地場・旬・自給

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地下足袋と長靴

2006-04-30 06:07:02 | 自給
火曜、金曜の朝の出荷には10人の越える人が集まる。多いい日は20人近く集まる。
「今日のキャベツよく出来てますね。いつごろ播いたのですか。」「稲の水は、今どの程度やってます」様々な農家の情報交換の場になっている。
Yさんが運動靴の底が又破れた。と言われる。私もそうなので、安いのだから、破れる当然なのだけど、高くたって、どうせすぐダメになるから、高いのは買えないという話になる。

今の靴は相当高くても、直せないと言う話になる。安くてせいぜい丈夫そうな靴しか買わない事にしている。持っている靴で高い物はClarksの靴だ。この時は、何故か高い物を買って、大切に直して使えばいいと思った。それの方が、いいくらしだと思った。靴底が痛んできたので、高校生の時以来、久方振りに靴底直しに出す事にした。

所が、靴やさんに持ってゆくと、直せる事は直せるけど、あまりお勧めできないと言う。それで、靴直しの専門のお店に見せると、これははっきりとやらないといわれてしまう。確かに私のはき方が荒いと言う事はあるが、ウォーキングタイプは直せないと言う。底がゴムだから、これを削ってゴムを貼るのでは大変だと言うのだ。
確かに高校生のときの革靴は皮底で、糸で縫いつけてあった。

それでもう一度靴屋さんに戻り、直して見てもらえないかと頼んでみる。それではメーカーに、先ず出してみましょうと言う事になる。1週間ほどして電話があり、2万円だそうだが、本当に直すのかと言う。この靴は4万円以上したので、相当、考えた末、お願いする事にした。靴屋さんが言うには、2万円の物を買い換えた方がいいと言うのだ。それから1ヶ月ぐらいして忘れた頃、出来たというので、行ったら、1万2千円でいいと言われた。2万円は高いから、メーカーも、靴屋さんも、実費で対応してくれたそうだ。なんか靴一つであちこちに迷惑をかけた気分になった。

それ以来、やはり靴は安いものに限ると思うようになった。そう作業靴の話が書きたかった。「長靴を使っているが、年7足買った」と言う、驚く話が出る。そうだ、今の長靴はすぐ穴が開くのだ。昔、自転車のタイヤのゴムで、長靴の穴を補修した話になる。天然ゴムだったのだろう。その事を知っていたのは、Yさんと私だけだった。それでみんなの長靴比べになったのだが。
高い長靴は持ちがいいか。と言う事になる。「同じですよ。倍しても、倍は持たない。安いのを買うしかない。どうせ、自分では治せないし、」という。修理も出せない。

すると、地下足袋派が登場して、長靴で作業すると言うのがおかしいのだ。持ちが悪いのは当たり前だ。地下足袋の気持ちよさは格別だ、作業性もいいし蒸れないし、格好もいい。と力説する。私は長靴派なので、履いたり脱いだりが大変なのだ。年を取ると、こごむ姿勢が大変なのだ。と泣きを言うと、なんと、立ったまま片足を上げて履けばいいと、若者のギャクが実演入りで入る。

良く聞いてみると、地下足袋派の労働時間が長いのだ。多分履いたら、一日脱がないようだ。私のようにすぐ疲れてしまうものは、同じ作業を半日続けると言う事はめったにない。短時間はまだ頑張れるので、一気に片付ける作業を、一日の間にいくつも、混在させている。当然、靴も脱いだり、履いたり、が頻繁な事になる。その為に、長靴になっているようだ。昔長靴で作業などしたら、許されなかっただろう。

格好が本格的で農家っぽくて、いいそうなので、一度地下足袋を履いてみようか。いや、多分そこがなんか恥ずかしくて、履けなかったのだ。
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小田原藩主大久保公墓所

2006-04-29 05:49:53 | Peace Cafe
小田原藩主大久保家の菩提寺は、小田原にある、大久寺である。日蓮宗の寺院だ。何故、東京の世田谷の天台宗の教学院に、現在の墓所があるか不思議な事だ。

加藤憲一さんのブログに、大久保忠真のお墓のことが書かれていた。彼のように、大久保公を敬う想いがある訳ではないし、信仰心は全くないのですが。たまたま、教学院の住職の林さんとは知人なので、何かできることがあればと思い、ついでもあったので伺った。

教学院は目青不動が祭られていて、江戸6不動の1つだ。と言っても現在の太子堂に来たのは明治43年。しかも、明治の廃仏毀釈で3つの寺が、合同され、今の教学院になった。元は新宿の方にあったとか。

墓の文字を良く見ると、南無妙法蓮華経と刻まれている。教学院には、この墓石が移されてきたことがわかる。近くの豪徳寺に井伊家の墓所があるが、こちらはよく管理されている。大名の墓というのは、私達庶民とは違い、その大名の作った寺院という場合が多いい。教学院の出来た経緯は良く知らないが、江戸屋敷がとなりだった縁で、教学院が大久保家の墓所と成ったらしい。だから、この寺に庶民の檀家が出来たのは最近の事である。

現在、烏山大久保家、厚木大久保家、小田原大久保家と3つの大久保家の墓があったことがわかる。烏山大久保家は二宮金次郎が派遣され、活躍した所だろう。その辺の経緯が、3メートルほどある、石碑に刻まれている。墓所も、整理され、5つほどの墓が普通にある。
厚木大久保家はキリスト教に改宗したとかで、戦後一度も墓参された事がない。との事。西側の、100坪ほどを占めていて、中央に、なんとキリスト教の墓がある。ここが一番に荒れている。

小田原大久保家の墓が、一番広くて、300坪ぐらいあるだろうか。私にはそれほど荒れているとは見えなかった。目黒の自然教育園を思い出した。温帯照葉樹林の安定状態というのか、樹に覆われてしまい。草生すという感じではない。現在の御当主は平塚に居られ、ブリジストンに勤務されていると住職は言われていた。その最近立てた墓石も一つある。300坪もある墓を相続してしまった、当惑が感じられる。木の根が盛り上がって、墓石を倒してしまうのだろう。いくつかは倒れていた。墓石は30ほどある。

この寺に他に檀家がないということは、収入がないということである。この広い寺院を維持してゆく、ことも大変な事であろう。烏山大久保家の整理で余裕の出来た土地に、新しい檀家の墓を増やしてきて、維持されているようだ。200軒檀家がないと維持できないというらしいので、大変は大変だろう。以前無かった葬儀施設を併設したようなので、そうした利用で、運営されているのかもしれない。
小田原大久保家も、烏山大久保家のように、一部に統合整理してしまうのが良いのかもしれない。1人づつの墓があり、土葬という事で、どんどん墓が増えてしまったのだろう。しかし、今更30ほどある、巨大な墓石を片付けるだけで、大変な事になる。私のように将来入る墓もない人間にとっては、墓が無くて有難い事だと改めて思った、ところだ。

