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自民党、岸田氏から石破氏へ

2024-10-02 04:11:29 | Peace Cafe


 自民党の9名による大騒ぎの総裁選挙のすえ、石破茂氏が新しい総理大臣候補に選ばれた。誰でも良い、誰も気に入らなかったが、とんでもない人も居た。選ばれたら、靖国神社に参拝するというような人も居たのだから、それよりは、まだ増しと言えば言える。

 どうせすぐに総理大臣を降りて貰うのだ。すぐにでもやるという総選挙は10月27日投票日だという。パー券裏金を明確に説明をしなかった自民党に投票するなど、日本をいよいよ終わりにするような物だ。あのパー券裏金事件を、総裁選挙というお祭り騒ぎがあろうとも、忘れてはならない。

 今の自民党議員の大半は、自分のことばかりだ。日本の為に衆議院議員に立候補した人など居るのだろうか。総裁選挙の9人の権力欲の強さが、顔ににじみ出ていた。ともかく人相が気持ち悪い。誰もが自分が一番可愛いというような顔だ。

 自分が自分がと言う、自己顕示欲の極めて強い人間ばかりになった。こんな人達がどれほど頭が良いとしても、斉藤知事と同じだ。自分のこと以外にないような人間に、政治を任せてはだめなのだ。何しろ20万30万で国会議員をやってられないと偉そうに言っているものまで居た。国民生活をどう考えているのだ。

 このままで日本人の意識を変えないで、選挙をしていたのでは日本は終わる。習近平に従う中国の人。プーチンに従うロシア人。自民党に従う日本人。どれもが同じことになる。自分の損得ではなく、日本の将来のために選挙で投票しなければ、まともな政治が日本に戻ってこない。

 もう野党がだめだからなどと騙されていてはだめだ。あれは大本営の洗脳放送なのだ。今は報道機関はすべからく、大成良くサイン会に加盟しているのだ。野党がだめだと思うなら、野党にも入れないで構わない。自民党に入れないだけでも日本は変る。

 自分の利害以外に興味が無い日本人が大半になってしまったのだ。誰に入れれば、自分の得になるかだけが判断基準なのだ。その結果、代表たる与党自民党がこんなにいやらしい人達の集団になったのだ。自民党は自ぶんんたちの黒い腹の底のようだ。

 その筆頭の悪がアベ氏である。反日組織統一教会と連んで、韓国に洗脳した日本人女性を売り渡し、政治を行ったのだ。家族を崩壊させて、韓国に献金させたのだ。それを十分承知していて、日本を平気で売り渡していたのが、悪のアベ氏だ。心底日本をだめにした。

 日本という国はその悪人アベ氏が何しろ国葬なのだ。アベ氏がやったことはどこからどこまでも日本沈没である。アベノミクスの失敗が日本を大企業の内部留保を増大させたのだ。未だにアベを評価する日本人が沢山居る。恐ろしいことだ。日本を明治の軍事国家に逆戻りさせた張本人である。これほどひどい政治家は戦後初である。

 何しろアベ氏は日本を外国を攻撃できる国にしてしまった人だ。世界の希望であった平和国家日本を捨てたのだ。アベ氏によると、何とそれが普通の国だというのだ。ロシアやイスラエルが、侵略戦争を繰り返している。これが普通の国の姿であるとしているのだ。

 戦争では何も解決は出来ない。戦争ほど割に合わないことはない。国際紛争の解決法は戦争ではないのだ。戦争は問題をより悪化させるだけなのだ。ロシアが勝利すれば、ウクライナ問題は解決できるかと言えば、より深刻化して、何十年か先にロシアはさらにひどい状況に陥るだけだ。

 イスラエルはハマスやヒスボラを壊滅し根絶やしにしなければ、イスラエルの安心はないとしている。しかし、不当な暴力によって殺すことで、反イスラエル勢力は増えてゆくだけだ。私だってどんどんイスラエルが悪い国に見えてきた。

 アラブ諸国の攻撃を受けている国からみれば、イスラエルは最悪の国である。何故、平和的に解決を図ろうとしないのか、それ以外に解決はないはずだ。ユダヤ人の恐ろしさが日に日に悪夢として、世界中に焼き付いている。これではヒットラーのやったことと同じではないか。

 問題の解決は、平和的な和解以外にない。許し合う以外に解決はないのだ。確かに日本はアジアの近隣諸国に侵略戦争を行ってしまった。大東亜を悪の帝国白人国家から守るためにと、建前を立てて、日本人がそのアジアの人々を殺戮してしまったのだ。

 日本が負けたから、70年の平和が保たれた。日本が勝利していれば、ひどい結果だったに違いない。今の世界ではロシアによるウクライナ侵攻が、収まることなく続いている。何故殺されるのか理解できないウクライナの住民が死んでいる。多くのロシア人も死んでいるのだ。プーチンを支持しているロシア人の気が知れない。

 イスラエルを中心にした中東戦争に突入している。イスラエルは戦争を止めるどころか、どんどんエスカレートして行く。何故これほど暴虐になれるのか不思議なくらいだ。ユダヤ人の有能と異常性を考えてしまう。有能だからと言って以上になる可能性は高いと言うことのようだ。

 それが現代日本の保守政治家達の姿にダブってくる。岸田氏も有能な人なのだろう。斉藤兵庫県知事も有能な人なのだろう。ただ、人間性に問題があったのだ。勉強が出来ても人間が出来ない。まるで理屈だけで、心がない。人間性がない。一体道徳心のある経済などと、岸田氏はどの口で語ったのか。

 この危機的な世界情勢の中で、ただ日本はアメリカの手先で良いのか。アメリカの言いなり以外に外交政策はないのか。自民党には、石破氏にはアメリカの属国から独立する気概がない。国の安全保障は軍事力ではないのだ。日本という平和国家の平和主義を世界に示すことだ。

 日本はアジアの島国である事を思い出すべきだ。まず東アジアの一国として、中国との関係を見直す以外に道が無いのではないか。中国の覇権主義が悪いというのは分る。しかし、その中国という国の現状の苦しさも理解すべきだ。

 中国は今高度成長を終えて、今一番苦しい状況にあるのだ。しかも世界は特にアメリカは反中国で経済的圧迫を加えている。日本も尻馬に乗って仮想敵国にしてミサイルを向けている。その結果中国はロシアに接近してしまったのだ。中国の経済的苦境からの脱出を日本が手助する必要がある。

 確かに日本人学校の生徒さんが、中国深せんで殺された事件はひどすぎる。反日教育が影響していることは確かだ。今中国在留日本人が不安の日々の中で、引き上げることも出来ずに暮らしている。この状況に対して、中国政府は明確な安全行動すら取らない。確かに腹が立つ。しかし、こう言うときこそ、日本政府は正々堂々と正しい主張を繰り返すべきだ。反中国の空気を育ててはだめだ。

 アメリカを中心にした国々には覇権主義がないのか。極めて強い国家主義が存在するように見える。日本の自民党も明治日本帝国の覇権主義国家を目指しているように見える。これが中国の半日に繋がっているのだ。自民党は日本が軍事的に強くならなければならないと口をそろえている。

 石破氏が選ばれた。岸田氏よりも良いのだろうか。もっと悪いのだろうか。少なくてもアベ氏を悪の政治家として自民党の中で戦っていたのが、石破氏だ。アベの政治を自民党が脱却しようとしたことは確かだ。しかし、自民党にはアベ後継者を自認する高市氏を支持する人達が、あれほど多かった。何の反省もないのだ。

 自民党の腐敗は深く広がっている。高市氏が優勢となった最初の選挙の後、円安が進んだ。そして、石破氏に決まって、円高に戻った。どうも投資をやる人は二人の経済政策を大きく違うと見ているようだ。アベノミックスの継承が、高市氏だとすれば、円安の石破氏は何をやるのだろうか。野党に席を譲る人になるという事か。

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「田中一村展 奄美の光 魂の絵画」

2024-10-01 04:10:34 | 水彩画


 東京都美術館で田中一村展が行われている。「世俗的な栄光から離れ、己の道を貫いた画家・田中一村、清く、貧しく、美しく…奄美で到達した魂の絵画が東京に集結」だそうだ。何とも白々しい、見当違いの宣伝文句が並んでいる。どうも映画の一村以来、変な一村像が造られている。

 私の絵を見る眼では一村の絵は評価されたくて仕方がないと、営利を求めてあがいている絵に見える。人の眼ばかり意識した絵だ。世俗的な栄光は求めたのだが、社会に受け入れられなかった人だ。この絵を見ると評価しなかった社会の方が正しいと思う。




一村の絵は奄美の光と言うが、そんな気は全くしない。田中一村の画面はデザインであり、装飾画である。どこが魂の絵画なのだろうか。魂のことなど考えたことも無い人が、作ったアピール文なのだろう。嘘もいい加減にしたら。と言いたいが、そもそも絵画芸術を理解など出来ない人が人集めのための文章だろう。

 一村はしかし近年人気がある。その理由は、今の時代はこういう、アニメーション的装飾画を、商品絵画として求めているのだ。一村の絵画には精神性はない。見たものをデザイン化するだけの絵だ。それがこの精神性の希薄なこの時代に適合するのではないかと思う。



 今の時代は商品絵画の時代である。高く売れる絵が良い絵という時代である。すべての物を商品にしなければ気が済まないのが、末期資本主義の時代なのだ。それに迎合するのは勝手で構わないが、それは藝術としての絵画とは違うと言うことは忘れてはならない。

 何も気に入らない絵画を問題にする必要も無いのだが、沖縄で絵を描いていると、何かと一村の話が出ることがある。沖縄の風景を一村の絵画から想像して貰ったら、沖縄に迷惑だ。絵を描いているからと言って一村を持ち出されるのことには、かなりの違和感がある。

 

 一村が奄美大島に来たのは、沖縄の復帰前である。沖縄まで来るのは少し面倒くさい時代だった。何しろパスポートがなければ、沖縄には来れなかったのだ。渡航証明書という物が必要だった。普通の旅行でも南の島と言えば奄美大島までだったのだ。それで、一村は奄美まで来たのだろう。

 しかし私の石垣生活で見ている南の風景は、この絵とは空気も色も違う。これは南国風とは言えるが、あくまで風俗画風の南国だ。そもそも画面に空間という物がない。画面の空気を吸うことが出来ない。一村の絵はそこそこ上手な絵空事に留まっている。


 田中一村の絵は嫌いな絵なのだ。嫌いな絵を嫌いだとあえて書くと言うことなので、できるだけ沢山の絵をここに掲載させて貰った。一村の描く物は藝術としての絵画ではないと言うことの意味を知ってもらいたい。自分の絵画を描いたものでは無い。と言うことははっきりとしている。

 この絵をどう見ても田中一村という人間はいないのだ。つまり人間表現になっていない。藝術としての絵画はその絵を描いた人間の、世界観が表れていなければならない。こんな人間が居たのだと言えるもののでなければ絵ではない。その一番大切な部分が欠落している。


 本当にこの絵を見て魂を感じるというのだろうか。もしそうであるなら、私の絵画と言うものすべてを否定するほか無い。南国の風物を写実的に構成した物を、どうしても魂の絵だとは認められない。南国風景でなければ、まだ無視できるのだが、奄美大島という所がどうもいただけない。

 奄美の光がこの絵にあるというのか。全く私には光が感じられない。この展覧会を企画した、都美術館の学芸員のレベルの低さには驚く。一村という、奄美で非業に死んだ風俗画家の絵画展で良いではないか。もがいた絵描きと言うものの哀れさの展覧会で良いではないか。


 一村を評価しなかった日本画の当時の公募展もまともだったのだと思う。今の公募展では大喜びで持ち上げただろう。当然、画商も群がったと思う。今の時代に評価されている絵は、一村風の絵なのだ。魂のない、光のない、精神のない、世界観のない、商品絵画なのだ。

 そもそも日本画は藝術としての絵画ではない。装飾画なのだ。屋敷を飾る屏風絵であり、ふすま絵であり、掛け軸である。魂などあったら困るのだ。建具の一つで上手く収まればそれでいいのだ。その日本画の歴史の中にも宗達のようなすごい人が居たことは居た。

 所が江戸時代には完全に日本画は御殿画家に成り下がり、装飾品作りに没頭した。だから江戸時代にはむしろ北斎のような庶民の中に、すごい絵画が表れたのだ。所がそうした傑出した絵画を見つけ出したのは、日本人自身ではなかったのだ。



 西欧の絵画が近代化する中で印象派が生まれる。その人達が、日本の浮世絵を見て、評価をしたのだ。日本では江戸時代の日本画も庶民の浮世絵など、卑しい物という意識があり、見向きもされていなかったのだ。何でも西欧かぶれになった明治時代に逆輸入された浮世絵文化。

 日本人の中にあった魂の絵画が掘り起こされたのだ。それが近代日本の中に生まれた、明治の西欧絵画である。その到達点が中川一政の絵画だと思う。まさに魂の芸術である。しかし、どうだろうか、梅原龍三郎や、中川一政の絵画を本当に理解している人は年々減少しているような気がする。

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老人と運動

2024-09-30 04:15:05 | 暮らし


 75歳を超えると体力の衰えは具体的になってくるようだ。前には空けられた瓶の蓋が、ある日空けられなくなる。前は気にならなかった上り坂が息切れするようになる。一時間なら働けた作業が、いつの間にか30分すると止めたくなる。残念なことだが、こうして歳をとったことを知ることになる。

 この衰えを食い止めて、一年でも、二年でも現状維持をしなければならない。死ぬまで元気に働かなければ面白くない。のぼたん農園が完成するまで、身体を使い働かなければ、どうにもならない。先日気付いてがっかりしたのは、緊張感の維持である。短くなっているのだ。

 トラックターに乗っていることが出来るのも、2時間ぐらいまでになっている。身体の疲労よりも、集中力の限界である。多分車に安全に乗れるのも2時間ぐらいが限度なのでは無いか。昔は10時間も乗っていても、別段注意力が落ちるなどと言うことは無かった。小田原から平戸まで、ごく普通に一日で絵を描きに行けたのだ。あれはもう20年も前のことか。

 これ以上体力を衰退させずに、どのように維持できるかである。歳をとっても体力を落とさないためには、当然よい運動の継続である。しかし、運動は続ける事がともかく難しい。どんなに良い体操を考えたとしても続けなければ意味が無い。継続こそ健康なり。

 一日一万歩の奨励という物がある。悪くはないかも知れないが、こんなことをできる人は希有な人だ。ただ歩くと言うようなことを回峰行のように継続するなど、普通の人には出来ない。少なくとも私には出来ない。そもそもそんなに歩かなければならない、無駄な時間が無い。運動のための運動という健康法は継続できない。

 では30分ジョギングはどうだろうか。これもなかなか厳しい。走れば必ず心臓がバクバク言う。これを30分も続けたら心臓に良くない。走ると言うことはむしろ避けた方が良いと思っている。健康のためには厳しすぎる運動だと考えている。マラソンなど継続したら、普通の人は早死にするのではないだろうか。

 3歩以上は早足。これは中学生の頃から続けていた。何でも焦る性格。早くやりたくてつい急ぐのだ。だから、若い頃はいつも走っていた。金沢大学の構内は広ろかった。今の金沢城がすべてが大学だった。だから、どこに移動するにも速歩、早足。

 速歩は良い運動だと思う。先ずはゆっくり歩く。もうそれ程慌てる必要は無い。ゆっくり歩いて周りをよく見る。何か気づくことがある。これが大切だ。良い考えも浮ぶことがある。そして、時々早足にする。息が切れるくらいまで速歩をする。

 75歳の今はどうしたら良いかである。まず朝のスワイショウと八段錦だ。これだけでも良いから継続するのが一番良い。できるだけ心臓が普通に鼓動するくらいゆっくりとである。嫌になれば途中で止めても言い。20分ほどの運動だから、この程度なら何とかまだ出来る。

 太極拳まで続けて行えば最善である。スワイショウは勢いで身体を振り回していてはあまり意味が無い。ネットで見るスワイショウは勢いでやっている。スワイショウは一回一回左右で止めるように行う。一呼吸で左に行き止める。そして一呼吸で右に行き止める。

 それで1回。この往復を100回行う。膝はできるだけ落として行う。重心を下げると足腰を鍛えることになる。落とすとかなり厳しい運動になる。最初は立ち姿で始め徐々に落として行く。動くときには腰回りの筋肉を意識する。腰回りの筋肉で動くようにする。

 これだけ毎日続ければ、百姓仕事をしていても、腰痛にならない。腰の関節は誰だって衰えるのだから、その分腰周辺の筋力を維持しなければならない。膝も同じだ、関節すべてが衰える。その衰えを、筋力で補う必要がある。少なくとも維持しなければ腰痛になる。

 元気のある日は腰を落として行う。腰を落とせば負荷が強まる。最初は立ち腰で初めても、少し下げられれば下げる。思い切って下げれば、かなり負荷が高くなる。しかし、あくまでゆっくりである。きついからつい早く身体を動かすが、それくらいなら立ち腰の方がまだ良い。

 ともかくゆっくりがいい。そして眼は閉じたまま行う。眼を開いていたからと言って、身体にはどうと言うことは無いが、気持ちの方を集中させるには眼は閉じた方が良い。そして口を開き、いいち、にいいいと数を数える。呼吸を緩やかに行うためである。口を閉じていると、つい喉を詰めてしまうのだ。

 膝を曲げて、腰を落とす。腕は脇の下を付けないで浮かして行う。手は振り切ったときに手の平を上に開き止める。おかしな踊りをしているような形だが、片手は背中の方で上を向けて空ける。片手はできるだけ遠くに投げ出すように上を向けて手の平を開く。

 と言っても多分、スワイショウ八段錦だけでも継続が出来ないのが普通の人間である。私はそれなりに辛抱強いので、嫌そうではなく、長くやっているので慣れたのだ。スワイショウ八段錦まではやれる。この程度では辛抱などとは言えないかも知れないが、ちょっとでもやらないよりは、全く違うと思い継続している。

 継続というのは不思議な物で、一人では出来なくてもみんななら出来る。本当はみんなでやるのが一番良い。みんなでやれない人は、つまり私はこうしてブログに書く、ブログに書くとある程度みんな化される。こうして時々励ましとしてブログに書くと、継続しやすくなるのだ。これで今朝やらなければ恥ずかしい。

 続けていると不思議に続ける苦しさがいくらか緩和される。継続しがたい気持ちは、周期的に押し寄せる。今日ぐらい良いかと思うわけだ。ここが要だ。今日ぐらい止めてもと思った日こそ、今日こそ頑張るぞと気力を出さねばならない。そうして継続すると、徐々に継続が楽になる。日常に近くなる。

 そしてもう一つ気を付けている運動がある。間欠速歩である。歩くのもだめ。走るのもだめ。しかし歩いたり、早足をするのは良い。それは何かのついでにやることだ。歩くなど、わざわざやるようなことではない。何か移動はある。移動のついでにやる事だ。その時に思い出したら早足を入れる。

 早足をして心臓がパクパクしてきたら、普通歩きに戻る。私ならのぼたん農園の見回りを、日に数回は行う。この時に早歩きを入れる。下り坂でも良いし、時には上り坂でピッチを上げる。そもそも見回りは、しなければならない作業だから、歩くために歩いているのではない。あくまでついでだ。

 だんだん身体の危うさが増してきたので、真剣に運動を考えている。絵を描いていると言うことは極めて身体に悪い。3,4時間は絵の前に座り込んで居る。身体を痛めるに違いない。時々アトリエカーを出てのぼたん農園の見回りをする必要がある。

 
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271 水彩画 日曜展示

2024-09-29 04:55:12 | 水彩画
271 水彩画 日曜展示







570「ギンネムともクマオ」
中判全紙 2024.9








571「海の畑」
2024.9 中判全紙








572「のぼたん農園」
2024.9 中判全紙







573「赤花」
2024.9 中判全紙

 集中して描けた一週間だったのだが、最後の「あかばな」の絵が出来ないで、3日か4日一枚を描いていた。それでも分からないまま終わったのだが、苦労したので一応日曜展示に出すことにした。出来なかった絵の方が、愛着はあったりする。赤い花はハイビスカスである。

 モクマオとギンネムは石垣島で始めてみた木だ。有用な樹木として導入された物だが、今は淘汰すべき樹木になっている。その理由は生活が変ったためだ。石油が燃料になったからだ。どんな荒れ地でもぐんぐん成長する、樹木は薪炭材として重宝されたのだ。

 のぼたん農園も夏が終わりかけている。まだ暑いことは暑いのだが、大分草の色が変ってきた。草の色が変ると風景も変る。そう思うと海の青さも違っている。色の変化に自分が反映しているのが分る。次の季節に眼の方が変ったようだ。

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のぼたん農園の稲の品種の選定

2024-09-28 04:33:49 | 楽観農園


 のぼたん農園の自給稲作技術は「あかうきくさ農法」と「ひこばえ農法」の二つの技術を基本としている。現状では課題が見えてきたというところである。石垣の気候に適合する稲の品種がまだ見つからないと言うことが、最大の課題である。

 沖縄県では稲の奨励品種として、「ひとめぼれ」と「ミルキーサマー」餅米品種としては「ゆがふもち」が指定されている。この3種を3年間栽培してみたが、葉が13枚までしか出ないという不完全な生育に留まった。この先繰り返しても十分な稲作にはならないと判断した。新しい品種を探さなければならない。

 それでは何か可能性がある品種が無いのかと、様々な機関に問い合わせてみたが、期待できる品種はないと言うことである。また石垣島の気候に適合する品種の作出も、どこの研究施設でも試みられていないと言うことが分った。台湾や中国では行われていることが、日本の研究機関では諦めてしまったと言うことになる。悲しい日本の稲作の未来が見えてしまう。


 石垣島にはJIRCAS熱帯農業研究センター(熱研と呼ばれている。)という物がある。本来であればここで研究すべき事であろうが、ここでもそういう熱帯気候に向いた品種の作出努力はされていない。日本の稲作研究者の数は極端に多いのだが、どんな研究に力を入れているのだろうか。日本全体が亜熱帯化してきているのに、大丈夫なのだろうか。

 亜熱帯向きの品種の作出で成功している事例を見ると、ジャポニカ種とインディカ種の交配によって行われているようだ。そうした交配は戦前に台湾で磯博士によって交配された事が始まりである。蓬莱米と呼ばれた台中65号が先駆的事例である。

 台中65号を昨年手に入れて作ってみたが、欠点が多く現代にあらためて作るほどの品種ではないことが分った。ただし、インディカとジャポニカの交配種の中に、亜熱帯気候で安定して作れる品種がある事は確かなので、色々試作してきた。「台光」は比較的良かったが、ばらつきが大きすぎた。


 その中で一番、栽培結果が良かったのがハッピーヒルである。のぼたん農園でも、初めて満作になったのだ。ハッピーヒルは自然農法を提唱された福岡正信氏が作出したものである。終戦直後、ビルマの奥地から日本兵が持ち帰った長稈多粒のモチ種と、日本の穂重型の品種を交配して、福岡正信氏が1986年に固定した品種。

  長稈強稈で倒伏に強い。耐干性が強く、陸稲に近いものもある。雑草に強い。条件が悪い田畑で特性が発揮されるので、不耕起、無肥料、無農薬の自然栽培に向く。多肥栽培した場合、超多収となり10a1tどり以上も可能。(一穂300~400粒着生し、平均200~250粒実る。(一平米の茎数を200~300本に留める)。

 晩生種で分けつ多く大株になるので、条間・株間40〜45cm位で1、2本植えが最適。30cm間隔、3〜4本植えでも栽培可。 ●粘土団子を用いた水田稲作自然農法・米麦連続不耕起直播では、秋の麦粘土団子蒔きから始める(春の稲作りから始めると失敗する)。

 稲刈り前の9月上旬に緑肥クローバーまたはウマゴヤシ等を播種し、10月下旬に麦(裸麦が最適)を団子蒔きした後、11月に稲刈りが終わったら稲わらを全面にふる。翌年4月に麦が出穂した後、5月に稲を団子蒔きし、5月末麦刈りを行う。6月繁茂した緑肥クローバの間から稲の芽が伸びてきた頃、田に水を入れてクローバを枯らす 。

 のぼたん農園では圷さんが野口種苗さんから分けていただいた種で始めた。60㎝角1本植えで栽培した。最初は戸惑うような栽培で、枯れた株もあった。しかし根付いてからの成長は、めざましい物で分ゲツも40以上になった。ともかく野太い分ゲツに驚かされた。

 ひと株に平均して40ほどの穂がついた。株の大きさは一番大きな株は1m50㎝にも成った。穂の様子にはばらつきがあり、確かに粟のような穂になるものもあるが、普通の稲のような穂もある。穂は確かに大きいが200粒を超えるかどうかと言う気がする。

 株が他の品種の稲とは競べられないほど太く長い茎になる。この10㎜はあるしっかりした茎のために強い風に吹かれても、不念になる確率が低いようだ。圷さんは不耕起、無肥料に近い形で栽培しているのに、満作の株になった。肥料分が少ない土壌でも栽培できると言うことでは無いかと思われる。


 圷さんは4月に田植えをして9月末に収穫予定だという。かなり晩生の品種だと思われる。晩稲品種でなければ、自然農法向きではない。ゆっくり成長でなければ満作には出来ないと考えて良い。もち品種とうるち品種があるということなので、食べてみて食味の合う方を作ってみたいと思う。

 12月末田植えで6月始め稲刈りを目標にしたらどうかと考えている。それならば台風を避けられる。6月に稲刈りをして台風を避けることは石垣の稲作では重要なことになる。6月に出るひこばえならば、何とか11月稲刈りに出来るのでは無いか。

 これからひこばえの試験を圷さんがしてくれることになっている。ひこばえの生育も悪くないのであれば、この品種をのぼたん農園の主要品種にして良いのではないかと考えている。今までのひこばえ栽培の経験ではインディカ種とジャポニカ種の交配種はひこばえは比較的上手くゆくようだ。




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中国のSNSによる世論操作

2024-09-27 04:22:17 | Peace Cafe


 中国は監視社会になった。反政府的な人物の行動は政府が完全に把握できるようになっているはずだ。ただし、日本人を襲うような人物はむしろ無視されている人間で、社会から疎外され監視の対象にはされていなかったのだろう。

 20年ぐらい前になるのだろうか。農文協の誘いで中国のためになればと考えて中国に行き自然養鶏の普及活動をしたこともあるが、もう中国に行くことは出来ないと考えている。絵画交流団で上海と桂林に出掛けたこともある。中国には子供の頃から興味があったので、実に残念なことだ。

 SNSは国がコントロールしている。だから中国に流れているSNS情報は国が認めている物と考えて良い。例えば習近平氏を笑いものにするような物は、例え冗談だと明らかに分る物でも、摘発の対象になる。一方で日本を悪者国家として批判中傷する物は、いくらでも存在する。と言うか国がそうした扇動をしていると考えた方が良い。

 この日本を悪者に仕立てるやり方は「Twitter世論コントロールシステム」 と言うものでコントロールされていると言うことを、NHKが報道した。大量のアカウントを一度に操作し、特定の情報を拡散させることができる仕様になっている。

 SNS上で、標的となるアカウントを黙らせたり、自分たちに有利な言説を広めたりすることができる、その名の通り「世論操作ツール」が存在する。ボットと言うアカウントを作り偽情報を流す。実在する人間が投稿しているようにみせながら、背後でプログラムによって機械的に操作する

 NHKの追跡では、あるアカウントは、特定の時期に集中して投稿を繰り返すという不自然な動きもしていたことがわかった。投稿の中には、去年、東京電力福島第一原子力発電所から放出された処理水について、危険だという誤解を与える情報もあった。

 放出された汚染物質が海に拡散していくような印象を与える動画だったが、処理水とは無関係のシミュレーションのものだった。この反日情報の拡散のための投稿には、2000件を超えるリポストが行われていた 確認していくと、こうしたシステムを購入した組織の中には、中国の警察組織にあたる「公安」当局も記されていた。

 リストによれば、たとえば、チベット自治区のラサの公安局は、ほかの製品とともに、6000万円あまりで購入していたとしている。チベット族の間違った情報の拡散にSNSが使われていることは間違いが無い。この購入リストが正しければ、i-SOONの世論操作ツールは中国当局に使われている可能性がたかい。

 SNSによる世論の操作は香港で起きた暴動の時に始まったとされる。香港で暴動の鎮圧の成功で、SNS操作の有効を確信したのだろう。さらに広げようとしている。当然日本国内でも展開されているとしなければならない。それが放射能汚染水の海洋放出に対する、異様な中国の反発を生んでいるのだろう。

 世界中の複数の言語で展開されているという。十数か国語と数十のプラットフォームで活動している。目的は、政府や社会の制度、そして社会そのものへの信頼を攻撃し、弱体化させることにある。中国習近平氏は日本を敵視する世論を作り出し、自分の悪政への批判をそらそうとしているのだろう。

 先日の台湾の総統選挙の際には、生成AIで作られた、フェイクニュース動画が拡散された。現総統のスキャンダルを、女性が語るものだ。これは都合の悪い物を押さえるために、今後頻繁に使われるはずだ。私のような極小の物はまず相手にもされないが、影響力があると思われる人が悪用されることはあるだろう。

 最近投資詐欺に著名人が利用される事件が頻発している。あの人が言うのだから間違いないと思って、引っかかってしまうのだ。次の段階では全く当事者とは関係のない詐欺師が、その著名人がしゃべっているかのような動画を作り出すことで、投資詐欺行為を行うことになる。

 この技術を中国は国家として悪用していると思われる。ここまで来ると情報統制どころではなく、情報戦争を仕掛けていると言うことになる。習近平がかなり追い込まれてきていると言うことを意味しているのだろう。独裁政治の不安が、どこまでも人間を疎外して行く。

 しかしどこまで人間を洗脳しようとしても、人間には健全な復元力がある。中国人は極めて冷静な判断力を持っている。一反は習近平に飲み込まれたように見えていても、ただ静かに情勢判断をしているのだと思う。人間をそう信じているし、まして中国人のしたたかさを信じて良いと思う。

 中国人を信じる。確かに中国人は人間の質に、格差が大きいと感じた。中国に行ったときにお会いした立派な中国の人達は独裁者に騙されるような単純な人ではなかった。中国社会には正義が存在する。何時までもこの独裁状況が続くとは思わない。

 中国人は商人の思想が強いが、故人の自立は強く、一族で助け合う精神がある。社会正義は強くもっている。ここまでの中国の高度成長があまりに早く、社会がついて行けないのだろう。あの巨大国家を一つにまとめて、国家社会主義を行うと言うことの限界がある。

 不動産投資に富裕層や行政の幹部が巻き込まれていった原因は、その意味では国家資本主義の限界を示しているのかも知れない。儲かることがすべてであると国が方角を示したのだ。それなら、行政と開発業者が利益を分け合うような形で、限界を超えた不動産投資が国全体に広がったのだ。

 当然のこと自転車操業になり、無用な建物が乱立することになる。と言ってもまだ不動産の値下がりは5%程度のようだ。半値ぐらいにまで下がれば、そこそこあの膨大な住宅に、暮らすことができる人が現われるだろう。暮らす家のない人口も大きい。

 全部が無駄になるわけではない。いずれ実需価格になるまで下がると言うことになる。そこに落ち着かせるためには、国が支出をする以外にないと言うことになる。国の方針が的確に行われれば、中国経済が崩壊すると言うことは無いはずだ。

 ただし、習近平の独裁政治がこのまま進めば、社会の勢いが失われて行くことになる。富裕層は一族の安全保障のために海外投資を強め、中国脱出の準備をしているに違いない。大学卒業者の半分が就職未定と言われている。この先若い人の就職先がないと言うことが一番問題になるだろう。

 監視社会。国の世論操作。拝金主義。自由の失われた社会では、人間は力を出し尽くそうとは思わない。習近平の顔色を窺うばかりでは、社会の活力は失われて行く。あまり感心の出来ないような人物ばかりが政府の人間になる。外務省が中国人が日本旅行に行く際には、気を付けなければならないと注意喚起を行った。まさかのことである。
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Google検索 AI による概要

2024-09-26 04:16:48 | Peace Cafe


 最近Googleで分らないことを検索すると、AI による概要 と言うものが表れる。試験運用と言うことらしいが。なんとなくしっくりしない。正しい回答なのかどうか、頼りない気になる。例えば、野底岳の名前が急に出てこなくなって、「石垣島のとがった山の名前は?」とGoogle検索をした。

 「AI による概要」ということで、野底岳と教えてくれた。野底マーペーとも呼ばれるなど説明が続く。 黒島から強制移住させられたマーペーという娘が、恋人の住む黒島を眺めたいという思いから、野底岳山頂に登ったが、於茂登岳にさえぎられて黒島を見ることは叶わず、絶望を味わって野底岳の山頂の石と化したと 。黒島はのぼたん農園からならばわずかに見える。

 伝説まで記載されている。AIに人間が従うようになる第一歩のようで気分が少し悪い。教わって置いて文句を言うのが人間である。まあ、記憶の確認のために探す範囲であれば、これでいいのだろう。ウエッブに関わる以上、AIに慣れる以外無いのだろう。そのうち、三権のすべてがAIに参考意見を求めるようになるはずだ。

 その三権をGoogle検索すると。国家の権力を立法権、行政権、司法権の三つに分け、それぞれを異なる機関で運用することで、権力の集中を防ぎ、国民の権利と自由を保障する。と出てくる確かにその通りである。ただ最後の保障する。は少し違うだろう。保障を誰がしてくれるというのだろうか。自由は国民自らが確立する物だ。

 これを例えば「石垣島のひこばえ農法とは?」とGoogle検索で質問するとどんな回答があるのだろうか。

 石垣島ののぼたん農園では、稲を刈った後の株から出た芽を育てて利用する「ひこばえ農法」に取り組んでいます。ひこばえとは、刈り取った稲の切り株から茎を再生させて、もう一度稲穂を実らせることを指します。イネは多年生植物なので、収穫後に切られてもまだ生きていて、分げつをしていきます。

 ひこばえ農法は、省力的に栽培できるものの収量が低いという特徴があります。そのため、収穫後は播種から始める通常の栽培に戻すのが一般的でした。のぼたん農園では、石垣の気候に合った取り組みとしてひこばえ農法に取り組んでいます。

 と出てくる。私が書いたブログ記事から抜き出している。が文章はかなり変えられている。間違いもある。茎など出てくるはずがない。そんな間違いを書いた記憶は無い。出てくるのは分ゲツである。ほかに探してもたいした記事があるはずがない。収量が低いと決めつけている。私は栽培によって収量は上がると考えている。

 様々な回答を組み合わせているようだ。他からの引用と混ぜて作られていると言うことになる。のぼたん農園の名前を出されて、その上で間違った回答が書かれているのは心外だ。私が間違って書けば、間違った回答が正しいかのように、回答されることにもなるのかも知れない。この辺りが現在のAIの限界。

 もう一つやってみる。石垣島のあかうきくさ農法とグーグル検索したらどう出てくるだろうか。

 石垣島では、亜熱帯地域の特性を活かして、さとうきびや米、野菜、果樹などのさまざまな農業が展開されています。石垣島で農業を行う上で、台風や強い陽射しなどの自然が農場の恵みとして役立っています。石垣島で農業を行う上で、台風や強い陽射しなどの自然が農場の恵みとして役立っています。

 まるで見当違いの回答である。見当違いであれば問題は無い。まだまだだと笑って済ませば良い。ある意味AIを騙すことは簡単だということだ。誰かがGoogle検索をするだろう事があるときに、それに沿った嘘を書き込む。例えば「移民はペットを食べている。」というようなデマを書き込んでおくと、AIはそのデマをまことしやかに回答してしまう。

 問題はトランプ元大統領のような人物が、期待どおりのネタを手に入れたときだ。AIは一気に間違った情報の拡散が出来ることになる。確かにAI情報には問題がある。AIの回答を鵜呑みにしてしまうような社会になれば、とんでもない差別が起こるようになる。

 すでに間違いが広まり始めているのかも知れない。人間であれば、当然間違っている可能性があるという前提で、個人の見解として読む。所がAIの作った文章の成否の判断が難しい。これから精度が上がって行くのだろうが、人間よりは正しくなるのは間違いが無いが、限界はある。

 AIが創作した小説を楽しめるところまで行くだろうか。ここが肝心なところだ。無理だと考えている。小説を創作するという喜びは又別のことになる。楽しんで自分を出し尽くしたものが読んで面白いのだ。もちろん、印税で暮らそうと考えて創作するだけなら問題は無いが、良い小説を書きたいという意欲は、又別のことだ。

 AIが作り出す絵画は、私の考える絵画とはかなり違うものになる。藝術としての絵画とは言えない。AIが登場した次の時代は、絵を描くという行為に藝術の意味が重視される。いつも主張している「私絵画」である。自分の存在を創作にかける充実が、芸術としての行為になる。

 この違いこそ、人間の生きるという意味になる。人間が一日を精一杯に生きるという事に生きる醍醐味がある。有意義な物が作れると言う結果は又別のことになる。つまり結果を求めない。その生きる行為の充実に意味を見いだす。只管打坐である。

 絵画はその生きる充実にかける証のような物だ。人間の行為の痕跡が絵画にあればそれでいい。修行の度合いを他と競べたところで無意味である。自分という物を極め、磨くという意味で、絵を描くという行為がある。こうしたことはどこまでAIが進歩したところで関係が無い。


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中国での有事が想定されている

2024-09-25 04:04:10 | Peace Cafe


 中国での有事リスクへの備えは日本企業にとって重要な課題になっている。中国には一万社を超える日本企業が進出しているのだ。もちろんそんな国は他にはない。日本の経済は中国との関係は、切っても切れないほど重いものになっている。

 貿易額も20年前から輸出輸入共に、中国が一番多い。アメリカとの貿易額は昔は一番だった。しかし現在は中国との貿易額はアメリカの倍近くあるのだ。この現実を忘れて中国を仮想敵国にしている日本政府はどれほど間違っているか。

 日本政府の中国仮想敵国政策とは別のところに、日本と中国の現実がある。日本人学校の生徒が襲われている。日本人学校への非難は広がっている。何万人の日本人が中国でおびえて暮らしている。その原因は放射能汚染水の海洋投棄に対する中国政府の抗議にあると考えられる。

 反日教育の問題があるが、中国政府はそれを正当な歴史教育だと主張して、教育はかなりゆがめられた物になっている。独裁国家であれば、教育を独裁者有利なものにするのはありがちなことだ。それを歪んでいる反日教育というわけがない。しかし、反日意識の高まった暴漢に日本人小学生が殺されたのだ。

 中国では格差社会が深刻化している。極端な富裕層が存在する共同富裕を目的とする、社会主義国家の矛盾。社会から脱落した人間が増え始めている中国。若者が就職できない事で、社会不安が広がり始めている。農村部からの大量の出稼ぎ人口も、働き口を見付けにくくなり、不安定な社会を作り出しているのだろう。

 中国政府は日本を悪者に仕立てたい、国内の不安状況がある。その反日の引き金が汚染水海洋放出問題であった。中国は日本を悪者国家として、やり玉に挙げたいのだ。実際には、中国漁船も東北沖に漁に来ている。間違いなく中国国内の汚染状況は福島沖どころではない。汚染水の放出が魚の放射能が数値を上げるようなことがないくらいは、中国政府も十分承知している。

 日中関係は経済戦争というような深刻な事態なのだ。これはアメリカとの経済関係が主たる物で、日本政府はアメリカの言いなりに、仮想敵国中国路線に進んでいるために、日中関係の対立が深刻化している。その一方で、日本は中国との緊密な経済関係も継続している。中国からの観光客はアメリカ人よりも多い。

 日本の海産物も中国への輸出が大半を占めていたのだ。中国としては輸入禁止にすれば、日本への圧力を高められると考えたのだろう。中国の行った台湾のパイナップル禁止と同じことだ。しかし、それは一時的な対抗策で、結局は台湾のパイナップルも、日本の海産物も新たな販売先を確立する。

 日本企業はこうした経済戦争に対する準備不足を露呈したきた。今後最大の懸念は進出企業が1万社を超える中国での有事対応になる。現地社員の安全確保や経済制裁下での事業継続などの難しい判断を下すには、事前の訓練や中国現地との契約の見直しが欠かせない。

 しかし根本的な解決はアメリカの属国からの自立である。そして中国と友好国になることだ。さすがに独裁国家と仲良く離れないが、敵対せずほどほどの関係を作る必要がある。先ずはアメリカの言いなりで居ないことだ。琉球弧のミサイル基地は止めることだ。

 ここ数年、米中対立などを受けて供給網の再編で、日本企業の中国依存度を下げる動きは進んできたが、本格的な有事を想定した具体策を講じる事のできる企業は少ない。中国に進出している日本企業は2024年6月時点で約1万3千社。政府が仮想敵国政策を止めない限り個別の対応は難しい。

 中国有事への対応は、極端に進出企業の多さから、他国にない難しさもはらむ。多くの日本企業にとって中国からの全面撤退は現実的ではない。事業継続と有事対応の両立が問われる。有事下で事業を継続するには、様々な状況を想定したシナリオ作りや自社の動きの訓練が重要になるが、政府の支援が無い限り不可能なことだろう。

 日本の経済はアメリカとは違う。すでに中国の関係抜きに成り立たない側面が強い。中国と敵対するのではなく、中国との妥協点を見つけ出して行かなくてはならない。また中国との関係改善が、アメリカと中国の経済対立を緩和する事に繋げなければならない。

 経済制裁や輸出入措置への対応も平時から想定して準備しておかなければならない。ロシアのウクライナ侵略では欧米や日本が異例の早さで制裁を発動し、追加制裁も繰り返された。企業は、自社の取引が制裁に該当するのかや取引を停止できるのかなどの分析と判断をすぐに行わなくてはならないのだろう。

 ロシア制裁はアメリカヨーロッパに追随して、素早く対応はしたが、ロシアの経済への影響は限定的な結果になり、むしろヨーロッパ経済への影響が大きく現われた。中国や、インドのロシアとの経済関係の強化に繋がったと言える。経済制裁では軍事侵攻に対して、限定的な結果しかないと言うことだ。

 中国有事を想定することは企業としては当然のことだろうが、むしろ中国との友好関係を国家としてどのように構築するかを考えるべきだ。それを邪魔しているのが、アベ政権が軍国化を目指して行った、日本政府の中国仮想敵国政策である。敵基地攻撃ミサイルは憲法違反である。

 仮想敵国と見なし、敵基地先制攻撃ミサイル基地を、琉球弧全体に広げるアベ政権の憲法違反政策が、中国の反日政策強化に繋がったのだ。アベ政権はただアメリカの言いなりにやらされたのだろうが、それは日本経済の不安定に繋がっているのだ。岸田氏ならと思ったが、全く無能だった。

 中国の覇権主義ばかりが問題にされているが、アメリカの中国経済の圧迫政策も問題の発端なのだ。アメリカ経済が中国経済に追い越されることがはっきりしたために起きたことだ。中国をここで破綻させなければ、アメリカは中国に経済で敗れると言うことなのだ。

