さは本当の理由ではないようだ。理由などどうでもいいようだ。高校野球にいちゃもんを付けて、目立とうとしているだけらしい。

 人気の高校野球に、一言意見を言いたいというスポーツ評論家なのだろう。今年は107年ぶりの慶応高校が優勝でおもしろいではないか。最近学力の高い高校が甲子園で優勝することがままある。文武両道で良いようだが、格差がこういう所にも表れてきている可能性もある。昔から成績の良い子供は運動も出来たものだ。

 楽しんで野球がやれて、それで甲子園で優勝できれば最高の形だ。大半の高校で頭を坊主にして野球をやらなければならないというのは、楽しんではならないという意味なのだろう。お寺で修行するときに頭を坊主にするのに習っているのだ。軍隊に入るときも坊主にする。そうした覚悟を野球に要求されている。

 沖縄は野球が盛んだ。野球部の無いような高校はまず無いだろう。一つの高校でチームが組めなければ合同チームを作り、県大会に出場している。石垣島でも、野球部の生徒が颯爽と練習姿で歩いているのを見る。素晴らしいと思う。若い時代にスポーツを全力でやるという意味は大きい。それは甲子園に出られないでもおなじだ。

 学校で学ぶものは様々である。学問もあるが、何かに打ち込むという生き方を学ぶと言うことが重要だろう。野球が打ち込めるものであるなら、素晴らしいと思う。その先に甲子園があるわけだ。確かに学校経営のために甲子園の野球を利用する高校がある。これは見よいものではない。

 全国で野球に打ち込む高校生の大半はそんなこととは関係が無い。その先にあるものが、例えプロ野球というものであるとして、日々のスポーツに対する努力は、打ち込む純粋なところがなければ、やりきれるはずもない。様々な思いで努力をするのだろうが、そうして人間は成長するのだろう。

 問題はどんな所にもある。プロ野球選手の人間としての未熟な人を見ると、野球さえ上手ければそれでいいという、良くない教育を受けたに違いないと思えることがある。それでも簡単に甲子園を止めれば良いなどと言えるはずがない。人間を一辺倒に考えてもダメだ。

 日大のアメフトスポーツ部で大麻および覚醒剤使用が問題になっている。いかにもスポーツ部問題にされているが、社会全体に広がる問題であろう。世界に大麻が許可される国が増加している中で、禁止しをする方針の日本という社会の中での、大麻の位置づけである。身体に悪いから禁止をするという根拠が曖昧になっている。たばこやお酒との違いを明確に論議すべきだ。

 高校野球は継続すべきだ。郷土という物を再認識する機会なのだ。沖縄に移住した私も、沖縄尚学高校を応援した。慶応高校に負けたときにはがっかりした。優勝した高校に負けたのだから、仕方がない。相当に強かった。極端に強かった再優勝候補の東北高校が力を出せずに破れたのだから、慶応のエンジョイベースボールには勢いがあったのだ。

 慶応の自由な髪型が話題になった。当たり前の事だが、坊主にしたからと言って、野球が上手くなるわけではない。自由な髪型の高校が優勝したのは良い傾向だろう。何年かしたら、坊主の学校は優勝できないと言われるようになればますますおもしろい。楽しんでやれるのが一番だ。

 エンジョイベイスボールはいいが、エンジョイできると言うことの奥にあるものをつかんでいるはずだ。心底楽しめるためということは、全力で野球にかけられるものがあるからだろう。何よりこの点が重要である。これさえ学べれば、野球を止めることも何でも無いはずだ。

 慶応高校の野球部員はプロ野球を目指すばかりではない気がする。社会の様々なところで、真摯に打ち込める人になって行く可能性を感じる。スポーツは分かりやすい物だ。これが坐禅であれば、なかなか分かりにくい。勉学というのも今ひとつ分かりにくい。

 慶応高校は慶応幼稚舎から上がってくる生徒が普通に見える。野球をやっている生徒はそういう生徒だろうと、思われるかも知れないが野球部の選手の大半が、他の中学からの入学した生徒だ。スポーツ枠の受験があるとしても、相当の受験勉強の難関を突破しての慶応のエンジョイベースボールなのだ。

 監督を呼び捨てにするという。これも異色だろう。自由を重んじて、上からの押しつけをしないらしい。若い時代に自らの意志でスポーツに打ち込むことは人間を育てる意味で重要なことになる。だから、簡単に甲子園を止めれば良いなどと言わないで欲しい。

 止めるなど最後のことだ。あらゆる継続の努力をして、万策尽きたときに出る言葉だ。評論家が軽く言うような言葉ではない。全国には高校野球を支えている人がいる。野球だけではない。様々な形で若者のスポーツを支えている人がいる。打算抜きで応援する人がいる。そうして若い人達のスポーツは維持されている。

 私が高校生の時には指導者が居なかった。その為に自分に合うスポーツを見付けられなかった。それで陸上をやっていたのだが、陸上競技もまったく指導者はいなかったから、陸上競技と言ってもただ自分たちで走るだけだった。陸上の中で自分がどの競技が向いているかも分からなかった。

 世界陸上を見ていたら、野球から陸上に替わて金メダルを取った、走り幅跳び、パナマのサラディノ選手の話が出た。大リーグからスカウトされるような選手だったというのだ。良いコーチがいて、幅跳びを指導していたのだろう。
 
 自分に合うスポーツを見付けると言うことは重要なことだ。国にはそうした場を作って欲しい。スポーツテストをして、その結果を専門家が見てくれてどういうスポーツに進むべきかの指導をしてくれる場だ。高校生のスポーツは素晴らしいと思う。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

台湾有事はない

2023-08-24 04:32:51 | Peace Cafe


 石垣島に住んでいると言うことなのだろう。東京に行くと、絵の友達などから「大丈夫ですか」などと聞かれることがある。思わず何がと答えてしまう。世間には明日にでも、中国が台湾に軍事侵攻するのだろうと、思い込んでいる人がいる。

 悪質な報道機関の洗脳報道によって、かなりの人が本気で中国が軍事侵攻するだろうと思い込まされている。絶対にないので、何の心配もする必要が無い。中国はそれほど愚かな国ではない。ロシアのように計算が出来ない国ではない。北朝鮮ほど幼稚な国でもない。

 エセ報道の世論の誘導というものが、これほど力を持つ物だとは思わなかった。戦前の勝った勝ったの提灯行列の姿と重なる。かなり常識があると思われていた人が、本気で台湾侵攻があると思い込んでいるのだ。不安という物は人間の神経を狂わして行く。

 私がいくら台湾侵攻ははないと言っても、たいした効果は無いのだが、何度でも「台湾侵攻はない。」と言わないではいられない。台湾侵攻を注目させているのは、アメリカの対中国への戦略なのだ。それに乗せられているのが、まさに忖度国家、腰巾着政府の日本なのだ。