毎年5月の連休には平塚から墓参に見えるので、住職が少しは掃除をするそうである。小田原からも、城と緑を守る会とか言うグループが訪れて、掃除をしてゆくそうである。これには驚いたが、やる人達は黙ってやっているんだと、何とも不思議なことで、私には思いも拠らない。

夏みかんの大きな木が実をつけて美しかった。これも実生だそうだ。棕櫚が下草のように出てきていて、どうも墓には似合わない。鳥が実を食べて、運んでくるのだろうか。大きな木には保険がかけてある。枝が落ちてきて、人を怪我させた時の対応策だ。

こんな事も都会の中の寺院の墓所管理なのかも知れない。墓の土地の権利関係というのは、ちょっと微妙なはずで、寺院の占有でもないし、檀家の物でもない。寺は勝手な事はできない約束のはずだ。寺院側の努力と、現在の当主の可能な範囲との、微妙な結果が現在の状況なのだろう。

私の親の入っている寺では、同じオオクボでも大久保利通の墓所があり、これまた1反はある。やはり、管理で混乱があったようだ。消えてゆく物は消えてゆく美しさもあるのではないだろうか。
あるいは墓所を史跡として考えるならば、再度小田原に移設するという事になるのだろうか。この場合、何故教学院に改めて、墓所を作ったのか。このことも重要になりそうだ。
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ピースチョイス

2006-04-28 05:51:02 | Peace Cafe
ピースチョイスという活動がある。http://www.3chan.net/~peacechoice/index.htm平和の為にならない企業の製品を購入しないというだけの活動である。
受身の活動だけれども、これほど力のある活動はない。民主主義の一面でもあるのだろう。一人一人が正しい見識を持つ事で、全てを変えてゆくという事なのだろう。アメリカの行ってきた戦争は、いつも企業の利益を伴っている。人権とか、正義とか、を掲げながらも、その背景を考えると、アメリカ企業の利益という側面が見えてくる。

それなら、一人一人がその企業の製品をボイコットすれば、戦争を止めさせる事ができる。ここまでは明快なのだけれど、ここから先が難しい。シンプルに考えれば、アメリカ製品はボイコットするという考えもある。これを書いているのは、ウインドーズです。どうすればいいかである。

税金の使い道を問うのが、市民にとって政治である。
3兆円の米軍への支出。お金の使い道の問題である。

小田原では、税金で買った72億円の駅前の土地の再開発事業に
基本設計業務委託料が累計90,500,000円村井合同設計に払っている。
小田原市が「準備組合」に支出した「負担金」 累計31,710,000円 
小田原市が「準備組合」に支出した補助金累計5,123,800円
 「小田原市中心市街地における優良建築物等整備事業補助金交付要綱」に基づく補助金 累計22,600,000円
財政が大変だと言いながら、これほどの税金が、駅前の再開発事業に使われている。
計画されている施設が、市民にとって費用対効果が問題。

これほど不自然で、身近な、税金の使い道に対し、何故市民は怒らないのだろう。

ピースチョイスでは、日々何か買い物をするときの行動に、これはいいかな。何が良くて、何が良くないかは、私は自分に問えばいいと思う。アメリカの戦争を支持するものは、それに相応しい物を買えばいいし、アメリカの戦争をおかしいと考える物は、ボイコットすればいい。それだけの事である。

激しいデモをやるとか。旗を作るとか。意思表明をするとか。めんどうも、負担も、リスクもない。それなのに何故この運動が広がらないのか。

市民に意識が育っていないからだ。本当の怒りが育っていないからだ。どっちでもいいや、という生き方だからだと思う。あるいは自分さえ良ければいいというくらしだからだと思う。
勉強が足りないからとか、知識がないとかではない。日々の暮らしの感情が、不足しているだけだと私は思う。

ビールを飲むときに、サッポロにするか、キリンにするか、アサヒのほうか。それともバドワイザーか、チンタオビールか。確かに味が決め手ではある。ビール好きなので、よく分かる。
しかし、この1杯が、イラクで銃弾の1発になるかもしれないと思えば、どんなビールも不味い限りだ。
でもこれはマイクロソフトで書いている。代替品が分からない。

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9条の応援歌

2006-04-27 04:00:40 | 水彩画
今、9条の応援歌という、展覧会に出す絵を描いている。描いているといっても、頭の中で描いている。あれこれ頭の中で考えている。描いているのだが、なかなか紙に筆を入れるところまで進まない。
私の場合、描き出した時は、終わりのようなもので、一応の結論が出なければ描き出した所でしょうがない。私の住んでいるこの場所を描きたいと思っている。
それが、9条の応援になると思っている。先日、9条の署名しているところの絵があって、解り易くてすばらしい。という意見を聞いた。驚いた。励みになるということなのか。共感するという事なのか。9条に興味のない人はその絵を見てなんと思うだろう。そういうやり方は絵がやることではないと思っている。

先日事故で、命を奇跡的に取り留めた若者が、久し振りに見た景色を、その美しさに感銘を受けたという、手紙を呉れた。私が描きたいのはそういう命が初めて出会う景色だ。私の絵に生きて行く切実な魂が初めて触れる、感謝に満ちた風景を作り出す事で、見た者が平和な日々の実在を感じる事ができるような絵、を描きたいのだ。それが絵という方法の、優れたやり方だと思っている。

9条の応援歌展を主催するのが、葛飾美術研究所、カツビといわれてきた仲間だ。私もこの会の末席にいたつもりだ。それは今も絵を描き続けている誇りでもある。まだ金沢にいた頃、北陸学生美術展という物を企画した。長野県、富山県、石川県、福井県の学生に呼びかけて、美術展を開催した。従来にない新しいことをやりたいということで、この地域で美術に関心のある学生、全てに呼びかけ、大学紛争中で、何故美術を志しているのか。そんな事をテーマにして絵を並べ、語り合った。こんな時代に絵を描いているとは何事だ。そうじゃない、今だからこそ絵を描いているのだ。

当然、金沢美術大学にも、話に行った。政治的志向の強い私達とは、どこか一線を引いて、彼らは近づいてこなかった、美大生にもこの輪に入ってもらおうという考えで、いわばオルグしにいった。

その時最初出合ったのが、冨田さんという彫刻の学生だった。冨田さん達は、野外彫刻展というのを企画していて、かなり積極的に、活動をしているグループだった。当時美大の彫刻は有望な人が沢山いた。当然、私達趣味で絵を描いている、と見られている者を相手にしたくないという、気分があった。しかし、山本さんというこれまた、当時大活躍していて、新聞社に作品が買い上げられ、社屋に前に飾られていて、注目の的だった人とも知り合う事になった。2人は対等に話を聞いてくれた。彼らの真剣さに出会う事で、私が受けたものは大きく、それが、フランスに行くきっかけになっていった。

