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悟るということの科学

2022-08-31 04:28:51 | 暮らし


 道元禅師は座禅を行い、悟りを開かれた。そして只管打坐という修行方法を提唱した。曹洞宗の僧侶端の恥で菩薩道に生きてきたつもりだ。しかし、悟りのみちはと言うと、まったくほど遠い状況である。この先も、そういう領域には到達することはないと思っている。エセ坊主である。

 それは只管打坐という修行が出来なかったからだと思わざる得ない。絵を描いているのだから、それは無理なことになる。雪舟だって無理だったにちがいない。絵を描くことが何より好きで、やればやるほどおもしろくなっているのだからどうにもならない。

 只管打坐どころではないわけだ。絵を描いてはならないという、修行の道は諦らめほかない。道元禅師の言われるとおりだと思う。絵など描いていたのでは悟りの世界は遠のくばかりである。では一体悟りの世界とはどういうものだろうか。

 その科学的な分析で一番近いものはランナーズハイに関連があると思っている。ランナーズハイとは長距離を限界の速度で、45分以上走っていると訪れることがあるものらしい。高校時代は長距離の競技をしていたから、限界を超えて、45分以上毎日に近く走っていた。それでなんとなくは感触だけは想像できる。

 しかし、体験者が説明されるような強烈なランナーズハイは経験はない。限界まで走っているのに、疲労感が消えて、どこまでも爽快に走って行けるような感覚らしい。その原因はエンドルフィンという脳内物質が発現するからだと分析されている。

 エンドルフィンはモルヒネと同じような麻痺作用があり、肉体的な苦痛を取り除いてくれるらしい。何故エンドルフィンが現われるかと言えば、人間が何十万年も野生動物を追いかけて、走り続けた時代の体験の結果と推定されている。

 人間はそう強い生き物ではなかった。足も特別に速い動物でもなかった。しかし、集団でひたすら獲物を追い続けることが出来た。この長距離走のような狩猟に着いていけないものは集団から脱落しただろう。まさに千日回峰行を人類の祖先は行っていた。

 そうして、淘汰選抜されて、生き残った人類は長距離を走り続けて苦しくなると、エンドルフィンが出て、苦しさを乗り越えることの出来た人類だけに選抜されていったと想像されている。それが、何十万年繰り返された結果、今生きている我々の中にも、長距離走の結果エンドルフィンが出る人類が残ることになった。

 エンドルフィンが出る人が一流のマラソン選手なのだろう。アフリカ系の選手がマラソンでは圧倒的に強い理由もその当たりにある可能性がある。おじいさんの代くらいまでは、走って猟を続けていた人達がいるわけだ。そういえば、長距離を走る成人の儀式をする部族もあるらしい。

 あの千日回峰行はまさにエンドルフィン発現の修行のように見える。限界を超えて走っている内に、そうした特別の体験に至るのだろう。そうしなければ生き残れない修行だとすれば、苦行の意味も科学的に分析されるのかも知れない。

 と言っても、エンドルフィンが大量に出る人は数少ない。普通の人であれば、ある程度は出るが大量ではない。だから長距離の選手を目指していたときに、ある程度は感じる事があった。苦しくなくなる瞬間がたまにある。走る苦しさには限界があるが、もうだめだという先がある。

 自分なりの限界を超えることが出来た経験はある。いくらかエンドルフィンが出たのかも知れない。その走ると言うことと、まるで違う座るという修行法では何が起こるのかである。座っているのも、走る以上に辛い苦行である。足がしびれて痛いと言うこともあるが、ただ座っていると言うこと自体が耐えがたいところがある。

 ひたすら座っているとエンドルフィンが出るかというと違うと思う。違う脳内ホルモンが出るのだと想像している。じっと待ち耐える、脳内ホルモンである。たぶん人類の祖先達は静かに穴の中で、空腹に耐えていた時間が長いのだと思う。

 気候変動もあれば、空腹で飢え死にする事も多かっただろう。じっと横になり体力を消耗しないように耐えることが出来た人類が生き残った。座禅をしている人はの食事量は限界以下である。科学的には生存できないカロリーだから、虐待であるので禁止すべきと言う意見もある。

 しかし、座禅をしている僧侶はエネルギーの消耗が極端に下がる。座るのにも体力はいるのだが、精神を統一していることで、エネルギーの消費が小さくなる。つまり、穴の中で空腹を抱えて、獲物を持ち帰ることを待ち続けていたのが人類である。走り続けたのが男性で、座って耐えたのが女性だろう。ライオンの逆である。

 たぶん待つ力の強い者には耐えるホルモンがやはり出るのだろう。エンドルフィンとは又違うホルモンの可能性もある。まだ発見されていない脳内物質もあるだろう。消耗しないように待ち続けていると、ホルモンの出現の御陰で、空腹を忘れてエネルギーの消耗もなくなる。その当たりに、なんとなく悟りの感覚が近いように感じる。

 ここまでは科学的想像であるが、ではどうしたら良いかである。悟りにはほど遠いが、到達点にまでたどり着きたい。それは絵を描くことである。悟りの心境で描く絵に出会いたい。そんなことがあるのかどうかは分からないが、目指したいと考えている。

 そしてその方角を進むために、動禅があると考えている。動禅は全体で45分ぐらいだ。最低このくらいの時間やらなければやらないのは同じだ。動禅の中でも8段錦の背伸び体操を工夫した。背伸びを長時間続ける。普通は12分続ける。18分やる日もある。

 それは終わりを待つという意識だ。終わりは来る。必ず来るが耐えて待たなければならない。猟が成功して獲物が手に入るかも知れない。それをただ待ち続ける。待つ力である。待つ力が強くなければ、早く死んでしまう。待つ力の強い者が生存競争を生き残る。

 待つという力を育てる。我慢する力を育てる。これが背伸びの動禅である。座禅も同じではなかろうか。これがぬるま湯につかっている。ぬるま湯瞑想では終わりを待つどころか、いい湯だねと長湯するのが落ちだ。何かに達するためには我慢する要素が必要なはずだ。

 千日回峰行も、最後に比叡山中の明王堂にこもり9日間、断食、断水、不眠、不臥で不動真言10万回を唱える。走り続け、穴に籠ること九日。まさに人類の祖先の暮らしの再現である。そこに何かホルモンが出て生き残ることが可能になるのだろう。

 私にはそういうことは出来ない。その力もないし。そんなことは実は無駄だと思っている。自分の出来ることで後はやるつもりだ。それが動禅である。遊び事のような行ではあるが、自分らしくて続けている。どれほど千日回峰行が素晴らしくとも続かなければどうにもならない。

 私の行は千日どころではない。絵を描くことはもう65年は続けている。自給農業も38年続けている。続けていることをどのように行に出来るかが、重要だと考えている。絵を描くことが行であれば、とうの昔に大阿闍梨である。

 
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絵が先か、人間が先か

2022-08-30 04:39:55 | 水彩画



 アトリエカーの中を少し配置換えをした。車を車検に出したので、その時に一度アトリエを荷台から下ろした。荷物を一度外に出して、車の中で使うことがなかった物を取り除いた。この狭い空間が私の禅堂のようなところだから、物の配置はかなり大事なことになる。

 水彩連盟にいた頃、絵の批評をしてくれと言われたので、絵の批評をしたら、この歳になって人間に問題があるなどと言われるとは思わなかった。と激怒されたことがあった。確かに絵は人間が描く物だと説明した。絵は人間次第とも言った。

 絵を批評すると言うことはその人の人間を批評していると言うことになるのかもしれない。私の人間を批評して下さいと言うことだから、なかなか大胆なことになる。もし人間と絵が切り離されたものであれば、それは絵ではなくて、絵の技量を見て下さいと言うことになる。

 褒められたいから批評してくれと言うことが良くある。やはりそういう人となりが絵に現われていた。褒められたがっている絵だと批評をした。絵は人間が現われるとも説明した。これが合わさって、絵が良くないのは人間が良くないからだとと言うことになったわけだ。

 ちょっと意味は違うのだが、そう解釈できないことも無いなと思い、弁解はしなかった。その通りだとあえて言った。批評を頼んで、怒り出すぐらいなら人に批評など頼むなとも言った。絵を批評するときに、心にもないことを言うことは自分の絵画を貶めることだ。

 絵の批評に関しては本音以外にない。それは立場も、ないし身分もない。絵と対峙するだけのことだ。絵について本音以外のことを言うことを、自分に禁じている。どのように思われようが、自分が感じたことを言うことに決めている。絵を描く物として守らなければならない、当たり前の姿勢だ。

 しかし絵が良いというのは難しいところがあって、良い人間だからと言うことは関係がない。人間が怪しげ過ぎて、絵がすごいと言うこともある。自己顕示欲のお化けのような人が、絵を描いていることが良くある。そういう自己陶酔したような絵は気持ちの悪いものだが。嫌らしくたって絵になっていることがある。

 人間が立派であると言うようなことと絵は関係がない。立派だから絵が立派になると言うことはない。人間がダメだから絵が良いと言うことはある。ゴッホだって、セザンヌだって、ゴーギャンだって、人間は相当に困りもんだったらしい。余りに絵に一途な人は、大抵はまわりとしては困る人。

 そういうことを書こうとしていたのでは無い。良い絵を描くにはどうしたら良いかを書きたいと思って書きだした。そのことが分からないので、良い絵を描く方法は人間がどうなれば良いのか、分からないということを書きたかった。

 はっきりしていることは絵は技術的な問題が大きい。技術がないというのは論外のことで、絵を描く以上自分の技術を確立していなければ話にならない。技術は確立した上で忘れなければならないものだ。絵の問題とはその先の問題のことだろう。

 やはり水彩連盟の講習会の席で、ガラスの透明な感じをどのように表現したら良いか教えて欲しいという質問があった。よく見て、なぜ透明に見えると火という科学的仕組みを認識出来るかどうか。もし出来たならば、そのとおり描けば良い。その通り描けないとすれば、その技術を訓練するほかない。

 質問した人は、何色の絵の具をどのくらいの水の量で溶いて、どの部分を絵の具を塗り、乾いたならば、次にどの部分をどう塗れば、ガラスの透明感が出ます。と言うような回答が聞きたかったはずだ。そうだと思うが、さすがに無意味なことを口にしたくない。

 最近の水彩画の技法書というと、そ言う実に絵でなくなる技術の説明をしている。詳細な、何色にわずかに何色を加えて、乾いた何色の上に塗ると、こういうことになる。と言うような技術説明になっている。絵にそんなことは無意味どころか、害悪だけになる。

 薔薇の描き方。水の描き方。雲の描き方。そんなやり口を次々に身につけたら、絵はおかしくなるばかりだろう。そ言う手口を一切忘れて、素朴に見て、絵を描く目で見て理解する、次にはそれを完全に忘れて、記憶の底に焼き付いて残ったものを描く。そのためには、自分のやり方を発見して描くほか無い。

 今頭の中で薔薇を想像して、絵として描けるように思い出せるかである。そうでないなら薔薇を描く必然がない。その時に薔薇の描き方の見本が出てきてしまえば、終わりなのだ。水彩画技術とは、自分の頭の中に描いた絵を表す技術なのだ。頭の中に他人が発明した方法が再現されるようでは、それは自分の絵ではない。

 頭の中にマチスが湧いてくる。中川一政が湧いてくる。これも同じくだめなのだ。もっと深刻に始末に負えないかもしれない。そんな他人の作った絵というものの一切を匂いを打ち消すことが、自分の絵に至る重要なことになる。何が、自分の眼が見たものか。ここに迫るほかない。

 それぞれの人間は多くのことを子供の頃に見ている。子供の頃に見ていない者には中々見ることが出来ない。今更大体のことは手遅れでだめなのだ。私はどうなのか。本気でその当たりが心配なのだ。子供の頃観た世界は安寧の世界だった気がする。

 絵を見るのではない。子供の頃に見た記憶。これが絵の一番重要な「見る」だと思う。子供の頃に重要な画像を受け取っていないと絵は描けない気がしている。記憶の中に印象的に蓄積されてきた世界が、絵になる種のような気がしている。これは絵描きの資質に関わることなのだろう。

 音楽家の耳が特別なことと似ている。パリで特別な才能の人と言われていた作曲家の日本人が、1時間ぐらい公園に座っていて、その鳥のさえずりなどを楽譜に再現できると言っていた。耳の記憶能力がまったく違う。たぶんそれが作曲家の基本的な資質なので、それで音楽が表現できるとは限らない。

 ボナールは街ですれ違った人の姿を家に戻ってから描いていたそうだ。そのスケッチを見た人はどこの誰だか分かったそうだ。画像の記憶が特別でないと、絵は描けないのかも知れない。ボナールの記憶の画像はボナールの絵になっていたはずだ。

 記憶の画像が写真のようでは画家には不向きで、写真家向きかも知れない。記憶の画像が絵にならない人は、たぶん絵描きは無理なのだと思う。さて私はどうなのか自問するところだ。そのことがあるから、時々山梨に絵を描きに行く。子供の頃見ていたものを確認したくなる。

 記憶の中の画像を絵に描くためにはあらゆるものが描ける技術を持っていなければならない。自分の技法の限界で絵がつまらないのか。記憶の画像自体がつまらないものなのかが判別できない。記憶の画像は目の前で見えているものと重なって行く。

 毎日一枚である。絵が深まれば、人間も深まる。人間が深まれば、絵も深まる。どちらも重なる。切り離せない関連がある。ひたすら絵を描く以外にないと言うことはかわらない。

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未知に挑戦する面白さ

2022-08-29 04:08:25 | 楽観農園


 初めてのことをやることが一番おもしろい。出来ることをやるよりも、やったことのない世界に踏み込むことの方がはるかにおもしろい。エジソンは「失敗をしたことは一度もない。このやり方では出来ないと言う事を知っただけだ。」このように語ったそうだ。

 のぼたん農園で起こることは未知のことが多い。水牛を飼うと言うこと自体が、初めてのことだった。水牛はおもしろいことばかりだが、未だによく理解が出来ない。水牛を一年間紐でつないで飼っていた。放牧地にをつくり、水牛を放牧に変えた。これは大冒険の一つだった。水牛のことがいくらか理解が深まった。

 数週間あれこれ考えていた。いつも紐でつないでいたときにはいがみ合って、何時喧嘩が始まるかと2頭を近づけないように注意していた。放牧したら上下関係がはっきりして、争わなくなった。水牛は群れで暮らす動物だと思いながらも、放牧するまで、不安で成らなかった。

 すごい角の、すごい体重の2匹が喧嘩をしたらどうなるか。どちらかが大けがでもしてしまうのでは無いか。それが怖くて、近づけることが出来なかった。ところがなんと両者を紐から解放したら、なんとなく序列が出来ていて、喧嘩はなしだった。

 以前、福仲先生が、両者を近づけてわざと喧嘩をさせて、上下関係を決めていたことが、放し飼いにしたときにその序列付けが生きてきた。あの両者を対決させたときは恐ろしかった。角同士がぶつかり合う、すさましいがっんガツンと言う音が響き渡った。

 あの時両者の近づけ方は絶妙だった。上下関係を決めさせながら、ケガをさせない距離感。さすが長年水牛を飼ってきた実力を感じた。とてもあの芸当は出来ないと思う。人間の力などでどうなるものでもない、圧倒的な体力である。それを鼻綱だけで上手くコントロールさせる。

 今も水牛には短い鼻綱を付けてある。時々それを引っ張って誘導している。水牛は心根が優しい動物だから、よくしたがってくれる。時々人間の存在を思い出させておいたほうがいいだろう。一日1回はよく触って上げる。子供の水牛はやたら自分の力を占めそうと角で押してくるが、これも適当に相手をしてやる。

 人間に自分の強くなったところをアピールしているということらしい。実際には人間の力よりはもう強くなっている。しかし、牛というものは顔の位置で大きさを決めるらしい。だから結構人間が自分より大きいと思い込んでいるらしい。そういえば、桜と若葉は頭を上に延ばして大きさを争っていた。

 田んぼのこともそうだ。のぼたん農園の耕作法はまったく手探りである。気候も違う。土壌も違う。水も違う。参加者はほぼ未経験な人ばかりだ。その上、なかなか個性派揃いで人間も違う。この中でどんな方向に舵取りをしてゆけば良いのか。

 人に言われたことはやりたくないという人もいれば、言ってくれなければ何も分からないという人もいる。同じ人が言葉としてはその両方を言うこともある。私の教え方は教えないという教え方である。一通り説明はする。それを聞いていないでもかまわない。

 渋谷に会った洋画人体研究所の安田先生は教えない主義だった。デッサン紙を裏で描いていた人がいた。神が裏だと教えて上げたらどうだろうという人がいた。先生はそのくらいのことを自分で気付けないようでは始まらないと言われた。

 すべてのことは自分で考えないことは身につかないからだ。田んぼのことは田んぼで働く身体が、教えてくれることになる。どんなことでも他人がこのようにやりなさいと決めつけることが一番悪い事になる。それでもどうやるかを言わないのだから、何も分からないということになる。分からないからおもしろいと言うことより、回答を聞きたがる。

 現代社会は指示待ち人間が増えたと言うことらしい。と言われても正直困る。それぞれが考えてやって下さいと言うぐらいの指示である。やり方は本やネットで調べて、分からないことがあれば、聞いて下さいと言う当たりが一番良いのだが、そうも行かないので説明だけはする。その説明は自然のほんの一部のことに過ぎない。

 指導者がいない学校が良い学校である。自学自習である。知りたいことは先生を呼んできて教われば良いことになる。本来学校は教わる者が作るべき仕組みなのだ。今の日本では教える側が作るからおかしな学校になる。

 まして国が必要な知識を決めて、教えたい事のための学校を作るのでは、かなり困った学校になる。義務教育に英語が取り入れられる。アメリカの支持なのか。政府の忖度なのか。もうしばらくで自動通訳機が実用化するはずだ。

 田んぼの失敗はそれではだめだと言うことを学んだという成果なのだ。エジソンの言うとおりである。いつも成功している道の先にはたいした結果はない。せいぜい世間並みである。出来ないことを毎年確認しながら、ついに出来る方法にたどり着く事が大冒険だ。

 ひこばえ農法はなかなか魅力的な方法である。2年に7回の収穫があって、田植えがいらない方法だ。10の田んぼがあれば、毎月稲刈りがあり、毎月新米を食べることになる。自給にはもってこいの石垣島でなければ出来ない農法になるとおもうが、まだみんなには了解が取れていない。

 素晴らしいのぼたん農園の自給のためのひこばえ農法が見えている。ひこばえ農法をなんとしても実現したい。この大冒険のためにまだまだ試行錯誤を続けたいと思う。まだ始めたばかりだ。それでそれなりの収穫を得たと言うことが、そもそも想定外なのだ。

 天水田の耕作につて、与那国島の昔の農法を大分調べることが出来た。なかなかおもしろい農法である。最小限の水を有効利用する素晴らしい方法である。この方法も水の少ないのぼたん農園で実現しなければならない目標である。

 一年中水を切らないで、稲刈りの時も水のある状態で田んぼを乾かさない。コロガシを必要な状態で入れて行く。この一年中水のある田んぼの状態がのぼたん農園の姿になる。雨が降ればコロガシを入れる。田んぼの水面は一年中水草がある。

 このアカウキクサが窒素を固定して、田んぼの肥料になる。光合成細菌を継続的に作りたいと考えている。光合成細菌の窒素固定能力を生かして、田んぼの肥料を作り出す。そこまで進めば、外から肥料を特別に入れる必要はなくなる。

 今書いていても夢のような話だと思う。田んぼの中で自然の調和の取れた循環が生まれる。何千年と繰り返して行ける農法である。田んぼは自然環境を大きく変えることなく生産が可能だ。循環する永続農法が出来ると考えて挑戦して行くつもりだ。

 田んぼにはまだまだ未知の世界がある。これから地球は水不足になり、熱帯化して、食糧不足になる。それをしのぐことが出来るのは、唯一のぼたん農園の自給農業である。本気でそう思っている。いつの日にかは世界中からこの農法を学びに来る。

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第124 回 水彩画 日曜展示

2022-08-28 04:15:39 | 水彩画
第124 回 水彩画 日曜展示
10号前後の作品






862「岬の灯台」
2022.8






863「のぼたん農園」
2022.8







864「赤花の並木」
2022.8






865「川の向こうの畑」
2022.8







867「佐渡の村」
2022.8







868「のぼたん農園」
2022.8






869「のぼたん農園」
2022.8







870「名蔵湾」
2022.8







871「石垣の海と空」
2022.8


 水彩人の出品作を選択肢ながら、新しい絵を描いている。出品作の方が良いというわけでもないと思う。ただ、4点並べるので、4点で見やすくいようにとおもい選んだ。それでも新しく描いている絵の方がおもしろいような気になる。

 未だかつてないものを描かなければと言う気持ちがある。繰返しでは停滞である。絵としておかしくなろうとも、変わって行きたい。そう考えているのに、大して変わるものではない。でも、そう思っていることは、必ずいつか反映する。

 描いたことのないような絵が現われても、それも自分だと思い怖れないこと。いつか何でその絵を描いたのかが分かる日が来る。その日その一日をどれだけ力を尽くして絵を描けるのか、それだけでいい。そんな風に思いながら、もう一度眺めてみる。
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石垣島には宮良川と言う美しい川がある。

2022-08-27 04:48:31 | 水彩画

 
 宮良川を良く描きに行く。自然が作り出した川と上手く農地を作っている姿に魅了される。開南の集落から東に降りた当たりが宮良川の中流域の谷になっている。この谷に大きな橋があり、この橋の上で絵を描く。通る車に少し迷惑をかけているが、道幅も十分あるし、通行量が多いわけではないので、お許し願いたい。

 下流方向には農耕地や牧場が広大に広がっている。一段高くなるその向こうはもう太平洋の海である。上流方向には於茂登岳が高くそびえている。沖縄県で一番高い山である。山深い印象がして、島とは思えない空気である。濃厚な植物の緑の濃さが満ちているすばらしい景観である。

 石垣島では自然のままの流れというものを目の当たりにすることが出来る。人間が作ったコンクリートで固められた川ではない。於茂登岳から流れ出る水がすこしづつ渓谷を作り、自然の蛇行をしている。自然のままの川の両側につつましく耕作地がある。人間が自然と折り合っている見事な眺めである。

 風景というものは人間が作り出すものだと言うことがよく分かる。良く世界の絶景というようなものをテレビでは放送しているが、手つかずの自然景観にはあまり関心がわかない。自然の絶景では絵を描く要因がなかなか見つからない。人間の関わりに惹きつけられる。

 石垣島で一番大きな川が宮良川(めーらがー)である。石垣島の守護神である於茂登岳の北東を源流とし、中流では前山と宮良台地の間を流れ、南に向かって宮良湾へ流れ出る。 下流域ではオヒルギなどのマングローブ湿地が「宮良川のヒルギ林」として国の天然記念物に指定されている。

  宮良川水系には3基のダムがあり、沢山ある配水池から石垣全体の農地へ水が配分されている。流域面積が35.4㏊。河川延長が12㎞。石垣では一番の川で、沖縄県7番目の川である。石垣島の農業を支える川となっている。

 川の岸辺には少しでも平地があれば、水田が耕作されている。蛇行する川とその間を埋めるように作られている水田。田んぼを飾るように、亜熱帯の花々が縁取っている。田んぼは調整池であって、毎年のように水をかぶることがあっても耕作が続けられている。

 川は自然護岸で、両側には農道が続いている。大雨が降るとその農道が冠水してしまうことも良くある。下流域では田んぼが耕作がされなくなって、洪水が広がり困るようになったと言われていた。

 田んぼは遊水池なのだ。田んぼが洪水を防いでくれている。一度くらい水没しても、数日の内に水が引けば、田んぼは何とか立ち直る。人間が暮らすと言うことを、守りながら、生産の場となるのが田んぼだ。それ故に、暮らしと見事に調和して立地している。

 こうした自然に即応して作られた田んぼは今や極めて少なくなっている。残念なことだが人が住まなくなり、集落そのものが消滅して行くという残念な時代だ。都市化して行くのは世界中共通なことだが、その限界に達したと思われる。コロナのような感染症が広がる。

 石垣島のこの美しい景色ももしかしたら、消えて行くものなのかも知れない。いや、なくしてはならない大切な物だと思うが、何とか残せないものだろうか。美しい景色を作り出し、その中で暮らす。これこそ人間の暮らしの究極のものだと思う。

 石垣島に残るこの美しい風景が、かけがえのないものだと言うことを知らなければならない。田んぼが失われてからでは遅い。沖縄本島でも、与那国島でも田んぼが失われた景色である。失われると同時に、沖縄の文化の根底にあったイネ作りをみんな忘れてしまったのだろうか。失った美しいものの意味を気付かず暮らしている。

 今石垣島に残る田んぼのこの美しさを描くことだと考えている。絵にして残しておくことはできる。人間が関わることで生まれてくる景色の中の世界観を表現したい。と言ってもそう大げさなことではない。記憶にある世界を今目の前にある宮良川の風景を見ながら描くことだけができる。

 宮良川の空気の中に身を置くことで、記憶の世界がよみがえる。そのよみがえる世界が立ち上がって来るまで描いてみる。何故か分からないが、あるとき風景の色彩が、色として立ち上がる。そうだこれが私の世界だと確認できる。そこまで描くことになる。

 もうそれは宮良川と言うことでもない。私の内なる良い世界のことになる。宮良川を目の前にして、見ながら描きながら、宮良川でないというのもおかしな事だが、描こうとしている者は宮良川に触発されたものだ。ただひたすら絵を進めていると、あるときそこのきっかけが現われてくる。その現われたものを展開して行く。

 消してしまうことではっきりすることもあれば、それを広げて行き解決することもある。どうすればどうなると言うことは全くない。ただただ絵の前で描き続ける。思いつくことはすべてやる。後はどうにか行き着くこともあると言うことになる。

 宮良川が記憶の中に入り込んで絵になる。記憶の中の宮良川は川という象徴のようなものになって、自分の中の世界観を形成する。宮良川がそういう世界を生み出している事を教えてくれる。だから、私の絵の宮良川は川ではあるが、宮良川ではない。

 中川一政の箱根駒ヶ岳は山であるが、あの絵から駒ヶ岳を想像してもそれは違う。駒ヶ岳をにらみ続けて描いている絵だが、駒ヶ岳を写しているわけではない。あるのは結局の所、中川一政という人間と言うことになる。

 ここが絵のおもしろいところだ。別段駒ヶ岳ですねとは誰も思わない。あの強烈な筆遣いと、画面の中で渦巻く力に圧倒される。そしてそれを描いた、中川一政という人間の精神の気高い強さに、刮目する。絵はそれだけで良い。いつかそういう私の絵が描ければと思う。

 
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コロナ死者過去最高の343人を記録

2022-08-26 04:00:54 | 暮らし


 新型コロナウイルス感染者の死亡は8月23日、新たに343人確認された。最も多かった2月22日(322人)を上回り、半年ぶりに過去最多を更新した。8月中の累計死者数も単月としては初めて5000人を超え、最多となった。--新聞報道

 今流行しているコロナ株は病原性に於いてインフルエンザと同レベルになった。と、言われているが死者数からみれば、老人にはそうは油断は出来ない感染症だといえる。インフルエンザがこれほど一度に広く感染することはいまだかつてない。

 コロナはいつかはインフルエンザ並になるのかも知れないが、いまのところ感染力が半端ではない。ちょっと緩むと忽ち感染が広がる。感染が広がれば、とうぜん身体の弱い老人が感染して死ぬ。だから一日に343人も死んでしまったのだ。その大半が老人である。老人の致死率だけを見れば、相当深刻な病気なのだ。

 73歳の老人である。若い頃に結核もした。今でも肺が弱い気がしている。コロナにおける基礎疾患がある老人と考えなければならない。できる限り感染は避けなければならない。しかし、できる限り感染を避けたとしても、限界はある。その点が不安で成らない。

 感染のリスクを思うと、嫌になる。東京で電車に乗るときには、恥ずかしながらおずおずと窓を開けさせてもらう。そういうことをする人は余りいない。みんなもう慣れっこになったのだろう。何時下火になるかと期待しているのだが、今のところどうにもならない様子だ。

 幸いというほどでもないが、石垣島はいくらか減少傾向にある。もう少し減ったならば、床屋に行きたいのだが。感染しやすい人はかなり感染したのだろう。このまま減少をしてくれればと思うのだが、まだまだ油断は出来ない。ともかく室内には入らないことだ。野外であれば、それなりに安全である。この違いが一番大きいとみている。

 インフルエンザの場合、一年間の直接死が2000人ぐらいで、関連死までふくめて、1万人程度の死者数らしい。多くて一日30人くらいのものだ。コロナはその10倍である。やはり、老人にとってはいまだ病原性が弱まったとは言え、インフルエンザよりはるかに深刻な病気である。

 しかもコロナが怖いのは、後遺症がある事だ。後遺症についてはインフルエンザでは余り聞かない。若年層にも後遺症はかなりあるらしい。その点でもコロナはなまじの感染症ではない。さらに恐ろしいことはコロナは社会全体の人の心をむしばんでいる点ではないだろうか。

 ワクチンについて、様々な風評が流布されて、宇宙人による陰謀説までまことしやかに流されている。ペストの流行時の魔女狩りを笑えないような事態である。ペストでは富裕層が都市を離れることで感染を逃れたらしい。都市に過密に暮らすと言うことが、限界を超えると言うことなのだろう。

 人間は余りに過密になると、摩擦が増えて耐えがたくなる。そこにコロナである。人心は当然乱れる。経済は下降気味である。日本の開発力は後れを取り始めている。日本社会が変わらざる得ないところまで来ている。しかし、政治は過去に縛られたまま、心機一転どころではない。もう政治に期待する気にもなれない。

 話はコロナから外れるが、古い原発の再稼働、原発の使用期限の見直しなどと言い出した。世界がエネルギー危機だろう。ここでなぜ、再生エネルギーの開発を言えないのだろうか。たぶん、日本には再生エネルギーを新発明する能力がないと、政府自身が見限っているように見える。政府の本音では再生エネルギーが無理なことと考えてしまうから原発再稼働を選択する。

 何故、日本は東日本大震災後、福島原発事故後、再生可能エネルギーを模索できなかったのか。あのときに出来なかったことがいまできるはずもない。あの頃はまだ日本の再生エネルギーのレベルは世界のトップレベルだった。それなのにその後はどんどん世界の流れから遅れた。アベ時代の10年がひどい。

 ともかく、それからのアベ長期政権のアベノミクスの第三の矢と言う奴が飛ばなかった。ここ10年のあいだに、日本の産業で世界を抜きん出るような新しいものは生まれなかった。アニメぐらいだろうか。物語を絵画化する文化は日本の伝統文化である。

 源氏物語絵巻の伝統が生きているのだと思う。日本の古い伝統をよみがえらせるような所に新しいものがあるのだろう。日本の古い暮らしぶりの中に、次の時代の生き方が隠れていると思う。江戸時代の暮らし方は世界の良い方角になるはずだと考えている。

 経済が拡大再生産ではなく、停滞する中でどのような暮らしの楽しみを見つけ出すかである。美しい暮らしなのだと思う。大型の工業的農業は、景色を崩壊させる。景色の壊れた場所に暮らすと言うことがどれほど、人間の暮らしにとって良くないことかを気付く、美しい暮らしの時代に入った。

 里地里山で自然と折り合いを付けて人間は生きて行ける。一人100坪の土地があれば、人間は食糧が自給できる。食糧を自給した上で、あとは好きなことを仕事にすれば良い。そういう競争しない暮らし方を日本は江戸時代の250年間体験した。

 この伝統的な暮らし方をもう一度取り戻すことが、世界の次の在り方に繋がるのではないだろうか。競争しない生き方である。何が人間のしあわせな暮らし方であるかを日本で実践する人が増えれば、あれもいいものだと、アニメが世界に認められたように、自給的な生活が広がる可能性はある。

 何もアーミシュのように暮らせというのではない。新しい技術も合理的に取り入れて、江戸時代とは見違えるような現代的な自給生活を作り出すことだ。アニメが世界的な流行に繋がったのは、古いものを現代に生かしたからだろう。

 自給生活も同じである。美しい暮らしでなければならない。どこまでも美しいものを求めた結果の、最小限の暮らしでなければならない。難しいことはない。自然の中に入り込み、自然と折り合いを付けて行けば、美しい暮らしが待っている。

 人は一日1時間。100坪の土地で、自給のために働けば、食料は確保できる。その1時間の労働は健康であるための働き方にも成る。大きな機械など無くとも、化石エネルギーを使わなくとも、人間は自給的に生きて行ける。この人間らしい暮らしこそ、次の時代の暮らしだと思う。

 石垣島ののぼたん農園に来てみて欲しい。いつでも誰にでも公開している。一緒にやってみたい人は受け入れている。私は1時間の農作業以外9時から4時まで絵を描いている。のぼたん農園に来てもらえばいつでも説明させて貰う。

 いつまで経ってもコロナは終わろうとしないが、のぼたん農園の暮らしなら、感染はまず無い。野外での共同作業はこれからの時代重要なことになる。人間は人とふれあわなければだめだ。しかし、室内での接触はこれからは避けた方が良い。のぼたん農園の暮らし方が、推奨される時代が来ている。


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立憲民主党も、公明党さえも統一教会に浸食されていた。 

2022-08-25 05:07:48 | Peace Cafe


 日本の政治はまったくだめだ。韓国のえせ宗教統一教会に完全にやられた。さすがに今回の事態は終わったという気持ちだ。野党の要の立憲民主党ですら、期待できるものではない事が明らかになった。枝野氏までどういうことなのか。

 なぜ、立憲民主党が勝共連合なのか。思想が揺らいでいて、選挙至上主義になっているとしか思えない。確かに選挙は重要だが、平和憲法を守る党が、韓国のKCIAが関係するえせ宗教組織の支援を期待していたとは到底信じがたい。

 さらに驚いたのは宗教系の政党のはずの公明党までもが、なんと統一教会と接点があったのだ。公明党であれば、資金力も動員力も、統一教会変わらないものはずなのに、何とも驚いたことに、統一教会と連携をとろうという議員がいたのだ。もうあきれて物が言えない。

 自民党の統一教会ズブズブへの追求がいかにも甘いと思っていたが、自分も関わっていたのでは、 強いことが言えるわけもない。与党がえせ宗教の宣伝党にされていながら、その批判を出来る野党が共産党だけ。このままでは日本の政治は腐りきってしまう。腐ってしまった。

 多分もう日本の政治は期待してもダメなのだろう。残念だが政治ではないところに活路を見出すほかない。すごい迂回路を探すほかないということだろう。後水尾天皇の心境か。何時の日か日本がまともな議会制民主主義の国になる日を夢見て、のぼたん農園を残すほかない。

 西欧の民主主義先進国に追いつけなかったと言うことなのだろうか。アジア各国を見ると、どうも日本と同様に選挙がまともに機能しないようだ。個人という者が確立していないところでは、民主主義が機能しないと言うことなのかもしれない。ついつい長いものに巻かれる。

 アジアでは議会制民主主義国家がついに成立しなかったということと考えるほかない。まともな有権者がいないから、まともな議員が育たなかったのだ。すぐ、統一教会に媚びようなどというはしたない安部のような人間ばかりだったのだ。

 ここまでの汚染状況を見ると議員に期待はできない。投票に行ったところでほぼ無駄だろう。それでも行くしかないのだから、まったく情けない。こんな日本に誰がした。つまり自分自身がその張本人でもあるのだろう。こういうことになると50年前にわかっていた。

 わかっていて止めようとしてその流れを止めることができずあきらめた。それがいけなかったのだろう。あの頃、直接的な攻撃がだめなら、遠回りしても道を探すほかないと考えた。その道が自給農業の道でもあったつもりだったのだが、まったく力足らずである。

 まともな世の中にしようとする力よりも、独善的な利益を追求する勢力に敗れたということなのだろう。結局は韓国の霊感商法に負けたのだ。このツボを持っていれば、幸運がくる。金儲けができるというバカげた教えに負けたのだ。なんという情けなさか。

 その一番の原因は有権者が育たなかったことにあるのだろう。有権者が日本国をよくする方角を見失っているのだろう。国会の3分の2の議員が統一教会に犯されれば、統一教会が国教になるのだろうか。勝手にしてくれと言う気分だ。

 日本の国会議員すべてが、悪徳商法のセールスマンに見えてきた。何を言っても騙されるわけにはいかない。統一教会に洗脳されていたかもしれないようなものが、総理大臣になり、口パク総理大臣をしていたかもしれないのだ。だから、その人を国葬にしようというのだ。

 この自体はさすがにまずくないか。統一教会葬にすれば良いではないか。韓国でやってもらえばいい。こういう事態が暗殺されなければ、まったく明るみに出なかった。暗殺などあってはならないが、事件がなければ、何も明らかにならず、さらに統一教会の浸透が進んでいただろう。

 報道関係は大丈夫なのだろうか。企業はどうなのだろう。創価学会企業というものはあるらしいから、統一教会企業も無いとは言えない。統一教会は早く活動停止処分にすべきだ。処分されないように政治に浸透してきたのだろう。

 人間が競争主義になった結果現世利益だけを求めるようになった。その結果国の方角で投票をするのではなく、自分の目先に有利であれば良いと考えて、投票をする。その結果民主主義が機能しなくなっている。それが、共産党以外の政党が統一教会に入り込まれた原因である。

 立憲民主党の汚染は自民党の汚染以上に問題になる。たぶん、この党への希望はほとんど失われたと言うことになる。解党して出直す以外にない。次の選挙では投票は出来ない。気持ち悪くて投票したくない。何故日本人はここまで宗教にルーズなのだろう。

 それぞれの宗教を持たないから、えせ宗教と関係することを何でもないことと安易に考えるのだ。それが宗教の内部でどのように利用されているのかも気付かないのだ。そんな節操のない人間が政治を志すこと自体が間違っている。

 今見えているのは統一教会だけだが、実際には様々な宗教が政治に口を出している。政治家は宗教の集票力を借りようと結びつこうとしているはずだ。曹洞宗の僧侶ではあるが、曹洞宗から何かの支持を受けたことはない。寺院を盛っていない僧侶であるから、本山とも関係は特にないから、本山では私の住所すら把握していないのだろう。

 曹洞宗の僧侶のつもりで生きてきたので、統一教会に浸透される政治家がなおさら馬鹿馬鹿しく見えるのだろう。自民党なら勝共連合ダカラありうる話だが、立憲民主党や公明党までもやられていたという自体には、日本の政治の終末期を感じざる得ない。考えないように出もするほかない。

 
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文春note未来のために出来ること

2022-08-24 04:17:02 | 楽観農園


 文春を読んでいたら、未来のために出来ることと言うハシュタグがあった。それで今やっていることを書いてみた。私は自給農業を人類の未来の道だと考えている。私の確立してきた、自給のための技術を何とか形にして残そうと考えている。

 それは後水尾上皇が造営した修学院離宮を見たときに、天皇家の稲作技術で国を統治するという思想を庭園として凝縮したものだと、直感した。自分も自給農業の技術を形として残すことに、この後の時間を掛けてみようと考えた。いつかそれを必要とする人が居るはずだ。

 35歳からやってきたことは食糧自給の技術の確立だった。それは失われつつある、過去の農業技術だった。特に養鶏についてはすでに失われていたために、すべて試行錯誤だった。過去からの伝承があると言うことはとても重要だと思う。

 修学院離宮に立ったときに、日本という国の成り立ちを感じた。実に美しい農業の庭である。日本の里山農業は美しい生業である。自然の中に自分の暮らしを織り込んで行く。人間は美しく生きることが最高の生き様だろう。人に伝えなければならないと考えた。

 この暮らしであれば、人は何時までも自然と折り合いを付けて生きて行くことが出来る。しかも、一日1時間だけ食糧自給に費やせば良い。後は自由に自分の好きなことをやれる暮らしである。安心立命が出来る。その足下には自給農業がある。

 人は明日を生きるためには食べなければならない。一人の人間が自分の体力だけで、食料の自給自足出来るのか。その確認のために40年間生きてきたようなものだ。35歳の時に丹沢の山中の杉林で開墾生活を始めた。シャベル1本で食糧自給が達成できるかの挑戦を始めた。

 結果としては三年目にはほぼ食糧自給が可能になった。杉の人工林をのこぎりで伐採して、地面をスコップで平らにする。屋根や斜面の水をすべて集まるようにして、田んぼを作る。大雨の日に足でかき回して代掻きをして田んぼは完成した。畑の肥料と食料のために鶏を飼う自給生活を続けてきた。

 人間が生きるための食料を得るには100坪の土地があれば良い。一日2時間農作業をすれば良い。もし、一人での自給ではなく仲間との共同作業であれば、1日1時間働けば食糧自給は出来る。その実践が小田原でやっているあしがら農の会という仲間の協働の作業である。それが私40年になる自給生活の結論である。

 そして今石垣島崎枝で3.6ヘクタールの土地で、自給の生活の体験農場を作っている。実際に自分の身体を使って、耕作してみなければ何も始まらないからだ。ここでは水牛を使う伝統農業を行っている。天水田を作り、大豆畑、小麦畑、そして熱帯果樹園がある。

 人間が自然から離れたことで、人間ではなくなってきている。だから熱帯化も起こる。経済競争も限度を超える。そして世界で戦争は頻発する。にんげんは自然の中で生きれば、我慢しがたいことも我慢しなければならないと言うことが分かる。自然に従い、折り合いを付けて暮らすほかないと言うことを、身体が覚えることになる。

 のぼたん農園の稲作は「ひこばえ農法」である。スマトラ島で行われているものだ。日本では石垣島であれば可能だと考えている。2年で7回収穫できる稲作である。これであれば10坪の田んぼで年60㎏のお米は収穫できる。いつでも新米を食べるのだから、保存の心配もない。

 10の田んぼで並行して行うから、自然災害の危険分散も出来る。のぼたん農園の実践を世界中の人に体験してもらい。人間は競争しないでも、豊かに暮らすことができると言うことを知ってもらう。そして、平和な未来を作り出したいと考えている。

 のぼたん農園には100坪で自給できる田んぼと畑がある。10あって、10家族が自給体験が出来る。一つを何人かでやっているところもあれば、一人でやるところもある。まだ畑は出来ていない。畑はこれから整備して行くつもりだ。

 畑では協働で麦と大豆と、ジャガイモ、サツマイモ、里芋をやるつもりだ。お米と、麦と、大豆があれば、後は野菜である。それはそぞれぞれが好きな作物を作れば良いかと思っている。みんなで共同でやった方が良い作物は協働で、その他は個別に。

 水牛牧場がある。水牛はやっと柵が完成してその中に放してある。暑いのでほとんど木陰で寝ている。昼間外に出てくることはない。水牛も数は本当に減少している。口蹄疫があるから、きお付けないと行けない。それで分散して買う必要があり、のぼたん農園でも預かっている。

 代掻きを水牛がしてくれる。水牛が何度も代掻きをすると、水が漏れなくなる。水牛ならば、石油がなくなっても動くことが出来る。天水田を水が漏れない状態にするには水牛がいると、随分楽になる。水牛はとても性格が良くて、農作業をすると、どこか役に立てて良かったという顔になる。

 
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与那国島の稲作の過去と現在

2022-08-23 04:03:53 | 楽観農園
 


 昔の与那国島は稲作が出来る豊かな島と言われていた。島には明治25年の調査では220ヘクタールの田んぼがあった。それは11000人の人が暮らしていたと考えられる数字である。江戸時代にはさらに広い面積の田んぼがあったという記録もある。

 与那国島の稲作は東アジアの島嶼部の稲作の形を良く残した形態の物で、水を様々に利用している。特に川とか湧水から作る田んぼだけでなく、雨水だけを利用した天水田と呼ばれる田んぼは、与那国島固有のイネ作りになっていた。これはのぼたん農園の稲作に大いに参考になった田んぼ作りである。

 のぼたん農園の田んぼ作りには、与那国島出身で八重山農業高校の先生だった福仲先生が協力してくれて、与那国島の溜め池作りや、天水田のやり方を指導してくれたのだ。おかげで、何とか一〇枚の田んぼが出来たわけだ。これからも与那国島の伝統的稲作法を学ばなければならない。

 のぼたん農園も始めて8ヶ月が経過した。始めてのお米の収穫を終え、今ひこばえ農法の試験栽培をしているところだ。まだまだ成功したとは言えない。天水田も、ひこばえ農法もかなり難しいものだが、可能性は見えてきているというのが、現状判断である。

 幸運なことに、インドネシアのスマトラ島で行われていた、サリブ農法を日本に紹介した山岡先生の指導をいただけることになっので、展望はある。もし実現できれば、石垣島の稲作農業のために画期的な物になるはずだ。特に自給農業には書くに存在していなかったほど優れた方法と思われる。南の島は自給の島になるだろう。

 今のひこばえは10月頃刈り取ることになる。上手くゆかなかったとは言え、石垣島で一般に行われている2期作ぐらいの収穫はあるだろう。一期作の60%ぐらいか。昭和6年頃に蓬莱米が入るまでは、与那国島の収量は反収160キロぐらいの低水準だったらしい。

 蓬莱米が沖縄で作られるようになり、沖縄の稲作はまったく変わった。沖縄のイネ作りはすべてを台湾から学んだわけだ。蓬莱米は台湾で作出されたインディカ種とジャポニカ種の交配種である。今は完全に失われた品種である。台湾では今美味しくて熱帯気候で作れるお米が色々作出されている。台湾から学ばなければならない。

 このところ、与那国島の稲作のことを読んでいる。安渓遊地と言う方の書いた「農民のあゆみ」ー物的証拠と島びとの記憶力ー、が一つ。もう一つが「与那国島の水田立地と稲作技術」ー東南アジア島嶼部稲作との関連においてー田中耕司著である。

 どちらもネットからプリントアウトして4回読んでいる。かろうじて明治期までの稲作の記録をたどったものである。この時代にこういうものを作ってくれた人が居たから、かろうじて与那国島の稲作の様子が見えてくる。貴重な労作である。安里『考古学からみた琉球史 上』グスク時代 には二期作は行われていないが、ひこばえを収穫していたとある。

 繰返し確認しながら読んでいるので、紙媒体でなければ理解が出来ない。与那国島の稲作は極めて興味深い物がある。小さな島ではあるが、イネ作りに向いている、独特の地形の島なのだ。そこには稲作と結びついた、人間の暮らしが存在する。稲作をする物として、そのいちいちに頷けるところがある。

 イネ作りは水があると言うことが絶対条件であるが、与那国島は水は割合十分な島と言える。風が強い島にもかかわらず、風を遮る山があって、吹きさらしと言うことでもない。土壌もかなりの量あって、沖積土壌と思われる場所もあった。いわゆる沼田のようなところさえ存在する。

 与那国は江戸時代に最高の人口だったのではないだろうか。自給的生活では島の暮らしは日本中で悪くなく、人口は最大の島が多かった。今は1500人ぐらいの島だが、過去にはその十倍の人が暮らしていた時代があるといえるのだ。田んぼ面積がそれを示している。

 台湾に極めて近いと言うことがあって、稲作の農法が東アジアの島嶼部との関連が深い。石垣島の稲作法が本島から南下してきた技術の影響が大きいとしても、与那国島は台湾の影響が強い。その稲作法はのぼたん農園の伝統農法には参考になるところがある。

 与那国島では「ひこばえ農法」が過去存在したことが想像できる。沖縄の気功であれば、当然のことだ考えることが出来る。興味深いのは田植えが12月頃に行われて、6月に終わるようにしていたことだ。少ない水を最大限に利用するためである。

 台風を避け、台風の雨を利用することが出来る栽培期間である。刈り取り語に雨が予想される。その雨で田んぼの代掻きを続けて、田んぼの湛水状態を改善して行く。牛を5頭並べて踏み固めた牛耕である。

 のぼたん農園の条件を考えると、この方法を生かして一年の計画を立てることが有効だと思う。10月にひこばえの刈り入れを行う。ここから田んぼの代掻きに入る。水を確保しては代掻きを繰り返す。水が十分に溜まるように、畦塗りをしながら、一番から何度も代掻きを繰り返して行く必要があるだろう。

 雨が降るときに合せて、トラックターで代掻きを繰り返す。昔の与那国島では牛に何十回も踏ませたという。この代掻きは何度やってもいいと考えている。ともかく水を溜めると言うことが重要である。畦塗りも何度も行い。水が少しも漏れないように、10番田んぼまで回わせるようにする。

 10月にひこばえの稲刈りが終わり次第、代掻きを始めて、十二分に行う。すべての田んぼの代掻きが徹底して行われて、水が溜まるようになるまで行う。一つの田んぼが10回ぐらい代掻きが行われて、畦塗りが厚く徹底して行われる必要がある。

 11月には直播きの田んぼを開始する。直播きの際に水の抜き方を計算して行う。上の田んぼから種を蒔いて行く。蒔き終わって次の田んぼの水を抜き、線を引き、すぐに種を蒔く。下へ下へと種まきを行い。芽が出た田んぼから水を戻す。

 出来れば短期間ですべての田んぼに種を蒔き、水を戻すことが必要になる。すくなくとも10の田んぼを、11月中にすべて直播きが終わるように進める必要がある。線を引いた田んぼの、マスの中央に3粒の種を蒔く。

 種は1週間溜め池に漬けて、発芽させた物を直播きする。田んぼには黒のテグスを張り巡らせる。種を鳥に食べられないために行う。この黒糸はひこばえが実ったときに張り巡らせる。

 5月には稲刈りと言うことになる。稲刈りは少し稲が青い内に行い。ひこばえ農法につなげる。ひこばえの稲刈りは9月頃になる。これをさらにひこばえで進めるか、ここで代掻きをするかは状況次第になるだろう。

 のぼたん農園ではこれから1,「ひこばえ農法」を完成させる。2,水草緑肥をすすめて、抑草効果を期待する。3,光合成細菌の培養を行う。肥料の自給が可能になれば、石垣島のイネ作りは残ることが出来るかも知れない。その技術をなんとしても確立することが、のぼたん農園の冒険の目的地である。
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石垣生活の現状と変化

2022-08-22 04:30:43 | 暮らし


 73歳になった。石垣島に移住してきて、4年が経過したことになる。少し、今の暮らしの状態を記録して再確認する必要がある。いつの間にか暮らしのパターンが少しづつ変化をしてきているようだ。どういう理由で変化が起きてきているのか、よく分からないが、73歳になるに当たっての生活状態の人間ドックである。

 まず体重は54キロだ。変わらないようにしている。オムロンの体組成計によると、体年齢が42歳。体脂肪率は19。内臓脂肪は4。これらの数字はこの数年この前後である。身体は大きく衰えたと言うことはないと考えている。頭と眼のほうは、先日の高齢者運転はクリアーできた。

 これからが大切な日々である。いままで生きてきた72年間が意味ある時間になるか成らないかは、これから生きる28年にかかっている。成果を残せるかと言うことではない。これが笹村出の生きると言うことであったという、自分の納得に至れるかである。

 今やっていることに至るために、今まで生きてきた気がしている。100歳まで生きるつもりで、今の一日のことを考えている。だから100歳まで生きれないと、中途半端になるが、それは受け入れるほかない。生と死を明らかにして、諦めて受け入れることが、仏教者の目的であると道元禅師は言われている。

 朝起きるのは4時と言うことにしている。と言っても最近は夜中に目が覚めてしまうことが多くて、寝床の中で、YouTubeを見ている。起きるよりはましだと思って我慢している。杭打ち法とか、井戸の堀方。ハンマーモアーノ使い方。水槽の水の浄化方法。と言うようなものを検索してみている。大抵4時の起床時間まで見ている。良いとは思わないのだが、仕方がないという感じだ。

 ユーチューブ杭打ち法は参考になった。よく見る井戸掘りも試みてみたい気になる。田んぼの水が足りないのを補いたい。特に8番以降の田んぼには井戸があればと思う。水が行かなくなったときに井戸から汲み上げることが出来れば安心である。しかし、沢山見ている内にのぼたん農園では無理だと思えた。

 井戸掘りを勉強することは自給生活のための価値がある。水が出ない覚悟をした上で、井戸掘り技術の研究だと思ってやってみたいと見ていたのだが、充分見ている内に、ユンボで作る田溜め池の方が現実的かも知れない。などと寝床の中で妄想している。

 ときは三時頃からブログを書いていることもある。できるだけ4時からブログは1時間と言うことにしてきたのだが、今は6時までは書いているのだから、3時間も書いていることもある。少なくとも以前のように1時間では書けなくなっている。

 頭が以前より早くは動かなくなったのかも知れない。身体も昔より動きが悪くなっているのだから、当然頭も錆びたところがある可能性は大だ。確実にもの覚えが悪くなっている。耳は遠くなる。眼はしょぼつく。錆びてはいるが、ブログを書くのは1時間半ぐらいでは終わらせたいと今も書いている。

 コーヒーを入れながらブログは書いている。コーヒーは美味しい。モカを南西コーヒーで焙煎してもらって買っている。だいたい1キロを1ヶ月弱ぐらいで飲んでいる。一日33グラムで、これで美味しいのは4杯ちょっと。3杯は飲む。このくらいがコーヒーの健康量だと考えている。

 コーヒーでだんだん目が覚めて、書き直しになったりする。日によっては2本書いてしまうこともあるが、全く書けない日もある。しかし絵は描けないと言うことはない。始めれば何かしら描き続けている。絵を描くこととブログを書くのは使う頭が違う。絵は行き詰まることも無いとは言えないが、ブログのようなつまり方はしない。

 ブログは惚け防止と言うより、ボケ確認だ。おかしくなれば文章という物はおかしくなるはずだ。ボケているのに文章は明瞭と言うことは少ないだろう。絵の法は少々ボケても分からないはずだ。絵はボケて良くなると言う可能性もある。

 玉那覇酒造所の玉の露古酒を100ccをほぼ毎日飲む。体重54.5キロ以下の日は飲める。飲まなければ必ず体重は下がる。泡盛を飲んで一度頭の緊張を解く。忘れたいことがある。忘れられないことがある。100ccでご破算になるのだからたいしたことはないのだ。

 昼間は9時から4時まではだいたいのぼたん農園にいる。最近は暑すぎることと、日光アレルギーですぐ蕁麻疹が出るので、作業はたいして出来ないが、のぼたん農園にいる。この景色の中にいて、絵を描いている。それだけで良いと思っている。

 描いた絵は日曜展示で公開している。公開すると言うことに意味があると考えている。石垣島にいるので絵の仲間とは会うことも出来ない。そうすると絵の頭が偏屈になりかねない。世間に一応は公表しているという意識は意味がある。絵のブログの形は私にはとても良い。

 この絵は誰がどう使おうと構わないものである。その絵が見る人に重要なものであり、欲しいという人が居れば差し上げても良いと考えて展示している。123週経ったと言うことだ。一日一枚描いているので、絵の数は、861前後になるはずだ。成っていないのでおかしいと思って調べたら、なんと連番が20数枚重複していた。

 絵はいつかすべてを整理し直す必要があると考えている。すべてをできるだけ丁寧に写真を撮り、CDロムに残すつもりだ。当面80歳ぐらいの目標にしておけば良いだろう。絵を保存しておくと言うことは大変なことだが、骨壺の中に記録を残して置くぐらいで丁度良いと考えている。

 その画像はホームページで公開しておくのが良い。ホームページはいつまで残るのかは知らないが、少なくとも死んでも年1万円くらいの費用を払う仕組みを残せば、記録は残って行くのだろう。1000万円で10世紀である。どこかで誰かの参考になるかも知れない。

 有り難いことに何十円程度の小さな手に収まるような物に、すべての絵が記録できる。意味があるとも思えないが、そうすれば絵を残さなければならないと考える人が居たとしてもその人の負担にならないと思うのだ。死んだ絵描きのご遺族がそういう負担を抱えている事例を沢山見た。美術館の地下には寄贈作品が山ほどある。まあ私の場合そういう心配もいらないとは思うが。

 これから絵は始まるつもりで居る。石垣島に来てからの方が、絵はいくらかは増しになってきたと見えている。普通は60過ぎたら下り坂である。少なくとも今のところ下り坂には見えない。日曜展示を見て、おかしいぞと感じられたら率直に教えてもらいたい。

 叔父の彫刻の草家人が言っていたのだが、「作家はおおよそが40過ぎて作品はだめになる。その後現状維持できればすごい努力家だ。良くなるのは天才だけだ。自分は現状は維持できた。」20代の猪狩史山像(日本学園)と晩年の明治天皇像(明治神宮)を競べてそう言っていた。

 のぼたん農園に行き絵を描く。この暮らしをできる限り長く続けたい。のぼたん農園の完成は後4年4ヶ月だ。後9年4ヶ月は農地を使うことが出来る。その後も使わせて貰えるなら、生きている間はそういう暮らしをしたいと思っている。
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第123 回 水彩画 日曜展示

2022-08-21 04:57:54 | 水彩画
第123 回 水彩画 日曜展示

10号前後の作品






827「三津浜富士」
2022.8






828「春の岬」
2022.8






829「花瓶の白花」
2022.8







830「海辺の村」
2022.8







831「木陰」
2022.8





832「海辺の村」
2022.8






833「夏の岬」
2022.8






834「夜の海」
2022.8








835「暁光」
2022.8






836「明るい道」
2022.8


 ほぼ、毎日絵を描いている。一日一枚である。123回目なら、861枚描いたはずだ。ところが836である。おかしいと思い、調べてみたら、大分連番号が間違っていた。重複していた。いつもこういうデタラメである。だから、124回目の展示は862から連番を作り直した方が良いかもしれない。

 少し描きたいように描いているように見える。絵を描いている。見ているものを写しているわけではない。記憶の中にある世界を絵にしている。記憶の世界を今目の前にある世界を通してみている。

 いわゆる絵を描くと言うことは良くない。しかし世界を写すというのはもっと悪い。自分の世界が無意識の中から出現するのを手助けするというようなものかも知れない。動禅の心境で絵をく事を今は心掛けている。
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73歳を考える

2022-08-20 04:19:14 | 身辺雑記


 73歳になったと言うことが、何か信じがたいことのようだが、間違いのないことだ。自分が歳をとったと言うことが自覚できないまま生きている。ボケては居ないつもりだが、絵を描いているとついつい時間を忘れて、あの頃と何も変わらない気で生きている。

 あの頃というのは金沢に居た頃のことだ。あの馬小屋で寝て、目が覚めたら、石垣島にいるという感じだ。今年は9月に美術部の同窓会がある。同窓会が出来る状態とも思えないが、今やらないとどうも参加メンバーの減少が始まっているらしい。同窓会がなくても水彩人が終わってから、金沢行ってみたくなった。金沢で絵を描くのもいい。

 本当なら今頃アトリエカーで写生旅行をしているはずだった。それが、コロナで難しくなった。アトリエカー旅行をためらっている内に、のぼたん農園の大冒険に出発してしまった。このままでは何時アトリエカーの写生旅行に行けるのかが分からない。のぼたん農園の農閑期はいつ来ることか。

 体力はまだ落ちていない。農作業を1日してもそれほど疲れたと言うことでもない。もちろん昔のように、真まで疲れてしまうような過酷な作業はしていない。ゆっくりやれば何とかまだ働ける。これから始まる73歳からの一年は今までとは違う一年と成るわけだ。

 徐々に体力が衰えるのかも知れない。それでものぼたん農園が出来上がるまであと4年半は身体が使えないと困る。77歳まで大丈夫かどうかはまだ分からないが、幸い今のところ身体は何も問題が無い。結構80歳代でも働いている農家の方は居るから、今の調子なら大丈夫だと思っている。

 健康維持の為には毎朝の動禅体操だけは欠かせない。最近動禅体操は時間の合図でやっている。タイコが六分置きになるアプリがある。「hinokoto」というアプリだ。このアプリの御陰で数を数えないで動禅が出来るようになった。以前は背伸び立禅を300まで数えていたのだが、これがいくつまで数えていたかすぐ分からなくなってしまうのだ。

 そこで、300を六分ということにした。まず、最初に「スワイショウ」六分でだいたい100往復。スワイショウももう少ししても良いのだが、今は準備体操としてやっている。前はイーチと往復しながら数を数えたのだが、それがなくなってスワイショウに集中できるようになった。

 スワイショウは今に伝わる最も古い体操らしきものらしい。何千年もの間、人から人へと伝わり、この体操は残った。確かに身体を回す運動というのは、単純な動きでありながら、精神を酩酊させる目の回る効果があり、宗教の中にも取り入れられている。トルコのメヴラーナ教団の回転ダンスであるセマーはひたすら回り続ける。

  インドのヨガの中から生まれたと想像している。今でもヨガの流派によってはやはりスワイショウから始める。それが達磨大師によって、禅の哲学と共に中国に伝えられる。達磨は1500年前にスワイショウのことを記録しているという。達磨とは別に中国にそもそもあったと言う説もあるようだが、座禅という修行法が達磨大師によって中国に伝えられたとすれば、スワイショウも同じと考えるべきだろう。

 ただ達磨大師が伝説的な存在であるとしても、大きな流れがあってインドから中国に伝わった仏教の流れに従い、ヨガの行のようなものが渾然となって入ったと考えることは無理がない。それが老荘思想と総合化されながら、仏教の修行に整理されていったのではないかと思われる。

 話がそれて行くが、空海は804年に、遣唐使として渡った長安で真言密教第七祖・恵果大師に師事し、一年数ヶ月で密教の奥義をすべて伝授される。何千人といた東アジア全域から集まった僧の中で空海が選ばれてすべてを伝授される。

 死を予感した恵果大師は空海に急ぐように伝授を行いその直後亡くなられた。恵果大師から学んだ経典はサンスクリット語である。そもそも密教はインドから伝えられた教えなのだ。多くのインド僧が長安で仏教の修行を広めていた。その中に禅の修行があり、座禅だけでなくヨガの影響にある動禅も存在していたと考えて良いのだろう。

 禅は哲学的には中国化してゆくが、その修行法の中にスワイショウや八段錦、太極拳を生み出してゆく。そのすべてが動禅と考えていいのではないか。動きもインド的なヨガとは離れて、少林寺に代表される武術として変化してゆく。

 少林寺拳法や太極拳である。何故、平和の教えである仏教が武術と混合したのかが不思議である。そこが中国文化の特徴なのだろうか。仙人思想のようなものがあり、身体の鍛練に収斂して行く。超人思想のようなものかも知れない。ヨガの持つ平和思想が一歩違うと、オウム真理教になる。

 閑話休題。八段錦はタイコ2つの12分。そしてその最後の8段の爪先立ち背伸び禅をタイコ3つの18分。太極拳もタイコ2つで12分。すると太鼓8つの48分で一通りの動禅が終わる。その後、立禅を落ち着くまで行い終わる。おおよそ50分前後である。この一通りの体操を行として行う。

 太鼓の合図で動きは数を数えることから離れ自然に行うことが出来るようになった。その間に太鼓が適時に鳴るという感じだ。数を数えるという事から離れて、心の置き所が自由になった。禅の心境がわずかに感じられるようになったのかも知れない。

 動禅の心境は絵を描くときの心境を育てる。絵を描くときは忘我的な心境である。絵を描くことにとらわれているから無我夢中である。しかしこれは禅の言うところの空の心境とは似て非なるもののようだ。何もない空の心境は、心が満ちて、何にもとらわれない張り詰めた心境である。

 動禅をしながら、数秒間ぐらいなのだが、こういうものかも知れないと感じるときがある。大分ボケてきたのかとも思うが、ボーとしているようで、意識の集中がある。しかも数を数えるとか、脚の痛さに集中するのではなく、空に集中するというような不思議な感触がある。

 絵を描くことにとらわれないで絵と一体になって絵を描く。こういう心境で絵を描きたい。73歳の課題だ。あと二七年間の一日一日を大切に生きたい。どうも若い頃はどうしてもたどり着けなかった心境に、73歳になりたどり着けそうな気になっている。

 動禅の御陰なのか、のぼたん農園の冒険の御陰なのか、それとも絵を描いている御陰なのか。いまの石垣島の暮らし至る事ができたことを有り難いことだと感謝している。最後には石垣島で暮らしてみようという判断は間違いではなかったようだ。73歳のこの一年を大切に生きよう。
 
 
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自然に接して暮らすこと

2022-08-19 04:13:08 | 暮らし


 人間がここまでダメになったのは、自然への関わりが無くなってきたからだ。日本では自然災害が頻発している。縄文時代も今も変わらず自然災害が起きていたのだろう。それでも、今ほど災害が起き続けると感じながら暮らしていることはなかっただろう。

 理由は情報化社会と都市化した社会で暮らしているからだ。人間は都市の中で暮らしていると人間性が生長することがない。都市に於いて唯一存在する自然は人間である。それ故に人間との関わりを減少させると、その時から人間は感覚を硬直化させ、成長をしなくなる。

 自然を遠ざけた都市の中で暮らしている人間性の極めて乏しい人達が今の日本を作っている。例えばテレビを作り出している忙しい人達は、時代を作り出しているような意識でいることだろう。ところがこうした大半の人達は自然から切り離されたことで、人間性は頭で作り出した見せかけだけで、実は枯れている。

 人間性を失った人達が作る幻想社会が今では、社会として認識されているのだろう。それは報道の人達、企業の人達、政治に関わる人達、官僚の人達、すべてに言えることと考えるほか無い。そういう日本の空気を作り出している人達が、自然の中で暮らしている人であれば、こんなおかしな社会にはならないと思う。

 自然は人間の手ではどうにも成らない物だと言うことがすぐに分かるからだ。「自然は従い、その摂理を知り、折り合いを付けて暮らす。」ものなのだ。天水田をやっていれば、すべては自然現象に従う以外にないことが分かる。雨を降らすことは出来ないのだ。

 本来人間が生きて行くと言うことは、どうにもなら成らない中で、繰返し痛めつけられながらも、切り抜けて行くことが暮らすと言うことなのだ。35歳から、自給のための開墾生活に入り、いやというほどそのことを思い知らされてきた。

 明日からの食料になるはずの田んぼが、ある日青天の霹靂でイノシシによって全滅にさせられる。それでも食料を手当てして何とか生きなければならない。これが自然の中で暮らすという現実である。何も確約されたことはない。

 あらゆる困難を想定しながら、生き抜ける道を編み出すほかないのだ。そのことから、生きるという意味がだんだんに見えてくる。自然と関わりながら人間になるのだと思う。どうにもならないと言うことを受け入れることで、人間になるのだと思う。

 学校教育に作務を入れるべきだと考えている。身体で覚えるという必要がある。特に、水田の授業はいい。種を蒔き、自分が食べるものを育てる。採れたものを自ら調理してたべる。この自給の体験を通して、自然によって人間が教育されるはずだ。

 日本人がここまで劣化したにもかかわらず、世界中の都会に暮らす人々が、ここまで劣化したにもかかわらず、人間はより自然から離れようとしている。自然に戻る以外に人間に戻る方法はない。のぼたん農園で自給体験をしてみれば、そのことは誰にでも分かるはずだ。

 熱中症になるから、冷房を付けなさいと政府は忠告を流している。もう自然の中では人間は暮らせませんと言うことなのだろう。人間がひ弱になり、寿命は延びた。冷房がなければ暮らせないような年寄は、100年前であれば死んでいたのだ。

 虚弱な子供達だけになり。自力では生きられない老人が増加する。この弱まった社会を、自然とは切り離された、人間性の乏しい人達がかろうじて動かしている。当然感染症は今後も繰返し起こるだろうし、消毒社会になり、人間の免疫力は失われる。

 ロシアが侵略戦争を起こしている。力によって現状を変えられると考える人が、社会のリーダーの大半なのだ。中国は力で台湾を中国にしようとしている。日本は仮想敵国中匹敵匹敵する武力を持たなければならないとあがいている。

 このまま進めば世界は終わりになる。ただ一つ人間が生き延びる道は自然に帰ることだ。自然の摂理と言うことを考えれば、今人間が行っている自然から離れた暮らしが、やがて滅亡に繋がるに違いない、何の意味もない生き方であることが分かるはずだ。

 日本の高度成長を支えたのは、農村から都会に出た人達だった。政治家だって同じだ。子供の頃には百姓仕事を無理矢理やらされた人達が、人間として成長し、日本を支えたのだ。安倍さんの後の総理大臣の菅さんはそんな人かも知れないと思えた。

 ところが日本から農村が失われつつある。都会に出るような人間は、菅さんのように頑張って夜学に通うような人間は、農村社会にいたとしても自然から切り離された暮らしをしたのだろう。弱者に自助を語るような冷たい人間になっていた。苦労が悪い方に作用した自然から切り離された人だった。

 人間は自然に戻ることだ。難しいことではない。美しい海をボーと見ていられる人間にもどれば良い。自然という物を感じ取れる感性を育てることだ。田んぼで稲を育てられる人間になることだ。そうすれば自然がどれほどすさまじい物で、人間はそれを変えることなど出来ないと言う事が分かる。

 変えられないから、旨く従う道を探る方法が身につく。自然と折り合いを付けることしかないと言うことが分かる。どうしようもないことばかりだと言うことを知る。諦めると言うことを学ぶ。その究極が死ぬと言うことを認めると言うことになる。

 どうせ人間は死ぬのである。それを自分の中で明らかにして、受け入れる。そこから今日一日の暮らし方がみえてくる。ただ海を眺めていることの大切さが分かる。どれだけ深く感じて生きることが出来るかである。都会に暮らす人間には、この大切な物が育たない。

 たぶん自分で作った世界で一番美しい田んぼを見ている。この愉快は格別である。田んぼの向こうには草原が広がり、海に続いている。群青色の海には竹富島が平らにある。その先は空である。これが世界だと言うことが分かる。ここで自給自足で暮らすこと以上のことがないと感じられる。

 汗水流しながら、この自給体験をすれば、何が大切なのかが分かるはずだ。仲良く争わず、助け合って生きて行く以上のことは何もないことが分かる。自分が食べるものが作れれば、それでいいと言うことを身体が感じる。若い人達二是非ともそういう体験をして貰いたい。

 
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岸田内閣は統一協会に引き釣り込まれる。

2022-08-18 03:55:12 | Peace Cafe


 岸田氏は内閣改造を行った。統一教会と関係した議員を自民党内で調べて、内閣から排除しようと言うことが主たる目的と思われる。ところが改造された内閣に統一教会と関係した議員が7人も再度入閣していたことが確認された。統一教会の自民党への浸透はすさまじい物がある。

 自民党の200名の国会議員が関わっていると言われてきたが、維新などの議員を加えれば、日本の議員への影響は驚くべき状態であった。統一教会は本来であれば、霊感商法で有罪になったときに、活動を停止すべき組織であった。

 それが何故か活動は継続された。その理由は政治家との関係の強さから、生き残ったと想像される。本来オウムと同様に監視を続ける危うい組織としなければ成らなかった。統一教会は日本から金を搾り上げる反日の韓国の組織である。何故そんな組織と自民党は深く結びついたのだろうか。

 少なくとも政治家が関係するなど論外であろう。資金集め活動を停止し出来なかったのは、自民党と深い繋がりがあったからだろう。その資金は韓国に流れて行くのと同時に、日本の政治家に流れていたのだ。アベ長期政権の時代にその頂点に達した。

 その繋がりは岸信介時代に始まり、安倍家は深い関わりを続けてきた。そして、安倍家の公には出来ない弱みを握られているのではないかと思われる。だから、今になってまで、安倍晋三氏はビデオメッセージを送らざる得なかった気がする。

 アベ政治は暗闇からの影響が絶対の政権だった。今もその日本の暗闇が安倍を国葬にしろという力になって、岸田内閣に圧力がかかったのだ。その暗闇は統一教会もある。創価学会もある。靖国勢力もある。極右団体もある。財界からもある。日本を暗闇から支配している、有象無象の集積なのだろう。

 だから、安倍氏は死んだ人に申し訳ないとは思うが、木偶人形として、口パクされる人形として総理大臣になったのだと思う。安倍氏自身はごく普通の人だ。安倍氏の能力は暗闇の言うことをそのまま言えるという所にあったのだろう。だから、総理大臣を辞めてからも、安倍氏を通して日本の政治を支配しようという暗い力が働いた。
 
 自民党は明治時代のような家父長制度的家族主義を日本国憲法に持ち込もうとしている。それは韓国流の家父長制度が根にあるのかも知れない。統一教会にある家族主義である。それを受け入れたのが自民党憲法草案である。統一教会は韓国のカルト組織にもかかわらず、そこまで日本の政治に影響を与えられたのだ。

 韓国は儒教の影響が強く、日本よりさらに家族主義の国だ。統一教会の合同結婚式はまさにそれが表された物なのだ。韓国には日本時代に作られた戸籍制度が最近まで残っていた。結婚するときは、夫婦は別姓ではあるが、戸籍は男性の側に入籍する。

 戸主は夫であり、その横に別姓の妻、子どもたちは自動的に夫の姓となった。 別姓が認められているが、夫の姓名を名乗ることさえ出来ないと言う差別のある社会だ。そのおかしな家族主義を日本にも持ち込もうと統一協会はしてきたのだろう。

 日本で霊感商法で儲けたお金を韓国本部の大きな霊廟の建設に充てているのだ。まったく韓国のために日本の政治家は協力させられている構図だ。一体従軍慰安婦や徴用工問題はどこに行ったのだ。それどころで無いお金が韓国に奉納されてきた。そのおこぼれを自民党の政治家はもらって、協力しているのだ。

 その先頭に立つのが看板の安倍氏なのだ。こんな国辱行為を続けていた安倍氏を国葬にしてはならない。国葬どころか韓国にお金を貢いだ片棒を担ぎ、日本に泥を塗った人間だ。暗殺されなければ、ここまで明るみには出なかっただろう。日本の黒幕達の何とも怖い姿が見えてくる。

 現憲法がアメリカの影響下に作られたから、独自憲法を作りたいとしながら、なんと今度の憲法は韓国の影響下に作ろうというのか。これほど情けない自民党憲法なのか。韓国のカルト組織に指導を受けなければ、自民党は憲法草案も作れないのか。一体統一教会との腐れ縁はどこまで続くのか。

 日本では憲法改定をして、まさかの合同結婚式が始まるのではなかろうか。それは冗談にしても、家長制度の復活を自民党憲法草案では示している。韓国のおかしな家族社会を模範にして、日本は従おうというのか。とんでもない恥だ。この恥を自民党はどうしてくれるのだ。

 そんな統一教会と持ちつ持たれつの人間を、いくら暗殺されたからと言って、国葬にしてはならない。日本の恥になる。世界での面汚しになる。韓国に笑われることになる。国葬にすれば、岸田内閣の評判は下がり続けるだろう。それでも闇の圧力は岸田氏の変更を許さない。

 もちろん憲法改正どころではなくなる。これほど霊感商法の統一教会が自民党に食い込んでいたことが分かった以上、すべてがやり直しだ。岸田氏が新しい資本主義を手を付けたいなら、まず反省して国葬を止めることだ。安倍氏の国葬を喜ぶのは韓国人ぐらいのものだ。カルト集団にビデオメッセージを送った人を国葬にした日本ということで、世界に恥をさらすのだ。トランプも同類ではあるが。

 しかし、国葬の撤回が出来ないだろう。想像以上に自民党は様々なくらいしがらみの中でしか動けなくなっているのだ。選挙で政党が交代しなくてはならないというのはそこに理由がある。アメリカでは旨く民主党と共和党の交代が機能している。トランプも一応は選挙で落選した。一人の人間として検察の調査が入っている。

 アベ政権の利権構造も、検察は調査しなければならない。昭恵夫人の勤めていたという電通とオリンピック利権など、どう考えても怪しい。コロナでも様々な利権構造が言われている。こうした既得権組織が暗闇圧力と成って利権に絡んで、日本を動かしている。

 すべては政権交代の起きない選挙制度によって、培われた官僚社会のしがらみ。日本人の長いものには巻かれろ的な体質から来ている。何時になったらったら、一人の人間として自立して、自分で判断できる日本人になるのだろうか。

 一つの政党が長く権力の座にいると、必ず腐る。悪奴ほど長くなる。プーチンも、習近平も、そして安倍政権も長すぎた。長かったアベ内閣は根底から腐った。悪い関係が溜まって行く。統一教会まで息を吹き返して自民党議員達とつるんでいた。

 この統一境界問題を岸田政権は自ら正すことが出来そうにない。やはり、政府に問題があるときには、反対党に政権が移るような政治体制でなければ、日本の政治はまともな物にならない。小選挙区制という選挙制度が悪すぎるのだ。
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ひこばえ農法の二ヶ月経過の観察結果

2022-08-17 05:02:38 | 楽観農園


 ひこばえ農法は出発点で間違っていたと、昨日書いたわけだが、間違っていたとしても、今の状態はよく観察しておく必要があると考えて、改めて観察をしてみた。田んぼごとに状態が異なり、やはり興味深い物がある。次の成功のためになるだろう。

 0番田んぼ、トヨメキ6月18日稲刈 をした。8週間が経過。初期段階で水は入れ続けていた。三週間目に株を切り戻し、その後は水は入れないで管理にしている。すでにほとんどの株が穂を付けてきている。これでは上手く行かない感じだ。無効分ゲツが成長して弱い穂になった状態。

 0番の様子を見ると、稲刈り前後から一ヶ月のあいだに水があると、ひこばえにはすぐ穂が付いてしまい、充分な実のりにはならないようだ。ひこばえは肥料不足ではすぐ穂を付けてしまうと言うこともあるように見える。この田んぼは溜め池に来年はするつもりのために、収穫までは栽培しない予定。このままの状態で良いかと思っている。


 1番田んぼ ハルミ 6月18日稲刈り。八週間経過。
稲刈り後3週間経過した時に刈り戻し。やはり、その後は水を入れている。やはり穂を付ける株がほとんどで弱いまま穂揃いになった。ハルミは温度が高くなると穂を付ける性質があるらしい。

 ハルミはひこばえ農法に向いていないと考えて良いのではないか。小さな穂がすぐ付くことがひこばえ農法の1番の問題点だ。これは切り株から出た芽はすぐに幼穂形成期に入ってしまう。一度穂を付ける体質になった稲はどう刈り戻しても、幼保形成期から始まると言うことなのか。

 この田んぼの半分は9月から、漢方薬を作るつもりだ。そのためもあり、特に収穫までは期待していない。

 2番田んぼ。稲刈り7月3日 六週間経過。
7月10日刈り戻し。水は徐々に戻して現在は溜まっている。刈り戻しを低くして行った。水は常にあった。現在は比較的良いかも知れない。水が浅かった。

 浅かった場所は良さそうだ。やはり水を切ることで、用法形成が遅れると言うことはあるのかも知れない。刈り戻しも幼保形成を送らせると言うことかもしれない。肥料分の少なかった場所に穂が早くで始めている。稲は弱い株ほど中途半端な状態で、穂を付けてしまう。

 石垣のように年中気温の高い場所ではそうしたことがより顕著なのかも知れない。

 3番田んぼ 稲刈り7月3日 六週間経過。
7月10日刈り戻し.水は徐々に戻って来たが、この田んぼはかなり水はないままに推移した。水は確かにほとんどなくてもひこばえには問題が無く出てくる、成長もする。これでしっかりした苗になるなら、1番であるが。

 刈り戻しを浅くしたことは少しだけ幸いしているかも知れない。しかしここも出穂をすでに始めている。

 4番田んぼ 稲刈り7月9日 6週経過。
7月17日に刈り戻し。水はわずかに残るぐらいしている。現在も湿気てはいるが、水が入っているというほどではない湿潤状態。もう少しこのまま様子を見たいと考えている。

 水が多いすぐ穂が出る。と言ってもすでに幼穂形成期になっているとすれば今更どちらでも同じことではある。まだどうすればすぐに幼保形成期に入らないで済ませるかが不明。サリブ農法では早めに稲刈りをする必要があると書かれているが、稲の生理として、どういう意味なのだろうか。

 5番田んぼ 稲刈り7月24日 3週経過。
刈り戻しなし。水は湿り気程度。雨がたまに降るので、わずかに湿り気は継続。土壌は湿潤状態。一部稲刈りの時にも乾いていなかった当たりにはちらほら、穂がみえる。このまま乾かして管理したいと思う。

 しかし乾きすぎた場所では稲が生育できなくなっている。土壌の湿潤状態を保つと言うことは難しい。

 7番田んぼ。ヒトメボレ 稲刈り7月18日。四週間経過。
すぐ刈り戻した。7月10日から水を切り始めて、現在浅く水を入れ始めているが、半分までしか水はまわらない。このまま様子を見たいと考えている。水がある部分とない部分で分かれているので、水の問題は観察できる。

結局の所、ヒトメボレは水があろうが、水がなかろうがひこばえはすぐに幼保形成期に入っている。水がないところも穂が付いてしまった。つまりヒトメボレも、ひこばえ農法には向いていないと言うことが見えてきた。

 今はこの穂が出た株をもう一度早めに稲刈りをしてみて、早いよう穂形成期にならないかどうかを観察してみたい。

 8番田んぼ マンゲツモチ 稲刈りが7月11日 4週と2日経過。

 刈り戻しが一週間後の18日 水は現状8番までは行かないので、まったく切ったままである。かなり乾燥気味である。生育も悪い。マンゲツモチも品種として石垣島には向いていない。石垣に向いていない品種はひこばえ農法にも使えない。

 現時点で行ったことは、稲刈り前一週間には肥料を追肥をする。そして、稲刈り後4週目に最初の追肥。土壌は肥料が充分にある状態ないとならない豊井ひこばえは出ない。

 そして水は早めに乾かさないとすぐ幼穂が形成されてしまう。この点はまだ不確かではあるが、その可能性はある。この時点で土壌は湿り気のある豊かな物である事は必要。

 土壌は水はないが、濡れているという状態が目標。稲刈りはできる限り地際で行う。一節目の下で、刈り込むことで出てくる新しい芽が無効分ゲツのような弱い芽ではなく成る可能性が高いようである。これもあくまで可能性の範囲で確認は出来ていない。

 稲刈り時に短く出来ないのであれば、刈払機で再度刈り込む必要が生じる。この再度刈り込むという意味がまだ十分には理解できない。

 ひこばえ農法に向いている品種がある。どうもジャポニカとインディカ種の交配した品種が可能性が高いように見える。「とよめき」はそういう品種である。その意味では台湾で作出された。インディカとコシヒカリの交配種は可能性があるのかも知れない。
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