 米中戦争の前哨戦はすでに始まっている。米ロは冷戦と言われたが、米中の戦争はサイバー戦争として始まっている。日本のようにサイバー攻撃に供えなどほとんど無い国から、アメリカの情報が抜けて言っている。ミサイル配備など余計なことをする前に、しっかりしたサイバー防衛体制を作らなければならない。

 自民党の元自衛官の髭の佐藤議員など、去年の間に軍事侵攻があると叫んでいた。他にもそういう議員が多数存在する。狼議員である。去年軍事侵攻が無かったのだからデマを流していた国会議員として追及されるべきだ。日本国民をあえて不安にしていたのだ。その予測がまったくはずれたのだから、議員辞職に値する。

 ところが、相変わらず議員辞職どころか、まったく反省もなく、蛙の面はなにをかけても感じない。台湾有事は近いと、間違った大本営発表を未だに繰り返している。こういう自民党の議員は、デマを叫ばされているだけなのだ。それで自民党で役職に就いている人が多い。

 そもそも根拠など不要だ。中国仮想的国論で世論に動かして、アメリカに対して忖度をしているわけだ。この人達のカラの頭の中を思うと、自民党議員の脳みそはデタラメに出来ているとしか思えない。中国はすでにアメリカとの戦争を始めているのだ。アメリカもすでに始めている意識だろう。サイバー戦争である。先日も日本の軍事機密に中国がはいりこんだという3年前の話を今頃アメリカは公表した。

 そんな物はなかったと政府は慌てふためいて火消しである。もしあったことさえ気付いていないとすれば、さらに問題だろう。現代の戦争は武力戦に成る前に、様々なことが行われる。本気で戦争をするならまずサイバー攻撃でインフラを破壊するだろう。

 アメリカは日本のITの遅れに恐怖を抱いたのだ。日本に軍事機密を渡せば、中国に筒抜けになるからだ。日本は同盟国として、忠誠を誓い機密をほしがる。軍事情報を望むのであれば、まず、サイバー攻撃の防御態勢を作れと言うことなのだ。

 ところが、日本はマイナンバーカードさえ準備できないIT後進国なのだ。アメリカとしても心配なところだ。到底サイバー防衛など無理だ。その能力もなければ、対策をする気持ちすらない。まず、人材がない。その上に政府には現在サイバー戦争が起きているという認識さえない。

 戦争と言えば、ミサイルが飛んでくると思い込んでいる、まるで80年前の日本軍の軍人頭そのままのような人達なのだ。戦争は経済戦争に始まる。すでに米中は経済戦争状態と考えても良い。アメリカ経済はこのままでは中国に追い抜かれる。その焦りが戦争に進みつつある。巻き込まれているのが、日本、韓国、台湾、である。

 台湾も、韓国も経済戦争の意識は高いし、IT能力も高い。アメリカもその点では心配なのが日本なのだ。日本は軍備と言えば、直接的な物ばかり考えるが、すでに経済戦争まっただ中なのだから、本気で国防を考えるとすれば、食糧の確保、情報の安全の確保、エネルギーの確保、物資の確保。それが国の真っ先の安全保障だ。

 軍事、軍事という前に、国の安全保障には何が具体的に必要なのかを考えなければ成らない。日本の軍人の頭の中は、軍事を強化するという意外のことは無いのだ。だいたいに軍事基地と住民の関係だって、何の対策も取られていない。対立だけが目立つ。力で住民を言いなりに出来ると思い込んでいるのだ。

 自国の安全を守るためにはもっとしたたかでなければならない。アメリカ一辺倒に見えてしまうだけでも不利だ。まず、日本、韓国、台湾の3国同盟である。経済連携を強めることだ。この3つが集まれば、アメリカとも、中国とも、台頭に渡り合える規模になる。

 そしてそれぞれの国の特長を生かして、安全保障体制を作り上げることだ。食料だって、半導体だって、3国で連携して行けば大分安全性が高まるだろう。そしてその3国で、連携して中国と平和的な交渉を始めることだ。中国が攻撃などする気を無くさせることだ。

 ウクライナは何故か平和交渉の機会を逃した。それはアメリカの差し金なのか、NATOの指示なのかは分からないが、ウクライナは強硬姿勢だけで、妥協を見せなかった。今とおなじ態度である。譲るところは譲る方が、今の状態よりもはるかに良かっただろう。

 そしてアメリカとその腰巾着政府は、沖縄を防人の島にしようとしている。あの台湾での麻生発言「戦う覚悟」など茶番劇のセリフだ。あの発言を讃えている自民党議員がいる。たぶん国民にも、自衛隊員にも、戦う覚悟など全くないことに、いらだっているような人種だ。

 中国が攻めてこない理由を挙げておく。中国は聡明な国である。利に賢い国である。今黙っていれば、1年ごとに世界情勢が有利になると考えているからだ。中国はあと5年は経済成長が続く。不動産投資が破綻しても、日本よりも経済成長の余地が大きい。

 愚かな自民党議員などは、10年も前から、明日にでも中国経済は破綻すると叫び続けてきた。この10年アメリカはそんな馬鹿な予測をだれもしない。中国経済はアメリカを追い抜くだろうと予測してきたのだ。そしてその対策をしているのだ。

 また、世界情勢も第3世界が経済成長をし続けている。アメリカを中心とした、自由主義勢力は衰退気味なのだ。中国の一帯一路政策も当初の勢いは失い始めはしたが、中国の友好国は増加している。通貨も徐々に国際的な評価を受け始めている。

 こうした経済情勢から、あと5年すれば自然台湾は中国よりになると考えているだろう。軍事侵攻を考えるほど愚かなはずがない。ロシアは5年先にはウクライナがNATO入りしていると考えて焦ったのだ。中国の台湾侵攻はないと断言する。もしあれば、責任を取ってこのブログは止めても良い。まあ他の人にはどうでも良いことか。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アトリエカーが来た。

2023-08-23 04:14:48 | 水彩画


 待望のアトリエカーが来た。軽トラックの上にアトリエを乗せたものだ。事故で車が大破して、新しい車に変えた。石垣島で車を探したのだが、どうしても見つからない。そこでネットで車を探して、大分の車屋ドイというお店から取り寄せた。

 最初は沖縄本島で車は見つかったのだが、何度かやりとりしていたのだが、どうもあるとか、無いとか、車の様子が不明瞭で諦めた。次に鹿児島のお店で車は見つかったのだが、契約直前になって様々な費用が追加され、かなり高い物になってしまったた。不安になり止めた。

 そして、大分の車屋ドイさんにたどり着き、電話で色々聞いた。実に誠実に答えてくれた。こういう人なら大丈夫だと決めた。石垣島では必要なさび止めも、特別に縫って頂くことが出来た。石垣島での登録など、こちらの司法書士にお願いして、すべてを万全に考えてくれて、対応してくれた。

