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不労所得は人間をだめにする

2024-07-22 04:10:58 | 暮らし


 不労所得を政府が推奨している。ニーサとか、FXとか言葉は聞いたことがあるが、意味は分らない。知りたくもない。どうせ政府の悪巧みにしか思えない。政府が、老人が不安で銀行貯金を貯め込んでいるのを、株式投資に回させようと言うことかと理解している。

 銀行貯金は物価が上がり、目減りするだけだから、有利な投資をしろと言うのだ。それに乗せられて、貯金を吐き出している老人も多いのだろう。老人ならまだ良い、先がないのだからどうでもいいのかもしれない。若い者がこうした馬鹿なことに乗せられて、人生を誤ることは情けないばかりだ。

 不労所得は楽をして設けようと言うことだ。日々身体を使って働くという大切なことを、馬鹿げたことに思わせることになる。日本人はすでに身体で働くと言う人間の基本を失い始めている。身体に辛い仕事をやらないで、外国人労働者を買おうというのだ。何と恥ずかしいことかと思う。

 政府がカジノを誘致することが、経済を活性化すると考えている国なのだ。不労所得を不道徳な、人生を誤るものだと考えていない。もちろん大半の日本人が、賭け事を悪行だとは思わないし、まして不労所得は良くないなどと言うのは、少数派に入ることは分っている。

 しかし、この不健全な不労所得を宣伝する政府が、日本の未来をだめにすることには黙っていられない。きちっと働くことを忘れた国は、必ず滅びる。すでに日本は衰退を始めている。ホリエモンが登場した頃から日本はおかしくなったのだ。要領よく設ける奴が偉いという間違った方角に日本は歩み始めた。

 「働かざる者喰うべからず。」これは別段共産主義国家の標語ではない。禅宗の言葉なのだ。懐海禅師と言う95歳に成られた老僧がおられた。熱心に作務をされる。弟子の僧が、もうそのお歳になれば作務はされなくとも良いのではないかと、箒など片付けてしまう。

 すると「一日作さざれば、一日くらわず」 と言われて、食事を取らなくなる。懐海禅師は何も作務をしなかったので、食べる資格がないとの考えを示した。箒を片付けた弟子にそう教えたかったのだろう。禅宗に於いては作務が最も大切な修行と考えられている。

 茅野の頼岳寺で修行をさせていただいたときに、三沢禅師に「庭の石のように、掃除をしている。」分らないのでど言うことでしょうかと聞いた。「庭石がゴロゴロしている。お前はその庭石だ。」こう言われたのが、遺言だった。この言葉を忘れたことはない。禅寺では何より作務が大切な修行なのだ。

 キリスト教に於いても同じだ。新約聖書の『テサロニケの信徒への手紙二』3章10節には「働こうとしない者は、食べることもしてはならない」という一節がある。とのこと。この考え方はキリスト教の現代にまで流れる思想となっていると書いてある。

 イスラム教は金利を否定している。コーランの第2章275節に、商売は許すが利息は禁じるとの記述があることから、利息を介在させた金融取引が不可能になっている。とのこと。多くの宗教が不労所得を良くないものとしているのは意味のあることだと思う。

 何故禅宗が身体を動かして働くことを大切にしているかを考えてみる。禅堂では五観の偈げと言うものを食事の前に、声を合せて大声で唱える。 五いつつには成道じょうどうの為ための故ゆえに 今此いまこの食じきを受うくーーーと言う具合だ。

 生きていると言うことはものを食べると言うことで、食べると言うことは道を悟る為の手段だと言うことになる。そこで食べるものを作ると言う作務が、最も大切な禅堂の修行になる。こう考えたのが、私の祖父黒川賢宗である。そして自給自足に生きた。

 境川役場に長く勤めた。5人の子供を大学に行くように、戦後いち早く相模原の開墾地に農地を購入するような、経済観念のある人でもあった。その土地が米軍基地に編入され、取り上げられてしまい、今度は新小岩に家を購入した。それを人に貸すと同時に、5人の子供達はその家から大学に通った。

 一方で畑や田んぼは生涯続けた。最後に入院をするときに、自分の葬儀のために、庭木の剪定をしていた。私が得度をして僧侶になったときには、「向昌院は貧しいから畑をやっているわけではない。昔の禅寺では、自分の食べるものは自分で作ったものだ。」畑の前でこのように教えられた。いつか私も自給自足で暮らすと、祖父に誓った。

 宝くじが当たり、生涯そのお金で暮らせることが幸せなのかどうかである。株が高騰して、生涯働かないで暮らせることが幸せなのかどうかである。自給自足で生きる事に較べれば、全くつまらないことだというのだ。自分の食べるものを自分で作れたときの安堵感以上のものはない。農業をすることはお金を稼ぐためだけではない。

 自給自足が出来たときに、はじめてこれで絵を描いて生きてもいいと覚悟できた。宝くじが当たって、これで絵を描いて生きてもいいとはとても思えないだろう。多分次の不労所得を考えるのだろう。自分の身体で働いて、明日の命を繋ぐことが出来る。この安心立命こそ大切なのだと思う。

 身体を使って生きる。これは人間の基本だ。賭博や投資に自分の意識がとらわれて、頭がそれだけになるような生き方は、道を誤るだけだ。一日働いて、自分の生きる糧を得る。この身体が感じる確かさ、汗をかくひたすらさが、その人間を育てる。

 不労所得でお金を得る事に成ると、そうした身体を使い生活費を得ることのありがたさを見失うことになる。それはすでに、人間が一次産業から離れたときから、人間の意味を見失い始めていたのだと思う。君主に使える武士よりも、年貢を取られる百姓の方が確かな生き方が出来たのだ。

 今日も朝起きて生きている。今日は何をやるか。自分の今日をどのようにすれば充実した一日にすることが出来るか。何をやるのも自由である。これは父が教えてくれた、好きなことを見付けることが、子供のやるべき事だと何度も教えてくれた御陰である。

 好きなことだけをやって生きてきたことが、自分の幸運である。それは絵を描くことであり、農作業をすることである。この一日を自分の身体を使って働けることが出来るのは、幸運だと思う。自分が選び、自分がやりたいことが出来る一日。無駄には出来ないと思う。限られた命である。一番やりたいことをやる以外にない。今日は台風に備えて、防風ネットを張る。

 不労所得に頭を使い、お金に一喜一憂して、神経を疲れさすことなど人間性をだめにするばかりだ。確かにお金儲けが好きだと言う人が、多数存在する世の中になってしまった。資本主義社会の末期的な状況が、人間を倫理などどうでも良い存在にしてしまったのだ。

 悪い社会が悪い人間を生み出している。しかも、多くの人間が拝金主義を悪い事だと感じる理性も失っている。政府がカジノや投資を奨励するのだから、仕方がないことかも知れないが。このように社会が崩れかかっている中では、良い仲間をもち、不労所得などくだらないと確かめ合うほかない。

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221 水彩画 日曜展示

2024-07-21 04:16:50 | 水彩画
 221 水彩画 日曜展示







521「のぼたん農園」
2024.7 中判全紙







522「のぼたん農園」
2024.7 中判全紙









523「夏雲」
2024.7 20号






524「養魚場跡」
2024.7 中判全紙







525「のぼたん農園」
2024.7 中判全紙


 夏の明るい色である。強烈な強い光である。何しろUVカットの服を2枚来ていて、背中が日に焼けて剥けてきたぐらいに強い光だ。この明るい光に絵が反応している。絵が明るくなるのは悪くない。色々な色が出てくるのも嬉しい。

 このところ、のぼたん農園以外はほとんど描いていない。いくら描いても尽きないしおもしろい。まだまだ描くのだろうと思う。同じ所を描いていても絵は同じになることもない。その理由もよく分らないが、変えようと思っているわけでもない。

 その時々に現われる絵に反応しているだけだ。まだまだ自分の絵に到達するのは、先の方にありそうだ。慌てても仕方がない。結論を出したいとは思うが、無理矢理に出るものでもないだろう。すこしづつ、諦めずに続けるいがいにない。



 
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自分の匂いのする絵なら良し

2024-07-20 04:27:26 | 水彩画


 私絵画を目指している。私絵画とは自分のために描く絵のことだ。自分をやり尽くすための絵画である。具体的にどんな絵なのかと言えば、難しいのだが、自分の匂いがするような絵ではないかと思っている。どこがと言われても自分というものが、はっきりとは分らないのだから、具体的な言葉には出来ない。

 絵を描いていると、誰か大先輩の絵が表れてくることになる。学ぶは真似るだ、というように、傑作というお手本の絵を模写して製作するのが、日本の絵画の修行方法なのだ。しかし、それは日本独特の装飾絵画の世界の話で、その伝統を引きずって居る。

 藝術としての絵画は、真似ていたのでは産まれない。本来の絵画は創作である。当たり前すぎることなのだが、この芸術の創造性に関する意識が日本ではあまりに弱い。ないと言っても言い。だから実用絵画は盛んであるが、藝術としての絵画はほとんど無い。

 他人の創作した結果を、どうすれば消せるかが、75歳までの私絵画の道だったのだと思う。他人を消した後で残る自分というものの捜してきた。当然のことだが、他人から学んだ要素をできる限り消してみた所で、自分というものが表れてきたと言うことではなかった。

 70歳からかなり具体的に他人を消す努力をした。真似の部分を消すと言うことよりも、それまでの自分を消すと言うことであった。無理なことを続けていたような気がしていたのだが、最近ある程度出来たのでは無いかと最近感じる事がある。

 厳密に言えば、よく分らないことなのだが、自分の絵の中に人まねが出て来る回数が減ったような気がしている。では今描いているものはどこから表れたのかと言えば、自分が見た感じに近づいている。それは見ると言うことが少し深化した。と言えば言いすぎかもしれないが。

 意識してどういう絵を描こうというような、頭で考えることを止めている。ただ画面の前に座り、引き出されるものにしたがっている。何を描くかすら決まらないまま始める。筆が描いたものが、次に描くものを引き出してゆく。色が次の色をさそう。自分が良いという方角にだけ進む。

 人まねをしているのか、そうでないのかの違いはかなり難しいことで、自分の大半の絵が人まねに見える日もある。他人が人まねであろうがなかろうがどうでも良いことなのだが、絵は真似ることが身についている。伝統的な日本の絵画、つまり装飾絵画であり、商品絵画としては当たり前の事なのだ。

 ここを抜けるのが大変なのだ。真似が匂うことが、耐えがたいほど恥ずかしいことに感じるのだ。自分の絵に人の絵の真似らしいところがあると、絵を描くのさえ嫌になってしまう。それは自分という人間のインチキ性を表わしていることが、見え見えになるからだ。そんな哀れなことまでして絵を描いても何にもならない。

 そんな恥ずかしいことをしてまで、人目を気にするのかと、自分の内心が耐えがたいものに思えるのだ。もちろん意識をして人まねなどするわけもない。無意味なことなのだから当たり前のことなのだ。無意識のうちに他人の絵が表れてきてしまうので困る。

 これには本当に困る。この無意識に他人が現われることを何とか止めるのに5年はかかった。無意識に絵を描くのだから、他人が登場するのも無意識であるし、自分が現われてくるのも無意識の行為なのだ。だから、無意識であっても他人が登場しないところまで、自分自身をそぎ落とさなければならなかった。