 アメリカが中国との緊張を高め続けている。これに応ずるように中国も軍事強化を続けている。そして台湾有事をちらつかせるようになったのだ。それが日本に対する汚染水海洋投棄で、国民的な反日感情を膨らませる結果になってしまった。

 日本経済は中国との関係なしに成長は望めない。日本は東アジアの一国である。アメリカの言いなりになるばかりではなく、日本独自に中国との関係の構築をしなければならない。中国経済が危うくなる中でこそ、日本は関係を再構築すべき良い機会でもある。

 妥協点の模索である。汚染水問題は中国が妥協を示し始めた。日本も妥協すべきだ。敵基地攻撃ミサイル基地を停止すべきだ。石垣市長の中山氏は先日、尖閣諸島に灯台や気象観測所を作れと記者会見をした。全く情勢を読めていない。むしろ、尖閣諸島の所属を国際機関で協議することを提案すべきなのだ。

 尖閣を問題化したのは石原慎太郎駕東京都知事の時だ。軍国勢力があえて問題を作り、日本の軍備強化を図ろうとしてきたのだ。それを一気に進めたのがアベ政権で、石垣市にもそういう国からの派遣の官僚が来ていて、中山市長を軍国市長に仕立て上げている。

 日本の国益を考えれば、武力主義ではだめだ。武力主議ではアメリカの言いなりにならざる得ない。日本の右翼すべてがアメリカの手下なのはそのためである。アベ政権が反日勢力統一教会と連携したのもそのためである。原爆を保有できない日本の宿命なのだ。

 武力を捨てて、中国との平和外交を行い、共存の道を模索すべきだ。中国の有事が想定される今こそ、むしろその努力に意味がある。中国の経済は日本への期待が大きいはずだ。日本の企業も経済のために、リスクを承知で中国に進出している。

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のぼたん農園の次の段階

2024-09-24 04:14:25 | 楽観農園


 のぼたん農園を初めたのは2022年からである。10年計画で進めている。現在2年と9ヶ月が経過した。ほぼ土木工事が終わったというところである。一次計画が終了したところである、準備が終わり、いよいよ自給農業の技術確立に挑戦する所だ。

 3.6ヘクタールの広い農地を管理しきれるかが最初の課題だった。半分を水牛の放牧地にして、今のところかろうじて乗り切っている。水牛は時々外に連れ出して、道路や溜め池回りの草を食べさせている。農場は田んぼ地区、放牧地区、果樹地区、水源林地区、溜め池地区、畑地区と分かれている。

 現在水田は一反2畝だけに減少した。予定では二反の10家族の計画だった。田んぼ自体は二反4畝まで作ったのだが、雨の降らないときにこれだけの広さの管理が出来ないことが分った。水の余裕を見て、現在6箇所のみの耕作にしている。



 残り6箇所が田んぼの形状にはなっている。半分の運用になる。田んぼは最終的に8箇所にして、4箇所は畑として管理できればと考えている。畑も徐々に整備して行きたいので、4箇所の田んぼは下側の畦を壊してしまい。畑としての耕作に向いた作物にしたい。1箇所だけ元の7番田んぼは畑の整備が進んでいる。

 8番9番に当たる田んぼは、水は現在満水である。雨の多い年で水があれば耕作できる可能性はかなり高い。このまま田んぼ形状で進めて、今は土壌作りを兼ねて田芋の栽培をしている。田んぼをやってみたいという仲間が現われたときに、稲作を始めたいと思う。

 それまでは水牛コロバシャの体験田んぼにして、管理をして行きたい。アカウキクサの増殖池としても有用だと思うので、当面はアカウキクサ増殖池であり、ミズオオバコ、水ワラビ、熱帯水連の増殖池として管理して行きたい。将来こうした石垣島の希少植物の販売を考えて行きたいと思っている。



 その意味では溜め池を亜熱帯植物の増殖池にすると良い。一番有望な物が物が熱帯水連である。ティナが広がっているが、特別に管理しているわけではないが、いくらでも増えてくれる。これを上手く増やして、将来苗販売ができると良いのではないか。ミズオオバコや、ミズワラビも食べることが出来る植物である

 畑ではサトウキビ、大豆、小麦と作ったが、大豆小麦は今のところうまく行っていない。石垣に合う品種がない。今後は作りづらい作物を作るよりも、作りやすい作物に限定して行きたいと考えている。そういう意味ではサトウキビが今のところ一番有望である。

 サトウキビについては、水牛でサトウキビ絞りを計画したい。その準備として、すこしづつサトウキビを増やして行きたい。水牛でサトウキビを絞れるようになれば、A放牧地を畑にした部分と小麦畑にした分を合せると三反のサトウキビ畑になるだろう。ここはすべてサトウキビにすれば、それなりの供給量になる。



 将来水牛によるサトウキビ絞りを始めたときの、サトウキビ畑として有効に利用できるはずだ。のぼたん農園に訪ねてきた人が、畑で自分で刈り取ったサトウキビを、水牛を使って絞る。のぼたん農園では、あくまで自給のための体験農場という理念が基本である。

 水牛によるサトウキビ絞り場を作る必要がある。水牛を飼っている以上家畜として利用しなければ、自給農場として矛盾してしまう。水牛を使った農作業を具体化する必要がある。そのためにはサトウキビ絞りは、まず砂糖の自給。そして、自給体験に繋げたい。

 のぼたん農園では島バナナがよくできている。島バナナは格別に美味しいバナナだ。しかも手がかからない。風さえ旨くしのげれば、叢生栽培で十分生育する。バナナをもう少し増やす事ができればと思う。果樹園では枯れたものも多いので、枯れた後にバナナを植えて行けば良いだろう。



 バナナもひと株が3本立ちぐらいになってきたので、もう少しすれば株分けが出来るようになるのではないだろうか。果樹園の中にも、バナナを株分けしてだんだんに増やして行けば、いいだろう。枯れる物は諦めて、作りやすいものにして行く。

 「グァバ」は自然に出てくる。石垣では「バンシルー」とも呼ばれる果物である。華やかな香りが特徴で、沖縄では生食はもちろん、ジュースやジャムなどの加工品にもなる。のぼたん農園では自然に出てきた物が2本ある。旺盛に成長しているので、これも有望な果樹だと思う。

 「グァバ」の畑を一箇所ぐらい作っても良いのかも知れない。風にも強いので畑でまとめて作れるだろう。有望と言えば、ローゼルとレモングラスだろう。雑草に負けないで成長する。これもジャムやジュースとして、ハーブティとして利用できるはずだ。ローゼルも畑一枚に作ると良いだろう。



 難しい物よりも、手をかけないで出来るものが良い。出来ればコーヒーも作り、自給コーヒーも飲んでみたいが、これはまだ先の課題だ。コーヒー畑は半日陰が良いようだから、ヤラブの手前当たりに今度苗を植えてみたい。そのコーヒーの木を下に眺めながら、トゥリーハウスでコーヒーを飲む。

 開園以来、いつかやりたいとみんなで話してきたのが、トゥリーハウスである。直径1mもあるヤラブの大木がある。石垣島で一番大きなヤラブではないだろうか。この巨木にトゥリーハウスが出来れば、海の眺めも良いし、風も通り涼しいはずだ。

 2年9ヶ月経ち、第一次計画が完了し、次の計画が膨らませるところに来た。参加者それぞれに夢が持てるところにまで来た。みんなで協力して互いの夢を実現できるようにして行きたい。そうならなければ、これからの厳しい経済の中で、継続は難しいことになるだろう。



 その意味で一番重要なことが、稲の品種の選定である。今までのぼたん農園では満作の稲がない。今度初めて、圷さんが作ったハッピーヒルは希望がある。こうした気候に適合した品種を見付けて作ること以外、石垣島の自給稲作は無い。

 稲の品種を探すことが最大の課題だろう。その上で、ひこばえ農法とあかうきくさ農法を研究して行く。それが実現できれば、1畝の田んぼで一家族が暮らせる所が最終目標になる。年三回収穫できれば、それも不可能では無いはずだ。

 そして、最後に個人的な将来の目標を描いておけば、鶏を飼うことだ。水牛放牧場の中に移動式鶏小屋を作る。草が無くなれば、小屋を移動する。移動しながら、鶏を飼えば理想的な養鶏が出来るかも知れない。これは最後の夢のような物だが、みんなが協力してくれれば可能になるかも知れない。


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運動靴の時代

2024-09-23 04:06:06 | 身辺雑記


 身につける物に特に興味は無い。服でも帽子でも実用性があればそれで十分である。土台が見苦しい人間だから、汚い服装でもそれ程の違和感はない。だから、身につける物全般に実用以外の興味も無い。しかし、実は一つだけ興味があるものがあるのだ。それが靴である。

 何故靴に興味があるかと言えば、靴は身につける物の中で一番実用性が高い物なのだ。まず一番は長靴である。ほぼ毎日長靴で暮らしている。何かと田んぼや溜め池や水牛池に入らなければならないことが起こるので、その用意と言うことで、農場に居ればほぼ長靴である。

 長靴も色々あって、見た目同じようでも実用性に違いがある。アトリエカーの中に長靴が3足載せてある。田んぼのぬかるみを歩いて、脱げてしまわないような靴が良い長靴だ。しかし、それでいて普段脱ぐときには簡単に脱げなければならない。だから田んぼ靴では日ごろの実用にはならない。

 長靴は今のところミツウマのものがいい。ミツウマの物にも色々ある。現在ミツウマの長靴を4種持っている。使い分けているのだ。そんなことを書こうと思ったわけではなかった。つい長靴に実用からのこだわりがあるので話にづれてしまった。

 東京に行き電車に乗った。前回はトレインテレビにびっくりしたのだが、今回はほとんどの人が運動靴であるのに驚いたのだ。男性なら8割り方運動靴、女性でも6割ぐらいは運動靴ではないかと思う。それは年齢層に関係が無かった。運動靴という言葉にしたのは、履いている物に対する適当な名称が思いつかなかったためだ。

 良い時代が来たと思える。「運動靴の時代」見た目より実質の時代になったと言うことでは無いか。歩きやすく、転びにくい靴が選ばれている。そして社会も運動靴を一定正式な履き物として、受け入れているのだろう。ハイヒールなどそもそも、女性を蔑視したようなおかしな履き物ではないか。飛行機に乗ると、脱出時は脱げとされるような靴を何故履くのか。

 スポーツシューズというものもある。ランニングシューズというものもある。バスケシューズも多かった。最近多いのはウオーキングシューズである。この辺りになると、運動靴と言って良いのかどうかは微妙になるが、ともかくいわゆるビジネスシューズという物を吐いている人は電車では極めて少ない。

 今時はビジネスシューズを履くような人は、車で送り迎えがあるような人限定では無いだろうか。最近はセールスマンであれば、ウオーキングシューズで大丈夫と言うことでは無いだろうか。政治家は身なりを気にする人種だが、ウオーキングシューズを履く人は少ないのではないか。

 ここで言うビジネスシューズのイメージは、私の少ない知識ではリーガルとか、マドラスのブランドが浮んでくるのだが、それも違うのかも知れない。ピカピカに黒光りしている靴である。茶色も無いわけではないが、ほぼ黒光りテカテカ、コチコチである。これがほぼ無くなっている。

 中高生の時代は、革の短靴であった。今の時代で近いと言えばビジネスシューズである。いや警官とか、自衛官、警備員、の活動靴に近いのか。あんな靴を履いている中高生は今は居ないだろう。今は靴が決められているという学校の方が少ないのかも知れない。

 昔は靴底は革で出来ていた。踵の何層にも成っている革底が減ってくると、適切なそうまで剥がして、平らに削り張り替えて貰えたのだ。町には靴底の張り替え屋さんという物は沢山あった。誰でも簡単に始められるから、玄関先ぐらいの狭い場所がお店になっていた。

 歩き方が悪いのか、たぶんがに股なのだろう。靴底の外側ばかりがすり減った。そこで年に何度も張り替えて貰ったような気がする。持って行けば待っている間に張り替えてくれた。その張り替えの作業を見ているのが面白くて、楽しみだった。

 所が今は靴底はゴムで出来ている。ゴムは張り替えるのに、あまり良い素材ではないようだ。だから、今は靴底まで張り替える人は少ないのではないだろうか。町の靴直し屋さんはまず張り替えはしてくれない。メーカーに送って直して貰うのでは、買い換えた方が安いようなことになる。昔は下駄の歯だって、付け替えていたのに。

 古くなって馴染んで良い雰囲気の靴になった頃に、靴底が張り替えて貰えないというのでは、長く味わうことで良くなる靴の皮の感触など、今の時代無意味になる。小田原では居ているクラークスの運動靴など、もう10年も使って良い味になっている。

 短靴という物は自衛官などは今でも履いている。靴底が革で出来ているのかどうかは知らないが、多分ゴム底だろう。見た目では短靴に近いのが安全靴である。爪先の中に、潰されない鋼板が入れてある。今では、硬質のプラステックなのだろう。潰れる重さのJIS規格があって作業によって強度が違う。

 私は緑安全靴を履いている。これが想像以上には来やすい靴に変っているのには驚く。水牛が足を踏みそうな作業では使う。水牛は承知で足を踏むことがある。気付かないふりをしてわざと踏むと思える。水牛の足には微妙な感触があり、踏む寸前にかわすことが可能なのだ。ワカバが子供を産んだ後、いかにも踏みそうなのに、さっとかわすので気付いた。

 ここからやっと書きたかった話だ。靴を沢山持っている。イメルダスカルノ夫人ほどではないが、20足ぐらいはあると思う。と言っても別段高級靴ではない。と言っても安物の靴でもない。そもそも電車の中では高級靴など見たこともない。あの気取ったドレスシューズは特に耐えがたい。あんな物は誰がどこで履くのだろうか。

 ブランド物の高級革靴に興味があるわけではない。私が興味がある靴は長年Clarks のウオーキングシューズだった。Nature Three / ネイチャースリーと書いてある。長年クラークスのこの靴ばかり履いてきた。最もオーソドックスの靴だと思っていた。今も5,6足はあるので、多分歩ける間はもう買わないでもこれで十分だろう。

 何故クラークスをはいてきたかと言えば、足がそれが良いと言うからだ。足に馴染む。だめな足なので、靴擦れが出来るのだ。何故英国の靴が日本人の足に合うのかは分らないが、私にはそれが良かった。もちろん見た目も好きだったのだ。革が馴染んで行く様子が良いのだ。革は古くなればなるほど美しくなる。

 これは子供の頃野球のグローブを買って貰い。嬉しくて寝床の中まで持ち込んでいた。毎日グローブ油で磨いて知ったことだ。革は使い込めば使い込むほど、飴色になって馴染んで美しくなる。グローブで言えば手に馴染む。革靴も同じで、足に馴染んでくる。履き皺が出来てくる。これが出来たら使わないという人も居るのだろうが、私はそれが好きなのだ。

 そして最近はファインコンフォートの靴を履いている。こちらはドイツ製である。この靴は土踏まずが高くて、履き慣れると姿勢が良くなる。いかにも健康靴なのだ。歳をとり姿勢が悪くなりがちだから、できるだけ、この靴を履くようにしている。靴のデザインも悪くない。

 それからBIRKENSTOCKビルケンストックの靴もいくつかある。これもドイツの靴だ。親指の長い変ったホルムだが、確かに足の指が楽な靴だ。ドイツの靴はしっかり作られていて、それでいて履き心地も悪くないのだ。この靴も革の質が良く、使い込んだ方が美しくなる靴だ。

 日々使っている物は大抵の物は日本製品なのだが、どうも靴だけは英国か、ドイツが良い。革製品は日本ではまだ良いものが作れないのかもしれない。これが伝統の革靴の価値なのかも知れない。アシックスのプラダという革のウオーキングシューズがあり、試しに履いてみた。

 もう2年ほど持っているのだが、あまり使わないせいか、だんだん古びてきただけで、革が馴染んできたとは言えない。アシックスのスポーツシューズは良いと思うが、どうも革靴に関しては、まだ革の質に差があるような気がしている。もちろんこれはヨレヨレが好きな私の個人的な観点に過ぎないが。

 
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270 水彩画 日曜展示

2024-09-22 04:00:16 | 水彩画
270 水彩画 日曜展示





566「崎枝の田んぼ」
2024.9 中判全紙








567「草の海」
2024.9 中判全紙








568「海まで」
2024.9 中判全紙









569「耕作地」
2024.9 中判全紙

 
 東京都美術館での水彩人展が終わり、17日に石垣に戻った。戻ってから絵を描いていた気がする。水彩人展の会場を毎日過ごして、自分の絵をもっと進めなければならないと、あらためて感じていた。描く眼から、見る眼に代わって感じたことだ。

 石垣島は9月21日でも相変わらず暑すぎて、あまり農作業も出来ない。アトリエ車の中で、絵を描いて忽ち一日が過ぎて行く。絵を十分描ければそれでいいのだが、どうだったのだろうか。今までに無い作品が表れてくれればと思うのだが。絵が様々になっていることが分る。

 絵には悲しみや、苦しみを表現するものもある。私は生きる喜びが絵に表れてもらいたいと思っている。生きると言うことが、心底楽しいと思えるような絵になればと思う。自給農業、水牛放牧、ひこばえ農法、興味深い毎日である。この喜びは絵に繋がっていると思うのだが。


 
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影のない風景

2024-09-21 04:49:57 | 水彩画


 石垣島北部地区。飛行機が飛び立つと見える景色である。とがった山が野底だけだ。そして遠くに見るのが、のぼたん農園のある崎枝半島である。

 飛行機に乗るときには必ず、窓側の席に座る。窓から外を見続けている。上空から見る景色がおもしろくて仕方がないのだ。月に一回石垣島から小田原を往復して居るのだから、もう100回は飛行機に乗っていることになるはずだが、少しも興味は減らない。

 昔から俯瞰の景色に興味があった。それは山梨の甲府盆地の縁の高いところに生まれたからだと思っていた。盆地をいつも見下ろす風景を眺めていた。それで俯瞰の視点が身についたのだと思っていた。どうもそれだけでは無かったと言うことが、飛行機に乗っていて、感じるようになった。

 見ることがそもそも好きだと言うことがある。見る喜びは生きる喜びのかなりの部分を占めている。目が徐々に悪くなっているので、なおさら見ることに未練がある。のぼたん農園で景色を見ていれば、一日飽きることが無いのは、見ることが喜びになっているからだろう。

 だから、飛行機では外が見たくなる。飛行機の窓の外の雲を見ているだけで面白くて仕方がない。雲は天才だというが、あんな自由な造形はまず無い。どんどん変化してそれだけでも面白くて仕方がない。もちろん、上空から見下ろして島が見えたときには凝視してしまう。島が描いている形が実に興味深い。

 人家が見える。一箇所に集中している島もある。島中に散らばって暮らしている島もある。かならず港が上手く作られている。2箇所ある島もある。森がある。畑がある。道路があり、飛行場がある島が多い。珊瑚礁の輪がエメラルドの海で美しく輪になって取り囲む島もある。

 どの島も形が実にいい。自然に出来たものは完成している。島には人間の暮らしがすべて、そこに収まっている。何故上から見る島が面白いのかなど考えても居なかったのだが、それは俯瞰の景色が身体に入っていると言うことかと思っていたのだが、どうもそうではないようなのだ。

 上から見る島は、影という物がないのだ。太陽と島との間に飛行機が居る。物に影がないと、物は図柄になる。絵のように見えると言っても良い。真上から見た地上は模様のように見える。例えば、畑の色や形の組み合わせは、色面構成のように見えてくる。しかもその色面の一つ一つに、物語が籠っている。

 果てしない海という平面の中に描かれた島という図。この美しさには感動する。息をのむ。忽ち島を通り越してしまうので、目に焼き付けることにしている。写真も撮るのだが、写真ではやはりあの感じとは違う。写真で見る島はそれ程の物でもない。

 どうも飛行機によって飛ぶコースが違う。多良間島の真上を通るときもあれば、それるときもある。宮古島や沖縄本島も飛ぶ位置がいつも違う。辺野古の真上を通ったときにはここに米軍基地が出来るのかと、許しがたい気持ちになった。その後辺野古上空を通ったことはない。

 その後も、奄美群島付近の様々な島の上空を通る。何度見てもいつも引き込まれてしまう。ゆっくり飛んでくれれば良いのだが、忽ちに通り過ぎて行く。この島の姿は絵に出てきているのだと思う。記憶で絵を描いているから、記憶の底に島の姿はあるのだと思う。

 石垣島の景色も影がなくなる季節がある。夏至前後の景色である。次の夏至は2025年6月21日土曜日 11:41 とある。夏至前後の風景では影が消えていることがある。上空から見たのと同じように、見ている景色が立体感を失い、平面の図柄のように見える。

 つまり絵に描いたような姿が、目の前に現われる。これが何かの方角を示しているような気がして成らない。まだ良く理解したわけではないのだが、絵を描くと言うことは、平面の上に図柄を描くと言うことで、物の立体や奥行というようなことは、むしろ邪魔な物になるという事。

 9月の21日だから、もう陽射しはアトリエカーの窓からかなり奥まで入り込んでくる。影のない景色を眺めることはまた来年まで待たなければならない。記憶の中には影のない景色が溜まっている。影のある目の前の景色は参考と言うことになる。

 これは右目が緑内障でよく見えなくなり始めていると言うことも関係しているのかも知れない。片目で観る世界は立体感がなくなる。平面的な図柄が、絵の図柄になるのかも知れない。自分の風景を描くことが方角なのだから、何でも気になる事をやってみることになる。

