地場・旬・自給

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良い田んぼ土壌の作り方 

2024-10-26 04:03:43 | 楽観農園


 石垣島の土壌は、そのままでは田んぼはの土にはならない。有機農法で十分に稲が育つ土壌ではないようだ。腐食分を含まない粘土質の細かな土壌が多い。畔塗をしないでも水漏れがほとんどない土壌である。雨が降ればドロドロになり、しばらく水が引かない。そして乾けばコチンコチンになる土壌である。

 それは太陽光に長年さらされてきた土壌の特性なのだろう。腐食が極端に不足している。当然作物が育つ肥料分も少ない。蓄積される腐食よりも失われてゆくものが多い。特に団粒構造がないということが、有機農法では課題になる。どうして腐食を増やすかを農法に取り入れてゆかなければならない。

 普通の農家の方は化学肥料と農薬で営農されている。小田原よりも使用量が多いいように見受けられる。これも亜熱帯の已む得ない事情なのだろう。有機農法のように土壌の力で作物を作るとなると、まず良い田んぼ土壌を前提として作ると言うことが必要になる。2年間ではまだまだ土壌が悪いままである。

 石垣島は亜熱帯と言われるが、近年の温暖化では熱帯と言えるような気候だと思う。UVカットの服を着ていて、背中の皮が2回日焼けではがれた。10月後半でも夜の気温が26度昼間が31度というのが普通なのだ。普通に5月田植えで、9月収穫となれば、気温が25度以下になることが一日たりともない。

 そこで、次は11月種まき12月田植え5月稲刈りをやってみようかと思っている。11月でも小田原の苗作りの5月よりも気温ははるかに高い。台風を避けるということが大切になる。穂が出るころの強い風が不稔の要因になる。与那国島の稲作の事例では昔から11月田植えがあったことのようだ。

 気温が高すぎて生育が早く進んでしまい。奨励品種の「ひとめぼれ」「ミルキーサマー」「ゆがふもち」のどれもが13枚目の葉が止葉になる。小田原で同様なことが起き始めている。農の会の今年の稲作はかなり落ち込んだ。それはあまりの高温で何か問題があった気がする。イネが萬作にならないため、当然収量も低いものになる。

 気候的な条件を考えると、やはり土壌をさらに良い状態にするということが不可欠になる。土壌がたまたま良かったと思われる場所のイネに、ほぼ萬作で15枚の葉にまで育ったイネがあった。トラックターがもぐって、土壌が深くなった場所だ。そこでトラックターを回していたということと、入水口付近で水が比較的良かった。

 石垣島は土壌の成り立ちも違っている。強烈な太陽光線で土壌は腐植の分解の進み方が驚くほど早い。腐食を増やすことが、土壌を良くする一つの条件だと思うが、これが藁を戻すというぐらいのことでは、到底間に合わないというのが、今までの結果である。

 石垣島の「のぼたん農園」では、「ひこばえ農法」と「アカウキクサ農法」を中心に行っている。年に2回ないし3回の稲わらや畔の草はすべて田んぼに戻している。アカウキクサは年に2回広がり、消えて土に戻っていると思われる。普通ならば腐食が増えてよいはずだが、そんな感じはまだない。もう少し根気よく行わなければならない。

 稲わら2回アカウキクサ2回の腐食分を戻しても土壌に腐食がまだ十分という感じはしない。やはり、3年以上の繰り返しが最低でも必要なようだ。最初と比べるといくらか土が団粒化してきたようではあるが。粘りは出て来ているのだが、やはり腐食の消耗が早く進んでいるという気がする。

 水温が高すぎるということがあるかもしれない。水が少ないために貯め水にならざる得ないために、40度前後になってしまう。この水温だと腐食分の消耗が高まるのではないだろうか。その意味ではアカウキクサが表面を覆ってしまえば少し下がるかもしれない。

 ひこばえを栽培するために田んぼに藁を漉き込むというより、敷藁にして漉き込まない状態である。水の中でワラは形を徐々に失くしてゆく。ひこばえが終わり、しばらく田んぼを乾かす。この時に出てきた草はハンマーモアーで粉砕して枯らしてから、トラックターあるいは水牛で漉き込んでいる。

 現状では肥料不足もあるので、「よみがえり」という石垣島たい肥センターの牛糞たい肥を、田んぼの準備段階で2畝で30キロ入れている。その後穂肥として、30キロ。稲刈り2週間前に次のひこばえの為に30キロ入れる。よみがえりはアカウキクサの増殖の効果がある。

 基本的にはこのままもう一年継続してみたいと思っている。3年継続して、土壌の改善が見られないようなら、考えを変えざる得ない。来年は方向を見定める年になるのだろう。今のところ、イネの様子を見ると、最初よりも悪くなっているような気がする。どうも病気が出て来ているかもしれない。

 田んぼが一年中乾かないことに問題があるのかもしれない。どんな通年通水の田んぼでも、稲刈りの前後年間2か月ぐらいは乾かす。これが入らないと土壌が腐敗し、根が弱り、病気が増えるのかもしれないと想像している。短くてもよいので、田んぼの土壌は乾かす期間が必要だ。ひこばえ農法でも、乾かす期間は必要だ。

 稲は水に浸りながらも、呼吸ができる植物ではあるが、水が常に停滞すると根腐れなどの病害が発生しやすくなる。水は動いている状態が良い。流し水管理が望ましい。のぼたん農園の粘土質の土壌は保水性が高い一方で、水はけが悪く、根が弱り、十分な栄養や水分の吸収が妨げられていることが推測される。

 のぼたん農園の水持ちがよいが、乾くと固くなりやすい土壌では、根の成長が阻害され、根腐れが起こりやすい。 適切な保水性とは、土壌が適度な水分を長時間保ち、乾燥せず稲の成長に必要な水分を供給できる。土壌は湿潤状態と考えればいい。

 雨降り後に水が引いて湿った状態で握ってもわずかに水がにじむ程度がいいとされるが、のぼたん農園の土は保水性は高すぎる。雨が降ったあと水は土壌に染み込んでゆくことがほとんどない。土壌粒子が細かすぎるのだろう。腐食を増やすことがやはり一番の改善法になる。

 のぼたん農園では深耕する必要がある。 土壌を柔らかくし、根の成長に必要な水はけのいい空間を20センチ以上作り出す必要がある。その深く耕された土壌には有機物の追加が必要である。もみ殻も良いかもしれない。腐葉土、堆肥などの有機物を土壌に混ぜ込むことで、水分を保持し、土壌の構造と通気性も改善する。

 緑肥の播種も必要であるが、ひこばえ栽培をやる場合は緑肥はできない。その分アカウキクサの窒素固定能力を利用する必要がある。アカウキクサは漉き込むよりも、田んぼを乾かして、土壌表面に張り付けることで、土壌に窒素を咥えてゆくことができる。

 今後の田んぼの土壌の改善点を整理すると。
1,年に最低2か月ぐらいは田んぼは乾かさなければならない。
2,田んぼは20センチを目標に粗起こしで深く耕さなければならない。
3,たい肥、もみ殻、落ち葉、枯草、等等。腐食を増やすものを入れてゆく。
4,流し水管理にして水温を抑える。
5,アカウキクサを早く繁茂させる方法を探求する。

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自民党裏金非公認候補にも2000万円配布

2024-10-25 04:08:04 | 地域


 自民党裏金非公認候補にも2000万円配布をした。石破氏の支離滅裂がよく分かる。非公認にはしたけど、選挙資金は配布するので、あまり怒らないでね、という姿勢なのだろう。非公認は要するに選挙対策の一つで、世間へのごまかしに過ぎません。という本音が見え見えだ。

 選挙はお金で何とかなるものだという、自民党の考える選挙活動が見えるようだ。麻生氏が主張したように、丁寧な民主主義を行うにはお金が必要なのだという所に落ちる。金権民主主義を標榜している自民党。お金がなければ、票が集められないのでは、 要するに買収自民党だ。

 自民党が今回選挙で勝つようなことがあれば、日本の民主主義はお金で買えばいいということになる。それは許されることではない。野党に対する批判というものもあるのだとは思うが、今回の選挙はそれどころではない。犯罪行為をした政党を拒否しなければ、日本の政治は、政治屋が特権階級になる。

 石破氏は所信表明演説で、今後毎年1000億円程度の地方創生交付金を倍増すると表明した。「地方創生」は初代地方創生担当相を務めた石破総理の長年の持論である。著書『日本列島創生論』は、選挙対策で書いているとの批判があることは承知したうえで、バラマキではないと反論している。 

 政府の地方創生は少子化対策に集約されている。しかし、人口減少自体は良いことだと思う。地球の規模から言えば、人口は増えすぎている。少ない人口で地方の暮らしを安定するためには、減少した人口での安定した状況を作り出すかを考える必要がある。

 日本の人口は半減しようとしている。すでに人口減少の激しい地方から地域消滅が始まっている。人口減少によって、生活のためのインフラが失われる。病院、学校、商店、交通手段、道路や橋の崩壊。行政機関がなくなってゆく。人を増やすよりも、減少してゆく人口で社会インフラを縮小安定させる方法を考えなければならない。

 地方から都市に若い人口が移動するのは世界の流れである。人間が一次産業から離れるに伴い起きていることだ。地方よりも都会の方が集中によって収入が高くなる。仕事もある。地方では自ら仕事を創出しなければ生きていけない。地方では農業をはじめとする一次産業全般が、成立しなくなっている。

 その主たる原因は政府が国際競争力のある企業が育たなければ、日本が衰退すると考えているからだ。もちろんそれは世界中の国が、一国主義に動き始めていることと同じだ。貿易立国で農業も国際競争力のない作物はやめるべきだと日本政府は主張している。

 この方針では都市近郊の農家ならまだしも、中山間地の農業に、どのような国際競争力を持てというのだろうか。特殊例ならともかく、一般解としては、中山間地農業が、国際競争力を持てるということは、無理と考えざる得ない。可能だと政府が言うなら、事例を作り出してみなければならない。現状事例は示せないではないか。

 地方社会に希望がないと言うことが地方消滅の当然の第一原因。これからの未来社会が明るいものがあれば、人口は増加する。それは人間の本能的なものだ。中国が一人っ子政策をしてまで人口を制御した時代がある。高度成長が予測できた時代だ。中国は高度成長が鈍化するに従い、人口減少に突入した。日本の人口爆発も高度成長期だ。

 第一次産業では家族は労働力なのだ。たくさんの子供がいれば、老後が安定するというのが、今までの日本の社会であり、世界中の農業者の考え方だったのだ。そうした家族労働の時代が終わった。農家が子供に農業を継がすことができないと考えるようになったのだ。地方が人口減少するのは当然のことだ。

 石破総理は今度の選挙で終わらせなければならない。と期待しているので、石破氏の持論を議論してもあまり意味がないのだが、何しろ総理大臣になって、突然靖国神社に、突然奉納をしたような人である。これも選挙対策なのだろうが、この判断力の弱さというか気の弱さが、たちが悪い人間の特徴だから本当に危ない人だ。

 若者が働ける場を地方に作れるかが鍵である。政府はそのための具体的な交付を行わなければだめだ。若者が都会に出ないでも地方の大学に通えるかである。地方の国立大学には必ず医学部を併設し、授業料無しにする。そして地方の医療を支えて貰う。こうした具体的な改革をしなければ地方社会の再構成にはならない。

