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地場・旬・自給

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小麦の播種

2015-11-30 04:37:16 | 自給

 

11月28日小麦の会の播種があった。ごんべいで毎年蒔く。ごんべいは上り坂が少し大変だ。特に土が湿っていると、結構重くなる。また、種が落ちない時もある。そこで、前を引っ張る人、後ろから押す人、そして、脇で落ちていることを確認する人という、3人で組んで種まきをした。もちろん家で蒔くときは一人で蒔くのだが、みんなでやるとなると、こういう体制でやる方が良い。毎年どこか蒔かれていない部分が出るのだ。そのほか正確に30センチ幅になるように、紐を張っている。上下に一人づついて、蒔き終わるとずらしてゆく。これも一人でやるときは当然目検等で大丈夫なのだが、みんなで蒔くというときは、初めての人もいるので、どこまでも丁寧に行う方が結果が良い。今年は総勢20人で作業をした。子供連れや二人で参加している家族も結構いたので、14,5組ということではなかろうか。目標は小麦粉10キロで、会費は3000円前後になるということだそうだ。

トラックターで耕し終わったところだ。ソバカスを60体ほど撒いて、一度耕してある。そして、当日の朝からもう一度耕して準備完了である。この間雨が相当降った。29日は見事な晴天ではあったのだが、まだ土は重かった。トラックターのコツもある程度分かってきたので、案外手早くできる。一時間かからない程度の作業だ。あまり深く耕すことはないが、細かくはしておきたい。耕す主目的は、ソバカスをよく土と混ぜることにある。2度耕す理由は、雑草対策である。小麦を蒔く直前に最後の耕運をやっておくと、雑草が相当に抑えられる。この畑は6年目になって、雑草が減った。特に冬の小麦においては、草取りがかなり楽になった。土寄せを2回やれば、あとは草取りはいらないのではないかと思っている。できれば、いい時期に追肥をやりたいと考えている。やはり、小麦は肥料が必要な作物である。有機栽培でやろうとしたら、相当に堆肥を入れなければできないといえる。

蒔き終わったところだ。午前中の作業で終わった。終わるころは地面も乾いていた。久しぶりに晴れ晴れした気分であった。小麦の参加者は毎年入れ替わる。入れ替わるが減るということもない。今年は、東京から湯河原に越してくる人が、参加してくれた。仲間が増えるということは嬉しいことだ。小麦の会も特に募集というようなことをしているわけではないのだが、なんとなくこのくらいの数の人が毎年参加してくれている。参加者のみんなが、新しい人を誘ってくれているからだ。良い仲間と楽しく農作業ができるということほど、気分の良いものはない。

終わって、仲間の一人が焼いてきてくれたパンを食べているところだ。素晴らしいパンだった。ここの麦畑で出来た麦で出来たパンを食べたのだ。そのパンが見事な出来て、まず美しいパンだった。こんなに美しいパンは見たことがない。こんな素晴らしい麦畑でみんなで食べるパン。こんなに素晴らしい体験はまさに一期一会である。こんな日があるから、生きることに頑張れるというものだ。この畑は、大豆、小麦と5年間繰り返してきた。そしてどうも連作障害が出たような感じなのだ。30%の突然の減収が起きた。小麦もどうなるか注目しなければならない。不安もあるので、もう一つの畑で小麦は栽培しておきたいと考えている。

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尾形光琳の作品

2015-11-29 04:04:51 | 水彩画

光琳は琳派の祖の一人である。日本の装飾絵画の典型と言える人である。熱海のMOA美術館にある、紅梅白梅図が国宝であり、代表作である。日本美術史の中でも最も優れた作品の一つと言える。最晩年のたぶん最後の作品と考えてもいいようだ。58歳で死んでいるのだが、40代になってから絵を描き始めたようで、わずか10数年の短い制作期間である。デザイン的な模写が多く、多くの作品を研究して絵を描いた人と言って良い。この模写というか、剽窃を全く意識しない人で、何としても受けそうな絵をひねり出した人と言える。雪舟の水墨画まで模写している。こうした創作姿勢はその後の琳派の絵画研究法に大きな影響を与え、絵を模写して学ぶことを画家になる道と考えるようになる。それは、日本絵画が芸術というより、装飾を最重視することになった要因でもある。襖絵や屏風絵であり、あくまで床の間芸術と言われるものである。芸術という観念とは別の時代の絵画である。

特に宗達の模写とも、アレンジともいえる風神雷神図模写作品は、紙を当てて写したと考えていいほどの作品である。俵屋宗達もデザイン的な作品ではあるが、その独創性が卓越していて、光琳とはその点では創作の質が違う。この違いが絵画表現の芸術性という問題にかかわってくると考えている。かつてないものを作り出す制作が芸術であるという考え方である。個性とか、自己表出というような、近代芸術につながる考え方である。明治時代までの宗達の評価は意外に低いものであり、光琳の評価と比べると格段に下だった。過去のデザインの延長でかまわないという考え方である。風神雷神図は多くの人が似たような絵を描いている。そのご、芸術という考え方が登場して、初めて宗達の独創性に日が当たるのである。明治期の美意識では、光琳のデザイン的装飾性が時代の好みに適合していた。それは、誰もが受け入れやすい没個性の美の世界ともいえる。こういうことが起こるのは、美意識の停滞が原因する。美意識が変わる時代と。保守的になる時代がある。現在は、日本人らしい美意識は喪失した時代に見える。

光琳が一筋縄ではいかないのは、紅梅白梅図である。梅を描きながら、その背景となるべき中央の川に、主題が絞られてしまっている。ここに果たしてそのように見ていいものかどうかという問題がある。この絵が描かれたときには、中央で黒々と渦を巻き流れる川は、輝いた銀色であったと思われる。しかし、時代を経て黒に変色をしたのである。その渦を描いた渦巻き模様は当初白かったものが、時間を経て赤みがかったとされている。そのあたりはあくまで推測であるが、私は今のような色になることを予測して描いたと考えている。たぶん銀についてはすぐに黒変するように硫黄を使ったのではないだろうか。光琳はそもそも呉服屋の息子である。染色の技術には精通していたはずだ。媒染等の技法や古色の魅力は十二分に承知していたはずだ。様々な説はあるのだろうが、年月を経て、今の完成に至ることを光琳は予測していたと考えている。それが光琳の結論だったと思う。

この黒い川の暗闇に迷宮がある。時代そのものの暗さである。光琳の中にある、人間の暗黒でもある。絵画というものが示した、人間の精神の奥深さがある。絵というものはこういうことができるのだ。こういうことだけやればいいと指示している。この深さは、ほかのどの芸術にも示しえない、具体性をもって、一目瞭然に示した。こう描かれてみて初めて見ることのできる世界。この黒い川は、その後の誰の装飾にも取り入れられるようなものではなかった。宗達の画格の高さが傑出していて、誰も模写することなど出来なかったように、光琳の黒い川は、実に生々しく流れている。

