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地場・旬・自給

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コロナ死者数は517万人で増え続けている。

2021-11-30 04:39:49 | Peace Cafe


 日本ではコロナウイルスは現状では沈静化した。昨日は日本全体で感染者は、新たに77人とある。100人を下回って落ち着いてきた。 死者がいない日もある。本当に奇跡のようなことで、ありがたいことだ。恥ずかしながら、すこし嬉し涙がにじんでしまった。

 コロナ優等生の韓国が4000人越えが続いている。韓国は感染対策で今まで成功した国で、今になって感染拡大が続いている。きっと何か理由があるのだろう。やはりまだ経済の為に、規制を取り除くことはできない状況なのではないか。

 オミクロン株の世界での広がりを受けて、岸田総理大臣が外国人の日本への渡航を禁止した。英断である。この処置に対する一切の責任は、総理大臣としての自分がとるといわれていた。何があるかわからないが、多くの日本人がこの判断を支持するに違いない。

 世界を見渡すと、コロナウイルスが弱体化したという事はない。むしろヨーロッパの中で模範とされたドイツが、今になって過去最大の感染拡大になっている。又ロックダウンをせざる得ない国が登場している。オミクロン株という南アからの変異株が、世界に広がり始めている。

 何故、日本は感染が増えないのかを思うと、まるで神風が密状態を吹き除いてくれているような思いになる。日本にオミクロン株が入らないように、水際対策を全力を挙げて欲しい。これが防げれば、第6波も何とか防げるかもしれない。駐留米軍の感染者を徹底して防ぐ必要がある。駐留米軍も外国人に入れなければならない。

 コロナ感染者が急激に減少した理由はどう考えたらよいか明確には分からないが、日本人の大多数の人がコロナ感染に関して、良い行動をとるようになったことだけは間違いがない。何か日本人が誇らしくて、見直してもらってもいいのではないだろうか。

 政府や行政の現場対応は十分とは言えない。医療体制の準備も時間があったにもかかわらず、十分には出来なかった。コロナに感染したことが分かっているのに、医療機関への入院も一時収容施設も出来ないまま、自宅で亡くなられた方が、相当数出てしまった。

 本気みんなが気を付けるようになったら、急速に感染者が減少した。コロナは気を付ければ感染しない方法があるという事が、理解されてきたのではないか。人混みでの対応が整ってきた。特に酒を出す飲食店の対策が進んできたのではないだろうか。ワクチンを打つのは自分の為もあるが、周りの人の為でもある。

 いま日本がやるべきことは第6波が来た時の対応策の準備だろう。それが国の安全保障である。アメリカでの死者数は775,797 人、第2次世界大戦時の死者数を超えたのだそうだ。このまま行けば、世界で1000万人の死者というような恐ろしいことになる。日本は第2次世界大戦ではおおよそ300万人が死んだ。コロナでは1万8369人の死者。

 コロナで世界は変わるはずだ。何も変わらないというようなことを主張する人もいるが、変わらないはずがない。すでに人間も社会も変わったように感じている。第2次世界大戦で世界は変わった。それ以上に人類は変わらざる得ないだろうと思う。

 何が変わるのかと言えば、拝金主義だけではだめだと気づく人が増えるという事である。人間はどれほど金持ちになろとも、あっけなく死ぬという事だ。道元禅師が言われたように、生きるという事と、死ぬということを、自覚することで人間は変わるという事である。

 現代人は死というものが遠くなり、日常の中から消し去った。家族が死んだときぐらいが死というものを、強烈に思い出す瞬間だろう。それも、コロナ下では直接は触れ合うことも出来ずに、死の実感すら薄いことになっているのかもしれない。

 熱海での土砂災害ではいまだ見つからない方がいる。東北の大津波では沢山の方が行方不明のままである。行方不明の人は海に行かれたのだろうか。海の東方の浄土に行ったと考える他ないのだろう。会うことも出来ないわかれは辛いことだろう。

 向昌院のおばさんに当たる人は、コロナ下で病院で亡くなった。面会もままならないまま葬儀も、何か月も経過してからという事になった。向昌院でお線香だけは上げさせてもらったが、何かけじめのような気持にはならない。おばさんですらこんな気持ちなのだから、両親との別れであれば割り切れない気持ちが残るだろう。

 生きとし生けるもの必ず去ってゆくことになる。72歳の今思う事は動ける間に、どれだけやるべきことをやり切れるかという事である。やり残すことばかりであろうが、自分の努力不足でやり残すことだけは情けないと思う。コロナでそういうことを実感させてもらった。

 水彩人のこともある。あしがら農の会のこともある。石垣島で始めようとしている楽観園のこともある。どれもが自分が始めたことである。結果を問うつもりはなく、その時その時にやるべきことだと考えて始めたことである。行く先を考えるわけではないが、全力は尽くしたい。

 いまだ自分自身の力の注ぎ方が充分とは言えないかもしれない。もしコロナで今自分が死ぬ訳にはいかない。あと5年動ければ、形になるかもしれない。水彩人もあしがら農の会も、私の役割は側面から手助けをするぐらいの所である。

 大した役割はないのかもしれないが、出来る限りのことをしたい。そうしなければやり残しになる。人間一人の力など知れたものだが、全力を出すという事はまた別のことだと思う。まだ身体は何とか人並みに動ける。今回も渡部さんについて、何とか半分くらいは作業を続けられた。

 石垣島で農園を始めるなど、1年前までには思いもよらぬことだった。これもコロナに直面して、選んだことなのだと思う。やり尽くせと、命に言われた。そうしなければ、自分の絵を描くことなど出来ないという事だ。すべては自分の絵を描くという、生きる方角に従ってのことだ。

 まだ5年間身体が動けるとすれば、もう一度楽園の農園づくりに挑戦しろという事だ。動き始めたことで、石垣島でも素晴らしい人たちとの出会いが生まれ始めている。一緒に力を寄せ合う事の出来る人がいるという事は、こんなにうれしいことはない。

 小田原であれこれ農作業をさせて貰う充実は、生きているという事を実感させてくれる。自給のために全力で働くという真っ当な生活。こういうことをしたいから生きているのだと思う。こうした生活が絵を描くという事に繋がっているのだと思う。


 
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大豆の収穫→タマネギの植え付け→小麦の播種へ

2021-11-29 04:15:39 | あしがら農の会


 大豆の収穫の後半分を11月27日に行った。まだ乾いて居ないものがあり、乾かしてある。大豆の収穫期がずいぶん時期がずれるようになってしまった。たぶん種大豆の選別をしないできたことの問題が出ているのだろう。自家採種を続けるという事はなかなか難しいことだ。

 大豆は鹿に食べられなければ多分豊作だったに違いない。それでも、株によってはほとんど実のついてないものや、成長が極めて悪いものもある。それが同じ場所でそういうばらつきがあるのだから、これも種のせいなのかもしれない。

 小糸在来種の種を買えばいいという人がいたが、それは違うとおもう。在来種の種取りをしたものを買うという事は相当難しいはずだ。そして私たちは自給活動を行っている。やはり自分たちで努力で、種大豆を維持してゆくという事が大切なことなのだろう。



 昼頃から雨という予報で、少し気持ちが急いた。ところが天気予報は完全に外れた。天気図通りの冬型の気圧配置の結果で、雨は降るはずがなかったのだ。一体どういう根拠でこんな天気予報を出す人がいるのだろう。コンピュター導入の結果なのか。外れたのはウエザーニュースである。

 大豆の収穫が午前中で終わったので、午後にはタマネギのベットづくりを行うことになった。今年はベットは縦方向だけにした。大雨が降ると、水路が出来てベットを壊すからだ。12mの細い長いベットになった。

 ベツトの上の幅は50センチくらいの狭いものにした。その方が作業がしやすいからだ。50㎝に4本を植えて、10m植えれば400本になる。これが一年分のタマネギになる。ベットの中の方に古い鶏糞を混ぜ入れた。

 鶏糞が落ち付いたところで、5日に植え付けの予定だ。今年はまたタマネギの苗が不調だそうだ。根切り虫にやられたと言われていた。ずいぶん対策はしているのだが、なかなかタマネギ苗は苦戦している。今年はまずは購入苗も使うつもりだ。

 今度は晩生の苗が売ってないと言っていたら、堀井商店にあるというので、慌てて買いに行き、夕方からタマネギ苗は植えこんでしまった。5時まで作業をしたら、ずいぶん薄暗くなり寒くなった。久しぶりに冬を味わっている。

 タマネギのベットの上には穴あきトンネルをかけたいのだが、トンネルをかけると草取りが大変という事だった。今の予定では1月最後の1週間と3月初めの週に小田原に来る予定だ。大麦と、小麦と、タマネギの草とり。そして3月にジャガイモの植え付け。それで、遠藤種苗に2穴のビニールを買いに行った。

 問題は石垣の方の田植えである。1月初めに苗床の準備播種。苗作りをしながら田んぼの代掻き、最後の一週間抜けて小田原にくる。一月の最後の週は石垣に居なくても大丈夫なようにしないとならない。小田原から戻り、田植えをすることになる。田植えが2月10日ごろに終われば、3月初めには小田原に来ることはできるだろう。

 このあたりの難しい日程調整が必要である。しかし、何としてもこれを上手くこなしたい。小田原での活動は充実している。少し無理しても来たい魅力がある。1月最後の週に小田原に来るのは、麹の仕込みと、味噌の仕込みである。

 寒くて去年は参加しなかったのだが、今年はちょうどその時期に水彩人の総会がある。これは出なければならないものだから、合わせて味噌づくりには参加しようかと思っている。まだ決めきれないところはある。

 大豆畑の後にみんなでそばガラを播いた。渡部さんの準備が良くて仕事が終わりそうな時を見計らって、そば殻を運び込んでくれた。下の畑には20袋。上の畑には20袋。大勢いるので撒くのも早い。ここまでやれれば、午後トラックターで耕運できる。27日にすぐに耕運が終わった。

 それで、28日には小麦とライ麦を播いた。ライ麦はジャガイモを作る所の緑肥である。何も作らないで、裸地にして置くと、拭きおろしの冬の風で、表土が飛ばされてしまう。3月5日までにどのくらい伸びるだろうか。

 ジャガイモは畑の半分を3月5日に植え付けるという事だ。今年は私は参加できなかったのだ。それなのにみんなが私の分まで植えてくれた。来年こそ自分で植えるように参加したい。ジャガイモが半分というのはジャガイモは連作障害があるというので、去年作った場所では作らない。

 そこでジャガイモの場所が空くことになった。それでは小麦をやらないかという話が急きょでた。私は是非ともやりたい、草取りには頑張って来るので、是非やりたいとお願いした。それは小麦を止めて、大麦にしてしまって、小麦の会を止めた人がいたという事がある。

