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トランプと仲良くするしか選択肢がない。

2017-04-30 04:43:44 | Peace Cafe

安倍総理大臣は国会で、「トランプアメリカと仲良くする以外、日本には選択肢はない。」と言い切った。アメリカに隷属してゆきますと自慢げな表情だった。まさか日本という国がそんなはずがない。アメリカ優先主義を批判するのが当たり前のことだ。これが演技であればまだいいのだが、本音だとしたら総理大臣として失格だ。国民としては、もしトランプ以外選択肢がなければ、もう日本はダメだという事になる。私はトランプアメリカは中国と経済連携を強めるとみている。その時、中国敵視論のアベ政権は、トランプアメリカに従うのだろうか。中国敵視を止めるのだろうか。結局アベ人気は敵を作るという事で支えられている。日本人に中国人を軽んじる偏見を広めているのが、アベ政権とその背後に存在する、森友学園とその仲間達である。繰り返し麻生財務大臣は中国経済の破綻を語っている。そうあってほしいという願望を日本に広めている。

江戸時代の日本は中国と上手に付き合う事が出来た。日本が自立し、その上で中国を評価していたからだ。明治日本は江戸時代を、百姓一揆の続いた飢餓の時代という誤解を広げた。そして富国強兵、脱亜入欧で、中国やアジアをおくれた国々と位置づけ、優秀な日本民族が救済するのだという、大東亜共栄圏思想をでっちあげた。この明治政府の後遺症が、今の日本には特にアベ政権には根強く残っている。日本がアジアのリーダーという意識がある。これが日本が中国や韓国と上手く行かない理由である。アベ政権はこの日本人の中に残っている、上位意識を上手く操作する。こういう、下卑た性根は論理を超えてしつこく蔓延する。中国が日本の領土である尖閣を奪いに来る。中国がアジアの海洋を支配する。こんな根拠のない大本営発表報道で日本人は、いとも簡単にアベ政権支持になってゆくのである。トランプのメキシコ国境に壁を作るキャンペーンと同じである。トランプアメリカが、アジアの海から中国を追い払ってくれる妄想を描いている。

アベ政権はビックデーター政権である。ビックデーターに従い、方向を定める。領土問題が一番支持を得やすいと考えている。北方領土も、尖閣も、竹島も、日本の固有領土であるなどとこだわる必要はないと考えている。隣国と仲良くできれば、領土など小さなことだ。韓国が竹島の防衛にどれほどの費用を出費しているだろうか。全く無駄金である。韓国は竹島の領有権をあの従軍慰安婦像と同様の利用をしているのだ。日本の尖閣も同じだ。ここを突けば国民の人気が出る。苦しくなると、竹島に韓国政府関係者が上陸する。アベ政権もその裏返しとして、同じだ。中国が尖閣を取りに来ると叫んでいれば、国民の支持率が上がる。北方領土が返還されれば、憲法の改定までできると考えている。ヒットラーの登場から学んでいる訳だ。

トランプ人気はアメリカ人の本音だからだ。アメリカが良ければ、他所の国のことなどどうでもいいと言う狭い考えだ。政治で大切なことは、自国中心主義をどれだけ抑止できるかである。アメリカがここまで成長してきたのは、自由な起業家精神が生きていたからである。世界から優秀な人材が集まったのだ。ノーベル賞を受賞する優秀な人材も、アメリカで自由な研究ができた。アメリカはそうして移民で出来上がった国だ。それが可能だったのは壁がなかったからだ。豊かな国土と資源を生かせたのは、自由の精神に違いない。ところが新自由主義経済は限界を見せ始めた。自由にやれば、アメリカが損をするとアメリカ人が感じ始めた。今すぐの損に目が行く。原因は格差の広がりであるにもかかわらず、その貧困層がアメリカファーストに引きずられている。アベ政権も同じ穴の狢だ。日本に広がり始めている格差に対して、貧困層の批判を削ぐ目的が、中国敵視戦略である。そしてトランプアメリカ以外選択肢がないという事になった。

 

 

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石垣で描いた4枚

2017-04-29 04:21:30 | 水彩画

今回は4枚の絵を石垣で描いた。少し新しい絵になったのかもしれない。自分の絵なのに自分でどこに進んで行くのかわからない。絵を描くという事は、自分を一枚一枚超えてゆく仕事だと思う。自分のできることの範囲でやるのは職人仕事だと考えている。常に衰退の中にいる。だから、今出来た絵を見て衰退を確認している。出来上がった絵を見ていても、なぜこのような絵を描いたのかわからない。その時その時で思いつくままに筆を進めているので、ここをもう一度同じようにやろうというようなことは、出来ないし、考えもしない。その場で妄想的なことになっている。2時間ぐらい描くと大体目が覚めるようなことになる。本当にその絵のことが分かるのは持って帰りこうして並べてみて1週間ほどたった時だ。ああ何か変わったという事である。一言で言えば描写的になったのかもしれない。いつも描写的にやろうとはしているのだが、描写の方向が訳の分からない空間であり、風のようなものだ。そこにある漂っている空気を描こうという描写になる。

田んぼにある空、これを描きたい。地面には空がある。地面だけを見ていても空の反映で地面が出来ていることを感ずる。その感ずることに従おうとしている。それがなかなかできないのだが、今回は少しできたのかもしれない気がしている。自分の見ているものに一歩近づけたとすれば、こんなに嬉しいことはない。それは絵を作るという事から少し離れられたという事でもある。要するに後は覚悟である。描写的になるという事は、見えているものが少しづつ具体化してきたという事ではないか。妄想とか、幻覚のように見えているものが、実際の目の前の風景と焦点が合ってきたというような状態。それは石垣という素晴らしい具体的な場があるからではないか。まだ間に合ったという気がしている。自分の眼が風景を見ることができ始めた。そして、石垣には人間の暮らしの風景が残っていた。

正直なところ私の描いてしまった絵など、社会的には価値もへったくれもない。消えてゆく無駄なものだと思う。その自覚も覚悟もある。また自分という存在と同じで、きれいさっぱりと消えて行けばいいかと思う。ただ私自身が生きるという事をどこまで深く踏み込めるか。自分の絵を描くという事がどうしようもなく大切なことになる。このことだけが確かなことだ。だから、より自分の見ているものに食い込んでゆきたい。自分の見ている物の奥底まで行ってみたい。絵面がどうであるとか、良い絵であるという事は二の次のことだ。こうしたことを繰り返し描くのは、自分の中にまだそういう気持ちが残っているからだ。絵というものは社会的な存在ではなくなったが、自分の人間の探求には絵を描くという事が心の中を探り、表わして見るという事で、実にふさわしい方法だと思う。自分の立つ立脚点までは来たというのが、今回の4枚かもしれない。それは言い過ぎなのか。

特に田んぼを描いた絵にはそういう気がしている。描いている途中で田んぼを耕作されているおじいさんが見えた。そしてこの田んぼが石垣で一番美しい田んぼだという話を聞けた。湧き水で作っていること。冠鷲が来ること。一年に一度しか作れないこと。水回りの大変さなどしばらく話して行かれた。儲からないから、後は誰もやらないだろうとも言われた。その時、仲良田川の田んぼのことを想像した。人間が生きる原点のようなものを感じた。その時感じたもので見えている田んぼも変わった。理解するという事で、見え方も変わるという事を感じた。その見えた見え方のままに描いて見たかった。まだまだ、そのとば口である。とば口ではあるが、入り口には踏み込んでいる気はした。このまま何とか10年やれれば自分というものに到達できるかもしれない。そこまでやれれば面白いと思う。全てこれからのことだ。

