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地場・旬・自給

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舟原ため池の改修工事

2021-11-27 04:15:40 | 里地里山


 舟原ため池は上下に分かれた池になっている。上の池にはカキツバタが植えてある。下の池は深くなるはずなのだが、水漏れがあって水は今たまらない。先ずは下の池のことより、上の池だけでも水が溜まるようにしたい。

 そこで、中央の土手の埋め込んである3本の太い塩ビ管を1本にすることにした。3本だと塩ビ管の間の土が締まらない。ずいぶん突き棒で叩いたのだが、上手く行かない。そこで、今回は1本にすることにした。それは1本で水の流れは
十分だからだ。

 大水の時排水できない分はどのみち、境の仕切りの上を水は超えるだろう。ため池が満杯になり、川に戻る水路まで水が上がったことが1度だけある。相当の水が来たのだが、上手く川に水が戻るようになっていた。江戸時代の溜池の構造に関心をした。

  舟原ため池水が溜まらないので、雑草がすぐ生える。このあたりはカキツバタが沢山ある。堤防上になっている向こう側には下の池がある。その間の堤に3本の太い塩ビ管がある。これを一度取り除き、一本にする工事をする。

 一本にして、泥にコンクリートを混ぜて埋め戻す。そうすれば多分もれなくなるだろうという想定である。何とか水が溜まらなければ、上の溜池に水が溜まらない。水がなくなれば、草刈りは大変にになるし、カキツバタは枯れてしまう。

 花が枯れてしまえば、いつかこの溜池も誰も管理する人がいなくなり、またごみで埋まってしまうだろう。この小田原でも一番魅力的な場所を長く維持するためには何としても水が溜まるようにしなければならない。



 今回去年から持ち越しの工事を行う事になった。昨年工事を始めたら、近隣の方から工事を止めろという苦情が入った。理由は理解できなかったのだが、みんなのための活動でもめ事は嫌なので、工事を中断した。相変らず状況が改善された訳ではないが、上下の池を繋ぐ工事は実行することになった。

 予定では25日と26日の二日かかるはずだったのだが、何と見事に1日で終了した。そこで2日目は冨田さんの田んぼの水路の入り口と、岡本さんの田んぼの水路の入り口の直しを行う事になった。ともかく水漏れがあちこちから起きている。

 2つの水漏れ工事が終われば、黒柳さんの所の田んぼの穴埋め作業を行う。これも昨年に引き続きの工事で、なかなか完全には治らない。結局のところ、出来る範囲で工事をするほかない。田んぼは手入れだ。手入れを繰り返し維持をしてゆく。

 大型の土木工事で味気ないコンクリートで固めた田んぼにしてしまうのは、つまらない事になる。人間が手作業で手入れをしながら直してゆく、手はかかるが、愛着の湧いてくる田んぼこそ、日本人を作ってきた田んぼだ。

 いつか農業者の稲作が失われる時が来たとしても、自給の為の田んぼだけは残す必要がある。田んぼがいろいろのことを教えてくれるはずだ。農業遺構としての溜池も、江戸時代の初期に久野にこれほどの土木工事をしてまで、田んぼを切り開いた人の思いを残す必要がある。

 人間の暮らしというものがどこに向ってゆくべきかを、溜池とそれに続く田んぼは教えてくれるはずだ。言葉にすれば平和に暮らすという生き方である。人と競争するのではなく、共に助け合う共同の暮らしだ。人間はみんなのために働くときこそ力が育つという事。



 こちらは田んぼへの導水路の破損の修繕である。昨年水漏れがしてどうしようもなかった。田んぼを乾かしたいときに、乾かすことが出来なかった。そこで今年石を剥いで、塩ビ管を入れ替えてからコンクリートで補修する予定。

 あしがら農の会には素晴らしい人がいる。今の時代誰もが暮らしが大変になっている。自分のことだけでも大変に違いないのに、みんなのために、頑張ってくれる人が沢山いるのだ。ため池の改修工事をしたところで、自分の利益になる人など一人としていない。

 だから、溜池はごみで埋まってしまったのだ。そのため池を農業遺構として、何としても残そうという活動が続いている。地域からは喜ばれるどころか、苦情を言われる状態である。それでも、溜池を美しい場所として残せば、未来の人にきっと役立つときが来ると思っている。

 

 ここは溜池の周りの道路が陥没してしまった箇所だ。いつか崩落氏tれしまうと心配していた。コンクリートガラを軽トラ一杯入れて、その上から、土と砂利とを混ぜたものをもう1杯入れた。しばらくそれで様子を見る予定だ。

 状態が落ち付いたらば、そこにコンクリートを打って固める予定だ。これで今度の大豆の収穫の時も危険が少し減った。車が大きな空洞になっている上を通るのだから、危険極まりなかった。今回急いで工事が出来てほっとした。


 大きな空洞だった。今回ここまでやる予定ではなかったのだが、溜池の排水管の工事が早く終わったので、一気にここまでやれた。穂田さんの手際の良さにはいつもながら、眼を見張るものがある。これで小田原に来た第一目的は達成したことになる。

 参加者、穂田さん、渡部さん、富田さん夫妻、石井さん、東さん、杉山さん黒柳さん、まごのりさん、笹村
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舟原のクリムソンクローバー

2017-05-07 08:20:51 | 里地里山

舟原は今花が見頃です。ぜひいらしてください。バス停舟原のすぐ傍です。小田原駅から30分ごとにバスがあります。写真はストロベリーキャンドルTrifolium incarnatumです。クリムソンクローバーとも呼ばれます。花や葉はハーブとして食べることもできるそうです。水揚げを上手くできれば花は長持ちします。

 

舟原の田んぼの緑肥のクリムソンクローバーが花盛りで見事です。これが野生種だとは思えない、あでやかさです。赤クローバーよりも赤の色が強くて、花が長くなります。一面に咲き乱れる姿は圧巻です。少し見えている下の段は白クローバー、その下がレンゲです。田んぼの緑肥として何が一番良いか、比較調査をしています。また、緑肥が作物にどんな良い影響をもたらすのか。どのような時期に播種して、どのようなは手法が良いのか。様々比較検討をしています。舟原田んぼの緑肥はすべて、稲刈り後耕さず、そのまま蒔かれたものです。それでこんなに見事に成長すれば、素晴らしいです。田んぼも年々収量が上がっています。また、この素晴らしい農の景色を楽しみにして来てくれる人も居ます。美しい農地を作ることは、これからの里地里山の農業の大切な要素だと思っています。と自慢げに書いても、この田んぼは仲間の田んぼで、私の田んぼではありません。

こちらは少し前に花盛りだった。お隣の黄からし菜です。田んぼ一面に咲いて何とも見事です。こうした田んぼの冬の緑肥が、舟原の春を告げます。奥の方では、冬野菜や麦が栽培されています。こういう冬の耕作というものは、ほとんど見られなくなってきました。冬に田んぼに作物が作られていれば、相当に熱心なかたとみていいと思います。緑肥は田んぼの肥料になります。もちろん緑肥の王様のレンゲもありますが、レンゲの満開はもう少し後になります。

こちらは溜池のの藤の花です。水面にの花影が良い。絵になる。園芸品種とは違う野趣があり、なかなか良いものです。溜池の周りには数か所咲いています。写真では水面が少し見えていますが、このあたりが一番深いとこで30センチくらいの水深です。蓮やヒツジ草など植えたいと考えています。この溜池に季節季節花が咲くようになればと計画しています。いつかみんなの庭のようになればと思っています。

こちらが上側を見たところで、3段の棚田のようになっています。ここに水を溜めて田んぼ状態にして、植物を植えたいと思っています。中央に自然水路を作ります。全体が水辺の花の公園になれば、最高です。一緒に水辺公園作りに参加する人を募集します。自分たちの庭を作りたいと思います。蓮やスイレンなどもいいかと思っています。

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原発避難地域の変化

2014-11-25 04:28:38 | 里地里山


下の畑 中盤全紙 今は麦の撒いてある畑だ。今年の夏はずいぶん草を生やしてしまった。今はまた麦を蒔いてきれいになっている。きれいになっている時より、少し荒れているときの方が絵になるというのも、変だ。がそういうものだ。





福島の原発避難地域とその周辺では、稲作が行われなくなった。事故後2度行った事があるのだが、田んぼの無くなった里山がどういうものになるのか、是非とも、農水や、環境省の方々は見て置いて欲しい。政治家の方々も、将来の日本の姿を予測させる姿なので、是非、人の住まなくなった地域がどう変化して行くのか、見て置いて貰いたい。見ないでもそんな事は分かっているという人もいるだろうが、あの荒れすさんだ、わびし過ぎる風景を目に焼き付けて置いて貰いたい。日本の風景というものは、人間が暮らすことで出来上がっているものだという事が分かるはずである。この美しい風景というものは、人が暮らさなくなれば、わずか3年で、失われてしまうものだ。強くその視覚に留めて置いて貰いたい。勿論そんなことどうでもいいという人もいるだろうが、心ある日本人には日本の方角をどこに定めるかの、大きな材料になるはずである。

福島県には美しい村が沢山あった。美しい村連合というのものがある。特に飯館村は格別に美しい村だった。ダッシュ村のあった、お隣の浪江町も美しい地域である。バク原人村のある川内村も美しい所だ。海沿いの大熊町、双葉町、魅力的な所だった。そうした地域が人が住まなくなった3年間で、どのように変貌したのか。これは確認しておいた方がいい。遠からず、日本全体がそうなって来る可能性が高いと言われている。人間が幸せに暮らすという事は、美しい場所に暮らすという事ではないか。しかもその美しい場所を、自分の暮らしが作り出している。こうした安定した気持ちが、何にも代えがたいと思う。高額な商品にあふれている暮らしよりも、つつましく、地に足を付けて日々を送ることが、幸せの原点であると、人間の生きるという事の意味と向かい合う事になると思う。そうした美しい場が、日本には無数に存在している。その大切さを見直す最後の時が来ている。

田んぼはなければならない。暮らしにはあの田んぼのある風景というものは欠かせない。それは実は日本の自然環境を作り出したものでもあったのだ。福島の原発事故地域では田んぼが無くなって、赤とんぼが居なくなったという。おおガエルが居なくなったという。きっとそれを餌にしていた、動物たちにも影響を与えている事だろう。勿論農薬や化学肥料もなくなり、復活してきた、生き物もいる事だろう。放射能に汚染された猪を調べている、学者の人達がいる。最近捕獲された埼玉県のシカが基準値を超えたセシューム汚染があると、埼玉県のホームページには出ている。ドイツでは、最近でも猪から基準値越えのセシュームが検出されている。長く、広く影響は続くという事だ。海に関して言えば、これからが汚染の本番だと思っている。この事はまた別の機会に書く。その前に、田んぼが無くなると、風景が無くなるという事である。

都会で大半の日本人が暮らすようになった。特に日本の政治にかかわる人や、官僚の方々、そして大企業の方々は、田んぼのある場所に暮らしていない。多分、コンクリートで固められた地域で暮らしている。時々、ゴルフ場などには出掛けるだろう。しかし、農業という生産をおこなう場所が、美しい日本を作り出してきたという実感はないはずである。もしかしたら、30ヘクタール以上を耕作する大規模農業の方にも、美しい農地という感覚はないのかもしれない。観光地としての棚田百選などという形の、取り上げられ方はある。それが残す価値がある農村風景の象徴として顕彰され、営農としてではなく、ボランティアが参加して残すという事がある。これも実態とは違う。日本全国に無数に存在する、何でもない集落がどれほど大切なものか。失われてみて分かるという事だろう。毎日一つは消えて行っているはずだ。人が住まなくなって、3年経てばどういう事になるのか。是非とも、福島に行って確認してもらいたい。
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和紙のユネスコ無形遺産

2014-11-06 04:30:08 | 里地里山


足柄平野 中盤全紙 手前の赤い塊は竹だ。竹が赤い訳が無いが、赤くく描く方がいいと考えた。緑と赤はそういう関係になる事がある。何故だか良く分からないが、補色だからかもしれない。





和紙が和食についで、ユネスコの無形遺産に登録される方向の様だ。当然のことだと思う。和紙の洗練された技術は、世界屈指の紙作りの技術である。ルネッサンスヨーロッパでも評価が高かったという位の紙なのだ。レンブラントが使ったと言われている。何故、日本の和紙が優れているかと言えば、日本の水土が紙づくりに適合しているからだ。そして、稲作を行う里山の暮らしが洗練させてきた技術だ。この暮らしが日本人の繊細な感性を作り上げた。和食と言い、和紙と言い、日本人の伝統的な暮らしがもたらした、奥行きのある微妙さは格別なものだ。そうした日本人の文化は稲作を基本として出来上がっていたことが分る。和紙も、稲作も、中国から渡ってきたものだ。古代中国人は紙の製法を編み出した。素晴らしい紙が出来たからこそ、中国の文明や思想が深まったとも言える。しかし、日本に伝わった紙の製法は、日本人の繊細な感性が磨きをかけ、和紙と言う日本人を反映するものにまで洗練し、和紙を生んだ。

和紙を作る技術は、水土をコントロールする技術が無ければ、発達しないものである。水土を制御する技術を天皇家が保持し、その技術を日本と言う稲作の国を作り上げて行く根本としたのではないか、と考えている。紙と言う文化と製造の技術は、中国から伝わり、日本全土に広がってゆく。稲作と同じ事である。紙と文字と言うものが無ければ、広い地域を統治すると言うことはできない。文字は政治を広げてゆく道具である。和紙は日本の紙だと誰もが感ずるだろう。水彩紙はヨーロッパの紙である。和紙と同様に手漉きのものなのだが、その作り方にはいくつかの違いがある。まず材料的に水彩紙は綿花と言う栽培する作物から作られる。一度布として利用された後、もう一度叩きほぐし、ラグという繊維を取り出し、これを紙の原料とする。中国の宣紙は画宣紙と日本では呼ばれ、青檀樹皮と稲藁の混合で作られているが、きめ細かい事が特徴である。和紙は麻、楮、三椏、雁皮、竹、稲藁など繊維が取れるものは何でも紙として使われる。素材感が強く残り、日本的風合いがある。

紙と言うものは不思議なもので、イタリアの紙であるファブリアーノ紙はどこかイタリアを感じさせる。インドの水彩紙はインドならではのものである。フランスのアルシュ水彩紙はいかにもフランス的と言える。和紙が日本的というのはそういうことなのだ。どこが日本的なのかと言われても困るのだが、和紙の風合いを日本的であると言って、異論のある人は少ないだろう。こうした何となく日本的。という世界こそ、年々失われてゆくものだ。日本人が里山の暮らしから離れることで、失われ始めた感覚である。危険な兆候である。よりナショナルであることが、インターナショナルである。日本と言う国柄が身についていない人間は、国際人とは言えないということなのだろう。日本人が文化的に評価される為には、日本文化を国際的な目で見直す所にある。ところが日本人の眼を失った人間に、世界に主張できるような文化を作り出せるわけがない。

こうした伝統的な技術が、先進国の中に残っていると言う所は、世界でもまれにみる特殊な国である。中国の宣紙は昔ほどのものは残っていない。柳田國男が民俗学を作り上げることが出来たのは、先端の学問的状況を持ちながら、伝統的習俗が一般の暮らしに充分にのこっているというという特殊な国柄にあった為である。ドイツなどで研究が進んだのは、民族学であり、異民族の未開発国の民族をを調査するという学問である。そこで生まれ育った人間が行う民俗学的な意味は、世界でも希有な事例であった。和食、和紙、そしてその背景にある伝統的稲作。それを支えた、里地里山の暮らし。これが日本の特殊性であり、世界の可能性だと思う。世界の競争が激化して、世界の崩壊は近づいている。その中で、不時着地点としての日本の文化こそ、日本人が見直し、再認識して行くべき価値あるものだろう。和食、和紙、里山の暮らし。どう守るかである。

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かながわ里地里山保全促進計画

2013-08-29 04:21:21 | 里地里山
8月29日、神奈川県の条例である。里地里山保全事業の見直しの為の、ヒヤリングのようなものが、小田原の合同庁舎であった。県内に指定個所が16か所あるので、説明と聞き取りを行うという。美しい久野里地里山協議会からは10名ほどの会員が参加をした。正直なところ神奈川県が何を目指しているのか、もう一つわからなかった。予算が減るので、補助が減るという説明があり、今後は自分たちで収入を得るような努力をしてほしい。そのためにコーディネーターをお願いするなら、その補助は行う。そのアイデアの事例としては、直売所、商品開発、加工施設、体験農場、休憩施設、が事例として示された。老齢化の穴埋めに、都市ボランティア育成。里地里山の実態を把握していないとしか思えない条例の提案である。5年間一緒に活動をしてきたのであれば、もう少しは現状把握が出来ていなければならない。たぶん、検討委員会の先生方の、机上の空論の結果が並んでいるのであろう。

里地里山がなぜ、消え去ろうとしているのか。何故過疎地域が出来るのか。農業が振るわないからである。農業を再生することに触れないで、議論をしても無駄な議論である。里地里山地域を指定し、ここだけは特別に残そう。そのことが神奈川県にとっても、大切なことだと考えなければならない。そこでの農業は、里地里山らしい、循環型の農業である。この生き残りのための提案を出来ないのであれば、お茶を濁しているにすぎない。お茶を濁していることが、里地里山地域の人の負担の上に成り立っていることを忘れてはならない。明星岳見晴らし登山道の整備をした。そして、継続して、つつじを植えて、整備をしている。草刈りだけでも大変な労力である。補助のお金などいくらかもらったところで、到底無理である。何故、登山道を整備したかったのか。何故、草刈りを無償で続けているのか。ふるさとの山が大切だからである。そして登山者が来てくれるようになった。そのことが他所から来た私のようなものでも嬉しい。だから草刈りには出ようかと思う訳だ。

TPP加盟の結果、国際競争力のある農業が求められる。このまま同じ流れの中に居たのでは、久野のような傾斜地、小規模農業は存在が難しくなるだろう。そこで、都市近郊の残された里地里山の利点を生かした農業を振興すること以外道はない。その視点が、里地里山保全計画に生かされなければ意味がない。これは、5年前この条例が出来る時も、同じ主張をした。ところが、横浜、川崎の都市の中に残った、里地里山のセンスで都市住民がどのように里地里山保全にかかわるかが、中心の考えだった。そんなことは無意味だと考えたが、予想通り、5年の結果都市住民は、レジャーの場所として、お客さんとして里地里山に来てくれたが、この場所を自ら保全して行く主体になるような方向は芽生えはなかった。このままでは、地元のただでさえ精一杯の農業者が、都会のお客さんにサービスをするということになりかねない。

久野の里千里山の保全は、一つは消費者に来てもらう農業への転換ではないだろうか。例えば峯自然園や、ブルーべリー農園旭である。消費者が来てくれるような農業へ道を開くための、法的な環境整備をするのが行政の役割である。また、あしがら農の会のような、市民参加型の農業の推進も一つの方向である。新規就農者の受け入れもある。新規就農者と言っても、専業農家ではなく、それなりに、仕事を持つ兼業の新規就農である。こうしたことは、地域には芽生えてきている。しかし、新しい試みは、法的な問題の整理。情報の収集。情報の発信。行政の協力があれば、推進される場面もあるだろう。こうした細かな調整こそ、行政の役割だと思う。5年間かけてそのことを学んでほしいと思っていたが、現状では、むしろ後退したとしか思えなかった。
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野遊び探検

2013-08-19 04:13:50 | 里地里山
8/18日に行われた美しい久野里地里山協議会の野遊び探検は100名を越える人が参加をした。今年の内容の変更点は、生き物観察をやめて、いろはもみじ苗植栽100本の植栽を行いました。当日参加スタッフは10名程度。私はこの活動には出来る限り参加するようにしている。小田原植木さんの、舟原の圃場で行われる活動で、この地域の良さを一番アピールできるものだと考えている。小田原植木さんの圃場は舟原集落から久野川沿いに200mほど登ったところにあり、大木が生い茂り、珍しい植物も沢山ある。2ヘクタールくらいの場所だ。里地里山協議会では、久野川の上河原橋から、散策道を和留沢に向けて作る計画である。地主さんの了解を得ながら、すで峯自然園までは整備が進んでいる。河岸が秋には紅葉で埋められるように、モミジなどの樹木の植栽が進められている。

今回の野遊び探検では、苗木の植栽をしてもらった。参加者は1本は植えられたのではないだろうか。良い思い出になり、いつか紅葉が大きくなった頃また見に来てもらいたいものだ。野遊び探検は危ないギリギリの川遊びや、焚き火などやってもらおうと考えている。危ないからやってはいけないのでなく、危ないから経験して置く場になればと思っている。だから運営側には、事故が起きないよう細心の注意が必要になる。事故に関しては自己責任ということになってはいるのだが、やはり事故は起こす訳にはいかない。と言って川に入ってはいけないではなく、子供たちが川に入ってけがをさせないようにする。川に入ってくちびるを紫にしていた子供たちがいた。今年で4年目になるが、事故が起きたようなことは一度もない。私は火の係だったのだが、子供が薪を入れたいというので、どんどん入れたいだけ入れさせ、熱くて近づけないような大きな焚火にした。火が熱くて危険なものだということだけでも知ってもらえればと思う。

食べ物は、その火で煮たり焼いたりして食べる。100数十名の食材を準備して、調理して、食べつくすというのも、なかなか大変である。しかし、火で焼いて食べる経験だけでも、美味しく食べてもらえたのではないかと思う。今回は4回目ということで、過去に参加したことのある人と言うので手を挙げてもらったら、かなりの人が手を挙げていた。そうした人が増えてくると、流れが自然と良くなる。アユを放流して、つかみ取りというのもやるのだが、子供たちがそれは大騒ぎで捕まえる。やっと捕まえたアユを、自分たちで作った竹串で刺して、塩焼きにする。小田原植木さんの森には、そういうアユを放流してつかみ取りが出来る場所があるというところがすごい。大木から大木に縄をかけて、そこを滑空する遊びも子供たちには人気だった。はらはらするほどスピードが出て、林の中を飛んでゆくのだから面白いはずだ。

毎年野遊びも工夫が加わり、楽しくなっていると思う。竹細工を行い、刃物を使うのだが、昼食べる食器は自分で作ったものということになっている。集まり最初にみんなにやってもらう作業だ。お皿、スープの皿、竹串、箸。何とか出来たようだった。今年は楽器を作ったりしている人たちもいた。楽器作りはもう少し、内容を広げられそうに見えた。今年の特徴は片づけを参加者が自主的に行ってくれたことだ。参加費はこの内容で、一組1000円は格安である。今年は、この活動が、わんぱくランドの活動とも連動してということだったようだ。それもあって、スタッフが不足したのかもしれない。内容からいって、同日開催は少々無理なことのような気がした。
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久野川の河川管理

2013-05-28 04:03:47 | 里地里山
川は地域の動脈である。山と海をつなぐ要である。山の状態や海の状態は、川の姿を見ればおおよそ見えてくる。丹沢の広大な山と相模湾の関係は、酒匂川に表れている。同じように、明星岳、明神岳の箱根外輪山と小田原の海との関係は、久野川に現われている。久野川も下流域の状態を見ると、残念ながら生活雑排水路のように見える。3面コンクリート張りの下水道のようにも見える。上流部もほぼ河岸の工事が行われていて、自然河岸の状態の場所は極めて限られている。特に舟原と和留沢地区の中間から下流のほとんどは、河岸はコンクリート化されている。同時に河床には段差のきつい個所や、曲がりの大きな場所には、コンクリートの巨大なブロックが埋め込まれている。何度も水害があったから、水害を防ぐために、繰り返し工事が行われてきた結果であろう。中流域の辺りから下流では、平野部に入り蛇行していた久野川が、コンクリート張りの直線に変えられ、周辺にあった水田はすべて住宅に変えられた。

こうした土木工事のおかげで水害は相当に防げるようになった。しかし、近年ゲリラ豪雨が毎年発生している。以前は時間雨量でせいぜい50ミリだったものが、72ミリの新記録で驚いたのだが、すでに100ミリになっている。そのために、川の様子は大きく変わってきている。コンクリートブロックがえぐり取られたり、自然護岸のところでは、土が洗われてしまい、大木の根が露出している個所もある。山の状態は以前よりは良くなってきているようにもみえるが、昨年6月の豪雨では山の斜面が大きく崩れてしまった個所が4か所ある。木が表面を覆っていれば大丈夫とも言えない、深層崩壊に近い土砂崩れが起きているようにも見える。当然その土砂は今も削られて流されている。そういうことが川の生き物に大きな影響を与えているとも聞いた。下流の東洋橋での避難判断水位は1,40センチである。ここにはカメラがありいつでも見ることが出来る。これを超えることが毎年起きている。舟原にも雨量測定地点がある。

矢住芝という観測地点は、箱根町と表示はされているが、和留沢の観測地点と考えていいと、小田原土木では言われていた。矢住芝(足柄下郡箱根町木賀)の住所表示が間違っているのか。現在この点は確認しているが、返事が無い。舟原の土砂災害危険地区の予測に役立つはずだと考えている。位置確認が必要である。まだ土石流避難勧告は出されたことはない。この判断をするには、データーが不足してい手出せないのが現状であろう。舟原でいくら観測して居ても、舟原に起こる土石流の判断はできない。その上流部の状態が気がかりなのだ。山の管理が良くなれば、土石流災害の危険は減少する。しかし、山が今より良くなる可能性は、少ない。林業が健全に行われることは考えにくい。では巨大な砂防ダムを作るということになるのかと言えば、全国にはレッドゾーンにもっと人口が密集している個所が膨大にあるそうだ。舟原のレベルのリスクでは、防災砂防ダムが造られることはない。

そうなると、やはり、的確な避難である。現在の舟原の一時避難場所や防災倉庫は、レッドゾーンの中の公民館である。これを安全な場所に移動することが必要であろう。イエローゾーンの場合、堅固な建設物なら、避難場所になるということらしいが。そういう場所も建物も現在の舟原にはない。公民館を場所を変えて立て直す必要がある。行政も安全対策として、補助をするぐらいの考えはないのだろうか。いずれ将来安全な場所に移築するということは必要だろう。当面は緊急避難的に、不便であっても小田原市の斎場に避難するのが、次善の策にも思える。斎場が一番近い、公的な建築物だ。食料も水もある。防災倉庫ぐらい置かせてもらえる余地はありそうだ。駐車スペースもあるから、車での避難もできる。距離的には舟原の一番遠い住宅から、1キロくらいだろうか。問題は舟原地区内ではないことである。現状では、レッドゾーンの中の避難場所表示を止めることだろう。
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北国の春のごとく

2013-03-30 04:24:41 | 里地里山


舟原のしでこぶしが咲いた。3月に入ってすぐである。舟原にこの花が咲くと、春ということになる。杏子やスモモ。そして桃に桜。さして椿から、ミツバツツジまで、今年は一斉に咲いた。こんな年は初めてのことである。「 花の湯に こころさわがしや 山の音 」昨晩行ったなんりゆーでは、客は2人きりだった。強い風に吹かれて、春が一気に近付いたことが分かる。野菜の苗作りもどんどん進んでいる。北国の春というのは、花という花すべて一緒だと聞いたことがあったが、キャベツや白菜も花が来てしまった。



黄色いのは、食べ逃した白菜の花である。緑に広がるのが、麦である。去年よりは花が花として、美しく見える。畑の緑もさわやかである。人間の気持ちは、持ち直すものである。元に戻るということはないが、花が咲いてよかったと思う。いつになったら、花を描く気になるのだろうか。春が美しい季節で、花は美しいものだという、観念はある。しかし、自分の描きたいものと関係することがあるかは、まだまだ距離がある。北国の春が、格別であるのは冬が長く大変なものだからだろう。今年は青森県の酸ヶ湯というところで、5m66cmつもり、観測史上一番の積雪になったという。まだ、4メートルを超えた雪があるというから、ものすごいものである。今年の小田原では、雪がちらついたことはあったが、積雪はなかった。雨は週一くらいで適度に降る。恵まれた冬から春への季節の流れだったと思う。

タラの芽を25日に採った。すぐてんぷらにして食べた。春の味である。フキの葉もだいぶ大きくなってきたので、そろそろ取れるだろう。ワラビもウドももうすぐである。何度もは食べないが、一通りは食べることにしている。常食にするには、山菜は向いていない。やはり野菜というものは素晴らしいものだ。かなり食べても体に変調をきたさないし、飽きない。ご飯もそうだ。毎日食べてもおいしいと思うものなどめったにない。そういうものは特段の味ではなく、単純な味であり、奥深い味わいがあるものだろう。今年の春の植樹は、4月の20日(土)である。舟原ではミツバツツジが咲き始めてしまったので、山に植えた、つつじはその頃が見ごろだといいのだが。まだ花の時期に山に行ったことはないので、今年はとても楽しみである。なんでも早く進むので、少し心配になる。お茶摘みは5月1日ということだが、今の調子だとこれでも遅いのかもしれない。何度か4月中のお茶摘みというのもあった。



「頭山」にも桜が咲いた。毎年咲く。桜の盆栽が流行っているとテレビでは言っていた。土もほとんど入れてない。山ごけだけでくるんである状態だ。特に水をやったこともない。雨がかかるだけだが、今年も咲いてくれた。苔が緑ということは、結構雨が降っているということだろう。今年は、少し桜の枝ぶりを整えようと思う。
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奥和留沢見晴らし道

2012-11-29 04:23:15 | 里地里山
「美しい久野の里地里山協議会」では、和留沢から箱根に上る登山道の整備している。昔は久野から明星岳への登山道があり、学校林もあったという。しっかりした登山道があったらしい。ところが、学校林も無くなり、山へ入る人もいついの間にか減って、山の道は消えてしまった。植林のスギ林がほとんどに成り、その管理道が登山とは関係なくつけられている。一般の人が登山する事は出来なくなった。この昔の登山道を復活させようと言う意見が、里地里山協議会の中から出た。私は後々の管理が、一部の忙しい農業者の負担に成るようなことは避けるべきだという意見だったが。取り組むことになった以上出来るだけのことはすることにした。道は付けられた直後は案外登山者が通るようになったのだが、最近は登山者もだいぶ減ってしまった気がする。入り口の舟原というに住んでいるので、何となく登山に行く人と出会う事が減った気がするのだ。通る人が減ると、せっかく作った登山道も又自然に戻ってしまう。

草刈りも行うのだが、作業日が他の活動と重なってしまった。今年は参加できなかった。年に2回ツツジを山に戻す活動も行う。登山道の周辺にツツジを植えている。畑でツツジを養成して戻している。今回が5回目でほぼ和留沢の登山道入り口から、明星、明神の尾根道までつながった。来年のツツジの咲くころはちょっとした見ものである。咲いているつつじをたどれば、明星岳への登山が出来る。そこから、箱根の方に降りるのも良いし、明神岳から、金時山へと箱根外輪山を巡ることもできる。つまりそれは、昔の修行の場でもある。大雄山最乗寺は天狗のお寺である。和留沢にあったと言われる、総生寺も同様に、修験道と関連の深いお寺と思われる。箱根神社の来歴によると、「当社は、人皇第五代孝昭天皇の御代(2400有余年前)聖占上人が箱根山の駒ケ岳より、同主峰の神山を神体山としてお祀りされて以来、関東における山岳信仰の一大霊場となりました。
 奈良朝の初期、天平宝字元年(757)万巻上人は、箱根大神様の御神託により現在の地に里宮を建て、箱根三所権現と称え奉り、仏教とりわけ修験道と習合しました。」
とある。

登山の楽しさは、自然の懐に分け入る事にある。自然の中に立ち、自分というものに向かい合うことが感じられる。山を登るという肉体的な苦しさが、いつの間にか自分の存在に向かい合っている自分に気付くことがある。これが修業というものの入り口なのかと思う。どこかに観光に行くことを、俗世間の煩わしさを抜けて、と表現する事がある。まさに登山には、世間と隔絶した場所を提供してくれる所がある。山に登るという肉体的苦しさを2,3時間継続することで、心が洗われてゆく感じである。何故か、苦しさを継続することで違う領域に達することがある。ランナーズハイというものと似ている。高校生のころには長距離走をやっていた。登山にも良く出掛けた。似たような感じだった。座禅もやったわけだが、これが一番分かりにくかった。

箱根の明星岳への登山道を作る事に成るとは思いもよらなかった。先日のツツジの植林事業には、初めて参加される人が沢山おられた。そして、こんな活動に参加したかったんだと言われていた。今回家族で参加できて本当に楽しかったと言われた人もていた。来年の春には、ツツジが咲いている頃に行ってみたい。まだ一部抜けている場所がある。余りに暗くて枯れてしまった所や、下刈りと一緒に無くなってしまった所もある。ツツジを補植しながら、みんなで登山すると言うのも良いと思う。また、登山を終わってから、峯自然園でバーべキュウ―をするこれもまた楽しい。アルコール抜きという事で、ノンアルコールビールを飲むのだが、今年はこっそり、ビールを持ちこんで飲んだ。帰り歩いて帰れば大丈夫である。
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農場レストラン

2009-12-27 04:35:02 | 里地里山
久野にもあればと言う、一番の施設が「農場・農家レストラン」である。以前秋田で農家レストランをやられている、内山さんと言う女性の話を10数年前に聞かせていただいた。まわりの人達が「まさか、こんな田舎でレストランが出来るはずないだろう。」と言うような辺鄙な所に、お客さんが沢山着てくれる。農家のしっかりした料理を出せば、どんな所でも人は食べにきてくれる。そう言われていたことが忘れられない。足柄平野のどこかに、農家らしいレストランが出来たらいいな。そんなことをずーと思っている。ブルーベリーの摘み取り園をやっている、農の会の仲間の小宮さんはファーマーズカフェ「山海亭」をやっている。この地域のさきがけのようなもので、試行錯誤しながら毎年少しずつ形を変えている。この地域にはこの地域らしい形があるらしいな、などと思いながら見ているのだが。やはり運営する哲学が作り出すものらしい。

白秋町にある「農場レストラン鼓腹亭」思い描いてきた完成形といえるようなものだった。4月に出来たまだ新しい施設だ。7ヘクタールの農場があり、その一角にレストランがある。エネルギーは全て自然エネルギーという、コンセプトが先ずしっかりしている。料理はマクロのものである。お客さんが来てくれるかと言うより、こんなものを食べてもらいたい。こう言う哲学で作られている。私はマクロに興味があるわけではないが、マクロの料理だというのを、何度かは食べさせていただいた。身体にいい感じはするし、なかなかの味はしている。だが、これはうまいと言うような料理は今回始めてである。キクイモの煮たものがでた。あの身体にはいいが食べにくいイヌリンのキクイモだな。おそるおそる食べてみると、なんとも癖がない。ああこれがキクイモの食べ方だ。これなら食べれる、マクロ料理恐るべし。甘さが又格別、クドクない。

自然循環の「五雨十風農場」がまず前提としてある。一つのなだらかな南傾斜の谷間7ヘクタールが農場だ。一角には羊とヤギが放牧されている。広く田んぼが取られている。畑にしないで、田んぼにしている所がすばらしい。レストランではお米が売られていたが、天日干しのお米がなんと5キロ3000円で売られていた。全てに考え方がくっきりしている。水は大切にされていて、上手く山の絞り水が、田んぼを巡るようになっていた。トイレの水は5つのタンクで貯められた天水だそうだ。使用する水は井戸水。レストランをやるにしても、そこで生れるエネルギーを越えないように全体が運営されている。薪は周辺の薪山から切り出す。トラックターがあったが、てんぷら油の再生。ソーラー発電で全てをまかなっている。本来休業の水曜日の昼間に行ったのだが、3組のお客さんが見えてた。20代の背の高い2人の若者が働いていたが、二人の表情の明るさが素晴しかった。

このゆったりした空気感だ。この哲学が人に伝わる。利益とか、経営とか、そういう物では絶対に生れない。「こういうものがやりたい」という明確な哲学が、生みだす空気感。これでなければ人に思いは伝わらない。次の時代を意味する、すごい宝がある。大きな太い木で作られた建物だが、これは全てここに育った木だ。大きな一枚板のテーブルはタモだといわれていた。製材のノコメが見える範囲で残して、素朴に作られていた。燃えている暖炉の薪の暖かさが、身体に染みた。こうやってやってゆけば、過不足がない。夜のディナーは完全予約制だそうだ。1月2月は休みといわれていたから、春になったら、ぜひ食べさせてもらいに行きたい。
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里地里山の暮らし

2009-12-18 05:30:09 | 里地里山
美しい久野里地里山協議会の活動が一年を経過する。改めて思うことは地域において市民が行うべき事は、地域で暮らしを立てると言う事に尽きる。地域に根ざして暮らしを立てる姿は、日本では極めて困難な事で、失われつつある。里山は地域に暮らしが存在してこそ、形成されてゆくものである。地域での暮らしがなくなりつつあるのが、現実である。その中で里山をどのように再生してゆくのかは、よくよく検討されなければ、歪みが生じる。負担だけが大きくなる。「里地里山を守る。」会という組織の多くは、都市化されてゆく地域で、残された自然を守る運動として活動している。当然市民のボランティアが公園的里山を出来る限り自然状態を残して管理してゆくと言う事になる。しかし、それはあくまで箱庭的な、緊急的な対応であり、本質的な意味での里地里山の保全の実現は、地域の暮らしを再生すると言う事である。

地域の林業が再生する。地域の農業が再生する。地場の仕事が再生する。このことなくして、公園的な保全活動だけでは、久野という2800ヘクタールと言う広大な地域の根本の解決はありえないだろう。里地里山協議会は登山道の再生を行ったが、この管理運営と言う事で苦労している。これからも、公園的再生を行えば当然、その後の管理を充分に考えておかないと、行き詰まりかねないだろう。現在久野川の環境調査。と言う事が会の事業として上げられている。事業としては上げられているが、どこの誰がどんな費用で行うのかと言う事が、まだ充分には意識されていない。やるべきことであるというのは、理念的に当然の事であるが、やれるかどうかは又別の事であろう。環境調査に関心のあり、実際に行動のとれる人が何人いるか。その人員で何が出来るか。こう考える必要があるだろう。

実は環境調査と言っても、様々な視点がある。先ず行うべき事は地域の聞き取り作業ではないか。子供の頃には、こんな魚がいた。こんな虫がいた。大水の時には、こんなものが流れてきた。久野で昔の話を聞くと、川の石に名前が付けられている。これは何故か。石と近しい暮らしがあったのではないか。石切り場のあとも何箇所もある。石工のような職業集団が存在したのではないか。久野の農業の歴史ももちろん把握する必要がある。薪炭林業の実際も調べなければならない。それらが久野に残る100を超えて作られた、古墳とどのような関係があるのか。この古墳の背景となる、人間の暮らしを見通す必要がある。屋号や名前の調査も必要であろう。こんな事まで到底出来ない。今の人員でどこの誰がやるのかと言う事になってしまう。しかし、大きな方角を見定めるためには、ここに暮らす誰かがやらなくては、久野の里地里山の本当の意味での理念がみえないと思う。

なぜ、改めて協議会を作り、行政も参加して、里地里山の再生をしようとしているのだろうか。小田原市も久野の里地里山の再生を考えて予算もつけている。神奈川県も同様である。担当者もいる。意義のあることと考えてはいるのだろう。砂漠の緑化のようなもので、絶望的な現実がある。根本解決には、次の次の世代ぐらいになって、いくらか可能性が出てくればと言わざる得ない。だから、ここでの活動は、常に不充分で、徒労のような疲労感が伴う。そこで大切なことは、認識を共有する仲間の存在である。水ばかりさすような、足ばかりすくうような、環境では意欲が生れない。あしがら農の会での活動が元気が出るのは、大きな方角の予感のようなものが、共通項として存在するからである。協議会というものが、何かをするというのでなく、参加者がそれぞれに活動し、その集積として協議会が存在する。協議会の名前どおりの形になることが望ましいのではないだろうか。
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すごい資料が出てきた。

2008-12-10 06:24:46 | 里地里山
前に話は聞いていたのだが、昨日まごのりさんから、昭和13年(1938年)3月の久野の経済基本調査書と言う、すごい物のコピーを戴いた。昭和初期の久野の実態調査がなされているものだ。昭和初年の経済恐慌を受けて、農村の疲弊がその後進んでゆく。そうした時代背景の中で作られたものなのであろうか。今こういうものが出てきたことは、里地里山条例に地域指定されたことと、なぜか呼応している。これを昭和13年に作り上げた人達の、地域の人達の思いが、ずっしりと伝わってくる。70年前の久野の様子が手に取るように分かる。例えば以前から舟原という表記と、船原という表記が、別々にされている。どちらが本当だろうかと不安があった。この資料によると、舟ヶ原とあり、又船ヶ原とされている。そうした呼び名もあったと言う事なのだろうか。この資料を作ったところは、足柄下郡足柄村久野経済更正会というところだ。第一部が経済基本調査書。第二部が経済更正計画となっている。

1931年には東北の農村を中心に飢餓状態に陥る。1938年に作られていると言う事は、農村の経済が相当に困窮していた時期だろう。前年には日中戦争が始まっている。国家総動員法が発令され、軍事態勢に入る年だ。当時の農村がどのような実態であったかを知る事は、極めて重要なことである。90歳を過ぎた、史談会の湯川さんに、この資料を充分に読みこなした上で、聞き取りをする必要がある。1、足柄村久野全図残念なことに資料が紛失とある。2、沿革3、地勢および位置この中に記載のある、「四つ尾嶺の山中にある総世寺旧地が名高い、文禄元年諏訪の原に移された。」は和留沢付近を意味しているのだろうか。景勝地として、①坪間②布袋洞③疣石の3箇所が上げられている。

そして最も知りたかった、当時の農業の実態が詳しく資料化されている。地主、地主兼自作、自作、自作兼小作、小作、と分かれている。まだ分析は出来ていないが、田んぼが890反畑が2080反山林原野が3205反宅地が72350反と成っている。舟原の分別戸数で言えば、地主0、地主兼自作3、自作7、自作兼小作28、小作6、計44戸と成っている。今が75戸だ。私の来たときは66戸目だといわれたので、このところ急速に増えたことがわかる。しかし、本村総戸数が1921年に451戸人口3226人、1931年に486戸3346人に増えている。一家族数は7,15から6,88に減少。たぶん今は2、0台であろう。戸別の耕作面積では、田んぼでは2反4畝畑で4反2畝と成っている。林野で言えば、用材、薪炭林、孟宗、真竹と分別されている。

舟原には水稲が、96反8畝。陸稲が40反2畝。大麦が50反9畝。小麦が89反。甘藷が44反1畝。里芋が11反7畝。大根が9反6畝。南瓜が4反5畝。蜜柑が14反3畝。361反と成る。2毛作も含めてであろうが、36ヘクタールの耕作地があったことになる。中でも田んぼが9,6haあったことは水利の関係が見えてくる。現在は3ヘクタール程度であろう。水利と言えば水車が組合所有が14基。個人所有が11基と成っている。舟原に5基在ったとは聞いていたが、こうして実数が見えてくると、水力利用の姿の想像も実像が見え始める。久野全体の田んぼ面積が100ヘクタール。まだ分析は出来ないが、この資料がこれからの久野を考える上で、どれほど貴重な物であるかはわかる。日本人がどのように暮していたのかの実像が、徐々に結べるような気がする。
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久野里地里山保全地区指定

2008-12-06 06:14:17 | 里地里山
神奈川県に新しく出来た条例に基づき、小田原久野が里地里山保全地区として、指定された。2006年に勉強会が、小田原市、神奈川県、地元自治会、NPO法人などで、設立され準備してきたことだ。今までの里山保全活動は都市近郊の僅かに残された、自然を守る形の里地里山保全が主流であった。今回の久野の指定は、むしろ農村地域、林業地域、と言う生計を伴う形の保全地区指定である。これは画期的な出来事である。2800ヘクタールと言う広大な地域の将来設計に、素晴しい方向が定められた。街づくりで何よりも大切なことは、「どんな地域にして行くか」の方向性の模索にある。久野でもまだまだ、地域全体の合意や確認があるわけではないが、第1歩が示され、これから地域全体でどんな久野にしてゆくかの、話し合いが出来る、たたき台が出来たのではないだろうか。

久野には、従来より迷惑施設が集中している。結局、産業基盤の弱い所に他では嫌がられる施設が集まってくる。農業、林業が弱まり、空洞化してきていることが影響している。墓地、火葬場、葬斎場、ごみ焼却場、ごみ最終処分場、ごみ一時保管積み替え施設、土砂捨て場、資材置き場、建築業の作業所も多数存在する。違法合法問わず、迷惑施設が集まっている。それでもまだ、他の地域に較べれば、久野が素晴しい自然豊かな地域であることに変わりはない。相模湾から、明星ヶ岳まで、畑や田んぼがまだまだ広がっている。首都圏では残された僅かな自然であることは間違いない。素晴しいことは、農林業がまだ充分に生きていることだ。生きているとは、本気の農業者や林業者が存在していると言う事だ。ここで里地里山が再生されなければ、日本のどこも無理と言うぐらい、条件がそろっている。

条件とは、里地里山が形成されてきた「手入れ」を日常的に行う存在である。無垢な自然ではない。絶妙な手入れがあればこそ成立した里地里山。日本独特の作り出された自然。これには自然と深いかかわりのある、農業や林業があって保管しあいながら成立する。肝心な日本の林業や農業は今や都市住民が存在しない限り、成立が難しい。林業でいえば、地元の木で建てる家。外材中心の建築の中で、新しい枠組みを模索しながら、探し出してゆく手法がある。これには、林業家、工務店、製材店、設計家、そしてその里山の枠組みの重要性を理解可能な建て主。小田原はそうした運動も存在している。農業も同様である。食べる側の理解があって里地の農業は成立する。そして出来上がる、美しい地域が出来上がって、都市住民のいこいの場となって行く。そこに都市住民からの税の投入が開ける。

久野で行われようとしていることは壮大な実験である。久野に於いても当然、開発行為や、土木や建築の仕事を作り出したいという流れは存在する。生活あっての事で、当然の事だろう。開発と言っても里地里山に相応しい開発は存在する。ただ都市と同じような開発ではなく。里地里山に相応しい開発はむしろ促進される必要すらある。田園優良住宅の政策を小田原市は取り入れたが、これが単なる農用地の住宅開発になったのでは、本末転倒である。法の精神からいってもおかしい。豊かな自然を享受するには、それなりの負担が必要なのだ。むしろ里地に存在する昔ながらの農家に住みたいと言う人達が多い。この思いを上手く取り入れた地域の全体の方向を作り出すことが、これから重要になって行くだろう。
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明星ヶ岳登山道整備

2008-11-28 05:50:37 | 里地里山
舟原で朝な夕な見上げる山は明星ヶ岳である。畑仕事、田んぼ仕事、腰を伸ばして広がる山が明星ヶ岳だ。箱根の外輪山の東の輪は金時山、明神ヶ岳、明星ヶ岳と続く。さらに南に下れば、箱根駅伝の中継で必ず出てくる、搭の峰のコブがある。山の西斜面には箱根大文字焼きが描かれている。この眺めは強羅温泉からの眺望である。彫刻の森を東に囲むように眺める山が、明星ヶ岳。この優雅な名前の山の名は、箱根を訪れていた文人がなずけたとも読んだことがあったと思ったのだが、調べたがそのことは判らなかった。小田原側から見ると、西の空にかかる明星が強く光る辺りが、明星ヶ岳であることは確かだ。これが名前の由来であろうか。標高は1000メートルもない924メートルながら、立派な山である。特に、眺望が際立って良く。足柄平野越しの相模湾の眺めは、他に変えがたいものがある。

地元の中学では、尾根からすぐ降りた辺りに、以前は学校林を管理していた。そのこともあって、地元の者はこの山には格別の親しみが今でもある。私が住む舟原は小田原からの登り口のである。戦後開拓でさらに3キロほど奥に、和留沢の集落がある。現在14戸の方が住まわれているそうだ。最盛期は50戸近くの家があったという。それくらいの人が充分に住める、広がった窪地である。酪農や、栗栽培を目指したが、現在は茶畑が一番の面積を占めている。標高が400メートル近くあるので、茶摘み時期がずれるため、作業の都合が良く、高い所で茶畑を管理するメリットがある。昔牛を放牧した、場所が今は美しい雑木林になっている。この付近は古くは箱根修験道の霊場でもあり、寺院跡の礎石が見つかったこともあったが、今は又不明になってしまった。釜石の採掘場跡があり、これは久野川の源流ではこうした場所がいくつかったようだ。人が暮らすには別天地のような、素晴しい場所で、これから注目される小田原の秘宝のような場所だ。

和留沢の集落の一番奥から、登山道に入る。なだらかな道で、簡易水道の水源の管理道として作られた道が2キロあまり。下3分の一の林道との合流点まで続く。久野川の支流に沿って上るのだが、ここの沢は水が枯れている事が多いそうだ。水源の沢は当然50軒が暮せた、水源だから水量は充分ある。水源には大きな水神の石碑が昭和42年建立と刻まれている。ここからもう一本上の林道までが、林の管理道から、尾根道と続く、なかなか本格的な登山道となる。以前は川沿いに道が切られていたそうだが、その道は堰堤が作られて切れてしまったようだ。林の中は作業道だから、登山のためにはもう少し整理しなければ、いけないようだ。いずれ植林地を抜けた辺りから、険しい岩ののぼりになる。この辺は登山道としての安全対策が特に必要になりそうな場所だ。この辺りからコナラやマモミジの林となり、遠望できる足柄平野を含めて、登山道中一番の見せ場である。岩場を登りきると、すぐ上の林道に出る。ここから尾根までは既によく整備された。登山道となっている。熊笹や箱根ザサが目立つようになって尾根に出る。尾根からの富士の眺望は金時と駒ケ岳を従えて圧巻である。

久野里地里山事業の本年度の事業が、登山道の整備である。昨日はその下見を行った。所が下見前に、行政の方や和留沢の方が随分草刈など管理をしてくれて居た。森林組合の方も、目印や草刈をしてくれていた。基本の登山道は既に出来上がっているようだった。後は案内板や、細分調整となるだろう。この道が再建整備されると、小田原と明星ヶ岳がぐんと親しくなる。市民の山になる。舟原の和留沢入り口のバス停で降りて、3時間ぐらいで明星ヶ岳登山ができるようになるだろう。頂上でお弁当を広げて、宮城野方面に下りて、貫太郎の湯にでも入って帰るコースは、なかなかの魅力である。近いうちに又行って見たいものだ。

昨日の自給作業:ジャガイモ堀1時間 累計時間:25時間
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小田原の市民自治

2008-05-20 06:29:05 | 里地里山
舟原では時間雨量27ミリの強い雨が降っている。雨降って地かたまる。畑の準備は、今日の雨を目指して、進めていた。種蒔き、植え替え、収穫。今日の雨を予測して進めてきた。昼からは止むらしい。累計雨量では180ミリには成りそうだ。この時期としてはまとまった雨になった。小田原は今回の市長交替を契機に、何処まで市民が動き出せるか。市民自治を目指して、どこまで市民が変われるか。あしがら地域に住んで、20年を越えた。地域の暮らしを深める。このこと一点に進んできた。酒匂川を中心に、ひとつの生活圏を形成する。このことは、加藤憲一さんと出合った頃から、話していたことだ。彼はあしがらをトトロの森のようにイメージしていた。私はあしがら自給圏と言うような古臭い言葉で、考えていた。食の自給にとどまらず、教育の自給にまでいたる。総合的な自給圏構想を話した記憶がある。それは今でも変わらず、あしがら農の会の姿になり、ピースカフェの活動になった。

盛り上げなければならない反対運動も、幾つか経験した。しかし、反対の結果は、それが無く成るというだけだ。創り出す活動をしなければならないと、考えてきた。それでも、どうしてもやらないければならない、おかしな現実が登場する。嫌だ嫌だと思いながらも、反対の活動に入らざる得なくなる。そうした中でも、自分の暮してゆく形だけは、自給の姿に何処までも近づける。この原則だけは貫いてきたつもりだ。それは、これから考えて、学んでゆかなくてはならない、市民自治の原点だと思うからだ。食べ物の大半を輸入する国家が、何故危ういかといえば、それは生活の根底を失うと言う事にある。人間が生きるという基本に食糧の生産の姿がある。それを軸にした社会こそ、安定した社会となる。それは国単位というより、むしろ地域、流域圏という枠で、そうした食糧生産の循環が作られることが望ましい。

そのモデル地域といえるのが、酒匂川を取り囲むあしがら地域だ。ここに移り住んで以来、そのことをいつも頭においてきた。人間1人の食糧が、100坪の土地で生産することが出来るなら、あしがら地域には、30万人が丁度良い。などと考えてきた。だから人口の減少を、税収の減少からだけ見て、工業団地、企業誘致、宅地開発、人口増加策を模索するのは時代の方角の読み違えだと思う。この地域にくらす人々、一人一人が豊かな暮らして居るという実感は、経済だけではないだろう。庭にトマトを作り、このトマトが食卓を彩る豊かさは、金銭には換えがたいものだ。平和に暮らすと言う事の意味を、そうした暮らしの実感から育てる事。経済の合理性の追求では、押しなべて都会志向になる。1000メートルの高層ビルに暮せば合理性がある。庭など無駄なスペースと言う事になる。しかし、4人家族が、300坪の敷地に自給的に暮す。こうした暮らしが基本にならないだろうか。

市民自治を考える時に、暮らしの根がその土地に根づいていなければならない。この土地に暮らしがあってこその、市民自治だろう。今久野で里地里山協議会が進んでいる。この活動は、県と、市と、市民と、協働の活動を模索している。正直初めての経験で、何処まで踏み込んでいいのか戸惑いながらも、この活動の形こそ、この先重要な方式に成ると考えている。基礎に市民の独自の活動が複数存在すること。その活動が開かれた活動であること。行政は複数ある活動を、連携し、調整する。久野の里地里山事業は、市民と行政がかかわり方を学ぶ、よい機会だ。市民も行政も今までのやり方にこだわらず。久野の豊かな暮らしが、循環してゆくように、本気で取り組む必要があるだろう。小さくまとめない事。参加者を公募する事。この取り組みが、これからの地域のあり方の学習になるに違いないと思う。
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