それから、6年が経ち、お互いに色々活動を続けていて、東京で再開することになる。たまたま、お互い銀座の、今は無くなった、史染抄ギャラリーで個展をやった。なぜか山田さんというオーナーと意気投合して、そこで10回ぐらい個展を続けた。聞いてみると、山本さん達は葛飾で、共同アトリエをやっているという。そこで、クロッキー会もやっているので、来ないか。と誘われて、参加するようになる。そのアトリエは、まさに学生時代の金沢が、持ち込まれたような、熱気にあふれた空間で、すっかり引き込まれる。クリスマス会の楽しかった事。
作家が共同で、生活をともにしながら、切磋琢磨してゆくというのは、理想ではあるが、普通実現するわけがない。それを、今も続けているのが、カツビの仲間達だ。この現代稀な活動はあちこちで記録されている。

その仲間が、こんど、9条の応援歌展をやらないか。と誘ってくれた。二つ返事で、是非やりましょうという事で、「守ろう九条の応援歌」展です。どんな展覧会に成るのだろう。久し振りに会える人達はどんなだろう。

「好文画廊」中央区日本橋浜町2-24-1℡03-3669-1957  
5月26日(金)から、28日(日)11時から7時(日曜は5時まで、)
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国際協力アート展

2006-04-26 06:18:46 | 水彩画
熱海に起雲閣という建物があります。元旅館だったという、建物が寄贈され、様々なイベントに利用されています。建物を見に行くだけでも中々面白いのですが。
ここで、JHP・学校を作る会が主催して、国際協力アート展が開かれていました。
私の住んでいる近くにある、久津間製粉も後援されていました。

友人も多数参加されておりました。今度一緒にグループ展をやる星崎千恵子さん。農の会のなかまで、今度のお茶摘にも見えるそうです。作家としても、大変魅力的な作品を、連続的に発表されていて、今回どんな作品を出しているのか、楽しみでした。大作は2点。稲穂の作品ともう一点。見に行ってよかったと思いました。微妙な白い面のバランスが、絶妙でそこにおかれた茶色が、全く土着的で、またとない作品です。会場は絵画展示には、ヒカリの状態が悪く、良くないのですが、何度見ても惹くつけられる作品です。
小品もすばらしいものが2点出ていました。変形の画面に、和紙が面白く張られていて、そこに置かれたやはり茶色の色の塊が、有機的で、幻想的で、惹き付けられました。
私は星崎さんのような作家を本当の意味での、抽象の作家だと思います。全くデザインではないのです。心の鼓動のような物を、直に画面化しようとしたら、こういう形しかないだろうと思います。日本では、日本画の伝統を受けて、抽象風に見えるデザイン画を、抽象絵画と思い込んでいる節があります。きれいに収まりを良くすれば、襖に丁度いいというような感じです。

三橋節子さんの作品もありました。この方は、今度の秦野の9条の会の発足集会の案内ビラの絵を描かれています。古くからの水彩連盟の友人です。この方はキリコ的に心情を表現されてきました。平和への思い。又どちらかといえば、絶望、虚無感、無常、こうした埋めきれない思いを、何とか平和な日々の暮らしにつなげようとして、描いて来れれました。誠実極まりない絵です。それは、ある意味不可能な作業のため、辛い仕事をされていると思ってきました。しかし、この作家のすごい事は、少しづつその困難な仕事を統一してきている事です。だからいつも次の一枚が楽しみなのです。

それから、陶芸では、ボバ和歌子さん、と鈴木隆さん。鈴木さんが見るたびに上手くなるので驚異的です。この人は本当に精進しています。裂き織りをしている、水樹の会の人達も出していました。美しい会場で、美しい季節に、気持ちのよい作品を見る。こんな幸せな事はありません。作品を見るというと、どうしても東京方面になりがちですが、東京ではお目にかかれない、すばらしい機会を得ました。

このJHPという団体はカンボジアに150棟の学校を作った団体です。小山内美枝子さんが代表になって活動されています。先日の国際協力フェスティバルでも、この地域の活動の盛んな事には驚きましたが、そうした関係もあって、熱海で開かれたのかもしれません。この地域の作家が多数参集して、こうした平和の目的で、この地域で、すばらしい展覧会を開かれた事は今後の平和活動のあり方を、示しているように思いました。

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農業eーラーニング講座

2006-04-25 05:18:27 | 環境関連
農業eランニング講座の企画委員という立場で、会議に出た。状況が呑み込見切れないまま、出席した。社団法人全国農村青少年教育振興会という、農水省の外郭団体というのでしょうか、会長は農水から天下りできているのじゃないかと思われる、団体です。参加していて少々失礼な言い方になっております。

詳細については、検討中のものを企画委員がこうした場で、公表してしまうのはおかしなことなので、公表できません。

農水省の有能そうな若い女性係長の説明によると、小泉首相の方針で、フリーターとか、ニートと呼ばれている、500万人と言われる人達の就職先に、農業を提案してゆこうと言うことになった。それにはインターネットを利用して行くのが、よい方法と思われるので、農業の講座をeーランニングで企画すると言う事らしい。単年度の予算で行われると言う事なので、先ず、小手調べと言う事なのでしょう。それで、私なりに平飼い養鶏の企画を立てて、参加をした。

厚生労働省の管轄である、ハローワークに来たフリーターや、ニートに、紹介してゆくと言う事らしい。ちょっと無理が感じられますけど。ハローワークにニートをどうやって連れて行くのだろう。それはいいとして、年間、12000人新規就農してもらう計画だそうだ。これもすごい数字だけれで、政府が出す数字というのは出来なかったとき、誰かが責任を持つのだろうか。

今「就農浪人」と言う言葉があるそうだ。農業研修施設で3年4年と研修しているけどスタートが切れない人の事らしい。私のところの見学に来る人でも、そうした人が何人かいた。こういう農業がしたいから農地を見つけてくれというので、ここではどうかと紹介すると。何か問題点を見つける。じゃぁーここじゃと次を紹介すると、新しい問題点が出てくる。全てクリアーしたようなところが見つかってこれでいいとなると、親や、兄弟、奥さんの問題など上手く次の課題が出てくる。
断定的に言うけれど、これが共通しているのが不思議だ。

就農準備学校を卒業して、農業につく人の数は5%だそうだ。これを逆算すると、24万人が農業に興味を持たないと、12000人が農業には着かないという事に成る。就農準備校にそんな定員はあるのだろうか。フリーターやニートのどれくらいの人が農業に興味を持てばいいのか。これが毎年だそうだから、なんか数字がおかしいように思う。

本当の所の就農できない理由を、もっと掘り下げて検討すべきだ。結論から言えば、「食べられない」の一語につきます。食べられるようになればいくらでも農業をやりたい人は出てくる。食べられない理由もこれもシンプルで、国の農業政策が、間違った方向に向いているからだ。工業製品や輸出産業を国の基幹産業と考えて、農業をないがしろにしてきた結果だ。

