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石垣島・宮古島自衛隊配備

2016-03-31 04:02:13 | Peace Cafe

壇上に並んだ、宮古島・石垣島から見えた方々。

3月30日「宮古島・石垣島・の自衛隊配備をとめよう!」3・30東京集会があった。7名の方が石垣、宮古から見えて、現状の報告をされた。自衛隊配備がされることこそ、安保法制の現実化である。安保法制が出来て、一番具体的に変わろうとしているのは沖縄の先島である。対中国の戦略拠点にして行こう。日米同盟の世界戦略に先島を使ってくださいという政府の方針の具体化である。すでに、与那国島には自衛隊配備が行われ、自衛隊が小さな島を変えようとしている。沖縄の基地軽減を口先では安倍政権は主張する。しかし、現実は沖縄の日本の軍事拠点を強化しようと、着々と進めている。辺野古以外にないと繰り返し述べる、背景にある軍国思想である。ここに日本の防衛線を作り、中国に対して対抗して行こうとしている。沖縄の犠牲を少しも顧みない姿勢である。最初は自衛隊基地であるが、必ず、米軍共用の基地になる。それは、安保法制による日米の絆の強化そのものである。石垣島、宮古島では住民投票を行い、住民の意思を確認しなければならない。

与那国島には28日自衛隊の配備が実施された。与那国島では住民投票の結果、自衛隊配備を受け入れたのである。小さな島である。1490人の島である。そこに、自衛隊関係者が200名配属されることが予定されている。当然町政への影響は多大なものになる。大きいどころか自衛隊の実質支配が行われることになる。町長はすでに副町長の自衛隊からの出向を依頼している。隊員数を増やせば、忽ち市長も、議会の多数派も自衛隊関係者という事になる。軍事の島化することもそう難しいことでなくなる。今後の与那国島の変化を注視してゆかなければならない。宮古にはすでに自自衛隊施設はない訳ではない。飛行場も作られたこともある。しかし住民運動によって一時的に止められている。自衛隊によると、宮古島にミサイル基地を作るという事である。これは日本の軍事化の第一歩とみなければならない。何故、沖縄に基地が集中するかと言えば、沖縄が日本から遠い島だからである。

基地という危険な施設を日本本土から離れた、沖縄に配備することで、日本の安全を確保しようという作戦である。原子力発電所の発想と同じである。経済的に弱い地域が狙われるのである。新たな沖縄差別が強行されようとしている。江戸時代の薩摩藩による過酷な支配。そして、明治政府の一方的琉球王国の消滅。第2次大戦での地上戦の犠牲。敗戦後は沖縄をアメリカの占領地として提供する犠牲によって、日本本土のアメリカからの独立を確保。そしていよいよ、沖縄の先島を日本の軍事基地化することで、日本本土の安全を確保しようという作戦である。トランプが主張するように、アメリカは自分の国の利益を得られないのであれば、日米安保を破棄して、引き上げると脅している。日本政府は、沖縄を米軍基地として無償提供するので、日米同盟の継続をお願いするという姿勢である。

沖縄の未来が、軍事基地になるのか。平和の島として世界の観光拠点になるのかの分かれ目である。それを選択するのは、石垣の島民であり、宮古島の島民である。与那国島はすでに島民が軍事基地化を選択した。石垣、宮古への基地配備が終わるまで、与那国島の自衛隊は静かに行動するはずである。自衛隊の恩恵も示すはずである。しかし、先島諸島全体に基地が配備されたが最後、島全体の軍事要塞化が着々と進むはずである。理由は明解である。アベ政権は先島の犠牲で日本本土を守ろうと考えているのだ。先島の一つにミサイルが撃ち込まれたとしても、他の島からミサイルで対抗する。いずれにしても日本本土への攻撃が行われる前に、沖縄を防衛戦線としている。これを防衛省によると、与那国島の島民の安全安心のための、自衛隊配備と主張している。北朝鮮がミサイルを日本に向けて、発射しようとしたので、先制攻撃をする。当然、北朝鮮はミサイル基地のある、沖縄を攻撃するだろう。こうして戦争が始まる可能性が大きくなってゆく。すでに、武力によって平和守るという思想が、成り立たなくなっているのだ。

会場の外に立っていた、不思議な人たち。

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安保法制施行

2016-03-30 04:56:30 | Peace Cafe

ついに、安保法制が施行される日になってしまった。灰色の濃度が一段と増した。日米同盟の絆が強化されたと、アベ氏は自慢げに語っていた。頼りのはずのアメリカの方では、日米同盟の破棄が大統領候補から口にされている。当然の成り行きである。アメリカはどんどん内向きに変わってきている。世界情勢に関しての責任をアメリカが取りうるような情勢ではなくなってきている。それはアメリカの経済力の問題でもある。アメリカ一国との同盟関係は、日本の敗戦から占領という歴史に根差したものに過ぎない。それまでの大日本帝国は大東亜共栄圏を主張していたのだ。亜細亜の盟主を目指していたのだ。それが日本の明治政府の目指した方角だったのだ。白人による植民地支配からアジアを救済する。この方針が敗戦という形で終わった。日本は危うい国だから、軍事力を持たせてはならないという事が、戦勝国の結論である。欧米と戦争をする国は許さない。

アメリカに支配される形で、日本の民主主義化は行われた。ここが民衆革命で民主主義を獲得した国とは根本的に異なる。国民の中から沸き上がった政治意識ではなく、民主主義も、帝国主義も、上から与えられたものに過ぎなかった。政治など関係ない。そうした政治意識が定着してしまった。政治より商売である。池田総理大臣がパリに降り立った時に、トランジスターラジオのセイルスマンがやってきたと揶揄された。経済好調の敗戦国日本に対して、戦勝国フランスの商売で負けそうな焦りだと日本では分析された。その後、軍事をアメリカに依存して、経済に専念出来たという事で、日本は好調に高度成長を遂げる。それは、日本だけが特別だったとみるより、安い労働力と為替が有利な間は、爆発的な経済成長が起こる通例だった。資源大国のアメリカも経済の絶対的優位を保つことは難しくなってきている。その不安が、トランプ現象なのであろう。

日本は核軍備して、優位な立場にいるための一翼を担うべきだ。こうした暴論をアメリカが主張を始めている。安保法制を軍事同盟としての日本の軍事的負担の強化をして、再締結せざる得なかったのは、このようなトランプだけではないアメリカの本音がある。アメリカの主張の背景には、強者の不安がある。強いものは武装を強化する必要があると感ずるのだ。しいたげられた弱者から起こる、反逆に対する不安である。テロへの不安である。銃規制ができないアメリカ人の本音である。資本主義経済はいよいよ末期的段階に入り始めている。強いものが競争に勝つ。弱者は無能なのだから、貧困に固定されても仕方がない。上の階級に入りたいなら、努力をしろ。上の階級は努力できる、能力の高いものにだけは扉を開いている。

