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外来植物・帰化植物のこと

2024-06-03 04:16:20 | 環境関連


 外来生物が日本の生物を駆逐してしまう、というので、特定外来生物というものを国が決めて、駆除している。石垣島でも特定外来生物(ナガエツノハゲイトウ)が広がっている現状がある。外来生物の中には有用な生物だというので、わざわざ持ち込んで広げてしまったものもある。

 特定外来生物は国が法律で取り締まっている生物である。泥棒と同じで、発見したら国に通報し、駆除してもらわなければならない生物なのだ。しかし、実際には定着してしまったものが大半で、今後どうしたらいいのだろうかと悩ましいところである。
  • この法律の目的は、特定外来生物による生態系、人の生命・身体、農林水産業への被害を防止し、生物の多様性の確保、人の生命・身体の保護、農林水産業の健全な発展に寄与することを通じて、国民生活の安定向上に資することです。
  • そのために、問題を引き起こす海外起源の外来生物を特定外来生物として指定し、その飼養、栽培、保管、運搬、輸入といった取扱いを規制し、特定外来生物の防除等を行うこととしています。
 
 社会常識とは違うかもしれないが、特定外来植物の取り締まりは間違っているという事を書きたい。それは農業利用されていた、アゾラ・クリスタータのことがあるからだ。アゾラクリスタータを使って、アゾラ農法や合鴨農法をやることは犯罪行為という事になる。

 世界的に見ると、アゾラ農法が飢餓を救うという事で、アフリカの飢餓地帯では、アゾラ農法が有効という事で、飢餓救済のために広げる活動を、JICAが行った事例がある。アゾラ農法はすでに6世紀に記録がある。中国南部からベトナムで行われていた循環型農法である。

 その窒素固定能力はマメ科植物よりも能力が高い。1ヘクタール1日で1キロ~3.6キロとされる。しかもリンさえあれば、窒素はない方が増殖が良いという特性がある。何も持ち込まないでも稲作が出来るという優れたものだからだ。北米大陸にあったアゾラクリスタータは有意な植物なのだ。

 しかし、日本のアカウキクサと交雑してしまい、純粋なアカウキクサがほとんど絶滅しかかってしまった。それがいけないという事が言われる。またアカウキクサのすさましい繁殖力で、水面が覆われてしまい、確かに水生昆虫などの生物の繁殖が制限されるという事が起きている。

 外来生物というものは新しい環境で、周辺環境に順応した状態まで時間がかかるという事なのだ。アゾラがそれほど困りものの浮草とは私には思えない。時間が経過すれば、日本の環境に収まってくるはずだと思う。わずか1000年後に確認してもらえばわかるはずだ。

 日本に現在ある様々な生物の半分くらいは帰化植物である。それの何がいけないのかが分からない。栽培されている農産物や園芸植物など、ほとんどが外来植物と言える。外来植物を拒否していては、日本人は明日の食べ物もないだろう。

 外来生物によって、生物の多様性が失われるという事が言われる。しかし、外来生物がすでに日本の自然を支えているのだ。生物の多様性を失わせているのは、人類の生存である。人類さえいなければ、地球上は生物の多様性は豊かになるだろう。

 しかしそれはあくまで一時のことで、大噴火や、氷河期、惑星の衝突、温暖化など、様々な自然現象で、生物は絶滅して、また再生するを繰り返している。人間が移動させた為に起こる多様性の消滅など、地球の時間軸から言えば、何もないに等しい。

 1年後のことは確かに心配かもしれないが、1万年後のことを考えてみれば大した問題ではない。だから、生物の存在をないがしろにして良いというのではない。生物は大切だが、外来生物だから何がいけないのだと言いたいのだ。そもそも、日本の自然の半分は外来生物で出来ているのだ。

 植物を移動させるのもいけないという、環境原理主義者もいる。その人は一体何を食べているのだろうか。薔薇が美しいとは思わないのだろうか。猫が可愛いとも思わないのだろう。たぶん人間的感情の乏しいような人だから、窓辺に一輪の薔薇を飾り、ネコを飼う事もないはずだ。 

 ちょっと千年前の特定外来生物であれば、許せて、ここ50年くらいの外来生物が耐えかねるというのでは科学性がない。地獄のように水面を赤く覆いつくす光景が異様で耐えかねる。こういうのは慣れればどうという事はない。私など田んぼが一面覆われたらうれしくて仕方がない。 

 これで肥料が十分なのだ。但し簡単には増えるものではない。水が汚いから増えるのだ。綺麗な環境では簡単に増えるようなものではない。私は増やすためにいろいろ努力しているので、なかなか増殖が難しいと痛感している。合鴨農法をやられた方でも増えなかった方の方が多い。 

 もう一つ書かせてもらえば「へラオオバコ」のことがある。これは要注意外来生物になっている。何故へラオオバコがいけないのかが良く分からない。これは牧草として大変有望なものだ。繁殖力も強いし、踏み付けにも強い。麦科牧草とは違う栄養があり、大いに利用すべきものだ。 

 環境省が制定した外来生物法がある。そこに書かれているものが、我が国の生態系等に被害を及ぼすおそれのある外来種リストというものがあり、200種がレベルごとに掲載されている。出来れば駆除した方がいい生物。として様々なレベル分けがなされ、指定されている植物は200種ある。

 もうこの中にはまさかこの植物がと思うような一般的な植物が目白押しである。オオバコや椰子やクレソンまで指定されている。つまりあってはならない場所にあるという事がいけないらしい。確かに環境主義者にしてみれば、腹立たしいことであるのだろうが、私にはあってほしい植物が満載である。

 例えば、オオバコは心臓病に効果がある。 セイタカアワダチソウは湿疹の時にお風呂に入れる。クレソンなど食べればいいだろう。現状維持のために、有用な植物まで排除していいのだろうか。アメリカセンダングサは沖縄では蜜源である。

 アメリカハマグルマは路肩保護のために入れられた植物だ。沖縄ではすでに手におえない状態で広がっている。しかし、この植物の繁殖力と生産性の高さは、植林地の下草として使える。これが生えてしまえば、大きくなる草は生えない。あえて除去はしていない。この草が苗木をどのくらい障害するかは、よく観察している。

 モクマオや銀ねむは沖縄では防風林として入れられて、広がり過ぎた植物だ。確かに強風の石垣島ではモクマオやギンネムは有難い植物である。すぐ出てくるし風に強い。それがだめならどうしろと言うのかというので、今はセンダンを植えている。

 ギンネムならマメ科植物だから、土壌を良くしてくれるはずだ。だからギンネムが出てきたら、今は切らないでいる。防風林のつもりである。センダンが大きくなってから切ればいい。ギンネムの葉は水牛も好物である。ギンネムが増えると何が消えるのだろうか。それは仕方がないことではないのか。


 
 
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マイクロプラステック

2023-12-29 03:49:41 | 環境関連
 

 人類の危機は様々あるが、最も始末が悪く取り返しようもないものが、マイクロプラステックである。静かに、深刻に、人間の終わりが近づいていると考えざる得ない。プラステックを取り込み、動物はいなくなるとしても、植物は生き残るだろうから、動物の危機であり、生物の危機ではない。

 また微生物から始まり、動物も再生する時代は来るのだろう。二度目の人類は誕生するかは分からないが、人類が誕生すればまた同じようなことをやるに違いない。プラステックはまだ100年の歴史はない。我々世代はずいぶんの恩恵を受けたが、たぶん200年後にはプラステックは禁止されているだろう。

 プラステックが無くなる時代に、まだマイクロプラステックが人類を滅ぼしていなければ良いと思うが、多分手遅れに成ることだと想像している。プラステックを取り込んだ人体が、どう変化しているのか、想像することすら怖い。がんの多発は間違いないことだろう。人類の寿命も大分短くなるのだろう。

 マイクロプラステックが至る所に存在し、人間はそれを避けることが出来ないことになっている。人間の細胞の中までプラステックが入り込み、様々な問題が生じることになる。遺伝的影響は避けられないはずだ。マイクロプラステックは増加を続けている。

 経済協力開発機構(OECD)によると、2019年には世界で約4億6000万トンのプラスチックが消費され、プラスチックごみが約3億5300万トン発生したと書かれている。プラスチックごみは2000年の約1億5600万トンから、倍以上に増加している。

 プラスチックごみで、とくに問題視されているのが「マイクロプラスチック」だ。ペットボトルやビニール袋などは、自然環境中で紫外線などに晒されて劣化すると破砕・細分化され、概ね直径5ミリ以下の微小な粒子となる。始末に負えないものは、微細なマイクロプラスチックと呼ばれるプラステック粒子である。

 これがさらにミクロ単位の小さな粒子になり、海に集まり、魚は身体の中にマイクロプラステックを取り込んでいることになる。特に小さな粒子は細胞の中にまで取り込まれ、様々な障害を生むことになるはずだ。こうした現象はすでに始まっている。もう海は取り返しが付かないことになっている。

 プラスティクゴミはそれでも着実に増加している。気象変動以上の環境問題である。しかし、気象変動の方は、化石燃料の使用を止めれば解決できると言う対策があるからまだましである。世界もその対策に国際会議まで行っている。しかし、プラステックは対策もないから、人類の滅亡に着実に進んでいる。

 確かに分別再生が言われているが、無駄とまでは言わないが、プラステックゴミの減少には繋がってはいない。むしろ燃やしてはいけないという考え方が、マイクロプラステックの増加に繋がっている。再生されるものなどほんの一部で、海に流れ出るものが大半である。プラステックの使用禁止が行われない限り、もう手遅れとと考えなければ成らない。

 当面の対策は燃やす処理を認めることしかない。プラステックは燃やしてはならないと言うことから、マイクロプラステックを増やすことになった。焼却処理が良くないことは当然だが、さらに悪い事はマイクロプラステックだ。燃やさない処理がマイクロプラステックを急増させている。

 グレタ・トゥンベリ さんはノーベル平和賞を受賞したまだ若い環境活動家である。気象変動に対して発言をしている。飛行機を使わないで、ヨットで移動するというようなことをされている。フランスでは「内のグレタちゃん」。と言う話があるそうだ。プラステック容器を拒絶する子供の事だそうだ。

 最近、グレタさんは共産主義的な発言をするようになったために、世界の環境活動から閉め出され始めた。例えば、COP26の会議には以前には招待されていたが、今は拒否されていて、会議場の外で反対の活動をしている。つまり、現状の環境運動は、環境運動で一儲けしたいという人達の会議になったと主張しているのだ。

 例の国会で風力発電の推進を発言したような秋本真利衆院議員が悪い見本事例だ。環境事業の補助金狙いである。こうして環境問題を突き詰めて行くと、結局の所「人間の進歩と調和は、ない」と言うことになる。経済成長そのものが問題になってくる。

 日本が作り出した江戸時代という、循環型停滞社会が次の社会のモデルではないだろうか。前より良くなると言うことでは無く、前のままである事を良しとする社会である。昨日のままの今日であれば、十分なのだ。その停滞の中で、どのように生きる事を充実させられるかである。

 プラステックがもしあったとしても、必要な以上には使用されなかったはずだ。再利用するもの以外はなかった。もったいない社会である。今日のような明日であれば、十分なのだ。民主主義も、独裁政治も、成長信仰から逃れられない。ここに大きな落とし穴が在る。

 中国は経済成長することで、独裁政権が国民から支持されている。監視社会も、自由のない社会も、経済が良くなるならがまんしようという社会だ。もし経済成長が止まれば、政権は維持できない。しかし経済停滞は必ず来る。まだまだ中国は成長余地が大きいが、それでも10年先は危ういだろう。

 経済成長信仰は民主主義国家でも変わらない。去年より生活を良くしたことで、選挙で選ばれる。良くしたとは、経済をよくしたと言うことが主たる理由である。今年は良い年でしたというのは、少し生計が良くなったという場合が大半ではないだろうか。江戸時代は変らず結構でしたである。

 この頑張って良くなる哲学が間違っていると言うことになる。頑張るのは今のままである事が新しい目標になる。資本主義から、共産主義への転換。良くなるために頑張ることが目的ではなくなる。平等である事が主たる目的になる。発展を制御しなければ、環境破壊で人類が滅亡する。

 ここに現状の環境運動の限界がある。石垣島では観光を選ぶのか、環境を選ぶのか。いつも問われている。環境運動の主たる目的が環境破壊阻止である。生活できなければ始まらない。石垣島の経済の主たるものは、観光とそれに伴う公共事業である。

 生活するためには、自然破壊に繋がっても、ある程度止むえないというのが、市民の選択なのだろう。だから、環境運動は移住者中心になる。移住者は石垣島で生計を立てている人が少ないからだ。観光客が減る事をどうでも良いと考えているからだ。このすれ違いが、深刻である。

 西表島ではやまねこか人間かと言われた。人間の暮らしが出来ないでどうするのかと言うことだ。世界遺産になり、自然保護は最優先である。さらに西表島の住民の暮らしに、環境保護が突きつけられている。屋久島では林業が衰退し、暮らしが成り立たなくなり始めている。人口減少が深刻である。

 環境保護はマイクロプラステック問題を最優先すべきだ。イリオモテヤマネコも、カンムリワシも、そして人間も、身体に取り込んでしまうマイクロプラステックで生存の危機を迎えるはずだ。近い内に限界を超えるだろう。その前に、停滞社会の価値観を見付けなければ成らない。

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外来植物はすべて排除すべきなのか。

2023-12-12 04:00:50 | 環境関連


 日本の植物で、身近でよく見るものが外来植物のことがある。どんな植物であれ、長い間にバランスが取れてそこに根付いて行くものだ。古く日本列島にきたものは許されて、新しいものが許されないというものでもない。ゆっくり変るのであれば、それはそれで仕方がないと言うことだろう。

 そもそも栽培されている農作物の大半が、外来植物である。それがよくないと言えば農業など不可能である。環境原理主義者の中には、外来であるからと言う理由だけで、有用であっても、排除すべきと目をつり上げて主張する人が居る。良いものは受け入れて良い。

 小田原の地球博物館で、舟原の溜め池にカキツバタを植えるのだが、どうだろうかと相談したら、一切他所から植物を持ち込むことはやってはならないことだ、とムキになって止めろと言われた。舟原の溜め池には外来植物ばかりが繁茂していることをご存じないのだろうかと思った。相談した私がバカだった。

 外来植物の中には、美しいからと言う理由で持ち込まれて、その後圧倒的な繁殖力で、在来の競合植物を交雑し、いつか純粋種が消えているというものも、多々ある。一時はやったビオトープを、やってみれば分かるが、手を入れないでおけば、外来植物を呼び寄せるだけと言うことになる。

 最近西表で水生昆虫ややまねこの餌場としての池を、クラウドファンディングで作った。私もわずかだが協力をした。ところがこの池があかうきくさで覆われて困ると言われていた。希少植物である、日本のあかうきくさが繁茂したのであれば、素晴らしいことではないかと思う。表面に溜まるのは、池の水管理の仕方が悪いだけだ。

 ビオトープが環境教育という考え方が、しばらく前の日本の環境教育だった。今でもビオトープを続けている人達もいる。頭の中が古い環境原理主義者が手を入れないビオトープに繋がっているのかもしれない。人が暮らす環境というものは、人間が作り出すものだ。それが日本の里地里山の思想だ。

 日本の里山文化は暮らしの周辺に、暮らしに役立つ美しい自然を手入れで、作り出そうという考えたのだ。別段外来種であろうが、無かろうが循環してゆく姿であれば問題が無い。なぜ、カキツバタを他から持ってくることが、環境霍乱になるのだろうか。すでに排除されるべき侵入植物黄ショウブがある。

 そもそも園芸文化というものは、珍奇なものを尊ぶと言う傾向がある。江戸時代、黄ショウブが渡来すれば、交配に利用されたに違いない。見たこともない不思議な植物と言うことで、江戸時代にもシャボテンの流行がある。シャボテンは幸いか不幸か、日本の自然には広がらなかった。一方で広がったものも数限りなくある。

 外来植物の歴史は、遣唐使の時代にまでさかのぼる。ジュズダマやトウゴマなどは大陸から入ってきた。今や数珠玉だけで生存できるチョウチョが日本に生息して居る。クロコロマノチョウだ。これらの植物の多くは、もともと野菜・薬用植物・採油など栽培を目的として持ち込まれたものが多く、そこから野生化したものも多い。

 江戸時代以前に持ち込まれたものだけでも700種類あると書いてある。比較的最近の植物の中では、川原に繁茂するブタクサやセイタカアワダチソウのように、一時的に増えてしまい、一斉に花粉を飛ばすために、花粉症を引き起こし“悪役”とみなされる。

 しかしセイタカアワダチソウはお風呂に入れると、皮膚病に効果が高い。薬効植物である。我が家では採取しては干して、困っている人に送った。薬草の中でも効能が高いので、素晴らしい植物だと思う。花粉症の方には困るのだろうが。スギ花粉だって杉に責任はない。

 オランダから荷物の詰め物としてやってきたシロツメクサは、土壌をよくする豆科植物として、農業利用もされている。結局外来植物は、有用植物として持ち込まれたものが大半である。石垣島で問題にされている、「モクマオ」や「ギンネム」は早く成長する防風林として、米軍によって沖縄に広がった。

 沖縄の海岸線にはよく見られる。防風林としては役立っている。そうした植物が在来植物を淘汰してしまうと言うので、今では敬遠されるものになっている。のぼたん農園にもギンネムはかなりの本数ある。私は悪くないと考えている。マメ科の樹木だからだ。根が土壌を良くしてくれるのだ。

 その上に忽ちに林に成って水を溜めてくれる。植物は草よりも木の方が五倍程度の保水力がある。溜め池の上部がギン合歓の林になるのは悪くないと考えている。しかし、環境省から見れば、排除すべきものを温存するとは何事かとなるのだろう。環境派の人からも怒られるだろう。

 アメリカハマグルマも嫌われている植物である。これも道路畦畔の土留めと景観に良いというので、沖縄に導入された植物である。確かに美しい黄色で一年中咲いている。見た目も悪くはない。ところが、これが他の植物を滅ぼしてしまうと言うことらしい。のぼたん農園にもかなりあるが、牧草と良い勝負である。

 そもそも牧草のほとんどが外来植物である。牧草の繁殖力はさらにすさまじい。あのすごい繁殖力のアメリカハマグルマと良い勝負だ。抑えきっている場所も多々ある。しかしその牧草も抑えてしまう一番困るのが、在来種のネズミノオである。すさまじい繁殖力の上に、水牛も山羊も食べない。

 この困りものは在来種ではあるが、私には牧場侵入植物で、是非とも淘汰して欲しい植物である。実は法律で淘汰すべきものが決まっている。しかし、自然に法律が勝てるわけがない。いつか落ち着くところに落ち着くまで待つほか無い。無理なものは無理なのだ。

 手入れである。日々自然に手を入れていれば、落ち着きが出てくる。植物が暴走することはない。合鴨農法で、アメリカから取り入れたオオアカウキクサつまりアゾラは、日本のあかうきくさと交雑した。またその繁殖力で水面を覆い尽くす。

 アゾラはとても嫌われているが、これを稲作農業に取り入れることは悪い事とは思えない。化学肥料が高騰するなか、合鴨を使わないとしても、あぞら農法は奨励されてもいい。無肥料の水草緑肥は将来性のある農法である。アゾラがだめなら、あかうきくさでも仕方がないが。

 アゾラは日本のあかうきくさよりも数倍の窒素固定能力があるという。ベトナムではアゾラを取り入れた伝統農業がある。江戸時代にアゾラが日本に入ったとしても、異常繁殖することはなかった。アゾラが悪いのではない、水を汚染した暮らしの方が悪いのだ。

 自然が変化してゆくことを、悪い事と考えない方が良い。自然に対して情緒的に考えない方が良い。大前提は人の暮らしである。人の暮らしが真っ当なものであれば、自然に大きなゆがみは起きない。水面のアゾラよりも、水の中のマイクロプラステックが危険なのだ。



 
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プラスチックごみは燃やすほか無い

2023-06-27 04:05:11 | 環境関連


 日本は、世界で最も多くのプラスチックごみを非OECD諸国に輸出している。リサイクルに出したはずのプラスチックごみが、他国の環境を汚染している。日本のプラスチックごみ850万トンのうち、材料として国内でリサイクルされるのはたった11.7%。

 プラステックゴミを分別してリサイクルしているという人が大多数だと思う。わがやでも熱心に分別がされている。そのプラステックがどうなっているのかはよく分からない。たぶん何らかの形でリサイクルされているのだろうと想像している。ところが世界はプラステックゴミで溢れている。

 
 2050年までに海の中に存在するプラスチックの重量が魚の重量を超えるかもしれないという話も聞いたことがあるだろう。たぶんそれはないと思う。その前にプラステックを出し続ける人間社会の方が終わっている。人間の体内も細胞の中まで、マイクロプラステックが入り込む。

 この海洋のプラステックゴミの内8割が街から来ている。日本の街は綺麗と思っていても、目を向け始めると街中にはたくさんのゴミが落ちている。街中に散らばるゴミは、ごみ収集の過程できちんと口が結ばれていないゴミ袋から溢れたり、カラスがゴミ袋をつつき破ることで散乱する。ふたのないゴミ箱やいっぱいになった自動販売機の脇にあるゴミ箱から風で飛ばされている。

 海洋に流れ着いたプラスチックは波に打たれ、紫外線にさらされ、少しずつ小さく砕けてゆく。そして5mm以下までの小さな破片に砕けたプラスチックがマイクロプラスチックと呼ばれるものになる。こうなったらもう始末に負えない。海から改修するなどほぼ不可能。
 
 プラスチックそのものにも、すでに難燃剤や紫外線吸収剤など人体に有害な添加剤や生殖機能に影響する内分泌かく乱作用をもつ化学物質が含まれている。そうした物が、細かくなり細胞内まで入り込むようになれば、ガンの多発や遺伝子の変化が起こるはずだ。

 プラスチックに付着した毒素が体内に侵入し、油を含む消化液に溶け出して脂肪などの組織に毒素が蓄積されます。そして蓄積された脂肪をエネルギーとして使うたびに毒素が体を巡り、繁殖や代謝、臓器(腎臓、肝臓)の働きが妨げられるようになる。

 マイクロプラステックを飲み込んだ小魚がより大きな魚に食べられることでマイクロプラスチックの濃度はどんどんと上がっていくことになる。世界のプラスチックの年間生産量は過去50年間で20倍にも拡大している。年間生産量は約3.8億トンで、これは全人類の体重に匹敵する重量になる。

 産業別の生産量では、容器、包装、袋などのパッケージが36%と最も多く、建設(16%)、繊維(14%)と続きます。特にペットボトルやレジ袋、食品トレーやストローなど一度利用されただけで捨てられてしまう「使い捨て用」に使われることの多いパッケージのプラスチック生産が、プラスチックごみの量の増加に大きく影響している。

 プラスチックごみ全体でみると、パッケージングがその約半分を占めている。日本は1人当たりのパッケージ用プラスチックごみの発生量が、アメリカに次いで世界で2番目に多い国です。 ゴミとして回収されたプラスチック類のうち容器包装の割合は全体の67.6%にものぼります。これは世界平均を20%も上回る数字です。  

 大きな塊から小さく砕けていくプラスチックの他に、歯磨き粉や洗顔料や化粧品全般などに使用されている初めから小さい5mm以下のビーズ状のプラスチック原料、マイクロビーズもマイクロプラスチックの中には含まれている。

 田んぼに播かれている肥料にも、マイクロプラステックは含まれている。一発肥料と言われる物は、小さなプラステックのカプセルの中に遅く効くように肥料が仕込まれている。プラステックが数ヶ月後に溶けて穴が空き、肥料が作物に効くように仕込まれている。 
 
  プラステックゴミは分別リサイクルという方向では始末が付かない。人間はダメな物だからだ。それならどうするかと言えば、ゴミとして燃やすほか無い。当面燃やすことも認めて、よりよい焼却炉で焼却する。そうしてプラステック類が、自然界に出て行くことを止めるほか無い。

 燃やすことは良いことではない。燃やせば二酸化炭素が出る。しかし実際の所、焼却炉に助燃剤という形で上手く混在して入れれば、炉内の温度を上げる効果がある。温度が上がれば、ダイオキシンは出ない。それも行けないというのであれば、火力発電所で燃料にすればよい。

 製紙工場などでは燃料として、プラステック類を集めて燃やしているところも実際にある。焼却炉を正しく管理すれば、焼却炉からダイオキシンが出て行くことは防げることだ。むしろ焼却灰の処理をさらに高温の、溶融炉に入れなければ成らないだろう。

 人間はどうしようもないところのある、不完全なだらしのない存在だ。プラステック類の分別など、完全にできる人は少数派だ。そうした人が増えることは有り難いことだが、できない人が多数派だ。海洋ゴミを見れば明らかなことだ。理想を求めるよりも現実的対応が必要なことになっている。

 先ずはそのへんにゴミが散乱しているのは窓から、コンビニで買った食べた後のゴミをポイ捨てしているのだ。昔はコンビニに行けばゴミが捨てられた。公共施設にはゴミ箱もあった。観光客などゴミの捨て場に困っている。困ればレンタカーの窓から投げ捨てるだけだ。
 
 そのゴミの大半は、プラステックゴミで海に流れて行く。それがどうしようもない現実である。いくら道徳に訴えたところでダメな物はダメだ。先ずはまたコンビニにはゴミ箱設置を義務化するところからだ。販売したのだから道義的責任はあるはずだ。岸田内閣の道徳のある資本主義だ。

 製造者には製造者責任で回収が義務づけられている。販売者にはゴミの回収を義務付ければいいわけだ。少なくとも石垣島の観光客ゴミを見れば、石垣島無いのファミマやスーパーにはゴミ箱の設置を義務化しなければならない。そのゴミは分別が大変だろう。焼却炉で燃やすほか無い。

 燃やしてもダイオキシンが出ていないことを、きちっと測定して、周辺住民と取り交わしたという協定書を書き換えてもらうほか無い。このままではゴミの島になってしまう。このままではマイクロプラステックの海になる。そんな海を見に来る人は居なくなるだろう。他人事ではないのだ。

 
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プラステックゴミはどうしたら良いのか。

2023-06-08 04:53:04 | 環境関連


 プラステックゴミは人類を滅ぼす可能性が高い。それは原発よりも深刻だと思う。森林火災や干ばつを起している異常気象よりもプラステックゴミ問題は危機だと思う。しかし、解決は一番簡単である。明日から使わないことにすれば解決できる。

 ところがこの簡単なはずのことがもう出来ないような人間になってしまった。ではどうすれば良いのか。燃やす以外にないと考えている。再生できるものは再生すればいい。しかし、燃やしても良いことにしなければ、自然界にプラステックゴミが広がることは防げない。

 プラステックなど子供の頃には滅多になかったものだ。それがアッという間に何から何までプラステックに変わってきた。日本が経済成長できたのもプラスティクの普及が、オオトメーションとか、大量生産という形に適合して、相乗効果をもたらしたのだろう。

 そして、ダイオキシン問題が騒がれて以来、燃やしてはならないと言うことが言われるようになった。しかしバブフィルターをきちんと設置している焼却炉を24時間運用すれば、外部に有害物質が出ることはほとんど無い。絶対に無いとは言えないが、人体に影響が出るほどのものがでることはないと断言する。

 それは原発汚染水問題とも似ていて、絶対に危険が無いかと言えば、危険はある。しかし、その程度極めて低いので、世の中にある様々な有害物質を考えれば、その程度は社会的許容度と考えざる得ないものだと思っている。まあここが環境原理主義者と相容れないところである。

 燃やしてはならないと言うところから、海に広がることになった。プラスティク類はマイクロプラステックの増大に繋がったのではないだろうか。プラステックを燃やせるような比較的実害の少ない添加物のものにする方がまだましだ。ダイオキシンは厳密なことをいえば木材を燃やしたって出るのだ。

 プラステックは人間の暮らしを夢のように改善した。これを燃やしてはいけないという考えで、このまま世界中が進むことは可能なのだろうか。私は出来ないとみている。ありとあらゆる所からリサイクルできないで漏れ出てくて、海に溜まって行く。それよりも燃やしてしまった方がはるかにましと考えるほか無い。

 海でゴミ拾いをして一番大変なのが、ゴミの分別である。拾った後、分別して仕分けしてゴミ処理場に運ぶ。拾うことの数倍の労力がかかる。費用もかかる。そのために簡単には海のゴミ拾いが出来ない。何でも一緒にして持って行けば引き取ってくれるなら、海のゴミ拾いは気軽に出来るはずだ。

 ゴミが人類を滅ぼすと予測した人が居たが、プラステックゴミがそれをいよいよ現実化している。使わなければすむプラステックを使わなければ居られないために、人類は危ういところにきている。実に愚かだ。愚かな生き物だから滅ぶのだろう。

 プラステックを燃やしてはいけない理由は3つが言われている。
1,焼却時に二酸化炭素が排出される。異常気象の原因になる。
2,燃やすとダイオキシンが出来て、ダイオキシンは発がん性物質である。
3,焼却炉を傷める。高温で燃焼するため。

 しかし、二酸化炭素を燃焼で出さないようにするのは重要である。その最たるものが生ゴミである。生ゴミを燃やすなど論外である。生ゴミは堆肥にすべきだ。バイオガスにすべきだ。ダンボールコンポストを家庭でやるべきだ。生ゴミを燃やすのを止める方が先だ。

 ダイオキシンが出る問題は、現状の焼却炉であればまず問題が無い。500度以上で燃え続ければダイオキシンはまったく出ない。連続焼却をすれば良いのだ。そして、500度以上に炉内を挙げるためには、プラステックゴミは大いに役立つのだ。

 プラステック製品を生ゴミを燃やす助燃剤として上手く混入しながら炉内にゴミを投入する事が重要になる。ゴミの燃やし方を丁寧にかき回しながら行えば、ダイオキシンは出ない。プラステックばかり燃やせば、炉内が高温になり、炉を傷めることになる。

 プラステックの代替品が出来るまで、プラステックは燃やすほかない。燃やすことが許されれば、その辺りに落ちているプラステックはかなり減るはずだ。燃やさなければマイクロプラステックの増加は止められない。環境原理主義者が、環境破壊の張本人になっている事例だ。

 何もゴミ焼却炉で燃やす必要は無い。工場で燃料に使えば良いのだ。製紙工場ではプラステックゴミを燃料として利用しているところがある。熱を回収しているわけだ。これなら2酸化炭素の排出という問題も削減されている。それでも行けないというなら呼吸が出来ない。

 重油を燃やすのもプラステックを燃やすのも同じことだ。そもそもゴミ焼却炉では助燃剤として重油を使っていた。今は良い炉が多くなって助燃剤の利用は減っていると思うが、それでも500度以上に炉内を保つためには、プラステックゴミはあった方が良い。

 生ゴミを燃やすと言うことは、水を燃やしているようなものだ。環境原理主義者の皆さんはまさか生ゴミをゴミとして出してなど居ないとは思うが、焼却を禁止するのは生ゴミの焼却処理禁止の方が先だ。それができないでいて、プラステック焼却禁止どころではない。

 紙もリサイクルの方が良い。プラステックもリサイクルの方が良い。生ゴミも堆肥化が言い。そうすればゴミは半減するはずだ。私は小田原で「生(いき)ごみクラブ」というものを作り、ダンボールコンポストで生ゴミの堆肥化活動を始めた。小田原市全体で取り組む活動に育ち、環境大臣賞までもらった。

 まさかプラステックを燃やしてはいけないと主張している人で、生ゴミをゴミで出す人は居ないと思うが、ダンボールコンポストは誰でも出来るし、費用もかからない。素晴らしい堆肥が出来る。是非とも多くの人に取り組んで貰いたいものだ。出来た堆肥が使えないという人が居たら、のぼたん農園で引き取る。

 普段ダンボールコンポストを作っていれば、災害時にはそれが非常用トイレになる。それぐらいの消化力があるものが作れる。廃油などはダンボールコンポストを活性化させる材料に使える。ダンボールコンポストの活動は、私が居なくなった今でも小田原では続いている。

 石垣市の焼却炉では生ゴミは燃やして良いが、プラステックは燃やさない。これは本末転倒なのだ。誤りを新たむるにはずることはない。石垣市のゴミ問題は畜産糞である。3万頭ぐらいは居ると推測される。牛1頭1日当たりのふん量は45.5kg、尿量は13.5kg 。人間に換算すれば、100万人以上が垂れ流していることになる。

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「外来生物」を農業はどう考えれば良いか。

2022-12-07 04:24:45 | 環境関連


 のぼたん農園の溜め池には石垣島では貴重になってしまった、ミズオオバコ、ミズワラビ、アカウキクサの3つの植物がある。そのことをとても有り難い、大切なことだと考えている。しかし、本当にそれでいいのだろうかとも思う。

 希少な植物だから守らなければならない意味はどこにあるのだろうか。守られるべきものの第一は、人間の暮らしである。人間が豊かに暮らして行くと言うことが、良い環境の目標である。そのための生物の多様性である。環境の永続性である。

 毒蛇のハブはそれなりに希少なものである。石垣島では近年孔雀の増加に伴い減少している、と私は見ている。孔雀の沢山居た、名蔵シーラ原では先ずハブは見なかったが、崎枝は孔雀が居ない代わりにハブは結構居るようだ。ハブだけでなく、ヘビ全体が多い。

 は虫類を孔雀は食べ尽くしてゆくのだろう。孔雀を害鳥として駆除しているが、減少するどころかだんだん増えている傾向だ。しかし、ハブはその御陰で減っているのかも知れない。それをありがたいことだと思っている。孔雀ぐらい我慢したくなるぐらいだ。

 さすがに石垣島に孔雀が居るのはひどく困ることだが、ハブが減るのは有り難い。それでも生物多様性と言うことで言えば、ハブなぞ居なくなれば良いともいえない。ウミガメが西表では保存が成功している内に限度を超えて、増えている。海藻を食べ尽くしてしまい、今度は魚が住めなくなっている。

 ウミガメは仕方がなく石垣の方にまで来ているようだ。ウミガメウオッチングをダイビングの売りにしているので、観光として考えれば、ウミガメの増加は良いことなのだろうが、漁業者はこれでかなり困っているはずだ。漁業資源の衰退。海藻の林の消滅である。

 先日網に入った亀をもりで突いて流したと言うことで、大量の死んだ亀が岸辺に流れ着いたために、注意を受けた漁師さんが居た。今のところ亀の保護活動は継続しようと言うことのようだ。一方で漁で被害が出ていることで、漁師さんの生活に影響が出ている。

 先日市史編集員の松島さんと言う方が、水生植物のオモダカ、カナダモ、ヒルムシロ がないかとのぼたん農園に調査に見えた。その3つはあまりない方が良いと思っている植物である。最近水生植物は田んぼの除草剤で、壊滅的な影響が出ている。

 稲作ではオモダカは難防除性の水田雑草として扱われる 。たぶんお米が日本に伝わるときに、オモダカも便乗して日本に来た植物かと思う。農の会の親子田んぼでは、オモダカが余りに増えてしまい、一年間休耕して駆除したことがある。

 カナダ藻は名前の通り、北米からきた帰化植物で、小田原の水路では異常繁殖していた困りもんの水生植物であった。日本に現在繁茂している植物のたぶん半分位は日本にそもそもはなかった植物が、日本に侵入して蔓延ったものであると考えても良いのだろう。在りがたいものも在れば、困りものもある。

 アカウキクサは現在日本全体で純粋種はほとんど失われているのではないかと思われる。ほとんどの場所でアメリカ産のアゾラと交雑したと言われている。アゾラは特定外来生物の一つで、見付けたら駆除した方が良い植物とされている。特定外来生物としては、植物では19種が指定されている。

 法律に基づいて、駆除し広げないようにしなければいけない植物とされている。アゾラは合鴨農法では田んぼに有効な植物と言うことで、わざわざ導入されたものである。良いと思って悪かったと言うことが、頻繁にあるのが植物の海外からの導入である。

 特定外来生物の問題は日本にそもそもあった希少になっている植物を守るためには、新しくやってきた旺盛な繁殖力のある植物を抑えなければならないと言うことなのだろう。アメリカハマグルマは石垣島では一番困る植物ではないかと思われる。

 やたら繁殖力が強くて、今や於茂登岳の山頂付近にまであると言う。イノシシが足の爪の間に挟んでどこにでも運んでいるらしい。すぐ根ずくから、石垣島では至る所で黄色い花を咲かせている。土手の植栽で崩壊を防ぐために道路建設に伴い、わざわざ導入した植物だ。確かに崖の保全には有効だ。しかし過ぎたるは及ばざるがごとし。

 黄色い花と言えば、黄ショウブは帰化植物で、その繁殖力で自生していた水辺のショウブを凌駕している。しかし、なかなか美しいショウブである。花だけ見たら駆除しろとはいえない美しさである。舟原溜め池では一部に留まるように管理している。

 黄色い花菖蒲は日本にはなかったから、明治時代以降園芸植物としてとても尊重がされ改良までされた。それが野外に出たら、繁殖力が半端ではなかったのだ。そういう園芸で持ち込んで広がったものも様々在る。牧草の種が、牛の糞を通して、各地で広がっているのもある。

 日本から出て行って外国で暴れているのが、グリンモンスターと呼ばれて怖れられているクズである。くずはアメリカの鉄道の土手を守るためにわざわざ植えて、手に負えなくなったと言われている。葛粉は今でも生産されているが日本では、困るほどの繁殖はしない。

 そういえば同じデンプンの片栗粉のカタクリの方は滅多に見かけることのない植物になってきた。カタクリのように花が素晴らしいものは、群生地が保護されて守られている。一方で見た目が地味な日本の固有種は黙って無数に消えていって居るのだろう。

 そう考えるとき、感傷的な気分では、カタクリには残って欲しいが、葛はいらないと言うことだが、人間の勝手だなということになる。何を残して、何を排除するか、たぶん何千年前に日本に来た植物もある。それはもう許せるもので、江戸時代はどうなのか。明治以降にきたもの、戦後に来たもの、何かそういう線引きが意味があるのだろうか。

 植物の場合、そもそも農業というのは帰化植物を育ている物だ。稲だってやってきた帰化植物だ。サツマイモだって、ジャガイモだって、麦だって、大豆だって、大抵の農作物は外国からもたらされて、日本人の食料となり日本を支えてくれている。

 治まるところに治まっていれば、妥協して良いのではないか。こう言うときに、環境原理主義では困る。あくまで手入れの範囲で収まれば良いのだ。小田原でメダカ池にひめだかが入ったと言うことで、石灰を播いて淘汰した。生き物を殺すことが環境保全というのは正しい判断だったのだろうか。今でも気分が悪い。

 例えば石垣島で目立つ戦後導入された樹木はギンネムとモクマオである。どちらもわざわざ防風林として入れたものだ。それなりに役立つているのだろう。特にマメ科のギンネムは土壌をよくするから、許して良いように思える。牧場の中にギンネムが在れば日陰にも成るし、土壌の改善にも成る。

 まあまあのところで妥協するのが一番である。善悪で決めつけないことだろう。舟原溜め池にカキツバタを購入して植えた。それをとんでもないことだと地球博物館の研究者の方が怒っていた。環境原理主義者なのだろう。溜め池はビオトープのような遊びではないのだ。

 舟原の溜め池はれっきとした江戸時代初期に作られた農業遺構である。どうやって溜め池を残すのかを考えれば、行政にはその力は無い。美しい場所にして、人を引きつける何かがいるのだ。カキツバタが咲き乱れていれば、さすがにゴミためにはしないだろう。と私は考えた。間違っているのだろうか。


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アメリカハマグルマの除去

2021-11-02 04:34:11 | 環境関連


 石垣島で一番困っている帰化植物はアメリカハマグルマである。アメリカハマグルマは、アメリカ大陸原産のキク科の植物で、法面などの緑化用と して県内各地に導入されて、それが広がり今や山深い於茂登岳の奥まで蔓延り始めている。

 何とか除去しないと貴重な植物が圧倒され、消えてゆくことになると思われる。水牛の「わかば」を放牧している草地は最初は牧草で覆われていたのだが、わかばが牧草を食べたあとにはアメリカハマグルマが広がってきている。

 すでに草地に侵入していたのだとは思うが、牧草が無くなったあとはたちまちアメリカハマグルマが勢いを増して、牧草が生えなくなってきてしまった。何とか対策をしないかぎり、牧草が発芽できなくなる事が、はっきりしてきた。


 抜いたアメリカハマグルマの山。

 水牛はアメリカハマグルマをまったく食べないことでもない。気が向いたように食べていることもある。ところが、食べたとしても上部の葉の部分だけだから、茎が折り重なって編み目のように残った状態になる。しばらくすると葉が再生してくる。

 除草剤を使ってアメリカハマグルマを除草するとなると、グリホサート系の除草剤ラウンドアップをつかうことになる。発がん性があるとされている、ラウンドアップである。生産国アメリカと何でも従うだけの日本以外の先進国では、発がん性があるとしてだいたい禁止に向かっている。

 果たして除草剤を使わないでアメリカハマグルマを抑えることが出来るかどうかである。使いたくないという気持ちは誰にでもあるが、アメリカハマグルマが石垣島の自然を覆い尽くしてしまうと言うことも耐えがたい。ではどうすれば一定の範囲で押さえ込めるかをやってみるほか無い。



 まず手取りでどの程度やれるか試してみた。半日かけて20㎡ほど取り除いた。それでも地下には根が残っているから、この後どのくらい再生してくるのか経過観察するつもりだ。繰返し取り除かない限り、なくならないのではないだろうか。

 刈払機でやはり20㎡ほど刈ってみた。これは10分もあれば作業が出来た。ここは繰返し刈っていたら、無くなるのかどうか試したいと思っている。刈った草から再生していると言われているほど強いから、どこまで期待できるかは分からない。

 三つ目の方法は防草シートで覆って見る方法。これで枯れてくれるのかどうか。光を遮断して一ヶ月ぐらいで枯れるのだろうか。どうもその程度では枯れないような感じもする。どうしても完全に覆えないと言うこともある。様子を見るほかない。

 第4の方法として夏場であれば、透明のビニールシートで覆うという手もある。石垣島の光は強いから、地中の温度まで上がり、枯れる可能性はある。この方法には少し期待しているので、11月では少し可能性は低いがやってみたい。

 どの方法も万全とは言えないものだが、除草剤を使いたくない以上それくらいの挑戦はしないわけにはいかない。除草剤を使わなければ、近代農業は成立しない。変わる方法を提示できないのであれば、除草剤を否定できない。

 田んぼの草はジャンボタニシをコントロールすることで何とかなることが分かった。田んぼの除草剤は使わないでも出来る農法が提案できる。今度はアメリカハマグルマの除草のやり方を見付けたい。これは相当に難関であるが、何か方法を見付けなければ、石垣島の自然はこの草で覆われる日が来るだろう。

 
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化学肥料や化学農薬

2021-10-26 04:14:25 | 環境関連


 有機農業や自然農法をやっている人、あるいは環境保護活動をされている人の中には、化学肥料や化学農薬を強く否定する人が多い。わたしは必要ならば使う方が良いことだと考えている。実際に化学肥料と農薬と大型機械によって開かれた近代農業が、人類を支えて来たことは感謝されなければならないことだと思っている。

 自分が化学肥料や化学農薬を使わないと言うことと、人が使うことを否定すると言うことは意味が違う。使わないことは自分の生き方である。大型機械農業を否定しているのは、個人的な思想であり、生き方である。使いたくない人は勝手に使わなければ良いだけのことだ。

 使っている人をとやかく言う必要は全くない。法律で許されているものを生業として使用しているのだから、何の問題も無い。それをまるで犯罪行為のように言えば、もうそこで大多数の農業者と有機農業者や環境保護活動家との間に分断がおきてしまう。よほど注意して発言をしなければならないことだと思っている。

 農薬や化学肥料は環境を汚染しているという一言が、農家と消費者の分断を産んでいることに気付かなければならない。いつも主張していることだが、近代農業を犯罪扱いするのであれば、自分の身体でこうあるべきと言う農業を実践体験してから主張すべきだ。

 そして、消費者としてどれだけ高い食料品であるとしても、有機農産物を購入すべきだ。自分で有機農業をやってみて、それでも原理主義的に農薬や化学肥料を批判するのであれば、それは分断される覚悟があると考えるしか無い。分断されて良いことは何も無いわけだが、それも仕方がないか。

 化石燃料を一切使わない自給自足生活を体験した体験から、農業者すべてが仲間であると言うことが、なによりも大切なことだと考えるようになった。農業を続けてくれる人が居なく無ければ、日本人は絶滅するほか無いのだ。農薬や化学肥料の可能な限りの安全な利用は当面必要なのだ。

 今一番心配しているのは稲の栽培期間全体での肥料効果が続く、物理的緩効性窒素肥料 である。樹脂コーティングされていて肥料成分が徐々に溶け出すようになっている。作業が大いに楽になった。ところが、この樹脂成分が海洋のマイクロプラステック汚染に繋がっている。

 樹脂成分を使わない、緩効性窒素肥料 は色々ある。有機肥料は速効性が無くそもそも、何年もかけて土壌を改善してゆくタイプのものである。化学的緩効性肥料 と言うものもある。代替の肥料があるのだから、政府は樹脂コーティング肥料を早急に禁止しなければならない。

 マイクロプラスティクのような化学合成物質が環境を破壊するというのは現実である。それは人間の身体にも溜まり始めている。しかし、自然農法であれ、有機農業であれ、化学物質や化石燃料を一切使わない農業であれば、先ずは販売するほどの生産物は得られないと言う現実も知らなければならない。

 自然農法では生産性が低すぎるのだ。だから、私は自給農業を誰もがやるべきだと主張をしてきた。人に辛い労働を押しつけるようなことは倫理に反する。やりたいものがやればいいだけのことだと考えている。自分はやる気が無いままに、辛い労働を人に押しつけるなど論外である。

 問題は誰が生産を担うのかと言うことだ。農業者は儲かるわけでは無い。地域の文化と食料生産を支えている誇りから頑張ってくれているのだ。だから子供にやらせられない事が多い。日本中で稲作農業者は極端に老齢化して、減少している。この先日本から農業者はいなくなると考えた方が良いくらいだ。現状を支えてくれているのは大型機械と、外国人の技能研習生と偽称された奴隷的労働者である。

 石垣島で始めて稲作を行ってみて、有機農業の限界と言うことを痛切に感じた。昔、八ヶ岳の標高1000メートルを超える八千穂で有機農業を始めた、窪川さんが有機農業は寒いところでなければ出来ないと断言していたことを思い出した。

 多くの生業として農業をやる人が、有機農業に取り組まないのは当然だと思う。ヨーロッパなどで有機農業の普及が進んでいるというのも、気候的なこともあるのかもしれない。たしかに、小田原でやったときは何とか乗り越えることが出来た。初めから、回りの農家に匹敵する収穫をしていた。

 石垣島でも何とかなると甘く考えていて、つらい挫折を味わうことになった。石垣島で有機農業で田んぼが出来るようになるのは、しばらく先のことのようだ。かならずなし遂げてやろうと決意しているが、ともかく難しいことだけは確かだ。ますます石垣島の農業者を尊敬するようになった。

 有機農業でやれると言うことの意味はその地域の平均収量を超えたときに言えることだ。本来、有機農業の方が収量が多くて当たり前なのだ。理由は科学的に当たり前の事だ。自然の摂理に従い、健全に育てることが有機農業であれば、当然収量は多くなる。もし少ないのであれば、作物が自然の摂理に外れていると言うことになる。まだ有機農業の技術が未熟だと言うことに過ぎない。

 有機農業の方が手間がかかるが、作物には良い状態になり、当然収量も多くなると考えて良い。手間がかかるから、有機農業の方が収益が上がらない可能性は高い。倍の価格の食料品を買える人など少ない。だから経営を考えて有機農業をやらないのは当然のことだと思っている。

 有機農業をやっていれば、一般の農家から趣味で農業をやるのだからのんきなものだと、こう思われて当然のことだと思っている。だからこそ、収量では地域で一番だと言える有機農業でありたいと思ってきた。また手間を惜しまなければそれは実現できる。石垣島でもその努力をしたい。

 石垣島の慣行農業のイネ作りも、小田原に比べたらはるかに難しい。皆さんの農業の姿を見ていると、それぞれの農業のやり方が独自である。それぞれに違っていて工夫をされている。どなたにも頭が下がる気持ちである。現実に見事な田んぼを見ては頭を下げて歩いている。

 それでも結果的には低い生産量である事も確かである。その問題の第一原因は「ひとめぼれ」である。この品種は冷涼地向き品種である。沖縄で作れないことが無いというものの、十分な生育には成らないと考えるべき物だ。そもそも気候の熱帯化に対応する品種の作出が言われている中で、不思議な選択をしている。

 特に有機農業のように、時間をかけてじっくり育てる農法では晩生の品種が良い。ひとめぼれのような冷涼地向きの早生品種は無理だとおもう。ひとめぼれは東北のお米ではあるが、石垣島でも可能な品種だと言われている。そのように考えるからこそ、沖縄県は奨励品種に指定した。そして20年も栽培が続けられている。ひとめぼれは味が良いお米と言うことで指定されている。

 ただし、奨励品種に指定した時の石垣での実証実験の収量は1期作で6俵。2期作では5俵だったのだ。これほど低い収量のものを奨励品種に指定するという理由は何だったのか。他所の地域では普通8俵ぐらいの品種が指定されている。いくら味が良いお米だとしてもこんな低収量のお米を奨励品種にしてはならない。

 今年の石垣島の慣行農法の2期作のイネ作りでも観察を続けた結果、2期作目の作柄は10葉期ぐらいで葉が出てしまう田んぼが多い。ただ、化学肥料で一気に育てるために、それなりの穂がついている。どうしても、多めの化学肥料を使うためにイモチが出やすくなっているのでは無いかという田んぼをいくらか見受ける。

 長年の経験から来る独特の栽培技術だと思うのだが、10葉期でありながら80センチを越える高さまで成長させている。そして、実に大きな穂を付けている。分ゲツはいくらか少ないことが多いようだが、水切りを徹底する管理で、分ゲツを止めているからのようだ。

 有機農業では1期作だけで行くべきだろう。そして裏作の時期には緑肥を育てなければならない。充分の腐食を田んぼに戻す必要がある。またどんな堆肥をどういう手順で田んぼに入れるかも研究しなければならない。苗作りをしっかりと作ること。石垣島に適合する品種を見付けなければならない。


 
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イリオモテヤマネコの496日ぶりの事故死

2021-05-04 04:33:45 | 環境関連


 イリオモテヤマネコの交通事故が4月21日、浦内橋と干立集落間の県道215号線で発生、雄の成獣1匹が死んだ。ヤマネコの交通事故は2019年12月11日以降、496日間起きていなかったが、無事故日数の記録が途切れた。

 道路に検知システムを作っているが、上手く機能していない。検知システムだけでは事故を完全に防ぐことはできない。運転者への注意喚起もうまく機能していない。ヤマネコが道路に出てこないようにならない限り、交通事故は完全には防げない。

 実に悲しいことだ。最近ヤマネコに気持ちが行っているので、何か家の猫が死んでしまったような気持になる。死んだ個体はこの地域に定着していたイリオモテヤマネコと確認されている。

 私たちが、餌場を作ろうと計画していた地域である。活動が始まらないうちにヤマネコが死んでしまった。何という悲しい事故かと思う。沿道の草とりをほんの少し体験してもらった地点だ。沿道に草が茂らなければ、少しはヤマネコが見えるだろうという事である。

 海岸線に暮らしているヤマネコが多いのではないかと以前から推測されている。今度西表島全域をメッシュで区切り、すべてに定点カメラを設置して、前頭数を確認することになっている。100匹以上いてくれることを祈るような気持でいる。

 100匹以下になると、生存がかなり危うくなると思われる。一つの小さな島で哺乳動物が生存を続けるための絶対数である。100匹以下になってきたら、もう捕獲して、どこかで飼わない限り生存は危うくなる気がしている。パンダと同じことである。

 その時はツシマヤマネコと交雑も必要になるかと思う。きっとそんなことは許されないという人がいるだろうが、そうでもしない限り絶滅してしまう時が来る。やらないで済めばもちろんその方がいいに決まっているが、そのくらいの不安がある。

 最後のニホンオオカミは甲府動物園にいた。子供のころその銅像を見たことがある。甲斐犬と交雑させようとしたがダメだったのだ。ニホンオオカミの絶滅も悲しいことであるが、今イリオモテで起きていることは過去のことではない。

 西表島の海岸線に車を飛ばせる道路が作られた。これで、事故が多発するようになった。それほど大きな島ではない。車を飛ばせない道路を作るべきだったのだ。人間の都合ばかりで、ヤマネコのこと等考えられていなかった。ヤマネコが飛び出せないような道路も考えが足りなかった。

 観光客が増えて、レンタカーが急激に増えた。島の住民にとっては良かったことではあるのだが、ヤマネコの事故死に繋がっている。防ぐ手立てをしなければならない。私もできることがあれば、何でもやらせてもらいたいものだ。残念ながらそうした活動もコロナで止まっている。

 50数年前イリオモテヤマネコの発見されてから地元では、ヤマネコと人間のどちらが大事かという議論があった 。当然のことながら人間に決まっている。だからこそヤマネコを大事にすることが、人間を大事にするというつながりを作らなければ、ヤマネコを守ることはできない。

 人間の暮らしとヤマネコの生存が何とか維持された西表島が素晴らしい場所なのだ。日本最後の野生の地である。その象徴がヤマネコなのだ。西表島の住民がより豊かに暮らせる環境づくりと、ヤマネコの生存が重なるような状態を目指す必要がある。

 道路にヤマネコがえさを採りに出て来る要因は、田んぼにヤマネコが入れなくなったことがあると見ている。その話は環境保護センターの方には手紙を書いたのだが、そいう事を西表島環境庁保護センターでは考えていないようだ。

 というか返事もない。草取りなどどんなことでもボランティア行きたいという事にも、連絡がない。田んぼという西表島の暮らしを支えるものと、ヤマネコのえさ場が共存できなければ、その肝心な西表島の人たちの暮らしは守れないだろう。

 環境原理主義者であれば、西表島から人間が居なくなればいいと考えるかもしれない。そんな自然保護であるなら、無意味だと思う。人間の暮らしとヤマネコが共存できる世界以外には意味がない。それが何千年実現できて来たところが西表島の自然環境のすごいところなのだ。

 ところが人間は減少したが、西表島の生活環境も極端と言えるぐらい変化した。例えば自動車の利用だ。その為の道路の整備である。もちろんそれは必要なことだ。しかし、道路の作り方には注意が必要だったのだ。石垣島と同じような道路の作り方ではヤマネコの生存を脅かすことになったのだ。

 40キロしか速度を出せない道路を考える必要があった。そうしたことを提案することが環境保護センターの役割である。経済重視が、住民との融和、その結果何も言わない保護センターになっているのではないか。

 確かに道路の制限は西表島の人の暮らしにはかなりの負担を感じさせることになる。それに見合うべきヤマネコからの恩恵がなければならない。ヤマネコがいるので、西表の暮らしが成り立つという共存である。環境保護センターはこのことを考えることが重要である。

 西表の海岸線にはかなり水田がある。イノシシの害から田んぼを守るために、どこの田んぼにも電柵が張られている。ヤマネコは田んぼに入れないことにここ10年でなった。長年えさ場であった田んぼに入れないから、道路に出て餌をとろうとしている可能性がある。

 まず、田んぼをえさ場に戻してみることではないだろうか。張り巡らされた電柵を超える丸太橋を作るか、あるいは電柵をくぐるトンネルを作ればいい。イノシシさえ防ぐことが出来れば、ヤマネコは田んぼに迷惑をかけることはない。

 これが出来れば、餌場は一気に増えることになる。それには行政がトンネルや丸太橋を提供する必要がある。設置した田んぼにイリオモテヤマネコの補助金の交付をする。これだけで一気に生息環境が整う事になるのではないだろうか。

 これこそ西表の農業が守られ、自然環境が守られる共存策になるだろう。出来れば、その田んぼがカエルなどが沢山発生する物でありたい。その為には有機農業も推進する必要があるだろう。有機農業をするだけの付加価値を付けなければだめだ。

 いずれも政府はそうした予算などつけないに違いない。イリオモテヤマネコを大切だと考える人たちが、基金を作る必要がある。あるいはお米を食べる必要がある。そうして西表のヤマネコと農業者が共存できるようにする。

 全国のイリオモテヤマネコを保全したいと考える人が、西表の有機米を食べることしかない。高いお米になるかもしれないが、きっと全国にはそういう気持ちの人が、少なくとも1000人くらいはいるだろう。それでイリオモテの人の暮らしとヤマネコが共存できることになる。

 西表島が世界自然遺産になることで、西表の人口が減少するようでは失敗である。屋久島は人口が減少した。西表島は今より数倍人口が多かった時代があった。その上にヤマネコが猟の対象になっていたのだ。それでもイリオモテヤマネコは絶滅せず生き残った。

 今の人口であれば、充分人間とヤマネコが共存できる。屋久島は人口減少が続き、何のための世界遺産かわからない事になっているのではないか。前例を良く調べるべきだ。地域が維持されてこその世界遺産である。地域が維持される。その維持の仕方が、自然環境を維持する形でなければならない。

 田んぼはその意味で実に有効なものだ。ヤマネコ米を日本中で購入運動がおこることを願っている。その為に自分にできることがあれば協力したい。

 
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レジ袋有料化の馬鹿馬鹿しさ

2020-07-04 04:07:18 | 環境関連

 左側奥が於茂登岳である。山陰で見えない当たりに自衛隊ミサイル基地が建設されている。於茂登岳裾野はかなりの水が湧いている場所である。そこから、水は絞り出て、この川の水となっている。この水は田んぼの水となっている。

 石垣市議会はなんと田んぼに来る水は水源ではないと主張している。汚染しても関係ないと言うことらしい。周辺にはダムもあり、その水が下流域の水源になっている。あらゆることに利用されている水である。何故この水が石垣島の水源ではないというのだろうか。

 7月1日からレジ袋は有料化された。スーパーマーケットに行って、戸惑う人も多いのではないか。これほど馬鹿馬鹿しい環境対策はない。意味の無い悪法である。レジ袋は最終的には燃やせばいいだけのものだ。海洋汚染などレジ袋は起こしていない。海洋に流れ出るプラごみのわずか0.3%がレジ袋というのが、海洋ごみ調査の結果である。

 しかもレジ袋は、燃やしても有害物質が出にくい素材で出来ている。しかも、石油の生成過程で必然的に取り出される材料で作れるのだ。ある意味捨てるもので出来ている面さえある。レジ袋だけを叩くのは政府が環境対策に手を打てないという、負のイメージを取り除くためだけだ。政府は自分の無策を、レジ袋に肩代わりさせているに過ぎない。最近小泉氏の無意味さが際立ってきた。この無意味さに一言あってもいいではないか。それがアベ氏の狙いかもしれない。

 レジ袋対策から始まり、環境全体に目が向くようになれば、それなりの意味はあるとも思えるが、そんな雰囲気はみじんもない。例えば悪玉レジ袋に変わって、善玉エコバック持参をしてスーパーに行く人は何か良い人のように言われているが、果たしてこの環境的計算はどうなっているか。難しいところはある。

 エコバックもレジ袋も大体の場合石油由来のビニール製品である。私のエコバックは綿製品だとい方は少ないのではないか。場合に寄ってはスーパーかご持参の人もいる。私はスーパーに行くときはそうしている。それが一番面倒くさくないからである。スーパーのかごを持参のプラかごに重ねて買い物をする。そのままレジで商品を入れ替えて貰い持ち替えるのである。そうするとレジ前での滞留時間が最小限になる。昔からの習慣だが、コロナの時代には適合している。

 先日あるスーパーでレジ係に持参のプラかごに入れるのを断られた。当店のかご以外には入れない事になっているというのだ。入れるなら自分で入れてくださいと言われた。柔軟性がないのか、おかしな上司がいるのか。このスーパーではレジ袋で儲けようという事か。

 スーパーかごでもエコバックでもほとんどがプラスティクだが、使い捨てでないところが良いわけだ。エコバックの場合、計算上は500回の使用で、レジ袋と並ぶそうだ。確かに、レジ袋が一円でエコバックが500円であればそうなる。つまり、レジ袋500枚分がスーパーかごやエコバックのプラステック量と言うことになる。だからもしエコバックを使うなら、少なくとも三年くらいは使い回しをしなければならない。

 昔から常にレジ袋を車に積んである。今もそれは当たり前のことになっている。どこかでどうしてもレジ袋を貰えば、ただでは捨てない。穴が空いて使えなくなるまで使う。わざわざ袋屋さんにビニール袋を購入していたこともあるくらいだ。大抵は4,5回の利用である。

 そうなると、エコバックとの比較となれば、エコバックは10年使ってトントンと言うことになる。果たして10年使えるものだろうか。私は使っているが、結構ボロボロになって捨てた。風呂屋に行くのも使ったから、毎日使ったという事でもある。それでとても良い中古の革袋に変えた。

 しかも、エコバックは汚れる。時には洗濯をしなければならない。洗えばエネルギーも洗剤も、水だっているのだ。エコバックなどと偉そうな名前を名乗るほどのエコではない。中古の革袋は古びた感じがいいので時々グローブ油で磨いている。コロナの時代である現状では、スーパーのレジ係さんはお客さんの持ってきたかごは触りたくないだろう。触ったらばアルコール消毒だろうか。それで私のプラかごは拒否されたのだ。大変な時代である。

 環境問題はプラステック全体にある現代文明の問題なのだ。レジ袋などと問題を矮小化してはならない。レジ袋の有料化などという生半可の政策しかやれない間は、プラステックは燃やした方がましである。リサイクルやリユースという完全に循環の輪が出来るまでは、どうしてもごみになる。ごみになるくらいならすべてプラステックは燃やすべきだ。ごみの助燃だと考えれば、ダイオキシンの排出削減になるくらいだ。

 ダイオキシン問題で、プラステック焼却が問題視された。当時は焼却炉にバブフィルターがなかったのだ。ごみ焼却炉が立ち上げや消火するときにはダイオキシンが発生した。温度800℃以上、燃焼滞留時間2秒以上、という条件である。これを守ればダイオキシンは殆ど出来ない。

 それで多くの焼却炉が使えなくなった。現状では24時間燃焼や、バブフィルター設置で外部への流出はそれほど大きくはない。プラステックを家で燃やすなら、まず紙を燃やし800度に上げる。良く燃えてからそこにビニールを入れる方がいい訳だ。その時には生ごみなどとは混合しない。

 塩分と一緒に燃やすと化学反応でダイオキシンが発生する可能性が高まる。そもそも塩を燃やせば、ダイオキシンは発生する可能性がある。生ごみを燃やすというのはプラステックと同じくらいのダイオキシン問題がある。生ごみは堆肥化しなければならない。

 一方海洋汚染の方は、もう海の生き物は限界に近づいている。魚が体内にマイクロプラステックをため込み、それを人間が食べているのだ。海洋生物は身体の細胞の中にまで、マイクロプラスティクをため込んでいるという報告もある。

 予測では2050年には海洋生物の量と海洋プラステックごみが同量になるとされている。想像するにもう完全にダメだ。限界は近づいている。地球に人間が生き残ることを諦めるほか無い状況が予測されている。それでもレジ袋の有料化でごまかしを続けるのか。

 レジ袋の有料化どころではないのだ。可能な対策は代替えできる品物すべての、プラステック製品の禁止である。それ以外には人類は生き残る道はない。この最悪の事態を迎えては当面のプラステック製品の全量焼却処分の推進である。ドンドン焼却炉で燃やし尽くす以外にない。

 燃やすのは良いことではない。良いことではないが、人間が自分の浅はかさを見つめる意味でも、プラスティク類の完全リサイクルの方向が見つかるまでは、全量燃焼して、人間自らの愚かさを悲しみ続けるほかない。化学合成物質は極力減らすひかない。

 燃やさないで再生するというならば、完全に可能なのかどうかである。完全に再生処理が出来ない間は、海洋汚染は毎日進んでしている。レジ袋が完全に海に行かなくなったとしても、0.3%の減少に過ぎない。99.7%のプラごみは相変わらず海に流れ出て行く。何故そちらに目を向けないのか。

 これから、世界経済は下り坂になるだろう。コロナウイルスの悪影響は当分続くと考えざるえないだろう。こう言うときに新たに起こるのが環境汚染のさらなる悪化である。背に腹は代えられないと言うことになる。プラスティク製品のリサイクルは一定範囲で止まるに違いない。

 プラステックの使用禁止になるまでの間は、プラスティクは燃やしていかまわないとする以外に現在の解決法はない。生半可なリサイクルで気持ちを紛らわしている場合ではない。
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再生エネルギーと平和国家

2020-02-05 04:25:54 | 環境関連


 自給こそ平和国家の根幹である。それは食料もエネルギーもできる限り自給すると言うことだろう。中東に自衛隊を派遣するのは石油の輸入ルート確保のためという。石油は日本の生命線と言われてきた。80年も前の第2次世界大戦の時もそういうことが言われた。

 2020年の今になっても同じ事が言われている。日本という国の無為無策と言うことである。この80年間何の手立ても打たれていない。原発は脱石油ではあるが、やはり輸入原料である上に、戦争になれば原子炉自体が攻撃目標になりかねない。しかも原爆の材料を造り出すものでもあり、到底平和的エネルギーとは言えない。

 循環型エネルギーの開発こそ日本が平和な国として歩む道である。ところが現実にはエネルギー自給は一向に進まない。コストの問題もないとは言えないが、それ以上に既得権益に縛られている事が主たる原因と考えられる。原発にしがみつくよりも,自然エネルギーの開発こそ日本の安全保障の方角に違いない。

 様々な循環型エネルギーを日本は主産業として取り組むべきである。そういう企業の登場こそ、日本を平和国家として成立させることになる。ところがこの点では残念なことに世界の趨勢から後れをとっている。

 日本のこの姿を信じられない思いで眺めている。まさかこれほど日本人の意欲と能力が衰退してしまうとは、考えていなかった。列強のアジア進出。日本の敗戦。何とか厳しい歴史をしのいで再生してきた日本が今回はずるずると後退している。

 同じスタートラインから、循環エネルギーの技術革新に世界は挑んだ。それなら原発事故を経験した日本は,必死に集中するだろう。日本が世界をリードするのではないかと、期待をした。ところが残念ながらダメだった。

 福島原発事故が大きな転換期であった。不幸な事故ではあるが、次の時代への転換点になる可能性はあった。日本は生かすことが出来なかった。相変わらず、原発村がのさばっている。原発の安全云々以前に、循環型エネルギーの開発能力が日本には失われている。

 アベ政権が長く居座って、アベノミクスは成功だ等と叫んでいる馬鹿馬鹿しさ以上に情けなくなる。新産業の創出がせいぜいアメリカのカジノ誘致である。これでは循環エネルギー所ではない。原発村の怨念なのか。

 日本のようなエネルギー輸入国が、エネルギー輸出国に変わる大きな機会であった。今からでも遅くない。官民挙げて日本の方角に次世代のエネルギー開発を目指さなければならない。
 
 ALCA科学技術振興機構と言うところがある。戦略的創造先端事業というもので、次世代蓄電池の基礎的な研究をしている集まりらしい。多くの大学の研究チームが共同して研究をする場所。

 太陽光発電の問題点は夜間電力である。蓄電池の開発である。より効率の良い蓄電池を作り出せないかが課題だ。次世代蓄電池の開発に全力を挙げるべきだ。

 以下はALCAのホームページに書かれているものである。

次世代蓄電池の候補となる「全固体電池」、「正極不溶型リチウム-硫黄電池」、多価イオン電池等の「次々世代電池」といった新しい蓄電池の研究開発に加え、共通課題として「Li金属負極特別研究ユニット」と「評価・解析&共通材料技術」よりなる実用化加速推進チームを新設し、4チーム体制で推進します。各々の電池系について、活物質・電解質・セパレータなどの個別材料研究やメカニズムの解明、あるいは要素技術開発にとどまらず、蓄電池として最大のパフォーマンスが発揮できるよう、各チームの電池総合システム最適化グループを中心に、チームが一体となって研究を推進します。 

 基礎研究を推進する組織らしいが、具体的な役立つ成果があったのかは知識がないのでよく分からない。成果という項目があるが、もう一つ具体的な成果となると分からない。

 大学では一生懸命研究はしているのは確かなようだ。その速度が世界の進歩の速度に遅れてきていると言うことなのだろうか。産業界はどうかと言えば、本気で取り組もうとしているような大企業が見えない。どうしたことなのだろうか。

 日本の既存企業は新しいことに挑む精神を失ったのではないだろうか。現状の維持に精一杯になっていて、新産業への転換というような冒険に乗り出せないのだろうか。

 国の方針が原発依存であると言うことが、循環型エネルギーへの転換が出来ない第一原因であろう。アベ政権には平和国家などどうでもいいことなのだろう。むしろ軍事力強化したいがために、中東の石油依存をしているのかもしれない。

 
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国連気候変動枠組み条約第二十五回締約国会議(COP25)

2019-12-21 04:55:16 | 環境関連
最後のササドリ

 COP25合意文書は、現在各国が掲げる温暖化ガス削減目標と、温暖化対策の国際枠組み「パリ協定」で採択された気温上昇を抑える目標の間に「大きな差」があることを認識しつつも、その差を縮めることが「急務だ」と言及するにとどめた。

 日本は2度目の化石賞を受賞した。これは褒められたのでは無くて、批判されたのだ。どうも小泉環境大臣はトンチンカンなことを言っていた。あえて批判されて日本の方向を変えようという逆説的手法だという人も居たが、どうだろうか。
 
 COP25は停滞したまま終わった。その責任はアメリカのパリ協定離脱。排出大国中国、インドの非協力。そして日本の化石化。深刻に受け止めていない国が多いが、日本はその中でもダントツである。確かにあと30年先に私はいない。だからいいのかもしれない。しかし、グレタさんが言うとおり、若い人には地獄のような世界が見えている。

 今なら、まだ間に合う。世界はその危機を認識しながら、手を打つことができない。今日が良ければ、先のことなど思い悩んでも仕方が無いと言うことなのだろう。しかし、この気候の変化は農業をやるものとしては、この気候の変化はもう明日のことでは無くなっている。昨年の稲作は極端な日照不足と、大雨で深刻な影響を受けた。

 大型台風の影響は深刻なことだった。河岸の田んぼは2カ所で崖崩れが起きて、未だ直すことができていない。来年の植え付けができない田んぼがありそうだ。水路も土砂で埋まったままで、このままでは水が引けない。春までにはなんとかしなければ、ならないが。この水路は小田原市の管轄であるのに、小田原市はやってくれるのだろうか。

 それは全国的なことだろう。日本は深刻な気候変動の中にある。都会で冷房の中でだけ暮らしている人にはこの深刻さが分からないのだろう。一度、夏の国会でノークラー日を設けてみたらどうか。東京オリンピックのマラソンと同じ事になり、夏の国会は札幌にして、早朝開催にしようと言うことになる。

 地球はギリギリの所に来ている。トランプのように、温暖化はフェークニュースでおわらせる人も居る。この神経がすごい。今起きている現実を理解しようとしない世界のリーダーが居る。アベ氏の場合は自分の考えは示したことが無い。多分アベ氏の理解の外のことなのだろう。原発だけにすがって、何の手も打とうともしない。

 アベ政権が打つ手と言えば、原発再稼働ぐらいだ。既得権益からの圧力で動いている。エネルギー計画を再生エネルギーに方向転換をすべきだ。アベ氏の目指した原発輸出などすべてが実現できなかったでは無いか。無駄なことをしている余裕は無い。

 温暖化対策のような、負担増を避けて当面の既得権益確保に追われている。その結果企業はお金を貯め込みながら、新しい産業開発をできないで居る。企業の再生エネルギー技術の開発に税制優遇を思い切ってすべきだろう。

 企業はお金を貯め込みながら、新しい産業への転換を目指す勢いが無い。本田宗一郎氏も松下幸之助氏も現われない。日産の混乱を見ていると日本の企業の実像が見えてくる。外国人に助けて貰いながらも、自分の利益にキュウキュウとしている哀れな社長像。

 再生エネルギー分野でも中国の方が先進的展開をしている。斯うして日本が技術先進国から、化石国に落ちて行く姿が哀れで情けない。この意欲の欠如はどこに原因があるのか。やはり拝金主義の蔓延にあるのか。実業では無く、お金を動かして儲ければいいというように、腐り始めているのか。

 蓄電池技術ではりチュームイオン電池の企業研究者の吉野彰先生がノーベル賞を受賞した。過去にはこうした先進的技術を日本人が切り開いていたのだ。現状では先端技術の研究力が落ちてきているのでは無いかと見える。だから再生エネルギーの技術が日本から出現しないのではないか。

 アメリカはひどい国ではあるが、バイオエネルギーなど再生エネルギー開発でも世界をリードしている。中国もそうだ。中国の再生エネルギー開発は完全に日本を凌駕した。

 貧しくとも、未来に希望があれば頑張れる。希望があれば苦しい努力も喜びが伴う。福島の原発事故を持って原発依存を止める覚悟が必要だった。原発事故はつらいことであったが、再エネ技術国に転換する契機でもあった。それができなかった。残念な日本。

 原発を止めて生活水準を下げても、と言うことができない国になっている。太陽光発電だけではだめで、当然蓄電池の開発である。吉野先生のように蓄電池の分野で、さらに新しい展開があれば、原発は廃止できるのだ。

 今の現状では日本に期待するより、再エネ技術では中国に期待した方がいいのかと思えるほどである。ここが情けないというか、残念なところである。なぜこうなったのかと言えば、人間の劣化。教育の劣化。民主主義の後退。社会の保守化。拝金主義。階層化された社会。希望の衰退。いろいろの原因が考えられる。

 どうすればいいかと言えば、食べるものからやり直すほか無いと思う。小学校で英語教育など馬鹿げている。やるべきはイネ作りの授業である。肉体労働を伴う一次産業を知らない人間では、新しい発見はできない。これは極端ではあるが、個人的には絵を描くためにはイネ作りが必要だと思いやってきた。

 感じる力、観察する力、身体を動かす力、論理的に考える力、自然を見る力、そして協働する力。イネ作りはこうした人間の基本的な能力を育ててくれる。それらのものを総合する力が無ければ、イネは十分には育たない。絵も同じもののようだ。

 日本はCOP25の会議において、何も示すことができなかった。温暖化による自然災害の影響は日本では年々顕著になっている。世界は化石燃料に依存する日本に対して、対応を迫っている。日本は自分自身に影響の大きい温暖化問題に対応ができない。

 国民の生活水準を落としてもと言うことができないのだ。利己主義である。未来のための我慢ができないことになっている。選挙制度も悪い。その結果選ばれる安部政権は化石化していると世界が言うとおりだ。

 リベラリズムが軽視され始めている。リベラリズムが結果を生み出せなかったと批判されている。確かに、リベラリズムではヒットラーのように世界を動かすことはできない。リベラル的歯がゆい停滞したかに見える議論を根気よく続けるほか無い。




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プラステックは遠慮なく燃やしていい。

2019-07-08 04:13:45 | 環境関連
 ごみが人類を滅ぼすと、養老先生は秦野の講演会で話された。廃棄方法の確立しない製品を製造してはならない。ここに馬鹿の壁がある。この素朴に正しいことを、人間はプラステックリサイクルというような確立できていない考え方を持ち出して、結論を先延ばしにしたに過ぎない。
 
 リサイクルには、又石油に戻す技術はある。ケミカルリサイクルと言われる。当然のことだが、戻した石油は自然界にある石油の5倍以上の価格になる。高価すぎて利用はなかなか進まない。しかし、環境意識が高まり高価であっても使おうという流れはない訳ではない。
 
 リサイクルと言っても燃料にするというものもある。サーマルリサイクルと言われる。エネルギーを回収するのでリサイクルという事に入れている。製鉄の製造過程で燃料として混ぜて使う。あるいは、プラステックごみを発電の燃料にするというのもある。生ゴミに混ぜて助燃剤として使うという事もあった。コスト的には一番可能性があるものだが、燃やすのをリサイクルに入れるのはおかしいという考えもある。
 
 プラステックリサイクルを環境(原理)主義者達は、理念として掲げた。掲げた途端にそれは教義のようになり、論理性を退けるようになった。ダイオキシン騒動がそれを助長した。今でもリサイクルを金科玉条のように主張する人は居る。出来ればいいのだが、現実を直視すべきだ。
 
 プラステックの処理方法が確立するまで、プラステック製品を禁止することが唯一の道である。当然これもできない話だ。できないで人類は滅びるのだろうと思われる。人間の身体には一年間で5グラムのマイクロプラスチックが蓄積されるという予測もされている。どこまで溜まると癌の発病になるのだろうか。
 
 現代社会には建前のリサイクルなどと言う、尻抜けのひどい方法が広まった。プラステックごみ処理業者と環境団体が、連携して間違ったごみ処理法を広めていった。プラステックの分別をすることが、社会正義のように考えられるようになった。処理業者は仕事の創出だから、大いに善行として主張している。
 
 結局のところその分別されたプラステックは、途上国に送られた。途上国ではそれを有償で受け入れて、まともな処理をしないでひどい場合はそのまま海に投棄されたものさえある。そして最終的には輸入禁止となった。
 
 正義の気持ちでプラステック分別をしていた人が、海洋汚染の原因者になったのだ。石垣の美しい海岸もプラステックごみの散乱で、なさけない状態である。海岸の見えるごみはまだいいが、海に漂うプラステックごみはもう手遅れ状態である。
 
 自然界で簡単には分解されないプラステックは、最後にはマイクロプラステックになる。そして海の生物の細胞の中にまで取り込まれてゆく。それは当然、人間の体にも蓄積されている。ある時点で、その許容の限界を超えることだろう。

 プラステック製品がこれほど生活に入り込んだ原因は、コスト競争の結果である。資本主義経済には必要不可欠なものだったのだ。自給自足経済であれば、それほど必要な製品ではない。商業製品の競争が、生み出した産物ともいえる。

 竹製品の方が美しい製品はある。しかし、プラステックよりも高い。企業的な競争社会の中では、廃棄コストを考えない、負のGNPを増大させる製品が蔓延しやすいのだ。放射性廃棄物と同じである。廃棄コストを計算に入れないで、安いエネルギーと政府は吹聴している。悪質なデマである。

 政府は無策である。無策の証拠にスーパーのレジ袋の有料化をまるで、マイクロプラステック問題の解決になるかのような、意味不明なことを言っている。チホウカシテイル。それどころではない自然破壊の解決策を考えようともしない。放射性廃棄物と同じ構図。手に負えないことはなないことにして終わる。

 リサイクルにはもう一つの問題点があった。分別をすればするほど、不法投げ捨てが増えるという問題である。石垣島に来る旅行客は、石垣島の分別は理解していない。分別もわからないし、捨て場のないコンビニで購入したごみはレンタカーの窓から放り投げられる可能性が高まる。本来であれば、ごみ箱を用意して、その面倒なごみ処理は、観光業者が負担すべきだ。島中に放り投げられるよりはましだ。

 家庭ごみも同様である。分別を細分化し、厳密にすれば、プラステックごみを家庭で保存しておかなければならない期間が延びる。当然よく洗わなければ、くっついた油などが、腐敗して臭い。

 捨てるトレーを、お湯と洗剤を使い洗うことになる。そのさい使うエネルギーは、捨てるトレーの5倍になるというデーターがある。エネルギー循環の側面から、完全にリサイクルは破綻しているのだ。

 プラステックごみは燃やすことが、当面一番良い処理法なのだ。一番良い解決法は、プラステック作らないことだ。それが出来ない間は燃やす以外に道はない。少なくとも、プラステックが循環する輪の中に入るまでは、製造禁止以外に無い。

 多分できないだろう。人類にはその英知は無い。とすると、人類の体に、限界を超えてたまる前に、プラステックに変わる、自然分解する素材を開発するほか無い。できるだろうか。一日でも早くと願うばかりである。

 そのためにも、製造コストの中にごみ処理費用を含める必要がある。電力コストでも、核廃棄物の処理費用を原発発電コストに入れるのは当たり前のことだ。その当たり前をできないのが、政府の愚かさである。プラステックも出来ないだろうな。ペットボトルや、レジ袋を拾って、売った店に持って行けば買い取ってくれるなら、減るはずだ。

 プラステック製品は処理困難製品である。その処理にふさわしい費用を加えなければ売れないようにする。家電にはそういう制度ができている。スパーのレジ袋一枚に100円くらいのリサイクル処理料を加える。いやなら、袋持参。もちろん持参のプラステックかごには1000円ぐらいのリサクル料金を加える。

 
 
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プラステックごみは燃やすほかない。

2019-06-09 04:17:48 | 環境関連
プラステックごみを燃やせと言うと、大体の場合顰蹙をかう。しかし、この点では残念ながら、石原慎太郎氏と同じ考えである。プラステックは現状では燃やすことが、止む得ない選択である。それ以外の方法ではマイクロプラステックの増大を食い止められない。この考え方が間違えであってほしいものだが、何度考えてもそういう結論になる。プラステック類のリサイクルという事が言われるが、リサイクルは全体の15%程度でうまく行っていない。発電材料の方はコスト問題があると言われているが、まだ希望はある。循環がおかしくなっている。今まで日本では中国に輸出していた。輸出が出来なくなり、環境省が各自治体にその分の焼却をお願いしている事態である。日本国内に中国資本のリサイクル企業が進出するというが、日本は自分の後始末も自分で出来ない国という事だ。今に中国資本の放射性廃棄物の処理会社まで来てくれるのかもしれない。プラステックのリサイクル分別が面倒くさくて、難しいがために、その辺に投げ捨てる人が多いのではないか。水路には時々ビニールゴミが流れてくる。海のビニール汚染の原因はプラステック分別の面倒くささにあると見ている。農業資材など、どう捨てたらいいかじつに難しい。

プラステックのトレーなどはよく洗って出さなければならない。誰でも知って入ることだ。それでなければリサイクルはできない。プラステック再生会社は汚れたプラステックの分別に人件費をかけて汚れたものを焼却処理に回している。私はお湯も洗剤を使わないので、きれいに洗う事が出来ない。プラステックのリサイクルを大切だと考える人の多くの人は脂ぎった汚れをお湯で洗って、リサイクルに出しているのではないだろうか。このお湯を沸かす石油の量の方が、新たにプラステックを作る石油の数倍を必要としているのだ。洗う人には分かっていることだろうか。その上に、洗剤まで使えばその浄化処理の負担も出てくる。油や、洗剤は川に流れ出ているところも多々ある。川に出てくれば田んぼを汚す。リサイクル会社では集まるプラステックごみの50%は、結局のところ焼却に回されるの。こうした全体の人件費を考えると、リサイクル処理のほうがはるかに高いものにつく。

プラステックごみのの焼却でダイオキシンが出るという、あの騒動が遠因していると思う。あれは騒動であり、本質を外れた主張だったと思う。政府はこの期に至りレジ袋の有料化を法制化すると言っている。何だろう、この悠長な不甲斐ない対応は、社会や人間を馬鹿にしているとしか思えない。この形式的な無意味な対応は政府の言い訳以外の何物でもない。怒りを治める程度の政策である。レジ袋を禁止すればいい。持って帰るよう気がない人には、特別に高いい紙袋を出す。そもそもレジ袋の量など知れている。プラステックごみ全体の解決などとは全く関係がない。解決策は難しことではない。プラステックの包装資材は特例を除いて禁止する。それが出来ない間には、燃やしてしまうほか道はない。確かに燃やすのは間違っている。プラステックを梱包材に使うことが間違っている。それに社会が気づくまでは燃やすのは、社会全体の罰則のようなものだ。悪いことを解決するために、さらに悪いことを選択している。

ごみで人類は滅びるのかもしれない。ごみはまさに経済競争の結果である。核のゴミなど処理法がないのに、日本が国際競争に勝つためにはため込んでおく他仕方がないというのが、政府の考えである。ごみ処理は待ったなしである。ごみ処理法が見つからない間は、どんなものでも製造中止である。プラステック製品は、商品の販売競争の末に販売に便利で競争に勝てるという事で開発された。しかし、廃棄物となったプラステックごみの処理法が出来上がる前に、商品はプラステックに依存してしまった。60年前はプラステックなどなくても、社会は廻っていたのだ。経済競争というものが、いかに世界を悪くしたか。人間は思い知る必要がある。くどいようだが、燃やす方がよりましな処理だ。焼却炉によっては、生ごみが多くて水を燃やしているような炉さえある。当然助燃に重油を利用している。こんなやり方をするくらいなら、上手くプラステックごみを混ぜ込めばいい。むらなく燃やし高温で燃やせば、汚染物質の排出も減る。ここまで書いてきて、繰り返し書いているような気がしてきて、虚しさが増してきた。申し訳ない。




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マイクロプラステック問題

2019-01-30 04:24:47 | 環境関連

地球環境問題ではマイクロプラステックが最も深刻である。温暖化も深刻であるが、さらに問題解決の困難な問題になるだろう。プラステック製品は燃やしてしまわない限り、微細なプラステテックが海洋に漂う事になる。自然循環に乗らない物質を作り出すという事が問題なのだ。この先マイクロプラステックの量は年々倍増してゆくのではないかと言われている。すでに多くの海洋生物がプラステックを誤飲した影響で死んでしまうものが、多数観察されている。マイクロプラステックの場合、植物プランクトンに取り込まれる。そして、それを餌をする海洋生物。それを食べる魚、海鳥とどんどん食の連鎖が繰り返され、生体内の濃縮が進んでゆく。将来土壌に存在する、マイクロプラステックも作物の根から取り込まれることになる。結局のところ、人間も食糧として徐々にマイクロプラステックを食べているようだ。もちろん食べたからと言って体内に取り込まれるよりも、排出されてしまうものがほとんどである。しかし、1年に5個から20個ぐらいな人間でも体内に取り込んでいいるのではないかと言われている。その数は、自然界の濃度が倍増してゆくとすれば、取り込み量も倍増してゆく可能性が高い。どこかで限界を超えて、人間の健康問題になるはずである。

実験的にはマイクロプラステックが細胞膜を突き破り細胞内にまで、取り込まれてゆくことが分かっている。こうしたマイクロプラステックはそのものの害というより、プラステックに加えられている、様々な添加剤が同時に取り込まれることの方が、直接の生物への影響が高いだろうと考える。マイクロプラステックを取り込んだ細胞が、変異を起こしたり、がん化したり、免疫力の低下を起こしたりする可能性がある。これはあくまで現段階の推測であるが、人体で証明されたときには取り返しがつかない事態ということである。解決不能な問題ではない。私の子供のころは自然循環に収まるものだけだったのだ。プラステックを止めればいいだけのことだ。当面、止められないというのであれば、燃やす以外にない。燃やすとダイオキシンが出るという事が言われて、燃やすことが制限されたため、マイクロプラステックが増加したのではないかと推測できる。

いずれにしても、年々海洋のマイクロプラステックの量は倍増していっている。例えば化学繊維の衣類は選択するたびにマイクロプラステックが水と一緒に流れ出てゆく。人間がプラステックを使用する以上、止めなく増え続ける。つまり、どれほど小さくなるとしても消えない以上、地球環境に蓄積されるばかりなのだ。解決策は唯一プラステック製品を使わないほかない。どうしても使わざる得ないとすれば、燃やしてしまうほかない。燃やしてダイオキシンが出るというような問題は、解決できないほど深刻なことではない。プラステックのリサイクルなどと言ってもほとんど焼け石に水である。結局リサイクルされたプラステックも、燃やさない以上、プラステックは巡り巡り、マイクロプラステックになる。こうしたときに、スーパーの袋を有料化するとか、プラステックのストローをやめるなどという事は、全く気分的なごまかしにすぎない。地中に埋まる塩ビ管は将来どうなるのだろうか。公園のプラステックの遊具はどうなるのだろうか。化学繊維の医療はどうなるのだろうか。プラステック塗料は、ありとあらゆる場面で使われているプラステックをどうしたらいいのか。

当面、プラステックは燃やす以外にない。燃やすことが有害であるとすれば、もう作らないほか道はない。スーパー袋などどうでもいい、本質を見誤ることになる。そんなことではまるで解決できない深刻なことなのだ。スーパーで買い物をしない、すべて自給で暮らすというのであれば、一応の解決の方向であろうが、そんなことは現実的ではない。リサイクルに回しているから大丈夫だという考えもあるが、これは相当に危うい考えだ。プラステックは小さくなるから大丈夫だなどという、とんでもないコメントがあった。小さくなるから手に負えなくなるのだ。大きいままならまだ処理方法がある。だから、今あるプラステック類は出来る限り燃やすべきだ。こういうことを言って、レジ袋を減らそうなどという気分的環境派の人から批判を浴びた。それならレジ袋環境派の人はどういう筋道でマイクロプラステックが減るとかんがえるのか、具体的に示してもらいたい。10年前から古い塩を買ってある。年間1キロ使うとしてもまだ10年は大丈夫だ。すでに自衛の段階に入っている。

 

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