 小麦を止めた理由は精粉することが困難という事がある。様々な理由があるが、ともかく面倒くさいし費用もかさむ。そこで、今度は各人が家庭用製粉機を持つか、あるいは粒のまま使う人に限定という事にした。小麦を続けるなら、家庭用製粉機は良いと思う。様々なものが粉にできるのだから、自給生活には必需品というものかもしれない。

 そこで急きょ28日の午前中には小麦の播種という事になった。45㎝の畝幅にして、草が抑えられなかった場合は、一列置きに耕運機で潰してしまう。草が抑えられたら、45㎝のままで収穫まで持って行ける。大麦も同じ考えで、45センチ畝にした。

 草取りにできる限り来るつもりだが、どこまでできるかまだ分からない。ため池の草刈りもあるから、1月3月5月と一月おきくらいには小田原には来ないとだめだろう。小田原のみんなに迷惑をかけないように、この時に草取りを頑張るつもりだ。

 そして、土手の修復を行った。見学者が舟原ため池に行く道筋に狭い部分があり、ここが崩れている。以前土のうで積み上げて修復した場所がまた崩れた。どうしても田んぼからの水が沁み込んでくるので、道が崩れてしまう。今回は麻袋の土のう袋で直した。

 麻袋を鉄筋で串刺しにして、斜面に止めるような形だ。どこまで持つかはわからないが、草が生えてしまえばかなりの強度は出るはずだ。今回は1メートルほどの単管パイプを斜面に10本打ち込んだ。水抜きの為である。この道は一般の見学者が通る場所なので、しっかりしたものにしなければならない。

 今回中央の堤の部分を直して、上の池には水が溜まり始めた。このまま何とか漏らないでくれたらば、次は下の池の石垣の補修をしたい。ここが漏らなくなれば、ついに溜池は完成である。出来れば、下の池には小田原城の蓮を移植したいと思っているのだが。なかなか貰えないでいる。農政課に頼んでみることにしたい。

 
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第84回 水彩画 日曜展示

2021-11-28 04:26:20 | 水彩画
第84回 水彩画 日曜展示





515「森陰」
2021.11







516「崎枝の田んぼ」
2021.11








517「篠窪の斜面地」
2021.11







518「石垣島の樹木」
2021.11








519「川のほとり」
2021.11







520「崎枝の海岸林」
2021.11







521「大里の畑」
2021.11






522「海に続く農地」
2021.11






523「川のほとり」
2021.11






524「岬にて」
2021.11


 今回の絵も10号ぐらいである。並べてみてみると柔らかい筆触を感じる。意識しているわけではないが、気持ち良く描いているのだと思う。この調子でたんたんと行くつもりだ。

 今は小田原に来て、少しづつ描いている。しっとりした日本らしい景色を思い出している。霧にかすむ色彩。この薄墨をかけたような色合いこそ慣れ親しんだ色だ。それは確かに私が描いている色とは違う。

 色に関しても映しているわけではない。その色を再現したからと言って、自分が見ている景色になる訳ではない。絵はあくまで作っている。創作している。自分というものが感じているものはこうだと描いている。それが面白いと思う。
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舟原ため池の改修工事

2021-11-27 04:15:40 | 里地里山


 舟原ため池は上下に分かれた池になっている。上の池にはカキツバタが植えてある。下の池は深くなるはずなのだが、水漏れがあって水は今たまらない。先ずは下の池のことより、上の池だけでも水が溜まるようにしたい。

 そこで、中央の土手の埋め込んである3本の太い塩ビ管を1本にすることにした。3本だと塩ビ管の間の土が締まらない。ずいぶん突き棒で叩いたのだが、上手く行かない。そこで、今回は1本にすることにした。それは1本で水の流れは
十分だからだ。

 大水の時排水できない分はどのみち、境の仕切りの上を水は超えるだろう。ため池が満杯になり、川に戻る水路まで水が上がったことが1度だけある。相当の水が来たのだが、上手く川に水が戻るようになっていた。江戸時代の溜池の構造に関心をした。

  舟原ため池水が溜まらないので、雑草がすぐ生える。このあたりはカキツバタが沢山ある。堤防上になっている向こう側には下の池がある。その間の堤に3本の太い塩ビ管がある。これを一度取り除き、一本にする工事をする。

 一本にして、泥にコンクリートを混ぜて埋め戻す。そうすれば多分もれなくなるだろうという想定である。何とか水が溜まらなければ、上の溜池に水が溜まらない。水がなくなれば、草刈りは大変にになるし、カキツバタは枯れてしまう。

 花が枯れてしまえば、いつかこの溜池も誰も管理する人がいなくなり、またごみで埋まってしまうだろう。この小田原でも一番魅力的な場所を長く維持するためには何としても水が溜まるようにしなければならない。



 今回去年から持ち越しの工事を行う事になった。昨年工事を始めたら、近隣の方から工事を止めろという苦情が入った。理由は理解できなかったのだが、みんなのための活動でもめ事は嫌なので、工事を中断した。相変らず状況が改善された訳ではないが、上下の池を繋ぐ工事は実行することになった。

 予定では25日と26日の二日かかるはずだったのだが、何と見事に1日で終了した。そこで2日目は冨田さんの田んぼの水路の入り口と、岡本さんの田んぼの水路の入り口の直しを行う事になった。ともかく水漏れがあちこちから起きている。

 2つの水漏れ工事が終われば、黒柳さんの所の田んぼの穴埋め作業を行う。これも昨年に引き続きの工事で、なかなか完全には治らない。結局のところ、出来る範囲で工事をするほかない。田んぼは手入れだ。手入れを繰り返し維持をしてゆく。

 大型の土木工事で味気ないコンクリートで固めた田んぼにしてしまうのは、つまらない事になる。人間が手作業で手入れをしながら直してゆく、手はかかるが、愛着の湧いてくる田んぼこそ、日本人を作ってきた田んぼだ。

 いつか農業者の稲作が失われる時が来たとしても、自給の為の田んぼだけは残す必要がある。田んぼがいろいろのことを教えてくれるはずだ。農業遺構としての溜池も、江戸時代の初期に久野にこれほどの土木工事をしてまで、田んぼを切り開いた人の思いを残す必要がある。

 人間の暮らしというものがどこに向ってゆくべきかを、溜池とそれに続く田んぼは教えてくれるはずだ。言葉にすれば平和に暮らすという生き方である。人と競争するのではなく、共に助け合う共同の暮らしだ。人間はみんなのために働くときこそ力が育つという事。



 こちらは田んぼへの導水路の破損の修繕である。昨年水漏れがしてどうしようもなかった。田んぼを乾かしたいときに、乾かすことが出来なかった。そこで今年石を剥いで、塩ビ管を入れ替えてからコンクリートで補修する予定。

 あしがら農の会には素晴らしい人がいる。今の時代誰もが暮らしが大変になっている。自分のことだけでも大変に違いないのに、みんなのために、頑張ってくれる人が沢山いるのだ。ため池の改修工事をしたところで、自分の利益になる人など一人としていない。

 だから、溜池はごみで埋まってしまったのだ。そのため池を農業遺構として、何としても残そうという活動が続いている。地域からは喜ばれるどころか、苦情を言われる状態である。それでも、溜池を美しい場所として残せば、未来の人にきっと役立つときが来ると思っている。

 

 ここは溜池の周りの道路が陥没してしまった箇所だ。いつか崩落氏tれしまうと心配していた。コンクリートガラを軽トラ一杯入れて、その上から、土と砂利とを混ぜたものをもう1杯入れた。しばらくそれで様子を見る予定だ。

 状態が落ち付いたらば、そこにコンクリートを打って固める予定だ。これで今度の大豆の収穫の時も危険が少し減った。車が大きな空洞になっている上を通るのだから、危険極まりなかった。今回急いで工事が出来てほっとした。


 大きな空洞だった。今回ここまでやる予定ではなかったのだが、溜池の排水管の工事が早く終わったので、一気にここまでやれた。穂田さんの手際の良さにはいつもながら、眼を見張るものがある。これで小田原に来た第一目的は達成したことになる。

 参加者、穂田さん、渡部さん、富田さん夫妻、石井さん、東さん、杉山さん黒柳さん、まごのりさん、笹村
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大麦の播種

2021-11-26 05:34:45 | 自給
大麦の種。二条大麦「サチホゴールデン」

 11月24日大麦の播種を行った。麦は11月11日と決めていたのだが、大豆畑の跡地に大麦を播くので、大豆が片付いてから、畑の準備をして大麦を播く手順でいくらか遅れる。大豆の収穫が終わったのが、21日である。生乾きの大豆は舟原畑の陽の当たる奥に集めて干してある。この大豆は27日に脱穀する。

 22日に畑を片付けてそば殻を撒いた。そば殻は1反に16袋撒いた事になる。そば殻を播き続けて、土に腐植が増えて、ふかふかになってきた気がした。大豆がそれなりにできていたので、土はだいぶ良くなってきたのではないかと思っている。そば殻はほとんど肥料分はないかと思う。腐植を増やすことになる。大豆の根も畑でそのまま漉き込んだ。

 今年画期的だったことは大豆が総生寺裏の畑と、家の脇の畑がほぼ出来が一緒だったことだ。家の脇の畑は15年畑を続けてきて、土壌がとても良くなった。その畑と総生寺裏の畑では少し出来が違っていたのだが、今年は総生寺裏の土が改善されたことが、作物の出来で分かった。

 畑が浸透性が改善された結果だ。畑に1メートルを超えるタテ穴を5㎡に1個掘った。これで畑が劇的に変わった。今度麦を播けば、土が良くなったことがわかるのではないかと思っている。大豆が差がなくなったのだから、きっと麦も大丈夫ではないかと思っている。土壌は浸透性が良くなければ還元化してしまう。

 たぶん石垣の土壌は腐食を入れて、浸透性を改善しなければ良く出来るようにはならない。斜面の畑の方が良く出来るはずだ。腐植をどうやって増やすのが合理的なのか、これから考えてゆきたい。道路わきにすぐ降ろせる、堆肥置き場を作るという事だろうか。

 今年作る麦の品種は「サチホゴールデン」という品種だ。栃木県農業試験場栃木分場(指定試験地)において、「大系R4224」と「関東二条29号」の交配より育成された品種。栃木県ではずいぶんと充実した試験栽培をした上で、奨励品種に取り入れている。極めて大事なことだ。

 これならば、北海道の春大麦を小田原で作るより、適性があるのではないだろうか。去年どうもうまく出来なかった。佐賀県など九州でも奨励品種になっている品種。播種時期は小田原の気候であれば、栃木よりも暖かいから、11月24日は遅めではあるが、許容範囲ではないかと思われる。