 自分が良いと思っていることをまず捨てなければならなかった。これは難しいことだった。どんなにひどい絵になっても自分をご破算に願おうと考えて絵を描いた。良い感じというものが他人の受け売りの可能性がある。だから、見ている自分の眼だけで感じて絵が描けるまで、人のみ方を捨て去る努力をした。

 これが何とか続けられたのは、絵の仲間が居たからだと思う。私のやろうと居していることを、おかしな事だと思いながらも受け入れてくれた人も居たから、続けることが出来た。恥ずかしいことばかりだが、何もない時点に戻る努力の馬鹿げた姿を、何とか見ていてくれた。

 これはほとんど進まない極めて難しい、繰返しであった。それが最近何とか、いくらか、人の受け売りは消えてきた気がしているのだ。思い込みなのかも知れないが、その結果自分の匂いを少しだけ感じるような気がしたのだ。自分が描いているとも思えないのは相変わらずなのだが。

 碌でもない絵でも自分の眼が観た世界を描いていれば、それが自分の絵なのだ。そういう絵がすこしづつ表れるようになってきた気がしている。これは石垣島で描き続けた御陰かも知れない。その理由は石垣島という、独特の世界を描いた絵は過去見たことがなかったからかもしれない。

 受け売り絵画は小田原の眼が作り上げたものだ。東京の絵の世界とフランスで勉強したものと、小田原の眼とは当たり前の絵画世界の一般的な眼だ。だから、多くの有名画家の眼に似ていても良く判断がつかなかったのだ。絵はこういうものだと思い込んで良さそうに描いていた。

 所が、石垣島に来て、のぼたん農園でみている世界は、誰も描いた人がいない世界だった。熱帯の世界を描いた絵というのはあるが、田中一村やタヒチを描いた、ゴーガン。あれは作り絵であって、観た世界を感じて表現しているわけではない。奄美の光とか、タヒチの世界観とか持てはやすが、強い光の下の色彩が、分らないとしか思えない。近いのはやはりマチスだ。

 沖縄には絵描きは少ない。デザイナーはいるのだが、いわゆる藝術としての絵画を目指すような人は一人も見たことがない。特に石垣島には一人もいない。少なくともかつて居たということも聞いたこともない。だから、石垣の今観ている世界は絵画で表わされたことがないのだ。

 そのこともあって、石垣島で観ている世界を描くことは、私が人まねをすることでは無意味だったわけだ。そのために自分の絵を描ける事に近づけたのかも知れない。これは意図したことではなかった。偶然とは言えありがたいことだ。観ている世界を描くために、真似をする材料がなかったのだ。

 こんな解釈は無理矢理付けた理由だと思う。石垣で見ている世界を繰返し描いている内に、自分の眼を通した世界のように感じるようになってきた。そ言う言う思い込みに過ぎないかも知れない。それでも、今見ている感じに絵が近づいているとは思う。

 どうであれ、今のままに続けようと思う。他に出来ることも無い。少し絵が変でも大丈夫になった。出来て無くても大丈夫になった。何かぎこちない絵なのだが、そういうことはがまんしよう。受け入れようと思う。それが自分であるかもしれないから。

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自衛官118人の処分

2024-07-19 04:12:49 | Peace Cafe


 自衛隊は腐敗している。118人もの処分が出るほど腐敗している。この腐敗は何十年も続いたいたことなのだ。今更ながらであるが、悪い環境では犯罪が多発する。真面目な自衛官も多いなどと、言い訳する関係者がいるが、そんな言い訳を主張できるような状況では無い。

 自民党の国防部会では、118人が辞めて、国防が大丈夫かなどと言っているらしいが、とんでもない勘違いしている人達だ。118人が無資格だったり、犯罪をしている組織だったのだ。その連中がいなくなったのだから、いくらかましになったと考えるのが普通だ。

 自衛隊はとことんだめな組織になっているとして、徹底して問題点を洗い出すことが、今やるべき事だ。ここで膿を出し切れるものであるのならば、とことんやる必要がある。ここで徹底改革をしなければ、ひどい汚染がさらに広がるに違いない。自衛隊の置かれた立場はなかなか微妙なのだ。

 すでに汚染の広がる兆候は、装備品の修繕費の架空請求で見えているではないか。今調査中であるが、川重との腐れ縁だけではないはずだ。倍増された防衛費が食い物になっている。と言いながらも腐るのは理由があることで、その理由を断ち切らなければ、膿を出し尽くすことは出来ないだろうかと思う。

 今回は自衛隊内部の腐った状況の一部が垣間見えた事件に過ぎない。何故腐るかと言えば、かき回さないからだ。停滞したままでは組織は腐敗するのだ。自衛隊が陳腐化しているのが、一番の原因である。今の自衛隊では国防に於いて、極めて危うと言う隊員が多いはずだ。

 日本の国防が陳腐化している。手足をもぎ取られたまま、アメリカの出先機関として、利用されている組織に過ぎない。こんな組織に誇りを持てるわけがない。日本の安全保障は建前で、アメリカの安全保障になっているのだ。だから先島諸島にミサイル基地を建設しているのだ。

 防人の島を犠牲にして、アメリカは本土防衛しようと考えているのだ。日本を同盟国だという理由は、アメリカ本土を攻撃させないためなのだ。日本政府は国の自主防衛を放棄している。アメリカの考え方に従わざる得ないと考えている。では自衛隊員は何か。つまりアメリカの出先の防人なのだ。

 自衛隊の中には真剣に日本の安全保障を考える人もいるだろう。しかし、考えれば考えるほど、日本の国防と自衛隊の位置づけが、矛盾していることに気付くはずだ。自衛隊員は防人で、アメリカに直接攻撃が出来ないように、時間稼ぎをするだけの組織なのだ。

 自主防衛を本気で取り組まない政府の下に存在する、いかにも独立性のない、下級組織に位置づけられた自衛隊員の置かれた立場を考えると居たたまれないはずである。戦前の日本軍人のような意識でいる、自衛官がいれば、耐えきれない精神状況にいると考えなければ成らない。まさか、革命軍には成らないと思うが。

 と考える一方で想像するのは、何を馬鹿な、本当には戦争はしない、専守防衛の形だけの軍隊なので自衛官になっただけだ、という人が大半だと思うわれる。まさか本気で戦争させられるなど思いもしていない。そんな人達の集団がどうなるかは眼に見えている。そう腐るのだ。

 どうせ捨て駒扱いだと思えば、誇りを失う。ただ飯を喰いに自衛隊に勤務する。要領が良いものは、納入業者と連んで、甘い汁を吸い続ける。今回表面化したのは、その一部の表れに過ぎない。徹底解明など主張しても、骨組みが歪んでいるから、自衛隊を温存したままの根本改革は無理だ。

 防衛省によると、特定秘密保護法違反の問題では、秘密を扱う資格のない隊員が特定秘密を知りうる状態だったとされる。そもそも、この法律は問題山住のまま、強引に成立されたものだ。国民の秘密を勝手に政府が盗んで良いという法律なのだ。その盗人が無資格者だったのだ。

 その特定秘密保護法を扱う職員であれば、扱うだけの資格が必要とされた。ところが、デタラメの運用で無資格の職員が長年、情報を扱っていたのだ。そもそもこの機会にどういう情報を集めていたのか、第3者機関が調査を依頼し、問題が無かったのかを確認しなければならない。やるわけないか。

 潜水手当不正受給の問題では、海上自衛隊で、実際に潜水していないにも関わらず不正に潜水手当を受給していたとして11人が免職となった。これはどう考えても11人で終わるはずがない。自衛隊には様々な危険手当がある。それらすべてが問題なく運用されていたのか、再調査が必要だ。

 海自では、潜水艦の乗員が川崎重工業から不正に金品を受領していた疑惑がある。木原稔防衛相は5日「特別防衛監察」の実施を指示。川重も調査している。 これは氷山の一角である。使い切れないお金が1300億円以上もあるとされている。防衛費倍増ありきでお金が垂れ流されている。

 自衛隊は狂い始めているのだ。それは日本の安全保障が空論だからだ。本当には戦争などしないつもりで、自衛隊に入隊する人を扱わなければならない、人数あわせの組織だから起きている問題だ。こんな自衛隊の状態で問題が起きないはずがないだろう。

 一方で政府はアメリカに言われたままに、台湾有事がすぐにもあると宣伝をさせられている。習近平はそんな無能な人物ではない。今までやってきたことを考えれば、とてつもない商売人だ。あれほどの大きな経済を急成長させたのだ。そもそも、一帯一路は現実に進んでいるではないか。

 日本では中国の危うさを強調する風潮が強い。一帯一路も崩壊したかのように騒いでいる。それはアメリカの戦略もあるが、軍事費倍増を進めたい人達の意図が大きい。軍事費が増えれば、儲かる人にしてみれば、明日にでも台湾侵攻があるとするのが、得策なのだ。

 しかし、商売人の習近平はもっと有利な商売を考える。香港やマカオはアジア一の所得の地域になったのだ。それを上手く利用して中国の経済に取り込んでいる。台湾も同じような形が狙いである。戦争をして、台湾の経済を壊すような考えを持つはずがない。どのようにして台湾経済を中国に生かすかが、目的になる。

 中国の経済が明日にでも崩壊するという経済観測が、ここ10年続いた。その馬鹿な観測の結果、経済力で日本は中国に置いて行かれた。中国の本当のところを見なければならない。何かに利用するための予測ではなく、今後のアメリカ抜きの安全保障のために、中国の実態を見なければならない。

 アメリカはどんどん一国主議化して行く。トランプになれば世界の利益など全く無視するだろう。アメリカのために、明確に日本を犠牲にしてかまわないというような国になる。こんな国との同盟は要注意である。ただ利用されるだけになる。

 自衛隊を国土保全隊にすべきだ。日本は災害列島の上にある国だ。災害対応を中心にして、国民に感謝される組織にする。その上で、専守防衛のための新しい防衛方法を研究する機関になる。平和外交力を高める活動である。もう軍事力の競争は有効ではなくなっている。
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ひこばえの7月16日の様子

2024-07-18 04:31:44 | 楽観農園

 1番田んぼでは、「台光」という台湾から来たと言われている品種を作っている。ただし、台湾には「台光」という品種はない。由来が分らない品種であるが、作ってみた感じでは、インディカ種とジャポニカ種の交配種だと感じる。出穂のバラ付きが大きく、140センチまで伸びる。

 昨年の8月に1期目の播種をして、9月に40㎝角植えで田植えをした。今年の1月13日に稲刈りをした。そこから出たひこばえの稲刈りを6月8日に行った。 稲刈りから、5週間経過したことになる。成長は割合とおそい、晩生の品種だ。

 稲刈りをしてから、2週目に刈り戻しを行った。少しでも稲のばらつきを解消したいと考えたからだが、それが必要なのかどうかは分らない。それから3週間経ったのが現状である。根がやっと再生してきたという感じである。根が新しく出てくると、葉がしっかりした色の濃いものがでてくる。

 全体で言えば、半分ぐらいがまともな株になってきたかという所。湛水を続けていて、一度も渇かしたことがない田んぼである。乾かさない方が株が痛まないと考えていたが、むしろどこかで干しを入れた方が、土壌が良くなり、活性化するような気もする。