こんなに不平不満の私が、のこのこ上中里という所までに出かけていったのは、やはり、一人でも多く新規就農する人が増えて欲しいからだ。今回のプランで言えば私が理解できるのは、平飼い養鶏ということになる。平飼い養鶏のコースを取る人が、沢山現れて、始めたら、面白くて、ついつい最後まで勉強して、実践もやってみよう、と言うことに成ればと思っている。

しかし、この養鶏コースの講義内容を作るのは、畜産試験場の技官らしい。この先は、今はなんとも言えないが、私の立場で、最善は尽くしてみたいと考えている。
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たんぼの会

2006-04-24 05:03:05 | 稲作
ポチ田んぼの畦踏みの作業があった。ここは昨年まで2年Eさんが使っていて、会に返還した場所です。全部で、3反あって、1反は地主さんである額田さんを中心に、大豆を作る事になっている。2反の田んぼの内3畝あまりを、福永さんが自分流に耕作する事になっている。残りの1反7畝がポチ田んぼとなる。ポチ田んぼは初めての年になる。昨日の作業には15名参加していたので、メンバー数は充分だろう。

私はどこで耕作するグループでも、1年目は仲間に入れてもらっている。今まで、16グループが出来た。最初は塩沢で始めた、96年である。このたんぼには3年係った。その後が、97年に坊所田んぼが始まる。坊所田んぼは今の続いているので、10年目のグループ耕作と言う事になる。今でも岩越さんはメンバーで続けているので、小学生だった息子さんは大人になった。

現在の田んぼグループの数は10である。だから、6グループは無くなったと言う事だ。形を変えたものもある。塩沢はCLCAが教育的な意味で、係っていたので、CLCAが今坊所でやっているのが、その継続ともいえるのだろうが、農の会とは関係が切れた。CLCAが営業として事業を行うと言う事が、農の会の活動とは拠って立つところが違うので、混同されないようにすべきと考えた。

一年で無くなってしまったグループも3つある。それぞれな訳だが、やはり無くなるには無くなるだけの理由がある。これを書くと誤解を生むのでよしておく。しかし、無くなった3グループに1年入れてもらった事が、私には大きな学びになった。その経験を生かしながら、今の田んぼの会の形に進んできたと言える。続いているグループは、私が居ようが居まいが独り立ちしているところである。私が係るのは、耕作上のスケジュールの参考意見という範囲である。

一番いけないのは、分け前を先に相談することだ。何時間働いたら、どれだけお米を分けるとか。ルールばかり研究していると、話がおかしくなりがちだ。まず、1年はやってみないと、何も分からない。採れないかもしれない。豊かな収穫を終わった後ならば、考え方も余裕が出来て、いじましい話にはならない。

二番目にいけないのは、教育が先に来ること。田んぼの作業はあくまで自給生活のためであって、取れなくても、子供が学べばいい、というようなことが先にあると、どこかに無理があって、おかしくなりがちだ。
世間にいくらでもある、体験学習のやり方だ。生協やJAが主催するのはこういうことになる。教育しか拠って立つところがないから、そう主張するしかないだけだ。銀行員の仕事を体験学習する。これと比べてみると少し分かると思う。嫌な子供に無理にさせて何かになるわけがない。

学校田なども、私は無駄だと考えている。そんな事で、田んぼの何が分かるかと、思っている。却っておかしな事ばかり覚える事になる。やるなら、全てを子供がやるといい。田んぼ作りから始めて、全部やってみるならいい。父兄の農家に準備させて、さぁー田植えですよ。そこで出来る体験は嘘の体験で、誤解ばかり広がる。生産現場の本当の意味を知るには、生産者になるしかない。

農の会では自給という事を根に据えている。私はグループ田んぼで取れたお米しか食べない。その決意でのぞんでいる。甘くはないが、日々の喜びが深いと思う。田んぼグループが一つの家族になるというところが、すばらしいと思っている。家族だったら、手伝わない、娘をしょうがないやつだと思っても、食べさせない事はない。働けなくなった年寄りを、ないがしろにはしない。それぞれの役目があるからだと思う。

こうした考えかたは坊所田んぼを続ける中で学んだ。本当の喜びをえるためには、出きる者がやる。必要な者が食べる。出来る範囲ではあっても、こう考えている。



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自給に必要な樹木

2006-04-23 06:26:55 | 自給
自給自足生活に必要なものは、主食となる穀類、お米が中心になるだろう。そして野菜。根菜類と葉物。これも自給向きな作物もあれば、困難な物もある。一年中何とか回るようにするためと言う事も出てくるので、3,4月収穫できる野菜、あるいは保存して置ける野菜があるといい。

加えて、樹木で必要な物がある。屋敷林を作って、次の建替えに備える。と言うような遠大な物でなく、日々のくらしに必要な樹木というのもある。例えば柿。これは利用の巾が広い。柿酢を作る。柿渋を作る。干し柿を作る。柿の葉を利用する。渋柿でいいから、一本どうしても必要になるだろう。

びわの木も植えたいと思う。自然療法には葉が必需品だ。庭に一本あれば便利だ。勿論実もおいしいので、きちっと栽培すると言うのもおもしろい。防風林に出来ないかと考えている。よく昔の解説書にあった、趣味と実益を兼ねたというやつである。養鶏場の鶏の遊び場の南側に、並木のように植えると、景観上も冬の風除けにもなり、いいと思う。

私の家の周辺では、椿が風除けとして用いられている。当然、実は油にするということだろう。椿の長径が50センチもある大木が家の西側に、家を守るように植えられている。北じゃないのは、この辺は箱根が西にあって冬の吹き下ろしは殆ど西風と言う事になる。花の面白い物は、実はどうなんだろう。何となくだが、少ない様な気がする。油を採る用の椿の種類があるなら、それにしたいものだ。

柑橘系では、ゆずがいいように思う。ゆずにも種類はあるが、他にいいものがあるのかもしれないが、昔からの本ゆずと言うのが今はいいと思っている。ゆずは収穫したら、勿論なまで使う物もあるが、大半は黒砂糖に漬けてしまう。黒砂糖は同量と考えれば基本になる。半年もすると液が覆うようになる。この液を薄めて飲むのがおいしい。夏場、草取りに持ってゆけば、この上ない。一年も経つと、漬けてあったゆずは形も崩れかかる。これを、そのままマーマレードにしてしまう。大なべに入れて、さらに黒砂糖を加え、火を入れながら、かき回していれば、熱くなる頃には丁度いい大きさに崩れてしまうので、そのまま熱いうちにビン摘めにしてしまう。

梅はどうしてもいる。これも黒砂糖着けで、同じ手法で、梅酒と梅ジャムを作る。
種類で言えば、大粒種で丈夫なものがいい。桃や栗も捨てがたいし、銀杏を取る銀杏も欲しい。きりはないのだが、手がかかるものではないので、場所が上手く配置できれば、ブルーベーリー、ラズベリー、ブラックベリーとベリー類をやるのも面白い。胡桃とか、ナッツ類は、そこまでやるかどうか。

竹も要るだろう。竹があれこれ材料として便利に使える。と言う事も在るし、竹の子も相当強力な保存食の候補だ。真竹がいいのか、孟宗竹がいいのかは材中心に考えれば、真竹となる。竹の子なら、孟宗が普通だろう。でもこの辺では真竹の方がおいしいと言う人もいるので、今のところは真竹で行って見たい。

もう一つの角度から、根粒菌を持地窒素固定する、ヤシャブシやハンノキ、マメ科の樹木と言うものがある。畑と共存させる事が、自然農法では必要と、福岡さんが実践されている。この辺りでは、ニセアカシアやねむの木と言う事だろうか。外来がいやだとなれば、藤を上手く利用すると言う事もあるかもしれない。

しかし、樹木についてはまだまだ分からない事ばかりだ。ここ小田原は植木屋さんの多いところだから、よく教えてもらい、自給自足園に必要な樹木をそろえてゆきたいと思う。
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健康法

2006-04-22 06:11:10 | Peace Cafe
ピースカフェの6号は【健康】特集でした。くらしの中で一番、大切にしなければならないのが、自分の身体のことだと思います。私はどちらかと言えば、虚弱な体質でした。特に呼吸器系が弱く、喘息と言うわけではないのですが、風邪が気管支炎に進み、ひどい咳で悩まされると言う事が年に1、2度はありました。27の時に結核だと病院で言われました。その前の3年のフランスでの、それこそ健康には最悪のくらしで、病気になり、日本に不安で戻ったと言う状態でした。

その後、どうも本調子でないという状態が続いていたのですが、20年前に山北に移ってから、身体が根本から変わったように感じています。病気は10年前に、肋間神経痛と、ヘルペスを併発して、苦しんだ1回です。これが、46歳の時ですか。この後、健康に対する考え方を変えました。

新規就農した者の多くが、3・4年目に体調を崩し、挫折する場合が多々あります。これは身体が出来ていない、現代人が、突如肉体労働に入るわけですから、無理がたたるわけです。それで変調を来たし、腰が痛い、膝が痛い、と言う事に成り苦しみます。新しい世界で、頑張るのですから、身体を痛めるぐらいやらなければ道が開けないのも当たり前でもあります。

私の場合、当初は山の開墾を、シャベルだけで始めたので、身体は相当痛めました。しかし、その5年間で体質が変わりました。いつの間にか病気をしなくなりました。水が変わり、空気が変わり、食べる物も変わったと言う事が、良かったのだと思います。もっと良かったのは好きな事をやっていると言う事だと思います。病気をしない、自分が層弱くないと言う事はなんとも晴れ晴れしい事でした。調子に乗って、無理に無理を重ねたくらしを続けて、10年目に、ドドット肋間神経痛にやられました。

クスリは一切飲まない。こう決めていたので、このときは決断が大変でした。お医者さんでは唯一信頼できる中井町の町田先生のところに、伺いました。薬を使わないで何とかして欲しいとお願いしました。しかし、この状態は、入院しないと生死に係わる状態だ。最小限で治療しましょうと言う事でした。それから、1ヶ月ほどこれほどの激痛は在るかと思うほど苦しみましたが、直りました。その時頼りにしたのが、東城先生の【自然療法】です。東上先生には丸太の森で親孝行の話を伺い、感銘を受けていたので、病気対策は全て、この本に従っています。しかし、肋間神経痛は他人を攻める人がかかる。こう書かれていたのは我ながら当たっているようで、情けない。

この後自分の体質が年齢的に変わってきたと言う事を考えました。無理をすると壊れるようになった。体調を計りながら行かないとならない。周辺状況もとても病気をしているわけにいかない。一方薬を使わないくらしを徹底してみたいと言う事もありました。鶏には、一切薬を使わないで養鶏をしています。自分だけ薬を使うのという訳には行かない。特にワクチンの問題では、あれこれ勉強していました。このとき、鳥インフルエンザが世界的に流行する事が予測できました。その予測によると、さらにワクチンの使えない病気が出てくるということです。

健康法は体重と体脂肪率を量ることです。3,4日に1回は計り書き留めて置きます。空腹時、56キロを上下、14、から16%を上下しています。冬場は増えて、夏場は下がります。これも、年齢とともに目立ってきました。これだけ記録しておくと、かなり自分の身体の状況は分かります。静かに、自分の身体の状況を確認するようにします。頭から内臓まで、感じてみるようにしています。
食べ物の方は体重の上下にあわせて、気おつけるようにします。身体を使うと食が増え、使わないと小食になります。夕食は食べなくてもかまいません。

後は良く眠る事です。夜は、8時には寝ます。朝4時に夏は起きますが、それでも8時間は寝る事になります。絵を描いていたりすると眠れない、と言う事もあります。これはストレスがかかっている時です。ストレスをなくすと言う事もまた、良くないので、ストレスを自分のものにするように、前向きに考えるようにしています。
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蓮の植え付けと竹の子堀

2006-04-21 06:32:42 | 自給
庭の池についに蓮の苗を植えつけた。苗の到着が遅れていたので、やきもきしていましたが、植え付けが終わりました。九州でやっている人の話では、苗はお彼岸までに植えるのだそうです。3月中には植えたかったのですが。4月19日植え付けになりました。
宅配便で、大きな箱が届きました。立派な梱包です。籾殻の中に、7本入っていました。これが又立派な蓮苗で、想像した、あるいはテレビで見ていたものとは全く違っていました。大きい物は1メートル近くある物です。用意くださった方の親切な気持ちが、そのまま届いたようでした。

庭の田んぼは代掻きをして、そのままでしたが、水持ちは日に日に良くなっているのでこのまま植える事にしました。しかし、大きさが大きいので、代掻き部分の下まで掘らないと、植えつけられませんでした。良く蓮田は深いと、腰までつかるって収穫すると、言われていますが、それではとても無理なので、ちょっと深い代掻き程度にしてあります。

20日には竹の子堀をやりました。今日の出荷する分です。南足柄の弘西寺の尾根近くにある竹藪の地主さんが、竹の子を出荷していいといってくださいました。私は今まで、真竹の竹の子はよく収穫しているのですが、孟宗の竹の子は初めてでした。なんとそこの孟宗は尺だけと言って、30センチ近く太さがあるのです。当然竹の子も太いのは30センチの根本があります。

1時に7人で集まって、掘り始めて、2時間弱で40本掘りそのまま、千田さんの家に向かい、庭でゆでました。田中さんが、出荷の経験があるそうで、手際よく指導してくれて、一通りの要領がつかめました。慣れた人と初めてのものでは随分と手間が違います。第一見つけるのが、難しいです。足で出っ張りを探すとか、かすかな盛り上がりを見るのだ。と言われても、薄暗い竹やぶで、老眼の初心者ではそう簡単ではありません。

掘り方も痛めてはいけないというので、つい大きく掘るばかりで、竹の根にぶち当たり困難を極めました。竹の子をよく観察して、頭のわずかな傾きで、竹の根と繋がっている方向が分かるので、ここをたけのこ掘り様の鍬で一気にたち切れというわけですが、そう考えて掘り起こして、一本目は張り裂けてしまいました。やはり周りを掘らないとダメのようで、時間をかけて掘りました。熟達者の3倍から4倍の時間がかかったでしょう。

掘ったらば、できるだけ早くゆでるのが、あくが出ないコツと言う事で、そのままケイトラに載せて、千田さんのところに向かいました。4時前についた時には既に、お湯が沸かしてあり、早速下ごしらえをします。根本をかなり多めにスパッと切り落とし、頭の方もかなり切ってしまいます。お湯の方は糠とトオガラシを入れておき、どんどん入れました。これが、随分大きな釜なのですが、1つでは無理なので、もう一つ急遽増やして、2つでゆでました。40分やれば、いいということでしたが、40分ゆでてそのまま朝まで置いておくのだそうです。

これがしばらく週2回続くと言う事ですが、どうなる事でしょう。野菜の苗の準備で忙しいみんなにはとても無理でしょうから、しかし、折角の地主さんの好意の申し出ですし。何とか、やってみたいとは思います。
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小田原市市民活動応援補助金

2006-04-20 06:18:09 | Peace Cafe
市民活動応援補助金の報告会があった。昨年度いただいた、17団体と、それを審査された委員の方。加えて若干の来年度申請予定の団体の人達。準備されている、行政の方も加えると、50人は越える人が集まっていた。

各グループ10分間の報告を行う。あしがら農の会はこの制度が出来た初年度30万円、2年目に20万円と頂いた。頂いて以来、私達の活動が税金を頂いて、活動を行うのに相応しい団体であるのか。考えながらの活動であった。日頃税の使い方には、疑問を感じてきただけに、貰っていいものかどうか、申請するに当たって考えた。

私達が新規就農者として、この地域で活動しているのは、当然のことながら自分の生活である。これに補助を貰うような性格はない。頂くとすれば、市民が農業に係るにあたっての、支援をする。と言う部分が大きいと考えている。むしろ、助けられてながら、やっとここまで来た新規就農者が、人様のお役に立つ側に立てるのかということだと考えた。

3年前、小田原市の耕作放棄地は250ヘクタールと言う事だった。それが、今年の資料では、320ヘクタールとなった。毎年10%も増えているという、雪崩現象と言っていいのだろう。私達の、遊休農地を活用すると言う活動も、この流れを食い止めるに何の役にも立っていない。と言う事が明らかだ。雪崩を食い止めることはまず出来ない。今から15年前この事態を予想し、打つべき手立てを提案した。もしあの頃少しでも耳を傾けてくれれば、違ったと思う。まだ、農業者の中に担い手も沢山いた。あの頃60代だった中心メンバーが、今リタイヤせざる得なくなっている。

私達は全体では、15ヘクタールは利用しているが、毎年放棄されてゆく農地の量より少ない。私達にできる事は、この放棄農地の利用法の提案にすぎない。直接私達が、やると言うなら、足柄平野全域では、1000ヘクタールはあるのだから、1000人でやらなければ成らない。当然の事ながら、放棄されてゆく農地はどちらかと言えば、車が入らないとか。傾斜がきついとか。日当たりが悪い。ぬかるんで機械が入らない。こんな悪条件のところが多いい。

こうした所を、企業的農業が利用するはずがない。こういう農地は、そこに住む人が、小さく、こまめに作る以外、方法がない。里山の管理が出来なくなり、里山が荒れているという話を良く聞くが、同じ事で農的に暮らす人がいなくなっていると言う事だ。地域でも優良農家、優秀な人材は居られます。すばらしい農業を展開しています。しかしそういう人も、手を出さないような農地が、放棄されています。

しかし、観点を変えてみると、すばらしい場所なのです。眺めがいい。人が住んでいない。静か。市民が、ロシアのように、自給菜園を展開するには絶好の場所なのです。これも、各個の農家が、個別にやるような発想では、さらにあれるだけです。景観を壊してしまうと思います。市主催の貸し農園は見ていて辛いぐらい、乱雑です。粗大ごみから持って来た、ロッカーが置いてあったり、狭くネットで区切ったり、あれでは農業の楽しさの半分ぐらいしか味わえません。

補助金を頂く事で、農の会の仲間の意識が、少しでも変化してくれれば、一番の収穫です。私達の活動を市民が応援してくれている。このことが、少しづつ意識変化につながる事が期待されます。新規就農者はどちらかと言えば、一人でやっているんだ、と考えがちです。実際は、周囲の方のお陰でやっと自立できると言うところです。周りの方の、見えない支援がなければ、地域で新しく農家を立ち上げる事など、不可能です。地域の方の中には、遠慮がちに遠巻きに、助けてくれる方がいます。そうした事が、補助金と言う形で、明確に成リ、意識変化に繋がるところもでてきてほしいと思っています。

私達は実に楽しく愉快に暮らさせてもらっています。希望や夢を山ほど持っています。これが人に伝わり、新たにこの地を訪れる人が出てきたとき、私達の存在が、役立つ時が来ると思います。又そうした事にならなければ、応援補助金を申請した、私達の拠って立つところが、おかしなことになります。
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野菜の宅配

2006-04-19 07:10:18 | Peace Cafe
昨夜は遅くまで、野菜・卵・豚肉の宅配関係者の話し合いがあった。あしがら農の会の骨格を成す事業であり、今までにない宅配をやっているので、苦労も多く、試行錯誤をしている。

現在宅配先は、140件ぐらいだそうだ。一人が、30軒前後を担当する。7人が行っていた。最近、そのうちの一人が、野菜の出荷はするが、宅配については止める事になった。それに伴って、新しく分担が変わることに伴い、少し、考え方を整理しておく事になった。

その7人以外に、野菜だけ出す人が、4人。豚肉が1人。卵が2人。と言う体制です。
農の会の野菜の宅配の特徴は、当然、地場・旬・自給を基本の考えにしている。その時あるものを、出来る限りお客さんの要望にあわせながら、セットを組んでいく。10種類の野菜が組み合わされ、2000円と言うのが、基本の形である。異種のやしは基本的には200円の袋と言う事になる。お客さんによっては、5品にして欲しいと言う方もいるが、これは配達料がないので、できるだけ、10品にしてもらいたいという方向である。

宅配先の募集についてはありがたいことに、野菜の生産に連動するように、自然増と言う形で、増やしてくる事ができた。計算だけで言えば、2000円を30件で4,5週として、月27万円の売り上げになる。実際は、この達成が難しいが、目標と言うところだろう。その他、お米や、お茶、果樹もあるわけだから、目標は見えてきている所まで来た。

