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ヨーロッパへの難民が急増

2015-08-31 04:30:41 | Peace Cafe

ヨーロッパへの難民は今年に入り急増している。TBSテレビの報道特集で知った。昨日にはNHKでもやっていた。中東の情勢の悪化である。イスラム原理主義の過激派の問題がある。アフガニスタンやシリア、そして北アフリカからの難民がヨーロッパになだれ込むようにすでに今年だけで、31万人に達しているという。ギリシャやイタリアに小さな船で流れ着くように逃れてくる。船の沈没事故も後を絶たないようだ。先日はオーストリアで冷凍トラックの荷台に隠れていた71人の難民が窒息死した事故が報道されていた。ドイツがその難民を一番に受け入れている。昨年は21万人の難民。ヨーロッパの受け入れの40%がドイツなのだ。難民受け入れのNPOの代表のコメントでは、ドイツは戦争で世界に大きな被害を与えた。戦乱で困っている難民を受け入れるのはドイツの国としての義務である。こう答えていた。しかし、ドイツでも難民受け入れを拒否する組織があって、難民を暴力的に攻撃しているそうだ。しかし、ドイツの農村が難民を受け入れ、村の人たちが温かく難民を守っているということも報道されていた。

日本では果たして、難民を受け入れることができるだろうか。日本は難民受け入れに消極的な先進国として、こういう時にはいつも言われている。しかし、申し訳のないことではあるが、日本での難民受け入れは困難だと考えている。日本の文化伝統の中に、異民族の受け入れは根付いていない。タイではウイグル族の難民を強制送還したことが、テロ事件につながったようだ。朝鮮人の日本本土受け入れで、日本は間違いを犯し、在日問題では深刻な状況が今も続いている。努力をしても韓国朝鮮と犬猿の仲は深刻化するばかりである。秀吉の朝鮮出兵があったにもかかわらず、江戸時代の付き合い方であれば、友好的なものになっていた。一定の距離があった方がうまくゆくということもある。

そもそも、外国で暮らすということは難しいものだ。フランスにいた3年は全くつらいものだった。差別を受けるという感触に耐え難いものがあった。例えば、美術学校の同じアトリエの仲間から、日本人は絵を勉強しに、ボザールに大勢来るが、日本には絵画などないだろう。と面と向かって言われたことがある。ヨーロッパ海画以外を絵画として認めないというようなレベルの人が、美術学校の生徒にもいるのだ。日本絵画を高く評価していた、アンドレ・マルローの話をしたが通じなかった。靴を買いに行って、サルが靴を履くなど大笑いだと、店員同士で話しているのを聞いてしまったことがあった。郵便局で切手を買おうとして、幾らの切手なのかわからないという理由で、売ってもらえなかったことさえあった。紙に数字を書いているにもかかわらずである。それでもフランスは差別がない国ということになっている。

日本のような島国の文化の中に、何十万人もの難民が入ることは、新たな問題が生じることになる。日本の現状にはそれだけの受け入れ態勢がない。難民を受け入れることになるためには、それだけの時間をかけた準備が必要だ。安倍政権は外国人労働者の受け入れを推進してゆく方針を打ち出しているが、これもやめた方が良いと考えている。うまく言えないが、それぞれの国が各々で自主独立でやってゆくのが基本である。各国の自主独立の努力を支援するのが日本の国際貢献ではないか。シリアが戦闘状態に入り、ドイツに国民が逃げるということは、シリアのアサド政権の問題である。日本には発言するだけの力量がない。ヨーロッパ諸国の致し方ない緊急的処置なのだろう。中東の混乱状況には、日本もかかわりがない訳ではない。日本は経費負担をするべきだと考える。ユーロ諸国に対して、できる限りの金銭的負担を負う他、方法はないと思う。

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安全保障法案を最高裁にかけろ。

2015-08-30 04:45:42 | Peace Cafe

安全保障法案が憲法違反なのかどうか。成立する前に、最高裁で判断してもらうというのはどうだろうか。それで、最高裁でも合憲と言うなら、それはそれで筋が通っている。しかし、法律が憲法違反であれば、この法案は取り下げる。憲法裁判所というものがあればの話なのだが。フーテンの寅さんが「べらぼうめー、最高裁に聞いてみろ。」と啖呵を切っていたのだ。法律を作ってしまえばどうにでもなるというのでは、三権分立の議会制民主主義国家が成立していないということになる。たとえば、徴兵制を実行したいとする人がいる。それが世界の普通の国家の在り方だというような意見もある。自民党の議員の中には、すでに戦争に日本が参加する時に、拒否する若者は日本人として恥ずべきだというような意見が出てきている。さすがに、国会では徴兵制は違憲だからあり得ないと、今のところの国会答弁である。しかし、いつ憲法解釈が変わるかは、今回のことがある以上わからない状況である。現に集団安全保障は違憲とついこの前まで、同じ人が答弁していたのだ。

解釈偏向でどうにでもなると考えているのが自民党のやり方だ。最高裁が信頼でき物かどうかも確かに、疑問はある。しかし、国会だけで判断するより、法律の専門家であれば、また違う見方もあるはずである。せめてこれだけ大事なことなのだから、そのくらいの手順を踏んでもらいたい。今回の法改正は、日本の国防に関する重大な変更だ。今まで日本の防衛はアメリカ任せであった。日本はそれに変えて、アメリカ軍に基地を提供し、費用も思いやってきた。しかし、アメリカもさすがに限界を超えて、日本に協力を要請している。180度の変化だ。この法案が通れば、日本は軍備的にいろいろ変わってくる。今回のように解釈変更を許せば、自民党は、安部政権は、憲法解釈の変更で何でもやれると考えるようになるはずだ。それが静かな独裁政治の始まりになりかねない。憲法の解釈変更は最高裁の判断を待つ。

安全保障法制が違憲ということもあるが、憲法の改定ということが日本人にとって重要なことになる。憲法を改定せず、解釈を時の世界情勢に応じて広げてゆくというやり方は、いかにも日本的なやり方ではあるが、限界がある。自衛隊を持った時にすでに憲法違反であった。憲法には改正という言葉が使われているが、変われば改正であるが、それまでは改定という言葉を使うべきだと考えている。国民投票にかけるまでは、正しいことなのか間違った修正なのか。それは決められないことだからだ。憲法裁判所が必要になる。今の裁判では、砂川判決のように、憲法そのものから判決が出たわけではない。一つの事例においてそういう判断が下されたに過ぎない。だから、判決を過去の事例にしようにも、これまた解釈次第ということになる。立法権の上に立つ裁判所が必要になっている。このままでは三権分立が成立しないことになる。現行法では、法律自体の憲法違反を裁判する仕組みがないらしい。

