不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

地場・旬・自給

ホームページ https://sasamura.sakura.ne.jp/

円安時代に米を輸出しよう

2024-05-28 04:01:44 | 稲作


 円安時代である。米輸出を考えるべきでは無いだろうか。世界では食糧不足が続いている。日本のお米の生産費は高いので、米は輸出できないと言われているが、そう決めつけない方が良いだろう。円は一時の半分の価格になったのだから、お米の生産費も半分になったと考えて良いのだろう。

 農家の大規模化や機械化が進んでいることを考えれば、米の生産費はまだまだ下がるとも言える。企業的農家が増えて、一般農家が減っている。そして農地の集積は進む。集積された農地で合理的経営を行い、お米を輸出産業に出来るはずだ。

 このまま何も手を打たないで居れば、水田が失われて行く。水田がなくなれば日本の環境のためにも問題が起こる。そもそも稲作がなくなれば、日本文化が見えなくなる。主食であるお米を大切にしなければならない。そのためにはお米の輸出のための環境整備を国が行うべきだ。

 お米は2018年に減反が廃止された。減反が廃止されて米農家が成り立たなくなり、廃業が進んでいる。減反奨励金でかろうじて生活していた農家は、競争価格になり、下落した米価では成立しないことになったのだ。そこで、農地の集積が始まり、日本にも大規模企業農家が出現した。

 しかし、政府は農協や農家からの強い抗議を受けて転作奨励金のような形で、作らなければお金を上げる減反奨励金はさすがに止めたが、稲作を止めて、畑にすれば補助金を出している。様々な形の補助金が今もあるが、あくまで経過処置のような、宙ぶらりんの方向の見えないものになっている。
 
 国は年間2300億円の補助金を出して、小麦や大豆を生産させている。生産量は130万トンに満たない。しかも、国産の小麦は品質が安定しないので製粉会社は使いたがらない。2300億円出せば、500万トンの小麦を輸入できるのだから、やることがちぐはぐである。

 家畜の餌となる飼料米を作れば、補助金が出る。年間950億円の補助金をあてて、主食用米から餌米への転作を奨励している。その費用で生産されるのは66万トン。にすぎない。同じ財政負担を飼料の輸入に回せば、その数倍の飼料が輸入できる。

 すべては農家を守るための補助金である事は確かなのだが、補助されなければ成り立たないような産業はいつか終わる。農家の生活保全がまるで生活保護費の代わりに農業補助金があるような気がしてくる。農家を守ろうとして、農家を廃業させているような結果になっている。

 そして、農業基本法が見直されたが、農家が増えるような政策はどこにも見当たらないのだ。これからも農家は減少して行くだろうし、農地も放棄されて行く。生活保護費が出るような産業を誰も始めようなどと思わないはずだ。日本農業が世界で対等に経済活動できるようにすべきなのだ。

 日本の自然環境は確かに、規模拡大しにくいところはある。しかし、小さな国オランダが、穀物輸出国なのだ。日本独自の農業技術を開発して、世界と対等に商売が出来るようなものを考えなければだめだ。そのためには大規模化は機械化は必要なことだ。

 日本では長く、農家は自民党の票田と言われていた。しかし、さすがに今では農業者数が減少し、それこそ票田の減反が進んで、自民党への圧力団体と言っても、それ程の影響力は失われている。今では地方でも農協よりも土建業や建設業分野の方がパー券キックバック裏金の影響力がはるかに強い。

 そこで、確かに政府は今度の農業基本法の見直しでも、農業を輸出産業にする。農家にITを取り入れた、スマート農業の研究開発なども打ち出している。しかし、肝心なことは具体的に、どうやって輸出産業にするのか。どういうスマート農業なのかは見えてこない。

 具体策ないのは、政府には農業に対する、未来像がない。農業が一次産業だと言うことが分っていない。農業基本法が見直されても、農家は減少するとしか思えない。もっと具体的に考えて、農家になりたくなるような提案をしなければならない、国の未来の緊急事態だと思う。

 もう一般農家の延命策のようなものは止めるべきだ。例えば、沖縄ではサトウキビの奨励金というものがある。1トン当たり補助金額は16800円とある。これを無くせば、間違いなくすべてのサトウキビ農家は継続できないだろう。

 補助金を止めて、サトウキビ農家が、その後どういう農業経営をすれば良いかの、具体的な農業の形を示すことが、農政の役割ではないだろうか。何時までも補助金だけで経営を維持することは、さらに苦境が続くことになる。これはどの農産物でも大きな違いはない。

 米を輸出品にすべきだ。日本のお米は特徴があるものだ。ブランドとしての評価もある。何故、米輸出量が少ないかと言えば、輸出手続き等が極めて煩雑と言うことがある。農家が輸出に手を出せるほど簡単なことではないのだ。間に商社が必要になる。この流れを農水省が協力すべきだ。

 各国には自国の農業者の生産農産物の関税等の輸入規制がある。衛生・安全面では、輸入国の食品衛生法や食品表示法などの規定条件がある。また自国の農産物に害虫や菌などの悪影響の原因となるものを水際で抑止する動物・植物の検疫検査制度がある。

 さらに米輸出のための物流が整備されていない。米の品質を落とさず、輸出するための輸送船や港湾設備の整備が必要になる。当然、それぞれの国柄によって、米販売のマーケティングも違う。どうやって日本のお米をアピールして行くかには、高級品販売の戦略が居る。これも専門家の仕事だ。

 農家レベルでは手が出せない高いハードルがある。日本には優秀な大商社がある。そうしたところの力を借りて、そこに政府の補助金を入れて、日本のお米の輸出を試みることが必要だろう。農家に補助金を出すのを止めて、世界に輸出するための方策を、政府が試みて行くことが必要になる。

 これからの農業は国民皆農と言えるような、自給の農業と育成が一つの道。同時に世界に流通する大規模農業の輸出への政府の支援がもう一つの道。政府の農業政策はこの2分野に分かれて行なわなくてはならない。現在の農家はこの2つの道を選択して貰わなくてはならない。そうならなければ、日本の食料の安全保障は達成できない。

 これから新規就農をする人も居る。農業は魅力的な仕事だから当然のことだ。そうした人はよほどの特殊な回答を用意する必要がある。普通に補助金を当てにして、農家を始める人が多いいが、それでは農家経営は不可能になる。補助金も遠からず出なくなる。政府はさらに困窮するはずだ。

 40年近く農業に関わってきたが、40年前に予測したとおりに進んでいる。多分これからの予測も概ね間違えない。普通の農家はほとんどなくなるだろう。大規模農家と特殊な農家と自給農家の3つに分かれる。農業に興味があるとすればそのどれが自分に合うかを考える必要がある。

 米を輸出品にする。農家への補助金を止めて、輸出奨励金に変える。直接的に輸出奨励金にすると、海外の拒否反応も出るだろうから、輸出環境の整備に国は力を注げばいい。田んぼ大規模化の為の道路、耕作地、水利の整備。専用船の準備や、海外のマーケティング、輸出可能な品種の開発。等々国が担うべき事は様々ある。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

台中65号の種籾を直播きした。

2024-02-12 04:14:56 | 稲作

 台中65号蓬莱米を直播きにした場所。

 台中65号の種籾を頂いた。長く石垣島でも作られていたお米である。沖縄で30年前の1995年までに奨励品種として作られていた 品種なのだ。今は日本ではほとんど失われてしまった品種のお米である。沖縄では未だに作る農家が残っていたのだ。それを、島根出雲市の台雲酒造会社が酒米として復活させた。

 台湾農業の父と言われ、台湾で勲章を授与された磯永吉博士と末永仁 技師の作出した蓬莱米と呼ばれたお米である。1929年に作出されたとあるから、95年の歴史があるお米である。沖縄では奨励品種として30年前までは普通に作られていた。石垣島の農家の方は大正から昭和50年代まで、多くの農家の方がこのお米を作られていたはずだ。

 蓬莱米と呼ばれ、台湾で広く作られ、沖縄でも作られるようになったお米である。石垣島でこのお米を作られていた方が、今作っているひとめぼれよりもずっと作りやすかったし、多収できたと言われている。西表で8俵採れたという記録があるのは蓬莱米と思われる。

 

 同じ台中65号でもかなり違ってきているらしい。95年の間に品種に変異が生じていると言われている。日本に来て沖縄で作られていたものと、島根で作られているものと、台湾で今に残っているものとは、形質の変化があり、どうも違うらしい。

 一度作ってみたいと考えていたのだが、今回150粒の種籾が入手できた。今回頂いた種籾は遺伝的に、変異のない正しいものと言われていた。種子保存しているものを分けていただくことが出来た。おろそかに出来ない種籾である。慎重に栽培してみたい。