 記者会見での石破氏の発言では「日本の安全保障環境は最も厳しい。人口も減っていく。国民の皆さんは30年ぶりの物価上昇に苦しんでいる。デフレの脱却もあと一歩進めなければならない。そして、地方の疲弊、都市の過密もある。日本は世界有数の災害大国であるが体制が十分ではない。多くの課題がある中で、日本の在り方を根底から変える『日本創生』を訴えたい」 

 問題点の指摘はその通りであるが、評論家ではないのだ。総理大臣である。日本の在り方を具体的な政策で、根底からどう変えようというのか示すのが役割だ。 問題は地方創生の具体的な政策である。国がやるべき第一ははっきりしている。農業で生活できるようにすることだ。

 中山間地の農業が崩壊すると言うことは、すでに始まっている。これを食い止められるのは、農家の個別所得補償以外にない。食の安全保障という意味で行うべきことだ。地方を支えてきたのは兼業農家なのだ。出稼ぎをしてまで、地方経済の核になって日本の高度成長を支えたのだ。それがついに消滅の危機にある。

 食料安全保障も石破氏は重視すべきと主張していた。今は発言はなくなった。日本人の主食であるお米を、稲作をどうするかである。 これから団塊の世代の農業者は一気に減少する。さすがに80歳越えの農業者に期待できないだろう。私も後7年は頑張るつもりだが、主力とは行かない。

 山村の消滅の絶望感は藤垈で生まれたものとして実感がある。地方の何がいけなかったのかと思う。中山間地で暮らし、出稼ぎ兼業で農業を頑張ってきた人が悪いはずがない。国の農業政策がデタラメだったのだ。企業経済ばかりに政府の眼は行き、足下の農業政策を作れなかったのだ。

 田中角栄政権の時代に、米価闘争というものがあり、農民はむしろ旗を立てて国会に押し寄せた。田中角栄はお米が取れてから価格を決めるのではなく、価格を決めてから、農家が作るか作らないかを決めて貰う制度にすると大見得を切ったことが忘れられない。

 結局はロッキード事件で角栄ははじき出されてしまった。あれ以来、農家を守るような総理大臣はいなくなった。農家など止めて行くのが日本の為だと言わんばかりの政策が今まで続いてきた。農村の衰退が、瑞穂の国日本の衰退に繋がったのだ。人口の減った農業者を自民党は見捨てた。

 農業国アメリカは日本を輸出先としてみている。日本の農業など無くなれば良いと考えているのだ。だから、日本は農業維持するための政策を放棄させられている。食糧自給率が38%の国が、国の安全保障のために66%程度の自給率まで向上させたいという政策が拒否されているのだ。

 次の重要政策は教育と医療の地方での自給である。各県に都会の私学よりも魅力的な大学を国立で作る必要がある。先ずは地方の国立大学を授業料無しにする。そして大学ごとに特徴を持たせ、世界の若者が入学したくなるような、教育機関に育てて行く。

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藤井将棋は次の時代のヒントだ

2024-10-24 04:18:02 | 身辺雑記


 将棋は敗着で勝負が決まるゲームだ。はっきりとした敗着はあっても、はっきりした勝着というものはない。そういうことはデープランニングをつかったAIが登場してわかってきたことだと思う。今将棋が面白いのは、コンピュター革命の実相を表しているからだ。

 将棋は天才と言われるような人の将棋も、私のようなへぼ将棋を指すものの勝負にも、序盤があり、中盤があり、終盤がある。そして、必ず敗着で勝敗が決する。何が悪かったのかが重要で、中盤の岐路が敗着が決着後検討されることが多い。この対局者の検討が、慣習としてあるというのも将棋の良さだ。

 永瀬9段が普通に進めることが出来れば、最終版のあと数手で勝てるところまでゆく。最後の最後の詰めの誤りを繰り返して居るわけだ。それは渡辺9段とのタイトル戦でも、同じような最後の敗着が起きた。そういうことは、AIには全くない。AIの強さは、読みの深さもあるが、むしろ敗着が少ないと言うことにある。

 読みだけで言えば、人間の方が適格なことがまだある。普通のコンピューターの速度では、先の長い序盤中盤では時間的に読みきれないと言うことが起きているのかもしれない。AIの機能の限界と言うことなのだろう。機能のレベルによって読み切る時間が異なる。人間で戦う場合のハンデは時間短縮になる。

 スーパーコンピュターを使えば、読みも完全になり、スーパーコンピュター対決の将棋は極めて敗着が見つかりづらいものになることだろう。まだまだ発展途上のものなのだろう。将来今のスーパーコンピュターレベルに家庭用のもの思考速度がなる時代になれば、状況が変わるのだろう。

 しかし、現状では機能の限界もあってAI対決の将棋でも敗着はある。しかしその対戦を徹底研究したところで、勝着というものには行き当たらないはずだ。最後最後には先手である事が勝因と言うことになるのだろう。AIが出来て、将棋というものがつまらないものになるかと思っていたが、今のところむしろ面白くなったのだ。

 油断でもない。思わぬ落とし穴に自ら落ち込むのだ。藤井将棋の指し方を見ていると、悪い場合はより複雑化してゆく。早く敗北しそうな展開であっても、まず読んでいないだろうという、相手が読んでいない意外な展開に持ち込む。最終盤では両者一分将棋が多い。読んでいない方向に進むと、攻めと自玉の防御との頭の中の思考の入れ替えにバグが起こる。

 自分が優勢で進んでいる時には自玉への最後の攻撃をどう受け止めるかについて、十二分に検討している。負ける方は、このままでは負けるのだから、勝負手を放ち、勝負を混乱させようとするのが通例である。しかし、藤井曲線と言われるように、一度有利になった勝負が覆される確率は極めて低い。

 藤井将棋は将棋というものの、そうした敗着で決まるという性格を明確にしたとも言える。それはAIが明確にしたわけだが、自分の生き方を考えたときに、敗着の失敗した時の検討が大切だということになる。稲作をやっていれば、終われば翌年の課題が見えてくる。この繰り返しである。

 現在佐々木勇気8段と竜王戦を戦っている。佐々木8段は現在絶好調である。ほとんど今期に入って負けていないほどの好調であった。最近少し負け始めたが。大体に挑戦者になるという事は絶好調であるから、勝ち抜いて挑戦者に名乗り上げることになる。

 そして藤井7冠は次から次への新しい挑戦者の研究が突きつけられることになる。今回も佐々木8段は新手を指した。AIは藤井将棋を分析し、藤井7冠ならどういう手を指すかを予測するようになっているそうだ。そういうAIを使いとことん研究を重ねて、挑戦してくる。

 藤井7冠は大体一ヶ月半に一人の挑戦を受けなければならない。新しい挑戦者の将棋の研究を深く行う余裕はすでに無い。前のタイトル戦が終われば、次の戦いに入る。場合によっては重複した形でタイトル戦が行われる。こういう状況ではAIを使って、徹底して藤井将棋を研究した挑戦者が登場する。

 伊藤叡王の勝利は藤井研究にAIを使い徹底した結果と考えて良い。佐々木勇気8段は特別の藤井研究をどのくらいしているのだろうか。誰もが藤井将棋の研究に力を入れ始めているのかもしれない。それでも藤井7冠に対してタイトルを奪うようなことは出来ないのではないか。いくら好調とは言え、特別な研究を重ねなければ、藤井7冠の敗着の少ない将棋に勝つことは難しいことだと思う。

 そして藤井7冠が指す終盤のすごい勝負手は、詰み筋まで読み切られたものが多い。飛車きりなど、敗着になる可能性も高い訳だが、最終版まで良く見切って居るので、大胆というより当然の手として刺される。しかし、最後まで普通の人は読めないので、この手で敗着を指すことが起こる。

 以上のように考えてみると、将棋はAIが登場してよりおもしろいものになったと言える。特に解説が面白くなったのだ。見る将棋の世界がが将棋領域を広げた。自分は指さない人でも、将棋を見る楽しみが生まれたのだ。ユーチューブにはいつも将棋の分析解説をする人が、7,8名いる。多様な分析になるのはAIを使った分析だからだろう。

 しかし、その分析をあれこれ7,8通り見ている内に、藤井将棋の深い考え方まで見えてくる。昔からあった、将棋棋士がテレビで行う解説では限界があった。藤井7冠よりも弱い人が、なかなかその考え方を分析解説することは難しいのだ。それは今でも変らないのだが、将棋の何が面白くて、何が自分の参考になるのかが、わかりやすくなった。

 AIがヒントを出してくれるので、ヒントを参考に様々な読みを披露してくれる。これが面白いのだ。なるほど想像できないような考え方がある。思考の訓練に有効である。人間の頭がまだまだ使いようがあるということを示してくれる。それでも失敗で勝敗が決まる。ここが重要だ。

 プロの棋士の解説よりも、むしろネットでの様々な分析が、よほど面白いのだ。もちろんたまにある中村9段のネット解説などは極めて面白い。人間とAIの読みの違いが見えてくる。人間の頭脳というものの良さと問題点が見えてくるような気がする。

 ここにコンピュター革命後の世界が見え始める。次の時代は藤井7冠のような人間が活躍する。AIをうまく活用できる人間である。それは農業であっても、芸術であっても少しも変わりがない。近いうちにどの分野もAIとのかかわりをうまく持てなければ、よい仕事はできなくなる。

 AIには、偏見がない。思い込みがない。迷信がない。信念もない。宗教もない。思想も哲学もない。ただ人間の及びもつかない量の読みなのだ。あらゆる角度から可能性を読み切る。これが参考にならないはずがない。自分の生き方に取り入れない手はない。

 国際紛争の解決にコンピュターの考え方を参考にしてもらいたい。戦争など解決にならないことを教えてくれるはずだ。人間が考えられないようないくつもの解決策が示されるはずだ。それをもとに当事者同士が話し合うようにしたらどうだろうか。人間は愚かだから、できないのだろうとは思う。
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「完食指導を考える」

2024-10-23 04:44:20 | 暮らし


「完食指導を考える」---朝日新聞が特集を組んでいる。
 名古屋市の女性(52)は、小食だった。小学1~2年のころ、給食を食べきれず、休み時間や掃除の時間まで、1人で席に残され、食べ続けさせられた。(私とまるで同じだ。)
 献立表を見て、食べられそうにない日は朝から熱が出た。学校は休みがちだった。心配した母から精神科病院に連れて行かれ、様々な検査を受けたが、病気とは診断されなかった。思い詰めた母に「病気じゃないなら学校に行けるでしょ」「一緒に死のう」と言われた。(私は精神科に行って、田舎で暮らした。)
---朝日新聞

 読んで驚いた、似たような体験である。給食の量が多すぎて食べきれなかったのだ。まだ栄養失調が言われるような時代だった。学校では肝油が配られて食べていた。同級生の弟さんが栄養失調で亡くなられたことがあったぐらいだ。世の中には食べたくてもたべられない子供がいるのに、なぜ残すのかと、完食指導が続いた。

 いまだに完食指導がある。教師の食に対する知識が足りないのだ。小食の理由など考えたこともない。好き嫌いをなくすための方法が分からないものだから、いじめのような完食指導になってしまう。手順を踏まなければ好き嫌いはなくせない。食べる量は人によって違うということすら、気付かない教師がいまだにいる。

 好き嫌いを作り出したのは、家庭教育の力不足が主たる原因である。そもそも大人になっても好き嫌いがある人がいる時代だ。何でも食べた方が体にいいのは事実だ。まんべんなく多様に「少量」食べるというのが、身体には一番良い。大人でもアレルギーなどでないなら、今からでも直した方がいい。

 家庭で治せなかったものを、学校で治すことはやめた方がいい。学校教育の埒外である。食育は大切なものではあるが、親が家庭でできない、ないし悪い習慣を助長しているとすれば、学校でそれを無理に治すことは、よくない結果になる。

 まして小食児童に完食を無理強いすることなど、あってはならないのは当然のことだ。教師によるいじめである。犯罪だったと思う。愚かな教員が学校教育の理不尽を子供に教えているようなものだ。身体の大きさで食べる量を変えてもらいたかった。当然の要求ではないか。

 学校というものが、自分を追い詰めるところであって、逃げ込めない場所だと認識させた。学校というものへの不信は続いた。毎日理不尽ないじめを受けているのだから、信頼感など全く生まれなかった。教師への不信。学校への不信。大人社会への不信。理不尽な社会を完食指導で教えられた。

 私は聖路加病院に連れていかれたのも、給食が食べられない問題もあったのだと思う。そういうことが寝小便にもつながり、時々自分を見失うようなことになった。それもあってだと思うのだが、東京の家では良くないという祖父の意見もあり、藤垈の向昌院で暮らすことが長かった。

 向昌院では、一日中外で遊び惚けていた。大久保のお新屋では良かったら私を引き取りたいと言ってきたぐらい、何時も向昌院にいたのだ。畑仕事も田んぼ仕事もした。向昌院にいるときには、普通に食事が食べられていた。毎日走り回っていたからだろう

 おホウトウが好きで大きなどんぶりいっぱい食べきれたのだ。大人たちにはそれが前菜で、それからご飯に入るのだが、私はホウトウ止まりではあった。あとはなべ物である。好きなだけとって食べればいいことになっていた。これが良かった。おじいさんがそうしてくれたのだと思う。

 寝小便は向昌院ではしない。自分を見失うようなこともない。ただ親元を離れて寂しかったということはあった。それも夜のことで、昼間は面白くて何もかも忘れて走り回っていた。これではまずいだろうというので、境川小学校に臨時に通ったこともある。

 ただ朝日新聞に出ている人といくらか違うのは、嫌いなものはなかった。ともかく量が食べられないということなのだ。マムシの肝でも、栗虫、赤ヒキガエルと何でも食べた。虚弱だから色々食べろということだったのだろう。興味もあって何でも食べた。

 病的と言えるような小食なだけなのだ。病院のレントゲン検査では内臓すべてが小さいと言われた。心臓は特に小さいから気お付けるようにと言われたが。気お付けようもない。その後いくらか大きくなったのだろうか。今でもそうなのかもしれない。

 今の体重が54キロ前後。身長171センチ。これでも高校生の頃よりは9キロ多い。前にも自慢で書いたが、校内スポーツテストで、一番だった。全国的にもかなりのトップクラスだった。だから運動能力が低かったということはあり得ないと思う。

 千野の頼学寺で修業させてもらった時も。たべることでは苦労した。お檀家さんのところに行ったならば、出たご飯はすべて食べ残してはならない。これがきつかった。食べ切れるわけがないほどたくさん食事を出してくれるのだ。お寺では大したものを食べてないのだからという親切心だ。しかし、心底苦しかった。

 私が、新橋駅前の吉野家で牛丼をお替りして2杯食べたのは、大学を卒業してエレベーター屋さんで働いていた時だ。生まれて初めて、その時にたくさん食べることができた。いくらでも食べれるような気がした。25歳くらいの時だ。あれからはある程度は食べれるようになった。それでも夕食は食べない。酒を飲むためだが。

 理由はもう一つよくわからないのだが。食べるということもかなり精神的なことに係っているのかもしれない。牛丼2杯はフランスに行くためにお金をためていて、必死だったのだ。生まれて初めて正式に務めて、給与をもらい働いた経験だった。残業があれば、大喜びだった。一時間でも長く働き早くフランスに行きたかった。

 自分で言うのもおかしいが、エレベーター屋では、よく働いたと思う。フランスから戻ってからも、働きに来てくれないかと連絡があったくらいだ。青森から2人のおじさんが出稼ぎに来ていたのだが、この人たちがつらい仕事は引き受けてくれていた。負けないように頑張った。溶接とか、配線とか、組み立てとか、私で大丈夫かと思いながらもすぐにこなした。

 あの時に何か吹っ切れたものがあって、徹夜でも肉体労働ができたのだ。フランスに行き絵を描く。これだけになって、無我夢中で働いた。父親には、家にいるのなら、家賃はいいが食費ぐらい出せと言われていたので、お金がなかなかたまらなかった。これが世間様の完食指導だったのかもしれない。

 それでも100万まで貯金ができたときに、向昌院のおじいさんが同額の100万円出してやると言ってくれて、これでフランス行きが可能になった。おじいさんは私がフランスに行ってまもなく死んだ。たぶんそれが分かっていて出してくれたのだと思った。今から50年前の話になる。

 完食指導のことだった。全く非科学的な指導だ。理由があって食べることができない子供がいる。人間は同じだけ食べることなどできなくて当たり前だ。たぶんどんな動物だってそうだろう。何歳の子供には、必要な量は何カロリーだというような通り一遍の考え方の教育は間違いだ。

 足りない子供もいたはずだし、多すぎる子供もいた。この当たり前すぎることが理解できない教師というものを、軽蔑するようになってしまった。中学になり、弁当持参でこれほどほっとしたことはない。好き嫌いのない、何でも食べたい子供だった。あの恐怖の完食指導が今でもあるとは驚いた。
 
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佐々木ナオミ衆議院選挙あと一歩

2024-10-22 05:16:05 | 楽観農園



 佐々木さんは、あしがら農の会の仲間である。県会議員になってからも、時間があるときには活動に参加している。今回立憲民主党から衆議院選挙に立候補した。自民党候補と一騎打ちになっている数少ない神奈川県17区である(神奈川17区小田原市、秦野市、南足柄市、二宮町、足柄上・下郡) 。
なんとしても佐々木さんに当選してもらいたい。

 あしがら農の会を作った一人である小田原市長の加藤さんが、最近の市長選でも自民党候補に一騎打ちで勝利した。小田原ではすでに反自民の票の方が多いということが分かっている。神奈川17区で野党が候補を一本化できれば、選挙で勝てるという姿を日本中に示す必要がある。

 今回の選挙は石破総理大臣が、新総理のご祝儀で、批判が高まらないうちに、ともかく急いで解散をした。当初は石破氏への期待感もなかったわけではないが、日に日に石破氏の支離滅裂な政策が見えてきた。自民党の傍流にいたときの発言とまるで変ってしまったのだ。

 当選した議員のパー券裏金事件の解明をしないということがはっきりした。選挙が禊で終わり、と言い出したのだ。公認しなかった候補も当選すれば、自民党に復帰して、役職にもつけるとまで言い出したのだ。これにはあきれてものも言えない。総理大臣になる前の石破氏はどこに行ったのだ。石橋も鵺に取り込まれた。

 石破氏は野党には政策がないと批判をした。「日本維新の会や立憲民主党はどんな政権を作ろうとしているのか。外交・安全保障、社会保障、農業政策が全然わからない」 と応援演説の中で発言した。自らを省みてほしい。機会があったにもかかわらず、農業政策を明確にしないで解散したのはどこの誰だ。

 佐々木ナオミさんは20年近く前から自給農業を志した人だ。暮らしを変えてゆかなければならないことを、よく理解した人である。議員になってからはなかなか農の会の活動に参加は難しくなったのだが、それでも時間を割いて今でも参加してくれている。

 学校給食の地場産食材活動では、一緒にずいぶん調べ歩いた。いくらかは改善できたのだ。小田原有機の里づくり協議会の活動によって、今後有機農産物を学校給食で使おうという方向が決まった。長い時間かかったが、一歩づつ進めてくれた。佐々木さんは実に粘り強い。

 こういう生活に根差した人が一人でも国会議員になることが、日本にとって重要なことになる。私は初めて佐々木さんが市会議員に立候補した時には、後援会キャプテンということで、全力で応援した。佐々木さんは議員になっても、態度は変わらないし、偉ぶるようなところは全くない。

 普通のお母さんの一人である。心から信頼できる人柄の人だ。それは農の会の誰もが知っていることだと思う。今回の選挙は日本の分岐点になる可能性がある。明らかな脱税行為で裏金化したお金が、民主主義には必要だというのが自民党の主張だ。こんな政党支持されたら、もう日本の民主主義は金まみれということになる。

 少なくとも今回の選挙だけは自民党の候補者に投票してはならない。自民党支持者も今回は白票だろう。17区の自民党の候補者とは何回か話したことがある。初めて立候補した時に自治会で話す機会があった。農業政策について、小田原の耕作放棄地の増加について、当選したらどうするのかを聞いた。

 その回答は「当選したら勉強して、考えてゆきます。」だったのだ。呆れてしまった。国会議員になろうという人が、小田原の農業の問題点をまだ勉強していないのでは困る。用心深く尻尾を出さないようにしている賢い人であるのは確かだが。最悪の人だと思った。

 その後も国会での活動を見ると、全く期待ができない。自分の主張がない。自分の考えがない。自民党の主張を丸呑みしているだけ。いわゆる陣笠議員というやつである。雁首の数の意味しかない。今回の選挙は反自民なのか。自民なのかという選挙だ。これだけひどい自民党に投票してはならない。

 反自民候補が、佐々木ナオミさんが当選すれば、あたらしい流れが、本流になる。選挙情勢は五分五分だと神奈川新聞にはあった。まさに勝負どころである。あと一歩である。ブログでお願いをするのもおかしなものだが、今回は特別なことなので、心よりお願いします。

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ロスコ 触覚の絵画藝術

2024-10-21 04:19:52 | 水彩画


 ロスコの作品は視覚的なものを触覚的なものに変換して表現した藝術である。佐倉市郊外にあるDIC川村美術館にロスコを見に行った。朝一番に行ってすいている時間にゆっくり見ようと出かけた。京成佐倉の駅から8時50分発で、美術館行きの無料バスがあり、30分くらいかかった。美術館は9時半からである。

 驚いたことにバスは満員であった。京成佐倉から、JRの佐倉駅によって行く。と言ってもすでにほとんど座っているのだから、乗れたのは補助席の人だけである。かなりの人を残しての出発である。その理由は閉店セール中だからだ。12月末日で閉館と言われていた。

 それが3月末日に延期された。よくある閉店商法のの繰り返し手法である。次は美術館は閉館しませんになってほしいものだ。入場料は1800円、相当の入館者数だ。これなら、香港の物言う株主も、閉店セールを時々やれと今度は言うかもしれない。私がロスコを見ていた間も、人の波は途絶えることなく続いていた。

 帰りのバスで一緒になった人も、現代美術はなんも分からんが、なくなると言われたら、一度は見ておこうと思った。しかし、やっぱりなんだかわからなかったということである。そう簡単にロスコが分かるはずはない。私は何しろ、50年も分からないが続いているのだ。

 今回はどうしてもわかるつもりで佐倉まで足を運んだのだ。その覚悟が良かったのか少しわかった。それがまず、ロスコの絵は感触の視覚化ということだった。実はこの美術館には、ロスコが分かるための仕掛けがあったのだ。部屋に入ると暗闇なのだ。

 外の明るい空間を通り向けて、突然真っ暗の部屋に入る。足元を気を付けてくださいという、案内係の注意がまずあるのだ。足元真っ暗で見えない。転ぶ人もいるはずだ。転んでロスコの絵に、どんぐりころころでは困るわけだ。目の弱い私にはともかく暗い。

 この暗さではどうやって書いたかが分からないではないか。怒りが込み上げてきた。しかし、怒ってみたところで見えないものは見えない。この美術館の学芸員に文句を言おうかと思ったくらいだ。ロスコがこんな暗さを指定したはずがないだろうと。

 しかし、ともかく足元が危ういので、中央に椅子があるのでそこにたどり着いた。椅子に座って気を取り直そう。石垣島から飛行機で来たのだ。まあついでがあったのだが。ため息をつきながら、座っていると暗闇の中にボーとロスコの絵が浮かんでき始めた。

 この調子ならば、30分ぐらい座っていれば、もう少し見えるかもしれないと思い直して、じーっとわずかづつ浮かび上がるロスコの絵を見ている。いつの間にか座禅をしているような気分になっている。そうだこれは半眼だと気づく。見ていないで見る。見ていて見ない。肉眼以外のもので見る内的世界。

 視覚的にみているロスコの絵が、自分の心の中の画面になり始める。一種の禅がなのか。いや違う、そうだこれは瞑想絵画と呼べばいい。ロスコの精神の絵画世界を、絵画哲学を表している。ロスコの世界観が見えてくるぞ。徐々に見えてくる仕組みが、ロスコの世界観に誘うのだ。

 ここの学芸員は凄いぞ。これはお礼を言わなければ。早まらないで良かった。瞑想室「ロスコ」だ。ここに来て絵の前でロスコの絵を見えない見えないと凝視することだ。だんだんロスコの静かだが、苦渋に満ちた世界が広がる。何だろうかこの悲しみの深さは。苦しいだろうな。いつの間にか、ロスコに引き込まれ、共感の気持ちが湧いてくる。

 この美術館は最低1柱(おおよそ1時間線香が消える間)は座らなければだめだ。目が慣れて見えるようになるにはそれくらいの時間がかかる。そのころには静かな心になって、ロスコに向かい合う。大半の人は絵が見えないのだからすぐに出てゆく。現代美術は分からんもんだ。絵を飾って電気を節約か。閉店セール中だから仕方がないか。ぐらいのものだ。

 次第に浮かび上がった絵は巧みで微妙な色調で出来ていることが分かる。深く暗いほぼ黒である。青や茶色。色であることをやめて明度だけに変わるような下地がある。その上に赤、や茶が複雑な色で置かれるのだが、その色が置かれた、下地のほぼ黒の上で、浮かび上がる。

 浮かび上がりながら、色であるはずの赤や茶が、モノトーンの明暗になり、色の意味を失う。色が消えるに従い、色が触覚に変わる。色が触り心地を、心に直接の肌触りになる。色という間接的な意味を失い、触覚という感性としてじかに伝わるものがある。

 黒の背景と思った空間は色を伴う矩形を見ているうちに、矩形が下地となって、黒い矩形が意識され、画面が行きつ戻りつし始める。揺らぐのだ。意識がどちらか寄りにいることがなく、行きつ戻りつ、揺らぐ、ゆすぶられる、動かされる。

 明るい部分は、目を閉じるとある種の黄色の残像になって、眼の底にボーっと不思議な姿を現す。目を見開いて居るのに、残像と背景と色のある矩形が、見ようとしても定まらない。なるほどこれをロスコが描こうとしたものかという合点がいく。

 しかし、合点は行ったのだがいったいこれをどう分かればいいのだろうか。この絵の声は不安だ。いたたまれない内部世界の深い闇だ。自分の解明できない心の中の闇を描こうとしている。その為に以前の絵に比べて、絵は荒くなり、雑な仕上げになる。たぶん仕上がりを重視しすぎて、絵が作り物になることを畏れたのだろう。

 絵はロスコという人間が描いた作品である、ということがわかるものでありたかったのだ。この仕上げの粗さは梅原や中川一政の粗さに通ずるところがある。こんな時点でやめたことのなかったロスコにとって、極めて危険な変容だったに違いない。ロスコはこれまでのロスコは工芸品のようにな仕上がりをしている。

 「照度の低さ」は、ロスコが<シーグラム壁画>を描くために借りたスタジオに由来します。スタジオの照明は、主に天井付近の小さな窓から入る外光のみ。ロスコは照明器具で天井を照らすことはあっても、画面に直接当てることはなかった。描いたアトリエに合わせて設計して展示した。

 とうえっぶに説明があった。しかし、描く場所がこれほど暗いわけがない。アトリエに差し込む天窓の光は天上の光が差し込むようだったはずだ。その光で描いて翌日来ると、雨の日で絵が暗闇の中で浮き上がって見えたのだろう。

 ここまで暗くすることは、確かに制作意図に従うことかもしれないが、果たして絵画としてはどうなのだろうか。問題点を隠すように暗いともいえる。私が美術館を設計するならば、天窓だけにする。私のアトリエはそうだ。この絵の以前のロスコの絵画は確かに繊細で工芸品的な仕上がり。

 どれほど明るい場所でも、そう見えるように描かれている。ある意味暗くないと意図があらわせなくなった可能性も高い。大きすぎる点。アクリル絵の具を使った点。油彩のような調子の美しさが失われ、即物的な表現に変わっていると思われる。素材としての美しさがかけている可能性が高い。そのことで現れてくるものがあるのだ。

 ロスコの絵画は視覚的なものを内的な世界として表すために、触覚を重視して、表現をしたと思われる。そのことに気付いたのは、八重山の織物を見て居てのことだ。織物は感触が需要になる。肌触りが良い。良いと感じさせる感触がなければならない。

 そのために苧麻や芭蕉の繊維はより細い糸が必要になったのだ。新垣幸子さんや平敏子さんの作品の色彩が糸が繊細に織られてゆく過程で、独特な深い肌触りの感触を作り出す。その感触に製作者の意識が現れる。世界観が表現される。織物は感触で世界観を表現するものだと思う。

 その時にロスコの絵画が浮かんだのだ。ロスコを見に行かなければと思い立ったのもそのことに由来する。視覚はものに触れたような味わいも含んでいる。その触れたような感触の中に、自分の内的な世界に通ずるものがあるのではないかというのが、ロスコの探求だったのではないか。
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274 水彩画 日曜展示

2024-10-20 04:46:48 | 水彩画
274 水彩画 日曜展示







582「ヤエヤマヤシ」
2024.10 中判全紙








583「ヤエヤマヤシ」
2024.10 中判全紙








584「ヤエヤマヤシ」
2024.10 中判全紙








585「とうまた田んぼ」





586「牧草地」
2024.10 中判全紙



 ロスコの絵を川村美術館でゆっくり見せてもらった。30分以上見ていないとわからないように出来ている。真っ暗なのだ。目が慣れるまで何があるかがわからない。あれほど暗い展示は初めてだ。ロスコの絵のことは改めて書くことにして、自分の絵の方角を考えさせられた。

 自分の絵は結局自分の内なる世界が画面に現れる。そこにある空気感が自分なのだ。いい加減な自分であれば、いい加減な世界になっていなければおかしい。では今の自分がどうかと言えば、のぼたん農園を作ることに熱中している。絶望的なのだが、面白くて仕方がない。

 具体的にはのぼたん農園の説明図を書いているわけではない。のぼたん農園に広が来る空気感が、絵に反映しているのだとは思う。当然そう言うことにならざる得ない。意識しようがしまいが、夢中になっていることが絵に反映しないわけがない。絵を見てそうなんだなと改めて思う。
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62年前の小学生ラジオ番組

2024-10-19 04:19:08 | Peace Cafe


 昼ご飯を食べながら、ラジオを聞いていることが多い。11時30分過ぎから食べていることが多い。FMラジオである。石垣島の崎枝は電波状態は悪い。「のぼたん農園」ではFMしかはいらないことが多い。AMラジオは中国語か、韓国語が聞こえてくることの方が多い。

 たまたま聞いていたら、面白いラジオでつい最後まで聞いてしまった。いつもは人生相談を聞いているのだが、人生相談がハマルのだ。人の不幸が面白いという嫌みな趣味というわけではない。回答する人の回答が上から目線の珍回答、迷回答で、たまに泣けるような名回答なのだ。漫才を聞いているようなものだ。それでも悪趣味と言えばいえる。

 その日は日曜日だったもので、人生相談はない。それで周波数を変えるとNHKがきれいに聞こえた。「伊集院光の百年ラヂオ 」小学生たちが大人顔負けの議論を展開!【僕たちは子供である】 途中から聞いた。今の子供にしては随分しっかりと討論しているものだと思ったら、私の子供時代のラジオ討論である。

ーーー今回は、昭和37年に(1962年)香川県で放送されたローカル番組「皆さんとともに」から【僕たちは子供である】をお送りします。小学生たちが大人顔負けの議論を展開!昭和30年代に子供時代を過ごした方、必聴です!
  ▽戦後17年、戦争を知らない小学生たちが語った太平洋戦争 ▽戦争ごっこ賛成?反対? ▽戦争がない今の時代は幸せか?子どもたちが語った夢 出演:伊集院光、礒野佑子 

 伊集院光さんと礒野佑子さんは、さかんに「子供が語ることが、しっかりしている」とシャベルのだが、そうかな昔の子供は誰でもこの程度だった。そもそも子供は別段大人と変わりなく考えては居る。大体のことは分っては居る。普段は戦争と平和などについて、子供の分をわきまえているから、正面から語らないだけだ。

 少なくとも、私自身は子供の頃も今も、戦争と暮らしのことで、考えていることは似たり寄ったりである。何か考えが深まったとは思えない。子供の頃も何故戦争はいけないのかと考えていた。「なるほど戦争をしても何も解決しないからだ。」と理由に思い当たった。

 人が死ぬから戦争がいけないわけではない。交通事故でも病気でも人は死ぬのだ。歳をとれば必ず死ぬ。死ぬのは嫌だし怖いが、死ぬと言うことは、命あるものすべてに起こることだ。だとすると何だろう。と子供ながらに(この合いの手がまずいのだろう)、随分考えた。その結論が戦争は問題の解決にならないとからだと分った。

 その考えは今でも少しも変らない。今でも子供っぽい人間とは言えるのかも知れない。というか、あまり変わることなく75歳まで来た。子供は頭が幼くて幼稚であるというのは、そう思いたい人の思い込みである。子供達の戦争論は国会での中国仮想的国論などを聞いていると、大人の方がよほど頭が悪いというか、たちが悪いとしか私には思えない。

 自分が軍隊を強化したいと考える人達ならば、あれこれ何でも軍隊強化ための理由付けに使うばかりである。何故軍隊強化をすれば安全が高まるかについては、当たり前と言うことで議論がない。子供と違うのはここで生活感を失うのだ。

 いい大人は、自分の経済と戦争を計算している。自衛隊が強化されるとなると、自分はどのように立ち回れば得が出来るか。自分がそれを押せば、軍国主義の人が自分に投票してくれるとか、あるいは軍事産業の人が、パー券を買ってくれる。あるいは統一教会に言わされる。と言うようなことが、発言の直接の動機になる。

 子供のように純粋な裏のない議論にならないために、様々な裏事情が背景にあるのを隠してしゃべるので、何か回りくどくなる。石破さんなど総理大臣になって支離滅裂である。自分にとって得なことがどこにあるかが、中国の覇権主義が出てくる理由だ。覇権主義に対抗する方法は軍備だけでない事ぐらい子供なら分る。大人の議論は思惑が強すぎる。

 自分が戦争を目指すという理由に、相手が悪いからと言うのは、幼稚な言い訳にすぎない。自分が戦争を直接したいと言うことは少ないだろうが、その周辺で得が出来るという計算が強いのだ。その結果回りくどい、ごまかしの議論を行うことになる。

 アジア版ナトウ計画がまさにそれだ。石破氏がASEANにゆき、首脳外交をしたにもかかわらず、それを言わなくなかったのは、言いたかったが言えなかったのだ。アメリカの思惑が頭をよぎるわけだ。どうせ短命の政権なのだから、言うことだけは言えば良かったのにと思う。

 私もアジア版ナトウ計画は希望があると思っている。アジア版ナトウの議論が重要だと思っている。東アジア全体で具体的に議論されるようになれば、石破氏のアメリカ寄りのアジア版ナトウとは全く違ってくると考えている。ここから平和外交が始まるはずだ。

 ただ平和平和だと話し合っても、もまともな議論は起こらない。大人は思惑が多すぎるからだ。核廃絶は誰でも正しいとは考えている。子供が世界を支配していれば、とうの昔に核は廃絶されている。子供はノーベル賞だ。変な思惑が少ないからだ。核兵器が人類を滅亡させることが理解できるからだ。

 子供達が夢を語り合う。これは高度成長期前後でまるで違うとおもう。AI革命前後と言っても良い。今の子供には夢が語りにくいだろう。団塊の世代の子供時代は、いつでも夢をと、歌謡曲でもよく唄われたものだ。希望の時代だったのだ。どんな夢を持つかは、子供の定番だったと言っても良い。

 夢を持つ子供が良い子供だった時代。父は子供の仕事は自分の好きなことを探すことだと、口癖のように言っていた。それで一番好きだった絵を描くことを一生やることになった。実に有り難いことだとおもう。御陰で日々面白く生きてくることが出来た。

 子供の頃から好きだった絵を描くことを、そのまま続けていられたことは、有り難いとしか言いようが無い。父が私が生きる経済的な道筋を着けてくれたのだ。つまり、父は好きなことを自由にやれるような、経済的準備までしてくれたのだ。そこまでして好きなことをやれと言っていたわけだ。

 時代が高度成長である。頑張れば夢に到達できるという実感があった時代なのだ。東京タワーが建てられ、東京オリンピックが行われる前の時代。子供が夢を持つ事ができた時代。先日も同窓会で、夢がどうなったかということになんとなくなった。

 これから夢の実現をしたいと考えている。自分の絵を描くと言うこと。自給農園のぼたん農園を実現すること。それは子供の頃の藤垈の向昌院で暮らした時から変らない夢。絵を描いて、畑を手伝って、鶏を飼って、遊びほうけたまま疲れて眠る。何も変らない。

 この後どこまで進めることが出来るかで、夢がどうなったかが分る。あのラジオの子供達にも、是非夢がどうなったか聞きたいものだ。大切なことは何を成し遂げたかというようなことではなく、何をどう目指したかだろう。そして70歳を超えて、今夢を目指しているかが重要になる。
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自給生活の楽しさとAI革命の希望

2024-10-18 03:54:11 | 水彩画


 これからの人類の生き方で重要になるのは、自給自足生活である。それが出来るだけの条件がコンピュターAI革命によって整いつつある。蒸気機関の登場に始まる産業革命によって、人類は肉体労働に支配される世界を抜け出た。コンピュターAI革命によって人間は知能労働に支配される世界を抜け出ることになる。

 頭が良い人間が、頭の良くない人間の上位に居て支配する。現代社会の差別状況はおわる。人間はAIによって能力差別の世界を抜け出ることになる。能力差別は、人間の最後の差別である。末期的な資本主義の競争が世界を戦争の時代へと進めている。世界戦争が回避されるとすれば、AIの急激な成長にある。

 競争をしなくとも人間は生きて行ける世界が、AIによって来る。人間が生まれてきて死ぬと言うことには何時の時代も変わりは無い。その生きている時間を一人一人が充実させて生きる事ができる時代が来ると言うことだ。肉体労働に縛られる時代を機械が克服してくれた。一人の人間が考える限界をAIが突破してくれる。

 能力競争の時代が終わる可能性が出てきたのだ。能力競争がなくなるのであれば、人間は自分が十二分に生きると言うことに、すべてを費やすことが出来る。自給自足に生きる事が誰にでも可能になる世界が、そこまで来ている。人を押しのけて、蹴落として生きる必要がなくなるのだ。

 絵を描いて生きて行くという純粋な喜びに、邁進できることになる。過去の時代は絵など描いていては生活が出来ない。と言うのが普通のことだった。仕方がないので、絵画を商品として考えて、売れる絵を描くことで、絵を商品として、販売して生きて行くことになる。

 もう少し前の時代であれば、支配階級に取り入って、お抱え画家になる。しかし、当然のことだがそれは競争に勝ち抜いた一部の人にだけ許されたことだ。絵が藝術とは言いがたい時代の話になる。絵が藝術として自立したのは、印象派以降である。

 それでも、純粋な画家ほど生活は出来ない。絵を描くと言うことを純粋に追求するつもりだった人が、いつの間にか商品としての絵画を描くことに翻弄されることになる。そして、商品としてのランクで、社会的な評価や地位が決まり、栄誉欲までが絵を描くと言うことに伴うことになる。

 絵を描くという、人間が生きると言うことに直結した純粋で素朴な喜びが、資本主義の価値観に巻き込まれ、醜悪な形でゆがめられて行くことになる。これが資本主義末期の商品絵画となり、異様で、即物的で、大衆的な絵画が持てはやされ、藝術の終焉になる。

 それは、歴代の日本の文化勲章受賞の絵画作家を比較すれば、分かる人には明瞭に分ることだ。藝術とは呼べないようなものが、芸術と称せられる時代が来てしまった。そして一時代が終わる。この次の時代はAIコンピュター革命時代である。人間が出来る事ややるべき事の意味が、明らかになる時代に転換する。

 音楽にレコードが出来たことで、大きな変化があったように、絵画もAIの登場で描かれた結果としての絵画よりも描くことの方に重点が移る。いわば絵画のスポーツ化と言えば分りやすいのかも知れない。確かに世界新記録を、最高水準のものを目指すのもあるのだが、そうで無いからと言ってスポーツをする喜びを味わっていないとは言えない。

 自己新記録を目指してスポーツをする。同じように絵を描くと言うことにも自己探求としての私絵画がある、人間の根源に触れるような喜びの行為は必ずこれからも続いていく。絵画が商品経済から切り離される時代が来る。どれほどの名画も、簡単に再現できる時代が来るからだ。

 装飾品としての絵画は、精密な複製によって充足されることになる。我欲の強い人間はその時も相変わらず版権がとか、制作者の権利はとか言いつのるだろうが、AI革命はそうした、人間の個別の欲求を無為なものとする時代を生むはずである。

 良いものは人類の誰もが共有すれば良い時代が来る。個別性とか所有欲などと言うものはどんどん薄まって行くはずである。となると重要なことは一人一人の十分に生きると言うことに集約されて行く。絵は描くという行為の深さがその人の充足に繋がるかどうかが問われる。

 それは人と較べるようなものではないだろう。あくまで自分自身が内に向かって深めて行くことになる。その新しい時代に描かれた絵画は、まだどういうものかは分らないが、それぞれ描いた人のものであり、自分の中から湧き出た描きたいという欲求で絵いた絵である。

 多分そうして描かれた絵が並べられる時代が来ると、それが競争を越えた時代の自己探求の絵画がどういうものなのかが見え出すことだろう。今の時代はまだ、商品絵画時代の末期と言うことなので、すでに動き出している、私絵画の時代が見えにくいことになっている。

 人間が行為する重要な藝術活動がある。そしてもう一つが自分が食べるものを作るという自給活動になる。人間にとって自分を作り出している、食料を作ると言うことは、生きる原点の確認になる。AIコンピュター革命で人間の働くという意味が、洗い直されることになる。

 洗い直しの原点に、自分の食べるもののことがある。食べるものがおかしければ人間もおかしくなる。食べるものが腸内細菌を作る。腸がおかしくなれば、精神もおかしくなる。良いものを食べるためには身土不二である。自給自足がその原点になる。

 食べることで生命を維持できる。食べるもので自分が作られている。それを自分の活動で生産してみる。その食料の生産によって、生きると言うことの意味を自覚する事が来るはずだ。どうすれば自分の食料を自分に相応しく生産できるか。

 これが次の時代の人間の生き方の重要なことになると考えている。それそれが自分の食料を作るためには、一日一時間の労働と100坪の土地があれば可能である。化石燃料を使わず、自分の肉体だけで働く。農薬も化学肥料も使うことがない。AI革命で、さらに簡単にできるようになるはずだ。

 食べるものを作ることに一度は戻るのだと思う。1日一時間健康体操のつもりで農作業をする。そしてこの簡単なことで、これで生きていけるという安心立命に至る。次の時代は自分の好きなことをして、生きる時代になる。AIコンピュター革命は人間が正しく受け止めることが出来れば、そうした時代をもたらすはずだ。

 自給生活には人間の根源に触れるような、深い感動がある。これでいいのだ。ニャロメ!と言うような何をやっても許されるような安心がある。そのためには自給技術の確立である。今のところひこばえ農法と行っても、期待するような答えがない。もう一息自分で頑張るほか無い。

 以上のように楽観で書いたわけだが、産業革命が原子力を生み出し、原爆を作り出し人類を危機に追いやっている。AI革命も同様なことになる。人間を滅ぼすさらなる危機を作り出す可能性も高い。これを良い方向に持って行けるのかどうかは、人間自身にかかっている。
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健康は腸から生まれる。

2024-10-17 04:34:53 | 身辺雑記


 腸内環境が乱れると不眠、うつ、発達障害、認知症、糖尿病、肥満、高血圧、免疫疾患や感染症の重症化……と、全身のあらゆる不調に関わる。子供の頃腸の調子が悪かった。それで精神的に不調になることがあったのではないかと想像できる。

 子供の頃すぐお腹が居たくなる子供であった。 虚弱体質とお医者さんにはいわれて育った。それもあってか、東京の家よりも、山梨の山の中で暮らすことが多かった。東京の目が回るように忙しい商売人の家庭では、大人になるまで育ちきらない、と思われていたようだ。

 向昌院の住職だった、お爺さんが心配して預かってくれていたのだと思う。だから、3文安いのかも知れないが、祖父は私を教育しなければならないと考えていたので、とても厳しかった。その教育が成功したせいか、中学生の頃に得度をすることになる。

 もう一つ困り切っていたののが寝小便である。これも色々病院に行ってみてもらったが、大人になれば直るぐらいのことで、どうしても直らなかった。お灸をすれば直るというので、ひどい苦しい目にも遭った。あれは虐待のような記憶しか無い。それでも直ることはなかった。

 どちらも未病ではなく、病いと言える状態であった。今に成って想像できるのは、精神が不安定だったためだと思うしかない。聖路加の精神科にも行って見て貰っていた。多分最近で言えば、発達障害という都合の良い病名になるのだろうと思うのだが、軽度と言うことでありたい。

 今思い出すと、外の社会を把握することが出来なくなるような状態だったと思う。自分の精神状態が、頭のなかがぐるぐる回り出して、前後の時間が分らなくなり、自分の今の状況が把握できなくなる。持っていたはずの物をすべてどこかに落としてきているというような状態。