「武力攻撃を受けた他国からの要請や同意がなければ事態認定されない。」今になってなって防衛大臣が答弁を修正した。こんな不安定な安全保障法制が強行されるていいのだろうか。今日は国会で100万人デモである。国民が自民党を多数派にしておくことは、さすがに危険だと感じるはずだ。国会が国民の意思を反映する歯止めなのだ。国民の意思を正確に反映する選挙制度に変えなければならない。現在の小選挙区制では、公明党のような意味不明な行動をとる政党が、政治をでたらめにしている。平和の党を自称していた政党が、なぜ安保法制に賛成するのか説明責任がある。公明党の選挙協力がなくなれば、自民党は議席を大きく減らすはずだ。その時は公明党もなくなる。安保法制が成立しても、自民党が議席を減らさないようなら、日本に期待することはもうできない。経済も暗雲が迫ってきた。日本の大きな岐路にある。小手先の手段は出し尽くしている。いよいよ正念場が近づいている。

 

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絵は進んでいるのか

2015-08-29 04:24:56 | 水彩画

出品しない房総の里山。

今ひたすら水彩人に出品する絵を描いている。しかし、絵が衰退しているのか、自分の本当のところに向かっているのかが、いつも難しいところだ。絵を水彩人展に出すのは、自分の研究のためである。仲間の絵と並べてみて、自分の絵を冷静に判断したいからだ。水彩人は公募展になってはいるが、私自身の目標は自分の絵に向かうために必要な水彩画の研究会だと考えている。今年の絵は春に、中井の篠窪に通って描いていたころの絵である。なぜか、面白くて春が終わるまで通った。雨の中によく描いた。夏になるにしたがって、同じ場所が面白くなくなった。その場所にある色に惹きつけられなくなった。たぶん、色が単調になって描きたい気持ちが徐々に消えた。それでその後は全くゆかなくなった。だから、秋になったらまた行ってみたいと思っている。渋沢から震生湖を通ってその奥にある集落である。篠窪周辺の景色はどこも面白い。起伏があって、畑があって、集落があって、小屋などがある。普通の野菜畑もあれば、果樹の畑もある。小さな畑が自然に埋もれかかりながら、維持されている。

篠窪の雨。この絵は今はだいぶ描き進んで変わった。

 

戦時中の飛行機による撮影では、このあたり周辺のすべてが小麦畑だった。雑木林も全くない。いくらか木があるのは、鎮守の森だけだった。それが小麦が作られなくなって、野菜畑と、果樹に変わったようだが、結局放棄されるところが増えて以前はもっと畑が減って荒れていた。集落全体で、50戸ぐらいだろうか。お寺もあり、神社もある。昔より集落が広がったようでもない。小さくなったようでもない。最近市民団体などの活動で、だんだん耕作放棄地が減ってきた感じがある。と言ってもやたらごみが捨てられている場所もある。この自然との押し合いへし合いの、畑が面白いのだ。自然に同化したような、畑。自然に身を寄せたような小屋。ただの放棄地だと、単調になるところが、不思議な多様な状況を作り出されている。特に春先は生命感があふれる。1週間通うと違う風景になる。それほど色の変化が進んでゆく。新芽、若葉の色彩ほど、命を感じさせるものはない。命の息吹に惹きつけられているのだろう。

里地里山というが、まさに典型的な日本の里山風景のように思っている。私はもう少し奥深い山村に育ったので、自然はもう少し厳しかった。何とかなる感じではなく、自分がそこに少し無理をして入れてもらっている感じだった。緊張していないと生き抜けない感じが常にあった。しかし、篠窪の空気は柔らかい。その辺でごろ寝をしていても大丈夫なぐらいの気の置けない感じが漂っている。この感じを描きたいと考えている。自給自足できる世界観が少しでも画面に出てくれば。そのように見えているのだから、そのように描けるはずだと思って描いている。自給自足で生きてきた25年の経験が、篠窪をそのような場所であることを、見えるようにしてくれたのだと思っている。身体で覚えたものと、頭で考えていることが綜合されて、里地里山が見えている。だからこれは写真とはかけ離れた世界が見えているということになる。視覚的に見えているだけでなく、頭の中の観念を展開しているという見ている世界ということになる。

手入れの文化というような、日本人の暮らしの有り方が描ければと思う。

 

 

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原発不要論

2015-08-28 04:23:20 | 環境関連

安倍政権は原子力発電は必要だといって、無理やり再稼働した。原発が安い電力であるという算出根拠の説明はない。日本国民の半数を超える人が再稼働を反対しているのに、川内原発はついに再稼働した。恐ろしいことにそれに合わせるように桜島が怒っている。いったいこの不安をどうしてくれるというのだろう。何より腹立たしいのは、世界では原発の展望はなくなり、ついに昨年の原発の新規建造は3基にとどまったという現実だ。当然、津波も、地震の不安が高い、日本のように安全基準のハードルの高い国では、もう原発に展望などないのだ。政府は過去に執着して原発を止められないだけだ。このことを考えると歯がゆくてならない。原発は高価な電力になっている。古い原発を使える間使っていれば、廃棄する費用が掛からないという程度の理由でへばりついている。廃棄すればそのごみの行き場さえないのが現状だ。完全に原発は行き詰まった。かろうじて再稼働で息をつこうということに過ぎない。こんな展望のない場当たり的な政策をとる政府は、電力の新展開にたいして、思考停止に陥っている。

電力の緊急性をアピールしようと、計画停電をしたが、それが単なる脅しに過ぎなかったことをこの暑い夏は証明している。台風のたびに大きな停電が起こるが、停電が命にかかわるといっていた、安倍氏はこの間何をしているのだろう。手は打ったのだろうか。すでに電気は余り始めている。理由は簡単である。無尽蔵資源である天然ガス発電が一気に拡大している。発電は天然ガスと石炭が中心で、石油はいまや9.3%程度なのだ。しかもどんどん価格が低下してきて、買い手有利な状況だ。イランがホルムズ海峡を封鎖するなど、全くの日本政府の国民への脅しに過ぎなくなっている。しかも、この間自然エネルギーも徐々に増加して、水力と合わせれば12.2%になっている。来年の4月からは電力の販売は自由化することになる。原発に依存した電力会社が立ち行かなくなることも、いよいよ現実味を帯びてきている。

この背景は企業は自家発電を始めている。企業は経済で動いているから、原発を抱えている電力会社の電気が割高になることを見越している。すでに4分の1の企業が自家発電に変わった。ソーラー発電を工場の屋根につけているところも目立つ。もちろん本格的な天然ガス発電装置を設置した工場も多くなっている。電力が自由化されれば、さらに電力会社離れが起きることだろう。来年には原発などにかかわらない、新発電会社がより安い価格の電力の販売を始めるのだ。新発電会社は、間違っても原発など作らない。割に合わないからだ。過去になろうとしている独占電力会社がなぜ、原発にこだわっているのか。政府に押し付けられているのだろうか。旧電力会社は原発の存在そのものが経営が困難に陥る可能性が高くなっている。旧電力会社が原発に固執しているうちに、世界の電力の方角は変わっている。