パリ、ブリュッセル、自爆テロが起こった。イスラム国と関係するものによる。その背景にあるものは、移民達の生きることへの絶望である。突破口のない日常が、唯一、死という希望を持つ。自爆して死ぬことだけに、自分の主張が出来る。このどうしようもない希望。絶望の奥にあった、死という希望。イスラム圏の問題は石油という資源の問題がある。努力して、能力があって、上の階層に行くわけではない。石油がたまたまあるから豊かになる。こうした富の偏在が、世界の不安定化を招いている。軍事力でさらなる競争をしたとしても、安定につながることはない。日本も銃を抱えていなければ眠れない国になろうとしている。日本の平和主義は世界の唯一の希望である。武力を持たなくとも、小国であろうとも、その国の文化によって、尊敬される国家として存在できる。日本は敗戦によって、アメリカに非武装平和の不思議な状況を与えられた。それがアメリカの良質な平和への希望であった。確かにこの平和主義は頼りないものだ。不安定なものだ。しかし、それ以外に世界には平和への道はないという事を知るべきだ。

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緑肥作物の勉強会

2016-03-29 04:09:42 | 稲作

舟原田んぼ 井上駿先生

3月27日に緑肥作物の勉強会を行った。19名参加。井上駿先生を講師にお願いした。先生に指導いただいた言葉を含めて記録しておく。毎年田んぼで緑肥を作ってきた。緑肥がすぐに効果があるとは思わないが、緑肥が土壌を良くしてゆく大きな材料になると考えている。土壌をよくすることが遠回りのようだが、自給農業の基本になる。土壌をよくするためには腐植を増加させるという事を重視している。稲わらをたい肥にして戻すという事もしているが、併せて冬場に緑肥を作り田んぼに戻したいと考えている。多様な方法の一つとして緑肥を田んぼに戻す。作物を作るという事はそれくらい腐植を消耗してゆくという事だと考えている。緑肥を作るもう一つの大きな理由が抑草効果の期待である。緑肥を代掻き寸前に砕いて、土壌に漉き込んでしまう。一般に緑肥作物は早めに刈り取り枯らしてから土壌に漉き込むことになっているが、それでは抑草効果が減ずるようだ。青草が土壌に混ざり、腐植を始める。その時に大量の微生物が発生して、土壌は還元化する。その為にコナギの種子の発芽が抑えられる。

緑肥作物は栽培は簡単ではない。充分な栽培を安定して行うことはできない。緑肥作物の選択。播種時期はいつ頃が最適なのか。播種方法は表土に撒くのか、覆土するのか。連作障害が起きるように見えるが正しい観察であろうか。緑肥に肥料は必要なのだろうか、必要なら有機栽培の場合どうすればいいのか。安定した栽培方法を見つけたいと考えている。

舟原の2条大麦

1、舟原田んぼ

10月18日に秋起こし。19,20,21日と種を播種する。1番の田んぼに大麦とヘヤリーベッチ。2番の田んぼに、クリムソンクローバー。3番の田んぼに赤クローバー。播種量は少なめであった。稲わらを細かくして田んぼに撒いて、秋起こしを行う。その後すぐに種を蒔き、トンボで覆土した。大麦はトラックターの溝に撒いたものがよく発芽した。3月27日の時点ではほぼ満作。一部水の湧くところで生育が悪い。緑肥作物は土壌水分の影響を受けやすい。

2、山室さんの田んぼ

10月25?あたりに秋起こしを行い。緑肥のからし菜を播種。覆土。丁度27日に菜の花が一面に咲いている状態。とても美しい。景観植物としても素晴らしいが、同時にミツバチが集まって、自然層の豊かさにも役立っている。田んぼ後に菜の花を蒔いた場合肥料不足で生育の悪いことが多いいが、出来はまあまあいい方であろう。菜の花抑草というのがあるので、菜の花がほかの緑肥より効果が高いものか結果を観察したい。

3、子の神田んぼ

吉宮さんの部分は10月初めヘヤリーベッチと大麦 稲刈り後そのまま播種。藁を被せる。大麦は発芽したが、寒さで白化した。原因が地形的に寒さが淀むような場所ではないか。大麦はその後回復せず。ヘヤリーベッチも寒さにやられ、暖かくなってからやっと再生してきた状態。ヘヤリーベッチは春になって蒔いた方が良いのかもしれない。

岡本さんの部分は11月初め耕運して播種。ヘヤリーベッチは水口が良くできて、水尻が生育が悪い。水分不足も生育に影響するようだ。一部大麦を蒔くが、寒さで生育はもう一つである。麦にとっては肥料不足も感じられる。緑肥作物が田んぼの肥料分の観察の一助になる。

右下はレンゲ

4、欠ノ上田んぼ

10月25日秋起こしを行い。緑肥も播種。種を蒔いてからレーキで覆土する。その上から藁を全量蒔く。種の湿度を保つためである。27日の段階では藁は、緑肥の下敷きになりほぼ腐食して柔らかくなっていた。大麦より小麦の方が良いのかもしれない。10番11番が赤クローバー。やっと生育が始まったような状態。2番が大麦とヘヤリーベッチは発芽は良かったのだが、その寒さで委縮した。大麦は寒さにやられて良くない。徐々に回復傾向。1番はヘヤリーベッチとレンゲを蒔いたが、生育は遅れている。一番寒さが溜まる場所。8番の大麦がそこそこ出ている。3番4番のレンゲは良く生育している。川側の2か所はほとんど緑肥が生育していない。寒さの影響が強そうだ。

5、石綿さんの田んぼ 上の田んぼは良くレンゲが出ている。

秋起こしせずレンゲ種子をそのまま播種。発芽までは良かったが、その後生育は普通。1番ではよく発芽していたが、2番の半分は生育が悪い。水分不足か。

6、坊所相馬さんの田んぼ

10月16日に播種。半分を赤クローバー。半分がレンゲ。クローバーの生育が悪い。寒さの影響もみられる。やはり、冷気が籠りがちの谷戸田という事が影響しているのか。こういう条件では、覆土なしでは冬季の緑肥は難しいかもしれない。今のところ、全体に生育が一番よくない。

7、永塚田んぼ ここから暖かい下の地域の田んぼ

10月30日トラックターで耕運して播種。レンゲ、クロバー、ヘヤリーベッチ、大麦といずれも十分な生育。寒い間は出来が今一つであったが、暖かくなって一気に生育を始めた。ヘヤリーベッチは遅く蒔いた方が、場合によって春になって蒔く方が良いのかもしれない。草ろうの多さはやはり一番がヘヤリーベッチのようだ。

8、新永塚田んぼ 最後に3名が加わる。

10月末に耕して播種。ヘヤリーベッチが良く繁茂していた。奥の方がよくできていた。手前の田んぼだけぺんぺん草が一面出ていて、稲も手前が良くないかもしれないとのこと。肥料の残量で、生育に差が出るのかもしれない。

印象に残った井上先生の言葉。

★人間社会も団粒構造ではないだろうか。

★言葉にして考えを述べることで、気づくことがある。

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スリットドラム9

2016-03-28 04:21:12 | 楽器

スリットドラム16号 

中型のものだが、大型に匹敵する音が出た。見た目もなかなかのものだ。30年くらい経過したような風格がある。これは演奏家の方が使えるレベルのものではないか。16号で分かったことは、意外にも箱の長さが音に影響が強いという事だ。側面に簡単なスリットを入れて、天板の音と組み合わせて鳴らすことができる。また底板にも天板と同じようなスリットを入れて、両天板という形である。一つの天板はローズウッドで作り、もう一つの天板はパドックである。4面にスリットを入れても、響きが良く出る。理由は4面を堅木のパドックで作ったからだと思う。

スリットドラム18号 

小型のものの中では今までで一番美しい箱である。造形作品としてはなかなかのものである。多分世界で一番美しいスリットドラムの一つである。と勝手に考えている。18号よりも美しい箱が世界のどこかにあはるかもしれないが、今のところ見たことはない。残念ながら音の方は改善が必要で、一度解体しようかと考えたが、あまりに良い形なので、これはこれで残した。重さは2,5キロほど。案外に重いものだ。この450ミリサイズが小型としては目指す大きさではないだろうか。音に問題があるのは、組み立てるときの接着が完全でなくどこかが緩んでいる事が理由のようだ。接着を完全にする方法が次の課題かもしれない。

 

17号 

17号はさらに小さいもので、音はそこそこのものだった。海の底から響いてくるような響き音の奥行きが少し欠けた。これは小さすぎるたためかと思う。欲しいという方がおられたので差し上げた。17号もなかなかの見た目が美しい箱である。今度写真を送ってもらえたら、載せたいと思う。

木で作るが箱なのだから、造形作品として美しい楽器でなければつまらない。木というものが持つ味わいが現れていてもらいたい。楽器なのだから、音が良くなければだめだ。この両立が楽器の面白いところではないだろうか。世界のどの楽器もなかなか美しい造形をしている。それは良い音を追い求めた結果、美しい形に行き着くという事であろう。良い音が出るために必要なことがだいぶわかってきた。その結果箱も美しくなってきた。箱の縦横の比率や、全体のバランスも美しさには大切である。良い音が出るためには、つまり自分の望む音が出てくれるためにも、天板と側板の比率は重要な要素になる。まだ行き着いてはいないが、存在する黄金比のような状態を目指して摸索してゆきたい。側面の板は柔らかい杉材でも可能である。天板と底板が硬い板であれば、音は反響してよく響く。

最近はっきりとしてきたことは、打板の切り込みが、心地よい線を描いて絵になっていることが重要。厚さは音に影響が大きいが、10ミリから30ミリくらいであれば、小型から大型まで使うことは出来る。作る好みと目的で板厚は決まってくる。それは木の材質にもかかわることで、パドックはとても優れた材料で、音に幅が出しやすい。しかし、黒檀やローズウッドや花梨は響きが澄んでいる。その良さもあるので、天板をパドックにしたら、底板をローズウッドにするというのはいいと思う。一つの楽器で音の違いを楽しめる。底板や側面に切り込みがあっても音が落ちるという事はない。底板は硬ければいいかと言えば、それだけではない。楠の60ミリの底板で作ったものも音が深い。望む音があれば、そこへ向けての選択である。それでも底板は堅木であるのが基本であるが、側面の板は柔らかい板でも可能である。杉板で作ったものも味わいの違いはあるが、それなりである。

 

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崩壊のアベノミックス

2016-03-27 04:18:08 | Peace Cafe

アベノミックスはいよいよ崩れ始めた。消費の低迷である。アベノミックスでも経済は活性化できなかった。アベノミックスはグローバル企業の既得権を擁護し、収益の増加を図ることを直接の目標としてきた。法人税を下げ、TPPを推進し、株価の高値誘導。確かに企業収益は増加を続けてきた。その一方で実質賃金は低迷を続けている。給与を上げられるのは大企業に限定され、賃金水準の2極化が進んでいる。同一労働同一賃金を主張しながら、正規、非正規の格差は極めて大きい。その結果消費はますます落ち込んでいる。円安誘導と株価維持の金融政策も、いよいよ効果がなくなってきたというところだろう。マイナス金利で、ローンの見直しをして返済額が減ったとしても、それが消費に回る状況とも思えない。格差社会の深刻化、年金の破たん。将来の不安がこれほど大きくなれば、将来の蓄えと考える人の方が多いいはずだ。その貯金金利を下げて国債の利息を軽減しようとしている。アベ政治では第3の矢を出る杭にしてしまっている。既存企業の優遇政策なのではなかろうか。

それもこれも、世界経済の渦中に日本経済はあるのであって、崩壊を始めたのは中国経済だけではない、アメリカも危ういところに来ている。トランプ氏に集まる人気に行き詰まりが見える。アベノミクスがお手本とした韓国もかなり苦しくなっている。日本の社会構造の崩壊が現実化し始めている。株価がこれだけ不安定化して、年金資金まで株に投資してしまった政府。アベノミックス崩壊の責任は誰にもとることは出来ない。アベノミクスで一番重要なことは新産業政策だったはずである。新しい世界に抜きんでる新産業の創出であったはずだ。既得権を守る企業に期待したところで無理だと思ってはいたが、新産業に挑戦しようとすら政府はしないでここまで来た。結局のところ過去学習した成長期の経済の踏襲である。円安で輸出を増加しようという事に過ぎなかった。製造部門が国外に出ている大企業が多く、円安が日本の景気浮上に直接的なものにはならない。

実質給与所得は循環しながら増加すると言い続けたが、今のところ増加の兆候が見えない。消費の増加は未来が見えない中で簡単には起こりはしない。マイナス金利で住宅ローン金利が下がり、家づくりが増えるかと言えば、それはあり得ない。家はすでに余ってきている。過去の発想の第3の矢は飛ぶことはない。発想の転換が必要なのだ。消費の増加ではなく、消費の充実である。より充実した暮らしの質への転換である。遠回りのようだが、文化の充実を日本は目指すべきだ。消費文化から充実文化への転換。ゴッホの絵がごみとして燃やされることもあれば、100億円になることもある。価値というものを創出するのは、人間である。私は田んぼが出来ることに大きな価値を見ている。絵を描くことに関しては、何でもする。人間の文化的在り方を探ることだ。人間の暮らしの充実は、まだまだ未開拓である。

同じ映画を見るにしても、より高品質なものを味わえる人間がいなくては、良い映画は成立しない。遠回りのようでも日本は日本の伝統に基づく文化を再認識する事だ。アニメ文化が世界に評価されたのは、絵巻物や浮世絵文化に見られる日本人の美意識である。と言ってもアメリカの幼稚なアニメの方がまだ世界では受けている。日本食が評価されたのは江戸時代の暮らしである。それを外国人は楽しみに日本に音連れる。それらの諸々が第3の矢のはずだ。まだ人間の成長はこれからである。かつて世界に誇れる文化を生み出した日本人の暮らしである。東洋4000年の循環農業によって培われたものだ。手入れの文化。自然と一体化した人間の生き方。いま日本が捨て去ろうとしているものにこそ、日本が再生するカギがある。未来を見失ったときは過去を見直してみることだ。文化の中に価値を見出せば、未来はいくらでも広がってゆく。

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省庁の地方移転

2016-03-26 04:16:58 | Peace Cafe

政府は地方創生の一環として、省庁の地方分散を提唱している。官僚の方は東京にしがみ付きたい一心のようで、事は進まないように見える。アベ政治の口先政治の姿である。東京集中に問題があることは確かなことなのだから、官僚の抵抗があろうが具体的に進める必要がある。文化庁が京都に移ることだけは決まったようだ。同時に皇室も京都に戻り、宮内庁も京都に移動することが望ましい。皇室が政治から距離を置くためにも重要である。日本の文化的象徴の価値を高めるためには政治からの距離は必要である。江戸時代、皇室は文をもって国を治めるという姿勢を貫き、文化人としての最高峰の位置を確立した。このことが江戸時代の文化の奥行きとなり、日本の文化的確立がなされたと考えている。武力的権力が江戸幕府であるなる。文化的な支配力を持った皇室。日本が瑞穂の国として、田んぼを単なる生産の場としてだけではなく、神の宿る場所として尊重した日本の里山文化の成立。

それが、日本全体に及び、水土でつながる日本人の心根を育くんだ。瑞穂の国の文化は田んぼという、食糧の基本的生産が土地に結びつき、集落単位の暮らしを必要とし、それが地域全体を守り育てるという里山文化を形成することになる。それは微妙に宗教とも違うが、日本教ともいえる日本独自の統一感を生んだといえる。皇室はその文化の祭祀を担う神官でもある。神官には男女の役割がそれぞれにあり、国連から男女差別を言われる筋合いはない。原始宗教につながる土俗的信仰を内包したままの自然崇拝。木や石をそのまま神として見る感覚。そして、科学的ともいえる水土技術を育み、日本は瑞穂の国として成立する。田んぼを含む理想郷を目指し続ける集落を中止とした意識が日本人の根底に出来上がる。修学院離宮にその姿がある。天皇家は京都に戻り、京都御所と修学院離宮のような形で暮らされることが日本らしい姿のではないかと思う。

次に考えるべきは沖縄である。沖縄はその立脚に琉球王朝という独立国としての歴史を持つ、日本においては特別な地域である。沖縄は武力無く国家を治めるため、その文化的教養を高めた国である。美の国である。むしろ今に至っては沖縄こそ古き良き日本の原型が残されていると感ずる。日本というより人間という方が良いのだろう。沖縄に観光庁を置く必要がある。沖縄は日本国というものに対する疑問を感じ始めている。沖縄のアイデンティティが選挙の争点になる状況である。日本国との距離を感じているという事である。琉球王国であった時代が長かったのだから、当然のことでもある。しかし、沖縄はすでに縄文時代から日本人が暮らしてきた地域である。沖縄に行くと、むしろその意味で日本を再発見する事となる。その瑞穂の国としてのうるわしさは格別である。だから観光庁は沖縄にすべきだ。そして観光立県沖縄を目指すのはどうだろうか。石垣島には素晴らしい田んぼがある。田んぼを本島に復活させるべきだ。基地を返してもらい、田んぼを作る。

沖縄に田んぼがなくなったことで日本的な文化が衰退する。まだ田んぼの記憶のある間に田んぼを少しでも復活させることだ。石垣島に行くとなぜ日本が瑞穂の国であるのかという事がわかる。稲作はこの先国際競争には耐えられない。それは、肉牛もサトウキビも同じ運命と考えておいた方が良い。経済一辺倒ではない価値観で沖縄という水土を見直すべきだ。沖縄ではお米は自給できた時代がある。サトウキビや南国の果樹もいい。沖縄に自然と調和した日本人の暮らしを復活させる。それを観光の中心に据えたらどうだろうか。この先日本農業全体が世界の競争にさらされる。農業全体を守ることはできないだろう。沖縄を伝統農業保存地区として設定。日本の伝統農業は必ず世界から見直されることになる。経済性だけでないかけがえのないものがある。と言いながらも、そういうことは沖縄の人が決めることなのだろう。沖縄が好き過ぎてつい余計なことを考えてしまう。

 

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沖縄の基地負担の増加

2016-03-25 04:40:56 | Peace Cafe

政府は沖縄の基地負担の軽減を建前としては主張している。ところが基地負担は軽減どころか、さらに増加されている。自衛隊の沖縄配備である。那覇の航空自衛隊配備、宮古島、与那国島、そして奄美大島、石垣島と南西諸島はいずれも自衛隊配備を進めようとしている。その理由は対中国の軍事的防波堤という事である。基地負担の軽減どころではないのが現実である。基地軽減などという嘘を国がついているのだ。こういうごまかしを許してはならない。政府は正面から、沖縄の基地増強を議論すべきだなのだ。一方で基地軽減を言いふらしておきながら、辺野古に米軍基地を増強する。普天間の危険除去だけなら、米軍に帰ってもらうことも選択肢である。ところが、基地の増強が必要だというのが政府の方針である。そのことを隠して、基地軽減のためだからという、嘘を政府は主張している。そのことを沖縄の人たちはよく分かっている。だから、国と裁判をするほどに切羽詰まっているのだ。

南西諸島への自衛隊基地の配備については、防衛省は、南西地域の防衛態勢を強化するため初動対応にあたる「警備部隊」を陸上自衛隊に新たに編成する。としている。住民への説明では、その島の防衛のために必要な自衛隊であるとしている。このことが果たして正しい説明であるのか、政府は十分に議論しなければならない。そして、日本の防衛のためには南西諸島に自衛隊の配備が必要だという結論であるなら、その旨を住民に説明し、その経済的提供分を明確に示すべきだ。現状ではあなたの棲んでいる島を守るために必要だという説明である。自衛隊があなたの島を守ってあげるのだ。だから自分のために受け入れてくださいという事になる。果たしてそれが本当のことであるかである。沖縄の過半数の人が、沖縄の基地の増強は日本全体のためのものだと考えている。

石垣島に自衛隊配備をすることを、防衛相は要請している。当該地区の住民は反対を表明している。島に自衛隊が来ることは島の防衛どころか、島が攻撃対象になるという見方である。ミサイル基地(そうと決まったことではない)が出来れば、当然中国からのミサイルの攻撃対象になるとみなければならない。石垣島にミサイル基地を作ることは、南西諸島から中国への攻撃を行い、本土を守るという考えなのだろう。70年前の沖縄の地上戦と同じ発想である。本土を守るためには沖縄は犠牲になっても仕方がないという発想が見え隠れしている。ここを正直に正面から議論しなければならない。それが議会制民主主義の基本的な姿勢であろう。裏で見えない形で了承の取引をして、進めるという手法が間違いである。基地を作るがその分こういう公共事業を行うからなどと裏交渉をしているのだ。

南西諸島の将来は、世界のリゾート地ではなかろうか。アジアからの観光客が年々増えている。中国、台湾、韓国、フィリピンからは遠くない島である。東アジア全体が経済的に豊かになれば、観光産業は大きくなる。その受け入れ先として沖縄が魅力的な場所であるのは間違いがない。平和的の島になることこそ、沖縄の未来であるはずだ。基地ができることは観光には大きなダメージになる。中国向けのミサイルがある島で、中国の観光客は楽しめないのではなかろうか。というようなことを、南西諸島の人たちが考え、決めるべきことではないだろうか。そして政府とそのことを交渉すべきだ。政府は防衛は国の専権事項だから議論をしないというのでは、憲法に示されている民主主義の政府とは言えないだろう。

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感じる力の磨き方

2016-03-24 04:45:00 | 暮らし

あれ、熱がありそうだな。というような経験はほとんどの人にあるだろう。でも何度くらいで気づくかは人によって違う。わずかな体温変化にも敏感な人もれば、高熱にも気づかない人もいる。では体重が何キロであるかをどの範囲で分かるだろうか。100グラムの変化に気づけるだろうか。以前も水風呂に入ることを書いたが、17度を中心にしている。この水風呂に入って、何度であるかを感じることができるかである。私は16,9度であるか、17,1度であるかがわかる。那覇のリッカーの湯に入った時に、水風呂があったが、温度計がなかった。私が水風呂に入っていると、おばあーが水温を計りに来た。16,5ととっさに口を突いて出てしまった。ドンぴしゃりとおばあーがびっくりしていた。そのはずである、水風呂に入ると必ず、水温を体で感じて当てる訓練をしている。感じる力を磨こうという思惑である。自己流内観法である。今久野川の水温を毎日はかるが、こちらはなかなか当たらない。8度9度10度11度で大きく変動がある。

自分の刻々の体調を自分で判断する。これができるかどうかが日々の暮らしには重要なことだ。今の自分の腸の状態を想像できるだろうか。私なりに大事な腸のことをいつも想像を巡らせている。自分の腸を内視鏡のテレビ画面で見たことがあるが、あれとはだいぶ違う。視覚というより、感触として腸の状態を感じようとしている。ただ、内視鏡で見た感じは感じるときに実に役に立っ用になった。イメージ化しやすくなった。今何度くらいであるか。これも時々確認してみる。部屋や作業場には温度計があちこちにある。体感で何度と確認してから、温度計を見る。お風呂に入れば、何度のお風呂かも当然まず体で判断する。発酵の麹の温度なども、まず自分で何度かなと感じてから温度計を見る。温度を感じる訓練である。もちろん体重も何キロと考えてから体重計に乗る。100グラムまで大体は当たる。もちろん食べた、飲んだの計算も測定材料である。

何故こんな冗談のようなことをしているかと言えば、絵を描くためである。絵を描くには見る力を研ぎ澄ませなければ見えるものも見えない。見るというのにも、段階がある。漠然と見ていても、稲の葉の色などの判断はつかない。スケールがあるのだが、スケールで分かる以上のことを見てわかるようになる。稲の状態である。それは稲を育てたことのある人だけにわかるものだ。そのように空を見ていれば、空の違いも見えてくる。青い空などと言ってもずいぶん違うものだ。木の緑などと言葉にすれば、ひとくくりの緑であるが、その多様さ複雑さは呆然とするほどだ。日々違うのだ。同じに見えてもすぐに変わってゆく。見えているという事の段階を今まで何段くらい登ったのかは分からないが、子供の頃とは見え方が違う。昔より見えているという実感があるから、この先まだ見えるものがあるだろうという気がしている。絵を描くことでその見えるという事の奥行き深めてゆく喜びがある。

感じるという事である。実は表面的な、見るとか触わるとか、体感するとかいう以上に、悲しみや喜びを感じるという事がある。刻々をどこまで深く感じることができるのかである。生きるという事ではこれが一番大事なことだ。スリットドラムをたたいていい音がするという事は、究極的には機械で測定できないものがあるような気がしている。それでもあれこれ工夫して作っては敲いている。音の違いが少しづつ分かるようになってきた。耳が聞こえるようになったのだ。木を敲く音が、より自然の世界の音になるためには、自然を知らなければその音を打ち出すことは出来ないだろう。眼も、耳も、感触も、すべての感性は磨いて研ぎ澄まされてゆくもののようだ。生きることも自然の哲理を知らなければ深く生きることは出来ないと考える。自分が生きているこの世界の総合性を感じ取ることが出来なければ、私という人間が生きたという事にはならないのではないだろうか。

 

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人口減少の顕著化

2016-03-23 04:18:33 | Peace Cafe

外国人を含む日本の総人口は1億2711万47人と、10年の前回調査に比べ94万7305人(0.7%)減少した。国勢調査で総人口が減るのは1920年の調査開始以来、初めて。大阪府が68年ぶりに減少するなど39道府県で人口が減り、東京圏への一極集中が進んでいる。

日本の人口は21世紀に入り減少局面に入った。人口が減少するのは、子供の出生率が下がったためである。乳幼児の死亡率の高かった時代、人類は生き残りの手段として、子供をたくさん産んだ。人類は最近まで5人ぐらいの子供の出産がなければ、子孫が死に絶える可能性があった。野生動物であれば子供が10%程度の生き残りしか考えられないものが多いい。その種が生き残るためには、100とか1000の子孫がなければ、現状維持ができない。人間も寿命が全うできることはすくなかった。医療の進歩、食糧事情の改善などで、生存率は急激に高まり、人口爆発が起きた。所が昔からの慣習が残っている間は子供は産めるだけ産まなければ安心できない思いがあり、乳幼児死亡率が下がった地域から人口の爆発が始まった。しかし、先進国から順番に、子供は死なないという事が受け入れられ、たくさんの子供を出産する必要がなくなる。そこで人口減少が先進国から始まった。

人口ピラミットという事が小学生の頃には教科書にあり、健全な人口構成という事になっていた。現在の健全な人口構成は東京タワーのような形なのだろう。何処の国も人口爆発が鎮まる過程で、日本のような紡錘形を一度は経験しなければならないが、この急場を乗り切ることが重要なのであって、人口をどう増やすのかというような事を考えるのは、馬鹿げたことなのだ。日本という国土にふさわしい人口はせいぜい6000万くらいのものだろう。人口を増やそうと考える政策は、産めよ増やせよという軍国主義時代の国威発揚の標語と何ら変わらない。軍が企業に代わり、企業の考える消費者が減る事を良くないこととしている悪影響なのだ。政府が人口増加を政策にするのは間違った選択である。あまりに急激な減少が社会にひずみを生むことはある。そのひずみに良い対応を考える事が政策として重要なことになる。

日本という国土に適正に暮らすには、せいぜい6000万人から、7000万人であろう。食糧自給率がよくそのことを表している。食糧を自給できる人口が日本の適正人口である。それでも江戸時代の倍の人口である。江戸時代より2倍の生産性になったと考えればその通りである。このまま50年減少が続いてやっとその適正人口に近づくことなると思われる。50年間辛いかもしれないが、産めよ増やせよと馬鹿な政策の結果だから、乗り切るしかない。今でも、大半の地方自治体が人口増加を打ち出している。これは政治の先見の明のなさの表れである。人口増加策をうたわなければ選挙に勝てないと政治家は考えている。人口増加の中で生き延びてきた有権者も、何とか人口増加で地方の活性化をと期待している。そうした間違った未来予測が、地方の衰退をさらに深刻化している。

人口減少の状態を考えれば地方社会こそすでにその適正人口の時代に入っていると思われる。地方消滅ではなく、少ない人口でどのように暮らすかこそ、重要な選択になる。近代科学の成果を十分に取り入れた、新しい自給型社会の建設。農地と住宅の合理的配置、必要な交通網、都市と変わらない通信の充実を行う。医療教育の、距離を克服する手段の検討。人口減少は素晴らしい未来社会可能性である。少子高齢化は一時の困難である。未来社会では競争から充実して生きる生き方への転換が進むはずである。競争の弊害の方が深刻化して、離脱しようという生き方が徐々に増えだすはずだ。その受け皿として、地方社会こそ重要になるだろう。中途半端にできもしない、第2、第3の東京型を目指していれば、魅力のない地域になり寂れるばかりである。その土地に根差した、自給的社会を構築することである。

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野球選手の賭博好き

2016-03-22 04:23:50 | Peace Cafe

あまりにひどすぎないか。プロ野球の試合で選手たちが、その試合の勝敗を賭けごとにしていた。高校野球にまでお金をかけていた。但し、掛け金が少ないから賭博とは考えないというのだ。その額は1試合平均で15万円だそうだ。それが少額であるという感覚が普通だろうか。庶民感覚とは別世界である。しかも、お金をかけることで勝負に対する意欲が増して、優勝できたのでそれが慣例化したというのだ。そのことはどのチームもわかってはいたが、悪いこととは考えていないという事である。今後プロ野球というものは見ない。と言っても前からめったに見ないのだが。若い頃将棋をやっていた。お金を賭けないとやる気にならないという人に時々出会った。実に嫌な思いがしたものだ。ゲームそのものでは面白さが少ないので、金銭を賭けることで、面白さと本気が引き出せるという事なのだろう。野球の面白さを極めれば、それ以上のことはない。

親を名乗り出る者がいる。試合に勝てば全員から五千円を受け取り、負ければ全員に千円ずつを支払う。一軍登録メンバーは投手が十二人、野手が十六人程度であることが多くそれぞれ約六万円、約八万円が動いていたことになる。連勝中は親は変わらず、勝ち続ければ受け取る総額は大きくなった。公共野球では優勝校を当てたものが総取りという事らしい。プロ野球の選手は勝負好きに違いない。子供の頃からそういう土壌で成長したがために、試合ごとにお金をかけることを不思議とも思わない世界になったのではなかろうか。このことは分かっていたが、賭博とは言えないので公表しなかったというのだ。これが賭博でないと言えるのだろうか。繰り返して書いてきたことだが、政府が公営賭博に依存しているという事がおかしい。街の至る所にパチンコ賭博が存在することがおかしい。カジノを作ろうという事がおかしい。こんな社会状況だから 、プロ野球賭博は当然のことになる。

まさか高校野球の選手が同じことをしていなければいいが。こういう悪ところを子供はまねするものだ。確かに賭博はなくなることはないだろう。またなくす必要もない。賭博は健全な暮らしを育むためには悪い影響がある。賭博のようにあぶく銭を得ようという事に対する倫理を成立させることだ。あぶく銭を目指すことを表向き自慢できないような空気を作ることだ。賭博は陰でこっそりやるようなことだという意識を育てなければだめだ。地道に働くことが瑞穂の国の倫理観だ。勤勉の裏腹に博打があるという事を考えておく必要がある。この点では私の子供の頃のこの国の空気とすっかり変わってきた。パチンコを健全娯楽というとらえ方になった。この日本人の変わり方は、田んぼを止めたからである。一儲けすることを目標にしている人が多すぎないか。田んぼをやるという事は、今年もつつがなく、去年のようにあればいいと言う生き方。

 競争社会は競争に勝つことが目標になる。勝つこと、優勝することで評価される世界。しかし、勝者がいれば敗者もいる。敗者を弱い者、努力を足らないものとして、下層に位置づける社会が問題なのだ。負けるという事も、勝つという事と同等の意味が有る。生きることの何たるかを蒔けることで知ることでなければならない。私は絵描きというものを目指していた。しかし、絵が売れることはなった。その売れないなかで、つまり敗れる中で、「私絵画」というものにたどり着いた。売れていれば知ることは出来なかった、絵を描き生きることの意味である。座禅をするという事は、悟りを開くために行う訳ではない。ただ座るという事であって、何かを成し遂げるというような価値観から、抜け出ることなのだろう。絵を描くという事になり切ることでそれ以上も、以下もないという事だ。資本主義社会は競争ではない世界があることを見失い始めている。そして、競争原理を教育の基本にしている。それが賭博蔓延社会になっている原因である。

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籾洗い

2016-03-21 04:16:27 | 稲作

今年も籾洗いの日が来た。例年春分の日にやることにしている。今年は地域の熊野神社のお祭りなので、翌日の21日が籾洗い日である。いよいよ新しい年の米作りが始まると思うと緊張と喜びが湧いて来る。何とか今年も田んぼが出来そうである。有難いことで、嬉しくなる。40から始めたから、27回目の米作りという事になる。まさかこんなに繰り返すとは思わないで始めた。思えば遠くに来たものだ。もう少しやらせてもらいたいものだが、ある程度分かってきたころに身体の方が追い付かなくなるようにできている。こうして繰り返して人間は生きてゆくのかと思うと、実に上手いものだ。只管打坐という。ただ座るだけ。そうして終わることができない自分だと思ったから、座禅を止めて、自分の興味だけを追い求める乞食の道の方を選択した。それが田んぼのあぜ道にはまったのだ。田んぼは実に面白い。日本の水土というものに繋がっているからだ。春分の日の籾洗いのありがたさよ。

冬の間休んでいた種籾の目を覚ますのが籾洗いである。田んぼを始める儀式である。儀式だから、意味が有るとも無いとも分からない。しかし、春分の日に目を覚ます種籾という事を考えてみると、何か意味が有りそうな気がしてくる。今日から昼の方が長くなる。さあもう起きてもいいよ。と種籾に呼び掛け起こしにかかる。そういうものじゃないかという気がしてくる。種を土に下すまで、1か月以上は水に浸けておきたい。これは実験を繰り返した結果である。安定した稲作には必要な作業になる。1か月15度以下の新鮮な水に浸けておく。井戸水につけておくと発芽してしまう。水温が15,5度あるからだ。田んぼにはいって来る川の水に浸けておく。そのお米が育つ水が一番に違いない。今まで発芽してしまった経験はないが、年々わずかずつ水温が上がっている気がするので、確実に大丈夫かどうか不安はある。川の水は毎日計測する。もし芽が出だしたら、すぐに冷蔵庫に入れなければならない。2,3日冷蔵庫に入れてから種まきするのはむしろ発芽には良いことだ。

籾洗いという言葉もいい。洗う訳ではないので、籾起こしでもいいような気がするが、洗うというところが面白い感覚だ。眠りを洗い落とす、種にある穢れを洗い落とす、という事だろう。最初に種籾が出合ってほしいのは海の水である。塩水選という事が言われるが、種もみに起きてもらうには、その種籾が実った川の水の行き着くところの海の水で目覚めるのが一番ではないか。海水は総合である。泥でやる人もいるようだが、田んぼの泥でやるというなら少しわかる気がする。海水に意味がないとは言えないと思っている。種籾を塩水選の濃度で選別する必要はない。塩を慣習で無意味に使うのでは失礼なことだ。海水の濃度で真水よりはずいぶん空の籾は浮くのでこの程度の選別で大丈夫である。苗代で苗は作るので、苗箱の育苗とは違うのかもしれない。

小田原漁港に海水をもらいにゆく。海水をバケツでくみ上げたこともある。種籾は保存庫から出して、しばらく外気に晒しておく。種籾は川の水の流れているところに沈めておく。久野川の上流の水路の取り入れ口に置いている。なかなか冷気の漂うような、神聖な場所に感ずる。この水路もの取り入れ口はすぐ石で埋まるので、水の冷たい中、取り入れ口の整備は必要かもしれない。この水路は年間通水である。もう使う人も少なくなっているが、中山間地の補助金対象の久野南舟原集落組合の管理という事になる。1キロくらいある水路の草刈り泥上げと整備をする。流れが速い為か、泥が溜まるのはほんの一部である。いよいよ、田んぼが始まる。

11時に種籾を川に入れる。水温は8.5度。昨年は10度だったから今年の方が低い。一昨年は8度だった。

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核兵器は憲法違反

2016-03-20 04:30:06 | Peace Cafe

法制局長官が核兵器を使用することは日本国憲法では許されていると、新しい憲法解釈を国会答弁した。横畠裕介内閣法制局長官の予算委員会での答弁である。菅官房長官は過去の国会答弁に基づいたもので、問題はないと発言を支持した。相当に準備された発言と考えなくてはならない。日本の政府はついにここまで来てしまったのだ。こうしてしずかにわずかずつ、軍事国家への道を歩み始めている。自民党の右傾化には驚きを感じる。日本国憲法のどこをどう読めば、核兵器の使用が許されているというのか。いよいよ、安倍内閣の本音が表面化してきている。これで、憲法が自民党憲法になれば、日本は戦前の日本に戻ることになる事が、明確になってきた。日本の敗戦の風化。日本の軍国化を止める為には、どれほど困難であろうとも、今度の参議院選挙で自民党を敗北させる以外にない。この先方角の変更はより難しくなるだろう。日本を諦めるわけにはいかない。

第2章 戦争の放棄

第9条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
 
 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
 
この憲法9条のどこをどう読めば、核兵器の使用が許されるということになるのであろうか。「憲法上、あらゆる種類の核兵器の使用がおよそ禁止されているというふうには考えていない」法制局の長官の詭弁はひどすぎるだろう。防衛的、警察力としての武器の使用は国際紛争の解決ではないので、武器使用が許されるという事は言える。しかし、核兵器が防衛的軍事力とは到底言えない。核兵器を国際紛争解決の手段として考える国は存在する。核兵器を保持することが、抑止力になるという発想なのであろう。抑止力であれば、防衛力的武力であるという考えを導き出したのではなかろうか。まさに北朝鮮の主張と同じである。アメリカが核兵器を保持している以上。対抗するためには核保有するしかないと考えている。何かとその使用をちらつかせて国威を発揚しようとしている。そのことに対して、世界の大半の国家が、核保有は国連決議に違反するので制裁を加えている。日本もその異端の一国になろうという前触れに見える。
 
政府が核兵器保持がしたいと考え始めている背景はアメリカのトランプ現象である。アメリカが同盟国として危うく見えてきたのだ。核保有せずとも、脅されることなく国家が存在しうる状況を作り出すことだ。トランプ現象で吹き飛ぶような日米同盟というのはその程度のものなのだ。世界平和を守るための正義の日米同盟であれば、トランプが登場したとしても、日本の態度は変わることはない。しかし、日本は仕方がなく、アメリカの軍事力に支配されているという状況認識であれば、独立国家になるためには、核武装が必要だという議論が必ず出てくる。今その第1歩が国会で答弁された。原発を止めないわけだ。日本のトランプ化。こうして世界中が軍事競争に入るという事になれば、世界は終わりである。競争の結果世界は消滅することになる。破滅に突き進む道だ。それを唯一押しとどめる国が日本である。それが日本国憲法9条である。理想主義であるが、その理想主義を掲げる以外に、世界の軍事競争に歯止めをかける道はない。
 
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スリットドラムの製作方法 8

2016-03-19 04:28:58 | 楽器

縁台で柿渋を塗っているところ。

スリットドラムを様々作っている。楽器制作は本格的には初めてのことである。ユーチューブ以外でスリットドラムは見たことがない。むしろ見たらだめだと思っている。見ればそのやり方に引っ張られる。自分の望むものに近づくためには、自分を突き詰める方が良い。ユーチューブに出ているスリットドラムの音をあれこれ聞いて大体わかった。参考にはなるが、私が望む音とは少し違うような気がした。そこで自分で作り始めた。前有る物という近道を進むと純粋に自分の求める音から遠退いてゆく。道を見失い、有りがちなところで満足してしまうものではないかと思っている。あえて、思いつくでままに作ってみる。それで自分なりにだめな箇所に気づいて、改善してゆく。その改善の過程では、良い指摘をしてくれるその道の同行者に話を伺う事が一番である。

スリットドラム14号 天板の板が32ミリ厚。硬いパドック。ほぼ完成品。

田んぼののやり方でも同じだった。別段そう決めてやっているわけではないがそうなる。田んぼの抑草方法でが、良いと言われている方法を順番に試した。そして自分の「ソバカス抑草法」という方法にたどり着いた。やってみる抑草の方法が田んぼによって違う結果になった。結局のところ田んぼごとに抑草法は違うものだったのだ。人から学ぶ事が出来るのは、自分の目的にするところが明確になってからである。何故遠回りのような、無駄を積み上げる方法を採るかと言えば、それが一番自然の摂理に近づける方法だと考えているからだ。自然を知るという事こそ、自分らしいものを確認し、発見する方法でもあるからだ。田んぼを通して、そのかかわり方から自分の何たるかを見たいのだ。自分らしい絵を描くなどという事はほとんど不可能に思えるほどの難しい。つまり自分の探求という事は難しいものだ。何もしないというこで自分に至る道もあれば、やりつくして自分を探す道もある。

一番大きなスリットドラム15号。やはり大きいものは良い音がする。

自分が求めている音。これはなかなか明確にならない。手探りの試行錯誤である。ここに魅力を感じる。何を自分が良いと考えているのかの探検である。自分の心地よいと考える音は存在する。だからきりがなく面白い。木だから、天候によって音がわずかに違う。むしろわずかに違うという事を、スリットドラムが教えてくれた。環境の変化にこれほど敏感な楽器はないのではないか。そこが良いではないか。音を出してその日を知ることができる。これがお寺の鳴らし物なのかと気付いた。先日十幾つある全てに柿渋を塗った。バイオリンはニスが大切だと言う話を聞いている。それなら、木の太鼓なら柿渋で行ってみようと考えていた。天板まですべて塗ってみた。それほど音が変わるとも思っていなかったのだが、これが変わったのだ。探っている音にわずかに近づいた。自然の呼び声のような響き。海の底から聞こえるような響き。

現在、3つ制作中である。その意図は天板の厚さの変化で音がどう変わるかである。どこまで厚いもので音が響くか。32ミリ厚の板で作っている。パドックでも、ローズウッド的な硬い材質のものがあったのでこれで作っている。箱も45センチの深さのある楠の一枚板にした。これが予想通りの高い澄んだ音になった。この厚い板が、指先で触れただけで鳴り出すのだ。少し制作の方向が見えた気がしている。逆に12ミリ厚の柔らかいパドゥクの天板も作っている。すでに天板は出来上がっていて、今まで作った天板で一番美しい図になっている。20枚くらい天板を作ったが、すべてその場で発想した図である。これは箱は杉板の軽めのものにして、響きの軽い音を求めてみようと考えている。底板はまだ迷っている。たぶんそこも杉板にしてみようかと思っている。もう一つは天板では中央付近だけにスリットを入れた場合どうなるかを試している。天板の周辺の大きさが音にどんな影響を与えるかである。これは底板もパドックで作ってみる。これは最大の箱の大きさになる。

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「日本死ね」のものすごさ

2016-03-18 04:14:37 | Peace Cafe

「日本死ね」という言葉の力はすごいものがあった。一つのブログが国の政策の転換を図っている。このブログに不満な人は、了見の狭い日本主義者というか、右翼という事なのだろう。安倍氏の一番痛いところをズバッと下卑て突いている。この一つの言葉で、待機児童問題が一気にクローズアップされた。言の葉は心の声。匿名のブログなので事実かどうかわからないと答えさせ、安倍氏の陳腐さを上手く浮かび上がるようになった。安倍のお坊ちゃんがいかに世間知らずかを図らずも露呈した。20年前からの政治課題だ。誰もが待機児童が溢れてきていることぐらい知っている。この当たり前化している現実を、無いことにしようとした安倍氏の醜い姿が晒された。多分ニホンシネの言葉に反応してしまったのだ。どんどん自民党は偏狭な保守化し頑迷になり始めている。ポロポロ本音が零れ落ちてくる。女性の活躍社会を、女性は子供を2人以上出産する社会と考えているようだ。どうも女性の活躍の方向が分かってない。

日本は格差社会から階級社会へ、一歩踏み込んだ。しかし、階層という新しい言葉を使わければ、社会の実態が見えてこなかったのだ。金持ちと貧乏人の2分化。「日本死ね。」という悪い言葉を使うことで、そのやけのヤンパチにならざる得ない心情が表現できたのだ。そしてその悪が、悪の元締めの日本日本と口先で日本主義に媚びる総理大臣に向ったのだ。だから、安倍氏は国会答弁で、ムキになってそんな匿名の投書など嘘だとつい見えを切ってしまったのだ。もしかしたらこの人は日本の実態を知らないようだ。日本をあまり大事に考えてはいないのではないかという事まで、垣間見えた。しかしブレーンの方はさすがにぶれない。忽ちに安倍氏は元の木偶人形に戻された。また口パクで耳障りの良い、無意味なことをしゃべりだした。待機児童対策を一般から公募するとはびっくりポンだ。電通方式か。

何故こんな簡単な、又大切なことが解決できないかと言えば、政治の方向が違うために無視されているのだ。コンクリートを作ることには、与党政治家は本気になる。年寄りにお金を配るには気前がいい。ところが、保育園はもうからない産業分野の上に、対象人数が少ない。都会では保育園が民間の仕事として成立しにくい。場所、人、行政の壁。その為に、ときどき事故が報道される無認可保育所のような、条件の悪い事例が現れる。資本主義では経済優先、受益者負担で行き届かないところができる。何らかの公共の手助けがない限り、子供にとって良い保育所が増えることはない。しかし、票にならないところには税金は投入されない。政治が何を目指しているのかがこういうところに表れているのだ。口先で、成人式の市長が、学校の校長が生徒に、産めよ増やせよの精神論をぶつ。くだらなすぎる。まずその前に、待機児童をなくすのが先だろう。

女性活躍大臣とか、産休議員とか、看板倒ればかりではないか。お金がない訳ではない。若い人は選挙に行かないから、票にならないところにはお金が行かない政治なのだ。選挙に行く年寄りには、ポンと3600億円だ。これで1000万票買えたと政府は考えている。待機児童は公表で4300人。3600億円使えば保育園問題は解決できる。お金の使い方が違うだけなのだ。待機児童問題を考えると、いかに少子化対策が口先であるかがわかる。政治家は議員職に就職し、選挙のためのに政治をしている人間と考えた方が良い。政治はお金がかかると言いながら、実は選挙のために大半のお金を使う。選挙は政治だという人すら議員には存在する。政治をダメにしているのは選挙制度だ。政策選挙にならなくてはならない。安倍政権は衆議院の解散のお題目を消費税の増税の撤回としようとしている。こんなことに騙されたらダメだ。

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グーグル囲碁が人間を超えた

2016-03-17 04:20:31 | 身辺雑記

世界最強と言ってもいい、イセドルさんという韓国の囲碁棋士にグーグルの開発したコンピューターが4勝1敗と勝利した。チェス、将棋、人間を超えてきたコンピューターがついに最難関と言われたゲームの囲碁でも人間を超えた。このグーグル囲碁ソフトが最強になった理由は、どうも二つあるようだ。自ら学習する能力と、直感的な読みを取り入れたという事とある。学習能力は過去の棋譜を膨大に記憶し、検討し、その間違いを読み解き、最善手を発見して能力を高めてゆくことができる仕組みらしい。つまり問題意識をもって過去の事例を調べられるという能力。この点人間が学ぶ速度とは比べられないほど、広く深く、徹底しているという事のようだ。だからソフトそのものが、自ら強くなってゆく仕組みを得たという事になる。新たな手の発見が出来るという事である。そして、もう一つが人間固有の直感的と言われた状況判断が、ソフトにも可能になったという事のようだ。どうも掘り下げて読むのはこの手の先のようだという判断が、直感的にできるというのだ。

人間にしかできないと思われていた直感と呼ばれるような世界が、実はコンピューターの世界でも似たようなものが開発された。ディープランニングというらしい。深層学習。人間的であるとい考えられていた直感的な読み解く能力が、コンピューターでも取り入れられたという事である。コンピューターの開発速度は驚くべき速さだから、いろいろの分野でコンピューターが登場する前兆である。車の自動運転はグーグルが取り組んでいたから、囲碁ソフトと関連があるのだろう。運転補助の車が10年ぐらいの間に登場すれば、私の自動車運転期間も伸びるかもしれない。そうすれば不便なところにまだ暮らせるかもしれない。コンピューターで猫というものを判断できるようになったという事が出ていた。人間が簡単にできることでも、機械では案外に難しいこともある。しかし、いったん乗り越えてしまうと人間の能力では及ばない領域のものになる。猫の雄雌や、親子の判断までできるようになるだろう。人間識別。顔認証などの技術も相当に進んでいる。何がその人を特定できる顔なのかなど、たぶんすでに人間を超えて、双子の人の判別など、人間を超えているという事ではないか。

絵画の複製技術が進めば、モナリザと同等のものが、誰にも判別が出来ないような精巧な模造作品が世に氾濫する時代が、必要とされるなら来る。これは、高校生の時に考えていたことだ。50年経過してまだそこまでは来ないが、必ずそういう精巧な技術は誕生するはずだ。必要とされるかどうかは問題だが。そ牛た技術の時代に成れば、絵画というものの質と意味が変わる。モナリザがいくらでもある状況になれば、鑑賞する絵画の意味は完全に変わる。投資対象としても、美術館の意味も変わる。ロダンの考える人の彫刻は世界にいくつもある。ブロンズ像は本物が複数作れるのだ。人間は機械にできないような人間らしいことをする必要があると言われる。これからは機械のようにやらなければ人間じゃないなどと言われるのだろうか。絵によってはコンピューターの方がマシだろうというものも多いい。過去の自分の作品をなぞるようなものがよくある。システム化されたような手順で描く作品は、やろうと思えばすぐにでも可能なことだろう。

囲碁や将棋は徐々に廃れてゆくことだろう。しかし、コンピューターゲームの1億円プレーヤーがいる。ゲームの世界も興味が変わるという事になる。そして、絵画も廃れるのかと言えば、絵画の場合も、意味が変わるのだと思う。絵画は自分のために描くものになるという事である。私絵画である。自分というものに直面し、自分の人間を掘り下げる思考の一つとして絵を描く。実は人間が行う大半のものが、自分自身のためのものだ。ところが商品経済が席巻して、商品価値のないものを無意味なものとした。その為に、現在の社会の価値観がおかしいに過ぎない。絵画も商品化の時代である。装飾としての価値と、投機的な価値とで絵画は社会に存在している。それが、技術の進歩に伴い無意味化する。そして本来のものの価値に戻る。自らの生きるという事にどれだけ意味のある描き方ができるかである。

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