 一面に、アオウキクサとアカウキクサが出てきている。水面を覆っているので、雑草は出にくくなっている。アカウキクサは絶滅危惧種である。現在は、ミズオオバコがかなり出ている。ミズオオバコがどの程度稲を疎外するのかは分らないが、完全に取り去る気にもなれないで居る。

 ミズオオバコは絶滅危惧種で、杜若園芸 1270円で売られているようだが、現在は在庫なしとなっている。薬用植物で、薬効と用途として、鎮咳,去痰,解熱,消腫,利尿作用があり,喘息,咳,水腫,できもの,むくみ,やけどなどに用いる。できものややけどなどには粉末を患部に塗布する.とある。

 ミズワラビも生えている。こちらも絶滅危惧種であり、私の石垣島で見た範囲では、ミズオオバコよりも少ないという気がする。何故か杜若園芸 998円で売られていて、現在在庫なしとある。こうした水生植物は、除草剤の普及で、いつの間にか絶滅危惧種になり、遠からず絶滅すると思われる。


 2番田んぼは餅米品種の「ゆがふもち」である。鹿児島県農業試験場で作出された品種である。沖縄に比較的向いている品種だと感じる。12月3日に播種して、1月13日に40㎝角で田植えをした。子供達がやる田んぼなので、作業がやりやすいと言うことで、40㎝角植えにしている。

 ひこばえをやるなら、一回の収量は低くとも、作業性が良い方が良いと言うことがあり、40㎝角植えを試しているということもある。稲刈りは5月25日に行った。企画ではひこばえはやる予定はなかったが、株がとても良いので試しに20㎝の高刈りをして様子を見ることにした。

 現在7週目になる。どんどん良いひこばえが出てくる、高刈りでも比較的一次分節からのひこばえが多い。維持分節からひこばえが出るか、出ないかは品種特性なのだともう。一次分節からひこばえが出やすいゆがふもちは向いている可能性がある。


 2番田んぼ「ゆがふもち」のひこばえは大分穂が出てきている。早すぎる出穂と言うことは、葉の量が足りないと言うことになる。ここでも刈り戻しがある方が良いのかどうか迷うところだ。ここも一度の干しもないままに、進めているが、干しはあった方が良かった気はしている。

 ひこばえも今のところそれなりには良いが、やはりばらつきが多くなっていることと、一期作よりもイネ株も少し小さい。稲刈り前の追肥や、稲刈り後の追肥など、肥料をやってないので、肥料を必要とする新しい品種は、ひこばえになりあまり大きな株にはならないようだ。

 肥料なしでどうなるか、刈り戻しをしないとどうなるかを観察している。16日に草取りに入った。この強い陽射しの中、あまり良い状態には思えない。株が一期作に較べて弱い。葉の色はそれなりに濃いのだが、茎の太さは一期作に較べて随分細くなった。


 3番田んぼのミルキーサマーのひこばえ。 種まきが11月3日で田植えが1月6日。40㎝×30㎝植えで、南を広くとり、田植えをした。稲刈りが、5月19日。稲刈り前1週間によみがえり堆肥を投入。20㎝ぐらいの高刈りにした。

 来年は高刈りはやらないことにした。高刈り刈り戻しの意味が不明。6月9日に刈り戻す。刈り戻してよみがえりを投入。稲刈り前にも入れたので、2回目の投入。ひこばえの茎が実にか細いこので、このままではあまり期待できない。

  そこで深水を始める。深水で太い茎を作り、弱い株は枯らしてしまうことにした。その結果、1割ぐらいの株が枯れて、残った株は徐々にしっかりしたイネ株になってきた。間断灌水を行い。コロガシ除草を行ったが、草は余りないので、あまり意味は無かったが、土壌の改善にはなったかも知れない。


 3番田んぼ「ミルキーサマー」のひこばえは、少しだけ太くは成ったが、まだまだ弱い感じだ。ミルキーサマーはひこばえに向いた品種には思えない。追肥を入れてみるのも良いかも知れない。6番に入れるか、3番に入れるか葉の色を見て、どちらかに「よみがえり」を追肥することにしたい。

 3番田んぼも干しを入れて、少し渇かした方が良いかもしれない。土壌の状態があまり感心できない気がする。水が熱すぎるというのも良くないことの一つのような気がする。水の動かない場所では40度ぐらいの水温になる。この水温の高さが稲を弱めているように見える。


 6番田んぼは「ミルキーサマー」12月3日播種。1月13日40㎝角の田植え。3番田んぼより大分しっかりした稲の株になる。収量は30㎝角に較べれば半減するが、作業が楽になり、ひこばえまでやるつもりであれば、悪くない栽培法になる。

 稲刈りは6月8日になる。梅雨に入り稲刈りが出来ないで延びた。刈り遅れ気味であったが、一番良いお米が出来た田んぼになった。出来たお米も粒張りもよく美味しいものだった。ここは刈り戻しはせずに、6月17日によみがえりの追肥を行った。

 ひこばえの現状では3番の方が今のところ良いが、それは稲刈り時期が6番は大分遅れたので、その結果稲が老化してしまった。稲が老化すると、ひこばえの再生状態は悪くなる。根が再生を始めれば、変らなくなると思うが、いまのところでは、3番の方が良い。


 6番田んぼ「ミルキーサマー」のひこばえはどうも弱い。それもあって一度干しを入れた。ひび割れるぐらい干して、もう一度水を戻したところである。しばらく間断灌水で進めてみたいと考えている。
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教員のなり手不足

2024-07-17 04:27:17 | 暮らし


 公立学校の教員のなり手が減少している。理由は大きく3つ考えられる。
1,学校という職場の労働環境が良くないこと。保護者対応の困難さ。
2,勤務時間に明確な終わりがない上に、残業手当が明確にはないこと。
3,教育の仕事が、社会的にやりがいのあるものでなくなっていること。

 教職を目指した時代は、まだ教員に対して聖職という言葉が生き残っていた。尊いやりがいのある職業だという社会認識がまだいくらか残っていた。私の叔父や叔母に当たる人、そして母親。すべてが教職の人だった。ただし、父は教員という職業を蔑視していた。

 世田谷学園の美術講師を7年間やらせて貰った。色々の偶然が重なり、やることになったのだが、やりがいのある7年間であったと思う。何故止めたかと言えば、自給自足生活を成し遂げたらば、教師を辞めて暮らそうと始めから決めていたからだ。

 自分の身体による労働だけで自分を支える暮らしに、禅宗の僧侶としての暮らしを思い詰めていた。それは祖父黒川賢宗の生き方の影響だと思う。祖父は若い時代に北海道に布教に行った。そして、身体を壊し山梨にあった向昌院に入り、自給自足の僧侶として生きた。食べるものはすべて作り、炭を焼き、水を引き、蜂を飼い、山羊を飼っていた。

 教師が辛かったから、続けられなくなったということもある。それは生徒が人間であるからだ。人間として、多くの子供と接することは、特に曹洞宗の学校での教員は、自分の力量を超えていたのだろうと思う。手抜きをしながら、生徒と接することは出来なかった。人間との関わりはいつも困難に満ちていた。

 社会の矛盾は生徒一人一人に表れる。これは金沢大学で小松先生に学んだことだ。社会はとんでもない方角に動いている。このままではひどいことになると感じる毎日だった。生徒達の困難が社会の矛盾に原因していると、結局の所思い至るにもかかわらず、手を打つことなど出来ない。

 この無力感、限界感、が自分につきまとっていることが、やりがいと較べて辛すぎた。当時の世田谷学園はかなりの進学校であった。美術の講師の立ち位置は、困難を極めた。美術を志す生徒もいた。しかし、それは父兄からも、学校からも歓迎されることではなかった。

 多分教職を考える若い人達も、大いに迷うはずだ。例え、教職に就いたとしても、すぐに辞めようかと考えるだろうと思える。しかし、5年間はやらなければ何も分らない。私の場合、そう考えて始めた。教職を正面から自分の生き方として考えたならば、それくらい大変な仕事なのだと思う。

 だから、教員の希望者が減少して、倍率が下がり教職が比較的自由に選択できる時代になったとしても、教職をやる人がさらに減少するのは必然だと思う。資格があるからと言って、給与を貰う為が主目的に始められるような仕事ではない。人間を育てるという仕事は、極めて重い仕事になる。

 私が小学校で学んだ1955年の戦後の混乱期であれば、かなり学校というものは適当なものであった。何しろ60人クラスである。通路すら無い状態。教えるという意味では、教える能力のないひどい教員もかなりいたと思う。戦争帰りのすさんだ教師もいたし、教室に来てただ座っていて何もやらない教師さえいた。

 何を血迷ったのか理由なく、一人の生徒を泥棒にしてしまったことすらあった。それでも、そのクラスから東大を含めて1流大学に10名以上進学している。一方で非行に走って、学校に来なくなり、行方不明になった人も多数いる。なんともデタラメな学校であり、そんな戦後の混乱だった。

 昔は良かったとつい感じてしまいがちだが、学校教育の戦後の時代は、今よりはるかにひどかったと言える。今は良くなっているにもかかわらず、教職はあまり良い評価がされていない。教員希望者は生徒の減少以上に減り続けている。人間を育てる仕事が重いものであるにもかかわらず、その評価がされていないからではないだろうか。

 戦前の師範学校は授業料がなく、優秀ではあるが所得がないと言う学究心のある者には、もっと学びたいという気持ちで、師範学校に進学するという人が多かったようだ。国が教育を国の基礎づくりと考えて、重要なものとしていた。しかし、実際には、師範学校は貧乏な子供だけが行く学校で、差別をされてもいるような矛盾があった。

 この教員差別意識は今ではなくなっているとは思う。現在は教員養成科が授業料無料ではないと言うことにもあるかもしれない。ただし、教員は15年勤務すると奨学金の返済が免除される。教員の職務が激務だというのは、やる仕事が増えたと言うことが大きい。

 生徒に教えるという以外の仕事が多すぎる。本来そういう事務仕事は、ITの専門職に任せた方が良い。雑務全般を引き受ける職員も必要だろう。教員が教えることに専念できる環境を作り出すことが先決である。残業代が問題になるが、残業を教員がしなくて済む環境を作ることだ。

 部活動が問題の一つだ。部活動が盛んな学校では、特別に熱心な教師がいる。よく言われるような、運動部の顧問教師である。一身を投げ打って部活動を指導し、強豪校にする。そのこと自体が生きがいなのだ。所があくまで勝手にやっている部活動という場合も多い。

 本来であれば、部活動はあくまで学校教育の範囲で行うべきなのだが、競技である以上勝ち負けが伴い、熱心でなければ勝てないことになる。自分が好きなことであれば、部活動に情熱を傾けて、給与に関係なく働いている人もいるだろう。

 私は美術部の顧問であった。毎日最後まで一緒に何かやっていた。自分の制作を見せることが教育だと考えていた。もちろん無給である。生徒のやりたいという気持ちを尊重したかっただけだ。そもそも教員と賃金は私には関係がなかった。賃金は回りが考えることだ。この学校に授業料なしで通わせて貰ったのだ。

