不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

地場・旬・自給

ホームページ https://sasamura.sakura.ne.jp/

台湾萬歳という映画

2017-07-31 04:18:18 | 石垣島

映画館の上にある、のんびりした広い喫茶店「ポレポレ座」ここで開演を待っていた。麦を焙煎したコーヒーを飲んだ。これなら麦茶をもっと焙煎してもいいのだと納得した。

中野のポレポレ座に映画を見に行った『台湾萬歳』監督酒井充子、ドキュメンタリー映画だ。台湾には行ったことがないが、台湾という国に興味と憧れがある。それはどこか不思議な温かさがこの国から聞こえてくることがあるからだ。特にその親しみの湧いてくる源泉は、たくさんの原住民族の方々にある。原住民という言葉は台湾の先住民民の人たちが選択した名称だそうだ。先住民と言うと何か失われてゆく感があるので拒否したらしい。高砂族というような名称で、私は子供の頃聞いた記憶がある。高砂族の名前は1895年から台湾を領有した、明治政府が付けた名称である。多くの人たちが台湾の山岳地帯に暮らしていた。日本政府は統治の為に山岳地帯から平地へと強制移住させた。そして台湾開発の労働力として利用した。その労賃が未払いのまま残っている。日本は日清戦争に勝利した結果として、台湾を植民地化した。台湾を考える前提として日本人は植民地化したことを、自覚し反省をしなくてはならない。現在原住民族は549,679人とある。一番多いい民族がアミ族20万人以上いる。台湾の総人口の3%近いぐらいで、増加傾向にある。台湾は16世紀ポルトガル後にオランダによって領有される。

中野ポレポレ座 良い空間のこじんまりした映画館。

そもそも台湾は中国であったわけではない。沖縄と似た歴史を持つ島である。中国にとっては、未開の島であり、首里王朝が独立国として存在しながら、中国の支配を受け入れていたのと似た関係にある。17世紀になって清国が支配することになる。そして大量の福建人が入り始める。そして水田開発をする。それは、この島が豊かな島で、中国人の移住願望の目的地になっていったからのようだ。高い山があり、水が豊かで水田が可能な平地があった。しかも未開のジャングルとして広がっていた。同じ植民地となった朝鮮が、日本に対してずいぶんと違う反応を見せる要因は、やはりその歴史にあるのだろう。台湾や沖縄が独立国家としてありながら、ゆるやかな所属関係にあった。中国から海を隔ていることが、大きな違いになっているのだろう。朝鮮は中国と激しい戦闘を繰り返し、隷属を強いられた歴史が背景にある。さらに日本は中国から距離を置く東の果ての、日いずる国である。地理的要素で大きく国の性格が変わる。

映画のことだった。実は「海の彼方」という映画を見たいと考えて、ポレポレ座を調べていて、台湾萬歳を知った。石垣島にはたくさんの台湾の人が暮らしている。また、台湾との交流を深めるための、石垣からの訪問団の台湾訪問記も、新聞には時々書かれている。石垣に行くと必ず食べに行く美味しい中華のお店のオバさんも台湾から来た人だ。とても気さくで、暖かくしてくれる。台湾から来た人達の暮らすもあるそうだ。今は、台湾からのクルーズ船も寄港し、台湾からの観光客が沢山街を歩いていることもある。石垣の空気に開放感があるのは、台湾の人たちとの交流にあるのではないかと感じるようになった。おおらかで気取りのない台湾の人たちに、興味が湧いてきた。台湾から来た人の集落もある。「海の彼方」は1930年代台湾から石垣に移住し、波乱の歴史に翻弄された玉木家族が、初めて台湾に里帰りする話である。玉木一族はいまや100名を超す大家族になっている。

台湾に行ってみたい。そういう思いはだんだん強くなっているのだが、そのまえにと、今回「台湾萬歳」を見た。映画を見て少し、台湾の不思議が解け始めた気がした。台湾の暖かさは人間の生きる悲しみのようなものに繋がっている。悲しいから暖かい。土地に根差して生きるという人間の営みの底にあるもの。人間は命を頂かなければ生きて行けない。大自然から生き物を頂いて生きる意味と、悲しさ。それは祖先とともに生きるという事でもある。そして、脈々と繋がってゆく子孫への思い。隷属させられ、虐げられた悲しさと、人間の生きる悲しさが行き来した。日本人が忘れ始めていること。今台湾のことを知ることは、日本の未来にとても意味が有る。「台湾萬歳」はそういう映画だった。未来を失いかけている日本。国家の安寧とはどういうものかである。日本がどこへ向かうべきかである。そういうことを考えさせる映画だ。中国との関係の中で、アジアとの関係の中で日本という人間たちがどうあるべきかである。以前、台湾の山岳民族の人たちの記録や、歴史遺物の展示を見たことがある。とても興味深いものがあった。台湾に行ってみたい。そして台湾の田んぼも見てみたい。田圃を見ればもっと台湾が分かる気がする。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

稲田防衛大臣の辞任

2017-07-30 04:35:41 | Peace Cafe

稲田防衛大臣が辞任した。この人が能力がない人であったことがよく分かった。安倍氏が次の総理大臣候補とまで持ち上げていた理由は、アベ政権のイメージ戦略の一つだったのだろう。イメージというものは剥がれてみると哀れなものである。また危険なものである。大臣になるという以前に、衆議院議員になるような人ではないと思う。人を代表するような役割を認識できない人であった。せいぜい籠池氏の顧問弁護士である。アベ政権は古くからの芝居の一座である。日本をどうにかできるかのような、演目を演じようとしている。ところが具体的な方策など持ち合わせてはいない。一応受け狙いの「アベノミックスで経済を良くする」を決め台詞にしておけば、観衆を引き付けられると考えたのだろう。そして、祖父から受けついた憲法改定の思いを掲げてきた。その演出はなかなか巧みで、稲田氏を防衛大臣にすることで、日本会議も、一般観衆も、大向うを唸らせ、拍手喝さいになるはずだったのだろう。

ところが、稲田氏は役者失格で舞台を降りる。アベ氏も同じであるが、決められた台詞を演じている間は、落ち度はないのだが、自ら台詞を作りしゃべることは、大根役者なのだから無理なのだ。アドリブの効かないタイプの役者なのだ。制服組幹部からの「報告を認識が出来なかった。」これはポロリと出た本音。台詞としては「記憶にない。」小泉劇場は田中真紀子外務大臣の辞任で、劇場そのものが崩壊した。今度もそうなりそうな気配である。そもそもアベ芝居は憲法改定を目的とした一座だ。稲田氏の無能をさらけ出した以上、先に進むことは無理だろう。そう思いたい。防衛省を束ねる、肝心の大臣がその役割と意味を理解できていなかったのだ。防衛大臣に重要なのことは、日本の安全保障の責任者である自覚だ。当然省内を完全把握していなくてはならない。辞任に当たっての言い訳が、「特別監察を実施したから、省内の問題点が明らかにすることができた。」である。大臣がしっかりしていれば、起きなかった問題であることさえ理解できていない。

武力というものは、クーデターを企てることも可能な組織である。完全に政府が把握していなくてはならない。それが文民統制の根本にある。国民の側に居なくてはならない。自衛隊は平和憲法を理解していなくてはならない。アベ政権が平和憲法をないがしろに拡大解釈している内に、自衛隊自体が法律の拡大解釈を始めたのではないだろうか。ジュバには戦闘はないと総理大臣が国会答弁しているのだ。出先の部隊も、戦闘がないという認識で統一しなければならない。今後はこういうことになる可能性が高い。安全保障の危機的状況である。現場の認識よりも、政治の認識が優先されたのだ。自衛隊は到底戦闘の現場に向えるような状態にはない。歴代の防衛大臣がこの自衛隊内部の、現実からかい離した空想的組織である実情を把握出来なかったであろう。実戦経験がないのだから、当然と言えばいえるのだ。日本の社会で暮らしていた普通の青年が、戦闘地帯にワープしたようなものなのだ。

防衛大臣の役割は、日本国憲法に示された武力を否定した理想主義を自衛隊がどのように生かすかである。自衛隊にある憲法による制限の意味を、前向きに評価し、自衛隊が平和のための部隊に成れるかである。駆けつけ警護など不要である。どれほど非人情と言われようとも、平和の為に中立的に一般の住民の為の支援を行う。あくまで平和部隊である。そして災害支援である。大規模災害の支援は国内においても、自衛隊以外にはできない役割となっている。防衛省の活動中心的な任務として、位置付けるべき内容である。安全保障の意味と範囲を見直すべきだ。地方自治体によっては災害対応が不十分である可能性は高い。災害が予測される中、のんきにゴルフに行って酒を飲んで寝てしまうような知事すらいる。防衛大臣は災害支援の先頭に立つ必要がある。そして文民統制である。憲法の理想から外れている、自衛隊の現状を十分に理解し、民主主義に基づく自衛隊の運用を考える必要がある。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

稲作出穂期、葉色による分析

2017-07-29 04:03:05 | 稲作

葉色板 カラースケール (渡部さんの写真)右上の計測器がデジタル式。

色は私のパソコンではほぼだが色が正しい。葉色番4は若竹の色という事だと教わったが、若竹にも色の幅はかなりある。欠ノ上田んぼの稲は5になっているところがある。色については絵を描いてきたので、大体見ればわかるつもりだ。デジタル方式で一枚の葉に充ててみる見方もある。これだと4,2とか出た。しかし全体で見た方が良いと思う。田んぼ一枚一枚色は違う。その違う理由をあれこれ考えてみると、稲の生育状態が、見えてくることがある。田んぼのムラと緑肥の育ちが関係していたり、藁が漉き込まれたところが、色が浅くなったり、何故か成育の良く早く黄色くなるところが畔際であったり。1本の木が日陰を作り、日照の影響で色の浅いところもある。水温が低ければだいたい色は濃い。下の写真の3番田んぼは苗代であった。黄色っぽい4以下の部分は、苗代の通路で、早く代かきをしなかった部分である。ともかく色が浅いという事は多様な原因がある。その原因を知ることが稲の生理と土壌を知る手掛かりになる。

苗代の田んぼ3番である。苗代の為にそばかすを蒔いた筋が色の濃い場所だ。色の黄色い筋の部分は、歩きやすいように代掻きをしなかった場所だ。田植えより、6週間前に蒔いたそばかすだから、15週経過しても葉色として影響が残っている。濃い場所が5で黄色いところが3と見ればいいだろう。田植え9週目としてはかなり濃い方ではないだろうか。

9週目に葉色を見るとは、田んぼの中での葉色のムラである。田んぼの淵付近が早く色が薄くなる傾向がある。そして背丈は高い。これは生育が早いためと考えた方が良い。緑肥が多く育ったところは濃いままのことがある。これはチッソが多いいのかもしれない。そば糠などを多く蒔いたところが、濃くなっていることもある。土壌の中の様子を推測材料が葉色の変化である。色が薄い時には、肥料不足もあれば、生育が他よりも進んでいる為色がさめてきていることもある。色の変化の原因を知ることが、稲の生育を知る手掛かりになる。

一般的な農法の稲作では葉色を見ながら穂肥の追肥を調整する。最高分げつ期頃、追肥をする。最高分げつ期は出穂30日前の頃で、葉の色がカラースケールで4以下であれば、穂肥が与えられる稲と判断する。葉色は出穂40日前に一番濃くなり、徐々に色が浅くなってゆくのが慣行農法の稲の葉色の変化である。有機農法あるいは無農薬の稲は一般に葉色は40日前より、30日前の方が濃いぐらいになる。現在出穂20日前でこの濃さである。そして出穂の頃でも葉の色はある程度濃さを残している。私にはこの理由がまだよく分かっていない。

7月28日の早朝の田んぼずいぶん色が違う。29日には8番の色が少し濃くなった。

先日、農業技術センターの岡野技官から窒素が多いいからだと教えられた。確かに窒素の供給があるから、光合成も盛んにおこなわれ葉色も濃くなるのだろう。しかし無肥料のかなり窒素不足の稲であっても葉色は濃いままである。その理由は土壌の窒素分の残留だけでは説明できないことと考えた方が良い気がするのだ。例えば根が広く深く張っていて、しかも根が健全で肥料吸収力の高い根圏が広いためという事も考えられる。もし単純に窒素量で考えてしまうと、土壌内部の世界で起きていることのつじつまが合わなくなる。何故土壌の窒素分の少ない自然農法の無肥料稲作の稲の葉色が後半に入り色がさめない状態で濃いままなのかは、説明できないことになる。私の仮説では1、根の活力の大きさが違っている。2、土壌微生物の活動によって、土壌が灌水状態でも活性化されている。3、光合成能力が高い大きく厚い葉が出来ているために、葉色は下がらない。4、根が広く、深く広がり、根圏が広い。

手前が一番色が黄ばんできた8番の田んぼ。穂肥を入れてみた。1週目で黄ばみが止まった気がする。奥は12番のもち米の田んぼで色むらが大きい。初めての田んぼで緑肥はない。多めにそばかすを入れたのだが、そばかすの撒きムラが出ていると思われる。

葉色の分析を理解できている訳ではない。今わかっていることは出穂の時期も葉色が濃いという事だけである。そして一般には穂肥を必要としないという事になる。一度も穂肥を与えたことはないが、(今年実験で2か所に入れてみた。)秋落ちの稲にはならない。穂は100粒以上の大きなものになる。粒張りも十分ある。そして畝取りの稲になる。今までの私のやり方の自然農法では、分げつの取り方の問題があった。田植え直後に肥料が利かないのだ。むしろ田植え直後藁の分解に窒素分をとられてしまい、分げつが遅れる。今年はそれが解決できる見通しが立った。2つの方法がある。2度代かきである。苗代を作る際に田んぼ全体をそばかす撒き、アラオコシ、代掻きとしてしまう。ソバカスは稲刈り後の藁をまき散らし、その上から蒔いてある。緑肥は藁の間から発芽することになる。土壌は耕す場合も、耕さない場合もある。緑肥を漉き込む場合、初期の土壌窒素がその緑肥の分解に取られてしまう事がある。それで藁は必ず堆肥化して戻すこと。

緑肥が生である方が分解しやすい。但し、生の緑肥の分解は土壌が十分発酵型になっていない時には腐敗方向になってしまう。発酵型の土壌であれば、ソバカスと生緑肥が即座に発酵を始める。そして雑草を抑えトロトロ層を形成する。土壌はこの時匂いを発する。このドブのような微妙な臭いを嗅ぎ分けなければならない。腐敗であるか。自分の望む発酵であるかだ。発酵型の土壌になり、うまく調整ができるようになれば、生の緑肥を漉き込むことができる。来年は苗代を作るときに、全部の田んぼをアラオコと軽い代掻きとしてしまおうと思う。その時にそばかすを十分に入れる。そして、田植え前にもう一度代掻きをする。田植え後にそばかすを少し撒く。その量は緑肥の生育状態によって変える。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

相模原やまゆり園 殺傷事件

2017-07-28 04:06:59 | Peace Cafe

この事件の重さは一年経過しても私の中では少しも変わらない。障碍者を殺戮した植松聖被告は自分の行為の正当性を、少しも変えていない。一年経過しても考えを変えない。植松被告の主張はここに記すのも憚るようなひどいものである。人間存在の尊厳について問いかけている。人間は何のために生きる価値があるのかそれぞれが考えなければならない。植松思想はヒットラー思想と同類の思想だ。植松思想が実は、ひたひたと日本社会の土台を侵食し始めているような恐怖がある。何時の時代にも優性生存有理の思想は存在したのだと思う。しかし、それを抑制する共存の理想主義が存在する。そして社会全体としては、穏やかな安寧をもたらしてきた。競争主義はあるけれど、お互い様じゃないかと、融通を付けてきた。その私の中にあるあいまいな博愛的精神に、勝負を挑んできたような恐ろしさがある。あえて言えば、私の中にも植松思想は存在するのだ。だからこそ、恐怖を覚えたと思わざる得ない。

多分、大半の人間は私と同様であって、宗教的信仰や確立した思想を持って行動している訳ではない。曹洞宗には弱者救済の信仰理念はないと思う。つねに自分の中であいまいに揺れ動いている。その生理的な行動の原点に、お互い様だ、明日は我が身と助け合って生きている庶民の感覚が薄れかけている恐怖はある。私の祖父や祖母は明治時代に育った人たちだ。この時代は日本が最も変動し、何度もの戦争の時代を経験した。庶民は日本の歴史上もっとも疲弊した時代だろう。助け合わなければ、生き抜くことなど出来ない時代であった。江戸時代よりもはるかに暮らしとしては厳しい時代であった。列強諸国からの圧迫から、脱亜入欧を目指し、それまでの暮らしを支えた精神の有り方を覆さざる得ない激動期である。その中でも、江戸時代より受け継がれた、庶民の救済思想は残っていたと感ずる。「夕飯を呼ばれるように呼んでこうし。」とよくおばあさんは近所の家族をご飯を誘った。子供の私は、食事事欠いているなど全く分からなかった。

確かにお寺さんだから、そうだったのかもしれない。お檀家さんから頂いた、酸っぱくなったうどんこがあるから、早く食べなければならないから、などと言っていた。まずは、おほうとうでお腹をいっぱいにしてからご飯を食べるような貧しさだったのだ。貧しいから互いに助け合う。そのご飯を呼ばれに来た家族は、薪割りや草取りに来てくれた。何かしてあげるというような空気はお互いになかった。何とかしのぐしかない空気だった。おじいさんはうちの子供は食が細いから、こうしてみんなが来てくれると良く食べるのでありがたいから、子供だけでも毎日来てくれないかなどと、いう事だった。何もおじいさんがいかに博愛主義者であったかと自慢している訳ではない。当時の庶民の空気というものがわずかに残っていた姿を記録したい。

今は確かに子供食堂はある。路上生活者のパトロールはある。頭の下がる活動を続ける有難い人たちがいる。確立した活動として、素晴らしいものがある。と同時に植松思想もどこかに何時もあり、社会の底から強烈に顔を出す。そしてその中間にある、当たり前の暮らしの中の実態というものが、かなり冷淡になり始めていないかである。社会が弱くなり始めていないかである。曖昧な庶民感覚の中にあった、お互い様の思想が失われ始めた恐怖がある。いつの時代もそうであったのであろうが。もしかしたら、国際競争力とアベ政権が叫ぶようになってから、つまり日本が国際競争で抜きんでることが無くなって以来、勝たねばならぬの圧迫感、競争社会の敗者の風が、通り抜けるようになった気がする。仮想敵国を必要とするような日本であってはならない。敗者の自己責任論などあってはならない。生きるという事には勝ちも、負けもない。その者がそのものとして十分に生きるという事だ。どうすればいいのか、恐怖にすくんでしまう。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

困った時の憲法改定

2017-07-27 04:01:58 | Peace Cafe

アベ政権の公私のけじめの無さから、支持率は急速に低下した。この行き詰まりの打開のために、憲法改定を提案し目先をそらそうとしている。政治危機と言わなければならない。アベ政権は共謀罪、カジノ法案を数の力で押し通した。この時には支持率は低下しなかった。ところが、森友、加計と教育にかかわるところで、馬脚をついに現した。違法性はない。しかし、汚い裏口入学のような、権力を利用した忖度が幅を利かせてきたのだ。安倍一強の中で、安倍氏の思惑のお先棒を担ぐことが、優遇されるであろう道になっている。周囲が争って手柄合戦をしているのだ。名誉校長とか、肩書教授というような具合で、取り巻きと政府がつるみ始めていたのだ。このままではアベソフト独裁政権は転覆する。そこで切り札として出してきたのが、憲法改定である。しかも正面突破の9条2項の改定を次の国会で提議すると、最後の賭けに出たのだ。誰が考えているのか、なかなかの演出家がついている。

さすがに、憲法9条の改定が国会で審議されるとなれば、これより大きな問題は存在しえない。加計が登場して、森友が消えたように、憲法9条問題となれば、アベ忖度問題など小さなことになるだろう。今論議されているのは、実際にある自衛隊を、憲法上も問題のないものにしようという、それを加憲という形で行おうという、いかにも穏便に見える、公明党案への寄りつきである。しかし、この加憲はアベソフト独裁らしいやりかなのだ。クーデターにも等しい軍国化への道を可能にするものだ。そこで、自衛隊の存在を憲法に書いたうえで、文民統制をも加えるとしたものだ。それは、もしここで文民統制がなされないとなると、自衛隊の独走が、軍の政治介入などを含めて、明治憲法下の軍と同様のことになりかねないものなのだ。

何故、70年を超えて、日本が平和を維持できたかと言えば、憲法9条の歯止めによって、自衛隊の自由な行動を規制していたからである。自衛隊法が憲法を拡大解釈して、憲法の理想とする平和の精神をなし崩しにして自衛隊法が出来た。自衛隊は治安維持のために出動していたはずだ。安倍氏が辺野古の米軍基地を作るために、反対運動を抑え込むために自衛隊を出動させたとする。現状ではそれは大半の国民の反感を買うであろうから、自衛隊法が出来てしまい、法的には可能であるとしても行えない。そして安保法案の成立によって、自営買いは絵画への派兵も可能となった。そして南スーダンの戦闘地域に出動した。さらに憲法において、自衛隊の存在が明記され、軍事的な権力として行動できることになれば、自衛隊軍の考える所の正義に向い行動を起こす可能性が出てくる。憲法で武力が否定され、本来であれば自衛隊も持つべきでないのだが、という理想主義が軍の自由な行動を歯止めしているのだ。

憲法9条は軍というものの持つ軍事力自体を否定している。武力によって平和は作れないという理想主義を掲げているものだ。憲法はそいうした、理想を掲げる傾向がある。然しそれは立憲主義とは相反するものである。立憲主義は現実主義である。法律と動揺にそれに従い、国を運営しなさいと、内閣に銘じている原理である。立憲主義で言えば、軍を持ってはならないという理想論は、矛盾した考えか阿であるのだが、この日本国憲法における矛盾が、日本を軍事的な国家にしないで来れた幸いだったのだ。その平和主義によって、日本は国際社会に復帰できることになった。ところが、アベ政権は教育勅語を評価し、学校教育に取り入れようと考えるところまで来た。もし自衛隊が憲法に明記されれば、自衛隊が自立して、自由に行動を始めることになる。日陰から日向に出ることになる。確かに自衛隊員の立場からすれば、当然のことかもしれないが、日本の向かう方向からしたら、理想を半分捨てることになる。理想をここで捨てれれば、日本はいつ何時、明治の御代に戻るかもしれないのだ。ソフト独裁の柔らかさにごまかされてはならない。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

野党に結集してほしい

2017-07-26 04:22:54 | Peace Cafe

アベ政権はそのソフト独裁の姿勢が国民に嫌悪され始めた。予算委員会では、実に丁寧なせりふ回しでおごりを反省して見せた。ところが実際の計画は何も変えない。口先のきれいごとの反省は国民を欺くソフト独裁の演技に過ぎない。1月20日まで加計学園が獣医学部の新設を申請することを知らなかったという。あり得ない嘘だ。1年以上前から知っていたとしか思えない。もし互いの立場を考慮して話し合わないというのであれば、総理大臣の間は一緒にゴルフを行くことも、ブログに写真を掲載することも控える。そして安倍総理の間は友人として獣医学部の新設を申請しないものだ。

ここで野党の結集がなければ、日本の政治は良くならない。共産党から民進党まで、あらゆる摸索をして統一を求めることが、日本の未来の為だ。蓮舫氏の戸籍を公開せよというのが、民進党の都議選敗北の責任問題から出てきた党内の意見だそうだ。これほどひどい党に期待する訳にはもう行かないだろう。民進党を解散し野党の再編成することが日本の為だろう。民進党は原発への対応では東京電力の労組が原発推進の為に、内部でごね続けている。その為に民進党の一貫性のなさが浮き上がった。民進党が国民にどれほど迷惑をかけたのか理解しているのだろうか。今やアベ政権のソフト独裁を支えているのは、民進党の存在になっている。中国のように共産党一党独裁では、国民の反感が起こる。はけ口としての民進党も一応存在するので、独裁ではないという言い訳も立つ。民進党は党利党略を捨て、我が身を捨てて日本の為に野党再編成の核にならなければならない。それは自由党が主張するオリーブの木というものらしい。「平和憲法9条を大切にすること」と、「原発を順次廃棄してゆく」という2点で集結したらいい。

政党というものは理念がなければならない。議論は自由に行う。そして決めたことには従う。ところが、最近の政党の議論は少なくとも国民には見えない。党員が党の方針に異論は唱えられない不健全な状態。民進党は議論があっても、結論がない。常に不満がくすぶっている。靖国参拝派まで存在する。この状態で支持を希望するのはおこがましい。組織的に支持しているのは、労働組合ぐらいなのだろう。そんな政党に蓮舫氏はいる必要がない。何故、戸籍を公開せよなどという、意見が出てくるのだろうか。心底悲しくなる。ネトウヨのように中国のスパイ説を主張するような時代錯誤の人間が党内にいるのだろうか。こうした輩を相手にすること自体が歪みになる。蓮舫氏を議員として評価している。だから、野田氏を幹事長にしたときには失望した。小池都知事に比べて、蓮舫氏にはイメージ作戦がない。アベ劇団のやり方から学ばなければならない。選挙で勝つためには演出という時代なのだ。

きっと野田氏登用は党内事情なのだろう。だから民進党はダメなのだ。そんなものを振り切って、蓮舫氏で新鮮なイメージを作り出さなければだめだった。早く民進党を切り上げることだ。憲法改定論の靖国参拝組と平和憲法推進派が一緒にはやって行けない。小池新党など、都民ファーストの一点張りである。意味不明である。要するに意見で動くわけではない。蓮舫劇場では、原発反対1点張りで進んだらどうだろう。そして、小泉から、細川から、小池まで取り込む。原発推進派は出てもらう。アベ一座に対抗する出し物だ。原発問題では世界の動きは変わってきている。原発の経済性が、日本では失われたのだ。災害列島には原発は不向きな方法という事が明確になりつつある。そして保管している放射性廃棄物まで事故を起こしている。廃棄物の処理に展望が生まれる訳がない。まともな企業はもう原子力には手を出さない。東芝の二の舞になる。

国民が希望を託せる受け皿としての野党を作るべきだ。その対立軸は「原発廃棄と憲法を大切にすること」だと思う。この2点で合意できるもので集まることだ。都民ファーストの意味不明ですら、選挙に勝利した。内容ではない、アベ政権のソフト独裁を不安と感じたからだ。加計学園と森友学園に対する安倍晋三という人間の接し方の中に、独裁政治の匂いを感じたのだ。このソフト独裁は拒否しなければ、自分が被害者になるとみんなが感じ始めた。それでも都議会民進党は消滅の危機だ。そこに野党というものの在り方を学ばなければならない。都民ファーストという党名にしたくらいで、内容などない。都民を、市民を大切にするなどどこの選挙でも、一つ覚えのように言われていることだ。大切にする具体的な政策こそ重要なのに、それを明らかにしなかった。イメージ戦略だけだ。都民ファーストに何か意味が有るかのように演出して見せた腕だ。都民ファーストは、結局のところ小池ファーストに過ぎない。大阪維新の現状を見ればわかる。

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

写生画の意味

2017-07-25 04:11:28 | 水彩画

欠ノ上田んぼ2017 中判全紙 ファブリアーノ 

私は写生画を描いている。風景を見ながら描いている。絵を描く人の中には、何も見ないで描く人も居る。抽象画というものはたぶんそういうものなのだろう。頭の中に湧いて来るものを画面に表現してゆくのだろう。その湧いて来る何かが、現実のものから来ている抽象風の絵もある。いずれにしても、制作は自分の観念の作業が中心になる。たぶん、自分というものの内部に何かがあると探っているのだろう。私は写生画である。絵を描くときには自分の観念は出来る限り、表れ出無いようにしている。だから絵を描いているときは、考えないようにしている。考えなければ出ないというものでもないので困るのだが。できる限り見ている風景に反応しているだけの、自分になるようにしている。それは、自分というものは、外界と自分と思っている存在の間にある。そいう関係性にあると考えているからだ。自分をいくら頭の中に探ったところで何も生まれない思っている。これは最近のことかもしれない。

自分が何かを具体的に行う時に、初めて自分というものの在り方が現れてくる。田んぼをやる。誰でも田んぼのやり方を頭の中で考える。しかし、田んぼを行うという実際の行動を抜きに田んぼというものはない。いくら頭の中で田んぼ耕作を考えたところで、田んぼのことは分からない。ゲームソフトの畑というのがあるらしいが、あれで畑が分かると思う人はないだろう。夏の暑い一日雑草を取るという事がある。汗をダラダラ流しながら、田んぼの中で這いずり回り少しづつ田んぼのことが身についてくる。草取りを体験的にわからない人が、除草剤は害があるから使うべきではないなどと言うと腹が立つ。まず草取りをやってみてから、言えるものなら言ってみろと思う。自分ができない正論など聞きたくもない。絵を描くという事はそういう事だと思い始めた。絵を見て、絵というものはこういうものだなどと、理解しても描けるのは絵のようなものである。絵のような外観のものに過ぎない。外観だけでいいと言うのが装飾画なのだろう。上手に、見栄えよく出来上がれば、装飾品としては合格なのだろう。

しかし、芸術としての絵画というのものは、そういう外観的な装飾的要素とはかなりかけ離れたものだと考えている。自分と外界とのかかわりの中で、自分というものの何物かが、画面の上に現れてくる。その立現れる、得も言われぬ不思議と、自分とが通い合うようにしながら画面が作られてゆく。自分というものはそいう、何かとの反応で自己確認ができる。自己存在というものは、外界との反応のようなものなのではないだろうか。見えている外界と自分の反応というかかわり方が、画面の上に表現される。これが絵のような気がする。しかし、この反応というものを支えているものは、自分が学習したものである。田んぼをやるとしても、田んぼそのものから学んだものだ。学ぶという方角にも、自分の何かがある。偶然もあれば、経済的事情もある。運もあるし不運もある。絵を描くという事で学んできたことは、分かってやったことはない。たぶんこんな方向だろうと思いながら手探りで身に着けてしまったことだ。出来れば全てを忘れたいが、実に着いた癖は消せない。少なくともその何かに固執しないで、自然に反応する自分になりたいものだ。多分、そういう事が出来る、自然の一部のような自分になりたいがために絵を描いているのかもしれない。

今の自分の絵は、学習の結果がほとんどである。自分が無意識になれるようになってくることで、より学習結果が表面化してきた。この良かれと思い努力し学習したものが、自分というものに至る障壁になっている。こう描こうというような意思的なものを、抜け出ようとしたことで、自分に至れるどころか、自分の学習した結果が表面化した。これは松波さんに指摘されたことだ。自分などという何かがあると思っていたのは実に奢りだったのだ。自分などない。ないという事になればいいが、学んだ癖のようなものだけが浮かび上がってくる。どうでもいいものが浮き上がってきた。これをどのように取り除き、純粋に反応する自分の眼に至れるか。そうか目も学んでものを見ることができるようになったのだ。こうした諸々のすべてが絵になればそれでいいわけだ。ダメも含めて自分である。良い絵を描こうという想念がいまさらながら自分に立ち至る壁である。

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

特別防衛監察という身内調査

2017-07-24 04:05:02 | Peace Cafe

速やかに出されるはずの防衛省の特別防衛監察が、4か月たった今も出されないでいた。その理由は稲田大臣も隠ぺいを了解していたらしいという事が出てきた為だったらしい。特別防衛観察は防衛大臣には調査が及ばない。防衛大臣が命令して、省内の不祥事を調査する組織だ。今回の特別防衛監察は南スーダンでの現地隊員からの日報による報告が、正しく伝わり、保管管理されていなかったおそれが出てきて行われた。現地ジュバにおいて、戦闘があるという国連の認識と、日本政府の戦闘はなく安全な地域だという、国会答弁にずれが生じた。そこで日報ではどうなっていたかという問題が出てきた。日報ではなんと、戦闘状態だという報告がなされていた事が分かった。ところがこの報告を、すでに破棄したと陸上自衛隊は説明していたのだ。ところがよく調べてみたら、破棄されていなかった。破棄したと発表した以上、破棄したことでつじつまを合わせていたのだ。虚偽の報告を行う事に当たっては、稲田防衛大臣も了承していたという事が出てきたのだ。

どう考えても防衛省の文民統制は出来ていない。国防としては極めて危険な状況である。すぐにでも、外部組織が自衛隊内部を徹底調査しなければならない事態である。稲田防衛大臣の使った、「認識がありません。」という言葉は実に都合の良い言葉だ。以前の証人喚問では、「記憶にありません。」が流行していた。その次によく言われたのが、「刑事訴追にかかわることなので回答できません。」そして、この度登場した言葉が、認識がありません。悪弁護士用語だ。認識がないと言われたら、これはもう相手が何を言おうが、後になればどうにも覆せる言葉。自衛隊を選挙に利用した際には「誤解が生じたならば、撤回させていただきます。」などと弁明して誤魔化して終わっていた。その応援演説を聞いた人に対し、その発言が間違いであったことは、どうやって説明したのだろうか。公人たるもの一度公言したことは取り消せないのは当たり前のことだ。

防衛省は出先の隊員の個人メールなどは真偽が疑わしいぐらいで、済まそうとしたわけだ。ところがジュバの衝突は防衛省の方でも、充分に把握していたという事が分かってきた。しかし、その時点でも国会では、ジュバには戦闘はないと、稲田氏は国会答弁をしているのだ。何というひどい大臣であろうか。大臣が無視されていたとすれば、文民統制にかかわる。大臣にも戦闘の認識が共有されていたとすれば、隊員の命を軽んじた虚偽答弁になる。そこで「認識がありません。」が出てきたのだろう。幹部で相談した結果、稲田氏に報告を上げ、最終判断を仰ぐのが普通だ。その報告を稲田氏が認識できなかっただけだというのだ。認識が出来なかったで誤魔化してしまう防衛大臣で日本の防衛はどうなるというのだろう。派遣された自衛官は無念であろう。この先日報には戦闘行為は記載されないだろう。軍という武力を司る防衛大臣が、自分の保身だけの発言をしているようでは、日本には安心も安全もないことになる。政治家として、責任を取るという事はどこに行ったのだろう。

なぜ、こんな事態でも防衛好きの右翼の連中が、稲田更迭を主張しないのだ。安倍総理大臣も稲田支持に回るのか。あきれ果てる。これが文民統制の実態である。それでも辞めないでほしい。辞めたら靖国好きの連中の知性の低さを見せつけておけない。靖国に参拝する政治家は押しなべて、保守派の歓心がほしい名誉欲だけの人種だ。本当に国のことを考える人間であれば、潔く自ら辞任するに決まっている。それができないという事は後ろから操られているだけなのだ。何とか最後まで醜く頑張ってもらいたい。それが日本をまともな国に生まれ変わらせる、再出発になる可能性もある。誰かが後ろから引きずり降ろすのも止めてもらいたい。一日でも長く文民統制の無意味さの象徴として、軍というものの性格を表す見苦しい存在として、防衛大臣をお願いしておきたい。いや、それでは日本が危ない、というようなことは実はない。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

選挙至上主義の公明党

2017-07-23 04:41:37 | Peace Cafe

公明党は平和の党のはずであった。何故、憲法を変え、安保法制を推進し、共謀罪に賛同し、カジノ法案に賛成するのか。そして都民ファーストと選挙協力をしなければならないのか。都議会選挙では公明党が小池党について、自民党が惨敗した。公明票という固定票がくっ付いた方が勝利する図式がまた再現された。公明党の存在が日本の政治に日増しに影響を増してきている。労働組合票も、農協票も、企業票も、支持母体としては当てにならなくなってきた中、創価学会票だけが意味を持ち始めている。アベ政権は深い反省をして、公明党にへばりつくであろう。あらゆる地方議会でも同様のゆがみが生じている。公明党がどちらにつくかで選挙の結果が変わる。沖縄の公明党は自由投票を決めたので、翁長知事が誕生した。石垣では公明党が現職の中山市長につくかどうかが微妙なところのようだ。中山市長は自衛隊誘致をした張本人でありながら、不明瞭な態度でのらりくらりごまかしとおし、創価学会を引き寄せたようだ。創価学会の現世利益とはこういう事なのだろう。選挙に勝つという事で権力を得るという事なのだろう。

政治がこうも悪くなったのは、小選挙区制の為だ。選挙至上主義の公明党は強そうな方にくっつく選択しかない。政治に政策討論が無くなった。政策での選挙でなくなれば、公明党の存在はより大きくなる。自民党の実際は知らないが、外から見える範囲では自分の意見を表明してはいけないような状態だ。これは公明党の支持を得るための方策、という理由があるのかもしれない。広くどうでも取れるようなことだけを表明する。具体的なことを言えば、必ず賛成と反対がある。それを避けたいという心理が働いている。憲法改定についてですら、公明党の賛成を得るように近寄っている。国会においても、まともな憲法議論がない。どうせ時間がたてば、政府案が通るのだから、十分議論をしたという形だけをつくる国会。しかし、カジノ法案で分かるようにまともな議論などどこにもないまま通過してしまう。共謀罪など本質の議論など全く隠されている。

公明党は選挙に有利な方につくだけである。そして創価学会という確実な組織を背景に選挙を行う。公明党の存在が政治の中にあること自体が、世の中全体に、政治に関して興味を失わせ、活性化を妨げている。どうせ選挙などしても無駄だ。政策議論などしたところで無駄だという意識を作り出している。自民党も公明党頼みをやっている内に、都議会と同じ痛い目を見るはずだ。アベ政権の真綿首のソフト独裁政治と創価学会の関係はどうなっているのだろう。ソフト独裁で一番困るのは公明党のはずなのだが。創価学会の内部を自民党が完全に把握すれば、自分の意見など何も言えなくなるはずだ。今もそうなのだろうが、さらにへつらうだけの党になる。創価学会員は目を覚ます必要がある。このままでは公明党は政府に支配されることになる。公明党は自分たちはどのような政府を望むのかを明確にすべきだ。本当に平和憲法をなし崩しにしてもいいと考えているのかである。

公明党が石垣島に自衛隊が来ることを、石垣の平和のために良しとするのであれば、それは仕方がない。しかし、公明党議員は以前から自衛隊の誘致に疑問を持っていた。創価学会会員の多くは石垣に自衛隊基地ができることに疑問を持っている。そのため中山市長は公明党に支持をしてもらいたいがために、自衛隊基地に関する答弁が、何を言っているのかまるで分らないことになる。市長選挙前に自衛隊基地誘致を明言するべきだ。誘致は決めたが、具体的な計画が出ないと賛成か反対か判断できないなど主張する。判断するためには誘致を決めるしかない。などと訳のわからない言い方をしている。言葉を弄して議論を避けようとしている。要するに創価学会会員に対する配慮であろう。こうした中山市長を生んでいるのが公明党の日和見主義である。ここでも忖度政治が行われている。自衛隊基地は、石垣の未来にとって必要か、不必要かを明確に正面から議論すべきである。そして選挙に於いて明確に意思表明して市民の判断を仰ぐ必要がある。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小豆の播種と長ネギの植え込み

2017-07-22 04:32:52 | 自給

7月17日9時から舟原田んぼ下の畑に、長ネギを植えた。ここは田んぼ跡地で、中山間地の補助対象になっている。長ネギ苗は1本ネギと分げつする長ネギを、岩本さんが準備してくれた。毎年のことで有難いことだ。この畑はジャガイモの後作になる。土の感触はだいぶ良くなってきた。畝の長さは20メートル。苗数は150本ほど。これだけあれば自給には十分である。7,8名の参加だ。私は奥から3本目の畝が割り当て、自分がジャガイモを作ったあたりだ。ジャガイモ畑にソバカスを撒いて、トラックターで耕した。その後、耕運機で畝たてをした。すぐに長ネギを植え付けた。私は植えた翌日にソバカスを上から撒いて置いた。ソバカスを撒き終わったら雨が降った。天の差配がここにもある。その昔、大川さんという自然農法をされていた方が、ネギを植える時には、米糠を一握り与える。と言われていたので、そのことがなんとなく頭に残ってソバカスを撒いている

長ネギは活着してきた。自分の畝にはソバカスを撒いて置いた。落ち着いたところで少し土を寄せるつもりだ。畝幅は60という事で、間を耕運機で草取りができるという事になっている。草取りは上手く行くだろうか。やはりネギ類は草があっては出来ない。こうして、みんなでやる畑はやりがいがある。白ネギクラブという事になった。一人でやるよりかなりの省力化が図れる。耕すのは私、畝たては根守さん、苗の準備を岩本さん、植え付けはみんなそれぞれがやった。上手な人から、いろいろ教わることができる。私はソバカスを撒いては少しづつ土寄せをする計画である。ネギは正直自信がないので、良くみんなのやり方を見て学びたい。

 

同じく7月19日にお隣の畑に、大納言小豆を播種した。ここはタマネギの後作になる。ここもタマネギ収穫の後に、ソバカスを撒いて、トラックターで耕しておいた。そこにごんべいで播種した。60㎝の畝幅である。小麦用のゴンベイなので、上手く行くか心配だったが、穴をガムテープで3つのうち2つを塞いだ。これで30センチ間隔ぐらいになる計画だったが、発芽してみたら20cmおきぐらいになっている。しかし発芽していないところもあるから、ちょうどかもしれない。ゆっくり丁寧に蒔いた。蒔く深さはちょうどよかったように思えが。畑は乾いていたのだが、蒔いて翌日に雨が降った。このところ雨が少なく心配だったのだが、有難い天の差配を感じる。種が50粒ほど余ったので、畑の隅に捕植用に巻いて置いた。しかし、意外に捕植の必要はなさそうだ。小豆を収穫して、収穫祭でお汁粉を出したいものだ。

7月21日には小豆が発芽した。慈雨とはまさにこのことだろう。4日目で揃って発芽したのは珍しい。小豆が小麦の播種器で播種できるという事は確認できた。糸を張ってあるのだが、ハトが来ていたので、少し食べられたか心配していた。ハトはたいして食べていなかったようだ。

一方大豆の発芽が上手く行っていない。結局のところ大豆は沢山蒔くしかないのだろうか。種を多めにとっておく必要がある。ダイズは7月8日に蒔いたのだが、その後発芽率が悪い。原因はよく分からない。16日になって、苗箱に追い蒔きをした。原因が分からないので、畑にまいてもだめかもしれないというので、苗箱に蒔いてみた。苗を足りないところに植えこむ予定である。22日に8日に巻いて置いた苗箱分を畑に植えこんでみる。後からの苗は、来週あたりに植えこむことになりそうだ。理由が分からないので、対応もできないのだが、上手く発芽できなかったことだけは確かだ。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

田んぼ7月20日の記録

2017-07-21 04:16:24 | 稲作

田んぼは例年7月20日に定時定点観測を続けている。田植えから50日たった。穂揃いまであと30日。以前の写真はここにある。同じ場所で写真を撮り、過去の写真と比較して、その年の生育の判断をする。穂ばらみ期である。その年の分げつが定まるころでもある。最後の仕上げに入る。今年の7月20日は干しをしていて水のない状態だった。順調な生育と見ていいだろう。初期生育はとても良かった。しかしその後の生育は意外に収まりつつある。穂肥を少しは入れた方が良いのかもしれない。稲の背丈は90センチに達したものもすでに出てきている。13枚目の葉の時期である。あと2枚葉は出る。止葉が出たらまた、1メートルを超えるのは確実になった。背が高くなるのは、栽培の結果だったことがはっきりとした。迷いは尽きない。水がない為に、例年の写真と写りが違うようにも見える。風の強い日だった。

1番田んぼ全景 

一番田んぼ南東角。例年写真はこの位置に決めている。手前に小さな株が一つ見える。捕植したものなのだろう。何故か、生育しない株というものがある。

2番田んぼ全景 北東角からの写真だが、例年このあたりに水が枠が今年はないようだ。

2番田んぼ北東角 この付近は分げつが25本ぐらいになっている。

3番田んぼ全景 苗床を行った田んぼである。肥料が残り他と変わるかと考えていたが、生育は特に変わらない。水口の方は生育が遅れていたが、ここにきて分げつが取れてきた。

3番北東角 23本前後の分げつ。

4番田んぼ全景 右側の石垣の下から水が湧いていて、水を止めることができない。干しができない田んぼになった。干した田んぼとの比較はできる。

4番田んぼ 北東角 

5番田んぼ全景 小さな3各田んぼ 水は入りにくい。代掻きはしていない。緑肥もよく茂っていた。

5番田んぼ 北東角 20分げつ位の普通の成育

6番田んぼ 全景 手前からの沸きが強く。生育が例年一番遅れる場所。今になって分げつが始まっている。

6番田んぼ 北東角 この付近はかなり茂ってきた。

7番田んぼ全景 成育が比較的整っている。

7番田んぼ北東角

8番田んぼ 全景 今年は一部が早く黄色くなり始めた。緑肥が不足した当たりかもしれない。穂肥を入れるならここかもしれない。

8番田んぼ 北東角

9番田んぼ全景 ここも色ムラがある。ここは稲わらを出した田んぼ。

9番田んぼ北東角 例年一番旺盛な田んぼになるのだが、今年は他と比べてそれほどの差はないようだ。

10番田んぼ 1本植も、4本植も差は無くなった。例年より少し生育が早い感じはする。

10番田んぼ 北東角 風が強くて葉がなびいている。このあたりは1本植である。

11番田んぼ 全景 全体に他よりは遅れている。例年こうなる。湧水中心の田んぼなので、遅れる。それでも今年はここからまだよくなりそうな感じがする。

11番田んぼ北東角 生育は落ち着いているが揃っている。

12番田んぼ北東角 ここだけ喜寿糯 他より10センチほど背丈が低い。この田んぼは始めて耕作する場所。初めての田んぼはやはり把握するのが難しい。ここも追肥の候補の田んぼである。

これで同じ日の、同じ場所での記録が、4年目になる。一番良いように感じていたが、実際はそうは変わらない。良いところもそうでもないところもある。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

田んぼは土用干しに入る。

2017-07-20 04:36:27 | 稲作

 

7月17日11時から、田んぼは土用干しに入った。写真は一夜明けた、18日朝6時のもの。全部の水を止めている。18日午後になって雨が強く降り、夕方には各田んぼにもう一度水が溜まってしまった。手前が里地里山の10番の田んぼ。中央に少し色むらがあり、色が黄色っぽい側が4本植え。いくらか緑の濃い側が1本植の部分。1本植の方は今も分げつが続いている。4本植の方は新しい分げつは無いように見える。予想通り、1本植も、4本植も分げつ数では変わらないという事が明確になってきている。色の濃いという事はまだ成育が盛んという事だろう。4本植より、1本植の方が根が生育方向へ活動が強い感じもする。現状で平均で20数本の分げつではないだろか。成育期間の風通しなどを考えると、1本植の方が勝るという事かもしれない。問題は1本植の方が捕植が多くなること。生育の悪い性質の株を植えてしまった場合、補うものがないという事もある。また後からの分げつの穂は小さいという事もある。

他の田んぼでも色むらが出てきている。8番などどうも緑肥のクローバーの良く出た付近が濃いようにも見える。色が濃いところは窒素がまだ充分にあるという事と、根に活力があるという事、そして成育が少し遅れたところ言えそうである。水口で色の濃いところはそういう事だと思う。これからどんな穂が出てくるかも着目点になるだろう。中央が7番の田んぼである。ここは田んぼの淵が少し黄ばんでいる。これはよくある現象で、田んぼの淵の方が根や葉に生育範囲の余裕があり、早く生育が進み、色が早く浅くなる。背丈もいくらか高い。手前が6番の田んぼで水が湧いている。いつも生育が遅れる。遅れるという事は色が濃いという事になる。ただこの時点での色ムラはあまり気にする必要はない。背丈は70センチぐらいになっている。

右端の黄色の鮮やかな田んぼが、お隣の慣行農法の田んぼ。現時点ではこれくらい色が違う。出穂1か月前のこの色の違いをどのように考えれば良いのかが、干しや穂肥に関しての判断材料になる。慣行農法ではこの時期色が浅くなり、穂肥を与える。穂肥を与えても倒れないという事だ。出穂1か月前になると、根から吸収する肥料が穂に集中的に行くことになる。肥料を与えても背丈を伸ばしてしまい倒れるという結果にはならないとされている。穂肥を与えたことはないが、いつも背丈が高くなる。肥料の効き方が影響しているとは思う。それだけでもないのではないか。茎の太さなども全く違う。1本植と、4本植で、茎の太さが1本植の方が太くなる。株が開帳型に広がりながら、しっかりした分げつが出る。それは、疎植の田んぼでは茎が太くなる。結局、1本植、疎植、で栽培すれば背丈も高くなる。倒伏と言っても、最後にな土が緩んで、根際で倒れることがある。茎が折れる訳ではない。

有機農業の私たちのような方法には、統一した稲作法の研究がある訳ではない。手探りではあるが、私たちなりのやり方を模索するしかない。 穂肥を今年は一か所だけ与えてみようと考えている。そしてどういう結果になるのかを比較確認したい。干しが終わり次第に穂肥を入れたいと考えている。そば糠でやってみる。そば糠が手に入るという事もあるが、田んぼに入れるものは同じものの方が良いのではないかと考えている。入れた糠は微生物が分解して、肥料になる。だから、同じものを入れる方が餌にしている種類の微生物が多く生息していてくれると思われる。9番は今年緑餌がほとんどなかった、出てきた麦も肥料不足で育たなかった。もし実験するなら、9番の田んぼに追肥をしてみることだろうか。9番は生育が進んでいる。23ほどの平均分げつになっている。例年一番とれる田んぼなのだが、昨年は病気が出て一部枯れた。今年は今のところ病気の兆候はない。

7月20日11時 1番、2番、12番の系列は入水を再開。一部に水が残るところもあるが、半分については、不安になり入水を再開。

7月22日朝3番、4番系列に入水開始。23日の朝の時点で9番10番に水が入り始める。

8番にそば糠3袋。11番にそば糠2袋を追肥する。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アベ外交成果なし

2017-07-19 04:28:59 | Peace Cafe

日ロ首脳会談は何の成果もなかった。成果がなかったどころか、ロシアはその後北朝鮮との関係を強めている。日本の役割は期待もされていなかったこともあり、報道もおざなりであった。北方4島での共同経済活動の為の調査をすることになったというのが、日本政府の発表した前進だそうだ。すでに前回の会談から4か月も経っている。実行されたのが6月末でやっと調査を始めるという事ではさすがに時間がかかり過ぎではないだろうか。まして北方4島の帰属に関しては何の話もなし。それはいいとしても、何故北朝鮮と接近を始めたのか。安倍氏は自分が総理大臣の間に返還させるのではなかったのか。ドイツでの主要20カ国・地域(G20)首脳会議出席でも、さらなる成果はなかった。確かにEUとの貿易交渉では前進したが、それは日本の企業が望むことで、食糧自給にとっては一歩後退である。外交としては成果ゼロと言えるのではないだろう。そもそも、アベ政権がアメリカに隷属している状態で、外交交渉をやったところで良い成果などあり得ないのだ。

アメリカがどう考えているかが重要なことなのだ。ロシアや中国から見れば日本が自立国家には見えていない。アメリカの使い走りが来たぐらいにしか見えないのだ。日ロの平和条約の締結は口先だけのことになっている。日本がまず独立国家にならない限りロシアとの友好関係は結べない。今回の日ロ首脳会談で分かったことは、日本の国際社会での立場だ。でたらめなトランプの提灯持ちという立場だ。大統領選挙の頃から書いてきたことだが、トランプは中国と友好関係に変わるはずだ。その時、アベ政権の中国敵視で、憲法改定をしようという戦略が崩れるという事を期待している。仮想敵国を作り、自己正当化を図るやり方は良い結果を生むはずがない。北朝鮮の核武装を止めさせる根拠は、世界中から核兵器を無くすということ以外にない。中国、ロシア、アメリカが核保有していて、何故、北朝鮮にだけ許されないのか。こういう論理が北朝鮮にはある。国連がどう制裁決議をしようが、核保有国が有利に世界を動かくしている現実の中で、武力主義においては手下になるか、核保有国になるかの選択肢しかない訳だ。

日本には核廃絶に向けて、ひたすらの努力をする義務がある。それが人類の唯一の希望だ。被爆国日本の役割のはずだ。にもかかわらず国連の核廃絶条約の批准にも加われなかった。アメリカに怒られたからだ。何処の国だって手下でいることは良いことではない。しかし、北朝鮮のように悪の枢軸と名指しされた国としては、核保有以外に生き残る道は選択できない現状がある。良いこととはもちろん思わないが、そういう選択に落ち込まざる得ないのが世界の現状である。トランプは日本や韓国の核保有を認めると発言したことがあった。それがアメリカファーストの論理の行き着く先である。それではなぜ、北朝鮮が北朝鮮ファーストでいけないのかという事になる。全ての国が自国のことだけを考えていたとすれば、世界は戦争状態に必ずなる。互いに譲り合い、互恵関係を構築する以外に、世界が戦争をしないで済むことはあり得ない。世界に戦争の火種は尽きないだろう。領土問題、経済格差、宗教対立、民族問題、食糧不足。どの問題も解決できるどころか、より深刻になり始めている。

アベ外交は日本の国会を避けるように続けられているが、いかにも成果のない結果になっている。日本が平和主義を捨てようとしているからだ。北方4島にアメリカの基地が作られるのでは、ロシアとしては耐えがたいことになる。日本国憲法は70年である。日本国憲法は世界のただ一つの希望である。もう一度その原点に立ち返る以外に世界が破滅から逃れるすべはない。世界中が自分のことだけを考える方向になってきている。その中で唯一世界全体のことを考えられる国としての、日本国の価値を探し求めるべきだ。理想主義だと言われるとしても、それ以外に世界が破滅から逃れる道はないのだ。武力主義による平和は危うく崩れかけている。北朝鮮の核弾頭がいつ発射されるかわからないのだ。それを止めることは誰にもできない。先制攻撃をするなどという発想で、日本の安全が確保されることはあり得ない。もう武力では平和は来ないという前提に立って、平和の道を探るのが日本の役割だと思う。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

