日本が瀬戸際にあることだけは誰にでも見えてきただろう。日本が瀬戸際にあると考えたのは1970年である。ここで日本は方角をかけなければ、日本ではなくなるだろうと思った。あれから55年も同じことを思い続けて生きてきた。金沢大学での4年間どうすればいいかと考え続けていた。
そして、絵を描くことにした。全くおかしな話なのだが、絵に逃げたというわけではなく。絵を描く以外に日本の方角は正せないと、そんな馬鹿げたことを考えたのだ。どういう妄想かと思うが、今でもその妄想が間違ってはいなかったと思える。
一枚の絵によりに一人の人間を変えることができないのであれば、日本が変わるというようなことはない。一人一人の人間が重なり合い、日本という国はできている。人間が変わらなければ、何も変わらない。人間を変え得るのは芸術以外にないと思いつめたのだ。
人間を変えることができるような力のある絵を描くためには、自分という人間にそんな力がなければあり得ないことだと思えた。しかし、そんな神のような人間どころか、無能などうしようもない人間が妄想を抱いているに過ぎないことは分かっていた。
あれからあがいて生きてきた。絵をやめようと思い、次にどうしても書かざる得ないほど、描きたくなるまでは絵を描かないと決めて、描かなかった時期もある。そして、自分の身体は食べるもので出来ている。この食べているものを自分の手だけで作れるのかと考えた。
人間は自分の力だけで生きることはできるのか。そう思い、山北の山の中で自給自足の挑戦を始めた。化石燃料は使わず、自分の体力だけで挑戦を始めた。5年間でできなければ野垂れ死にすればいいと軽く考えた。それができたのだ。誰にも教わったことはない。自己流で田んぼを作り、鶏を飼い、弱っちい肉体で挑戦した。
それが意外に簡単に実現できた。そうか人間はここに帰れば怖いものはないということだったのだ。縄文人である。なぜ自分の体験から描いたのかと言えば、日本が瀬戸際にあるということだ。瀬戸際に立っているとすれば、自給自足の原点に立つことだ。
河合雅司氏という人が、今の日本が瀬戸際にあるという指摘をしていたのだ。そうか55年前に私が考えたことを、今になって考えてももう到底遅い。という感想を持った。人口が減少するだろうなどということは、55年前にわかっていたが、誰も手は打てなかったのだ。
私はその瀬戸際に立ち、まず人を変えることができるような絵を描かなければならないと考えてしまった。恥ずかしいことだが、それは今もそう思って絵を描いて居るのだ。55年間も続けてきて、何もできていないにもかかわらずである。しかも今でもあきらめていないのだ。
河合雅司氏は「2030年には百貨店も銀行も老人ホームも地方から消える」ことや、「今後東京で高齢者が増えることで手術が半年待ちになる」 2043年には水道代が1.4倍以上になる 「2030年には大型ショッピングモールは維持できなくなる。」などと言われている。
それで人間が生きる上で何が困るのだろうか。ショッピングモールや百貨店や水道や病院や老人ホームなどなくても江戸時代の人は生きていたのだ。江戸時代はこんなに人が多くなかったから、できたのかもしれないが、私の試算では8000万人までなら、日本列島で生きていける。
一人の人間は100坪の土地で、毎日1時間働けば、生きていける。これが私が35年かけて行った。実証実験の結果である。その実情を知りたいと思うのであれば、あしがら農の会か、のぼたん農園で実践しているので、見て頂きたい。それだけのことである。
なぜ病院がなければ、生きていけないと考えてしまうのか。死ぬときには死ねばいいという覚悟さえすれば大丈夫だ。もちろん自分の健康は自分が責任を持たなければならない。健康診断を受けるよりも、体重計の方が役に立つ。体の自己測定を続けることだ。
私の体重は現在54,3キロである。これから上下1キロ程度で、40年間推移している。身長は最近測ってはいないが、171㎝だったが少し小さくなったぐらいだろう。自己管理である。医療よりに頼るよりも、最善を尽くして、あとはゆだねることだ。結局は死ぬのだ。
何が瀬戸際かと言えば、怪しい熱情が始まっていることだ。選挙がいかにもおかしい。斎藤兵庫県知事が内部通報者を一方的に処分した、犯罪者であるにもかかわらず、選挙で選択されたのだ。ヒットラーが選挙で選ばれたという事実を見せられたような気がした。
人間が何かの熱情に取り込まれる。それに対して報道が批判精神をもって発信する力がない。人間はだめなものなのかもしれないと、思わざる得ない現象がいま日本社会でも起き始めたのだ。アメリカではトランプ現象である。ロシアの狂気、イスラエルの狂気、何か空気伝染してゆく未知の汚染が始まっているかのようだ。
世界が瀬戸際に来たのかもしれない。と言ってもこうしたことを繰り返してきたのが人間なのだろう。地球を崩壊させるような武力を持ってい待ったという所が、今回の一番の利きだろう。それでも人類は何とか乗り越えてきたのだから、今回も乗り切れるかもしれない。
今回の瀬戸際はコンピューター革命が一番なのだろう。蒸気機関の産業革命に匹敵する革命が進行中と言えるだろう。人間の暮らしが大きく変わろうとしている。この新しい社会の変化に、人間が今のところ対応ができていない。この未来が見えない状況が、人口の歯止めになったのだろう。
この新しい状況に対して、ショッピングモールがなくなるとか、病院がなくなるなど、どうでもいいこととしか私には思えない。次の時代にどう生きるのかが問われているのだ。その答えがまるで陳腐なのだ。日本語をやめて英語にしろと言った、明治維新の愚かさが再現されている。
時代の変化が速すぎるのだろう。感覚の変化が追い付かないのだ。感じる力が狂い始めているために、異様な情熱に取り込まれるのではないだろうか。こういう時代の変わり目こそ、社会からできるだけ距離を取り、俯瞰的にみることだ。そして小さなどうでもいい、ショッピングモールがなくなるなどということに動揺しないことだ。