 畝幅は45㎝にした。90㎝にしなければ、耕運機で間を入り、除草が出来ないという意見もあり、話し合いの結果。45㎝にして置き、手取り除草が遅れたら、一畝潰してしまい、90㎝にしてしまおうという結論になった。

 播種量は2通りやってみたい。家の脇の畑の下半分はゴンベイ播種器のベルトそのまま。上半分がヒトこま落し。つまり上下の畑で、播種量が倍量違う。穴には3粒ほど麦が入る。多く播いた方がいいのか、少なくても構わないものか、播種量の違いでの生育の変化を見たい。

 家の畑は特に肥料は撒かなかった。大豆の草抑えに、ソバカスがかなり撒いてあったので、そのままトラックターで耕運してくれた。トラックターはどこも渡部さんがやってくれるのだが、実に手際よくなっているので、あっという間にきれいな播種の準備が出来た。

 午前中の作業で終わった。5人での作業だった。3人が交代で播種をしたのだが、播種器の調整が深くて、雨が降った後の重い土という事もあって、女性では押せないほどきつい作業だった。往復すると息が切れるほどだ。大豆の播種の深さ調整でこうなった。

 直さないでその深いままで、播種した。どうだろうか。麦には深蒔きになっていなかっただろうか。大丈夫だと思うが、今までで一番深い。1反2畝蒔いて、午前中早めに終わるぐらいの作業だった。以前一人で撒いたことがあるが、やはり午前中で終わった記憶がある。

 12月、1月と麦踏と土寄せ。これには残念ながら来れない。水彩人の集まりがあるから、それに合わせて短期間だけでも来て、タマネギと、麦の草とりをしたい。その頃には味噌づくりもやるのかもしれないが、その参加は無理だと思っている。

 2月に来たいのだが、石垣の田植えとの調整になる。このあたりがまだ見えないところだ。なかなか、両方で農作業に全部参加してやるのは難しいところがある。果たしてどういう事になるか。みんなのお陰で、タマネギも、ジャガイモも出来たが、今年はさらに無理そうなきたしている。

 せめて、タマネギの植え付けだけはして帰りたいとお願いした。5日に植え付けの日を決めてくれた。ベットづくりなど、28日あたりにやろうかと思っている。玉ねぎは鶏糞肥料を入れたいので、早めに入れて、1週間あけて5日に植えれば丁度良いだろう。

 問題はビニールトンネルをしてよいかどうかである。ビニールトンネルをしたいのだが、草取りが大変になるという事だ。迷惑はかけられない。1月に草取りに来るという事が出来れば、トンネルを使えるかもしれない。舟原畑は寒いことと、風が強いことで、トンネルを使わないと、タマネギは良く出来ない。

 そういえば、今回、石垣の田んぼで栽培を試してみる、ハルミと、サトジマンの種籾を忘れないように持ち帰らないとならない。来年のシーラ原田んぼはともかく試験栽培をしてみる。うまく、崎枝田んぼの準備が出来れば、そちらで試験栽培を始めることも出来るかもしれない。

 ともかく今年も大豆が収穫が出来て、大麦を播くことができた。感謝しなければならない。こうして、小田原に来て、充実して農作業が出来ることに感謝しなければならない。農の会の仲間の活動が充実しているお陰である

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大豆の収穫を行う

2021-11-25 04:03:26 | あしがら農の会



 あしがら農の会の大豆の会で収穫を行った。全部で3反ぐらいの畑だと思う。総生寺裏が一反。舟原の斜面の畑が、2反。家の脇には渡部さんの管理してくれた大豆畑が2畝すこし。今年は大豆収穫量クイズが行われている。私は333キロで長嶋選手の文化勲章である。そうしたらなんと、333.3キロという人がいた。

 農の会で大豆を作るようになって何年だろうという話をみんなでしていた。良くは思い出せなかったのだが、18年くらいではないかと思った。最初から小糸在来種を作ってきた。この品種は小田原の土地と気候にあっているのだが、何年栽培をしても、こうすれば良く出来るという事が見えてこない。

 ずいぶんいろいろの栽培方法を試してきたと思う。良く出来たこともあるのは田んぼにベットを立ち上げて、ベットの周りに水を回して栽培した時だ。この時は良く出来た。あの頃は種をみんなに配り、家でトレーに蒔いてそれぞれが育てて来ていた。

 一か所で苗作りをしたこともある。あれこれやった末に、今は直蒔きになった。以前は直蒔きにすると、ハトに食べられてしまったのだが、最近は不思議に取りに食べられるという事が起きていない。ネットを張ったり、糸を張ったり色々しているのが効果を上げているという事だろうか。

 今年の大豆は良くできていた。良く出来ていたと言っても小糸在来種は最近の改良種ほどの収穫はない。しかし、際立っておいしい。以前、様々な美味しいと言われる大豆種を取り寄せて、栽培し味比べを行った。この時も農の会の小糸在来種の大豆が一番おいしかった。自分で作ればそういうものかもしれないが。

 10年ほど前に現代農業で美味しい大豆特集があった。それで紹介記事に従って連絡をして種を分けて頂いた。全国の農家と繋がったような気持になった。そして栽培試験をしたのだが、結局各地の地大豆を上手く作ることが出来なかった。

 できた大豆は栽培具合も土地が変わったせいか、ずいぶんと違った。大豆は土地が変わると、まるで違ってしまう作物だという事を知った。その時の丹波の黒大豆は色がおかしくなってしまった。その時にもできた大豆を茹でて食べてみた。一番好みの味が小糸在来種だった。それ以来小糸在来種にこだわって作っている。

 農の会の味噌醤油が美味しいのは、小糸在来種を使っているからだと思っている。今度石垣島でも小糸在来種を作ってみようと考えている。なかなか難しいはずだ。たとえできたとしても、それほどおいしいものにはならない可能性もある。

 それでも愛着があるから、ともかく試してみるつもりだ。一体いつ播種すればいいのだろうか。2月ごろなのだろうか。石垣島でも大豆は作られているとは聞いている。教えてもらおうと思う。出来れば石垣島で作られている大豆も播種して、比較実験をしてみたい。

 大豆は土壌も気候も選ぶ作物だ。小糸在来種が小田原にあっているというのは土地と気候があっているという事だろう。神奈川県には津久井在来種というものがある。これを作るべきだという人がいて、作ってみたこともある。ところがダメだった。考えてみれば、津久井は山の中である。それよりも千葉県の小糸川周辺の方が小田原に環境が似ているのではないだろうか。

 そもそもの種は千田さんが分けてくれた千葉県の小糸在来種である。今年蔓ボケしたものがでた。エンドウ豆のように蔓を延してしまったというのだ。これからは種にする大豆はよくできたものから選ぶようにした方がいいのではないかと思った。大豆もすごい大株になるものと、そうでもないものもある。

 自家採種を18年も続けているとすれば、やはり選別をした方が、小田原に適合した優秀な小田原在来種に変わってゆくのではないか。少なくとも、蔓ボケした株の種が来年の種になれば、来年の畑に問題が出る可能性がないともいえない。

 今年は早く収穫したものを種籾にするのが正解ではないだろうか。どうも収穫が年々遅れてきている。気候の影響という事もあるが、早く硬くなる大豆もあるのだから、それを播いた方が次の年いくらかでも早くなるのではないだろうか。

 今回の大豆の会の作業は30人くらいの参加だった。皆さん要領よく気持ちよい作業をされて、どんどん畑は片付いていった。私も遅れてはならないと頑張って働いた。2反の収穫が終わった。翌日は私の家の脇の大豆畑を渡部さんと二人で一気に片づけた。これは2畝だけど反収で言えば、200キロ近いと渡部さんが言われていたが。どうだろうか。

 今年は鹿に侵入された。去年もやられた。それで柵を強化したのだが、それでも乗り越えてきた。最近の小田原の獣害はすさまじい状況だ。何しろ、家の脇の大豆畑にまでイノシシが来たというのだ。の家の間の畑までイノシシが入り込むようになっている。

 イノ鹿ネットワークの穂田さんは一日おきには罠の鹿を捕るそうだ。専業の猟師と言えるほどである。大豆畑の奥にもわなを仕掛けてくれて、イノシシと鹿2頭を捕まえたそうだ。何とかそれで大豆の収穫が出来たという事になる。

 穂田さんはこうなるといつも言われて、小田原の農業を守るためには猟を頑張るほかないと言われてきた。なにも手伝うことも出来ないで、申し訳ない限りだ。収穫した獲物が、ジビエで利用できるようになれば、若い専業の猟師が登場するのではないだろうか。

 小田原のイノシシは美味しい。格別においしい。他所のイノシシも食べてその結果確かに小田原のイノシシは美味しい。美味しくなるような食べ物があるのではないか。でも美味しいイノシシの方はあまり捕まらなくて、鹿ばかりだそうだ。鹿は食べたことがないので私には味は分からない。

 大豆のことだった。すぐに脱粒機にかけられる乾いたものが、半分くらいだろうか。後の半分は広げて干してある。大豆はネットの上に置かれている。ネットの方が雨が降っても下に抜けるから良いというのだ。

 雨が降ったらブルーシートをかける予定だ。早速翌々日は3時から雨。みんなで大きなシートをかけた。また雨がやんですぐシートをはがした。陽が当たれば何とかなるだろう。この時期それほど雨は続かないはずだ。この後寒くなり箱根からのふきおろしの風も強くなりそうだ。

 残りの1反の畑の作業は来週の土曜日になる。もっと先にして、完全に乾いてから収穫をしたいという事のようだが、畑にいつまで置いておくのも心配なことになるが、大丈夫だろうか。大豆は時にははじけて落ちてしまう事がある。

 この大豆は農の会の味噌と醤油の仕込みに使われる。私は昨年から来ていない。それは石垣島になれてしまった体にはあまりに寒くて、一昨年風邪をひいてしまったからだ。今年も残念ながら来れないと思う。
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台湾は独立国家である。

2021-11-24 05:14:13 | Peace Cafe


石垣パイの島空港のジンベイザメ便で羽田まで来た。

 台湾はすでに独立国家と言える国家基盤を確立している。中国はあくまで中国の一部であるとして、5年以内に併合する意思を示している。キッシンジャー氏は10年間はないと言われていた。軍事的侵略の意図も表明している。この深刻な状況を打開するためには、今が重要な時であろう。

 台湾の軍事的併合を許してしまえば、今後中国の世界に対する威圧的な態度はよりひどいものになるだろう。とはいえ、武力的な対抗姿勢を強化したところで、少しも解決にはならないだろう。解決が遠のくどころか、事態の緊張が増してゆくことになるだけだ。

