鳥インフルエンザが再流行の兆しを見せている。しばらく沈静化していたのだが、大規模養鶏場の状態に変化がないのだから、必ず再燃する。中国の大規模養鶏の状態はかなり危険な状態である。ワクチンを中途半端に使い、その上に野鳥と鶏の接触にも注意が払われていない。そして鶏の流通は、生きたまま街の路上市場盛んに行われている。これでは最悪の状態が起来ても不思議はない。見たことはないが、インドネシアを見てきた人の話では、中国以上に問題がある状態のようだ。全ての国の巨大畜産は危険があるという事だ。消毒で病気を防ぐという発想には限界がある。それは巨大化すればするほど、危険が高まってゆくことになる。経済優先が問題を深刻化している。野鳥には鳥インフルエンザは常在する。特に集団で生活している水鳥には、普通に感染がある。感染があっても絶滅しない調和の中で野鳥は生きている。しかし、そうした野生の状態が一旦、大規模養鶏場に接触した時には、100万羽というような鶏の淘汰が必要になる。
大規模畜産は常にこうしたリスクの中に存在する。安く、誰でもが畜産品を手に入れることを可能にしたのが、大規模畜産であろう。自然養鶏であれば、私の計算では卵は1個230円で販売しなければ、事業としては生産を継続できないものであった。私の場合、自給の余剰を販売するという発想だったので、55円で販売していた。それは普通の人が食べることのできる価格がそのあたりだと思ったからだ。230円にしても飼いたいという人はいるのかもしれない。しかし富裕層だけの食べられる卵など生産したくなかった。スーパーに行くと大規模養鶏場の卵は20円くらいである。これは自然養鶏の10分の1の価格である。少々問題はあっても、安い畜産品のためには、目をつぶらざる得ないという事がこの社会の矛盾に満ちた現実である。それと同時に引き受けなければならないのが、鳥インフルエンザのリスクである。まさに原発と同じ構図である。
人間は目先の利益に踊らされて、進んではいけない文明の領域に入り込んだ。これがマルクスも考えなかった資本主義の最悪のシナリオだったのだ。大規模畜産を一日も早く辞める以外に、感染の拡大を防止することは出来ない。どれほど安全を高めたところで、原発のリスクは残る。大規模畜産も同じことなのだ。必ず大きな網からこぼれ落ちるリスクが表面化する。病気に薬で対抗しようとしても、人間は病気で死ぬ。どれほど新薬を発見したところで、病気を無くすことは出来ない。消毒まみれの中でしか暮らせなくなるひ弱な人類が、そう長く生き残れるとは思えない。私は不衛生な時代、自然の中に育ち、選抜され生き残った優秀個体である。こういう優秀個体は日本では少なくなり始めている。私が食べても大丈夫だからと言って、今の子供が食べたらどうなるかはわからない。汚いはきれい、きれいは汚い。
鳥インフルエンザの流行は警告である。自然が人間の越えてはならない限界を示しているのだ。日本がどれほど養鶏場の衛生管理を進めたところで、中国で漏れが起これば、日本にも被害が及ぶ。原発も同じだ。インドや中国の原発事故が人類の滅亡になる。人間の暮らしは欲望に従い、自堕落に贅沢化するばかりだ。節度というものがない。人間の欲望を駆り立てて、消費を拡大させようという姿が資本というものの目論見である。自給自足的に生きてみると、どんな暮らしが人間らしいものかがわかる。一杯のご飯をどれほどおいしいものかを知ることができる。これは自分でお米を作ってみたものでなければ、分からないことだ。苦労をするからこそ、有難さを知ることができる。一個の卵を手に入れるためにどういうことが必要かは、いくらでも売っているという状態では見失うばかりである。鉢植えのニガウリ一つでもいい。育てて食べるという体験は人間には欠かせないものだ。