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自然の価値とは何を意味するか

2024-09-13 04:29:04 | 環境関連


 小田原の家のグリーンカーテン。こんなに美しいカーテンはみたことがない。沖縄の瓜だそうだ。もう食べることが出来るからと言われたのだが、あまりに美しいので、食べる気になれなかった。これこそ自然に接した暮らしである。部屋の中の暑さも、確かに軽減されている。

 人間は自然と接することで癒され、回復する。そんな当たり前の暮らしが一番大切なのだと思う。それを思うと都会は人間の暮らす場所ではもうないのだと思う。経済効率を強く求める都会で自然を求めることは、すでに不可能な時代なのだと思う。田園に帰れ。ということではないか。

 自然にはそうした人間という生き物を、包み込むような力がある。たぶん神宮の森を守れというのも、そういう人間の自然に対する懐かしい感情に基づいているのだと思う。私はこの反対運動で目立っていた坂本龍一さんが、長くニューヨークで暮らしていた人ということに、なにか違和感があった。

 自然環境の価値を問題にするとき大切なことは、当事者の意識だと思うからだ。例えば、故郷の里地里山を守ろうという活動は、たくさんあるのだと思う。その時に、都会暮らしの人が、疲れたときに、故郷に戻り癒されたいから、故郷の野山を昔のままに、残してほしいという思いはあるだろう。

 その田舎の村に暮らしている人の村の暮らしを守りたいという思いは、都会暮らしの人の思いとは似て非なるものだと思う。ここでも田園に帰れ。と言いたい。都市崩壊の論理である。都会というものが人間の暮らしをすでに壊しているのだ。これを根本から変えない限り、人間は異常をきたす。すでに人間が崩れ始めている。

 さらに言えば、地球環境を守るために、ブラジルの森を守らなければならないという主張は正しいものだとしても、その正しさはあくまで外部的な意見ということになる。海洋汚染を守ろうというようなことになれば、当事者がどこにもいないということにもなる。

 環境経済学というものがある。環境を経済的な価値で見て環境を経済の観点から価値を算出して守るという考え方のようだ。外国から来た学問なのか、わざわざなじまない言葉を使うのは、わかりにくい。自然環境・資源の過去からの蓄積を「自然資本」と認識する。自然資本という蓄積から、環境機能や生態系サービスのような考え方が生み出される。

 自然環境を人間が消費することによって、個々人の幸せや福祉が向上すると考える。企業が環境を汚染する二酸化炭素の排出量を売買するというような発想はここから生まれてきている。アマゾンの森を守る為の費用を負担する代わりに、企業が製品を作るときの環境負荷を代替するというような考え方である。

 過去からの自然が蓄積してきた自然資本と呼ぶ価値が、人工資本や人的資本などのいわゆる資本と、代替可能であるという前提が、経済の計算の中にあることになる。しかし、水、森、川、大気、土壌、微生物、昆虫、動植物など、生活の根底を支え、物質循環の中で不可欠な働きをしているものを、人工資本や人的資本で代替できるはずがない。

 自然環境・資源の価値を考えていくと、歴史や文化、土地への愛着や自然に対す畏敬に基づく宗教倫理というような、自然の価値を直接受ける暮らしに目を向ける必要がある。それらをどう自然の価値として考えるのか。赤とんぼを田んぼの生産物としてみるべきという、直接的な論理になる。 

 生物多様性の価値を、暮らしの中で考えるときに、その自然を支え、そこに暮らす人と、外部的に自然の価値の恩恵を受けようという人では、自然の価値の意味が違う。外部的な発想のものが、自然を文化的恩恵という価値に、関連して解釈して意味を与える考え方になる。

 自然の多様性の価値を考える上で、違和感が生まれるのは、人間と自然に分ける考え方なのではないか。自然を人間から分離して捉えることになり、人間を自然と一体化した価値でとらえられないことになる。自然保護や地球環境保全が常識になった時代に、開発行為の際にも自然環境への配慮とか地球環境への貢献ということが言われる。

 メガソーラーに代表される再生可能エネルギー開発というものがある。循環型のエネルギーが自然を守ることになるという考えである。これは脱炭素・脱原発を推進するという観点からすれば、地球にやさしい開発事業ということになる。一方、メガソーラーが山林に設置される場合、その地域に自然破壊が生じている。

 しかし、この破壊されたとする自然をもう少し分析的にに考えれば、メガソーラーの立地が過去どのような場所であったかである。ゴルフ場や線路敷地であれば、それはむしろ環境に良い行為ということになる。耕作放棄地であれば、これも環境に良い行為に近いと言える。

 「この」森や「この」川は、というのそこで暮らしてきた体験に基づく考え方がある。特定の自分の暮らしに結びついた自然のことだ。「この」の部分を形づくるのは、知識であり、歴史であり、文化であり、対象と触れ合った経験や過ごした時間、さまざまな体験や思い出を含んだ自然の価値となる。突き詰めれば当事者として、今自然の中にいる暮らしのことだ。

 それらがいわば里地里山の暮らしの自然となって、「この」人と「この」自然の間に、豊かな関係性が生み出される。それはそこに暮らす人がいて初めて成り立つ自然の価値である。それを関係価値だと考えればいい。旅行で体験する自然は、経済的自然の価値である。

 「かけがえのない」という感覚を失ったのは、人間が自然から暮らしを離れてしまったからである。都会暮らしの大学の先生が考える環境論は単なる分析的な理屈なのだ。身体的に自然との関係を日常的に持たないものが、いくら神宮の森が大切だと主張しても、あくまで経済価値の中の論議に巻き込まれてゆくことになる。

 これが村の鎮守の森であれば、守るのは自分の人生になる。石垣島で誰もが島の象徴だと考えていた、於茂登岳に自衛隊基地を作ると言うことは、石垣島というものの、歴史や文化を裏切る恐ろしいことなのだ。人間としてやってはいけないことまでして、なぜアメリカの指示に市長が従うのだろうか。

 自然は素晴 らしいと思う。いつまでも自然の中に居たいと思う。それはあくまで当事者の問題である。世界の絶景を外部の者が保存することは、環境保護とは言えないのだと思う。守らなければならない環境とは、あくまで自分と関係性のある身近な暮らしの自然のことなのだ。

 その時に自然の多様性が、どのように自分の暮らしに影響するかが重要なのだと思う。害虫が稲作に迷惑だから、農薬で駆除するということは、環境主義からすれば、批判の対象ではあるが、人間が農薬を使わなければ、暮らせないのであれば、それを優先するほかない。

 農薬を使わないでもできる稲作を、環境主義を主張するものこそ、身をもって示さなければ主張は空論になる。暑い夏に田んぼの草取りができない人間が、除草剤を使うなと言っても、単なる嫌がらせに過ぎない。自分にできないことを、暮らしを稲作の経済に従っているものに対して、環境主義から批判はできない。

 
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奄美大島マングースの根絶宣言

2024-09-07 04:07:18 | 環境関連


 奄美大島で、防除事業が続けられていた特定外来生物マングースの根絶宣言が発表された。これまでの捕獲数は3万匹を超えたという。すごい繁殖能力であり、すさまじい殺戮である。間違いなく、これ以上にない動物虐待だろう。人間の悪行を恥、善行のように考えてはならない。

 マングースはハブを減少するために導入されたものである。ハブの被害は今でも続いている。奄美ではアマミノクロウサギがマングースによって殺されてきた。沖縄県では年間60件弱のハブの咬症被害 があるが、死亡者は近年いない。年間6000匹程度のハブが捕獲されている。これは、マングース以上の殺戮である。どう考えればいいのだろうか。

 石垣島でも年間5,6件程度咬まれる人がいる。サキシマハブが生息していて、毒性はかなりひくいものである。咬まれたからと言って、必ず血清を使う必要はないようだ。死者はいない。マムシに咬まれて死ぬ人は日本全体で5人程度だそうだ。この程度の数が多いのか少ないのかはよくわからない。

 最近知人で咬まれた人がいて、ポイズンリムーバー という吸引機で毒を吸引して、病院に行った人がいる。結果として病院では特に治療をせずに、返されたそうだが、問題がなかった。その人がすごいのはすぐにスマホで噛んだ先島ハブの写真を撮ったというところだ。蛇の種類の確認のために、できればした方がいいそうだ。

 ハブは確かにいるのだが、減少しているような気がする。理由は人間の捕獲もあるだろう。私が捕まえたハブは、ハブの肝を食べたいという方がいて、その方がさばいてすぐに食べてしまった。本来なら環境課に届け出をしなければいけなかったのだが、食べた方が届けてくれたかもしれない。

 石垣島にはマングースは放たれたが定着できなかった。ハブを食べる可能性が高いものは孔雀ではないかと思う。これはあまり指摘されていないことなので、素人考えであるが、孔雀は蛇を食べる大型な鳥である。毒蛇を食べて、影響がない鳥だ。それで神の鳥とされている。鶏も蛇は大好物であるが、小さなものしか食べれない。

 石垣島の孔雀がかなりの勢いで増加している。バンナ岳周辺が一番密度が濃い。名蔵で田んぼを1年耕作していた。田んぼの環境は蛇が大いはずなのだが、蛇はいそうなところを探してみたのだが、ほとんど見つからなかった。お会いする農作業の人にも良く聞いたが、最近見ないと言われていた。特にバンナ岳付近ではハブは少ないのではないか。

  孔雀はたくさんいて、田んぼにも侵入してお米を食べていた。あれだけの数が生息すれば、どんなものでも食べるはずだ。特に孔雀は爬虫類は好きなはずだから、蛇はかなり食べていると思われる。たぶん1000羽は超えているのではないだろうか。一羽が年一匹ということはないだろうから、石垣のハブは孔雀によって減少傾向にあると考えてもいいのではないか。

 餌が不足する時期もあるだろうから、そうした時期にはハブを積極的に狙って食べていると思われる。ハブの動きの速さはあまり早くはないので、やはり動作の鈍い孔雀であっても、十分捕獲できるのではないかと思う。孔雀が実際に食べているところはみたことがないので、断言できないところが残念。

 石垣島ではハブが減少しているのではないかと思ったのだが、崎枝で田んぼをするようになったならば、崎枝にはハブがいる。のぼたん農園で今まで、2度見た。しかし、昨年までは崎枝には孔雀はいなかった。孔雀は独特の猫のような鳴き方をするので、いればすぐにわかる。

 ところがのぼたん農園では今年になって孔雀が来るようになった。歩いているのも一度だけ見た。まだ少ないのだが、崎枝にも増えてきていることは確かだ。一度侵入すれば生息地を広げるだろう。孔雀が現れて、蛇が減るかどうかである。ハブが減るのは歓迎だが、孔雀が増えるのも困る。

 結局すべては人間の都合である。マングースも孔雀も人間が持ち込んでしまったものだ。そして今度は排除しようとして殺している。殺すならば、せめて食べてあげる必要があるのではないか。ただ殺しているのでは、あまりにも無残だ。

 ついでに書いておけば、マングースは孔雀を食べるとある。確かにマングースであれば、孔雀なら簡単に補食するだろう。しかし石垣島にはマングースはいないのだ。一度はマングースも放たれたが、定着しなかったとみられる。見たという話も聞いたことがない。

 さらに厄介な生き物が毒蛇である。果たして駆除すべきなのか、難しいところがある。暮らしを守るためにはいない方がいい生き物も確かにいる。それは蚊やブヨなどもいない方がいい。病原菌やウイルスもいない方がいい。人間の暮らしを守るためにはいない方が良い生き物もいる。

 結局自然保護と暮らしとの妥協線を探すということなのだろう。ヨーロッパオオカミのことがある。ヨーロッパでは狼男まで存在する怖い存在である。盛んに狩猟がされてきた。オオカミは赤ずきんを食べてしまうことになっている。

 それは、人へのオオカミの攻撃でひどい目に合った民族的歴史があるからだ。家畜を経済とする地域では、オオカミの襲撃が死活問題であった。開発や農耕による適当な生息地や餌動物の減少と重なって、ヨーロッパではオオカミの保護と復活を望む自然保護と、過去の歴史を踏まえた狩猟文化との軋轢がある。

 アメリカ狼も同様である。オオカミを絶滅危惧種のリストから外す手続きを始めた。個体数は6000匹ほどで「45年以上にわたり絶滅危惧種としてオオカミを保護をしてきた結果、回復のためのすべての目標を達成したとした。」としている。

 ところが自然保護派の運動家はまだオオカミの生息数は不十分として、オオカミ保護の訴訟を繰り返している。もちろんどちらが正しいかではないが、双方が互いの意見を聞き、妥協点を見つけることが大切なのだろう。そもそも人間の暮らしをどうするかが問題なのだ。
  
 オオカミは日本でも絶滅をした。日本ではオオカミは大神である。神聖な動物であった。それほど強く脅威となる動物であったのだろう。そして日本の自然を管理していると感じていたのだろう。日本でもオオカミをもう一度日本の自然に放てば、熊や鹿や猪が街まで出てくることはないと主張する人たちもいる。

 そうした主張をする人が、都会のタワーマンションの冷房の部屋で暮らしていて、日本の自然保護問題を議論していることが、あまりに不自然なのだ。マングースのように連れてこられて、あたらしい場所で生息域を広げて、そして淘汰されてしまう。これほど理不尽な話はないだろう。

 自然保護とは何が目的なのか、生物多様性と人間にとって害の方が多い生き物との関係をどうするか。もう少し議論をする必要がある。特定外来生物に指定して、悪者扱いにする。何故悪者にしなければならないかをもう少しち密に議論しなければならないだろう。

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特定外来生物を考える

2024-08-08 04:17:31 | 環境関連


 特定外来生物が悪いわけではない。人間の暮らし方が悪く成っている。日本人が江戸時代のように鎖国をして、循環型社会で暮らしていれば、特定外来生物が日本に押し寄せてきて、日本の在来生物を絶滅に追いやることは無かった。末端の現象をあげつらっても無意味なのだ。

 特定外来生物を排除したいと考える人は、暮らしを江戸時代に戻す必要がある。循環型の鎖国で暮らす覚悟をして貰いたい。現代の便利で楽な暮らしをしながら、特定外来生物を目の敵にするなど、意味が無い。むしろその恩恵を考えて見たほうがいい。

 そのそも絶対的な正義などあり得ないのだ。環境の豊かさを旗印に掲げたとしても、人間である以上、どうせ環境の敵の側なのだ。小手先で環境保護などと言ったところで、自分の暮らし方を自給的なものに変えられないのであれば、無意味な殺戮になりかねない。

 もちろんそんなことは出来ないのは分っている。出来ないからこの問題は自分の暮らしと、環境保護の理想とが、矛盾したまま議論されることにならざるえない。「アメリカザリガニは在来生物を絶滅させる困った生き物だから、駆除しなければならない。」これは確かに正しいように見える。と同時にこの問題の背景にある日本人の暮らしの変化を考えなければ成らない。

 多分、自動車に乗る人にはアメリカザリガニを殺す正義は存在しないのだ。生物多様性の維持の為に、生命をゾンザイニ扱う権利など人間にはない。最も問題がある生物は人間なのだ。これだけは忘れてはならない。これはどんな立場の人にも否定できないはずだ。人間がいなくなることが、生物多様性を維持するためには最善の方法である。

 だからといって人間の淘汰を進める環境原理主義者がいれば、それはナチス以上に許されない存在になるだろう。アメリカザリガニを殺すことは、ナチスの優生思想の問題に繋がっている。もう少し深く考えてみたいが、環境を大切だと思う人であればこそ、単純に特定外来生物を排除すれば良いと考えて欲しくはないと言うことだ。

 特定外来生物問題は、在来種を交雑したり、希少生物を絶滅したりするので悪い。外来生物が農作物の被害や、生活被害などが発生している。感染症を移動させるなどの、大きな社会問題を生み出している生き物も居る。確かに問題は起きているのだが、それを解決するためには、淘汰したところですまない深く広がっいる問題がある。

 今ある日本の生物多様性というのは、日本人が鎖国をして、里地里山に移動ない暮らしをしていたことに寄る。、百姓として里地里山で、大きく自然を改変しない、自分を自然に織り込んで行く、手入れの範囲での暮らし方で、今の日本の在来種が維持されてきたものだと考えられる。

 人間は本来の厳しい自然そのものの中では生きていけない。しかし、自然環境を守りたいのであれば、自然を手入れして、大きく改変することなく、身の回りの自然と折り合いを付ける暮らしをする必要がある。それは江戸時代の暮らし方である。

 人間の時間軸はせいぜい100年ぐらいで、何十万年単位の自然遷移と較べれば、あまりに短いのだ。何もない状態の土地から森林ができるまでに、その過程に合った植物が、時間の経過とともに入れ替わり立ち替わりながら生息し、安定化している。ここに自然を大きく改変せず、人間の暮らしが関われるかである。
 
 人間が生きると言うことは全体性で見れば、自然の形成している生物・生態系に由来し、そこから得られる人類の利益になる機能によって、生かされているとも言える。しかし、人間の暮らしが、そして人類の数が、本来の自然力を変貌してしまうほど大きくなったことが根本問題なのだ。

 もし、人間に反省する能力があるなら、自らの暮らしを自給的なものに変えて行くことだろう。そこから自然に対する畏怖や敬愛の念というものが生まれてくる。人間がおそれを忘れて、あまりにも無防備に自然に立ち入りすぎたことが問題だったのだ。

 江戸時代の山村の暮らしを考えれば、山の生き物は神様として、尊敬して距離をもち、つつましくも毅然として暮らしてをしてきた。私たち自身が、自然にいる生物を人間社会に招き入れてしまった事が、鳥獣被害に繋がっている。身近な自然との折り合いの付け方に、アメリカザリガニを薬で淘汰するというような、自然に対する畏敬の念を失った方法のはずがない。

 熊、イノシシ、鹿もそうだが、外来種の問題を含め、人間が野生生物の脅威にさらされるようになったのは、里地里山の暮らしを忘れてしまったことにある。山に餌が無いなどとよく言われるのだが、それは末梢的な問題なのだ。里山の管理を怠り、放棄したことによって、人間社会と自然との境界線が曖昧になってしまったことに原因がある。

 日本で問題になっている中山間地の過疎化や高齢化。管理されていた土地から人の手が離れるということは、その地域の生物多様性の劣化に影響し、結果的に、有害獣が山から下りてきたり、外来生物が侵入しやすい環境を作っていることになる。

 地域に循環できる健全な社会の構築である。地方主義を取り戻すこと。一次産業がきちんと成立する経済体制にならなければ、小手先の環境保護など趣味の世界の話に終わる。産業基盤ができあがれば、地域の中で物質が循環することにより経済も豊かになり、地方が消滅しない社会に戻る必要がある。

 第一次産業をしっかりさせるということは、自然を大事にすることにつながる。そして地元の産業が元気になれば、就労人口も増えてくる。地域が活性化すれば人も戻ってくるし、そう下地方社会での暮らしが成り立つことで、自然、そして生物多様性が戻ってくる。

 第一次産業の活性化は、地産地消という形でその地域に暮らす住民の資源や食を補うことになり、外からの輸入に頼ることのないかつての資源循環型の社会へとつながっていく。そういう社会になれば、外来種問題なんて、問題にしなくとも消えてなくなる。た分私の子供の頃ようにザリガニは美味しい食べ物になるのだろう。

 日本国内で資源が回るようにならなければならない。できる限り輸入量が減らして行く。薪炭が燃料であった意味を新しい形で問い直す必要がある。自然が豊かになれば、外来種が入り込む隙間もどんどん減っていく。これは日本だけでなく、海外にも問題解決の方法を提案することになる。

 国内林の管理が出来ない経済になっていることが問題なのだ。日本は外材を輸入して使っている。これは熱帯林の環境破壊に直結している。日本がもし今の資源消費型から資源循環型に社会を転じることができれば、アジア全体において生物多様性を保全する上でも重要なカギを握ることになる。

 アメリカザリガニを淘汰するくらいならば、日本の地方社会の経済が成り立つように努力することだ。これは日本だけの問題ではない。地球全体の環境問題の解決にも繋がってくる。地域主義である。石垣島が石垣島で経済が回ることになれば、環境の循環が手入れによって戻ってくる。

 


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環境経済学での自然の価値

2024-07-25 04:29:34 | 環境関連


 神宮外苑の森を守ると、西表島の森を守ると言うことでは、環境保護という意味では似てはいるのだが、その影響という意味では大きな違いがある。都心暮らしで家が神宮外苑に近い場所であれば、何としてもその緑を守って欲しいと思うことだろう。

 しかし、西表の自然が、地球自然遺産であり、残す価値があるとされ居るものであれば、その経済的な意味は小さいとしても、守るべきものであり、そのように世界に約束した自然環境なのだ。神宮の森が無くなったところで、世界の人から見れば、自然環境に対する影響は対したことではないだろう。

 自然の価値には重さの違いがある。地球は人間の暮らしの肥大化で、環境のバランスが崩れ始めている。人間が暮らしを変えない限り、地球環境は急速に進んでいる環境破壊を逃れることは出来ないところまで来ている。その大きな理由は人類の増加と生活の利便化による環境負荷の増大である。

 環境経済学というものがある。環境経済学は環境問題が生じるメカニズムを明らかにし、環境問題を解決するための対策を提示することを課題としている。 神宮の森はマンションにして販売し、その利益でゴビ砂漠の保全を行う方が経済的効果が大きいというような考え方だ。

 地球温暖化とは、経済活動によって、大気中に二酸化炭素などの温室効果ガスが排出され、地球の表面温度を高めてしまう現象のことである。地球温暖化が生じると、海面の上昇、洪水や渇水などの災害、農業生産への影響、生態系の破壊などの被害が予想されている。 

 これから途上国が、先進国なみの生活をするようになれば、地球環境は破壊されることは分っている。先進国で暮らしているものが、ブラジルの密林が燃やされて、畑になって行く現実を受け止めなければならない。途上国の生活利便性を否定することは出来ないだろう。

 すべての人類が平等に地球環境を守るために行動する必要がある。環境はタダでは守れない。直接的には環境を守っても企業の利益にはならない。このような市場経済のしくみでは環境が適正に評価されず、いわば環境はタダとして扱われ、環境破壊が進んできた。

 環境問題が生じる背景には、利益優先の市場経済のしくみが存在する。環境経済学の第一の課題は、環境問題が生じる経済メカニズムを解明し、環境問題の原因を明らかにすることである。環境問題が生じる原因は、環境がタダとして扱われてしまう、資本主義経済原理がある。

 環境経済学では地球温暖化、生物多様性の喪失、生態系破壊、マイクロプラステックの増大、原発廃棄物の処理不可能問題など。現実の様々な環境問題を対象に、どのような形で市場の失敗が生じるのかを分析している。環境経済学は、環境対策を実現するための政策手段が示せるかが課題。

 温暖化問題では排出権取引という政策が提案されている。日本で温暖化対策を実施すると非常に高いコストがかかるが、アフリカでは安いコストで対策を進めることが可能である。このとき、日本国内で温暖化対策を実施するよりも、アフリカから排出権を購入するというようなことが考えられる。

 先進資本主義国家の経済の都合で、起きていることだが、皇居を京都の修学院離宮に移設して、跡地をビジネスセンターにでもした方が、環境経済学的には経済効率が良いと言うことになるのだろうか。しかし、そもそもの自然には自然そのものが備えている価値があるならば、一切の自然は人間による利用はすべきではないことになる。

 価値をもつ自然を人の手から守るという、環境原理主義の論理からすると、人は自然と関わらないほうがよいことになる。それは行き過ぎであるということで、現在の環境倫理学や自然保護の世界では、「アメニティ的価値」や「美的価値」のような多様な価値を認めようという考えが出てきている。

 自然の価値は神宮の森が、周辺住民に特別視されるように、人間の暮らしの歴史に基づく、環境に対する親愛感が伴う。ご先祖が作り上げた、里地里山の環境は、その地域の住民にとっては、神宮の森よりも身近で決定的に暮らしと繋がっている自然である。

 いま中山間地の日本人の暮らしは、失われつつある。これは日本人を変えて行くほどの自然環境の喪失が続いているのだ。人間が自分の身体を動かして、自然に手入れをして、作り上げてきた里地里山という自然環境を、利便性がない。仕事がない。人が居ない。経済合理性だけで、放棄され続けている。

 その現実を前にして、世界自然遺産の手つかずの自然を守る意味はあるのだろうかとさえ思う。少なくとも、世界自然遺産の保護は、日本全体で失われつつある里地里山を保全して行く為の、象徴でなければならないのではないだろう。

 そうでなければ、日本人が作り上げた自然里地里山。その自然で産まれた日本人と言う民俗。その価値は環境経済学では、十分に考えられていない。作り上げられた自然と、太古のままの自然の価値とを較べれば、人間が暮らしを織り込んだ、里地里山の永続性のある自然ほど重要な自然はないはずなのだ。

 同じ場所で、何千年も同じ稲作を続けることの出来る農法の確立は、手つかずの自然環境以上に重要な守らなければならない人間の営みなのだ。稲作を行った長江文明だけが、現代まで姿を変えずに継続されている。日本の里地里山の調和的世界は、その長江文明をより洗練させたものと言える。

 環境を守る為には、江戸時代の暮らしを再考するほか無い。自然との関わりは手入れである。大きく変えるのではなく、手入れの範囲で自然の中に、人間の暮らしを織り込んでいく。日本は鎖国という形で、循環型の暮らしを徹底する実験を行った。この貴重な体験を再度見直すべきだろう。

 幸いなことに人口は減少している。江戸時代の人口に戻ろうとしている。6,7千万人が日本列島に暮らすのであれば、大きな自然破壊をすることなく、何とか安定して暮らして行ける。江戸時代の自給自足の世界にまで戻らない限り、人類は環境を破壊し、人間は暮らすことが出来ないことになるだろう。

 いつも書く繰返しだが、人間は一日1時間食料のために働けば、食糧自給は出来る。それは農薬も化学肥料もいらない世界だ。一人100坪の土地で可能だ。一切の化石燃料は不要だ。私が40年かけて実験した結果そうなる。ウソだと思うものは見に来て貰いたい。

 自然も大きく変えることもない。そうした暮らしをみんなが始める以外に、人類が地球を破壊してしまうことを止めることは出来ない。環境経済学は、里地里山の暮らしを再考する必要があるのではないだろうか。

 
 
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環境保護の多様化

2024-07-15 04:19:11 | 環境関連


 環境保護のつもりで、環境破壊していることは案外に多い。逆に環境破壊だと言われていることの中には、環境を支えているものがある。農薬を使う農業は環境破壊だから止めろという。何を食べているのだろうかとおもう。人間がいなくなれば、環境はなくなる。

   農薬を止めれば、何億人もの人が餓死に陥る。環境を守って飢え死にすることが正しいことであろうか。こういう議論の立て方は、幼稚であるし感心したこと出ないことは分る。しかし、農業をやることを環境破壊と言われることはがまんできない。

 私は農薬を使わない。だから食料は自給している。環境を完全に守ることなど、人間である以上不可能である。人間は地球環境を壊しながら、生息域を広げ、文明を謳歌してきたのだ。確かに人間は生命としてその限界を超えて、環境破壊を続けている。

 地球と言う範囲では、生息できない限度を超えたほどの人類の増加である。他所の惑星まで手を出そうという人類である。環境を保全すると言うことが、不可能になっている人類の増加が起きた。それが地球激暑化現象になって、表れてきている。激暑化阻止が環境保全の差し迫った課題だ。

 地球環境はあまりに巨大で総合的なもののために、人間の良いと考えたことが、実は環境破壊であったと言うことは、数限りなくある。例えば山の樹木は伐採して、良い管理のされた人工林を、循環して行く方が良いという考えもある。

 一方に単相化した人工林は自然破壊だとして、太古のままの自然を維持することが一番だから、樹木は切ってはならない。という考え方がある。手つかずの自然こそすばらしいという環境原理主義である。一体手つかずの自然は素晴らしいものであろうか。私には恐怖の世界にしか見えない。

 さすがに今ではキジの放鳥を環境保護とは考えていないだろうが、30年前の山北町では、キジを放鳥するのは、環境課の仕事だった。環境課と言ってもゴミ問題が主なる仕事だったのだが。キジの放鳥はあくまで趣味の猟をやる人達の要望に従った行為で、環境課が行うような環境破壊活動ではなかっただろうか。

 このキジが畑に来て、山北での食害はひどいものだった。しかし、キジが悪いわけではない。餌付けされた、小屋飼いのキジではまともに自然界で生き抜ける力が無い。人間が危険という意識もない。畑で餌を食べるのはごく普通に想像できる結果である。この半野生のキジが、未熟な猟友会の人の的には適当なのだろう。

 自然の中を見渡せば、放鳥されがキジが、雄だけで群れを作っている姿は、どこか悲惨な空気さえ漂っている。雄の方が安かったのだろうか。雌は次に卵を取るために、キジ養殖場に残されていたのかも知れない。今はさすがにキジの放鳥は無くなったのだろう。

 というのは大間違いで相変わらず、「大日本猟友会では地元都道府県などと協力して、キジ・ヤマドリの増殖・放鳥事業を行い、狩猟対象の鳥類の増加に努めています。 」とある。石垣島では放鳥した高麗キジが、定着してしまい、害鳥になっている。こういうことを猟友会ではどう考えるのだろうか。責任を持って根絶して貰いたいものだ。

 ニジマスの放流などと言う環境活動は今も盛んにある。川を釣り堀化しようという考えなのだろう。まあ勝手に、ブラックバスを放流して、自分の釣り場にして楽しむという人さえ居るのだから、ニジマス放流ぐらいなら可愛いものということになる。

 そう環境に良いと考えてやったことが実はひどいことだったなどと言うことはいくらでもある。環境教育で一時流行して、学校の隅などに作られた、ビオトープなどと言うのものがある。手つかずの自然が一番だから、手つかずにしておけば、自然が回復すると妄想を起したのだろう。浅はかな自然の理解だ。

 今ではさすがにないはずだ。と思いきや今でも盛んに行われている。千葉県の事例が出ていた。千葉県の実態は分からないが、ビオトープから、侵入生物を除外することは、そもそもビオトープの趣旨からすればおかしくないだろうか。訳の分らない生物多様性だ。

 久野の溜め池でビオトープをやろうとした人が居た。管理しない溜め池が手に負えなくなるのは眼に見えていた。ゴミの散乱と外来生物の天国化してきたのだ。草刈りをするから、環境は維持される。農業をやっている人間であれば、分ることだ。自然は管理しなければ、ひどいことになる。

 何も持ち込まない。何も持ち出さない。人間は手を出さない。こんなことをすれば、大抵の場所で、外来生物の繁殖地に成り果てる。と同時に不正なゴミ投棄場所にも成る。もう日本の自然環境はそういう所に来ているのだ。環境を大切にするのであれば、適切な管理は不可欠なものになっている。

 増えて貰っては困るものを取り除き、増えてほしいものを守らなければならない。増えてほしいものとは、私には美しい花だ。これが環境原理主義者から良くないと言われることになる。極めて不本意だ。環境原理主義者から見れば、美しい花の価値など無意味なものかもしれない。

 しかし、美しい花があるからその場所を守りたいと考えるのは、人間の本性であろう。花のある場所に、さすがにゴミは捨てない。環境を美しく保つためには、花があるということは価値があるのだ。それが例え、そこには最近はなかった花であれ、本来その場所に必要な花はある。

 色々考えた末にたどり着いたものが、溜め池にはカキツバタである。溜め池という農業遺構は、水があるということで、環境を豊かにする要因であることは間違いが無い。しかし手つかずにしておけば、外来植物が繁茂し始める。ガマや、黄ショウブなどが覆い尽くす。

 それならば、農業遺構に相応しいのは。稲作の日本文化としては、カキツバタである。カキツバタは愛知県では県の花になっている。日本古来から田んぼと共に日本全国に広がった植物である。世界遺産・上賀茂神社の摂社の大田神社には、国の天然記念物・カキツバタ群落がある。

 日本文化に於いてカキツバタが重んじられる意味は稲作にある。稲作を行うためには、溜め池や水路が不可欠である。この溜め池や水路を維持するために、美しいカキツバタを植えたのだと考えられる。美しい花があれば、管理屋手入れが続けられるだろうと言うことだ。これが日本の環境維持の考え方の基本だ。

 舟原の溜め池にカキツバタを植えたいがどうだろうかと、箱根にある地球博物館に相談をした。「環境破壊になるから、絶対に止めてくれ」と言う回答だった。その時から、環境主義者を敬遠するようになった。地球博物館では、舟原の溜め池を、ビオトープにすれば良いと考えていたようだ。

 何十年も管理がされなかったために、泥とゴミで埋まってしまい、侵入生物が蔓延ってしまったのだ。里山の自然は手入れによって維持される。当たり前の事が、環境保護主義者には分らなくなってしまった。ほって置いて維持される環境など無い。

 どれほどひどい状況なのかを確認もしないで、手を入れないことこそ環境保全だと思い込んでいるのだ。美しい場所にしない限り、環境は守れない。そのためにカキツバタを水路や溜め池に植えたのは、平安時代からの稲作環境の保全方法だったのだ。

 山での湧き水を、水の神として奉る。その大切な水を溜め池を作り溜めて、田畑に巡らせる。溜め池や水路はこまめな手入れを続ける。水神様の上部には鎮守の森を作る。森は生活のための燃料として、管理が続けられる。日本が作り上げた自然の守り方は、手入れ文化なのだ。




 
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西表島のオーバーツーリズム問題

2024-07-08 04:22:34 | 環境関連


 世界自然遺産に指定された西表島では、2023年4月から入島者数の制限を導入している。入島者数の上限を1日あたり1,200人、年間33万人に設定している。また、島内の一部地域では、さらに厳しい上限を設け、ガイドの同伴無く立ち入れないように求めるほか、車両の速度制限も設けるなど、さまざまな規制・制限がある。
 
 この西表島の制限に義務や強制力はない。あくまでも現時点では協力を求めるものとされている。イリオモテヤマネコの交通事故件数は、1978年から2024年1月12日までの間で101件発生している。そのうち93件でヤマネコの死亡を確認されている。

 100匹しか生息していない、世界でも貴重なヤマネコがこれだけ交通事故死しているのだ。世界遺産に指定されて、入島者が増加して交通事故死も増えた。緊急的対策として、入島者制限が導入されたと言うこともある。最後の交通事故死したヤマネコは、高梨さんが撮影したものではないか。

 幸いなことに入島制限が始まった、2023年から現在までの所、ヤマネコの事故は報告されていない。イリオモテヤマネコの無事故日数が7月に555日を達成した。この数値は過去無かったほどの無事故日数である。西表の自然保護の希望を感じる数字である。これから永遠に事故なし日が続くように祈るばかりだ。

 イリオモテヤマネコの交通事故は道路の形状が、自然保護という意味では全く不十分と言うことがある。ヤマネコが草むらから道路に突然現われるような箇所が十箇所はある。40キロ以下で走行するようにとされていても、突然出現すれば、避けられない箇所がまだまだある。

 道路が作られたときに、動物の保護に対する意識が足りなかったのだろう。この道路際の草を刈る活動が行われている。道路際のアスファルトの継ぎ目から草が出てきている。これをドライバー状の器具で引き抜いている。大変な手間が必要になる。この経費は申請によって環境省から出るときがある。
 
 道路側面に西表に自生している芝草を生やして、見通しをよくする活動もある。いずれも祖内に住まわれている高相さんという方が主導している。自宅で地元の芝の養成を行われている。こうした地道な活動が効果を出してきた側面もあると思う。環境省への申請が、世界遺産になって認可されやすくなったかも知れない。地元の人達の仕事を創出している。ここは大切なところだと思う。

 西表島は亜熱帯の自然環境の残る特別な島と言える。そこに暮らす動植物をまるごと保存しなければならないことは当然のことだ。イリオモテヤマネコは1965年 学術上の発見がされた。島ではそれまでも捕獲され食べられるようなこともあったという。

 西表島の人口は2400人あまり。その半数に当たる、1200人を一日の入島の上限にしている。西表島では2019年より入島料を設置している。一人300円を石垣島の舟乗り場で購入することが出来る。実績は約730万円で収受率は14%にとどまっていた 。自由意志による購入では、300円すら払わない。

 それを今度は2000円に変更するという案が今検討されている。富士山の入山料と同じになる。今不足している、環境保全のための対策費用を入島料から捻出すると言うことは当然のことだ。世界遺産の西表の環境は徹底して保護するだけの価値がある特別な場所だ。環境を保護する役割を世界に約束したのだ。

 西表島の自然に入る者はその島の特別な自然から恩恵を受けるのだから、それを守るための費用を負担するのは当然の事だろう。西表の自然環境は、完全な保護地区として、人間の関わらない自然として保護して行くべき環境だ。その意味では石垣島とは全く違う条件である。

 イリオモテヤマネコが学術上発見されたとき、その保護と西表島での人の暮らしとの兼ね合いで、人より猫が大事なのかと、住民からの自然保護反対の声が上がった。一部の環境保護至上主義者からの、島で暮らす人達をないがしろにするような発言があり、島は大いにゆれて、選挙の際には、猫か人間かの論争が行われたという。

 竹富町にある7島の来訪者の増加に対応するための港湾や道路、水道施設などのインフラ整備に10億円ほどかかる。救急患者の輸送や防災対応も含めると、計20億円程度の費用が必要になると見積もっている。私にはこれからの世界遺産地域の自然保護に対する準備としては、到底その程度では不十分に思われる。

 世界遺産の西表島では自然環境を保護するためエコツーリズム推進法に基づく一部エリアでの入域制限を24年度にも始める。訪問税は「財源不足に伴う行政サービスの低下を防ぐ」(町税務課)狙いがあり、観光客数に制限をかける目的ではないとの位置づけだ。としている。

 観光客はこれから、さらに増加すると考えなければ成らない。また増えて貰わなければ、離島の生活は出来ない時代が来る。無制限に増やせば良いと言うことでは無い。観光業に関わる者自身が、これからの特別地域での観光の在り方を、入島の人数制限を含めて、考える必要があるのは当然のことだろう。

 「人間が大事か、猫が大事か。」ではない。猫も人間も大事なのだ。西表に暮らすと言うことは、猫と共存する暮らしにならざる得ないことなのだ。その意味では竹富町には自衛太吉は作らないのは当たり前の事だ。竹富町の島々には今のところ、自衛隊基地はない。せめてもそのくらいの意識は必要だろう。

 ガラパゴス諸島の入島費は15000円だそうだ。当然のことだと思う。西表島に関しては、2000円でも安すぎるくらいだと思う。ただし、それだけの自然の回復を図るという前提での2000円である。まだまだ、西表島の自然環境の回復は不十分だ。特定外来生物の除去は徹底する必要がある。

 猫が交通事故に遭うような道路を改修できないのでは、入島費は無理だ。西表で観光で暮らしている人達の中には、入島費2000円で観光客が減る事を心配している。観光関連の仕事で生計を立てている人が多いのだから、当然であるが、その人達にも、その2000円が還元されるような仕組みが必要なのだ。

 毎日1200人が現状で、1000人に減る可能性はある。2000円払うのが嫌で、西表島に行かないというような人は、来て貰わない方が良いだろう。環境が整備された島になれば、むしろ観光客は入島制限数一杯まで増えるに決まっている。富士山以上に魅力がある。

 日々西表島の入島料として、200万円が入るとして、この一部を当面減少した200人の観光客分として、何らかの形で補填すれば良い。最初はアンバランスになるかも知れないが、必ずあれだけの環境を持つ島なのだ良い形で、観光立島が出来るようになる。

 富士山に登りたいという人が2000円を払いたいと考える以上の価値を、西表島は作る必要があるということだろう。西表島に暮らすと言うことはやはり特別なことなのだ。今暮らしている方々には、例えば飼い猫にはマイクロチップを付けるというような不便をかけることだが、協力をお願いするほか無い。

 そして、説明会の開催や、議論を重ねる中で、この入島料は2000円から、1000円と言うことになった。これでは全く不十分な金額だが、仕方がない当面の選択かも知れない。条件が整ってきたら、値上げも考えに入れておいた方が良い。

 また、修学旅行生は無料というのは、かなり問題ではないか。私が見たところ、大量の修学旅行生の列が、奥深いとこまで歩いて行く、遊歩道を踏み固めていると思う。自然への付加は変らないのだから、文科省が特別補助を出すべきだろう。何らかの条件を付けた、対応策の検討はあるはずだ。
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外来植物・帰化植物のこと

2024-06-03 04:16:20 | 環境関連


 外来生物が日本の生物を駆逐してしまう、というので、特定外来生物というものを国が決めて、駆除している。石垣島でも特定外来生物(ナガエツノハゲイトウ)が広がっている現状がある。外来生物の中には有用な生物だというので、わざわざ持ち込んで広げてしまったものもある。

 特定外来生物は国が法律で取り締まっている生物である。泥棒と同じで、発見したら国に通報し、駆除してもらわなければならない生物なのだ。しかし、実際には定着してしまったものが大半で、今後どうしたらいいのだろうかと悩ましいところである。
  • この法律の目的は、特定外来生物による生態系、人の生命・身体、農林水産業への被害を防止し、生物の多様性の確保、人の生命・身体の保護、農林水産業の健全な発展に寄与することを通じて、国民生活の安定向上に資することです。
  • そのために、問題を引き起こす海外起源の外来生物を特定外来生物として指定し、その飼養、栽培、保管、運搬、輸入といった取扱いを規制し、特定外来生物の防除等を行うこととしています。
 
 社会常識とは違うかもしれないが、特定外来植物の取り締まりは間違っているという事を書きたい。それは農業利用されていた、アゾラ・クリスタータのことがあるからだ。アゾラクリスタータを使って、アゾラ農法や合鴨農法をやることは犯罪行為という事になる。

 世界的に見ると、アゾラ農法が飢餓を救うという事で、アフリカの飢餓地帯では、アゾラ農法が有効という事で、飢餓救済のために広げる活動を、JICAが行った事例がある。アゾラ農法はすでに6世紀に記録がある。中国南部からベトナムで行われていた循環型農法である。

 その窒素固定能力はマメ科植物よりも能力が高い。1ヘクタール1日で1キロ~3.6キロとされる。しかもリンさえあれば、窒素はない方が増殖が良いという特性がある。何も持ち込まないでも稲作が出来るという優れたものだからだ。北米大陸にあったアゾラクリスタータは有意な植物なのだ。

 しかし、日本のアカウキクサと交雑してしまい、純粋なアカウキクサがほとんど絶滅しかかってしまった。それがいけないという事が言われる。またアカウキクサのすさましい繁殖力で、水面が覆われてしまい、確かに水生昆虫などの生物の繁殖が制限されるという事が起きている。

 外来生物というものは新しい環境で、周辺環境に順応した状態まで時間がかかるという事なのだ。アゾラがそれほど困りものの浮草とは私には思えない。時間が経過すれば、日本の環境に収まってくるはずだと思う。わずか1000年後に確認してもらえばわかるはずだ。

 日本に現在ある様々な生物の半分くらいは帰化植物である。それの何がいけないのかが分からない。栽培されている農産物や園芸植物など、ほとんどが外来植物と言える。外来植物を拒否していては、日本人は明日の食べ物もないだろう。

 外来生物によって、生物の多様性が失われるという事が言われる。しかし、外来生物がすでに日本の自然を支えているのだ。生物の多様性を失わせているのは、人類の生存である。人類さえいなければ、地球上は生物の多様性は豊かになるだろう。

 しかしそれはあくまで一時のことで、大噴火や、氷河期、惑星の衝突、温暖化など、様々な自然現象で、生物は絶滅して、また再生するを繰り返している。人間が移動させた為に起こる多様性の消滅など、地球の時間軸から言えば、何もないに等しい。

 1年後のことは確かに心配かもしれないが、1万年後のことを考えてみれば大した問題ではない。だから、生物の存在をないがしろにして良いというのではない。生物は大切だが、外来生物だから何がいけないのだと言いたいのだ。そもそも、日本の自然の半分は外来生物で出来ているのだ。

 植物を移動させるのもいけないという、環境原理主義者もいる。その人は一体何を食べているのだろうか。薔薇が美しいとは思わないのだろうか。猫が可愛いとも思わないのだろう。たぶん人間的感情の乏しいような人だから、窓辺に一輪の薔薇を飾り、ネコを飼う事もないはずだ。 

 ちょっと千年前の特定外来生物であれば、許せて、ここ50年くらいの外来生物が耐えかねるというのでは科学性がない。地獄のように水面を赤く覆いつくす光景が異様で耐えかねる。こういうのは慣れればどうという事はない。私など田んぼが一面覆われたらうれしくて仕方がない。 

 これで肥料が十分なのだ。但し簡単には増えるものではない。水が汚いから増えるのだ。綺麗な環境では簡単に増えるようなものではない。私は増やすためにいろいろ努力しているので、なかなか増殖が難しいと痛感している。合鴨農法をやられた方でも増えなかった方の方が多い。 

 もう一つ書かせてもらえば「へラオオバコ」のことがある。これは要注意外来生物になっている。何故へラオオバコがいけないのかが良く分からない。これは牧草として大変有望なものだ。繁殖力も強いし、踏み付けにも強い。麦科牧草とは違う栄養があり、大いに利用すべきものだ。 

 環境省が制定した外来生物法がある。そこに書かれているものが、我が国の生態系等に被害を及ぼすおそれのある外来種リストというものがあり、200種がレベルごとに掲載されている。出来れば駆除した方がいい生物。として様々なレベル分けがなされ、指定されている植物は200種ある。

 もうこの中にはまさかこの植物がと思うような一般的な植物が目白押しである。オオバコや椰子やクレソンまで指定されている。つまりあってはならない場所にあるという事がいけないらしい。確かに環境主義者にしてみれば、腹立たしいことであるのだろうが、私にはあってほしい植物が満載である。

 例えば、オオバコは心臓病に効果がある。 セイタカアワダチソウは湿疹の時にお風呂に入れる。クレソンなど食べればいいだろう。現状維持のために、有用な植物まで排除していいのだろうか。アメリカセンダングサは沖縄では蜜源である。

 アメリカハマグルマは路肩保護のために入れられた植物だ。沖縄ではすでに手におえない状態で広がっている。しかし、この植物の繁殖力と生産性の高さは、植林地の下草として使える。これが生えてしまえば、大きくなる草は生えない。あえて除去はしていない。この草が苗木をどのくらい障害するかは、よく観察している。

 モクマオや銀ねむは沖縄では防風林として入れられて、広がり過ぎた植物だ。確かに強風の石垣島ではモクマオやギンネムは有難い植物である。すぐ出てくるし風に強い。それがだめならどうしろと言うのかというので、今はセンダンを植えている。

 ギンネムならマメ科植物だから、土壌を良くしてくれるはずだ。だからギンネムが出てきたら、今は切らないでいる。防風林のつもりである。センダンが大きくなってから切ればいい。ギンネムの葉は水牛も好物である。ギンネムが増えると何が消えるのだろうか。それは仕方がないことではないのか。


 
 
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マイクロプラステック

2023-12-29 03:49:41 | 環境関連
 

 人類の危機は様々あるが、最も始末が悪く取り返しようもないものが、マイクロプラステックである。静かに、深刻に、人間の終わりが近づいていると考えざる得ない。プラステックを取り込み、動物はいなくなるとしても、植物は生き残るだろうから、動物の危機であり、生物の危機ではない。

 また微生物から始まり、動物も再生する時代は来るのだろう。二度目の人類は誕生するかは分からないが、人類が誕生すればまた同じようなことをやるに違いない。プラステックはまだ100年の歴史はない。我々世代はずいぶんの恩恵を受けたが、たぶん200年後にはプラステックは禁止されているだろう。

 プラステックが無くなる時代に、まだマイクロプラステックが人類を滅ぼしていなければ良いと思うが、多分手遅れに成ることだと想像している。プラステックを取り込んだ人体が、どう変化しているのか、想像することすら怖い。がんの多発は間違いないことだろう。人類の寿命も大分短くなるのだろう。

 マイクロプラステックが至る所に存在し、人間はそれを避けることが出来ないことになっている。人間の細胞の中までプラステックが入り込み、様々な問題が生じることになる。遺伝的影響は避けられないはずだ。マイクロプラステックは増加を続けている。

 経済協力開発機構(OECD)によると、2019年には世界で約4億6000万トンのプラスチックが消費され、プラスチックごみが約3億5300万トン発生したと書かれている。プラスチックごみは2000年の約1億5600万トンから、倍以上に増加している。

 プラスチックごみで、とくに問題視されているのが「マイクロプラスチック」だ。ペットボトルやビニール袋などは、自然環境中で紫外線などに晒されて劣化すると破砕・細分化され、概ね直径5ミリ以下の微小な粒子となる。始末に負えないものは、微細なマイクロプラスチックと呼ばれるプラステック粒子である。

 これがさらにミクロ単位の小さな粒子になり、海に集まり、魚は身体の中にマイクロプラステックを取り込んでいることになる。特に小さな粒子は細胞の中にまで取り込まれ、様々な障害を生むことになるはずだ。こうした現象はすでに始まっている。もう海は取り返しが付かないことになっている。

 プラスティクゴミはそれでも着実に増加している。気象変動以上の環境問題である。しかし、気象変動の方は、化石燃料の使用を止めれば解決できると言う対策があるからまだましである。世界もその対策に国際会議まで行っている。しかし、プラステックは対策もないから、人類の滅亡に着実に進んでいる。

 確かに分別再生が言われているが、無駄とまでは言わないが、プラステックゴミの減少には繋がってはいない。むしろ燃やしてはいけないという考え方が、マイクロプラステックの増加に繋がっている。再生されるものなどほんの一部で、海に流れ出るものが大半である。プラステックの使用禁止が行われない限り、もう手遅れとと考えなければ成らない。

 当面の対策は燃やす処理を認めることしかない。プラステックは燃やしてはならないと言うことから、マイクロプラステックを増やすことになった。焼却処理が良くないことは当然だが、さらに悪い事はマイクロプラステックだ。燃やさない処理がマイクロプラステックを急増させている。

 グレタ・トゥンベリ さんはノーベル平和賞を受賞したまだ若い環境活動家である。気象変動に対して発言をしている。飛行機を使わないで、ヨットで移動するというようなことをされている。フランスでは「内のグレタちゃん」。と言う話があるそうだ。プラステック容器を拒絶する子供の事だそうだ。

 最近、グレタさんは共産主義的な発言をするようになったために、世界の環境活動から閉め出され始めた。例えば、COP26の会議には以前には招待されていたが、今は拒否されていて、会議場の外で反対の活動をしている。つまり、現状の環境運動は、環境運動で一儲けしたいという人達の会議になったと主張しているのだ。

 例の国会で風力発電の推進を発言したような秋本真利衆院議員が悪い見本事例だ。環境事業の補助金狙いである。こうして環境問題を突き詰めて行くと、結局の所「人間の進歩と調和は、ない」と言うことになる。経済成長そのものが問題になってくる。

 日本が作り出した江戸時代という、循環型停滞社会が次の社会のモデルではないだろうか。前より良くなると言うことでは無く、前のままである事を良しとする社会である。昨日のままの今日であれば、十分なのだ。その停滞の中で、どのように生きる事を充実させられるかである。

 プラステックがもしあったとしても、必要な以上には使用されなかったはずだ。再利用するもの以外はなかった。もったいない社会である。今日のような明日であれば、十分なのだ。民主主義も、独裁政治も、成長信仰から逃れられない。ここに大きな落とし穴が在る。

 中国は経済成長することで、独裁政権が国民から支持されている。監視社会も、自由のない社会も、経済が良くなるならがまんしようという社会だ。もし経済成長が止まれば、政権は維持できない。しかし経済停滞は必ず来る。まだまだ中国は成長余地が大きいが、それでも10年先は危ういだろう。

 経済成長信仰は民主主義国家でも変わらない。去年より生活を良くしたことで、選挙で選ばれる。良くしたとは、経済をよくしたと言うことが主たる理由である。今年は良い年でしたというのは、少し生計が良くなったという場合が大半ではないだろうか。江戸時代は変らず結構でしたである。

 この頑張って良くなる哲学が間違っていると言うことになる。頑張るのは今のままである事が新しい目標になる。資本主義から、共産主義への転換。良くなるために頑張ることが目的ではなくなる。平等である事が主たる目的になる。発展を制御しなければ、環境破壊で人類が滅亡する。

 ここに現状の環境運動の限界がある。石垣島では観光を選ぶのか、環境を選ぶのか。いつも問われている。環境運動の主たる目的が環境破壊阻止である。生活できなければ始まらない。石垣島の経済の主たるものは、観光とそれに伴う公共事業である。

 生活するためには、自然破壊に繋がっても、ある程度止むえないというのが、市民の選択なのだろう。だから、環境運動は移住者中心になる。移住者は石垣島で生計を立てている人が少ないからだ。観光客が減る事をどうでも良いと考えているからだ。このすれ違いが、深刻である。

 西表島ではやまねこか人間かと言われた。人間の暮らしが出来ないでどうするのかと言うことだ。世界遺産になり、自然保護は最優先である。さらに西表島の住民の暮らしに、環境保護が突きつけられている。屋久島では林業が衰退し、暮らしが成り立たなくなり始めている。人口減少が深刻である。

 環境保護はマイクロプラステック問題を最優先すべきだ。イリオモテヤマネコも、カンムリワシも、そして人間も、身体に取り込んでしまうマイクロプラステックで生存の危機を迎えるはずだ。近い内に限界を超えるだろう。その前に、停滞社会の価値観を見付けなければ成らない。

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外来植物はすべて排除すべきなのか。

2023-12-12 04:00:50 | 環境関連


 日本の植物で、身近でよく見るものが外来植物のことがある。どんな植物であれ、長い間にバランスが取れてそこに根付いて行くものだ。古く日本列島にきたものは許されて、新しいものが許されないというものでもない。ゆっくり変るのであれば、それはそれで仕方がないと言うことだろう。

 そもそも栽培されている農作物の大半が、外来植物である。それがよくないと言えば農業など不可能である。環境原理主義者の中には、外来であるからと言う理由だけで、有用であっても、排除すべきと目をつり上げて主張する人が居る。良いものは受け入れて良い。

 小田原の地球博物館で、舟原の溜め池にカキツバタを植えるのだが、どうだろうかと相談したら、一切他所から植物を持ち込むことはやってはならないことだ、とムキになって止めろと言われた。舟原の溜め池には外来植物ばかりが繁茂していることをご存じないのだろうかと思った。相談した私がバカだった。

 外来植物の中には、美しいからと言う理由で持ち込まれて、その後圧倒的な繁殖力で、在来の競合植物を交雑し、いつか純粋種が消えているというものも、多々ある。一時はやったビオトープを、やってみれば分かるが、手を入れないでおけば、外来植物を呼び寄せるだけと言うことになる。

 最近西表で水生昆虫ややまねこの餌場としての池を、クラウドファンディングで作った。私もわずかだが協力をした。ところがこの池があかうきくさで覆われて困ると言われていた。希少植物である、日本のあかうきくさが繁茂したのであれば、素晴らしいことではないかと思う。表面に溜まるのは、池の水管理の仕方が悪いだけだ。

 ビオトープが環境教育という考え方が、しばらく前の日本の環境教育だった。今でもビオトープを続けている人達もいる。頭の中が古い環境原理主義者が手を入れないビオトープに繋がっているのかもしれない。人が暮らす環境というものは、人間が作り出すものだ。それが日本の里地里山の思想だ。

 日本の里山文化は暮らしの周辺に、暮らしに役立つ美しい自然を手入れで、作り出そうという考えたのだ。別段外来種であろうが、無かろうが循環してゆく姿であれば問題が無い。なぜ、カキツバタを他から持ってくることが、環境霍乱になるのだろうか。すでに排除されるべき侵入植物黄ショウブがある。

 そもそも園芸文化というものは、珍奇なものを尊ぶと言う傾向がある。江戸時代、黄ショウブが渡来すれば、交配に利用されたに違いない。見たこともない不思議な植物と言うことで、江戸時代にもシャボテンの流行がある。シャボテンは幸いか不幸か、日本の自然には広がらなかった。一方で広がったものも数限りなくある。

 外来植物の歴史は、遣唐使の時代にまでさかのぼる。ジュズダマやトウゴマなどは大陸から入ってきた。今や数珠玉だけで生存できるチョウチョが日本に生息して居る。クロコロマノチョウだ。これらの植物の多くは、もともと野菜・薬用植物・採油など栽培を目的として持ち込まれたものが多く、そこから野生化したものも多い。

 江戸時代以前に持ち込まれたものだけでも700種類あると書いてある。比較的最近の植物の中では、川原に繁茂するブタクサやセイタカアワダチソウのように、一時的に増えてしまい、一斉に花粉を飛ばすために、花粉症を引き起こし“悪役”とみなされる。

 しかしセイタカアワダチソウはお風呂に入れると、皮膚病に効果が高い。薬効植物である。我が家では採取しては干して、困っている人に送った。薬草の中でも効能が高いので、素晴らしい植物だと思う。花粉症の方には困るのだろうが。スギ花粉だって杉に責任はない。

 オランダから荷物の詰め物としてやってきたシロツメクサは、土壌をよくする豆科植物として、農業利用もされている。結局外来植物は、有用植物として持ち込まれたものが大半である。石垣島で問題にされている、「モクマオ」や「ギンネム」は早く成長する防風林として、米軍によって沖縄に広がった。

 沖縄の海岸線にはよく見られる。防風林としては役立っている。そうした植物が在来植物を淘汰してしまうと言うので、今では敬遠されるものになっている。のぼたん農園にもギンネムはかなりの本数ある。私は悪くないと考えている。マメ科の樹木だからだ。根が土壌を良くしてくれるのだ。

 その上に忽ちに林に成って水を溜めてくれる。植物は草よりも木の方が五倍程度の保水力がある。溜め池の上部がギン合歓の林になるのは悪くないと考えている。しかし、環境省から見れば、排除すべきものを温存するとは何事かとなるのだろう。環境派の人からも怒られるだろう。

 アメリカハマグルマも嫌われている植物である。これも道路畦畔の土留めと景観に良いというので、沖縄に導入された植物である。確かに美しい黄色で一年中咲いている。見た目も悪くはない。ところが、これが他の植物を滅ぼしてしまうと言うことらしい。のぼたん農園にもかなりあるが、牧草と良い勝負である。

 そもそも牧草のほとんどが外来植物である。牧草の繁殖力はさらにすさまじい。あのすごい繁殖力のアメリカハマグルマと良い勝負だ。抑えきっている場所も多々ある。しかしその牧草も抑えてしまう一番困るのが、在来種のネズミノオである。すさまじい繁殖力の上に、水牛も山羊も食べない。

 この困りものは在来種ではあるが、私には牧場侵入植物で、是非とも淘汰して欲しい植物である。実は法律で淘汰すべきものが決まっている。しかし、自然に法律が勝てるわけがない。いつか落ち着くところに落ち着くまで待つほか無い。無理なものは無理なのだ。

 手入れである。日々自然に手を入れていれば、落ち着きが出てくる。植物が暴走することはない。合鴨農法で、アメリカから取り入れたオオアカウキクサつまりアゾラは、日本のあかうきくさと交雑した。またその繁殖力で水面を覆い尽くす。

 アゾラはとても嫌われているが、これを稲作農業に取り入れることは悪い事とは思えない。化学肥料が高騰するなか、合鴨を使わないとしても、あぞら農法は奨励されてもいい。無肥料の水草緑肥は将来性のある農法である。アゾラがだめなら、あかうきくさでも仕方がないが。

 アゾラは日本のあかうきくさよりも数倍の窒素固定能力があるという。ベトナムではアゾラを取り入れた伝統農業がある。江戸時代にアゾラが日本に入ったとしても、異常繁殖することはなかった。アゾラが悪いのではない、水を汚染した暮らしの方が悪いのだ。

 自然が変化してゆくことを、悪い事と考えない方が良い。自然に対して情緒的に考えない方が良い。大前提は人の暮らしである。人の暮らしが真っ当なものであれば、自然に大きなゆがみは起きない。水面のアゾラよりも、水の中のマイクロプラステックが危険なのだ。



 
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プラスチックごみは燃やすほか無い

2023-06-27 04:05:11 | 環境関連


 日本は、世界で最も多くのプラスチックごみを非OECD諸国に輸出している。リサイクルに出したはずのプラスチックごみが、他国の環境を汚染している。日本のプラスチックごみ850万トンのうち、材料として国内でリサイクルされるのはたった11.7%。

 プラステックゴミを分別してリサイクルしているという人が大多数だと思う。わがやでも熱心に分別がされている。そのプラステックがどうなっているのかはよく分からない。たぶん何らかの形でリサイクルされているのだろうと想像している。ところが世界はプラステックゴミで溢れている。

 
 2050年までに海の中に存在するプラスチックの重量が魚の重量を超えるかもしれないという話も聞いたことがあるだろう。たぶんそれはないと思う。その前にプラステックを出し続ける人間社会の方が終わっている。人間の体内も細胞の中まで、マイクロプラステックが入り込む。

 この海洋のプラステックゴミの内8割が街から来ている。日本の街は綺麗と思っていても、目を向け始めると街中にはたくさんのゴミが落ちている。街中に散らばるゴミは、ごみ収集の過程できちんと口が結ばれていないゴミ袋から溢れたり、カラスがゴミ袋をつつき破ることで散乱する。ふたのないゴミ箱やいっぱいになった自動販売機の脇にあるゴミ箱から風で飛ばされている。

 海洋に流れ着いたプラスチックは波に打たれ、紫外線にさらされ、少しずつ小さく砕けてゆく。そして5mm以下までの小さな破片に砕けたプラスチックがマイクロプラスチックと呼ばれるものになる。こうなったらもう始末に負えない。海から改修するなどほぼ不可能。
 
 プラスチックそのものにも、すでに難燃剤や紫外線吸収剤など人体に有害な添加剤や生殖機能に影響する内分泌かく乱作用をもつ化学物質が含まれている。そうした物が、細かくなり細胞内まで入り込むようになれば、ガンの多発や遺伝子の変化が起こるはずだ。

 プラスチックに付着した毒素が体内に侵入し、油を含む消化液に溶け出して脂肪などの組織に毒素が蓄積されます。そして蓄積された脂肪をエネルギーとして使うたびに毒素が体を巡り、繁殖や代謝、臓器(腎臓、肝臓)の働きが妨げられるようになる。

 マイクロプラステックを飲み込んだ小魚がより大きな魚に食べられることでマイクロプラスチックの濃度はどんどんと上がっていくことになる。世界のプラスチックの年間生産量は過去50年間で20倍にも拡大している。年間生産量は約3.8億トンで、これは全人類の体重に匹敵する重量になる。

 産業別の生産量では、容器、包装、袋などのパッケージが36%と最も多く、建設(16%)、繊維(14%)と続きます。特にペットボトルやレジ袋、食品トレーやストローなど一度利用されただけで捨てられてしまう「使い捨て用」に使われることの多いパッケージのプラスチック生産が、プラスチックごみの量の増加に大きく影響している。

 プラスチックごみ全体でみると、パッケージングがその約半分を占めている。日本は1人当たりのパッケージ用プラスチックごみの発生量が、アメリカに次いで世界で2番目に多い国です。 ゴミとして回収されたプラスチック類のうち容器包装の割合は全体の67.6%にものぼります。これは世界平均を20%も上回る数字です。  

 大きな塊から小さく砕けていくプラスチックの他に、歯磨き粉や洗顔料や化粧品全般などに使用されている初めから小さい5mm以下のビーズ状のプラスチック原料、マイクロビーズもマイクロプラスチックの中には含まれている。

 田んぼに播かれている肥料にも、マイクロプラステックは含まれている。一発肥料と言われる物は、小さなプラステックのカプセルの中に遅く効くように肥料が仕込まれている。プラステックが数ヶ月後に溶けて穴が空き、肥料が作物に効くように仕込まれている。 
 
  プラステックゴミは分別リサイクルという方向では始末が付かない。人間はダメな物だからだ。それならどうするかと言えば、ゴミとして燃やすほか無い。当面燃やすことも認めて、よりよい焼却炉で焼却する。そうしてプラステック類が、自然界に出て行くことを止めるほか無い。

 燃やすことは良いことではない。燃やせば二酸化炭素が出る。しかし実際の所、焼却炉に助燃剤という形で上手く混在して入れれば、炉内の温度を上げる効果がある。温度が上がれば、ダイオキシンは出ない。それも行けないというのであれば、火力発電所で燃料にすればよい。

 製紙工場などでは燃料として、プラステック類を集めて燃やしているところも実際にある。焼却炉を正しく管理すれば、焼却炉からダイオキシンが出て行くことは防げることだ。むしろ焼却灰の処理をさらに高温の、溶融炉に入れなければ成らないだろう。

 人間はどうしようもないところのある、不完全なだらしのない存在だ。プラステック類の分別など、完全にできる人は少数派だ。そうした人が増えることは有り難いことだが、できない人が多数派だ。海洋ゴミを見れば明らかなことだ。理想を求めるよりも現実的対応が必要なことになっている。

 先ずはそのへんにゴミが散乱しているのは窓から、コンビニで買った食べた後のゴミをポイ捨てしているのだ。昔はコンビニに行けばゴミが捨てられた。公共施設にはゴミ箱もあった。観光客などゴミの捨て場に困っている。困ればレンタカーの窓から投げ捨てるだけだ。
 
 そのゴミの大半は、プラステックゴミで海に流れて行く。それがどうしようもない現実である。いくら道徳に訴えたところでダメな物はダメだ。先ずはまたコンビニにはゴミ箱設置を義務化するところからだ。販売したのだから道義的責任はあるはずだ。岸田内閣の道徳のある資本主義だ。

 製造者には製造者責任で回収が義務づけられている。販売者にはゴミの回収を義務付ければいいわけだ。少なくとも石垣島の観光客ゴミを見れば、石垣島無いのファミマやスーパーにはゴミ箱の設置を義務化しなければならない。そのゴミは分別が大変だろう。焼却炉で燃やすほか無い。

 燃やしてもダイオキシンが出ていないことを、きちっと測定して、周辺住民と取り交わしたという協定書を書き換えてもらうほか無い。このままではゴミの島になってしまう。このままではマイクロプラステックの海になる。そんな海を見に来る人は居なくなるだろう。他人事ではないのだ。

 
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プラステックゴミはどうしたら良いのか。

2023-06-08 04:53:04 | 環境関連


 プラステックゴミは人類を滅ぼす可能性が高い。それは原発よりも深刻だと思う。森林火災や干ばつを起している異常気象よりもプラステックゴミ問題は危機だと思う。しかし、解決は一番簡単である。明日から使わないことにすれば解決できる。

 ところがこの簡単なはずのことがもう出来ないような人間になってしまった。ではどうすれば良いのか。燃やす以外にないと考えている。再生できるものは再生すればいい。しかし、燃やしても良いことにしなければ、自然界にプラステックゴミが広がることは防げない。

 プラステックなど子供の頃には滅多になかったものだ。それがアッという間に何から何までプラステックに変わってきた。日本が経済成長できたのもプラスティクの普及が、オオトメーションとか、大量生産という形に適合して、相乗効果をもたらしたのだろう。

 そして、ダイオキシン問題が騒がれて以来、燃やしてはならないと言うことが言われるようになった。しかしバブフィルターをきちんと設置している焼却炉を24時間運用すれば、外部に有害物質が出ることはほとんど無い。絶対に無いとは言えないが、人体に影響が出るほどのものがでることはないと断言する。

 それは原発汚染水問題とも似ていて、絶対に危険が無いかと言えば、危険はある。しかし、その程度極めて低いので、世の中にある様々な有害物質を考えれば、その程度は社会的許容度と考えざる得ないものだと思っている。まあここが環境原理主義者と相容れないところである。

 燃やしてはならないと言うところから、海に広がることになった。プラスティク類はマイクロプラステックの増大に繋がったのではないだろうか。プラステックを燃やせるような比較的実害の少ない添加物のものにする方がまだましだ。ダイオキシンは厳密なことをいえば木材を燃やしたって出るのだ。

 プラステックは人間の暮らしを夢のように改善した。これを燃やしてはいけないという考えで、このまま世界中が進むことは可能なのだろうか。私は出来ないとみている。ありとあらゆる所からリサイクルできないで漏れ出てくて、海に溜まって行く。それよりも燃やしてしまった方がはるかにましと考えるほか無い。

 海でゴミ拾いをして一番大変なのが、ゴミの分別である。拾った後、分別して仕分けしてゴミ処理場に運ぶ。拾うことの数倍の労力がかかる。費用もかかる。そのために簡単には海のゴミ拾いが出来ない。何でも一緒にして持って行けば引き取ってくれるなら、海のゴミ拾いは気軽に出来るはずだ。

 ゴミが人類を滅ぼすと予測した人が居たが、プラステックゴミがそれをいよいよ現実化している。使わなければすむプラステックを使わなければ居られないために、人類は危ういところにきている。実に愚かだ。愚かな生き物だから滅ぶのだろう。

 プラステックを燃やしてはいけない理由は3つが言われている。
1,焼却時に二酸化炭素が排出される。異常気象の原因になる。
2,燃やすとダイオキシンが出来て、ダイオキシンは発がん性物質である。
3,焼却炉を傷める。高温で燃焼するため。

 しかし、二酸化炭素を燃焼で出さないようにするのは重要である。その最たるものが生ゴミである。生ゴミを燃やすなど論外である。生ゴミは堆肥にすべきだ。バイオガスにすべきだ。ダンボールコンポストを家庭でやるべきだ。生ゴミを燃やすのを止める方が先だ。

 ダイオキシンが出る問題は、現状の焼却炉であればまず問題が無い。500度以上で燃え続ければダイオキシンはまったく出ない。連続焼却をすれば良いのだ。そして、500度以上に炉内を挙げるためには、プラステックゴミは大いに役立つのだ。

 プラステック製品を生ゴミを燃やす助燃剤として上手く混入しながら炉内にゴミを投入する事が重要になる。ゴミの燃やし方を丁寧にかき回しながら行えば、ダイオキシンは出ない。プラステックばかり燃やせば、炉内が高温になり、炉を傷めることになる。

 プラステックの代替品が出来るまで、プラステックは燃やすほかない。燃やすことが許されれば、その辺りに落ちているプラステックはかなり減るはずだ。燃やさなければマイクロプラステックの増加は止められない。環境原理主義者が、環境破壊の張本人になっている事例だ。

 何もゴミ焼却炉で燃やす必要は無い。工場で燃料に使えば良いのだ。製紙工場ではプラステックゴミを燃料として利用しているところがある。熱を回収しているわけだ。これなら2酸化炭素の排出という問題も削減されている。それでも行けないというなら呼吸が出来ない。

 重油を燃やすのもプラステックを燃やすのも同じことだ。そもそもゴミ焼却炉では助燃剤として重油を使っていた。今は良い炉が多くなって助燃剤の利用は減っていると思うが、それでも500度以上に炉内を保つためには、プラステックゴミはあった方が良い。

 生ゴミを燃やすと言うことは、水を燃やしているようなものだ。環境原理主義者の皆さんはまさか生ゴミをゴミとして出してなど居ないとは思うが、焼却を禁止するのは生ゴミの焼却処理禁止の方が先だ。それができないでいて、プラステック焼却禁止どころではない。

 紙もリサイクルの方が良い。プラステックもリサイクルの方が良い。生ゴミも堆肥化が言い。そうすればゴミは半減するはずだ。私は小田原で「生(いき)ごみクラブ」というものを作り、ダンボールコンポストで生ゴミの堆肥化活動を始めた。小田原市全体で取り組む活動に育ち、環境大臣賞までもらった。

 まさかプラステックを燃やしてはいけないと主張している人で、生ゴミをゴミで出す人は居ないと思うが、ダンボールコンポストは誰でも出来るし、費用もかからない。素晴らしい堆肥が出来る。是非とも多くの人に取り組んで貰いたいものだ。出来た堆肥が使えないという人が居たら、のぼたん農園で引き取る。

 普段ダンボールコンポストを作っていれば、災害時にはそれが非常用トイレになる。それぐらいの消化力があるものが作れる。廃油などはダンボールコンポストを活性化させる材料に使える。ダンボールコンポストの活動は、私が居なくなった今でも小田原では続いている。

 石垣市の焼却炉では生ゴミは燃やして良いが、プラステックは燃やさない。これは本末転倒なのだ。誤りを新たむるにはずることはない。石垣市のゴミ問題は畜産糞である。3万頭ぐらいは居ると推測される。牛1頭1日当たりのふん量は45.5kg、尿量は13.5kg 。人間に換算すれば、100万人以上が垂れ流していることになる。

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「外来生物」を農業はどう考えれば良いか。

2022-12-07 04:24:45 | 環境関連


 のぼたん農園の溜め池には石垣島では貴重になってしまった、ミズオオバコ、ミズワラビ、アカウキクサの3つの植物がある。そのことをとても有り難い、大切なことだと考えている。しかし、本当にそれでいいのだろうかとも思う。

 希少な植物だから守らなければならない意味はどこにあるのだろうか。守られるべきものの第一は、人間の暮らしである。人間が豊かに暮らして行くと言うことが、良い環境の目標である。そのための生物の多様性である。環境の永続性である。

 毒蛇のハブはそれなりに希少なものである。石垣島では近年孔雀の増加に伴い減少している、と私は見ている。孔雀の沢山居た、名蔵シーラ原では先ずハブは見なかったが、崎枝は孔雀が居ない代わりにハブは結構居るようだ。ハブだけでなく、ヘビ全体が多い。

 は虫類を孔雀は食べ尽くしてゆくのだろう。孔雀を害鳥として駆除しているが、減少するどころかだんだん増えている傾向だ。しかし、ハブはその御陰で減っているのかも知れない。それをありがたいことだと思っている。孔雀ぐらい我慢したくなるぐらいだ。

 さすがに石垣島に孔雀が居るのはひどく困ることだが、ハブが減るのは有り難い。それでも生物多様性と言うことで言えば、ハブなぞ居なくなれば良いともいえない。ウミガメが西表では保存が成功している内に限度を超えて、増えている。海藻を食べ尽くしてしまい、今度は魚が住めなくなっている。

 ウミガメは仕方がなく石垣の方にまで来ているようだ。ウミガメウオッチングをダイビングの売りにしているので、観光として考えれば、ウミガメの増加は良いことなのだろうが、漁業者はこれでかなり困っているはずだ。漁業資源の衰退。海藻の林の消滅である。

 先日網に入った亀をもりで突いて流したと言うことで、大量の死んだ亀が岸辺に流れ着いたために、注意を受けた漁師さんが居た。今のところ亀の保護活動は継続しようと言うことのようだ。一方で漁で被害が出ていることで、漁師さんの生活に影響が出ている。

 先日市史編集員の松島さんと言う方が、水生植物のオモダカ、カナダモ、ヒルムシロ がないかとのぼたん農園に調査に見えた。その3つはあまりない方が良いと思っている植物である。最近水生植物は田んぼの除草剤で、壊滅的な影響が出ている。

 稲作ではオモダカは難防除性の水田雑草として扱われる 。たぶんお米が日本に伝わるときに、オモダカも便乗して日本に来た植物かと思う。農の会の親子田んぼでは、オモダカが余りに増えてしまい、一年間休耕して駆除したことがある。

 カナダ藻は名前の通り、北米からきた帰化植物で、小田原の水路では異常繁殖していた困りもんの水生植物であった。日本に現在繁茂している植物のたぶん半分位は日本にそもそもはなかった植物が、日本に侵入して蔓延ったものであると考えても良いのだろう。在りがたいものも在れば、困りものもある。

 アカウキクサは現在日本全体で純粋種はほとんど失われているのではないかと思われる。ほとんどの場所でアメリカ産のアゾラと交雑したと言われている。アゾラは特定外来生物の一つで、見付けたら駆除した方が良い植物とされている。特定外来生物としては、植物では19種が指定されている。

 法律に基づいて、駆除し広げないようにしなければいけない植物とされている。アゾラは合鴨農法では田んぼに有効な植物と言うことで、わざわざ導入されたものである。良いと思って悪かったと言うことが、頻繁にあるのが植物の海外からの導入である。

 特定外来生物の問題は日本にそもそもあった希少になっている植物を守るためには、新しくやってきた旺盛な繁殖力のある植物を抑えなければならないと言うことなのだろう。アメリカハマグルマは石垣島では一番困る植物ではないかと思われる。

 やたら繁殖力が強くて、今や於茂登岳の山頂付近にまであると言う。イノシシが足の爪の間に挟んでどこにでも運んでいるらしい。すぐ根ずくから、石垣島では至る所で黄色い花を咲かせている。土手の植栽で崩壊を防ぐために道路建設に伴い、わざわざ導入した植物だ。確かに崖の保全には有効だ。しかし過ぎたるは及ばざるがごとし。

 黄色い花と言えば、黄ショウブは帰化植物で、その繁殖力で自生していた水辺のショウブを凌駕している。しかし、なかなか美しいショウブである。花だけ見たら駆除しろとはいえない美しさである。舟原溜め池では一部に留まるように管理している。

 黄色い花菖蒲は日本にはなかったから、明治時代以降園芸植物としてとても尊重がされ改良までされた。それが野外に出たら、繁殖力が半端ではなかったのだ。そういう園芸で持ち込んで広がったものも様々在る。牧草の種が、牛の糞を通して、各地で広がっているのもある。

 日本から出て行って外国で暴れているのが、グリンモンスターと呼ばれて怖れられているクズである。くずはアメリカの鉄道の土手を守るためにわざわざ植えて、手に負えなくなったと言われている。葛粉は今でも生産されているが日本では、困るほどの繁殖はしない。

 そういえば同じデンプンの片栗粉のカタクリの方は滅多に見かけることのない植物になってきた。カタクリのように花が素晴らしいものは、群生地が保護されて守られている。一方で見た目が地味な日本の固有種は黙って無数に消えていって居るのだろう。

 そう考えるとき、感傷的な気分では、カタクリには残って欲しいが、葛はいらないと言うことだが、人間の勝手だなということになる。何を残して、何を排除するか、たぶん何千年前に日本に来た植物もある。それはもう許せるもので、江戸時代はどうなのか。明治以降にきたもの、戦後に来たもの、何かそういう線引きが意味があるのだろうか。

 植物の場合、そもそも農業というのは帰化植物を育ている物だ。稲だってやってきた帰化植物だ。サツマイモだって、ジャガイモだって、麦だって、大豆だって、大抵の農作物は外国からもたらされて、日本人の食料となり日本を支えてくれている。

 治まるところに治まっていれば、妥協して良いのではないか。こう言うときに、環境原理主義では困る。あくまで手入れの範囲で収まれば良いのだ。小田原でメダカ池にひめだかが入ったと言うことで、石灰を播いて淘汰した。生き物を殺すことが環境保全というのは正しい判断だったのだろうか。今でも気分が悪い。

 例えば石垣島で目立つ戦後導入された樹木はギンネムとモクマオである。どちらもわざわざ防風林として入れたものだ。それなりに役立つているのだろう。特にマメ科のギンネムは土壌をよくするから、許して良いように思える。牧場の中にギンネムが在れば日陰にも成るし、土壌の改善にも成る。

 まあまあのところで妥協するのが一番である。善悪で決めつけないことだろう。舟原溜め池にカキツバタを購入して植えた。それをとんでもないことだと地球博物館の研究者の方が怒っていた。環境原理主義者なのだろう。溜め池はビオトープのような遊びではないのだ。

 舟原の溜め池はれっきとした江戸時代初期に作られた農業遺構である。どうやって溜め池を残すのかを考えれば、行政にはその力は無い。美しい場所にして、人を引きつける何かがいるのだ。カキツバタが咲き乱れていれば、さすがにゴミためにはしないだろう。と私は考えた。間違っているのだろうか。


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アメリカハマグルマの除去

2021-11-02 04:34:11 | 環境関連


 石垣島で一番困っている帰化植物はアメリカハマグルマである。アメリカハマグルマは、アメリカ大陸原産のキク科の植物で、法面などの緑化用と して県内各地に導入されて、それが広がり今や山深い於茂登岳の奥まで蔓延り始めている。

 何とか除去しないと貴重な植物が圧倒され、消えてゆくことになると思われる。水牛の「わかば」を放牧している草地は最初は牧草で覆われていたのだが、わかばが牧草を食べたあとにはアメリカハマグルマが広がってきている。

 すでに草地に侵入していたのだとは思うが、牧草が無くなったあとはたちまちアメリカハマグルマが勢いを増して、牧草が生えなくなってきてしまった。何とか対策をしないかぎり、牧草が発芽できなくなる事が、はっきりしてきた。


 抜いたアメリカハマグルマの山。

 水牛はアメリカハマグルマをまったく食べないことでもない。気が向いたように食べていることもある。ところが、食べたとしても上部の葉の部分だけだから、茎が折り重なって編み目のように残った状態になる。しばらくすると葉が再生してくる。

 除草剤を使ってアメリカハマグルマを除草するとなると、グリホサート系の除草剤ラウンドアップをつかうことになる。発がん性があるとされている、ラウンドアップである。生産国アメリカと何でも従うだけの日本以外の先進国では、発がん性があるとしてだいたい禁止に向かっている。

 果たして除草剤を使わないでアメリカハマグルマを抑えることが出来るかどうかである。使いたくないという気持ちは誰にでもあるが、アメリカハマグルマが石垣島の自然を覆い尽くしてしまうと言うことも耐えがたい。ではどうすれば一定の範囲で押さえ込めるかをやってみるほか無い。



 まず手取りでどの程度やれるか試してみた。半日かけて20㎡ほど取り除いた。それでも地下には根が残っているから、この後どのくらい再生してくるのか経過観察するつもりだ。繰返し取り除かない限り、なくならないのではないだろうか。

 刈払機でやはり20㎡ほど刈ってみた。これは10分もあれば作業が出来た。ここは繰返し刈っていたら、無くなるのかどうか試したいと思っている。刈った草から再生していると言われているほど強いから、どこまで期待できるかは分からない。

 三つ目の方法は防草シートで覆って見る方法。これで枯れてくれるのかどうか。光を遮断して一ヶ月ぐらいで枯れるのだろうか。どうもその程度では枯れないような感じもする。どうしても完全に覆えないと言うこともある。様子を見るほかない。

 第4の方法として夏場であれば、透明のビニールシートで覆うという手もある。石垣島の光は強いから、地中の温度まで上がり、枯れる可能性はある。この方法には少し期待しているので、11月では少し可能性は低いがやってみたい。

 どの方法も万全とは言えないものだが、除草剤を使いたくない以上それくらいの挑戦はしないわけにはいかない。除草剤を使わなければ、近代農業は成立しない。変わる方法を提示できないのであれば、除草剤を否定できない。

 田んぼの草はジャンボタニシをコントロールすることで何とかなることが分かった。田んぼの除草剤は使わないでも出来る農法が提案できる。今度はアメリカハマグルマの除草のやり方を見付けたい。これは相当に難関であるが、何か方法を見付けなければ、石垣島の自然はこの草で覆われる日が来るだろう。

 
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化学肥料や化学農薬

2021-10-26 04:14:25 | 環境関連


 有機農業や自然農法をやっている人、あるいは環境保護活動をされている人の中には、化学肥料や化学農薬を強く否定する人が多い。わたしは必要ならば使う方が良いことだと考えている。実際に化学肥料と農薬と大型機械によって開かれた近代農業が、人類を支えて来たことは感謝されなければならないことだと思っている。

 自分が化学肥料や化学農薬を使わないと言うことと、人が使うことを否定すると言うことは意味が違う。使わないことは自分の生き方である。大型機械農業を否定しているのは、個人的な思想であり、生き方である。使いたくない人は勝手に使わなければ良いだけのことだ。

 使っている人をとやかく言う必要は全くない。法律で許されているものを生業として使用しているのだから、何の問題も無い。それをまるで犯罪行為のように言えば、もうそこで大多数の農業者と有機農業者や環境保護活動家との間に分断がおきてしまう。よほど注意して発言をしなければならないことだと思っている。

 農薬や化学肥料は環境を汚染しているという一言が、農家と消費者の分断を産んでいることに気付かなければならない。いつも主張していることだが、近代農業を犯罪扱いするのであれば、自分の身体でこうあるべきと言う農業を実践体験してから主張すべきだ。

 そして、消費者としてどれだけ高い食料品であるとしても、有機農産物を購入すべきだ。自分で有機農業をやってみて、それでも原理主義的に農薬や化学肥料を批判するのであれば、それは分断される覚悟があると考えるしか無い。分断されて良いことは何も無いわけだが、それも仕方がないか。

 化石燃料を一切使わない自給自足生活を体験した体験から、農業者すべてが仲間であると言うことが、なによりも大切なことだと考えるようになった。農業を続けてくれる人が居なく無ければ、日本人は絶滅するほか無いのだ。農薬や化学肥料の可能な限りの安全な利用は当面必要なのだ。

 今一番心配しているのは稲の栽培期間全体での肥料効果が続く、物理的緩効性窒素肥料 である。樹脂コーティングされていて肥料成分が徐々に溶け出すようになっている。作業が大いに楽になった。ところが、この樹脂成分が海洋のマイクロプラステック汚染に繋がっている。

 樹脂成分を使わない、緩効性窒素肥料 は色々ある。有機肥料は速効性が無くそもそも、何年もかけて土壌を改善してゆくタイプのものである。化学的緩効性肥料 と言うものもある。代替の肥料があるのだから、政府は樹脂コーティング肥料を早急に禁止しなければならない。

 マイクロプラスティクのような化学合成物質が環境を破壊するというのは現実である。それは人間の身体にも溜まり始めている。しかし、自然農法であれ、有機農業であれ、化学物質や化石燃料を一切使わない農業であれば、先ずは販売するほどの生産物は得られないと言う現実も知らなければならない。

 自然農法では生産性が低すぎるのだ。だから、私は自給農業を誰もがやるべきだと主張をしてきた。人に辛い労働を押しつけるようなことは倫理に反する。やりたいものがやればいいだけのことだと考えている。自分はやる気が無いままに、辛い労働を人に押しつけるなど論外である。

 問題は誰が生産を担うのかと言うことだ。農業者は儲かるわけでは無い。地域の文化と食料生産を支えている誇りから頑張ってくれているのだ。だから子供にやらせられない事が多い。日本中で稲作農業者は極端に老齢化して、減少している。この先日本から農業者はいなくなると考えた方が良いくらいだ。現状を支えてくれているのは大型機械と、外国人の技能研習生と偽称された奴隷的労働者である。

 石垣島で始めて稲作を行ってみて、有機農業の限界と言うことを痛切に感じた。昔、八ヶ岳の標高1000メートルを超える八千穂で有機農業を始めた、窪川さんが有機農業は寒いところでなければ出来ないと断言していたことを思い出した。

 多くの生業として農業をやる人が、有機農業に取り組まないのは当然だと思う。ヨーロッパなどで有機農業の普及が進んでいるというのも、気候的なこともあるのかもしれない。たしかに、小田原でやったときは何とか乗り越えることが出来た。初めから、回りの農家に匹敵する収穫をしていた。

 石垣島でも何とかなると甘く考えていて、つらい挫折を味わうことになった。石垣島で有機農業で田んぼが出来るようになるのは、しばらく先のことのようだ。かならずなし遂げてやろうと決意しているが、ともかく難しいことだけは確かだ。ますます石垣島の農業者を尊敬するようになった。

 有機農業でやれると言うことの意味はその地域の平均収量を超えたときに言えることだ。本来、有機農業の方が収量が多くて当たり前なのだ。理由は科学的に当たり前の事だ。自然の摂理に従い、健全に育てることが有機農業であれば、当然収量は多くなる。もし少ないのであれば、作物が自然の摂理に外れていると言うことになる。まだ有機農業の技術が未熟だと言うことに過ぎない。

 有機農業の方が手間がかかるが、作物には良い状態になり、当然収量も多くなると考えて良い。手間がかかるから、有機農業の方が収益が上がらない可能性は高い。倍の価格の食料品を買える人など少ない。だから経営を考えて有機農業をやらないのは当然のことだと思っている。

 有機農業をやっていれば、一般の農家から趣味で農業をやるのだからのんきなものだと、こう思われて当然のことだと思っている。だからこそ、収量では地域で一番だと言える有機農業でありたいと思ってきた。また手間を惜しまなければそれは実現できる。石垣島でもその努力をしたい。

 石垣島の慣行農業のイネ作りも、小田原に比べたらはるかに難しい。皆さんの農業の姿を見ていると、それぞれの農業のやり方が独自である。それぞれに違っていて工夫をされている。どなたにも頭が下がる気持ちである。現実に見事な田んぼを見ては頭を下げて歩いている。

 それでも結果的には低い生産量である事も確かである。その問題の第一原因は「ひとめぼれ」である。この品種は冷涼地向き品種である。沖縄で作れないことが無いというものの、十分な生育には成らないと考えるべき物だ。そもそも気候の熱帯化に対応する品種の作出が言われている中で、不思議な選択をしている。

 特に有機農業のように、時間をかけてじっくり育てる農法では晩生の品種が良い。ひとめぼれのような冷涼地向きの早生品種は無理だとおもう。ひとめぼれは東北のお米ではあるが、石垣島でも可能な品種だと言われている。そのように考えるからこそ、沖縄県は奨励品種に指定した。そして20年も栽培が続けられている。ひとめぼれは味が良いお米と言うことで指定されている。

 ただし、奨励品種に指定した時の石垣での実証実験の収量は1期作で6俵。2期作では5俵だったのだ。これほど低い収量のものを奨励品種に指定するという理由は何だったのか。他所の地域では普通8俵ぐらいの品種が指定されている。いくら味が良いお米だとしてもこんな低収量のお米を奨励品種にしてはならない。

 今年の石垣島の慣行農法の2期作のイネ作りでも観察を続けた結果、2期作目の作柄は10葉期ぐらいで葉が出てしまう田んぼが多い。ただ、化学肥料で一気に育てるために、それなりの穂がついている。どうしても、多めの化学肥料を使うためにイモチが出やすくなっているのでは無いかという田んぼをいくらか見受ける。

 長年の経験から来る独特の栽培技術だと思うのだが、10葉期でありながら80センチを越える高さまで成長させている。そして、実に大きな穂を付けている。分ゲツはいくらか少ないことが多いようだが、水切りを徹底する管理で、分ゲツを止めているからのようだ。

 有機農業では1期作だけで行くべきだろう。そして裏作の時期には緑肥を育てなければならない。充分の腐食を田んぼに戻す必要がある。またどんな堆肥をどういう手順で田んぼに入れるかも研究しなければならない。苗作りをしっかりと作ること。石垣島に適合する品種を見付けなければならない。


 
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イリオモテヤマネコの496日ぶりの事故死

2021-05-04 04:33:45 | 環境関連


 イリオモテヤマネコの交通事故が4月21日、浦内橋と干立集落間の県道215号線で発生、雄の成獣1匹が死んだ。ヤマネコの交通事故は2019年12月11日以降、496日間起きていなかったが、無事故日数の記録が途切れた。

 道路に検知システムを作っているが、上手く機能していない。検知システムだけでは事故を完全に防ぐことはできない。運転者への注意喚起もうまく機能していない。ヤマネコが道路に出てこないようにならない限り、交通事故は完全には防げない。

 実に悲しいことだ。最近ヤマネコに気持ちが行っているので、何か家の猫が死んでしまったような気持になる。死んだ個体はこの地域に定着していたイリオモテヤマネコと確認されている。

 私たちが、餌場を作ろうと計画していた地域である。活動が始まらないうちにヤマネコが死んでしまった。何という悲しい事故かと思う。沿道の草とりをほんの少し体験してもらった地点だ。沿道に草が茂らなければ、少しはヤマネコが見えるだろうという事である。

 海岸線に暮らしているヤマネコが多いのではないかと以前から推測されている。今度西表島全域をメッシュで区切り、すべてに定点カメラを設置して、前頭数を確認することになっている。100匹以上いてくれることを祈るような気持でいる。

 100匹以下になると、生存がかなり危うくなると思われる。一つの小さな島で哺乳動物が生存を続けるための絶対数である。100匹以下になってきたら、もう捕獲して、どこかで飼わない限り生存は危うくなる気がしている。パンダと同じことである。

 その時はツシマヤマネコと交雑も必要になるかと思う。きっとそんなことは許されないという人がいるだろうが、そうでもしない限り絶滅してしまう時が来る。やらないで済めばもちろんその方がいいに決まっているが、そのくらいの不安がある。

 最後のニホンオオカミは甲府動物園にいた。子供のころその銅像を見たことがある。甲斐犬と交雑させようとしたがダメだったのだ。ニホンオオカミの絶滅も悲しいことであるが、今イリオモテで起きていることは過去のことではない。

 西表島の海岸線に車を飛ばせる道路が作られた。これで、事故が多発するようになった。それほど大きな島ではない。車を飛ばせない道路を作るべきだったのだ。人間の都合ばかりで、ヤマネコのこと等考えられていなかった。ヤマネコが飛び出せないような道路も考えが足りなかった。

 観光客が増えて、レンタカーが急激に増えた。島の住民にとっては良かったことではあるのだが、ヤマネコの事故死に繋がっている。防ぐ手立てをしなければならない。私もできることがあれば、何でもやらせてもらいたいものだ。残念ながらそうした活動もコロナで止まっている。

 50数年前イリオモテヤマネコの発見されてから地元では、ヤマネコと人間のどちらが大事かという議論があった 。当然のことながら人間に決まっている。だからこそヤマネコを大事にすることが、人間を大事にするというつながりを作らなければ、ヤマネコを守ることはできない。

 人間の暮らしとヤマネコの生存が何とか維持された西表島が素晴らしい場所なのだ。日本最後の野生の地である。その象徴がヤマネコなのだ。西表島の住民がより豊かに暮らせる環境づくりと、ヤマネコの生存が重なるような状態を目指す必要がある。

 道路にヤマネコがえさを採りに出て来る要因は、田んぼにヤマネコが入れなくなったことがあると見ている。その話は環境保護センターの方には手紙を書いたのだが、そいう事を西表島環境庁保護センターでは考えていないようだ。

 というか返事もない。草取りなどどんなことでもボランティア行きたいという事にも、連絡がない。田んぼという西表島の暮らしを支えるものと、ヤマネコのえさ場が共存できなければ、その肝心な西表島の人たちの暮らしは守れないだろう。

 環境原理主義者であれば、西表島から人間が居なくなればいいと考えるかもしれない。そんな自然保護であるなら、無意味だと思う。人間の暮らしとヤマネコが共存できる世界以外には意味がない。それが何千年実現できて来たところが西表島の自然環境のすごいところなのだ。

 ところが人間は減少したが、西表島の生活環境も極端と言えるぐらい変化した。例えば自動車の利用だ。その為の道路の整備である。もちろんそれは必要なことだ。しかし、道路の作り方には注意が必要だったのだ。石垣島と同じような道路の作り方ではヤマネコの生存を脅かすことになったのだ。

 40キロしか速度を出せない道路を考える必要があった。そうしたことを提案することが環境保護センターの役割である。経済重視が、住民との融和、その結果何も言わない保護センターになっているのではないか。

 確かに道路の制限は西表島の人の暮らしにはかなりの負担を感じさせることになる。それに見合うべきヤマネコからの恩恵がなければならない。ヤマネコがいるので、西表の暮らしが成り立つという共存である。環境保護センターはこのことを考えることが重要である。

 西表の海岸線にはかなり水田がある。イノシシの害から田んぼを守るために、どこの田んぼにも電柵が張られている。ヤマネコは田んぼに入れないことにここ10年でなった。長年えさ場であった田んぼに入れないから、道路に出て餌をとろうとしている可能性がある。

 まず、田んぼをえさ場に戻してみることではないだろうか。張り巡らされた電柵を超える丸太橋を作るか、あるいは電柵をくぐるトンネルを作ればいい。イノシシさえ防ぐことが出来れば、ヤマネコは田んぼに迷惑をかけることはない。

 これが出来れば、餌場は一気に増えることになる。それには行政がトンネルや丸太橋を提供する必要がある。設置した田んぼにイリオモテヤマネコの補助金の交付をする。これだけで一気に生息環境が整う事になるのではないだろうか。

 これこそ西表の農業が守られ、自然環境が守られる共存策になるだろう。出来れば、その田んぼがカエルなどが沢山発生する物でありたい。その為には有機農業も推進する必要があるだろう。有機農業をするだけの付加価値を付けなければだめだ。

 いずれも政府はそうした予算などつけないに違いない。イリオモテヤマネコを大切だと考える人たちが、基金を作る必要がある。あるいはお米を食べる必要がある。そうして西表のヤマネコと農業者が共存できるようにする。

 全国のイリオモテヤマネコを保全したいと考える人が、西表の有機米を食べることしかない。高いお米になるかもしれないが、きっと全国にはそういう気持ちの人が、少なくとも1000人くらいはいるだろう。それでイリオモテの人の暮らしとヤマネコが共存できることになる。

 西表島が世界自然遺産になることで、西表の人口が減少するようでは失敗である。屋久島は人口が減少した。西表島は今より数倍人口が多かった時代があった。その上にヤマネコが猟の対象になっていたのだ。それでもイリオモテヤマネコは絶滅せず生き残った。

 今の人口であれば、充分人間とヤマネコが共存できる。屋久島は人口減少が続き、何のための世界遺産かわからない事になっているのではないか。前例を良く調べるべきだ。地域が維持されてこその世界遺産である。地域が維持される。その維持の仕方が、自然環境を維持する形でなければならない。

 田んぼはその意味で実に有効なものだ。ヤマネコ米を日本中で購入運動がおこることを願っている。その為に自分にできることがあれば協力したい。

 
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