地場・旬・自給

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鳥インフルエンザの白鳥

2008-04-30 06:15:15 | 自然養鶏
十和田湖で4羽の白鳥が強毒性のH5N1型の鳥インフルエンザに感染していたことが確認された。これは日本では、昨年1月阿蘇で見つかったクマタカ以来2例目の事だ。しかし、これは発見が2例目であるだけで、幾らでも野鳥の中には存在すると考えた方がいい。この白鳥は、シベリアより越冬のため、日本に飛来していた鳥と考えられる。可能性としては、韓国に飛来していたものかもしれない。それが感染し、シベリアに戻る途中、十和田湖に降り立った所で、発病した。だから、十和田湖の周辺の30キロで今調査中だが、白鳥の飛来地は、何処でも同様の可能性はある。韓国でこれだけの発生が繰り返されている以上、日本が安全とはとてもいえない状況にある。白鳥の感染を分析してみると、何故他の大半の白鳥が、感染していないのか。何故、感染する鳥と、しない鳥がいるのか。

鳥取大学の研究で、弱毒性から強毒性への変異は感染の連鎖である事が、確認された。伊藤教授らは、茨城県の養鶏場で採取したウイルス(H5N2型)をヒヨコから別のヒヨコに次々に感染させて実験。最初は無症状だったが、8回目の感染で弱い症状が出始め、17回目には脳で増殖するようになった。20回目には感染したヒヨコが死ぬようになり、28回目にはウイルスを注射した8羽の鶏すべてが死ぬほど、毒性が強まった。この実験結果で判ることは、大型養鶏場の危険だ。28回の感染の連鎖が、起きる可能性は、何万羽も一箇所で飼う養鶏の方式から来る。これは以前から指摘してきた事が、確認された事に成る。畜産は出来る限り小さく、自然界にありうる規模で、行わなければならない。

白鳥のように群れで暮す水鳥は、1万羽程度は一箇所に集まる。これが鳥インフルエンザの発生源になる可能性が高めているのだろう。しかし、これだけでは感染は広がらない。水鳥は既に弱毒の免疫をもっている群がある。自然界ではこうしてバランスが取れている。大規模養鶏場さえ無ければ、人間にとっても、問題のない範囲の病気である。これが、鶏が感染し、豚が感染し、人間への感染の可能性が高まる。世界での、新型のインフルエンザの大流行を恐れるなら、大規模養鶏を即刻禁止することだ。大規模養豚も止めなくてはならない。畜産というものの適正規模を考えてみる事だ。このままでは鳥フルエンザだけではすまないことになる。必ず更に、手に負えない病気の発生に繋がる。自然界がバランスを取るためには、何百万年の年月を要した。その自然循環の姿から逸脱する事は、避けなければならない。

韓国では、昨日も新たな地域への感染が起きた。全土に広がる経過をたどっている。日本への拡大も警戒レベルまで来ている。初期の防疫に失敗すると、こういう形に必ずなる。最初の感染は、不法のワクチンであったり、野鳥であったりするだろうが、この後の感染の拡大は間違いなく、人が運ぶ。防疫にあたった韓国の兵士が、人感染していたが発病しなかった。正にこの形が要注意なのだ。感染にも幾つかの巾があり、今回のように、発病とは違う感染がありうる。茨城の感染の拡大がそうだった。そうして、気付かないまま他の養鶏場に広げてゆく。これは普通の風邪の拡大と同じことで、止める事は極めて困難になる、一番避けなければならないことは、養鶏関係者の接触だ。行政は、間違っても、注意の為に人を集める事をしない。養鶏場に出入りしない。今までこれで感染を拡大させて来たことを、認めて反省しなければならない。
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小田原市長選挙

2008-04-29 07:03:07 | Peace Cafe
小田原にとって、初めてと言ってもいい大切な市長選挙が近づいている。今回3人の候補者が出馬予定である。その中で、経歴が不明瞭で、多くは明らかにしていないのが、豊島 輝慶 (トヨシマ キヨシ)氏。このブログにもそうした質問があったので、私の判る限り書いて見たい。
通算7期民社党衆議院議員をしていた、河村勝氏の議員秘書を20年務めた。昭和18年12月生まれの64歳。愛知大学法経学部経済学科卒。県会議員5期目。県会では民主党として活動してきた。
河村勝氏は国鉄の労働組合関係の管理職で、その後民社党で活動した。民社党の国鉄労働組合議員と考えていいようだ。その議員秘書に大学を出て、間もなくなった計算になる。そして、河村勝氏の後ろ盾で、県会議員に出馬したと考えていいだろう。その河村勝氏の名前が、プロフィールに書かれていないのは、何故なのだろう。いさかいでもあったのだろうか。河村色、民主党色、が今回の市長選挙では不利要素と考えての事と思われる。

民主党との関係も極力見えないようにしている。経歴からしても、県議としての活動からしても、民主党系の議員であることは間違えがない。実績がずらっと並んでいるが、その最後が何と諏訪の原公園だ。以前よりあの公園作りの方針は、時代錯誤だと考えてきた。里地里山地域として、再生してゆこうとする真っ只中に、人工の池やら、川やら滑り台、巨大なトンネルと、都市型の管理負担が増すばかりの、公園を作った。本来なら、里地里山の中心施設として、そのあるべき姿を、再現する公園のはずだ。もしあれを実績として誇るとするなら、その実績の恩恵を受けたのは建設業界に向けてと言う事だろうか。市民にとっては、間違った里地里山の自然破壊の施設建設を行い。更に、今後の管理負担増だけが生じたものだ。どうもこの人のいう、「夢ある小田原」とは、小田原の潜在力を生かすという発想ではなく、公共事業を引っ張ってくる夢のようだ。

この人自身は小澤後継ではないと、発言している。にもかかわらず、大方の人が小澤市長と一体で見ている。いい加減な噂としては、小澤氏の子息が、豊島氏の県議の後継になる密約があるのではないか。という推測まで流れている。本当の所は判らないが、民主党系の豊島氏を、何故、自民党系の小澤氏が必死に後押ししているのか。これだけは確実なことだが。この理由が見えないから、おかしな想像が起きる。背景となる構図が見えてこないのだ。当人は後継でないと力説している。いかにも地方政治の闇が感じられるが、何がうごめいているのか。言い方、見方を変えれば、選挙戦略と見れば、ある程度わかりやすい。小澤氏の後継と言うには、あまりに小澤氏の評判が悪い。例えば、城下町ホールの実態を知っている人で、賛成という人にあったことがない。賛成というので、実施設計を説明すると、ビックリされる。しかし、まぁー、小澤氏の後ろ盾なくして、当選は不可能。