 日本は憲法に示された平和国家として、この事態を外交努力によって解決してゆく努力をしなければならない。またそうした努力をすべき責任が日本にはある。それは日本が台湾を植民地にして、支配した反省すべき過去があるからだ。

 ところが現状では同盟関係のアメリカの中国との対立に巻き込まれているのが日本政府だろう。日本政府独自の動きは全く見られない。こういう時にこそ、国際紛争を解決する外交的努力が必要なのだ。しかし、日本には外交能力がないかのようにアメリカに従うだけに見える。そして、琉球弧にミサイル基地を作り続けている。

 台湾の未来は台湾の人たち自身が決める責任と義務と権利がある。それは1945年の日本の敗戦とともに、台湾は中国の一部に戻ることになったが、中国の内戦の結果台湾は中国から切り離される。それからの70年を超える歳月を中国と対立した形で、独立国家としての形を模索してきた。

 毛沢東はアメリカと国交を回復するときに、台湾問題は100年は棚上げするとしたと言われている。さすがに正しい判断である。中国自身が100年間のあいだに、民主主義的国家になれれば、確かに国家統一はありうる。台湾問題は実は中国自身の問題なのだ。

 香港のの自治権を踏みにじる統一も、本来であれば中国自身が香港化すべきなのだ。そして、一国2制度をすべてを香港のような民主主義を取り入れればいいだけのことだ。それが中国の行うべき方角のはずだろう。

 台湾は1895年日本の植民地となって以来中国ではなかったのだ。130年前に中国であったからと言って、単純に中国の一部であると決めつけることはできないであろう。100年以上昔のことで今の台湾で生きる人を縛り付けることはできない。今できることは台湾の未来は台湾人自身が決めるべきことだろう。

 中国は何故台湾が中国に戻ることを望まないのかを、中国政府自身が反省すべきことだろう。香港もそうであったが、中国は経済成長目覚ましい可能性のある国であるにもかかわらず、独裁国家の様相を深めているという点である。人間が普通に望むものは自由なのだ。

 自由には他に代えがたい価値があるから、中国と統一したくはないと台湾の人たちが考えるようになったのだ。もし、中国が自由と民主主義を大切にする国になれば、台湾の人たちも喜んで、中国への統一を選択することだろう。軍事力でいくら脅したところ、中国に戻りたい気持ちは遠のくばかりであろう。

 香港のように、無理やり統一を果たしたからと言って、その無理は国内全体に影響してゆく。結局の所より独裁的政治を強めなければならなくなっている。それが、台湾への威圧外交を生んでいるのだ。経済が停滞すれば、大きな崩壊が起こる可能性もあるだろう。

 朝鮮の分断国家も同様である。北朝鮮から韓国に亡命する人は居ても、北朝鮮に亡命したいと考える、韓国人はまずいないだろう。大切なことは経済基盤でもあるが、人権が尊重され、自由な国でなければ逃げ出したいと考えるのが普通のことだ。

 中国が普通の国なればいいだけのことだ。そうすれば何も武力など使わなくとも、台湾の人も安心して国家統一を選べるだろう。現状はむしろ逆行している。習近平政権の独裁化はより避けたい国に向っている。すべてに、強硬路線だけで進んでいる。

 今の中国は住みたくない国である。申し訳ないが、行ってみてそう思っている。台湾は是非とも住みたい国である。何度でも行きたい国である。石垣島に住んでいるものとして、お近くの友人のような気分でいる。石垣島では台湾の人に良くお会いするという事もある。

 台湾の様な素晴らしい国を、中国という独裁国家にしてしまえば、全くつまらない事になる。むしろ中国が台湾のようになる日を待つ以外にない。中国が良い方向に向かうための方向付けが、日本の外交努力なのではないだろうか。

 中国人の日本への観光や留学はとても良いことだと思う。自由の国の良さが伝わるはずだ。日本人が中国へ留学や観光に行くのも同じく素晴らしいことだ。お互いを知ることから努力をすべきだ。中国を孤立させるべきではない。

 アメリカは中国包囲網を作ろうとしている。中国はすでに世界から孤立させられるような小さな国ではない。アメリカは中国に経済で追い抜かれることを怖れているのだろう。別段経済は競争ではない。共によくなる経済でなければならない。

 新しい資本主義というものは、競争をして相手をつぶしてしまうものではないだろう。互いを生かす経済のはずだ。競争主義を克服しない限り、世界の平和はない。日本も小さな競争心を抜け出さない限り平和国家を作ることはできない。

 台湾の独立と平和を側面から手助けできるとすれば、日本だ。日本がその一番の場所にある隣国だ。日本から肉眼で見える国が台湾である。台湾の独立を守ることが日本の国益である。台湾が中国に武力によって併合されるという事は、民主主義が踏みにじられたという事になる。

 台湾が国民投票によって、中国との統一を望むとになれば、統一できるのだ。台湾が独立国を選択するとすれば、それが正しい選択になる。台湾にはすでに自分で選択するだけの、長い独立の期間がある。その上政治的にも文化的にも十分に独立国家としての、要件を持っている。

 すでに70年以上独立国家として、存在してきた国は自分の国の未来を自分で決める権利があるのは当然のことだ。そのことを側面から指示するのが日本の役割である。あくまで平和的手段で、世界の指示を集めることである。それが台湾との友好関係だろう。

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石垣島、農地の借り方。

2021-11-23 04:00:25 | 楽観農園


 石垣島で農地をお借りすることがついに出来そうだ。農業委員会への申請までたどり着いた。それはかなり難しいことだった。この経験は新しく石垣島に来て農業を始めようという人には参考になると思う。

 忘れないうちに、分かる範囲で書き留めておく。まだ完全に把握できたという気もしていないのだが。石垣島の未来の農業に繋がる農業をしたいと考えているので、このまま進むことを願っている。農地の貸借にはそれぞれの土地の事情に応じて違っている。

 石垣島ではバブル時代から、土地投機を狙う企業などの農業目的でない、農地を借り登記して、担保に入れてしまい、塩漬けにして置くというとんでもないことが行われている。その結果石垣市の農業委員会では農地の売買や貸借には強い疑いをもって当たっている。

 本当に農業をやるのか、そうでないのか。この判断が難しいという事だろう。また、土地所有者の方も、地元の方以外に土地を貸すことはよほど躊躇われるようだ。嫌な思いや、悪い話が聞かれるので不安になられているのだろう。

 申請にあたっては石垣島でやる農業を出来るだけ丁寧に書いて示したいと思う。そして、小田原でやっていることと、小田原での耕作証明書を添付したいと思っている。

 今回お借りすることになった農地は、新聞に掲載されていたものである。ある不動産屋さんが新聞に載せていたのだ。農地を借りる人を募集するために、新聞広告を出すというのは一般的に言えば珍しい事例のような気がするが、石垣島では新聞が農地情報源になっているのかもしれない。案外に農地を借りたいという人の希望広告は新聞で時々見る。

 八重山毎日新聞は小田原に暮らしていたときも、定期購読していた。それで今度熱帯農業研究所の公開があるというような記事を読んで、それに合せて石垣島に来ていた。移住を希望する地域の地元紙を購読すると言うことは、仕事の募集なども出ているので大切なことかもしれない。ネット情報の時代とは言え、一地方の情報は新聞が重要になる。

 新聞で見て不動産屋さんに訪ねたが、田んぼでは無かったのでその土地は止めにした。その時その不動産屋さんの説明では、その他の農地や田んぼの物件もあると言うことで教えて貰った。田んぼは180万円くらいで売りに出ていた。

 但し、石垣島では農家になるための要件が5反以上と言うことで、これは農業者以外は買えないことになる。加えてその地域では、無農薬でやるという事には強い抵抗感があるという事だった。そうした地域の農業の状況も把握しないとならない。また地域的に市街地に近すぎて、やりたいという気持ちが湧かなかった。

 以前、シーラ原で5反以上の田んぼがやはり不動産屋さんを通して売りに出ていて、ここは条件が良く買おうか迷ったこともあったのだが、いよいよ買う気になったときには、今度は売主が気が変わり売らないと言うことになった。石垣島の農地は不安定なもので、すぐに条件が変化して行く。先祖伝来の農地を売ると言うことは、やはりよほど気の重いことではないだろうか。

 石垣市の農業委員会にも当然のことだが、貸借や売買の農家から申請のあった農地の情報がある。実際には新規就農者には利用しにくいものになっている。農家の方に伺った話では、ここに出しても借りては見つからないということも言われていた。

 4回訪ねて、情報をお聞きしたが、成果は得られなかった。余り新規就農者を歓迎はしていない雰囲気の地域だと言うことは確認できた。こうしたことも案外大事な情報である。2月ごろに、農家の方に問い合わせをするので、新しい情報が出てくる可能性があるから、その頃に来てみるといいと教えられた。

 石垣島では投機的な目的で、非農業者が仮登記で農地を買っている。そしてその農地を担保にしてしまう。こうなれば誰も手の付けようのない土地になるからだろう。農地の売買で迷惑を受ける事例が多すぎるのだ。今も、畜産基地を行政が主導で造成した農振農用地を、ユニマットは市を巻き込んで転用をしようとしている。こうしたことで、莫大な利益が生じる構図なのだ。

 新規就農者の受け入れの熱意は、行政によってまったく違う。熱心な自治体では、農業委員会に基市役所職員で、地元の農家の方が臨時雇用されていて、農地の掘り起こし事業を行っている。各農家を地元の農家で市の職員でもあった方が、訪ねては農地を放棄しているなら、人に貸した方が良いと説得している。こうして未利用農地を減らす努力まで行っているところもある。

 当然そうした自治体では新規就農者は歓迎される人だから、親切な案内をしてくれる。地域によっては農業をしながら働ける職場の紹介までしてくれる。もちろん農家住宅の斡旋もしてくれる。そこまでしても農地を守りたいという情熱がある地域もあるのだ。石垣市の場合、35年前山北町の役場に訪ねたときと同じ空気だった。それが今では山北町では受け入れ住宅まで準備している。

 だから、新規就農者は一つの自治体で諦めずに、色々自治体を訪ねてみた方が良い。そして、何度も行く。最低3回は訪ねる。熱心さが無ければ農業委員会の方もその気にならないかもしれない。農業委員会の方が本気になれば必ず農地はある。そういう経験も、南足柄市ではしたことがある。

 田んぼを始めることで、石垣市の農業事情が分かってきた。始めたと言っても農地は正式に借りたという形では無く、非公式に半期だけ借りると言うことだったのだが、そこで田んぼを実際に始めることで、徐々に情報が得られるよいうになった。