宅配事業をやっていたころ

2017-07-18 04:51:48 | あしがら農の会

あしがら農の会では宅配を20年前に初めて15年くらいの間行っていた。今は会としてではなく、個人的に続けている人がいる。食べる人にしてみると宅配は巨大企業のアマゾンからの購入も、小さな農の会の農産物も届けてくれるという意味では同じだ。私は卵の販売を宅配で続けたのだが、それが自分に一番合ったやり方だと考えていた。自分の卵を食べてくれる人が誰なのかを知っていたかった。購入者が出向かないでも、商品を変える購入法がこれからの時代の小売業だと、当時から考えていた。小売店に中間マージンを取られる形では、小さな養鶏場は成り立たないと考えたのだ。自分が配って歩けば、無料である。そもそも自分の労賃というものは、無いのが小さな農業だ。自分の労働をどこに割り振るかだけである。宅配時間を休憩時間と考えることだってできる。私の場合、お客さんに会うのは、楽しみでもあり真剣勝負でもあった。そこで自分を確かめていた。

買い物難民という言葉がある。その難民地域でも、アマゾンの宅配料金は同じである。これからの地代宅配暮らしがどんどん増えてゆく。私の配達先もそういう場所の人も居た。買い物に出向くのでなく、届けてもらう。忙しい時代だし、消費者の希望がそこにあるに違いない。ヤフー、アマゾン、楽天、世界中の商品のなかから、最も自分に合うものを探して購入できる。私の祖父の大正時代の和歌の本まで売られていた。街の小売業がかなうわけがない。この先さらにその傾向は高まる。20年前にそう考えていたが、その通りの経過である。私の卵は品質的には、販売されている卵では間違いなく日本一であった。今でもそうだと思う。本物が分かる人であれば、購入したくなるのは当たり前である。しかも、本来の価格は230円のものを55円で販売しているのである。労賃が大半である。これを考えないで販売していたのだ。私は楽しみで鶏を飼っている。売れようが売れまいが、鶏を飼いたいのだから、だから労賃は代金に入れない。

まして、230円の卵を購入できるような人に、私の精魂込めた卵を食べてもらいたいとは思わない。そんな富裕層向きの卵などやりたいわけがない。普通の人が、少し高いけれど買おうと決断するような人に食べてもらいたかった。養鶏をやっていた間、路上生活の人にも、ゆで卵にして食べてもらっていた。生きて行ければそれでいいという事は、鶏を飼いたいという事のその先にある。鶏が好きで鶏を飼いたいのだ。自分の鶏種を作り出したかった。自給自足で生きるという事はそういう事だと思っている。何とかなれば、後のことは好きにやればいいわけだ。この身勝手な極小の商売が、実は1兆円のアマゾンと配達に特化した商売という意味では同じ発想なのだ。アマゾンは宅配業者の負担の上に成り立っていたようだ。これからそれほど便利ではない、宅配になるだろう。当日配送などと競争を激化させているが、好きな時についでに持って行くので良ければ、というような配送というような発想も出てくるのではないだろうか。次いで宅配事業。

街の小売業は形を変えない限り生き残れない。これだけは確かだ。店を構え、お客さんを待っていれば、良い商売になったのでそれが忘れられないのだろう。店舗というものを資産という意識もある。しかし、この先人口が減少してゆく。買い物人口は半減する。街にはコンビニとスーパーだけという時代になる。あとは通販中心になる。たぶんコンビニもスーパーも宅配を手掛けることだろう。10年すれば稲作が無くなるように、小売店というものもなくなると考えた方が良い。然し稲作は、違う形で残る経済とは別の特殊形態になる。 小売店も同じだ消費者が望むものに特殊化するはずだ。それでもシャッター通りなどと揶揄されながらも、現状というものは抜け出せないものだ。三軒茶屋の仲見世通りが今や昭和の遺物として、不思議な賑わいをしている。時代が通り過ぎ一周して来てにぎわったのは、周辺に学校など若い人が行き交う施設があるからだろう。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

自家採取の事

2017-07-17 04:04:19 | 自給

ソラマメの種。干しておいて皮をむいた。冷蔵庫に保存する。皮のままの種があまりに美しいので、剥きがたく少し残した。この形、この色つや。種子の美である。種子は子孫継続の為にそれぞれに絶妙ば形を作り出す。今年のソラマメは豊作で食べきれないほど食べた。そして種の分をそのまま残して置いた。実を包み込むサヤの作りはすごいものである。結構厚手で、中は繊維状の布団のような緩衝材で包み込まれている。外皮もかなり厚いので、虫もなかなかこの中までは入れないのかもしれない。これだけの種を剝いて虫にやられていたのは一つだけだった。どうしても良さそうな実から食べてしまうので、少し劣る実ではある。これだけあれば良い実だけ選んでタネにしても、充分である。これを戻して、煮て食べるという事も出来るだろう。ソラマメはまだ青い内に美味しく食べる。案外よくできた理由は叢生栽培にあったと思う。ソラマメは草の中に埋もれていて、虫にも発見しにくかったのではないか。今トウモロコシを同じような育て方をしている。

背丈の高くなるものは、草の中で育てていると、風よけになる。倒れるのを防いでくれる。トウモロコシはヒユ菜と一緒に育っている。これでどうなるかである。自家採取で叢生栽培と言えば、今年のサツマイモがそうだ。サツマイモは何とか保存できた新聞紙にくるみ、発泡スチロールに入れて、部屋の中に置いておいた。それをそのまま植えた。購入したサツマイモも植えてみたが、どちらも芽が出ている。芽を摘んであちこちに植えてもいいのだろうが、それほどサツマイモがいる訳ではないで、そのままにしてある。サツマイモは結局味噌づくりの時に、焼き芋にするくらいしか食べない。焼き芋にするとあんなにおいしいのに、めったに料理に使う事はない。薩摩の周りに麦わらを敷いてあとはそのままである。サツマは草に負けることはない。結構はびこる。似たようなものが、かぼちゃだ。かぼちゃも草の上を乗り越えて、草に勝つ。叢生栽培で出来るものもある。

自給なのだから、自分でとれるタネは出来るだけ残して置き、翌年の種にする。豆類、穀類、はタネが残しやすいので、大抵は残している。カボチャやトオモロコシもまず行ける。しかし、無理はしないことにしている。買えば済むものは、粘らずにあっさりと買う。山北にいた昔は自給原理主義しゃであった。種を買ってはいけないという原則を守った。原理主義は何の原理でも大変だ。今は出来るだけの範囲のことで、あまりこだわらないことにしている。ただソラマメは種が高い。必要なだけ種を買えば、3,4千円にもなる。これではちょっとためらう。今年は、何もしないのに分げつもした。一株3本立ちになった株もあった。それに5個ぐらいの実がついていたから、一株で15個は実った。ひとさや2つ平均で30個。それが30本ぐらい播種したから、900個の実がなったことになる。種に残したものだけで300個はある。食べたいだけ食べたがこんなものだ。豆は取りたてが何といってもいい。

自家採取を長くやっているのがお米である。時々更新をしている。今年は農協から買った種籾である。お米の自家採取は簡単だ。一部を残すだけで、それなりの種になる。去年背丈が高くなり過ぎて、種を変えたくなった。今年はお米の種取りに拘ろうと考えている。田んぼの中から、種取りに良いと思われる株を選んで、種様に別に採取するつもりだ。まず、1本から20本以上に分げつした株にしたい。今年の観察では、分げつしない株というものがあるという事が分かったからだ。これはその株の遺伝的性質の可能性が高い。だからこういう株をタネにしたくないという事だ。又、背丈の1メートル以上に高く伸びた株も避けたい。サトジマンのタネは8キロあればいい。一株で80グラム実るとすれば、100株である。マンゲツモチは0,8キロあればいいから、10株である。これだけを別に採取したい。そうだ、種取りで思い出したのが、美味しかったオクラだ。3日前慌てて蒔いて見たが間に合うだろうか。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする