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私が山北の山の中に田んぼを作ったのは1990年である。農の会は1993年に山北で出来た。庭園田んぼをされている川口さんと始めた。農の会の田んぼとしては1996年に山北町塩沢の奥に始まった。2000年には、顧問の石綿敏久さんの指導で久野坊所で始めることになった。グループ田んぼの原形が出来る。次に出来たのが、桑原田んぼである。顧問の沖津昭二さんの指導で、農の会の創設にかかわった、山田純さんや諏訪間さんなどと一緒に、メダカの生息地の保全も兼ねて田んぼが始まった。その後桑原周辺には4グループ出来た。南足柄には女性田んぼというものもあった。多かったときは個人田んぼを入れて20数か所になった。
家具作家の安藤さんが中心に始めた長塚田んぼは、今は山ちゃん田んぼになっている。山下さんが始めた山北田んぼ。奈良に越した中原さん中心に始めた新永塚田んぼ。川口式で耕作した内山グループ。中井町で井上さんのやった保育園の人達との田んぼグループでは、中村さんと出会うことになった。市長に成った加藤さんがやっていた田んぼが、現在の今屋さんの耕作する梅の里田んぼ。そして、桑原から引っ越した金井島の親子田んぼ。内山の田んぼはその後色々の人がかかわり、場所も少しずつ移動して、夢田んぼとなった。創生水を利用した穴部田んぼもあった。大磯田んぼは東京の人を中心の田んぼだった。白鴎病院の裏でやった田んぼは、現在くだかけの和田さんが引き継いだ。渋沢のソバ屋さん「くりはら」の田んぼは何故か狂犬田んぼと言った。そのほか名前だけ挙げれば、青田んぼ、こっこ牧場田んぼ、ポチ田んぼ、前田田んぼ、がんこ村田んぼ、循環農園田んぼ、千田田んぼ、山北田んぼ、海老澤田んぼ、桑原JC田んぼ、そらや田んぼ、親子田んぼ、大磯わくわく田んぼ、中村田んぼなどがある。農の会が何らかの形でかかわった田んぼである。
久野坊所田んぼが拡大して、舟原田んぼが出来る。舟原田んぼは現在2つのグループになった。欠ノ上田んぼがメンバーも16家族で面積も4反と大きいなグループになった。今は子ノ神田んぼが、井関さんと吉宮さんの田んぼという形で2つになった。こんな形で農の会の田んぼは変化をしてきた。久野には5つの田んぼグループがある。農の会の田んぼグループは10年を越えたものも8つになっている。
「有機のコメづくり」が完成した。農の会のやっているコメ作りの実際を冊子にしたものだ。あしがら農の会の25年という副題がついている。25年間試行錯誤しながら、たどり着いた農法である。カラー写真がどのページにもあるように編集した。誰もがこの通りやれるようにと作った。有機でコメ作りをしようとする人には、必ず役立つ本だと思う。有機農業に関心のある希望者先着50名に無料で差し上げます。この本は小田原有機の里づくり協議会の活動の中で作られたものだ。国の補助を受けて出版することができた。補助の目的は有機農業の普及である。有機農業をやってみようとする人の参考にしてもらう為に作った。必ず役立つ本だと思う。メールで連絡いただければ、着払いでお送りします。
できる限り分かりやすくした本だ。初めて有機のコメ作りをやってみようという人にも、田んぼが出来るように書かれている。農の会は農家ではない人の集まりである。市民が家庭菜園をやるという感覚で田んぼを作っている。家庭コメ作りというようなことだ。その市民的な参加から、新規就農して農家になる人も16家族いた。このコメ作りの本は、農の会の中でも市民的なやり方を書かせてもらったものだ。
市民的なコメ作りと言っても、周辺農家よりも多収している。有機で作っていて、畝取りしている田んぼもある。理由は簡単なことだ。とても手間暇をかけているという事だ。農家にとっては到底できないやり方かと思う。私たちはすべてお借りした農地で耕作をしている。精一杯のことをしなければ申し訳がないと思っている。市民がやるのだから、どうせ遊び半分の田んぼなのだろうと思われないようにやっている。確かに子供が田植えしている。みんなでバーベキューをしながらの田んぼである。楽しい笑い声のあふれる田んぼである。それでも、収量では周辺の田んぼより多収する田んぼである。欠ノ上田んぼでは6年間連続ほぼ畝取りしている。
