地場・旬・自給

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久野里山作り 第3回勉強会

2006-09-30 04:34:33 | 里地里山
昨夜、久野の区民会館で第3回里山作りの、勉強会があった。私は里山を再生するには、地域の農業が活性化するしかないという事を、繰り返し話させてもらった。同じことを言われる方は、何人か居たが、みなさん農業が盛んになることなど無い、と諦めてしまっていると言う事もわかった。

これは小田原市の農政課からの参加者ですら、「農業をこの地域で盛んにする事はできない。だから、環境問題として、市民的に、里山整備を行ってゆく。」こうした考えもあるのではないか、と言われていた。

久野という農業地域で、生業として農業を盛んにしてゆく事が、不可能なことだと、諦めてしまっている現実を、どう考えたらいいのだろうか。多くの方が国の農業政策、林業政策の誤りによって起きている、輸入製品偏重を言われていた。もちろん、私もそうだと思っている。

難しいのは、久野で農業は可能だ。この主張が、今、農業に携わってくれている人を、能力不足だと非難しているように受け取られることだ。もちろん、そんなわけはなく、今農業をされている人達は、すごい能力を持たれた、有能な方達だ。だから、こんな困難な社会状況にもかかわらず、農業を続けられている。

その人達を、どのようにバックアップするかが、里山再生には一番大切だ。その大きな骨格があって、その上で、何処の何をみんなで整備してみようか。と言うところに進まないと。里山作りが矮小化されてしまい。本質には迫れない。しかし、行政としては、そんなおおごとにしたくない、と言う気持ちがにじみ出ていた。どこかのため池でも、再生して、県知事にでも来てもらえば、仕事としては大成功。確かに象徴としては、それもある。しかし、里山作りの共通理念なく、ボランティアを受けいれる事は、大きな間違いにも繋がる。

私は久野の農業は可能だと考えている。私が知る限り、10名ぐらいの、すばらしい農業者が居る。その方達がやられていることを守り立てることが、久野の農業が活性化することになる。すでに、モデルはある。個人を守り立てることは、行政には出来ないだろうから。里山をキーワードに連携を深め、久野ブランドを作り出すことが、必要だ。

久野里山会で、里山の維持に貢献している田畑を認定する。そこでの農産物をブランド化し、販売協力する。具体的には、里山会認定の田んぼのお米は、全て買い上げて、有利販売をする。せいぜい現状では、田んぼ面積は10ヘクタールぐらいだろう。そこで販売にまわせるお米は、1割ぐらいのものだろう。4トン程度だろう。これを里山会で販売する。「このお米は、久野の里山を守る為に生産されています。」こう書く事が大切だ。

お茶もある。同じ販売方法で、有利販売が出来ることになる。同じことを、桑原のお米販売で行った。桑原のめだか米だ。「このお米を食べることが、小田原メダカを守ることになります。」このように販売した。こうした努力は、行政と住民の協力が会って始めて実現できることだ。これには農協や、生産組合や、行政の、協力が必要だ。この点に、是非行政は努力してもらいたい。

小田原の農業は、消費者が傍に居ると言う、極めて有利な条件がある。小田原の環境を守りたいと言う事は、市民共通の願いで、特別な事ではない。久野を里山地域と認定し、そこを守ることが、市民の利益であることが、共有できれば、久野の農業を盛んにしてゆくことは可能だ。中国から来た、農産物より、久野の里山ブランド農産物が少し高くても、選ぶ小田原市民がたくさん居る事を信じるべきだろう。
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アミノ酸新製法 微生物発酵で大量生産

2006-09-29 05:52:05 | 自然養鶏
協和発酵は26日、アミノ酸の一種のL-チロシンを、発酵法により工業生産する製法を世界で初めて確立したと発表した。今年中にサンプル出荷を開始し、2007年に製造を開始する計画だ。L-チロシンは、医療用のアミノ酸輸液、医療食の栄養成分、健康食品の成分などとして使用されており、医薬品の合成原料としての需要も期待されている。
今回の工業製法は、植物から抽出したブドウ糖を原料とし、L-チロシンの生産に優れた微生物を自然界から見つけ出して大量生産を可能にした。また、低コスト化が図れるものとして期待される。


協和発酵には以前、鶏の飼料の醗酵について教えていただいたことがある。醗酵については、学問的にも未解明のことが多いらしく、大学の醗酵学の先生に伺っても、良く理解できない事があった。その点協和発酵の研究者の方は、実用的な醗酵法については、理解が深く、起きている事を解明する場合や実用的な醗酵の利用法では、重要な示唆をいくつも頂いたことがある。

今回のアミノ酸の微生物生産も画期的なことだが、私はこうしたことは、実用の醗酵の世界では、珍しいことではないと思っている。何故、醗酵利用が自給飼料に於いて、必要不可欠であるか。醗酵飼料を、工夫しながら養鶏をやっていれば、自ずと気付く点である。醗酵で資料効率がよくなり、180グラム必要だったエサが、160グラムになったりするのだ。牡蠣ガラの消費量が、醗酵に加えるようになり、30%減っている。

醗酵食品は、人間の暮らしの中で、培われた技術である。科学的な分析は出来ないが、経験的には乏しい食材を多様に利用してゆく方法として、民族文化として、伝えられてきたものだ。分析するよりも、経験的にその効果の実証が繰り返され、残されてきたものだ。

現在食品残渣として、焼却処分されてしまうものの中に、貴重な飼料として利用すべきものは、いくらでもある。日本の畜産飼料の輸入量2.000万トンと、食品廃棄物の年間総排出量は2.000万トンは同量である。食品残渣は、食品リサイクル法が出来たとはいえ、焼却処分される量が一番多い。再利用は10%程度に過ぎない。しかも、堆肥化されるものが多く、飼料として利用されるものは、統計には出て来ない程度だ。

エサになるものはエサに、エサにならないものは堆肥に、堆肥にもならないものがあれば、焼却する。この順序でなければ成らない。

エサにする方法の、一番の可能性が醗酵だ。例えばオカラを飼料にする。これをそのまま食べさせても、飼料としての価値は低い。中々食べてもくれない。ところがオカラに乳酸菌を加えて、嫌気醗酵させると、オカラの糠床のような、すばらしい飼料ができる。いわば、鶏にヤクルトミルミルを毎日飲ます事になる。これで、鶏の健康管理が出来る。しかも、乾燥させて飼料化することに比べ、エネルギーの無駄も無い。
米ぬかだって、魚のアラだって好気醗酵させればすばらしい、飼料に成る。

今回の協和発酵の発見は、微生物によるアミノ酸の大量生産だ。これは飼料価値が上がる。と言っても、もっと小さなアミノ酸の生成は、家庭の糠床だっておこっている。食品残渣の、適切な醗酵が、日本の畜産の基本的な方法になれば、日本の飼料輸入は止まり、それだけで、食料自給率は10%は回復する。
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ダーウィンの悪夢

2006-09-28 06:44:57 | 環境関連
グローバリゼーションが何故問題なのか、「山形国際ドキュメンタリー映画祭」で昨年受賞したフランス制作のドキュメンタリー「ダーウィンの悪夢」がその実態を表している。日本では公開はされなかったようだが、BS放送で上映された。
何故今頃そのことを思い出したかと言うと、この映画の舞台になっている。タンザニアで、この映画に対する抗議デモがあったという、報道だ。

(ダーウィンの悪夢)に対する
大規模なデモが行われました。
当映画はとっくに封切されており、なぜ今更?
事の発端は、キクウェテ大統領が先月末、
ムワンザ市で行われた月例演説の中で、
当映画について批判したことにあります。
多くのムワンザ市民は、
出来上がった映画そのものはまだ見ておらず、
大統領の発言がきっかけになったものと思われます。


以下はこの映画の紹介文です。
人類の発祥地とされる世界最大の熱帯湖の湖岸は、今日グローバリゼーション最大の悪夢の舞台となっている。
タンザニアでは1960年代、科学実験と称して捕食性の貪欲なナイルパーチがビクトリア湖に導入された。それ以来、ほとんど全ての土着の魚群は死滅した。巨大なナイルパーチの白身肉の全北半球への輸出が成功し、この環境破壊からは実り多い産業が生まれた。
漁師、政治家、ロシア人パイロット、売春婦、実業家、欧州委員がアフリカ諸国の国境を越えた惨劇の登場人物。
実際、上空では旧ソ連の巨大な貨物飛行機が湖上をひっきりなしに飛び交い、南への武器輸出、という全く違った商売への門戸を開放している。


ビクトリア湖で採れるナイルパーチの切り身は日本人も食べている。開発途上国に日本が経済進出して、仕事を作り出し、その国を豊かにしているのだ。こういうことを言う人が居る。大きな経済格差のある前提で、企業は資本の利益のために進出してゆく。途上国の利益等生み出していない、事実を見なければならない。アフリカの情報は少ないが「アフリカ情報通信」を読むとそのことが、よく理解できる。

グローバリゼーションは先進国の、利益の為に作られた考え方だ。例えば世界で、「農産物有機基準を作る」このこと自体は何の問題も無い。ところがこの基準でアフリカで、作られる有機野菜が、アメリカ資本の農場で、イギリスへの輸出向けだ。そこで低賃金での労働力としてのみ、アフリカの労働者が存在する。自らの文化とも、生活とも縁の無い、労働力提供が起こす事。ナイルパーチが、ビクトリア湖に数年で壊滅的な打撃を与えたように、その国の成り立ちを壊滅させることになる。自分の口に入らないものを作り続けることは、人間を破壊する。

どこに行っても、「地場・旬・自給」は当然のことなのだ。私たちの活動は細々ではあるが、アフリカのタンザニアでえらい目に遭っている人達と、連帯している。
タンザニアの人達にはこの映画の表す、地獄のような情景が、やはり許せないで、デモをしているのだと思う。
この悲惨を、世界に訴える為に作られた映画をも、許しがたいのだ。
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食農教育

2006-09-27 06:24:07 | 
昨夜は、無理を言って夜に「食農教育」の阿部さんに来ていただいた。夜わざわざは申し訳なかったのだが、昼が時間がとれず、そういうことになってしまった。カメラマンの方にも、遅くまで、申し訳なかった。写真を撮りに来ると言うのに、夜で、機材が多くなり、大変だったと思う。

農文協という出版社がある。ここの出している「現代農業」が自分にとって、長い間、福音のようなものであった。自分が何をしたいのか、何に向かっているのか、何者なのか、皆目わからず、悶々とした気持ちで、東京に暮していた。現代農業を手にとって、ホッとした。その頃は当然現代農業に記事を書く事になるとは夢にも思わず、読んでその気になって、息をつくという状態だった。

農的な生活に憧れると言う気持ちが、徐々に育っていった。絵を描いてゆくという中で、一体描くべき内容はどこにあるのか。このことに行き詰っていた。農的な暮らしと言うか、反文明的な暮らしに活路を見つけられるのではないかと言う気持ちが起こってきた。それがその後、自給自足の実験生活になった。

昨夜の取材は、手作り孵化器の撮影だ。このブログにもその記事は載せたが、小学生が、費用をかけず、簡単に手に入る材料で、工作できる。そんな孵化器を作ったのだ。この孵化器は正直自分でも驚くほどの性能があり、市販されている孵化器より孵化率がいいほどだ。実際その記事から孵化を試みて、成功したと言う手紙を貰って嬉しかった。

これは私自身が子供の頃、やったことの再現だ。卵を温めるとヒヨコになる。このの神秘から、鶏にのめりこんだ。小学校の飼育係から、科学の道に進んだ人は少なくないと思う。それが、鳥インフルエンザ以来すっかり下火になった。その騒動の直後、食農教育では手作り孵化器を掲載すると言うので、さすがだと思ったのだ。消えかかった火を絶やしてはいけないと、頑張っている人は、いる。

小学校の家畜飼育は、本格的に教育として行う価値のあることだ。鶏を飼って見る。このことから、広がる世界、哲学、は教育そのものだ。但し現在の学校に、その指導が出来る教員がどの位居るだろうか。だからこそ、地域に学校を開き、地域の人材を生かすべきだ。

以前地元の久野小学校の教員に学校田のことで、話しをしたことがある。このことの意義と、今後の広がりについて話した。するとその教員は「何で私がそんなことをしなければならないのでしょう。」こう拒絶した。やらないでもすむ事を、何でやらなければならないのか。驚いたようだった。学校田とか、家畜飼育が余分なことと考えられている。興味のある教員が居るなら、やったら言いと言う、レベルで捉えられているからこういうことになる。

まぁー、学校の世界も、カネにならないことはやりたくない。こんな感覚を感じた。教育にかかわると、「きれいごとと、金。」はいつも臭う。
農文協には、そうじゃない空気がある。だから、農文協に頼まれたことは、できる限り協力することにしている。
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水谷仁美さんの画集「水彩の筆あと」

2006-09-26 06:07:11 | 水彩画
「水彩の筆あと」

水谷仁美さんの画集が送られてきた。遺作展があったようにも聞いたが、知らないまま過ぎていた。葬儀も出席できず、香典だけ届けると言う状態だった。
今になって画集を見ながら、寂しさが通り抜ける。

水谷さんとは、水彩連盟に出し始めてからの付き合いだったので、25年ぐらいの長いような、短いような付き合いだった。水谷さんは、長沢節さんが、節モードセミナーを開催して、最初の生徒だったそうだ。今の、四谷の裏の方に移る前で、池袋の方とかにあった頃だと聞いている。この画集を編集したのも、永井健司さんと書いてある。懐かしい方で、やはりセツの初期の方だ。

長沢先生には不思議に親しくしていただいた。私はセツにはかかわりがなかったが、なぜかセツ出身と思われていたぐらいだ。かっこいい好きの、長沢さんとしては、私とのかかわりは、ちょっと変だったかもしれない。長沢さんには、「人のお酒をついじゃダメ!」とか色々生き方を教わった。水谷さんもそうだった。随分フォローしてくれた。絵の世界にいる人間は、大方人間としてはろくでもない者が多い。許しちゃいけない人間が、かなりいる。盗作で問題になった和田さんのような人が、闊歩している世界だ。

水谷さんが、長沢さんの最初の生徒だったと知ったのは随分後だったけど。見えない深いところで優しいのは、似ていた。私などは水彩連盟の、異物で、笹村を受け入れたところが、水彩連盟のいい所だと言われるほどで、文句ばっかり言ってきた。長沢さんは私が出した年に入れ違いで出すのを止めちゃったので、上野では会わなかったけど。代わりの様に水谷さんには、助けられていた。と言っても表立ってそういうことをする人で無いので、後で、知ると言う事だった。

水谷さんがすごいのは、歩けなくなって、もう長くないってみんなに噂されるのが厭だ、とか言いながら、段々絵が良くなったことだ。それは本人が一番自覚していた。描写的なものから、段々抜け出ていった。しかし、今になって画集を見ると初期の絵に、むしろ水谷さんが、居て、世間的に絵としていいというのは、どんなことなのかとも思う。

又、歩けるようになって、目黒のクラマーの水彩人の初日に、来てくれたのが、最後にゆっくり話せたときだった。絵画性ということを、盛んに話してくれた。そういうことが少しわかった、と言う。そういうつもりで、絵を描いたら、そのことを、何人かに分かってもらえたんだ。そう言って心底喜んでいた。
「絵を描くっていい。分かり合える人が居るんだ」と何度も言っていた。ちょっと遅かったとも言っていた。

水谷さんの絵が変わったと思ったのは教えるようになってからだ。カルチャーセンターの先生をやるようになって、変わった。絵に客観性が出てきて、人にも伝わるように変わり始めた。そのときは、もう70ぐらいだから、すごい事だ。普通の絵描きは50過ぎると、だいたい絵は悪くなる。めったに良くなる人は居ない。もしかしたら、水谷さんが本気で絵と向かい合ったのは、70過ぎてからだったのかも知れない。

教えて、学ぶ、というのは簡単なようで難しい。水谷さんが謙虚でやわらかな人だった、ということだろう。きっと葬儀に行けなかった私のことも、しょうがない笹村だ、と許してくれていそうだ。
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コロナの湯か、万葉の湯

2006-09-25 07:22:39 | 日帰り温泉
先日、湯快爽快さかわの前を通ると、まだ工事は始まっていないようで、紐で入れないようになっているだけだった。だだっ広い駐車場が、何か挑戦に破れたような寂しい気分が漂っていた。そこだけ時間が経過していないようでもあり、何年も過ぎてしまったようでもあった。

その後、あちこちのお風呂屋さんを歩きながら、品定めをしている。近いと言う事では、 「万葉の湯」だ。だから、駅のほうに用事があれば行く。しかし、高い。1200円である。めったに入れない。銭湯と言うわけではない。まぁー便利なところなので、止む得ないのか。ピースカフェも置いてくれている。全体に明るくて、近代的。情緒は無いが、きちっとしている。中心は2400円で入場して、一日楽しむと言う事なのかな。

「コロナワールド」も何度か行った。ここは400円で入れるから、その点はいい。問題は一つあって、道路の混み具合が厭だ。巡礼街道の状態がひどい。この辺で暮している人は、生活できるのか心配になるほどだ。しかし、400円はいい。このコロナの湯は、映画館や、パチンコ、ゲームセンターが、併設されているのだが、タバコの煙がひどくて、とても探検する気になれない。体質的に、タバコの煙に弱く、10分そういうところにいると、完全に肺をやられてしまって熱を出すことになる。ここは一応温泉と言う事だが、温泉と言うほどの効果は感じない。打たせ湯が無いことも、マイナスだ。

レジオネラ菌の性だ。このために打たせ湯を止めた、大規模温泉施設が多いい。家庭用の24時間風呂もレジオネラ菌問題をNHKが特集して、一気に下火になった。これも菌に対する過剰反応だ、と私は思っている。サルモネラ菌も、O157もそうだが、病気の説明の方から入ると、有得ないような100万分の一の可能性も、わが身に降りかかるような気がしてくる。その為に、不思議な衛生観念が蔓延し、細菌や寄生虫にを、極度に排除することになり、ひ弱な体質や、アレルギーを生み出している。総体としてみたら、菌と共存した方がいい。それが自然だ。本当の自分の健康は、自分の思想で作りださないとダメだ。

コロナの湯には打たせ湯が無いのが、唯一欠点だ。さすがに混んでいた。しかし、私は混んでいるのは全く平気だ。むしろ、良かったと感じる。サウナも、湯船も、電車の中のようだったが、それもいい。隣の人が大声で「混んでるけど、仲間だと思えばどうと言う事は無い。」みんな同感の、ほっとした空気が流れた。お風呂には、冗談でも言って、場を盛り上げ、ほぐす、人がいるといい。きっとみんなの尊敬を集めるに違いない。江戸時代の風呂屋には、きっとそういう人が居たはずだ。

コロナの湯の常連は、さかわが止めてから人が倍になったと、話している。これで倍と言う事は、随分すいていたという事だ。これも原油高騰のあおりを食らっているだろうから、この先の経営を考えたら、エネルギーの工夫が、必要だろう。
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佐々木ナオさん 小田原市議会議員挑戦

2006-09-24 06:43:34 | Peace Cafe
これは身近な、大ニュースだ。佐々木さんと始めて会ったのは、檜山さんが開かれたサロンの第1回目だった。3年ぐらい経つのかな。農の会の話をしていて、突然と言う感じで、農の会に入ってしまった。それから新永塚田んぼに、ずーっと参加している。野菜の宅配もその時頼まれた。何でも反応が早い。勘がいいというか。考えるより、やると言う方なのだろう。

佐々木さんの今までの行動から考えると、立候補するのは時間の問題だったのかもしれない。状況が許せば、そこまでやらないとすまない、人だとは感じていた。何を置いて積極的な感性が、ずば抜けている。行動力のほうも半端じゃない。それで、いつも走り回っているくらい忙しい。

市民ネットから出ている市会議員が、極めて有能だと言うのは、松本雅子さんとのかかわりでよくわかった。桑原のメダカが意味する問題をきちっと質問してくれてから、小田原市の対応は変わった。再、再、再質問で、助役から引き出した答弁が大きくものを言った。その議事録に基づいて、私たちは行政を変えていくことができた。「道路を作るにあたり、環境アセスはやらないが、市民メダカ会議での了解は得る。」こう助役が答えたのだ。

農の会が関わってきた、耕作放棄地の問題も、その社会的な意味合いが理解できる議員は、極めて少ない。市民が何故、農地を利用して行く必要があるのか、本質的な意味を、理解できる議員が少ないのだ。農業者の権益を守ると言う視点しか持っていない。そうやって、小田原は農業問題では神奈川県で一番遅れを取ってしまった。

佐々木ナオさんは子供は小さいし、少し病気もあるそうだ。家では、子育ての上に、ご主人とともに塾を運営している。ご主人が偉い。半端じゃなくえらい。私の度量じゃ、とても引き受けられない。「何、子供抱いてたって生徒には教えられるんですから。」こんなセリフちょっと出るモンじゃない。泣かせる。

ナオさんはともかく声は大きいし、目立つ人だ。言う事は言うがやることもやる。責任感が強い。だから信望は厚いのは当然だけど、お母さんとしての配慮が行き届いている。一緒にイベントを組むと、お母さんの出れる時間や、場所、費用。子供達のこと、いつもお母さんの目を持っている。

選挙の為に、私なりにやれることはやるつもりだが、ホームページを作ると言うのをやって見たいが、どうだろうか。ここに若いお母さんたちに気軽に参加してもらい。小田原の子育て世代が、何に不自由していて、どんな行政サービスを願っているか。この辺を掘り下げてみたい。世間にどっぷりつかった親父議員たちには分からない、部分を佐々木さんに托せるように、できたら、小田原も変わっていくはずだ。

普通のお母さんが、市議会に出て行って、物申す。ことって大事だ。
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エコエネルギーの開発力

2006-09-23 08:03:31 | Peace Cafe
世界各国で二〇〇五年、風力発電などの新エネルギー開発に対して行われた投資総額は三百八十億ドル(約四兆四千億円)で、前年比約27%の大幅増、新エネ開発が大きなビジネスになっていることを示す。日本は約二十億ドル(約二千三百億円)で四位だが、他国に比べて伸び悩みが目立っていることも判明。ドイツと中国がともに約七十億ドルでトップを分け合い、次いで米国の約三十五億ドル。
 この結果、世界の新エネルギーの総発電容量は〇四年の一億六千万キロワットから一億八千二百万キロワットに増えた。容量では世界の原子力発電の半分近くになるという。国別では中国の四千二百万キロワットが最多で、ドイツと米国が二千三百万キロワットでこれに次いだ。
 日本は新エネの発電容量では六百万キロワットと中国の七分の一にとどまり、七百万キロワットに増えたインドに抜かれ六位。また一年間に新たに建設された風力発電の容量は、ドイツの七分の一以下にとどまるなど伸び悩んでいる。

この情報には驚いた。国や電力会社のイメージ作戦に大分ごまかされていた気がする。資源の無い日本は、新エネルギー開発に積極的に進んでいかなくてはならない。こんなアピールで、あたかも進んでいるかのように、思ってしまっていた。中国の7分の1ですか。インド、韓国と比べても、開発の方向は違っている。

原子力発電への依存、が大きな原因だ。世界の趨勢は、その安全性から、新エネルギーへの転換を図ろうとしている。ところが、日本は当面の経済性を重視する余り、年々原子力への依存を高めている。その結果新エネルギーへの転換を発想することが出来ないでいる。

マイクロ発電というものがある。TOTOではトイレの水に発電機を設置する事を考えているそうだ。全ての無駄にしているエネルギーを有効に利用すれば、相当のことが出来る。舟原は中央に久野川が流れている。50年前には5台の水車があったそうだ。この水車屋さんが充分採算が取れて、お金に余裕のある人は、仕事として投資したそうだ。舟原の範囲200メートルで、5軒分の電力がまかなえる計算になる。その他、田んぼに回す、水路などにも設置すれば、まだまだ余力がある。

こうした小さな発電所を、法的に押さえてきた経過がある。風力、太陽光、すでに実用化されているものでも、色々用意されている。例えば、中山間地を、自給エネルギーのモデル地区として、実験してみるといい。日本のかなりの地域が、エネルギー自給が可能なはずだ。1960年当時、山梨県芦川村では芦川の発電所で、電力をまかなっていた。家の風呂まで、電力で沸かしていた。
こうした方向を、電力会社が恐れていたのだと思う。家庭電力が、全て自給になってしまったとき、会社が成り立たないからだ。私の家では太陽光発電で、電力は余力がある。原油高騰はこうしたところに変化をもたらすだろう。

企業は企業で発電設備を持ち、工場を稼動させる。こうなると、電力会社はいらなくなる。新エネルギー投資が、27%も伸びているということは、原油高騰と地球温暖化対策から起こっている。世界の趨勢から、徐々に遅れだしている、日本の姿がこうしたところにも現れ始めている。
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国旗国歌強制は違法

2006-09-22 06:12:44 | Peace Cafe
東京都の教育委員会が、2003年の通達で、日の丸君が代を強制し、拒否するものを処罰の対称にしたことに対し、東京地裁での判決が昨日あった。
極めて明確な判決で、難波孝一裁判長は国旗国歌法の制度趣旨などから「教職員の意に反し、懲戒処分してまで起立、斉唱させることは憲法が定める思想良心の自由を侵害する行き過ぎた措置だ。斉唱などを強制する都教育長通達や各校長による教職員への職務命令も違法」と判断した。

喫茶店でコーヒーを頼むとミルクの入った、小さなプラスチックのミルクがついてくる。この可愛らしいプチミルクの仕組みが、「私」は嫌いなのだ。それは私の勝手な気持ちで、どうということが無いといえば無い。衛生的、手間要らず、結局経済的。そこそこの味のものもある。ちょっと角を切って、入れるのも悪くないといえば悪くない。切って中身を出す容器は、大抵切りにくく、こぼしてしまったりするが、これはそういうことも無い。まぁーいいほうだ。

でも私は、嫌いだ。この嫌いという気持ちは尊重して欲しい。家では、200cc入った紙パックを使っている。折角のコーヒーだから、ミルクの量にはこだわる。入れない時も多いいのだが、ちょっと入れるのも好きなのだ。この辺は私のかってな気分だ。半分気分で飲んでいるのだからそんなものだ。

だけど、プチパックのミルクは全部入れないと、半分ぐらいが、無駄になる。これが耐えがたい。食べ物を明らかに無駄にするのは厭だ。しかし、全部入れれば、好みの味を越える。どうすればいい、これぐらい自由にさせてくれと思って。プチパックは嫌いなのだ。

日の丸、君が代を、正しい姿勢で規律して、斉唱せよ。この強制が実に厭だ。黙っていれば、私も立って歌うかもしれない。サー今から、美空ひばりの、りんご追分を歌うから、規律斉唱しろ。これを強制されたらたまらない。何かを人間に従わせるということは、必要最低限にして欲しい。

こうした事を強制している会社もあるのだろうか。思想良心の自由は憲法で保障された、国民等しく権利として存在する。君が代の歌詞にわだかまりを持つ者もいる。おかしいと疑問を感じるところもある。国旗国歌法は「第1条 国旗は日章旗とする。第2条 国歌は、君が代とする。」という2条だけの法律。あたかもこれに基ずくかのように強制をすることは、許される範囲ではない。

この法の制定には、公明党や当時の自由党も賛成した記憶がある。当時も問題になったのは、それを根拠に東京都教育委員会のように、国旗国歌を「踏み絵」として、人間の従順度を計ろうとしていることが、許されないだろう。教師は多様であって欲しい。色んな教師がいるから、色んな人間が育まれる。権力派もいれば、反権力派もいる。一様であることは、教育では一番困ることだ。

すでに教師は一様になって来ている。国歌国旗が強制される学校の教員にはなりたく無い人間のほうがまともだ。そんな式には出たくないという教師を、静かに拒否できる環境を、何故作らないのだろう。「おい、河童がまた出て無いよ。」なんて、生徒が話してるほうがいい。従順な教師だけなら、管理者は楽だろう。しかし、それでは、面白くないのが学校だ。首をかけて、楯突くような手に負えない反骨教師も居ていい。
その度量のある学校がいい学校だろう。
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小田原の農地の賃貸状況

2006-09-21 06:24:52 | あしがら農の会
昨日は基準地価から始まって、小田原の今の農地の取引価格について、解っていることを書いた。農地の売買は、多分月に1件ぐらいだろう。値段も場合場合。そんな状況の中、賃貸がどのような状況か書いておく。

農の会では大半の農地を借りている。この一年は新規の契約は完全に止まっている。小田原市が農業特区による、NPO法人の土地貸借を止めたからだ。この背景は2つあって、
一つは国が次段階という事で、特区と改めて指定しないで、何処の自治体でもこの形を取り入れることが、条例を定めれば可能という事になった点。
もう一つは法人の農地利用に対する、農業委員会の反発ということがある。農地の利用が農業者や農業法人の既得権化している中で、規制緩和政策への反動が起きていると思われる。

この結果小田原市は一年間契約行為を停止してしまった。政策の一貫性も何も全く無い。このことに協力してきた農の会は、全く置き去りにされた。

小田原市の農業政策の後退の為、ここ1年は開成町、大井町で農地を借りる事が進んだ。農地の貸借には、地域の行政と農業委員会の姿勢が、左右する。これがまた理屈ではなく、感情で動いているように、一貫しない、不思議な動きをするので、一般に理解しがたいものがある。挨拶がなかったとか、気に入らないとか、そんなことで判断が動いてしまうようだ。

農地が自由に借りることができるという状況に、私の20年の体験でも、ここ5年ほどの間に、様変わりした。1993年に農の会を作った頃は、その目的に農地を借りることができるように、ということがあった。知名度を上げ、信用を作り、農地を借りようとした。しかし、現在は一人で開拓しても、可能な状況が生まれつつある。この辺にも農の会の役割の変化が生まれている。もう5年すれば、農地の賃貸は会は関係しないことになるだろう。

小田原市の標準小作料は(H18.4.1)(10アールあたり、年額)水田 16,000円 普通畑 16,000円 みかん園 (地主成園分) 5,000円 (小作人成園分) 3,000円 となっている。農の会はこの価格で借りる事を基本にしている。地価と一緒で、この価格を理解できない、あるいは納得いかない、地主さんも多いい。その結果起こりがちなのが、農業外利用だ。多くの場合は資材置き場になっている。

一度資材置き場に貸したら、農地に戻すのは不可能に近いが、それでも収入に成ればいいということで、貸してしまう人が多数いる。まずいのは闇の賃貸になるということだ。当然農業委員会では認めないから、裏の契約を行う。こうなると貸している地主が弱い。貸した農地が残土置き場や、解体資材、あるいは産廃が山積みされ、業者が居なくなって泣き寝入りという事も起こっている。

農業をやりたいという人が、小田原に来て、いつでも農地を借りて始められる。農地は年額で、1反16000円。都会の市民農園なら、5坪程度の値段だ。小田原駅から歩いてゆけるようなところにも、そんな農地があるのを私は知っている。白秋の歌ったみかんの丘から、海を眺め、畑を耕し、帰りは温泉にでも入って、美味しい魚を食べて、そんな人が何故現れないのか、私には不思議でならない。




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基準地価

2006-09-20 06:11:20 | Peace Cafe
基準地価が上昇に転じた報道されている。本当のことだろうか。農業を行うものにとって、地価の問題は重要である。

国土交通省は19日付で、7月1日時点の都道府県地価(基準地価)を公表した。不動産投資が活発になっている東京、大阪、名古屋の3大都市圏では平均で住宅地が0.4%、商業地が3.6%、それぞれ上昇した。3大都市圏での地価上昇は16年ぶりで、バブル経済の崩壊後、初の反騰となった。地方でも下落率が縮小し、政令指定都市や県庁所在地、一部リゾート地で上昇地点が増えた。地価の持ち直し傾向が全国的に広がっている。

基準地価はどうやって調べるかといえば、実際にあった取引の蓄積から行われる。しかし、地方では取引が殆ど無い。あってもその把握ができないことが多いい。把握は不動産鑑定士協会が取引があった人に、問い合わせをする。その返事があればのことだ。税金の絡んでいる取引で、農地や山林の取引は、事態の把握などできないと考えたほうがいい。少ない取引のなかでは、意図的な価格が答えられる場合も考えた方がいい。

私が住む久野の場合、16年に山林で1件の取引が細く表示されていて、㎡1100円と出ている。杉檜の混合林で、2,7mの道路がある、と表示されている。地番から私の家から遠くない。公にこういうのが出ていると、影響が起こることは間違いない。

参考になることはなるが、この1つから下落とか、上昇とかを考えるのは難しい。農地については、農業会議所が出している小新聞に、表示がある。これは各農業委員会に置いてあり、無料配布されているので、誰でももらえるものだ。これを見ると、これもどうやって調べたのかと思うが、極めて大雑把な地域割りだが、㎡2000円から3000円ぐらいの価格として、書かれている。

実態と考えていいかというと、この通り動くことは無い。私のところに入る情報では、まだ、坪2万円とか、3万円とか言う話もあるが、実取引では、よい農地で1万円。悪い所では5000円ぐらいの話が聞こえてくる。この聞こえてくるというのが、本当かどうかは、疑問だが。そこそこの農地が、1万円ぐらいで出ていて、何年も売れないで居る事実はある。

以前小田原の農地が坪5万円ぐらいまでしていた時期があるからだ。91年が地価のピークとされているが、その頃は、条件の悪い、山林が坪1万円とかした。農業が生業としては成立しにくくなってから、農地は資産維持という観点から、管理されるようになった。そこでの生産物から、労働の対価は得られないが、資産管理として、美しい農地を維持してゆくという意識に支えられることになった。

ここでの、農地の価格は上げ止まりになる。売る気持ちは無いのだから、高価なほどいい。事情が生じて、売らざる得なくなって、初めて実勢価格に対面することになる。農地を今買う人は利用価値から考えることになる。実際は価格がつかないのが現状だ。そこで仕方が無い人が買うことになる。親戚や、隣近所の人だ。これが基準地価に反映する価格になる。

小田原の農地価格の参考になればと書いてみたが、いずれにしても、新規就農者にとって、基本的用件であるにもかかわらず、極めて不透明な中にある。
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中国の食の安全

2006-09-19 06:43:59 | 身辺雑記
中国と日本の双方が、輸入した相手国の食品に問題があるとして、検査強化を主張している。
 中国の国家質量監督検験検疫総局は最近、日本産の化粧品から禁止されている重金属が検出されたとし、日本製化粧品に対する検査強化を指示したと中国のマスコミらが17日、報じた。
 化粧品だけが問題になったのではない。深セン検査検疫局は今年6月、日本から輸入された魚の内臓から中国の国家基準の17.3倍を超える酢酸の成分が検出されたと発表した。続いて広東、山東、遼寧などの各地方の検査検疫局が、茶葉、ケーキ、コーヒーなどの日本製食品から基準を超える重金属や二酸化硫黄などが検出されたと相次いで発表した。


 こうした中国の日本食品に対する攻撃は、日本が今年5月に輸入食品の検疫を大幅に強化した制度を導入したことによって始まった。日本はその後、中国産のエンドウ豆、落花生、冷凍キクラゲなどから基準を超える残留農薬が検出されたとし、輸入禁止措置を下した。また、中国産のウナギから殺虫剤の成分が検出されたと発表したこともある

私が聞くところ、大半の日本人は中国の食料品は、安全で無い。という感覚を持っている。私自身にもある。これは何に基づいているのだろうか。

1つには、国家が急速に成長している状況では、不安定要素が大きく。安全という観点が、利益優先でおろそかにされているだろうという推測がある。

2つには、安かろう、悪かろうがある。安いから仕方が無い。これがメードインジャパンの戦後だった。これを払拭するのは大変な事だ。一般に中国製品が安いと言うことがなくなれば、違うことになる。

3つには、輸出するものなら、自分が食べるので無いから、何をしてもいい。ということになるのではないか。という互いの不信がある。見えない関係で、食品が扱われるということに伴う、常にある不安である。

4つには、グローバルスタンダードの欺瞞だ。気候風土が違う中で、同じ基準で、同じことが出来るはずが無いのが、農業分野だ。ニュージーランドで、キューイに農薬をかける事は無いが、日本では一般に使わざる得なくなっている。

簡単に言えば、食品は地場の物であるべきで、見えないところまでへ運ぶべきものではない。
ところが、小泉首相は、1個2000円のりんごが、見た目見事に違いない。食べればそれはおいしいだろう、りんごが、上海で売れている。他の農業者もこれにみならって努力して、大いに国際競争力を付けろと、ハッパをかけている。

ここに間違いの基がある。これは農業に対する「いやみ」なのだ。お前達努力が足りないといっているのだ。他の産業に比べて、資本主義的努力に欠けている。市場原理を知らないのか。こう言っているのだ。

私たちはこの単純明快に愚かな総理大臣のお陰で、大変ひどいところまで追いやられた。農水省は5年で農産物の輸出を倍増する計画を出した。その上で、どうやって農産物の価格を下げるかが、検討される事になった。

これは今の農民に農業を止めろといっているのだ。止めてくれれば、企業が農業を引き受けるので、その労働者に成ればいいじゃないか。こういうことなのだ。
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久野・里山再生事業

2006-09-18 06:06:05 | 里地里山
神奈川県と小田原市の行政の求めに応じて、以下のような文章を提出した。
○先ず、久野の何処が里山としてふさわしいかという問いがありました。
「久野で現在田畑として耕作されている場所と、その周辺は何処も里山としての可能性を持った場所だと思います。だから特定のところを選んで、そこだけというのは、幅を狭めるように感じます。」
と答えました。

○2番目の問いは,どのように進めたら良いと考えていますか。
私なりに考えている、手順は以下のものです。

1、回覧板で、里山推進事業を行いたい事を、全住民に連絡する。そこで、興味のある人を、募集する。 情報の共有化こそ、全ての第一歩である。
今後も必要に応じて、「久野里山通信」続編を出してゆく。
地域の人の利益になる事業である事を明確に打ち出す。多くの地域住民にとって、もてあまし気味とはいえ、里山は各家の資産の基盤と考えられてきた歴史がある。また、この事業が県民全体にとっても、有意義な社会的価値のある事業である事も明確に打ち出す。

2、久野里山会の組織を作る。事務局として、県。市。久野住民。が上手く合致するよう組織化する。この進め方が、重要で、閉じたものにしないこと、地域の有力者をはずさないこと。私のような外部のものは、下働きというか。使い走りとして動くこと。顧問、名誉代表として、どなたか有力な方に(例えば河野洋平氏)お願いする。

3、基本となる考え方の確認を行う。私の考えとしては「業として農業が成立することが、里山再生には何よりも肝心なこと」
そのために農業が成立する手立てを打つ。現在杉檜が植えられている、山と見られているところの大半が、50年前は畑だった。農業と農村が再生すれば、里山は自ずと再生されることになる。

以下がその手立て。

①販売ルートの整備。里山の整備が市民全体の利益になるものであることが、理解されれば、農産物の付加価値販売は可能。地域貨幣・ファーマーズマーケット

②ブランドの確立。付加価値を付ける為に、農法に一定の枠をつけ、達成したものには、マークを付けることを認める。

③農業基盤整備。自然環境との調和を図る、農地のあり方を、分かり易く提案する。

④農業者の増加の為の住宅の斡旋。農業者用の集合住宅を作る人(私がやってもいい)に、法的支援をする。

⑤新規就農者の受け入れ体制作り。農業委員会との懇談会を行い。主旨の合意を図る。

⑥農業者住宅の法的な緩和の特区作り。地域の資産価値を上げる為、里山保全田園住宅構想を進める。

⑦農地の貸借の推進の為の、窓口の整備。出来れば農業委員会に、設けたいが、不可能な時は、部署を考える。

⑧貸し出し機械の準備、市民的参加者と農業者をつなげる機械によるパイプ作り。機械は農業者所有でもかまわないが、貸出制度。管理制度。作業委託制度。を準備する。

⑨宿泊施設、駐車場、風呂、トイレを作る。8までが整った上で、これが出来れば、一気に里山作りは進む。

以上の文章を行政に提出した。もちろんこれが全て受け入れられるとは考えていないが、行政は、経費をかけない事業の進め方を模索していると思う。経験が無いのだから、無理も無いことだ。行政が出来ることは、法との兼ね合いの整理。地域住民が出来る事は、生業。これを当たり前に整えれば、里山の再生は難しいことではない。
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オーマイニュース編集部天野さんからの電話

2006-09-17 07:08:52 | Peace Cafe
鳥インフレエンザについて書き送った記事について、オーマイニュース編集部から電話でご意見を頂いた。だいぶ前のことで、実は何を送ったか忘れてしまっていた。時々はオーマイニュースは読んでいるが、内容については全く失望している。いくつかのインタビュー記事は面白かったが、その他のものは、格別、マスメディアと今のところ違いを感じない。

オーマイニュースはまだスタート間も無いし、状況が落ち着いて、方向を考えるようになったら、もう一度記事を書こうと考えていた。有料ウエッブ新聞リベタにも同様なことをお願いしたことがあるが、リベタはその後、記事の方向付けを徐々に国際問題に絞ったので、私が鳥インフルエンザの記事を送るような余地はなくなった。

トリインフルエンザについては、実は「今が」猶予期間のようなもので、大切な時なのだが、日本の報道はすっかり忘れ去った。私は忘れさしてはならないので、粘り強く何処にでも発信して行くつもりだが、オーマイニュースの天野さんとしては、今起きている、厚生省の対応の問題などは、あまりに専門過ぎて、養鶏業者以外は関心を持たないだろう。もっと基本的な問題点を書いてもらえないかと言う事だった。

基本的というのは、もう4,5年前に、アチコチに、必死に載せてもらった内容だ。私の提起は、それなりに取り上げてもらえたが、浸透し、農水の方針に影響を与えると言うところまでは行かなかった。その後考え方の幅には加わったところもある。大規模養鶏の危険についてだ。100万羽と言う単位で、生き物を狭いところに押し込めて、飼う様な事が、導く危険についてだ。これが、トリインフルエンザを生み出したのだ。そして、更に手ごわい病気を生み出すに違いないと言う予測だ。

ブログでは、こんな事を書く事が出来る。更に、「「不法ワクチンはIあるいはA養鶏場がつかった。」だから、これからの対策としては、野鳥の飛来などより、人の行き来を考えなければならない。当然人→鶏感染も視野に入れるべきだ。以上は全て推測に基づく内容だ。しかし、養鶏業者にとっては現実的問題だ。所が、オーマイニュースでは、証拠の無いことを書く訳に行かない。これがブログより記事がつまらない原因だ。

ここに報道と情報の違いがある。養鶏の仲間は私の情報を有効なものと受け止めて、対策するだろう。それだけの今までの私の出してきた情報の真実性があるから、受け止めてくれると信じている。それは、推測が現実になった、事実の蓄積の実績だろう。

例えば、私のところの鶏が、強毒性の鳥インフルエンザに感染したとしても、生き残るものがいる。こう発言した時、どう受け止められるだろう。95%の獣医が有り得ないというだろう。しかし、自然養鶏をやる仲間の70%の人はそうかもしれないと考えてくれる。そして、その生き残った系統こそが、最も重要な系統になる。このように私は考えている。

こんな事はブログには書けても、現在のオーマイニュースでは掲載できないようだ。この辺の境目を掘り下げないと、オーマイニュースの存在意義は、無いだろう。
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農の会収穫祭

2006-09-16 07:21:56 | あしがら農の会
昨夜は臨時定例会を開催し、農の会では収穫祭について話し合った。事前に、掲示板で各自の考えが出されていた。これがそれぞれの収穫祭に対する、考えであり、農の会に対する考えである。しかしまだまだ出尽くしていない気がしている。大切なことは収穫祭を考えることを通して、自分が何故農の会に関わり、どんな会にしてゆきたいか確認する場にすることだと思う。

しかし、昨夜は時間が無いし、掲示板でも各自の考えは出ているので、収穫祭をどんな考え方でやるのかについては、議論を深める事はせず、具体的な行事の進め方のほうにはいるべきだ。こういう意見が強く、結局何故、何の為にやるのかという、私としては、そのことこそ話し合うべきだ、と考えていたことについては、物足りなかった。

具体案に入れば、結局例年と大差ないものになるだろうと思っていた。それは集まる人の数が、300人は越えると見なければならない。準備なしの祭りがいい、と言っても、現実には駐車場だけ考えても、大変な事だ。だから具体策に入るその前に、何の為にを何度も確認したかったのだ。

20人ぐらいの人が集まった。この他、農の会には、それは多様な人が関わっていて、祭りなんか大嫌いという人もいるだろう。そんな人が、一切関わらなくても、それはそれで、何でもないような農の会がいいと思っている。お茶畑の会があるが、出ない人は出ないが、出ないからと言ってどうということは当然無い。収穫祭もそんな集まりでいいと思う。

祭りの内容も、やりたい人がやりたい事をやればいいというのが、好きだ。学校の運動会のように、全員が同じ事をして、他の者は応援してみている。こういうのは私は大嫌いだ。人の輪に加わりたくない人が、来る事が出来るような祭りがいい。それには多様な内容が夫々の方向でおこなわれていたほうがいい。これは昨年の収穫祭で確認したことだ。出来る限り多様なかかわりを保障する。黙って座っていられる場所を作る事も、大切だと思う。

あれこれ準備しすぎて、忙しすぎて楽しめなかった。昨年はこういう意見が続出した。私はこの点が理解できないでいる。自分も楽しめる祭りにしたいということで。楽しむの内容が、今回の提案では、「農作業」として出てきた。これも中々いい。しかし、普段農作業で働きづめで、今更の人もいる。そんな人は来ないでいいでは、ちょっとまずい。

祭りでこんな事がやりたい。そういう思いも保障する必要がある。やらされるのでなく、やりたいからやるというのであって欲しい。餅つきを、づーとやらされて、可哀想だったというのが、出ていたが、本当にそうだろうか。餅つきを準備してやることは、楽しいことだ。そのことで大勢の人が楽しいでくれると思うと、やりがいのある仕事だ。もちろん、やらされるのであれば、楽しくない。どの作業だってそうだ。やりたくてやるから楽しい。義務でやらされるようなことは、今までだって排除してきたと思う。それが、何故か、やらされて辛かったのではと言う、話になる。今回これはなしにしたい。大変な事だから、お餅はお金を貰うようにしたらどうかという話も出たが、これは根本的に違うと思う。

やりたい人がいないなら辞めるべきだ。やりたい人が、やりたいことをやって、喜んでいるから、農の会らしい空気感は表現されている。今回の祭りは、やりたい人がやりたいことをやる祭り、これに徹すればいいのかもしれない。
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