米100俵の我慢ができないのだ。新しい産業を構築するには痛みが伴う。我慢もいる。何よりも、今までの思考方法を否定しなければならない。原発が安全で格安という思い込みを、否定しなければ次には進めない。これが旧電力会社では難しいのだ。だから、独占企業という形態はだめだ。常に新しい発想の競争相手が現れるという環境でなければ、産業の構造というものは変わることができない。しかも、自民党政権は既得権の上にある政党だから、どうしても発想が守りになる。今ある大企業をつぶすような革新的な政策が取れない。新エネルギーについても、口先では推進を主張しながら、世界の流れから後れを取ってしまった。日本の安全保障はホルムズ海峡ではなく、新エネルギーだ。一日も早い転換が第3の矢を放つことになる。日本のような化石燃料輸入国には、新エネルギーの展開が国の展望になる。どうも、自民党政権の間は、既得権益とのせめぎあいで、第3の矢は放たれそうにもない。

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中国覇権主義の疑問

2015-08-27 04:36:56 | Peace Cafe

最近国際情勢の不安定化が目立っているということを、政府は主張している。幼稚な言い草ではないか。常に国際的な不安情勢というものは存在してきた。どの時代にもその時代の軍事的な緊張は存在した。私には最近の日本を取り巻く世界情勢は、経済の関係が深まり、むしろ戦争ができなくなっている状況に見える。安全保障の問題と言えば、テロが深刻化しているのだろう。政府は安全保障法制を強調するあまり、中国脅威論を根拠なく盛り上げようとしている。中国の仮想敵国幻影は、冷戦時代の仮想敵国ソビエトの存在より現実味がない。何をおいても、日本が集団安全保障ということで軍事的に独立しようとしている。アメリカとの軍事同盟の名のもとに、アメリカの軍事力の配下として、積極的に活動しようとしている。これは中国の世界的な影響に対抗したいというアメリカと日本の思惑が一致したからである。アメリカはいつまでも世界を指導する国でいたいのだろう。アメリカが存在しなければ、世界は崩壊するぐらいに考えている。

確かにアメリカは強国である。国家として経済力も潜在的能力も群を抜いている。しかし、中国はその唯一の対抗する勢力が登場したとみられている。日本ではそうした見方は少ないが、世界では中国がアメリカを追い抜くという意見が強いらしい。中国がアメリカを超える前に、叩き潰したいのだろう。こうした考えは全くばかげている。ともに繁栄する方が良いに決まっている。ところがグローバル企業の競争では、相手をつぶすことが自分が成長できることになる。中国という国家資本主義国の登場で、グローバル企業は焦りを生じている。その結果、日米で手を結び、中国に対抗しなければならないという妄想の国際情勢の不安を作り上げているのだ。中国は元の切り下げを行った。背に腹は代えられなかったのだろう。中国人の日本での爆買いを考えれば、明らかに元は円に対して高値だったのだ。それを調整せざる得なくなったのが、今回の元の切り下げであろう。中国も経済成長が進めば、普通の国になってゆく。

中国自体がグローバル企業なのだから、今までの資本主義は対抗するのに戸惑っている。中国を覇権主義というが、それはグローバル企業の覇権主義と内容は同じだ。ただ国家資本主義だから始末が悪いのだろう。通貨や株価も自由に操作する国家だ。元を無理をして高く維持していた理由のほうが、重要である。国際的な影響力を重視したのだろう。中国がアフリカに影響力を持ちたい。経済的進出をしたい。こう考えた時には元が高い方が良い。資本を外国に投下するために、元を高値に維持をしてきた。バブルの円高時代の日本を思い出す。日本人の富豪が登場したり、海外の不動産を買いあさったりした。中国も結局のところ、経済の国際化が進めば普通の国になる可能性が高い。今は国内の経済に不安定要素も大きいから、普通の国からみれば、妙な覇権主義に見えているに過ぎない。中国は商人感覚の国だ。

日本も長い間、1ドル360円という固定レートで、経済成長をした。これが1ドル100円以下になれば、日本人の生活水準が4倍にも計算されることになる。1ドル360円なら農業も国際価格に並ぶ。こうしたことは実質経済とは少しも関係がない。元が5%切り下げられるということは、中国投資は損ということになる。日本では円安で株価が上る。しかし、これは日本人の輸入品に依存する消費生活はその分価値が下がっているということになる。すべてはグローバル経済という、取引の中で起きていることだ。中国は一企業であって、日本の仮想敵国というより、グローバル企業としての競争相手なのだ。その競争に勝ちたいがあまり、アメリカと組もうというのではないか。しかし、中国がくしゃみをして、日本が風邪をひくように、経済は密接化している。この国際情勢の変化こそ、戦争ができない状況になったということである。

 

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株価の下落

2015-08-26 04:43:12 | Peace Cafe

中国で株価が急落した。日本ではそれ見たことかと中国崩壊説を吹聴する人が続出した。中国が崩壊すれば日本がどうなるかまでは考えていない。世界経済はつながっているのだから、世界第二位の経済規模の国が混乱するということは、世界経済が混乱することになる。日本でも銀行が倒産するのを、政府が介入して救済した。でたらめ経営で自沈するのだから、資本主義の原則で言えば救済どころではない。しかし、影響が大きすぎるとなれば簡単に原則が変えられる。現に、東芝の粉飾決算の処罰が進まない。大きいことは安全だ、神話。「しんがり」という山一證券の倒産の話を今読んでいるが、このことはまた改めて。中国がどんな状態なのかは先日書いたが。株価と中国経済の実態とは別だ。今起きている株価の急落は中国が発端であって、大半の国でほぼ同様の下落が起きた。株価で世界経済を見ることは止した方が良い。投機的に株価は作られるものだ。

それは通貨のレートも同じことである。アベノミクスでは円安誘導。株価の高値誘導。これだけである。実体経済とは無縁と考えるしかない。流通という意味では影響は大きいが、日本の産業構造がアベノミクスで変わったというようなことではない。日本の競争力が通貨レートで影響を受けるということはあるが、日本の生産性が高く、作る製品がレベルが高ければ、結局のところ受け入れられることになる。要するに日本の生産するものが、世界で見てどのようなレベルであるかだろう。それは工業製品だけでなく。農業製品でも同じことだ。例えば豚肉がなぜ日本で生産すると、高くなるのか。それは世界の生産レベルに比べて、後れを取っているからである。後れを取っている一番の要因は飼料生産であろう。しかし、同じような畜産品の鶏卵には競争力がある。牛の場合は、また飼育の環境が日本の環境では不利要因となる。お米ではどうか。日本で作れば、競争力は低い。それは環境的な条件の制約が大きい。熱帯で太陽光発電をやるのと、北極でやるのでは、効率が違うというようなことと同じだ。

日本に必要なものは、第3の矢である。株価とか通貨のレートは、投機的な思惑で動いている。特に最近の傾向では、世界の巨大な資金が、思惑買いで動く。だから日本政府が円安、株価を上げる方向で動けば、それに便乗して儲けようという資金がなだれ込む。確かにそれによって、日本のグローバル企業は一定の利益を上げている。しかし結局のところトヨタ自動車がよい車を作れるかどうかが一番の問題なのだ。利益が出た時に思い切って次のことを考えられるのか。松坂牛が高くても食べたいという人がいるように、それだけの高機能の製品を作れるかどうかに戻ってくる。第3の矢はすでに放たれていると、安倍政権は言っていたが、今現在どこにもその矢の姿は見えない。失速してすでに落ちたのか。

新エネルギーが第三の矢のはずだが、相変わらず原子力依存を主張している。つまり口では新産業の創設というが、安倍政権は既得権益依存政権というほかない。株価は結局元に戻る。戻るからと言って経済が戻ったというようなことではない。投機マネーは行き場を探しているに過ぎない。この投機マネーが世界の経済を混乱させているに過ぎない。私は株のことなどよくわからないし、購入したことなどないが、お金がお金を生み出すようなことは、博打であり、健全なものではない。資本主義というものの悪い側面が目立ってきたということだろう。昔テニスのスエーデンのボルグ選手が、国籍をモナコに変えた。法人税も同じである。税が高いから、安い国に本社を移す。アメリカ企業はアイルランドに本社があるらしい。そういうことを素早くできる企業が、生き残るようでは倫理のない世界が増長してゆく。

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強制労働と自由

2015-08-25 04:17:11 | Peace Cafe

日本の明治の産業遺構が、世界遺産になった。安倍政権は大喜びしているが、松下村塾が入ったからだろうか。それだけじゃなくて、観光客が世界から来てくれて、地方の活性化につながると考えるからだろう。遅れたアジアの一国が、欧米に学んで、けなげにがっばった産業遺産ということで記録されるのであろう。松下村塾が一体という意味がわからないが。今回の進めかたで感じたのは、日本の外交力の低さである。韓国は日本の申請に反対と表明した。過去に強制労働のあった施設を産業遺産にするのは問題だと主張した。ところが、日本政府は過去の問題に触れたくない。明治期の施設を産業遺産にするのだから、韓国人労働者の徴用に関しては、関係がないと国際的には筋違いの反応をしていた。世界から日本は侵略戦争をし、過酷な植民地支配をした国という見方が普通の見方なのだ。韓国の宣伝力もあり、産業遺産に賛成してもらえるなら、強制労働も認めようということになった。

何か英語の表現でどうだこうだ説明しているが、玉虫色どころか、あれは明らかに強制労働があったという根拠になる表現と受け取れる。against their will」(自分の意思に反して)、「 to work」(強制労働させられる)英語は理解できないが、実際を現している言葉だと思う。forced laborが強制労働らしい。韓国人だけでなく、日本人も私の母は名古屋の繊維工場で、forced to workしていた。父は軍隊に7年もforced to workしていた。それで人生の方向が違ってしまった。もし、戦争がなければ父は民俗学の学者になれたのかもしれない。子供である私にも、残念な悔しい思いがある。朝鮮人にしてみれば、なぜ日本のために自分の人生が、おかしくなったのかという怒りがわいてきて当たり前のことだ。その息子にもきっと同じような思いがある。富岡製糸場のときも、女工哀史をきちっと記録しなくてはならないと思った。

明治期の脱亜入欧は日本人のその後の方向にとって何であったのか。追いつけ追い越せで、何を失ったのかは、むしろこれで考える機会が保障された。失ったものに気づかなければ、日本人は近代を乗り越えることができないはずである。それは、絵を描いて、日本鶏を飼い。金魚を育て。ラン栽培をやり、田んぼをやって、江戸時代の日本を感じて知ったことである。西洋に追いつくことはできた。そしてどこに行くのかである。どんな国を目指すのかということになる。今のところ日本がまねしているのはアメリカのようだ。しかしどうあがいても日本はアメリカにはなれない。よく頑張ったが、がんばるモデルがアメリカである以上日本の限界は見えている。グローバル企業の問題も出てくる。経済優先で失うもの。文化というものがどうなるかである。明治には日本語を捨てて英語化しようという考えすらあったのだ。今も企業からそういう声が出ている。

なりたい自分というものは、日本という文化抜きにして存在しない。私は見るということを大切にしているが、見るということは文化を通してみるということになる。富士山が美しいという背景には、自然遺産になるほどではないが、文化遺産と言われる歴史の重みがある。山が美しいと思うどこかに、美しいと感じる日本の文化がある。日本人とアラブ人では美しいの基準が異なる。日本人が日本の水土からくる文化を捨てて、グローバル化するなど、あり得ないことだ。人間は日々の日常の暮らしから出来上がるところが多いはずだ。その日常を深めること以外に、なりたい自分に近づくことは出来ない。その日常の暮らしを自分の意志で選択できるということが、人間にとって最も大切なことだ。国家による強制労働はあってはならないことだ。徴兵制もあってはならないことだ。二度とそういうことが起きないように、明治の産業遺産の中に記録しておくことだ。

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自給農業と税負担

2015-08-24 04:35:34 | 自給

自給農業は税金を払わないのだから、社会的には評価できない。税金を多く払う企業があってこそ、国が維持されているのではないか。こういう意見があった。似たような意見が3回目である。世間で普通に働き税を負担している人から見れば、そんな気分になることもあるだあろう。しかし、これは筋違いの批判である。社会を構成するにあたり、税を多く払う人が社会貢献度が高く、税を払わない人は反社会的存在という観点は間違っている。確かに、税の集め方と使い方が政治だと大学の時の政治学で習った。日本国憲法に書かれた人間の権利と義務の問題でもある。道路を使う頻度に応じて税を払っているわけではない。税金はどこが公平か難しいところである。一応現行法に従い、社会的な公平性に基づき、できるだけ平等ということで税体系は作られている。自給農業が税を払わないから、価値が低いというような割り切り方は、見方が狭く、良い社会を作ることにならない。

税を払わないどころか、給付を受けなければ地方の社会はすでに成り立たなくなっている。そして消滅してゆく。複雑な要因が絡み合っているので、一概には言えないことであるが、税を払わない地域は消滅した方が良いということにはならない。国境の離島などいらないと私は考えるが、そういう人は少ない。日本国に暮らしている以上、税を多く払う価値ある人と、税をあまり払わない価値のない人という、分け方は間違っているのだ。中山間地の農業、林業にかかわる人の大半の人が税を払えないどころか、税を給付してもらい成り立つ暮らしである。だから過疎地域はいらないということは言えない。そのことが日本の基本的な力であると考える。日本の自然環境の維持には欠かせない存在である。観光地が美しいという裏には、里地里山の暮らしの景観維持がある。お金にもならない、ひたすらの草刈りの結果日本の自然は何とか維持されている。自給農業にも言える。連日暑い中草刈りをしている。収入どころか出費だけである。私が農業を止めれば、地域が少し草だらけになる。

よく言われることだが、田んぼの水利調整機能はダムや堰堤の人工的な対応であれば、何兆円もかかる仕事を無償で行っている。税はそういうすべての側面から、バランスよく作る意図で施行されている。そうではない面もあることはわかるが、おおむねそうなっているから国が維持されている。そういう意味で、法人税を下げないと企業が外国に出てゆくという行為が理解しがたい。そんなくだらない企業は出てゆけと言いたい。企業の本社を海外に移転して税逃れして、日本で販売利益の恩恵だけ受けようなどというのであれば、それこそ問題である。グローバル企業の動きにはそういう国家を超えた傾向があるのではないか。このことは資本主義の次の問題として整理されるべき課題だ。

中山間地の条件不利地域では、国際競争力のある農業は不可能である。重大な問題がここにある。しかし、中山間地の農業、林業に基づく里地里山的な暮らしが、日本の国土、自然環境を維持している。しかも、瑞穂の国という日本文化の担い手である。補助なくして経済的には維持できない。山の中に暮らす大半の人が、経済とは別の価値観で頑張って維持してくれている。多くの方が無言で、ひたすら生き方として貫いている。当然税金も払えない。そういう無数の人たちを、税を払わないから、無意味な人だと決めつけてしまうのは、日本国として方角を間違ってしまうことだ。自分の利害を超えて、地域のために生きる。そのことがすぐにではないにしても、長い将来の地域のためになると考えて、ひたすら頑張っている人をたくさん知っている。表面的な税金負担だけを見て、無意味な存在と決めつけることがどれほど心無いことかを考えてもらいたい。

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英霊と謝罪

2015-08-23 04:11:33 | 身辺雑記

安倍氏によると、日本の若い世代には、謝罪の負担をかけてはならない。と主張している。と同時に英霊に対する哀悼の意は忘れてはならないと言い続けている。この意味を70年談話以来ずーと考えている。おじいちゃんがお国のために死んだことは忘れてならないが、おじいちゃんが外国の人に迷惑をかけたことには負担を感じる必要がない。こういうことを安倍氏は考えているのだろう。このことは国というものと、個人というものの関係のことである。たぶん世代が交代すれば関係はないという考えに徹するなら、英霊もどうでもいいし、謝罪もどうでもいいと言うことになる。人間は個人として、国家とは関係なく生きている。こういう考えもあるだろう。無政府主義というか、徹底した個人主義である。日本国をどう考えるかである。どこの国でもお国のために戦争をするわけだ。

はっきりとしているのは、戦争で死んだ英霊に対しては、未来永劫神としてまつろうと考えているということである。だから、国立戦没者墓苑でなく靖国神社という存在なのだ。東京大空襲で死んだ人は名前すらわからず、まとめて関東大震災の慰霊所に間借りして、遺骨として仮保管されているだけだそうだ。お国のために軍人として死んだ人と、空襲で死んだ人がこれほど差をつけられているのが、国というものが考えるお国のために死ねば神になり、外国から無意味に殺されれば、その他の骨扱いである。軍人の死をたたえたくなる気持ちの背景にあるものが、国家観である。一方で思い出したくもないのが、無残に殺された国民の悲惨である。日本国が正しい、素晴らしい国で、間違いなど国際関係の都合であり、、本当は外国の圧力で間違っただけだ。間違いというほどのことではなく、戦争に勝てば正義の戦いだったといえることだったのだ。これが本音ではないだろうか。

空襲で殺された人は国家としては関係のない無駄な人に位置づけられ、あまり思い出したくない。国に兵としてわかりやすく役に立った人だけが、大切だから神として祭ろうという考えである。この場合の国とは国威発揚する国であり、外国と対抗し勝ち抜く国のことである。言い切ってしまえば、神国日本のことである。中国や朝鮮とは、一段違う格別な国家という意識が隠されている。それは明治時代の富国強兵の中で、そういう教育がなされたということだ。列強の脅威の中で、日本国が追い込まれ、外国というものを国として対抗し、競争相手として必要以上に意識してきた。せざる得なかった、無理からぬ面があったという歴史認識は私も正しいと思う。そして、その意識がゆがんだ優越する指導意識にまでつながり、間違った戦争に突入することにもなった。

英霊を神としてまつる考えのほうも次の世代には、心理的害であろう。確かに、加害者としていつまでも謝罪しなければならない意識を持つということも、心理的害であろう。しかし、両者にある害は国というものを考えた時に、本質が異なる。英霊のほうは、またお前も英霊になることが素晴らしい生き方だという教えが組み込まれている。謝罪のほうは、加害者意識をもって生きるという、負担感と負い目に束縛される重さである。日本という国家の中に生きる人は等しく、この国という共同体を逃れることは出来ない。謝罪がもういいというなら、英霊ももういい。戦没者すべてを軍人と同様に慰霊することが大切なのだ。戦争に行かずとも、日本人のほとんどの人が国の選択に従い、自分の人生をなげうって戦争をしたのだ。国というものはそれだけの個人に対して権力を持っている。戦没者、戦死者は等しく国立墓苑で祭ればいい。謝罪は100年は必要である。安倍氏は70年談話を一人で練り上げて書いたという説があるが、そんなことはあってはならないし立派でも何でもない。

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66歳の誕生日

2015-08-22 04:02:40 | 楽器

昨日は66歳の誕生日だった。65歳になって隠居し、一年がたった。だから今やっていることは隠居仕事である。少々ボケが入っているのは許してもらわなければならない。とかなんとか言い訳で無責任になって、やりたいことに専念したいのだ。自給農業をしながら、絵を描くという身勝手生活である。まだ隠居一年目なので、完全には浮世の義理が断ち切れず、まだ公民館長である。早く終わりにしなければならない。最近できる限り、作務衣を着ている。本当は和服生活に入りたいのだが、まだ抵抗感があってできない。これがまだ隠居になり切っていない表れだろう。作務衣で済みそうなところには作務衣で出かける。そのうち、和服でも出歩けるようになれるかと考えている。和服が素晴らしい日本文化だと考えるからだ。素晴らしいと思いながら、着ないでいるというのも信条に反する。おかしい人と見られるだろうという感じをまだ乗り越えられないでいる。僧侶のことを異形の人と武田泰淳氏は書いていた。私の子供のころは和服の人は普通にいたが、今は花火大会の浴衣ぐらいだ。