 陰がないと言うことのもう一つの意味は説明がないと言うことになる。物を説明するために陰影を付けるという役割がある。この説明が無意味だというのが、絵の考え方だ。絵は説明ではないと言うこと。絵は核心だけを描く物で、そのものの補足説明はしない。

 それは物の材質感とか、感触というような物も絵の上では邪魔なものになる。説明があればあるほど、絵の本質から離れて行く。絵の具の色と、簡単な図形に還元した物を、画面の上で構成する事が絵と言うこと。それだけで自分の世界を表現しなければならない。

 そこには曖昧なにじみとか、ぼかしとか言うものも極力避けた方が良い。だからそれは陰のない世界に似ているのだ。リンゴを書いて、リンゴが丸い立体であるというようなことがいらない。リンゴは囓ったら汁が出るというようなことも、私の絵ではいらない。

 あくまで画面上の色の組み合わせと形の組み合わせに還元されてゆく。だからといってものの意味がいらないわけではない。上空からの視覚の色面がサトウキビの畑であるということは、分らなければその色面の魅力も失われる。物の形に意味があるということが風景の面白さなのだ。

 図形化された物に伴う、意味があるとすればあるというぐらいの説明ではない意味づけである。見るものが煩わしくない限界にある意味。図柄寸前の物の意味づけ。どこかに意味の暗示が残されていれば、見るものは色面や線や点を意味付けをして見ることに成る。

 この矛盾というか思い込みのような物が、絵の面白さなのかも知れない。分らないと分るの境目辺りに絵はあるのかもしれない。分ってしまえばつまらない。分らなければもっとつまらない。分りそうで分らない。分らないけれどなんとなく感じる。この辺りに絵という物はあるのかもしれない。

 陰が消えるというのも意味を曖昧にするために必要なことなのだろう。色面の絵画に何故成るのかと言えば、説明をしたくないからだろう。説明をしている絵が、下品だと感じるからだ。最近は説明だけの絵らしきものが多いわけだが、文化の衰退がそうした物を絵だとしている。

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深せんで日本人学校の生徒が殺傷される

2024-09-20 04:16:43 | Peace Cafe
 

 中国南部・広東省深圳市の深圳日本人学校に通う10歳の男児が襲われて死亡した 。相次いで日本人学校の生徒が狙われている。中国には日本人学校が15校ある。世界一多い。特に上海には2校あり、マンモス校と言われるほど児童数が多い。小中高校があり、日本の学校と同様の教育を行っている。

 保護者は企業の駐在員がほとんどで、90年代後半から大手自動車メーカー3社と周辺企業が進出した広州など、認定校の増加は日本企業の中国進出ブームとほぼ連動している。 この日本人学校に対する批判が最近起きている。反日教育の結果だろう。敵を作り国民を鼓舞することは止めるべきだ。

 ネットでは配信者の男性が日本人学校脇の防犯カメラなどを見上げ、日本人学校はなぜこんなに閉鎖的なのかなどと話す。そのコメント欄には「なぜ中国に日本人学校が多いのか」「なぜ閉鎖しないのか」「中国の法規に従って認可を受けているのか」「中国人が入学できないのはおかしい」といった内容が書かれているらしい。

 以上の流れにある日本批判のテーマは「靖国神社」「軍国主義」「尖閣諸島」。昨年はこれが放射線への不安を煽る「福島原発の処理水放出」が加わった。未だに海産物の輸入は禁止である。と言いながら中国漁船の日本沿岸量は続いている。日本への電話攻撃が必要に行われている。中国の日本人学校にも石や卵が投げ込まれている。

 日中関係が日に日に悪化して行くことが実に悲しい。その原因は中国では就職できない若者が増加していることにあると考えられる。そして、失業者が徐々に増加していること。社会不安が増し始めている。高度成長にひずみがここに来て深刻化してきたことがある。

 一番のひずみは、経済格差だろう。中国は一応は共産党が一党支配しているのだから、共産主義国と考えて良いのだろう。何故共同富裕を掲げる国で、なぜ極端な富裕層と貧困層が存在しているのかである。しかも、その格差は日増しに深刻化している。

 これを解消できないとすれば、社会不安はさらに深刻化するだろう。日本人が狙われているのも確かではあるが、実際にこうした通り魔的な犯罪も増加しているらしい。特に日本人の小学生が狙われる背景には反日政策を政府が取っている事が影響していると考えなければ成らない。

 中国国内の不満層の不満の方向を政府に来ないように操作している。「日本が悪い、だから自分の暮らしが良くならない。」そうなると、現地の日本人が一番標的になりやすい。当分の間、中国に行くことはないだろう。今書いているこの文章すら、検閲の対象のはずだ。

 問題は習近平の独裁政治にある。習近平が正しいか間違っているか、その判断以前に独裁政治の国では、こうしたひずみが起き始めるのは確かだ。急速な経済成長を成し遂げた習近平は驚異的に有能なのだと思う。しかし、優秀であればあるほど、その独裁のひずみは深まる。

 中国経済は鈍化し始めた。それは当たり前の事で、あれほどの高度成長を続けてきた国が、どこかで成長速度が下がるのは経済の原理から言って当たり前の事だ。その時に様々な問題点が表面化してくる。特に中国はやり過ぎていたのだから、ひずみは大きく表れる。

 不動産価格の下落はよく言われるが、これは富裕層の問題である。不動産投資をできるような人はごく一部の人だ。格差の問題は社会全般に根深く広がっているはずだ。特に都市部と農村部の経済格差が深刻化しているのだと思う。所得の差は半分以下である。農村部の貧困は固定化されていて、希望がない。

 都市と農村の生活格差は40年間是正されていないとすると、私が農村部を訪ねた頃と農村の暮らしは変わっていないと言うことになる。その一方で、都市部の豊かさは、日本生活以上のものがある。30年前には上海でも当たり前のコーヒーを飲むことが出来なかった。持って行ったコーヒーを飲んでいた。

 日本であれば、地方の消滅である。所が農村部の戸籍の人間は、原則として都市部に移住は出来ないことになっている。と言っても豊かな都市部に出て、お金を稼ぎたいという人が、都市部に無戸籍になって出てくる。出稼ぎ農民の救済が政府の方針でもある。都市部には無職の人間があふれ出している。

 政府の方針を読むと、農村部の疲弊をどうやって救済するかが、繰返し出ている。しかし、それは実現できないまま、より深刻さを増していると見るほかない。以下の精神生活の共同富裕という考えは注目に値する。問題は理想と現実の乖離である。

人民の精神生活の共同富裕を促進する。
  • 社会主義核心的価値観(注3)による指導を強化し、人民大衆の多様な精神文化のニーズを絶えず満たす。
  • 共同富裕促進の世論誘導を強化し、共同富裕の促進に好ましい世論環境を提供する。
 (注3)社会主義核心的価値観とは、富強、民主、文明、和諧、自由、平等、公正、法治、愛国、敬業、誠信、友善のことで、2012年11月、中国共産党第18回全国代表大会における胡錦濤総書記(当時)の報告の中で初めて提示された。 
 
 中国ではどれほどの絵空事が唱えられているのかと思う。共同富裕を優先すれば、経済成長は鈍化する。富を集中させることで、国際競争力を高めてきた。富裕層を叩いて、分配を重視すれば、国としての経済成長は鈍化する。習近平政権は今この経済の舵取りに、苦しんでいるように見える。

 それが、ロシアと言う暴虐国家との連携になっている。経済を重視すると言うことは、アメリカとの経済競争に勝たなければならないと言うことだろう。アメリカもヨーロッパも、そして日本も、中国をこれ以上経済成長させないように、連携して対抗している。

 国家資本主議が自由主義経済の中で、優位と言うことなのだ。資本を集中できるのだから当然のことだ。中国は圧倒的な労働人口で競争に勝利をしてきた。ところが、労働人口で競争を有利にすることでは、インドや東アジアの国、そしてアフリカ新興国が、中国を凌駕しようとしている。

 世界全体で見れば、資本主義は限界に達し、成長はもうわずかな余地しか無くなっているのだろう。もう昨日より今日が豊かという資本主義経済の成長神話は失われたのだ。それがロシアの軍事侵攻であり、中国の覇権主義となっている。人を潰さなければ自分の生きる道がない。

 このままでは、世界は崩壊に向かう。習近平が示した精神主義は実態と乖離がすさまじい。国が国民の自由を奪い、監視社会になっている。今回の日本人学校の生徒の殺害も、報道は制限されている。人民の精神生活は枯渇している。あの精神性の深い中国人はもう少数派なのだろう。

 それは中国の習近平の後ろにある巨大な絵画が文化や精神の枯渇を表わしている。日本も絵画文化の衰退は同様であり、まるで中国を追随するような物が出現し始めている。あのこけ脅かしの中に、中国の精神の貧困があるように見えてくる。
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新米が出てきたがお米が高い。本当に高いのか。

2024-09-19 04:21:51 | 暮らし


 新米が出てきたがお米が高い。本当に高いのか。農林水産省は8月のコメの各銘柄の平均卸売価格が、前年同月より17%高い60キログラム当たり1万6133円だったと発表した。60キロが一俵で、分りにくいがお米の価格は公表される物だ。

 8月の平均卸売価格は、これまで13年の1万6127円が最高だった。過去最高価格だから嬉しいと農家が喜ぶだろうか。何しろ、10年以上前の価格よりも一俵で6円高いだけの話なのだ。物価と較べてどうだろうか。5キログラムの新米を、3千円超で販売されている。

 ご飯一膳65グラム程度である。40円が小売価格と言うことになる。これが高いという価格なのだろうか。他の食品に較べれば安い。パンならば食パン一枚と同じくらいだが、目方で較べれば、二枚少しで一膳分のお米になる。お米が高くなったと言っても、パンはお米の倍の価格なのだ。

 これを三菱総研の試算ではパンもご飯もほぼ同じ価格だとしている。全くどういう研究をしているのかと思う。お米に悪意があるのだ。カロリーで比べて見れば、ご飯が234グラムで、食パンは160グルムである。価格で見れば、さらに大差が付く。

 池田総理大臣が「貧乏人は麦を食え。」こんなことを60年前には答弁して大騒ぎが起きたことがあった。まさに「貧乏人は米を食え。」が今の時代なのだ。何故、米が高いと新聞やテレビや三菱総研では報道しているのだろうか。物の値段が分らないのだろうか。あるいは何か意図があるのだろうか。

 昔、と言うか戦後の食糧難時代、農家が豊かになった時代がある。食べるものを求めて都会から買い出しに出掛けた時代である。食べ物を作れば高く売れた時代があった。どんどん農村が豊かになった。お米は配給制度があった。朝の連ドラでも話題になった、配給以外食べないで、栄養失調で亡くなられた判事の方がおられたのだ。

 食管制度という物が出来た。お米の買い取り制度で、価格は政府が取り決めたのだ。米作農家にお米をどんどん作って貰わなければ、食糧が足りない時代があったのだ。米あまりになり、と言うか日本人が昔の半分以下しか、お米を食べなくなり、余るようになった。