 一番はどういう所であれば、市民的な田んぼの活動が、できるのかと言うことが見えてきた。また石垣島に相応しい農業の形も見えてきた。そして、一緒に連携してやろうという方が沢山存在することが分かった。なにしろ、たちまち30人もの田んぼ参加者が集まった。

 一人では出来ない広い農地であっても、みんなで何とかやろうという人がいる。あるいは現在はすぐには使えないような農地であっても、一緒に整備しようという人と知り合うことが出来た。新しい農業者の受け入れを事業として連携してやっても良いという人とも出会えた。

 そうしている内に、水牛を6月から飼うことに成った。もう5ヶ月も世話をさせて貰った。水牛はなかなかいい動物だ。何とも可愛いし、病気にも強い。水牛は1頭あたり5反ぐらいの草地が必要だと思う。3町歩で六頭が飼えると言うことが分かった。

 広い農地でも水牛牧場と組み合わせれば、管理が出来そうだという事になる。生き物を飼うという事は、一人では無理だ。みんなで協力し合える体制が、必要だと考えている。この共同管理という事が、石垣島で農地を借りる上で、一つの突破方法になった。
 

 
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石垣島で原野を田んぼにする冒険談3

2021-11-22 04:07:20 | 楽観農園


 石垣島という楽園の農園、楽観園には新しい仲間が2人加わった。なんと二人とも薬剤師の方だ。中川さんと、圷さんである。これで9名になった。体制は整いつつある。大倉さんの様な外部からの協力者も引き続き募集します。

 楽園の田んぼは自分の田んぼでは無い。毎年場所が入れ替わる。1年目は一番下の田んぼ。だんだん上に移り、最後は一番上の田んぼを耕作して卒業する。お互いが協力しなければ、一番下の田んぼには水が来ない。下の田んぼのことを考えられる人に成長し無ければ卒業は無いのだろう。

 土の腐植を増やし、豊かな耕土を作るのは次にその田んぼ畑をやる人のためだ。自分のためだけの自給の田んぼでは無い。みんなでやれることはすべて共同で行う。一人でやるより、みんなで共同すれば、かかる労力は半減する。頑張る気力は倍増する。

 水牛を飼って堆肥を作る。腐植を増やすことを農業の基本にしたい。草を刈り、落ち葉を集めて堆肥を作る。堆肥を田んぼに入れることで土作りをする。一人で出来るようになったならば、今度はみんなのために、そして石垣島のために自給農業がやれるようになることだ。

 石垣島の家庭ごみが堆肥化されるように受け入れ施設を作りたい。例えばホテルの生ゴミを引き取る代わりに、農産物を購入して貰う仕組みは構築可能では無いだろうか。この生ゴミ収集を事業化できないかと思う。食料のSDGSである。こうした石垣島の生ごみを燃やさない環境対策をした宿泊施設を認定して行くことはできないだろうか。

 小さな自給の田んぼ楽観園が完成したら、そういう自給農業の体験施設にしたいと考えている。崎枝には民宿があるらしいので、話をして体験農業の人が継続して使えるようにお願いもしてみたい。お弁当を作ってくれる食堂もあるので、こことも連携を出来ないだろうか。

 楽観園略して楽園は間違っても宗教的であっては成らない。押しつける思想活動であっても成らない。あくまで自学自習である。その場所で耕作をする人自身が何かを感じて学び取って行くことが重要だ。自給農業の教育はお互いのためのものである。

 楽園は自由である。入ることも出ることも自由である。楽園で耕作をすることを通して、自然と自分の為であることが、人の為であるという、日本の伝統農業の姿を楽園の田んぼ畑の姿に再現したものである。人は自己本位で我儘なものであるが、みんなの為にも頑張れるものである。

 共に自給を目指す目標がある。共に働く喜びがある。自分の自給を達成することが出来たならば、みんなのために働くことが喜びになる人間になることだろう。もちろんそれはそれぞれのことであるが、身体を動かし、みんなと共同することで、自然と学べることだと信じている。

 それは自給自足を求めた開墾生活とあしがら農の会でのみんなでやる自給活動を通して、学んだことである。どうしようもない自分の為だけの人間が、生きることの眼を広げることが出来たのは、すごい仲間と出会う事が出来たからである。それはこの歳になっても全く同じである。

 今小田原に戻り、久しぶりにみんなと農作業をしている。それぞれが精一杯自ら仕事を見つけて働いている。誰に言われるという事でなく、それぞれが気を働かせて、やるべきことをやっている。大豆の収穫を30人くらいの人が、類まれな連携で行っている。

 並外れたスーパー農業者もいる。子供を背負ったお母さんもいる。初めて参加した人がいる。それぞれが良い距離を保ちながら働いていた。ここにある良い空気が、一人はみんなのために、みんなは一人のためにという事なのだと思った。

 自給生活は平和に暮らすと言うことである。人から奪うのでは無く、人のためになる自給。個人が自立する生活と言うことだ。自立した個人が暮らしを通して、みんなのためになる。小さな農業の目標は平和な社会を作ることになる。

 石垣島でそうした暮らしをしたいと考えている人が、楽園の体験できる場所でありたい。同時に、畜産、果樹、など石垣島で取り組まれている果樹農業の体験も出来るようにしたい。マンゴーやパイナップルや島バナナを有機農法で作りたいと思う。田んぼの畦に作れれば一番良い。

 これもかなり困難なことになる。すでに、果樹を有機で作られている方はいる。いずれも草対策をどうするかが課題のようだ。敷き藁を使い出来るかもしれない。鳥や虫対策は袋をかけると言うことになるのだろうか。現在、石垣島でやられている方に指導をして貰いたいと思っている。

 また草地の管理を学びたい。石垣島にはとんでもない帰化植物が恐ろしいほど繁茂している。牧場では資料を海外から輸入する。草地には外国からの植物が繁茂しがちである。帰化植物が一切入れない草地管理をしたい。草地の研究者の方が、石垣島の崎枝にはおられるから相談して教えて貰いたいと考えている。

 そして、態勢が整い次第学校田である。すでにどこかで行われているのかもしれないが、種まきから収穫までの一連の作業が目の前で見れる環境を提供したい。無農薬の伝統農業で食糧自給は可能だと言うことを子供達の体験を通して、知ってもらいたいと思っている。

 田んぼのことを考えると、もうそれだけで元気が出てくる。石垣島に自給のための田んぼ畑活動のユートピアを作りたい。楽園の農園は楽農である。ここで何かを学んだ人が、どこかで活動を広げて行く。そんな場所にいつか成れば良いと思っている。

 誰か一緒にやろうという人がいれば、大いに協力しましょう。一人より、二人より三人と。人の協力があれば、一人ではとうてい出来なかったことも実現できる楽観である。自給を目指す小さな力こそ、押しつぶされないように、力を合わせることだと思う。

 日本が平和国家として可能性を示せるように、江戸時代後水尾上皇が修学院離宮で示した、武力では無く稲作農業の形を示す庭園で、国作りの方角を示したように、石垣島の楽観園の楽園で日本の方角を示したい。これは大げさな夢ではあるが、冒険には遠大な夢が必要だ。


 
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第83 回 水彩画 日曜展示

2021-11-21 04:02:28 | 水彩画
第83 回 水彩画 日曜展示

今回も10号でファブリアーノクラシコ







505「白馬岳」
2021.11








506「妙高高原」
2021.11








507「飯縄高原」
2021.11







508「南伊豆」
2021.11






509「ヒカゲヘゴ」
2021.11







510「海に続く牧場」
2021.11








511「丘陵の眺め」
2021.11








512「戸隠の池」
2021.11







513「霧ヶ峰高原」
2021.11






514「藤垈の桜」
2021.11



  農作業をしては、絵を描くという生活に戻った。どうもこの方が絵を描くには具合が良いようだ。頭の半分が農作業になる。絵のことだけを考えている方が、絵を描くには良いと思ったのだが、絵のことを忘れている時間というものも必要なようだ。

 絵だけを描いていた石垣島に来てからよりも、今の方が絵を描ける枚数は増えてきたようだ。数が多ければいいという訳でもないが、絵を描きだすと書きたい意欲は、大きくなったような気がしている。

 絵を描くときは田んぼをやる時のように、田んぼをやる時は絵を描くときのように。これはいつも心掛けていることなのだが、絵を描くときにの気持ちの置き所が、定まってきたような気がする。どのような気持ちで描いているかという意味で、揺れ動くことが無くなった。

 いつも同じにただ描いている。これは毎朝の動禅の効果かもしれない。動禅は心の統一を心掛け行う。動禅の時は呼吸と動きに集中している。まだ正しい動きも呼吸も出来る訳ではない。60点くらいの状態である。まだできない動きすらある。

 できないからできるようにと思い動きに一生懸命である。絵も出来ないから、描くことに集中できるのかもしれない。できることを出来るようにやっているのでは、作業になってしまうのかもしれない。できないかもしれないことに向っていることが、私には向いているのかもしれない。

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石垣島で原野を田んぼにする冒険談2

2021-11-20 04:24:45 | 楽観農園


 冒険談の長い日和見の文章になる。大きな冒険ほど日和見が大切である。同この先の航海を乗り切るか、あれこれ考えている。場所を借りることも現段階では、正式なものではない。これから役所に正式に申請を出して決まることだ。石垣市がこの冒険の船出を認めるのかどうかはまだわからない。

 それでも、一応は石垣島で農地を借りることの地主さんとの話はほぼ決まった。しかし、決まったとはいえそれがだめになったことがすでに3回もある。まだ本当の安心という訳にはいかない。大きな冒険には不安が常に伴うが、楽観をもって乗り切りたい。

 その場所は楽園の農園を作る最後の冒険をする場所である。紆余曲折あったのだが、36149㎡ということになった。広い。実に広い。これほどの面積を使わせてもらうのは初めてのことだ。場合によっては広げることは可能な農地は周辺にいくらでもあるが、先ずはこの面積から始める。

 田んぼ畑になるスペースは3000㎡ぐらいだろう。田んぼ畑とは田んぼが200㎡畑が100㎡そしてハイビスカスの防風垣が含まれて、百坪が一家族の自給耕作地という事になる。お米、麦、大豆、の基本食材がここで賄えるという面積である。

 その百坪の自給の田んぼ畑の単位を6つぐらいの段々畑に作りたいと考えている。6家族が自給農業を体験できる楽園の農園である。「楽観園」というのはどうだろうか。誰もそんなこと出来るわけがないという夢に、楽観で向ってゆく体験農場である。

 ため池や周辺の作業道も入れてそのくらいになる。残りの33000㎡は、水牛の牧場用地になる。四頭ぐらいの水牛を放牧出来る面積という話だった。作業道をきちんと配置することが最初の作業である。すでに、水牛を柵沿いに繋いで毎日移動させて、草を食べさせている。1日10メートルづつ整備されてゆくことになる。