 安心して納車を待つことが出来た。高い買い物なので、安心が何よりである。このお店は電話だけで安心できる、素晴らしいお店だった。車を購入しようとしている人にはお勧めできるお店だ。と言っても、私は電話だけのことなのだ。電話の声でこの人なら大丈夫と分かったのだ。

 40日間軽トラアトリエではない場所で絵を描いた。これはもう何十年ぶりのことかも知れない。慣れるまで上手くはゆかなかったのだが、機械小屋で描けたので幸いなことだった。風があれば強烈な暑さも何とか忍ぶことが出来た。また車で描こうと準備しているのだが、これがどうもすぐには出来ない。

 小田原に9月初めから、18日まで行くので、帰ってきたら来るまで再開しようと考えている。もうしばらくは機械小屋で描こうかと思う。やっと慣れた場所から移るというのが案外に難しいのだ。おかしな物だ。機械小屋はなかなか良い環境だったのだ。

 アトリエカーの新しい軽トラはなんとなく運転席が広くなった感が時がある。おなじはずなのだが、少し感触が違う。色々スイッチの様子も違う。おなじ軽トラでも少しずつ変わる物のようだ。ともかく新車になったのだから、事故をなんとか我慢できる。

 あの事故以来、かなり安全運転になった。2度と交通事故は起したくない。アトリエカーで昔描きに言った気に入った場所をゆっくりと巡ろうと考えていたのだが、これはもう出来なくなった気がする。石垣島で絵を描けるのだから、欲張る必要は無い。

 ゆっくり石垣島を巡って絵を描こうと思う。午前中はのぼたん農園に行き、午後は石垣島の他の場所に行って絵を描こうかと思う。最近はのぼたん農園だけで描いていた。少し場所を変えるのも良いかと思う。やはりそれも水彩人展が終わってからにする。

 絵を描く場所を変えることは、私には随分大きなことになる。絵を描いているときの気持ちが、一番重要なことになる。禅堂で坐禅を組むことと、家で坐禅をするのでは違う。アトリエカーの中で描くのが良いのだが、アトリエカーを泊める場所も大切なのだ。

 今度はアトリエカーの中に積んであった。物はほとんど機械小屋の絵を描いていた所に下ろした。絵の具や筆である。車を軽くしたくなった。アトリエカーは随分重いらしい。重すぎるのも車の安全には問題があると思うようになった。アトリエは何もなくともかまわない。

 絵を描く最低限の物だけを置いておくことにした。何日か描いてみたが、問題は無いようだ。広くなった分却って良いようだ。絵を描く台を置いてみようかと思う。カリンの李朝様式の低い台がある。高さ10㎝ここで描いてみることにする。床に置いてと言うのでは少し絵の位置が低いようだ。

 これで低いようなら、20㎝の台もある。こちらに変えるて見るつもりだ。絵を描く高さが気になって仕方がない。床に座って描くのは悪くないのだが、絵がどのくらいの高さが良いかが気になる。案外に難しい。やってみてから変えることにする。

 椅子はゲーミングチェアーを最初から使っている。座椅子のような高さの物で、座り心地は悪くない。車が平らではないときには座椅子の脚の下に板を入れて傾斜を調整して使っている。一日中座っているのだから、椅子は重要になるが、今のところこの椅子に満足している。

 安い中国製の物だったとおもっていたのだが、座り心地には何の問題も無い。機能も問題は無い。再度調べてみると、AKRacing ゲーミング座椅子と言うもので5万円近くしている。こんな高い物を買った覚えはない。似たような者が色々あるから、違うのかも知れない。

 売り出しの色々キャンペーンで安売りしていた。安売りに弱いのだ。コメントを書くと1万円返金というような企画もさらにあったので、早速組み立て写真入りの良いことコメントを書いて、返金してもらった。椅子をイリライニングにして、寝ていることもあるが身体のどこかが居たくなると言うようなことも無い。3年は使っているがどこも壊れない。丈夫な物だ。

 これだけ使っていて、ヘタラナイのだからなかなかの椅子だ。小学生が喜びそうなデザインなので、絵を描く為には見た目が落ち着かないくらい悪いので、大島の着物を掛けて地味な感じにしている。着物の古着はいくらでもあるのだ。気分を変えて、着せ替えてみようかと考えている。

 9月も半ば過ぎになれば、アトリエカーの良い季節になるだろう。石垣島のあちこちで絵を描いて歩こう。大里の奥から北部辺りまでまだまだ描いたことの無い地域が沢山ある。北部は耕作放棄地が広がっている。今、畜産が苦しくなってきているから、牧場の閉鎖もあるらしい。

 地元の農家の方が、どこか気の毒で様子など余り聴けない雰囲気だと言われていた。開拓で出来た集落が、廃村になって行く流れにある。何とかこれを食い止めるためには政策以外にない。どうせ作らなければならないなら、自衛隊基地とか、ゴルフ場とかは北部地区にすべき物だった。

 何故か、新しい様々な計画は飛行場よりも南部に限られている。せめて行政が主導できる物は北部に誘導すべきだろう。これは開発事業が利権に関係していると言うことを表している事が見える。かつて不動産投資で北部地域も色々あるらしい。

 北部の方が景観としては魅力的な地域だ。これからアトリエカーで北部を巡って絵を描くつもりだ。北部で落ち着いて絵を描いたことは一度も無い。心機一転のつもりで、9月後半からは北部の耕作地を描いてみることにした。考えている内に、楽しみが広がってきた。


 
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

NHKの視聴料は払いたくない。

2023-08-22 04:23:43 | Peace Cafe


 NHKの視聴料を払いたくない。ニュースの質が劣化している。民放にはスポンサーが必要だから、ニュースがスポンサーにおもねり偏向すると言うことになるが、NHKのニュース内容と、民放の内容に大きな違いは無い。つまりNHKのスポンサーは政府と言うことになるだけだ。

 NHKはニュース専門放送になり、批判精神のある質の高いニュースを流す必要がある。日本の世論が本質的に問題を考える、情報を提供すべきだ。日本を良い国にするための報道とは何かを、NHK自身が研究して行く必要がある。日本の未来を切り開く情報発信を真剣に取り組む放送局になって、はじめて公共放送の意味がある。

 それが出来ないのであれば、今そうなのだが、視聴料をとるべきではない。大本営発表をやっているような放送局に、お金を払わなければならないのでは耐えがたい。民放と同程度の質の報道では、わざわざ公共放送を名乗るほどの意味は無い。NHKも調査報道を批判精神で行っていた時代はある。

 ニュース以外で行うべきものは、教育番組だけである。学校に通わないでも教育を受けられるようにすべきである。日本の文化を育てる報道と言うぐらいの気持ちで、やってもらいたい。ネット情報より一段上の情報まで調べ尽くしたの質の高い報道である。

 NHKは批判精神を失い、調査報道をしなくなった。事なかれ主義の政府への忖度放送局になった。NHK自身が主張する、公共放送の意味を失っている。この時代情報はネットで様々伝わってくる。無料情報が山ほどある。それを国民それぞれが自由に自ら選択できる。NHKに偏向して選択してもらう必要は無い。

 音楽やドラマではいくらでも有料チャンネルがある。もしNHKもやりたいなら、組織を分離して有料チャンネルに加わればいい。どうしても料金を取りたいならば、放送ごとに課金してお金を取れば良いだろう。見たいものが見たい番組をお金を払い見る。

 それが資本主義社会の原則だろう。良い作品が価格で評価されると言うのが資本主義経済。教育やニュースはそうは行かないから、公共放送として別枠で行う必要がある。競争の原理から逃れているNHKは独裁主義社会の国営放送と同じようなものになった。アベ・菅政権の得意技であった人事でNHK精神を潰したのだ。

 作りたい番組を作るのにお金がいるというなら、スポンサーか、見る人からお金を取るほか方法はない。それが資本主義社会だ。高校野球も大相撲もNHKだけが放映するのだが、これも本来ならNHKとしては止めるべきものだ。見たい人がお金を払い、放送が成立しないならば、放送を止めれば良いだけである。

 今の視聴料は余りに理不尽である。ともかく異常と言えるほど高い。せいぜい月額300円くらいだろう。これほどの不正義を厚顔無恥に続けている組織が、まともなニュースを報道できるとは思えない。批判精神を持つ、調査報道を公共放送を名乗るNHKこそ行うべきだ。

 それをやらないからNHKは時代の使命からこぼれ落ちたのだ。国民はもうNHKを必要としていない。政府を忖度している放送は、害があるだけだ。今のNHK組織は、おかしくなっていることに気付くことすらないのだろう。意欲のある人はNHKを去ってしまったのだ。

 ただNHKは自己保身のための主張が、視聴料がまるで義務のような言い草だ。ところがこの公共放送論にはまるで根拠がない。10年前ならともかく、インターネットがこれだけ浸透した時代に、もうテレビは誰もが見る物ではなくなっている。若い人達にテレビ離れは顕著なことだ。ここが一番肝心な部分だ。

 個人的な話で申し訳ないのだが、石垣島もNHKの記者はいる。しかし、お願いしても「のぼたん農園」は取材をしない。何故だろうと考えている。取材依頼を沖縄本島の那覇支局に出しても価値がないと言うことなのか、取材に来ない。ひがんでこのように書くのではなく、やはりおかしい。

 農園を見た上で情報価値が低いというのは良い。農園開設2年が経過しても、お願いしても、記者が一度も見にも来ないというのはどうだろうか。水牛による農作業を行っているのは日本では唯一「のぼたん農園」である。「ひこばえ農法」を日本で唯一行っているのものぼたん農園だけだ。「アカウキクサ農法」を行っているのも日本でのぼたん農園だけだ。見てみようという興味が無いのでは調査報道は出来ない。

 取材価値は少しはあるだろう。農場を見た上で、くだらないと考える判断は良いが、取材もしないで、切り捨てるとすれば、それは公共放送と表明する者の取材姿勢であろうとは思えない。記者が石垣島にいて島を日々取材しているのだから、意図があって避けているような気がして成らない。

 農業の未来への展望をもたない、公共放送だとしたら視聴料を払いたくない。それなのに払わなければ犯罪者になると脅かしている。ますます払いたくない。過去に理由があって払わなかったことはあるが、今は払っている。払うにしても気分はかなり悪い。

 放送法にのっとりNHKは番組制作をしている。その目的を転記すると。
  1. 一 放送が国民に最大限に普及されて、その効用をもたらすことを保障すること。
  2. 二 放送の不偏不党、真実及び自律を保障することによつて、放送による表現の自由を確保すること。
  3. 三 放送に携わる者の職責を明らかにすることによつて、放送が健全な民主主義の発達に資するようにすること。
 1,はすでに使命を終えた。インターネット時代である。
 2,政府の圧力によって、表現の自由を曲げた。
 3,NHKは健全な民主主義を育ててはいない。

 以下のようにも決められている。

豊かで、かつ、良い放送番組の放送を行うことによつて公衆の要望を満たすとともに文化水準の向上に寄与するように、最大の努力を払うこと。
全国向けの放送番組のほか、地方向けの放送番組を有するようにすること。
我が国の過去の優れた文化の保存並びに新たな文化の育成及び普及に役立つようにすること。

 石垣島で行おうとしている、伝統文化の継承であるのぼたん農園の活動はNHKとして、伝えるべき内容を含んでいるはずだ。毎年石垣島から相も変わらず、日本一早い稲刈りですと伝えるばかりでは、不足であろう。もう少し勉強してもらわないとならない。

 日本一早いというか、遅いというのか、それこそのぼたん農園ではないか。何しろ年3回の稲刈りで、しかも継続して行くのだ。他の民放ならそれでもかまわない。NHKが放送法に則り行われているというのであれば、その取材は幅広く、まんべんなく行うべきだ。

 
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

74歳の誕生日を迎えた。

2023-08-21 04:12:07 | 暮らし

3番田んぼのミルキーサマーで、ひこばえの穂が良くなってきている。

 74年前の夏、笛吹市藤垈向昌院の味噌蔵の上の、中二階で私は生まれた。東京に嫁いでいた母が、私を産むために実家の向昌院に里帰り出産をしたのだ。当時の私の家は、三軒茶屋で銀座洋装店という生地屋と婦人服を仕立てる店をやっていて、かなり繁盛をしていた。

 忙しい上に年子の兄がいたため、母のお産を三軒茶屋の家で行うことは不可能だったのだと思われる。また、母のお母さんは明治時代の看護師で、母のおばさんはお産婆さんだった。子供が生まれるためには万全の環境だったのだろう。当時は病院でお産をする人は東京でも希であった。

 戦前は銀座洋装店という名前の通り、明治の女傑のような祖母が、銀座で始めた店である。淡谷のり子さんがお客さんだったと聞いた。当時の住まいは渋谷の松濤にあった。敗戦後店舗を探して、戦災で焼けなかった三軒茶屋で新しく店を始めたのだ。

 物があれば売れるという戦後の闇市時代で、父はブローカーのように、全国の織物問屋を歩いて、生地を手に入れて商売にしていたようだ。生地も自由に流通は出来なかったらしく、それを旨くやるのが商売だったらしい。テキ屋の親分がよく挨拶に来るような人だった。

 私の記憶のある、昭和30年頃でも子供の私が店に入ることも出来ないほど、店は人であふれていて、大いに繁盛していた。父はその店の商売で得たお金で、次々と土地を買い、ビルを建て行く。戦後の闇市世代の生活力に満ちた人だった。余りの多忙な生活だったために、私は母の実家の向昌院に度々置かれていた。

 それは小学校になっても続いていて、境川小学校に通ったことも記憶にある。学校がある季節なのに、行かないでいるのは良くないことだと村役場に勤めていたお爺さんが考えた結果である。私は山の中での冒険に夢中でそれどころではなかったのだが。

 親元を離れた御陰で素晴らしい子供時代を送ることが出来た。親元を離れることが少しもつらいことではなかった。むしろ向昌院にいつも行きたかったのだ。お爺さんは孫には甘いからだと言われていたが、実際のところは子供の頃から禅堂で育ったかなり厳しい人で、私の教育に本気できびしかった。

 子供として行うべき暮らしを向昌院で十分に出来た。このことがすべての原点になっている。夏の辛い草取りをやらされるわけだ。草取りが終わるまで、他のことは何もやらせて貰えない。この辛い仕事を5,6歳の子供に徹底してやらせるのだからすごい。今思えばこれほど有り難い教えはなかった。

 そのことを、子供ながらによく理解していたので、向昌院に行きたかったのだ。昔の禅堂では自給自足だったんだと、いつも言いながら農業をしていた。ミツバチを飼い、炭を焼き、何でも自給する生活だった。私に生活の仕方を教えたいという気持ちもあったはずだ。

 坊が峰の開墾作業など、今も思い出すぐらいの夢と冒険に満ちていた。開墾をすれば、畑が貰えるというので子供の私まで頑張ったのだ。今も絵に出てくる坊ヶ峯は畑の区画で整然としている。御滝の森の脇を流れていた境川をせき止め、ダムを造り、大きな泳げる淵をこさえ、筏を浮かべて一夏楽しんだこともある。

 この時大きな石を持ったまま、10mある石積み上から転落した。不思議にどこも怪我をしなかった。どこも痛いところさえなくふわりと舞い降りたようだった。御滝の森の精霊に守られながら子供時代を過ごしたのだ。御滝神社の神主も祖父が兼ねていた。

 御滝の森にはこぶとりじいさんのほこらのある大木があり、夕立が来たらその中で雨宿りをした。夏でも12度までしか上がらない、霊験あらたかな泉がいくつもあった。その泉を利用して精神病の患者さんを向昌院では預かっていた。その森の大きな木は伊勢湾台風の時にあらかた倒れてしまった。明るくなった御滝の森から、精霊が消えたことが分かった。

 あの子供時代の向昌院の暮らしが余りに楽しくて、その後自給の生活に入ったのだと思う。楽しかった理由は東京の三軒茶屋の都会暮らしが、つまらなすぎたと言うことなのだろう。中学時代も、高校になっても学校が休みの時は必ず向昌院に行っていた。向昌院には三軒茶屋から自転車で行ったことも、歩いて行ったこともある。

 歳をとるとはどうも昔のことを思い出すことのようだ。誕生日だからか思い出が蘇る。74歳を半分に割ると、37歳である。半分の37歳までは画家を目指して、東京でもがいていた。画家になることに挫折して、後半の37年間は開拓から、自給生活をしてきたことになる。

 自給しながら、絵を描く暮らしである。もうあれから半分の時間を折り返したのだと思うと長いことだと思う。そして、74歳からあと26年あればと思う。100歳まで絵が描きたい。絵がいくらかは進んでいるからである。どっちに進んでいるかはよく分からないのだが。

 100歳まで進み続ければ、それはそれで満足だ。良くならないでも、変化して行ければそれも良い。今のままでは終わるわけには行かない。これが自分の絵だなという絵が描けるまでは終わるわけには行かない欲である。今は自分の絵に向かってもがいているわけだ。

 と言っても楽しく絵を描いているだけだなのだが。苦しんでいるわけではない。石垣島でいくらでも絵を描ける暮らしが出来る。大満足なのだ。計画通りである。まさかのぼたん農園をやるとは思わなかったが、素晴らしい崎枝ののぼたん農園の場所で絵が描けるわけで、渡りに船だったわけだ。

 自分の命の流れを見極めることは大切だ。石垣島に来ることもその流れを見極めたことだった。先日の自動車事故だって、まかり間違えば死んでいた。居眠り運転をしていた若者の命を助けたる為の事故だと思い、我慢した。しかし、まだやらせて貰えることが残っているから、死なないことになっていたのだと思う。

 中途半端で終わる人生もあるのだろうが、精一杯生きている人生は完結が貰えるのだと思っている。だから全力で生きて、終わりまで行ってみたい。努力不足ならば仕方がないが、やれることはやりきって残りの時間を生きたい。幸いなことに身体は元気だ、気力もある。

 のぼたん農園の冒険は佳境に入ってきた。冒険の方角が見えてきたのだ。遠くに「ひこばえ農法」「アカウキクサ農法」という2つの到達しなければならない目標の島が雲間に見え始めた。最初はスマトラ島の「サリブ農法」だったのだが、目的地が違っていた。

 「ひこばえ農法」は中国では1800年の歴史がある。「アカウキクサ農法」はベトナムで1400年の歴史がある。水田は稲作は東洋4000年の循環農業の奇跡だ。稲作が東洋文明を支えたのだ。古代文明ではトウモロコシ文化も、小麦文化も途絶えたのだが。水田稲作文化は素晴らしい歴史文化を生んだのだ。

 この素晴らしい農法を確立して、日本の衰退の中で、新しい文化を構築するための、自給農業の確立を目指したい。食料を自給することで、資本主義崩壊の中でどうにか生き延びることが可能だと思っている。のぼたん農園の自給は100㎡の田んぼで、1年に50キロづつ3回150キロのお米が手に入ることが目標である。

 何も持ち込まず。お米が永続的に生産できる農法である。2年目でこの農法の大きな枠組みは見えてきたが、水管理、土壌管理、病気対策、虫害、ネズミ害、これからの課題である。身体が動く年限はせいぜいあと7年ぐらいだろう。80歳まで田んぼが出来れば何とか技術の完成が出来るだろう。

 この7年間に農法を完成して、誰でもが再現できる技術に仕上げたい。この大冒険の到達点が、見えてきている。そこまでは必ずやり遂げるつもりだ。身体を動けるように、まだまだ整えて行かなければならない。今のところオムロンが言うところでは43歳である。

 良い仲間がいる。小田原でも多くの人に助けて貰えた。そして、石垣島でも幸いなことに、35名の冒険の同志がいる。これでやり遂げられないはずがない。74歳の幸せである。まだ暑い最中ではあるが、稲刈りが間近である。先ずは日本で最初のひこばえ農法の稲刈りだ。沖銀の人達が、SDGSで来てくれるそうだ。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

第174 水彩画 日曜展示

2023-08-20 04:35:38 | 水彩画
第174 水彩画 日曜展示

10号前後の作品。







326「海岸の家」
2023.8








327「青梅の川の公園








328「名蔵の田んぼ」
2023.8








329「川のほとり」
2023,8








330「名蔵の田んぼ」
2023.8








331「半島」
2023,8








332「のぼたん農園」
2023,8






333「溜め池」
2023.8


 今週は風のない日が多かった。風が無いと屋根のガリバリューム鋼板がまるでフライパンのように熱くなり、機械小屋の中に入られないことになる。早くアトリエカーが直らないかとそればかり考えていた。アトリエカーだと日陰に入り絵を描くことが出来る。

 アトリエカーが出来たと電話があった。これで助かった。これからは午前中はのぼたん農園で描いて、午後はどこかに描きに行こうと考えている。少しのぼたん農園を離れて描くのも必要だと思っている。水彩人展にもう入るから、水彩人展が終わったならばそうしようかと思う。


 
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

移民、棄民、そして廃村、

2023-08-19 04:54:32 | 暮らし

やったぞ、ひこばえの立派な穂。

 日本から海外に移民された方々のことはいつも気になっている。私の父の叔母に当たる人が、アメリカのサクラメントに移民した人と言うこともあるかもしれない。移民の話は子供の頃から時々聞かされていた。貧しいから、日本の山村では移民するほか無かったと言う話である。

 山村農家では一人しか家を継ぐことが出来ない。長男さんである。子供の頃から長男だけが別格に跡取りとして育てられていたのだ。他の男の子は家を出るか、その家の小作人のような暮らしをするほかなかった。山村では農地を拡大することが出来なかったからだ。

 家を分けることが出来ない江戸時代の停滞世界では、人口増加が極めて少ない。姥捨て伝説であり、子供を間引き殺してしまうお話しが伝わっている。実際の所どれくらいの事実かは分からないが、そういう不安を抱えた社会だったことは確かだ。

 それが明治時代に入り、人口爆発が起こる。村を出てと会に移ることが可能になったからだ。都市が出現し、労働者を大量に必要とした。現代の人口減少であえいでいる姿から思えば、隔絶の感がある。結局、日本の人口爆発は、1回目が江戸幕府の崩壊で社会の大変革。2回目が明治政府を引きずって敗戦した軍国政府の消滅後。

 政府がなくなって、暮らしが良くなりそうな予感がして、日本人の中に希望が湧いてくるかのようだ。そして、明治時代に入り、多くの日本人が追い出されるように日本と言う国から出て行った。海外雄飛、ふるさとに錦を飾る。まだ一族から脱したわけではない。家族主義を残している。

 日本からの移民の実態は棄民だった。満蒙開拓のように、帝国主義の先兵の移民奨励もある。そして戦争を行い敗戦した。引き上げの悲惨。ブラジル移民の敗戦を信じない人々。様々どうしようもないことがあるのだが、日本という国家が同胞を棄民したという歴史的事実ほど、深刻なことはない。

 私は日本人が好きである。素晴らしい民族だと思っている。しかしその政府は大切な国民を棄民したと言うことは忘れてはならない。この事実を前に、言葉を失う。政府は、海外に日本人を捨てようとしたのだ。何という馬鹿な政府なのか。国土開発の政策が持てない無能な政府だったのか恐怖と怒りに震える。

 明治政府の能力の低さは、悲しいほどの物であったと思う。それは薩摩や長州という藩閥政治の、程度の悪さである。その意味では江戸幕府の政治力の方がはるかに高かった。国民を捨てるなど考えないで、国土の中での調和を図ろうとしていたのだ。

 それが江戸時代の差別を生み、違った問題があった訳だが、国民を海外に捨てた明治政府の方針よりはましだろう。脱亜入欧などと言う、馬鹿げた思想によって道を誤った明治政府の幼稚さを哀れというか、悲しいというか、日本人の限界なのかと、呆然とするほか無い。

 あの馬鹿げた明治政府を、お手本にしているという自民党という政党が日本の政治を長年担っているところに、日本の社会の限界を感じざる得ない。同時にまともな野党が生まれないことにも限界があるわけだ。日本人の保守的な体質はいつかはなくなると期待していたが、日本人にはその能力がなかった。お上が大事な忖度民族なのだ。

 日本は明治維新で間違った方角を目指す。日本人が、富国強兵、帝国主義、戦争、植民地。そうして棄民のみちを歩んだ。移民という名の下に、日本人を捨てたのだ。棄民を奨励しなければならなかった政府は、大日本帝国を目指して、侵略戦争をして、台湾、朝鮮、満州と植民地を形成して行く。

 そして敗戦に至る。多くの日本人が海外から引き揚げてくる。すべてがご破算になった日本では食べるものもない、住む家すらない。そんな状態の中人口爆発が起こる。山村でも戦争から引き揚げ者や開拓民の帰還によって、人口が増加してゆく。全国の中山間地に学校が出来てゆく。

 そして今廃校が進んでいる。藤垈の周辺の里山にもあらゆるところが開墾され、畑になった。麦を作ってほうとうを食べてしのいだ。ご飯もお米半分麦半分。麦ご飯のすえた匂いはどうにもいただけなかった。私は朝昼晩とほうとうを食べた。甲州赤小麦である。今この種を探しても見つからない。この長い麦わらで屋根を葺いたのだ。

 人口の増えた山村では、何時までもあふれかえって暮らしていることは出来ない。都会に出て行くことになる。そして、戦後開拓移民で中南米に勇渡する人達が出てきた。国内で開拓移住が始まる。沖縄では米軍による接収で強制移住が起こる。またも棄民である。ブラジルでとても良い暮らしをしているという、うまい話が子供の私にも伝わった。それを聞いてさらに移民をする人達がいた。

 藤垈部落は多くの人が暮らせない、とても貧しい村だったのだ。そのまま人が暮らしていることは出来なかったのだ。都会だって人があふれていて、小学校は60人学級の5クラス編成。だからといって教育が不十分だったとも思わない。おじさんも母親も教師だったのだが、過重労働という話は聞いたことがない。

 農家の子供は小学生になれば何らかの仕事があった。私は風呂焚き担当である。薪を山から取ってきて風呂は焚く。風呂桶の水汲みもバケツでやらなければならない。好きな仕事だった。中学生になれば普通に労働力だったが、もちろん違法ではなかった。

 後に聞いた話ではあるが、向昌院にお墓のことで見えた女性がいた。村にあった家は無くなってしまっている。両親のお墓を100万円あるので作りたいという話。その人は子供の頃に売られてしまった人だった。その人のその後の暮らしを知っていた祖父は、そのお金は貰えないので、お寺でお墓は直して供養してあげることにした。

 厳しい山村の暮らしなのだ。高度成長期はそうした敗戦によって生じた苦しい日本人の暮らしがバネになって生まれた。村では都会で稼いだ人が実家を直したという事が良くあった。3Kどころか、何でもやることの出来る人の方が稼げると言う時代だった。

 日本の山村が失われて行く時代がきた。肉体労働をやる日本人がいなくなって、海外から技能研修生に来てもらわなければならない時代。私の74年の間にも、大きな変化が起きた。豊かなはずの日本人の山の暮らしが、暮らすことも出来なことになり、放棄されて行く。全国に1000以上のかつては学校のあった廃村がある。何かが間違っている。

 私にもう一度の人生があれば、山の中で開墾生活をしたい。あれほど充実し手応えのある生き方はない。安心立命の暮らしに向かう暮らしはない。今は石垣島で「のぼたん農園」を最後の力で作っているが、十分に働けないことが残念で仕方がない。それでも多くの人が一緒に働いてくれる。

 みんなの力を借りることが出来るようになったと言うことも、一歩前進なのかもしれない。一人で出来たら、みんなでやる。これが自給生活の鉄則である。自給生活から暮らしを見直してみるべきだ。日本にはもったいないような、自給に適した素晴らしい場所が山ほどある。そうか、山には日本がある。
 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

マイナンバーカードが悲しい日本

2023-08-18 04:23:21 | 暮らし
トラックターロータリー台車

 マイナンバーカードを健康保険証と一体化して、健康保健証を廃止すると、政府は決めた。これはカードが出来たときとは、そもそも約束が違う。最初から健康保険証を廃止すると言えば、マイナンバーカード阻止のために、入らない人がかなり存在したはずだ。

 保険証の廃止は、国民総背番号の入り口だと見られるからだ。健康保険に非加入というわけには行かないから、マイナンバーカードは強制加入になったような物だ。最初からそう主張しないところが、政府の汚い手口だ。まるでAmazonや、グーグルのやり口だ。そういう時代なのかな。

 ところが、その前提となる日本の行政にはマイナンバーカードを運用するだけの能力が失われていた。この事態は日本人の劣化に由来すると考えるほかない。河野洋平氏がいくら吠えても、能力がないのだから手に負えない。この劣化は日本の停滞の表れなのだ。台湾にお願いして、やっていただいたら良かったと嘆くしかない。

 民主主義国の資本主義が、絶対主義国の資本主義に、その決断の早さで負けたのだ。そこにアメリカの焦りが生まれた。中国の国家資本主義が民主主義的手順を省略するために、対応が早くアメリカとしては競争に敗れる不安が起きた。それは日本が国民の了解を得ながら、IT化しようとしても、国民監視になるという反対意見が強く出たため、ここまで後れを取った原因である。

 実際に先行している国は国民の徹底した監視をナンバーカードと同様な仕組みで行っている。反政府的な行動は逐一監視されているから、独裁政治の維持が可能となっている。革命の芽が芽生えないように、徹底した監視国家なのだ。その自由のない中国が、最も競争に有利という現実をどうするのか。

 コロナの時も日本の行政には、手続き全般をこなすだけの能力がないから、民間企業に丸投げした。そして、政府と連んだお抱え企業がぼろもうけをした。政府に能力がないのだから、仕方がないから諦めるほかないと言うことで、問題はほぼなかったことになった。日本も随分と哀れな国になったと思った物だ。

 今度はマイナンバーカードを作る能力がなくて、民間に委託したら、そのデーター入力を中国企業に丸投げしたというのだ。そこからデーターの流出が起きたと思われる。しかし、政府はその詳細については説明もなく、流出は無かったと言うことになった。

 それから日本でやるようにと言うことで、やってみたら出来ないのだ。次々落ちが出てきて何と、健康保険証との紐付けが40万人分と言う膨大な数が出来ないことが分かった。これほどダメなら、全部がだめと言うことでは無いのか。どうにもグズグズである。

 政府は延期をためらっているが、もうそれどころではなく、やりたくても始めることすら出来ないと言う事が見えてきた。岸田政権のあきれ果てた無能ぶりが言われるが、実はそうではない。もう日本という国家は劣化によって、IT化に完全に乗り遅れてしまったのだ。

 それは台湾でも韓国でも日本の経済を追い抜いたと言うが、IT化で先行し逆転が起きたのだ。社会がIT化して行く中で、日本だけ取り残された。それは良い民主主義のためだったのかもしれないのだ。それが政府の優柔不断の決断力不足に繋がった。すべてが後出しじゃんけんである。

 偉そうなことは言えない訳で、私自身がIT社会から取り残されている。よたよたついて行こうとしている状態である。ついて行くために多大な時間を使わされている。何しろドコモの契約を変えるために、東京の三軒茶屋のドコモに行ったぐらいだ。八重山のドコモショップは閉店させられた。

 日本政府のIT化の状態が74歳になろうとする老人とおなじでは困るだろう。何故、IT化に乗り遅れたかと言えば、やはり成功体験なのだろう。うまくやってきた今までの方式を無理に変える必要を感じないのだ。74までこのやり方でやってきたのに今更なんだと言うことだろう。

 ソニーのタブレットで電話が出来たときは問題が無かったのだ。ところがこれがおかしくなった時には、もう電話が出来るタブレットは中国製だけっだった。中国製に変えたら、アメリカの圧力でアプリが入らない。あれほど便利な物をソニーが何故止めたのかは理由が分からない。あれなら年寄でもメールもラインも楽に打てたのだ。情けない限りだ。

 今まで後れを取っていた国であれば、早くIT化をして、追いつけ追い抜けと言うことの、合意形成が早い。日本はそれが出来なかった。出来なかった理由のもう一つは政府や行政に信頼感がなかったのだ。政府は国民総背番号をやって、国民をあらゆる側面から支配しようとしていると疑心暗鬼になったのだ。

 同時に政府にはマイナンバーカードの情報をきちっと管理する能力がないだろうと不安視する人も多かった。こちらは予測通り、ひどい漏れが次々に起きた。政府はその責任の取り方がまともではない。本来賠償が必要な事故だ。他人にマイナンバーカードで住民票を勝手に取られる人まで現われたのだ。

 日本人の劣化は残念ながら進んでいたのだ。こうなったら仕方がないので、お抱え外国人を台湾や韓国から来ていただいて、しばらく指導をお願いするほか無いだろう。私にはそれほど深刻な事態だと思える。このまま行けば、停滞国から、後進国にさらに格下げになる。

 一番の深刻は、政府にはその深刻さが理解できていないと言うことにある。政府の力で、あるいは電通やパソナの力を借りれば、またうまい汁は吸われてしまうだろうが、何とかなると未だに思っているのだ。本当のところではもうIT化はどうにも成らないところにある。

 IT化の一番の目的は銀行口座との紐付けであろう。政府が個人の資産や、お金の出入りを完全に把握する事なのだろう。政府の仕事の主たる物は税金に取り立てと、税金の使い道である。中国であれば、個人が資産をごまかそうとすれば、スイスの銀行にでも預けるほか無い。先日そういう中国の高官が拒否されたとニュースにあった。

 中国の経済が良いのは政府が国民の資産を完全把握しているからだ。ある日幹部が突然消える。当然日本政府もマイナンバーカードでそれを実現したいのだ。手順に従って、あらゆる口座がマイナンバーカードに紐付けされることになるのだろう。そしてその情報は権力者だけが知るところとなる。

 そうなれば、金持ちの弱みを権力は握ることになる。これがマイナンバーカードの本当の目的であろう。日本の金持ちの中に存在する、脱税的人物が特定できるだろう。当然政敵の資産も権力者は抑えることが出来る。必要なときにその切り札を使うだろう。

 
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

絵を描いている状態

2023-08-17 04:56:38 | 水彩画


 絵を描いているときの状態を思い起こすのだが、訳の分からない状態。絵の世界に没入していると言うほどでもないのだが、何やらあやふやな感じなのだ。独特の状態なのだと思う。絵を描き出すと、大脳的には行き場を失い機能しなくなる。だから思い出す事ができない状態なのだ。

 神がかりの人間ではない。ごく当たり前の普通の科学を重んじる人間である。だから絵を描いているときにはこんな感じで描いているなとは思うのだが、その感じを文章にしてみようと思い出すと、まったく言葉としては思い出せないのだ。何故なのだろうか。この状態がどういう状態か脳科学者に聞いてみたい。

 ソンナエライ先生には縁もゆかりもないので、確かめる術もない。それでも良い絵を描こうとはしていないと言うことは確かだ。自由な状態で絵にしたがい、筆に従うようにしたい。そう考えているらしい。だから画面に反応しているだけなのだろう、こういう絵を描こうとかは思うことはない。

 富士山を描いていたのが、何かのきっかけで菜の花畑の絵になるなど良くあることなのだ。たまたまそこに引かれた線から誘発されるように、絵が動き出す。動き出せば、その動きにできる限り邪魔をしないように、ついて行く。それだけなのだ。だからとんでもないことをしているに違いない。

 やっと分かったところを全部描いてしまい。もう描けるような所はないなと言うところで、一段落で息をつく。その息を着いたときに絵を眺めている。ボーとして、半眠りで眺めている。突然その先のことが浮んでくる、すぐに飛び起きてまた描き始める。

 描こうとすると、その気がついたこととは別のことをやり始めることが多い。どんどん壊し始めたりする。そこそこで来たのだから、何故メチャクチャのことをやってしまうのかは分からないが、どんどん潰していったりしている。描き継ぐ前には想像もしなかったような、とんでもないことになることが多い。

 それはそれでいいと思いやっている。始まってしまえば、半眠りで見ていたときのことなど、飛んでしまう。しかし、その時ああそうだと思うから始めたにもかかわらず、画面の前に座るとまるで違うことをやる。これはほとんどの場合そうなのだ。これも何故なのかは分からないが、何でもやるが任せることがいいことにしている。

 何が重要かは分からないが、ともかく絵を描く行為が重要なのであって、どんな絵を描くかは、ある意味たいしたことではないのだ。すべてを忘れて絵に没頭して絵を描く。それだけで良いと思っている。そうしていれば、いつかはきっと自分の絵という物が立ち現れるはずだと。これが悪い欲なのだ。

 何故そう信じるかと言えば、前よりは自分の絵と言える絵に近づいている気がしているからだ。あれこれ頭を使って描いていたときはまったく自由という物ではなかった。自由に描く事を、大脳が制限を加えた。これでは自分が現われるはずがない。何からも自由でありながら、絵が描かれているとと言うところまで行くことが出来るのかである。

 すこしづつだが、近づいているのではないかと、そういう希望的な気持ちがある。それは、このブログに載せている、日曜展示を見れば分かる。大半の人にはそうは見えないかも知れないが、肝心の私にはそう見えるのだから、問題は無い。了見違いであろうが、自分の方向に絵を描いて、努力していると思えるのだ。

 これはそうありたいという欲かも知れないが、今はそれを信じて日々描いて行くほかない。どこまで行くものなのかこの方法を貫くつもりである。まあ実に曖昧で、デタラメなことだが、絵を描くというのはそんな物だ。どこにも確信できる物などない。

 分かっているように描いている絵など大嫌いだし、くそ食らえである。りっぱにみえるような絵も嫌いだし、上手に見えるような絵は恥ずかしくて仕方がない。下手風に描くのもさらに嫌らしい。当たり前で、常識的な絵で良いと思っている。

 特別気をてらうような必要も無い。平凡な絵で十分である。当たり前で常識的な絵が良いと思って描いている。ただ私の平凡に従おうというのだから、それは人とは違うかもしれない。絵はそれぞれの人間の中にあるのだ。その自らの当たり前の絵に至らなければならない。

 一本の線を当たり前に引くことの難しさは限りない。上手そうな線は大嫌いだ。下手そうな線はわざとらしくて恥ずかしい。何が当たり前かは、これが当たり前の線だというように見えるまで、繰返し引く以外にない。繰り返している内に、意識しない当たり前の線になるだろう。

 そうでありながら偶然引かれた線ののように見えるのも最悪だ。線ははっきりと自分の意志を反映していなければならない。私の考えが線を通して表明されている必要がある。意志があり、私であり、それがごく当たり前で無ければ嫌なのだ。そういう線がいつかは引けるのかと思いながら線を引く。

 色もおなじだ、よさげな色は嫌だ。汚い色は尚嫌だ。ごく当たり前に、見える色を見えるように描きたい。それが難しくて困るだけなのだ。そうしたことがいつかは出来るはずだと思い、上手にならないように、下手にならないように、ただ当たり前に繰返し描く。

 何とかこのように文章にしてみると、少し大げさになるが、こんな感じで絵を描いている。これを最善と思うわけでもないが、他にやりようもない。工夫はしない。頭は使わない。馬鹿になってやるほか無い。いや、それもダメだ。自分に近づこうとしてやるほか無い。

 まだ、元気はある。過去一番気力を充実させて絵を描いている。あと20年あれば何とかなるかも知れない。遠回りをして、時間がかかることを恐れないでやりたい。慌てて結果を出そうとすれば、頭の制作になりかねない。手の制作にするには、時間を恐れないことだ。

 いくらでも、無駄な時間を積み重ねてやるつもりだ。もし元気でこのまま絵を描き続ける事ができたら、何かは分かるはずだ。それでいいと思っている。結果をそれほど期待しているわけではない。今を充実して絵を描けることで十分満足なのだ。

 ただその満足が将来の完成を目指している物でなければおかしいと言うことに過ぎない。本当はそうでなくても良いのかも知れない。いや、結論まで行かないことには今の意味が無い。そんな先のことは考えても無駄なことだ。今日も精一杯描いたし、明日も全力で描くと言うことだ。
 

 
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする