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限界資本主義の未来をイメージしてみる。

2020-01-20 04:21:09 | Peace Cafe

上空からの夕暮れの石垣島

 米中経済戦争は限界資本主義の戦いに見える。強者の論理のアメリカと国家資本主義の中国の戦いになっている。両者の利害対立は妥協はあるとしても、根本的には相手を倒す以外に終わりはない。

 アメリカの自由競争は巨大な資本を持つものが有利な自由競争である。アメリカの望ましい世界の方向に,世界を誘導することでアメリカ経済は成長してきた。ところが、中国というアメリかを凌駕する可能性がある国が、国家資本主義と言う形で世界の方向を変えようと意図し始めた。資本主義が競争だけならば、覇権主義の出現は当然である。

 日本の大半の経済予測は中国経済は崩壊すると予測していた。今もあるのかもしれない。何故政治家や経済評論家が中国崩壊を予測したのかの理由は、自由競争の方が統制された経済よりも勝るという思い込みがあったからだと思われる。

 しかし、国家資本主義の方が競争有利の状況下では有利ではないかと思えた。中国へ自然養鶏のことで出かけたときに痛感した。ある農村をまとめて有機農業の共同経営の企業村にする。あるいはキノコ栽培の大工場にする。

 ひとつの方針へ誘導が公共主導で強引に遂行できる。日本では中国の環境対策がひどすぎるから、中国は住めないことになるだろうと言う意見も良くあった。しかし、国が環境対策に取り組むとなれば、一気にその方向に進む。循環エネルギーもプラステック対策もやる気になればやりやすい状況がある。

 ここをダムにすると決めれば、反対も何も出来ない強引さで遂行される。道路計画でも都市計画でも同じで、個人の利害は軽視され社会投資が進む。こうしたやり方が、成功しないというのが日本やアメリカの考える自由主義経済であった。

 ところが、個人の権利を制限する国家資本主義の方が、競争には有利になってきたというのが、現在の中国の姿である。その個人の権利を制限する表れが、香港問題であり、ウイグル問題なのだろう。

 軍事的覇権主義と言える側面も同じ事で、軍事力を強化し、常に近隣諸国に対して、圧力を加えることが出来る状態に立つことが、国家の圧力を自国民に対しても示すことになる。公共に逆らえない国作りになる。

 それは世界外交にも当然波及し、中国を無視することはどこの国も難しくなっている。その軍事的圧力は経済競争にも当然影響を与える。中国の途上国への影響は強いものがある。生活のインフラを、電気水道のようなものを中国が利権持つ国というものが登場している。

 国家資本主義と、自由競争原理の資本主義とどちらが勝利するかというのが、アメリカと中国の争いである。しかし、この競争の激化は今後も続くのであろうが、その影響は当然日本にも負の影響として現われてくるだろう。

 国家資本主義の登場は国と言うものの崩壊の前段階ではないだろうか。企業というものが、国というものを越える時代が来る。企業は企業の利益を優先し、国というワクを邪魔なものにする。それは中国と言うワクも結局の所、同じ運命を歩むのではなかろうか。

 今は世界の覇権をアメリカと中国が争っているが、世界の覇権を願うような国はなくなる。世界中の利益を独占しようという巨大企業は登場するだろうが、国家というワクを凌駕している。

 企業が企業の利益のために、武力を保持すると言うことも出てくるのだろう。企業は自分の都合の良い国に、都合の良い部分を置くだけで、国と言う限界を持つものではなくなる未来が予想される。

 アメリカはトランプが支持される背景にあるあがきは、衰退の前兆とみなければならない。利己的な国が世界を覇権を維持することはない。世界の駐留米軍は有料貸出軍事力である。儲からないとすれば引き上げる。投資額を返さないならば、帰らないという。

 この姿がアメリカの国家軍事産業なのだろう。軍事産業のテコ入れにわざわざ紛争を起こすとも見える。日本に武器を売りつけるのも、日中の対立に火を注ぐのも、アメリカ一国主義である。

 それでは中国が覇権を取って代わるかと言えばそういうこともない。中国の企業が中国の枠を超えない限り、世界企業になることは出来ない。そうした自己矛盾状態が中国企業には待っているはずだ。

 中国企業も世界を制覇するために、中国というワクを食い破るときが来るはずだ。企業は利潤のために国家利益というものすら、排除を始めるに違いない。これが国家資本主義の矛盾になるだろう。

 日本にも日本発の世界企業が登場して、世界制覇を目指しのし上がろうとするだろうが、そのときには当然日本というワクは捨てているだろう。そうでなければ、世界での競争には勝利できない。

 こうした限界資本主義では、優秀な能力以外を必要としなくなる。大半の企業が必要としないほとんどの人間はどうなるのかと言うことになる。一言で言えば奴隷的消費者になるのだろう。企業は利益を生み出す消費者というものも必要としている。消費者としての存在をなくすようなこともない。

 企業が国を超える時代が20年後か、30年後には来るとすれば、そのときには特別の能力のある人間以外は、企業では不要になる。そうした一部の超エリートとその他の人間に峻別される。

 普通の人間は消費者として存在は許されているはずだ。そうした普通の人間の生き方というものが産まれているはずだ。と言うか、普通の人間の生き方が探求されて行くのではないだろうか。

 国と言うものが、企業の力の下に弱い枠組みとして存在する状態になる。弱体化した国というものの中に存在する、国民という普通の人間がどのように生きるのか、あるいは生かされているのかになる。


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クソ野郎として、ドコモショップに言わせて貰えば

2020-01-19 04:58:41 | 暮らし


 ドコモショップの「クソ野郎事件」は人ごとでなく納得がいった。ドコモショップ内の伝達事項のメモ書きを間違えてお客さんに渡してしまった。そのメモにはお客に対してクソ野郎と書いてあったのだ。正直なところ、昔からクソ野郎の当事者のような気がしている。

 ここでのクソ野郎とは、つまりカモということなのだろう。ドコモショップにしてみれば、面倒な訳の分からない客のことなのだが、騙せる客ということでもある。ドコモショップでは私のことを有難いクソ野郎と考えているに違いない。だから教わったときには何かを購入することにしている。ドコモショップが電気屋さんより、高いのは承知してはいるのだが、カモはカモらしくなければ申し訳がない。

 全体が把握できないままでいるのが、気持ちが悪い性格である。それでついつい、説明を求めてしまう。ドコモの仕組みは時々変わるので理解が出来ない。なんでも分かりたい困った性分である。

 ドコモの料金は実に分かりにくく変えて行く。この料金体系は意識して分かりにくくしているのだと思う。各社わかりやすければ、比較して一番安いところだけが繁盛する。サービスはお金だけではないのだが、どうしてもお金だけの競争になる。それをドコモは嫌っていると想像しているが違うだろうか。

 スマホの操作もわかりにくい。スマホで文字は入力できない。タブレットを壊してしまったので、スマホに変えた。又分からなくなった。これを聞きたくても、ドコモショップに行けば嫌がられるに決まっている。それならスマホ教室に行きたいと思っても、スマホ教室の予約が取れないほど満杯である。大体は電話の遠隔操作で教わっている。確かに、ドコモの顧客は遠隔操作されているということだ。スマホの機能の10%位いしか利用していない気がしている。

 それにしてもいつもドコモショップは満員である。家のそばにある、他のauやソフトバンクはそれほど人がいたことがない。何故、ドコモショップはいつも混んでいるのかお店で聞いてみた。ドコモでは親切に細かく教えているから、一人のお客様に時間がどうしてもかかるのです。よその会社では説明はほとんどしないそうですと、教えてくれたが本当なのだろうか。騙すのの時間がかかると言うことでなければいいが。

 比較しにくいように様々サービスを複雑化して持ち込んで、他社と比較しにくいようにしている。政府がいくら通信費と機種代をはっきりせいと怒っても、そうしただましの料金体系は譲れないもののようだ。電気屋さんか、ネットで電話付きタブレットを購入して、通信だけドコモに頼みたいのが本音だ。ドコモでは機種の種類も少ないし、電話付きタブレットがないというのが致命傷だ。

 後でそうだったのかと理解してがっかりすることになるが、契約をした後なら構わない。そのために簡単には変更できない仕組みにしてあるわけだ。一見お得なように読めるが、実はそうでもないというパターンが良くあるのだ。

 クソ野郎をふやして、騙して儲けようと考えて複雑化しているにちがいない。だから、ドコモショップに行くたびに不愉快になって帰ってくる。たぶんドコモショップの店員の方はもっと腹を立てて、クソ野郎、クソ野郎とストレス解消して居るのだと思う。そうじゃなければ私など相手にしてられないだろう。

 そもそもドコモショップとNTT石垣島の違いすら、最初は私には理解できなかったのだ。それで間違って違うところに契約してしまった。電柱には沖縄電力のものと、NTTのものがあると言うも始めて知った。その上に光回線が来ていても、つながる家にとつながらない家があると言っていた。これも意味不明のままだ。

 私が石垣のドコモショップに直接行けないので、設計事務所の方が聞いてくれた結果、できないという返事だったのだ。いったい何だろうと思ったが、電話では結局分からずじまいだった。まさにお互いがクソ野郎である。

 家の電機回りをやってくれた電気工事屋さんもドコモショップに行ってくれたそうだ。何故テレビもインターネットも今出来るのだろう。おかしい、おかしいという。出来ないと確かにドコモショップは言ったのだと、首をかしげていた。その辺は分からないところだが、どうも回線利用の電柱の問題があるらしい。このドコモショップは閉店してしまった。

 クソ野郎のお客さんがあふれている。店員もクソ野郎になるだろうし、長くは続かないだろう。当然、十分な社員教育などできるわけもない。間違ったことを店員が伝えてしまうことなど普通にある。だから、店員のレベルで説明してよい範囲がたぶん三段階に分かれていると思われる。質問するたびに、クソ野郎対応店員は上司に聞きに行く。

 先日はDポイント8000ポイントを騙された。ゴールドカードにして、2万円の買い物をすると、8000ポイントがもらえますというキャンペーンがあったのだ。それでゴールドカードに変えた。ところが本当に貰うためには、3つのハードルがあった。2つは越えたのだが、三つめのハードルを越えられないで、期限を過ぎてしまい貰えなかった。

 3つのハードルはここで細かく説明するのも腹が立つのでやめておくが、どこかでこけるようにという、罠のようなものだと私のような、クソ野郎には思える。理解できる人にはそうではないということは知っているのだが、このクソ野郎の無知に付け込んでカードを変えさせようというのが、手口である。ドコモショップで聞いた上で2万円の買い物をしたのに、失敗をしたのだ。カードを使うにもいろいろあるようで、買い方を説明しないところがみそだ。

 まあそれは騙されたクソ野郎が悪いのであっていいとするしかない。無知な不慣れな客を騙す商売をしていて、儲かるかと言えば、いつまでも儲かるわけがない。商売というのは、汚いことをしていれば、必ずみじめなじり貧で終わりになる。違うかな。私はそう考えてきた。

 そもそも、この代理店システムというのは悪いことが起こる仕組みだ。セブンイレブンでもブラックバイトが問題になる。本部は儲かるシステムを作り、代理店を募集する。代理店はブラックバイトを雇わざる得ない状況に陥る。

 しかし、それはあくまで代理店の問題で、ドコモ本社の問題ではない。今回もドコモの名前は出てくるが、実際には下請け代理店の問題なのだ。このあたり、責任逃れができるよくできた仕組みなのだろう。

 これが、ドコモショップがドコモの直営であれば、クソ野郎は苦情を本社に持ち込むだろう。しかし、あくまでそれは下請けのドコモショップのアルバイトが、間違えてやったことなので、善処しますぐらいで済ますことができる。まったく上手く出来ている。

 そしてドコモ本社は、代理店を締め付けることだろう。ちゃんとやらないなら、代理店を外すということになるのかもしれない。問題はドコモという企業の営業方針にある。

 クソ野郎の私はドコモショップに迷惑をかけているのは確かだ。理解力がなくて申し訳ないと思っている。ドコモショップの店員さんが悪いとは全く思っていない。申し訳ないと考えている。ドコモは誰にでもわかりやすくする義務はあるのではないだだろうか。

 タブレットの電池が終わってしまったのだ。ところがこれにはドコモは対応しないという。ドコモショップで購入したタブレットなのに、何故かと言えば、メーカーであるソニーが生産を終了した機種だからだという。まだ購入して4年である。売った店舗は何らかの対応をすべきだ。こうした機械に対する対応も電化製品に比べて良くない。

 結局、電話機能のあるタブレットはもうドコモでは扱わないと言うことで、仕方がなく、スマホに変えた。残念であるがクソ野郎としてはやむ得ない。インターネットで調べると、電話機能のあるタブレットはかなりある。しかし、それがドコモで使えるのかどうかが分からない。購入してからきっと邪険にされることだろう事だけは確かだ。

 
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自分の絵を制作するのは難しい。

2020-01-18 04:43:44 | 水彩画



 いい絵を描こうとする事は誰にでもできる。良い絵が誰にでも描けるという意味ではない。良い絵という具体的な目標があれば、その方向に努力することは出来ると言う意味だ。

 しかし、自分の絵を描くと言うことは中々出来るものではない。自分と言うものが分からないものだからだ。むしろ、自分というものが分かりたいということが、絵を描くと言うことではないか。自分が見ていると言うことから、自分が美しいとか、感動するとか、そんなところに入って行く。

 私が自分の絵を描きたいと思うのは、いいと思う絵はなるほどその人が描いたと思えるだけだからだ。ゴッホの絵に感動するのはゴッホと言う人間内部の表現に感動している。ボナールの絵に魅入られてしまうのは、ボナールという人間の深い感性に感動している。マチスの絵に納得させられるのは、マチスの絵にあるマチスという人間の知性である。

 私という人間が人に感動を与えられるとも思えないが、ダメな私でいいから、私という存在が絵に表現されていて欲しいと考えている。それが出来ないとしても、自分の描く絵が、いわゆる良いとされるような絵の真似だけはイヤだと言うことである。

 ここに並べた、四枚の絵はここ1週間に同じ場所で描いたものだ。額装した作品は同じ場所で描いたものだが、1年ほど前のものだ。縦構図の絵が一番新しい絵で、横構図の三枚を描いた後に続けて描いたものだ。

 ここ1ヶ月は自分が表現したい世界を、何とか描こうとしている。つまり自分が画面に現われるように意識して描いている。こんな描き方は、久しぶりのことだ。ここ2,3年は意図的なものを捨てて、見えるままに描くようにしていた。自分の内なるものに向けた意識は久しぶりのことになる。いま、以前とはかなり違うことをしていると感じている。

 絵を描くというのは当たり前にそういうことなのはずなのだが、それが出来ないっで来た。良さそうな絵を真似してきただけだったのだ。やっと自分の中に、染みついていた客観評価のようなものから抜け出られそうな所まで来た。この歳になってやっと人目を気にしないようになった。

 見ている世界と自分の中の世界との関係のような曖昧なものを、具体的に画面の上で確かめるような制作をしている。絵を作るというようなものを写生に加えて行く描き方は、久しぶりのことだ。それにいくらか手応えがある。

 しばらく、こびりついた絵の描き方を精算することだけに専念してきた。ともかく見えるように描く。もちろんそれだけでも難しいのだが、絵らしい絵にしようという気持ちを捨て切れるまで、見えるように描くことに専念してきていた。こびりついたものを洗い流すのは本当に難しいことだった。



 この縦構図の絵が今回の石垣での最後の絵なのだが、海から空への色の帯は見えているものを、どう自分の絵として表現することが出来るかの試行錯誤の結果である。できているとは言わないが、やろうとしていることは出ている。

 石垣の海は手前にエメラルドグリーンのリーフ内の海がある。その先にリーフの外れの浅瀬があり、白波が立っている。そのさらに向こう側の海はセルレアンブルーで始まり、黒々とした外海まで続く。その黒い帯の上に空である。海に近い空はたいていの場合霞んでいる。霞んだ空の上にまさに青空が来る。その上にはやはりかなり濃いコバルトブルーが続いている。

 この感じがなんとも石垣島の風景の世界を感じさせる。晴れ晴れとした明るい世界が自分を惹きつけている。何かここに世界観につながるものを感じる。代えがたい世界をどうしたら表現できるものか、いろいろ試みている。見ている美しさの背景となる、自分の感じている世界を画面に再現したい。



 この絵の上部半分は描きたい世界が出て来たと感じたものだ。それでその考えを広げていった。地平線と海、そして空は描きたいように描けている。しかし、下半分がそれについて行っていない。絵全体になると曖昧になっている。それで、その次をやってみようと、最初にあげた縦構図を描いてみたわけだ。

 このときに空を狭くした。空を狭くすると同時に、手前の部分をとても弱く描いてみた。画面としてはおかしいくらい弱いのだが、それを意図に出来ないかと試みてみた。素描も何度か描いた。全体を充分に把握した上で、描いてみたい。

 少しすすんだのかと思えた。気分いいかというと、そうでもなくやはり不安ばかりである。まだまだと言うことなのだろう。制作はしたが、達成感はほとんどない。やればやるほど見えなくなる。行き着けども行き着けども、海の青。えせ山頭火

  問題は田んぼを区切る線にある。線が違う。そのために肝心の絵の中央部が自分の考えに近づかない。線ではなくどう表現したらいいのか。曖昧にしておけばそれとなく良いのだが、どこか違う。



 この絵が今回の始まりの絵だ。見えるように描いてみている。いいところもあるのでこの後をつづけてみたことになる。良いところは筆触に還元したところだ。筆触に表現できるものを整理しようとした。あれこれ試行錯誤している内に、少し重くなった。

 水彩は重くなってから軽くすると言うことは困難な場合がほとんどである。それで、この絵はここで置いておいて、次の絵で上部の空を広げて、さっぱりと描いてみたわけだ。

 同じ絵で出来ない場合、そのまま置いておいて、次の絵でやってみるようにしている。この絵で少し発見が出来たのが、描写の整理の仕方だった。筆触に置き換える意味のようなものだろう。かなり明確に見えているものを大きな筆触に置き換えてみた。そのやり方は私らしいと思えた。筆触は私にとって、色の次に重要かもしれない。

 田んぼの畦の表現がおかしかった。それは筆触が違うと言うことだと分かったのだがどうしようもないまま、終わった。この課題は続いている。この後にもう一枚描いてみた。今度は紙をパミスに変えてみた。今度は色が出ない。やはりファブリアーノの発色の良さはすごいものだ。
 
 今日は神田のアポロギャラリーで絵を語る会だ。一枚を選んでみて貰おうと思う。どんな風に見えるのか楽しみである。
 
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玄関の大理石と貝のモザイク画の完成

2020-01-17 04:36:57 | 石垣島


 玄関のモザイク画が完成した。ちょぅと自慢の気分である。写真は玄関の正面である。下の方は水中である。上に行って波があり、鳥が飛び、太陽がある。そしてその上に星がある。右の壁には生命の木がある。

 出入りするたびに、気になるところを直していった。一番高いところに離れて、海星(ヒトデ)を置いた。ヒトデの乾いたものである。石垣の三崎町にある貝屋さんにいったら、玄関に飾るならあげると言われて、いただいたものである。きれいな星になった。

 これで、太陽と月と星と三つがそろったことになる。太陽は大理石で描いた。月は海岸で拾ったすれたガラス片でつくった。そして星がヒトデである。



 こちらは生命の木である。大理石のリンゴに、貝は花や果実のつもりだ。貝の色が中々美しい。高いところにある大きな貝がスイジ貝で火防の貝である。

 上の方に鳥がいて花を咥えている。イーカルスのつもりで有る。その上に月が出ている。太陽だと翼が落ちてしまう。


 スイジ貝は玄関の両側にもあって、全部で3つである。昔から集めていた貝だ。いつか石垣の家の入口に、飾るつもりで集めていた。ようやく場を得たことになる。大理石の方も、いつかいつかと持ち歩いていて、30年以上前のものである。

 貝や石も、見つけると拾っていた。一度小田原に運んで、また引っ越しで石垣に戻ったものも沢山ある。石垣の石は琉球石灰岩だけでなく、チャートや石英のような堅い石も良くある。そうした岩石の採石場もある。この地層の変化も複雑で面白い島なのだ。

 スイジ貝は石垣の家ではたまに見かけることがある。色はドンドン白くなるようで、真っ白になった貝が多い。水という字に見えると言うが、どうだろうか。暮らしの彩りとして、貝が飾られる民俗が魅力的ではないか。



 狭いところなので、写真が旨く写せないのが残念だ。右側に穴あきのブロックが積み上げてあり、そこにも石垣の面白い石や、珊瑚が並べてある。これが意外に面白い。このだんだんの飾り窓も石を置くつもりで作った。

 壁の色は石垣の土の色である。玄関周りは少し明るい色で、乾いた土の色を表している。そのほかの壁はもう少し赤い色で、濡れた石垣の土の色である。石垣に始めてきたときに、土の色が印象的だった。

 やはり農業をやってきたから、土の色には反応をしてしまう。設計をしてくれた照喜名さんは壁の色には賛成ではなかったのだが、わざわざ塗料やさんに土を持っていって色合わせをした。

 石垣島には至る所にトラノオ(サンスベリア)が置いてある。アスファルトを割って出てきたりしている。玄関当たりにはたぶん半分以上の家にはあるのではないだろうか。それで真似をして置いてみた。石垣島の玄関らしくなっただろうか。

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カンムリワシ・ロード 石垣島

2020-01-16 04:01:20 | 石垣島


 カンムリワシが元旦に交通事故に遭った。石垣島で起こった悲しい出来事である。何とかならないものだろうか。小田原ではスピードを出して運転をしていたが、石垣に来てからは速度違反はしない。のろのろ運転である。カンムリワシが好きだからだ。

 今度車には「カンムリワシを守るために法定速度を守ります。」という表示をすることにした。といっても、余りに直裁で感じも良くないので、「カンムリワ・シロード」と書いてみた。これを車に貼って運転することにした。果たして意味が通ずるかどうか。

 水彩紙に描いて、ラミネート加工をして貰った。ありがたいことに石垣島ではラミネート加工もすぐ出来る場所がある。A3サイズで300円だった。車にテープで貼っただけだから、そのうち剥がれてしまうかもしれない。

 石垣島では鳥や蝶が多いいので、法定速度を守って走ることにしている。特にカンムリワシがいそうな所では、よほど注意して運転をしている。もしカンムリワシに事故を起こすようなことがあれば、もう石垣島に住む資格がないと思っている。真剣に事故を起こさない運転を心がけている。

 一年でも永く石垣島に住みたいから、ともかくゆっくり写生地まで車で行くことにしている。すると、ドンドン私の後に車が溜まって行く。そして追い越し禁止区間でも、追い抜いて行く車がほとんどである。私も今まではそういう運転の一人であったのだが、カンムリワシの交通事故が多発している状況では、速度違反をするわけには行かない。

 年齢から考えても、安全運転はさすがに良い選択になると考えた。自分がカンムリワシロードと表示していながら、スピード違反は出来ない。安全運転を行うようになり、年齢相応の運転になる。転ばぬ先の杖である。

 ドンドン私を追い抜いて行く。大抵の車がスピードの出し過ぎである。それほど広い島ではない。カンムリワシを守るために、スピード違反は止めようではないか。そう呼びかける方法を考えて、車の後ろに見えるように、カンムリワシロードの表示をした。

 それでも今のところ、ドンドン追い抜いて行く。今のところ効果はほとんどない。市役所の車や、市会議員、公務員の車のすべてに、安全運転ステッカーを貼ったらどうだろうか。

 観光に見える人にも言いたい。カンムリワシは昨年は8羽が交通事故で負傷をした。そして5羽が死んでしまった。せっかくのすばらしい島の動物が、交通事故死では申し訳ないではないか。西表島ではイリオモテヤマネコが交通事故死している。やはり100頭ぐらいと推定しれていて、2018年には9頭が交通事故に遭っている。

 カンムリワシは絶滅危惧種ⅠA類、国の特別天然記念物。石垣島では生息している数を数える調査が行われており、その調査では2012年には石垣島で110羽、西表島で78羽確認されている。現在もほぼ100羽程度とみられている。

 その大切なカンムリワシの生存数100羽のなかの8羽もが交通事故に遭うのだ。道路に出て来て餌をとる習性が災いしていると思われる。水田や畑でも見かける。道路の脇などに良くいる。道に出てくるヘビや、蛙を餌にしている。そのために交通事故に遭いやすいのではないだろうか。

 西表島での営巣が1981年に始めて確認されている。渡りをする鳥ではなく、余り移動はしない鳥のようだ。縄張りを持っていて同じところで繰り返し確認できるらしい。保護運動をされている方によると、名前を付けて見守っている人もいると言うことだ。その方のお話では見るとどの鳥か判別できるという。

 車を止めて静かに見ていると、特に人間を恐れている様子もない。のんびりした鳥である。一度はタブレットの動画で撮影したこともある。そのときも何か餌を食べていた。

 いつも鳥を気を付けて運転しているのだが、今年になって三回見た。週に一回は遭遇するくらいの頻度である。八重山民謡では鷲ぬ鳥節が唄われており、「あやぱに」と呼ばれてきた。綾織物のような美しい羽と言う意味だろう。確かに羽の白黒の模様が実に美しい鳥である。

 その大切なカンムリワシ8羽もが交通事故に遭うのだ。なんとかしなくてはならない。そこでゆっくり運転して、全体の車の速度が遅くなるようにしている。しかし、これをやっていたら、追い抜く車がほとんどでかえって危ない状態になってしまった。

 ゆっくり車を走らせている理由を伝えることにした。何故遅いのかを知ってもらうための表示をすることにした。それが冒頭のカンムリワシ・ロードである。あまり効果がないようなら言葉を換えようかと思う。

 石垣島は街の中は30キロ制限である。町中での交通事故はまずないだろう。そのほかの多くの場所が40キロ制限。そして一部が50キロである。大体の人が、60キロぐらいで車を走らせている。ねずみ取りの取り締まりもあると言うことだ。

 島を一周しても三時間あればぐるりと回れる。あわてることはないと思う。特に観光に来た人はゆっくり景色を見ながら走って貰いたい。上手くすれば、カンムリワシやアカショウビンを見ることが出来るかもしれない。オオコウモリだって見られる。

 ゆったりした時間こそ島時間である。石垣島の道はすべてカンムリワシロードだと理解して貰いたいものだ。


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ネット社会は民主主義をもたらすか。

2020-01-15 04:13:57 | Peace Cafe


 インターネットは格安で情報を発信できる手段である。誰もが自分の考えを日本全体に向けて情報発信できる方法を得た。大きな報道機関と変わらないように、普通の個人がネットを使い情報を日本中に発信できるのがネット社会である。

 誰もが情報発信できると言うことは、独裁政治が不可能になることでもある。だから独裁国家は自由なインターネット利用を許さない。インターネットの自由利用状態が、独裁のバロメーターになる。そう考えてブログを続けている。

 私は監視対象になったことがある。そのことは親しくなった警察関係者が教えてくれたのだったが、それは監視していることを教えて行動に制限を加えようとしたのかもしれない。そのことを知ったことも、実名でインターネットを始めた理由のひとつである。

 闇から闇に葬られないための自己防衛策である。日本の権力は私のような政府批判をする人間の行動はチェックしている。小物だからそれほどでもないが。電話の盗聴もしていた。インターネットは監視社会を作るが、監視社会を批判することも出来る。

 肩書きや特別な資格もない普通の人間が、情報を発信できるようになるのがインターネットである。インターネットが誕生したときには民主主義成立の手段になると期待された。インターネットが普及して、その後の経過はどうなっているのだろうか。

 誰もが自分の意見を発信することが、民主主義社会の基本だと考えて、紙媒体のピースカフェーを始めた。その発展したものとしてインターネットで連携したピースカフェブログは、紙媒体の限界を突破できそうに見えた。

 ピースカフェーの一員としてブログを開始した。それまで、紙媒体でやっていたピースカフェーに比較して、発信力は広がった気がする。同時に紙媒体の時に比べて仲間の意思の疎通は失われた。一人で出来る良さでもあり、課題でもあるのだろう。

 紙媒体のピースカフェーは500部くらいを毎月印刷して、置いてもらえるところなどに配らせて貰っていた。何年か続けてはいたのだが徐々に限界が見えた。インターネットのブログを書いて連携する方が伝達力が高まり、現状を打破できると言うことで始めた。

 すこしづつブログというものを理解して、今日まで続けてきた。残念ながら日本の民主主義の方は後退している。石垣の自衛隊基地問題。辺野古の米軍基地問題。いずれも民主主義を後退させようという政治がある。インターネットによる情報発信が民主主義を支えているのかどうか考えてみたい。

 むしろ、インターネットが人間の連帯を弱めている感がある。生身の人間の接触によって高まるものがある。あくまで協働の活動があった上でのインターネットなのだろう。言論の背景に行動がなければ意味をなさない。

 田中辰夫氏の文章のシノドスに出ている「ネットは社会を分断しない」という文章が興味深かった。ネット社会が分断を生んでいるように見える側面もあるが、実際には自分と違う考えの人の意見を読むようになっているというのだ。それはネットが紙媒体と違い簡単で格安に情報に至れると言うことから来ている。
 
 書籍や新聞であれば、自分と考えとは違うものはまず購入しない。しかしネットであれば、参考に読むことは良くある。産経新聞を買ったことはないが、ネットでは読ませて貰う。底には桜を見る会をいつまでも議論するな。等と書いている。

 私のブログにも罵倒のようなコメントが来ることもままある。と言うことは軍国思想の人もケチを付けるために読んでいると言うことだ。平和思想もチェックはしているようだ。嫌がらせコメントなので公開はしないで、消去させて貰っている。

 チェックをして嫌がらせをする仕事があると言う話もある。確かに読んだとは思えない、内容とは関係のない形通りの嫌がらせコメントである。私は自民党議員の文章なども探す。まともな人だっているかもしれないと探している。

 河野太郎氏の文章はよく読んでいた。河野氏の文章は深い知識に裏付けられている。よく勉強されていると思えた。神奈川県の農業に関して書いたものにはコメントをしたこともある。農業分野に関しては浅い知識の通り一遍のもので残念だったからだ。

 ところが、その後内閣に加わる頃から、内容が変質した。全くおかしな事を書くようになって失望をした。今もチェックはするが、どうしてしまったのかという状態である。これもアベ忖度なのかと思わざる得ない。大臣という立場は書く内容を自己制限するようだ。

 私のような者は立場もほぼないし、名前を出したところで知っている人も少ない。それでも初めから名前も顔も出して書くことにした。写真や住所が分かるようにすると、何があるか分からないからよした方がいいという意見もあった。

 しかし、人間が考えを表明するのだからどこの誰であるか分からなければ、読みようがないと言うことがある。どういう生き方をしている人間かが分からなければ、言葉が伝わらないと考えた。

 長いことブログをやってきたが、名前を出したことでのトラブルは経験したことがない。そして平和主義の考えの人と緩やかな連携を感じるようになった。農業関係の人や、水彩画関係の人とも意見を交わすようになっている。名前を出して良かったと考えている。

 私と関わって、下手なことをするとブログに書かれてしまうと言うことで、おかしな人が私に近づかなくなった気がする。と同時になんとなく非協力な態度をとる人がいる事も感ずる。

 あしがら農の会や水彩人は組織である。その一員の私が、平和主義の文章を表明することが誤解を呼ぶので止めて欲しいと言うことを、仲間から言われたことはある。多分私のブログによって、会を離れた人もいるような気がしている。この点では残念なことだが、やむ得ないことと考えてきた。

 軍国主義の人が自給農をやる事もあるだろう。自給農という点では同じなのだが、笹村の考え方はゆがんでいると思うことだろう。私としても、そういう右翼的な自給農の人と関わらなくて済むという利点がある。自然に身の回りが整理されたと言うことになっている気がする。

 さらに言えば、農の会や水彩人全体が、私という色眼鏡で見られると言うこともあったのかもしれない。そう感じる不利益もないわけではなかった。地域で差別的な扱いが起きた原因のひとつかもしれないと思う。それは覚悟の上で政治的な発言もしてきた。

 そうした不利益が有る一方、助けられたことの方が遙かに大きい。意見を表明していると言うことで、分かりやすいということがあるのだろう。この考えの人間なら、助けてあげようという人の方が多かった。

 民主主義は人の意見を学ぶと言うことが基本だ。ネットで多く実践者の考え方を学んできたと思う。これからも学んで行きたい。インターネットがあるのに、トランプ大統領やアベ政権が支持者が多数存在する。多数決となると、利己主義者の方が多いと言うのが人間の本質かもしれない。

 だからこそ、民主主義者は自分たちで緩やかな連携を作り出さなければならない。その手段として、インターネットを活用して行くと言うことだろう。ネットは民主主義を大切にするものにとって、ありがたい手段である。
 


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カジノの経済効果はマイナスになる。

2020-01-14 04:33:18 | Peace Cafe


 カジノが解禁されると、日本のGDPが1%上がると政府は試算している。その具体的な試算は示されていないが、日本経済に良いのでカジノをやるというのだ。果たして、本当に経済に良いのだろうか。新産業の創出が出来ないで、日本は投資利潤国家に成り下がった。そこで出てきたのが苦肉の策のカジノ依存である。

 確かに戦後の疲弊から立ち直るために、公営賭博は必要悪として存在した。しかし、その悪弊から未だ抜け出せないでいる。その結果現状は世界屈指のパチンコ賭博社会である。本来であれば、パチンコ屋の営業地域を限定するなど、賭博から足を洗うのが普通の国作りだ。

 ところが、足を洗うどころか、さらにカジノまで手を出そうというのがアベ政権の経済政策だ。日本国を博徒にしようというのか。金儲けの何が悪い。と言う居直りがカジノである。案の定、パチンコ議連がカジノ汚職である。

 アベ政権は汚職をものともせず、カジノ推進しろと進み始めた。もう歯止めのない状態になっている。どうせ何をやっても支持されると言う奢りである。さすがにここまで来れば国民も愛想を尽かすのではないだろうか。

 カジノの経済効果には全く負の要素が含まれていない試算である。原発を作ればGDPは上がるが、その50年後の廃棄のためには負の効果を見込まなければならない。ギャンブル依存症対策費まで、GDPの貢献にはいるのだろう。政府は1%経済成長の試算を明確にして議論すべきだ。

 カジノが出来ると外国人観光客が増えるという見込みが経済効果だと推測する。それなら日本人がカジノに入場できないでもかまわないはずだ。韓国にあるカジノには韓国人は入れないそうだ。どうしてもカジノに行きたいなら、ラスベガスでもマカオでも行けばいいだろう。

 大阪市の試算では顧客の7,8割は日本人と予測している。外国人観光客はカジノの顧客の2,3割に過ぎないのだ。その観光客がどれほどその他の観光を行うとみているのだろうか。それほどのことではない可能性がある。

 日本人を入れないのではカジノの経営は成り立たないので、日本人の入場を見込んでいるはずだ。日本人がカジノをすることを経済効果と言っていいのだろうか。カジノは健全な娯楽とはさすがに言えないのだろう。日本人がアメリカ資本のカジノお金を吸い上げられるのは経済効果ではないだろう。

 地方の活性化と言うことも言われていたが、大都市以外はカジノ誘致は行わないようだ。これでは地方の雇用の創出と言われていたことも嘘だったと言うことになる。雇用がさらに大都市に集中して、地方の疲弊につながると言う悪い影響は見えてくる。

 カジノで働くことなど、望ましい雇用の訳がない。日本人が劣化して行く産業で働くことは良い雇用の場ではない。不健全な雇用など少しでも減らすのが、日本の向かうべき社会だ。どうしてもやるなら、日本人の雇用も認めないことだ。アベ政権の好きな外国人雇用でやればいい。

 シンガポールがカジノを2010年に始めて成功した事例と言われているが、本当であろうか。確かに2015年当たりまでは観光客が急増したが、その後観光客は頭打ちである。しかもこの間のアジアの観光客数の増加は20%以上になっている。その意味ではシンガポールのカジノ効果は成功例とは言えない状況になっている。

 石垣島は公営賭博場はない。パチンコ屋は2軒だ。それでも観光客は増加している。カジノ好きの外国人など来て貰わなくて結構である。石垣島らしい、八重山の風物を味わってもらえる観光客に来て貰うことがお互いに良い。カジノはアジアの交流拠点の未来像には不要なものだ。

 厚生労働省の調査では成人の3,6%がギャンブル依存症と言うことだ。そのうちパチンコが2,9%とされている。総数は320万人と言うことになる。すでに大変な状況なのだ。この状況でさらに問題を深刻化させるカジノを作るなどまともなことのはずがないだろう。

 ギャンブル依存症が疑われる人の割合を諸外国と比較すると、生涯で見た場合は、オランダが1.9%(06年)、フランスが1.2%(11年)、スイスが1.1%(08年)米国は1.9%(01年)であり、日本は3,6%という極端な高さなのだ。

 政府はカジノでの雇用を期待しているという。外国人労働者を入れなければならない日本の労働環境で、何を血迷っているのだ。カジノのようなくだらない職業を増やす理由などどこにもない。

 カジノはそもそも違法行為である。違法行為を合法化する法律を作った。アベ政権が違法政権なのだ。悪法は違法行為を呼んですでに、自民党と維新の会の議員のカジノ汚職が摘発されている。

 カジノによる治安の悪化の懸念もある。暴力団の資金源にならないか。パチンコ業界の政治献金が自民党に流れて、政治の悪化になっている。カジノを推進するような政治になってしまった。政治家はそもそも選挙が好きだから、カジノ好きなのかもしれない。

 まだ引き返せる状態である。何とか踏みとどまって貰いたい。足を洗う事が今ならできる。


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太極拳 八段錦と24式

2020-01-13 04:41:10 | 身辺雑記
与那国馬。石垣では良く飼われている。実にかわいらしい馬である。

 石垣に来てから太極拳を始めた。毎朝やっている。なんとなくやらないでいたのだが、石垣での暮らしの流れとして、朝太極拳で始まるというのはいいかもしれないと思うようになった。

 中国では朝薄ぐらい内から、公園で沢山の人が運動をしている。太極拳もないわけではないが、実に様々な体操である。あちこちでグループになってやっていた。

 太極拳には様々な動作があるようだ。流派によっても少し違うらしい。私が教わっているのは楊名時八段錦・太極拳の形である。楊名時先生いわゆる中国的に大人である。絵を見ていただいたことがあり、そのときに人柄に感銘を受けた。

 八段錦は太極拳を始める、準備運動と考えて置けばいい。と勝手に解釈している。深い呼吸をするための運動である。呼吸を深めるために、動作を行う。呼吸を限界まで絞り出し、吸い込む。呼吸器を十二分に使い身体を活性化する運動ではないか。

 深い安定した呼吸を繰り返すために、8つの動作を行う。それで8つの見事な錦の織物と名付けられている。やってみると呼吸が深くなることが分かる。完成された動きと呼吸法である。とても古くにできたもののようだ。1200年に記録があるらしいが、さらに古くからある運動と考えていいのだろう。

 中国では運動というものと哲学はつながっているのではないか。それで体操が生まれては消えて、今に残り伝わったものではないかと思う。八段錦を毎日行う。これは身体にとってとても良いことだ。そういう身体に実感がある。身体は老化して行く。各確実に衰えて行く。その衰えをできる限り抑える運動ということになる。難しいことではないので、動ける間は朝に一回はやるつもりだ。

 呼吸法は逆腹式である。おなかで息を吸う気持の呼吸。吸うときにはおなかはへこんで行く。おなかで息を吐く、今度はおなかは膨らんで行く感覚である。無意識の中でそうなる。呼吸は意識的なものでは不十分である。呼吸をしていることを忘れている。そしてできる限り大きく深く。
 
 この呼吸は座禅の呼吸法と同じである。ただ、呼吸法は意識がそこに行くのでは良くないので、自然に呼吸が身体が治まるまで無理をしないことだろう。とらわれないと言うことが呼吸以上に大切なことになるからだ。

 呼吸は自然であること。ここに意味がある。逆腹式を改めて意識することなく,自然な呼吸として八段錦の動きの中で行う。それができるようになると、深い深い呼吸になって呼吸で動いて行く早さに落ち着く。

 精一杯ゆっくりと動き呼吸の限界まで持って行く。動きにはほぼ一回おきに軽い呼吸と深い呼吸が繰り返されて行く。深い呼吸の最後に呼吸を止める場面がある。限界まで吸った呼吸を三秒ほど止める。勝手に解釈してそうしている。

 八段錦の各運動を三回ずつ繰り返し行う事もあるらしい。引き続き24式を行う場合は、一回か二回を一通りやれば良いようだ。自分の身体にどれが多く必要か分かれば、それだけを三回にして後は一回でもかまわない気がする。

 正しい呼吸になると言うことはすべてが整うと言うことである。身体の中の流れが、安定する。酸素が充分に行き渡ることにより、脳も活性化する。これはぼけ防止になるのではないか。脳髄が、透明になると言うことが、脳に勢いが生まれるという感覚がある。

 この辺はそんな気がするのであって、正しいかどうかは私がいつまでぼけないかで分かる。100歳まで死なないで、ぼけていなければ、八段錦のおかげである。

 24式太極拳は戦後中国政府が太極拳を国民運動として広げて行く際に、太極拳を24の形に整理したものということだ。拳とついているが拳法と言うよりも、国民健康体操と考えた方が良い。全体に流れがあり、舞踊にも近い動きのような気がする。

 この動きも呼吸が重要らしいが、24式についてはまだ私には分からない部分が多い。ひとつ分かったことは視覚的なことである。目に映っているのだが、視覚的に見ていると言うことではない。目に映るものが流れているのだが、見ているわけではない。

 こういう状態は座禅においては、極めて難しいのだが、太極拳の動きが伴うことで、座禅よりは妄想が起きないようだ。まだ太極拳の経験が浅いので、それ以上のことは分からない。1年ほど経過したら、太極拳がどんなものか報告したい。

 毛沢東政権が24式太極拳を制定する前から、中国では様々な健康体操が行われていた。その運動養生法には流派もあり、武術につながるものも多い。その中から健康法として、整理されたものが24式で、良く研究されている。

 24式も呼吸が重視されている。動きに合わせて呼吸を併せて行く。この場合どこで吸って、どこで吐いてと言うようなことは,動きに従って自ずと決まってくる。こきゅうに意識を止めない方がいい。

 太極拳は動く禅ともいわれる。座禅は意識は止まらないことがいい。意識が流れて行く。無意識、無念無想と言うことが言われるが、ぼうっとしているのではなく、冴え渡っていながら、意識が透明で自由に止まらないことである。

 止まり考えに落ちこむのではなく、流れていって淀むことがない。頭の中の意識が透明な流れで洗われている。座禅においても、長い繰り返しが必要なように、24式でも繰り返して行くことで、意識の自由に至れるのかもしれない。まだ動きが覚えきれないレベルで到底そんなことはあり得ない。

 動きに意識を集中させて行く。身体の中の流れに意識を通わせて行く。経絡というものらしい。この流れはそもそも自覚できるものではない。それを意識的に目覚め刺す。つまり私にとっては内観法である。自分の意識を身体の様々な部分に及ばすことで、流れを起こす。
 

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沖縄本島の豚コレラの発生

2020-01-12 04:15:46 | 自然養鶏
石垣郵便局の壁の絵

 沖縄本島のうるま市の養豚場で豚コレラが発生した。まだ原因は明らかになっていないが、推測ではアジア観光客の持ち込んだ食べ物が原因の可能性が高いきがしている。中部および関東地方での豚コレラと同じ遺伝子と言うことだが、同じようなアジアからのルートと考えてもいいのではないだろうか。

 沖縄での発生は3つの養豚場に広がっている。さらに広がる可能性が高い。最初の発病から、1月10日の消毒殺処分まで1ヶ月もあったとみられる。12月20日頃には死亡した豚が10数匹も出ている中で、出荷もされていたようだ。暮れの25日にはさすがにおかしいと言うことは養豚業者の人も認識していたようだ。しかし年の暮れと言うことで年明けに家畜保健所に相談して明らかになった。

 感染豚が居たと思われる状況で豚の出荷をしているから、他の養豚業者との接触なども頻繁にあったと考えられる。広い範囲の養豚場の調査が必要な状況になっている。

  初期対応が失敗している。しかもうるま市で発生を確認して、三キロ以内の養豚場を調査するとした。そしてすぐそばの養豚場でも感染が確認された。そのさなか、今度は隣の沖縄市で新たな感染が確認された。

 初期対応は大げさなぐらいにやるべきだ。本島全域の調査を行う必要がある。うるま市の処理肉場に豚を出している業者はすぐに立ち入り調査をすべきだった。岐阜での対応もイノシシは移動しないので汚染を拡大はないと考えたために、関東にまで広がることになった。

 沖縄本島でもイノシシの感染を調査しなければならない。もしイノシシに感染が広がっているとすれば、その対策も行わなければならない。沖縄では農家が数頭を庭先で飼育することがある。こうした豚の感染も調査の必要があるのだろう。

 重要なことは感染源である。第一に推測される感染源は、海外からの観光客が肉の食べ残しを何らかの形で廃棄する。それをイノシシがあさって感染する事もありうる。そのイノシシが養豚場に出没し感染を広げる。あるいは食品残渣をそのままエサに使っている場合も有るのかもしれない。エサにされた食品残渣へのウイルスの混入である。

 世界では未だかつてないような家畜伝染病が起きている。当然効果的なワクチンなどない。狂牛病、口蹄疫、高病原性鳥インフルエンザ、そしてアフリカ豚コレラ。大規模畜産が行われるようになったためと見ている。(その過程は何度か書いたので省略)幸いなことに日本は島国である。徹底的な防疫体制をとれば、防げるはずである。

 今、怖いことはアフリカ豚コレラの日本へのウイルスの侵入である。豚コレラが日本に来ているのだから、アフリカ豚コレラの感染が日本で起こる可能性は高いとみなければならない。中国の養豚はこれで大変なことになっている。今から、水際対策を徹底することしかない。

 そのためには、家畜衛生学の研究がまず第一である。鳥インフルエンザの時も、全く学問的に後手後手だった。家畜は病気になれば、淘汰すればいいという安易な考えしかなかったのだ。どうすれば、日本への侵入が防げるのか、防げないのか研究して貰いたい。

 渡り鳥の移動経路なども全く手探り状態であった。そして、何故野生の鳥は高病原性鳥インフルエンザに感染しても、一部の鳥だけの感染で収まるのか。そういうウイルスに対する対応能力の仕組みも分かっていない。

 野生動物というもののウイルス病に対する対応能力と家畜動物との違いはどのようなものか。今後の研究課題である。野生動物は弱いものは死んで行く。過酷な環境である。こうした自然淘汰の状況が強い動物を作り出しているのではなかろうか。

 今回野生のイノシシが豚コレラに感染した。野生のイノシシは感染するものとしないものとがいるらしい。捕まえたイノシシの大半が感染していないのだ。それはイノシシが野生状態では接触が少ないからなのか。

 あるいは健康な野生動物はそもそもウイルスに対して抵抗力があるのか。過去何度となく感染をくぐり抜け、抵抗力のある野生動物だけが生き残っているかのうせいはないのだろうか。

 この辺の実態も今回の豚コレラのイノシシ感染の中で、調査を継続して貰いたいものだ。そうした基礎研究の蓄積が,これからの日本の畜産業を守るものになるはずだ。

 その上で、安全な家畜の飼い方を考えなければならない。現在の家畜の飼い方は中途半端な隔離方法である。中途半端な衛生対策である。そのために、一度蔓延を始めると止まるところがない。

 病気の侵入を恐れる余り、過剰な消毒が行われている。それが、家畜由来の新しいウイルスの発生を起こしている可能性がある。このあたりの研究も充分に行わなければならない。

 ウイルス病というものと免疫力の関係を家畜の場合どうなっているのか研究が必要だろう。どういう形で新しいウイルスが出現するのかも研究すべきだ。自然免疫の科学的な研究も必要だろう。

 水際作戦には現在の数十倍の獣医師が必要であろう。そのためには有効が疑われる狂犬病のワクチン注射を止めて、その人員を入国管理の防疫員として雇用したらいい。狂犬病も水際で止める方が好ましい。

 現状の人員では到底防ぎきれるものではない。飛行場や港からウイルスは侵入する。ウイルスだけでなく、様々な危険生物も侵入している。この対策には今の数十倍の人員の配置がいる。

 生物テロの問題もある。海外との交流が盛んになることは望ましいことなのだから、どうやって検疫を強化できるのか。機材も人財も十分に投入して備えを徹底して行うべきである。カルロスゴーンさんの事例を見えれば、抜け穴だらけのようだ。

 例えば、石垣島にも直接外国人が年間22万人も来ます。石垣島には出入国の管理のための出張所があります。私も台湾から戻るときにはここを通過しました。荷物検査などしないに等しいものでした。

 クルーズ船などの場合はどうでしょうか。多分荷物検査などかなり手薄ではないでしょうか。お弁当などを持ち込んで食べ残しをポイ捨てすれば、それを野生動物が食べてしまう。輸入貨物の検査もかなり心配です。多分石垣島の状況は全国で言えることだと思います。こういう所での検査を徹底して行わなければならないはずです。



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日本経済の緊急事態は迫っているのではないか。

2020-01-11 04:16:16 | Peace Cafe


 日本人の一人当たりのGDPは毎年下がっている。20年前にはベスト3にいた日本が現在26位。格差社会が進み、貧困率は確実に高まっている。アベ政権はこれでもアベノミクスは成功していると強弁している。これは裏を返せば、他に方策はありませんと宣言しているようなものだ。日本に新しい産業が産まれないと言う現実を直視しなければならない。カジノ所ではないのだ。

 GDPが幸福度を表すわけではないが、毎年順位を下げて、韓国や台湾と同レベルになった。経済の状況が悪くなっているということだろう。その理由は日本が産業国家ではなく、投資国家になっていると言うことにある。ものを生産する国ではなくなってきているのだ。

 言ってみれば、日本はカジノぐらいしか新しい産業の創出が出来ない国になっている。新たな産業に取り組む意欲が企業に失われた。危険を冒すより、わずかな利潤を求めて投資しておいた方がいいという選択。新たな世界に挑む冒険心が失われかかっている。

 日本の利潤の半分以上が世界への投資の結果と言うことである。日本は金貸しをして利息で儲けている国になった。これは産業的に考えれば、末期的な病状ではないだろうか。一例で言えばソフトバンクの孫社長の姿である。何かものを生産するよりも、よその企業に投資をして利潤を上げるというやり方である。

 企業は内部留保を高めていると言うことが毎年言われる。人件費に回さないで内部留保された資金は投資に回されている。企業がものの生産で利益を上げにくいために、設備投資をするよりも、人材投資をするよりも金融投資をした方がたしかな利益があると考えている。

 国は莫大な赤字国債を保有していている。日本銀行の国債保有高は500兆円となっている。国債発行の43.9%を日銀が保有している。財政赤字の面から言えばGDPの198%超になっている。財政赤字総額は1122兆円の異常事態である。

 投資で生き延びている国日本に未来はあるはずがない。生産が失われ、新しい産業が生まれなくなった日本は衰退するほかない。アメリカや中国の経済成長に投資をして、その利潤を得て当面生き延びている状態の日本が良いはずがない。

 これは確かに日本だけの問題ではなく、資本主義経済というものが限界に達した結果でもあるのだろう。資本主義は民主主義を育てると考えられてきた。ところが、一部のエリートだけが富を得て、中間層と呼ばれる人達が先細りしている。資本主義が富裕層と奴隷の専制政治を作り出している。

 それでも今のところ人間が生きるには十分なものがある。格差社会と言っても、飢え死にする人が続出しているわけではない。この生煮え状態が、社会から希望を奪っている。遠からず崩壊するという予感がしてならない。

 一次産業中心の時代は人間の能力差はせいぜい、二倍程度である。優秀な農家であっても、せいぜいお米を倍収穫できるぐらいだ。ところが工場で労働するとなると、人間の能力は10倍もの生産力の差になった。ところが、コンピューターのプログラミング能力と言うことになると、100倍1000倍が当たり前の能力差になる。先端技術は超エリートの世界である。

 今の子供たちの半分以上が、就職するときには今存在しない職業に就くと予想されている。その新しい職業は間違いなく、能力差が極めて大きな職業になるだろう。この能力差が格差社会を産むことになる。

 必要な人材というものは、特別のエリートだけである。その他の労働力は奴隷労働のようなものになる。外国人労働力の導入。社会には極端な富の偏在が起き始めた。その富を再投資して利益を得る。これが日本の陥っている生産しない資本主義の姿だと想像している。

 最低賃金を上げられない理由は、自分の企業に勤務する人材や設備に投資するよりも、よその企業に投資した方が、利潤が見込めると日本の企業が考えているからだろう。企業自身が新しい産業の展開に自信を失っている状態である。

 その主たる原因は人材の能力の衰退である。日本における教育への投資は世界水準から見ると相当にひどい状態に劣化した。OECDから勧告を受けているという状況。教育不足による一人一人の能力の衰退が起きているのだろう。

 さらに現実的には人口減少によって、労働人口の激減である。背景にあるのは少子化である。少子化の原因は社会不安が一番の要因と考えられる。資本主義では労働力は資本である。人口減少は資本の減少になる。

 少子化の解決は未来社会の明るい展望である。この先よくなるという実感があれば、人口は増加して行く。社会が機会均等の教育を保証していれば、人口減少もいくらかは緩和される。子供が2人いれば、十分な教育が不可能という現実的選択。

 残念なことに、原発事故以来日本人は明るい展望を持てなくなっている。原発事故は文明の転換を意味した。まさか、いつまでも原発にしがみつくほど,政府が無能で、無気力とは思わなかった。再生エネルギーへの転換を政府が諦めてしまうとは思わなかった。

 エネルギー資源を輸入に頼る日本は再生エネルギー技術に未来をかけるほかない。ところが、再生エネルギー技術に向かうどころか、既得権益の原子力発電にしがみつく以外道を見いだせない政府なのだ。燃料輸入価格の高騰が日本の貿易赤字の増大につながる状態である。

 日本は国破れて山河ありを、敗戦後体験した。明治帝国主義の無謀な覇権主義はみじめな敗戦で終わった。しかし、日本の国土は残り、この豊かな国土から再出発することが出来た。日本列島という自然環境に助けられたと言えるだろう。もう一度ここからやる他道は無いはずだ。

 資源の少ない国と言われるが、実は自給自足可能な豊かな資源大国であった。ところが、この豊かな自然に対して、気候変動が猛威を振るい始めている。農業をやるものとして、前例のないような異常気象により、深刻な打撃を受けている。豪雨災害は森林の管理不足から、たちまちの大災害を起こすようになっている。健全な国土作りは破綻を始めている。

 自然災害の増大が、食料を輸入に60%依存している日本を不安定化する。しかし、農業者人口の減少から、食糧の自給率はさらに下がる方向である。政府は本気で食糧自給をしようとはしない。国民もすでに地道な農業労働に耐えられなくなっているかもしれない。農産物の国際競争力強化と言うことで、主食作物が軽視されている。食糧自給率の向上を行わなければ暮らしの安定はない。

 日本が維持されているのは外国からの日本への投資でもある。円が安定通貨とまだ見られている。しかし、これ以上財政赤字が増加して行けば、海外からの投資は日本に向けられなくなる。財政の健全化をしなければ、頼みの綱である円の安定通貨と言うことも危うくなるだろう。現在の財政赤字をどう処理できるかが、日本の最後の頼み綱である。

 今後世界経済は停滞するとみなければならない。中国の経済の頭打ち。アメリカの一国主義の破綻。こうしたことで、世界の企業価値が下落すれば、投資立国・日本は計り知れないダメージを被ることになる。

 今後かなり厳しい状況が待っていると覚悟して、もう一度足下からそれぞれがやり直す以外日本の方角はないと思う。


 
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日産ゴーン事件と日本の司法制度

2020-01-10 04:11:41 | Peace Cafe


 保釈中のカルロス・ゴーン元日産社長がベイルートまで脱出を計り成功した。そして、日本の司法制度を批判する記者会見を行った。断片的にでは有るがみた。中々迫力のある会見であった。

 森法務大臣もそれに呼応して、緊急記者会見を行った。日本の司法制度は公正なものだ。被疑者の人権も守られている。日本の司法制度の中で身の潔白を主張すればいいと主張した。やや説得力に欠けていたかと思う。

 世界の常識的な目から見れば、日本の司法制度は相当にひどいらしいと感じたことだろう。日本という国の評価が随分下がったに違いない。日本は安全な国だと思ったが、外国人にはそうでもないらしいという評価が生まれたのではないか。

 私にはゴーン氏の主張の方が世界では通るように思える。ゴーン氏は有価証券法違反と言うことで逮捕されている。要するに税金をごまかした、あるいは虚偽の会計報告を行ったという疑いである。税金は大事だとは思うが、即座に人に危害を加えるおそれがある犯罪ではない。100日も保釈をしないと言うことが許されるとは思えない。

 事件の本質は日産社内のクーデターである。社内でおかしいと気づいたのであれば、まず社内で問題にして、解決するのが普通のことだ。日産に自浄能力が失われていたので、検察の手を借りたと言うことではないか。外国人支配排除も感じられる。

 ゴーン体制に抵抗できないために、検察に社長の犯罪を訴え協力を取り付けたのだろう。内部告発でゴーン体制にクーデターを行った。ところがそのクーデターの首謀者である。後任の社長の西川氏も同様の背任行為を行っていて、社長を退任した。何故か、告発した西川氏はおとがめなしで、ゴーン氏は独房に100日以上監禁である。

 企業にはこうした犯罪と言えるのかどうかのギリギリの節税対策はいくらでもあるのだと思う。特に税金に関わることは、やりようで犯罪が節税と言われるものもあるのだから、会社内部で解決出来る可能性も高い。

 こうした検察と日産クーデター派の意図するところは、日本の日産がフランスのルノーの言いなりになるわけにはいかないという背景がある。ルノー経営者でもあるゴーン体制のままでは、ルノーに日産の利益を吸い取られてしまうと考えたのだろう。

 ゴーン氏が独裁者で、手に負えなくなったと言うことなのだろう。そんな過激な人だから、倒産しかかった日産を建て直すことが出来た。当時は英雄のように持ち上げていた。ルノーを今になって排除するというのも、助けて貰って置いてなんなのかという側面もある。まあ、人情で動いているわけではないから仕方がないが。

 そんな、複雑な社内事情でクーデター派は司法取引の上で、ゴーン元社長のあらゆる犯罪的行為を検察にさらけ出したのだろう。しかし、それが明らかに犯罪なのかどうか、少なくとも長期間拘留しなければならないことなのかどうかには疑問がある。

 クーデター派は勾留している間に、ゴーン氏を株主総会で社長から解任をしてしまった。もし無罪であるとしても、拘留されていたために、反論さえ出来ない状況である。このやり方はすべてクーデター派の筋書きと言えるのではなかろうか。汚いやり方とも見える。

 カルロス・ゴーン氏の108日に渡る長期拘留は日本の司法不当性を表している。人質司法と呼ばれているものだ。犯罪を認めない間は保釈をしないのだ。それはえん罪であろうが同じである。

 厚生労働省の村木厚子局長が大阪地検特捜部に逮捕・起訴され、一審で無罪判決が出て確定した。その過程で、主任検察官の証拠改ざん事件が発覚し、検察全体が激しい社会的批判を浴びた「特捜検察不祥事」である。その後、厚労省事務次官にまでなった村木氏が、起訴事実を全面否認していたことから164日にわたって勾留された。これが「特捜的人質司法」である。

 そもそも凶悪犯罪の場合、保釈した場合又凶悪な犯罪を犯す可能性がある。しかし、村木さんの場合や、ゴーン氏の場合は一般の人達を危険にさらすようなことはない。証拠隠滅だけの問題である。

 検察の手法の実態は、長期拘留で精神的に追い詰めて、自白をさせると言うことが主目的である。村木氏もゴーン氏もすごい胆力の人だから耐えきったが、普通の人ならひとたまりもない。この検察の手法は人権を軽視している。間違ったやり方である。

 ゴーン氏は日本から脱出して世界に訴えれば、自分の主張が認められると考えたのだろう。このまま日本の裁判に進めば、自分は犯罪者にされてしまうと考えたに違いない。

 ゴーン氏は日本にいたのではまともに反論する場を与えられていない。情報は一方的に検察から出てくる。世間は垂れ流しの検察リーク報道を読んで、ゴーン氏が相当にひどい犯罪者だと先入観を植え付けられてしまっている。記者会見に日本の報道機関の一部を除外したという所にそれが現われている。

 ゴーン氏は検察によって、国外逃亡という犯罪者になった。しかし、これがえん罪である場合、どういうことになるのだろうか。えん罪で逮捕され刑務所にいた人が、脱獄した場合、犯罪になるのだろうか。日本でまともな裁判が期待できない場合、ゴーン氏はどうすれば良かったのだろうか。

 村木氏は支援団体が出来て、大きな応援があった。日ごろからそんな犯罪を犯すはずのない人だと信頼された人だったからだ。その支援の声がとどいていたから、頑張れたと語っておられた。

 ゴーン氏の場合、そうした応援の声は出てこない。どちらかと言えば外国人だからやりそうなことだのような、差別的な空気すら感じられた。くわえて、大富豪へのやっかみ感情すらある。このままでは危ないと考えたゴーン氏の判断は間違えとは言えない。

 西川元日産社長はこの記者会見に拍子抜けした。何の証拠も出なかった。等と安堵していたが自分の犯罪はどう考えているのだろうか。報道の大半はゴーン氏の会見では無罪の説得力がなかったと言っている。なんとも頼りない見方だ。証拠をこの段階で出さないのは当たり前だろう。裁判が待っている中で、この段階で証拠を出すわけがない。それが戦い方だ。

 いずれにしても,たとえゴーン氏が有罪であろうとも、日本の検察の自白するまで、保釈はしないという人質司法のやり方は、再犯の可能性がない場合は変えなければならない。それがえん罪を少しでも減らすためには必要である。

 
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シーサー作りをやる

2020-01-09 04:20:05 | 石垣島



作ったシーサー。崩れそうなので、乾くまで口の中に新聞紙を入れて保っている。

 石垣の家の玄関にはスイジ貝のあるモザイク画を制作した。毎日の出入りの時に気分がいい。スイジ貝は火防の貝である。ただ置いておくのではもったいない。モザイク画の中に入れることが出来れば、すばらしいことだおもって、スイジ貝入りの大理石モザイク画を制作した。

 前から考えていてまだ果たしていないものがもう一つある。屋根の上にシーサーを乗せることである。シーサーは石垣の家の10%ぐらいには置いてあるだろうか。石垣らしくてなかなかいいものである。様々な個性があり、石垣らしい魅力となっている。石垣の家にも笹村アトリエらしいシーサーを作るつもりでいた。

アッシリアのライオン像
 シーサーのことを考えてみると、どうしてもアッシリアのライオン像にたどり着く。ライオン像は神を意味する。現地で見たことはないのだが、大英博物館などで見たことがある。すばらしい造形である。

 動物彫刻としては傑出していると思う。あの迫力がシルクロードを伝わり、何千年経て沖縄のシーサーになったと思うだけで,悠久と言うことを感じる。中国にも獅子像はある。しかし中国の獅子像で感心したことはない。中国では神格化しようとしたら、竜と同じで幻術的になってしまった。


 シーサーは魔除けである。そもそもは家の入口の地面に1体だけ置いたらしい。いまは屋根の上に阿吽の2体が置かれているのが一番普通である。日本の狛犬は中国の獅子像に比べると、素朴感がありよいものもある。それでも彫刻としては物足りない気がしてきた。

 日本人は立体に弱いのではないかという気がしてくる。野外彫刻は神社の森陰ではどうも合わない。やはり陽射しの強い場所で、陰影が目立つようなところで形が出てくる。日本人の床の間芸術的な弱さを、狛犬では感じてしまう。


 その狛犬が、沖縄では強い陽射しの元魅力的なものに生まれかわれたように思える。あの神社の森的なものから、各家庭の陽射しの強い玄関先に置かれることで、生気を取り戻した。立体には陰影が重要だ。

 それが石垣の漫画シーサーである。全く冗談のような魔除けである。宗教から解放された愉快な世界観。何でもありの中で、自由の翼を得たシーサー。家の壁にサザエさんがあって、大丈夫な石垣の気風なのだ。当然シーサーも漫画シーサーである。



 シーサーを琉球石灰岩で彫りたいと考えていた。良い石がある。それが少し風化してきた感じがいいと思っていた。それで石垣に来てからいつも石を物色していた。昔から石は好きだった。石置き場をただ見て歩くだけでも面白い。石置き場なら一日いられる。

 しかしいい石はあるのだが、彫ってダメになりそうなのだ。とてもアッシリアの石像には石自体が及ばない。当たり前のことである。それで、ここは石垣の土で作れないか探していた。テラコッタのシーサーである。
 

 石垣島には陶土があるとは聞いていた。石垣は地質学的に実に複雑な場所で、粘土も存在する。その粘土でシーサー作らせていただけるところが見つかった。それが川平焼き凜火と言う陶芸工房である。35センチまでのシーサーを作らせてくれる。

 石垣の土で作らせてくれるというからやってみたくなった。まず、1月7日に一日かけて作った。しかし終わりまでは出来ない。8日の午後にもう一度出かけて、終わりまで作った。焼き上がりは3月半ばらしい。


 アッシリアのライオン像がシルクロードをたどって、日本まで来た。良いものの勢いはそれくらいつよい。砂漠の乾燥した空気のしたで、くっきりした陰影のあるライオン像。

 そうした力強いものである形であって、シーサーはのどかで、ほのぼのとしていて欲しい。あっけらかんとしているものを作りたいと考えた。漫画シーサーとは少し違うが、迫力あるようなシーサーではアトリエには合わない。

 高い場所に置くので、大きさはできあがりで30センチは欲しい。石垣に土は17%縮小するそうだ。これには少し驚いた。35センチで作って,29センチぐらいだ。屋根の上で何気ないくらいの大きさがいい。

 好きなシーサーはあるので、参考にさせて貰った。ところが全くそうはならなかった。2日間全力で作ったが思うようには行かなかった。自分で作ると別ものになる。スゴク下手でいいのだが、焼き上がりが心配である。粘土の調子から言って、乾く間に割れそうな気がする。かなり心配な作りになってしまった。それで疲れた。絵を描くより疲れた。

 粘土状態の作品も写真を撮ってはあるのだが、タブレットが壊れてしまい、パソコンに上げられない。上げられるようになったら載せるつもりだ。

 


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私人昭恵夫人の桜推薦ワクてなんなの。

2020-01-08 04:55:01 | Peace Cafe

 いつまでも桜を見る会のことを言っているのはおかしいだろうという論調がある。国会ではもっと大事なことがあるだろうというのだ。そうスキャンダルをいつまでも国会でやってないで、建設的な事を議論しろ、というのは確かに正論である。

 それなら、説明責任を早く果たして、建設的な国会にする義務は総理大臣に一番ある。アベ氏が曖昧なままだから、話が長引いているのだ。桜の会のいちゃもんは止めろという人は、清浄な国会のためにアベ氏に説明責任を果たせと言うべきだろう。

 何もかも曖昧なまま終わらせているのが、アベ政権である。この説明をしない態度が日本をダメにしている。日本が前に進めないのは,責任をとろうとしないアベ政権が悪いからだ。そこであえてサクラ問題を書く。

 総理大臣夫人の昭恵氏は私人であると閣議決定されている。インチキ小学校の名誉校長を引き受けてしまうなど、いろいろ差し障りがある人だから、公人という訳には行かなくなった時に、無理矢理閣議決定した。ところが、私人であるはずの昭恵夫人に,桜の会招待推薦ワクがある事が分かった。こういうのを2枚舌というのだ。

 年が明けたら、すがすがしい気分でいたいのにまた思い出してしまう。桜を見る会の招待は功労賞なのだそうだ。長年地道に社会貢献した方々への慰労賞なのだそうだ。だから芸能人や著名人は人寄せパンダと言うことだろう。そもそもこういうやり方で人を動かそうと言うことが大嫌いだ。

 公人昭恵夫人らしい姿である。昭恵氏は電通にいた人である。人間の動きには実にさとい人だ。自分の役割をいやらしく自覚している。名誉校長になる効果をよく知っている。自分の桜の会への推薦がどういう効果を上げて、どんな結果になるかを計算している人だ。総理大臣がするわけには行かないバックアップをしているつもりなのだろう。

 実は昭恵夫人から推薦されたであろう人を知っている。推測だし、個人としては素晴らしい人なので、具体的には何も公表はできないが、推薦されて効果のある人である。どんな効果があるかと言えば、推薦状を自分の所のパンフレットに入れたくなるような人と言うことだ。

 その人は昭恵夫人の支持があることを会う人ごとに話していた。総理大臣夫人が応援してくれているからもう大丈夫だと話していた。その方はボランティアで素晴らしい活動をしていたのだが、とても苦労されていた。問題も抱えていた。だから昭恵夫人が頼みの綱ような気分だったのだろう。その気持はよく分かったが、危ういことだと話していた。

 良いことのために大いに励まされたのだから悪いことでは無い。むしろ良かったわけだ。しかし、この昭恵夫人ルートというのは何なのだろうか。こういう意味不明の権威的なお札を付ける、気持ちの悪い解決法はまずくないだろうか。問題が出なければいいがと思っていたが、結局困ったことになってしまった。

  例えば、昭恵夫人は農業が好きということになっている。農の会の活動は、とても素晴らしいので一日訪れるとする。新聞も来るだろう。小田原市の担当も来るだろう。それで宣伝になり、活動はそれなりに目立つ。話題にもなる。しかし、そういう意味不明の応援はいらない。地道な活動をゆがめかねない。

 昭恵夫人の善意はいいのだが、これがゆがんで偏っている。善意というのは歯止めが無い。幼稚園生が、教育勅語を暗唱する姿を美しいと感じてしまうと名誉校長まで引き受けてしまう。こうした総理大臣夫人の曖昧な推薦の効果の方が怖いのだ。怪しげな人物も群がるわけだ。右翼や宗教やえせ科学が関係してくる。お墨付きの欲しい人が関わりを持つ。

 アベ後援会ワクよりも、昭恵夫人推薦ワクの方が、さらに気持が悪いことになる。この奇妙な権威のようなものが、日本で一番あってはならないものではないか。それが善意であれ、正しい行いであれ、あってはならない気味の悪さだ。

 総理大臣は公務員であるが、その奥さんは何だろう。奥さんは奥さんのほうの世界で活動すればいいのである。総理大臣夫人の役を公人として広げたのは安倍内閣が初めてではないか。どうも気色悪い。

 肩書きを重視するいやらしさである。昭恵さんは総理大臣では無いのだ。内助の功はあるのだろうが、単純に夫人ナノのだ。別人格である。たまたま総理大臣夫人である。それをありがたがってはならない。トランプ夫人は自身で「世界で一番嫌われている女」こう言ったそうだ。イヤ日本では2番目ですと言いたいところだ。

 昭恵夫人がこんなお化けになってしまった理由は、日本人の劣化が背景にある。有名人と写真が撮れることをありがたがる恥ずかしさ。昭恵夫人を忖度する人のおかげで、できない無理が実行されている現実があったのだ。アベ記念小学校の設立である。名前は違うがそっちはもう忘れた。

 著名な詐欺師がアベ推薦ワクの招待状を、詐欺行為の宣伝ビラに利用していた。これは明らかに悪事だと分かるからまだいいが、昭恵夫人を利用した忖度行為は、払い下げに関わる忖度になり、公文書の書き換えになった。出先の官僚の自殺者まで出した。

 実際の社会では,この気味の悪い社会がカビのように広がってきている。日本はそもそもそういう嫌らしい社会だった。それがすこしづつ払拭されてきたと思う矢先、アベ政権が一気に復活させた。日本の身分制度である。封建社会では無く、意味不明の権威による差別が広がっている。

 だから、桜の会に招待されたくなってしまうのだ。そちら側に自分がいることの確認行為である。所属の確認である。こうして桜を見る事のできない、この枠には入れない人に不思議な圧力をかけているのだ。

 日本中にプチ昭恵夫人がいることだろう。この気味悪さで動いて行く日本に戻って行くことは何よりイヤだ。能力主義と言いながら、実は尾ひれで動いている日本社会がみえてくる。昭恵夫人桜ワクは健全な社会の力がしぼんできている表れなのだろう。

 皇室の利用も同じである。象徴である天皇を重要であると考えるならば、一切権威づけで利用しないことである。皇室の園遊会の報道など、やらないことだ。招待された人個人の問題として納めることが大切である。そうそう写真撮影も禁止だ。
 
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第三次世界大戦の可能性 自衛隊の中東派兵の即時中止を

2020-01-07 04:00:45 | Peace Cafe
 石垣のお宅のすごいシーサー、大きさは80センチくらいあるだろうか。

 アメリカとイランの戦争が近づいている。第三次世界大戦になりかねない恐ろしいことだ。中東の状況は大きく変化した。アメリカの失敗である。イラン革命防衛隊のソレイマニ司令官をテロリストだとして殺害した。トランプは戦争の扉を開けてしまった。

 この深刻な事態に至り、今更自衛隊を派遣して情報収集活動どころではない。状況は変化したのだ。即時派兵中止を決めて欲しい。日本がこの戦争に巻き込まれかねない事態である。

 イランはソレイマニ氏殺害の報復として「軍事施設への軍事的対応」を予告。「戦争を始めたのは米国であり、彼らの行動に対して適切な反応を受けるべきだ」と主張した。イランが支援するレバノンのシーア派組織ヒズボラの指導者ナスララ師も「米軍は代償を支払うことになる」と述べ、攻撃を示唆した。

   菅義偉官房長官は6日、BSフジの報道番組で、緊張が高まっている中東地域への自衛隊派遣について「(心配は)していない」と述べ、予定通り実施する考えを示した。米国とイランとの関係が極度に悪化していることについて「両方の国が信頼しているのが日本ではないか。外交努力で緊張緩和の努力を全力でやるべきだ」

 何故アベ政権は自衛隊が攻撃を受ける心配をしていないのか。日本が外交努力を発揮するためには、自衛隊の派兵は逆効果である。信じがたい情勢判断である。驚くべき鈍感力である。アベ氏がイランに訪問したときに起きた、日本タンカーへの攻撃をもう忘れたのだろうか。

 イランが背後にいるテロ集団はアベ氏のイラン訪問に併せて、日本タンカーを機雷攻撃した。それは仲介等拒否するという意思表示だろう。直接のアメリカへの攻撃では無く、日本の自衛隊を攻撃する可能性はないとは言えないだろう。アメリカの報復攻撃の根拠を与えない攻撃である。

 イランの今後の選択に、軍事攻撃を何もしないと言うことはあり得ない。テロ攻撃になる可能性が高い。テロはどういう形で起こるかは分からない。テロを完全に防ぐことが出来ないことは、アメリカ国内の銃撃事件を考えれば分かることだ。

 イランと北朝鮮が連携をとる可能性もないとは言えない。イランイラク戦争では北朝鮮製のスカッドミサイルが攻撃に使われた。核濃縮技術も北朝鮮から導入されたと言われている。両国の持つ様々なテロ攻撃がアメリカに向けて行われる可能性は大きいだろう。

 中国ロシアはイランと中東のオマーン湾で海軍合同演習を実施している。中ロはイランと関係が深い。これも代理戦争になる可能性を高めている。アメリカの方角を分散させるために、反アメリカ諸国が同時多発的にアメリカ攻撃を始める可能性がある。

 イラクは即座にアメリカの軍事基地をイラクから撤去しろと要求している。アメリカは基地を建設した費用を出さなければ、撤去しないと居直っている。日本がアメリカに基地を撤去しろと言えば、同じようにごねることだろう。アメリカの基地はアメリカのためにあると言うことがよく分かる。

  アメリカとイランの対立の歴史は深い。ヨーロッパから戻った革命宗教家ホメイニ師が親米パーレビ王政を打倒。関係は一気に悪化する。そもそも親米のパーレビ政権の独裁は国民からは嫌われていた。石油利権を独占していたのだ。

 イランテヘランの米国大使館が過激派に占拠され、大使館員ら52人が1年以上にわたって人質となった。この事件をきっかけに米国とイランは対立することになる。日本もパーレビ政権時代には石油で関係が出来ていた。(海賊と呼ばれた男,出光興産である。)しかし、ホメイニが革命を実行してからは特段親しいとまでは言えないのではないか。

 日本にはアメリカとイランの仲介をするような能力はない。形だけで済ますようなアマチョロい判断では深刻な中東情勢に関わることは危険すぎる。トランプは「もしイランが米国の人や施設を攻撃すれば、イランの52の重要施設を直ちに徹底的に攻撃する」と叫んでいる。

 トランプアメリカの悪い側面が露呈した。イランの英雄的軍事指導者をアメリカ攻撃をするという訳の分からない理由で無人機からの爆撃で殺害した。意味不明の先制攻撃をしてしまった。アメリカは変わらない。証拠もないまま軍事攻撃を開始してしまう。

 日本の自衛隊が中東で情報活動の中に、イランを背景とするテロ集団の攻撃を受けた場合どういうことが起こるかを考えるべきだ。日本タンカーの機雷攻撃も結局の所うやむやである。日本は抗議すら出来ないでいる。

 日本は即刻自衛隊の中止をしなければならない。理由は情勢の変化である。第三次世界大戦の火中の栗を拾いに行くなど、あまりにも無謀である。そんな経験も能力もない。

 ウクライナ疑惑はトランプとしては逃れることが出来ないだろう。このことでトランプは大統領選挙に敗れる可能性が高まった。そのことがイラン司令官殺害につながっているのだろう。話をそらそうとしている。

 トランプ氏は大統領の権限を利用し、次の大統領選挙で戦う可能性のあるバイデン前副大統領の捜査をウクライナに始めさせようとした。バイデン関係者の捜査をしないなら米軍の軍事援助をやめるとウクライナ政府を脅した。

 これは証拠から言って確定したことと言えるだろう。その弾劾が議会で始まる直前にイラクの司令官の殺害を行った。こんな汚いトランプの盟友を自称するアベ氏は自衛隊の派兵をしようとしている。こんなやり方こそ自衛隊の誇りを傷つけて付けているのではないか。

 そもそも中東における自衛隊の諜報活動とは何だ。アメリカの要求に従う、形だけの派兵に無理矢理の意味づけである。トランプのお付き合いに自衛隊がかり出されるだけだろう。第三次世界大戦前夜に、とんでもない話だ。

 
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石垣島で卓球をやってみる。

2020-01-06 04:19:29 | 石垣島


 石垣島には確かに卓球場が2カ所ある。まだ知らないところはあるかもしれない。家から歩いて10分ほどの所にアックンTT卓球場というところがある。一時間300円で卓球をやらせてくれる。ありがたいことにラケットやボールも貸してくれる。そう「やいま」に出ていた。

 石垣島にいるとどうしても運動不足になる。大体歩数計で5000歩止まりである。1万歩は目指しているので、散歩だけでは不足する。そこで何か運動と思っていた。卓球ならちょうど良いかもしれない。

 ぼけ防止には卓球がいいというテレビを見た気がする。んーん、良く思い出せない。ぼけ防止が必要である。いかにも卓球は反射神経の訓練のようなものだ。目で見てここだと思って身体を反応させる。この反応が遅くなるのがぼけの始まりだろう。

 確かに卓球は反射神経を使いそうだから、悪く無さそうである。ともかく一度やってみようとアックンに電話してみた。今いないので、(多分石垣にいないと言うことと想像した。)鍵の番号を教えますので、自由にやってくださいと言うことだった。お金は箱に入れればいいからと言うありがたいお話だ。

 初めての電話の人に、気持ちよく接してくれてそれだけで嬉しくなる。卓球というものをやるのは数えてみると45年ぶりくらいになるだろう。フランスにいた頃、ユースホステルで良くやった。勝ち抜き戦だったので卓球台を独占したものだ。日本人は卓球が上手いと言われた。多分フランスでは卓球を余りやらないのだろう。

 今でもそれなりにやれるだろうと思っていたのだが、全く出来なくなっていた。玉が消えるのだ。緑内障のためだと思う。ある場所で玉が完全に消える。それで慌ててその当たりで打つと手で球を打つか、空を切ることになった。

 反省して、ゆっくりとピンポンにした。一五分ほどやったらば、それでもだんだん感じがつかめてきた。休んで、又一五分。もう一度休んで一五分と3回やった。だんだんに20回ぐらいは続くようになった。ボールは消えるのだが、なんとかなりそうである。確かに年寄り向きのスポーツかもしれない。もちろん、張本選手や石川選手とは違うスポーツなのだが。

 片目で見ていると言うことがよく分かった。遠近感がかなり狂っている。動くボールを捉えることにはかなり無理がある。無理ではあるが、ぼけ対策の卓球ならそれでもかまわないだろう。ボールが消えるのは一瞬だから、慣れればなんとかなる。

 1時間身体を動かしたら、よたよた卓球でも爽快な気分になれた。疲れると言うこともなかった。ただの体操をやるよりも、卓球は飽きなくて良さそうである。スポーツジムに行って運動をするというタイプではない。卓球なら、やりたいと言う気になる。今度はアックンと言う人がいるときにいってみたい。

 卓球場の名前のアックンが人の名前だとしたら、宮良当栄さんで、全日本に出場した選手だと、やいまで読んだ。その人が、指導もしてくれるらしい。私の場合は旨くなりたいわけでもない。身体を動かせればそれでいいわけだから、指導はいらないのだが。



 県体育館でも卓球は出来るらしい。県体育館だと、あるいて30分ぐらいはかかる。アックンなら運動で急いで歩いて5,6分の場所でありがたい。準備運動のつもりで頑張って歩いた。気が向いたときにふらっと行けるというのがいい。週一回行ければ身体にはいいだろう。ぼけ防止になるかもしれない。一人で行っても誰かとやれるというのもあるのだろうか。

 ノートが置いてあり、使った人が書き込んであった。暮れも正月も誰か来てやっているようだ。夕方学校や仕事が終わってから来る人が多いようだ。午後2時からの1時間くらいだと、余り人がいないかもしれない。

 今回はだれもいないところにおじゃまして、勝手にやらせてもらった。それで様子もまだ分からないわけだが、貸して貰ったラケットはあれで良かったのだろうか。

 それにしても石垣島という所は何でもそろっている。ボーリング場もある。スポーツジムもいくつかある。もちろんスイミングクラブもある。山もあるし、海もある。そして何しろ田んぼがある。石垣島にないものはあるのだろうかと思ってしまう。

 確かにデズニーランドはない。原宿もない。スキー場はない。しかし、今のところなくて困ったというものは思いつかない。大抵のものが、手近にあるから気軽に取り組める。ありがたいところに越してきたものだ。


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