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地場・旬・自給

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 ワタミの農業観光施設の10年後に注目

2019-10-31 04:01:59 | 暮らし


 ワタミは10月7日、都内で事業戦略の発表会を開いた。今月、会長兼CEO(最高経営責任者)に再就任した渡辺美樹氏は2028年度に連結売上高を18年度の2倍の2千億円に引き上げる目標を掲げた。

 農業観光施設や自社の有機農業ブランドなどで新事業を立ち上げるとともに、フランチャイズチェーン(FC)展開の強化や海外事業推進による規模の成長を目指す方針という事である。

 新事業は既存の農業事業をベースに6次化を進める。21年には岩手県陸前高田市に農業観光施設「ワタミオーガニックランド」を開業。東日本大震災の津波の被害にあったエリアで約23ヘクタールの土地を使い、農業体験に加え飲食店や農産品の加工販売などを展開する。来場者数は年35万人を見込むという。

 自社で生産する有機農産品を「ワタミオーガニック」ブランドで販売も予定している。今後の経営目標として29年3月期に売上高2千億円(19年3月期比2.1倍)、営業利益100億円(同9.4倍)を掲げた。

 以前から渡辺氏は良い意味でも、悪い意味でも気になっていた人だ。ブラック企業だからという事ではない。オーガニック養鶏を目指したからだ。その実態は直接調べたことがある。北海道にあった農場である。その時このままでは無理だと判断した。働いておられる方は熱心で正直な人で好感が持てた。さいわい私の自然養鶏の本も読んでおられた。

 政府が企業の農業参入を補助金で推進していたので、ワタミは補助金を貰い終われば、養鶏も続かないだろう、と私には見えた。予想通りの展開でその後事業が拡大したとは聞かなくなった。そのワタミがまた、農業でしかもオーガニックでブランドを作り、展開しようというのだ。養鶏は含まれているのだろうか。

 岩手の越前高田である。渡辺氏は確かに発想力は凄いものがあると思う。これで越前高田が活性化するのであれば素晴らしい事業だ。震災復興事業の補助金目当てというようなことでないと思う。着眼点は正しいのでは無いだろうか。こうした実業で新しいことを起こそうなどという人は、今の世の中では少ないと思う。

 この事業がどのような展開をするのか、注目してゆきたいと思う。渡辺氏自身が寝る間も惜しんで働く。その考え方は当たり前のことで、悪いことではない。頑張る新規農業者は365日休みなく働く。私もそうであった。好きでやることだから当たり前であろう。

 しかし、社員が寝る間を惜しんで働く前提での事業であれば、それは問題だろう。有機農業はなかなか難しい。特に有機養鶏をやるのであれば、寝る間も惜しんでやらなければ、その技術を習得できないはずだ。私の所で研修したものでも、その後有機養鶏でうまく行ったものはいない。

 私の経験では有機農業は利害を先に考える人には、続けられるものではない。すぐ金儲けの方向に変わる。変わっても消費者には分からないからだ。口先だけのインチキの平飼い養鶏になってしまうのが一般的ある。これは大規模養鶏よりも悪い卵だと私は思っている。

 有機養鶏には3つの原則がある。1,2種類の嫌気性と好気性の発酵飼料。2,放し飼い。3,雛からの飼育。拝金主義で養鶏をやる人にはこの簡単な3つが実現できない。

 自分の養鶏場をやる感覚で雇用した人に働いてもらえば、ブラックという事になってしまう。ひたすら働いて、道を切り開くという考え方を、自分の企業で働く人にも持ってもらいたいというところまでは正しいと思う。問題はすべての働く人が自営業であればその通りである。

 またその養鶏の道は実に面白い。やりがいもある。楽しくて寝る間も惜しくなる。しかし、雇用されてやる人間にとってもそうであるかが、気になる所なのだ。渡辺氏がその所の工夫が出来るのかどうかにかかっているのだろう。

 自営業者は、農業者も同じであるが、最低賃金もなければ、労働時間の制約もない。すべては自分の問題であり、自分の価値観で生きている。だから私のような人間でもやれた。

 世田谷学園で働いていたことがある。美術クラブの顧問もやっていて生徒が帰り終わるまでは学校にいた。勤務の日は朝8時15分から夜7時まで学校にいたのだろう。ブラックという事になるのだろうか。そんなことは少しも考えなかったが。おもしろいからそうしていたのだが、そういう事が許されなくなっているのだろうか。

 ワタミ農場では作物や家畜の都合で働くのではないだろうか。それが農業者としては当たり前のことだ。だから面白いのだと思う。切りなく家畜とかかわらないで、畜産の何がわかるかと言いたい。鶏の観察に終わりは無い。

 動物を飼育するという事ならすべて同じだろう。トキ保護センターの人が、勤務時間だけ働いていたとは思わない。そうでなければトキの復活はないはずである。ある畜産試験場で天然記念物の日本鶏の飼育についてお聞きしたことがある。とても趣味の人の飼育にはかなわないというのだ。寝どこまで連れてゆき世話をしているようなことは、給与をもらって働いている人にお願いすることは出来ないといわれた。

 同じことを石垣島でも聞いた。国の肉牛農場が昔あったのだそうだ。ここで優良の系統の子牛を清算して、農家に提供しようとしたらしい。うまく行かなかったので、今はない。本当の畜産は給与をもらう人ではできないよと言われていた。

 養鶏を始めてからは、寝ても覚めてもニワトリの飼育法であった。車で移動中は常に、ニワトリの餌になるものを探していた。田んぼに人がいれば、くず米はないかと聞き歩いていた。

 たぶんこの点で渡辺氏の考え方は私とは、大きくは違わないのだと思う。問題は企業として取り組める仕組みが作れるかである。私の想像では無理だと思っている。しかし、渡辺氏は突破する仕組みを考えるかもしれないと、今後に期待する。管理職ならば、エクゼクティブ何やらで好きなだけ働いて、歩合給になるというような仕組みなのか。

 私はある焼き鳥屋企業から、伊豆に素晴らしい場所がある。高い給料も提供する。だから自然養鶏農場をやってくれないかと言われたことがある。しかし、給与で働くのは私には無理だと思いお断りした。

 そういう意味では、30年前渡辺氏と出会っていれば、越前高田で自然養鶏をやっていたかもしれない。発想が同じブラックだからである。ただし、給与という保証を貰ってはやれない。自分の人生をかけて試みてみたいかどうかである。たぶんこの考え方は渡辺氏なら理解できる気がするのだ。

 渡辺氏を評価しているわけではない。企業労働者というものと、自文のために働く人間の違いを峻別できない社会だから、日本が衰退してゆくという現実である。ノーベル賞を旭化成の社員の方が受賞した。この方もきっと研究をされていた時には勤務時間など関係なかっただろう。

 ホワイト企業からノーベル賞が出る仕組みが作れるかである。この発想がワタミグループという事になる。悪用ではなく、一人一人が大切にされるための雇用の中で、時間など忘れて取り組める仕事が作れるかであろう。
 

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白保の宇田川さんのお宅で、金城弘美さんと仲田かおりさんの唄を聴く事ができた。

2019-10-30 04:35:07 | 石垣島

 和やかな唄の夕べであった。仲田かおりさんと金城弘美さんという、石垣を代表する唄者の唄を、その地元である白保で聞くことができた。

 絵を描きに行く帰り、自動車で石垣サンサンラジオを聞いている。思わぬ案内があった。白保海岸の清掃をして、その後お二人の唄を聴くことができるということである。なんとも素晴らしい話なので、早速出かけてみた。海岸の掃除も楽しみだし、唄を聴くことができるのも、余りある楽しみである。

 海岸は清掃はしなければと前から思っていたところだった。一人でやっても良かったのだが、みんなでやれるというのは又別の楽しみもある。絵を描かせていただいていている。掃除ぐらいしなければ罰が当たるというものである。

 何でこんな良い活動があるのかと思う。おききした訳でもないので、間違いはあるのかもしれないが、分かる範囲で忘れないうちに書いておきたい。違っていたら又訂正することにする。

 ちょうど一年前、宇田川さんという、浅草の方が白保に家を作った。これはたまたまお隣にいた方からの又聞きである。その落成記念に唄会を開いたらしい。おとなりに座られたかたはいかにも東京から越して見えた方だった。話がさらにそれるが、まずその方のことを書貸せて貰っておく。

 名前も知らないその方は会社を退職してからやることもないので、困り果てたのだそうだ。川崎のあざみ野当たりに住まわれていたということである。葉山の方に越せば、もう少し暇を持て余さないで暮らせるかと考えた。房総の方や茨城の方も探したという。私が小田原だと話すと、そうそう小田原にも行ってみた。と言うことだった。

 結局の所、納得できる場所が無く、最終的に石垣に引っ越すことにしたのだそうだ。5年前のことだ。唄を聴くのが楽しみで、あちこち唄を聴き歩いているらしい。三線も習いに通ったのだが、ダメだったそうだ。古典民謡の先生について行けなかったらしい。まるで私の5年先を行っている。

 来て一番つらいのは暑さだそうだ。暑い間は外にもでない。暑さとの戦いだと言われていた。なんとかこの暑さだけには耐え無ければならないと、苦しそうだった。

 私の場合、この点では暑い時間は絵を描きに出ている。日陰で風に吹かれていると、なんと石垣の夏は過ごしやすいのかとほっとしている。山の上の日陰で風に吹かれていれば、暑い夏も又いいものだ。夜は冷房を入れて寝るほか無い。

 そもそも夏の百姓仕事で暑さには耐久性がある。石垣の夏が暑いとは少しも思わないので、この点では引っ越し5年先輩とは違う感想である。トゥーラバーマ3連夜にも行ったそうだ。夕暮れコンサートはいつも行くそうだ。私とほとんど同じだったようだ。私が八重山民謡の蘊蓄を語ってしまったので、すっかり引かれてしまった。申し訳ないことをした。



 宇田川邸の広い庭のある家で、大勢の人が集まって唄を楽しく聴いて、盛り上がった。白い雲が名残惜しげに、屋根の上で唄を聴いている。島の雲はいつでもいい形をしている。

 そこで又聞きの話に戻るが、今回は2年目なので、ただ唄を聴いて飲むというのも何だから、海の清掃をまずやることにしようとなったのだそうだ。その後ご苦労さま会の楽しみということで唄会を楽しもうということらしい。その意気やよし。

 前回は地元の新幸人さん、金城弘美さん、仲田かおりさんに声がかかったらしい。今年は、新幸人さんが都合でこれなかった。皆さん宇田川さんは親しくされているようだ。そう思うと宇田川さんは一体何者なのかと思うが、私には宇田川さんというお名前すら、間違っているのかもしれないという範囲である。50前後の大人の風格のある方だ。一緒に掃除をしたときに地元の方では無いなと分かった。

 なんとも美しい、沖縄家屋である。広い庭には鍾乳洞がある。鍾乳洞と行っても、クースの保存のために、作ったものらしい。なんとも風流なことだ。巨大な石組みのある鍾乳洞である。そこで4年もののクースがお祝いに出た。残念ながら、車なので飲むことができなかった。みんなが美味しい、美味しいと飲んでいたので、うらやましい限りであった。



 美しい白保海岸である。日本一の珊瑚の群落がある。海岸は珊瑚の海岸である。まだ砂にはなっていない、珊瑚のかけらが広がっている。そこを清掃させて貰った。ほんの少しだけれど、役に立ったというだけで嬉しかった。

 やっぱり、石垣にもごみを入れるボランティア袋があるようだ。役所が提供してくれたらしい。私も、この袋を貰って置いて、時々海岸清掃をさせて貰えればと思う。何かしないと、石垣の風景様に申し訳が無い。自分の袋でもいいのだが、家のごみとして出すと、ゴミ袋が多くて持って行ってもらえないような気がするのだ。

 海岸にはマイクロプラスティクの基になるプラスティクごみが無数に落ちている。一時間ぐらいの間に、軽トラ一台では積みきれないほどのごみが溜まった。多分掃除をしてもきりの無いことなのだろうと思う。それでもやらない事には始まらない。

 許してくれるなら、ブラステックごみを海岸で燃やしてしまいたい。そうすれば、一人で100人分くらいの作業になる。環境活動でそんなことをするわけにも行かないとは思うが、正直なところ、燃やす以外に解決法は無い。

 プラスティクのごみ処理が旨く回らないのであれば、燃やすべきだ。燃やすとしてもいくらか人体に悪影響はあることだろう。それでも海にこの調子で広がることを思えば、燃やしてしまう方がまだましである。

 屋根の上にはオオコウモリが楽しげに行ったり来たりしていた。全く怖がる様子も無く。自由な楽しんでいるような飛び方であった。コウモリは羽音無く飛ぶというが、オオコウモリはバサバサ音を立てて飛んでいた。フルーツコウモリでエサがフルーツだから音を立てても関係ないのかもしれない。

 地元の唄者が、子供の頃からの知り合いの中で唄を唄うということは、又別の素晴らしさがあるのだと思う。仲田さんも、金城さんもいつも以上に素晴らしかった。存分にその人の唄を唄われていた。

 どこかゆったりとしているのだ。実力のあるお二人なので、力みが無いとさらに良さが出るのかもしれない。二人の個性が強く出た唄会だったとおもう。


 宇田川さんの家は、沖縄の古民家風のものだ。幅5軒の赤瓦の家。広い庭に向かって、その縁側から張り出して舞台があつらえてある。ひんぷんの前がみんなの席である。

 テーブルが5つ並べてあり、その両側に並んで座れるようになっていた。お菓子や飲み物を用意してくれてある。何という接待であろうか。唄を隅の方で聴かせていただければ充分だったのだが、ずいぶん贅沢な時間を過ごさせて貰った。

 これからは恒例にできればと言われていたので、来年も期待をしてしまう。今度は一日ごみ拾いをさせて貰いたいと思う。何か手土産くらい持たなければ申し訳が無いだろう。

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マラソン札幌開催で何が問題なのか。

2019-10-29 04:27:31 | Peace Cafe


 オリンピックはスポーツ大会である。世界中の運動選手が集まって競技を行う場だ。東京の夏が暑すぎてマラソンができない。当たり前すぎることだ。今頃になって騒いでいることがそもそもおかしい。選手のことが優先であれば、もめていないで、一日でも早く結論を出すべきだろう。

 世界中の青空が東京に集まりました。前回の東京オリンピックでは、10月10日の空模様まで、みんなが心配したものだ。世界中の暑さが東京に集まりましたでは、選手がかわいそうだ。

 東京の8月がスポーツに適したよい季節だと主張したのは東京オリンピック誘致委員会である。嘘をついた付けが、いよいよになって問題になっているに過ぎない。あの「お・も・て・な・し」は選手のためでは無かったようだ。経済効果の方のおもてなしだったようだ。

 小池都知事の態度は選手のベストコンディションを考えていないということだろう。誰ひとり、東京で世界記録が出るとは考えないだろう。暑いのは分かっていながら、スポーツのベストシーズンとして発言したのは、虚偽発言。原発はすべてがコントロールされていると強弁したアベ発言も虚偽発言。斯うしてオリンピックが東京に決まったのだ。

 オリンピックというスポーツの世界大会を行う理由は、主催者の利己的野心が膨らんだために過ぎない。経済効果やら、国威発揚やら、スポーツとは別の要因で、オリンピックがいじくり回されている。一度選手個人の問題に立ち戻るべきだろう。そうすれば、IOCも夏開催を求めるはずがない。

 ほかの競技にしてもやむ得ず暑い中でやることになる。東京の夏の暑さは石垣島どころで無い。東京の夏の暑さは都市熱で、世界でも暑さでは際だった街のひとつにちがいない。過去一番熱いオリンピックになるだろう事は、誰にもわかっていたことだ。

 IOCをふくめて、世界中がスポーツを金儲けの手段にしている。選手も職業化している。プロスポーツ選手がオリンピックに出るようになった。マラソンの日本記録には1億円が出る。馬にニンジンでは無いのだ。前回の東京オリンピックではプロ選手は出ることができなかったのだ。50年前の世界には崇高な理想主義を持った時代があったのだ。

 いまや世界は拝金主義に様変わりだ。弱くたっていいじゃ無いかとは誰も言えない。東京オリンピックの時に、フランス人がスポーツの強い人は頭が悪いのでは無いかと言って、問題になったことがあった。当時のフランスはスポーツが弱かった。負け惜しみのように聞こえた。

 建前を捨てた拝金時代では、コンピューターゲームにスポーツであるかのような名前を付けている。コンピューターゲームをオリンピック種目に取り入れようという動きすらある。市場が極端に大きいからである。

 Eスポーツがスポーツであるとは到底思えない。スポーツの言葉を禁止すべきだ。Eゲームでいいだろう。スポーツは健全な精神と身体のために行うものだ。Eゲームなど不健全極まりない。指先の反射神経を争うようなものをスポーツというのであれば、今にパチンコもスポーツということになりかねない。これは日本のコクギのようなもので、参加国が無いか。

 人間はどこかで歯止めをかけなければダメだ。現代社会の拝金主義は健全な精神とはちがう。親が、子供に頑張ってパチンコをやりなさい。いやならEゲームをやらせますよ。というようなことになって良いわけが無い。お金がすべてでは無いということを、オリンピックでは主張すべきだ。

 共産圏と資本主義圏のイデオロギー競争があった。アマチア選手だけでは、ソビエトや東ドイツの国家育成選手には勝てないということになった。資本主義が優れている事を証明しようとして、プロ選手のオリンピック参加ということになった。

 今思えば、共産圏の選手の多くが薬を使ってまで、国威発揚に利用されていたのだ。これではお金と薬の戦いのようなものでは無いか。強くなれば、お金になるということを目標にして何が悪いのだ。その方が強くなる。強くなるためならば薬の力だって借りる。この異常さが度を超したのだ。

 何のためのスポーツなのかともう一度考え直してみる必要がある。ラグビーのワールドカップの日本チームは素晴らしかった。一様に選手が日本のために戦ったと口にした。韓国の国籍の選手が日本チームの一員として、素晴らしかった。確かに、自分のためだけであれば、あれほどの力は出ない。それほどに見事であった。

 日本のための言葉の背景にあるものが、ラグビーの選手の所属国の認定制度にあるような気がする。日本国籍が無くとも以下の条件で日本代表になり得る。

 出生地が日本、両親または祖父母のうち1人が日本出身、日本に3年以上継続して居住している(2020年12月31日からは、5年以上の条件に変わる)日本国籍を取得後、7人制(セブンズ)日本代表としてセブンズワールドシリーズに4戦以上出場、日本への累積10年の居住いずれかの条件で、日本代表になれる。

  こうした条件の中日本人では無い多くの選手が日本のために頑張ったと発言していた。日本人として嬉しいことではあるが、国というものにそれほどこだわらなくともいいのでは無いかという気もする。この背景にはラグビーの実業団チームの存続問題もあるきがする。

 オリンピックを提案したクーベルタンが考えたアマチアリズムはいとも簡単に消えた。古代ローマのオリンピックも同じ運命だったというから、人間のどうしようもない姿なのかもしれない。これがどうしようも無いことだと気づかなくなったところに問題がある。

 東京都の小池知事がマラソンを東京でやりたいとIOCにいちゃもんをつけているが、見苦しいことである。東京がすべてを独占しなければならない理由はどこにもない。札幌の人にオリンピックのおすそ分けを喜んでもらえばいいではないか。

 なんでも東京で独占したいなどという気持ちはあさましいだけだ。この際、暑さが気になる競技は涼しい場所にするのは当たり前すぎることだ。誘致の時についた嘘が問題にされたら恥ずかしいだろう。札幌でまずいという選手も、見る人も世界中で首都圏以外の人には居ない。

 マラソンと競歩は当然のことだが、トライアスロンも同様ではないだろうか。東京の汚い海で泳ぐという点でも問題ありだ。この際トライアスロンと自転車のロード競技は震災復興を記念して岩手の陸前高田開催というのはどうだろうか。

 本来であれば、東京都から申し出てしかるべき案件だろう。自転車競技の相模原の予定の道路が豪雨で崩壊したという。直前になってまたこういうことが起きれば、厄介なことになりかねない。

 そもそもドーハの世界陸上が問題だった。ドーハには申し訳ないが、夏にスポーツ大会を開催できる条件の場所では無い。そうか一年中夏なのか。それでもドーハは豊かな国だから、世界陸上の開催ができたということなのだろう。室内世界陸上大会ならば良かった。

 ドーハならば一周一キロの冷房付きの室内競技場が作れるかもしれない。マラソンは42,195周である。普通の競技場の観客席の外側の高いところに、一キロの周回コースをつくる。映像を旨く使えば、マラソンの2時間が目の前で楽しめる。

 東京都は経済の波及効果ばかりで、選手のことは考えていないということに見られてしまう。ここは本来の趣旨に立ち戻り、選手にはよりよい環境で力を発揮して貰うことだ。
 

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自衛隊を国土保全隊に変えよう。

2019-10-28 03:59:30 | Peace Cafe


 大災害が続いている。今後さらに自然災害は強大化すると考えざる得ない。災害の都度自衛隊が出動しているわけだが、初めから自衛隊に自然災害の専門職としてかかわってもらいたいと思う。国民の命は外国からの侵略よりも、自然災害の危機に直面している。

 今回千曲川の堤防が決壊して、大きな水害が起こった。よく絵を描きに行く場所だったので、詳しく知っているつもりだ。それほど丈夫な堤防にも思えなかった。堤防の中にも畑などがあって他には無い雰囲気がありとても美しい場所だった。

 上流部の雨が一気に来たらしい。上流部の保水能力が弱くなっているのではないだろうか。山の管理が十分にできていない気がする。上流部にダムがあっても、ダムの放流ということにすぐなる。

 山の樹木の日常管理をしないで、砂防ダムを造るという発想では限界がある。地域に置いて、山の管理を日常的に行う力が失われてきている。それが、今回のような水害につながっている。自然林で覆われた豊かな山ができれば、山の持つ保水能力によって土砂災害も、川の氾濫もある程度防げる。

 さらに山間地の田んぼの保水能力が失われている。条件不利ということで、山間地の棚田のような場所は放棄され荒れ地に戻っている場所が多い。上流部の田んぼの耕作を、保水機能の向上の観点から、奨励するような事も必要なはずだ。

 以前土砂災害危険地区のことをここで書いたことがある。それに対して、そんなところに住んでいる人が悪いというコメントがあった。つまり国行政は指定まですればいい。住んではならない場所に住んでいる被害者が悪いという考え方である。このひどいコメントを災害が起こるたびに思い出す。

 安全な場所だったところに住んでいたはずだった人が、ある日危険な地域に指定される。安全な場所だっあはずの原発の周辺部が人の住めない場所に変わる。そして、想定外であったということになる。何百年も人が暮らしていた場所で、災害が起きているのだ。

 今後強大化する自然災害を考えると、日本で災害に合わない場所などあるとは思えない。直接被害にあわないとしても、通信が途絶して、救急車が呼べないで被害者になるかもしれない。災害が起きた場所に住んでいたやつが悪いで、済ますなば政府などいらない。

 しかし、政府の災害対策を批判したところで、一義的には命は自分で守らなければならない。自助、公助、共助と言われるが、命の危険なときにはまずは、自助である。公助や共助が無い前提で準備をしておく方がいい。

 住んでいる人の避難という問題がある。明確になってきたのは、危ないところに住んでいる人は、自分で非難する方法を考えるべきだということだ。行政が準備してくれている避難場所は、住民の数の100分の一に満たない。だから、99%の人は公の避難所には逃げないことになっている。

 前回も触れたことだが、舟原地区の一時避難所である、フラワーガーデンに行ってみた。レベル5で避難指示が出ている。この状況で鍵がかかっていたのだ。これでは一時避難はできない。つまり、舟原に住んでいるレッドゾーンの人は早めに自分で避難先を見つけておく以外にない。むしろこのことを行政は住民に正直に伝えて置かなければならない。このことを書いたときに、行政の人からのコメントと思われるものがあった。小田原に2000もある一事避難所に行政は関わっていられないというものだった。つまり行政には鍵は開けられないという宣言である。

 この前の豪雨ですら、舟原のレッドゾーンに住んでいる人が避難をしなかった。少なくとも避難所では誰にも会わなかった。箱根に1000ミリを超える雨が降っているのだ。幸いのことに雨の中心が、東斜面でなかったというだけの幸運である。もしこの豪雨が東斜面であれば、必ず人的被害が出たはずである。

 今まで大丈夫であったのは幸運と考えるべきだ。年々自然災害は強大化している。次は不運にもということになると考えておいた方がいい。その時のためにいまから自分が逃げる場所を自分で探しておくべきだ。安全と思われる知人宅がなければ、一晩ホテルでもいい。

 あるいは車を早めに安全な駐車場に止めて、嵐が過ぎるのを待つのもいい。小田原ならば、駅横の市の駐車場なんかよさそうだ。コロナの湯の駐車場でもいい。諏訪の原公園の駐車場も雨だけならいい。安全な場所を日頃から見つけておくべきだ。

 千曲川の堤防決壊に国土保全隊が立ち向かうというようなことはできなかったのだろうか。日頃から、国土保全に直接的に対応する組織が必要になっているのでは無いだろうか。水は突然堤防を越えたわけではない。堤防の弱いところから、決壊したのだ。

 自然災害にやられるままでいいのか。ただ手をこまねいてみているほかないのか。日頃から、堤防をしっかりさせるということはあるだろうが、水が増えてきたときに、危なくなった弱いところを補強するというような作業はないのだろうか。

 自衛隊を国土保全隊にしたらどうだろうか。自衛隊は災害がおきてから、人命救助に協力しているという立場だ。何か善意で協力してくれているように言われる。そうではなく、災害救助を主たる業務にした方がいい。

 自衛隊員は25万人いるそうだ。これは戦前の日本軍と同数だという。そのうち兵隊という数は5万人。幹部が5万人。中間管理職相当が15万人。かなりアンバランスと言われている。事務職系統が今の防衛には必要ということとも思われる。現場で活躍できるのは10万人程度しかいないのかもしれない。現代の戦争というものはそういうものかもしれない。

 消防署職員数が16万人消防団員の数が90万人。専門職が16万人。非常勤が90万人ということのようだ。この数を見ると消防団員制度というものが、日本の災害対応の中心にある。地域のことを一番熟知している人達である。

 ただ消防団員の多くは引き受けざる得ないと考え、地域を守るというボランティア精神で担ってくれている。これから地方が衰退する状況で、都会と同様に専門の消防職員に任せる体制移行せざる得ないのだろう。

 地方の防災は今後手薄になっていかざる得ない。消防団員の数は減少を続けている。ここに自衛隊員25万人を役割として充当せざる得ないのではないか。消防団員が非常勤であり、いざという時に駆け付ける非常勤公務員という形である。同様に自衛官はすべから、国土保全隊員として、いざという時に駆け付ける形にする。

 政府は災害対応に万全を期すと、力強く宣言をしている。口先だけで無く、具体的に動かなければならない。災害対応はすでに手薄になっている。ボランティア依存である。地方の災害対応能力としての自然環境は年々衰えている。地方の消防団員も手薄になり始めている。

 早急に改修すべきという堤防が、改修できないで居るのが現状である。土砂災害危険指定はしても、何も対応できないでいるのが現状である。万全を期す政府は、災害が起こる前にやるべき事をやる政府だ。

 強大化する災害対応のためには、自衛隊を国土保全隊に変える必要がある。
 
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またしても、千葉で豪雨災害が起きた。

2019-10-27 04:10:54 | 暮らし
ゆらてーく市場も品が限られてきている。  

 千葉でまた土砂災害である。19号台風の被害が続いている間に、連続である。前回以上の被害になっている。川の氾濫もあった。ダムの放流ももう少し雨が続けば行われたところだった。台風21号の影響である。亡くなられた方が多数おられる。残念、無念なことであろう。焼香。

 最近の自然災害の多発を考えると、他人事には思えない。今や日本のどこに住んでいても、こうした自然災害に突然見舞われるかもしれない。だれしも考えなければならない状態になっている。自分のことは自分で守らなくてはならない。

 九州で豪雨災害が続くと思っていたら、千葉から東北になってきた。豪雨災害が北上している。気候変動がいよいよ表面化してきている。明確に地球の変化を考える必要がある。人間の暮らしが地球の環境の調和を破綻させてしまった。気候は過激化してきている。さらに激しいものになるに違いない。

 人間の欲望はとどまるところを知らない。CO2の削減など期待できない。競争に勝つためには、CO2削減は忘れている。もっと楽をしたい。もっと金儲けをしたい。もっともっと。足ることを知らない人間。どれだけ自然災害が増加しようと、暮らしに節度を失う方向で進むと思うより無い。

 気候変動で農業は大変困難な状態になっている。農業をやめる人が増加することになるだろう。さらに農地は放棄されてゆく。豪雨の一方で砂漠化は広がり、食糧危機は刻々迫っている。自分さえ良ければと思っている内に、取り返しのつかないところまで地球は行くのだろう。

 食糧危機は他人事ではなくなっている。自分の食料はできる限り自分で確保し他方がいいというところまで行く。食糧自給の確立は、とうからず命の問題になる。誰にも考えて貰いたいことである。

 千葉の豪雨は一時間に100ミリを超えて起こっている。小田原では時間雨量72ミリが過去最大である。その時にすでにがけ崩れや、河岸の崩落が起きている。もし、上流部で100ミリが降れば、人家が押し流されるような災害が起こる可能性が高い。

 先日の箱根豪雨は24時間雨量が1000ミリを超えた。もし、あれがもうすこし東斜面でおこったとすれば、久野に100ミリの雨は必ず降ったのだろう。他人事ではない状態である。近々にもそうした災害が想定できる。想定外では無いのだ。

 避難をどのようにするかをそれぞれが現実のこととして考えなければならない状況である。豪雨が降ったらどうするかを他人事ではなく考えておかなければならない。台風が来たらどうするかを決めておく必要がある。

 避難用品とか食料のこともあるが、まずは避難場所を自分で確保すべきだ。行政の示す避難場所は小田原久野では久野小学校である。1万人の住民に対して、1000人しか入れない場所である。しかも、舟原から歩いてゆくことになっている。

 確かにみんなが車で行くと大混乱である。しかし、3キロ以上ある。豪雨の中川沿いの道を久野小学校への避難は無理だと考えている。自分で避難場所を考えなければならない。自分の命は自分で守らねばならない。

 先日の豪雨の時も行政は舟原地区の一事避難所であるフラワーガーデンの鍵を閉じたままであった。行政に鍵を開けることができないのであれば、自治会長に鍵を渡すべきだ。そもそも公民館の一事避難所はそういう仕組みである。

 行政に関わっていても埒があかないので、豪雨の場合車で諏訪野原公園に行くことにした。広い駐車場がある。もし台風で風で飛ばされる状況だとすれば、小田原駅のそばの駐車場に行く。コロナの湯の駐車場もいいと思っている。

 車には常に避難用品を積んである。食べ物も常に積んである。水もある。いつでも車の中で寝れる状態である。あれば便利だろうというものは常に車に乗せてある。避難用品は一通りそろえた。ガソリンは常に予備が置いてある。

 避難場所で一番の問題はトイレである。水が止まる可能性がある。電気が止まる可能性がある。穴を掘り、トイレを作る。野外の簡易トイレをつくる。今の子供は水洗トイレで無いと排便ができないらしいから、練習をしておく必要があるだろう。

 穴は一メートル以上掘る。上に板を渡しトイレにする。周囲にはブルーシートを張る。ブルーシートとロープ、トイレットペーパーは車に常備してある。穴掘りのシャベルが乗せてなかったので、今度シャベルも乗せておく。

 石垣島の場合はどうであろう。台風には万全の家にした。心配な災害は地震の時の津波である。震度5以上の地震があればすぐに歩いて、石垣小学校へゆく。防災ザックは用意してあるので、すぐに背負って歩いてゆく。この場合、一番気お付けるのはブロック塀である。車での避難はしない。ブロック塀は必ずどこかで倒れると思われる。そのとき車では立ち往生になる。

 石垣島での台風や豪雨については家にそのままいるつもりだ。家が一番安全と思われる。家には3日ぐらいは停電や通信途絶が起きても問題がないような準備はしてある。津波の場合、時間の余裕があれば、アートホテルまで避難するつもりだ。

 アートホテルのある高台まで行けば、津波も一安心だろう。家から一キロ。一〇分程度である。早い津波は七分だそうだから、状況によっては途中の石垣小学校の屋上である。心配なのは屋上に上れる人の数は300人程度という点である。

 夜暗闇の中、小学校まで歩けるかも、体験してみた。懐中電灯があればなんとかなる。やはり、ブロック塀が倒れている場合を注意しようと思う。自分の命は自分で守るほか無い。
 

 
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即位の礼と象徴天皇制の将来

2019-10-26 04:03:02 | Peace Cafe


 「即位礼正殿の儀」が、皇居、宮殿で行われた。天皇は、上皇陛下について「常に国民の幸せと世界の平和を願われ、いかなる時も国民と苦楽を共にされながら、その御心を御自身のお姿でお示しになってきた」とし、「国民の幸せと世界の平和を常に願い、国民に寄り添いながら、憲法にのっとり、日本国及び日本国民統合の象徴としてのつとめを果たすことを誓います」と述べられた。

 天皇制に関して、私の気持に治まるところまで来ていない。一番は天皇には人権が無いというところである。すべからく人間には人間として生きる権利がある。皇室の人にはそれが、生まれながらに無い。そうした日本人にいるということが腑に落ちない。

 特別な人というものを作ってしまう憲法を、どう受け止めたらいいのか、難しいところがある。もし憲法を変えるとすれば、一番が天皇制の廃止ということだろう。憲法審査会では議題にしないのだろうか。

 日本人にとって天皇という存在は尊いものと考えている。尊重もしている。天皇を評価さえしている。日本人は稲作によって形成された。天皇はその稲作の五穀豊穣を祈る日本人の思いを統括する神官という意識がある。今年もありがたいことに台風の合間を縫って収穫したお米を食べている。お米への感謝の思いが私の日本の根底にある。

 現憲法の天皇制は天皇の政治利用である。政治利用を禁じながらも、結局の所政治利用をしている。韓国の文大統領は天皇に手紙を書いたという。その行為自体が日本人にはなんとも言えない違和感をもたらす。ここに政治利用の自己矛盾があるのだろう。

 即位の礼には海外からも多数の来賓がいらしてくれた。そのこと自体が日本外交なのであろう。日本の総理大臣が行う首脳外交とは別の意味で、日本という国との親愛の情を深める役割になっている。日本の平和主義を直接伝える機会にもなっている。良いことであるが、これも政治である。

 天皇の外交的行為を日本のためになっていると思う。現実の外交的努力として評価してもよいものだ。昭和天皇も、平成天皇も、令和天皇も、靖国神社には参拝しない。そうした正しい姿勢も持っている。それであるとしても、天皇と言う特別な存在を造だし、委ねる形は望ましいとは言えない。

 保守政権は天皇の存在を、自分たちの政権の錦の御旗に掲げているかのごとくである。明治帝国回帰の象徴としての天皇の政治利用がなされようとしている。そのことには、私には恐怖心を伴って感じられるところである。

 令和の即位の礼に関していえば、簡素なものを天皇は希望していたようだ。しかし、日本の国威発揚の場として必要以上に大げさなものに政府はしたのではないか。昭和天皇が戦後目指した、日本国の象徴という意味も、平成天皇は継承した。たぶん、令和天皇も同じ道を歩もうということのようだ。

 皇室は現実的には女系天皇を認めない限り、途絶える可能性が高い。そこで、女系天皇を認めるべきだという人が出てきている。私はそれでは天皇という神官の意味が無くなると考えている。男系天皇としてきた本質は宗教的な意味合いである。神聖を失うのである。

 確かに現代社会に置いて、第2婦人、第3婦人は無理なことだろう。このあたりが、天皇と言う神聖な存在の終焉ということなのだと思う。少なくとも、天皇の神聖が変わるということなのだろう。そのときをもって、憲法に定める象徴天皇制の終わるときで、良いのではなかろうか。

 江戸時代における天皇のあり方が、最も優れたあり方である。明治時代に帝国主義に天皇が利用された。本来の天皇は文化を持ってその存在の意義を示していた。天皇は京都に暮らすべきだ。それは天皇を稲作の神官として、尊重するからである。修学院離宮に住まわれる事が望ましい。それが天皇と言う存在が政治利用されないためでもある。

 日本人が日本人であることを失い始めている。それは集落共同体における稲作によって、培われた日本人の創出が失われたからである。水を共同で管理し利用する暮らし。水土を司る先端技術者たる天皇家の存在。これが栽培不可能な場所にまで、稲作を携えて移動した日本人の姿の背景にある。

 集落共同稲作を継続することで日本人は生まれた。そして、稲作が個人で行われるようになって、日本人であることが終わろうとしている。その個人で行う稲作すら終わろうとしている。あしがら農の会で共同の稲作を続ける中で、共同ということを実感してきた。

 日本の文化の原点は稲作にある。天皇も稲作との関係で存在している。日本人はこの天皇の重要な意味を考えることすらできなくなっている。個人主義の問題である。各国の制度と比較するのも必要ではあるが、重要なことは日本教の神官である天皇の意味である。

 

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石垣島の蘭栽培 経過観察中

2019-10-25 04:29:22 | 石垣島

 石垣の蘭栽培の途中経過であるが。この暑さに蘭がどうなるか少し心配な状態である。ナンプ病が出ている。消毒はしたくないので、どうなるのかを観察している。もし難しいようならば、パフィオの栽培は止めようかと考えている。

 私がやりたいと考えているのはパフィオペデュームの中のブレキペタラム亜属である。実験的に少しはじめた、パフィオデレナティーはやはりナンプ病が出てきた。デレナティーはベトナムのランなのだが、暑さに弱いランだとは思わなかった。ベトナムにも高地はあるのだろうか。他のラン全体は元気で成長は続けている。成長は早い。

 とくに、石垣に自生しているようなランは当然のことだが、少しの心配も無いように生育している。こんなに元気という経験は無かった。何しろ、2月も家を空けていてもなんとかなっている。


 へごに付けたものが特に調子が良い。山北でやっていた頃はへごに付けてもなかなか活着しなかった。石垣の湿度の高さが、ランの根にはちょうど良いのだろう。気根が空中湿度で成長しているのが分かる。日照の加減が難しい。石垣の日照の強さは相当のものである。
 
 ベラチュラム、コンカラー、ゴディフロエ、リューコキラム、ニビューム、アンソン。6種。ここに加えれば、デレナティー。これらが育ててみたい蘭だ。その種のごく普通の株で良い。選別個体がどうこうという趣味はない。ただ亜種というのか、かなりの違いのあるものもあるのでそこまでである。やるとしてもそこまでである。


 
 これはロスチャイルディアナム。パフィオの中では一番大型のものだ。原生地では一メートルを超える株もあるそうだ。この株で70センチ以上ある。植え込み材料にサンゴを入れてみた。

 調子は良さそうである。この株は台湾での実生株と言うことである。この調子ならば咲くかもしれない。東京に居た頃一度咲かしたことがあったのだが、山北に移してから枯らしてしまった。かなり日照に強いランのようだ。少し黄ばんではいるが、葉はしっかりしていて厚い。
 

ゴディフロエの自生地の状態。崖地の岩の割れ目のような所。

 生育地はタイ、ビルマ、ベトナムの海抜300から1600メートル。石灰岩地域.広く東南アジアから雲南省にまで分布し、島嶼部に多くある。海風の当たるような石灰岩の崖にあるらしい。
 
 次に興味を引かれるのが、コキオペタラム亜属のビクトリアレギネ、モケッティアナム、リーミアナム、プリムリナム、グローコフィラム、チェンバーレイニアナム。6種である。
 
 生育地はスマトラ島、ジャワ島、海抜200メートルから2000メートル。ビクトリアレギネが2000メートル。そのほかはそれほどの高所での自生ではない。石灰岩の上に腐葉土がある。
 
 石垣の環境から考えると、ブレキペタラムに絞って栽培するのがいいのではないか。何故かこの好みは蘭をはじめた、20代からほとんど変わらない。好きなランに変わりが無いので驚く。
 
 50年前とパフィオの愛好家の世界が何か変わったのかというと、ほとんど同じである。ドクター田中のホームページにいろいろ最近の事情が出ている。台湾の蘭園のことや原生地の様子なども掲載されている。参考になる。

 インターネットでこういうことが調べられるというところが、50年経過して一番変わったところではないか。昔は直接話を伺わない限り、自生地のことなど少しも分からなかった。


 コウトウシランである。普通の花は赤紫なのだが、これは黄花である。良い花だったので、思わず購入した。このランも強い光で良いらしい。パフィオの日除けにしようと思っている。

 ナリヤランはその奥にあるが、これも次々と咲いてくれた。白花とアカバナがあるのだが、白花の方が元気である。普通アルバの方が育てにくいものだが、この花はそういうことも無いようだ。


 お隣との境にあるブロック塀にプラステックネットを張ってみた。ネットに止めるようにしてある。このベイジュに塗った柱は、駐車場の柱である。作るときに、下に一段棚を作って貰った。ランをのせる台である。

 風が強いから、置いてあるだけでは飛んで行ってしまう。プラステックネットに針金で引っかけるようにしてある。ネットは柱とブロック塀の間にはめ込んである。日除けとして、パッションフルーツを置いた。蔓を上手く伸ばして、日除けの役目をして貰おうと考えている。

 琉球セッコクというものもある。これは貰ったものだ。白い花はすぐ着いたのだが、その後ほとんど動かない。枯れるというわけでも無いのだが、変化も無い。ちょと様子が分からないランだ。 
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石垣島に引っ越して1年が経とうとしている。

2019-10-24 04:11:41 | 石垣島
於茂登岳

 石垣島に越して、もうそろそろ一年が経過する。家ができたのは10月末だった。11月15日に引っ越しをした。早いものであるが、気分的にはすでに石垣島に根付いて安定して暮らしている。ありがたいことである。引っ越しが大変だったのかどうかさえ、思い出せないほどである。

 石垣島が自分の場所になっている。石垣にいるときは毎日絵を描いているので、石垣の風景の中に、入り込んでしまうのかもしれない。今や一番親しい風景の色が石垣島である。石垣島の明るい、明るい緑である。

 こんなに上手く、引っ越しができるとは思っていなかった。一番心配だったのは、猫のことだ。猫がすぐに石垣の家になじんでくれてありがたい。外に出さないで、大丈夫かと思っていたが、それほど出たがることも無い。

 家については使い始めて使い勝手が悪いということがひとつも無い。こういう所をこうしておけば良かったというところすら無い。家は3回建ててみなければ、分からないというがその通りであった。今回は手落ちがまるで無い。お願いしたとおりやってくれた、設計事務所のおかげも大きい。

 気に入っているのは床である。裸足で暮らしているのだが、床の具合がじつに良い。反るのでは無いか。隙間が空くのでは無いか。猫が滑るのでは無いか。猫が吐くとシミができるのでは無いか。作る前にはいろいろ心配もあったのだが、一年経ってみて、何の問題も無かったことがわかる。床材の木場の満点木材さんと、床を張ってくれた大工さんに感謝である。

 石垣島の方が、小田原のよりも生活がしやすい。歩いて買い物ができる。歩いて暮らせるということで、全く暮らしが違う。五分ほどの所で大抵の買い物ができる。大きなスーパーには車で行かないとならないのだが、何かのついでに寄るようにしている。

 JAのゆらていく市場が気に入っている。JAに口座を作ると、すべて口座引き落としで買い物ができる。いくらか割引もある。なにより、地場の野菜が売られている。この時期は地場の果物がすく無いのが残念である。

 ゆらていく市場にゆくと、石垣の農業の様子が分かるところがいい。畑を見て、ゆらていく市場を見ると、この時期とれるもの、とれないものなど分かってくる。とれない野菜は日本全国から来ている。この点では小田原の朝どれファーミーと同じなのだが、石垣は地場のもので食べ物がつなげるということである。

 石垣島の楽しみのもう一つは、蘭が温室が無くても育つというところである。まだ試しに育てている段階だが、昨日はゆらていく市場でコウトウシランを買った。シランと名前にはあるが、全く別の種である。Spathoglottis plicataが正式名である。この蘭は石垣島にも自生していたとも書かれているものだが、栽培種が野生化したと考えていいと思う。

 それほど石垣の気候に適合しているラン科植物がある。ナリヤラン、コウトウヒスイラン、ナゴラン、イリオモテランなどは石垣に自生していた植物であると言われている。ラン科植物の花の趣は深い。ナゴランもよく売られている。

 絵を描く場所は旅行で石垣に来ていた頃と、大きくは変わらない。同じ場所で、繰り返し描いている。それは小田原でも同じ場所で描くのが好きだった。その場所が描けたという気がしないので、どうしても同じ場所で描くことになる。

 名蔵湾と宮良川上流部と崎枝地区である。田んぼのある風景である。自然に対して、人間が関わっている具合に惹きつけられる。人の手の入らない太古の自然というようなものを描きたいとは思わない。

 石垣の風景はまさに自分が願っていたようなものだった。石垣の風景に出会う前には、なにが描きたいのかよく分かっていなかったのだと思う。あちこち風景を描きに行った末に、自分が描きたい風景画石垣島だったということになる。

 昨日、名蔵湾の風景を描いていると、いつも通る軽トラのおじさんが、話しかけてくれた。石垣の風景がいいかというのだ。田んぼのある風景が描きたいというと、宮良川の所でも描いているなと、言われた。同じ車をいつも止めているのだから、良く通る人には見慣れてくるのだろう。

 このくらいの規模の島というところがいい。5万人の島である。青ヶ島のような小さな島では無い。ほどよい規模の島である。食糧自給可能な島である。あと9年は何とか絵を描かせて貰いたい。80歳まで絵が描ければ、なんとかなるかもしれない。


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石垣島が絵を描く終の棲家である。

2019-10-23 04:15:19 | 水彩画


 石垣島に戻り気持が落ち着く。石垣島には静かな暮らしがある。終の棲家というが、まさにその通りである。絵を描きに出かけても、暮らしの場所を描いている。いつもの場所をいつものように描き始めた。

 田んぼには2期作目のイネが実っている。やっと色づき始めたところである。一期メノイネに比べるとずいぶん分げつもすくないし、穂も小さい。まだ、30度近くになるから、この先実るとは思うが、やはり時期を外しているのだろう。十分な稲作には見えない。

 何故ベラスケスの白い筆使いが、レースに見えるのかといえば、人間の眼は大抵のものを想像で見ているからだ。天井のシミを見ても、妖怪の顔に見てしまうものだ。人間が見るということは、こうした想像がかなりの部分を占めている。想像の部分と言うものはその人の解釈ということになる。

 その人の解釈の積み重さねが絵になる。だから、白の適格な筆使いがレースに見えてしまう。この心理的な視覚を、利用することで説明をしないでも、離れて見ると風景になるという絵が描けるのだ。

 的確な所に的確な調子で筆触は置かれなければならない。絵ではこれをバルールと呼ぶ。絵に置いておかれるところに置かれるべきものが置かれたのであれば、白い絵の具の線もレースになってしまう。

 だから絵ではバルールが重要と言われることになる。この場ルールを的確におけることが、絵画におけるデッサンの本当の意味である。デッサンをものの形をとる技術だとするという考え方は半分のことなのだ。残りの重要な半分がバルールを捉えるということになる。

 遠くにある樹木を緑の筆触で置く。近くにある草を緑の筆触で置く。この違いを絵の具の濃度や緑の違いで、的確に置く事ができるということがバルールである。どちらも一筆の点であるのだが、的確であれば、樹木になり、草になる。

 このことを探っている。それを風景のベラスケスといっているわけだ。こういうことだと私の絵を見て貰えばいい。と言いたいところだが、まだできていない。水彩画ではこのことができる可能性がある。

 優れた水墨画はそういうことをモノトーンで実現している。しかし、色彩の持つ豊かさがない。よく、墨色は色彩を表現するなどと、ありもしないことをいう人が居る。つまり、置かれたところに置かれた墨は人間の想像力で色彩まで想像させるという意味なのだろう。



 しかし、これは色彩の持つ哲学を表現することを、怠っている。色彩には世界観のかなりの部分を占めた哲学がある。それはマチスやボナールを見れば分かる。素描では絶対に表現できない、西洋的世界観がある。それは当たり前のことだが、世界は色彩に満ちているからである。

 色彩をなくすことで世界の一部を深く置き換えることは可能だと思うが、やはりそのやり方は一部の世界の抽出ということになる。西洋絵画の総合性には、どうしても色彩が必要である。

 水彩画は西洋絵画である。墨彩画では無い。中国画では無い。墨絵に彩色したようなものでは無い。初めから色の組み合わせで世界が構成されている。墨彩画は観念の中にある世界を塗り絵的に表現している。

 ぼたんの花はこのようなものであると言う観念上のぼたんの花を描く。写生をしていたとしてもそれはあくまで観念のボタンの花を描く目的のためである。現実世界の表現では無く、観念上の世界観を表現するためのものだ。

 水彩画が西洋絵画であると言うことは、現実の世界を表すものだからだ。たとえ心象的なものであったり、抽象的表現であるとしてもそれは現実的なものだ。それが西洋絵画というものである。

 もう一つの言い方でいえば、東洋の美人画というものが美人という観念を描くのであり、人間存在に迫ろうという、西洋絵画の人物画とは違うということである。私の描きたい風景は観念にある風景では無く、私が見ている世界だということである。

 私が見ている世界。感じている世界。これを画面に現したいと言うことが第一目的である。頭の中にある理想の風景を表そうというのでは無いということだ。

 そのためには見ているということがなによりも重要視される。この見ている世界のすごさや深さを画面に置きかえることができるかどうかなのだ。岡本太郎は世界の真実が見えたならば、指させばそれで芸術は完結すると言った。

 確かにそうだと思う。真実は目の前の世界のことだ。改めて、画面に置こうということは蛇足のようなものだ。しかしこの蛇足のような行為こそ、禅だと思っている。私が生きると言うことだと思う。宇宙からしてみれば、生きると言うことは、蛇足のようなものなのだ。

 的確なところに的確な色と調子を伴った線を置くことができるか。このことだけなのだ。ところがこのことが技術的に難しい。色や調子が入り交じり、よほど熟達しない限り、不可能なことのようだ。

 やるべき事は見えてきたが、やれては居ない。ともかくこの一事である。見えているように筆が置けるか。この一事にかけてみたい。10年はかかるだろう。それだけ絵が描ける時間が残されているのかはわから無いが、やれるだけはやりたい。

 幸い、石垣島という場を見つけることができた。田中一村のような、風俗画としての南国風景を見つけたというわけでは無い。風景の説名画を描こうというのでは無い。今私が見ている世界を見ているように描くだけである。特別の場所では無い。私が居る場所である。

 

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持続可能な日本はどこにあるのだろう。

2019-10-22 04:03:55 | 暮らし
ネコは駐車場が好きだ。何故か駐車場の中央でいつもたたずんでいる。

 日本はこのまま行けば崩壊すると言う不安が消えない。世界経済の中の日本を考えれば、高度成長期の夢よもう一度という、アベ政権の方向は間違った政策だと私にはおもえる。ソフトバンクの孫さんが日本から事業展開を海外に移すのも当然のことである。成長を望むのであれば、日本を離れるほかないからだ。

 日本には縮小安定するという選択しか無い。もう一度成長したいと考えることは、すでに過去の成功体験が眼を曇らせているのではないか。日本が高度成長したときの条件を考えてみれば、分かることのように思える。低賃金の労働力のある国は成長する。韓国でも中国でも、似たようなことが起きた。

 高度成長の波に乗る国へ企業が主軸を移すのは当たり前のことだ。企業は利益を求めてうごめく。然しそれは企業の利益であり、日本とという国とは別のことだと考えた方が良い。孫さんは日本で儲けられなくなったと嘆いているようにも見える。

 極端な人口減少が高度成長期の終わりを示す。人口減少は日本人の肌感覚の結果起きている。アベ政権は日本の既得権益を守ろうとしてあがいているだけだ。本当に日本の未来を考えているのであれば、現状をうまく行っているなどと考えるはずがない。

 世界を支配した国にはそれぞれの理由がある。英国は植民地。アメリカは資源と国土の条件が別格。日本はそうした特別なものはない。安い有能な労働力で勤勉に働いたことで、少し早く高度成長を果たした。しかも世界的な水準の学問の世界があった。中国はアメリカに匹敵するような広大な国土と、桁外れの人口を生かし、世界との競争にめざましいものがある。

 既得権益の代表アベ政権は新しいことよりも、今あるものをどう維持するかばかりに気をとられる。新しいことに臆病になっていて、経済成長があるわけが無い。アベノミクスで新しい産業の創出ができなかったにもかかわらず、出来た出来たと騒ぐ口先の薄っぺらさを見ればよく分かる。

 日本経済が縮小しながら、どこで安定できるかが差し迫った課題だ。政治というものは希望的な観測を打ち上げないと、支持されない。そのために夢をもう一度と残念ながら野党も、充分に現実を見ることができない。選挙で勝利するために、精一杯である。

 もう政治に期待することは諦めるほか無い。投票には行くが、それ以上のことは無駄骨だとしみじみ思う。石垣島の自衛隊基地の住民投票が三分の一の住民の署名での要望がありながら、実施されない。そのまま自衛隊基地は建設されている。やむえず、住民が行政訴訟を起こしている。これこそ、民主主義政治を捨てた姿だ。

 もうそれぞれに自分の暮らしだけを考えた方がいいと思うようになった。そうしなければならないほど、国の形がおかしな状況になっている。自分の暮らしの構築に取り組むことが優先である。

 小さな仲間を見つけるところから始める。仲間を見つけるには自分が始めなければならない。絵の仲間を見つけるには、自分が精一杯絵を描いていなければならない。自給農の仲間を見つけるには自分が自分の形の自給に取り組まなければならない。

 真剣にやっていれば仲間は現われる。一人でできるようになり、心を開いて居れば、仲間は自然と集まる。一人からみんなへである。一人でいるのではさらに生きにくくなる。こんな社会の中では心通ずる人が集まるほか無い。

 残念ながら伝統的な日本の価値感が失われた。これは20世紀の世界的な傾向だろう。私の子供の時代はまだ家のために生きている人が沢山居た。自分のために生きる事が許される、良い時代になったと見えたにもかかわらず、自分が何も目標にすればいいのかが見いだせない時代になっている。それで金儲けの何が悪いという居直りになる。金儲けの人生など少しも価値がない。

 立派な田畑を子孫に残すというような事に価値を見ていた人が沢山居た。家の名誉のために頑張る人が居た。こうした価値観もほぼ無くなった。良かったことなのだが、経済的成功の価値が相対的に高くなった。目標が見つけられないから、金銭的成功だけになった。

 国民一人一人が金儲け以外で何をよしとするのかが無いのだから、当然国という単位では、次の価値観が見つけられない。目標の無い国になった。その結果拝金主義が目立つ国になったと言うことだろう。見苦しくも、ラスベガスを日本にも作ろうなどという国になってしまった。きれいごとを言っていた、横浜市長までこのありさまである。

 いつの時代も拝金主義なのだが、それを超える価値観があった。それが拝金主義の卑しさを抑えていた。

 こうあるべきと言う生き方が無いと言うことが、自由に生きると言うことを生み出すはずだったが、規範が無いと言うことで、自由に生きることはかえって難しいようだ。絵で言えば、売れる絵は存在するが、芸術として優れている絵は見当たらない状態。

 今の状況を認識しない限り、さらに悲惨な崩壊になると言うことだ。経済の遅れた国になろうとかまわないが、文化のみすぼらしい国は嫌だ。日本文化を失いつつあることを、もっと深刻に受け止める必要がある。これは稲作から離れたことが原因では無いかと思っている。

 愚痴が続いてしまった。申し訳ない。日本のこの先をおもうと、どうしてもこうなる。日本は小さな美しい国でいいのだ。平和な文化国家であれば、ほかは生きて行けさえすればいい。

 そのためにはまず自分の脚で立ってみることではないだろうか。自分の足で立つとは、人によってさまざまであるが、私には食料を自給するという事だった。食糧を自給できた時に、生きて死んでゆく安心の基礎を見いだせた。

 日本人全員が有機農業で、自給自足するとしても、日本の農地は足りる。一家族が3人として、一反1000㎡あればいい。1ヘクタールで10家族で協働する。日本の耕作地面積が450万ヘクタール。4、500万家族が自給自足ができる。

 私はあと4年ほどしか農作業はできない。少しでも自給農業を伝えることにかかわりたいと思う。自給農業こそ、持続可能な日本の原点になるはずだ。これが私が生きてきた恩返しである。長野から、農の会のやり方を知りたいと訊ねて見える方がいた。農の会のやり方を人に伝えることも大切だ。

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75歳まで働けるようにしてあげるという有難迷惑

2019-10-21 04:01:09 | 暮らし


 70歳を過ぎて2ヵ月が経過した。老人になったという事を痛感している。10年前何でもなかったことが、あれこれ不安になる。何か落ち度が起こりそうで落ち着かない。いつも、間違いがないか気にしている。誰かに、どこかで迷惑をかけているに違いない。

 いくつかのことを同時進行する能力がかなり失われた。聖徳太子は7つ同時進行だったというが、若いころには2つぐらいなら何とかなった。今は一つでもおぼつかない。迷惑をかける前に立ち止まらなければならない。さらにさらに整理しなければ。

 今でも、舟原溜池のこと、稲刈りのこと、農の会のこと。水彩人展のこと。特に遠方の人の絵の搬入方法を作る下準備。台湾旅行のことも気になる。舟原の家のあれこれもある。先日は東電が電線にかかる木の伐採に来てくれた。ちょうどいる時で良かった。お願いして、徹底的に切ってもらった。こういうことと、水彩人展がまぜこぜになり何か失敗がある気分で落ち着かなかっい状態だった。

 様々なことが入り混じり、何か抜け落ちていないかいつも不安を抱えている。昔なら普通だったことが出来なくなっている。水彩人展が月曜日休日だとついつい考えていた。今年は会期中休みなしである。月曜日休日の年もたまにあるのだ。そのためにホテルの予約の取り直しをした。気づいただけましかもしれない。

 目が徐々に衰えている。絵を描くうえでこれが一番の心配事である。歯も危うい。時々妙な状態になる、歯槽膿漏というものなのだろうか。歯を何度も磨くと直るのだ。直るというのが不思議で、時々歯を磨いている。悪いことではないだろう。

 耳はどうだろうか。たぶん聞こえが衰えているに違いない。迷惑をしていなければいいが。聞こえが悪いというのは自覚しにくいものだ。その意味では足腰の方は、それほどは変わらない。それは万歩計が示している。小田原に来てから、ほぼ1万歩を超えている。台湾では毎日2万歩だった。それでも足腰に疲れは無い。

 畑仕事は出来るだけ頑張りたいと思う。これが石垣で絵を描く体力の貯金になる。石垣では散歩をすると言っても1万歩にはなかなか到達しない。小田原では特に何かしていないと思っていては、1万歩を下回った日はなかった。自然動くことになる。展覧会準備というのも意外に歩くもので、いつも一万歩だった。

 溜池の草刈りを渡部さんとした。燃料2回である。大体昔から刈りばらい機の草刈りはこのくらいで止していた。これ以上やると翌日に疲れが残る。今回は午前中で終わり、昼寝をしたら普通に戻っていた。熟睡の昼寝ではあった。まだ回復力があるということだろう。要するに、身体よりも頭の方から老いがきているらしい。ここが一番の注意点である。年寄りが怒りやすくなるというのは頭の衰えなのだろう。

 稲刈りも何とか出来た。のこり5回の内の1回目の稲刈りである。稲刈りは10月5日6日なのだが、5日が水彩人最終日で作品の引き上げに行かなければならなかった。4日の前日の準備は、丁寧にやりたいので、水彩人は休ませてもらった。

 脱穀もみすりと、一応こなすことができた。ぜひとも来年も頑張りたい。

 繰り返すが、物忘れが気になる所だ。こういう繰り返す書き方がそもそも衰えなのだろう。自分のことは仕方がないのだが、一緒にやっている人に迷惑をかけていないかが心配だ。年を取るということで、変更しなければならない何かがある。こうして同じ事ばかり書いている。

 定年延長などと言う。たしかに働ける間は働くのは悪いことではない。私だって働いて居たい。田んぼは動ける間はやりたい。しかし、責任が取れなくなっている。これを自覚しない老人は始末が悪いものだ。困った年寄り、昔取った杵柄の老害。

 仕事はやはり、完全でなければならない。たまにでも落ち度があれば、仕事ではなくなる。人によってその限界は違うのだろうが、私には養鶏業が出来るのは65歳までであった。間違いが起こる前に止められて良かった。70歳までは何とか普通に農の会や水彩人のこともできた。こういうことが危うくなるのはこれからである。この後はやはり絵を描くこと以外は、出来なくなるのだろう。できないのにやりたいというのでは、はた迷惑だろう。

 70歳で、石垣島に暮らすようにしたことは正しい選択であった。石垣にくれば、絵を描くだけである。他のことは全くない。あったとしても対応もできない体制なのだから、考えることもない。一切を忘れて、絵を描くだけで暮らせている。

 早速、名蔵湾を描きにいった。やはり良い場所だ。やることもだいぶ整理されてきた。ところが描いた絵がだめだ。これはまあ致し方ない。一月ぶりに描く絵は何か力が無い。明日には思うところまでは行きつけるはずだ。明日頑張る。

 65歳までで責任のあることはできなくなると思っていた。今思えばその通りである。やはり定年は65歳くらいが限度ではないかと思う。もしどうしても働くのであれば、頭の精密検査が必要である。自分という人間の運転免許の更新が必要である。中古品なのだから、整備点検が可能かどうか、細かくやる。老人衰えの国家試験。それくらい年寄りは大変なしろものだ。私もそうだと思うので、遠慮くなくいってもらいたい。勤めは若いころから無理だったので、老人とは関係ないか。

 65歳から70歳までは何とかやってきたが、70歳になってからはそれまでとは明らかに違う。過去の結果があるからでしゃばることになる。70過ぎて責任ある立場で仕事にかかわるというのは、良いことは何もない。お手伝いを精一杯やらせていただき、お世話になったことに恩返しをするのが年寄りだろう。

 次の時代の文化につなぐもの。それは私絵画の誕生だと思う。絵画することが、自分個人の生きざまになった時代。その形を何とか残したいと思っている。まだまだ駄目だ。最低でもあと10年は必要である。自分の為に絵を描くことが、どういう意味を持つのか。残りの時間の限り私絵画というものを突き詰めたい。

 

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台北から石垣までは40分のフライト

2019-10-20 04:46:41 | 石垣島

故宮美術館にあった鉄鍋、私の家にも似たものがある。ただこのなべ底にある文字がすごいのだ。いい字だった。ああいう字を書きたいものだ。

 台北空港から石垣は近い。フライトは40分とアナウンスされていた。飛行機が飛びあがったと思ったら、コッペパンのサンドイッチと水が配られた。食べる間もなく、飛行機は下降をは始めた。40分で食事を出すサービスはびっくりだ。

 台北から桃園空港に行くのも初めてなので、早めにホテルを出た。ホテルにいつまでもいたところで、仕方がないということもある。早起きということも困りものだ。ホテルの朝食は食べないで、外で珍しいものを食べることにしていた。

 ホテルの周りには台湾式の朝食を出すお店がいくらでもある。それもさまざまであるから、台湾式朝食を食べ歩いたほうがおもしろい。当然ホテルの食事よりも安上がりである。そのうえおいしい。

 桃園空港に行くには台北駅から直通列車がある。心配だったのは、ターミナル1なのか、ターミナル2なのかである。駅が2つある。中華航空の案内にはその説明がなかった。仕方がないので、最初の駅で降りた。案内板を見るとすごい数の出発便が並んでいるが、石垣行きはない。

 どうもここではないなと思うが、列車に乗りなおすのでは大変だと思うし、そんなはずもないだろう。ひとまずそこにいたおまわりさんに聞いてみた。色々調べてくれて、石垣行きはターミナル1だからここではないということを教えてくれた。そして、1の行き方はあの案内板の方へで歩いてゆけということだった。なるほどターミナル1という案内がある。

 案内に従い、しばらく歩くと、モノレールがあった。モノレールですぐの場所だった。ターミナル1はどちらかというと静かである。さっきの方がメインの飛行場のようだ。中国行きがかなりあった。そのほか世界各地へのフライトがある。大阪とか成田というのもあったが、石垣島は飛行機が小さいから、別なのだろうか。

 第1 ターミナルでもわかりにくかった。チケットにD6乗り場とあるのでそこにいたが、どうも様子がおかしい。そこで飛行場の人に聞いてみた。D8に変わったという、変わったら変わったという案内がなければわからないだろう。全く案内がない。中国語では言っていたのだろうか。

 聞いてみてよかった。D8ゲートに行くと、確かに石垣行きがあった。飛行機は満席である。週2便だから、満席になるのは当たり前かもしれない。日本人らしき人もいないわけではないが、私にはほとんど判別ができない。石垣での入国審査で日本人の方に並んだ人もいくらかいたので、後で初めて分かった。

 中華航空は石垣の空港の隅の方に、タラップから空き地のような場所に降りる。なんともローカルである。雨の日はどうするのだろう、歩いて入管までゆく。狭い場所にごちゃごちゃである。出ると椅子もない場所に人がいっぱいいる。これから来た飛行機に乗って台北に帰る人たちである。

 ああ、こんな感じで台湾の人には石垣というところが見えるのかと実感できた。台湾から石垣島へ入る方法が楽しみであった。石垣島がなんとも、こんな感じにみえる。どこかの離島に来たという感じである。悪くはない。台湾は都会である。特に台北は東京よりも都会かもしれない。石垣の田舎の感じと大違いである。

 台湾の人は石垣にのんびりしに来ている。石垣空港のはずれの台湾からの窓口には地中海クラブの受付があった。なるほど、こういう形で石垣の地中海クラブは利用されているのだ。台湾のお金持ちが、石垣の高級リゾートにくる。

 なにか、石垣のこれからの方向がこういうところにあるのではないかと思える。アジアは経済が上昇している。リゾートでゆくっりくつろごうという人たちも増えてゆくことだろう。石垣島はそういう魅力を備えた島である。簡単にあの喧騒から、石垣のゆったりしたのどかな世界に来ることができる。

 石垣が東アジアの交流拠点になりうる。音楽とか舞踊という文化が重要である。この魅力は世界の人が喜んでくれるに違いない。お祭りに来てもらうということもあるだろう。八重山の民俗ということを大切にすることである。私が言うようなことでもないが。外からの眼の方が、石垣の位置がわかるということもある。

 石垣は改めて良い場所だ。台湾の喧騒に比べて実に静寂である。落ち着いて暮らせる場所だ。確かに若い人にしてみれば、物足りないのかもしれない。渋谷や西門の若いほとばしるようなものはない。その分落ち着いて暮らすことができる。

 今日からまた石垣での絵画生活再開である。上野の水彩人展で受けた刺激。そして、銀座の一枚の絵で感じたこと。台北での日本の抽象展。そして若い台湾の作家黨若洪さん。芸術家村の共同生活。自分の立ち位置のようなものが確認できた気がする。

 方角は見えてきた。あとはやりつくせるかどうか。やれるかどうかよりも、自分の方角に向かい、制作できるかである。特に、黨若洪さんにそのことを教えられた。言葉にしてみれば、水彩画のベラスケスである。ベラスケスがわかりにくければ、マチスである。その方向の先にあるものだ。

 正しいところに正しい筆を置いてみたい。見えているものを、画面に筆で置き換える方法である。それを水彩という日本の風景に適した方法で、やってみたい。まだそういう水彩画には出会ったことがない。水彩画は知性の感じられない精密写生画ではないということを示したいと思う。

 それにしても、石垣が完全に自分の住まいになっている。拠点という感じである。これは悪くない状態であろう。悪くないどころか、最高の状態である。石垣から出かけて行って、小田原の田んぼも終わり。水彩人も終わり。一枚の絵も終わることができた。そのうえ台湾旅行までできた。これ以上のことはないだろう。特に疲れているということもないので、今日から絵を描きに行けそうだ。
 


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台北のアジア的混沌と現代美術状況

2019-10-19 04:12:15 | 身辺雑記

 台北の西門というところである。暗くなってきた6時ごろの様子。街には吉野家も、マツモトキヨシも、無印良品も、ユニクロもある。まるで渋谷のようだとガイドブックにはあったが、渋谷の夜は知らないので、比較できないが。こういう都会の街並みの中に、突然古い台北が現れるとこが違うだろう。

 台湾は国連に加盟していないし、日本とも正式な国交はない。国として承認もしていない。とんでもない間違いである。日本は中国と仲良くしたくて、台湾を裏切ったのである。その結果がどうなったのか、香港の状態をみれば、台湾が中国になるのは、よいことではない。台湾は台湾として独立すべきだ。日本も台湾を大切にすべきだと思う。


 三軒茶屋の文化マーケットが隣り合わせにある。アジア的混沌。この複雑なエネルギーに圧倒される。日本にはこういうどん底から立ち上がってくるような力がなくなった。全体としては、よくわからない言葉だが、レトロモダン。あるいはクラシカルレトロ。こうガイドブックには書いてあった。

 確かに古い町並みが、突如近代都市の中に再現されている。そんな場所を時々見かける。赤煉瓦の赤瓦。横浜のレンガ倉庫のような感じ。日本と似ているのは日本統治時代ということなのだろう。中国とはだいぶ違う感じだ。この違い方が、日本人にはしっくりくるのかもしれない。

 

 台北の10月は過ごしやすい気候だ。熱くもなく、寒くもなく。幸い雨にも降られなかった。昨日は現代の美術状況を見にいった。市立美術館と寶藏巖国際芸術村。まず、朝から市立美術館にゆく。市立美術館に行くとその国の文化の様子がつかめる。例えば上海で行けば、今の中国らしい作品しかない。愛知の美術館に行けば作品の展示禁止である。

 台湾は自由な文化の国だということが確認できた。企画展がなんと池田亮司個展。日本の現代美術の代表的作家である。40元払ってみる。何故台北でと思うと、複雑な気分だがこういう機会もないと思うので見る。素粒子や中性子の動きを視覚化したらしい作品。

 目が悪い私にはダメな作品。入口のへやの突然の強い光で、そのあと部屋は出るまでよく目がくらんで見えなかった。そういう作戦だったか。これなら作品のことを見せないで済む。部屋に入る前に、強光線注意の表示は欲しい。例のあいちトリエンナーレ展にも過去出ている人である。現代美術は要注意である。


黨若洪(Tang Jo-Hurg)作品 この照明はすごい。絵にだけ光を当てている。四角い光源。

 次に二階に行くとなんと、草間彌生・田中敦子・辰野登恵子の吉原 治良からの系譜展。そのほか日本の女流の抽象的な作品が数名。台湾の作家も混ざっている。不思議な感触である。辰野登恵子さんがうまいと思ったが、それでどうなのという感じだった。切実には伝わるものがない。さらにほかの二人については何が良いのかわからなかった。絵を描いて居るという意味では辰野さんの絵に興味はある。しかしデザイン以上のものはあるのだろうか。

 たぶんわたくしの眼が見たことではなく、他人の眼で書いているのだろう。絵が人に伝わるものという、間違った認識なのではないか。自分を描く、抽象的作品ということになると、どうなるのだろう。心象画ということになるのか。心象はむしろ具象化か。何故、今時日本では消えようとしている抽象画を特集しているのだろうか。

 台湾の人は日本を尊重している。しかし、日本の現状の絵画はそれほどのものではない。むしろ、台湾の文化レベルの方が期待できる。大いに自信を持つべきだろう。

 地下に行くと台湾の作家の黨若洪さんという人の個展。この人は凄い絵だ。ひたすら絵を描いている。私絵画そのものである。黨若洪さんの作品を見ているうちに、抽象表現というものがさらにわからなくなる。絵はやはり、伝える機能を終えている。



 芸術制作するということは、見ていること、聞いていること、感じていること、それらを作品に表すことであると、池田氏は書いて居た。その通りである。作品は池田氏の問題なのだ。自分が絵を描くことで自分の感覚を確認することが絵を描くこと。池田氏の作品を見て、伝わってくるものはなかった。

 黨若洪さんの作品からは、制作の苦しみのようなものがひしひしと伝わる。この人は描きたいことが描けないのだ。描けないということを画面にぶつけている。自分が見ているということが、画面に表現できないために、無限に描かねばならない。年代的にみると初期には描けていたような、模倣の時代がある。そして、自分の絵を描き始めて、描き切れない思いがあふれる。それが作品というものだ。しかし、本物の作品は描けないものを、描いたもので十分に暗示している。

 この辺で他人ごとではなくなって、お前はどうなんだということになる。やるべきことに向っているのか。黨若洪さんは絵具が載っていない。画面にくっついていない。塗りが悪い。いろいろ悪いのだが、それを超えて力があふれている。ああ日本的弱さが私にもある。細かなどうでもいいことに拘泥している。




 午後には寶藏巖国際芸術村にゆく。アーチスト村のようなもの。世界から芸術の共同体を求めて人が集まっている。日本人も住んでいると写真がある。道教お寺の作られた崖の周辺に張り付くように、小さな家が上に上に重なっている。一番上のテラスに椅子があったので、座って自分の制作のことを考えていた。

 いつの間にか寶藏巖国際芸術村で、若いころ制作をしていた幻想の中に漂っていた。夕暮れの陽射しが、オレンジ色の木漏れ日のように差し込んでくる。前には淡水河が静かに流れてゆく。すっかいあたりの空気の中に溶け込んでしまった。



 小さな穴倉のような部屋の中で、達磨大師のようにただただ絵を描いているわたし。金沢の馬小屋に寝泊まりしていたころのことが幻想の中で一体化していた。あの空気とどこか似ている台湾。制作に苦悩していた。自分の絵画を探していた。

 どこから来て、どこへ行くのか。20代のころの自分に戻っていた。些末なことはもうどうでもいいだろうと若い私が言っている。



 ざわつきに気づくと、何やら普通に中国語で話しかける人がいる。私を台湾人だと思っているようだ。数人の人が私を写真で写していたのだ。何だろうと思うが、ずーと写真を撮っていたらしい。私がなんと写真のモデルになっていたようだ。

 ここには、そういう学校のようなものがあるらしいから、そこの人なのかもしれない。絵描きの成れの果て題材と思われていたのだろうか。わからないが、今更撮影の許可を得ているらしい。もうずいぶんとっていたではないか。今更、どうでもいいか。


 
 この日もよく歩いた。フィットビットによると21、434歩である。台湾に来て毎日2万歩歩いている。別段足がどうという感じはない。ありがたいことに70歳でもまだまだ歩ける。昔、パリを毎日やたら歩いていた。たぶん3万歩ぐらい歩いたのだろう。歩くことでパリを感じた。歩くことでその場所が見えてくる。今回台湾を歩き回って、台湾のことが自分の中に少しだけ入ってきた。
 


 
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故宮美術館へ行く。

2019-10-18 04:11:23 | 身辺雑記


 台北ではシーザーメトロホテルというところに泊まった。イクスペディアで調べて、予約した。比較的ちゃんとしたホテルで、価格も5000円くらいだった。良いホテルだと思う。予約の仕方でずいぶん値段が違うので、気お付けねばならない。地下鉄駅が龍山寺駅下車でそれほど遠くはない。高いビルなので、隣駅ぐらいからでも見えるので、散歩をして戻るにはちょうど良い。また泊まりたいと思う。

 最初デポジット料金が一泊1000元とるというので、今時おかしいだろうと、イクスペディアに問い合わせた。言ってくれたのかどうか、デポジットはとられなかった。受付の若い女性が、改めて取らないといったので、今は取らないことになったのかもしれない。

 ホテルと地下鉄の駅の間には、衣料街になっている。日本人には興味がわかない衣料だ。不思議だなーと思っていて、よく見たら女装趣味と書かれていた。全部の店がそういう趣味とも思えないが、女性服の大半がそうした男性用と思えば適合する。街を歩いている人の服装は普通なのに、何故なのだろう。



 セブンイレブンとファミマが至る所にあるのは、日本と同じである。買い物をしたのだが、なぜか高い。食べ物屋さんの値段を思うと高いようだ。というか、手品のようである。買っていないものが2つづつ同じものがある。なにしろ、1300元だった。こんなにセブンイレブンに払った経験がない。物を買うならやはりスーパーマーケットに行く方がいい。ホテルから遠くないところにあった。

 手提げ袋を買おうと探したが、これが趣味が合わないためなのか。見つからなかった。たぶん、故宮美術館であれば、ふくろはあるだろうと考えていたのだが、ミュージアムショップにはちょうど良い、帆布袋が売っていた。49元が10%オフであった。

 長年見に来ようと考えていた、故宮美術館についに行った。中国美術というものを考えてみたいと思っていた。日本美術の原点と言えるのかどうかである。絵画で言えば美術というよりも、記録という感じである。書もそうである。

 墨のの使い方が日本と違う。日本であれば、人筆に変化をつける。恋炭をつけておいて、軽く水をつけて線を引いたりする。中国の描き方は隅に3段階ほどの会長を決めておいて、手順で塗るという感じだ。これは今回発見したというより、昔から考えてきたことの確認である。

 この段階で諧調を決めてゆく考え方が、着彩にも現れていて、色が基本塗り絵になる。現代の中国画と同じである。カラー写真のない時代に、あった色付け写真のような感じである。日本人の感性とは相当に違う。


 石濤のようなものがないか探したのだが、石濤のようなものはまず他にはない。内藤湖南の中国学はなかなかすごい。日本人の研究で良くここまで調べたと思う。中国絵画論で述べていたことは、大きくは違っていない気がした。

 この美術館で良いものは焼き物であろう。さすがというものがかなりの数あった。これは日本の及ぶところではない。青磁、白磁の世界は、繊細で形が絶対的に美しい。絵付けはやはりくどくて嫌だった。

 

 この文字が良かった。青銅器の鍋の底に彫られたものだ。文字の原型とでもいうものだろう。この彫りつける文字が、文字の原点であれば、筋でぼかすというような表現のものではないということは分かる。表情のない線である。しかし、文字としての塊には実に豊かな表情が生まれている。形が良いわけだ。

 大いに学ぶところがあった。何かその材料が売られていないかと思って売店に行くと、「漢字」新視界というDVDが売られていた。早速買った。150元のものが、50元だった。何故何でも特価品になるのかが分からない。



 美術館ではずいぶん歩いたと思う。何度でも見ないと落ち着かない気分だった。例の白菜などどうでもいいと思う。何が良いのかわからなかった。香木の展示などどういう意味かさえ分からない。文化が宴会から生まれたという趣旨のようだったが、そんなものの訳がない。等とぶつぶつ言いながら歩いた。19、263歩が昨日のフィットビットである。台湾はよく歩かせてくれるところだ。


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台湾 蘇澳(ソウアオ)漁港をやたらに歩く

2019-10-17 04:45:36 | 身辺雑記


 ソウアオを歩く。やたらに歩いた。いくら歩いても面白くて歩き続けた。次の角まで、その先までと歩いた。別に何があるという訳でもないのだが、蘇澳(ソウアオ)漁港を歩き回った。フィットビット23,612歩。たぶん、過去最高記録である。

 人間が暮らしているという場所である。生活があふれてくる漁港。よくもこんなにも詰め込んだという状態で船がある。当然、出て行けない船がほとんどである。船が重ねておいてあるのかというほどである。船は中型の本格的な漁船である。魚の生臭さと重油の不完全燃焼しているようなにおいが、漁港そのものだ。

 港を取り囲む人家の半分は魚の加工場である。その上に人が住んでいるらしい。半分が観光客向けのお店だ。観光バスがひっきりなしに入ってくる。狭い路地に人の波ができる。お土産屋さんやら、海鮮料理屋さんがごたごたに立て込んでいる。キレイナ街ではないところが実にいい。


 蘇澳に来たのは、日本人があったという街だからだ。与那国島や、石垣島とはお隣さんとしてお付き合いしてきた街だ。密貿易の女王ナツコさんも拠点の一つにしたらしい。与那国島に80軒もの飲み屋街があった、戦後のどさくさ時代。

 その昔、港自体を日本政府が建設していた時代がある。天然の良港の中に、掘ったり埋めたりしながら、4本の櫛柄に港を作る。その櫛の歯に人家が埋め尽くした。今はその漁港を建設していた。

 ソウアオ漁港ができてゆく過程にはに石垣や与那国の漁師さんが関係している。当時は日本料理屋さんから、日本旅館まであったらしい。今ではそうした名残はほぼない。台湾の漁法と伝えられている、舳先にのぼり、銛でマグロを取る漁法は実は与那国の漁師さんが伝えたものらしい。今では台湾の南の方に残っている。




 90歳というお爺さんが話しかけてきた。昼間っから少々お酒が入っていらしい。日本語が喋れるぞ。あれの日本語は東京弁だ。ということである。国民学校から、あと2年高等科にもいった。先生は鹿児島の人だった。

 石垣島から来たというと、自分も言ったことがある。小さな島だと思ったのだが、案外に大きいのでびっくりした。人口は4万数千あるから、結構大きいはずだ。あれこれ詳しい。子供が3人医者になったというのが自慢らしく、何度も聞いた。

 日本人がいたころのことを聞いたのだが、よくわからなかった。話したくはないのかもしれない。代わりにか、自分のおじさんは日本陸軍に徴兵され南方で死んだと話してくれた。鹿児島の先生は良い先生だったかと聞いたのだが、これにも返事はなかったが。先生には100万円くらい送りたいというのだ。生きてはいないだろうな。何しろ自分が90歳だからな。



 よく聞いていると、スーアオの人ではないということだ。スーアオには刺身を食べて、酒を飲みに来た。どういう訳なのか、カバンからはヘネシーと見える小瓶を取り出して、お前も飲めというのだが。これはお断りした。失礼かと思ったのだが、何しろ小瓶に残る酒はほとんどなかったのだ。

 おじさんはバスでどこかへ行くということで、バス停まで一緒に歩いた。杖はついているのだが、これが私の歩く速度と変わらない。お前は70か。お前は一人で旅行だ。俺は90だぞ。夫のいない女性3人と友達だ。どういう意味で話しているのかはわからなかった。バスが来たので手を振って別れた。

 

 台湾では放し飼いの犬がいくらでもいる。おとなしく人間と共存している。これこそ人間の暮らしだ。どこかで昼ごはんと思い歩いていたのだが、あまりお腹が減らない。海鮮料理どころではない。港のわきの椅子が並んだだけのコーヒー店があったので、カフェオーレを飲んだ。台湾で3回目のこーひーだが、初めてマシンで挽いたおいしいコーヒーだった。気お付けないとインスタントコーヒーを飲む羽目になる。

 巨大な紙コップで出てきた。隣のお菓子屋で、焼き菓子があったので、買ってきて昼食にした。隣にいたお兄さんがそういうことをしていたのをまねたのだ。ただイスとテーブルのある、外が続いたような店だから、そういうことをしてもOKのようだった。店番はもう一つ愛想のない娘さんが一人でぽつねんとしていた。



 店からは港の雑踏が見えるだけで、海は見えない。海が見えないほど、船で埋まっているのだ。すぐそばに台湾式のお寺がある。熱心に皆さんがお参りをしている。長い線香に火をつけてもらい。何度も何度も頭を下げている。これが老若男女のことなのだ。

 

  そんなことをあれこれ思いながら歩き回っているうちに2万3千612歩もあるいてしまった。このアドの家に琉球とあるが、これはたぶん、台湾の琉球である。台湾を琉球といった時代もある。高校の時の山川の世界史の教科書にはそう書かれていた。間違えだろうと先生に言ったので、よく覚えている。先生が調べてきてくれて、そういう時代もあったということだった。





 結局のところ、蘇澳には日本の痕跡はわからなかった。別にわかりたかったわけでもないのでよい。すごい、港町をぐるぐる歩き回ったということで、大満足である。また来たいと思う。だいぶ様子が分かった。

 泊まったいーりホテルでの朝食では、身体の頑丈なおじさんたちが、黙々とご飯を食べていた。例の中国式の喧嘩の会話がない。服の背中に、描いてあったもので、海軍の軍人さんだとわかる。ホテルの向かいに軍港がある。これは漁港より、北川である。

 軍港の方も歩いてみた。こちらは殺風景で何もないのだが、道路側に妙な水路のようなものが掘られていた。山にはトンネルのような不思議なものがある。よくわからないのだが、ともかく歩いて漁港に向って歩いた。



 露店で中華素材の欠ノ上田んぼでもつくった。あれが売られていた。名前を忘れるが、マコモタケであった。作っている人が売りに来ているようだから、畑もどこかにあるのだろう。ということは田んぼもある。

 バスで行くよりともかく歩くとその街のことが感じられる。絵になる場所である。港の絵が好きな人なら、画題はいくらでもあるだろう。昔水彩連盟の増永先生の絵に台湾のものがあり、譲ってもらったことがあった。増永先生は戦前台湾で勤めていた方だった。


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