地場・旬・自給

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緑肥クリムソン・クローバー

2008-09-30 06:53:16 | 自給
今年の春の田んぼはレンゲを栽培していた。花が一斉に咲きだした頃、虫にやられた。アルファルファタコゾウムシではないかと思われる。何とも哀れな姿だったが、対策といっても良く判らないので、レンゲを止めて、クローバーにしようと思う。同じマメ科だし、効果があるのかは判らないが、変えて見る事にした。一度秋に土を起こして、蒔くことにしたいと思う。ちょっと面倒だけど、田んぼの均平を直したいし、畦も直したい。今年は一番下の田んぼが、一度も漏らなかったので、本当にありがたかった。みんなで直してくれたお陰だ。それでも、上の田んぼから中の田んぼへ。中の田んぼから下の田んぼへは何度も漏った。畦も崩壊といえるように崩れた。応急処置で秋まで来れたのは幸いだったが、水のない時期に根本から治したい。その上で、クローバーを蒔こう。

以前、白クローバーいわゆるシロツメクサは蒔いたことがある。どうもこれは雑草化して、広がる傾向がある。思わぬところに出てきて雑草化するので、ご近所に顰蹙を買いそうで使えないと思った。その点、クリムソン・クローバーは夏の暑さで枯れてしまい、一年草のような使い方になるらしい。もちろん花が赤い。一面咲けばとても美しいらしい。この点は喜んでもらえそうだ。先日亡くなられた、自然農法の提唱者福岡正信氏はクローバーを上手く使われていたらしい。「わら一本の革命」を読んで以来の、興味がある。不耕起直播農法という最も、自然状態に近い農法を完成する。何度も挑戦したが、手間ばかりかかり成功したことはない。とても観察力が及ばないのだと思う。素人が行う自然農法はほっとく農法ではなく、はるかに労働を必要とする農法になってしまう。適期を逃すからだと思う。

実験的に果樹園の上の方に先ず蒔いてみた。レンゲも簡単なようだが、一面に生やすのは私には難しい。撒く時期と言う事もあるが、土の湿度の状態にどの程度対応できるか。秋雨との兼ね合い。田んぼの水はけが重要。と言って乾ききったらダメ。その点菜の花の方がうまく行く。今年も、全体では2反は蒔いた。ばら蒔きでやるのだが、雨を見計らってやれば、結構発芽する。2反の菜の花が、鶏の冬の緑餌が余るほどになる。花もきれいだし、田んぼにもやればいいようなものだが、私がやると草がすごいことになる。やはり田んぼはマメ科のほうが良い。ヘアリーベッチは草量が多いいし、作りやすくていいのが、見た目がぱっとしない所が残念だ。やはり田んぼが美しいと、近所の人にも楽しんでもらえる。

しかし、何時までも種を買っているのは良くない。菜の花の方は、もう何年も自家採種だけれど、発芽も良いし草量もあって、とてもありがたいものだ。クリムソンクローバーは夏の暑さで枯れてしまうそうで、自家採種も無理なものらしい。なかなかどれもこれもいいという訳にはいかないが、ともかく今年は実験のつもりでやってみよう。

昨日の自給作業:草刈1時間 累計時間:33時間
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おくりびと

2008-09-29 05:31:20 | 身辺雑記
久し振りに映画を見た。感動した。素晴しい映画だった。日本映画ベスト10に入る映画だろう。「おくりびと」滝田洋二郎監督の映画だ。滝田監督の映画は以前見たものでは「木村家の人々」が印象に残っている。石井聰亙監督の「逆噴射家族」を思わせるブラックユーモアーで守銭奴家族の姿を描いていた。その後あれもこれもというように、エンターテイメント的に作っている。「おくりびと」については映画館で見ようと思った。死体という物を扱う映画を、家という日常で見ても、肝心の部分は感じられないだろうと思った。調べると小田原でも上映されていて、TOHOシネマだ。ダイナシティーの中にある映画館。量販店、スーパー、何でもかんでもある、所謂郊外型アミューズメント施設。初めて行く事になった。これが最新の仕組みのようで、インターネットでチケットは購入できるし、座席が指定できる。しかも、1人1700円の映画が夫婦は2人で2000円というチケットまである。座席もゆったりしている。音響も良い。昔の映画館とは大違いだ。

「おくりびと」を見たかったのは、死がテーマだから。「生をあきらめ、死をあきらむるは仏家一大事の因縁なり。」私も生臭い僧侶である。異形の者である。仏教者は生と死を見つめることを目的とし、死者と対面する目的で葬儀を始める。しかし、宗教としての仏教は形骸化し、死に対する宗教的救済は仏教の役割としては、失われている。死に対する伝統を失った社会で、死体というものに直面する方策を持たない人間。死者への対応は今や、セレモニーハウスの職員が担っているような状態である。もちろん地域差はあるだろうが、小田原での葬儀は葬儀専門会場で執り行われることが、ほとんどである。ここ10年の急速な変化だ。いよいよ、家庭出の日常の暮らしと死は距離を持ってきている。死は忌むもので、まして、死体という物は不気味な、不吉なもの。この映画は、日常からいよいよ遠くなっている死体を扱うという、ある意味タブーに踏み込んでいる。

日本人の死生観は、とかく生き様とか死に様とかいうような、武士道で象徴される切羽詰ったような、死生観といいながら、人生観になりがちである。だから日々をどう生きるというようなことになる。この映画は、死を門だとしている。これは西洋的、キリスト教的な思想ではないだろうか。「納棺士」という、本当にあるのだろうか、と思われるような職業の話である。小田原や東京ではないと思う。もちろん葬儀屋にそうした担当はいるが、わざわざ葬儀屋から外注するように、独立しているとは聞いたことが無かった。この職業を通して、死体と言う物を見つめてゆく。ここでその死体が生きた道へとは辿らない所が、際立っている。死からむしろ始まる世界が暗示されている。が、それも暗示にとどまり、死体という物へのこだわりが中心に据えられる。

主演の本木雅弘さんが素晴しい。この職業の意味をよく、深く、理解している。この演技が出来る俳優は他にはいないだろう。本木さん10年も昔にインドの死者の弔いの写真集を見て、インドでの死者の在り様がまるで違うことを感じ。いつか映画を取りたいと考えてきたらしい。山形酒田の素晴しい自然を背景に、この映画は撮られている。これが東京のような都会では、こういう映画はできない。やはり、人間が戻ってゆく場所は、豊かな自然の中にある。全編チェロが流れているような錯覚に陥るが、チェロという楽器の音色が又、この映画のテーマに実に適合している。音楽担当の久石譲氏が素晴しいのだろう。良い映画を観た。

昨日の自給作業:草刈1時間緑肥蒔き1時間 累計時間:32時間
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ごぼうの収穫

2008-09-28 06:31:32 | 自給
ちゃんとした牛蒡が作れないようでは、百姓でない。そんな風に思い込んできた。筧次郎さんの「百姓入門」を読んでからだ。もちろん毎年作ることは作った。食べることも食べた。でもこれが牛蒡だ。と人に言えるような、牛蒡はできたことがなかった。筧さんは、手で掘る牛蒡の価値がわからない人に、自分の農作物は食べてもらいたくない。こう言い切る。と言う事は、手で掘ることが、大変だと言うほどの牛蒡ができていると言うことだ。恥ずかしながら、長さ1メートル以上、太さ3センチと言うような普通の牛蒡は出来たことがなかった。だからわざわざ掘る労働を人に言い募る必要はない。それがついに今年は50本ぐらいは出来たのだ。1メートル掘っても、1メートル下が畑の土になっている。ちょっとこれは自慢したい。この前から集荷場では、牛蒡の堀時を聞いていた。松本さんなどは、私が牛蒡を栽培できるなど、端から考えても居ないから、出てきた牛蒡じゃ、土が固いから、伸びていないでしょうとか、トンチンカンなことを言っていた。今までの畑の耕作はそう言われても仕方がない。まさか種を撒くわけがない、こぼれ種から自然に出てきた、ごぼうに違いないと思っているのだ。

畑は土作りばかりしてきた。先ずは作物を作るより、土づくりだと思ってきた。3年前まで草もはえない、化学肥料の畑だったところだ。それが放棄されて、2年。そして私が畑に戻して、2年。やっとまともに成ってきた。始めの頃は、変な虫ばかり出た。一日で、葉物の苗が食べつくされる。何を作っても癖がある。ここを畑にするには、土づくりのための耕作を続けることだと思って、根気良く、採れないでも採れないでも、作物を空けずに作った。草も出したが、作物は常に何かしら栽培していた。機械は一回しか入れなかった。耕さなかったが作物が耕す、草が耕すと言う事を、重んじてきた。耕土も極端に浅かったが、作毎に深くなる感じはしたのだが。ごぼうがきれいに出来て、スックット抜けるような土になればと、願っていた。少しづつだが、美味しい作物ができるようにやっとなってきたようだ。私にとっての「土づくり」は鶏を飼う事だ。鶏小屋にどんどん草を入れる。草が山となり、鶏の鶏糞と混ざる。それを畑に入れる。これを繰り返していれば、他には何もしないでも土がよくなる。こう思ってやってきた。

土が良くなるとはどう言う事だろう。草の種類も変わってゆく。窒素分が増えて、柔らかな草が増えるというのもあるが、それだけでなく、畑には迷惑な、妙な嫌いな、爬虫類的草が徐々に減っていく。生えていても許せるような、草生栽培や自然栽培が可能な草に成る。これは化学肥料や、消毒を一方で使っているとすると、どうにもそうはならない。だから草は排除する以外なくなる。特に除草剤を使っていた畑の雑草というのは、たちの悪い奴らが多い。この辺は不思議なものだ。結局どんな土づくりや栽培法でも、継続してみないことには見えないことがある。私の思う良い土とは、腐食分の多い土。ふかふかで水はけがよく、水溜りの出来ない土。硬く締まっておらず、団粒化している。一間ぐらいは竹杭が刺さる土。良い微生物が豊富で、入れた堆肥が良い発酵になる土。どうすればそうした土が出来るのか。

表土を風雨にさらさない。草堆肥を沢山入れる。常に作物を作っている。大雨でも表土が流されないような、地勢にする。作物を作る順番を良く考える。連作のほうがいいものもある。日当たりのいいことは、何より重要。日当たりは何万年同じく良かった。化学物質をいれない。虫を敵としない。畑の周辺の草の利用や敷き藁を重視する。時に天地返しも必要だが、基本は耕さないでも、耕したようになること。上から上から、必要なものを重ねてゆく気持ちで。堆肥は入れないが、畑屋鶏小屋で堆肥を作っているような気持ちで。根菜類を上手く利用する。特にごぼうのような深いものを、必要なところに作って掘り返す。緑肥も必要なときがある。草堆肥はどれだけ入れても余分と言う事はない。
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中山国交相の発言

2008-09-27 06:45:46 | Peace Cafe
中山国交相の発言内容(抜粋)
《成田空港》
 (滑走路の)一車線がずうっと続いて日本とは情けないなあと。「ごね得」というか、戦後教育が悪かったと思うが、公のためにはある程度自分を犠牲にしてでもというのがなくて、自分さえよければという風潮の中で、なかなか空港拡張もできなかったのは大変残念だった。
《単一民族》
 外国人を好まないというか、望まないというか、日本はずいぶん内向きな、「単一民族」といいますか、世界とのあれがないものだから内向きになりがち。まず国を開くというか、日本人が心を開かなければならない。
《日教組》
 ついでに言えば、大分県の教育委員会のていたらくなんて日教組ですよ。日教組の子どもなんて成績が悪くても先生になる。だから大分県の学力は低いんだよ。私は(文科相時代に)なぜ全国学力テストを提唱したかと言えば、日教組の強いところは学力が低いのではないかと思ったから。現にそうだよ。調べてごらん。だから学力テストを実施する役目は終わったと思っている


自民党の政治家のレベルを良くあらわしている発言だ。何故こんな馬脚を現したかは判らないが、こんな本音の人間が大半と思っておかなければならない。この発言は全く根拠がない。成績トップの秋田の日教組の小中学校組織率が5割超で全国平均(34.1%)を大きく超える。にもかかわらず、謝罪の席で、調べてみなさい。などまだ大口を叩いている。成田空港の行政の誤りをどう考えているのか。政府の謝罪など、自民党の政治家は、苦々しく思っていたと言う事なのか。

本音が出た発言がもう一つ。麻生太郎首相は25日午後、第63回国連総会で一般討論演説を行った。首相は演説後、集団的自衛権の行使を禁じた憲法解釈について「基本的に変えるべきものだ。ずっと同じことを言っている」と記者団に述べ、行使を可能にするよう見直すべきだとの考えを示した。
麻生氏がわざわざこのタイミングで、このことを述べたのは、衆議院選挙向けと考えた方が良い。実は中山氏だって、選挙向けのパフォーマンスが失敗したと考えた方がいいのかもしれない。今政治家は衆議院選挙で頭は一杯のはずだ。経済の状態とか、農業の事とか、本当に考えている人はいないとしか思えない。何しろ、1ヶ月の事なのだ。自民党は今、右翼的な国民に奮起しろ。そうしなければ、日本の国家主義は危いぞ。こう叫んでいるのだと思う。

今回の衆議院選挙の意味は、いよいよ明確に成ってきた。戦後の自民党の行ってきた政治をこのまま継続していいか。がテーマだ。世界は転換期だ。どんな舵取りで行けばいいのか。考え直すときだとおもう。当然自民党の中にも、新しい時代に向かう、新しい思想の持ち主はいるだろう。しかし、世襲が半数を超えるような状況では、全体では保守的にならざる得ない。今持っている、有利な条件を温存しようというような、内向きの思想にならざる得ない。それが、中山氏の発言に良く出ている。小泉氏の自民党をぶっ壊すが、壊すどころか、より格差を広げて、富裕層有利な展開を作り出してしまった。このようにどんな政策も自分有利に、歪曲利用していくのが、自民党の特徴だ。もう自民党ではだめだ。選挙前に、あえて集団自衛権の憲法解釈を変えて、自衛隊のアメリカ同行を認める。これを宣言したことは、いさぎ良い負け方かもしれない。

昨日の自給作業:ハザ掛け直し手伝い、草刈など3時間 累計時間:30時間
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引退の仕方

2008-09-26 07:08:10 | 身辺雑記
出処進退というが、ソフトバンクの王監督は見事だった。ガンで胃を摘出しながらも、監督を2年、そして今回の引退。首相や大臣の残念な止めかたを、見ていたので。王貞治という人間の確かさに改めて、感心した。ガンが見つかった時に引退するかと思った。しかし、随分痩せて痛々しいくもあったが、立派に2年間監督という厳しい仕事をやりぬいた。今年成績不振と言う事もあり、引退を発表する。一方朝青龍は、「止める時を考える必要があるか」親方に聞いたそうだ。まだまだ、これから強くなる朝青龍だ。その力を十二分に出し切った。とはとても思えない。これから、見事な横綱をまっとうしてこそ、相撲を志した本望ではないだろうか。報道の傾向として、相撲ファーンの朝青龍への厳しさを誤解している。「朝青龍が負けるのが、楽しみだ。」ここまで言われるのは、その強さが見たいからに他ならない。

大鵬だって、北の湖だってそう言われたものだ。それを巡業をサボったことを、国技を汚したごとく書いた。もちろん残念なことではあったが、これから大成する姿こそ見たい。それへの道のりだったといえる日が、必ず来るとおもう。相撲には見事に負けると言う事がある。晩年の横綱輪島はまさにそうした相撲をとった。北の湖になかなか勝てなくなる。勝てないけど、自分の相撲を取ろうとする。左下手投げが得意技で、それ以外では勝とうとは思わないかのようだった。輪島は本名を変えずに、花篭部屋で稽古せず、日大の相撲部にいつも居たそうだ。学生横綱は大成しないのジンクスを破り、横綱になった初めての力士。大鵬も輪島も一度不調に陥いった時期がある。その後精神修養をして、復活する。それこそ見事なことではないだろうか。どこまでもやりつくす姿が見たいのだ。

河野洋平氏、小泉元首相、あいつで神奈川の衆議院自民党の中心人物が、引退を発表した。それぞれにやりつくした人である。河野氏71歳。小泉氏は66歳。丁度いいところかもしれない。河野氏は後継を県会議員の子息の大学講師を指名し、引退の会見に同席させた。小泉氏は二男27歳を指名。こういうところに2人の引き際の違いが出ていておもしろい。牧島かれんという人らしい。丸で宝塚の方のようだ。神奈川17区で、いきなり後継者に彼女を指名する。牧島氏の父親が、県会議員で、河野氏は随分この人もバックアップしていたと言う。誰が後継になるのかと言う事は、病気をしてから地元ではあれこれ詮索があった。予想外であった。地元で後継と言われた人が、様々無理に成っていた。やはり、河野一族のだれだれと言うのが、一番言われていたが、後援会の人でも意外という、牧島かれん氏だ。湯河原からもう1人、民主党の神山洋介氏33歳が立候補予定。こちらは神奈川では流行の松下政経塾出身。若い未知数の二人の討論会を、開催する必要がある。

小泉元首相の早めの引退は、やはり戦略家らしい次男への地盤の受け渡しに見える。自民党内の小泉氏の影響力の低下は、今度の総裁選では目立った。その辺が小泉劇場第2幕への幕を引いたように見える。長男の孝太郎氏はタレントで活躍中で、後継と言われていたが、2幕では次男と言う事になったが、3幕目もきっとあるのだろう。政治家の引退した姿としては、真鶴の方で作陶生活をしている、細川護熙氏がいい。一切政治から離れている。写真で見た範囲だが、作品もなかなかいい。特に、ケイトラックに載っているのがカッコイイ。陶芸家としては丸で新人にもならない訳だが、個展で発表もしている。自分のレベルを平気で晒している所が良い。こう言う人を見ると、言いたくはないが、家柄と言うようなものを感じざる得ない。

昨日の自給作業:草刈1時間 累計時間:27時間
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給食の持ち帰り

2008-09-25 05:24:28 | Peace Cafe
困窮家庭の生徒が給食を持ち帰るらしい。いよいよここまで来たかの感がある。実は私は違う意味で良く持ち帰った。小学校では、食べきれないので持ち帰った。食欲がいつも無かったので、結局食べ残した。食べ残しもいけないことになっていたので、苦しかった。何とかごまかして、食べ残しのコッペパンを持ち帰った。時に見つかっては怒られるのだが、食べれないものを無理やり食べさせられる辛さは、今も思い出せるぐらいだ。家で食べ物がないから持ち帰る。こちらはフランスでの留学中は毎日だった。ありがたいことに学食が街のアチコチに点在している。何処でも都合の良い学食に行くことになる。何処の学食は今日は休みとか、何処のメニューが美味しいとか、どこはすいているとか。学生書を見せて、食券を一枚3フラン程度出せれば何処で食べてもいい。学食では食べ物の選択はない。1種類のフルコースのようなものがあり、パンは自由に取れるようになっていた。この量が私には多い。そこで、パンに余った物をサンドイッチにして、持ち帰る。これが翌日の朝食になる。毎日そうしていた。

日本で起きている給食の持ち帰りは、もう少し深刻のようだ。家に食べる物がないから持ち帰る。給食費が払えないどころではない。給食費が払えるのに払わない親の問題もある。小田原の市議会でも、質問が出ていた。集めるのに教師が苦労しているらしい。給食費の事では昔も似たような嫌なことがあった。当時は給食費集め係りがあり、集めて教師のところに持っていった。所が誰と誰は、集めないでいいことになっていた。生活保護費を受けている家庭ということだったと思う。これは係りだけにわかる。それがみんなにわかるのは、給食費が余ったので、みんなに饅頭を配ると言うようなことが起こる。何故か、給食費を払っている者だけに配る。当然何人かがもらえない。嫌な暗い雰囲気を覚えている。給食費ぐらい、全部政府で出せないものか。食育と言うくらいだから、教育費だと思えば良い。そうすれば全部米にしても文句が出ない。

格差社会は今後もより深刻になる。より拍車がかかるように社会が出来ている。それが社会的合意かと言えば、そうではない。国際競争力の強化のためにはそれしかない。生ぬるい平等社会ではダメだ。と言う考えなのだろうが、実はこの考えが誤りだ。経済競争、グローバル化。これは強い国がその強さを維持するための論理だ。世界に生きる人が等しく、普通に暮していけるようになる為には、むしろ、地域主義の方がいい。競争の条件は平等だ。と言いながらも、資本が100ある者と1の者とで、同じ条件化で競争は出来ない。弱い者からより搾取するための、自由化と言う事になってしまう。例外を除けば普通の競争は出来ない。安い労働力だけが武器、ここから這い登れと言う経済が健全だろうか。特別のアメリカンドリームのような、天才の努力を例に上げられても、普通に暮すものには関係がない。

実は文部省の指示で、給食持ち帰りは禁止されている学校がほとんどである。「パン等の残食の持ち帰りは禁止することが望ましい」と規定した「学校給食衛生管理の基準」がある。食中毒O157以来の、学校の安全管理上のことが、先にきている。持ち帰りの衛生管理を教育すれば良い。持ち帰り箱でも用意させたらどうか。その辺は考えようともしない。もちろん全部食えは困る。あまれば捨てるでは教育とは言えない。子供の暮らしの方が変わっている。無菌状態のような暮らしをしている子供が居る。普通の常識が通用しないのだ。テレビでも抗菌グッズなどコマーシャルが盛んだ。こんな状態で子供の健康は、育まれるのか。きわめて心配だ。そこの根本に触れないで、学校側の自己防御のような、給食パン持ち帰り禁止。しかし、帰って夕飯がないような状態の生徒も居る中で、手付かずの給食が余って捨てられている。持ち帰るなとは酷なことだ。こんな状態が教育現場で起きていていいのか。

昨日の自給作業:草刈、ごぼう堀2時間 累計時間:26時間
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鬼柳の田んぼ

2008-09-24 06:31:20 | 稲作
酒匂川左岸の桑原より上流に当たる。鬼柳の田んぼをやってもらえないかと言う話が、行政のほうからあった。前回のめだか協議会の席での事だ。とても大変なことだとは思うが、あしがら農の会の役割だと考え、引き受けることにした。大きな田んぼではなく、5メートルの100メートルと言う、細長い耕作しにくい田んぼだ。しかしこの辺りは、平家ボタルも居るし、メダカの生息も色濃い。鬼柳方面では環境的に重要な地点だった。25メートル道路建設の為に、沢山の田んぼが失われる。足柄平野で一番環境の豊かな地点が失われる。昔は酒匂川からの湧水の地で、湿原地帯でもあったのだろう。池も沢山あったようだ。その環境に多様な生き物が生息してきた。湿地が田んぼとして引き継がれ、湧水が環境悪化を凌ぐことになり、この地域だけに生き残る生物が居ることになる。今回の道路建設はその環境を激変させることになっている。少しでもこの環境を残すために、行政も環境保護団体も、協力して取り組んできた。

鬼柳の田んぼは道路で半分以上が削られてしまい、細長い作りづらいものになった。地主さんからは埋めてしまってもらいたい。行政ですべてを買って欲しい。など色々の要望があるらしい。農業の視点から考えれば、当然の事だろう。それでも田んぼが減ることは、少しでも避けたい。そこで農の会の事が出てきた。農家としては、安心して任せられる組織で無ければならない。必要なときには返してもらえて、耕作権など付かない条件で無ければならない。貸したはいいが、草だらけのみっともない田んぼでは困る。地域での清掃活動や、草刈水路の土上げなど出てもらわなければならない。担い手は不足している。あれこれの点で農の会には、安心して貸せる実績がある。これが良かった。下話の段階だが、地主さんも貸してもいいという方向になったそうだ。

鬼柳での耕作は始めての事だが、地元の皆さんに信頼される田んぼをやりたい。来年の大きなテーマになるだろう。冬季湛水が出来れば一番いいのだが、これは田んぼが出来上がってみなければ条件がわからない。畦を直して深水はしたい。ソバカス抑草もやりたい。そして10俵とりたい。以前桑原では冬季湛水で10俵取った経験があるので、何とかなるのではないかとある程度の自信はある。初年度から冬季湛水は良くないかも。先ずは普通にやる。草を生やさないのは最低条件だろう。出来れば今から貸していただき、土づくりには入りたいのだが、出来れば草を持ち込んで、堆肥を積みたいが。まだ工事中だから、何時から使えることになるかはもんだいだろう。少なくともレンゲくらいは早めに蒔きたい所だ。

農の会を始めて15年。所期の目的にはまだまだ遠いが、一歩前進したと言う事がわかる。行政も報道も耕作放棄地と簡単に言うが、農家にしてみれば腹の立つ言葉なのだ。農家にはご先祖から受け継いだ、大切な農地を守らなくてはならない。こうした思いはどなたにもある。それが様々な事情で、出来なくなっている。農家自身の責任ではない場合が、一般的だ。一番は採算が合わない。農業をやっていたのでは食べていけない。それでも守ろうと言う気持ちがあるからこそ、何とか今も日本の農地は維持されている。今回の鬼柳の田んぼも、地主さんにそうした気持ちが無ければ、田んぼの命は尽きただろう。もう少し頑張れば、農業を取り巻く状況は変わるだろう。食べ物を人任せに出来ない、当然の時代に戻るはずだ。

昨日の自給作業:草刈、1時間 累計時間:24時間
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外国人選手と力士

2008-09-23 06:45:17 | Peace Cafe
アメリカ大リーグで活躍中のイチロー選手。8年連続200本の記録を作った。年間ヒット数ではすでに262本と言う記録を作っている。始めて日本人で大リーガーと並んだことが記録からわかる。野球と言うスポーツが開国と同時に日本に渡ってきて、136年。戦後プロ野球がアメリカそのものとして、隆盛を極める。アメリカ式民主主義と野球は切っても切れない、物だと考えている。今やヨーロッパ的なサッカーの方が若者には、人気のようだから、ヨーロッパ的な個人主義の方が曳き付けると言う事なのだろう。野球は送りバントとか、外野飛球とか、スポーツらしからぬ、犠打とよばれる作戦がある。全体と個人の関係が、独特のスポーツだと思う。実に、ルールが複雑で審判が居なければ、遊びでもやりにくいほどだ。機械化した方がストライク判定など、正確と言う事は判っているのに、それはしないというあたりも、審判の存在の意味を重視するアメリカ精神が反映する。

大相撲では現在外国人力士の問題が、混乱を極めている。ロシア人力士が3人、大麻を吸ったと言う事で除名された。横綱がモンゴル人の2人だけとなっている。モンゴルの力士は強い。何人幕内に居るのか、急には思い出せないくらい居る。過去43人だそうだ。高見山が初めて大関になった。その頃、ドンドン外国人力士を呼び寄せる部屋が増えた。そこで、一部屋1人という制限が出来た。横綱三重の海が武蔵川理事長になって、立会いの厳格化を命じた。モンゴル相撲には立ち合いがないという事と関係があるのかどうか。朝青龍はすっかり立会いがおかしくなり、既に4敗してしまった。モンゴルでも相撲は神事のはずだが。たぶんロシア人と成ると、神事などといったところで、スポーツを神にささげるという感覚がないような気がするが、本来何処の国のスポーツもそういう要素はあったのだろう。

国際化で先に行ったのは、囲碁界だ。囲碁は中国から学んだ。8世紀には文化として、日本に定着した。その後はむしろ日本でこそ隆盛で、平安期には既に技量的に凌いだと言う話もある。その後江戸時代に日本で洗練する。40年ほど前から、徐々に立場は逆転し、日本は強い訳ではない。現在は55カ国に広がり、中国、韓国、台湾、日本にプロが存在する。日本囲碁界にも、外国人棋士が多数存在する。国際大会で日本代表が、外国人と言う事が普通と成っている。ここまで平穏に進んだかと言えば、そうでもない。日本棋院の外国人プロ棋士が犯罪を犯し、海外逃亡したような事件も起きた。外国人棋士が強く、日本の碁界を支えていると言う意味では、大相撲と同様である。日本棋院もファーンの数と質が変わり、財政的問題をかかる。加藤正夫氏は現役棋士ながら、理事長となり、囲碁界の改革を進める途上、57歳、志半ばにして絶命する。ただし、いち早く外部理事を迎え、経営再建は方向付けられる。

プロスポーツと言う人気稼業で、外国人がどう存在できるか。これは大事なことだが、力道山が朝鮮出身を明かさなかったように、猪木がブラジル移民と言う事でデビューしたように、日本では実に難しい。外国人慣れしていない、島国と言う事で止む得ないところはあるのだろう。大相撲が受け入れ方を間違い。力士に育てることが出来なかった。教育と言う事が言われているが、そう簡単な事ではない。各部屋の親方に、その能力がないなら、相撲界全体でさらに強力な、教育制度を作らなければダメだろう。昨日の幕内後半の勝負審判は厳格だった。実に気持ちが良かった。当然の事で、理事の審判部長放駒親方元大関の怪傑だった。審判部長にどの審判も従い、同一ルールで行われうよう努力して欲しい。朝青龍が「待ったかと思った」とコメントしたらしいが、朝青龍の立会いの感覚がいかにも崩れている。

昨日の自給農作業:草刈1時間 累計時間:23時間
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後期高齢者医療制度の廃止

2008-09-22 06:30:11 | Peace Cafe
舛添要一厚生労働相は19日、後期高齢者医療制度について自ら不備を認め、廃止を決めた。
朝令暮改とはよく言ったもので、随分時間をかけて、確か5年間も猶予期間もおいて、行われた制度であったはずだ。それが、説明不足だとか、年齢分割は評判が悪いと言う事で、廃止と言う事になった。高齢者医療はすべて無料と言う方向の時代もあった。それが財政的に無理が生じる。無料と言う事で、サロン化する。薬漬けになると言う話もあった。紆余曲折があって、後期高齢者医療制度が、改善策として出来たはずだった。高負担高福祉で行くのか、受益者負担で行くのか。この国民的合意が出来ていない。そのために、低負担高福祉が、選挙対策で繰り返し主張される。今回の廃止決定はまさに、その選挙対策としか思えない。ここで止めるぐらいなら、やり方はもっとあった。

選挙対策といえば、福田首相の突然の辞任からはじまり。自民党の総裁選挙そのものが、選挙対策以外の何者でもなかった。興味も無ければ意味もなかった。誰が選ばれようが、総選挙で大敗し退陣することになるのだろう。麻生さんは3日天下。それでもおじいちゃんは総理大臣をしましたでいいのか。厚生省のこと、農水省のこと、これだけの失政を重ね、その非を認めるなら、政権を降りるのが筋だ。2大政党を目指した小選挙区の議会であるなら、あまりに不自然ではないか。本来の議会制民主主義が機能しているなら、2代も総理大臣が職務を放棄して、さらにまたと言う事はありえない話だ。自民党の議員も本当に日本の事を考えているなら、ここは与党から降りて、解党的出直しをしなければならない、と考えて普通だ。しかし、大半の議員は日本の事より、自分の議員生命ばかり考えている。

太田農水大臣の引責辞任も、もっぱらこのままでは選挙ができない。と言う事で、自民党から無理に止めさせられた。と言われている。どうせ24日にみんな一緒に止めるはずだった訳だ。選挙を控え本人は止めたくなかったに違いない。事務所費問題の時に潔く止めておけば、こんなことにはならなかった。政治家としての読みがはずれ、運がなかったのだろう。農水省は今や鬼門だ。既に、石破氏が就任の噂が出ている。誰がなったところで、すぐに止める人だが。選挙の肩書きには現職の大臣として入れられるから、大きいのかもしれない。それなら総裁候補は既に衆議院選挙の事前運動をテレビで散々やって、選挙有利なのだ。ついこの前まではこんな経済緊急事態で、解散どころではない。といっていた。経済危機は今こそ高まっているのに、茶番劇で政治の空白は続いている。舌の根が乾かぬ内とはよく言ったものだ。

国民選択眼だ。高福祉には、高負担が付き物で、老人医療の無料がいいなら、税金がどのくらい上がるのか。税金の集め方と使い方の監視が、国民の政治だ。埋蔵金を使うなど変なごまかしを止して、まともにお金の出入りをマニュフェスト化して、選挙で問うべきだ。出と入りをきちっと議論する政策論議をする候補を、見極める必要がある。上手い話ばかり並べる候補者には投票をしない。選択眼があれば、すぐに変わる。100%食糧自給を、民主党は主張したが、その方法論や財源についてはどうしてもスッキリしない。3段階の改革を今回述べている。議論のきっかけにはなるが、まだまだ不明瞭である。野党こそ裏付けのある高齢者医療を議論をする。少なくとも、その財務的裏づけをホームページにきちっと、表示する。そうした習慣を作り出すのが、野党の義務ではないだろうか。
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田んぼの生き物観察会

2008-09-21 05:47:35 | あしがら農の会
田んぼの生き物観察会を、昨日桑原の田んぼめだか池で行った。地球博物館の苅部さんが指導してくださった。今年3回目と言う事になる。専門の研究者が好意で、協力してくださると言う、贅沢な本当にありがたいことだ。子ども達も沢山来てくれたことも、とても嬉しかった。子供が田んぼに興味を持ってくれるきっかけになれば、ありがたいことだと思う。実は、3回目と言うのは、私だけの特典で、舟原と坊所を1回下見してくれている。当日が雨となり、中止となったので、下見で案内させてもらったものだけが、お話を聞く事が出来た。役得である。金井島、舟原、坊所、桑原、この4箇所を比較して見てもらえたこと、とても大切なことだと思っている。金井島は酒匂川が足柄平野に入る入り口に当たる。峡谷を抜けて大きく広がった所にある。坊所、舟原は足柄平野の箱根明星岳の西山麓の谷あいにある。桑原は酒匂川下流域の湧水の多い田んぼ。

比較してみてみるには、重要な足柄平野の代表的な形の田んぼ3箇所である。平野一帯の20箇所ほどで、田んぼの耕作をしてきて、水の違い、土壌の違い、そして生き物の違いを感じてきた。桑原ではメダカの会での生き物調査が、10年近く月例で行ってきた。どんな物が、どのようなレベルで居るのかは、おぼろげながら感じては来た。では平野の入り口の方の田んぼはどうか。また山付きの田んぼには、どんな生き物が居るのか。何となくの違いは感じているが、専門家の目で見てもらえれば又違う深い観点がある。まだ一度づつの観察ではあるが、なるほど違うものだ。と言う事は感じた。

昨日の桑原の観察では、アメリカザリガニの大繁殖が衝撃的だった。今までに無かったような、集中的な発生である。簡単に要因は推測は出来ないが、かつて無かったことだけは確かだ。ザリガニによって桑原の貴重な生態系が変わり始めている。神奈川県内では桑原にしか居ないとされている生き物にとっては危機的な状況だ。早急な駆除対策を取る必要がある。原因のほうにも幾つかの推測はあるが、即断は良くないと思う。一度集中的に駆除活動が必要なことだけは確かだ。今桑原は道路の大工事が行われている。この工事が生き物の生息地を狭めるため、生息地の改変が行われている。こうした事は、大変困難なことなのだと思う。良いコントロールがされないと、生態系のバランスに異変が起こる。

日本の自然環境を守るためには、田んぼが無ければ、多様な生物の生存は不可能になっている。かつて、湿地は生き物の宝庫であった。湿地がなくなった以上、田んぼをその代替の土地として機能させなければ、湿地に依存した生き物は居なくなることになる。その頂点がコウノトリであり、トキであり、丹頂鶴である。幸いなことに近年急速に保全活動が、成功してきている。コウノトリでは地道な田んぼの耕作の活動が生きてきている。トキでも佐渡では放鳥を控え、田んぼの自然の復活が図られている。足柄平野は今回の観察をとおして、危機的な状況であることがわかったとおもう。自然が、戻ってきていると言うのは、錯覚である。よほどの努力をしなければ、自然は失われてゆく寸前であることが感じられた。水路や田んぼの畦がコンクリート化されたことが一番の要因だろう。農業としては当然の改良だ。しかし、生き物は失われる。農家の負担では、自然水路が維持はできない。新たな保全の仕組みが出来ない以上。コンクリート化は止む得ないことでもある。
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戦争の経費

2008-09-20 06:57:50 | 
『世界を不幸にするアメリカの戦争経済』を読ませてもらった。松本さんが送ってくれた本だ。昨日のついたので、どんな本なのかな、と思い開いたら最後、夜まで読み続けてしまった。すごい本だ。と言う事は私にも判った。アメリカのイラク戦争にかかった戦費を洗い出して行く本だ。推理小説のようで、隠されている謎が、次々に暴かれてゆく。もちろん経済には疎いし、数字にも弱い。その上に、ドル建てだから、ピンと来ない。それでも、筆者のノーベル賞受賞の経済学者、ジョセフ・E・スティグリッツの判りやすい数字の展開は、興味を引きつけて放さない。この本はイラク戦争の是非を書いて居る訳ではない。誰が利益を上げているかが書かれたものでもない。

戦争と言うものがどれほどお金がかかるものかと言う事を、こと細かく分析している本だ。結論としては、2兆ドルと言う見方と、3兆ドルと言う見方が出てくる。判るのは、この巨額な費用が、反論できないような事実として、突きつけられている。怖ろしい巨額だ。もちろん、だから戦争は止めるべきだと書かれているのだが、それは一つの見方であり、主張だ。問題は誰がどう捻じ曲げようが、現代の戦争と言うものが、どれほどのお金がかかるものかだ。2兆ドルにしても、これには日本などの協力国の戦費は計算されていない。このイラク戦争の戦費が、アメリカ経済の今の危機につながっていることは、誰にも判ることだろう。必要な戦費を借金で賄う。そのお金を捻出するために、サブプライムローン等の不自然な経済政策が、無理やり行われた、と作者は書いている。

経済は、この場合戦争会計とでもいった方がいいのか。社会を分析する実に、重要な方法のようだ。これほど無理をして、アメリカに何が起きているか。イラクや中東はどうなったか。この点に言及している。アメリカ一国有利のグローバリズムの問題点。世界の対立激化。アメリカはテロ国家としてイラク、北朝鮮を上げているが、世界での評価はアメリカの方が、より危険な国家として世界から認識されるようになってしまった。これほどのお金が、成果がないどころか、世界から顰蹙を買う結果になてしまった、情けない結果を書いている。イラク国民の70%がアメリカの撤退を求めている事実。石油の高騰に寄与する、イラク戦争の巨額な戦費。これによる損出も、戦費に加えている。ただし、戦争がもたらした、アメリカの利益については、触れていない。と著者は書いている。儲けても居る。

日本においても、同様なことは起きているのだろう。この本では日本が被った経済的損失は1010億ドルから3070億ドルの間と推定される。石油の高騰が日本経済に与えた、損害。普通に農家として暮していても、ガソリンの高騰は努力ではどうにもならない、大変なマイナスの影響がある。我々の暮らしにも、イラク戦争が大きな影響があることが分かる。日本人の経済格差はさらに広がっていると、報道では伝えている。戦争は一部のものには利益を生み、全体としては大きな損害をもたらす。もしイラク戦争をしなければ、こんなことは考えても無駄なのだが、北朝鮮や、イランがどれほど、理不尽であったとしても。あるいはアフガニスタンが、テロの隠れ家になっているとしても、戦争だけは止めたほうがいい。戦争で解決できることは何もない。
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事故米の危機管理

2008-09-19 06:54:52 | Peace Cafe
これで書くのが3回目になるが、報道での取り組みに、カドミウムを指摘する声がないので。白須農水省次官が辞意を表明したそうだ。太田大臣は辞意を認めない意向らしい。汚染米事件では、農水省の危機管理が後手後手に回り、問題を最悪の展開にしてしまった。問題の起きてからの対応は、いつでも難しいものだ。ウヤウムやで終わっている、カドミウムの汚染米の事が、どうしても気に成る。まだカドミウム米のことは表面化していないが、問題がないなら処理法や、全貌を明確にしなければ成らない。今回の輸入汚染米と同じことが言われている。つまり、焼却処分、あるいは工業用に回す。つまり糊にしている。おなじ流れなだけに、心配になる。全国米麦改良協会が処理している。問題がないと言う事を、処理の仕方をホームページで表明したらどうだろうか。

農水省から随意契約で購入し、食用に回してしまった会社が4社あった。今度はその先に、小さなお店まで入れたら、400近い名前が一気に公表された。早速近くはないのか、見てしまった。私もこのお米は売れないので、鶏の餌にあげるよ。と言われて鶏の餌にもらったお米がある。そのときは米不足で、タイ米が緊急輸入された年で、その後売れ残ったお米だ。と言っていたが、あれが汚染米だったとしても、わからなかったことになる。あの時は、何処でも外米が余っていたので、それだと思ってしまったが、やはり、素性のわからないものは、常に気お付けなければ成らない。申し訳ないことをした。そして、こんな形で名前が出されたら、たまらないだろう。自殺されてしまった米穀商の方が居られた。食べ物を扱うと言うのは、責任の重い大変な事だと思う。

カドミウム米は2通りの問題がある。まず、どうやって測定しているかだ。田んぼごとにやっている訳ではない。一定の地域のお米を混合して、測定する。それで、1ppmあるいは0,4ppm以上含有すれば、食料に回せない事になる。毎年1000トン以上出ている。厳密に言えば、出る田んぼと出ない田んぼがある。測定時に混ぜてしまうことで、0,4以下に下げていないか。問題化した、10年ほど前、民間団体の調査では、田んぼごとにやると、0,4以上の田んぼが続出したと言われている。しかし、長年の水の流入の問題だから、どんな水系の、どういう来歴の田んぼかで、含有の程度は、地域ではわかっているはずである。次に管理と流通の問題がある。混合すると、全くわからなくなる。そんなことはないと思いたいが、汚染米の工業用利用が、実際にはほとんどないことがわかった以上。きちっと焼却されているか。心配になるのは私だけではないだろう。

白須事務次官も当初責任が農水にはないと明確に発言した。太田大臣も同じだ。この意識が、この事件を生んだのではないか。通産省が行うべきだぐらいに思っていたかもしれない。カドミウム米はどうだろうか。環境省がやるべきぐらいに思っていないか。日本人は世界で、一番カドミウムを含有している。この程度は大丈夫であると言う、事例のようなものだ。WHOの穀物の含有数値も、当初よりゆるやかになったのは、日本の申し出による。カドミウムの問題では、日本は先進国である。焼却炉の側の下流域の田んぼで、1ppmを越えた事例はある。カドミウムは焼却施設の排気ガスのチェック項目にはない。電池を燃やす事で、煙になって出てくる。それも心配だが、それより日本人の長年の採掘結果だ。川も、田んぼも、海も、一定量広がっている。だからと言って、即危険という訳ではない。それが日本の自然で、管理の仕方次第だ。
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舟原の工事

2008-09-18 07:19:49 | 地域
私の家の入り口にある。大きな旧家の家が取り壊され、更地になって久しい。大正時代に建てられた家だと聞いていたが、それは立派な家だった。6メートルはある大きな槙の垣根が、ぐるりと取り囲み、立派な植木や大きな庭石、見たこともあまりない石灯篭。何処から何処まで大旧家そのものの概観だった。半年近く空き家になった後、この7月に取り壊された。あっけなく1週間で、全てが取り除かれ、そう、植木から大きな槙の垣根まで、根こそぎ取り除かれ、勢いで、私の家のミカンまで、断り無く切られてしまった。その後は空地になったまま、雑草が日に日に目立ってきている。舟原では、この所住宅開発が目立っている。数えると、7軒ほど新築の家が建てられている。もう新しい住人が住んだ家が6軒あるし、現在販売中もある。さらに整地している場所もある。住宅建設の為に整地しているところもまだある。建築ブームと言える状況だ。それは船原だけでなく、久野全体で見れば、新築住宅がドンドン売りに出ている。

住人にはこんな風に見えても、建築や不動産業者に聞くところでは、家は売れないし建築の仕事がないと必ず聞かされる。大手に仕事を取られて、地元の業者に仕事がないとか、下請けに入らなくては仕事がないとか。しかし、ドンドン家は建てられている。本当に家がいるのだろうかと心配になる。この辺が良くわからない。何か自転車操業のようなもので、大きな破綻は来ないのだろうか。人事ながら心配な気もする。家の前の大きなバス通りは、舗装がきれいにやり直しがされた。きれいになって嬉しいけれど。何故、家の前だけ100メートルあまりがきれいになったかは、良くわからない。舟原でいえばこの部分だけがきれに直された。改修にはきっと基準があるのだろう。この工事が、1週間と言う事だったが、倍の2週間かかった。家に出入りできないのだから、相当不便だった。

アスファルトを剥がして、一度きれいに砂利を敷いた。そこを10メートルおきに穴が開いていた。何だろうと思っていたら、それが検査だった。それでやり直しと成った。検査がされていると言う実際を始めてみたが、馴れ合いでなく本気でやっているのだと再認識した。何がいけなかったかは分からないが、暑い中一生懸命仕事をしていたのも見ていたので、同情してしまった。折角作ったものを、取り除いてのやり直しだから大変な事だった。さらに1週間出入りが不便で困ったし、検査を通らないようなものを作ったのは良くない。子供の頃道普請を見に行った事がある。村の中央の道が、まだ階段状に成っていた。当然車は通れない。何とか通ろうと言う時には、その段差に養生をして車を通していた。車が必需品になって、その段差を部落総出で平らに直したのだ。東京の方で請負の仕事をしていた、サダオさんが陣頭指揮していた。水路を渡っていた巨大な石の移動はお祭りのように賑やかだった。自分たちでやるしかなかった訳だ。

下の家も7棟とかの住宅開発らしい。1軒が7軒に成るのだから、いかに大きな家だったかとおもう。人が増えるのは嬉しいことだ。しかし7軒も建てて、住む人はあるのだろうかと、余計な心配はする。私だって越してきたのだから、越してくる人は無い訳ではないのだろう。二極化しているのかも知れない。都会のより中心に住もうという人。便利さは我慢しても、豊かな自然の中で暮したい。確かに10年近く暮して舟原の環境は素晴しい。しかも、死ぬまで暮せる条件もある。都会回帰と自然回帰。舟原は本当に貴重な地域だと思う。舟原の良さは、小田原の今後の方向を示している。

昨日の自給作業:ジャガイモの植え付け1時間 累計時間:22時間
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金融資本主義の崩壊

2008-09-17 07:19:41 | Peace Cafe
リーマンとか言う証券会社が倒産した。日本にも支社がある大きな会社。アメリカの経済は後退局面にあり、証券会社の倒産は予測どおりの展開と報道には書いてある。サブプライムローンの破綻とか言っていたが、住宅は値上がりするものだと言う、馬鹿馬鹿しい考えに基づき、借金しても建てておけば損はないからと言う事で、返済の当てのない借金による住宅建設が進んでいた。このこと事態がおかしな話で、何時崩壊するのかと思っていた。資本主義経済社会と言うか、金融資本主意の危うい所で、利益を上げるためにどんな事でもすることになる。当面の利益追求に目がくらみ、行き詰まりが必ず来ると言う事に気がつかない。日本の公共事業や、国債の不相応な発行と同じことだ。投資、お金を回す事で、巨額な利益を上げる。石油に投資されていた資金は、今何処に行こうとしているのか。

実際に労働して、利益を上げるのでなく。資本を動かす事で、利益を出す。その利益の規模があまりに巨額で、一国の国家予算以上のものになる。そこで思考出来なくなる。リーマンの破綻で、何故、各国の中央銀行が資金供給を増やすのか。繋がりが理解できない。理解は良く出来ないのだが、世界の今の仕組みは、徐々に崩壊を始めている、ように見える。アメリカのように、世界に出かけて常に戦争をしている。戦争をしていると言う事が、経済においては悪い事でもないという事らしい。しかし、戦争も、証券会社の倒産も、アメリカのグローバリズムが、崩れ始めている過程である事には代わりはないと思う。豊かな国は生産することなく資本を回してさえいれば、利益が湯水のごとく生ずる。このような状況が、そう続くはずがない。仕組み全体については、どうにも理解できないが、生理的に受け入れられないものがあり、こんな馬鹿な事は続かない。そう腹の虫が言っている。

日本でも建築会社のセールスは、いい家を建てれば資産に成ると言っていた。家とか土地は使用価値しかない。私はそう思っている。自分が使う以上の価値などあるはずがない。土地や家を、何度も購入を繰り返したが、いつも自分があと何年使うかだけが、判断材料だった。つまり、投資をするという視点で考えれば、自分自身に投資する以上の事は、この世にあり得ないと考えている。自分がやりたいことをやれる以上の事はない。田んぼは貸してもらっている。もし貸してくれる人が居なくなれば、購入してもやりたい。農業を資産管理の方法と考える人が居る。農業そのもので利益を上げるのでなく。宅地化されて行く事を見越して、農地を安く購入して利益を上げる。こう言うやり方の方が、畑でコツコツ作物を生産することより、比較にならないほど利益が出た。これが、農業を健全に経営する精神を崩した。

リーマンは、ライブドア事件でも上手く利益を得た。アチコチでずるがしこく利益を上げてきて、いつかは崩壊する。これは当然ではないだろうか。アメリカという国は、リーマンを救済しなかった。日本は銀行の不良債権のときは、税金を投入した。大きすぎるものは潰せない。という話だった。石油の価格を操作できるほどの巨額な資金は、次の儲けを探しているのだろう。無くてならないものを、買い占める。食糧はどうだろう。鉄とか、貴重金属とか。利益を上げるためなら、何でもやれるぐらいの、巨額な資金のようだ。こんなものに、まともな健全な世界が、ひっかき回されてしまう。たぶんこれをとめる方法はない。資本主義経済というものの、限界が見えてきているのだろう。人間の倫理と経済の姿が、これほど乖離してしまえば、後はみちがないだろう。
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市民参加の意味

2008-09-16 07:19:18 | Peace Cafe
加藤市長が小田原駅の脇の再開発を予定している場所に、ホールを移すと言う事をマニュフェストで公約していた。当選して、さして時間もたたないうちに、元のお城の側にホールを作ることに考えを変えた。こんなに短期間に考えを変えた理由が、良くわからない。市長になって、あれこれ担当職員から事情を聞いてみて、なるほどと言う事があり、意見を変えた。と言う事なんだろう。マニュフェストがその程度のものだったと言う事になる。加えて、こんなにすぐに意見をかえるにしては、市民説明が足りない。説明する場が、今開かれている議会のつもりなのだろうが。しかし、市民参加もマニュフェストに掲げていた市長だ。議会に説明するだけで、直接市民に説明する場を持たないのでは、この問題を済せるわけにはいかない。この経過を見ていると、加藤市長の市民参加とは何かと言う事が気になりだした。この言葉の巾は広く、前小澤市長も市民参加を言われていたが、市民不参加を聞き違えたかと思うほど、市民は遠ざけられていた。

先日市民参加をある課長に聞いてみた。その人によると、市会議員が市民の代表なのだから、市民は議員として既に市政に参加している。こう説明してくれた。相変わらずだ。行政職員としては、要するに市民参加は困る事、少なくとも面倒くさい事なのだ。出来れば市会議員すら居ないほうが。これが本音のようだ。前副市長の市民参加はなんと、パブリックコメントに意見を出すと言う事だった。これは行政の免罪符であって、パブコメで充分とする発想の裏には、市民の処理法しか見えない。選挙で争う時に、市民参加を言わない人は居ないだろう。市民が投票をするのだから、耳当たりがいい。所が、いざ何か事業を取り組む時となると、市民の参加は大体の場合、厄介になるのはわかる。いちいちの説明だけでも大変なことになる。集まれと言ったって集まらない。一人ひとりに説明と言ったって無理な事だ。市民参加と言う事を、いまだやったことがないわけだから、イメージはそれぞれに違う。

お金が不足した分市民に参加させようでは、話が違う。市民が行政の仕事に参加して、良かったという経験を作ることだ。今の市民参加は川掃除の仕事を押し付けられるのが、せいぜいの市民参加の範囲だ。実際の検討や決定から市民が参加すると言う経験が少くないのだ。少ないから、検討相談の方法が出来ていないし、始めようにも糸口から作り出さなければならない。市民参加の検討委員会などというが、そんな程度はお茶を濁しているだけだ。久野の里地里山協議会は、7月に行う約束を行政が果さないでいる。心配していた通り、活動停止してしまった。他の参加者に聞いてみると、無くなったのだろうとあっさりしていた。役所は人が代われば無責任だよ。こう言っていた。里地里山の再生を行政自身で作り出せる力があるなら、お任せもいい。だから、最初の相談から、市民が加わるのでなければ、協力者は現れない。

市民がこれだけの負担の増加を受けるから、その代わりにこうしてくれ。こう言う相談をするのが、先ず始まりではないだろうか。市民参加という意味では、メダカの地域保全の事で、行政と共同で事業を進めてきた。水路や農道の日常管理は行政には出来ない。自然水路はメダカなど生き物にはいいだろうが、管理を市民がどう負担するかにかかっている。市民に管理をお願いするのだから、市民の意見も取り入れ無ければ進まない。慣れないことを始めるには、頭の中を切り変えなければならない。ごみ広域処理問題でも、行政職員が全てを決めてから、パブリックコメントを行うでは、市民参加の芽が育たない。どんなに面倒に見えても、最初の検討段階から、充分な市民参加を促す以外、解決の道はない。今の行政職員にその経験が全くない。そこで、昔来た道に戻ることになる。

昨日の自給作業:草刈、2時間 累計時間:21時間
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