一番大変なのは、何かということになったが、火曜・金曜に行う野菜の仕分け作業と言う事だ。各自が15件ほど担当している訳で、これをお客さんの要望に出来る限りそうように分類してゆく。先ず、持ち寄るまでその日に集まる種類も量もわからない。全部がそろったところで、件数で総量を割って、今日の平均野菜数がいくつと声がかかる。例えば、8、5品です。と声がかかる。15の段ボール箱が各自並べてあり、それに自分の野菜で、基本的なもので揃う物が既に入れてある。
例えば、たまねぎ、にんじん、ジャガイモ、小松菜、キャベツが入っていれば、後3,4品を加える事になる。

中央に、野菜だけ持ってきた人のものや、自分のところが入れ終わり、余剰になる野菜と、貴重な物ではあるが、他の人への協力と言う意味で、出してくれる物などが並ぶ。その出ている数を、集計して、ではアスパラを、3割取っていいですよと声がかかる。つまり、15件の人は4袋アスパラを入れたければ入れることが出来る。3つでいいとなると。全体で、いくつか残る。ではいいですか、アスパラまだ2つあるので、どなたかもって行きたい方はどうぞ。と言う事で、無くなれば、次の大根になる。しかし、誰もいないものも当然現れる。
この余剰分は、最終的に、8,5品を越えてもいいですよ。と言う形で、再度配る。これでも余る事もあるが、できる限り、協力して、もって行くことになる。お宅によっては、たまねぎの2袋は入った、12品のお宅も出ることになる。

書いても複雑なのですが、これが、150円袋もあり、先週持って行った野菜の事などのメモを見ながら、進めるので、もう限界だというのだ。無理もないことで、何とか合理化しなければ成らない。先ずは、集荷場が狭いことが、問題なので、作業しやすいように、広げて、棚やテーブルを置いて、分かり易くしようと成った。出来れば、ケートラを近くまで入れて、出し入れが、簡単になるようにしないと、まずいと言う話にもなった。

今の形が、お客さんの要望に従い、修正改善を繰り返してきたものなので、おいそれとは、変え難い形になっているようだ。

それでは卵を入れてもらっている私は、宅配をしていないのだが、それでいいのかどうか。私としては皆さんの気持ちを聞いてみたくて、率直に聞いてみた。もっと安定して、生産を上げる事が一番の希望で、野菜の宅配を手伝ってもらうより、そっちを頑張ってもらいたい。と言われた。

有機農業者という自立精神の強い仲間が、なぜ気持ちよく、共同の宅配を続けてこれたか。私はある意味火曜・金曜の朝にみんなに会うことが、私にとって一番の救いに成っているのだと思う。農業は基本的には、地味な肉体労働をただただ、続けている。みんなに会って晴れ晴れして、帰る事が、次の元気になっているのだと思う。
昨夜も、みんな肉体的には限界に近い暮らしをしているのに、他の人を思いやる、考え方が普通に提案される。草で困ったら、気楽に他の人に声をかけられるようにしよう。それが全体の生産を上げる事なのだから。すごい事だと思う。そうした気持ちを大切にしながら、今まで、どこでも出来なかった形の、ゆるい連携が模索されてゆく事に、係ってゆきたい。
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旅行人

2006-04-18 07:03:51 | 最小限の家
「旅行人」という雑誌を出されている、蔵前さんご夫妻が来宅されました。
蔵前さんが今度、家作りの本を出されると言う事で、【最小限の家】に関心を持たれたのだそうです。

蔵前さんと話していて、気付いてたのは、【最小限の家】のコンセプトの中で、まだに煮詰まっていない事が、沢山あるということでした。例えば、「屋根材をどうするのですか。」こう聞かれた時、屋根でかぼちゃを作ると言う事は、つまり、屋根は畑にするということは考えているのだけれど、屋根をどんな素材にするのかという点は、明確に成っていないことに気付いた。

ガリバリュウム鋼板を何となくイメージしていたけど。確かに、地の素材と言う考え方ならば。桧皮葺き、とかも在りえる。しかし、実用的かどうか。板葺きと言うのもあるがどうなんだろう。こだわるのも、おかしいので、廃材のトタンと言うのがそれらしいのか。など考えた。板を挽いた時のバタザイを重ねて貼ると言うのはどうだろう。

同様に「ミズ・エネルギー・電気」などもどう考えるか。具体的に、整理してゆく必要があるだろう。

蔵前さんは世界中のスラムを見てきているようで、ブルーシートハウスに自然話題が進む。日本が何でも捨てられていて、材料にそう困らないと言う事。困らないけど、差別がひどいから、暮らしにくいのは日本だろう。
ニューデリーのスラムの家は大変高いものについている。つまり、ただで落ちている物などないから、ダンボール一枚探すのに、大変苦労するらしい。そのダンボールも粗悪な物で、強度がないから、家とはとても言えない様になってしまうらしい。日本人が器用というのは、ブルーシートハウスに表現されていて、住まいの工夫にあふれている。

日本の場合、とにかくブルーシートが安く手に入るので、住宅産業の規格住宅のように、ブルーに統一化されてしまったが、これが工夫する人にとってはそう優れた素材ではないようで、すぐ太陽光で劣化して、ぼろぼろになる。ダンボールで骨組みを作り、それを、ビニールハウスの廃棄ビニールで、包んでやる方が、安定するし、耐久性もある。

そのダンボールがゴミであるからということで、勝手に行政が捨ててしまうので、これに絵を描くのだそうだ。絵を描けば、これは文化財。財産だ。これを勝手に廃棄する訳にはいかない。一応文化国家という建前だ。この絵を、関西では大阪芸大の学生達が、ボランティアで描いているらしい。この絵は志がいいから、遊びでやっている日比野先生より、面白いんじゃないか。本物のダンボールアート、「何で絵が描いてあるんだ」とは、撤去の映像で思ってはいました。もし、近くのダンボールハウスで、壁画を描いてほしい人がいたら、描きに行きますので、言って下さい。

木材は間伐材がいいか。廃材がいいか。これも難しい選択です。どちらも捨てられていて、無料。廃材は角材はいくらでもあるが、板材がない。では、角材をログに組んだらいいのか。釘を抜くのはどのくらいの手間になるのか。間伐材は4トントラック一台分で、材にする手間が、10万から15万円だそうだ。くぎ抜きに10日かかったら同じくらいだけど。いい勝負か。廃材を使った茶室が、南足柄にあるが、これが又美しい。新しい材には出ないいい雰囲気がある。要するに、あるものを上手く使えばいいわけだ。

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焚き火

2006-04-17 07:33:36 | 自給
この所、3日間焚き火をした。南足柄市は1㎡以上の焚き火は条例で禁止されているそうだ。しかし、そこに生えていた木を片付けるような場合、畑で、剪定したみかんの枝など、燃やすのがどこがいけないのだ。と私は勝手に思っている。

実はそのくらい焚き火が好きだ。これは子供の頃からで、焚き火と言うと止められなくなるぐらいすきでった。何やかや、毎日やっていた。風呂も薪だったので、当然係りだった。竈に火を起こすのも、チャンスがあればやらしてもらった。しかし、子供が火遊びすると、寝小便をするといわれてもいた。

かなりの年まで寝小便をしていたので余計に言われていた。その頃おじいさんが、寝る時に、無理やり半分寝たまま、トイレに連れて行かれるので、おじいさんが連れて行かない日は、必ずすることになった。

焚き火は文化だと思う。これを禁止するのは、捕鯨どころでない。焚き火を囲んでお年寄りの話を聞くと、これは、素晴らしい集まりに成る。普段口の重い年寄も、昔話に花を咲かせることになる。多分、人類が人類になった頃からの文化だ。これを、公会堂などで、名士を呼んでの公演となると、話の傾向は既に決まっている。人前で抵抗の無い厚顔無恥なタイプの話となる。

しかし、私達が暮らしの中で本当に伝えてゆかないとならない知恵は、案外無口である。声高に語れないことで在ったりする。以前酒匂川グリンフォーラムで作った縄文の家は中央に、囲炉裏を切って、それを囲んで20人位が、話を聞いた。歌をうたった。この集まりは今途絶えてしまったが、再開しなければならない集まりだと思う。

焚き火が素晴らしいのは私達の遺伝子に、組み込まれている何かが、引き出されてくるからだ。普段、踊りなど踊りださない、恥ずかしがり屋でも、垣根を越えて踊りだせる。どうも体裁屋が多くなっているので、これを取り払い、仲間が一体化するにはいい仕掛けだと思う。この夏の酒匂川の花火大会には、是非、天子台の縄文の家で、焚き火を囲みたい物だ。

裏の竹林の竹を燃しているのだ。大きな穴を掘って、その中に枯れた竹を放り込んでは燃やしている。10日間燃やすと、なくなる計算で、3日間やったので、後7日やらないと片付かない。体の節々が痛いぐらい力を入れているのだが、田んぼの作業が始まるし、冬眠明けの丁度いい準備体操にもなっている。
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あしがら農の会 続き

2006-04-16 08:59:25 | あしがら農の会
折角なので、この際残っていた耕作日誌に基づき年代を整理する。
84年山北に移住先を見つけるため、始めてくる。
86年山北に土地を購入し、週末には来る様になる。
88年山北に移住、このあと5年かけて自給自足を達成。
91年大仁農場を初めて見学する。その後度々伺う。
92年第2東名高速道路、県境の最終処分場問題勃発、
   MOA産地支部に加えてもらう。
93年あしがら農の会の元になる「山北有機農業研究会」を設立。
   東海大学の佐々木先生の指導で、NO2 の測定活動を始める。
94年酒匂川グリンフォーラムの活動に加わる。正式に農家になる。
95年成田自然農法生産組合を見学。CLCAの活動に参加する。
96年塩沢で田んぼを行う事になる。
97年坊所で田んぼを行う事になる。
98年小田原に転居する。

以上の年表を見ながら思い出してみると、農地を貸していただいた、山北のお隣さんであった、川口さんとの出会いが、大きなきっかけになっている。川口さんから大仁農場の話を聞き、大仁農場に金原さんを尋ねる。このことで、私の養鶏も随分整理される事になる。川口さんには卵の販売で、お世話になり、この地域の自然農法をされる沢山の方を紹介いただく。

このころMOA自然農法では1市町村に1支部を作ると言う方針が在ったようです。そこで川口さんから、山北有機農業研究会の話が出る。私は、MOAと言う宗教教団には警戒心もあるし、今後の活動の展開には、障害になると考えていたので、MOAの名前を一切出さないで、有機農業研究会と言う形なら、協力させてもらうと言う事で、山北の有機農業をされている方を10名ほどを尋ね、組織を設立することになる。

瀬戸徳雄さん(町会議員)、鈴木英夫さん(農業委員)、杉本さん(茶・自然農法)、くだかけ生活舎、茂木さん(自然養鶏)、川口さんほかMOAの方4名。それと笹村で活動を開始する。初めはぼかし肥作り、その後食の集会、きのこのホダギづくり。朝市の協力。お茶や卵の販売。有機農家の見学会。等今の活動の原点になるような活動を始める。【地場・旬・自給】は当時私が考え、掲げる事にする。

しかし、実際の耕作を共同で始めない事には、活動がどうも本格化しないと言う事に成り、茂木さんがやられていた畑が、田んぼに転換できると言う事なので、みんなで田んぼをやる事になる。私は山の上で田んぼをやっていたので、本格的に田んぼをやれるのは望むところなので、やってみようと言う事になる。
所が、その田んぼでいよいよ春起こしをやろうとした頃、水利組合から自然農法でやるのは困る。と、突然ストップがかかる。当初乗り気だった茂木さんも何故か、かたくなに拒否するようになる。わけが解らないまま中止になる。

この頃94年、山北の奥の塩沢のさらに奥で、お年寄りから話を聞く会を、グリンフォーラムで行う事になる。この集まりで行った、テントを張った場所が、江戸時代に開かれた田んぼのあとだった。何とかここの田んぼを再開できないかと言う事で、夢を持つことになる。

その後96年になって、CLCAの和田さんにこの件で相談する。和田さんの親族が、谷峨にいると言う事で、紹介いただき、この田んぼがやれる事になる。その後私は3年耕作する。活動としては6年間続く。

このCLCAの事務局をされていた、加藤憲一さんとも知り合い。後に彼がやっていた、風の谷?とかいう活動と、合併する形で、農の会に名称が何となく呼び習わされるようになる。山北と限定している訳にも行かなくなったので、どう呼ぶのがいいか面倒なので、山田純さんが言い始めた。所があとで、農の会という団体があることが解り、あしがらを加える事になる。

94,95年頃のグリンフォーラムでの活動は、反対運動。第2東名は進み、最終処分場は休止状態。この中で、反対していても何も生み出せない。何か生み出す環境運動に転換すべきと言う考えが煮詰まってくる。事務局の山田さんは林業の再生を言われる。私は、農業の再生こそ重要と言う事で、山北有機農業研究会の充実を計る事になる。山田さんが、様々なこの地域の農業者を紹介してくれて、尋ねてみることが続く。

96年には、MOAの産地支部の活動で見学に見えた、石綿さんから学ぶことが多く。なんでも相談に伺うようになる。その事から、96年には坊所で、湯川さんから田んぼを借りる事ができる。この田んぼの活動に、多くの仲間が集まるようになり、今の形が出来上がってくる。やはり共に田んぼを行う中で、考え方が生まれてきて、今の形態ができてきたと思います

以上が、農の会の立ち上がり時期の、概略である。
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