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あさが来た

2015-11-28 04:03:47 | 身辺雑記

NHKの連続ドラマはよく見る。安倍氏の良く話す女性が活躍する社会の、トップの成功事例だろう。大阪物で、得意の嫁いびりは余分ではないか。出だしのAKBの歌が良い。歌詞は「人生は紙飛行機」というのはそうかなとは思うが、最初のソロの歌い方がとても良い。声の出し方が良い。しゃべる声そのままに出して、無理がない。舌っ足らずでもなく、鼻声でもないし、のどに引っ掛けてもいない。久しぶりに上い歌を聞いた気分だ。メッセージが伝わるところが、大したものだ。朝この歌を聞くと気分が晴れる。そういえば、午前中には歌を歌ってはならないというのが、江戸時代では常識だったらしい。後に続く、合唱部分はいただけない。せっかくの個性が吹っ飛んでしまう。最初に流れる、出だしのソロだけが良い。

今回の連ドラでは江戸時代の女性の置かれた立場が、垣間見れる。何故、江戸や明治の女性に自立した、こういう人が現れたのかを注目すべきだろう。江戸時代が封建主義で女性蔑視時代だと、決めつけられていることを見直さなければいけない。今までも、明治に活躍した女性の話はいろいろ放送されてきた。さらに時代をさかのぼってちょんまげ物の女性の活躍話は初めてである。いかにも封建的な江戸の豪商の家で、嫁に来た女性が、仕事を任されて活躍できたのである。私は慶応年間に生まれた、曽祖母さんを直接知っている。その人は、人間として自立された方だった。封建的でも何でもなかった。自分の考えを持っていていろいろ教えてくれた。今から100年前、山梨の道もないような山寺に祖父とともに入り、立て直したのである。住職が行き詰まり自殺をして崩壊しかかっていた寺である。生活など全くできない山寺で、自給自足的に暮らした。母の兄弟は5人いたが、全員が大学まで自活して進んだ。その中心にいた曽祖母さんである。

祖父や祖母を立てて、でしゃばることはなかった。曽祖母さんの父親は江戸幕府の通弁だったそうだが、コレラで若くなくなった。コレラをころりと言っていた。残された祖母は叔父のところで育ち、結婚して祖父を生んだのだが、そのご主人も早世する。叔父に助けられながら、祖父を僧侶にした。祖父は若い頃吉祥寺にあった栴檀林に通ったというから、私の世田谷学園の大先輩でもあったことになる。曾祖母さんは何か事業を起こしたわけでも、特別なことをしたわけでもないが、その存在には明確で、強いものがあり、曾祖母さんがいなければ、住職もこの寺にいられなかったと檀家の方が言われていた。たぶんごく普通の庶民の女性も、特別ではないが、当たり前に、しっかりと暮らしを立てていたのだと思う。

それが江戸時代の人間の実像だと思う。今の時代とは違う形で、女性が尊重され、評価されていた面もあったのだと思う。その意味ではイスラムの女性の地位とは全く違うと考えなければならない。というようなことをあさが来たを見ながら思う。朝ドラで評判だったのが、「おしん」である。これは明治時代の富国強兵がいかに、日本の庶民を痛めつけたかということが、ドラマの背景にあった。おしんは山に逃げ込んだ脱走兵と冬の山中を過ごしたのだ。八百屋から、スーパーの経営者になるが、幸せとは言えない。それが戦後の日本社会である。あさは金貸しの家に嫁ぐ。金貸しというものは毛嫌いされていたはずだ。そういう側面をもう少し出してもいいのではないか。金貸しが、福岡で炭鉱を経営をやるということがどんなことだったのか。明治政府と結びついて銀行経営をやるらしいが、歴史をきちっと抑えてほしいものだ。

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大豆の収穫

2015-11-27 04:21:26 | 自給

22日に大豆の収穫を行った。収量は128キロしかなかった。7畝であるから、ずいぶん悪かったことになる。昨年より30%も収量が減った。原因をあれこれ考えるのだが、なかなかすっきりした理由がわからない。分からないので一応連作障害なのかと考えたりしている。病気が出たとか、虫にやられたということはなかった。肥料の効き過ぎで、株が大きくなりすぎたというようなこともなかった。どちらかと言えば小さな株であった。全体を通して考えてみると、日照が種まきごと、8月から9月にかけて極端に少なかった。しかし、それだけとも思えない。一本ずつに実の付き方が悪いのだ。来年に向けて少し考えを変えなければならない。種を蒔いた後、ヒョロヒョロの苗で、これではだめだという時期があった。一か所にたくさんの種が落ちてしまい、例年より、1,5倍もの種を使ってしまったのだ。来年は播種器の種の落ち方を減らすように工夫する必要がある。ウネ間も広げる必要があるだろう。

畑に入ると、土が良くなっているということは感じる。ふかふかである。耕して柔らかくなったというより、自然に柔らかな土に変わってきている。堆肥をたくさん入れてきた成果だと思う。石も気が付いたら拾い出していたので、だいぶ減った。この後、小麦を撒く。麦にも何か異変があれば、連作障害のことを考えてみる必要が出てくる。今まで連作で悪くなるという経験はなかったので、まだよく分からない点が多いい。土がこんなに良くなって、収量が下がるというところで大いに悩む。大豆の難しさを感じる。大豆の連作では、根に病気が出るとあるが、そういうことはないようだ。堆肥を入れてもう少し深く耕す努力をしてみたらどうだろうか。麦を全量漉き込んだことで、それを分解するために窒素が収奪されたということはなかったか。これも考えてみる必要がある要素だ。麦を刈ってから漉き込むまで時間を置くこと。つまり堆肥にしてから、利用する。

改善点、1、土寄せを2回する。2、ウネ間を45センチにする。3、株間20センチ。4、堆肥を入れる。5、深く耕す。6、麦の漉き込み法の研究。7、予備の畑の考慮。

家の方の畑をもう少し、しっかりと作るということはある。家の方にしっかりと作れば、大豆が連作障害を乗り越えるまで、様子を見ることができる。連作障害については、いったん減収してもまた回復するものではないかと考えている。来年一年は大豆の会の畑として、大豆をしっかり作ることにしたらどうか。ただ、みんなの考えによっては、他の畑で一年耕作して、その間緑肥作物を作るということも考えられる。

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自民党の攻めの農業とは

2015-11-26 04:37:01 | 地域

自民党はTPPを受けて、攻めの農業を打ち出すということのようだ。報道も呼応して大型農業をしている方を登場させている。国際競争力のある農業が、やる気があれば可能なのだというイメージを、演出しようとしているのだろう。やる気と努力があれば、日本の農業には国際競争力がある。もちろんこれは間違いではない。一面的ではあるが正しい、まっとうな考えである。日本農業は沖縄から北海道まで様々な条件の環境の下行われている。世界との競争となれば、世界の様々な条件と競争をしなくてはならない。農業は自然環境に縛られた産業なのだ。北海道でサトウキビを作ろうという人はいないだろう。自然環境の条件を抜きにして農業のことを考えても、良い解決策は見つからない。日本でも地域の条件によって、きめ細かく今後の展望を分けて考えなくてはならない。

大規模な稲作であれば、国際競争力も可能な地域はある。高品質な果樹ならば世界に進出ことも可能だろう。また、都市近郊の軟弱野菜なども、地の利を生かした農業は可能なはずだ。その一方に、競争に置いてゆかれる、特に中山間地の農業が出てくるはずだ。むしろそうした地域の方が大きく、大規模化できない広大な地域ということになる。攻めの農業は必要であるが、同時、攻めから取り残される条件不利地域の農業をどうするかを考えなければならない。競争力のない理由は、そこで農業している人の努力不足でも、能力不足でもない。国際競争力で整理が進めば、条件不利地域はさらに耕作放棄が進むことは間違いがない。地方創生ということも言われる。地方がこのままで行けば、消滅するということである。これは資本主義の生み出している格差の問題でもある。農業を中心回ってきた地方であれば、その農業が条件不利であれば、その地域そのものが消滅することになるということだ。そこで日本の農業の今後の方針では、国際競争力のある農業を進めると同時に、さらに競争不利になる地域の農業をどうするかを峻別して考えなければならない。攻めから取り残される農業は消えてゆけばいいのかと、いう最終決断をしなくてはならない。

ここは意見の分かれることだろうとは思うが、中山間地の一定の水田は残さなければ、日本の水土環境は次第に衰えてゆくことになる。山にダムを作るよりも、中山間地の水田が維持されることの方が、有効な手段であると考える。日本の水土を手入れによって守る永続性のある、環境対策法である。美しい日本というものが、日本の観光産業の財産である。これを維持してこれたのは中山間地の農業である。消滅しかかっている地方で、お年寄りが産業的な孤立とは別に、ご先祖から受けついた山や田畑を守る意思を強く持っていたから日本の水土は守られてきた。先日も84歳になっても、石垣島で10ヘクタールの農地を守っている方にお会いした。その方が、TPPでもうだめかもしれないと言われていた。

攻めの農業の方は、政府が手立てを打たないとしても進むだろう。もし政府の補助がなければ、国際競争力が生まれないようでは、そもそも無理なのだ。企業に補助金の垂れ流しだけは止してほしい。TTPに伴って農業問題で主題になるべきは、条件不利地域の農業をどうするかである。水土環境を守るために必要な農地を、環境維持の農地に指定する。環境維持農地は放棄された場合は国が買い上げる。そして耕作してくれる人に環境維持のために貸し出す。私達が久野でお借りして耕作している農地は、私達がやらなければ放棄されていた場所である。放棄されてゆけば、地域の景観も、水土環境も間違いなく悪化する。土砂災害危険地区であるにもかかわらず、その対策は打たれずにいる。これで水田がなくなれば、さらに土砂災害の危険は増すはずである。全国にはこうした農地がいくらでもあるはずだ。

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石垣の民謡ライブの「結風」

2015-11-25 04:20:49 | 楽器

おもと岳山腹の川

石垣では三線ライブのお店、「結風」にも行った。ここは3人の若者が、ドラムとギターと、三線の唄者大城健さんという組み合わせで、唄っている。ウサギ屋さんと同じで観光客向けのお店である。ときどき大阪方面に3人で、ライブに出かけるといわれていた。エレキ三線である。三線演奏レベルの高度な人である。速弾き系である。ベンチャーズ歌謡のようなものを見せていた。何かリクエストがあるかといわれたので、大島さんのものとお願いした。通じなかったので、安克さんのものと言ったら、通じた。イラヨイ月夜浜を歌ってくれた。大島さんより上手かったぐらいだ。上手いからいいというわけではないのだが。この歌にある悲しみのようなものが、人間の悲しみの根源にある、何かという感じが、大島さんの歌からは響いてくる。ビギンの「島人ぬ宝」をうたった。これは実によかった。石垣島の唄だということが、切々とわかった。その土地で聞くことで、心のどこかがほどけてくるようだった。

「僕が生まれた この島の空を 僕はどれくらい 知っているんだろう 輝く星も 流れる雲も 名前を聞かれても わからない 」誰も生まれ故郷のことを分かったとは言えない。日本人に生まれても、日本の水土について分かることはなかなか難しい。それはつまり、自己確認ということが難しい時代ということなのだろう。生涯生まれた土地以外知らない時代であれば、その土地に生きる自分というものについては、何者であるかはわかっている。ご先祖に見守られて、子孫に託す明確な価値観を持って、生きることができた。結風の若者たちは、メジャーになる夢が溢れ出ていた。それが島人のバイタリティーというか、その勢いで盛り上がり、盛り下がる。石垣の人はくっきりしている。あいまいでない。ここが国境の島であったということを感じさせてくれる。

石垣島は世界で一番美しい島と言えるのかもしれない。この島を国立公園に編入するという環境庁の方針があり、反対運動が島にはある。島の農業の展開と、国立公園が相いれないものがある。マングローブ林を切り開いて田んぼにしてきた島である。そして、お米を外部に販売までできたのである。豊かな島なのだ。石垣牛を飼育する若い人が沢山見受けられた。ジャングルを切り開いて牧場を作っている。今年は、仔牛の値段が過去最高だと、八重山毎日新聞には出ていた。仔牛の生産をしている牧場もあった。八重山上布というものがあった。一時、八重山上布は粗悪品の代名詞になってしまったらしい。売れ出した時に頻出を落として大量に販売した。そのために、途絶えてしまったという。一方で、宮古上布は何とか頻出を保ったとある。そして今も宮古上布は最高のものとしての評価を保っている。現在の石垣の織物はミンサー織である。これは伝統工芸というより、創作模様に見える。もっと美しい伝統の柄があるのに、少し残念な気分だ。

結風の若者は、石垣を語っていた。茶髪の三線唄者大城さんの自己アピールが一番石垣を感じさせてくれたのかもしれない。終わってカウンターに座っていた時の表情にどこか遠くにいるような感じがした。石垣はいいところだ。しかし、そこで生まれたものにはまたその景色も違うのではなかろうか。ダイビングに来る人がたくさん来ていた。観光客と言ってもある種の傾向が感じられる。島の若者としては、少し抵抗がある感じかもしれない。余計なお世話に違いない。三線を持って石垣に言ったのだが、どなたにも教えていただくことが出来なかった。体験教室というのは、初めて三線を手に取る人向けでだめ。お願いしていた先生は病気でダメ。いろいろ案内に出ている指導の方をお願いしたのだが、結局どなたにも見てもらえなかった。

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移住したころのこと

2015-11-24 04:20:57 | 地域

石垣島に行って、移住したころのことを思い出した。田んぼの仲間の若いパン屋さんが、石垣に移住しようと思ったのだが、暑くてだめだったといわれていた。私は何度移り住んだのかと数えてみると、2年以上住んだ場所で10回である。あちこちに移り住んだことになる。もう一度移ろうかという気持ちはいつもある。それなら沖縄である。確かに石垣はいい。移住という言葉にふさわしいのは、山北に住んだころのことだろう。何もない杉山に自給自足の開墾に入った。この経過は以前にも書いた。その動機は出直しという気持ちだった。自分の生き方を根本から変えたいと考えて、東京のすべてから抜け出ようという気分だったと思う。だから、展望も、目論見もないまま、ただ自分の一番やりたいと思うことをやってみようと考えるしかなかった。それは鶏を飼い、犬を飼い、自給自足で暮らし、絵を描く暮らしだった。それ以外のものを振り捨てる移住。子供のころの暮らしそのままである。行き詰まるまでは自分には出来ないと思いこんでいた。

子供のころ外で寝るということが夢だったことがある。夜空の下でそのままゴロンと寝てみたいと思っていた。何度かその希望は口にしていたのだが、相手にされなかった。ある時風呂敷のような布をテントのように張って、外で寝てみたことがある。その晩は真夜中になって大雨が降り出して、挫折した。川をせき止めて、泳げるプールを作りたいと考えたことがある。今の「いやしの杜公園」お滝の森の脇に何日もかけて大きなプールを作った。その脇でわさびを作っていた、新屋のおっちゃんが気が付いたのだが止めないでくれた。さらにしっかりとしたものにして、泳いでいた。そんな暮らしをしたくなったのだ。夢はぼんやりとあったのだが、その一番が自給自足で暮らしてみたいということだった。たぶん祖父の「坊さんは本来自給自足で暮らしていた。」という、刷り込みがあったと思う。向昌院の暮らしは自給自足だった。蜂も飼っていたし、ヤギも飼っていた。田んぼも、畑もあった。桑を栽培してお蚕さんまでやり、機織りをしていた。

東京で行き詰まった時に、自給自足を考えたは当然だったかもしれない。目算があったというより、自分にはできないだろうが、それ以外に道はないと思い込んだ。鶏を飼いたいだけ飼った。面白かった。それだけで十分だと思った。何故そのころの気持ちを書いているかと言えば、移住に良い時代になったもんだと驚くからだ。30年前は移住者を排除する気分が強かった。石垣もそうだったようだ。房総に移住した友人が、ブルドーザーで道を塞がれた。そんなことは日常茶飯だった。山北では木を切る許可をもらわなかったということで、始末書を取られた。初めての事例だといわれた。小田原にきた15年前でも、農業者は引っ越しをしないという理由で、小田原の農業委員会から、農業者登録を拒否されたぐらいだ。たった15年前、こんな人権侵害が当たり前のことだった。地域の農業が衰退する理由に、よそ者の排除があった。それが大きく変わり始めている。

最近、うちで研修していたひとが、和留沢という舟原の奥の開拓のに移住した。私も15年前和留沢に家を探した。その時は受け入れてもらえなかった。そこで一つ下の舟原に移ってきた訳だ。和留沢で50家族を超える人が暮らしていた時代があった。今は10軒ない。日本全体で考えれば自給自足したいと考えれば、移住の適地は限りなくある。石垣には、移住者と思われる若い人たちと何度か出会った。瀬戸内の島が良いと思えば場所がある。九州の霧島に行きたい。あるいは岩手の岩洞湖あたりはどうだろう。などいくらでも場所がある。人口減少は移住者にはありがたいことだ。人間らしく暮らすにはよい時代が来ている。1日1時間働く。1反の場所があれば人間は生きてゆける。軟弱と言われてきた私程度の体力で大丈夫だったのだ。問題は観察力である。明日の天気がわからないければだめだろう。そのためには天気情報を集める能力と、空模様を感じる力を磨かなければならない。生きるための観察をして手入れを行う能力である。

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横綱の猫だまし

2015-11-23 04:44:41 | 身辺雑記

大相撲九州場所は横綱日馬富士の優勝で終わった。けがの続いた後、立ち直った見事な優勝である。スピードの速さでは過去最高の力士ではないだろうか。横綱白鵬が関脇栃煌山に対して、猫だましをして勝った。その昔、横綱大鵬に対して、平幕出羽錦が猫だましをして負けた。この時も大いに話題になった。横綱に対して失礼ということがそのときは言われた。下の力士が大横綱に勝つために秘策を使うのは許されるだろうという意見もあった。今回は上下逆様である。相撲は神事であり、芸能であるという気分で見させてもらっている。それは今の時代でもときどきは都合よく持ち出されることがあるが、親方の暴力事件が頻発し、同時に力士の賭博や八百長事件が賑わう時代なのだから、いまさらのことだとは思うのだが、相撲は神事の原点を忘れれば、つまらないものになる。

全勝白鵬はその後3敗した。なるほどと思う。猫だましを使うというところに、すでに心におごりや弱りが生じている。猫だましをしたときに優勝は無理だと思った。相撲は白黒が明確だ。勝ち負けが明確だからこそ、勝ち負けを超えたものがある。そこが面白いからつい見ることになる。人間が出る。出てしまう。土俵の鬼と言われた初代若乃花は、初日良く負けた。あまりに力が入りすぎるので、土俵の神様が鬼の心をいさめた。そしてそこから連勝した。場所中に急逝した北の湖理事長は最強の力士と言われた。確かに相撲に勝つ強さでは、白鵬や大鵬や朝青龍より強いと実感できる相撲だった。待ったをしないと決めていた。たとえ最初の仕切りで相手が立ち上がってきても受けて立つつもりでいた。悔しいことに一度だけ待ったをしてしまった。相手があまりに立ち合いが下手で、どうにもならなかったのだそうだ。一人相撲とはよく言ったものだ。

私が見たいのは見事な相撲である。それは勝ち負けではない。見事に負けていさぎ良い相撲は素晴らしいものだ。江戸時代には一人相撲という芸能があったそうだ。一人2役で相撲を見せるという、その芸は観客が「上手投げ」か声を掛けると、見事な上手投げを打つ。櫓投げ、下手投げ、いろいろの技を見せるわけだ。ところが、最も人気を博した芸が、負け相撲だったという。見事に投げられる姿を演ずるという。なるほど江戸時代の人の心のありようが見えるようだ。猫だましをする横綱はちょっと想像できなかっただろう。もし、藩お抱えの大関であれば、切腹させられたかもしれない。負けて切腹するとしても、勝ち負け以上に守らなければならないものがあった時代があるのだ。雷電はあまりに強いので、張り手で相手が柱に当たって死んだことがあり、その後『張り手』『突っ張り』と『かんぬき』は禁じられた。かんぬきでは相手の腕を折ってしまったのだそうだ。

朝青龍が辞めさせられてから、今度は白鵬が批判の対象になっている。強すぎると嫌われるという傾向もあるが、モンゴル出身ということが微妙に加わって、どうもすっきりしない。勝つために必死なのだ。何をやっても勝ちたいのだ。白鵬のその後の負け続けた成績を見れば、わかることだ。記録を総なめにした大横綱が、下り坂に入ってどのような身の振り方を考えるかも、大切なことだ。猫だましが通じないのが世間だ。それは安倍政権と同じではないだろうか。世界との経済の競争に勝つために何でもやれ、中国敵視、女性の活躍、移民労働力、アメリカの言いなり。理念や目的を失っているので、勝つことだけが価値観になる姿。それが国民の評価のすべてだと考えている哀れさ。法人は過去最高の利益を上げているのに、法人税を下げる。国民の格差は最大になっているのに、総活躍社会である。政府の猫だましである。白鳳の猫だましは新聞全紙がよく言わなかった。横綱の品格に劣るというのだ。確かに安倍さんの掛け声倒しは、総理の品格にかかわるようだ。

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秋の篠窪

2015-11-22 04:56:50 | 水彩画

秋の篠窪に描きに行っている。やはりいい所だ。篠窪の畑は冬野菜と、菜の花の緑に満ちていた。春に通ったところに行ってみると、惹きつけられるところと、そうでもないところがある。そして気づかなかった場所がとても気になる。春と秋では色彩が違う。篠窪には田んぼがあるわけではないので、果樹と野菜である。そして雑木林である。急斜面に苦労して畑が切られている。この畑は以前は麦だったはずだ。戦後の食糧増産の時代には、篠窪あたりはほとんどの場所が麦畑になった。それは舟原あたりでもそうなのだが、陸稲もあったそうだ。水と薪が近くもありところが、暮らしやすい場所とされていた。あしがら地域には嫁にやるなら、山田か内山、という言い習わしがある。水が家まで来ている。裏の山で薪が取れる。昔はこういうところが良いところなのだ。私の育った藤垈の家もそういう場所だった。今の時代では娘を嫁にやりたいような場所が、人が住まない場所になっている。

篠窪は大井町と秦野の境にある集落である。タクシーで行くなら新松田から行くとある。暮らしは渋沢の方向に出る方が便利なのではないだろうか。小田急線が新宿から、小田原までの間で唯一人家が途切れる場所がある。その場所から南の方の、急斜面を見上げた、その上の台地が篠窪のあたりになる。篠窪は富士山が見える場所があったり、相模湾が見える場所がある。ミツバチを飼われている方がいて、その「蜂花苑」が菜の花を休耕地だった場所にどんどん広げている。その勢いがあって、集落全体の農地に活気がある気がする。本気で作られている畑というものは絵に描きたくなるものだ。描きたくなるのは、たぶんその畑の主の心意気である。自然には自然に戻そうという圧倒的な力がある。人間は常にこの自然の力を交わしながら、畑を作ることになる。

自然と人間が暮らしという形で折り合うものが、里山である。畑以上に薪炭林ということが里山を作り出す。畑の10倍もの面積がなければ、人間は燃料を得ることが出来なかった。エネルギーの供給ということでは1町歩の山林が必要だった。子供のころ12月に入るとの薪の生産の重労働が3週間ほど続いた。子供の私にはそれが楽しい作業だった。子供でも本気で労働力として、評価された仕事だ。終わると賃金をもらった記憶がある。この薪づくりはある年から、突然中止になった。プロパンガスが来たのだ。中学生のころだったか。叔父さんにお嫁さんが来たので、もう薪の暮らしは出来なくなったのだ。あの薪を作るということが、100家族が住んでいれば、100町歩の山が管理されるということになる。もし炭焼きを生業にする人がいれば、さらに広大な山が管理されてゆくことになる。

人間の手入れで出来上がっているのが、里山の風景である。だからもう里山風景というものは、失われた景色ということかもしれない。それでも自然に戻ったものはまだいい。景色で一番いけないのが家である。大半の家がメーカーの工場生産品になった。こういうものを絵に描く人はいないだろう。風景に溶け込まないという一番の原因は、なじまないということだ。時間の経過とか、繰り返された手入れで出来上がるという感じがない。工場製品だからいけないというより、暮らしの方が変わって、篠窪でもたぶん大半の人が、勤め人になったということだろう。だから家を描きたくなるのは農作業小屋である。よほど風景に入り込んでいる。篠窪の畑は急斜面であるのだが、意外に機械が入っている。機械が入るだけの道が張り巡らされている。この道のつけ方というのも絵になる場合とそうでない場合がある。

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石垣島の田んぼを描く

2015-11-21 04:14:39 | 石垣島

 

石垣では絵を描いた。10号の絵を4枚描いた。毎日絵を描いていたという感じである。田んぼと畑の絵である。島中農地としてよく整備されている。島の南におもと岳という山があり、500メートルある。そのほかにも、10峰ほど山がある。程よい山がある島というのは、実に美しいしものだ。美しい自然だから絵を描きたくなったわけではない。昔ならこういうところを描いたなというような場所を、今は描きたくならない。今は自然と人間の関わり合いの中で、程よい落ち着きを見せた畑というものが描いてみたい。石垣は11月の20日で連日30度を超えている。太陽の光の角度は小田原の真夏と同じくらいの感じだ。じりじりとした日差しが、地面を焼いているようだった。この光が表わしている、石垣の田んぼが面白い。実った稲と、刈り取られたばかりの稲株。その隣で、代掻きをしている。いつでも田植ができる。そして必ずしも収穫できるとは限らない。これが石垣の田んぼのようだ。

稲が根元からねじ切れるというほど、自然が厳しい場所だ。やられてもまた立ち上がって自然に向かってゆく。そういう強い意志を感じる田んぼだ。絵では、他人事のように美しい自然とのかかわりと言えるのかもしれない。傾斜地には石垣牛の放牧地や草地も広がる。サトウキビ畑が一番多いいかもしれない。しかし、本島や宮古のサトウキビ畑のように、ザワワという感じではない。起伏があるから、背の高いサトウキビを上から眺めることになる。もぐりこんで見上げるという感じではない。サトウキビというものも、いつの時期でも植え付けから刈取りまでなんとなくてんでのようだ。地域でこぞって同時に行うということではない。それぞれの仕切りで、進められているというところが、自由で自主独立の気風を作ったのかもしれない。厳しい自然に立ち向かい、やられてもめげない精神を確立させたような気がした。それは絵を描いてそう考えるようになった。

石垣ではお米が自給以上に取れていた時代がある。蓬莱米の時代である。蓬莱米は台湾のお米である。それが沖縄でも作られるようになった。そう思っていた。ところが八重山毎日新聞の記事によると、蓬莱米は台湾統治時代に日本人の農業技官が改良して、台湾向きのお米を作ったということだ。それまで、台湾ではインディカ種だったものをジャポニカ種に変えていったということのようだ。熱帯向きのジャポニカ種の改良が蓬莱米ということらしい。この八重山無い日新聞というものは、とても内容の濃い新聞である。こういう新聞なら、毎日でも取りたくなる。高校生の俳句が出ていて。覚えているかな。えーと、「天高し ぐらり頬杖(づえ) 5時間目」実に石垣らしくていいと思った。この新聞の肩書には、「視点は世界  視点は郷土」とあった。家庭学習の強化のポスターが目立ったが、勉強だけじゃやない。牛も、サトウキビも、お米も、実に厳しいことになるだろう。石垣の農業がいつまでも続くことを願う。

おもと岳の奥深く入った。それは深い熱帯のジャングルそのものだ。流れる川が幾重にもある。本島のやんばるのジャングルよりも、怖い感じに身がすくんだ。八重山タイムス紙には、西表の小学校には父兄ともども、島を横断する行事があると書かれていた。今年は8時間かかったが、無事横断に成功したと書かれていた。何か、成人の儀式を読むような気がした。石垣には人の立ち入れない場所がある。人が暮らすすぐ隣に、簡単に入ることができない場所がある。放牧地の向こう側は、自然であり、境界がある。それは自然を敬うというより、緊張関係になる。夜そのあたりにごろんと寝転んで寝てみようなどと思える自然ではない。しかし、一歩距離を取ってみれば、限りなく美しい島である。

 

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石垣ウサギ屋本店

2015-11-20 04:03:17 | 暮らし

 

三線を稽古している。5分だけでもともかく手に取るようにしている。石垣にも三線は持ってきているぐらいだ。石垣島に田圃を見に来た。日本の最南端の田んぼを絵に描きたいと思ったからだ。いい場所が見つかり描いた。マングローブの密林だったところが切り開かれ、田んぼになったということがよくわかる。そのことは別に書くにして、もう一つの目的が石垣の唄を聞くことだった。石垣は大島保克さんの生まれた島だ。ビギンも、夏川りみさんも、ニイヤマ兄弟も、ヤナバラバーも、そして大工哲弘さんも石垣の人だ。石垣の唄が好きだ。石垣には沖縄本島とは違った歌があるのだそうだ。八重山は歌の島である。伝統的な歌謡は古謡だけでも800曲を超え、節歌は150曲に及ぶとある。旋律の美しさは言うまでもなく、その詩句は他の地域の歌と比べて自然に対する観察力が優れ、情感が豊かで格調高即興で歌われる抒情歌「トゥバラーマ」も含まれる。

「トゥバラーマ」の大会では、新譜コンクールというものがある。その年の一番の歌詞に賞が与えられる。どうも即興で歌われるものであり、歌い方はそれぞれ違ってよいということらしい。歌詞も、五七五七七のような定型はなく、曲の節回しに合うように歌えばよいという。実に面白い歌の成立ではないか。このゆるい感じが石垣らしい。これは歌だけではなく、祭りなどで演じられる劇が、その年の即興劇になっているという。本土からの寄留民、台湾からの農業移民、沖縄本島や宮古からの開拓移民など、さまざまな人が移り住んだ島だ。それだけ暮らしやすかったのだろう。そして、独特の文化が融合して変化を続ける。暮らしの楽しみ方が半端でない。三線は誰でもが演奏していたものではないようだ。太鼓でリズムを取りながら、歌うというのが昔からのやり方のようだ。「アサドヤユンタ」は小浜島で生まれた歌のようだ。その原型をユーチューブで聞いたが、なかなかいいものだ。

ウサギ屋についにやってきた。具志堅昌美さんという唄者が実にエンターテイナーなのだ。1時間半ぐらいのステージをパワフルに観客をうまく巻き込みながら、よい空気を作り出す。この人の魅力には圧倒されるものがある。本島の民謡酒場とはちがっている。何か石垣らしいものを作り出している。石垣の気風はもう少し剛直なものではないかと思える。短い滞在であるが、本島とも、宮古島とも違う独特の気風がある気がする。リーダーシップがあり、よくわかる自己主張がある。そうかこれは島国日本ではない、国際感覚なのではないだろうか。それにしても誰もが親切である。これがおもてなしの島ということだろう。東京の人は、一度は石垣に来て、おもてなしを学ばなければ、オリンピックで恥をかくことになる。本島のおもてなしは決して卑屈に相手の主張を受け入れるだけではないということ。相手の間違いを間違いとして教えてあげることもおもてなしだ。ウサギ屋の心地よさはそういうものだった。大工さんの強直で、穏やかというのもこれなのだと理解した。

三線を知ることで、沖縄の唄というものを知った。唄を通してだんだん沖縄が分かってきた。昌美ねーねーが唄う歌はどれも一緒に唄えた。エイサーの太鼓踊りも迫力満点で実に爽快だ。気分は最高に盛りがった。もちろん、カチャシーも踊り狂った。連夜行きたい気分だったが、それはさすがに止めておいた。ウサギ屋には日本全国、もちろん中国からも来ていた。いなかったのは東京の人だった。いつも思うのだが、神奈川県人は必ず何人かいる。人口比率からしておかしいと思う。そんなに広い店ではないのだが、あふれんばかりの観光客がはじめて出会ったにもかかわらず一つになる。そして、1時間半でうまく終わる。よく出来上がった一夜のショウーに磨き上げられている。このみがき上げ方がウサギ屋ショウーの魅力なのだろう。大宮にもウサギ屋はあるということだが、果たしてどう盛り上がっているのだろうか。

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石垣の田んぼ

2015-11-19 04:12:42 | 稲作

 

今日も石垣は暑そうだ。11月半ばで小田原の8月の日差しである。連日30度は超えている。石垣島と西表島の田んぼは相当に古い時代に始まったものらしい。八重山の稲作について研究されている、安渓遊地編著による。「西表島の農耕文化――海上の道の発見」という本がある。まだ読んでいないのだが、この本には八重山には縄文期に海上の道を通って稲作が伝わったということが書かれているという。古いイネの品種を調べて、南方のイネの遺伝子を確認している。その後西表には蓬莱種という台湾のお米の流入があった。西表島はもう台湾が目と鼻の先である。台湾からの遺留民もたくさんいる。この2つの島は、稲作の適地ということで、稲作のために他の島から出作りのようなことが行われていたらしい。島津藩による、強制移住ということもある。現在の稲作は、一度失われて、又本土からの技術として逆輸入されたものではないかと思う。そこには島津藩の支配なども影響している気がする。いずれにしても、石垣や西表島は田んぼには適地だった。

石垣島でも西表島でも田んぼを作るために、他の島から移住させられたり、また出作りをしていたということである。この二つの島が田んぼができる、つまり暮らしやすい島であったのだろう。平地もあるし、山もある。それなりの川が普通に流れている。これは宮古島ではなかったことだ。マラリヤやそのほかの風土病には悩まされたようだ。田んぼに入るということはそういうリスクを冒すということでもあったのだろう。これだけ暖かいのだから、どれほど台風が通る場所であろうとも、大きな台風が来るところであろうとも、この島はよい島であったに違いない。「テンペスト」の池上永一さんの書いた「王様は島にひとり」という雑誌連載をまとめたらしい本を飛行機の中で読んだ。文というものひねくる人のようだ。言葉をもてあそぶ中で、石垣の置かれてきた位置ということを実感させられた。そのことは本土に生きる人間として、心にとめておかなくてはならないことのようだ。

石垣では仲新城淳さんという方が耕作をされている。60年も自然農法の稲作を続けられている方である。南の地方では病虫害や、雑草の駆除に苦労するといわれる中、独特の農法を作り上げている。83ぐらいになられているはずなのだが、とてもそんなお年には見えなかった。お尋ねした時は朝の9時くらいだったのだが、5時から作業をされていたといわれた。大きなトラックたーで代掻きをされているところだった。トラックたーを畔に乗り上げてお話を伺うことができた。実に論理的な方で、明確に南の地域の自然農法の稲作を整理されていた。虫の問題、雑草のこと、田植え時期のこと、土壌の問題。品種の問題。すべてに科学的な思考をされていた。そうした方だからこそ亜熱帯における無農薬の稲作を完成できたのだろう。神がかり的なところはみじんもなかった。学問をされてきた方の風格があった。

特に興味深かったことは、田植え時期のずらし方である。石垣ではほぼどの時期でも田植可能らしい、12月初めから2か月は生育が止まるということだ。それでも今年は12月1日に田植え予定ということで、代掻きをされていたから、どんな時期でも可能といえばいえるのだろう。80を超えて、10ヘクタールの田んぼをやられると、しかも、息子さんとは別のものとしてやっていることのことだ。息子さんは農協に出しているそうだった。そうした方は、周辺で20名おられるそうだ。石垣にはまだほかの地域にも田んぼは残っている。水はダムができてから全く困らないそうだ。一番こっているのは、カモや雀の野鳥だそうだ。ひどく増えてしまって、今年は全滅した田んぼもあったという。自分のように一人だけ違った時期に実ることになると、野鳥の被害はひどいことになるといわれていた。2季作、3季作が行われていた。それが同じ田んぼで500年は作られ続けたのだ。台風の何度も通る場所だから、全滅覚悟で作るということもあるのだろう。

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真南風(まはえ)と魚住けいさん

2015-11-18 03:46:33 | 石垣島

 

石垣島に来ている。一度は来てみたいと思っていた。魚住けいという人に思いをはせる。お会いしたこともなかった人である。ここ何年かはこの人のやろうとしたことを考えては、農の会の行き先を考えてきた。考えて何かが出来たわけではないが、この人の残した言葉は深い。「まだ見ぬこれから出会う人たちと連帯してゆく。」というような言葉がある。「私たちが困っているときに助け合う、隣の人につい手を差し伸べてしまうというような、人間としての痛みを分かち合う、そして喜びも分かち合う、そういう普遍的な人間の営みの一つであるというふうに思う」こうした生き方を貫いて亡くなられた方である。石垣島に2年暮らして、真南風というものを残した。「日本列島の山地・海辺の人々も地形・風土に調和した暮らしぶりをもっておりました。強権をもって追われ、潰えたといえ、千年の列島生命譜の末裔こそ、私たちにほかならず、沖縄の島々と向き合おうとすれば、遠い視線をもって今更にここを誇りと致さねばなりません。」

「島は小さくとも美において大いなる島」(柳宋悦氏)と讃えられた、島の華であり、宝である工芸。数々の手の技、暮らしの中から生まれた堂々たる美「手ぬ花(ティヌパナ)」。島の工芸・民芸の底に鎮もっているのは民族の息づかいであり、魂の語り部の声そのものなのです。 観光化のために万一にもその精(シイ)が衰えてゆくことがあってはならないことです。この分野におきましても私どもにできることを問いつつ、非力もかえりみず手も足も働かそうと思っております。

社会破壊・環境破壊としての復帰を経験した沖縄が、この眼力をもって「沖縄発」としてアジアや世界に送るものが、たとえば循環する交易であり、貧しく虐げられた国々の民衆に対する共感・共生の援助のプログラムであってほしいと願いは募ります。日本に住む私たちがそのパートナーとしての自己形成してゆくことは尚大切なことでしょう。沖縄が世界に向けて発信する「島の叡知」の中にこそ、さし迫る21世紀を生きる人々に継承すべき、普遍の風土の象(かたち)が埋めこまれているのではないでしょうか。

このように問いかけている。魚住さんの思想をかみしめるとき、さて自分の田んぼはどうだろうかと思う。こうして小田原の自給の活動を考えてきた。現状で仕方がないというのでなく、未来の人に託することのできる価値観を持って活動を見直してゆかなくてはならない。と思うと力の不足を感じざる得ないのだが。農の日々の暮らしは平凡で、なんということはない繰り返しである。しかし、この当たり前の日々こそが、石垣島の田んぼにつながっているということは、いつも確認してゆく必要がある。石垣には真南風のメンバーの一人である、仲新城淳という方が78歳で、9ヘクタールの田んぼを自然農法でやられている。今日この方にお会いできる。そのことはまた改めて。沖縄本島でも、宮古島でも田んぼはほぼ無くなってしまった。田んぼを失ったときにその土地は日本ではなくなってゆくのかもしれない。そのことをまだ田んぼの残っている石垣島で考えてみたいと思っている。

石垣は日本で一番古い人骨の出た島である。縄文初期の1万年を超える人の暮らしの有った島である。日本でも最も古い地層があるという。3季作の田んぼであれば今頃稲刈りである。2季作と聞いたことがあるが。 6月の稲刈りは報道されることがあるが、果たしてどうなのだろう。私としてはやっと出かけれられる季節になった。石垣島で田んぼの絵をかいてみたい。よく見てみたい。目にとどめておきたい。そして来年の田んぼのことを考えてみたい。絵も描いてみたいと考えてきた。そう、私の三線は石垣で作られたという伝説を聞いている。石垣のくるちで作られたという話なのだが。石垣は大工哲治さんの島であり、歌の伝統も深い島である。出来れば石垣の歌トラバーマを聞き、三線の師範から指導を受ける予定でもある。この項もまた改めて。何しろ暑い。ついた夕方でまだ28度あった。早朝の今でも暑い。

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パリのイスラム国テロ

2015-11-17 04:04:56 | Peace Cafe

パリで大きなテロ攻撃が起きた。世界中で起きているテロが、いよいよパリのど真ん中で起きた。ニューヨークのテロ攻撃を思い起こす大惨事だ。イスラム国の自爆攻撃である。これはまだ始まりと考えなければならない。たとえイスラム国が殲滅できたとしても、テロ攻撃はますます激しくなる世界情勢と考えなければならない。現代の都市社会が無差別テロ攻撃にどれだけ弱いものであるかがわかった。日本も他人事でないことが、理解できたかと思う。多くの人がテロ攻撃に対して、無力であるということを痛感したと思う。しかも、報道の多くは対抗策のないことを嘆いている。フランスは即座に空爆で報復攻撃を行った。そんなことでテロは防げないことはわかっている。むしろこうして、暴力の連鎖が広がってゆくことになるだろうことが想像される。テロをなくすためには、日本国憲法に示された平和主義しかないのだ。

国同士の全面戦争は、起きにくくなっている。軍事力があまりに巨大になり、全面戦争になれば、地球の滅亡が待っているような状況である。こうした行き詰まった状況がテロを生んでいる。テロは格差から来ている。テロは貧困から起きるという報道があったが、そうではない、格差から起きていることを明確にしておく必要がある。それは資本主義の競争の正義が原因である。競争に敗れるものは、敗れる責任を自ら負わなければならないという論理。資本主義というものは、強者に都合の良い思想だ。勝つものが正義となる。著名なものが価値あるもので、無名のものは無意味なものになる。人道主義的にあらゆる人間が平等であると建前では言われながら、能力差というものは差別になっている。能力があり、努力をしたから、勝者になった。裏返せば、能力がなく、努力をしないから、敗者になったのだ。その責任は当人にあるという、差別である。世界1は一人という思想が資本主義だ。人間の格差、人種の格差、国の格差。これがテロになって表れている。

テロをなくすには格差をなくすほかない。世界は極端な格差社会に進んでいる。アメリカのような豊かな国ですら、食事も満足にない子供たちが多数存在する。その貧しい子供たちは、肥満なのだそうだ。安い食事は肥満を生むのだそうだ。アフリカの木がとは違った、何という社会のゆがみか。ヨーロッパに押し寄せる難民がいつか、テロの要員になる可能性がある。ヨーロッパで豊かな暮らしを期待して移住したとしても、そこには差別があり、極端な能力主義がある。かならず、社会から落ちこぼれてゆく人たちが生まれる。資本というものからは、利用できる労働力である内は価値を見出されるが、いったんその枠から外れてしまえば、無意味な存在として排除される。まして、キリスト教徒でない異教徒である。イスラム国に参戦するヨーロッパ出身者も多数存在する。私がいたころのフランスでの、アラブ人に対する差別はひどいものだった。

日本は日本国憲法に示されたように、独自の平和外交を展開しなければならない。武力を用いない国際紛争の解決である。それは現実の深刻さを見ると、無力に見えるかもしれないが、それ以外に道はない。第2次世界大戦を経験した世界が痛感し、その悲惨の末生まれたのが日本国憲法である。武力で解決できるもはない。戦争では何も解決は出来ない。日本政府は国民に対して何の断りもなく、有志連合とやらに入っていた。安倍氏などは当然の顔をしているが、有志連合に入らないで、日本らしくやることはいくらでもある。日本がアメリカの手下に入ったとしても、さしたる役には立たない。アメリカ、ロシアが空爆してもダメなところに、自衛隊が加わったとしても、アメリカにはご褒美をもらえるかもしれないが、テロの撲滅には何の役にも立たない。日本は平和憲法を手段として、日本独自の平和主義を愚直に貫くことの方が、まだテロ撲滅に役立つ。

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日本原子力研究開発機構の失格

2015-11-16 04:00:02 | Peace Cafe

原子力規制委員会は13日、高速増殖炉もんじゅの運転主体である日本原子力研究開発機構には適格性に重大な懸念があるとし た。これは大変な事態だ。高速増殖炉という危険な施設を運営してきた、日本原燃が無能であると決めつけられたのだ。大きな事故を何度も繰り返してきた。そして繰り返し改善の指示が行われた。しかし、結局は組織自体が、無能集団だから運転は無理だから、止めろということになったのだ。これは政府の責任が重大だ。文部大臣や官房長官はまるで自分たちに責任がなかったような回答をしている。管理体制を理解していない、恐ろしいことだ。周辺住民は日々命の危険にさらされていたというのに、なんという鈍感なことか。日本のエネルギー政策の根幹にかかわることなので、次の運営主体を見つけて、継続してゆくなどとのんきなことを述べている。いったい日本原燃の無能な運転の原因究明はやらないのか。杭打ち偽装と同じで、何故こういうことが起きたのかがわからなければ、繰り返されることになる。

原因は能力を超えたことをやっているために起きている可能性が高い。なぜもんじゅを廃炉にできないかと言えば、原子力発電所で出る核廃棄物の処理ができないからである。地下深くに埋めるということになっているが、その適当な場所が火山国で太平洋プレートの淵にある日本にはない。そのために、原子炉の上の仮置き場のプールににあふれんばかりにたまっているのだ。もんじゅでは核廃棄物が出ない。プルトニュームという原子爆弾の材料になる核廃棄物を直接使えるというものだ。しかも消費される以上に燃料が再生産されるという、夢のような技術は、まだ完成していないのだ。高速増殖炉は夢の技術ではあるが、到底完成できない厄介なものだ。無理な技術ということは、ほぼ分かってきたのだが、止めることができない。こんなばかばかしい施設に1兆円を超えるお金を捨て金にして、日本原燃にやらしてきたのが政府のエネルギー政策なのだ。こんな環境では無能集団になるのも当然と言えばいえるのだ。

世界中で挑戦してあきらめた高速増殖炉。アメリカ、イギリス、フランス、ドイツとあきらめたものだ。六ヶ所村の核廃棄物の再処理工場でも、やはりうまくゆかない。ここもうまくゆかないのに、再処理の研究を続けている理由は核のゴミの行き場がないからなのだ。核のゴミの処理に見通しのない政府としては、この2つの施設を止めるに止められずしがみついている。運営主体が無能という以上に、政府に見切りをつける判断力がないのだ。世界中で事故が繰り返され続け、あまりに危険だということでやめた技術が高速増殖炉なのだ。ところが、引き返す勇気のない日本政府は、つまり一度行った政策を間違っていたといは言いにくい日本の社会の仕組みに原因がある。企業なら倒産である。建前社会では、核廃棄物がリサイクルされ、資源になるという建前技術だから捨てきれない。核廃棄物はすでに満杯である。

もんじゅを止めるということは、原子力発電を止めるということになる。現状では核廃棄物の地下処理に見込みがないのだから、再処理が出来なということになれば、さすがの政府も原子力発電の中止を考えざる得ない。核廃棄物が処理困難物と決まれば、原子力発電の電気価格は一気に高いものになる。現在、価格に入れられていない理由は、資源と位置付けられているからだ。電力会社も当然原子力から手を引くことになる。政府の交代がなければ廃炉は出来ない。日本原燃の交代だけでは処理が着かない事態なのだ。無能な政府が過去を引きずっていて、方針の転換ができない。こういう時は政権交代だ。ところが、交代すべき政権がない。ダメな自民党政権が改心するのを待つしかないのか。とすると、原燃がだめだったように、最後は日本は沈没なのか。恐ろしいことだ。

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