 

 

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今村大臣記者会見から想像されたもの

2017-04-28 04:24:23 | Peace Cafe

今村大臣の暴言記者会見は、質問した記者があまりにしつこいから仕方がなかったという意見が、擁護派から出ている。そうしたら今度は震災が東北で良かったという発言を生んだ。こんな人間を甘やかしていたのはどこの誰だ。大臣のままで置いた安倍晋三氏、さらに擁護したかなりの世間の人達が悪い。あの質問程度でしつこすぎるという事は、常日頃の記者会見は馴れ合いの形式的記者会見に過ぎないという事だ。記者会見は一応やるにすぎない。今村大臣はここは論議の場ではないと怒鳴っていた。しつこくして本音を口に出させることが出来れば、それは報道記者として成功したという事である。報道は大本営発表を垂れ流せばいいものではない。政府は正当性を主張したがるものだ。報道は権力を批判的に調査報道してゆくのが、役割のはずだ。報道も経営を重視するから、テレビも反政府的な言動をしたら、コマーシャルを制御して抑え込め。こういう考えを自民党は主張したことがある。もう報道はそんな風に尻込みし始めている。そのことがあの記者会見で見えた。あのしつこいと言われた人はネットの記者だそうだ。

大切なことは今村大臣が自主避難者は本人の意思で避難したのだから、自己責任であると考えていることである。これは政府の統一見解なのだろう。加えて、震災が東北でまだましだというのも、政府の統一見解なのだろうか。安倍首相も謝罪はしたがこの点は否定していない。ネットの中でも、勝手に避難した人間にまで、税金を使うのは間違っているという意見が散見される。門田隆将という人はそんな意見を書いている。ある意味震災が自分の所でなくてよかったというのが、国民の中にある心無い想いなのだろうか。表立っては現れにくいのだが、名前のないコメントなどではよく出されるものだ。避難者のくせに、見舞い金を貰ってパチンコか。毎晩酒浸りだ。そんな心無い言葉が出てくる。大学の先生が、明かりを消してみろ、福島から来たなら光るかもしれない。と冗談で生徒を傷つけた事件があった。世間には人間のどす黒い心が漂っている覚悟が必要だ。今村大臣は政府の本音を思わず出した。災害に遭遇した人たちに寄り添うどころか、怒鳴り散らしていることになってしまったことに気づかない人なのだ。

二度とお前は来るなと宣言した。果たして大臣にはそいう権限があると考えているのだろうか。あの場面で黙っていた、周辺にいた記者の人たちは、大臣を擁護する空気なのではないか。大臣が二度と来るなと言えば、来れなくなるような自主規制の仕組みがあるのかもしれない。あのこけおどしの恫喝にはそんな空気を感ずる。大手の記者たちはしつこすぎるネット記者を見下していたのかもしれない。迷惑そうな空気が流れているように感じたが、どうだろうか。しつこいのは素晴らしい記者魂だ。私が、そこの場に居たら、大臣きちっと答えてください位の援護発言をしたい。記者会見に挑むという事は、大臣も記者も真剣勝負でなければならない。最近の大臣は、国会の発言でも前言を取り消せば済む。こんな風潮に成れてしまった。しかし、言葉は一度出したらば戻らない。それはデンサー節にも唄われている。政治家なら発言することには命を懸けて欲しい。前言を取り消す時は政治家生命が終わるという事だ。

それ位い真剣な姿勢でなければ、代議員の責任は取れないのではないか。政府も本音を隠さないでほしい。本音を見せてそれを国民が判断する。自主避難者は自己責任と考えている政府を良しとするか、ダメだとするかは国民が決めることだ。震災が東北でまだ良かったという発言に嫌悪を感じない日本人では終わりだ、と私は思う。発言に責任がないという事は、政治をいい加減なものとする結果になっている。稲田氏など記憶違いだっただけで、嘘をついた訳ではないなどと、こんな幼児の言い訳が国会で通用している。知らない間に総理大臣の名前が利用される学校法人の名誉校長を夫人がやるというのもおかしい。政治家が真剣なものではなくなっている。何をやろうが、どう適当であろうが、どうせ国民は自民党を、アベ政権を支持するという事態になっているからだ。今はまだいいかもしれないが、この結果日本が大変なことになりそうな気がする。

 

 

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北朝鮮のミサイルは防げるという神話

2017-04-27 04:26:31 | Peace Cafe

石破元防衛大臣が軍事オタクとしての知識なのか、北朝鮮のミサイルを日本の迎撃態勢で防げると、デマ的発言をしている。国民を不安にさせないという意味では効果がいくらかはあるのだろうが、原発の安全神話以上のミサイル神話である。ミサイルの攻撃を完全に防げるなどという事ができるなら、アメリカが北朝鮮をあえて先制攻撃をするなどということもない。打ち出されたミサイルを打ち落としてしまえば、それで済む話である。迎撃ミサイルなどあてにならないと考えた方が良い。攻撃する方が、防御する方より、そもそも有利な条件にある。突然後からピストルで撃たれてから、その弾を振り返って打ち落とすことはきわめて難しい。当たり前のことだ。イスラエルに打ち込まれたミサイルも打ち落とせず結構効果を上げたらしい。にもかかわらず、アメリカ軍はすべてを迎撃したと虚偽の発表をしていた。当時と武器も変わっただろうが、それは攻撃側も防御側も同じことだろう。撃ち落とせないから先制攻撃で確実に発射を止めようという事になる。

北朝鮮の原爆が20発とか言われる。これを様々な方策で発射するとする。10発は打ち上げ失敗かもしれない。まあ何とか発射した残りの内9発は迎撃できたから迎撃は成功かと言えば、かいくぐった1発が東京まで到達し、下手をすれば何百万人の死者が出るような結果だってあり得る。そう考えておいた方が良いと私は思っている。どれだけ軍事オタクが安全神話を唱えようと全く、妄信に過ぎないと確信できる。少なくとも北朝鮮の核開発は、そうした現実に20年かけて一歩ずつ近づいてきた。武力というものは攻撃側が優越するものだ。世界が今後もこのままであれば、日本の安全は一年一年危うくなってゆくことは確実である。それが核や大量破壊兵器による安全保障である。日本自体もだから核武装しろという議論は、これから当たり前に議論されてゆくことだろう。核抑止力という訳だ。そんな抑止力があろうとなかろうと、日本の危険度は急速に高まっていると、私は考えている。そう考えない能天気な人は極楽とんぼで結構なことである。

ではどうした良いかである。日本も軍事力を強め、核武装して、北朝鮮化しろと言う意見が、アベ政権の本音であろう。軍事力しか信じない人間には今の日本の防衛態勢は極めて不安なはずだ。もし石破氏が本音で今のミサイル防衛システムで十分と考えているなら、何も強化すべきなどと言わない。安心できない状況だと考えているに違いない。武力に頼るものには何処まで行っても安心などない。そこで登場しているのが日本も先制攻撃する軍事力を持つ必要があるという、自民党の主張なのだろう。未来世界を言えば、このまますすんで世界が核戦争によって滅びるという人類の行く末であろう。それが、第2次世界大戦の貴重な経験だったはずだ。2度と戦争をしないと誓ったのは、今度戦争が起これば、未来が失われるという実感だったはずだ。それが、日本の平和憲法に表現された平和主義である。

北朝鮮の逃げ道に日本が成る位の覚悟が必要である。戦争するよりもその方がはるかにましだ。トランプの尻馬に乗って、役にも立たない自衛隊を同行させるなど、もっての外のことだ。力によって抑え込めればいいが、そういうことがあり得ない事なのは、イスラム国の現状を見ればわかる。イスラム国を殲滅しようという事がテロの拡散になっている。イスラム国が許されない国家であるとは思う。北朝鮮も許されない国だ。しかし、世界の格差が現状のままであり、核大国だけが有利な状況であれば、そうしたひどい国はこれからも登場するだろう。そもし朝鮮半島が戦争状態になれば、つまりシリアのようになれば、アメリカから自衛隊に対しても出動が要請されることになるだろう。そんなことは私には許せない。その道は日本の破滅だからだ。今の世界の状況では日本の平和主義だけが希望だ。

 

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自民党のとんでもない議員たち。

2017-04-26 04:09:45 | Peace Cafe

アベ政権が緩んでいるという事が言われる。おかしな発言をする大臣が続く。今村復興大臣は発言が被災者を傷つけたことすら理解していない。不倫事件で取り上げられる議員も登場した。何故そういう事が起こるかと言えば、小選挙区制が原因している。自民党で大臣になれば、もう選挙の心配もほとんどない。自民党内部で競争相手はいない。例えば小田原の衆議院議員に対して、誰かほかの自民党議員が対抗馬になる可能性は、全くない。現職の自民党議員が偉い先生になり、努力を怠り、厚顔無恥になるのも無理からぬところだろう。上ばかり見ているごますりが多いいことだろう。派閥は必要だと、自民党幹事長の二階氏は発言しているが、今村氏はたぶん派閥の力学で復興大臣になった。その派閥は昔の田中派などとは全く性質が変わっているのだ。自民党の現職議員はほとんどサラリーマン化したという事だろう。まるで自民党に就職したかのように、末は大臣の出世の為だけに勤務している。

こういう環境になれば、優等生的な良い子人間とコネの強い人つまり、2世議員だけが生き残ることになる。何処かに引退議員があれば、当然コネの強い空き待ち順位上位者か、あるいは元官僚などの優等生が送り込まれることになる。選挙区で現職の自民党議員に対抗して立候補して、新人が現れる可能性はほとんどなくなった。残念ながら、そういう状況を大半の日本人も受け入れているのだろう。小選挙区制が問題だという意見はあるが、それを基盤にしている安倍内閣の支持率が下がらない。つまり日本社会が全体が、後ろ向き化したという事だろう。小さな不満はあるが、少々気になることはあってもおおむね悪くないという感覚なのだろう。つまり、ゆでガエルになりかかっていることにまだ気づかない。アベ政権が裏の顔は、まれにみる独裁政権であることに気付きたくないという事なのだろう。なんとなくおかしいかもしれないが、そんな馬鹿なはずがないという感覚なのだろうか。

アベ政権の実態というものは、トランプ氏やペロン氏に先行した、一国主義の打算政権である。理想主義を捨てた、打算主義がちょうど今時の日本人の暮らしに適合している。そういう日本人を作り出したのは、特にテレビ報道の影響が強い。報道記者や評論家と言われる人たちよりも、コメディアンが唯一本音を語る人たちになった。笑いに紛れるように本当のことも出る。そのコメディアン達が巧みに、安倍批判をしない。そういう圧力を敏感に感じているという事だと思う。それは世間の方向性を素早く感じるという事と、テレビ局の本音も感じているのだろう。世間全体が現状を守ろうという空気になっている。ぬるま湯がいつの間にか熱湯風呂になることを忘れようとしている。テレビは現状を変える道具ではなく、現状を追認して不満を吸収する道具。素晴らしい視点の調査報道番組もある。そういう番組が社会に影響を与えるという事もなく、埋もれて行ってしまう。

いろいろ不満はない訳ではないが、こんなものだという適当感覚を生み出した。その間に政権はどんどん日本を変えていっている。共謀罪が堂々と提出された。そして議論があろうが、結局は数の力で抵抗もできないまま、成立する。この実態を生み出したのは小選挙区制による、議員の劣化である。優等生化でもいい。日本をこんな国にしたいという情熱を持つような議員は居るのだろうか。要するに選挙による競争がない中で、自分の意見のない議員だけになってしまった。意見を言わないことが議員の処世術になった。議員のホームページやブログを見るとその金太郎飴化がよく分かる。小選挙区制を止める以外日本の政治家の知性の劣化は食い止められないだろう。政権に就いたものは間違っても小選挙区制を止めないだろう。誰がこれを変えられるかと言えば、報道機関が本気で選挙制度改革を主張しなければだめだろう。反対勢力が育つような選挙制度を作り出す必要があるのだろう。

 

 

 

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三線の日の大合奏会

2017-04-25 04:22:49 | 楽器

沖縄では3月4日を三線の日としている。その日には、沖縄各地で三線の大合奏がある。終日ラジオで中継が行われる。一度那覇で参加させてもらったが、大きなコンベンションセンター会場で3交代で、席が取れない状態であった。今年は何とか石垣の三線の日に行きたかったのだが、上手く日にちが取れなかった。来年こそと思っている。この日石垣では八島小学校の体育館で大合奏が行われた。来年は下手なりに三線合奏に加われればと思っている。と思いその演奏曲を見てみると、まず、小学生中学生の「繁盛節」「とぅまた節」「でんさ節」2回目が「鷲ぬ鳥節」「赤馬節」「かたみ節」「めでた節」「鶴亀節」「矼ゆば節」7時の時報に併せて琉球古典曲の「かじゃでぃ風節」と「上り口説」そして「安里屋ゆんた」4回目から2揚げ調子で「黒島節」「千鳥節」「古見ぬ浦節」5回目が「夜雨節」「弥勒節」「やらよう節」この中で現在練習しているのは4曲ある。こんな沢山の曲を400人もで集まって合奏するというのだから、素晴らしい。

石垣には三線を指導する研究所が150もあるというのだ。5万人の人口である。信じがたいものがある。先日お会いした石垣の石垣さんという設計の方によると、最優秀賞を受賞された広島の方の家を石垣に建築すると言われていた。三線の広がりは深く広い。この18曲となると、いつ弾けるようになるかもわからないが、何曲かは弾けるようになって、来年の石垣の三線大合奏に参加したいと思っている。これは三線を始めた夢のようなものだ。実現できるだろうか。「八重山古典民謡独習書」というものがある。宮良康正氏の編集したものである。この方はトゥバラーマでNHKの民謡日本一になったことのある方である。那覇でこの人の唄を聞いたことがある。この独習書にはCDもついていて、八重山のコンクールに出場するための独習書になっている。何度も何度も聞いてまさに独習している。どの唄も難しいのだが、どうにかこうにか練習を続けている。

このCDの唄も良い唄だと思うのだが、昔からファーンである大工哲夫さんが唄う八重山民謡もいい。語り口がそのまま歌になるという事の魅力。お二人の唄が少し違う調子の唄だったりする。民謡は本来口伝で唄い継がれてきたものだから、地域ごと伝わり方で異なるのは当たり前のことだろう。では八重山民謡の先生に教わればいいという事もあるが、これがまた難しい。八重山の唄の指導者は皆さん厳しい。「てえーげぇー」ではないのだ。竿の持ち方から、音の合わせ方。実に厳しい基準がある。観光客にリゾートホテルで涙そうそうを1時間で弾けるように指導するときは、てぇーげぇーである。ところがいざ八重山民謡となると、入門してもらわないとならないというようなことになる。正座して指導していただくらしい。大工さんのお弟子さんの東京の教室でもいい加減な人はお断りのようだ。三線はその人のままであることを大切にするからこそ、きちっとした教わる姿勢が求められるようだ。

私などは三線に関してはてぇーげぇーの権化だ。65の手習いとして挑戦である。厳しいのは御免こうむりたい。楽しみで鳴らしていれば満足である。そんな調子でもやればやるほど八重山の唄が良くなった。同じ歌でも琉球民謡バージョンより、八重山調がいい。まず前奏の三線が一節あるのだが、それを聞くだけでもう八重山の島々が目に浮かんでくる。この前奏の弾き方が曲ごとにまるで違う。様々な変化がある。正月めでた唄。悲しい別れ唄。民衆の教訓の唄。自然を賛美する唄。前奏の一節がすべてを表している。素朴でありながら、音楽の本質を抑えている。私のような初心者にもそれが分かるくらい、導入部が優れている。仲良田節の幽玄な充足感。鷲鳥節の荘厳でゆったりとした正月の空気感。デンサー節の気持ちの弾む躍動感。多様でありながら、一脈根源が通じている。すごい民謡があったものだ。前奏がこのように定まったのは新しい時代のような気がするが。どうなのだろう。

 

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カキツバタ園構想

2017-04-24 04:35:20 | 地域

舟原の溜池にはカキツバタを植えたいと思っている。カキツバタは絶滅危惧種2類に指定されている。万葉、平安の時代から日本人に愛されてきた古典植物である。カキツバタは日本の湿地が失われるに従い、姿を消してきた。カキツバタが失われた原因の一つには、通年通水の水路が減少したことにもある。カキツバタは菖蒲やアヤメよりも水が必要な植物。冬場田んぼを乾かす方が作業性が良いというので、田んぼの生態系は実に寂しいものになった。その背景には工業用水の確保という事がある。水路も自然河岸からコンクリート化され、カキツバタの生育できるような余地が失われることになった。万葉、平安時代以来、カキツバタと田んぼが共存してきたことなど想像も出来なくなっている。これからの時代に田んぼを残すという事は、カキツバタも共存できる田んぼを残すという事なのだろうと思う。(カキツバタの野生種は神奈川県にはなかったという事である。)伝統農業を行うという事は里地里山の環境を残すという事でもある。そうした農業の文化的側面を大切にする事こそ、美しい農業であり、愛される農業であり、つぎの時代に残りうる農業だと思う。

舟原の溜池が江戸時代初期に作られ、役割を終えた。新しい役割があるとすれば農業遺構としてである。里地里山の自然というものは、人間の暮らしが作り出した、手入れによって生かされて来たものだ。あくまで生産の為に循環するように管理された自然である。手つかずの自然とは全く違うものだ。人間の暮らしと繋がらなくなれば、荒れ果ててしまうものだ。現在、地域に根差して暮らす人が減少を続け、舟原も住宅地として存在している。農業を続ける方も減少せざる得ない状況である。こうした中、どうすれば里地里山の環境を維持できるかは、あらゆる手段を考えなければ無理だと思われる。農地が経営の為だけでなく、様々な新しい目的を模索し、利用されなくてはならないだろう。農の会の試みは、自給的に農地を利用したいと考える人に、農地をつないでゆく活動であった。すでに活動は25年を超えて継続拡大されている。小田原という地域の特徴を考えると、自給農が農地を利用する形態は今後も広がるのではないかと推測できる。

農業遺構としての溜池の保全には、2つの前提となる要素がある。一つは深く水を張れないという条件がある。事故の危険性が考えられるからである。小田原市の所有地である溜池で水の事故が起きる可能性は、責任の所在を考えると避けざる得ないだろう。では水を張らないで溜池としての形を維持するためには、浅い田んぼ状態に水を張ること以外にない。冬場水のある田んぼが減少し水辺環境が急速に失われている。幸い舟原の溜池には自然の沢水が通年流れてきている。浅く水を張ることで水辺環境を作りだすことは出来るであろう。こういう場所は他にはない。溜池管理は水を溜めて置く以上になかなか継続が難しいと思われる。溜池が荒れ地化していた現状がある。そこで、絶滅危惧種であり、田んぼとは縁の深いカキツバタを植えることが、選択になるのではないかと考える。花は人を呼ぶ。花は人を楽しませる。カキツバタがあれば、10年後、20年後も管理をする人が現れるのではないかと期待できる。

久野の里地里山にはフラワーガーデン、ざるギク園、久野川舟原上流部のもみじ渓流と人が楽しめる植物の魅力的要素が揃ってきた。それは久野が植木の生産地であったという事にもつながることである。誇りの持てる美しい里山になることが、里山が維持される大前提であろう。カキツバタ園ができれば、さらに久野の魅力が増すことになるだろう。まずは今年5月6月に試験的に栽培を行ってみる。一年様子を観察し、計画を練り直し、来年度には本格的なカキツバタ園の造成を行いたい。以前行った久野で庭林の会というものを作り、里山に庭を作るという事を試みたことがあった。中心メンバーだった方が、小田原を離れてその活動は終わったのだが、もう一度そうしたグループを作ることもいいかと思っている。出来れば舟原の地元の方が加わわれるようなものになると良いと思っている。

 

 

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トゥバラーマ指導日

2017-04-23 04:49:50 | 石垣島

石垣では八重山民謡の中でも最高の曲と言われるトゥバラーマ練習日というものがある。月一回開かれている。今回が266回目という事で、昭和の時代から続いているものだそうだ。石垣の唄に寄せる覚悟のようなものが分かる。無料で誰でも参加できる。たまたま第3水曜日に石垣にいたので、聞かせてもらうだけでもと思い参加させていただいた。石垣健康福祉センターの視聴覚室である。ともかく大感激してしまった。今までこの歌の魅力というものは感じてはいたが、この歌の音楽性がどれほど深いものであるかを、入口ぐらいと思うが知ることができた。指導は師範の先生が3名見える。石垣の八重山古典民謡の会が主催されているそうだ。その日参加していた人はⅠ4名で北海道から見えていた人もおられた。3名の師範の方も神奈川出身の方、北海道出身の方、そして石垣の方と八重山民謡の広がりを感じる構成である。八重山古典民謡の会の数百人おられる師範の中から、派遣されるのだそうだ。

この歌は八重山民謡の中でも最高峰の唄という事で、この歌だけのコンクールが年一回開かれている。師範の先生方の声の美しさに、まず感動した。なぜこれほど美しい声が出るのかと不思議になる。人間の声は鍛えればここまで美しくなるもののようだ。高い方のソやラに当たる高音で唄われるのだが、まるで人間業とも思われない得も言われぬ天の声のようだった。今までも何度か聞く機会はあったのだが、すぐそばで肉声で聞くとまた格別である。声を出して少しづつついて唄った。全く初めて歌うのだからおっかなびっくりであったが、終わりの頃はそれなりに真似て歌い、何か成し遂げたような達成感があった。帰ったらいよいよトゥバラーマに取り組むつもりだ。そう簡単には歌えるようにならないだろうが、10年かかってもやっては見たいと思う。ともかく一生懸命声を出すという事は悪いことではない。まして、三線を弾きながらとなると、ボケ防止には効果があるにちがいない。

トゥバラーマの成り立ちは、男女がかけあうように唄を重ね合わせながら唄うようになっている。この旋律の違い、音調の違い、ここに絶妙な味わいがある。それに三線と笛が加わるのであるが、唄とは違う旋律とリズムで鳴らされる。この総合によって実に複雑で優雅な唄が生まれる。この曲では三線は太鼓のようなリズムを刻んでいる。また前奏もなかなか優雅で、今回教えて頂いた前奏は独特のものでかなり難しい気がしたが、リズムの取り方が美しいものだ。家に戻りやってみているのだが、やはり先生の指導を受けなければやれるようになるとは思えない。また高音部というものは先生の高い声を聞きながらだと、引っ張られて出たような気になるようだ。特に女性は一オクターブ高いところで声を出していいて、相当に難しいと思う。

いわゆる民謡調という範囲には入らない、何か壮大な音楽性を感じる。八重山が音楽文化の地域だという事が分かる気がする。伝統文化が至る所で失われている。それは地方の消滅という事と繋がっているのだろう。幸いなことに石垣島は人口は増加傾向にある。トゥバラーマの勉強会にも若い人が見えていた。こうした勉強会が続けられ、若い人たちに引き継がれてゆくことを祈る。八重山や宮古が日本文化の最後の砦になる可能性もあると思う。何とか努力を続け、八重山の唄をせめて聞けるようになりたいと思う。今度石垣に行くときにも、第3水曜日は必ず入れるようにしたいものだ。

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共謀罪の問題点

2017-04-22 04:30:21 | Peace Cafe

政府は共謀罪(テロ等準備罪を含む)の必要性について、2つ挙げている。一つは国際組織犯罪防止条約(TOC条約)を締結するための法整備が必要という理由。もう一つはテロの危険が迫っているので、共謀罪が必要という理由。まず、TOC加盟については、政府はむしろそれを理由にして共謀罪を作ろうとしていると考えた方が、理解しやすい。今ある法律の整備だけで、TOC加盟は可能だからだ。国民を欺くように、共謀罪が出来ないとTOC加盟が出来ず、オリンピック開催が出来なと説明している。根拠なき脅しである。政府は、今の法律では対応できない具体的なケースとして「ハイジャック」「化学テロ」「サイバーテロ」の3つの事例をあげた。しかし今の法律の範囲でも、こうした犯罪に対応しているのであって、何故、新しい法律が必要なのかの説明は足りない。国会の答弁を聞いても意味不明のままだ。

政府は今の法律では運用が慎重なため、果敢に、迅速にテロ防止に対応できないでいると主張している。この意味は実は共謀罪を根拠にした捜査の問題でもある。サイバーテロの防止の為には、携帯電話情報の大量分析などが必要。国民すべてのメールや、電話、検索、を総合的に把握して、データー的にテロの企画をあぶりだしたいという事だろう。維新の党の共謀罪はこの点が強調されている。これはすでにアメリカでは頻繁に行われているようだ。アメリカではウイクリークスの内部告発でアメリカ政府の情報収集が暴露された。たぶん日本のアベ政権もやってはいるのだろうが、それをさらに総合的に、合法的に行いたいのだろう。一人の人間をマークしたいと考えた場合、GPSやカードの使用、スイカなどの利用、電話利用、パソコンの使用。これを総合的に繋ぎ合わせ、蓄積すれば、私自身のことを考えるとかなり浮かび上がると思う。テロリストだというでっち上げも可能になる。すでに国民が羊化している原因でもある。

こういう個人情報の集積の仕方は、不愉快である。自由感のない暮らしにくい世の中になる。個人情報というものが、筒抜けになるという事は人権侵害である。情報収集が権力の行使に使われるという事になる。それを合法的に行うというのが、共謀罪と考えたほうがいい。あらゆる組織活動を監視する可能性が高い。いまでもやってはいるのだろうが。これは合法的にさらに徹底するだろう。公明党や、維新の党が、アベ政権のちょうちん持ちをやっているのは、徹底調査の結果弱みが把握されているという可能性がある。公明党や維新の党はさらに自民党に従う以外に道がないことになる。権力が権力維持のために共謀罪を利用するようになる点が一番の問題である。その為に、組織というものは委縮する。組織に政府が人を送り込む。そして、共謀罪を密告することになる。

共謀罪は怪しいと考える組織の情報収集が、拡大徹底され合法化されるという事である。すでにボランティア組織などにも、政府の情報収取員が入り込んでいる。そうとしか思えない人にあったことがある。環境関連の組織に実にこまめな役に立つ人がいた。そこの人間だとして他の組織を訪ね歩いていた。助かるのでつい手を借りる、いつの間にか私たちの組織に入り込み名簿作りを始めた。まったく意味不明でおかしいと思った頃その人は死んだので、実態は分からなかった。権力者というものは不安なのだ。権力を維持したいがために、あらゆる手立てをとりたくなる。権力者が権力を守るために、共謀罪を悪用するだろう。テロ防止を理由に個人の情報を、政府が自由に集めることが許されれば、暮らしにくい社会になる。犯罪防止に監視カメラは有効であるが、その範囲が無原則に広がり、家庭の中にまで及べば暮らしにくい社会になる。そういう事件がすでに起きている。監視の程度は今の法律の範囲で十分である。

 

 

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水彩画の技術

2017-04-21 04:18:25 | 水彩画

石垣で一番美しい田んぼ。耕作されている方と話すことができた。この田んぼには冠ワシが来る。前回は見ることができた。湧水で耕作されているので、水のあるこの時期だけ耕作できるのだそうだ。石垣の2月から4月まではいちばん過ごしやすい季節かもしれない。絵を描いていて、暑くも寒くもない。田んぼも一番変化が大きくおもしろい季節になる。サトウキビは今も刈り取りをしている場所がある。特に朝6時から明るくなってきて、夜7時近くまで明るい。1時間30分ほど小田原とは時間が違う。時差というか、亜熱帯ということなのだろう。それでも4時に目は覚める。

石垣で描いていて、自分が技術というものを今になって学んでいる。初心者のような驚きがある。技術から入るのは間違いだと思い、技術とか構図とか一切考えないできた。そういうものが自分の絵に至る道を邪魔するだろうと考えてきた。禅の道を究める為には書物を読んではならないという教えがある。ところが今の自分は絵画の道を究めるということより、里地里山の空気を残したいと考える様になった。だから基本的には写生をしている。見たとおり描こうとしている。問題は私が見ているものは、里山の空気感である。田畑によって広がった空間を見たとおりに描こうとしている。それは写真では、まったく写らないものだ。空間なのだから、言ってみれば透明である。人間の眼はすごいものでこの空間の違いが見える。空間の濃度の違いというか、空間は動いている。空は動いている。風に乗って雲は動いているが、実はそれ以上に見えない、あるものが動いている。こうした様々な動きの総合のようなものを含めて人は見ている。

昼間の星のように、見えないけれどあるものは、無数にある。耕作地は機械で耕作した場所と、鍬で耕した場所では表面の形だけでなく、人の思いの違いがある。この人の思いはこもっている。何千年もの間、人間が生きるために耕してきた思いは、蓄積され立ち上っている。耕作地を作り出し、継続してきた思いが耕作地には表れている。そういう幻想のようなものが見える。実際に目に映る耕作地はそこに唯あるのだが、耕して暮らそうとしてきたので、それだけでないものが見えてくることがある。それは、空が地面に写っているような感覚である。目の前にある台地を見て描いているのだが、それは空の鏡のような気がしてくる。そのあるのか、ないのかわからないようなものを、見えるとおりに描いてみようとしている。馬鹿げているとは思うが、絵がやるべきことはそういうことだと思うのだ。絵画は装飾品ではなく、絵画以外では不可能な、製作者の世界観をたどることのできるものだ。

そのためには、技術というものが必要になった。今まではどちらかといえば、画面を見て描いていた。今は耕作地を見て描いている。それが実は風景画という言葉なのかもしれない。風という目には見えないけれど、突然草木を揺さぶるものがある。昔の人は、それを風と呼んだわけだが、風以外にも、草木を揺さぶるものはある。大地の下には水が流れている。土地に傾斜があれば、必ず水は動いている。この動きは草地などに表われることがある。草という地表の植物に、実は見えない地下の水の流れが表れることがある。百姓なら知っていることだ。それは見えてはいないが、実に大きな力を持って働いる。田んぼであれば、田んぼの水は全体でうねりのように流れている。こういうどうしたって肉眼的に見えないものを、画面で描こうとしたら、自分の作画というより、あくまで風景写生ということになる。

ここで水彩技術が重要になる。見えている実に複雑で、あいまいで、見えるようで、見えないものを、なんとしてもその通りに画面に写し取るためには、あらゆる技術が必要になった。どうしたらあの感じは出るのだろうと、あれこれ工夫せざる得なくなった。画面は立てて描くようにした。今まで水平に寝かして描くことが中心だったが、今は立てて描くことが中心になった。その方が目の前のものを写すためには都合がいいからだ。みんなが画面を立てて描いている理由がいまさらに分かった。筆も10本を使い分けるようになった。水の使い方も随分変わった。どの程度の乾き状態で次の筆を入れるとよいのか、微妙な配慮が徐々に見えてきた。10本の筆の筆触の違いも徐々に見えてきた。どこでどう使い分けるかが重要。紙の違い理解できてきた。

 

 

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自衛隊が来たら暴行事件が

2017-04-20 04:24:56 | Peace Cafe

宮古島の石嶺香織市議がフェースブックに、自衛隊が配備されたらば、「婦女暴行事件が起こる」と書いた。その議員に対して宮古島市議会で20対3で辞職勧告決議がなされた。決議文では「投稿は自衛隊員、米海兵隊員に対する職業的差別であり、断じて許すことができない暴言と言わざるを得ず、市議会の品位を著しく傷つけるものだ」などとしている。私は石嶺議員の予測は一理あると思う。職業的差別とも思わない。アメリカの海兵隊員の沖縄で繰り返す犯罪を見れば、そう考える人のほうが素直な感覚のような気がする。間違いなく起こる可能性は高まる。アメリカの海兵隊員は命の瀬戸際で戦闘している人である。精神的に不安定であろう。人間を殺すという事で、自らの精神を破壊してしまう人も居るかもしれない。そういう戦闘員を普通の人と考えない方が良いのではないか。少なくとも社会復帰するまで、一定の回復期間が必要と考えて当然である。それはアメリカ社会で起きている帰還兵問題を見ればわかることだ。

ここで重要なことは、自衛隊が来て何故海兵隊の暴行事件が結びつくのかである。宮古島への自衛隊ミサイル部隊の配備は、沖縄の米軍基地負担の軽減の中で起きた、マヤカシ行為である。アメリカのミサイル防衛システムの日本配備を自民党は主張している。中国や北朝鮮をにらんだミサイル配備なのだ。それは韓国に配備される米軍のミサイルと同じことだ。自衛隊が来るという事は、米軍の基地共同使用に繋がるのは、日米安保条約がある以上必ず起こる。自衛隊と思っていたら、米軍が使っていたという事になる。軍の機密事項である。沖縄本ことと考えたほうがいい。島の基地負担を減らすと言って、実は辺野古に基地を配備する。沖縄本島にある、広大な実践訓練基地は確かに減少する。しかし、対中国、北朝鮮の基地は、実戦拡大する。これは沖縄の基地負担の軽減どころか、沖縄が日本本土の犠牲になればいいという事を意味する。ひいては、韓国、日本の基地はアメリカ本土を防衛するための、犠牲になればいいという事なのだ。その為に日本が中国と敵対心を高めることを願っている。そのお先棒がアベ政権なのだ。何故か日本の右翼はすべからくアメリカ隷属の立場だ。

まずは小さく自衛隊が配備される。一度配備された自衛隊は、中国の動向次第で、すぐにも拡張される。それはアメリカの喉元に原爆のキューバ配備をしようとしたロシアと同じなのだ。中国は目と鼻の先に日本軍が配備され、アメリカのミサイル基地が出来れば、当然対抗手段をとるだろう。緊張が高まる。小競り合いが始まる。こうして戦争のリスクは高まる。日本本土は先島列島が攻撃されている間に、反撃する作戦である。宮古、八重山の防人論である。しかし、そのことに気づかず、自衛隊を誘致したのが、与那国島の住民投票である。宮古島の議会であり、市長である。残念であるが仕方のない。かろうじて、残っているのが石垣島である。しかし、その石垣島も中山市長は誘致を進めている。住民投票も、選挙もないままに、自衛隊誘致という島の未来を決定づける判断をしている。残念なことである。自衛隊誘致の実際を、イメージできていない歯がゆさが、自衛隊が来たら婦女暴行事件が起こるという、切羽詰まった言葉になった。

自衛隊が来たら、中国や北朝鮮のミサイル攻撃を受ける可能性は確実に高まる。宮古島から北朝鮮に向けてミサイル発射をしようとしたので、自衛のためにやむ得ずミサイル発射をしたと弁解することだろう。島に基地がなければ、宮古島を攻撃する必要がない。当然本島米軍基地を攻撃するだろう。沖縄本島に基地がなければ、日本本土に攻撃をするだろう。本土攻撃をされれば日本が立ち直れないほどの被害になる。反撃も難しい。だから、先島列島に前線基地を配備するのが日本の防衛大綱である。沖縄犠牲の上に日本の安全を確保するという、ひどい話が根底にある。それでも、住民の判断が自衛隊基地誘致であるのなら、外部の者が止めろとは言い難い。都会の為の原発誘致と同じ構図である。しかし、選挙もしないでこんな重大な、島の未来を決定づけることを決めることだけは間違っている。しかし、基地の来る予定地では、反対の旗が来るたびに増えている。まだあきらめるには早い。

 

 

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石垣の4月を描く

2017-04-19 04:30:32 | 石垣島

石垣の4月を描いている。朝でも20度以上ある。昼間は連日28度になる。小田原で言えば夏景色に代わり始めたくらいだ。緑が輝いて反射している。田んぼは穂が出ていると思えば、田植えをしたばかりのところもある。写真の絵は石垣飛行場に近い平得あたりにある橋の上である。1時間ほど描いたところだ。ここに来ると惹きつけられたような新鮮な気持ちになる。周辺では良い田んぼが行われている。どこに行っても同じようなものだが、写真を撮ってわかったのだが、前回と逆向きで描いている。運転席のハンドルによりかけるようにして絵を置いてみた。後ろの座席に座っている。水を汲むのを忘れたので、自動販売機で水を買った。これがあるので水はどこに行っても困ることはない。高くつくようだが、絵を描く水より自分で飲む方が多いい。筆を洗うことはまずない。

写真では写らないのだが、曇り空が地面に移っている。

今回は名蔵の方を描いてみようかと考えている。すぐ見に入ったのだが、田んぼを描く良い場所がすぐには見つからなかった。新しい描く場所を探していると、何によって描きたくなるのかが不思議なきがする。開けた空間の広がりのようなものにひかれる気がしている。広がっているとか正面に屏風のような畑があるとか。

何もない広がりである。海まで続く空間のうねり。そして水平線から空につながり、空は自分の頭上まで戻ってくる。地面と空に挟まれたような塊が感じられる。空が地面に写されているいるようにも感じられる。大きなうねりのような力が感じられる場所。どうもこういうところが描きたくなるようだ。先日、子供のころいつも見ていた境川村を描きに行って、そうか育つ頃こうした眺めを見ていたのだ。ということが分かった。甲府盆地という空間の塊を見て育った。これが大きな空間を見ると描きたくなる理由のようだ。畑や田んぼの区画が、貼り付けられたように坊が峯にあった。子供のころ見たものが描きたくなるように刷り込まれている。

 

 赤に近い、沖縄の土色が見える。この土は描きたくなる。2日目の朝から1時間ほど描いたもの。この日は一日中描いたのだが、終わらない今日も明るくなったら引き続きやりたいと思う。初めて描く場所には時間がかかる。ここではタントの柱のないのが生きる。戸をすべて開いて、車の中で描いている。絵は運転席のところに於いて、後ろの座席から描いている。右側から日が差してきたので、用意のシートをガラスに張り付けた。これはどこにでも張ったり剥がしたりがきれいに出来るシートである。

 

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2017年の田んぼが始まる。

2017-04-18 04:00:15 | 稲作

種籾を川に浸してある。4月9日湿度79%水温13,7度。この時が一番水温が高かった。

今年は4月8日に籾洗いを行った。例年は3月20日前後の春分の日に行う事にしていたのだが、それでは籾が鳩胸状態を過ぎてしまう。それで今年は2週間だけ川に浸けることにした。4月8日に海水で籾洗いを行う。塩がもったいなくて、海水にしただが、その内種もみが目覚めるためには、海水に出合うというのも意味があるような気になった。儀式のようなもので疑問だが。水の行き着く先が海水だから、海水に出会い、籾が目覚めるという感じも悪くない。海水をボーメ計ではかると、1,03と出た。本来塩水選という事なら、比重1.10~1.15という事になるそうだが、そんな高濃度の塩水選はしない。海水ぐらいでかまわないと考えている。苗床で作る手植え苗だから、問題が出ないのかもしれない。

海水にボーメ計の浮いた様子。泥を混ぜたらば、メモリは下がった。泥を加えてみたら、確かにボーメ計は沈んで1,1を表示した。泥ともみが混ざったところで、川に浸けてしまえばさしたる問題はない。水温は13,7度だったが、雨模様で13度台だから、これが晴れれば、15度に近づいてしまうだろう。(初日の時点ではそう考えていた。)川の温度が以前より高いことは確かだ。ところが、その後の川の温度は12度台を保っている。何故だろうか、低ければ低いで不安になる。やはり今年の寒さが影響しているのだろうか。川の温度を測るだけで自然の不思議というものを痛感する。15日16日と20度を超える晴天になったが、水温は12度を保っている。一年中川の温度を測ると何か面白いことに気付くかもしれない。ともかく今年は、入水の水質検査を行う。

荒起こしを始める前のレンゲの生えた状態。花も少し咲き始めたところ。右側の少し茂りが多い半分が秋起こしをしてレンゲを播種した側。左側半分が秋起こしをせずそのままレンゲを播種した側。確かに秋起こしをして種を蒔いた方が、レンゲの発芽は良い。レンゲが生えないところは、水が溜まるところでもある。雨が降り、水がたまる場所は排水を工夫して乾くようにすることが大切なようだ。その意味で日陰は、凍るという事もあるが、水が乾かないという事も影響するようだ。

15日苗代作りをする。全体ににレンゲが生えていたところをそのまま荒起こしを行った。花が咲き始めた所だった。残したところにはまだレンゲがある。残したのは通路である。4列の苗床である。その間に水路の泥上げをお願いした。水路が貫通て、水を入れたらば一時間ほどで水が溜まり、すぐ代掻きを行った。3回代掻きを行った。特に一番左の畔側は、直播をするのでより念密に代掻きをした。直播をする場合、苗取りが大変である。苗取りを楽に行うには、深めに丁寧に代掻きをする必要がある。それでも 9時に初めて午前中で終わった。このあと1週間水を張っておいて、21日金曜日の水を止めて、22日に種籾を播種する予定。種籾も21日に川から引き上げ、水を切っておく。

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田んぼの肥料そばかす

2017-04-17 04:08:15 | 稲作

蕎麦6種類 小田原久野の久津間製粉さん 小田原に来て以来鶏の餌として、蕎麦の糠を貰っている。

左上から1、玄そば 2、精粉前の選別ごみ 3、ソバカス(磨きによって出るパウダーを含む。) 

下の段左 4、そば粉(藪)  5、そば粉 一番粉(内層粉、更科粉) 6、蕎麦サナゴ砕け 7、この写真にないのがそば糠である。 米ぬかとほぼ同じように蕎麦粒の甘皮を掏り取ったヌカである。枕に入るそば殻も写真にはない。蕎麦の実は複雑な選別を経て粉になる。

田んぼや堆肥に使うソバカスと私が呼んでいるものは、脱穀したままのコンバインから出たそばをまず精粉前に、ごみ取りをする。それが2番の雑草の種や小石などである。その後蕎麦粒自体を磨く。蕎麦のヘタや毛羽などが取れる。これが磨きによって出る、3番のソバカスである。ここには軽いそばのかけら、表皮のはがれたものも入っている。当然、発芽するような蕎麦粒も混ざっている。2番の精粉前の選別で出るごみは、小石や雑草のの種、小さなそばなどが混ざっている。欠けた蕎麦粒もかなり混ざっている。これは鶏の餌に一番いいものである。6番のそばサナゴはそばの表皮のような感じのものだ。軽くふわふわである。これらのものが毎週30袋ほど頂いていた。今は私が取りに行くの月に1,2回ほどになった。鶏の餌には2、の精粉前の選別ごみと写真にはないそば糠を使う。

蕎麦の精粉はお米や小麦の精粉より、かなり複雑で、どの段階でどういうものが出てくるのかわかりづらい。分かりづらいものではあるが、長年使ってきてその使う立場からの特徴は分かっている。水に長時間浮いているものは田んぼに撒くためにはちょうど良い。風上から静かに流し込むと、田面にあっという間に広がってくれる。2,3日すると沈んで田んぼの土を覆う。これが地表で発酵することで、発芽抑制になる。水中に浮遊してミジンコのえさとなり、沈んでイトミミズの餌となる。多く沈み込む田んぼの淵ではミジンコの発生が目立つ。水中に浮遊しながら小さな微生物の餌となり、忽ちに分解されることになる。田んぼの水がミジンコで濁るほどの発生となる。ソバカスは、そば糠よりも早く分解されるとみている。だから、ソバカスを分析して、炭素率とか、窒素分とか、肥料成分が何%という事とは少し違う。微生物の餌となって、微生物が糞や生成物や身体に置き換えてゆくものである。田んぼの土壌生物を大繁殖させるための飼料と考えている。

田んぼでミジンコ等の微生物が発生すれば、それはオタマジャクシやヤゴなどの水生昆虫の餌になる。こうして田んぼが生きものであふれてゆく。オタマジャクシやカエル沢蟹が増えると、それを餌とする水鳥やセキレイやカワセミなどが集まってくる。こうして田んぼは生き物の住処になる。生き物の住処になって田んぼが直接的に収量的に良くなるという事でもない。稲作には直接的には関係しない生き物たちも、循環の輪の中に無数にいることは確かだ。良い循環を作り出すことが、永続性のある農業という事になる。里山の手入れの一つが、田んぼの耕作であるというように、生き物としての人間も田んぼの生き物の一種という事だ。人間が居なければミジンコも困るというお互い様関係。

生き物が増えると具体的には田んぼの表面にトロトロ層が増える。ここでいうトロトロ層は田んぼの水を軽くかき回して煙のように浮き上がるような軽いものを指す。田んぼを代掻きして表面にできるトロトロ層よりもさらに細かい層である。この細かい層がある田んぼは良い田んぼだ。草が少ない。土壌が腐敗しにくい。稲が元気で硬くなる。田んぼの生き物を増やしたいというので、どんどんソバカスを撒き続けると稲が大きくなりすぎる。分げつも増えていいのだが、背丈も高くなりすぎて倒れることになる。ソバカスを撒いて20日目から30日で効果があるとすれば、ソバ糠は田植え前20日に撒いて耕運しておくという事にした。田植え直後にはソバカスを一回撒く。そして7月後半に様子を見てもう一回撒く。これは穂肥ということになる。秋にも撒く。同じものをこうして繰り返し撒くことで、それを餌とする微生物が住み着いてゆくと考えている。

 

 

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北朝鮮危機

2017-04-16 04:42:03 | Peace Cafe

北朝鮮の世襲支配者の金正恩は、マレーシアでその兄を毒殺した。この冷酷な若い独裁者は核弾頭を搭載したミサイルを、保有している。現在の事態は敗戦後日本が直面した最も深刻な危険である。私はしばらく米軍基地には近づきたくない。有効な対抗手段はない。アメリカは北朝鮮が6回目の核実験をする確証が得られたら、軍事的な攻撃を実行する可能性が高い。それは、北朝鮮がアメリカ本土まで核ミサイルを撃ち込める前に、殲滅してしまいたいとか考えているからだ。現在、どちらが我慢が切れるかの限度が近づいている。金正恩は核実験をしなければ、国民から弱腰の独裁者と思われる不安を抱えている。もし北朝鮮が核実験を実行しようとして、アメリカが実験場の爆撃をした場合、どういう事になるか。北朝鮮は日本や、韓国の米軍基地をミサイル攻撃する可能性が高い。それに対して、米軍や韓国軍が反撃を行えば、窮鼠猫をの自滅的攻撃を始める可能性がある。

この事態において、アベ政権は愚かにもアメリカの北朝鮮圧迫を要請している。韓国ではどの大統領候補も、アメリカの先制攻撃を止めさせると主張している。中国も話し合い意外解決はないと主張している。日本は平和外交を掲げて、間を取り持つ努力をして、日本への攻撃を避けることが賢明である。日本だけが良い子になる。正義を掲げ、ずる賢く生き延びるとみられても構わない。経済封鎖など無駄なことになっている。政府の繰り返すかつてない強い抗議をするという言葉が余りにも空しい。北朝鮮だけではない。世界は、暴走国家の危機に見舞われている。北朝鮮が核武装し、VXガスを大量に保有しているのは、抹殺される不安からである。サリンミサイルを撃ち込む可能性も高い。狂気にも見える北朝鮮もあくまで自衛のための核保有だと主張している。この自衛のためという武器が、相手国をさらなる、軍備に進ませる。そうして互いに緊張関係を高め、先制攻撃が必要だという事になる。何故兄を殺したかと言えば、世界に自分の狂気を示したかったと思う。何をするかわからない存在としての恐怖を振りまこうとしているのだ。イスラム国と何ら変わりがない。

先日、ある人が自分は兄金正男氏に余りによく似ているもので、やっと安心できたと言っていた。その人は、今までは何となく不安を感じざる得なかったというのだ。こんな不安が北朝鮮の狙う影響力ではなかろうか。兄や叔父さえ殺してしまう人間だから、本当に核ミサイルを発射しかねないという計算である。北朝鮮が自暴自棄になり核ミサイルを発射しかねないという不安がある。追い詰めすぎることは極めて怖い。中国はさすがに味方の振りをして、攻撃されない立場を維持した。もう何十回も書いているが、日本の最大の危険は北朝鮮である。中国ではなく北朝鮮である。私がアベ政権を批判すると、なぜか北朝鮮や中国を擁護しているのではないかと、考える単純なアベ政権支持者がいる。とんでもないことだ。日本人の命を守るためには、軍事的な対抗では解決できない事態に至ったという、状況判断が必要である。

北朝鮮に対して、韓国とアメリカトランプ政権はTHAAD(高高度防衛ミサイルシステム)の韓国配備決定し、韓国防衛、同盟強化を計るとしている。アベ政権と同じ方向である。その結果中国は韓国に対して、団体観光客の訪韓の禁止、韓国製品の不買運動で対抗している。ミサイルが北朝鮮ではなく、むしろ中国に向けられていると感じてのことだ。軍事力の強化は必ず、報復を予測しなければならない。韓国の態度から学ばなければならない。中国も軍事強化を行っている。辺野古基地移設。八重山自衛隊ミサイル配備は北朝鮮からの核攻撃の危険が増す。軍事的対抗は互いに競争し最後は、ぶつかり合うものだ。どこかで暴発が起こる。それが、イスラム圏やウクライナで起きていることだろう。代理戦争化する。アメリカは北朝鮮がアメリカに核弾頭を打ち込む前に、抑え込もうという事だろう。その為には韓国や日本には、防人になってもらいたいという事だ。そんな同盟をいくら強化したところで、金正恩の狂気が収まるはずもない。こうしてミサイル基地が標的になる。 

 

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