隠居になって始めたのは、三線である。毎日やっているが、楽しいものだ。チャボを飼おうかなど考えている。チャボなら本当に好きなのは、赤笹のチャボである。千葉の茂原のほうだったの思うのだが、笹毛のチャボの作出に熱中している人がいた。今はどうされただろうか。何しろ毎年1000個の卵を孵化して2,3羽を選抜しているといわれていた。私より年下だったので、まだやめたわけはないと思うのだが。金魚にも関心がある。昔は江戸錦の作出が興味があった。よく江戸川のほうの金魚屋に行った。弥冨にも行った。金魚を飼っていたころ、ランチュウの次ということで、三色らんちゅうとでもいうべき江戸錦が出てきた。その後、江戸錦はどうなったかと思ってネットを見てみたが、やはりランチュウのレベルまでは行かない。驚いたことに、中国の江戸錦が入ってきている。たぶん中国には昔から江戸錦に当たる金魚がいたのだろう。気楽なことをあれこれやっているのは、逃げである。隠居と自分のことを言うのも逃げである。

自分のなりたい自分に近づけたかである。そぎ落としていよいよ、本当に絵を描く自分になれるかということである。それを考えると、もう他のことにかかわっている時間はないという切迫感がある。目も悪くなってきた。緑内障である。いつまで、どの程度見えるのか。絵を描ける時間は限られている。結論を出さなければならない。この感じは小学生ぐらいのことから繋がっている気分だ。何かに追われている感じがある。親の期待なのだろうか。子供のころから絵が好きでよく描いた。小学校のころ田舎の暮らしと都会の暮らしという、不思議な行ったり来たりしていた私のためのような絵のコンクールがあって、出品して大賞をもらった。中学生のころには本気で絵描きになる気でいた。同じ年のピカソのデッサンを見て、このくらいは描けると挑戦していた。

日暮れて途遠しとはよく言ったものだ。この調子では自分のなりたい自分にまで到着できるとは思えない。目的とする自分には、一向に近づくことができない。人生の目的というものは達成出来ないものであるにしても、行けるところまで行ってみたい。青い鳥が家にいたというような、ばかばかしい話は自分には持てない。自分というものの感触を、自分が見ているということを通して、どこまで近づけるかということである。田んぼをやっていると、昨年まで気づかなかったことに気づく。絵を描いていても、そうだったのかという発見がある。それは若い頃より少なくなったということでもない。なんとなくだが、最近のほうが絵では気づくことが増えてきている。もしかしたら自分の目指すものが、案外にそばにあるような気もする。

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自民党離党武藤貴也氏

2015-08-21 04:30:20 | Peace Cafe

戦争拒否に対して無責任と言い放った武藤貴也氏が、実は非公開株の譲渡疑惑で自民党を離党した。武藤議員という人は、自民党の公募候補だったはずだ。自民党の議員候補審査で選ばれた人だ。戦争無責任論をぶち上げた時も、自民党内ではさしたる批判は出なかった。ここに自民党の幹部の本音があるのを、自民党議員はよく知っているから、実は上を見て発言をしているのだ。世間も案外こういう人が好きだということも自民党議員はよく知っている。派閥の長である麻生氏などは、安保法案が通れば好きなことが言えるのだから、もう少し我慢しろなどと、気楽なことをしゃべっていた。以前のホリエモンもそうだったが、自民党の若い候補には、こういうお金にえげつない人が多い。考えてみればアベノミックスが看板である。日本全体の価値観がお金に傾いているということなのだろう。お金にならないことをしている人を、無意味と考えるのが世間の風潮なのだ。

日本の軍国主義と、経済至上主義は同根なのだ。だから、「富国強兵」と言われた。安倍氏や自民党の考える日本国とは、お金持ちたちの日本のことなのだ。だから、美しい国日本、瑞穂の国日本という経済とは関係のないお題目は、どこかへ葬り去られたのだ。それよりも、TPPであり、グローバル企業の日本なのだ。政府がそういう傾向というのは、いつもそうではあったのだろうが、安倍政権では露骨になったということだ。お金のことを全面に出すのははしたないというような感覚が消えたのだ。人間が生きる目的はお金ではない。というような倫理的意識が失われたのだ。お金で何が悪いというような居直りが普通になった。それが特に国の政治を担う国会議員で一般になってしまった。瑞穂の国など、何を血迷っているのかという人ばかりである。それならそれでいいのだが、右翼的な人に限って、農業を国の土台にするなどと言い出すから混乱する。安倍氏の著書にも、武藤氏のブログにもそういうことが書いてある。国粋主義の考える日本国とは、いったいどういう国が想定されているのだろう。

ここで思うことは、瑞穂の国が、大規模農業であろうかという疑問だ。瑞穂の国が意味するものは、集落単位での小さな農家の集まりが、国全体の至る所にある姿だ。稲作文化圏のことだと思われる。観察に心を砕き、手入れの範囲で自然とかかわる。全体と個人との調和を第一に考える文化だ。自分にとって良いということが、地域全体になっていなければならない文化。我田引水こそ瑞穂の国を崩す価値体系となる。自分だけという思想を持ち込めば、全体が崩壊し自分も苦しくなる。ところが大型農業は違う。企業としての利益を求めて、他者を慮るのではなく、自分の合理性に徹しようとする企業的価値観である。そうした競争原理が世界を豊かにしたことは確かであるが、同時に競争に敗れる弱者が必ず生まれる。日本ではいよいよ弱者が目立ち、特に伝統的農業や、伝統的工芸にかかわる人は、生計が成り立たなくなっている。

困ったことに、そしてそういう人たちを要領の悪い、愚者という扱いをする。抜け目なくお金を儲ける、ホリエモンや武藤氏のような人間がもてはやされることになっている。残念ながら、選挙という中でそういう人が選ばれる姿がこの国の実情なのだろう。全体として考えれば、この点ではほぼあきらめている。せめて、そういう枠でない、自分たちの集団を作り、関係を求めるほかないと考えている。我々は年々少数派になるのであろう。残念ながらそう思わざる得ない事象ばかりである。価値観であるから、少数派になるからやめるというわけにもいかない。だから、少数派として生きる覚悟と方策である。

武藤議員から素早く離党届が出た時には、自民党ではほっとしたことだろう。自らの責任や、公党としての恥を感じていない。政府では官房長官が、問いただすようなことを記者会見で言っていた。とんでもない話だ。自民党自身が離党届を出した時に、まず受け取って事情聴取をすべきだったのだ。離党を喜んで受け入れて、仕方がないなど安倍氏は受け止めたようだ。自らの同志が何をしたのか知っているはずだ。ブログを読めば百田氏以上の人である。暴言がちりばめられている。その人が今回の離党については、ブログでまだ触れていない。議員辞職しない以上、ぜひとも議員としてのブログなのだから、離党の理由を述べるのが筋であろう。それが選挙民への責任だ。都合が悪くなれば口を閉じるのでは、今までの沖縄県民を誹謗した内容は、どう責任を取るのだ。

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2017年の穂揃い

2015-08-20 04:35:16 | 稲作

 

4番と奥が2番。左に5番と6番が少し見えている。

 

今年の穂揃いは、8月19日ということでいいようだ。しかし、昨年同様11番の喜寿もちはもう少しという状態。昨年は21日だったから、2日早いということになるが、田植えも2日早かったのだから、昨年とおおよそ同じ進み具合とみていいようだ。とすると、稲刈りは10月3日か4日で間違いない。あと7週間ということになる。稲は一般に13枚から14枚葉を出すと本には書いてある。一度マジックで葉に印をつけて追ったことがあるが、どうも12枚だった。正直なところよく分かっていない。5枚の時に田植えをしているのだから、その後、9枚目の葉が止葉として今大きく出ていることになる。それは中央の主軸の茎、主幹についていえばのことだ。10日に1枚ずつ葉が出て行く計算になる。最初のころは、7日に1枚出ているから、徐々に葉の出る速度はゆっくりになる勘定である。穂揃いになるころには、その14枚目の葉が止葉となり、最後の葉の役割として、穂を充実させてゆくことになる。稲穂が実の重みで弓なりになるに従い、止葉は立ち上がり、日光をいっぱいに受けることになる。

4番と奥の2番の田んぼに少し乱れがあるのが見える。いずれも穂揃いである。4番の横に線があるような状態は、実はこの下の地下水道がある。

稲は止葉の力量で粒張りが決まる。穂の大きさという意味では、粒数は穂孕みの時期には決まっているのだから案外に早い。止葉が作られる頃には、すでに穂の大きさは決まっている。7月初めの幼穂形成期にの稲の状態で粒数が決まり、8月初旬の生育で止葉の大きさが決まるのだろうか。そして穂揃い以降の8後半から、9月の生育で粒張りが決まってくる。そう考えると、稲は穂を充実させるこの時期こそ水が必要な気がしてくる。新鮮で山の落ち葉堆肥を通過した絞り水のような良い水が、十分にある方が良いお米になるだろう。田んぼが淀むことはよくない。静かに流れているような状態が良い。そして、受粉が終われば穂の稔りに合わせるように、水を減らしてゆく。実りの最終段階まで考えれば、お米が固くなるに合わせて土壌を乾かしてゆく。本来であれば土壌もお米も十分に乾いてから稲刈りというぐらいがいいのだろう。

中央の下が6番。右側に湧水があり、その周辺が遅れている。遅れているから色が濃い。その上の5番が例年一番よく実る。こちらは良いために色が少し濃い。その奥が2番。左側に7番が見えている。

今年は、6月後半から7月にかけて日照がなかった。そのために、稲は分げつが少し取れなかった。分げつ肥が足りなかったということよりも、日照がないために、稲自体の動きが止まったという感じだった。6月中旬の田植えの田んぼは、田植えのまま生育を止めてしまい、十分な稲作にならなかった。

3番の苗床の後の田んぼ。肥料は十分にあると思われるが、倒れるような状態ではない。やはり奥の入水口が生育が遅れていて、色が濃い。

11番の喜寿糯は出穂状態。もう少し穂揃いにはかかる。

8番の田んぼ。少し黄ばんでいるところがあるが、これは品種がおかしくなっていると思われる。なぜ違う品種が紛れたのだろうか。畔からよく見えないので、本当のところはまだわからない。

これも8番だが、黄色っぽい穂が見える。最初は病気かと思われたが、どうも品種の乱れのようだ。

 

10番の里地里山の田んぼ。左側に排水口を作ったら、今年は病気が出ない。全体に健全な状態である。昨年はその向こうの9番あたりには縞葉枯れ病が最後に少し出た。今年は今のところまだ出ていない。

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17回水彩人展出品作

2015-08-19 04:36:56 | 水彩画

水彩人展(9月25日~10月3日 東京都美術館 上野)に出す絵を描いている。壁に並べて描いている。この春、中井町の篠窪に通って描いたものである。篠窪にはは美しい里地里山風景がある。あの頃描いた絵を出してみたら、11枚あった。この中から選んで4枚出品することにした。すでに出す絵は決めた。中判全紙4枚である。篠窪に行って描いたのは、木の芽が噴出した3月ごろからだ。一日かけてその場で描いたものもあれば、繰り返して持って行ったものもある。描いていたころも、家に持ち帰っては、こんな状態で並べて描いていた。何かありそうな感じで、篠窪に通っていた。菜の花が咲いて、そのうち桜が咲いて、そして緑の色が濃くなってきて、終わりにした。緑が濃くなると、緑の変化が面白くなくなるのだ。なぜだろうか。

この絵は、出すのを止めがものだ。完成までゆかないからだ。今はだいぶ変わってきている。左側からの対角線を描いてみようとした。この絵は夕方に書いたものではなく、雨が降っている日だ。もう一つかけた感じがしないのが、左側にある、桜である。右側にある、Y型の木もおかしい。それでも何か可能性を感じている。来年の春に篠窪の現場に持っていてまた描いてみようと思っている。それで何か突然わかることもある。江面としておかしいのは見えているようになっていないからだ。この場所に見えたものが確かにあった以上そのことを、繰り返し描いてみたいと思う。見えたというのは、絵に書き留めたくなる何かなのだが。見えたものはこの場所にいたいというような空気なのかもしれない。

これも出さない絵だが、これは房総で描いた絵だ。房総の里山も面白いので並べてみている。房総で描きかけだった絵を続けて描いている。たぶん突き詰めることができないのではないかとこの絵は思っている。途中で挫折してしまう絵が何百枚もあるが、それも材料としてとってある。なぜ違うのかということも大切である。時に出して並べてみる。今回は篠窪の絵を描くのに、隣に並べておいた。一筆も描けなかったのだが、並べておくと篠窪の絵を描く何かになる。何を見ているのかを考えるうえで、参考になるからだ。この絵は中央のくぼ地の畑が、素晴らしい場所に見えた。まるで天国のようだというように素晴らしかった。その気持ちの良い感じを絵にしようとした。ところが周辺からその空気を壊してしまうものがある。しかしその邪魔をするものがあって中央のくぼ地が天国なのだから、そう考えてまた寝かしておくことにする。

出品作4枚は取り出して並べて描いてみているのたが、ほとんどそのまま手が入らない。時間があると絵の前に座っている。絵を前にしてあれこれ妄想しているわけだが、こういう時間が私の絵を描いているほとんどの時間だ。実際に画面に手を出すことは、一日描いていても、1時間ぐらいのものではないか。たいていは、1時間座っていて、5分ぐらい描くという調子だろう。実にはかどらないのだが、水彩画は余分なことをやれば、自分が見ている世界から遠ざかるということになるから、よほど結論が出ないと手が出せない。この描き継ぐ感じが、水彩画の醍醐味のようなものだ。これは現場に行っても似たようなもので、描きだせないまま帰ってくるなどよくある。それでもまた現場に写生に行くのだから、不思議なものだ。