畝取りできる理由は、明確である。有機農業が優れているからである。伝統的な有機農業で耕作すれば、イネは植物として最高の状態で育つ。最高の状態であるから、当然実りも大きい。当たり前のことであろう。ただし、この伝統的な農業が失われたのは、手がかかりすぎるからだ。農家が行うには到底無理なのだと思う。麦作りで世界一の生産性の上げた日本人がいた。その人は麦の苗を作り、手植えしたという。この精神である。農地を大切に守り育てる。農地の力を最大限生かす。そういう思いで有機のコメ作りを続けてきた。その結果他の人たちにも参考になるコメ作りになっていた。
手がかかるという事をどう考えるかである。手がかかるから大変という事なのだが、これが趣味であればどうであろうか。こんなに手がかかり面白いという事になる。田んぼがスポーツジムであればどうであろうか。田んぼほど健康に良いところはないだろう。身土不二という事が言われる。心身の健康のためには、自分の食は自分で作ることだろう。食べるという事と作るという事が結びついて、初めて、人間は人間になる。
あしがら農の会の田んぼをやれて心から良かったと思う。絵を描く意味もみんなの田んぼをやらなかったらばわからなかった。その時その時の精一杯に生きるという事を田んぼが教えてくれた。田んぼの仲間が教えてくれた。自分の為に絵を描くという事が、人にどうつながってゆくのか。そいう事を田んぼが身体を通して教えてくれたような気がする。
同じ農業をするのでも、私にとっては主食を作る農業は位置づけが違う。主食を作ることは生きる為の食という意味になる。食糧自給率を考える場合でも、主食は別に考える必要がある。麦を主食とする文化。ジャガイモを主食にする文化、トウモロコシ、タロイモ、農耕民族が誕生する歴史の中で、それぞれの主食文化が形成されたはずだ。日本という国はお米を主食に選らんだ。日本の気候と地形と土壌が稲作に向いていたのだろう。日本にやってきた様々な技術は、日本列島という地域の中で熟成された。世界にはさまざまな稲作技術がそれぞれに展開されたが、日本では国づくりの基本として、稲作技術の普及が進んだ。荘園制度の作られた平安時代に日本全体に広がった。6世紀ごろから、すでに日本全体に広がっていた稲作が、洗練された水田稲作として、とくに江戸時代に徹底整備されてゆく。鎖国された環境の中、各藩でこぞって新田開発を行い、水田技術の改良がされ、お米の増産が計られる。稲作によって安定して暮らすという事が出来るようになる。
弥生時代には先端技術だった稲作は、土俗的な民族文化と融合しながら、米信仰を生み出す。主食のコメは日本人の生活を一変させるほどの豊かさをもたらした。その稲作が、日本人というものを変えてゆくものになった。独特の地域形成をもたらすことになる。水というものを通して、人の暮らしが集団として成立する。地域の協力が不可欠な稲作。田んぼや水路を作るという水土事業のために、より大きな集団の力が必要とされてゆく。またその稲作技術が日本の全般の技術力を育むことになる。より優れた稲作をするためには、自然観察力が必要とされる。水のかけ引きひとつで、稲の生育は変わってゆく。里地里山の自然を大きく改変するのではなく、手入れを通して、上手く調和を作り出す。これが日本人の感性を育てる。良い里山が良い田んぼを作る。里山の薪炭林の林が、良い水を作り、田んぼに絞り水を運ぶ。田んぼは特別な肥料を入れることなく、3000年の循環する農業を可能にした。3000年同じ場所で暮らすことが可能になるという意味。美田を残すという意味。ご先祖と、子孫と向き合いながら生きる文化。これが稲作文化なのだろう。
麦を作ることも麦文化というものを形成したはずだ。ところが、麦というものの性質が、永続農業には不向きな作物であったのかもしれない。三圃式農業というものが考えられる。休耕する年を入れ、家畜を放牧する。収量が低く永続性があるというほどには安定しなかったようだ。ヨーロッパは狩猟民族という歴史教科書の説明がある。縄文時代の日本人はやはり狩猟民族的側面がある。あらゆる民族が狩猟採種の時代を経ている。そして、弥生時代からコメ作りによって農耕文化に変化する。ヨーロッパも同じで、狩猟民族の時代があり、麦を作る時代に変わる。麦を選択したヨーロッパの人たちは、領主制のような統治形態が複雑化してゆく。多様でひとくくりにはとらえきれない民族文化を形成してゆくことになる。民族の移動も麦の収量と連作の問題がある。定住する文化がおぼろげなものになる。近代化が早く、民族文化の消滅も一足先であった。そこには、麦を主食に選択するほかなかった、気候と地形と土壌の結果という事をもある。生産性が極めて低く、近代農業に移行するほかなかった。そのことから、プランテーション農業の展開に繋がってゆく。
トウモロコシを選択したインカ文明がやがて行き詰まった原因は、トウモロコシというものの作物的限界というものがあったと言われる。連作の問題、肥料の問題、生産性の問題。日本人がお米を主食に選択できた幸運がある。東洋3000年の水田技術を学ぶことができた有難さがある。遣隋使が一番に学んだものは、稲作の水土技術であったはずだ。宗教や芸術や、政治や学問も学んだのであろうが、それ以上に主食を作る技術を学んだはずだ。中国の稲作農家に住み込んで農業研修生をやった大和人がいたはずだ。そのことは歴史に多くは書かれてはいない。江戸時代のその主食を作る技術が極限まで磨き上げられる。限られた面積で、効率よく主食生産をする技術が完成する。これは、世界でも優れた水田技術である。但し、近代農業技術とは違う技術体系である。この3000年の循環農業の技術を再評価することが、日本人の競争とは別の生き方を生み出すことになると考えている。
〇自給イネ作りが大切なものである主張。
〇有機イネ作りは優秀な栽培法である実践紹介。
〇誰にでも可能な技術としての科学性。
イネ作りを始めたのは、30年前からである。山北の山の斜面を開墾して田んぼを作った。全く経験のないまま自給自足の暮らしへの思いだけで始めた。田んぼを作る原点からやってみたことが、とても良い経験になっている。機械力を使わず、シャベルだけで試行錯誤をした。そして20年経過し、10年前ころから安定した技術になった。その方法は江戸時代の農法に近いものになった。なるほどこれが、3000年の循環農法なのだと納得できるものになった。永続性、再現性のある技術という意味である。それは自然の変化に応じる対応力がある技術である。イネ作りには100枚あれば100の違う栽培がある。土壌や水が違えば、同じことでは通用しない。大切なことは稲の状況を見てそれに応ずる、状況判断である。1年で出来ないことも、5年後にはできるという目標を確立させた、土壌環境の育て方である。ここは再現性のある技術になっている。どこでも誰でも同じようにやれば可能だ。農の会の多くの仲間と100か所の田んぼ失敗を重ねながら耕作した結果、そういう事が確信できた。
稲作を大量生産の工業製品と同じものにしようとしたのが、近代農法なのだろう。そこそこのに出来で良いから、機械化して、安価なコメ作りを目指した。機械力を使う技術に稲作技術は変化した。当然、化学肥料を使う。予防的に農薬も使う。土壌を育むというより、どんな土壌でも可能な農業技術が探求された。しかし、そうした農業は生産農家には向いているとしても、家庭菜園のような「自給のイネ作り技術」には不向きな農法になっていた。例えば、農協で作られる機械植えの苗を購入することが普通になった。この苗で作る以上限界がある。対応力のある苗は出来ない。田んぼで自家採取した種を用い、苗床で作る苗とは、雲泥の差になる。最高の苗は5葉期の苗である。機械植えが難しい。しかし、自給の為のイネ作りであれば、手植えが可能になる。自給のイネ作り技術は、近代農業の技術とは違っていたのだ。しかも自給のイネ作りの方が、多収できる上に、素人にも可能なものだった。このことに気づいて、どうしても本にまとめたくなった。
江戸時代の人はお米が命の根源であり、信仰の思いさえ持っていた。人間が生きる基本が食べ物にあるからに違いない。食足りて礼節を知る。生きる前提が食である。食が工業製品と同列になることで、食の意味が不明瞭になった。このことから、日本人の生きるという事まで不明瞭になったのではないか。日本という国は食糧の自給が40%であっても、輸入すればよいという不安定な国になった。誰もが、コンビニに行けば何でもあると思い暮らしている。自然災害のたびに、その油断が指摘される。生きるという意味の曖昧さに繋がっている。主食のお米を作るということに家庭イネ作りの意味があると考えている。自分で家庭コメ作りをしてみる価値は、自分の生きるという事の再確認になるのではないか。過程コメ作りは生きる確認の為に行うという事を書いておきたい。
だからこそ、コメ作りの技術は簡単で誰にでもできるものでなければならない。コメ作りは日本の水土に適合していて、野菜よりもはるかに簡単なものになる。田んぼという非日常の空間が、壁を感じさせているかもしれない。土を汚いという意識、これを取り除きたい。田んぼの土壌と土が手順さえ間違わなければ、自然という偉大なものが、自分の力を助けてくれる感謝。畑の雑草よりも田んぼの雑草の方が管理さえ間違わなければ、抑制されたものになる。一人の自給に60キロのお米が必要だとすれば、100㎡の田んぼで良い。これほどお米は生産性が高い作物だ。古代文明が今に続いているのは、米作り文化だけである。お米が主食に最も適合していることは間違いがない。気候変動にも最も対応力が高い作物なのだ。しかも、環境を維持し保全してゆく力を兼ね備えている。水が環境に対して緩衝材になる。水のかけ引きさえ間違えなければ、体力はなくともできるのが稲作だ。
こういうことをこれから1か月かけて、まとめてゆきたい。
家庭イネ作りの費用はどのくらいかかるのか。長年の結果からすると、120キロのお米が1万円で手に入ると考えればよい。私の家では2人分の一年間のお米が1万円で十分という事になる。これが農の会の稲作の目標であり、達成したものである。今年おおよそ4反ほどの田んぼで、15家族で稲作を行った。その結果がどうも8000円以下の一人分担というのだ。安すぎるので驚いた。10家族で2反をやるという態勢で1万円という事のようだ。嘘のように安いので、間違いだというコメントが来たことがある。しかし嘘偽りなく、これが農の会25年の歴史的結果である。機械をどうしているのかというのが一番の疑問のようだ。共同使用である。機械は壊れる。まあ、壊す、壊す。私もよく壊すので近在の農機具屋では有名な方だ。「あんたか、よく壊すので聞いているよ。」と初対面の農機具屋に言われたことさえある位だ。今はあちこちの農機具屋に騙されて、もう農機具屋には行かないことにしている。
農業機械は簡単には直せないように作られている。ねじ一つ外せないように仕組まれている。私にはそう思えるほど、直しには不親切なつくりだ。それでもある程度まで自分で修理できなければ、家庭イネ作りは不可能である。家庭イネ作りと言えども、機械は使わざる得ない。工夫してもねじが回せない人では、イネ作りはできない。おかしなことだが、そういう事になる。すぐ農機具屋に行くようでは、忽ちに1万円では済まないことになる。機械は共同で使わなければ、高価なものになる。100人で使っても、一人で使っても同じ費用になる。100人で1万円だったものなら、一人なら10万円と考えざるえない。機械貧乏になる。そこで一人でやるとしたら、一切機械は使わないと考えるだろう。機械を使わないで一番困るのが、脱穀から籾摺り精米までの工程になる。干したお米を手でしごいてとることになるか。千歯こぎくらい工夫して作れるかもしれない。それでも籾摺りという事になれば不可能であろう。開成町の瀬戸屋敷の水車で籾摺りを試したことがあるが、一日かけて20キロ程度であった。これを手で叩くなど考えたくもない。ここだけ、農家に頼むという事もあるが、やってくれる人がいれば幸運なことだろう。
家庭イネ作りの経済は一人ではなく、やはり協働という事になる。それが日本の伝統稲作だ。瑞穂の国日本は田んぼを協働作業でやるという合理性からできた。一つのが田んぼという繋がりで出来上がる。しかし、現代はこうした昔の協働する集落というものが崩壊した。様々に煩わしいので当然とはいえる。一人一人がバラバラにイネ作りを行う。水の使い方でも自分のことしか考えない人が多数派である。新しい協働を見つけようとした仕組みが、農の会のイネ作りだ。安く上げるためには、働く時間を増やすしかない。ここが問題である。誰もが忙しい時代だ。はざがけの棹は竹を切り出せばただである。はざがけ機材を購入するれば、1反分で10万円もする。はざがけ脚を自作すれば、ただであるが時間がかかる。このバランスである。この時間がかかるを楽しみとしてやれるかどうかが、分かれ道であろう。負担だと思えば止めた方が良い。
イネ作りは面白い。生計を立てなければならない主業ではないから面白いのだろう。しかし、趣味だからこそ専業農家よりも真剣に取り組まなければならないと考えている。今年は3反で11枚に分かれた棚田で、反収605キロの畝取りが出来た。有機農業の家庭イネ作りが、慣行農法の稲作農家を超えているのだ。江戸時代さながらのイネ作りがやはり優れていたという事が証明できた。江戸時代が飢餓の時代だというデマが払しょくできると思う。愉快でたまらない。人間は100坪の土地で一日一時間働けば食糧の自給はできる。シャベル一つの開墾から始めた、ここ30年間の自給生活でそうしたことが証明できたと思う。これほど楽しい試みはなかった。やりたいことをやる。遊園地にお金を払っても行く人は居る。田んぼは遊園地以上に面白い。これが食糧の自給になるのだから答えられない。昔のニワトリの本には必ず書かれていたのが、趣味と実益を兼ねてという副題だった。生きるという事を趣味にしてしまえば、経済は別会計になるという事なのだろう。
2018
苗床後の収穫直前の様子。いまだ苗床と通路の違いが残っている。奥の2番田んぼはもう稲刈りが進んでいる。
2018年の稲作が無事終了した。畝取りの豊作であった。サトジマン面積が29.71アールで収量が1799.7キロ 反収で605,8キロ。ほぼ安定して畝取りを達成できる状態になっている。難しいこと、特別なことをしているわけではない。ごく当たり前に有機農業の稲作を行っている。有機農業というものが、様々な農法の中でも優れたやり方という事なのだろう。長年土壌を育んできた結果が出ている。土壌づくりの基本は腐植の増加である。あらゆる手段で腐食を増加してきた。腐植を増加させるには時間がかかる。5年間蓄積するとやっと十分な腐植の土壌になる。腐食は耕作する事で減少する。だから、毎年減少分以上に積み重ねて行かなければ良い土壌にはならない。腐植の継続的な増加努力によって良い土壌が形成される。消毒をしないのだから当然病気も出る。虫もつく。しかし、健全な生育のイネが生育していれば、収量に影響が出るほど病気が広がるようなことはない。周囲の環境を含めた、良好な環境が維持できれば、虫が異常繁殖するようなことはない。わずかな虫を見て、慌てて消毒をして、環境を崩す方が被害は大きくなる。
4月7日に籾洗いにはじまった。4月21日に種まき。5月26日に田植え。9月29日と10月7日に稲刈り。10月14日に籾摺り。例年とほぼ同じ流れである。今年の特徴は梅雨が無かったことだろう。天候が良かったので、苗作りは良好であった。苗が良かったので、ここで7割は成功したとみんなで大いに喜んだ。田植え後も晴天が続き初期生育も良かった。途中のイネの観察日では分けつが23本ほどあり、これは相当に良くなるといよいよ喜んだ。この段階では大豊作の予感がした。ところが、夏になり異常な暑さになった。ここからイネの不調が見え始めた。葉色の緑が浅い。いつものように黒々とした緑にはならないまま、むしろ葉色が落ち始めた。土壌が早くも消耗した感がある。イネの初期生育の良さもあり、土壌の肥料成分が使われてしまったような印象があった。草の勢いも例年よりも激しく、雑草による肥料収奪も多かったと思われる。そこで穂肥は確実に与えた。これが最終的には効果を上げた。
出始めた止め葉は50㎝台で十分とは言えないために、心配になったが、その後出た穂の状態はそれなりに回復して、120粒以上で、粒張りもなかなか良く大粒の穂が目立つようになってきた。ところが、この頃から暑さ負けしたかのように、紋枯れ病が出現した。倒伏したかのように見えるのだが、紋枯れ病で倒れた感が強い。今年の稲わらは田んぼに戻せないとここで確信した。しかし、全体を見れば一部だけのことで、あまり心配まではしなかった。所が穂が出たころからスズメが集まり始めた。このスズメの襲来は日に日に数を増して、数百羽にも及んだ。案山子で脅したのだが、もうついてしまったスズメは離れることはなかった。早稲系の峰の雪糯を作ったことが一つの失敗であった。仕方がないので、出来の悪かった田んぼにスズメを集中させて他の田んぼに入らないようにした。毎朝スズメを追い払う事が、大変な日課になったが、この作戦は一応成功したので、他の田んぼでの被害は少ないもので済んだ。この点今は地獄から抜け出たような気分だ。
来年は稲わらを戻さない分、緑肥を十分に育てなければならない。畦に白クローバーを播く。広めの畔のの草をバンカープランツと考える。同時に大豆も撒く。何故か畦の大豆は出来がそれなりに良い。少し邪魔ではあるが、作業でダメになる株は1割以下だ。畦に稲科ではない植物があることが重要だと考えている。虫が偏った発生をしない可能性がある。ともかく田んぼという単調な世界に多様性を持ち込むことは悪くない。田んぼの周辺を含めた環境に多様性があることが大切だと考えている。作業性も良く、安定してクローバーが生えている畦を作りたい。現在も、播いたクローバーが自然に再生してきている。田んぼの中にはレンゲと、赤クローバーを播く。播き方として、何もしないで播く。耕してから蒔いてレーキで軽く覆土。播種してからトラックターで耕す。この3通りの方法で緑肥の成育違いを観察する。
あしがら農の会の稲作をまとめました。冊子を11月末に発行します。希望者には着払いで送ります。sasamura.ailand@nifty.com まで申し込んでください。