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石垣島の年の暮れにモザイク画制作

2019-12-31 04:08:16 | 石垣島

 30日で絵は終わりにした。年の瀬に急に思い立ち、家の入口の大理石モザイクに取りかかることにした。下書きだけは描いてあったのだ。石垣の家を作るときには,必ず作ると考えていた。取りかかることさえ出来ていなかった。玄関先の狭い部分にモザイク画を描きたいと考えていたのだ。

 モザイクと石垣の貝殻の作品である。メインになる貝はスイジ貝である。モザイクのために良さそうな貝を集めていたものが結構の量ある。特にスイジ貝は石垣島の火防のお守りになる貝である。3つ持っている。この貝をモザイクの作品のテーマに置くつもりだ。

 そして様々な貝やら、海岸で拾ったガラスや珊瑚などで、作品を構成するつもりだ。大きさは120センチ四方と120号ぐらいの2枚だ。ただせまい玄関先なので、余り窮屈な感じにはできない。

 構成は砂浜と海と、波と太陽である。大きい方のモザイク画には生命の木も入れることができればと思っている。下書きは1年も前にしたのだが、取りかかれないままであった。石垣にいると絵を描きたくなってしまって、モザイクに進めないでいた。暮れから正月なら、絵を休みにしてモザイクもいい。

 正月は少し絵を休もうかと思った途端に、じゃ、モザイクをやろうという気になった。このところのお天気は外で作品を作るにはちょうどいい気候である。今日、コンクリートボンドを買ってきたので、いよいよ明日から貼り付けるつもりだ。



 石垣島の年の暮れはかなりさみしい。この写真が午後のユーグレナモールである。年の瀬らしい慌ただしい空気はほとんど無い。観光客が減ることもあって、むしろ街は静かだ。お店の中には「冬は不定期開店です。」と表示して閉めている店もあるくらいだ。

 この20日間ほとんどの日が、昼の最高気温は28度夜も20度。冬と呼ぶ事はためらわれる。クリスマスと言っても、そういうイルミネーションと言うことはなかった。ホワイトクリスマスでは当然場違いな感じなのだろう。

 農協のゆらていく市場に行くと夏野菜が大分増えている。キュウリやトマトがむしろ旬なのだ。葉物もそろっている。こういう場合、身体の旬はどうなるのだろう。家の家庭菜園でもキュウリとトマトはできている。

 果樹などもマンゴーやパイナップルが又出てきている。田んぼは一番さみしい季節である。1月10日になれば、水を入れるところが出てくるだろう。理由は12月は取水を止めることになったと、田んぼに表示があった。取水量が契約量を大幅に上回ったと言うことらしい。絵を描くにはもう少し待つしかない。



 2019年最後の絵。 同じ場所で3枚目の素描。だんだんまとまったが、だんだん大胆さがなくなっているが、まあ、これが私のここでの到達点かな。素描の写真を上げてみたのは、これが令和元年の書き納め。

 石垣の海を透き通る宝石のような緑がかかった青が印象的だろう。しかし、絵を描いていると、その向こうに広がるインジゴブルーのような黒みがかった藍色が印象深い。その黒い藍とおあ緑の間に白い帯の波の作り出す線ができる。この三色の加減が海の色になる。

 これを絵として正確に描くのはとても難しい。さらにその上にけぶるような空がたいていの場合ある。その白の混ざる空色が天空の濃紺まで続いている。そこにわずかに桃色やら、黄色を含んだ白い雲がたいていの場合浮んでいる。まるで目線の高さに雲が浮んでいる。まさに天国の景色である。ここに居るだけで良いという景色である。こののどけさを描くことはできないものかと思う。

 今日は、お飾りを玄関に。お餅をつく。せめてものお正月気分。正月は絵はよし手モザイクに専念。そして、2日の書き初めに備える。今年は「一朝来復」「天地玄奥」「水土天命」「立春大吉」と書くつもりだ。

 書く字の下書きをしておかないとなら無い。書き出すと字を思い出せなくなってしまうのだ。何度も書いたことかもしれないが、中川一政氏は自分の名前を書くために、鉛筆で下書きをしている。もちろん下書きの鉛筆をなぞるわけではないのだが、字を書くときには自分の名前の漢字すら思い出せなくなるものだ。


 ピースに割った大理石である。昔材料として作ったものだ。石垣まで運んできた。芸大の教授だった、八橋先生の関ヶ原の八橋大理石でいただいてきた大理石である。ここでやっと生かされることになる。

 山北の家では、玄関とお風呂の壁に大理石モザイクを貼った。いいものだと思うのだが、今もあるのかどうかは知らない。家に付随した作品は家が壊されるときに壊されることになるのだろうか。

 石垣の家の作品も私が生きている間、生かされればそれでいいと思っている。何年のことかは分からないが、自分のアトリエだなという印になればそれでいいと思う。


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2地域居住をしてみて,これからのこと

2019-12-30 04:39:31 | 石垣島
新しく絵を描かせて貰った場所。牧草地の先にある茂みが面白い。ここをデッサンした。
描きかけの写真,中央がくぼんでいるところが面白いのだがその感じが描けない。

 2地域居住を始めて、1年と2ヶ月が過ぎた。今のところ、2地域居住は良いことばかりである。残りの時間を有効に使えそうで良い選択をしたものだと思う。小田原の暮らしと、石垣島での暮らしのけじめがいい。

 石垣島では絵を描く。小田原では農作業である。このけじめが明確につくようになった。石垣島にいると、ともかく絵が描きたくなるので、絵を描いている。絵を描くというのは他にやることがないと言うことが条件かもしれない。絵を描くことは楽しいことであるはずなのだが、苦しいことでもある。

 思うようには描けないからである。ジーと何時間も座って,ああしよう、こうしよう、ぐずぐずしているから身体にも負担がある。できたという感じにも簡単になるのだが、どうせ又ダメなのだろうという、絶望感が隠れている。絵を描くという達成感のない世界が苦しい。

 だから、他にやらなければならないことがあれば、絵を描くことは紛れてしまう。私の場合、描きたくならない限り描いてもしょうがないと考えているので、いつでも描きたくなるのを待っている状態。すると、何ヶ月も描きたくなることが無いまま過ぎることもあった。

 それが、石垣に居る間はほぼ毎日絵を描いている。午前中は少なくとも絵を描いている。フランスに居た頃に近いくらい描いている。描いたから絵がよくなるというものではないことは分かっている。やはり、描ける終わりが見えてきたと言うことかもしれない。

 具体的に絵を描くという日時に目標がある。今なら、1月17日まで石垣で絵を描くということになる。この期間に描いた絵の中から、一枚を選んで語る会に絵を持って行く。そう思うと自然に絵が描きたくなる。描く意識もはっきりとしてくる。

 上手いことに水彩人の展覧会等は年間計画の中に収まっている。この中で、四回絵を語る会がある。ここに絵を持って行くことがとても大切なことになっている。絵は一人でやっていると,とんでもないことになる。私には人と並べる必要がある。

 年間スケジュールとして、
1月 小田原  1月17日~27日    (①11日間)
4月 小田原  4月24日~6月8日    (②45日間)
7月 小田原   7月4日~16日    (③13日間)
9月 小田原  9月17日~10月20日  (④32日間)
11月 小田原  11月14日~12月14日  (⑤31日間)

 小田原132日。石垣233日と言う計算になる。122日が3分の1である。10日減らせると、ちょうど3分の一になるのだが、これが、小田原に行った時は何かしらあって空いている日がない状態になる。もう減らせないギリギリの線である。味噌造りを止めると、1月の小田原がなくなり、ちょうど加減が良い。もう一回挑戦してみて、寒さに耐えられなかったら、止めることにする。

 年間の内3分の1くらいは小田原に出かけるという感じである。今のところ、このくらいがちょうど良い。やはり、寒い間は余り小田原に行きたくない。石垣で田植えの頃は石垣で絵が描きたい。その結果こんな具合になった。

 小田原の農作業として、田植え、稲刈り、大豆播種、収穫。タマネギ植え付け,草取り、収穫。小麦播種、草取り、収穫。お茶摘み、整枝作業。ため池の管理。そして味噌造り。こんな農作業がこのスケジュール中にうまく収まっている。

 田んぼは苗作りから田植えまでと、稲刈りである。コロガシは一回。草取りも一回だけしか、参加していない。これで何とかイネ作りに参加できるのは,欠ノ上田んぼの仲間が居るからである。小田原に居る間は精一杯田んぼをやらせて貰うことができた。

 タマネギも、小麦も,大豆も、みんなのおかげで加えてもらえている。私も、いくらかは役に立つのだろう。みんなは一人のために、一人はみんなのために。歳をとってくると、元気で何でもひとりで全部やれたときには見えなかったことが見えてくる。助けられている。

 助けられているからこそ、小田原にいるときにはやれることはできる限りやらせてもらいたい思う。小田原にいるときは農作業をやる以外ないのだから、自然そういう暮らしになる。この辺の気持の切り替えが良い。小田原の農業生活は身体を整える貯金である。

 毎日1万歩以上。2万歩の日も10日はあった。身体をかなり使う。身体を精一杯動かせるのは,農作業のおかげである。とことん疲れたというほど身体を動かすことも大切だと考えている。これがいつまでできるかである。

 小田原でやらして貰っている農作業はみんながやっているものに加えて貰っているという状態である。農の会がなければこういう都合の良いことはできないだろう。みんなと同じくらい働ける内はやらせてもらいたいと思う。予定ではあと4年である。大切にしたいと思う。

 と言うことは2地域居住はあと4年と言うことになる。いつまでもと言う思いは夢である。4年経ってみなければ分からないが、4年やれればありがたいとしなければならない。その後は石垣生活になるのだろうが。その先のことは今からでは分からない。すべては身体の状態による。

 2地域居住を選択したことは、歳をとっての暮らしに活力が湧いた。これから絵が描けそうな気持でいる。行き来することが大変ではないですかと言われることがあるが、半日で場所が変わるぐらいが、気持の切り替えになっている。

 
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素描をやっている。

2019-12-29 04:16:14 | 水彩画


1 どの素描も中盤全紙サイズだ。

 石垣に戻ってから、素描だけ描いている。素描が面白いと思いやっている。色彩という要素が無くなるから表現が絞られる。絞られることで、考えていることが何かと言うことが水彩画よりは明確に出てくる。絵を描く上で必要としているものは何か。素描で現われるものは限定されているから面白い。

 素描を絵を描くための下準備としてやっているわけでは無い。まして、絵を描く基礎の訓練としてやっているわけでも無い。自分の見ているものの発見であり、確認である。色がないだけに、分わかりやすいと気づいた。

2
 いつも水彩画を描いている場所で素描をしてみている。少し描きたくなる角度が違うようだ。素描をやれば水彩画が分かるからという事はないようだ。素描で面白いものを描いてみているだけである。素描でこそやれるものがありそうなのだが、まだ分からないので闇雲に描いているにすぎないのだが。

 名古屋で見た木村忠太の素描に何かすごいものを感じた。素描と言うものの魅力に惹きつけられた。要素が限定されることで明確に見えてくるものがある。絵の魅力の原点のようなもの。それがまずなければ始まらないというようなもの。

3
 私の描く素描はきれいないものではない。美しい絵を描きたいという感覚は、素描を描いているときには、かなり少なくなっている。色を使うときよりも、汚くても平気だ。鉛筆の線というものは中々きれいなものなのだが、きれいになるとつい違っていると反応をしてしまう。上手そうな感じはイヤだ。

 きれいでは迫れないから、汚して行きたくなる。同じものを違う意味で描こうとする。影を見て立体として追うかと思えば、輪郭線を追っている。ものの意味の説明をしているのかと思うと、ただその当たりの調子を描いていたりする。

4
  素描をして分かったことがある。以前は絵が終わると、それで何ナノというむなしさが生まれた。絵として、何か上手くいっているのだけれど、それが自分にとってどういうことなのかが分からなくなった。絵が終わりまで行っていればいるほど、それが何ナノ。ということになった。

 ところが素描は終わったと思うと、行き着いた感がある。充実とも違うのだが、自分が描いているという意味に不安がない。いわゆる絵画とはべつに素描は出来上がる。素描をやってみて、こんな自分だと言う納得感がある。これはなかなか良い。

5
 素描には絵としていいとか悪いとか、そういうことは全く関係なく、見ていることは確かにこれなのだという達成感がある。それが人に何かを伝える絵画表現と言うこととは別なのだろうが、それでいいと思っている。

 素描をやってみて、自分の当たり前の所に戻れるような気になっている。絵を見て学んだところから脱すると言うことができるか。当たり前の生活の中で見ているものに戻ること。だから、もうしばらく素描を続けてみたいと思う。

6
 石垣に戻り、今日までに9枚の素描をした。1枚途中で止めたものがあるので、9,5枚か。途中で終わりの素描も写真を撮れたら、とっておく事にする。大量の蚊が車に入り込んできて、到底そこでは描けなくなったのだ。良いも悪いもないのだが、素描をはじめて、だんだんすすんできたもの。この後まだ描いている。

 写真が撮れた段階で又加えるつもりだ。9枚の素描には何故か構図がある。意識しては居ないのだが、こうなった。最初正面の木を描こうとした。そのうち右側にあるヤシの連なりに惹きつけられた。


 その関係を描きだしたら、向こう側の山や茂みも描いた。描こうとしたのは関係としたが、何だったのかと思う。見ている眼の中で生まれる両方の関係によって風景ができていること。

 まだまだやることが出てきた。次の絵を語る会は1月18日なので、それまでは素描を続けてみたい。素描を持って行くことにする。まだ3週間あるから、もう少し先まで行けそうである。


 
 フランスにいたときには毎日人体デッサンをしていた。午後の時間と、夜もダンスデッサンがあればやっていた。人間の研究をする場所がアカデミーで、絵画から人間に迫るのが美術学校という事だった。

 日本に戻ってから、渋谷にあった洋画人体研究所と言うところと、利根山光人さんのところのクロッキー教室に通っていた。どれほど描いても飽きると言うことはなかった。教室の方がなくなってしまい、いつの間にか人体は描かなくなった。



 何10年かぶりに風景デッサンをやってみて、すこしづつ鉛筆の感覚を思い出した。鉛筆は2B中心に4B、6Bと使っている。三菱ハイユニである。春日部洋先生は風景デッサンをやれといつも言われていた。その意味が今になると分かる。描くことでつかめることが確かにある。

 名古屋で木村忠太展を見せて貰ったおかげだ。絵を描くと言うことはやはり、他の人の絵から学ぶことが多いものだ。鉛筆の勢いで、年賀状の宛名も鉛筆で書いた。鉛筆の字も面白いものだ。鉛筆を失礼だと思う人が居るかもしれないが、鉛筆書きの練習なのであしからず。


10,今日描いたもの。

 新しい場所で描いてみた。曇りの静かな陽射しだった。向こうに見えているのが、崎枝の集落当たりである。
 
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年賀状を作りました。

2019-12-28 16:33:18 | 水彩画
 
こんな感じの様々な年賀状を描きました。

 欲しい方がおられましたら、メールで住所をお知らせくれれば、送らせてもらいます。先着10名ぐらいです。sasamura.ailand@nifty.com
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給食で残ったパンを持ち帰った立派な高校教師

2019-12-28 04:45:56 | 暮らし


2015年6月~19年6月、学校給食で残ったパン約1000個と牛乳約4200本(計約31万円相当)を持ち帰ったとして、市立堺高校の男性教諭(62)(25日に依願退職)を減給10分の1(3か月)にした。

 高校の先生が、給食で残ったパンと牛乳を自宅に持ち帰って食べていた。立派な行為である。一体何故この教員が処分されたのか。不思議でならない。確かに、法律を持ち出せば、犯罪行為と言えないことも無い。廃棄しなければ行けないと決められたものを有効利用してしまった罪である。

 この行為は立派な善行である。むしろ生徒に模範として顕彰してもいいくらいである。教育委員会は学校給食が無駄に捨てられている現状をどう考えているのか。その教育的な問題点には目を向けず、持ち帰っていた教員を処分するなど、本末転倒である。この馬鹿げた教育委員会こそ処分されるべきだ。

  養鶏をしていた頃、小田原市に学校給食の残渣の利用をお願いしに行ったことがある。実際はすでに貰っていたのだが、それを正式なものにしたいと考えて交渉に言った。違法行為だから、即座に止めてくれとなってしまった。

 この教師は処分に対して依願退職したという。確かにこんな不当な処分に耐えられない思いだったのだろう。給食残渣には長年の養鶏業をしていたものとして、悔しい思いがある。有効利用できるものを廃棄処分しなければならない法律とは何か。

 まだ食べれるものをごみとして焼却処分している事を正しいとする、教育の問題点である。そして、それでよしとして手を打とうとしない行政の姿勢である。給食は食育である。食べればそれでよしというものではない。教科と少しも変わりのないものなのだ。

 私は給食を食べきれないで残していた。それで怒られてばかりいた。食べ終わるまで食べていろというので、午後の授業時間にも食べさせられていたこともある。こんなことが食育であろうか。生徒の多様性というものに気づかない教師。

 私は食が細かったのだ。虚弱児童の典型的な子供だった。小学生は大食漢もいれば、ある意味病で小食の子供も居る。それを同じ量だけ食べなければ許せない教育を恨んだものだ。持ち帰ることが許されなかった。吐いても今食べろという狭い視野の教師。

 こうした教育に潜む、融通の無い所。教条主義。建前主義。それが、廃棄されるパンの持ち帰りを犯罪としたのだ。食品廃棄が問題になっている時代に、食べられるものを持ち帰った教師が処分される。こんな処分をよしとする、社会のゆがみが怖い。

 この教師は多分こういう事態を憂いたに違いない。少なくとももったいないと感じたのだ。正しい感受性である。本音としては教育のおかしさに警鐘を鳴らしたかったのだろう。その通りの結果になったようだ。日本中が堺市の教育の異常さを知ることになった。この教師の犠牲も無駄ではない。むしろ生かさなくてはならない。

 食べ物を無駄にしてはならない。これは教育の大きな目的である。食育がないがしろにされるのであれば、学校教育など止めた方がましなくらいだ。子供は多様である。体調もその日によって様々である。給食は余るものである。余って健全なのだ。それを焼却処分にしなければ、法律違反という制度がおかしい。

 例えば、それを子ども食堂に融通する。なにしろ、ご飯納入業者は輸送車一台分のご飯を余分に準備しているそうだ。車の事故があったときに対応するためだそうだ。それは使わず廃棄すると説明していた。今でもそうだろうか。

 そのご飯は無事車の到着を確認したら、子ども食堂に運べばいい。必要としている場所はあるはずだ。それができない法律があるのかもしれない。そういう良いことをすれば、法律に触れると言うことを疑問に思わない社会は変である。

 小学校ではイネ作りの授業を行うべきだ。食べ物がどういう過程でできるのかを学ぶことだ。身体を使いイネ作りを行えば、まさか炊いたご飯を焼却処分することを、まともなこととは思えなくなるだろう。

 一次産業から離れてしまった人間は、身体を使い物を作るという最も大切な感覚を失う。食べ物がもったいないという気持を失う。つじつまが合えばそれでいいと言うことになる。それが、デパートの食堂ならまだ許されるかもしれない。しかし、学校の食育の中がこれでは困る。

 もったいない。そう感じた教師の感覚は大切にされるべきだ。その思いこそ教育だからだ。食べ物を尊いものという基本を忘れてしまえば、教育ではなくなる。大切な食べ物を廃棄処分にしなければならないという法律を守る人間の哀れ。


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カジノ汚職第一号秋元自民党衆議院議員

2019-12-27 04:08:06 | Peace Cafe


 カジノ汚職で逮捕者が出た。第一号にふさわしく、カジの委員長の自民党の秋元氏である。カジノ法案を強行採決した委員長である。腐ったアベ政権の膿がじわじわ出てきている。秋元議員は長年据え置かれたカジノ法案を委員長として強行採決した功績で、カジノ担当副大臣に昇進したらしい。そして逮捕である。

 贈賄容疑で逮捕されたのは、中国企業「500ドットコム」の顧問、紺野昌彦。同じく顧問で元沖縄県浦添市議の仲里勝憲。自称元副社長、ジェン・シー。それと秋元容疑者。500ドットコムは沖縄で講演会を企画し、秋元氏はそこで講演を行っている。沖縄もカジノはやらない方向になっている。

 秋元議員は17年12月、自民党の白須賀貴樹衆院議員や、同党の勝沼栄明元衆院議員らと、中国・深圳にある500ドットコム本社を訪問している。このあたりの人物も関わったようで、調査されている。カジノの開帳場所を5カ所からさらに増やそうと考えたと思われる。証拠が見つかるかどうか。

 カジノが始まる前から、担当副大臣の汚職が出てきたのである。今からでもカジノは止めなければならない。賭博の背景に潜む暗黒な事態が誰の目にも明確になっただろう。まだ間にあう。カジノなど、百害あって一利なしだ。文化国家日本としてふさわしくない賭博だ。自民党の衆議院議員の方々の中に,わずかでもまともな日本人がいるなら、何としても踏みとどまってもらいたい。

 秋元議員はパチンコ業界とのつながりで議員になったらしい。カジノに熱心なはずである。中国の賭博企業が日本のカジノに進出できるように、口効きをしていたと言うことらしい。北海道と沖縄が標的だったらしい。北海道や沖縄がカジノ事業から下りたためにこの問題が表面化させられた可能性が高い。ありそうと言う以上に無いはずが無い事件だ。まさに氷山の一角である。

 アメリカのカジノ経営者はトランプを通じてアベ氏に関係しているらしい。こっちは忖度方式で進めているのだろう。横浜とか大阪があやしい。維新の会はそもそもカジノ的な体質だ。お金が介在していないだけ、ややこしいことになっている。カジノのような虚業はこういう汚い動き方をするものだ。そもそも正義が存在しない分野だ。どんな汚い手を使おうとも金になれば勝ちの世界観。

 カジノには巨額な利権が存在する。この利権に群がる拝金主義者たちが、自分の利権のために裏でうごめかないわけが無い。横浜市長の突然の豹変とかたくなな態度はいかにも不自然な動き。大阪などはそもそも、アベ氏と連絡の上だろう。どこかに怪しい動きがないのか、疑いの眼で見るほかない。横浜市長がカジノ中止と言えない事情がすでにあるのかもしれない。

 カジノ誘致はお金のためだけである。カジノが来て、横浜市の青少年に良い影響などあるわけがない。賭博を健全な社会に必要なことだと考える人は居ないだろう。社会の倫理をゆがめる賭博が公認される。それでも背に腹は代えられないという、アベ政権の実の無い哀れな成長戦略の結果である。

 悪事はアクジを呼ぶ。日本にはパチンコ業界という、日本で一番の政治圧力団体がある。野田聖子議員はその中心の一人である。それでけでも野田氏のインチキがわかる。世界中にパチンコはない。カジノをどうしてもやるならば、パチンコを止めてからのことだ。

 パチンコは表面的には健全娯楽的な様相をして、どこにでも作られているが、実態は賭博である。違法行為が行われている。ここに法律の融通的解釈が行われている。こういう所が嫌らしくないか。

 観光産業を盛んにして行くことは日本の特長を生かした良い方向だと思う。スイスを見習うべきだ。スイスはカジノに頼らない観光立国である。スイスの清廉なイメージがスイス観光に結びついている。スイスの経済はヨーロッパでもトップレベルである。アベノミクスでカジノしか思いつかないアベ政権を日本の恥だと思う。

 日本の観光資源は日本の文化である。素晴らしい文化を確立すれば、自ずと人は来てくれる。カジノのような人間の暗黒部分を助長するものを作れば、長い目で見れば日本の魅力を衰退させることになる。悪貨は良貨を駆逐する。

 日本の観光は今成長産業である。それはアジアが経済的にユタカになった恩恵である。日本に来てくれるのだ。何も日本のおもてなし文化が好ましいからだろう。これは日本の過去の遺産である。大切にしなければ、消えて行くものだ。

 何千年と稲作を続けて、日本人の中に醸成されたものではないか。思いやるこころである。助け合う精神である。村落共同体の中で生きる性でもある。つらい側面も多かったわけだが、そこで作られた日本人の性根のようなものは、評価されるべきものでもある。

 こうした日本人の良さと共通のものは、東洋4000年の循環型農農業の中にもある。収奪的なヨーロッパ型農業では生まれないものだ。まして、プランテーション農業ではあり得ない文化なのだ。日本がいつまでもおもてなしの心を失わなければ、日本の観光産業は発展して行く。

 何故アベ政権はこういう日本の良さに気づかないのだろうか。アベ氏の考える、瑞穂の国本とは一体どんな国の事なのだろう。まさか拝金主義の国なのではないはずだろう。今は世界の一国主義に対して、こらえるときだ。ここで我慢しなければ日本が終わりになってしまう。

 何故一発逆転のカジノにしがみつくか問えば、選挙を通して議員は生まれるからではないか。選挙は賭博人間を造り出すのではないだろうか。常々、選挙を抱えて生きている内に、すでに疑似賭博中毒になっているのではないか。

 秋元議員の汚さをみると、そう思えてならない。清濁併せのむと言うが、濁りばかりの自民党なのだろうか。自民党の中にも、賭博はまずい、カジノはいらないと思う人が一人も居ないのだろうか。それほどに倫理を失った自民党なのだろうか。もし、本当にそうなら、もう日本はダメと考えるほかない。


 

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日中首脳会談 習均平氏、20年春に国賓来日

2019-12-26 04:29:25 | Peace Cafe


 日中首脳会談が中国成都で開催された。やっと第一段階通過である。軍事力強化のための中国敵国論が無くなることを願っている。日本の安全保障は中国と平和的な友好関係を作り出すことが最重要課題である。

 中国は日中韓三国の関係を強化し、アメリかに経済的に対抗したいという気持はあるだろう。日本にはアメリカの軍事的支配下にある状況を脱して、米軍基地の無い品格のある独立国家になるという目標がある。両者の利害はアメリカとの距離である。

 日本側の説明によると、首相は会談で、中国公船による沖縄県・尖閣諸島周辺の領海侵入など東シナ海の問題について、中国側の対応を強く求めてくれたらしい。反応はまったく無かったようだが、話したことは一歩踏み込んだ。来春も国賓であるとしても、尖閣の領海侵入では無く、領有権そのものの解決の道筋を付けて貰いたい。

 当面できないのであれば、領土問題をどのように棚上げするかを話し合って貰いたい。棚上げできないなら、第3者に、つまり国際裁判所に判断を仰ぐ方向を示す外に無い。戦争になるとあおり立てて先島諸島に自衛隊基地を作るより、遙かに経済性がある。

 日本が最も関係を大切にしなければならない国が中国である。アメリカでは無い。日本の隣に存在する、日本の10倍もの人の居る大国中国は日本の未来に最も大きな影響のある国である。中国との関係を強化する以外に、日本の未来は無いと考えなければならない。

 中国の経済はアメリカと世界を二分するようになるだろう。日本は中国との経済関係を徐々に深めて行く必要がある。それは日本経済のためでもあり、安全保障の問題でもある。二国関係というより、周辺国全体の関係というものを考える必要がある。中国の経済が発展することは、必ず日本人の暮らしに恩恵があるはずだ。

 中国と日本が仲良くなる事は世界平和のための大きな一歩になる。アメリカと中国との経済戦争に見られるように、資本主義経済は競走が相手を潰すことで、自分の利益を増やそうという、激しいものになっている。これは世界の経済成長のためにも間違った考えである。

 一国主義経済は世界の発展を阻害する。トランプはアメリカは経済的に優位なのだから、その優位な立場を経済的圧力として利用しているに過ぎない。日本はアメリカの食料を購入しなければ、生きて行けない国になっている。

 アメリカから、無用かもしれない武器を買わない限り、アメリカと付き合って行けない状況である。無用の先島の自衛隊基地配備につながっている。そうした軍産関係者は日中関係の悪化を,作り出そうとしている。そこに絡んでいるのが日本の右翼であり、安保マフィアである。

 日本と中国は経済交流を深めることで、両者が成長できるはずである。同時に日本はアメリカと中国の橋渡しができる国である。是非ともその立ち位置を考える。アメリカと中国との等しい距離に日本を置くことの重要性を考えるべきだ。中国仮想的国論をあえて作り上げようとしている勢力があることをこの機会に確認したい。

 中国との関係をいち早く深めた、韓国の成り行きをよく観察すべきだ。韓国文政権が日本との関係を弱めたのは、中国との関係を重視するからだ。アメリカは韓国の中国接近を警戒している。それなら、駐留米軍を引き上げると穏やかでは無い姿勢で韓国を脅している。

 こんご先行する韓国が中国との関係をどう進められるかである。そのときアメリカがどう出るかも重要なことになる。アメリカが一国主義を主張する以上、韓国の態度も当然のことである。日本も中国との関係を模索する必要が高まっている。

 安部外交は形があるが、成果は無い。ロシア外交を見れば分かる。ロシアと経済協力をすれば、北方四島が帰って来るかのように宣伝された。ところが実質的には話が進めば進むほど、2島返還すら無さそうである。私はそれでいいと考えている。

 日本の平和主義は領土を欲張る必要は無いという考えを前提にすべきだ。中国との関係が平和で対等なものであるなら、尖閣諸島の日本の領有などにこだわる必要はまるで無い。中国がどんな姿勢であるかより、日本が平和を目指す国であることから外交の方向を決めるべきだ。

 中国は韓国の米軍のミサイル基地設置では相当に反発をした。あの姿を見ると、日本の米軍基地というものが、大きな要素になるだろう。それは北方4島に対するロシアの姿勢と同じである。領土問題は対中国との安全保障関係の模索である。

 中国を中心とした、東アジア経済共同体が10年後の目標である。確かに中国が覇権主義を捨てられるかが大きな課題だと思う。それは国家資本主義の限界でもあるのだろう。競争のために、強い企業を国が支援して作り出す。そして世界競争には勝利するかに見える。

 国家企業の利潤追求は国を超えて行く。日本企業がアメリカでものを売るために、アメリカで生産をさせられるように、企業は国を超える。中国の国家資本主義も、どこかで国を超えて動き出すのだろう。経済成長が、香港やウイグル問題を解決する可能性はある。

 資本主義の良いところは、自由主義を伴うところである。自由の背景が無い国家資本主義はどこかで限界が来る。、そうではないというのが今の過渡期の中国なのだろうが、人間は自由が好きなものだと思う。もう少し長い目で、中国と付き合うべきだ。

 中国人は優秀な人達だ。中国には多様な人が居て、日本より格差がひどい。香港のデモを見ているとわかる。一筋縄では行かない。中国は高度成長と、国の方向の混沌の中にある。この一時期だけで中国を判断してはならない。中国の10年後の姿を想定して、日本は関わる必要がある。



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センター試験国語記述式も中止

2019-12-25 04:03:24 | 暮らし

この木をデッサンしている。

 一体文科省は何をやっているのだろう。いよいよ実施時期が近づいてきたら、国語の記述試験を中止にした。50万人の採点を公平にはできないと言うことがはっきりしたためである。しかし、そんなことは発想したときに気づき、対策案を提示しなければならないことである。

 英語の外部委託試験に続いて、国語の記述式も中止と言うことになった。文科省の仕事の詰めの甘さは問われる必要がある。

 国語の記述式テストは必要である。英語の中止とは意味が違う。英語などできなくとも、日本人として生きるためには問題が無い。日本人として必要なものは日本語で考える力である。英語で話せるとしても、英語で考えられる人を作ることは勉強では不可能では無いか。国語の意味はもっと深いものだ。

 日本語で文章を書けば、その人の頭の中がかなり分かる。論理的に考えることができる人なのか、感覚が鋭い人なのか。発想が豊かな人か。だから、国語の記述式を止めると言うことはとんでもない話なのだ。

 公平な採点などさして難しいことでは無い。公平は50万人から生じたことに過ぎない。共通一次では止めると言うことでいい。そのかわり、各校が行う2次試験では国語記述式試験に重点を置くべきだ。

 英語の会話などは企業の要望であって、一次産業に従事する日本に暮らすひとであれば、会話できなくても生きて行ける。しかし、国語能力が高ければ、物事を深く考えることができるようになる。言葉というものは人間の考える力を支えているものだ。一次産業でも大いに役立つ。

  今回騒ぎになった共通一次試験での問題点は、一次試験と2次試験との混同にあると思われる。2次試験でやればいいことを共通1次試験でやろうとしたから、訳の分からないことになったのだ。こんな簡単なことが文科省の官僚が分からないはずは無いから、制度の誤解なのかもしれない。何かわかりにくい。

 一次試験は全国共通テストであり、いわば足きりの試験である。2次試験であれば、国語の記述式にしてもその公平性は大学の責任である。各大学の中で少人数であれば、何とか手をかけてできるのでは無いか。

 一次テストで記述式をやれば、自己採点ができないという問題も出てくる。共通一次では一次試験を自己採点して、その結果で受ける大学を決めている。文科省の受験改革に対する姿勢が、どうにも理解しがたい。文科省には受験を得意とした人が集まっているので、間違いが起きたのかな。

 2次試験で記述式を取り入れれば、採点も可能になる。方法としては三人が採点する。10点以内の差であればその平均点とする。10点以上の差があるものは責任者が別に採点を行い、その点数とする。この方法は50万人では無理であるが、1000人単位なら何とか可能である。

 一人の採点に30分二人で一時間として、200人で100時間。1000人で500時間だ。採点に当たる人が、10人で50時間の仕事。1週間拘束の30人が採点を行えば、1000人の公平な採点が行える。

 記述式試験は私が受験した50年以上前にもあった。倫理社会と言う科目の試験では、中世ヨーロッパの暗黒時代と呼ばれるキリスト教思想と宗教改革の関係を記述するものだった。思いきって、中世のキリスト教思想の方の立場に立って、宗教改革を否定的評価するものを書いた記憶がある。良く受験でそんな無謀なことをしたものだが、意図は理解してくれるものだと思って、大胆な考えを書いた。

 記述式テストはその人間の思考能力が判定するものだ。思想信条価値観を評価するものでは無い。記憶偏重の試験よりも、大学での学習能力を見る上では重要だと思う。また、記述式試験が入試の中心で行われれば、論文を書く能力を高校の授業でも重視することになる。これは頭の訓練には極めて良いことになるだろう。

 記述式の採点は確かに難しいと思う。だから足きりにあたる、一次試験で行う必要は無い。一次試験の意味と、2次試験の位置づけを明確にすればいいだけのことだ。それは英語の外部試験も同じである。

 受験で一番おかしいと思っていたのは、私立大学の受験科目が3科目というような形である。昔もそうだったが、今もそうなのではないか。3科目以外は高校で学ばないでもいいと言うことになりかねない。面倒くさくとも、全教科を受験させる国立大学の受験の方が優れていると思った。入学金などのこともあるから、そもそも私立大学は考えなかったが。

 2次試験においては英検のような外部試験を必要と考える大学は行えばいいだろう。その代わり、その受験費用は大学の受験費の中に含める。その費用は文科省が負担する。試験を作り採点するよりは大学は楽であろう。1次試験で絞り込まれていれば、それほどの費用にはならないはずだ。もちろん開催場所や時期は大学の試験に併せて行う。

 今の大学というのは受験料でかなりの利益を上げているのではないだろうか。だから、採点の経費を節約して、多くの受験生に受けさせようとなるのでは無いか。

 簡単な工夫をすればいいだけである。文科省の役人は上から目線のお役所仕事。受験生の側に立つことは無い。身の丈に応じて受けてくれればいいと考えているのは、大臣と同じである。大学に入りたいならそれくらいの無理はするだろうという程度だ。

 石垣島の高校生の立場になってみろと言いたい。相当の負担である。自分の力で進学しようと考えたら、無理かもしれない。ここが一番の問題である。私が自力で大学に行けたのは東京に暮らしていたからだったと改めて思った。日本中の受験生が、同じ条件で無ければ、ますます地方に住む人は居なくなる。

 それなら一次産業に就くなら、大学など行かないでもいいのでは無いかという考えもある。確かにそうなのだが、例えば農業をするとしても、農業を学問的に捉える勉強はした方がいい。私の場合は発酵については、大学に行き直したいぐらいだった。独学ではやはり、十分ではなかった。

 石垣牛を飼う能力は実際にこの土地で牛を飼っている人が一番だと思う。その一番の人が、大学で畜産を学んで居ることは必要なことだ。加えて、同じ志を持つ良い友人に出会えるかもしれない。

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安保マフィアと先島自衛隊計画

2019-12-24 04:01:59 | Peace Cafe

コウトウシラン

 日本の軍事基地化を裏側で推進する人達を「安保マフィア」と呼ぶらしい。なんとなくそういう人たちの存在が八重山での自衛隊基地推進では感じられる。与那国島に自衛隊基地ができるまでの話を読んでいて、安保マフィアの存在を感じざる得なかった。

 いわば先島諸島に対する宣撫部班である。宣撫班は軍に住民を協力させるために、潜行し住民を懐柔して行く軍協力者のことである。軍直属よりも、住民の中に様々な形で潜入し、技術指導や情報提供を行う一般人を装うことが多い。

 宣撫班の背景にいるのは軍事が盛んになれば、利益が上がる人達である。アベ氏はやたらアメリカから武器を購入している。これなどは価格が不明の武器購入を通して、宣撫費用が捻出されると言うことでもある。武器購入を通して、日本の属国としての位置を評価している。わざわざてきたいかン系を作り出し、軍事基地を増やし、武器生産を増加させて利益を上げようという人達がいる。その宣撫班が安保マフィアである。

 石垣市の自民党議員の発言や中山市長の動きがどこかギクシャクしている。自分の考えで発言して、動いているようには見えない。発言に一貫性が無く台詞のように感じた。不自然で唐突である。アベ氏の言動と似ている。それは後ろで、安保マフィアに吹き込まれているからではないだろうか。

 思い出せば、中山市長が国家の安全保障は国の専権事項なので、石垣市は口を挟むことができないと以前発言をした。この発言は市長として、民主主義を逸脱する大問題である。何故こんなことを言ったのかと思うが、多分宣撫班にすり込まれた考え方なのだ。最近はそんな発言はした覚えが無いというような態度である。宣撫班からコントロールされているように感じられてならない。

 得意げに放った自衛隊誘致の都合の良い考え方を差し止められているのでは無いか。現状では何も言わない。ここまで進めた段階ではできる限り市民を刺激しないで、静かに自衛隊基地の建設を進める作戦である。必要最小限のコントロールされた発言のみになっている。

 誰かの指導があるとしか思えない。多分自衛隊事務所の人安倍内閣からの直接派遣された人も居るのだろう。宣撫部隊の指導があると考えるとしっくりくる。ここの不思議を考えて行くと安保マフィアというものに突き当たる。行動の操り人形化の背景に、何か圧力が存在するように見える。弱いところをつかんでしまうと言うのも当然画策するから、こういうことは以前の“台湾裸写真事件”だけでは無い。もっと怖いこともあるに違いない。

 日米安保条約をネタにして利益を上げている人達を安保マフィアと考えたらいいのだろう。自衛隊関係者もいれば、軍需産業の関係者もいるだろう。もちろん米軍の宣撫部隊も一枚加わっている。この動きはプロ化されていて、実に周到に計画されている。そう考えておかないと、この先自衛隊阻止はできない。

 安保が無くなると困る人達が、軍隊の回りで画策している。先島自衛隊基地戦略の先には、自衛隊基地の米軍共用と言うことが目に見えている。沖縄の米軍基地の負担軽減は、自衛隊基地への置き換えと言うのが政府の考え方である。

 具体的な宣撫工作は中国の仮想敵国かである。必要に応じて、中国の覇権主義的行動を、日本の安全保障の危機としてすり込んで行く。中国は沖縄を中国所属と考えていると、危険は尖閣だけでは無いと、盾の会の人は叫んでいた。こんな人の講演会を八重山の自民党議員は開催しているのだ。

 自衛隊基地の自由な使用は米軍にしてみれば、負担軽減である。これが沖縄の負担軽減の実際である。アベ政権はどこまでも沖縄を犠牲にして、日本の軍事国家化を目指している。その先方部隊が安保マフィアと言うことになる。

 安保マフィアはあらゆる角度から、民衆に情報をすり込み、いつ中国の攻撃が始まるかと言うように幻想によって脅すわけだ。先日の盾の会の人も、そういう映像を見せていた。中国を悪の国家として、存在させその恐怖心から、自衛隊を受け入れる下地を作ることが安保マフィアのやっていることのひとつである。多分先日石垣で講演会をした、盾の会の人物などもマフィアの一員なのだろう。

 そうした宣伝工作が成功したのが、与那国島なのだ。最終的には住民投票で自衛隊誘致になったのだが、そこに持ち込まれた与那国の状況を調べて行くと、ただならぬ事が起きていたようだ。国境の離島に不安感を増幅させて行く手法。

 先島諸島全域に自衛隊配備が終わるのが第一段階である。それまでは自衛隊は静かにしているはずだ。次段階では基地使用の実態に変化が出てくる。米軍との共同訓練と言うことが始まる。

 石垣島もすでに自衛隊工事が進んでしまっている。一体いつ住民が承認したのか。そんな覚えは全くない。自衛隊の必要性は石垣市議会で話し合われたことも無い。住民投票を拒絶して居る間に、自衛隊基地を先行的に着工してしまった。こんな卑劣なやり方は普通では無い。住民無視もいいところである。軍隊は民主主義ではできないものだ。だから民主主義無視。

 石垣でも自民党は完全にマフィアに落とされている。島は地縁が強い。様々な恩恵が見えない形で落とされる。だから、自衛隊がイヤでも、それを言い出せない人が多数派になる。選挙になれば、地域代表であり、親戚の人と言うことになる。純粋な政策選挙にはならない。

 だからこそ、住民投票が必要なのだ。はやく住民投票をして住民の考えを確かめなければ、石垣島の未来は危ういものになる。マフィアは住民投票は絶対阻止である。次なる手立てを考えているところだろう。裁判への圧力も行われているに違いない。

 すべてが実に巧みに進められている。この手際はまるで軍事作戦のようだ。石垣の自民党は完全に洗脳状態にされてしまった。市長はもう安保マフィアの一員であるかのような振る舞いである。株で大損をしたという当たりがどうも胡散臭い。

 すでに議員一人一人に相当の宣撫工作がなされているとみなければならない。そうでなければ、まさか、あのずさんで、でたらめな自治基本条例廃止案に10名の議員が賛成するはずが無い。自民党議員のなかに一人も反発できなかったというのが不思議である。

 住民投票の実現が大きな分かれ目になる。これを阻止するために、住民投票自体をなくそうというのが、市議会の今後の動きである。今から、自治基本条例が廃止されたとしても、過去の請求には影響しないという考えは、甘い。ここで条例から住民投票条項が無くなれば、当然裁判にも影響する。

 最初は甘く見たのだろう、自治基本条例そのものを廃止すると考えて、成立できなかった。今度は条例にある、四分の一以上の請求で市長は住民投票をしなければならないという一項を削除を提起するだろう。

 それが行われる前に、自治条例のシンポジュームが必要だろう。未来系と公明党議員を含めて、本音を聞くべきだ。現在、安保マフィアは公明と未来の議員に極めて強い圧力をかけているに違いない。黙っていれば、相当に危ういと思われる。



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あしがら農の会味噌つくり募集中

2019-12-23 04:38:08 | 自給

収穫された大豆。小田原の家で乾燥をしている。

 あしがら農の会では味噌造りをもう20年以上している。大豆を作るようになってからでも随分長くなった。とても味が良い味噌ができる。味が良い理由は、小糸在来種という大豆にある。この大豆を有機農法で作っている。

 様々な有機大豆を、ゆでて味比べテストをしてみたが、あきらかに農の会の小糸在来種が美味しい。手前味噌と言うことはあるが、目隠しテストで全員の選択であった。それ以来他の大豆には関心が無い。

 農の会では味噌造りをすると言うことは大豆を作るところから始める。お米を作り、米麹を作る。作物に関わる所から始めて、自給の味噌造りをすると言うことだと考えてきた。大豆栽培を体験してみて始めて、味噌を作ると言うことがどういうことだか分かるのだと思う。

 今年は珍しく大豆の会参加者以外にまで募集できる沢山の大豆ができた。大豆は誠に不思議な作物で、これで作物の生理が把握できたという感じがまるで無い。まだ、今年は何故か上手くいったというぐらいである。

 上手くいったと言っても反収で300キロまでは行かない。有機農法で、在来種で作るとこのくらいが限界なのかもしれない。しかし、豆を見ていると、例年以上の味に違いないと思う。

 農の会の味噌造りはお祭りである。“自給祭”が表のお祭りであるとすれば、内々のお祭りとなる。みんなでMAGOの森という巨木の森に集まり、巨大なお釜でわいわいと楽しく味噌を仕込む。これがほんとうの人生の楽園の楽しさだと思う。

 私は暗いうちから三線を持って、参加をする。下手な唄を唄いながらたき火を囲む。そんなこんながたのしいので、寒いのに味噌造りには小田原に行きたくなってしまう。昼食は1品持ち寄りでみんなで食べます。これがすごい料理が例年集まり、驚きです。今から、味噌料理を考えています。ゴウヤの味噌漬けなどどうだろうか。石垣牛の味噌漬けの方が、喜ばれるか。

 今年は以下書いた要領でのこり数口を一般募集をします。滅多に無い機会だと思います。是非この機会を逃さず参加してみてください。味噌造りにはでれないが大豆は食べてみたいという人には、笹村が勝手にですが、メール連絡をいただいた方に大豆を味見用くらい送らせてもらいます。

 枝豆で食べても、とても美味しい品種です。この小糸在来種からできた農の会大豆に種として興味のある人には、種を送らせてもらいます。ただ、大豆は土を選ぶようです、場所が変わると味が変わるようです。

 笹村までメール sasamura.ailand@nifty.com で連絡ください。

 募集は最大40口まで(1口で味噌の仕上がりが約10キロ)

10キロは消費し切れず、興味がありながらも二の足を踏む方という方も多いので、今年も半口単位の申込を受け付けます。
しかし、セイロで米を蒸す際の組み合わせが複雑になるので、できるだけ1口単位でお申込みいただけると助かります。
(お知り合い同士で組んで1口申込み。。。という手もありますよ)


【1月19日(日)麹の仕込み】
1口あたり2升の米を蒸して麹菌を仕込みます。(作業時間2~3時間)
その後2日間ほど、自宅で温度管理して発酵の手助けをし、完成させます。

最初の12時間以降は付きっ切りでなくても、どうにか温度管理できますが、出かけっぱなしのご予定がある方は難しいと思います。ご注意ください。


【1月26日(日)味噌の仕込み】
大豆を大釜で煮て各自が仕上げた米麹と塩と混ぜて1口約10キロの味噌を仕込みます。
朝9時から午後3時頃まで終日作業の予定です。

1月18日と25日に、それぞれ翌日の【準備作業】があります。
人数が集まれば早く完了するので、是非皆さんご参加下さい。

【参加費】
大豆栽培作業に参加した方 1口2,000円
味噌づくりのみ参加の方  1口5,000円
(半口希望の方も受付可)

☆★☆★☆★今年は参加費の割引制度導入☆★☆★☆★

《割引その1》準備作業に出ると1回1口あたり250円引き!
→栽培作業に参加した人で準備作業両日出ると、1口1500円に

《割引その2》2口申し込みで、さらに2割引き!
→準備作業に出ない場合、2口4000円が3200円に
 2回準備作業に参加すると2400円で2口作れちゃう!

☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★

【お問合せ・申し込み】
藤崎智子
E-mail: tomokofujisaki@silk.ocn.ne.jp
なるべくメールでお願いします(*^_^*)

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石垣島の好きなレストランベストテン

2019-12-22 04:17:23 | 石垣島


 石垣島には好きなレストランが沢山ある。値段も手頃で、美味しいお店がかなりある。観光地であるから、人口5万人の島にしてはレストランの数はかなり多い。料理の種類も多種多様で、世界各国の料理のお店がある。

 これほど数があっても、昼時は満員ということがままある。満員のお店だから美味しいというものでもないところが面白い。情報の発信が上手な店は混んでいる。観光客は情報で動いている。いろいろのグルメガイドで上位のお店が混んでいると言っていい。そういうお店には確かに観光客の時に行っただけになった。もっと美味しいお店があるからなのだが。

 正直言って余り紹介したくない。せっかくのお店が混んでしまったら困る。と言って良いお店は良い方がやられている。だから、もっと繁盛して貰いたいという気持もある。それで書くことにした。私の好みでは責任は持てないが、今まで知り合いに教えてあげてダメだったという人は居ない。

 ほとんど1000円前後のお店である。石垣で高いお店は石垣牛のお店であるが、これは滅多に入らないから、どこが美味しいかまでは知らない。街の中心部にも美味しいお店はきっとあるのだろうが、街の中に絵を描きに行くことは無いから、町中のお店はあまり知らない。

 午前中は絵を描きに出ている。午後も描こうという日は、家には帰らないでどこかのお店に昼食を食べる。一度家に帰ると絵を描く気分が途切れるからである。10軒上げたいと思うが、順不同である。

1,「おいしん坊」新川の大通りの南側に位置する。沖縄銀行の並びにあるお店だ。まさに石垣庶民のお店である。ここのそうきそばが好きだ。私には石垣で一番美味しいそうきそばである。八重山そばが食べたくなったら「おいしん坊」に行くことにしている。このお店には大きなケンシロウが書かれている。きっと漫画が好きなのだろう。しかし、漫画本が置いてあるようなことはない。この辺が不思議なのだが。水がセルフと言うことはきお付けないと、おばさんが気を病むことになる。

2,「アグリカフェ」新八重山病院のそばである。ここでは昼定食を食べる事が多い。女性の方が作られているのだが、料理のセンスが最高に良い。料理にはかなり本気である。例えばちょっとしたきんぴらゴボウが絶妙である。漬物やおまけのようなデザートがなんとも美味しい。八重山風料理を考えられているのだと思っている。そうきそばもあって良いのだが、量が多いいので私には食べきれない。

3,「中村屋」石垣小学校の西側の住宅地にある。なかなか凝った本格的なカレーである。カレーは変幻自在でどれがいいとも言えないものだと思うが、ここのものは一度は食べてみる価値がある。カレー以上に興味が湧くのが家の造りである。なかなかのものである。木造家屋の魅力がある。庭との調和も良い。又ちょっと置いてある器などがいい感覚だ。美味しいお店なのになぜか余り混んでいない。多分、店主は観光客で混み合うようなことが好きではないと見受ける。俗なことが機雷だと顔に書いてある。

4,「ハイタイドカフェ」獅子の森という名蔵にある別荘地のなかにあるお店。やいま村というおおきな観光施設の向かいにある別荘地の奥にあるお店。ビーフシチュウが本格的である。どの料理も仕込みがすごい。前菜の盛り合わせが、絶品である。料理人として一流のシェフなのだと思う。ロールキャベツも良い。書いている今も食べに行きたくなるほど美味しい。ただ本格的すぎて、味が濃厚なので、覚悟いる。

5,「舟蔵の里」島の南の方の海岸にある。と言っても海岸が見えるわけでは無い。やいま料理のお店だ。古い舟蔵を集めてレストランにしたお店である。立派な建物である。料理は少し私には高いが、それだけのものではある。八重山の料理を食べたくなったらここに行くしか無い。観光できた人なら、必ず行った方がいいと思う。石垣を味わうことが必ずできるだろう。

6,「ITALICO」崎枝の美しい集落の中の住宅の一つがお店になっている。石垣で一番景色の良いお店だ。このお店から見る海の色がすごい。インジゴブルーとコバルトブルーの帯を見ることができる。スパゲッティーのお店といってもよい。クルマエビのスパゲッティーはまさに崎枝産の地元のものだ。観光客で混んでいるが致し方ない。

7,「ハイビスキャット」桃林寺の並びにある。スペイン料理のお店。お店のご主人がとても気持ちの良い方である。パエリアがなかなか良い。問題はパエリアは3人前の事前注文ということで、普段食べるわけにはいかない。ほかの料理も日本人に合うスペイン料理である。ご主人の味の感覚がいいのだと思う。きっとスペイン人は違うというのかもしれない。私は日本人だからその方がいい。

8,「ガロパン」スパゲッティーとピザのお店。名前も不思議だが、変わった場所にある。わかりにくい場所だ。家も普通の家である。靴を脱いで入らなければならない。かなり入りにくいのだが、味はなかなかである。

9,「ひらのや」日本そばがある唯一のお店。市役所の南隣。三崎町の中にある。そば屋として、すごいというほどではないのだが、そばが普通にそばである。石垣にいると、そばを食べたいなと思うこともないとは言えない。そういうときにはこのお店に行くしかない。

10,新しい店に入るのは好きだから10番は残しておく。
美崎牛本店を10位にくわえる。昼の焼き肉定食1000円は極上である。本当のうまい肉がこの値段とは驚く。昼はすぐ満席になるので、12時前に行った方がいい。場書はシード線ぞいで、旧八重山病院のそばである。ご飯やスープを自分でよそれるところもいい。


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国連気候変動枠組み条約第二十五回締約国会議(COP25)

2019-12-21 04:55:16 | 環境関連
最後のササドリ

 COP25合意文書は、現在各国が掲げる温暖化ガス削減目標と、温暖化対策の国際枠組み「パリ協定」で採択された気温上昇を抑える目標の間に「大きな差」があることを認識しつつも、その差を縮めることが「急務だ」と言及するにとどめた。

 日本は2度目の化石賞を受賞した。これは褒められたのでは無くて、批判されたのだ。どうも小泉環境大臣はトンチンカンなことを言っていた。あえて批判されて日本の方向を変えようという逆説的手法だという人も居たが、どうだろうか。
 
 COP25は停滞したまま終わった。その責任はアメリカのパリ協定離脱。排出大国中国、インドの非協力。そして日本の化石化。深刻に受け止めていない国が多いが、日本はその中でもダントツである。確かにあと30年先に私はいない。だからいいのかもしれない。しかし、グレタさんが言うとおり、若い人には地獄のような世界が見えている。

 今なら、まだ間に合う。世界はその危機を認識しながら、手を打つことができない。今日が良ければ、先のことなど思い悩んでも仕方が無いと言うことなのだろう。しかし、この気候の変化は農業をやるものとしては、この気候の変化はもう明日のことでは無くなっている。昨年の稲作は極端な日照不足と、大雨で深刻な影響を受けた。

 大型台風の影響は深刻なことだった。河岸の田んぼは2カ所で崖崩れが起きて、未だ直すことができていない。来年の植え付けができない田んぼがありそうだ。水路も土砂で埋まったままで、このままでは水が引けない。春までにはなんとかしなければ、ならないが。この水路は小田原市の管轄であるのに、小田原市はやってくれるのだろうか。

 それは全国的なことだろう。日本は深刻な気候変動の中にある。都会で冷房の中でだけ暮らしている人にはこの深刻さが分からないのだろう。一度、夏の国会でノークラー日を設けてみたらどうか。東京オリンピックのマラソンと同じ事になり、夏の国会は札幌にして、早朝開催にしようと言うことになる。

 地球はギリギリの所に来ている。トランプのように、温暖化はフェークニュースでおわらせる人も居る。この神経がすごい。今起きている現実を理解しようとしない世界のリーダーが居る。アベ氏の場合は自分の考えは示したことが無い。多分アベ氏の理解の外のことなのだろう。原発だけにすがって、何の手も打とうともしない。

 アベ政権が打つ手と言えば、原発再稼働ぐらいだ。既得権益からの圧力で動いている。エネルギー計画を再生エネルギーに方向転換をすべきだ。アベ氏の目指した原発輸出などすべてが実現できなかったでは無いか。無駄なことをしている余裕は無い。

 温暖化対策のような、負担増を避けて当面の既得権益確保に追われている。その結果企業はお金を貯め込みながら、新しい産業開発をできないで居る。企業の再生エネルギー技術の開発に税制優遇を思い切ってすべきだろう。

 企業はお金を貯め込みながら、新しい産業への転換を目指す勢いが無い。本田宗一郎氏も松下幸之助氏も現われない。日産の混乱を見ていると日本の企業の実像が見えてくる。外国人に助けて貰いながらも、自分の利益にキュウキュウとしている哀れな社長像。

 再生エネルギー分野でも中国の方が先進的展開をしている。斯うして日本が技術先進国から、化石国に落ちて行く姿が哀れで情けない。この意欲の欠如はどこに原因があるのか。やはり拝金主義の蔓延にあるのか。実業では無く、お金を動かして儲ければいいというように、腐り始めているのか。

 蓄電池技術ではりチュームイオン電池の企業研究者の吉野彰先生がノーベル賞を受賞した。過去にはこうした先進的技術を日本人が切り開いていたのだ。現状では先端技術の研究力が落ちてきているのでは無いかと見える。だから再生エネルギーの技術が日本から出現しないのではないか。

 アメリカはひどい国ではあるが、バイオエネルギーなど再生エネルギー開発でも世界をリードしている。中国もそうだ。中国の再生エネルギー開発は完全に日本を凌駕した。

 貧しくとも、未来に希望があれば頑張れる。希望があれば苦しい努力も喜びが伴う。福島の原発事故を持って原発依存を止める覚悟が必要だった。原発事故はつらいことであったが、再エネ技術国に転換する契機でもあった。それができなかった。残念な日本。

 原発を止めて生活水準を下げても、と言うことができない国になっている。太陽光発電だけではだめで、当然蓄電池の開発である。吉野先生のように蓄電池の分野で、さらに新しい展開があれば、原発は廃止できるのだ。

 今の現状では日本に期待するより、再エネ技術では中国に期待した方がいいのかと思えるほどである。ここが情けないというか、残念なところである。なぜこうなったのかと言えば、人間の劣化。教育の劣化。民主主義の後退。社会の保守化。拝金主義。階層化された社会。希望の衰退。いろいろの原因が考えられる。

 どうすればいいかと言えば、食べるものからやり直すほか無いと思う。小学校で英語教育など馬鹿げている。やるべきはイネ作りの授業である。肉体労働を伴う一次産業を知らない人間では、新しい発見はできない。これは極端ではあるが、個人的には絵を描くためにはイネ作りが必要だと思いやってきた。

 感じる力、観察する力、身体を動かす力、論理的に考える力、自然を見る力、そして協働する力。イネ作りはこうした人間の基本的な能力を育ててくれる。それらのものを総合する力が無ければ、イネは十分には育たない。絵も同じもののようだ。

 日本はCOP25の会議において、何も示すことができなかった。温暖化による自然災害の影響は日本では年々顕著になっている。世界は化石燃料に依存する日本に対して、対応を迫っている。日本は自分自身に影響の大きい温暖化問題に対応ができない。

 国民の生活水準を落としてもと言うことができないのだ。利己主義である。未来のための我慢ができないことになっている。選挙制度も悪い。その結果選ばれる安部政権は化石化していると世界が言うとおりだ。

 リベラリズムが軽視され始めている。リベラリズムが結果を生み出せなかったと批判されている。確かに、リベラリズムではヒットラーのように世界を動かすことはできない。リベラル的歯がゆい停滞したかに見える議論を根気よく続けるほか無い。




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イギリスのEU脱退

2019-12-20 04:33:46 | Peace Cafe


 イギリスもいよいよEU離脱という事が決定的なようだ。ジョンソン氏が首相になり、保守党が選挙で圧倒的な勝利をした。決められない議会の末の解散選挙。はっきりしない野党の姿勢の結果と言われている。私には一国主義の結果と見えている。世界がよその国のことどころではないという、方向に動いているように見える。

 アメリカではトランプ、イギリスではジョンソン、そして中国では習近平。ロシアではプーチン。独裁的な色合いの人が世界を動かし始めている。自国の利益だけを追い求めるリーダー。こうした人が選挙で選ばれるような世界になり始めた。麻生氏の言うとおり、ヒットラーは選挙で現われる。

 こんなことで世界は大丈夫なのだろうか。世界は資本主義の競争の激化で、追い詰められてきたのだろう。ヨーロッパでは中東からの難民問題。アメリカでは中南米からの移民阻止。外国人を排斥しようとしている。中国もロシアも昔からの覇権主義。第2次世界大戦の反省から始まった平和の希求から、少しづつ世界は一国主義に引いてゆくかに見える。

 それぞれの国に状況の違いはあるのだろうが、強い中心人物がいて強権を振るい、決めて行く。他国を利用だけして、排除する政策をとる。それに対する野党の意見の方がまともではあるが、まとまらない。理想主義は分散しがちだ。国民は我慢をしないことになった。

 こうして世界中が自国の利益だけを主張すれば、世界の破たんが待ち受けているのは自明の理に違いない。このまま進めば、世界の軋轢は高まることだろう。一国資本主義は成立するはずが無い。

 みんなが良くならなければ自分も良くなれないというのが、資本主義の原理のはずである。世界中の生活水準が上がることで、消費が浮上する。相手を滅ぼしてしまえば、消費が減少する。松下幸之助さんはそういうことを言っていた。

 日本の平和の理想主義は世界の希望だと思ってきた。武力を用いず世界の問題を解決する。当たり前のことだし、その様な努力以外に対立や戦争を避けることはできない。ところが平和憲法を持つ、理想主義の日本がアベ政権になり、憲法改定を主張し続けている。

 イギリスの選択は間違っていると私は思う。少なくとも世界の平和主義の後退である。正しい道というものは混とんとしている。未来の希望は現実主義よりもいつも霧で霞んでいる。確かに、一国主義は分かりやすい一本道。しかし、この道の先にあるものは必ず国家間の対立である。当然のことである。

 イギリスがEUを離脱して、経済が下降線をたどれば、国内の問題が一気に過激化する可能性がある。イギリスはEUと対立するだけではなく、国内の問題が表面化してくるはずだ。移民問題どころではない事になると見ている。

 イギリスの状況は複雑である。残留派住民が多い北部スコットランドは離脱に突き進むいきおいのまま、英国からの独立。そしてEU加盟を独自に探るスコットランド民族党は圧勝。20年に独立を問う住民投票が行われる可能性が高まる。北アイルランドでは、地続きのEU加盟国のアイルランドとの統合構想がある。

 アメリカと中国の争いは自分の国の利益だけの経済競争である。勝つか負けるかを争っている。互いの成長を望まなければ、未来がないという事が分からなくなっている。経済が豊かになり、貧しい国に足を引っ張られたくないという姿に見える。

 日本の経済は徐々に下降線に入ってきた。人口減少という事もあるが、それよりも国としての勢いが失われていると思う。ひとりあたりのGDPは世界で32位である。韓国が36位で台湾が46位である。香港は21位である。

 GDPがその国の暮らしを表しているわけではない。過去のインフラが整っている国はいまGDPが低くとも、公共投資が不要なため生活水準は高くなる。日本は人口が多かったので、国別のGDPでは世界2まで登ったこともあった。一人りあたりでもトップテンには入っていて、世界の上位国であった。

 日本の現状としては、公共的な施設への投資はまだまだ不足状態である。災害多発列島という事もあり、様々な環境整備の投資を続けざる得ないのだろう。原発などへの投資も、取り壊すとなれば負のGDPである。

 いずれにしても毎年順位は低下している。問題はこの実情を認めることのできない、政府と国民ではないだろうか。順位を上げろというのではない。日本はあと十年すれば、世界でも中位の国になり、世界での発言力のない国になるという事実である。

 イギリスのEU離脱は過去の栄光への幻覚のような気がする。植民地からの恩恵を失い、大英帝国の頃に投資した公共施設も徐々に更新が必要になっている。そこに旧植民地からの移民が増大している。白人の国とも言えないぐらい多種類の人種が存在する。こうした状況での国の方向の選択である。民主主義的選挙が正しい道を選ぶとは限らない。


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東名あおり運転裁判地裁差し戻し判決。

2019-12-19 04:23:11 | 暮らし
 

 あのひどい東名高速のあおり運転が高等裁判所で差し戻しになった。その理由が地裁の裁判官が裁判で違法行為をしたというのだ。前代未聞である。被害者家族は2重に耐えがたいことになった。
 
 横浜地裁が公判前整理手続きの段階で、裁判官だけの話し合いにより「危険運転致死傷罪は成立しない」と判断し、弁護側と検察側に見解を示したことが問題だった。裁判員と協議することなく、このような見解を示したことは、「裁判員法に違反する越権行為だ」と高裁判決は示した。

  裁判官が法律を理解できない人ではたまらない。こんな程度の低い人によって裁判が行われているとすれば、冤罪など当たり前に起こるだろう。この事件にかかわった裁判員の方々は裁判官の冒頭の「危険運転致死傷罪は成立しないと」との説明をどのように受け止めたのであろうか。

 このような裁判員と裁判官の安定しない関係を見ても、裁判員制度が崩壊していることがわかる。裁判員制度は早く廃止した方が良い。それでも今回の裁判員は裁判官よりは正しい客観判断であったことは、高裁の裁判官が認めている。つまり裁判官の意見を無視して正解だったと言うことになる。

 いったい人を裁くということ自体に客観性が危うい。私は裁判員の裁判は拒否したいと思っていたが、これでは裁判官の判断も拒否しなければならない。まあ犯罪を犯さないことだが、勝手に裁判に巻き込まれることはあるから油断はできない。こんなことで日本の司法は大丈夫なのか。

 社会の劣化ということが言われるが、人間の劣化が司法制度にまで及んだということだろう。裁判官の裁判冒頭の説明は、狭い法律判断に縛られていた結果だろう。間違った法律であろうとも、法律は法律だということになる。

 しかし、現行法のもとでも危険運転致死傷罪が成立しうるという、社会情勢に合わせた判決を、高裁裁判官と、裁判員は下せるとしたのだろう。では地裁裁判では裁判官と裁判員はどのような会話があったのだろうか。興味を持つところである。

 裁判員という普通の市民が人の生死にまで関わるのだ。そのときに裁判官は裁判員を補助し、法を解説などするらしい。今回の事例では最初に、危険致死傷罪には当たらないとした判断を冒頭説明したと言うことはかなり決定的な判断である。
 
 普通の裁判員ではこの裁判官の意見に従ってしまうだろう。まさか法律の専門家より、自分たちの方が正しい法律の判断ができるなどと考えないだろう。だから、今回の事例は特殊では無いだろうか。世間の潮流に裁判員が影響されたとも思われる。裁判官は関わる裁判の報道などは見ないようにするらしい。

 多分横浜地裁の裁判官には越権行為のつもりは無いだろう。この難しい裁判を補助してあげるためには、最初に方の説明をする方が良いと考えたに違いない。残念ながら、危険致死傷罪には当たらないというのが法律の解釈ですよ、と指導したつもりなのだろう。

 世間はこのとんでもないあおり運転を重罪に処すべきという空気であった。死刑すらあり得るというほどあくどい犯罪に見えた。だからこそ、裁判官は法律の専門家として、あえて冒頭に指導をしたのだろう。

 その行為が違法だという自覚が無かった。裁判官が、法律を理解していなかった。しかし、冒頭に決めつけるのは違法だとしても、このように裁判官の判断を何かと裁判員に仕向けることはままあるだろう。そのような形式的なものであれば、裁判員制度などそもそもいらない。

 だから、裁判員制度は裁判官によって、その実態は動くと言うことになる。一体何のための裁判員制度なのか。こんなことは止めておかしな裁判官に一任した方がまだいい。地裁で間違った判決が出たのであれば、高裁で覆るはずだ。最高裁まで上告できるのはそのための三審制度だ。

 裁判員が死刑判決を選択した事例が、最高裁で取り消されることがある。これは裁判員が間違っ他判断で人を殺しかねなかったと言うことになる。普通の市民にとってこんなつらい体験はあり得るだろうか。人を裁くことは専門家に任すべき事だ。私がその立場であれば耐えきれない。

 誤りを改める事を恐れる必要はない。このまま、裁判員裁判を取り巻くひどい状況を継続することの方が問題をさらに深刻化させる。一日も早い裁判員制度の廃止を願う。

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なぜ、石垣自民党は自治基本条例を廃止しようとしたか。

2019-12-18 04:17:00 | 石垣島
コウトウシラン 石垣島のランである。

 石垣市自治基本条例は、廃棄されかかったか。10対11の僅差で廃棄案が否決され、危ういところで救われた。石垣市民として怖いことであった。石垣亨市議が提案し、石垣自民党の議員が廃止すべきと主張した。

 それに対して野党議員と公明党議員そして未来会派の議員が自治基本条例の維持を選択した。石垣亨氏の議場での主張を聞いていると、まるでネトウヨのような主張で驚いた。こういう人が議員に居る。分からないでは無いが、石垣自民党全員が同調したことには驚いた。石垣亨氏に巻き込まれたような印象だった。

 石垣亨氏の考え方は、先日石垣市で自治基本条例の勉強会と名乗り、自治基本条例潰しの講師として講演した元盾の会の人の意見と同じものであった。大きくは二つある。1,外国人まで市民に入る点がまずい。2,直接民主主義的手法の住民投票は不要である。この2点から廃止しようとした。

 その講演会の時にも説明されたのだが、自衛隊基地の住民投票をなんとしても止めなければならないというのが背景にある理由である。はっきり説明があったのだが、住民投票が行われれば、基地反対が多数に決まっているというのだ。だから住民投票は良くないというのだから、理屈にもならない。

 石垣亨議員は住民の反対が多数を予測した上で、自衛隊を誘致すべきと考えている。住民が拒否するとしても、自衛隊基地が無ければ石垣島が守れないと考えているのだろう。確かにそういう考え方もひどいことだが無いとは言えない。

 そもそも武力主義と言うものの野蛮な本質である。民主主義的な手順とは相容れないのだ。当然住民自治など問題外なのだろう。本島の辺野古米軍基地拡張工事と同じ事である。日本を守るためには先島を防人にするという考えかたである。

 こういう人の頭には、平和外交などというものは全く存在しない。武力での安全保障以外は無いと言うことなのだろう。果たしてこういう人と議論をできるのかというとそれは無理である。ほぼ接点は無い。それは平和外交が難しいのと一緒で、相容れないものが直接話し合っても無駄だ。

 このブログにも政治的な記事を書くたびに、ひつこいネトウヨが罵詈雑言の脅しをしてくる。以前は公開し対応していたが、全くの無駄であった。有意義な議論を試みたが全く受け付けない。それ以来、公開せず読まずに廃棄している。不愉快なだけだからだ。読まずに捨てるのが上手になってしまった。

 意見が割れた場合民主主義では多数決によって判断する以外に無いのだろう。石垣市の自治基本条例では四分の1の署名での請求があるときには、石垣市長は住民投票を行わなければならないとなっている。ところが市長は議会において否決されたので、住民投票を行わないという。背景には住民投票をすれば、反対が多いのを分かっているからだ。結局の所住民投票の判断が裁判の争点である。

 この住民投票が市議会を越えて実施されると言うことが、議会の自民党としては許しがたいことなのだ。だから、今度はこの点だけの変更を迫る議案が提出されるだろう。そう考えていた方がいい。しかし、四分の1を超える直接請求は相当に重いものだ。この条項は大切だと思うが、石垣亨氏は必ず住民投票条項の廃棄を要求するだろう。

 そうであるならば、自治基本条例の住民投票を争点とした市会議員選挙を行うべきだ。現状自民党は多数派かもしれないが、自治基本条例を争点とすれば、自民党が敗北する可能性は高い。それは先日の勉強会の説明にもある。すべては選挙の後のことにすべきだ。もし、強硬に廃止をしてしまうのであれば、次の選挙で覆し、又住民投票条項を取り入れればいい。

 野党の結束である。石垣島のような地域選挙であれば、政策選挙にはなりにくいのであろうが、ここまで自民党が数の力ででたらめを始めている以上、野党は日ごろから活動の連携を強め、一人でも多くの議員の誕生しか無い。

 与党内にいる公明党と未来会派の人は中間に位置するようだ。少なくとも石垣自民党よりは常識がある。この人達と連携を探る必要がある。もちろん与党であるから難しいとは思われるが、問題によっては今回のように自民党案を否定することもありえるということだ。

 例えば自治基本条例シンポジュームのようなものを開催して、議論を深めて行くことはできないだろうか。公明党は石垣島自衛隊の是非の住民投票をやらないでいいとした。しかし、選挙の際はもうひとつ曖昧であった。住民投票に関してどういう考えなのかは、市民として聞いてみたいところである。

 自治基本条例が誕生した流れは、市民協働社会を目指すことである。これから人口減少に入る。少子老齢化社会である。行政も福祉予算も人手も不足する。市民が自助努力を協働で行う。こうした社会に変えて行かなければ、もう自治体は成り立たない。

 
 市民の主体的な市政参加を促すためには、市民一人一人の権利を明確にしなければならない。それが、住民投票のいみである。自分の地域は、自分たちで作って行く。この意識を高めるために住民投票がある。つまり、権利と義務である。

 こうした背景を一切無視して、自治基本条例を廃止するなど、とんでもないことだ。市民としてもどうやって協働する社会を目指すか。ここを明確にして行かなければならない。その意味で、シンポジュームは必要なことだろう。

 
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