豊島氏が市長になってやることは、実に網羅的で、何でもやってくれる、という感じだ。しかし、私の問題にしたい、ごみ処理広域化については一言も、触れていない。これからの市政は、市民に負担になる様々な困難な要件を、どうこなしてゆくかにある。小田原の夢などとそう甘い状況でないことは、市民も気付いている。経済は困窮してゆく、産業は衰退してゆく。人口は減少してゆく。今までの方向では、もうやってゆけない。発想の転換が必要という場面だろう。この場面で、夢を振りまこうという、角栄さんが現われてどうするというのだろう。夢は自分で作り出さなければならない。御上が下さるようなものではない。夢を持つと言う事は、それは厳しい道を歩むと言う事なのだが。
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兼藤忍「土着」展

2008-04-28 06:44:04 | 水彩画
水彩画のカテゴリーに入れるが、陶芸を材料とした、現代美術の作品展だ。代々木にある「千空間」という画廊で5月20日まで開かれている。兼藤忍さんは、松田に住まわれている。谷口雅邦氏とのコラボレーション展。兼藤さんの前回の個展では、千手観音ならぬ、千指観音が魅力的だった。今回の作品でも継続する「念の作品」群だと思っている。念は思いであり、祈りではあるが、もう少し原初的なものを意味しているのではないか。見方を変えてしまえば、きわめて宗教的世界である。あえて名前を付ければ、苔教である。縄文人の信仰とはこんな感触なのかと、思わせる。日本人にわずかに伝わっている、巨木信仰。その同じ気持ちが、微細な苔に向かっている。範疇を広げたとしても、羊歯植物までだろう。植物信仰の世界。

前回は植物紋となずけた展覧会だったが、植物ではあるが原初的な苔の世界だと思った。何故苔なのかが、兼藤作品の祈りを考えてゆく上で、重要なことだ。蔓延し、増幅し、輪廻する。この繰り返しのイメージが、時間的には無限への作品の連なる。それゆえに、作品には、連続繰り返しをイメージするものが多い。大から小へ、小から大へと、ウエーブするように、置かれている。時間の連なりが渦巻状になって無限を表わす。その渦巻きの動きが、同時に生命の原点に、繋がっている。それも爬虫類的で、切られたトカゲの尻尾に残る生命が、永遠に生きてうごめいているような、不思議な命感覚だ。命の断面を見せている。その大きな要素が、表面性にある。一見溶岩を思わせる。気泡のような表面が作られていて、その気泡が大きくなり、穴にも泡にもなる。ふつふつと燃えたぎるような、同時に、もろく淡く消え去るような印象。

今回はつるし雛のように釣られた作品が出てきた。正に祈りの展開だ。以前、御宅に伺って、祭壇飾りの作品群を見せていただいた時には、思わず、ご本尊に礼拝をしてしまった。後づさりしてしまう。幻術的世界が展開されていた。そのひな壇に飾られていた世界が、つるし雛のように釣り下げられた。同時に祈りが開放されたように、明るくなった気もする。何故だろう。つるし雛に成ると同時に平面化した。以前からの、形の半球の丸みと、表面性へのこだわりが、何処でどう繋がってつるし雛になったのか。これは作品の転換であるのかもしれない。余ったピースを紐で連ねて見る。案外これが面白かったのだろう。何しろ、この長さが、2回から1回の床までの長さがある。何でもこうして、連ねなくては成らないのだろう。

このピースにも小さな気泡が、無限に空いている。この一つ一つの穴は無限でなければ我慢できない体質。というように空いている。ピースが球から平らになった理由を伺ったところ。これも大きな球の一部だという。それの方が、気泡の穴が開けやすいという。ここの気持ちは不思議だし、作家の作品との意味の連なりがあると思う。技術的に言えば、球状のものに穴を開ける作業と、平面状のものに穴を開ける作業では、どう考えても平面に空ける方が楽だ。しかし、作家には球でなければ捉えられない穴なのだ。なるほど、非常に合点がいった。球が砕け散るような、イメージ。球の一部としてのピース。だからピースは、幾重にも連なり吊り下げられなければ成らなかった。使ったものしか判らないだろうが、この中に土釜がある。不気味に笑っているのだが、この作家の実用の器というのは、どれほど面白いかが良くわかる。しかし、誰にもそれが土釜であるとは判らないだろう。
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星崎千恵子個展を見に行く。

2008-04-27 07:07:22 | 水彩画
目黒の「Klamer」で開かれていた星崎千恵子展。星崎さんの絵に出合ってだいぶ長くなった。10年にもなるだろうか。銀座の4丁目にある画廊で、偶然見かけたのが最初だった。トレシングペーパーを使った、裏側から色を透き通らす、微妙な作品を出されていた。ともかく、ずば抜けた感性を感じた。アイデアが前面に出てしまうような方法に、コントロールされない強い感性を思った。ただ、変だけど、普通に描いた絵も見たいな。等と感じた。そのときは、小田原の方などとはつゆとも知らず。その後何度か個展を見せていただき、ついには水彩人にも招待で並べていただいただくことになった。星崎さんの絵は生きている星崎さんそのもので、そう言う事ができる人は数少ない。生きている生の絵だ。星崎さんの現在の絵ずらだけで言えば、見たことあるような、ある意味常識的な、抽象画だ。所が、これが所謂抽象画では、全くない。具象も具象、スーパーリアリズムと言ってもいい。

絵画における視覚と言うものを、どのスパンで切り取るか。更に分析的にあえていえば、視覚をつかさどる、どの機能に重点を置いて、見ているのかだ。例えば色というものを、視覚の中心に置けば、他の形とか、動きとか、は見えにくくなる。物の表面性に着目すれば、触覚的な見え方になる。ムーブマンを捉えれば、次の動きや、前の動きまで見ようとする。そうした分析的に言えば、星崎さんは生命感を、命の動き出そうとして言う姿を、見ている。もしかしたら、青虫が、キャベツの葉で、何処から食べようかとして居る時の視覚といえばいいか。農業の目は、この目に近い。芽が動き出したかな。稲の種籾を浸種して居る時、毎日水を替える。このとき動き出そうとする、胚芽を眺める目は、わずかに膨らんだ、鳩胸状態まで来た。この微妙な動きを見落とさないようにして、いいタイミングで、冷蔵庫に入れる。確かに、すごいパワーを感ずる生命の躍動があるのだが、見える人だけに見える。

命の営みは、全て見ようとする人だけに見える。そんなある視点がある。生きている人間を、自分というもののを描くという時に、、、、ちょっと待て、そうだ、星崎さんは自分ばかり描いているのだ。自分の鼓動を脈診しているようなのだ。植物の脈を見ようとして、自分に反映している、自分の鼓動を聞いている。だから、実に生々しい絵だ。様相はオシャレでいかにも現代風なのだが、ある意味絵馬のようなあるいは、アルタミアの洞窟画のように、呪術的ともいえる。命の祈り、

星崎さんは会場で、終始腰が痛かった話をしていた。腰が痛かったのだが、どうやって直したかを話しているのだ。それは絵の事に、直接的に触れて欲しくないという、複雑なシャイな気持ちだと思うのだけど。実は、腰が痛かったと絵に描いてあると言う事を言われているのだ。それが、やっと直ってくる仮定が描いてあると、そう言われているのだ。きわめて私的な、プライベートな絵画だから、恥ずかしくて人に見せたいけど、見せたくない。そういう絵だ。何故こんな絵が生れたのか不思議なことだが、星崎さんがそうした人だったとしか言い様がない。今生命の誕生を、発芽を中心に見ているようだが、花咲き実るときをきっと描くことになるだろう。どんな展開になるのか、それを思うだけで、もう次の絵を見せてもらいたくなる。
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なりわい交流館

2008-04-26 06:41:32 | 地域
小田原には市の施設として、「なりわい交流館」という、なかなか風情のある昔網問屋さんだった建物がある。ここで、ちょっとした音楽会が行われたり、作品の発表があったりする。結構行く機会がある。小田原の昔のときが流れていて、いいものである。確か今晩も、六ヶ所村ラプソディーの上映会でできた仲間の集まりがある。一番のもようしはつるし雛の展示だった。最近は何処でも見られるようになってきたが、子供の頃の山梨も東京も、全くないものだった。段飾りのお雛様が、何となく贅沢な感じがして、どうも距離があるけれど、このつるし雛というのはいい。子供の成長を願う気持ちが、宿っている。伊豆の稲取がこの発祥の地と言う事で、小田原まで広がってきたような気がする。何処もかしこもというのは、少し芸がないが、なりわい交流館のつるし雛祭り、は所を得ていいものだ。

今回、この小田原らしい建物で、9条ピースウォークの人達に昼ごはんを食べて頂く事になった。ところが、当日到着した皆さんに対し、管理の職員から「なりわい交流館は政治活動、宗教活動に、この施設を使ってはいけないことになっている」と、クレームが入った。私は藤棚に居たもので、このトラブルを知らなかった。遠来の皆さんに、不愉快な気持ちにさせて、大変申し訳なかった。今でも申し訳ない気持ちになる。当日藤棚と、態勢が2分するので、何かあるといけないので、前日確認のため直接出向き、昼食のお願いをしていたので、一体何がどうなったのか、信じられない思いだった。原因は、この「政治活動はいけない」一文にある。人によってどうにでも解釈できる、一文で、暗に活動を制限してきた。箱根では、9条の会の集会には、公共施設を使えないそうだ。

昨日市役所に、松本さんと2人で抗議に出向いた。担当は経済部の産業政策課だ。次長と担当主査2名と話し合いを持った。前日電話で、状況把握をお願いして置いたので、対応した人や、状況は把握していた。全ての落ち度が自分にあること。職員の教育や、連絡の体制が良くなかったので、こうした間違いが起きてしまったこと。心よりお詫びすると言う事だった。「政治活動や、宗教活動禁止」この一文が原因になっている。この一文をなくしてもらいたい。このことを約束してくれるなら、今回の不手際については、荒立てないことにしたい、と申し入れた。その場で3人の担当の方が、「わかりました。この一文は必ずなくします。」こう確約してくれた。今回の事はこれまでと言う事にする。ピースウォークの方には顛末を報告し、小田原市の謝罪を伝えたいと思います。

政治的でない市民活動などないだろう。市民活動をしているだれもが感じる所だ。子供の事でも、福祉の活動でも、必ず政治と結びついている。それを禁止するのは、一切の批判を封じたいという、行政の間違った姿勢に由来する。批判があってこそ、良い行政になる。その批判を全て政治的行為として、制限したいという思いがあるのだ。今回管理者が間違った理解をしていたように、憲法を守るという、公務員規定の第一の義務行為まで、政治活動と考える事になる。更に言えば、どんな政治的行為であれ、昼ごはんを食べるという行為まで、制限しようというのでは、更にひどい話だ。この政治活動禁止の項目により、市民が市の施設の利用を自己制御している。市の施設の一切の、政治活動禁止の項目をはずしてもらいたいものだ。
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蓮池の整備

2008-04-25 04:53:55 | 自給
蓮池を整備して、蓮の苗を植えた。昨年は、その前の年の蓮をそのままにしておいて、自然に出てきたものを食べた。所がこの蓮が何故かおいしくない。ひとつには、水がたまらなくなった為だと思う。代かきをしないでも、水さえ絶やさなければ、減水は無くなってゆくものと思っていた。実際にはそうではなかった。だんだん漏れがひどくなり、最後は、水がほとんど貯まらなくなった。水の減ってゆく辺りを見ると、ネズミだか、モグラの穴がいくつも開いていた。そこであいた穴はその都度埋めた。埋めても埋めてもきりが無く、周りに何か手当をするしかない状態。それは池の側面の事なのだが、底からも漏れて行くようで、水自体が、貯まらなくなってしまった。これは以前山北で作った田んぼとは様子が違った。土も色々あるようで、土の粒子が粗い。田んぼから土を移動したいぐらいだが、もう一年、土の変化を見ることにした。

子供の頃の向昌院では、池ははっきりと貯め池だった。一段下の方に田んぼがあり、その田んぼの水を、上で貯めておく池だった。長方形で長さ20メートル巾5メートルぐらいあった。深いところでは、3メートル。それがだんだん漏るようになっていた。すぐ下の田んぼも、お寺の田んぼではなくなっていて、他所の人が耕作していた。お寺も住職が自殺してしまうほど、貧乏していた寺だった。それでも立派な池があり、室町時代に作られたものだと聞いていた。その池が実に凝っているのは、水源からの水の引き方だ。普通の寺で言うと、奥の院か開山堂がある位置に、水源がある。わざわざ水源から遠回りして、大きな五葉松の下から水が出ていた。この水の道は、人が通れる大きさがあり、しっかりとした石組みで出来ていた。本道の仏壇の裏に、抜け道があり、そこに続いている。どうもこうした工夫は、信玄の時代の寺院を出城にした名残のようだ。その水路の水が、先ず裏にある、心字の形の池に入り、そして、長方形のため池に流れ落ちる。その水が更に、下の田んぼに行っていた。

水路には、一杯にくわいが植えられていた。2枚になったいる、一反分ほどの田んぼも、しっかりとした石垣で組まれていて、普通の段々の田んぼ、という感じではなかった。水路は水を暖める工夫にもなっていたはずだが、すっかり壊れかかっていた。しかし、その痕跡はあり、全てが自給できる形の水のまわり方だった。そういう壊れかけた石組みの様子が、子供心に無常を感じた。池の底には、厚い粘土が積まれていて、どこかから運んだものだった。石ばかりの土地だったから、とても水など貯まる土ではなかった。田んぼも池と同様の作り方だった。大して取れる田んぼではなかったが、後に、村中にあった田んぼと交換したそうで、今はその2枚は、お寺の田んぼになっている。

我が家の小さな蓮池は、見た目は悪いが、周辺には畦波シートを廻した。まず、側面からのモグラ対策だ。40センチのものが埋まるくらいに廻したので、あまりはみ出ては見えないのだが、それでも所ところは、大きく出っ張っていて見苦しい。庭の池という感じはなくなった。庭に池を作るという、趣味的な風景で無くなって良かったかも知れない。堆肥を50キロほど入れた。田んぼで換算すればすごい量だ。これで、少しはおいしい蓮が、できることを期待している。代かきをしていると、残ったはずが、切れて出てくる。これが惜しくて、つい代かきを昨年しなかったのが、いけなかったのだろう。そう思いながら、ついつい又、代かきを思い切っては出来なかった。生きているのに、シャベルで切り裂く感触が、どうもいけない。

自給作業:2時間蓮池の整備 累計時間28時間
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ピースパレード小田原

2008-04-24 07:06:56 | Peace Cafe
ピイースウォークの人達が小田原まで見えた。市内をピースパレードした。150人が歩いた。9条世界会議に向けて、気持ちが高まった。朝8時30分元箱根を出発して、なりわい交流館に1時到着は、相当の早さだ。広島から歩いていて、歩きなれているとは言え、すごい速度だ。箱根越えはたぶん広島から幕張までで、一番の難関になる。元気に小田原に到着されてホッとした。城址公園で皆さんが到着れると、待っていた百数十人から、大きな拍手が沸きあがった。皆さんの晴れ晴れした表情に、思わず胸が熱くなった。9条という平和への思いで、こんなに熱く人と人がつながれる世界が、眼前に広がり、喜びに満ちた。感極まった感があり、少し出発が遅れてしまった。予定する計画では、駅前のポケットパークで、ヒップホップの人達と合流する。この時間が迫っている。

到着した皆さんの紹介などの計画は、それでも省略させてもらって、そのまま出発した。出発してからは、金子さんと相沢さんと佐々木さんが、ハンドマイクでピースパレードを盛り上げてくれた。これは相当に大変だったと思う。歩いている人は、なんだか判らない中で、突然トークを振られたり、知らない歌が始まったりで、これに上手く対応してゆくのは、なかなか至難の事だっただろう。それでも、3人がなかなか、上手で、前のほうは音楽パレードとして、上手く進んでいた。スタート時点で、134名でスタートして、途中10数名が、加わって150人になった。それだけの人数が並んで歩くと、相当の前と後ろに距離が出来る。後ろの方で、歌を歌うといっても、残念ながら前と合流が出来ない。スピーカーを大きくすると、声がキンキンして聞きづらい。

お城どおりに差し掛かる頃には、調子が整い、いいパレードになってきた。小田原城のなかなかの美しい緑の中、気持ちよく歩いた。ポケットパークには、30分も遅れてしまった。待ってくれていた。音楽の方達には本当に申し訳なかった。途中電話で引き上げるなど、色々あったのだが、何とか待ってくれて、ついてごたごたした中、音楽が始まった。所が、警察の方から、これ以上ここで止まって貰っては困る。何度も言われてしまった。これは計画した私が、いけなかったのだが、ここまでで、30分遅れてしまったことが、いけなかった。そのほかにも、問題はあった。これも事前の私の確認が良くなかったので、不手際が多く、皆さんに迷惑をお掛けした。それでも何とか、対応してくださり、ありがたいことでした。

一番はなりわい交流館での、対応がいけなかった。ピース・ウォーカーの昼ごはんを食べることが、政治活動だからいけないというのだ。これには驚いた。これも私の不手際といえば言えるのだが、事前の説明が不足だった。なりわい交流館の予約は、現地と言う事になっている。そこに電話予約をした。もちろんピースウォークの主旨と、その昼食場所である事は、話した。何かおちがあるといけないので事前に、もう一度、確認に伺った。そのときも何も言われなかった。所が、当日到着と同時にひと悶着起きたらしい。これは、藤棚の予約でも、ポケットパークの予約でもそうだったのだが、市役所自体に予約した場合は、目的確認が確実で、使用が明確に成る。現時地の職員に予約の場合は、政治活動の意味を理解していない人がいる。

こういう現場職員から、政治活動の制限が始まるというのが、一般的だ。今回の事を私は許す気はない。正式に抗議をして、謝罪してもらう。遠来の皆さんに、これほど失礼な態度は、その人なりに疑念は起きたかもしれないが、あまりにも狭量な態度ではないか。小田原市では、市長から、共産党議員まで、先日の市議会本会議で、憲法9条を守る護憲精神で、一致していると言われたばかりである。市の平和活動予算は少ないが、少ない中でがんばっていく、副市長も言われた。にもかかわらずこの態度だ。憲法を守る不断の努力は、憲法にかかれたことだ。公務員は憲法を守るために、勤務しなければならない義務がある。
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農産物の輸出規制

2008-04-23 05:25:15 | 稲作
穀物生産国で、輸出規制が始まっている。当然の事だろう。「気候変動とエネルギー資源の制約、新興経済国の急成長、発展途上地域の人口増加、投機資金の流入」どの要因を見ても、食糧を輸入に頼る、日本の方針のあやうさがわかる。今度の洞爺湖サミットでは、日本が主導して、輸出規制解除を話し合うらしい。何を甘いことを言っているのか、先進国のご都合主義が透けて見える。これは消費者の言い分だ。お客さんなのだから、生産者も配慮しなければ、あまったときに買いませんよ。こんな風に主張するのだろうか。しかし、食糧について、そんな枠を作った所で、何の意味もない。敗戦後の日本で強かったのは、農家だ。庶民は闇米でしのいた。自国の食糧が足りないのに、お得意さんにだけは、輸出しろ。などと言うほうがおかしい。何処の国も、自分達の食べるものを自給するというのが、当然の義務なのだ。

穀物の輸出規制解除をサミットの議題にするというのが、そもそも日本のトンチンカンだ。他の出席国は、食糧が足りている。ロシアなど既に輸出規制を始めている。足りない日本一国が、その場でいい議論の誘導など、できるわけがない。足りなく成れば価格が高騰する。高騰して最初に困るのが、貧困層だ。途上国だ。飢餓的状況の国では、足りなくても輸出がされる。穀物相場は、3年前の3倍になっている。ここに投機的要因が加わっている。価格上々の3割の要因が投機的資金の流入だそうだ。バイオエネルギーが引き金になっている。本来人が食べる量は決まっている。安ければ沢山食べると言う事ではない。バイオエネルギーは必要となれば、際限ない量となる。加えて最大の要因が、中国とインドの経済発展だ。余裕が出来ると、畜産品に食の中心が移行する。畜産品は直接食べるより、5倍の穀物量が必要となる。

それでも日本は減反だ。お米を作ってはいけない。政府は今になっても、こう主張している。世界を見渡せば、生産した方がいいのは、普通に予測できる。もう減反政策などとんでもない世界の状況だ。足りなくなって慌てて、作るといっても1年かかるのが、お米だ。今作付け時期だ。ここで政策を転換しないと、遅い。たぶん秋には、お米は上がっているだろう。今年は農家にとってはいい年になるだろう。何を言われても、農協から嫌味を言われても、青刈りされるような不安があっても、まだ間に合う。ここは作付けすべきだ。先見の明があったと、見直されるはずだ。もしかして、お米は日本一国の範囲で見れば、余るかもしれない。しかし、世界の食糧事情から見れば、余るような事はありえない。どこかの国で飢餓が起こる。そのときに役立つ事になる。

政府は国際競争力のある農業を目指せと、主張している。間違っているのは、ここでの生産費の考え方だ。資材や土地費、特に労賃。こういうものが、日本の農産物の国際競争力を下げているだけだ。日本の農業は、既に相当の合理化が進められた産業だ。安易な国際競争力の政治家の発言は、農家を貶める、実にいやらしいものになっている事を自覚すべきだ。他の産業と違い、一次産業は、労力の削減に限界がある。又土地や気候条件も直接的に関係する。その地域での限界ある条件の中で、最善を尽くし、その土地に住める人の数が出るのが自然なのだ。食糧は、90%は自国生産にすべき品目だ。WTOの主張のままに行けば、食糧自由貿易の弊害が、これから途上国の間に広がってゆくだろう。WTOと言っても要するにアメリカの主張の、すり替えだ。もうアメリカの「言いなり便乗」は止めないと、危険水域だ。
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農業用水

2008-04-22 05:54:05 | 地域
あしがら地域でも、農業用水の取水量は、年々減少している。計算上は取水しているように記録されている、農業用水路でも、実際には管理されなくなっているところも増えている。田んぼの耕作が減少していることが、一番の要因である。農作物の中でも、稲作ほど水を必要とするものはない。2004年度、日本の河川や地下水からの年間取水量で最も多いのは農業用水557億㎥で、次いで生活用水161億㎥、工業用水が121億㎥であるが、製造工程での必要水は、533億㎥で、工業用水のかなりの量が再利用水と言う事になる。全体に加えては、地下水という形で124億㎥の利用と成っている。日本全体で利用可能な水の量は、計算上では、降水量6500億㎥のうち、4200億㎥という。利用可能と言っても、それだけ雨が降ると言う事で、一度も使わない水が、海に流れ出る事はない。というほど使った場合の事だ。数字的結論としては、降った雨の4分の1使う。

日本農業の豊かさの基本は雨の多さだ。中国の農地を見て、いかに水に苦労しているかがわかった。舟原にもいくつもの用水が流れている。しかも年間通水となっている。これはどんなにありがたいことか。このあり難さは、苗床を作って実感した。いつでも田んぼに水が引ける。これは自然の豊かさの象徴だろう。子供の頃境川でも、水争いはあった。あしがら地域でも、水にまつわる諍いがあったという。私の家の脇にも諏訪の原への用水路がある。残念な事に、これは途絶えてしまっている。ひとつ下の集落で利用してきた溜池もあるが、これも充分に整備されている状態でもない。これらの水を考えると、水と繋がった暮らしの、豊かさをもう一度考えてみる必要を、痛感する。水の持つ力を、総合的に見直す必要があるだろう。農産物となって輸入される水の総量は、農業用水に匹敵するすごい量だ。69%の食糧輸入とはそう言う事になる。

使わなくなった農業用水は、輸入農産物におきかわっている。日本に1年間に輸入される主要な農畜産物を生産するために必要な水の量は427億㎥との推計を、国立環境研究所と東京大学生産技術研究所の沖教授が発表した。2003年には640億㎥だったから、考え方の精度が上がり、修正されたと思われる。牛丼1杯は2㎥で、アメリカの292億トンの水を日本が利用していることになるそうだ。将来、バイオエネルギーの利用と成ると、水を燃やすと言う事になる。これは地球環境の新たな、危機となる。水も移動してはいけないもののひとつのはずだ。そこにあり、循環する事で、そこの環境を形成している。アマゾンの水を日本がエネルギーとして消費する事で、新たな地球環境問題が生ずる。

食糧の自由貿易が、各国のバランスの取れた、農業の形成を阻害する。水という視点から見ても、同様の構造が浮かび上がる。食糧の自由貿易が無理な水利用の地域を作る。収奪的農業によって、環境破壊に繋がる。舟原の水が、有効に利用されると言う事は、食糧が自給されることだ。舟原の人口210人が、自給するには、お米は2、5ha田んぼがいる。畑を併せて6ヘクタールの農地が必要となる。充分そのくらいはある。ただし今では、そこまでは耕作されていない。つまり、舟原の自給の姿を想定してみると、豊かな水環境の地域になるかがわかる。73戸の家があるが、これら家も自給する山はある。充分の燃料と成る里山もある。水車も5基あったそうだ。自給の暮らしが立つと言う事は、充分に水利用がされることにによって、人間らしい暮らしが営まれる。水の量だけ人が暮す。そう思うと、いくつもある水神様も、又再評価しなければならないだろう。
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開成町露木町長の講演

2008-04-21 06:05:00 | 地域
開成町露木町長が地方行政会議の委員としての立場から、これからの地方行政のあり方について、講演された。先ず冒頭、先入観を捨てることを強調した。神奈川西部の現状を冷静に分析すれば、人口の減少。経済の減退傾向が顕著であること。税収の減少が予想される。そうした前提で、この地域で行うべき行政改革のあり方を述べられた。さすがによく先を見通している。結果として開成町が、この地域では、違った経過で町づくりが進んでいる。人口減少地域のど真ん中で、人口が増加している。しかも子供の生れる比率は、神奈川県で一番だそうだ。その手柄は自分がというより、過去の町づくりにおいて、地域指定をしたところに要因がある、と言われた。高度成長期の無秩序な、都市近郊の住宅化地域を先例として、地域の秩序ある発展には、計画的な町づくりが不可欠とした所に、その出発があった。農村地域、住宅地域、商業地域、そしてフジフィルムの研究所の誘致。

地方分権改革をめざす、地方行政会議では、2007年11月に中間取りまとめのなかで、「地方政府化」と「道州制」を検討している。課題として、1、税制改革2、地方議会改革3、地方間の格差拡大の調整機能4、都道府県内の合意形成5、市町村合併または市町村連合 5、の市町村連合の発想が興味深い。開成町の成功は、小さな町であればこそだ。1万6000人の町。小学校、中学校、高校はひとつづつ。病院の機能は医院まで、ごみ処理施設は自前のものを持たない。地元の県立吉田島農林高校は、農業者が地域に自前の教育機関を作ろうと1907年に設立された、独自の思想を持った学校で、この地域の農業者の中核を育成してきた。そのことを深く探ると見えてくるのだが、先見の明るい、知性的地域と言う事だろう。地域性を生かすには、小さいほどいい。しかし、広域による施設の共有利用もある。その両者の、有利点を生かす手法が、市町村連合ではないかと見た。

市町村が条例で調整した方が有利な事例を具体的に上げて欲しいといわれた。1、私のかかわる自然養鶏では、食品残渣の利用が重要だ。ところが、食品リサイクル法では、食品残渣の利用は、許可業者に限られている。これが、地方行政の規模で、市町村長の認可で、畜産農業者が、直接食品残渣を扱う事を認めたとしても、その管理は可能だし、合理的に行われる。これが国の方での許可のみでは、本当の飼料利用が増える事はない。2、新規就農者の許可条件があまりに現実離れしている。これを条例で、地域に適合したものにする必要がある。例えば、法ではアルバイトも出来ない。専業のみと言う事だ。しかし、他所の農家を手伝いながら、自立してゆくというのは当たり前の形だ。現実にはそうなっている。それを推奨している行政もある。これも小さな見える範囲で行えば、就農を悪用する、不動産業者など、入り込む余地はない。3、一律のごみの広域処理だ。「生ごみを考えた場合」地域によっては、集めない事が一番有利な選択である場合もある。農村地域では、自分で処理する変わりに、何らかの見返りを作るなど可能だ。ところが、広域処理では、補助金という形で、連続炉、溶融炉、巨大なメタン発生タンク。こうした特定ものを選択させられる。地域の実情に即した、施設を選ぶ事が難しくなっている。

市町村連合は興味深い発想だが、危険要素は不透明化だ。広域連合の組織の財政の監視が甘くなる可能性がある。ごみ処理施設の汚職が頻発する要因のひとつには、市町村の直轄でないためと思われる。連合する有利点は多々ある。例えば、あしがら地域に音楽のホールが欲しい場合、南足柄に作る。それなら、開成町には美術館、小田原には工芸交流館。地域同士が、その特長を生かしながら、競争し、高め合う。無駄使いのできない、地方財政状況だ。市町村合併すると、行政サービスが低下する事は目に見えている。開成には、役所はいらないと言う事も起こり得る。そうしたマイナス要素を取り払い、この地域の潜在的可能性を、存分に引き出す手法が、市町村連合かもしれない。

昨日の自給作業2時間草刈中心 累計時間:26時間
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コウノトリ育む農法

2008-04-20 05:38:29 | 稲作
兵庫県豊岡市では、コウノトリ育む農法が取り組まれている。豊岡市は人口8万9000人。京都と接した日本海にも面した地域だ。コウノトリもすめる豊かな環境の町を、うたっている。コウノトリ育む農法の柱. 1)農薬の不使用または削減. 2)化学肥料の栽培期間中不使用. 3)種もみの温湯消毒. 4)深水管理. 5)中干し延期. 6)早期湛水(できれば冬期湛水). 7)堆肥・地元有機資材の活用. 8)ブランドの取得と成っている。昨年度は作付面積が、150ヘクタール。コウノトリ舞という形では、244ヘクタール。ここでの取り組みは日本の有機稲作の技術の集大成と成っているといっていい。コウノトリは、大型の肉食の鳥類。日本では生活環境が無くなり、一度は絶滅した鳥である。ロシアからもらいうけ、飼育を繰り返し。ついに野生化までこぎつけたという、世界でもまれな、動物保護計画だ。

一番の要が、田んぼと湿地の再生。コウノトリを要に、様々な地域再生のプロジェクトが展開されている。特に子ども達のなかに、コウノトリとの関わりから生まれた暮らしの環境意識の変化に、未来に繋がる展望が見えてきているという。もう一年になるが、昨年豊岡市から西村いつき氏をお招きして、めだかサミットを開かせてもらった。西村いつき氏兵庫県の農業改良普及員の方。3人のお母さんだそうだ。子供の未来に何が残せるか。そうした熱い思いが、豊岡の「コウノトリを育む農法」を作り出す。コウノトリ「でも」住めるまちづくり。といわれていた事を思い出す。コウノトリがすみよい環境は、人間にとっても暮らしやすい。そのとき400ヘクタールの作付けを目指すといわれていた。この規模に成ると、一番は販売だろう。10キロ7500円での販売がされている。

今年は放鳥したコウノトリが産卵した。4月下旬には孵化の予定だそうだ。コウノトリは、毎日500グラムのドジョウやかえるを食べる。この餌の復活が放鳥の課題だ。田んぼや水路を自然に近づけなければ、生き物は増えない。水路が3面コンクリートになれば、ドジョウは住めない。土の水路は管理が大変だ。除草剤を使わない、田んぼの管理も手がかかる。これらの手間が価格に反映されなければ、農家としては取り組みたくても取り組めない。結局は食べる人の環境意識にかかっている。コウノトリや丹頂鶴は、江戸時代には全国いたるところにいた。人を恐がる事も無く、共存していた。明治以降の日本人の暮らしの変化が、自然に対する日本人の接し方を変えた。江戸時代には無かった、むやみな殺生。無意味な乱獲もおこった。

今でもネパルールでは、大型の鶴が田んぼで耕作する人の脇で餌を食べている。日本にそうした景色が戻る事。それには、農業というものを、日本人全体が見直さなければ、ならないことだろうし、生き物との係わり合い。日々の暮らしへの眼差しの変化が必要だろう。兵庫県の農業普及員である西村さんが取り組んだのは、コウノトリが稲の苗を踏み潰さないかの調査。生き物より、自分達の暮らしが先だろう。これが普通の時代。生き物が豊かに暮らせないような環境で、人間が豊かに暮せる事はない。コウノトリは、小田原にもいる。見えないけれど何処にでもいる。今年も農水は減反を、畑への転作を、提唱している。お米が余ると言う事は、ありえないことだ。もし、それでもどうしても余るようなら、足りない国で食べてもらえばいい。田んぼを減らす事だけは、やってはいけないことだ。
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米不足が近づいている。

2008-04-19 06:18:14 | 自給
アジア各地で「米騒動」が起きている。米需要の増加に生産が追いつかず、インド、ベトナムなどの輸出国が自国優先で輸出をストップしたことが国際価格を急騰させた。輸入に頼る各国で買い占めや米不足が表面化、庶民の暮らしは大揺れだ。政府は慌てて米増産を打ち出したが、需給の逼迫(ひっぱく)感は止まらない。配給に殺到 比国では米の配給に殺到する人、人、人――。世界最大の米輸入国フィリピンで「米有事」が勃発(ぼっぱつ)した。(日本農業新聞)
日本でも2007年の畜産向け飼料米の販売が、前年より30%増加した。2008年は倍増する可能性もあり、作付けが一気に増えそうだ。以前より、備蓄米から飼料米へ転換する手法が、食糧安全保障の上でも、重要と主張してきたが、現実化してきている。

WTOの食料完全自由化構想が、いかに、間違った方向であるか。世界の食糧需給は、食糧不足が始まる前提で考えなければならない。WTOに於ける食料の自由化は、アメリカの農業生産を背景にした世界戦略として作られたものだ。日本はアメリカに全てを便乗して、工業製品の販売を、最優先として経済を構想している。その為に、日本にとっては国益でない、農業のグローバル化を受け入れる事になった。しかし、ここに来て、世界の食糧事情が、変わり始めていることが、目に見えるようになった。地球規模で考えれば、食料はあまっていたわけではない。食糧の増産より、人口の増加の方が早い。しかし、購入できる国は限られている。WTOの自由化構想では、世界の食料格差がより拡大する事が明白だ。石油の高騰に伴い、農産物も工業製品になった。石油は更に値上がりするだろう。エネルギー輸出国が、農業国という図式が当然になる。

食料は、特に農産物は別枠で考えなければならない。各国が、食糧生産に見合う、人口の維持を図る必要がある。日本の食糧自給が、39%と言う事なら、人口を今の39%にしなければ成らない。基本的食料は輸出入すべきでない。アメリカも、何も食料輸出しなくても、エネルギー輸出国に成ればいい。WTOに変わる、食糧の枠組みを決める組織が必要になっている。このままでは、農業基盤の弱い国の農業は崩壊してしまう。農業は人間が行う事だ。食糧生産は暮らしと密接に結びついている。その範囲で行う事が、地球が安定して生き延びる、根底にある。資本主義経済の、拡大再生産が不可欠な構造では、食糧には相応しくない。食糧生産はその国独自に管理すべきだ。農業生産に余力があるなら、輸出でなく転換する方法を考えるべきだ。

今年のお米の作付けも、減反政策が続く。米が余っているといっても、米を食べなくなっただけで、他の物を食べるだけだ。食料があまっているわけではない。これから、輸入穀物は、うなぎ上りに値上がりする。蕎麦でもうどんでもパンでも、みんな輸入なのだ。しかし、こういう報道の中現実はどうか。小麦を作るとすれば、60キロで36000円は欲しい。平成18年産小麦の政府の売り渡し基準額が「60キロで8040円」です。大暴騰していると言われるシカゴ先物市場の価格を当てはめるとそれが「60キロで2000円」ほどでしかない、という事が判ります。 つまり、これほど日本の小麦生産費は、現実離れしているのです。上がったとは言え、農家の生産費とは、かけ離れています。小麦のように、政府が農家保護をしているとは言え、現実には、保護にも何もなっていないことがわかる。高い小麦を食べさせられることで、消費者が被害を受けているような主張がある。そういう消費者は、食べるものがなくなったとき。やはり被害者のように主張するだろう。

自給の作業:書き忘れて、16日、17日、18日と2時間ずつ。草刈が主な作業。畑の中の草刈で、本来なら、草取りというべきところ。 累計時間24時間
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イラク派兵・違憲判決

2008-04-18 06:11:30 | Peace Cafe
名古屋での高裁判決が出た。イラク自衛隊派兵は違憲と言う事だ。この裁判は支援者の1人として、参加してきた。全国で同様の裁判が起こされたが、名古屋が最初の訴訟だった。そこでこの裁判の支援者の1人になった。1100人が起こした訴訟である。ついに判決まで、名古屋には出かけて行けなかったが、「自衛隊イラク派兵差止訴訟の会」からのメールニュースが逐一届けられ、頑張っている様子は伝わっていた。1月31日に結審し、いい判決が出そうだと言う事は、高裁で、実質審理を行ったということで、予想されていた。名古屋のメンバーの活躍は目覚しいものがあった。良くあるパターンとして、最高裁で覆るのだが、今回は、名目、国勝訴で、実質違憲判決という。素晴しい形となった。つまり、国は慰謝料など出す必要はない。という判決だ。しかし、憲法判断に主文で踏み込んでいる。

判決は、多国籍軍の武装兵士を輸送する航空自衛隊の活動について「憲法に違反する活動を含んでいる」として違憲との判断を示した。現在のイラクの状況について「泥沼化していて、国際的な武力紛争が行われており、イラク特措法でいう戦闘地域である」と指摘。空自が米国からの要請を受け、2006年7月以降から実施しているバグダッド空港への空輸活動について、多国籍軍の戦闘行為にとって必要不可欠な軍事上の後方支援を行っていると認めた。
 その上で「他国による武力行使と一体化した行動であって、自らも武力の行使を行ったとの評価を受けざるを得ない」と述べ、「イラク特措法に違反し、かつ、憲法9条1項に違反する活動を含んでいる」と認定した。

やはり、憲法9条の力だ。これが無ければ、当然今回の判決は出なかった。今回の判決は、これからの国の動きに対し、枠をはめた事になる。自衛隊に対する違憲判決が確定したのは、初めての事だ。町村官房長官はこの判決を不当だとしている。泥沼化しているイラクを、バクダットを、戦闘地域でない。こう強弁している。そんな個人の感想はどうでもいいのだ。法事国家である以上。町村氏の個人的見解で、政治を行うの訳ではない。判決が出た以上、従うのが3権分立の憲法規定だ。それは個人であれ、国家権力であれ、当然の事だ。それでも従おうとしない。つまり、国民に対し、権力者は法を破ってもいいという事を、自ら示そうと言う事になる。4月11日最高裁で、イラク派平反対のビラを自衛隊官舎にポスティングしたことでの、住居侵入が確定した。不当判決ではあるが、罰金は払わざるえない。それが一般国民の止む得ない対応だ。

イラクが、現状のような泥沼になることに対し、一役買ってきたのが、日本政府だ。この現実を正面から見て欲しい。フセイン時代が良かったと言う事ではないが、フセイン政権時代より、イラク人の暮らしが、さらに困難に成った。これはイラクから来て証言する人達、全てが発言するところだ。悪いものと更に悪いものとを較べて、判断しろといわれても困る。こう言われた。イラクでの航空自衛隊の輸送活動が、違憲であるとされたのだから、即刻引き上げてもらいたい。アメリカの顔色を伺って、こんな事を続けていたところで、何の益もない。日本という国家の国際的信用を失うばかりだ。チベットの問題でも、日本政府は実に曖昧だ。姿勢を示す事ができない。気配りはいいが、強い者の顔色だけを窺うだけでは、国家としての信頼は結局得られない。
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ピースパレード小田原

2008-04-17 06:32:50 | Peace Cafe
9条世界会議が5月の連休中に開かれる。世界からの視点で、、日本の平和憲法9条を考える会議だ。日本一国が平和憲法を保持していたとしても、その実質はパワーバランスのなかで、危うい平和状態を模索しているのが、現実だろう。日本が自らの憲法を大切に考えないだけでなく。世界は第2次大戦以降、軍事力によらない平和への模索は、途絶えかけている。そんな世界情勢に日本の再軍備も、実質的には現実化してしまった。憲法9条も改定し、軍事力保持を文字通り行える国に成ろうとしている、不安な方向も顕著化している。「9条を守ろうから、世界に発信する9条へ」積極策としての、9条のアピールをする時が来ていると思う。平和を思う者は、世界へ、9条の価値を伝えてゆく。地球憲法として、9条が施行される未来に向けて、進まなくてはならない。

共産主義を目指していたはずのロシアも、中国も、今や日本以上の資本主義的経済優先社会を邁進している。この産業優先の社会は、欲望優先の社会だ。欲望には果てがない、とどまる安定的社会がない。必ず次の欲望が再生産され、競争が繰り返される。地球は、欲望の連鎖を断ち切り、人間の暮らしの日々の平和を思い、しばらく、歩みを止め、何が出来るんかを考える時にきている。自分が今日一日を幸せに過ごせる事が、もしかしたら、チベットの不幸な状況に、関連していないのか。アフリカの絶え間ない戦闘状態に、関連していないのか。イラクでの、アフガニスタンでの、世界のあらゆる地域の紛争に、自分の今日の暮らしがかかわっていないか。充分に考えてみる価値がある。そして、何が出来るのか考える。すると、9条があることに気付く。

9条が理想主義であることは、誰の目にも明らかだろう。憲法は現実なのだから、もっと現実に即した、憲法にするべきだ。こういう意見も多い。しかし、今世界が歩もうとしている現実は、地球が破滅してしまうような、危険な欲望社会でないか。確かに、貧困な社会は不幸だ。病気の子供に医療も施せないような社会は、不幸だ。しかし、そうした貧困社会の解決に、資本主義的経済主義の展開が、必ずしも成功しない事は、もう見えてきている。競争社会の結果、経済的格差は広がるばかりだ。そうした貧困社会の苦しみを踏みにじって、先進国と呼ばれる国の、そして日本の幻想的経済的繁栄が存在する。欲望がひとつ達成されたとしても、必ず更なる欲望が醸成される。又それを助長する、経済的要請がある。充実に至らない社会。経済が成長している間は少しづつ、欲望が達成されるから、不安ながらもバランスが取れる。競争に敗れ、経済が衰退を始めたとき、戦争に進まないか。

9条世界会議に向けて、広島から幕張まで、ピースウォークが続いている。昨日は静岡市街で楽しいパレードがあったようだ。小田原には後一週間で到着する。4月23日箱根旧道を歩く。2時から、小田原市内でピースウォークが行われる。城址公園藤棚付近に1時30分集合です。4時に栄町3丁目の小田原キリスト教会に到着です。楽しく、平和の空気を伝えるピースパレードです。平日の午後と言う事で、参加がなかなか難しいとは思いますが。こうした形で自分達の思いを表現できる機会は、なかなかありません。小田原にも平和を思う、沢山の人がいること。無防備平和条例制定要求に8000を越す市民の署名が集まった事をおもいます。市民が自由に表現できる社会を大切にするためにも。参加宜しくお願い致します。
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韓国鳥インフルエンザの拡大

2008-04-16 07:05:08 | 自然養鶏
韓国でも何度か発生を繰り返してきたのだが、今回のものは発生の規模範囲が広い。発生初期の防疫に失敗し、拡大を見せている。4月に入ってすぐの感染と言う事で、今回の発生は渡り鳥説の可能性は低いと思われる。日本では、最初この情報は、報道はほとんど無かった。私も気おつけていたののに気付かなかった。4月に入りもう大丈夫と思って油断した。家畜保健所からのファックスが4日にあって知った。ありがたい。今、九州および、中国地方は危険地域になっている。前回韓国でかかさぎの感染が確認され、カササギが風で流された事により、日本での感染が広がった。という可能性が高かった。今回は韓国でも油断があったのだろう。初期防疫が全くなされていない。発生地域からの鳥の持ち出しが、起きている。発生してしまえば、その後の拡大は人間の移動が、主な原因となる。

ともかく、しばらくは私のところも、外部の者が出入りする事は止める。外からの飼料の移動が、感染拡大になる。くれぐれもこの点の注意が欲しい。農水省のホームページでは、鳥インフルエンザ最新情報に、今回の事が掲載されていない。役所の悪い所は、4月最初に人事異動がある。この辺りは、各職員自分の事で頭が一杯で、人の事どころでない。最新のはずが、3月21日で止まっている。私も田んぼの事があって、分かってはいたが、真剣には考えて居なかった。実は今回の発生は予測を覆している。今回は野鳥からの感染ではないと考えた方がいいのではないか。もし、北からの水鳥が、感染源なら、その水鳥は12月には来ていたはずだ。その水鳥が、感染を広げるのに、4ヶ月もかかると言う事は先ずないだろう。今回は、人の移動を中心に考えたほうがいいだろう。

災害は忘れた頃にやってくる。当っている。5年で自然界では吸収されると、予測したが、相変わらずのようだ。これが家畜というものの厄介な所だ。一切の鳥類の飼育を止めれば、5年経てば、鳥インフルエンザは収束する。自然のバランスが機能する。家畜は全く違う。感染して死んでいってくれない。感染させないように、厳重な管理に走る。管理すればするほど、ウイルスとは、敵対関係になる。緊張は高まる一方である。推測に過ぎないが、野鳥からの感染の畏れは、相当に減っているはずだ。つまり韓国のカササギが鳥インフルエンザに感染する確率は、2年前の前回より、かなり低いはずだ。感染を繰り返しながら、折り合いをつけてゆく。折り合いのつかない生き物は、消えてゆく。それが自然界の摂理だ。自然状態なら、その後、ウイルスも消えてゆく。

韓国では、外国人労働者が感染を広げたのではないかと、疑われている。可能性はあるが、何か嫌な感じの話だ。タイ、中国、モンゴル、から何千人規模で働きに来ているらしい。その人の移動が、原因しているの可能性は、確かに高い。アジアで発生した強毒のウイルスが、ヨーロッパから、アフリカへ広がったのは、シベリア鉄道によると、感染の拡大パターンから、推測されている。鉄道で鳥を運んだというのでなく、人がウイルスを運ぶ。これは茨城の感染拡大で、ひどい経験をしたところだ。防疫職員が、実は感染拡大を担っていた。後に血液検査で、陽性反応が、50人を超えて確認されている。このことで倒産した、養鶏場もあると聞いている。県に対して、賠償請求がされても仕方が無かった。風邪なのだから、ウイルスの拡大を防ぐのは、至難の業だ。ともかく移動をしないこと。職員も迂闊には養鶏場に入らないこと。行政の好きな養鶏業者を集めて、注意の講習会をするなど、もっての外である事を肝に銘じて欲しい。
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