 その結果何が起きたかと言えば、中小農家の離農である。中山間地の地域崩壊である。政府はスマート農業推進を主張している。確かにそれも悪くはない。しかし、誰がどう考えても日本の中山間地はスマート農業には不向きな地形である。

 日本の稲作を大規模スマート農家だけに任せて大丈夫と考えて良いのかである。私は無理だと考えている。半分ぐらいまでは何とかなるだろう。しかし、半分は中山間地の農家を維持して、生産して貰わなければならない。非効率であるのは分るが、それが日本の環境保全であり、国土保全なのだ。

 中山間地の稲作を維持することが、国の食料安全保障である。国土保全計画でもある。地方創生計画でもある。それが瑞穂の国日本の文化である。直接支払いを基本にすえる以外に、条件不利地域の農業を維持する方法はない。直接支払いをしなければ、さらに離農して、地方の社会は消滅することになる。

 この基本にある思想は、食料は自給しなければならないという考え方である。これは国是である。そのためにはお米はまだ安いのだ。せめてパンと同じまで上げる必要がある。安心してお米を作れる状態にしなければ、さらに中山間地の農家が減少する。それを良しとするのが、自民党政権の本音なのだ。

 昔は農家を守るのが、自民党だったのだが、今や農家を離農させるのが自民党なのだ。それは農家はパーティー券を買わないし、票数も知れている。むしろ旗を立てて国会にも押しかけない。裏金自民党にはもういらない人達になっている。食料を作る人達が国の大本である事を忘れているのだ。

 農家の人は間違っても、つまり昔は自民党支持だったのでつい間違えやすいのだが、自民党には投票しない方が良い。自民党は普通の農家を減らすことしか考えていない。そして、大規模企業農家だけにしたいと考えているのだ。政府の出す政策を見ればすべてがそこに向かっている。

 日本の中山間地の農業を維持させなければならない。政府も口先では似たようなことを口にする。しかし、具体的な農業政策を見て行くと、どうやれば中山間地の農業が維持されるかの見通しがない。だからどんどん減少しているのだ。多分本音はなくなっても仕方がないと考えている。

 食糧自給率も一貫して増加させると口先では主張する。しかし、現実には増えることがない。当然のことで、離農者が増えていて、新規就農者が増えない。農業従事者が他の産業とは較べられないほど減少しているのだ。いくら機械化と言っても中山間地ではすでに限界状態なのだ。

 地方創生も口先では主張している。しかし、現実には地方の人口は減り続けている。仕事が無いからである。地方で暮らしたいと考える人は居ないわけではない。都会のコンクリートに固められた暮らしに限界を感じる人は今後も増加するに違いない。過密の都会は子供の成長には良いとは言えない環境なのだ。

 政府は地方社会に仕事を作らなければならない。企業を誘致するとか、観光産業とか、色々あるだろうが、まず第一にやれるし、やらなければならないのものが、農業である。その基盤はすでに整っているのだから、どうすれば普通の農家が暮らせるように出来るかだけだ。

 まず稲作が基本である。食料の安全保障と組み合わせて考えなければ成らない。中山間地の農家に対して直接支払いを行うこと。政府は企業的農家の支援ばかり頭にあるので、邪魔になると考えているのだろうが、共存できる方法はある。

 すでに農家への直接支払制度はある。これが上手く機能していない。お金を支援するのも一定必要だが、それよりも営農の支援が重要である。直接支払いはわずかな保障で、しかも申請が実に面倒くさい。田んぼをやって貰うだけで暮らして行けるぐらいでなければ、誰も新規就農など出来ない。

 特に、新規就農者の支援制度はグジュウグジュである。農家の顔だけして、生産を本気でやらない人が実に多い。これが制度を破綻させている。本気で農家をやる人を支援しなければ意味が無い。農業をやれば支援を受けられるという制度設計にしなければならない。

 地域に小規模な製粉所や精米所を作る。昔は地域地域に水車小屋があったのだ。農業機械の貸出制度を作り、農業機械を地域の農業者に無償で貸し出す。農地の政府所有を増やし貸し出す。生産物の販売支援を行う。農家が必要とすることを、親身になり具体的に支援することだ。

 お米はまだまだ安過ぎる。食料は生きるために必要不可欠な物だ。これを国が確保するのは、安全保障上の義務である。日本人がまた中山間地に暮らせるようにするのも、国は本気で考える必要がある。アベ政権の悪政から何とか抜け出さなくてはならない。

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移民がペットを食べている。デマ

2024-09-18 04:32:17 | Peace Cafe


 トランプアメリカ大統領候補はなんと、「移民がペットを食ベている。」というデマを大統領候補のテレビ討論の中で、口走った。トランプ氏は13日の演説で「(当選したら)大規模な強制送還をスプリングフィールドから始める」と言い放った。 こんな発言にもかかわらず、トランプ氏の支持率は変わらないらしい。

 トランプ氏の過激発言は計算されつくしている。トランプ支持者の意識である。過激であればあるほど投票したくなるのだ。しかも、真実であろうがなかろうが、移民をたたく発言であれば、大歓迎なのだ。討論と言ってもハリス氏を戦う訳ではない。論理で戦えば負ける。そこで、でたらめを発言して極右支持勢力をつなぎとめようとした。

 こんなでたらめの発言を根拠もなく口にする人が大統領候補であるという、アメリカの社会の病巣に驚くばかりである。しかもこの発言はいまだ撤回されていない。なんとイーロンマスク氏はこの発言を拡散しているそうだ。あの議会侵入事件と同じだ。これはうっかりした発言ではなく、大統領選挙に向けた戦略と考えなくてはならない。

 共和党の副大統領候補でオハイオ州選出のJ・D・バンス上院議員が9日、Xの投稿で、ハイチからの不法移民がスプリングフィールドに混乱を起こしていると主張し、ペットがさらわれ、食べられているとの報告があると訴えた。 これも戦略上の発言だ。

 大統領選挙が劣勢のため、こんな悪質な戦略を展開していると考えなくてはならない。生成AIで作成されたとみられるトランプ氏が猫を抱き黒人男性から逃げたり、ハリス氏が猫をフライパンにのせ調理したりしている画像も広がっているという。こんな劣悪な選挙戦略が通用するのが今のアメリカ人の実態なのだ。

 ひどすぎる社会である。もしトラが実に危険なことになるかを示している。アメリカ国民の皆さんしっかりしてください。悪質なデマ情報を大統領候補が口にしたらどうなるのだろうか。今回だって、トランプが言うのだから、本当かもしれないと信じた人は多いのではないか。

 これでは移民の人の命が危うい。選挙で負けたときもそうだった。議会に暴動がなだれ込み死者まで出たのだ。もし、たとえ犬を食べた人がいたとしても、こんな形で公表し、批判をするのは犯罪行為である。これで罪のない移民の人が危険にさらされているのだ。こうなることをわかっていてやっている。

 トランプが異常人格者であるのか、虚言僻なのか、あるいは扇動家なのか。それは分からないが、アメリカにはこんな発言で、銃の乱射をしかねない人間がいるのだ。冷静な、うそをつかない大統領がどうしても必要だ。しかし、アメリカの有権者はこんなデマを信じたいと考える人が、かなりいるのだ。

 世界は日に日に状況が悪くなっている。社会は分断し、敵を作らなければ保てない世界なのだ。あいつが悪いから、自分たちの暮らしが苦しいのだと思い込んでいる。自分の何かに問題があるとは考えない。何か問題があれば、人のせいにしてしまう。弱いもののせいにしてしまう。

 確かに難民の問題はある。文化も歴史も、生活そのものが違うものが、隣り合わせに同じ場所で暮らしてゆくわけだ。犬を食べる民族だって、死んだ家族を食べる歴史のある民族だっているわけだ。ペットを食べているなどと思い込むものが現れる。

 日本は外国人労働者を準備なく入れようとしている。それは労働人口が減少しているという、国内事情から生じた経済の都合である。経済のために、何でもやろうというのが、日本政府の方針である。社会はまだこの問題を外国人とともに暮らす社会を理解すらしていない。

 遠からずアメリカと似たような問題が出てくる。この2週間上野界隈にいたわけだ。外国人が増えたと思う。石垣島もそうなのだが、2割ぐらいが外国人の社会である。水彩人にも世界からのお客さんが見えている。国名を記載してもらっているのだが、何と40か国以上あったのだ。

 水彩人展でも、題名の英語表記はしている。本気で外国語表示をしなければならないとつくづく思った。まず「Entrance fee」や「admission fee 」ぐらいは表記しなければならない。英語の分かる方あるいは通訳機能付きのスマホでの案内係の対応が必要かもしれない。

 トランプの発言で思い出したのが、関東大震災での「朝鮮人が井戸に毒を入れて歩いている。」このデマ事件を思い出した。この震災虐殺事件をなかったことにしたいという動きがある。朝鮮人の方で殺害された人の数は834名が確認されたとあるが、数字が様々で分からない。慰霊碑には6000人という数字が記載されている。

 この朝鮮人慰霊碑の前で、日朝協会などでつくる実行委員会が74年から毎年、大震災のあった9月1日に追悼式典を開き、歴代都知事が追悼文を寄せてきた。小池百合子氏も16年の初当選直後には送ったが、17年からとりやめた。何故なのだろうか。
 
 都知事選の踏み絵になっている傾向がある。票を取るためにはどちらが良いかの選択なのだと思う。いま日本ではこの思い出したくない事件を葬り去りたいという有権者の方が多くなったということではないか。分断の社会は日本でも始まっているのだ。

 社会は、能力主義の競争を勝ち抜いた「勝ち組」が傲慢ごうまんになり、置き去りにされた人々に優しさを示さない社会になってきたのではないか。 ホリエモン時代と名付けてきた。その後、続々とホリエモン後継者がもてはやされる時代が来ている。

 「だめでもいいじゃん」である。競争に負けたものが、社会で差別を受けるような社会は間違っている。アメリカで起きたことは日本でも必ず起こる。同じ道を進んでいるのだ。能力主義が限界に達したのだ。資本主義の末期的現象である。

 社会が階層化し、階級化して、分断が起きている。日本の大企どう業の社長の報酬が低いと言って、億を超える給与をもらうようになった。私は道義がないと思う。倫理がないと思う。先日国会議員が使えるお金が月に20万から、30万円だと高市早苗氏が不満を叫んでいた。

 この人には20万30万で暮らしている庶民の暮らしが想像できない。何が文句があるのか。いやならやめればいいじゃないか。世間には20万から30万円で暮らしている人の方が多いのだ。国民が苦しんでいるのであれば、国会議員が高級を取る必要などない。

 道徳のある社会に戻るべきだ。その先頭に立つのが、国会議員ではないのか。20万円30万円でというが、一体政府の交付金はどこに行ったのだ。おかしいではないか。自叙伝によるとずいぶん贅沢をしていたではないか。あの暮らしは20マン30万円では無理だ。あの金はどこから出たのだろうか。
 
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