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中国の元切り下げ後

2015-08-18 04:34:34 | Peace Cafe

世界の通貨は変動相場制ということになっているが、実は各国政府がそれぞれのレベルでコントロールをしてきた。中国は世界で実力を高めに見てもらう目的で、あえて元高政策を進めていた。日本ではアベノミクスで現在円安誘導をしている。日本はなりふり構わずの経済偏重だろう。日銀と政府の思惑で円の水準は作られているものだ。円を安くしたいならどんどんお金を印刷すればいいんだと主張したくらいだ。変動相場制に一応はなっているという状態が、自由主義経済という、これも建前と調和しているということなのだろう。中国は国家の威信のようなものにこだわりが強い中華思想の国だ。昔のソビエトの姿を思い起こさせる。経済的に後進国が徐々に先進国化するときに起こるようなことだ。国家の中のアンバランスな状態をコントロールするために、海外との比較を強調する。

日本の場合、戦争に負けて経済やスポーツでで負けを取り返そうという意識だったのだと思う。アベノミクスでは株価も高値に誘導されているのだろう。公的資金の株運用がなされている。それでも国民全体としては、敗戦の傷は回復している。むしろ政治家のほうが、引きずっている感じを受ける。中国のことを考えている。中国は植民地化されるほど衰退していた。近代化からも取り残された。しかし、強大な国家としての歴史と文化を抱えている。この眠れる大国をどのように再生できるのかというのは、中学生のころ父とよく議論した。当時、内藤湖南の中国論などを読んで、生意気に中国文化を圧倒的なものとして受け止めていた。それに対して父は従軍7年間の実体験から、中国がいかに後進的な国家になっているかを語っていた。但し、毛沢東ならできるかもしれない。農民出身の皇帝ならできるかもしれない。とんでもない政策を強行する以外に、中国の可能性は開けないだろうという意見だった。その後の中国は、一人っ子政策などというトンでもない政策を連発した。

その後紆余曲折はあったが、中国は経済大国になることに当面成功した。その大半の理由は、世界経済の中国利用にある。安価で安定した労働力の供給。世界の工場の役割。そして、膨大な市場。その波をうまく利用したという範囲での成功。中国が世界のトップになるためには、製品開発での独創性のようなものはまだない。中国人が古代に開発した技術や文化が世界を一新した。次の技術で中国が何か生み出せるかは中国文化というものの力量なのではないか。世界では、中国がアメリカを追い抜くだろうという予測のほうが多いという。日本は対抗心と、僻み根性と、実は一番中国を知っているということで、中国経済は失敗するという意見のほうが多い。私は、そこそこでダラダラ行くとみている。中国人の優秀さと、格差の大きさ。国家資本主義というものの限界。そして、多様な文化蓄積の深さは今も変わらない。

元の切り下げということは、無理に元を高く保っていた結果、国内経済に起きた行き詰まりから来たことなのだろうが、中国が覇権主義を捨てざる得ない意味もある。背伸びをしてみて海峡から落ちかかっているのだ。中国ではなんでも大きい。ホテルのソファーが2倍はある。鉢に植わった盆栽の槙が大木である。中国画は1000号を超えている。事大主義が捨てられるかである。日本人が成功したのは、トランジスターラジオである。小型化、軽量化。そうしたものを生み出した原点は日本の水土文化である。小さな田んぼをいかに効率よく栽培できるか。そこで培われた観察力である。つまり民主主義的文化である。中国文化は皇帝の文化である。文字を作り出した文化。火薬を作り出した文化。万里の長城を作った文化。もし、中国が普通の国なることができれば、アメリカを追い越すのだろう。

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うるま沖米軍ヘリコプター事故

2015-08-17 04:17:09 | Peace Cafe

沖縄で米軍ヘリコプターが墜落した。よく落ちるものだと怖くなるが、軍の基地があれば、事故が繰り返されるのは当然なのかもしれない。驚いたことは事故機には自衛隊員が2名乗っていたという点だ。すでに軍の現場では集団安全保障の日米共同作戦が始まっているということになる。事故機に搭乗していた陸上自衛隊員2人は、テロやゲリラへの対処などを担う特殊部隊に所属していた。事故機は船を制圧する想定で米特別作戦部隊が海上演習を自衛隊に実演していたということが分かった。船を制圧するということは、中国の船が頻繁に日本に接近してくることに対応してのことだろう。いよいよ尖閣に上陸しようとした場合の、日米共同作戦ということが考えられる。いざというときに自衛隊が準備するということもあるが、むしろ、そういうことが起きてもらいたいと期待している人たちがたくさんいる。政府の中にも、自衛隊の中にもいる。日本人の防衛意識を変えるためには必要だという考えであろう。

そんな背景があるから、尖閣島の国境に位置する3方向の離島の問題を、外交努力や国際司法裁判所に提訴するなど、やるべきことをあえてやらないでいる。70談話が政府の本音であるなら、軍事力に頼らない解決を早急に行うべきだ。戦争の火種がそこにあると考えているなら、一日も早く、外交的な対応するのが賢明な政府の判断力だ。これからの安全保障はテロであり、離島の国境線問題であろう。世界のどこでも全面戦争は起きにくい。まず、テロが起きないように最大限の努力をする。日本の立ち位置を、できる限り中立的なものにして、テロ対象国にならない努力をする。そして、3つの国境の島問題を外交的に解決をする。これが政府の戦争を避けるべき具体的な政策である。ところが、領土問題に対しては、明確な方針が示されていない。そして、ときどき棚からおろして、国民の意識の扇動に利用する方針と考えた方が良い。

国際司法裁判所に提訴する以外にない。そしてどのような不服な判決であれ従うことである。たとえ領土問題で不利益が生じようとも、戦争に至る種を除去できるならありがたいことだ。領土を取られるということになると、大きな損害が生じたように感じて、いきり立つことになる。しかし、実際には日本の国土は、広範囲に放棄が始まっているのが実情である。地方消滅ということが言われる。集落や、地域全体が喪失するということを意味する。人口減少期に入り、一人当たりの国土面積は倍増する。日本人が暮らしてゆく面積は余裕ができるということになる。国境の島に必要以上に拘泥しない方が良い。実際に放棄された離島も数知れず存在する。離島のことよりも放棄され、失われてゆく地域社会をどのように維持するかのほうが、現実の深刻な課題だ。国境紛争というものは、地域社会が失われる深刻な国益とはまた別のものだと思う。

誰しもオスプレーを思い出したと思うが、そうではなかった。私はオスプレーの日本配備は賛成である。オスプレーが操縦が難しいとか、改善の余地のある飛行機であるとか、いろいろ問題はある。もう少しアメリカ本土でやってみる必要はあるのだろうが、日本のような国土の安全を確保するためには、必要なタイプの飛行機だと思う。沖縄の基地問題で、辺野古基地建設が唯一道という根拠はない。アメリカが代替施設として、そう考えているのはわかるが、日本としては無人島に基地を作ってもらう方が良い。基地誘致の島々もあるくらいだ。だから日本政府としての発言が、辺野古が唯一の道というのは、無能な政府にしか見えない。その無能ぶりが、いかにもアメリカの代弁者に見える。本気で辺野古が唯一というのであれば、その理由をわかりやすく説明するのが政府のあるべき姿だ。

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