 部活動は外部人材の利用も進めなければならない。私は週一限小学校の授業を手伝っている。無給であるが、当然であると思うし、お礼など貰いたくもない。子供達の何かになるのであれば、稲作の授業はとてもやりがいがある。私が子供達に出来る事だと思う。

 稲作を通して、見る力を培う。蒔いた種がどのように生長するかを観察する。食べ物を自分の力で作るという体験をする。この作務の体験を通して、一次産業の意味を身体を通して知ってもらいたいと考えている。汗をかいて働くことで、食べ物は出来ること。

 そういう子供達に何かやって上げたいという人材は、世間にはかなりいると思う。そうした人を旨く学校の力にすべきだろう。無給で行うべきものだ。もっと周りの人達と学校は連携すべきだ。子供を社会全体が育てて行くのでなければ、学校は成り立たない。

 結論から言えば、公教育を拝金主義から脱することだ。小学校から英語教育をやるような、企業で即役立つ教育などいらない。教育が拝金主義に連動して、つまらない知育に陥っているのだ。理想の社会を目指す人間が、公教育に情熱が湧かないのも致し方ない。

 人間性を育てる教育である。5感を育てる教育である。稲を見て判断する力、稲の堅さを触って感じる力、土の匂いを嗅いで分る力。ご飯を食べて味が分る力。田んぼに流れている音を聞く力。稲作の授業は作務の時間だと思っている。労働が生み出すものを知ることだ。

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国立大学の授業料の値上げ

2024-07-16 04:39:18 | 暮らし


 大学の学費は受益者負担が望ましいと最近主張される。国立大学の学費を年額150万円まで上げるべきだというのが、慶応義塾大学の伊藤公平塾長 の主張だ。大学とはどういう所なのだろうか。もし、大学が就職予備校であるなら、当然受益者負担と言う考え方になるのだろう。慶応はそういう場なのだろう。

 しかし、大学で学ぶと言うことは、国のために必要なことだと考えるならば、大学の授業料は国が負担すべきと言う考え方になる。防衛大学校は学費免除どころではなく、手当が支給される。実際には給与が支給されなければ行く人がまず居ないという現実がある。

 国立大学で学ぶと言うことは、国のためになる人間になり、日本国民のために働くと言うことが将来にある。私はそういう気持ちで、金沢大学に行った。今でも忘れたことがない。自分の稼いだお金で、大学に行くしかなかったので、国立大学以外考えられなかった。当時の学費は月額1000円だった。

 1000円でなければ大学に行けなかっただろう。高校を卒業したのだから後は自分でやれというのが、父の考え方だった。何しろ夏休みなどで家に戻ったときにも、泊まるのはただで良いが、食費ぐらいは出せという考えだった。父には考えがあって、あえて要求したことは分っていた。

 大学闘争の時代と言うこともあり、国のためとはどういうことかは、よく考えたことだった。たとえば、革命を起すことが、国のためかも知れないとも考えた。国のためとは日本列島に暮らす人達の為と言うことだと考えていた。国体とか、天皇とか、政府とかそういう物ではない。

 大学は政府から独立性を持たなければならないものだ。 政府に従う大学であるならば、国立大学の存在意義はなくなる。権力から独立した。自由な学問探究の場であるからこそ、存在意義が高まる。つまり軍事力による国防という目的の、自衛隊大学校ではないのだ。 知恵を持って、国の品格を持って国を維持する大学。

 ところが、驚異的な値上げが行われた理由は、大学教育を受ける者の、受益者負担の考え方である。大学に行くのは自分が利益を得るためなのだから、学費の自己負担は当然だという考え方に変ってきた。それは、大学の研究自体が、産学協同という考えに変ったためが根底にある。

  学問研究・研究成果の発表・討論・教授・学習などに関して、政治・宗教・経済などいっさいの外的権力からの干渉・制限・圧迫を受けることなく、活動しうること。 日本国憲法第23条に「学問の自由は、これを保障する」と規定されている。 

 ところが、日本の学問は企業の利益と言う思想に、学問の自由が制限を受けたのだ。これは日本がまだ高度成長している最中に起きた、方向転換だった。このことが、学問の力を削ぎ、結局の所資本主義の競争に敗れる遠因になった。憲法違反が国を弱めたのだ。

 学問は基礎研究が重要である。基礎研究の厚みが、その国の力に反映してくる。例えば、「いとよ」と言う淡水魚の分類の研究をしたところで、直接的な企業の利益にはならない。牧野富太郎のように植物の分類をしたところで、直接的企業の利益にはならない。

 しかし、この基礎学問の広がりと深さが日本人を豊かな深い人間性を培って来たことは間違いない。豊かな国民が、真に豊かな社会を作る。その結果高潔な日本人が産まれ、それが日本全体の国力を高める。それが江戸時代の思想であり、一時産まれた戦後社会である。

 直接的に企業利益に結びつく学問は実は視野が狭く、先細りしてしまう。例えば農業分野で学士院賞を受賞するには、農薬や化学肥料の研究者である。有機農業のような、企業的農業にはならない分野の研究では、評価をされないし、研究費も出ない。そもそもそういう基礎研究の学者数は極端に少なくなる。

 こうして受益者負担、産学協同の思想が広がると共に、日本は拝金主義に陥り、二等国に転落してしまった。カジノの普及を国が目指すような、品格の低い拝金主義国が、世界の流れから取り残されるのは、仕方がないことなのだ。国が理性の方角を失い、お金の価値しか分らなくなった結果である。

 お金の為が強いか、人間の為が強いか。当然人間のために生きる方が力が湧いてくる。人間は自分のためでなく、人のためにこそ力が出る。やる気が出る。優勝したオリンピック選手が、頑張れたのは応援してくれた人、支援してくれた達がいたからだと、世界中の選手が言われる。

 現代は要領よく金儲けをする人が持てはやされる時代だ。子供達の将来の目標がユーチューバーやゲーマーなのだ。日本はこれをだめだと言えない国になっている。こんな国がまともな社会を作れるはずもない。勉強をするのは、決して自分のためだけではない。

 これは国家主義ではない。人間主義である。雨にも負けず主議である。みんなのためなどと考える必要はない。自分の好きなことを見付け、全力を費やすことだ。そのことが必ずみんなのためになる。そこまで人間を信じて良い。今人間が歪んだ社会に、押されて変形しているだけだ。

 現実には金儲けが好きだという浅い考えの人が、きっと蔓延していることだろう。そこに、受益者負担の浅い考え方が、反映している。社会が受益者負担を求めるのであれば、当然自分が金儲けだけを考えて何が悪いと言うことになる。自分は社会の恩恵を受けて育てられたのではないと考えることになる。

 人間を信用しない社会のつけが回ってきているのだ。人間は生来それ程悪いものではない。それを社会が拝金主義者に育てている。拝金主義で良いのだと教えている。それが大学教育までも受益者負担の思想になった理由なのだ。余裕を失った日本が表れて居る。

 150万円払い、大学教育を受けて、自分のお金のためだけに生きれば良い、と言うことになる。これではだめだ。むしろ憲法の示す国のために生きる人間を教育する。これを国立大学の目的にして、学費は無料にする。国にお金が不足して維持できないのであれば、大学数を減らすほかない。
 
 東大は値上げ分をグローバル化やデジタルトランスフォーメーション(DX)の推進に充てると説明している。留学生の増加を想定しているとみられる。お金をかけて教員や設備などをそろえ、優秀な留学生の受け入れにつなげる。 東大の設備を世界のレベルにしたいと言うことらしい。

 日本の大学は世界から、IT革命に伴う設備が後れを取っているらしい。国は国防費は倍増するというのに、教育費は増えないと言うことらしい。国が拝金主義で、即物的になった結果である。教育は果たして設備次第なのだろうかと思う。基本となる教育の思想が産学協同ではどうにもならない。

 大学教育も、あくまで人間教育である。人間が育てば、必ず良い社会になる。そのことを信じて教育に国は費用を惜しまないことだ。
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環境保護の多様化

2024-07-15 04:19:11 | 環境関連


 環境保護のつもりで、環境破壊していることは案外に多い。逆に環境破壊だと言われていることの中には、環境を支えているものがある。農薬を使う農業は環境破壊だから止めろという。何を食べているのだろうかとおもう。人間がいなくなれば、環境はなくなる。

   農薬を止めれば、何億人もの人が餓死に陥る。環境を守って飢え死にすることが正しいことであろうか。こういう議論の立て方は、幼稚であるし感心したこと出ないことは分る。しかし、農業をやることを環境破壊と言われることはがまんできない。

 私は農薬を使わない。だから食料は自給している。環境を完全に守ることなど、人間である以上不可能である。人間は地球環境を壊しながら、生息域を広げ、文明を謳歌してきたのだ。確かに人間は生命としてその限界を超えて、環境破壊を続けている。

 地球と言う範囲では、生息できない限度を超えたほどの人類の増加である。他所の惑星まで手を出そうという人類である。環境を保全すると言うことが、不可能になっている人類の増加が起きた。それが地球激暑化現象になって、表れてきている。激暑化阻止が環境保全の差し迫った課題だ。

 地球環境はあまりに巨大で総合的なもののために、人間の良いと考えたことが、実は環境破壊であったと言うことは、数限りなくある。例えば山の樹木は伐採して、良い管理のされた人工林を、循環して行く方が良いという考えもある。

 一方に単相化した人工林は自然破壊だとして、太古のままの自然を維持することが一番だから、樹木は切ってはならない。という考え方がある。手つかずの自然こそすばらしいという環境原理主義である。一体手つかずの自然は素晴らしいものであろうか。私には恐怖の世界にしか見えない。

 さすがに今ではキジの放鳥を環境保護とは考えていないだろうが、30年前の山北町では、キジを放鳥するのは、環境課の仕事だった。環境課と言ってもゴミ問題が主なる仕事だったのだが。キジの放鳥はあくまで趣味の猟をやる人達の要望に従った行為で、環境課が行うような環境破壊活動ではなかっただろうか。

 このキジが畑に来て、山北での食害はひどいものだった。しかし、キジが悪いわけではない。餌付けされた、小屋飼いのキジではまともに自然界で生き抜ける力が無い。人間が危険という意識もない。畑で餌を食べるのはごく普通に想像できる結果である。この半野生のキジが、未熟な猟友会の人の的には適当なのだろう。

 自然の中を見渡せば、放鳥されがキジが、雄だけで群れを作っている姿は、どこか悲惨な空気さえ漂っている。雄の方が安かったのだろうか。雌は次に卵を取るために、キジ養殖場に残されていたのかも知れない。今はさすがにキジの放鳥は無くなったのだろう。

 というのは大間違いで相変わらず、「大日本猟友会では地元都道府県などと協力して、キジ・ヤマドリの増殖・放鳥事業を行い、狩猟対象の鳥類の増加に努めています。 」とある。石垣島では放鳥した高麗キジが、定着してしまい、害鳥になっている。こういうことを猟友会ではどう考えるのだろうか。責任を持って根絶して貰いたいものだ。

 ニジマスの放流などと言う環境活動は今も盛んにある。川を釣り堀化しようという考えなのだろう。まあ勝手に、ブラックバスを放流して、自分の釣り場にして楽しむという人さえ居るのだから、ニジマス放流ぐらいなら可愛いものということになる。

 そう環境に良いと考えてやったことが実はひどいことだったなどと言うことはいくらでもある。環境教育で一時流行して、学校の隅などに作られた、ビオトープなどと言うのものがある。手つかずの自然が一番だから、手つかずにしておけば、自然が回復すると妄想を起したのだろう。浅はかな自然の理解だ。

 今ではさすがにないはずだ。と思いきや今でも盛んに行われている。千葉県の事例が出ていた。千葉県の実態は分からないが、ビオトープから、侵入生物を除外することは、そもそもビオトープの趣旨からすればおかしくないだろうか。訳の分らない生物多様性だ。

 久野の溜め池でビオトープをやろうとした人が居た。管理しない溜め池が手に負えなくなるのは眼に見えていた。ゴミの散乱と外来生物の天国化してきたのだ。草刈りをするから、環境は維持される。農業をやっている人間であれば、分ることだ。自然は管理しなければ、ひどいことになる。

 何も持ち込まない。何も持ち出さない。人間は手を出さない。こんなことをすれば、大抵の場所で、外来生物の繁殖地に成り果てる。と同時に不正なゴミ投棄場所にも成る。もう日本の自然環境はそういう所に来ているのだ。環境を大切にするのであれば、適切な管理は不可欠なものになっている。

 増えて貰っては困るものを取り除き、増えてほしいものを守らなければならない。増えてほしいものとは、私には美しい花だ。これが環境原理主義者から良くないと言われることになる。極めて不本意だ。環境原理主義者から見れば、美しい花の価値など無意味なものかもしれない。

 しかし、美しい花があるからその場所を守りたいと考えるのは、人間の本性であろう。花のある場所に、さすがにゴミは捨てない。環境を美しく保つためには、花があるということは価値があるのだ。それが例え、そこには最近はなかった花であれ、本来その場所に必要な花はある。

 色々考えた末にたどり着いたものが、溜め池にはカキツバタである。溜め池という農業遺構は、水があるということで、環境を豊かにする要因であることは間違いが無い。しかし手つかずにしておけば、外来植物が繁茂し始める。ガマや、黄ショウブなどが覆い尽くす。

 それならば、農業遺構に相応しいのは。稲作の日本文化としては、カキツバタである。カキツバタは愛知県では県の花になっている。日本古来から田んぼと共に日本全国に広がった植物である。世界遺産・上賀茂神社の摂社の大田神社には、国の天然記念物・カキツバタ群落がある。

 日本文化に於いてカキツバタが重んじられる意味は稲作にある。稲作を行うためには、溜め池や水路が不可欠である。この溜め池や水路を維持するために、美しいカキツバタを植えたのだと考えられる。美しい花があれば、管理屋手入れが続けられるだろうと言うことだ。これが日本の環境維持の考え方の基本だ。

 舟原の溜め池にカキツバタを植えたいがどうだろうかと、箱根にある地球博物館に相談をした。「環境破壊になるから、絶対に止めてくれ」と言う回答だった。その時から、環境主義者を敬遠するようになった。地球博物館では、舟原の溜め池を、ビオトープにすれば良いと考えていたようだ。

 何十年も管理がされなかったために、泥とゴミで埋まってしまい、侵入生物が蔓延ってしまったのだ。里山の自然は手入れによって維持される。当たり前の事が、環境保護主義者には分らなくなってしまった。ほって置いて維持される環境など無い。

 どれほどひどい状況なのかを確認もしないで、手を入れないことこそ環境保全だと思い込んでいるのだ。美しい場所にしない限り、環境は守れない。そのためにカキツバタを水路や溜め池に植えたのは、平安時代からの稲作環境の保全方法だったのだ。

 山での湧き水を、水の神として奉る。その大切な水を溜め池を作り溜めて、田畑に巡らせる。溜め池や水路はこまめな手入れを続ける。水神様の上部には鎮守の森を作る。森は生活のための燃料として、管理が続けられる。日本が作り上げた自然の守り方は、手入れ文化なのだ。




 
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220 水彩画 日曜展示

2024-07-14 04:23:25 | 水彩画
 220 水彩画 日曜展示







516「白い花」
2024.7 中判全紙







517「海」
2024.7 中判全紙






518「のぼたん農園」
2024.7 中判全紙







519「のぼたん農園」
2024.7 中判全紙







520「のぼたん農園」
2024.7 中判全紙


 絵を描くこともそれなりに出来た。それでも、日々の一枚には届かなかった。海を描くときに、空も波打ち際も描かないで描いてみた。なかなか難しかった。草むらを描くのに、空を入れないで見た。これも構図がとれないで難しかった。またやってみたいと思っている。

 中判全紙だと二日で一枚ぐらいが精一杯の所のようだ。慌てて雑になっても仕方がない。車の中は涼しいので、絵を描いているつもりが居眠りをしている。目が覚めるとそうかと思い描き継ぐことが多い。だから、寝ているのか絵を描いているのかよく分らない。

 大抵の人は私のアトリエカーは居眠りをいつもしている場所、と思っているようだ。それは悪くない見方だ。居眠りしながら絵を描くぐらいで言い。必死さが見えるようじゃだめだろう。居眠り制作ぐらいが、丁度良い加減だろう。

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N国が選挙広報板24枠を販売

2024-07-13 03:49:58 | Peace Cafe


 「NHKから国民を守る党(N国)」は24人を立候補させ、ポスター掲示板の24枠を販売した。まともな人間のやることではない。こんな倫理性のない人間が、迷惑行為を行えるような、選挙制度は徹底して見直す必要がある。悪いやつの方が、先を行く。

 前の選挙では「つばさの党」という選挙妨害をユーチューブ動画の売りにして、アクセス数を稼ぐという組織が、逮捕されたばかりだ。飲食チェーン店での迷惑行為を売りにしているユーチューバー異常に悪質である。選挙で稼ごうという考えが、色々表れてきている。

 つばさの党の代表根本氏は「俺らの活動が合法と分かると『迷惑系ユーチューバー、私人逮捕系YouTuberが増える論』がある」と言及。「めっちゃいいことだろ。どうせ人に迷惑かけるなら明確に悪事を働いている政治家にやれ」との考えを示した。

 何という倫理の存在しない連中なのか。正に拝金主義社会の姿である。ユーチューバーが反社会的な行為で、注目を集めようと言うことが、利益になる仕組みはそもそもおかしなことだ。このひどいユーチューバー職業が、若い人の成りたい職業なのだと言うから、世も末である。

 悪い事の方が、人を惹きつけられるのだろう。選挙という健全な社会を作り上げる、基本の仕組みを守らなければならない所に、挑んでいるという姿をかっこいいと考えてしまう若者がいるのだ。健全な社会であれば、一番見苦しい姿である。その見苦しさを平気だという強がりが売りなのだろう。
 
 まあ、政府が金儲けのために公営賭博を拡大しようとして、日本では非合法であったはずのカジノの開催である。馬鹿なユーチューバを笑っては居られない。ぎりぎり合法的であれば、どんな卑劣なことでも許される社会になったのだ。あのN国の立花などと言う人物は、報道は一切相手にしてはならない。

 選挙という拒絶できない枠組みに対して、悪質な拝金主義者がとりつき始めたのだ。社会は良識を持ってこんなことが無い制度に直さなければ、選挙制度が崩れてしまい、民主主議が成立しなくなる。こんな程度の低い連中が、のさばる選挙制度は徹底した見直しだ。

 ユーチューバーは注目されればお金になるというので、犯罪ぎりぎりのことばかり捜しているのだ。報道が甘やかしたので、こんなことになってしまったのだ。大民間報道各社は国営のNHKがおもしろくないから、ついついN国を甘やかして持ち上げたのだ。それで調子に乗り、選挙で当選者まで出してしまった。

 あこぎな拝金主義者は実に巧みなのだ。選挙のポスター枠を販売するなど、そもそも想定外のことだ。1枠300万円で売れれば、供託金没収も大丈夫だ。注目されれば良いというので、購入してAVの宣伝や性風俗店のビラなどを張ったらしい。何ともひどい社会になったものだ。

 候補者1人あたり300万円の供託金を支払っても、仮に1カ所200円の寄付と言う売り上げが約1万4000カ所にあれば約280万円が得られる。自分の書籍の宣伝だと思って立候補するとすれば、テレビ宣伝も出来るし悪くはない。

 そういえば、自民党では自分の書籍を購入して、有権者に配って、その費用を税金から貰った二階堂とか言う輩がいた。犯罪ユーチューバーと政治家は、たいした違いは無いと言う主張もうなずける。選挙運動を利用した、悪事を政権党がしているである。

 パー券裏金事件をごちゃごちゃにして分らない終わりかたにした、岸田政権は許されないだろう。自民党の腐敗が、N国やらつばさの党などという、犯罪まがいの拝金主義者をのさばらせている原因である。自民党だってすれすれの金儲けをやっているだろう。何が悪いんだと言うことになる。

 下り坂の末期社会ではこういうあり得ないようなことが起こるようだ。自民党が見本になって、あれほど汚い真似をしているのだから、ユーチューバーがとんでもないことを、売りにして合法的に利益を上げる。どこが違うのだと言うことになる。もう政治は汚い金儲けの場だというのが、一般常識になったのか。

 22年に当選したガーシー元参院議員の選挙戦。暴露系ユーチューバーとして活動し、海外に滞在したまま一度も帰国することなく、28万票余を獲得した。著名人の 根拠のない誹謗中傷を繰り返しユーチューブでアピールして、金儲けをした。

 その犯罪行為が、かっこいいというので、当選までしてしまったのだ。一度も国会には現われることなく、歳費まで貰った。まるで自民党議員のパー券裏金キックバックを彷彿とさせる行為だ。暴力行為等処罰法違反で 結局逮捕されることになった。何故、自民党議員は逮捕されないのだ。

 どうすれば防げるか、選挙の自由と公正さを守りながら、どんな対策があるか、真剣に考えるべきだろう。資本主義の終焉を控えた社会である。冷笑主義の蔓延である。社会をおちょくりたい人達が大量に出現しているのだ。揚げ足をとったり、足を引っ張ったりす事を楽しむ膨大な数の人間の出現。

 社会に除外された人達。社会から相手にされない人達。社会に所属意識のない人達。冷たく社会を見るほかない人達。そして、そのどうしようもない社会を悪知恵で金儲けする人間が持てはやされる社会。その代表が自民党の裏金議員なのだ。何しろ何億円も不正に儲けて合法と言うことになった。ユーチューバーの見本であり、理想像であろう。

 冷遇され続けるが、隷属はしたくないという、反発心が社会に蔓延してきているのだろう。そこにつけ込んで金儲けをするのが、ユーチューバーである。その先鞭を付けたのが、木偶の坊アベ氏である。アベ氏は何しろ反日組織、統一教会とツルんで、金儲けをした。日本を売り渡すような悪人が国葬になる国なのだ。
 
 堂々と有名人の虚偽の告発をするガーシー氏や、揚げ足を取って一儲けする立花氏が冷笑主義者の英雄扱いになるのだ。そこで出てきたつばさの党。どうにもならない社会、何も出来ない社会に、下層に外されてしまった社会。耐えられない不愉快社会に、見事に泥をかける姿に、喝采し溜飲を下げる人が居る。

 社会拝金主義を止めない限りこの惨状を終わらせることは出来ないだろう。犯罪にならなければ、何でもやる国会議員が落選しなければ、社会の公正さが戻ったとは言えない。自民党を終わりにすることからやり直さなければ成らない状況だ。もう野党がどうだとか言っている場合ではないのだ。
 

 
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公益通報が出来ない国

2024-07-12 04:24:56 | Peace Cafe


 兵庫県で県知事が7つの不正やパワーハラスメントを行った。という公益通報を県民局長が行なった。西播磨県民局長だった人だ。その理由は働きやすい自由な職場になって欲しいと言うことだった。しかし、きちっとした内部調査すら行わないまま、3ヶ月の停職処分にした。

  県の説明では3月末、男性が文書を出したことを認め、処分の検討に入ったとしている。斎藤知事は会見で「業務時間中に、うそ八百含めて、文書を作って流す行為は公務員として失格」と厳しく非難し、懲戒処分を行う方針を表明。

 4月の会見では「当該文書は、県の公益内部通報制度では受理していないので、公益通報には該当しない」と述べた。男性はその後、県への公益通報手続きを行ったが、県の人事課は調査を続行。「文書の核心部分が事実ではない」として、5月に他の理由も併せて男性を停職3カ月の処分にした。

 と言うのが県の説明であるが、公益通報は緊急避難である。県以外の組織に提出しても同じことである。知事が強引に処分を進め、デタラメな告発を、職務中に行ったと記者会見した。知事の記者会見でこの事件を多くの人、私は知ったのだ。そして、この元局長は自殺をされた。実に残念なことになった。様々な形で、この間、局長やその周辺に圧力がかかったのではないだろうか。

 これはおかしいという声が議会から出て、100条委員会で再調査することになっていたが、停職処分をされた当事者は自殺してしまった。たとえこの公益通報が全くの虚偽であったとしても、すべての責任は、形だけの調査で停職処分を行った、県知事にある。

 公益通報の意味はそういう、独立性と立場の保全が確保されている必要がある。公益通報は本来であれば、ないほうが良いことだ。その組織内に、独立性と立場の保全がされた、完全な中立性に対して信頼できる相談窓口が必要なのだ。所がそうした場が無い組織が大半なのだ。だから、公益通報制度が出来たのだ。

 百条委は地方自治法100条に基づき、地方議会が自治体関係者の関わる疑惑や不祥事の真相などを究明するために開く。設置には本会議で出席議員の過半数の賛成が必要となる。 百条委員会の必要性を議会が認めたということは、知事の問題ある態度は議員には、ある程度認識されていたのだろうと思われる。

 この事件は、職員に告発され、逆上して処分をした知事の犯罪行為にある。このやり方を見ても、告発者の行為にある程度信頼が出来ると考えられる。こうした権力者の横暴が許される社会は、民主主議社会とは言えない。ある意味独裁社会のようなものだ。まだまだこういう民主主議における権力の構造を理解していない人間がいるのだ。

 公益通報があった場合、明らかに虚偽である場合も含めて、第3者機関が調査を行わなければならない。そのことによって公益通報が自由に出来る、民主主議社会が成立することになり、職場の環境が開かれたものになるからだ。部下も上司も立場は違うが、同等の人間の権利があるのだ。

 第3者期間の調査を怠れば、例え虚偽の通報であったとしても、その処分を下した権力者の行為は犯罪行為とされなければならない。もしこの基本の考え方が、働くものに保障されていなければ、公益通報は出来ないことになる。内部にも監視の目があるということで、権力者の独裁的行為が抑えられることになる。

 先日は同様の公益通報と言える事件が鹿児島県警でもあった。鹿児島県警の本部長が警察官の犯罪捜査を、行わないように指示したという、問題である。内部情報を漏らしたとして、前生活安全部長(60)が国家公務員法(守秘義務)違反の疑いで逮捕された事件である。

 現在、鹿児島県警に対して、国による特別監察がはいり、7月中に結論を出すことになっている。前安全部長は公益通報であったとして、裁判で争うことにしている。勾留されること自体がおかしい事件であるにもかかわらず、拘留を認めた、裁判所も間違った判断をしたことになる。

 公益通報の対象となるには、通報内容が法に抵触する事案であることが一つの要件だ。前部長が通報先として外部の記者を選んだのは、県警の内部通報窓口が全く機能していないことに原因がある。職員が、組織の問題を外部組織に相談、通報すれば抑えられると考えたからだ。

 実はこの事件が表面化したのは、鹿児島県県による犯罪行為によってだったのだ。ウエッブメディア「ハンター」の強制捜査が行われた。他の鹿児島県警の警察官による。婦女暴行事件の漏洩を巡って、ウエッブメディアを強制捜査したのだ。

 そもそも、報道を警察が強制捜査するなどあってはならないことなのだ。報道の独立性と、自由を損なうことになれば、民主主議は維持されないことになる。例え、メディアが警察の内部情報を握ったとしても、その事実関係を強制捜査によって調べるなどと言うことは許されることではない。

 その不正な捜査の結果、偶然に前部長が北海道の報道に送った内部資料が、「ハンター」のパソコンにあったのだ。それを押収して、前部長を内部情報を漏洩した罪で、逮捕することになる。民主主議社会に於いては、行ってはならない報道機関の強制捜査で、公益通報の情報を押さえて、前部長を調査もせずに逮捕をしたのだ。

 本来、その役割は当事者の鹿児島県警が行うべきものではない。警視庁の監察課が担うはずだ。そもそも職員が不正を通報する際、信頼して相談できる窓口がない時点で、その警察組織は健全とはいえない。多分大半の警察に信頼できる相談窓口などないと思われる。そうした相談窓口から、上司が処分されたというような事件がない。

 捜査員がウェブメディアを運営する男性に、令状を閲読させずに証拠品を押収した可能性があるとすれば、大問題である。県警は市民ではなく組織防衛を目的に、捜査力を私物化している。ましてや、令状を発付した裁判所は一体何をチェックしているのか、理解に苦しむ。裁判所が犯罪に2度も加担してしまった。

 日本の暗黒構造が垣間見えてくる事件だ。日本の権力構造が民主主義的なものとは言えず、内部告発や公益通報がまもられて、行われるようなことにはなっていなかったのだ。これは社会正義を感じて、組織内部から通報をしたくても出来ないと言う事になってしまう。

 今回の2つの事件を民主主義的に解決することが、まず必要なことになる。そのためには、鹿児島県警の事件の処理がどのように、今後の成り行きを、国民が注視し続けることが必要だ。この通報が既存報道に送られたものではないことを、注目しなければならない。

 警察の局長が大手報道に情報を送ることでは、警察内部の犯罪を押さえられると考えた所に、報道に対する不安が生じていると言うことだろう。警察内部の人間が、大きな報道機関の警察上層部との癒着を疑っているのだ。もうこの時点で警察はだめだろう。

 例えばNHK送れば、公益通報として守られるとは、考えられない状況なのではないだろうか。公共放送が公益性がないのでは、最悪である。公共放送であるが故に、権力者と癒着構造が生まれると言うことはありがちなことだ。この点も徹底調査が必要であろう。

 兵庫県知事事件では、何故客観性のない簡単な内部調査で、職員の停職処分が行えたかである。行えると考えた知事の横暴性にも驚くが、職員の知事に対する告発への、処分を知事が指示して行うなど、あってはならない組織では無いか。

 権力者の意向に従い、職員の逮捕や職員の処分が、公益通報を無視して一方的に行えるとすれば、その仕組み自体に問題があるだろう。まず、公益通報の確立をすることだ。今回の2つの事件を良い機会にして、権力者の独裁を許さない社会を確立することでなければならない。
 
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ひこばえの7月8日の様子

2024-07-11 04:00:58 | 楽観農園
 

 3番田んぼのひこばえ。品種は沖縄県の奨励品種である「ミルキーサマー」。美味しいのだけれど、とても作りにくい。葉が13枚までしか出ない。早い田植えで、40㎝角植えした、作土が深く良い状態の場所で、かろうじて15枚葉が出て満作株になった。

 昨年も「ミルキーサマー」のひこばえをやったのだが、一次分節からのひこばえが出ないために、生育が2段階になる。低く刈り戻し、深水にして育てて、一次分節からのひこばえを取ろうとしたが、やはり一次分節からのひこばえは少ない。これは品種特性で、ひこばえには向かない品種と考えた方が良いようだ。

 それでも、もう少しひこばえを育ててみて、収穫まで持って行きたい。どこかで、穂が出てきたら、不稔を減らすために防風ネットをまた戻したいと考えている。不燃が風の影響のためなのか、他に理由が例えば水不足のような原因があるのかはまだ分らない。



 6番田んぼのひこばえ。ここも「ミルキーサマー」だが、40㎝角植え。手前はとても良い成長だったのだが、ひこばえになりそれ程良い状態ではない。むしろ稲刈りの時にあまり良くなかった奧の方が良いぐらいだ。ひこばえは一期目で十分に実りすぎると、良いひこばえにならない傾向がある。

 イネ株が力を使い果たした形になり、再生力が弱まるようだ。奥の方は鳥に穂を食べられたために、根が力を残している状態で、良いひこばえを出してくる気がする。それでも新しい根が再生し始めると、株は新たな生育の段階に入るので、まだ期待はできる。

 ミルキーサマーでひこばえをやるのは、難しいようだ。肥料を多く必要とする品種はひこばえには向かないかも知れない。昔の野性的な稲の方が、良い一次分節からのひこばえを出す。インディカ種とジャポニカ種の交配種の方が、良いひこばえを出す傾向が強いようだ。



 2番田んぼの沖縄の奨励品種の餅米「ゆがふもち」すでに穂を出し始めている。ただ全体がばらついているのは、刈り戻しをしなかったと言うこともある。稲刈りをして、そのままの状態である。稲刈り前の追肥とか、分ゲツ肥料とか一切入れていない。

 「ゆがふもち」の方が、いくらか良いひこばえを出す品種である事は確かだ。それでも、かなり薄黄色の色素の無いような株がある。これを病気だと言う人が居るが、何度もやってみてこれは病気でなく、根が弱った株だと言うことが分るようになった。

 親株の時に全く病気がなかった株が、稲刈りをしてそこから出てきた株が病気になるはずがない。間違いなく、値が弱った株は黄色い弱ったひこばえを出すのだ。それは取り払い、新しく株分けをして植えた方が良い。ただ、値が弱らないような強い品種を健全に育てることが先決だろう。


 1番田んぼのひこばえは「台光」の2日目のひこばえ。2度目の稲刈りをした後のひこばえである。3回目の収穫を目指している。昨年も3回目までは出来たので、出来ることは分っているが、今回は何とか4回目を目指している。

 土壌が一年間湛水状態である。これが稲にどう作用して行くのだろうか。現在掘り起こしてみると根は大分弱っている。ひこばえは根を新たに出すので、前の根はダメになっても良いのだが、新しい良い状態の根が出る環境にあるのかどうか。

 今のところは、再生した根が出た株から、何とか再生ひこばえが成長を始めている。緑の濃いしっかりした葉が出てくるので、まだの株と再生した株の違いがよく分る。一定量再生できない株が表れるのは、仕方がないことかも知れない。



 小学校田の「ひとめぼれ」作りにくいので、品種としてはあまりやりたくなかったのだが、種は小学校で用意してくれたものなので、ひとめぼれでやるほか無い。大分県産だそうだ。来年は品種を帰るというのもあるかもしれない。台光とか、ハッピーヒルとかなら安心できる。

 今年あまりに出来が悪ければ、来年はつくり安い品種に変えさせて貰いたいと考えている。今のところは何とか出来ていて、現在11葉期ぐらいだ。分ゲツ20平均ぐらい。金曜日に作業があるので、追肥をするつもりだ。葉色板で色の確認をする。分ゲツ数と背丈の記録も取る。

 幼穂が茎に入ったかを手で触って確認する。本来切り開いて長さを見るところだが、そんなことをしなくても、茎の根元の形状でおおよそは判断できる。どのみち有機栽培では穂揃いはバラバラになるので、厳密なことを言っても仕方がない。何とか15枚葉が出ないか願っているが多分無理だろう。

 

 北陸193号の苗代。沖縄でも15枚葉が出るという晩稲品種の北陸193号を試験栽培している。播種が終わってから、突然豪雨が降ったために、どうなるか分らないが、どうも稲が流されておかしくなったかも知れない。

 あと数日様子を見てだめであれば、場合によってはまき直さなければならない。十分の種が冷蔵庫に保存してあるので、心配はない。今日見てから決めたいと思う。北陸193号は味が悪い多収米と言うことだ。現在やはり味が悪いというハッピーヒルも作っている。

 どちらが味が悪いか較べようと冗談を言っている。味が良いとか、悪いとかよりも、ともかく安定して十分に出来るお米でなければだめだ。まだ石垣島ではそういうお米に出会っていない。「にこまる」と言う品種の苗を貰ったので、それも試しに植えてある。ともかくあれこれ試験栽培を続けるほか無い。

 


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蓮舫氏の票が少なかった理由

2024-07-10 04:22:51 | Peace Cafe


 5番田んぼの60㎝角に植えられた。伝説の自然農法か福岡正信さんの作出した。ハッピーヒル。まるでススキのような株になっている。すごい状態である。以前小田原で作り美味しくなかったのだが、もしかしたらという再挑戦である。

 小池都知事の再選だった。私が都民であれば、蓮舫氏に投票しただろうと思う。腐りきった自民党がまとものに生まれ変わって貰うためである。同時に行われた、都議会議員の補欠選挙では9人の議席に対して、自民党は2人だけだった。まだ腐っているという認識は根強く続いている。良いぞ。

 しかし、蓮舫氏はあまり票は伸ばせなかった。その理由は、パー券裏金汚職の自民党批判は、政党は腐っているということになったのだ。野党を支持者は少ない。次の総選挙でも野党はここを考えなければだめだ。腐りきった自民党は愛想が尽きたが、さすがに野党ではだめだろうという事なのだ。

 近づく総選挙の前に、何とか期待できる野党連合で、政権構想を示して貰いたいものだ。立憲民主党辻元副代表は9月の党代表選について、政権構想を争点にした選挙戦が望ましいとの考えを示した。分っては居るようだ。次期衆院選が代表選後にあるとの見方だからだ。

 「各候補が政権構想を競い合い、その結果、選ばれた人の下で衆院選を受けて立つ」 これは是非とも全国民に伝わるように、行って欲しい。野党にまともな政権構想があれば、ここまで自民党が横暴で、デタラメにはならなかっただろう。野党は相手にされていないのだ。

 何をやったところで、野党などものの数に入らないというのが、現状の政治情勢なのだ。まだ、民主党のあの鳩山氏の大失敗が頭にこびりついて離れないのだ。もう一回立憲民主党の憲法主議を打ち出してほしいものだ。政権構想では憲法裁判所を作るぐらい示して欲しい。

 もちろん自民党だって政権構想などデタラメである。憲法改正して、アメリカに従属した軍事国家になるというのが、自民党が主張する政権構想であり、党是なのだ。何故、日本の保守主義はアメリカ従属なのか不思議で成らないが。実際の所、アメリカにパー券が買ってもらえればそれでいいというような打算だけなのだろう。

 何しろ、反日の統一教会の支援を得ることが、アベ政権の実態だったのだ。思想とか、哲学ではなく、権力を維持することだけが目的の政党になっている。自民党の下部組織はまた統一教会に取り込まれているとされる。アメリカに従属して、沖縄を売り渡すことなど、何でも無い国家主義なのだ。主義や思想のない、拝金主義者のたまり場のような自民党。

 それ程ひどい、自民党と距離を持つことで、小池氏は支持を得た。明治神宮の再開発は進むことになる。他のことはよく分らないが、都民はそれでいいと判断したのだろう。そもそも東京に暮らすと言うことは、自然環境などどうでも良いから暮らせると言うことなのだろう。その覚悟があるから、東京で暮らしているのだろう。

 そういう人が集まっているのだから、そういう選挙になったのだろう。本音では、樹木など邪魔ならば、伐採すれば良いだけだろうと言うことが都民の考えなのだろう。今回の選挙はそういうことだと思うだけである。日本の未来は実に厳しい。世界では政権党への批判が相次いでいる。

 都知事選で興味深かったのは、選挙はテレビからユーチューブに変ると言うことだろう。小池氏も、蓮舫氏もテレビのニュースキャスター出身である。ユーチューブを利用した元市長石丸氏の登場である。「居眠り議員を恫喝した、恥を知れ、恥を」で一気に注目された。

 安芸高田市の公式ユーチューブは登録者が27万人だという。これは市の財政を助けているのだろう。都知事になれば、給与分ぐらいユーチューブで稼ぐと豪語した。直接表現する手段を持った市長の強さだ。京都大学にアルバイトと奨学金で仕送りなしで行ったらしい。それは評価できる。

 テレビの時代の終わりを思わせる選挙だった。時代はネット時代に入っている。石丸氏の狙いは、次の衆議院選挙だろう。石丸氏は政党を立ち上げるのかも知れない。資金はユーチューブ収入である。選挙をする度に収入が増えるという構造である。だから、ユーチューブで受けるしゃべりである。

 そこでも、当選を狙うのではなく、ユーチューバーとしての注目を上げようと言うことになる。石丸氏の選挙資金はユーチューブ収入でまかなえるのだろう。石丸氏への都議選での献金額は2億769万3000円 とある。これはユーチューブ収入とは別枠の寄付収入だろう。

 石垣島でもユーチューブでのアピールで注目されて居る農業的自給生活組織がある。私は見てないのだが、東京に行くと、石垣島に居るなら、ギンチャンを知っているかと良く聞かれるほど有名である。私はまだ、絵本の村作りを見たこともないのだが、今度見に行きたいものだ。

 自民党が盛んに裏金キックバックの弁明のように、民主主議の選挙にはお金がかかると主張しているのは、まだユーチューブというものを知らないからだ。選挙ユーチューバーは選挙妨害をして、金儲けをしたぐらいだ。選挙に出て収入にしている人がいるのだ。

 今回の都知事選は選挙運動がが変って行くことが表現された。民主主議が変貌する。どぶ板選挙ではなく、ネット選挙が主流になる。表現の仕方が変るのだ。石丸氏は確かに言葉による表現力が優れている。小池氏や、蓮舫氏はあくまで女子アナである。ソフトタッチで事なかれで、毒が足りない。

 受けの良い子で居たいわけだ。よい子が良い政治を出来ると考えているタイプだ。立憲であれば、蓮舫氏よりも、毒のある辻元氏になる。その点石丸氏は敵を作る。鋭い弁舌である。何を言うかについ惹きつけられる。自力の言葉で稼いでいる力がある。

 系統としては、田母神氏と変らない。ただし、攻撃を向ける方角が少し違う。ある意味、攻撃は社会と言う大きな枠組みなのだ。今の時代に対して、釘を打ち付けている。既存の価値観に寄りかかっているものを暴いて行くような姿勢がある。

 蓮舫氏の攻撃が小池都政であるのに対して、小池都政など問題にしたところで仕方がないというような、姿である。この時代の有り様を変えたいという、思いがにじんでいた。しかも、それがあくまで現実の繋がりとして、主張できる人物である。田母神氏のような架空感がない。

 時代が変ろうとしている、何かを反映している。政党と無関係という所も、支持された理由だろう。田母神氏のように、後に右翼組織が存在するというような不安もない。若いがしっかりしているという印象もある。市長をやっていたのだから、それなりに行政の力のある人だろうと言う印象もある。

 もしこれがユーチューバーの戦略であるとすれば、今までに無いすごい手法である。選挙妨害で儲けようとしたユーチューバーもいた。もう既成政党の時代ではないのかも知れない。時代そのものが、IT革命下にあるということだろう。もしかしたら、石丸氏の政策はAIで作られているのかも知れない。

 
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石垣島で大豆を作る

2024-07-09 04:04:42 | 楽観農園


 石垣島で5回目の大豆栽培に挑戦している。過去4回一粒の大豆も収穫できていない。ともかく困難である。全く発芽しないと言うことが、3回もあった。今作っているのは、小田原で長年作っている、「小糸在来種」である。一番美味しい大豆だと思っているからだ。小糸在来は3回目である。

 小糸在来種は千葉県の地大豆である。小糸川流域でこの大豆の保存活動がある。何とか石垣島で作れれば、素晴らしいことだと思い、挑戦を繰り返している。大豆を何としても作るのは、自給食料の基本的な作物だと考えているからだ。味噌醤油は日本人の食の必需品だ。ご飯に美味しい味噌と醤油があれば、十分である。

 自給はまず、お米である。お米は基本であり、日本の気候で田んぼをやらない自給は考えにくい。そして麦。麺類やパン食はあった方が良い。田んぼの裏作で作るのが普通だが、石垣島では田んぼが一年中栽培出来るので、小麦は別に作ることになる。今のところ鳥対策ができないでいる。

 そして次は大豆である。石垣島でも味噌づくりや、島豆腐の伝統があり、大豆は作られてきた歴史がある。ただ、戦前は台湾から来る大豆がほとんどだったと聞いた。石垣島で作られていたのは、下大豆と呼ばれる品種である。これはつる性の原種的な性質を残した品種である。この品種で自給したのはすごいことだ。

 その後に続く作物は、さといも、ジャガイモ、玉ねぎ、サツマイモ、カボチャなどの保存が出来る野菜となる。試験栽培ではそれなりにできはじめているが、小田原に較べると収量はまだ半分にも満たない。薩摩や、カボチャが比較的良いかもしれない。

 石垣島で全く出来ないのが大豆である。石垣島で作られている地大豆は、下大豆と呼ばれた、つる性の大豆があるが、これはササゲや小豆に近い。収穫の手間が面倒で作る気になれないでいる。台湾では昔から木立姓のつる性ではない大豆が普通に作られているのだから、作れないはずがないのだ。

 小田原でも大豆栽培には苦労を重ねてきたのだが、栽培のノウハウはある程度は持っている。大豆は播種時期が重要になる。早く蒔きすぎるのは良くないというのだが、小田原でも早くしたり、遅くしたり試行錯誤である。今年は遅くすると言うので、7月7日になった。

 大豆はその土地によっては種時期が違う。日長時間の変化の影響が強い作物だからだ。その意味で、早く植えたならば、早くできるというようなことはない。遅く撒いても、遅くならない。適期を見付けて、撒くことが一番だ。その意味で、台湾の播種は3月始めだと言うから、石垣もその当たりと考えた方が良いだろう。

 7月7日は小田原で一般的に言われてきた日取りに、今年は戻ったと言うことになる。石垣島では3月をということになるが、練習の意味で、7月は種も試みてみたいと思っている。断根挿し木方式の苗作りである。これは以前小田原でやっていた方式である。

 石垣では鳥の害も多いので、苗を作り、挿し木をして、肥料のやれる状態で大豆を作るという方が良いかと思っている。問題は植え付け語の水遣りになる。水が不足すれば、活着が出来ない。その意味で田んぼの脇の畦は環境は良い。

 たんぼの畦で作ることが一番確実な栽培になっている。小田原永塚の大瀬さんの田んぼでは、例年畦で作っている。どこよりもよく大豆が出来ている。大豆はかなり水が多くなければ出来ない。そもそも発芽が出来ない。しかし多すぎれば種が腐る。その適正なところが、まだよく分らない。だから、苗を作り水のある場所に植え付けるのが良いことになる。

 今年は欠ノ上の4畝ほどの田んぼ一枚を大豆畑にした。これは昨年大豆にウイルス病が出たためである。あらためて、小糸在来種保存会から種を分けて貰い、従来の畑とは、距離を離して別に播種することにした。大豆の会では種を更新しようという考えでいる。上手く出来れば来年はその種を貰いたいと考えている。

 田んぼ跡であれば、水が必要なときに水を入れられるようにすることが出来る。たんぼの畦際を一周溝を掘った。溝にはいつも水があるくらいが良いという考えである。これで上手くゆくはずだが、どうなることだろう。田んぼは梅雨時と言うこともあり、かなり濡れていた。

 石垣の大豆は気候に合わせて、3月中に乾いた種まきをした。台湾で大豆は乾いていなければだめだという意見を聞いたからだ。これは水が不足して発芽が出来なかった。次に4月になって、やはりたんぼの畦に蒔いた。これは良くは継がした。

 株は大きく60から70㎝ぐらいまで育った。葉っぱもかなり大きな葉を沢山付けた。茎はそれ程太くは成らなかったが、まずまずの出来だった。花は最初からどんどん付けたのだが、なかなか実が止まらなかった。何と笠屋を膨らませて欲しい。前々回はそこで止まった。

 7月に入り、やっとさやを付け始めた。ここまで栽培できたのは、2回目である。前回は鞘は出来たが、実が入らないと言うことだった。大豆花水と言うぐらいだから、ここで水がなければ、実がつかないのだろう。毎日大豆とにらめっこである。

 大豆を蒔いたときには、それなりに堆肥を入れた。しっかりした株にするにはある程度土が肥えていなければだめだ。しかし肥料が多すぎれば、葉ばかり山のホトトギスになる。この兼ね合いが結構難しい。これを防げるのが、断根して葉を鳥刺し機をする方法である。小田原でも試行錯誤しているが、経験の無い石垣の土壌では極めて難しい。

 本当のところは、小糸在来種を石垣で作るのは、無理があるに違いない。台湾の大豆品種を手に入れたい。大勝白毛種というものをミカド種苗で販売していたが、今は生産されていないようだ。「ふくゆたか」と「きよみどり」と言う種を買って、これをこれから試験栽培をしてみる。

 今更この時期に撒いてもどうかとは思うのだが、何かやらずには居られない気持ちだ。もし上手くゆけば、来年は、断根挿し木方式で苗を作り、たんぼの畦をすべて大豆畑にするつもりだ。やはり畦くろまめが一番だ。一反の田んぼにお米を作り、畦には大豆を作る、これが小田原の農家の普通の姿だと聞いた。

 石垣の気候に合う品種を捜すことも重要だとは思うが、播種時期を適正に作ることが、まず最も大切なのだと思う。色々の時期にともかく撒いて失敗を重ねることも意味が無いわけではない。諦めたとき大豆が出来ないことになる。諦めなければいつか出来るはずだ。

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西表島のオーバーツーリズム問題

2024-07-08 04:22:34 | 環境関連


 世界自然遺産に指定された西表島では、2023年4月から入島者数の制限を導入している。入島者数の上限を1日あたり1,200人、年間33万人に設定している。また、島内の一部地域では、さらに厳しい上限を設け、ガイドの同伴無く立ち入れないように求めるほか、車両の速度制限も設けるなど、さまざまな規制・制限がある。
 
 この西表島の制限に義務や強制力はない。あくまでも現時点では協力を求めるものとされている。イリオモテヤマネコの交通事故件数は、1978年から2024年1月12日までの間で101件発生している。そのうち93件でヤマネコの死亡を確認されている。

 100匹しか生息していない、世界でも貴重なヤマネコがこれだけ交通事故死しているのだ。世界遺産に指定されて、入島者が増加して交通事故死も増えた。緊急的対策として、入島者制限が導入されたと言うこともある。最後の交通事故死したヤマネコは、高梨さんが撮影したものではないか。

 幸いなことに入島制限が始まった、2023年から現在までの所、ヤマネコの事故は報告されていない。イリオモテヤマネコの無事故日数が7月に555日を達成した。この数値は過去無かったほどの無事故日数である。西表の自然保護の希望を感じる数字である。これから永遠に事故なし日が続くように祈るばかりだ。

 イリオモテヤマネコの交通事故は道路の形状が、自然保護という意味では全く不十分と言うことがある。ヤマネコが草むらから道路に突然現われるような箇所が十箇所はある。40キロ以下で走行するようにとされていても、突然出現すれば、避けられない箇所がまだまだある。

 道路が作られたときに、動物の保護に対する意識が足りなかったのだろう。この道路際の草を刈る活動が行われている。道路際のアスファルトの継ぎ目から草が出てきている。これをドライバー状の器具で引き抜いている。大変な手間が必要になる。この経費は申請によって環境省から出るときがある。
 
 道路側面に西表に自生している芝草を生やして、見通しをよくする活動もある。いずれも祖内に住まわれている高相さんという方が主導している。自宅で地元の芝の養成を行われている。こうした地道な活動が効果を出してきた側面もあると思う。環境省への申請が、世界遺産になって認可されやすくなったかも知れない。地元の人達の仕事を創出している。ここは大切なところだと思う。

 西表島は亜熱帯の自然環境の残る特別な島と言える。そこに暮らす動植物をまるごと保存しなければならないことは当然のことだ。イリオモテヤマネコは1965年 学術上の発見がされた。島ではそれまでも捕獲され食べられるようなこともあったという。

 西表島の人口は2400人あまり。その半数に当たる、1200人を一日の入島の上限にしている。西表島では2019年より入島料を設置している。一人300円を石垣島の舟乗り場で購入することが出来る。実績は約730万円で収受率は14%にとどまっていた 。自由意志による購入では、300円すら払わない。

 それを今度は2000円に変更するという案が今検討されている。富士山の入山料と同じになる。今不足している、環境保全のための対策費用を入島料から捻出すると言うことは当然のことだ。世界遺産の西表の環境は徹底して保護するだけの価値がある特別な場所だ。環境を保護する役割を世界に約束したのだ。

 西表島の自然に入る者はその島の特別な自然から恩恵を受けるのだから、それを守るための費用を負担するのは当然の事だろう。西表の自然環境は、完全な保護地区として、人間の関わらない自然として保護して行くべき環境だ。その意味では石垣島とは全く違う条件である。

 イリオモテヤマネコが学術上発見されたとき、その保護と西表島での人の暮らしとの兼ね合いで、人より猫が大事なのかと、住民からの自然保護反対の声が上がった。一部の環境保護至上主義者からの、島で暮らす人達をないがしろにするような発言があり、島は大いにゆれて、選挙の際には、猫か人間かの論争が行われたという。

 竹富町にある7島の来訪者の増加に対応するための港湾や道路、水道施設などのインフラ整備に10億円ほどかかる。救急患者の輸送や防災対応も含めると、計20億円程度の費用が必要になると見積もっている。私にはこれからの世界遺産地域の自然保護に対する準備としては、到底その程度では不十分に思われる。

 世界遺産の西表島では自然環境を保護するためエコツーリズム推進法に基づく一部エリアでの入域制限を24年度にも始める。訪問税は「財源不足に伴う行政サービスの低下を防ぐ」(町税務課)狙いがあり、観光客数に制限をかける目的ではないとの位置づけだ。としている。

 観光客はこれから、さらに増加すると考えなければ成らない。また増えて貰わなければ、離島の生活は出来ない時代が来る。無制限に増やせば良いと言うことでは無い。観光業に関わる者自身が、これからの特別地域での観光の在り方を、入島の人数制限を含めて、考える必要があるのは当然のことだろう。

 「人間が大事か、猫が大事か。」ではない。猫も人間も大事なのだ。西表に暮らすと言うことは、猫と共存する暮らしにならざる得ないことなのだ。その意味では竹富町には自衛太吉は作らないのは当たり前の事だ。竹富町の島々には今のところ、自衛隊基地はない。せめてもそのくらいの意識は必要だろう。

 ガラパゴス諸島の入島費は15000円だそうだ。当然のことだと思う。西表島に関しては、2000円でも安すぎるくらいだと思う。ただし、それだけの自然の回復を図るという前提での2000円である。まだまだ、西表島の自然環境の回復は不十分だ。特定外来生物の除去は徹底する必要がある。

 猫が交通事故に遭うような道路を改修できないのでは、入島費は無理だ。西表で観光で暮らしている人達の中には、入島費2000円で観光客が減る事を心配している。観光関連の仕事で生計を立てている人が多いのだから、当然であるが、その人達にも、その2000円が還元されるような仕組みが必要なのだ。

 毎日1200人が現状で、1000人に減る可能性はある。2000円払うのが嫌で、西表島に行かないというような人は、来て貰わない方が良いだろう。環境が整備された島になれば、むしろ観光客は入島制限数一杯まで増えるに決まっている。富士山以上に魅力がある。

 日々西表島の入島料として、200万円が入るとして、この一部を当面減少した200人の観光客分として、何らかの形で補填すれば良い。最初はアンバランスになるかも知れないが、必ずあれだけの環境を持つ島なのだ良い形で、観光立島が出来るようになる。

 富士山に登りたいという人が2000円を払いたいと考える以上の価値を、西表島は作る必要があるということだろう。西表島に暮らすと言うことはやはり特別なことなのだ。今暮らしている方々には、例えば飼い猫にはマイクロチップを付けるというような不便をかけることだが、協力をお願いするほか無い。

 そして、説明会の開催や、議論を重ねる中で、この入島料は2000円から、1000円と言うことになった。これでは全く不十分な金額だが、仕方がない当面の選択かも知れない。条件が整ってきたら、値上げも考えに入れておいた方が良い。

 また、修学旅行生は無料というのは、かなり問題ではないか。私が見たところ、大量の修学旅行生の列が、奥深いとこまで歩いて行く、遊歩道を踏み固めていると思う。自然への付加は変らないのだから、文科省が特別補助を出すべきだろう。何らかの条件を付けた、対応策の検討はあるはずだ。
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