 何か原因はあるのだろうが、突然お腹が針を刺すように痛くなる。七転八倒と言うが、お腹を押さえてのたうち回るしかないのだ。しかし、たいていの場合、しばらくすると直る。トイレに行けば直ることも多かった。たいていの場合は下痢をしているが、そうで無いこともあった。

 寝小便の方は中学に入るころにやっと直ったのだが、このコンプレックスのようなものは、人格形成に影響した。腹痛の方は40歳ぐらいまで続いた。何かとお腹が痛くなることが多かった。子供の頃はほぼ毎日だったが、週に一回ぐらいに減った。今でも腸が弱い方だという気はするが、昔ほどお腹がいたいということはない。

 簡単に言えば、ノイローゼが治ったと言うことになる。始末に負えない自分というものを、何とか自分の手の内のものにしたという感じがする。と言ってもノイローゼも発達障害も、良く理解できているわけではない。おばあーさんは岡田式正座法で肺病を治したそうだ。坐禅をするようになって、落ち着いたと言うことがあるのかかもしれない。

 腸内環境と脳の状態が関連していると言うことに実感がある。気持ちが落ち着いていられるようになってから、お腹が徐々に痛くならなくなった。自分が今何をしているかが認識できるようになってから、お腹が痛くなることは少なくなったと思う。

 自分の状況が分らなくなるのは、ストレスという都合の良い言葉を使えば、その通りでストレスが強くなる為に自己把握が混乱してくると言うことだったと思う。ただストレスとは何だったのかと言えば、これが曖昧なことになる。自分の力を越えた事をしなければならなくなったときに起こっていたようだ。

 耐えがたい状態に自分が居なければならないときもある。自分の許容量がかなり狭かったのだろう。完璧にしなければと言う圧迫が常にあり、完璧に出来ないために、自己認識が不明瞭になり、すべてを放棄するほかなくなる。多分外部からの圧力に弱かったのだろう。

 向昌院でのまわりからの圧力のない暮らしで、かなり緩和された気がする。自然の中で一人で遊んで暮らしていることで、いわゆる自然に癒やされた状態である。毎日自然の中でやりたいことがあった。自然の面白さに満喫して暮らしていた。何も考えないで居られた。

 やはり直接の原因は腸内環境に問題があったと考えられる。腸内の微生物の状態が悪かったのだろう。そこから色々おかしなことになる原因があったのだと今は思っている。虚弱体質だったという自覚もあるのだが、多分内臓全体が小さく、心臓が普通の人よりかなり小さいと言われた。

 内臓は今も小さいのはレントゲンを見ると分る。腸が細くて短いのかも知れない。腸は特に状態が悪かったのではないかと思われる。食事の量はかなり少なかった。食べることに時間もかかった。少し多く食べると下痢をしてしまった。いつも痩せこけていた。

 それでも高校生の時には陸上部で厳しい練習をしていた。校内の体力測定で一番になった。全国的に見てもかなり上位の点数になった。それでも、お腹が痛くなることは同じであった。運動に集中すれば、ノイローゼが治るかと考えて始めたのだが、それはなかった気がしていたが、今から見ればあったと言い得るかも知れない。

 結局、腸の調子が良くなったのは、自給生活を初めて、まともな食事をするようになってからのことだった。だから40代になってから徐々に腸の状態が改善されたように思う。毎日開墾の肉体労働を続けた。自給自足のことだけを考えて暮らした。

 開墾生活で肉体が少し変化した。これは運動もあるが、それ以上に自分が作ったものを食べる生活になったと言うことである。あの頃は養鶏をやって、野菜を作り、重ね煮を毎日食べていた。そのことで腸内の状態がだんだん改善されたような気がする。

 そして精神の状態も落ち着いてきた。陸上競技の長距離走をやって、持久力は強くなった。つらさに耐え抜いて走ることも出来るようになったと思う。だから開墾生活もやり抜けたと思う。汗水垂らしての開墾生活は、自分の腸内環境を変えたようだ。

 自給生活を始めた直接の原因は、絵が行き詰まったからだ。自分を根本から変えるためには、食べるものから変えなければだめだと考えた。その食べるものを自分の手で作る。自給生活とは食糧を購入しない暮らしである。自分が作る当たり前のお米と野菜と卵を当たり前に食べる。

 いつの間にか腸の状態が良くなった。腸の中をカメラで検査していただいたことがあるのだが、あなたの腸内ほどきれいな腸内はないは見たことないほどだと、人間ドックの先生がびっくりして言われていた。あの60歳の人間ドック以来暮らしに自信を持てるようになった。

 
 
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マークロスコーと川村美術館の閉館か縮小

2024-10-16 04:10:58 | 水彩画


 千葉県の佐倉にある川村美術館が閉館するという話を聞いた。功成ってしまった理由は川村美術館が財団法人化していなかったためだ。何故ずさんな経営方針だったのかと思うが、今更仕方がないことだ。企業美術館は上手く企業経営と切り離すのは必要なことだ。

 この美術館は株式会社DICと言う企業が所有している。問題はこの会社の物言う株主だ。美術館が赤字だから、作品を売り払い終わりにしろというのだ。何という目先しか見えない株主なのかと思う。安く買った絵が数十倍になった価値をどう見ているのだろうか。中国人の株をやっている人間の文化の浅さが浮かび上がる。
 
 DICの取締役会は同館について「保有資産という観点から見た場合、資本効率という側面では必ずしも有効活用されていない」との認識を示した。美術館だ当たり前ではないか。速やかに計画を実行に移すため、25年1月下旬からの休館を決めた。休館は3月末まで延期された。

 DICコーポレートコミュニケーション部長の小峰浩毅氏は、美術館の経営は「近年はずっと赤字だった」と話す。DICは23年12月期に399億円の純損失を計上するなど業績も厳しく、同12月には物言う株主として知られる香港のヘッジファンド、オアシス・マネジメントが大株主となっていたことが明らかになった。

 美術館は場所が不便で「見学している人よりも警備員の方が多い日が目立つ」と述べた。アシンメトリック・アドバイザーズのアナリスト、ティム・モース氏は、創業以来の取引先である印刷業界が縮小を続ける中で、DICが事業と無関係の美術品を所有している理由はほとんどないと断じる。 

 たしかに、川村美術館がDICの所有物であったとは、認識も意識もなかった。私はそうだった。その意味ではブリジストン美術館とは、大きな違いである。そもそもDICが美術愛好家の間で、評価が高くなったところで経営とは関係が無いことは事実だ。

 問題はこの美術館の所蔵作品があまりにも評価が高い点にある。多分川村美術館が作品を35年前に、購入したときにもロスコーなど高いものであったのは確かだろう。購入したのはもう少し後だった気もするが。それでもロスコーは近年評価がうなぎ登りだ。

 現在は購入時の数十倍に値上がりしていると思う。特にロスコーの評価はアメリカで制作した人という意味で、アメリカの投資家が着目しているのだろう。アメリカはお金はあるが伝統文化が浅い国だから、アメリカの作家に対して惜しみない投資をする。

 マークロスコーはラトビア出身の作家である。ユダヤ系の人で、父が反ユダヤの襲撃を受けることを恐れて、アメリカに移住した人だ。イェール大学へ進学した。大学では心理学を学び、ゆくゆくは法律家かエンジニアを目指していた。頭脳明晰なユダヤ系の人なのだ。

 2年の終わり1923年に彼は中退し、46年後に名誉学位を授与されるまでイエール大学に戻ることはなかった。 アメリカにはこうしたユダヤ系の人が沢山居て、米国の最高の知性となっている。人口の2%であるが、メタのザッカーバーグCEOや、スピルバーグ監督、アインシュタイン博士などがいる。

 ロスコーの作品を購入したという点に、河村氏の美術作品に対する見識があったのだ。私はロスコーの作品の本当のすごさを知ったのは、学生の頃ロスコーを模写したからだ。多分自殺したというニュースで知ったのだと思う。あの一見単純な色面が模写できないのだ。あの絶妙な調和状態は模写出来ないものだと心底驚いた。

 ロスコーの絵はマチスの絵と対極にある。話はどんどんそれるが、マチスは誰にでも出来る芸術を実現しようとした。特別な技術的な方法を作品から取り除こうとした。マチスは単純にみえるし、意識しての単純な作りなのだが、結果的に特別が芸術空間になる。これが絵画の結論なのだと思う。

 絵画を専門的な技術から解き放ち、誰にでも可能な線と面と色に分解する。その組み合わせだけで日を構築できると言うことを示して見せたのだ。マチスはこうして、芸術の崇高な理想を分解して、解き放った。万人はマチスの成果を利用して自分の芸術が出来ると考えたのだ。

 所がそうではなかった。むしろマチスが結論を出したことで、自己表現の絵画は行き詰まり混沌とした。絵画はむしろ不毛なハイパーリアリズムのような、即物的な価値に依存しようとした。それは確かに自己表現ではなかったが、芸術とは到底言えないようなつまらないものになった。

 ロスコーは37歳の時に絵画を描くことに行き詰まり、芸術論を考えることになる。第2次世界大戦中のことだ。美術史をたどり美術の意味を考える。マーク・ロスコ著「芸術家のリアリティ」(みすず書房 09年2月)この本はロスコーが発表したものではなく、死後ご子息が文章を発見して、出版したものだ。

 ロスコーは単純に見えて、極めて複雑なのだ。これ以上の複雑さがないような微妙さが、いかにも単純な出来上がりになる。その微妙さと素朴さが統一されている所が、究極のものに見える。似たような抽象画はいくらでもあるが、その違いは決定的なのだ。これを再現できるのはAIだけかも知れない。

 ロスコーは極めつけのユダヤ人のインテリで、いわばアインシュタインが絵を描いたようなものなのだ。芸術を知性で把握し、その上であの哲学的な絵画を創造した。ロスコは1903年に生まれ1970年に自殺した。 ロスコーが恐れていたことは自分の絵画が誤解される恐怖だったらしい。

 マルセルジュシャン、ジャスーパージョンーズ、ラウシェンバーグ、などのアメリカ的前衛芸術家の中で、異質の存在だったのだと思う。1970年当時そうした作家は意識していたが、ロスコーについては気付いても居なかった。ロスコーは1950年に今ロスコーだと我々が考えている作品に至る。

 そして1969年にはユネスコで、ジャコメッティーと同時に展示されるき企画がされる。世界的な評価を受ける。最後のシリーズはアクリル絵の具で作られる。アクリル絵の具リキテックスが登場した時代だ。すぐに取り入れようと試みている。知性的な人らしい。そして、何故か制作を突然断ち切る。

 ロスコーの自死の理由の一つに、自分の作品だけで出来ているチャペルを作ると言うことがあったらしい。それが進められると思っていたのがシーグラム計画である。訪れてみてそれがレストランだったと言うことが分り、絶望したと言うことが言われている。

 「シーグラム壁画シリーズ」は、マンハッタンに新しくできるシーグラム・ビル内の高級レストラン「フォー・シーズンズ」から依頼を受け、制作したもの。ロスコーは自分の作品とそうではないものが並ぶことを嫌い、自分の作品だけでひとつの空間を作り上げたいと思っていた。

 1年半もの期間を費やし完成した作品群だったが、レストランと知りロスコが一方的に契約を破棄し、レストランに作品が飾られることはなかった。そして66歳のロスコーは自殺をした。その「シーグラム壁画」シリーズのうち、7点のロスコ作品が川村美術館の7角系の1部屋にロスコーの願いを実現して飾られている。
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ダメを通らなければ、良くなれない。

2024-10-15 04:05:32 | 水彩画


 今より良くなるためには、一度はダメにならなければならない。今の状態を、増しなものだと思っている自分を否定し無ければ、次に進むことは出来ない。だめである事は苦しい。その苦しさを通り抜けなければ、次には進めない。自分を良しとしたときが自分が、そこで終わるときだと肝に銘じなければならない。

  この文章は自分に向けて書いている。時々書かないと自己否定の矛が鈍るからだ。人間ついこれで良しと考えてしまいがちだ。今のままではダメだと、時々活を入れないと甘くなる。甘くなれば、自分というものには至れない。自己存在はその先にしか居ない。

 絵を描いていると言うことは、その点、目の前に絵を置いて考えられる。ここが指針になる。今描いている物が良いと思えば、つまりそれが最終地点である。その先はないということだ。その先がないような藝術があるわけがない。藝術は常に新しい世界に進むものだ。

 今のほどほどの良さではないか。という、まやかしを越えるために、描き終われば過去のものだと考える必要がある。目の前にある絵は次に進むための材料だ。どこが自分ではないかを見つめ直すためのもの。自分を評価する絵などいらない。

 自分を捜して描くという行為が私絵画なのだ。終わった行為は過去と考えなければ成らない。これが私絵画の苦しさである。完成を求めて、絵が一度完成すれば、その絵を否定しなければならない。そしてまた新たな気持ちで描き始める。その繰返しだ。

 そ絵が絵がデタラメになったとしても自分の絵の模写をしているよりはましなのだ。自分のそこそこの良さを後生大事に抱えてる姿が一番醜いのだ。自分などらっきょの皮むきで、どこまで行っても無いのかも知れない。あるかないかはどうでも良いことだ。探し続けると言うことが生きると言うこと。

 何を目指しているのか、多分目指していないのだ。描くという行為をどこまで純粋化できるかなのだ。だめならそれも出来るが、何か良いのかも知れないという声も聞こえるのだ。こんなことではだめである事を通り抜けられない可能性が高い。

 絵を描くと言うことは甘く考えれば、だめのまま終わる可能性が高い。生きると言うことも甘く考えたときが終わるときだ。この自己否定の苦しい道を通らなければ、わずかでも次の段階には進めない。人間が先に進むと言うことは、今を否定すると言うことになる。

 その一時の小さな成功を守ると言うことが、一番情けないことなのだ。修行を妨げることになる。過去のわずかな成功に、人間はしがみついてしがちなものだ。その小さな自分という物を否定しない限り、次には進めない。そこが難しいのが人間なのだと思う。

 自分でその小さな自分を守ってしまうのは論外だが、問題は良かったというまわりの評価の声なのだ。だから若いときに受賞などして、絵が売れるようになった人というのは、概ねその時から後は下り坂になる。傍から見れば昔は良かったという人なのだ。

 評価を鵜呑みにしてうぬぼれてしまった人は、自分の絵の模写を続ける哀れなことになるのだから、自分の贋作作家で終わる。評価されないと言うことこそ、素晴らしい絵に居たる道だったという人の絵画こそ、私には魅力的なものに見える。

 まわりの人が好意で評価をしてくれる。これが前に進むためには一番励みになることだ。修行の継続がそのために可能になる。ところがその褒められることが障害になる。甘える自分が居てはならないのだ。自分だってそこそこであると、そう言う卑しい思いを断ち切る必要がある。

 それをまわりから今で良いなどと言われれば、ついその気になってしまうのが、人間である。そんなはずはないのだ。まあその点私は大丈夫だ。私絵画だという自覚があるからだ。人間はやり尽くすことで初めて次に行ける。中途半端に納得してしまえばそこで成長は終わりである。

 自給農をやっていれば、収穫と言うことで、日々至らなさを痛感する。農では成功の法が少ない。必ず不十分である。それを受け入れて次への努力が出来る。これが大切なのだ。自分の力不足はしみじみとわかる。しかし、分るから考える、そして努力することになる。

 いつもダメだと確認することこそ、未来の可能性である。これで良しと思えばそこまでである。絵を描くと言うことはやり尽くすことなのだ。やり尽くさなければ、ダメなことがはっきりとしない。曖昧に残せば、なんとなく可能性があるように思えてしまうのだ。

 絵はやり尽くす姿だけなのかも知れない。良くここまでやったという感動かも知れない。良いところで終わると言うことは一番良くない。水彩画が危ういのは、誰が書いても最初の調子が一番美しいのだ。いわば墨絵を何度でも塗り直すようなものなのだ。

 そうしなければやり尽くしたことにならない。墨絵を何十回も塗り直して、初めて白い紙に墨が浸みて行く、あの美しさを越え無ければ成らない。油彩画と同じように何度も重ねて塗り固めて行く必要がある。ルオーのようにもうこれ以上は塗り込めないというように、水彩画もやり尽くしたものでなければ成らない。

 水彩画の本当の美しさは、一度塗りにはない。一度塗りの美しさは、私の美しさではなく、誰がやってもそうなるという、塗り絵のような素材としての美しさなのだ。この最初の状況に魅せられてしまい、離れられない水彩画は多いのだが、それは人間が描かなくても、誰にでもそれなりに出来る絵のようなものに過ぎないのだ。

 その最初の美しさを、無視できなければ私絵画にはならない。自分に至る道が芸術としての絵画なのだから、当然のことだ。人間はどこから来てどこに行くのか。これが芸術の核心である。自分を探求し画面に表現する。これが私絵画の核心である。

 自己探求の姿勢で、絵を描くという行為に大切なものがある。それはごく普通の絵を描く日常なのだが、その描くという行為を、真剣な真実なものにするためには、自己探求をやり遂げるという覚悟がなければ、何にもならない無駄な人生の費やし方になってしまうのだ。
 
 確かに結果としての絵が立派なものになればとか、世間で評価されるもになればとか、高く売れるものになればとか、外部に評価を委ねる生き方もあるのだろう。しかし、それは外部が絶対神であれば可能なことだが、そんな物はどこにもない。坐禅はただの只管打坐に過ぎないからこそ価値があるのだ。

 

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ノーベル物理学賞をAI開発者が受賞

2024-10-14 04:22:55 | Peace Cafe
ハッピーヒルのひこばえ。稲刈り10日目。

 ノーベル物理学賞は、10月8日夜、カナダ・トロント大学のジェフリー・ヒントン名誉教授とアメリカ・プリンストン大学のジョン・ホップフィールド教授のノーベル物理学賞受賞が発表された。受賞理由は「人工ニューラルネットワークによる機械学習を可能にする基礎的発見と発明」である。

    画像生成、音声認識、ChatGPT、自動運転車、ロボット工学...etc. 今や急速に生活に溶け込み、日常に欠かせないものになってきたAI技術の進化は、ヒントンの開発したディープラーニング研究を礎としている。自ら考える人工知能である。

 人工知能(AI)の基礎を開発した2氏に決まった。早くもAIの研究分野での応用が評価されたことになる。将棋や囲碁がAIによって大きく変った。でープランニングである。囲碁は日本が最高水準を保っていた。作られた中国よりも高度な囲碁が打たれていた。

 所が、アジアで日本は中国、韓国、そして台湾、さらに日本というような状態になった。その原因はAIの登場によって囲碁のそれまでの発想が通用しなくなった結果だと思えた。日本にはプロの世界が古くから存在し、日本の囲碁の常識のようなものが確立されていた。

 この確立された考え方が、実は邪魔になって、AIの発想に余計について行けなくなった。強くなるためには、日本で確立されたそれまでの囲碁哲学のようなものを、自己否定しなくてはならなくなった。その意味で確立されていなかった。中国や韓国の新しい棋士の方が、無理なくAI囲碁の考え方を自分のものに出来たのだ。

 定石がガラッと変ったのだ。星に打たれた石に対して、33にすぐに入るような定石が表れた。囲碁は大して強くないので、その意味は分らないわけだが、すべての基礎となる考え方が変ったのだと思う。日本の棋士はそこからの20年苦労の連続であった。

 囲碁人口は将棋人口の数倍と言われていたのに、囲碁の世界の方が、経営も出来なくなり、棋戦がなくなるあるいは縮小というような状況になった。アジアでも弱い国なのだから、当然の結果と言えるだろう。囲碁だけのことならばどうと言うことも無い。

 すべての分野で、日本は一度は世界最高水準まで進んだ。所がコンピュターによる新しい産業革命が起きて、その抵抗性力化してしまったのだ。その背景にあるものが、実は日本の高度成長期の成功体験にある。コンピュター囲碁が登場して、後追いの国はどんどん利用して強くなった。

 あらゆる分野で、AIを上手く利用する文化が登場したのだ。スマホでも今や日本は先端ではなくなったのだ。アメリカはその点国の成り立ちの為なのか、成功体験で満足することなく、さらに上回る新しい発想を生み出して行く活力がある。移民で出来た国だからかも知れない。

 囲碁をやっていた人はコンピュターで囲碁は無理だと、デープランニングのAI囲碁を馬鹿にしていた。将棋では人間を上回るかも知れないが、囲碁では無理だと普通に話題にされていた。所が、そうではなかったのだ、囲碁がより複雑なゲームであればあるほど、AIは人間を引き離して強くなった。

 このコンピュター革命を軽んじてきた日本人は当然、新しい産業を生み出すことが出来なくなったのだ。革命以前の成功体験が邪魔をしたのだろう。もう30年のあいだ新しい産業が生まれることなく停滞した。それなりにやれていたもので、現状を引きづったわけだ。囲碁の棋士が韓国中国に抜かれて行く歴史でもある。

 その時に日本人は何故弱くなって行くのかが分らなかったのだ。ハングリー精神が足りない、努力が不足しているぐらいの分析だったのだ。自己否定が出来ないために、新しい世界に行けないのだ。でープランニングの自ら施行する力を持ち、自己否定する武器なのだ。AIはすでに人間を越えている。

 将棋の世界では藤井聡太が登場した。AIを利用して、新しい発想を身につけたために、圧倒的に強くなった。しかし、未だに藤井聡太7冠の強さは、惜しまず努力が出来るからだというような分析が、最後にはされている。確かにそれもあるが、重要な観点はAIを利用して、様々な局面を記憶していることにあると思える。

 絵画の世界が本質的には終わった原因は、やはりコンピュター革命にあると考えている。映像による精密な複製が、無限に可能になるという事。このことは私は高校生の時に気付いた。過去のすべての絵画と自分の創作が同列に評価されるときが来ると言うことに気付いた。

 音楽がレコードが出来て、生演奏から変化したようなものだ。作曲家は、バッハ、モーツアルト、ベートーベンと同列に比較される。だから、新しいクラシック音楽が生まれない。現代音楽の中でも芸術性の高いというか、難解なものはクラシック音楽のジャンルに入る。

 絵画においてはダビンチ、ベラスケス、ボッティチェリが自分と同列に比較できる時代がそこまで来ている。状況がこれほど変る中で、優れた手仕事である藝術という意味は失われている。上手であるということは、コンピュターに任せれば、ダビンチ以上の表現も可能なのだ。

 AI革命の時代以降の時代では、オリジナリティーの意味が変る。藝術の意味は人間自身の創作行為に重点が置かれるようになる。それを「私絵画」という名前を付けることにした。自分が描くという行為によって、芸術的体験をするという藝術世界のことだ。

 コンピュター革命の変革期である現代社会は、上手くAIを利用できるものが、優位を築いている。AIは道具である。その意味では蒸気機関と変らない。道具は人間がどう使うかで意味を持つ。将棋がAI登場で面白くなくなるかと思いきや、そうではなかった。

 一定の条件を付けることで、ゲーム性を残せたのだ。つまり対局中は見ることが禁止される。ところが、観客はコンピューターの評価値で手を読みながら戦いを味わう。これが面白いのだ。そして、将棋解説者の登場。コンピュターを駆使して、分析をしてくれる。

 それも含めて、棋士という人間の勝負が以前より鮮明に見えてきたのだ。コンピュターの示す最善手だけではなく、人間同志の戦いでは、相手はコンピュターではないから、相手の性格や傾向を含めて手段を打ち出す。案外AI最善手以上の手が表れるのだ。

 人間同士のぎりぎりの勝負に、コンピュターでは計り知れない、人間というものの意味すら表現される。これが意外に面白い。例えば2日制の勝負では、封じ手というものがある。一晩寝かされる手である。コンピュターではこの有利さの意味は計算できない。

 それは昼食休憩夕食休憩にも出てくる。あるいは疲労の問題も出てこない。こうした人間ならではの要素と、AIを加味してみて行くと、将棋は以前よりも素人の観客にも楽しめるものになったのだ。しかも、この将棋の読みという発想能力の養い方の意味も具体化された。

 農業の試行錯誤や戦略は、ほぼ将棋の発想と変らない。新しい方法を考えるときには大いに役立っている。良い自給農になるためには将棋的思考法は役立つ。じつはAIの教えからも大いに役立つが、自給農を行うのは人間なのだ。体力や味の好みまで関わって来る。

 この曖昧さの中に、人間がいる。「自給農はスポーツだ。」「水牛耕作はスポーツだ。」先日これを思いついた。水牛クルバシャーは真にスポーツだ。スポーツであれば楽しみである。お金を目指す棋士もいるだろうが、大半の人は遊びとして将棋で暇つぶしをするのだ。

 AI革命後は世界は変る。蒸気機関革命は肉体の意味を変えたが、今度のAI革命は人間の知能の意味を変える。思考する動物から、思考し創作する動物になる。創作することの喜びをどこまで深く味わうことが出来るかである。その描く思考の痕跡が絵画の画面と言うことになる。

 人間の生きる喜びは何ものかを創造することにある。芸術的創造ほど、大きく深い喜びはない。それは鑑賞する楽しみとは比較できないほどのものだ。そのことがAI革命後の時代に、人間が生きるためには最も重要な自覚しなければならないものだと思う。

 法律の運用などAIに任せるべきだ。行政の許認可の仕事もAIが行うべきだ。そうしてどんどん知能がAIに任されれば、民主主議社会が来る可能性が高くなる。確かにAI革命は危険な側面も大きい。人間のための科学であることを忘れてはならない。AIによって資本主義の終末期も様相が変る可能性がある。

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273 水彩画 日曜展示

2024-10-13 04:38:06 | 水彩画
273 水彩画 日曜展示






578「とぅまた田んぼ」
2024.10 中判全紙






579「とぅまたたんぼ」
2024.10 中判全紙





580「樹木」
2024.10 中判全紙





581「花咲く庭」
2024.10 中判全紙



 このところ4枚続きだ。かなり描いているのだが、日々の一枚には残念ながら成らない。一つには中判全紙ばかり描いていると言うことがある。10号ぐらいまでだと、日々の一枚になるが、中判全紙の大きさになると、ほぼ2日はかかるようだ。

 英太郎さんのやられている田んぼはとぅまた田んぼと言うことが分った。今の崎枝地域はその昔は3つに分かれていた。一番西側の半島の先の方が「やらぶ」まんなかが「さきえだ」そして一番東側の半島の付け根が「とぅまた」と呼ばれたそうだ。

 とぅまた節という八重山民謡があり、そこにある松からうたが始まる。今も田んぼのまわりには琉球松がある。その松が素晴らしいものなのだが、とぅまたの意味が分らず、色々間違えて絵を描いていた。歌が出来たのは1871年頃ではないかとされている。

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沖縄の染めと織の至宝展

2024-10-12 04:24:53 | 石垣島


 「沖縄の染めと織の至宝」ーー桃源用昇コレクション八重山展ーー
 素晴らしい展覧会が石垣市市民文化会館で開催されている。114点の展示である。現代沖縄を代表する織物作家、9名の代表作と言えるものが陳列されている。沖縄を代表する藝術と言えば、織物である。織物藝術は沖縄のものが傑出している。歴史的にもそして現代にも素晴らしい作品が存在する。

 その素晴らしい9名の中でも、八重山上布の新垣幸子氏の苧麻の作品はその美しさが際立っていた。新垣氏は昨日、人間国宝に指定された方である。ほかの方の絹織物よりも、素材としての苧麻が、どれほど美しい繊維であるのかを、味わうことが出来た。

 桃原氏はこの織物の他に類を見ない最高級の作品を、八重山博物館が出来たならば、寄贈すると言うことである。その準備のために、収蔵作品の充実という意味で、沖縄の織物を収拾されていると言うことのようだ。今回の作品だけでも、一つの美術館が出来る価値が十分にある。




 石垣市民にとってこれほどありがたい話はない。沖縄文化を再認識できる場になるはずだ。未来の観光に必要な文化の核ができると言うことになる。これからの観光には博物館や美術館は必要不可欠な施設になる。文化を味わうためには博物かに行くのが一番だからだ。

 一つ残念なことは宮古上布の織物がないことだった。宮古上布の藍染めの品格は、世界に類を見ない最高級のものだと思う。博物館の収集品として、是非何らかの形で、収蔵して貰いたい。確か南嶋民族資料館 には端布帳があったはずだ。




 照明や湿度管理など不十分と言える展示であり、少し心配になった。かなり努力はされては居たが、繊細な織りの様子を味わうためには、不十分な環境であった。それが故に本当に手を取るように近づいて見れる、という有り難い側面もあった。布は本当は手に触れなければ分らないものなのだ。



 苧麻の味わいはその透けるような意図の繊細さにある。その繊細な糸の淡い染めの味わいは他に類を見ない至宝である。絹の絢爛な光り輝くような美と、芭蕉布の心に染み込んでくるような、滋味ある深い味わいのある美しさが、沖縄の織物の対極に存在する。




 その両者に通ずるところがあるのが苧麻の織物の美しさである。苧麻の織物は上布と呼ばれ、沖縄では歴史的に見ると宮古上布が選りすぐれたものであった。琉球王朝ではその上布を年貢として、宮古から上納させていたものだ。宮古上布と八重山上布を並べてみることで、その違いと価値が見えてくるはずだ。

 上布というと普通麻織物になる。そのため苧麻の織物を麻の一種というような表記がされているものもある。苧麻と麻は全く違う植物である。日本の三大上布と言えば「宮古上布」「越後上布」「近江上布」。であり、その他として八重山上布、会津上布、能登上布、などがある。



 上布というものは布の中で上のものという意味である。綿織物、絹織物が普及する前には、布は麻、苧麻、葛や楮 などから織られていた。数千年の歴史があり、正倉院御物の中にもある。日本の織物を代表したものが麻だった時代がある。

 麻の中で特に繊維の細い苧麻を上布と呼んだ。上布は特に尊い織物と考えられていた。苧麻はイラクサ科の多年草である古くから沖縄地方に自生する植物で、40日ほどで生育し、石垣島でもよく見られる。ただし、普通に野生種もあるが、織物に使われる苧麻は背丈が特に高く、長い繊維が取れる選抜種である。





 石垣の草は大抵は年4,5回ほど収穫可能。糸を積むところから始まり1つの反物が織り上がるまで、数年かかることも珍しく無いほど、糸績みが大変なものだ。より細く繊維をより合わせ、そのつなぎ目が無いかのように継いでゆく技術が、もう現代の人には不可能だというほどのものらしい。

 以前、新聞で読んだ記事なので、正確なところは分らないが、石垣島では上質な苧麻の糸は、すでに糸績み「ぶーうみ」をする人が居なくなったと言うことが書かれていた気がする。それで上布の作家である新垣氏は、最後の糸を一反分大切に保管していると言うことが書かれていた。


 一反分を紡ぐためには4ヶ月かかる。一反分の糸の価格が50万円以下では最低賃金に満たないと言うことになる。民芸品の基盤が失われて行く原因はここに在る。自分や家族のものを織るのであれば、価格が存在しない。そういう環境でなければ、本当の織物は生まれないのかも知れない。


 豊川ふみさんと言う方が最後のぶーうみ者。各家の庭にも苧麻が植えてあり、お年寄りが糸績みをしている時代があった。しかし、今では島でただ一人。この道70年になる86歳のおばあ、『豊川ふみ』さんが最後の績み手と言われている。

 苧麻のぶーうみは手でより合わせるのだが、苧麻の糸は極めて細い。その細い糸がつなぎ目が分らないほど繊細に撚られていく。このぶーうみの技術が失われつつある。こうした根気仕事はもう日本人には難しくなってきている。新垣氏は素晴らしい織りの作家であるが、それを支える豊川氏も重要な存在なのだと思う。



 八重山の方には宮古上布に対して、何か意識があるのかもしれないと思う。宮古上布は上物で、八重山上布は一段落ちると言われた時代があったからだ。しかし、現状で言えば、新垣さんの八重山上布は世界に出しても誇れるものである。現代の織物の最高水準のものだと思う。

 そして宮古上布の品格の高い作品と並べてみたいと切に思った。その時に、喜如嘉の芭蕉布と3つ揃って見ることで、沖縄の織物の意味が際立つのではないだろうか。芭蕉布平良敏子さん の素晴らしさは、喜如嘉の織物の家に生まれた、庶民の暮らしからにじみ出た、生活臭である。

 宮古上布は王侯貴族の品格である。宮古上布の藍染めの服の持つ、緊張感は別格である。それでは八重山上布はどうなのか。晴れやかで明るい南国の織物である。希望を秘めている美しさである。個人的に言えば、この沖縄の3つの最高峰の織物の中でも一番好きなものになった。

 沖縄の織物は本当にすばらしい。必ず未来の沖縄の文化を支えてくれるはずだ。しかし、今消えかかっているものでもある。着物を着る文化が失われているからだ。だからこそ、どこかにこの美術品を保存展示して、沖縄の文化の高さを認識できる場所が必要になる。

 沖縄の絵画や沖縄の陶器などあまり評価できない。絵画で言えば中国画のようなものはあるが、沖縄独自なものにまで成熟されたものはないと思う。沖縄らしい伝統というものが感じられないのだ。陶器など戦後沖縄風陶芸というものは表れたがそれ程ではない。その意味では古酒造りの甕にいくらか良いものがあると思う。

 沖縄を代表する文化は織物と八重山民謡と琉球舞踊ではないだろうか。染めも確か素晴らしいとは思った、一級品ではあるが、別格という気はしなかった。紅型などいかにも沖縄的なのだろうが、世界の染織から考えれば、普通という範疇ではないかと思った。

 紅型の色の晴れやかさは、南の島の祭典の色調なのだろう。紅型の色調は顔料による色調だ。染料ではない。染め物と言っても繊維の上に色がすり込まれたて、載せられている色調だ。琉球文化の中で生まれた 紅型衣装に使われていた色材は、顔料が主体であった。八重山や宮古の文化とは別物に感じる。
 


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