 放牧地はいくつかに牧柵で区切りたい。良い牧草が生えるように、草地を調整したいと考えている。現在ススキやアメリカハマグルマのような草が入り始めている。これを取り除くことが、次の作業になる。良い牧草地を管理することが重要な目標になる。水牛牧場はまったく経験が無いので、専門家の福仲さんに良く教わり先ずは学びたいと思う。

 良い牧草地を維持することは案外に難しいようだ。放牧をすれば、好きな草だけを食べる。食べない草が残り、それが広がってしまう。食べないような草は大体に除去が難しいような草だ。広い場所だから、それを人力で取り除くことは相当に困難である。

 まず一度、ユンボでダメな草を取り除くことを徹底して行う。その上で再生してきた悪い草を、根気良く取り除くことだろう。再生してきた程度のものであれば、気が付いた時に取り除けば、そのうち淘汰できるはずだ。

 水牛友の会の代表の福仲さんは八重山農林高校の先生をされていた方で、与那国島出身の方である。あらゆる農業技術の神様のような方だ。農業にはこうしたスーパーマンがいる。小田原でも結局のところ、スーパーマン農業者が農業を支えていたと思う。農業苦難の時代スーパーマンでなければ乗り越えることはできない。

 農機具に関しても万能であるし、溜め池を作る方法から、農場の整備、帰化植物の駆除方法なども、驚くほどの実践技術に精通している。先日は、ナガエツルノゲイトウの環境省の駆除事業の指導者として、新聞に掲載されていた。水牛友の会の代表である。現在会員6名である。希望者は入会できる。

 今回の水牛牧場の主である。水牛もすべて福仲さんが管理されているものである。シーラ原で田んぼを始めて以来、細かく色々のことを指導していただいた。それで石垣島での何十年か振りの水牛耕が再現したのだ。昔の水牛の農具に関しても詳しく、そうした古い農具の収集もされている。

 田んぼ畑の計画案の立案と、整備については私の責任で進めさせて貰う。一つの田んぼの面積は100坪つまり330㎡程度。といっても水の張られる面積はその中央の200㎡.残りの130㎡が畦であり畑と言うことになる。これは「小さな田んぼでイネ作り」で提案した田んぼ畑である。

 田んぼの周囲に130㎡の大きな畦があり、畑のスペースになる。これを合せた100坪が1家族の自給の大きさになる。これを段々畑にして、いくつ作れるだろうか。その一つを1家族が受け持つ。6段の棚田が出来れば良いとみている。つまり、600坪である。2反あまりである。

 水の湧いている一番上に溜池を作り、そこは水牛池にもなる。水牛がかき回してくれれば、水が漏らなくなるかもしれない。この貯水池の作り方は現地で福仲さんの考えで調整してもらう。1977年の航空写真ではそこには3角の池があったことがわかる。

 田んぼ畑の一単位で食料生産で家族が暮らせると言うことになる。といってもそれは小田原での経験で、石垣島でそうした自給が達成できる為には5年はかかるだろうとみている。土壌や気候のことを身につけるためにはかなり大変なことになる。

 亜熱帯の石垣島ではすぐ腐植が失われる。これをどのように補うかが、見つからないとすれば、石垣島の有機農業は実現できないと思う。一つは冬季湛水をして、藻や浮草を増殖して、それを緑肥として田んぼに戻してゆく方法がある。シーラ原田んぼで挑戦してみたい。

 もう一つの方法はたい肥小屋を作りしっかりと堆肥を作り田んぼ畑に入れてゆくことだろう。堆肥の材料は沢山ある訳だから、問題はその労力が賄えるかである。道路からすぐ生ごみを落とせるようにして、ホテルからの生ごみを回収する事業をやれないかと思っている。

 亜熱帯での有機農業の循環をしっかりと見つけることが、楽観園立ち上げの課題だろう。水牛の糞を集めることも考えられるが、100坪の1単位に1頭の水牛の糞で足りるものだろうか。良い牧草地を作り上げることと、良い田んぼ畑を3年間で完成した。

 1年目はまず、作物を作るというより、農園基盤整備をしてゆくことになるだろう。この時には水牛耕が大いに役立つはずだ。2年目には放牧地と田んぼ畑を区切り実験的に作物を作ってみる。3年目には防風林も出来上がり、各単位での耕作を始める。

 4年目以降に楽観園が形を整えて、航海に乗り出してゆく。かなり長期的な計画になるが、5年間は身体が動けるという前提でこの冒険に挑む。何か三浦雄一郎さんのエベレスト登山への挑戦のような気分である。多くの人のサポートがなければ実現が出来ないことだ。

 シーラ原田んぼを始めたことで、多くの人のつながりを得ることができた。ここからの大冒険にのりだす、仲間がいる。まだまだ、仲間を募集しなければならないので、一緒に冒険をしてみたいという人がいたら、是非コメント欄から問い合わせてください。


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石垣島で原野を田んぼにする冒険談1

2021-11-19 04:29:44 | 楽観農園


 ただの杉の植林された場所に田んぼを作った経験がある。山北の高松山の中腹である。自給自足を目指して、開墾を始めた場所は北向きの傾斜地で、条件は相当に悪い場所だったのだが、一部だけ南に開けていて、相模湾が見える場所だった。その一番良い場所に田んぼを作った。

 表土というか上部60㎝から70㎝に富士山の宝永噴火の火山礫が降り積もっている土地である。その1センチ角ほどの火山礫をを取り除くと、関東ロウム層が出てくる。田んぼだから水平にしなければならないのだが、一部岩盤が出てきて、ツルハシでたたき割って取り除いた。これは大変だった。

 毎日堅い岩石を打ち続けたら、身体がだんだんおかしくなった。それでもやり続けた。なんとしてもやり遂げるという決意だけだった。すべてを肉体と道具だけでやるというルールの下での自給自足への挑戦だった。それでも田んぼは出来た。自給自足は5年で達成できた。そして大きな安心を得た。

 その時に少し「楽観」という考え方を得た。楽観しなければ出来ないが、楽観があるからどれほどの困難にも立ち向かえた。出来ないだろうと諦めるのでは無く、何とかなると言うことを明らかにする。これが生をあきらめると言うことだと思った。私の楽観である。

 絵を描くことに行き詰まって始まった自給自足だったが、この自給自足の体験から、楽しく自分の絵を描いて行こうという気になれた。絵描きの競走を降りることが出来た。それ以来個展もやらないで来ることが出来た。最後に文藝春秋画廊で生前葬作品展をやり終わりにした。それから私絵画を描き続けようと決めた。

 その自給体験の原点をもう一度石垣島で試みたいと思っている。石垣島で田んぼを切り開いてみたい。何も無い斜面に田んぼを作る作業をしたい。場所は確保した。一緒にやってみたいという人がいたら、受け入れるので共同作業しましょう。この石垣島での最後の冒険の仲間に成りたい人を受け入れます。

 すでに同志は、干川さん、福仲さん、渡部さん、渡邊さん、床田さん、栗林さん、大倉さん、そして、笹村。以上の七人が名乗りを上げている。あと三人くらいは同志が必要。この冒険には5年間はかかるだろう。今回は肉体だけの挑戦では無く、重機を使う挑戦になる。

 日本人は1万年イネ作りを続けてきた。中国の長江中流域にジャポニカ種の野生のイネの起源がある。そこから来たイネの種子と栽培技術は台湾を経由して石垣島を通り、九州に伝わったと思われる流れもある。また朝鮮半島経由した高い技術を伴う、水田稲作の文化が伝わる。たぶん様々な道をたどり日本全土に広がったと考えるのが理にかなっている。

 弥生時代中期には東北地方まで稲作が広がり、静岡の登呂遺跡は7万㎡もある大きな水田である。たぶん石垣島には台湾経由で稲作が来た道と、九州から逆流するように、高度の水田技術が伝わった2つの道があると考えるのが自然では無いだろうか。

 石垣島には古い水田跡がある。何千年も前から、水田が作られていたはずだ。それを今の時代に何も無いところに試してみたいと思っている。この興味にはあがらえない魔力がある。まだ身体が何とか動ける間に、水田を作る最後の試みに挑戦したい。

 30台後半に挑戦した何も無い場所でやった自給自足の挑戦を、72歳の人間がもう一度最後の田んぼ造りの挑戦をしてみたいと考えている。この35年間のイネ作り技術の蓄積を凝縮した田んぼを作ってみたい。田んぼと畑が混合された形式である。田んぼの畦がとても広くて畑になる。そして日本一美しい田んぼである。

 後水尾上皇が修学院離宮を造営したのは、稲作を中心にした日本文化の美しい凝縮である。文を持って統治する思想。今回の石垣島での、楽園の農園作りは、私の考える日本文化の凝縮を自給農業の体験施設として、画家として、人間として、美しく表現してたいと言うことである。

 段々畑になっている。一番上にはため池がある。ため池に溜められた水は各段の田んぼ畑を経過して、一番下の田んぼから排水されることになる。各田んぼの畦は防風林を兼ねたものになる。石垣島の田んぼは風が強いから、広い畦に防風になる作物を植える。

 一つの大きさは100坪である。それが六つぐらいの段々畑になる。初めは上の1段目だけかもしれない。だんだんに下へ下へと田んぼ畑が繋がって行く。そして六段が完成したら、自給の田んぼ体験者を募集する。農園を一緒に作った人が、六つの田んぼ畑を先ずは耕作しているのだろう。

 耕作は「小さな田んぼのイネ作り」に石垣島の伝統農業である、水牛農業を加える。6人の了解が得られるのであれば、どのような農法でやるのもかまわないのだが、約束としてはJAS有機農業基準は守ると言うことである。

 一番上の田んぼではすべての田んぼの苗を作る。シーラ原田んぼの苗もここで作る。六つの田んぼ畑はそれぞれ一人の人が担当をする。耕作は基本的に、各田んぼの担当者がそれぞれの責任で行う。私も一つ担当する。田んぼは毎年変わる。抽選が良いのだろう。抜ける人がいたら、新しい人を募集する。

 5人になれば、一番下の田んぼは使わない。2人で一つをやりたいとか、保育園のグループで一つをやるというのもいいだろう。崎枝小中学校の学校田に利用して貰うのも良い。申し出てみたい。

 ここでの収穫物はぜんぶを集めて全員で分ける。六つの田んぼの水は共同しなければぜんぶには回らない。全員で工夫をして、協力して、イネ作りをする。一番学ばなければならないことは、「人は、他の人のために頑張るときに力が出る」と言うことである。

 景観も考えるとハイビスカスの防風林が良いのではないかと現在は考えている。ハイビスカスはは赤から黄色、白までの変化があるから、赤の田んぼ、ピンクの田んぼ、白の田んぼ、黄色の田んぼと六つの田んぼが色が違うのも美しいのではないか。

 その内側の広い畦が畑になっていて、大豆が作られているのが良いと思っている。出来れば、一期のお米が終わったあとは麦作りをしたいが、石垣島での麦は経験が無いので、7月に種をまけるような麦があるか、調べてみたい。

 大豆とお米と麦、これが自給の基本作物である。お米と麦を2期作して、回りで大豆を作る。これが自給生活の基本形である。昔は大家族だから、1反の田んぼでそれを実現した。現代では100坪で可能という最小の形を試みたい。

 「小さな田んぼのイネ作り」に書いた自給の田んぼを、石垣島でもう一度何も無いところから作ってみたいと考えている。是非一緒にやってみたいという人がいれば、応募して下さい。このブログのコメント欄に書き込んで下さい。

 1・2・3と続きます。
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堆肥の作り方

2021-11-18 04:17:11 | 「ちいさな田んぼのイネづくり」


 子供の頃12月になると落ち葉堆肥を積んだ。堆肥は日本の伝統農業を支えた基本となるものである。江戸時代糞尿が商品になったのは、落ち葉や草と混ぜて、堆肥を作り畑に入れたからである。糞尿も高温で発酵させることで、病原菌や虫は死滅したのだ。

 冬が近づくと、向昌院のすぐ上の金比羅山の落ち葉を斜面全体を掃き下ろしてくる。半日くらいかけて、子供をふくめて一家総動員で横並びになり、掃き降ろしたのだが。その落ち葉の山は木小屋野屋根と同じくらいの高さがあった。一辺が10メートルもある巨大な山になった。

 そのお寺のすぐ上の山はお寺の薪を準備するための山で、クヌギ林を順番に20年ぐらいのサイクルで必要な面積だけ、切ることになっている。クヌギは切れば脇から芽が出てきて、またもとのように育つ。かなり上の方まで林はあった。明るいくぬぎ山だった。子供の頃の話だから、面積はよく分からないが、毎年1反を薪にしたとすれば、20年だと2町歩ぐらいの面積ぐらいになる。

 その2町歩の落ち葉を斜面に沿って下に履き下ろしてくる。最後の当たりはもう子供ではとうてい無理なすさまじい量の落ち葉の量を掃き下ろしていた。そして山のとっつきの畑全体が落ち葉のやまになる。その落ち葉には積み込みながら、下肥をかける。

 下肥は外便所に2つのマスがあり、熟成した2番目の下肥の方をくみ取り、肥桶で担いで、堆肥の山まで運んだ。肩に担ぐときに下手にゆらすものだから、その熟成した下肥がぴちゃんと顔にまでかかり、おつりが来たと大騒ぎだった。何度も行ったり来たりした。熟成のマスは1メートル四方ぐらいあった。それをぜんぶくみ出す。

 落ち葉に混ぜなら山を積み直す。するとすぐに翌日には熱が出る。子供は汚いとも思わずその山に登って怒られたものだ。それだけ作った大きな山の堆肥も何度も一段下に場所を変えながら積み直して春になる。春には石垣の下にまで移動していて、あれっというほど小さくなっている。

 これがその先に続いている野菜畑に入れられることになる。向昌院の当たりの土は石が多くて、作りにくい畑だったのだが、最近見たときには驚くほどよくなっていた。長年のおじいさんやおじさんの努力が、土になっているんだと思った。今はいとこが住職なのだが、田んぼや畑には熱心で、子供の頃のままである。

 ユンボやトラックターがお寺の車庫にはあって、なんと田んぼの会をやっているというので驚いてしまった。思い出せばそのいとこは子供の頃から生き物や植物がやたら好きだった。そして今は蜂蜜ではそれなりの仕事をしているらしい。

 血は争えないと言うよりも、何しろ向昌院の環境が自給自足的生活のお寺なのだ。私もそこで育ったから、今も農業をしていると気が休まるのだろう。いとこも同じなのではないかと思う。おじいさん、おじさん、そしていとこ。まだ未来に続くのだろうか。

 堆肥のことであった。シーラ原田んぼで90㎝立方の堆肥マスを2つ作った。そして、落ち葉と稲わらと米ぬかを混ぜながら、積み上げ、踏み込んだ。そして、翌日に上部の温度を測ってみたら40度あった。たちまちに温度が上がった。

 1週間もすれば全体のかさが減ることだろう。そのうち、左右のどちらかに積み直す。一つに入ってしまうはずだ。何しろ堆肥にして発酵を続けると、落ち葉は燃やすよりさらに量が減ると言われている。発酵の力には驚くべき物がある。堆肥として使えるのは、ほど程の発酵段階の落ち葉だ。

 だから山の木々は何万年という年月、森の循環が続いている。この落ち葉堆肥を田んぼに入れて、田んぼの土をよくしてゆきたい。消耗の激しい亜熱帯の土壌であっても、消耗に負けないだけ堆肥を入れて行けば良くなるに違いない。落ち葉は亜熱帯の森の方が通年生産されているはずだ。山の中で落ち葉の溜まるところを見付けることだ。

 山北で養鶏をやっている頃はそうした山で出来た腐葉土を、大量に鶏小屋に入れていやっていた。鶏がその腐葉土に鶏糞を混ぜてくれて、攪拌してくれる。これを田んぼに入れていた。それで田んぼの土がたちまちに良くなったのだ。

 シーラ原田んぼの堆肥置き場には、各家庭から出る生ゴミを入れたいと思っている。生ゴミの水を切って田んぼまで持ってきて貰う。これを堆肥に加えて行く。攪拌さえすれば、より効果の高い堆肥に代わってゆく。家庭から出る生ゴミは堆肥材料としては最高のものになる。それは人間が食べるものと同じ成分だからだ。

 小田原では20年前ぐらいからダンボールコンポストに取り組んだ。このダンボールコンポストで出来た生ゴミが安全に畑で使えるかの実証実験をした。小松菜を植えて、色々の肥料と競べてみた。生ゴミから出来た堆肥はとてもバランス良く健全に育った。発芽実験でもとても成績が良かった。

 課程から出る生ゴミ堆肥は鶏糞と同じくらいの窒素分があり、肥料としての効果の高い良いものだった。堆肥は発酵が進みすぎると肥料効果は減少してゆく。使う頃合いがある。ダンボールコンポストを良く発酵させるコツは、熱を40度以上に維持することだ。下がってきたら、米ぬかを加えてかき回す。それでもダメなときは天ぷら油の廃油を加える。

 田んぼや畑の堆肥も同じで、温度が下がったら、米ぬかを加えて攪拌してやる。水と空気と米ぬかという養分を攪拌することでまんべんなく混合する。これを繰り返して、植物のセルロース分を分解させ、畑に使う丁度良い腐食にすることが出来る。

 温度は60度位まで上がり、また下がってきたら攪拌という課程を繰り返してゆく。納豆菌が増殖すると温度が60度超えで相当高くなる。落ち葉や草に混ぜてやるものは、鶏糞でも、牛糞でも、下肥でも、米ぬかでも、家庭の生ゴミでも可能である。熱が出ると水分が蒸散してしまうので、適度に水も加えてやる必要がある。

 何度も切り返してやれば堆肥の熟成は早まり、早く使える堆肥になる。来年の春田んぼに入れられるように、頑張って堆肥を作ろうと思う。腐葉土や牛すんの野積みの風化したような肥料も見付けて、田んぼに入れたいと思う。

 今年の目標はイネ作りよりも、田んぼの腐植を増やし、土壌を有機農業が出来るものにすることだ。まだまだ時間がかかるかもしれないが、5年間の長丁場を見据えて頑張るつもりだ。石垣島の田んぼの活動は最後の仕事のつもりだ。


 
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シーラ原田んぼの冬期湛水

2021-11-17 04:38:18 | 「ちいさな田んぼのイネづくり」


 シーラ原田んぼは稲刈りが終わり、すぐ耕して3日間乾かしてから水を入れた。すぐ水を入れれば良いと思ったのだが、一度乾かしてから水を入れた方が良いというのが、石垣島で田んぼをやられて来た方の意見だった。本当だろうかと思いながら、助言に従いやってみた。

 一度乾かした土が水につかるとかえって簡単にとろけると言うことだった。乾かす3日間よりも、まだ湿気ている土にそのまま水を入れた3日間の方がむしろ土は軟らかくなると思えた。乾くと日干しレンガのように堅くなるのだから、むしろ軟らかい間に水を入れた方が良いと思うのだが。石垣島の土壌はそういう物だという地元の方の意見に従った。

 3日間程度では乾かしたことにも成らなかったのだが、その上にその間に雨がふった。19日には小田原にゆく。22日以降は農業用水は止めるという連絡が、ダム事務所から来たそうだ。そうであれば14日に1度目の代掻きをするほかない。そして、もう一度17日今日2回目の代掻きをする。

 7日に稲刈りが終わり、すぐ鋤で耕して、10日の夜には水を入れざる得なかった。翌朝には水がほぼ溜まっていた。荒起こしをして、12時間でまた湛水できる田んぼなのだ。畦の直しもまったくしていない。一年耕作して、畦直しがいらない田んぼというのはすごい。縦浸透もほとんど無い田んぼ。小田原とは土壌がまるで違う。

 一番驚いたのは風で土壌が寄せられて、イネを押し倒すのだ。強く風が吹くから、畦際には防風林が必要ではないかと思う。今度作る田んぼは畦を1メートルは取り、畦にブーゲンビリアを植えるつもりだ。ブーゲンビリア園を作られている、山本さんと相談してみたい。

 石垣島の土壌は還元化が進む可能性がある。つまりメタン発酵をしやすい田んぼである。有機質を入れない科学肥料を使う農法であれば、メタン発酵する腐食は少ない。しかし有機農業を目指して堆肥を入れたり、緑肥を育てた農法では縦浸透の無い石垣の田んぼではメタン発酵が起こりやすいことになる。

 どう克服してゆけば良いのだろうか、今後の観察課題である。水管理を初期から間断灌水にするとか、流し水管理にする必要があるのかもしれない。来期は腐敗防止のためコロガシをする必要があるのかもしれない。今年田んぼの奥の法がおかしくなったのは、堆肥などが風に奥に吹き寄せられ腐敗がおきた可能性がある。

 14日には水牛わかばのコロバシャ代掻きである。最近わかばを働かせていないので、大丈夫なのか心配だったが、若葉は元気よくコロバシャ代掻きをしてくれた。ただ、代掻きはしてもしなくても、水はすでに溜まっているほど水漏れの少ない土壌。

 2階代掻きを行いさらに縦浸透を無くすということになる。畦からの水漏れももう一回点検整備である。水が漏れない、縦浸透が無いという状態であれば、一週間に一度雨があれば、水は切れないことになるだろう。

 今日コロバシャ代掻きを行う予定である。丁寧な代掻きをすると、雨だけで水が保たれる可能性が高まる。雨が降らないで水が干上がることがあれば、脇の川から水をポンプで汲み上げることにする。昔のように山の方から雨が入りやすいような構造も考えたいと思っている。これは小田原に行く前には無理なのかと思う。

 水を溜めたならば、出来ればアカウキクサを見付けて入れたいと考えている。アカウキクサがもし見つかれば在来の希少な浮き草である。これを増殖することは絶滅危惧種であるのだから、必要なことではないかと思っている。アゾラの一種であるために、在来のアゾラはすでに純粋なモノは失われているのかもしれない。

 それならそれで、何か冬でも育つ水草を探したい。冬期湛水にして、水草が増えて緑肥になればと考えている。石垣の冬の気温であれば、水を湛水しておけば水温も上がり、水草は増殖するのではないかと見ている。代掻きが終わったならば、18日までに田んぼに入れる水草を探さなければならない。

 冬期湛水で土壌が良くなるためには水草による腐食の増加が必要なはずだ。宮城県大崎市の蕪栗沼周辺のラムサール条約にふくまれている、水田では天然記念物で あるマガンやハクチョウなどの水鳥のねぐらを創出するために冬期湛水を行っている 。

 冬期湛水による一番の水田の改善はとろとろ層の形成が進むことだろう。年間を通して切れ目の無い湛水によって、土壌微生物の活動が活発化して、田んぼ土壌にとろとろ層が形成されることになる。石垣の土壌は独特のモノで、細かな土なのだが、風によって吹く寄せられイネを埋め込んでしまうようなトロトロ層とはかなり違うものだ。

 農薬不使用や冬期湛水を行うことで、石垣島であれば、特別天然記念物のカンムリワシのエサとなる動物が増加するはずだ。カエルが増加することになるだろう。シーラ原田んぼには守り神のように、いつも来ているカンムリワシがいる。餌場にしているに違いない。

 イトミミズ類 、底生動物,昆 虫類,両生類の増加が連鎖的に行われることになる。無農薬で田んぼを行うとどこでも起こることだが、これが冬期湛水になれば、年間を通して生き物が増加して、エサが豊富になる。水鳥だけで無く、陸鳥の餌場になっている茨城県の事例もある。

 以下冬期湛水の事例をまとめておく。

 海外の事例としては、スペイン北東部の 地中海に突き出ているエブロデルタはラムサール 条約湿地であり、その野鳥特別保護区周辺では、EU の共通農業政策による助成金の効果もあり,水鳥の生息環境を向上させるために冬期湛水が広い範囲で実施されている 。

 カリフオルニ ア州では 1991年より水田でのわら焼きが禁止され, その代替わら処理法としてわらを分解するために湛水す る事が奨励されて、冬期湛水が実施されている。

 日本でも 2011年度から環境保全型農業直 接支援対策の要件として冬期湛水管理が採択されている。これは石垣島でも是非行政は検討すべき事では無いだろうか。 2013 年度以降は冬期湛水管理は地域特認取組になり、減 農薬、減化学肥料栽培を実施することが必要条件になっている。実施面積は全国7079haに達して いる。 

 冬期湛水は,冬期から春期に乾燥する地域では土壌有機物が風により減耗してしまうことを抑制し,土壌肥沃度の維持に有効になる。生物多様性の向上や水質浄化といった水田の環境面への効果のほか、雑草抑制などの営農面への効果も明らかになっている。 

 また地下水を環境することも報告がある。地下水位計測の結果、実施田の地下水位の上昇はもちろんのこと、慣行田 での地下水位 の上昇も確認された。このことから、冬期湛水によってもたらされる地下水の涵養効果は 冬期湛水実施田だけでなく、その周囲の地域にまで地下水位の上昇が起きている。

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田んぼは平和な社会を作るため

2021-11-16 04:39:55 | 「ちいさな田んぼのイネづくり」
 


 「上野長一といろいろ米のものがたり」という本を読ませて貰った。栃木で自然農をやられてきた方の物語である。著者は水谷正一という宇都宮大学の農学部の教授だった方だ。同じ農学部だから叔父とも接点があったのかもしれない。この本の中に「田んぼをやることは平和な社会を作るためだ。」こういう言葉が書かれていた。胸に迫るモノがあった。

 感銘を受けた。その通りのことだ。長年田んぼの活動をしてきたことの意味を再確認した。あしがら農の会をやってきたことはまさに平和な暮らしのための、食糧自給活動である。石垣島で農の会を始めたことも平和な暮らしのためである。平和な暮らしを田んぼから学ぼうと言うことである。

 生きている限り続けなければならないと励ましを受けた。石垣島農の会はまだ始めたばかりである。これから形を作り立ち上げてゆかなければならない。干川さんはあと3年はやれると言われている。それなら私は2つ年下なのだからあと5年はやれる。その間に、なんとしても形を作り上げて、次の人達に渡せるところまで進めたい。

 平和のための農業は、土壌を育てる循環する農業である。収奪的な近代農業では無い。未来に続く東洋4000年の循環農業である。人間の暮らしが自然を大きく改編すること無く、継続されてゆくイネ作り。食糧を作るという行為は他の産業とは、成り立ちが異なるものなのだ。

 縄文後期から日本が比較的平和な国として歩んで来れたのはイネ作りが日本の基幹産業だったからだ。イネ作りは人と人の共同作業が必要になる。水を通して、譲り合う経済が生まれる。イネ作りは平和に暮らして始めて可能になる産業なのだ。

 特に江戸時代の幕府と各藩そして庄屋制度、そして大家でもある地主と小作人。まさに封建制度で問題があるが、平和に暮らしていた時代だ。この時代から学ぶものはあるはずだ。小作人制度が深刻化したのは本当は明治時代だったのだ。富裕層による搾取するための、不在地主による小作が広がる。

 人間が生きる食料という基本を自分の手で支えるという自給の思想は、人間がどのように生きるべきかの根本を学ぶことが出来るものだ。生きるためである以上、未来に繋がっていなくては成らない。イネ作りが、田んぼが、自分一代のものではなくなる。

 自分の食べるものを作りながら、未来社会に繋がる生産方法をとらなくては成らない。そうしなければ自分の孫子の時代には、農地や環境が疲弊してしまうからである。この原点を自らの手でつかみ取るための自給活動である。あしがら平野で展開した農の会が、今度は石垣島で平和の活動として、自給活動を展開したい。

 同じ農業でもプランテーション農業はまさに収奪農業である。儲かりさえすれば、土地を荒らしてしまうとしてもかなわないという農業だ。化学肥料や農薬を大量に使い、当面利益が一番であるやり方がプランテーション農業の目標となる。それが植民地から始まったのは、よく分かることだ。土地がおかしくなれば、おかしくない土地に場所を変えれば良いことになる。

 まさに帝国主義の植民地農業はそうして農地を荒らして、植民地国家の食料生産までだめにしていったのだ。綿花を強制的に作らせて、食料生産が出来ない農業にしてしまう。農民が農業に働きながら食べるものさえ不足するというおかしな農業である。

 日本の伝統農業は農地をよくすることがむしろ目的と言えるほど、農耕地を大切にし、未来の家族が暮らして行ける農業であった。それは日本の農業が平和のための農業だったからだろう。自分の子孫が平和に暮らすために、農地の永続性を重要視した。農地を荒らすことはご先祖様に申し訳の立たないことだった。

 伝統農業は平和な国作りをささえる基盤であった。ところが、明治政府の富国強兵政策のもとでは、農業も他の工業のような産業と同じように、効率と利益が優先されるものに変えられていった。江戸時代の農民搾取が盛んに言われるが、問題は明治時代の富国強兵に潰された、農民の暮らしなのだ。

 化学肥料と農薬が利益を上げる重要なものとなった。それは科学の発展がもたらした20世紀の恩恵ではあったのだが、同時に農地の永続性を危うくさせるものでもあった。沈黙の春である。永続性の無い、平和では無い農業の姿である。

 近代農業が地力を衰えさせることになり、病害虫も増加した。利益目的の農業では永続性に問題が出てきたのだ。腐植が失われることが土壌の永続性を損なったのだ。こうなると農業も平和な暮らしのためのものではなくなってくる。収入を得ることが目的の仕事に変わってしまった。

 人間が人間らしく暮らすための営みだった農業が、人間の良い暮らしを作り上げるための仕事では無くなってしまった。そのためにイネ作りは平和を作る仕事だと言われても、どう繋がっているのかが見えなくなってしまったのだろう。

 自給農業を行うと言うことは平和な暮らしとはどんなものなのか。平和な人間とはどんな人のことなのか。そういうことを自学する場なのだと思う。人を押しのける人間では無く、支え合う人間人間になるための場なのだろう。イネ作りをすれば共同する意味を身体が教えてくれると思う。

 田んぼをで成長できない人もいる。自給のための田んぼに参加しているというにもかかわらず、まるで企業での利益競争のように、自分が自分がというような調和の無い人がいる。いかに他の人を支配するかばかり考えている人もいる。それは平和のための農業という自覚が無いからなのだ。自給農業はあくまで平和のための農業である事を忘れては成らない。

 社会が人間をゆがめてしまっていることが分かる。田んぼの自給活動ですらみんなのためにできない人がいるのだ。それでも多くの人はこの自給のための田んぼはどうも、効率重視の近代農業と違うらしいと学ぶことになる人が多い。みんなのために働くと言うことが喜びになるように変わってゆく人の方が多い。

 もちろん変われないで止めてゆく人もいる。一人はみんなのために、みんなは一人のために。農業に興味を持つ人の多くは、今の社会に幻滅をしていることが多い。競争主義社会の疲弊。能力主義社会の耐えがたい圧迫。これを逃れて、別の道から越えてゆこうというのが、自給のためのイネ作り活動なのだと思う。

 命を繋ぐ自給のイネ作り。身体が動く間はなんとしても継続したい。これが命の続く間はやるべき事のようだ。私の絵が田んぼの活動から生まれるものになることを願っている。平和のための楽観の絵である。田んぼの自給活動をめざす人になら伝わる絵である。

 田んぼをやることが平和な社会を作るためであるように、絵を描くことは平和な社会を作るためのものである。私の絵に楽観が宿り、見る人が描かれた絵で楽観を確認できるようなものになることが目標である。それは到達できないことかもしれないが、平和な社会の楽観の表現を目指している絵だという姿勢を継続したい。


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