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不労所得を政府が推奨している。ニーサとか、FXとか言葉は聞いたことがあるが、意味は分らない。知りたくもない。どうせ政府の悪巧みにしか思えない。政府が、老人が不安で銀行貯金を貯め込んでいるのを、株式投資に回させようと言うことかと理解している。
銀行貯金は物価が上がり、目減りするだけだから、有利な投資をしろと言うのだ。それに乗せられて、貯金を吐き出している老人も多いのだろう。老人ならまだ良い、先がないのだからどうでもいいのかもしれない。若い者がこうした馬鹿なことに乗せられて、人生を誤ることは情けないばかりだ。
不労所得は楽をして設けようと言うことだ。日々身体を使って働くという大切なことを、馬鹿げたことに思わせることになる。日本人はすでに身体で働くと言う人間の基本を失い始めている。身体に辛い仕事をやらないで、外国人労働者を買おうというのだ。何と恥ずかしいことかと思う。
政府がカジノを誘致することが、経済を活性化すると考えている国なのだ。不労所得を不道徳な、人生を誤るものだと考えていない。もちろん大半の日本人が、賭け事を悪行だとは思わないし、まして不労所得は良くないなどと言うのは、少数派に入ることは分っている。
しかし、この不健全な不労所得を宣伝する政府が、日本の未来をだめにすることには黙っていられない。きちっと働くことを忘れた国は、必ず滅びる。すでに日本は衰退を始めている。ホリエモンが登場した頃から日本はおかしくなったのだ。要領よく設ける奴が偉いという間違った方角に日本は歩み始めた。
「働かざる者喰うべからず。」これは別段共産主義国家の標語ではない。禅宗の言葉なのだ。懐海禅師と言う95歳に成られた老僧がおられた。熱心に作務をされる。弟子の僧が、もうそのお歳になれば作務はされなくとも良いのではないかと、箒など片付けてしまう。
すると「一日作さざれば、一日くらわず」 と言われて、食事を取らなくなる。懐海禅師は何も作務をしなかったので、食べる資格がないとの考えを示した。箒を片付けた弟子にそう教えたかったのだろう。禅宗に於いては作務が最も大切な修行と考えられている。
茅野の頼岳寺で修行をさせていただいたときに、三沢禅師に「庭の石のように、掃除をしている。」分らないのでど言うことでしょうかと聞いた。「庭石がゴロゴロしている。お前はその庭石だ。」こう言われたのが、遺言だった。この言葉を忘れたことはない。禅寺では何より作務が大切な修行なのだ。
キリスト教に於いても同じだ。新約聖書の『テサロニケの信徒への手紙二』3章10節には「働こうとしない者は、食べることもしてはならない」という一節がある。とのこと。この考え方はキリスト教の現代にまで流れる思想となっていると書いてある。
イスラム教は金利を否定している。コーランの第2章275節に、商売は許すが利息は禁じるとの記述があることから、利息を介在させた金融取引が不可能になっている。とのこと。多くの宗教が不労所得を良くないものとしているのは意味のあることだと思う。
何故禅宗が身体を動かして働くことを大切にしているかを考えてみる。禅堂では五観の偈げと言うものを食事の前に、声を合せて大声で唱える。 五いつつには成道じょうどうの為ための故ゆえに 今此いまこの食じきを受うくーーーと言う具合だ。
生きていると言うことはものを食べると言うことで、食べると言うことは道を悟る為の手段だと言うことになる。そこで食べるものを作ると言う作務が、最も大切な禅堂の修行になる。こう考えたのが、私の祖父黒川賢宗である。そして自給自足に生きた。
境川役場に長く勤めた。5人の子供を大学に行くように、戦後いち早く相模原の開墾地に農地を購入するような、経済観念のある人でもあった。その土地が米軍基地に編入され、取り上げられてしまい、今度は新小岩に家を購入した。それを人に貸すと同時に、5人の子供達はその家から大学に通った。
一方で畑や田んぼは生涯続けた。最後に入院をするときに、自分の葬儀のために、庭木の剪定をしていた。私が得度をして僧侶になったときには、「向昌院は貧しいから畑をやっているわけではない。昔の禅寺では、自分の食べるものは自分で作ったものだ。」畑の前でこのように教えられた。いつか私も自給自足で暮らすと、祖父に誓った。
宝くじが当たり、生涯そのお金で暮らせることが幸せなのかどうかである。株が高騰して、生涯働かないで暮らせることが幸せなのかどうかである。自給自足で生きる事に較べれば、全くつまらないことだというのだ。自分の食べるものを自分で作れたときの安堵感以上のものはない。農業をすることはお金を稼ぐためだけではない。
自給自足が出来たときに、はじめてこれで絵を描いて生きてもいいと覚悟できた。宝くじが当たって、これで絵を描いて生きてもいいとはとても思えないだろう。多分次の不労所得を考えるのだろう。自分の身体で働いて、明日の命を繋ぐことが出来る。この安心立命こそ大切なのだと思う。
身体を使って生きる。これは人間の基本だ。賭博や投資に自分の意識がとらわれて、頭がそれだけになるような生き方は、道を誤るだけだ。一日働いて、自分の生きる糧を得る。この身体が感じる確かさ、汗をかくひたすらさが、その人間を育てる。
不労所得でお金を得る事に成ると、そうした身体を使い生活費を得ることのありがたさを見失うことになる。それはすでに、人間が一次産業から離れたときから、人間の意味を見失い始めていたのだと思う。君主に使える武士よりも、年貢を取られる百姓の方が確かな生き方が出来たのだ。
今日も朝起きて生きている。今日は何をやるか。自分の今日をどのようにすれば充実した一日にすることが出来るか。何をやるのも自由である。これは父が教えてくれた、好きなことを見付けることが、子供のやるべき事だと何度も教えてくれた御陰である。
好きなことだけをやって生きてきたことが、自分の幸運である。それは絵を描くことであり、農作業をすることである。この一日を自分の身体を使って働けることが出来るのは、幸運だと思う。自分が選び、自分がやりたいことが出来る一日。無駄には出来ないと思う。限られた命である。一番やりたいことをやる以外にない。今日は台風に備えて、防風ネットを張る。
不労所得に頭を使い、お金に一喜一憂して、神経を疲れさすことなど人間性をだめにするばかりだ。確かにお金儲けが好きだと言う人が、多数存在する世の中になってしまった。資本主義社会の末期的な状況が、人間を倫理などどうでも良い存在にしてしまったのだ。
悪い社会が悪い人間を生み出している。しかも、多くの人間が拝金主義を悪い事だと感じる理性も失っている。政府がカジノや投資を奨励するのだから、仕方がないことかも知れないが。このように社会が崩れかかっている中では、良い仲間をもち、不労所得などくだらないと確かめ合うほかない。