地場・旬・自給

ホームページ https://sasamura.sakura.ne.jp/

年賀状希望者に送ります。

2021-12-25 04:41:02 | 暮らし

 今年の初詣は楽観農園の守り神である水神様にすることにしよう。個人的にはどこの神様よりも霊験あらたかである。ここでお参りをしていれば、100歳まで元気で暮らせることだろう。この水神様でお祓いをした年賀状を希望者に送ります。大判ハガキの水彩画の年賀状です。御利益が無くても、返品、交換は出来ません。コメント欄に名前、住所をお書き下さい。

 年賀状は今年は12㎝×210㎝の大判ハガキサイズにした。少し絵らしく描こうと思ったからだ。それでもちょっと絵と言うには小さいかとは思うが、ハガキサイズに描くよりはおもしろかった。毎年のことだが、年賀状は自分の水彩画の研究だと思い描いている。

 25日までの郵便局に持って行けば、元日に届くことになる。今日出さなければならないが、ぜんぶは出来ないかもしれない。宛名書が今日中に出来るかどうかである。宛名は鉛筆で描こうかと思っている。鉛筆の感じが好きだからである。失礼と思う人もいるらしいが、宛名も書のつもりで我慢いただく。下手も書の内上手は書の外。

 今年はすべて、楽観農園の建設をしながら描いたものだ。ユンボが壊れたので、何とかその間に描けたようなものだ。楽観農園の周りの様子が絵の中に入っていると思う。といっても何が何だか見ても分からないと思うが。是非とも心眼で見ていただくしか無い。

 実は年賀状自体の準備はもう3ヶ月も前にしていた。大判ハガキサイズに紙を切ったのだ。そして、気が向いたら描くつもりでとアトリエカーに載せてあった。すこしづつ描きためていた。だから、シーラ原田んぼで描き始めて、崎枝楽観農園で完成した絵と言うことになる。

 来年は近いうちに紙だけは切って、車に乗せておきたい。そしてその気になったときにすこしづつ描きためたい。失敗を恐れず色々試せるから、年賀はがきに描くのがおもしろい。絵を描く時に試しに描いてみる紙のようになっている。まるで自分の絵とは思えないようなものもあるのだが、それでもそれが自分なのだ。

 さすがにダメで出せないと思ったものが5分の1くらいだ。250枚描いて40枚がやり直しだ。もう一度描いてみる。もう一度、もう一度と描いている内に驚くほどよくなることもある。ダメと言うことが可能性だと言うことがよく分かる。40枚もさらに学ぶことが出来ると考えた方が良い。

 そう年賀状は出してしまえば、もう記録が残せないから、投函する前に写真だけは撮らなければならない。楽観園作業で時間が取れないが、写真はどうしても撮りたい。そのために元旦に届かなくとも仕方がない。絵は250枚すべてが同じ人の絵とは思えないほど違う。

 中には残しておきたいと思うようなできの良いものもある。せめて写真の記録は残さなければならない。元旦に一部掲載する。残したからと言ってどうなるものかも分からないが、水彩画はすべて記録している。振り返る必要があるからだ。一歩でも前に進みたいからだ。

 必ず人は衰える。特別な人だけが、成長を続けて高みに達する。本当の絵が描けるとすれば、それは100歳を越えても前の絵よりもいい絵を描いているときだけだ。今描いている絵より、一万回前の日よりすこしづつ良くなれば、それはすごい絵にならざるえない。そのすごさが何だかはまるで分からないが。

 大事なことはいま全精力を持って描くこと。その全力が本物であれば、昨日よりもあしたの方が深く本当の世界にいくらかでも近づいているはずだ。一万日の間、僅かでもにじり寄ってゆけば、どこかに到達できるかもしれない。そんな気持ちで描いている。

 その行為の確認が絵なのだ。私絵画とはそういう物だ。これからの時代の芸術としての絵画の意味はそこにある。見て貰うと言うこと以前に、自分自身の成長のための芸術である。描くという行為に重きを置いた芸術の在り方。

 現代社会においては絵を描く無数の人がいる。この無数の人が行っている行為のなかに、人間の尊い行為が紙一重で隠されている。大多数の人は少しでも評価されようと、人の眼に揺らいでしまう。私だって大差ない。文化勲章を貰えば有り難いと思えるのだろう。

 しかし、自分の一生を生きるという自分自身の価値に於いては、人の評価よりも大切なことがある事を自分自身が知っている。ゴッホが行き詰まったのは人の評価が何より意味があると考えたからだ。現代の社会における絵画の意味は、個人の中にある。そう確信できれば日々前向きに描ける。

 賭け事の好きな人の多くは、賭けないと何をやってもおもしろくないという人がいる。将棋を指すにもお金がかからないとつまらないという人がいる。麻雀ならなおさらそうだろう。それと同じことで絵を描くことでも人の評価が無ければおもしろくないという人がいる。

 絵が売れるから価値があるという考え方だ。絵が投資対象になり、値上がりするから素晴らしい価値のあるモノだという考え方。これは芸術とは関係の無いことなのだが、ほとんどの人が混同している。商品絵画の時代であるから、そんな風に見えるのだが、次の私絵画の時代から見れば、浅はかな考えの時代だったと見えるに違いない。

 私の描いた絵は誰がどこでどう利用しようとまったくかまわない。イラストレーターが模様として自分が描いたと主張してもいい。まあ使い物にはならないだろうが。私自身に対する著作権というモノを一切認めない。余分なことを描いているようだが、年賀状も同じ意味で描いている。

 年賀状は絵で描く自分の最近の様子である。いま、こんな風に暮らしています。という挨拶である。ブログで毎日の様子はお知らせしているけれど、絵に現われてくるモノは、それとは違う生の日常のようなモノを反映している。文章や写真では伝わらない、実際のところが現われていると思っている。

 何でそんなにまで自分が自分がなのかと情けなくも成るが、これがどうも私の業なのだ。そうしていてやっと何かしている気になるようだ。やらなければ居られない。やり続けなければ生きている気がしない。できる限りやり続けていることを、表現して確認しないではいられない。

 まあ、嫌らしい奴である。情けない奴である。ダメな奴である。しかし、ダメでもいいじゃん。これで生きてゆくと決めて死ぬまで進むつもりだ。若い頃はさすがに、もう少し恥を感じていて、いくらかは抑えていた。しかし、もう今更どうにでもなれ。

 やりたいように、やりたいことをやりきる。これが乞食禅との覚悟の道である。ダメかどうかは100歳の時の年賀状を見て貰えば分かる。そんな年賀状の実物を見てみたいという方は、コメント欄に住所名前を載せて下さい。もちろん公開しません。必ず年賀状を送ります。正しくだらなくてもすぐには捨てないで下さい。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 冬至から始まる農作業 | トップ | 第88 回 水彩画 日曜展示 »

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

暮らし」カテゴリの最新記事