 ともかく作ってみて、味を確認してみたい。自然栽培で作るとお米の味は変るものだ。沖縄の奨励品種としては、味が良くないので売りにくいと言うことで、ひとめぼれに変えられたらしい。実証主義を標榜している者としては、確かめてみないではいられない。


わずか発芽してきたが写真ではよくは見えない。

 評判の高い「ひとめぼれ」という銘柄米なら売れると言うこともあって、沖縄県では奨励品種の変更になった可能性があるのだろう。しかし、ひとめぼれは石垣島では葉が13枚しか出ない、満作にはならないお米の品種と言うことも確かである。これはどの農家の田んぼでも同じ結果が出ている。

 台湾ではミルキーサマーが最近ではコシヒカリよりも人気が出てきたそうだ。多分コシヒカリよりは作りやすくて、味覚が良いからだ。のぼたん農園でも昨年作ってみた。ひとめぼれよりは作りやすいが、13枚しか葉がでなかった点では一緒だった。そこで今年は1月6日田植えならば、何とかなるかも知れないと、現在挑戦している。今のところ順調である。

 そう作ってみて、蓬莱米の生育の観察も行いたい。発芽まで1週間かかった。ゆっくりしている。何枚葉がでるかは健全な生育を判断できる重要な確認の要素である。石垣島の気候に適合している品種であれば、葉は15枚出るはずである。台湾でも稲の葉は何枚でるかを質問したのだが、確認はされていなかった。

 もし台中65号が葉が15枚出れば、磯博士の作出品種が亜熱帯気候に適応した、優れたものであるかが確認できる。まずお米を満作に作ると言うことが私の目標である。満作の作物のお米が一番美味しいし、栄養も豊富で、滋養も深いと考えている。満作であっても、気候と土壌の結果、畝取りできないかも知れない。

 石垣島のお米の収量はかなり低い。だいたい6俵平均である。それは、石垣島の JIRCAS のお米も、県の農研センターのお米も同じに収量は低いはずである。見てそう思った。沖縄のお米の収量が日本で一番低い結果は、農家の栽培が悪いためではない。

 ひとめぼれが亜熱帯の気候に合わないために良く出来ないのだ。沖縄の農家の人はいい加減な捨て作りが多いためだと、主張した人がいたが、それはは全く見当違いだ。見ていて熱心にやられている方が多い。条件に合わないお米をつまり短期間の生育で良くもここまで収穫していると思う。

 東北地方向けの寒さに適合した品種である。夜温が25度以下に下がらない気候の栽培では、東北のお米が出来ないのは当たり前である。それでも良く出来ないでも、売れれば良いというので奨励品種は変えられたと考えられる。まあ採れすぎたら売りにくいというのもあるかも知れない。

 何故、100年も昔のお米である、台中65号を作ってみたいと考えたかと言えば、自然栽培で作れば美味しくなる可能性があるからだ。100年前のお米であれば、当然自然栽培を前提に作られたお米である。化学肥料で作るようになり、まずくなった可能性はあるかもしれない。

 お米の味は栽培法で相当に変るものだ。あしがら農の会では「サトジマン」を長く作っている。サトジマンは神奈川県の奨励品種であった時代がある。所が美味しくないので売れないというので、奨励品種から外された。所が農の会で作るサトジマンは美味しいお米である。何故あんなに美味しいお米をまずいというのか不思議である。

 今も毎日食べているが、サトジマンの味に大満足している。その理由はサトジマンは自然栽培で作ると美味しくなるお米のためだと思われる。化学肥料で作るとまずいお米になってしまう品種なのではないか。お米は栽培法で味が変るのだ。自然栽培で作れば、絶品になるお米もある。

 その意味で、蓬莱米と呼ばれた台中65号は美味しかった可能性は残されている。所が現代の化学肥料時代になり、まずくなってしまい作られなくなった可能性は無いとは言えない。何でも作ってみなければ分からないものだ。もし自然栽培ならば美味しく食べれるお米であれば、復活した方が良い。

 台中65号は1月31日に浸種をした。2月7日に直播きをした。稲刈りは5月末ぐらいになるだろう。まず100株程度実験栽培をした。試食は出来る量採れるはずだ。美味しければ、ひこばえから種籾を収穫して、広げれば良いと考えている。

 種籾は見たところかなり弱い稲に見えた。それでも発芽はした。発芽をすれば、種籾の弱さは問題が無い。遺伝形質的には種に力が無くとも、問題は無い。後は栽培を旨く出来るかだ。大切な種なので、慎重に栽培して行かなければならない。
 
 
 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

お米の値段

2022-07-07 04:01:53 | 稲作


日本の消費者はコメに国際価格の2~3倍を支払っている。ーーー高崎経済大学柿埜真吾 氏
 
 これはいわゆるフェークニュースである。もしこんな単純な間違えをしているとしたら、大学の先生としては相当無能な方だと思われる。なぜ今更こういう虚偽のデーターを専門家が主張するのかと思うと情けなくなる。こんな間違った情報を消費者が信じて、お米を食べなくなるのかも知れない。

 日本国内にもコメの価格差は2~3倍はある。おいしいとされる銘柄米は高いし。安い業務用米もある。タイのインディカ米と日本のコシヒカリを比較しても無意味である。車の価格を車種を考えないで比較する人はいない。

 確かにお米の生産コストは日本のお米はアメリカの6倍くらいになると言われている。様々な条件が違いすぎる。極端な例えで言えば、マンゴーを石垣で作るときと東京で作るときでは、まったく生産費が違ってくる。農産物はそういう物である。

 水がない地域で、費用をかけて水を引いてくればその費用がお米の生産費に上乗せされるならば、日本よりもいくらでも高いお米は存在する。そもそも主食に関して言えば、国際比較すること自体よほど注意深く考えなければ、正しい材料にはならない。

 新聞でそういう記事が出るのは、その程度の物なのだから仕方がないことだが、専門家の議論は材料が雑では議論が出来ない。果たしてご飯1杯が30円くらいだとして、これが外国では10円の国があるのに、高いご飯を食べさせられていると言えるのだろうか。

 日本人にはご飯に対する相当なこだわりがある。お米の味に関してこれほど問題にしている国は他にはない。最近徐々に日本と同様に美味しいお米を食べたいと言うことになり、日本の銘柄米が高くても売れるようになってきている。

 香港で日本のコシヒカリが3倍で売られていたとして、買う人がいるからその価格なのであり、高いお米を香港の消費者は食べさせられているわけではない。

 もう一つが日本のお米の生産費が高いという問題。まず経営規模が違う。一つの稲作経営体の規模が1000倍にもなる。広大な平らな土地がある国がある。日本では稲作農家の経営規模は3㏊ぐらいである。一区画は0.1㏊程度である。アメリカでは1区画が10㏊もあって、しかも日本の何百倍の経営規模である。そのアメリカよりオーストラリアはさらに広い。

 日本の国土にはそれほど広い農地は存在しない。そんなまとまった平野があるとしても、稲作にだけ使えるわけではない。本来稲作の適地は農地ではなくなり、宅地や工業地帯に転用されている。しかし、日本より条件の悪い稲作など不可能な地域の方が普通だ。

 気候はどうだろうか。オーストラリアは水さえあれば、稲作には向いている。しかし大半の場所に水がない。だから地下水を汲み上げて稲作をする。地下水が出なくなれば、農地を放棄する。そもそも、こういう収奪的な農業地帯のお米の価格と比較する意味があるのだろうか。

 日本では外国人労働者によって農業が維持されるようになってきた。こういうことも価格比較には影響している。そのほか、水田ダムのような環境調整能力を価格はどう反映するのかも検討が必要だ。水田がなくなり、赤とんぼがいなくなって、寂しい思いは価格にどう影響するのか。

 稲作の教育的効果を価格はどう反映するのか。日本人の道徳心はイネ作りと結びついている。日本教の神様にはお米が奉納される。私が5穀を作らなければ、豊年祭が出来ないと言われた小浜島のイネ作りのお米の価格はどう考えれば良いのだろうか。

 主食はその国の人を作り出している。日本の高度成長は日本の稲作文化に支えられた物だ。主食は文字通り、その国の人間を生み出している。主食はよその国と比較して考えてはだめな物だ。主食に関しては国際貿易と切り離して考える必要がある。

 生産コストは下げる努力をしなければならないのは当然のことだ。お米の価格が政府に高値で保障されていたために、いびつな産業になったことは確かだ。しかし、そうして稲作農家を維持しなければならない、様々な理由があったことも事実だ。

 かつては東北地方から、金の卵と呼ばれる若い労働者が都会の労働力として供給され、日本の高度成長を支えた。そして東北の農家は農閑期には出稼ぎ労働者となり、高度成長を支えた。その基盤としての稲作農家の維持が必要な物だった。

 日本の工業の成長は米価に支えられた側面もある。そうした時代を経て現在は価格は政府は直接は関与していない。お米の輸入を制限している。稲作農家を守るためである。大所から見れば水田がなくなることが日本の損失になると、政府はまだ考えている。

 そうした諸々の末に現われているのがご飯一杯30円である。私は安いと思っている。赤とんぼが飛んでくれるのであれば、30円は高くない。キュウリ1本30円はする。栄養価から考えれば、30円は主食として適正な価格ではないだろうか。この30円だって、15円くらいの日本産のお米もある。高いと思うならそれを食べたらどうだろうか。

 プランテーション農業によって、主食を奪われた民族は国自体が疲弊した。綿を作る農業者が飢え死にをしたのだ。サトウキビを作っていて、胡椒を作っていて、飢え死にをしたのだ。国際競争力を主食に当てはめては成らない。

 一つの国が成り立つのは食糧自給の規模が適正である。主食は貿易品から除外して考える必要がある。主食が作れる範囲でそれを大きくは越えない国健全な国だ。たまたま石油が出るから、すべての食糧は輸入するというような特殊な事情の国もある。

 しかし長い目で見ればその国も石油は出なくなり、食料の生産が出来る範囲で、国を成り立てて行かざる得なくなる。それが健全なのだと思う。特殊な事情の国もあるかも知れないが。日本はお米を主食として生産して、この適正価格は日本の生産費から考えればいいものだ。

 現在稲作農家は経営が出来ない。だから後継者はすくない。とくに稲作農業者の人口は減少を続けている。それに変わって農業法人が登場している。しかし、生産の条件の悪い地域では田んぼの放棄が進んでいる。機械が入らないような田んぼは放棄され、農地でも無くなっている。

 そういうことを良しとしているのが、冒頭に書いたような悪質なデマをかく人間だ。日本のお米は決して高くない。日本の風景を残したいと思うなら、高くない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

欠ノ上田んぼの稲刈りが終わった。

2020-10-08 04:14:51 | 稲作
 

  欠ノ上田んぼの稲刈りが終わった。天候に恵まれて順調な稲刈りだった。田んぼがぬかるんでいなかったので、作業は楽だった。近藤さんの水管理のお陰だ。今年も稲刈りまで参加できたのは幸せなことだった。

 この幸せ感は厳しい作業をしている間も、ずーと感じていた。イネ作りをやり遂げる達成感と、良い仲間と同じ目的で頑張る充実。生きるという喜びを深く感じることが出来る稲刈りだった。そのことは小田原を離れてより一層感じる所だ。

 石垣島に住んでいて、小田原の田んぼに参加できることは、稀有な幸運であるにちがいない。何年こんなありがたい生活が出来るのかわからないが、身体の方は、まだ何とかみんなに着いて行けるようだ。田んぼ仕事はその人に応じた仕事がある。それぞれが自分に合った作業を見つけて行う事が出来る。

 石垣島では畑仕事をしていないでいる。突然稲刈りだから、大丈夫なのか少し心配はあった。昨年よりはだいぶ披露するようになった気はした。だから、あまり無理をせずやらせてもらった。そのおかげで何とか乗り切れた。

 翌朝に疲れが残っていないことにむしろ驚いたぐらいだ。筋肉痛などは全くない。少し、さぼりながら働いけば大丈夫だ。かなりの時間座り込んで仕事をしていた。座ったまま、畔の稲を刈ったり、イネを束ねたりしていた。バインダーなど全くやらなかった。もう私がやらない方がいいと思っている。

 こうして次の世代に作業が受け継がれてゆくことこそ素晴らしい。厳しい作業が出来なくなったものは、全体の流れが滞りなく進むように作業の手順を先回りして準備することだと思う。長年やっているので、次は何を準備すればいいかだいたい理解している。

 ただその時難しいのは若い人もわかっているのに、押しつけがましく指導するようなことになるとやる気をそいでしまう。今年は新しいハーベスターを使った。渡部さんが前日に試運転をしましょうと言われた。これが良かった。

 このハーベスターは難敵で、今までのものと違って、癖が強かった。中古の程度もそれなりのもので、エンジンの力も少し弱くなる。このあたりの加減が結構難しかった。前日に問題点の把握が出来ていたので、翌日はそれなりに順調にできた。

 稲刈りは10月3日と4日朝8時からの作業で、4日の午前中で終わった。それは午後、富田さんの田んぼを併せて進められればと思っていた。なかなか冨田さんの田んぼはよくできていた。整備も実に良いし、生育が統一されていた。それが終わり機会の清掃が終わったのが4時30分。

 ハザガケも美しくできて、欠ノ上の景観が実に見事なものになった。ハザガケも地域の風物詩であるという時代は終わりつつある。残念なことに今年も作業中に写真を撮るようなことは全くできなかった。作業に入るとそれだけになってしまって何もできない。

 引き続き、昨日つまり、7日に脱穀になった。7日の夕方から雨になり、8日はかなりの雨、そして10日には台風が近づく。もうなんとしても、7日の水曜日にやり切るしかなくなった。6日に準備して、試しに15番田んぼ分を刈った。乾いていて、問題なく脱粒できた。一安心である。

 翌朝7時から開始した。機械も悪くない調子で稼働した。しかし、一台では夕方までにすべて終わることは難しい。もう一台のハーベスターを、井関さんの田んぼで使っている。すぐ渡部さんに手伝いに行ってもらって、作業を早く終わらせて、持ってきてもらうことにした。

 これは正解だった。1時間半ほどすると、もう一台のハーベスターが作業に加わった。これで機械が順調に動けば、何とか夕方までに終わるめどがついた。15枚の田んぼがあり、1枚が1時間平均で脱穀できたとして、15時間になる。脱穀自体は2時に終了した。

 ハザガケの棹の片付け。藁の片付け。そして、一部の人がハーベスターの清掃。5人は冨田さんの田んぼの脱穀に移動。冨田さんの田んぼが始まると小雨が降りだす。それでも何とか4時には終わる。みんなの手分けした作業がすごい。

 そして機械をよく洗浄して、5時ごろにすべての作業が終わった。すぐにお風呂に入った。なんとお風呂から出ると、35キロのクエを釣ったという人から、おすそ分けを頂いた。お礼に丁度絞っていた自家製醤油を渡すことができた。

 この間少しづつ醤油を絞っているのだ。大きな金網が無くなったので、少しづつ絞っている。それでももう4本絞れた。帰るまでに醤油を絞り切りたい。一日2本絞れるから、この調子で、あと4本ぐらいは取れるだろう。もう醤油を仕込むというようなこともできないので、最後の醤油になる。

 荷物の方もいよいよ最後のものを送るようなことになる。後のものは小田原に残しておくほかない。小田原の農作業の方も何とかあと5年は続けたいものだが、今年の身体の調子だと何とかなるかもわからないと思えた。

 わずかなことであるが、新しく農業を始めた人たちに自分のやってきたイネ作りの技術を伝えることができた。これはいくらか役に立ったこともあるだろう。もう来年は自分流で大丈夫だ。私も石綿さんに一年間みっちり石綿農法を教えてもらった。

 今やっているやり方とはずいぶん違う農法ではあったが、一年間言われる通りの農業をやったことは後々役立つことがあった。石綿農法は7俵で良い農法で、私の農法は畝取り農法である。有機農業を広めるためには慣行農法より、収量が低いというのではだめだと考えたためだ。

 7俵の方が美味しいとか、生命力があるとかいうのは、私の領域ではない。イネを元気よく育てることが第一目標である。万作のイネのお米が一番良いお米だ考えている。それは養鶏で知った命の仕組みである。

 残った作業は籾摺りである。これを日曜日に行う予定だ。それで今年のイネ作りが終わる。田植えと稲刈りしか参加できなかったが、素晴らしいイネ作りに参加できた。来年も良いイネ作りになればと思う。

 昨日の晩から夜の間強い雨が降り続いた。昨日脱穀を無理をしてもやり遂げて、本当に良かった。突然の招集にもかかわらずほとんどの人が駆けつけてくれた。この気持ちがなければ、イネ作りは上手く行かない。無理をしても頑張ろうという気持ちになるのは、仲間だからだ。

 主食を作る仲間。命の仲間。これほど素晴らしい人間関係は他にはないだろう。あしがら農の会の仕組みは案外に他にはないらしい。是非とも、ここで試行錯誤された仕組みを、他でも利用してもらいたいものだ。田んぼの仕組みは誰も得をしない。誰も損をしない。本当の平等というものがどういうところにあるかを体験しているのだと思う。

 人の倍もできる人もいる。人の半分しかできない人もいる。それでも仲間として互いを支え合う気持ちが生まれて、良い分配をして誰も不満が出ない。能力主義ではない人間の在り方を体験する場なのだと思う。こういう活動が失敗するのは、現実社会の分配法を取り入れるところから始まると考えている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2020欠ノ上田んぼの田植え

2020-06-17 04:31:09 | 稲作
 


 欠ノ上田んぼの田植えが終わった。実に充実した3日間だった。こんな日々を生きることが出来るという、何というありがたさか。生きてきたかいがあったというものだ。欠ノ上の田んぼは耕作放棄地になっていた場所である。国の元気回復事業という事で、10数年前復田がされた場所である。

 里地里山協議会の一員として、欠ノ上の地主さんへお願いして事業を進めて頂いたものだ。毎日通る道路から見下ろせる美しい谷間が耕作放棄地になっていた。何とか昔のような田んぼに戻せないかと気になっていた場所だった。10年間かかったが、今年はついにすべてが田んぼに戻っている。感慨無量である。

 国の事業として、復田された後に誰か耕作をする人がいなくてはならない。という条件があり、あしがら農の会がその役割を引き受けたものだ。これが笹村個人の利益誘導ではないかと、里地里山協議会からは査問された。当時はまだそうした活動の意味が、会員の中でも理解されていなかったという事だろう。

 今はこの活動を含めて農林水産大臣賞を受賞している。やっと農の会の活動が認知され的他と言うことになる。国はその耕作放棄地の、1反5畝ほどを復田した。あしがら農の会が残り3反5畝を引き受けて復田したことになる。今は全体で5反近くある。農の会の耕作する田んぼはヘクタールぐらいだろうか。

 今年はコロナウイルスで、田植えにすら参加できないかと思っていたが、何とか田植え前に自粛が解除された。やっと参加できることになってほっとした。石垣島で暮らし始めてみると、小田原の農作業が実に懐かしい。遠くにいるにもかかわらず、仲間としてやれるという事がいかに幸せなことかとしみじみと感じた。



 一日目が終わり、まだ植えられていない上半分の田んぼ。水を抜いて、線を引き少し水を戻している。この時土の状態がいいと、田植えは早くなる。

 石垣島にいて、毎日田んぼを眺めて描いてはいるが、その田んぼに入ることはできない。田んぼの土に手で触っては見るが、さすがに入ってみることはできない。草が生えていても取ることもできない。それはなんとも残念なことだ。石垣島ではやらないと決めたことだ。

 29日に苗取り、30日と31日に田植えだった。準備に参加できなかったことは申し訳のないことであった。初めてのことであるが、皆さんが徹底して準備をしてくれていた。また、欠ノ上グループ全体の力量が上がっている。私がいなくなったことが良い形で反映していることが確認できた。

 分かったつもりの前からの人間が、心配になりあれこれ口を出してしまう事はやはり良くない事なのだ。みんな力のある人たちだ。その一人一人の力が上手く合わさるように進みさえすれば、すごい総合力になる。全員がそれぞれの部署で黙っていながら、補い合えるという姿が実現できていた。農の会の組織は、これからの組織作りの実験になっている。

 形のない組織。仕組みのない組織。曖昧な組織。決まりのない組織。やりたい人がやりたいことだけをする組織。黙って補い合う組織。この新しい組織をやりきるためには、人間力が高くないと。


 
 ここはがけ崩れがあり、川際が崩壊した。右側の綱を張ってある当たりの下は空洞である。今年は植え付けない予定であったが、もったいないので狭めて、畔を作り急遽田んぼを作ることにした。新しく田んぼを作る体験にもなるとも考えた。

 今年は新しい仲間が3家族も増えていた。その人たちがすごい働きであった。良い関係が始まっていることが良く分かった。みんなでやるという事は難しいが、上手く行けばすごい力の出るものになる。この時代に農業をやってみようという人は皆さん自立されている方だ。自分流でやりたくて当たり前である。共同でやるという事に苦手な人もいる。

 人間の合わさる力というものは凄いものである。私自身にしても3日間気持ちよく働くことが出来た。大した疲れもせず、やり通せたという事がすごい。一人ではこれだけの力を出すことはできない。みんなでやろうという気持ちが合わさるから力が湧いてくる。

 自給農業の最終形は仲間との共同農場になる。一人ならやりたいようにやれていいように思うが、そうでもないのが農業である。一人でやれるようになったら、次はみんなでやれるようになる。この気持ちを忘れたらだめだ。どうあがいても一人の農業では生きていける社会ではないのだ。

 農業だけではないのかもしれない。人間はいつも一人では生きていけないものと言う事なのだろう。一人で生きる力をつけて、みんなでその力を合わせるそれが田んぼの協働なのだと思う。その一人として、今年も田んぼの仲間に加えてもらえたことが幸せだと改めて感じる。私のように石垣島からでも気持ちよく参加させてもらえることが出来る形は凄いことだと思う。

 苗作りで多く種をまき過ぎていた。来年は必要な本数を正確に計算して種籾を残さなければならないだろう。その分かれ目は1本植にするか、2本植にするかがある。中には3本植にしたいという人もいる。このあたりで種籾を多くは播種したくなるようだ。

 1本植なら、1反1キロで足りる。2本植ならば2キロになる。予備分も考えると2キロかける反数で3反がサトジマンなら、6キロの播種。選別で落ちる予備が1,2キロか。1反がマンゲツモチだとすると3キロ残せばいい。これ以上の苗の量だと、一日で苗取りが終わらない。今年は15人だった。又密になり良い苗にならない。そうか過密は何にしても良くない。

 田植えは25名と26名であった。この人数でゆっくりと確実に田植えが出来た。無理のない余裕のある田植えであった。今年は田植え希望者を受け入れなかったので、その分早く進んだのだと思う。手伝いに来てもらうことは活動にとって必要なことなのだが、そのお世話や説明で、むしろ作業は遅れる。

 活動を広げるという意味で必要ではあるのだが。自分たちの自給という事なら、気の合ったものだけでやる方が良いようにも見える。しかし、そうでもないというところにこれからの組織論がある。



 

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2019年の稲刈りが始まる。

2019-10-06 03:51:56 | 稲作

写真はすべて稲刈り前日のもの。

 稲刈りが始まった。台風で倒されたのだが、良くここまで持ちこたえてくれた。穂は大きく重い。イネの中には台風で折れてしまい、穂が今一つの所もある。そうした株は無効分げつがすでに出始めている。稲刈りをした後の状態になったのだと思われる。

 稲刈りは10月5日6日の予定通りである。4日に前日準備をした。前日準備の一番はバインダーのテストである。バインダーが古いものと言う事もあり、壊れがちなのだ。事前に機械整備はしているのだが、実際に刈ってみないとわからない。当日みんなが集まり、機械の修理では困る。

  バインダーは2台は使う。早くやれても2日はかかる。昨年はぬかるんでいるところがあったが、やはり2日だった。バインダーはテストのときは良さそうであったのだが、実際にやってみたら、一台が結束ミスを時々出した。

手作業だけでやっている。10番田んぼ。種籾はここからとった。

 バインダーが通りやすいように畔際1列は刈り取る。田んぼの角を1.5m角ほど刈り取る。こうしておけば翌日、作業の始まりが順調に行く。畔の草を刈る。畔に草があると、稲刈り作業で転んだりする。今年は10月に入ってヒガンバナが咲いている。

 種もみを刈り取る。これも前日の作業だ。種籾はもち米は舟原田んぼから苗をもらったマンゲツモチの方にした。美味しいと言われているし、刈り取りがサトジマンと合うようだ。うるち米のサトジマンは10番田んぼからとった。病気も少ないし、分げつの良い株が多かったからだ。

彼岸花が咲いている。こんなに遅い年は初めてだ。隣に、マコモダケがある。

 種籾は例年前日に採取し、家に持ち帰り干す。マンゲツモチが20株。サトジマンが120株。全体の稲刈りの時やると、つい慌ただしいから間違いが起こりやすい。良くない株が混ざりかねない。種もみを取るのは、神聖な儀式のような側面もある。

 一日目は8時ごろからすぐ始めた。バインダガー先行しないと、作業が進まない。9時までに、13番田んぼを刈った。9番田んぼを始めた途中で、バインダーが調子悪くなり。10時の休憩。ここまでで、水彩人の片付けで抜けた。


例年このあたりは、下から水が湧き、倒れるのだが、今年は水路を作った効果はあったようだ。

 帰ってメールを見ると。

稲刈り第一日目お疲れ様でした。
 
ちょっと暑かったですが、青空の下大勢で稲刈りを楽しむことが出来ました。
今日刈り終わったのは、1番、2番、12番、14番、15番、つまり川沿いは全部終了。
そして8番9番も刈り終わりました。朝8時から17時までかかりました。
 
明日は、今日やりきれなかった一部のはざがけ作業と、3番、4番、5番、6番、7番、10番の稲刈りです。
 
集合写真をお送りします。午後から参加された上野さん夫妻と松田さんが写っていませんが、
また明日も撮影しますのでお願いします。
 
根守



 仲間のみんなが、ずいぶん頑張ったようだ。面積的には3分の2は進んだ。みんなの実力が相当高くなっている。台風で倒されたイネへの対応。ぬかるんだ中、倒されたイネを起こして、縛った。これをやり切るというのは、頭が下がる。みんな仕事がある人たちだ。私は石垣島にいてやきもきしていただけだった。そして、昨日も水彩人で朝のちょっとしかできないで抜けた。本当に力を付けたと思う。

 これだけのことをやり切れる農家は今は少ないだろう。人数である。人が集まり、協働するという事がいかにすごいことであろうか。一人でやるのでは、諦めてしまう事も、みんなでなら頑張れる。私のような年寄りでも、それなりの仕事を見つけて、頑張ることが出来る。

 昔は部落総出で稲刈りをした。お祝い事の様なものだ。お互い協力し合うという事は当たり前のことだった。ムラの暮らしは、互いが反目し合っている感じもあったと思う。それでも、田んぼでは助け合っていた。どこの家でもという事でもなく、協力し合う家と家があったという事だったと思う。

  昨日の朝刈っていた13番は分げつが少なかった。ここは田んぼに戻して2年目である。原因を考えてみる必要があるだろう。粒張りも去年より良くないようだ。9番も少し良くないように思えた。今年の収量は少し悪いようだ。種もみを取った、10番は悪くはないような気がしたが、まだ刈り取ってはいないからわからないが、粒張り、粒数は悪くない。分げつもそれなりにあった。

 まだとらぬ狸をやってみても仕方がないが、7月の日照不足が影響しているのは間違いがない。84,3時間である。この時間以上に日照は弱かった気がする。これは例年の半分くらいである。イネが徒長気味である。ここへ台風が来たから、倒されるのも当然かもしれない。

 苗は過去最高の出来であったから、それでも全体の稲作としては持ちこたえたという気がしている。自然農法であると、どうしても自然の影響を受けやすい。自然農法だから冷害に耐えたというような話を聞くが、それは管理するものが特別に優れた技術を持つ場合だけだ。

 今日一日で稲刈りを終わりたい。
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ジャンボタニシの駆除活動

2019-05-14 04:43:15 | 稲作
ジャンボタニシの駆除を行った。小田原市千代小学校周辺の水路である。思ったほどいなかった。JA西湘が中心になって地元の農家の方々が集まり行った。県の研究員の岡野さんも見えていた。小田原市からも農政課の方が何人か参加されていた。行政がこういうものに参加するのはあまり良いことだとは考えない。行政の仕事の一部のように主張する人もいるが間違えだと思う。千代から永塚あたりの田んぼにはジャンボタニシが増えている。15年前永塚で田んぼをやった時すでに少しだがジャンボタニシは居た。その頃アゾラも流れてきた。アゾラは増やそうと思い少し集めて家の池で管理したのだが、久野の冬の寒さで消えてしまった。ジャンボタニシもアゾラも、当時の有機農業では除草の救世主として評判だったのだ。あの頃のジャンボタニシが増殖をした。一体ジャンボタニシはどんな食害を起こしているのか。それほどの実害が起きているわけではない。去年の田植えのあと、千代小学校周辺の田んぼを歩いてみた。確かにジャンボタニシは沢山いたが、食害された部分は見つけられなかった。少なくとも被害というほどの実害はまだ起きていない。

この問題で騒いでいるのは、農業者というより環境派なのだろう。外来生物と言うと蛇蝎のごとく嫌われる。外来生物を食料として導入して、あまり売れないというので放置したことが始まりである。アメリカザリガニと同じ運命である。こうした外来生物が日本の自然環境を確かに破壊している。そういえばタニシなど先ず見なくなった。シジミなど、今や日本シジミを見ることがない。どこで見るものも朝鮮シジミである。日本の自然環境を純粋に守るなどという事は、すでに不可能になっている。農業の観点から言えば、大苗田植えにすれば簡単に解決する問題だ。ジャンボタニシは硬くなった稲を食害することはない。稚苗で植えたとしても、苗が6葉期になるまで入水口に細かいネットを張り侵入を防ぐ。そして、田んぼは浅水管理だ。大苗でも深水で、葉が水面に接触していると食べるというが、それが収穫量に影響がであるほどのことはない。こまめな管理をしないから食害がおこる。田植えが終われば、稲刈りまでの間、田んぼに行くのはバカ百姓だと、放言した人がいる。その人は田んぼはスリッパで出来るからいいよなぁーと言った。私にしてみるとスズメの食害の方がはるかに問題だ。あえて言えばトキだって、コウノトリだって、合鴨だって滑空して苗を倒して被害は例年ある。こういうことは環境派は言わないよな。田植え直後はこれはひどいという事もあるが、しばらくすれば何処らがやられたのかという事になる。

もちろん、帰化生物を歓迎するわけではない。現状を直視しろと言いたい。ビオトープをやってみればすぐわかる。3,4年で帰化植物の茂みになる。集まる生きものも外来生物である。そういうとんでもない状況を直視するためのビオトープ学習かと言いたくなる。この辺を環境原理主義者はよく考えて欲しい。江戸時代の里山の手入れの考え方を思い出すべきだと思う。手近の自然に対してこまめに手をかけることで、循環させてゆくやり方である。ジャンボタニシは間違っても増えない。ほど良く食料になったはずだ。アメリカザリガニも同様だ。暮らしの方を自然から切り離した人間がゆがんだのだ。里山の自然にしてみれば、外来生物のような人間が困るのだ。環境原理主義者の暮らしを反省してもらいたい。自給自足で暮らしてから、環境を語ってもらいたい。人間の暮らしが里山の循環の輪から外れている。身近な自然に生息する生きものを食べるには汚染が進んでいる。あの汚い水路にいるジャンボタニシは食べる気がしない。食べられないような貝が生息する水で田んぼをやっているという事の方が、問題は大きいのだろう。家庭排水が田んぼの水路に入るというような、とんでもないことが普通に起きている。こんなことこそ行政がやるべき仕事であろう。

ジャンボタニシの駆除には40人近くの人がきていた。見たところでは、環境派はわずか2,3人だった。地域の農業者が参加していた。農の会が農の会が、と言われていたので、私は農の会から来ました。と話したが、どうも今思うと、誰か農の会に連絡をしたのかという事のようだった。こういう時に頑張ってもらわなければという事のようだった。その通りである。それにしても参加者の平均年齢は75位であった。80を超えた方が多かった。40人もの人が集まれるという事も、もう4,5年の間のことだろう。平均年齢が、このまま80歳になるだろう。ジャンボタニシの駆除活動に集まるような農業者は遠からずいなくなる。つまり、ジャンボタニシの問題は田んぼが無くなるとともに終わることになりそうだ。




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本人は減少中、子供の減少ではない。

2019-05-10 04:50:49 | 稲作
アフリカに誕生した、ホモサピエンスが徐々に移動して、日本列島に到達した。おおよそ、3万8000年前から4万年前とされている。その頃ヨーロッパには現生人類ではない人間も存在した時代だ。台湾から、石垣島に海を渡ってきたことは石垣島白保での3万8000年前の人骨の出現ではっきりしてきた。ただ、さらに古い時代に渡ってきていたのだが、骨が見つかっていないだけかもしれない。いずれにしても、時代は異なるとしても朝鮮半島から、樺太千島から、とたぶんいろいろの時代に3つの流れでの日本への人類の移動してきたと考えられるようだ。この日本列島に到達した人類は、もうここから移動するという事はなく、あるいはできなくて、日本列島で徐々に日本人という一塊の特徴を形成したのであろう。移動したいと考える人類の性格が現生人類をこれほどの数にした。未知の世界へ踏み込んでゆく勇気が人類を作り出したのだと思う。そうでなければ弱い生き物の人類は絶滅していたことだろう。ミトコンドリアを調べると、そうした人類の交雑の歴史がわかる。DNAの分析においても、日本人と言っても人類的に言えば、様々な交雑の結果日本に住み着いた人たちという事が明らかなっている。中国人が北京原人の子孫でないし、日本人が天照大神の子孫という訳ではないのだ。

日本人というものに興味があるのは、田んぼの絵を描くことが好きだという事がある。絵を描いていると自分というもののことを考える。何故田んぼを描きたくなるのかとか。そもそもなぜ田んぼをやりたくなるのか。自分という人間が分からないと自分には絵を描くことはできない。その自分の気持ちをたどると、どうも日本人が田んぼに深い思いを持っていたという事に至る。瑞穂の国日本人である。弥生時代初期に新たに大量に日本列島に移動してきた人々がいる。新しい稲作技術を持ち込んでくる。その結果、日本人は田んぼをやることで出来上がったような気がする。もちろん田んぼをやらないアイヌのような人もいる。マタギや海部族のような人もいる。しかし、大多数の日本列島に暮らした人たちは田んぼをやるようになり、徐々に日本文化というものを作り出した。その田んぼをやる人たちの数が圧倒的になった。貴族文化だとか、武士道だとかいうが、日本人は田んぼ百姓から形成された人たちだ。日本の絵画も田んぼを耕作するという感覚に大きな影響を受けて出来上がる。四季を深く感ずるという事も、田んぼの一年というサイクルのなかで生まれたものだと思う。雪解けの山の美しさや、桜が美しいという感覚は稲作が始まる喜びと結びついている。こうした自然の美しさを稲作を行う事で、風景を作り出してゆく。自然と人間が風景の中で織りなす美しさの形成。

日本列島で稲作を始めた人たちに興味がある。縄文人の最後辺りから、日本人というものが徐々に誕生するように見ている。この人たちは朝鮮半島経由して日本にやってくると考えることが一番自然だろう。縄文の土器や土偶の感覚は日本人的とは言えない。縄文人の文化は独特で凄いものだとは思うが、自分とはかなり違う感性の民俗のようだ。やはり農耕をするようになり、大きく日本人が変わりながら、形成されてゆく。稲作をするという事は蓄積が出来るようになるという事だ。人口の急激な増加につながる。人口というものは不思議なもので、増えているときは活性化している。減少を始め徐々に衰える。稲作をしない人たちと、稲作を始めた人では、暮らしの豊かさに大きな違いが生じて行っただろう。稲作というものほど主食として素晴らしい作物はない。他の作物を作り採種的に暮らしていた人たちも、つぎつぎに取り込まれてゆく。産業革命が世界を大きく変えたように、稲作が広がることで日本人の暮らし方が激変したはずだ。戦って負けて取り込まれるというよりも、食糧生産の技術革新に取り込まれていったと思う。そして、稲作が人の暮らしを大きく変化させる。稲作は個別の暮らしを集団の暮らしに変えてゆくのだろう。水というものを通して、協働というものが意識されてゆく。

日本人の誕生を稲作だと思っている。別段日本人という血族ではないと思う。稲作の一番の特徴は良い田んぼを作るという事になる。それは一代では不可能なほどの年限を必要とする。子孫に美田を残す。子孫や祖先のことを田んぼというものを通して考えるようになる。この石垣を摘んでくれたおじいさんのお陰で、田んぼが出来る。この水路を引いてくれた、4代前の先祖に感謝をする。そして、美田を守り、孫子に繋いでゆきたいと暮らすようになる。それは一つの家族がそうであるように、地域というものの中に、感謝と共同の必要性を考えるようになる。水は田んぼを通して繋がっている。一人だけの我田引水ではうまく行かない。掻き寄せても風呂の水は増えない。みんなで入れば風呂は深くなる。こうして日本人は長い年月を通して生まれた。

さて、伝統的な田んぼは消え始めた。日本人も消えてゆくのだろうか。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

有機のコメ作りシンポジューム

2019-01-28 03:02:44 | 稲作

有機のコメ作りシンポジュームを開催します。参加費は無料です。

参加者には有機のコメ作り冊子をプレゼントします。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

農の会の田んぼの歴史  

2019-01-16 04:28:13 | 稲作

 

私が山北の山の中に田んぼを作ったのは1990年である。農の会は1993年に山北で出来た。庭園田んぼをされている川口さんと始めた。農の会の田んぼとしては1996年に山北町塩沢の奥に始まった。2000年には、顧問の石綿敏久さんの指導で久野坊所で始めることになった。グループ田んぼの原形が出来る。次に出来たのが、桑原田んぼである。顧問の沖津昭二さんの指導で、農の会の創設にかかわった、山田純さんや諏訪間さんなどと一緒に、メダカの生息地の保全も兼ねて田んぼが始まった。その後桑原周辺には4グループ出来た。南足柄には女性田んぼというものもあった。多かったときは個人田んぼを入れて20数か所になった。

家具作家の安藤さんが中心に始めた長塚田んぼは、今は山ちゃん田んぼになっている。山下さんが始めた山北田んぼ。奈良に越した中原さん中心に始めた新永塚田んぼ。川口式で耕作した内山グループ。中井町で井上さんのやった保育園の人達との田んぼグループでは、中村さんと出会うことになった。市長に成った加藤さんがやっていた田んぼが、現在の今屋さんの耕作する梅の里田んぼ。そして、桑原から引っ越した金井島の親子田んぼ。内山の田んぼはその後色々の人がかかわり、場所も少しずつ移動して、夢田んぼとなった。創生水を利用した穴部田んぼもあった。大磯田んぼは東京の人を中心の田んぼだった。白鴎病院の裏でやった田んぼは、現在くだかけの和田さんが引き継いだ。渋沢のソバ屋さん「くりはら」の田んぼは何故か狂犬田んぼと言った。そのほか名前だけ挙げれば、青田んぼ、こっこ牧場田んぼ、ポチ田んぼ、前田田んぼ、がんこ村田んぼ、循環農園田んぼ、千田田んぼ、山北田んぼ、海老澤田んぼ、桑原JC田んぼ、そらや田んぼ、親子田んぼ、大磯わくわく田んぼ、中村田んぼなどがある。農の会が何らかの形でかかわった田んぼである。

久野坊所田んぼが拡大して、舟原田んぼが出来る。舟原田んぼは現在2つのグループになった。欠ノ上田んぼがメンバーも16家族で面積も4反と大きいなグループになった。今は子ノ神田んぼが、井関さんと吉宮さんの田んぼという形で2つになった。こんな形で農の会の田んぼは変化をしてきた。久野には5つの田んぼグループがある。農の会の田んぼグループは10年を越えたものも8つになっている。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

有機のコメ作り あしがら農の会の25年

2018-12-10 04:07:34 | 稲作

「有機のコメづくり」が完成した。農の会のやっているコメ作りの実際を冊子にしたものだ。あしがら農の会の25年という副題がついている。25年間試行錯誤しながら、たどり着いた農法である。カラー写真がどのページにもあるように編集した。誰もがこの通りやれるようにと作った。有機でコメ作りをしようとする人には、必ず役立つ本だと思う。有機農業に関心のある希望者先着50名に無料で差し上げます。この本は小田原有機の里づくり協議会の活動の中で作られたものだ。国の補助を受けて出版することができた。補助の目的は有機農業の普及である。有機農業をやってみようとする人の参考にしてもらう為に作った。必ず役立つ本だと思う。メールで連絡いただければ、着払いでお送りします。

✉sasamura.ailand@nifty.com

できる限り分かりやすくした本だ。初めて有機のコメ作りをやってみようという人にも、田んぼが出来るように書かれている。農の会は農家ではない人の集まりである。市民が家庭菜園をやるという感覚で田んぼを作っている。家庭コメ作りというようなことだ。その市民的な参加から、新規就農して農家になる人も16家族いた。このコメ作りの本は、農の会の中でも市民的なやり方を書かせてもらったものだ。

市民的なコメ作りと言っても、周辺農家よりも多収している。有機で作っていて、畝取りしている田んぼもある。理由は簡単なことだ。とても手間暇をかけているという事だ。農家にとっては到底できないやり方かと思う。私たちはすべてお借りした農地で耕作をしている。精一杯のことをしなければ申し訳がないと思っている。市民がやるのだから、どうせ遊び半分の田んぼなのだろうと思われないようにやっている。確かに子供が田植えしている。みんなでバーベキューをしながらの田んぼである。楽しい笑い声のあふれる田んぼである。それでも、収量では周辺の田んぼより多収する田んぼである。欠ノ上田んぼでは6年間連続ほぼ畝取りしている。

畝取りできる理由は、明確である。有機農業が優れているからである。伝統的な有機農業で耕作すれば、イネは植物として最高の状態で育つ。最高の状態であるから、当然実りも大きい。当たり前のことであろう。ただし、この伝統的な農業が失われたのは、手がかかりすぎるからだ。農家が行うには到底無理なのだと思う。麦作りで世界一の生産性の上げた日本人がいた。その人は麦の苗を作り、手植えしたという。この精神である。農地を大切に守り育てる。農地の力を最大限生かす。そういう思いで有機のコメ作りを続けてきた。その結果他の人たちにも参考になるコメ作りになっていた。

手がかかるという事をどう考えるかである。手がかかるから大変という事なのだが、これが趣味であればどうであろうか。こんなに手がかかり面白いという事になる。田んぼがスポーツジムであればどうであろうか。田んぼほど健康に良いところはないだろう。身土不二という事が言われる。心身の健康のためには、自分の食は自分で作ることだろう。食べるという事と作るという事が結びついて、初めて、人間は人間になる。

あしがら農の会の田んぼをやれて心から良かったと思う。絵を描く意味もみんなの田んぼをやらなかったらばわからなかった。その時その時の精一杯に生きるという事を田んぼが教えてくれた。田んぼの仲間が教えてくれた。自分の為に絵を描くという事が、人にどうつながってゆくのか。そいう事を田んぼが身体を通して教えてくれたような気がする。

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

主食作物を作る意味

2018-11-27 04:06:30 | 稲作

同じ農業をするのでも、私にとっては主食を作る農業は位置づけが違う。主食を作ることは生きる為の食という意味になる。食糧自給率を考える場合でも、主食は別に考える必要がある。麦を主食とする文化。ジャガイモを主食にする文化、トウモロコシ、タロイモ、農耕民族が誕生する歴史の中で、それぞれの主食文化が形成されたはずだ。日本という国はお米を主食に選らんだ。日本の気候と地形と土壌が稲作に向いていたのだろう。日本にやってきた様々な技術は、日本列島という地域の中で熟成された。世界にはさまざまな稲作技術がそれぞれに展開されたが、日本では国づくりの基本として、稲作技術の普及が進んだ。荘園制度の作られた平安時代に日本全体に広がった。6世紀ごろから、すでに日本全体に広がっていた稲作が、洗練された水田稲作として、とくに江戸時代に徹底整備されてゆく。鎖国された環境の中、各藩でこぞって新田開発を行い、水田技術の改良がされ、お米の増産が計られる。稲作によって安定して暮らすという事が出来るようになる。

弥生時代には先端技術だった稲作は、土俗的な民族文化と融合しながら、米信仰を生み出す。主食のコメは日本人の生活を一変させるほどの豊かさをもたらした。その稲作が、日本人というものを変えてゆくものになった。独特の地域形成をもたらすことになる。水というものを通して、人の暮らしが集団として成立する。地域の協力が不可欠な稲作。田んぼや水路を作るという水土事業のために、より大きな集団の力が必要とされてゆく。またその稲作技術が日本の全般の技術力を育むことになる。より優れた稲作をするためには、自然観察力が必要とされる。水のかけ引きひとつで、稲の生育は変わってゆく。里地里山の自然を大きく改変するのではなく、手入れを通して、上手く調和を作り出す。これが日本人の感性を育てる。良い里山が良い田んぼを作る。里山の薪炭林の林が、良い水を作り、田んぼに絞り水を運ぶ。田んぼは特別な肥料を入れることなく、3000年の循環する農業を可能にした。3000年同じ場所で暮らすことが可能になるという意味。美田を残すという意味。ご先祖と、子孫と向き合いながら生きる文化。これが稲作文化なのだろう。

麦を作ることも麦文化というものを形成したはずだ。ところが、麦というものの性質が、永続農業には不向きな作物であったのかもしれない。三圃式農業というものが考えられる。休耕する年を入れ、家畜を放牧する。収量が低く永続性があるというほどには安定しなかったようだ。ヨーロッパは狩猟民族という歴史教科書の説明がある。縄文時代の日本人はやはり狩猟民族的側面がある。あらゆる民族が狩猟採種の時代を経ている。そして、弥生時代からコメ作りによって農耕文化に変化する。ヨーロッパも同じで、狩猟民族の時代があり、麦を作る時代に変わる。麦を選択したヨーロッパの人たちは、領主制のような統治形態が複雑化してゆく。多様でひとくくりにはとらえきれない民族文化を形成してゆくことになる。民族の移動も麦の収量と連作の問題がある。定住する文化がおぼろげなものになる。近代化が早く、民族文化の消滅も一足先であった。そこには、麦を主食に選択するほかなかった、気候と地形と土壌の結果という事をもある。生産性が極めて低く、近代農業に移行するほかなかった。そのことから、プランテーション農業の展開に繋がってゆく。

トウモロコシを選択したインカ文明がやがて行き詰まった原因は、トウモロコシというものの作物的限界というものがあったと言われる。連作の問題、肥料の問題、生産性の問題。日本人がお米を主食に選択できた幸運がある。東洋3000年の水田技術を学ぶことができた有難さがある。遣隋使が一番に学んだものは、稲作の水土技術であったはずだ。宗教や芸術や、政治や学問も学んだのであろうが、それ以上に主食を作る技術を学んだはずだ。中国の稲作農家に住み込んで農業研修生をやった大和人がいたはずだ。そのことは歴史に多くは書かれてはいない。江戸時代のその主食を作る技術が極限まで磨き上げられる。限られた面積で、効率よく主食生産をする技術が完成する。これは、世界でも優れた水田技術である。但し、近代農業技術とは違う技術体系である。この3000年の循環農業の技術を再評価することが、日本人の競争とは別の生き方を生み出すことになると考えている。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

家庭イネ作りのまとめ

2018-11-23 04:44:00 | 稲作
農の会では25周年記念の冊子がほぼ完成した。表紙の打ち合わせが終われば、印刷に出す段階まで来た。農文協で出させてもらう自分の「家庭イネ作り」の本は本来ことしの春に原稿が出来上がる予定だったものが、延びて来春になりそうである。農の会のイネ作りの方が逆転して先にできたことになった。両方を同時に進めることも出来なかったこともある。ここから自分の方の「家庭イネ作り」の原稿にはいる。3つの方針がある。
〇自給イネ作りが大切なものである主張。
〇有機イネ作りは優秀な栽培法である実践紹介。
〇誰にでも可能な技術としての科学性。

イネ作りを始めたのは、30年前からである。山北の山の斜面を開墾して田んぼを作った。全く経験のないまま自給自足の暮らしへの思いだけで始めた。田んぼを作る原点からやってみたことが、とても良い経験になっている。機械力を使わず、シャベルだけで試行錯誤をした。そして20年経過し、10年前ころから安定した技術になった。その方法は江戸時代の農法に近いものになった。なるほどこれが、3000年の循環農法なのだと納得できるものになった。永続性、再現性のある技術という意味である。それは自然の変化に応じる対応力がある技術である。イネ作りには100枚あれば100の違う栽培がある。土壌や水が違えば、同じことでは通用しない。大切なことは稲の状況を見てそれに応ずる、状況判断である。1年で出来ないことも、5年後にはできるという目標を確立させた、土壌環境の育て方である。ここは再現性のある技術になっている。どこでも誰でも同じようにやれば可能だ。農の会の多くの仲間と100か所の田んぼ失敗を重ねながら耕作した結果、そういう事が確信できた。

稲作を大量生産の工業製品と同じものにしようとしたのが、近代農法なのだろう。そこそこのに出来で良いから、機械化して、安価なコメ作りを目指した。機械力を使う技術に稲作技術は変化した。当然、化学肥料を使う。予防的に農薬も使う。土壌を育むというより、どんな土壌でも可能な農業技術が探求された。しかし、そうした農業は生産農家には向いているとしても、家庭菜園のような「自給のイネ作り技術」には不向きな農法になっていた。例えば、農協で作られる機械植えの苗を購入することが普通になった。この苗で作る以上限界がある。対応力のある苗は出来ない。田んぼで自家採取した種を用い、苗床で作る苗とは、雲泥の差になる。最高の苗は5葉期の苗である。機械植えが難しい。しかし、自給の為のイネ作りであれば、手植えが可能になる。自給のイネ作り技術は、近代農業の技術とは違っていたのだ。しかも自給のイネ作りの方が、多収できる上に、素人にも可能なものだった。このことに気づいて、どうしても本にまとめたくなった。

江戸時代の人はお米が命の根源であり、信仰の思いさえ持っていた。人間が生きる基本が食べ物にあるからに違いない。食足りて礼節を知る。生きる前提が食である。食が工業製品と同列になることで、食の意味が不明瞭になった。このことから、日本人の生きるという事まで不明瞭になったのではないか。日本という国は食糧の自給が40%であっても、輸入すればよいという不安定な国になった。誰もが、コンビニに行けば何でもあると思い暮らしている。自然災害のたびに、その油断が指摘される。生きるという意味の曖昧さに繋がっている。主食のお米を作るということに家庭イネ作りの意味があると考えている。自分で家庭コメ作りをしてみる価値は、自分の生きるという事の再確認になるのではないか。過程コメ作りは生きる確認の為に行うという事を書いておきたい。

だからこそ、コメ作りの技術は簡単で誰にでもできるものでなければならない。コメ作りは日本の水土に適合していて、野菜よりもはるかに簡単なものになる。田んぼという非日常の空間が、壁を感じさせているかもしれない。土を汚いという意識、これを取り除きたい。田んぼの土壌と土が手順さえ間違わなければ、自然という偉大なものが、自分の力を助けてくれる感謝。畑の雑草よりも田んぼの雑草の方が管理さえ間違わなければ、抑制されたものになる。一人の自給に60キロのお米が必要だとすれば、100㎡の田んぼで良い。これほどお米は生産性が高い作物だ。古代文明が今に続いているのは、米作り文化だけである。お米が主食に最も適合していることは間違いがない。気候変動にも最も対応力が高い作物なのだ。しかも、環境を維持し保全してゆく力を兼ね備えている。水が環境に対して緩衝材になる。水のかけ引きさえ間違えなければ、体力はなくともできるのが稲作だ。

こういうことをこれから1か月かけて、まとめてゆきたい。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

家庭イネ作りの経済

2018-10-18 04:13:27 | 稲作

家庭イネ作りの費用はどのくらいかかるのか。長年の結果からすると、120キロのお米が1万円で手に入ると考えればよい。私の家では2人分の一年間のお米が1万円で十分という事になる。これが農の会の稲作の目標であり、達成したものである。今年おおよそ4反ほどの田んぼで、15家族で稲作を行った。その結果がどうも8000円以下の一人分担というのだ。安すぎるので驚いた。10家族で2反をやるという態勢で1万円という事のようだ。嘘のように安いので、間違いだというコメントが来たことがある。しかし嘘偽りなく、これが農の会25年の歴史的結果である。機械をどうしているのかというのが一番の疑問のようだ。共同使用である。機械は壊れる。まあ、壊す、壊す。私もよく壊すので近在の農機具屋では有名な方だ。「あんたか、よく壊すので聞いているよ。」と初対面の農機具屋に言われたことさえある位だ。今はあちこちの農機具屋に騙されて、もう農機具屋には行かないことにしている。

農業機械は簡単には直せないように作られている。ねじ一つ外せないように仕組まれている。私にはそう思えるほど、直しには不親切なつくりだ。それでもある程度まで自分で修理できなければ、家庭イネ作りは不可能である。家庭イネ作りと言えども、機械は使わざる得ない。工夫してもねじが回せない人では、イネ作りはできない。おかしなことだが、そういう事になる。すぐ農機具屋に行くようでは、忽ちに1万円では済まないことになる。機械は共同で使わなければ、高価なものになる。100人で使っても、一人で使っても同じ費用になる。100人で1万円だったものなら、一人なら10万円と考えざるえない。機械貧乏になる。そこで一人でやるとしたら、一切機械は使わないと考えるだろう。機械を使わないで一番困るのが、脱穀から籾摺り精米までの工程になる。干したお米を手でしごいてとることになるか。千歯こぎくらい工夫して作れるかもしれない。それでも籾摺りという事になれば不可能であろう。開成町の瀬戸屋敷の水車で籾摺りを試したことがあるが、一日かけて20キロ程度であった。これを手で叩くなど考えたくもない。ここだけ、農家に頼むという事もあるが、やってくれる人がいれば幸運なことだろう。

家庭イネ作りの経済は一人ではなく、やはり協働という事になる。それが日本の伝統稲作だ。瑞穂の国日本は田んぼを協働作業でやるという合理性からできた。一つのが田んぼという繋がりで出来上がる。しかし、現代はこうした昔の協働する集落というものが崩壊した。様々に煩わしいので当然とはいえる。一人一人がバラバラにイネ作りを行う。水の使い方でも自分のことしか考えない人が多数派である。新しい協働を見つけようとした仕組みが、農の会のイネ作りだ。安く上げるためには、働く時間を増やすしかない。ここが問題である。誰もが忙しい時代だ。はざがけの棹は竹を切り出せばただである。はざがけ機材を購入するれば、1反分で10万円もする。はざがけ脚を自作すれば、ただであるが時間がかかる。このバランスである。この時間がかかるを楽しみとしてやれるかどうかが、分かれ道であろう。負担だと思えば止めた方が良い。

イネ作りは面白い。生計を立てなければならない主業ではないから面白いのだろう。しかし、趣味だからこそ専業農家よりも真剣に取り組まなければならないと考えている。今年は3反で11枚に分かれた棚田で、反収605キロの畝取りが出来た。有機農業の家庭イネ作りが、慣行農法の稲作農家を超えているのだ。江戸時代さながらのイネ作りがやはり優れていたという事が証明できた。江戸時代が飢餓の時代だというデマが払しょくできると思う。愉快でたまらない。人間は100坪の土地で一日一時間働けば食糧の自給はできる。シャベル一つの開墾から始めた、ここ30年間の自給生活でそうしたことが証明できたと思う。これほど楽しい試みはなかった。やりたいことをやる。遊園地にお金を払っても行く人は居る。田んぼは遊園地以上に面白い。これが食糧の自給になるのだから答えられない。昔のニワトリの本には必ず書かれていたのが、趣味と実益を兼ねてという副題だった。生きるという事を趣味にしてしまえば、経済は別会計になるという事なのだろう。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2018年稲作のまとめ

2018-10-16 04:52:32 | 稲作

2018

苗床後の収穫直前の様子。いまだ苗床と通路の違いが残っている。奥の2番田んぼはもう稲刈りが進んでいる。

2018年の稲作が無事終了した。畝取りの豊作であった。サトジマン面積が29.71アールで収量が1799.7キロ 反収で605,8キロ。ほぼ安定して畝取りを達成できる状態になっている。難しいこと、特別なことをしているわけではない。ごく当たり前に有機農業の稲作を行っている。有機農業というものが、様々な農法の中でも優れたやり方という事なのだろう。長年土壌を育んできた結果が出ている。土壌づくりの基本は腐植の増加である。あらゆる手段で腐食を増加してきた。腐植を増加させるには時間がかかる。5年間蓄積するとやっと十分な腐植の土壌になる。腐食は耕作する事で減少する。だから、毎年減少分以上に積み重ねて行かなければ良い土壌にはならない。腐植の継続的な増加努力によって良い土壌が形成される。消毒をしないのだから当然病気も出る。虫もつく。しかし、健全な生育のイネが生育していれば、収量に影響が出るほど病気が広がるようなことはない。周囲の環境を含めた、良好な環境が維持できれば、虫が異常繁殖するようなことはない。わずかな虫を見て、慌てて消毒をして、環境を崩す方が被害は大きくなる。

4月7日に籾洗いにはじまった。4月21日に種まき。5月26日に田植え。9月29日と10月7日に稲刈り。10月14日に籾摺り。例年とほぼ同じ流れである。今年の特徴は梅雨が無かったことだろう。天候が良かったので、苗作りは良好であった。苗が良かったので、ここで7割は成功したとみんなで大いに喜んだ。田植え後も晴天が続き初期生育も良かった。途中のイネの観察日では分けつが23本ほどあり、これは相当に良くなるといよいよ喜んだ。この段階では大豊作の予感がした。ところが、夏になり異常な暑さになった。ここからイネの不調が見え始めた。葉色の緑が浅い。いつものように黒々とした緑にはならないまま、むしろ葉色が落ち始めた。土壌が早くも消耗した感がある。イネの初期生育の良さもあり、土壌の肥料成分が使われてしまったような印象があった。草の勢いも例年よりも激しく、雑草による肥料収奪も多かったと思われる。そこで穂肥は確実に与えた。これが最終的には効果を上げた。

出始めた止め葉は50㎝台で十分とは言えないために、心配になったが、その後出た穂の状態はそれなりに回復して、120粒以上で、粒張りもなかなか良く大粒の穂が目立つようになってきた。ところが、この頃から暑さ負けしたかのように、紋枯れ病が出現した。倒伏したかのように見えるのだが、紋枯れ病で倒れた感が強い。今年の稲わらは田んぼに戻せないとここで確信した。しかし、全体を見れば一部だけのことで、あまり心配まではしなかった。所が穂が出たころからスズメが集まり始めた。このスズメの襲来は日に日に数を増して、数百羽にも及んだ。案山子で脅したのだが、もうついてしまったスズメは離れることはなかった。早稲系の峰の雪糯を作ったことが一つの失敗であった。仕方がないので、出来の悪かった田んぼにスズメを集中させて他の田んぼに入らないようにした。毎朝スズメを追い払う事が、大変な日課になったが、この作戦は一応成功したので、他の田んぼでの被害は少ないもので済んだ。この点今は地獄から抜け出たような気分だ。

来年は稲わらを戻さない分、緑肥を十分に育てなければならない。畦に白クローバーを播く。広めの畔のの草をバンカープランツと考える。同時に大豆も撒く。何故か畦の大豆は出来がそれなりに良い。少し邪魔ではあるが、作業でダメになる株は1割以下だ。畦に稲科ではない植物があることが重要だと考えている。虫が偏った発生をしない可能性がある。ともかく田んぼという単調な世界に多様性を持ち込むことは悪くない。田んぼの周辺を含めた環境に多様性があることが大切だと考えている。作業性も良く、安定してクローバーが生えている畦を作りたい。現在も、播いたクローバーが自然に再生してきている。田んぼの中にはレンゲと、赤クローバーを播く。播き方として、何もしないで播く。耕してから蒔いてレーキで軽く覆土。播種してからトラックターで耕す。この3通りの方法で緑肥の成育違いを観察する。

あしがら農の会の稲作をまとめました。冊子を11月末に発行します。希望者には着払いで送ります。sasamura.ailand@nifty.com まで申し込んでください。

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする