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マチスの見るということ

2023-06-30 05:18:33 | 水彩画

  石垣は夏が始まっている。沖縄本島よりも1週間以上早く梅雨は明けていた。夏が来ると色彩が強くなる。影がなくなる。太陽が真上に来るので、昼間は見ている風景にに影が出来ない。異様な景色に最初は思えた。何が違うのか分からなかったが、影がない風景は不思議なものだった。

 マチスがモロッコで影のない風景に出会い、マチスの絵画が始まる。と私は考えている。マチスが生まれた町は北のくらいモノトーンのフランスである。1912年と1913年にはモロッコ・タンジェに滞在し、絵を描きながら画風を変化させていった。 陰がないと言うよりも、陰を青や黒の色面に置き換えたと言うことかもしれない。



 強い光が物を単純化している。墨のような黒い線で描かれる。そして黒の色面が明確な画面を作り出す。マチスにはいつもあいまいさはない。タンジェの風景から、マチスの絵が導き出された。マチスはモロッコの風景からアフリカの造形を展開する。アフリカの造形から、マチスの形が導き出される。

 マチスは画面をなじませると言うことが無い。調和を求めていない。ここが日本の絵画と大きく異なる。マチスの求めているのは整合性である。自然の中に合理性のあるつじつまを探している。自然界に存在する筋道を画面の中に求めている。そのためにそれまでの絵画に存在したような、絵画的な調和の要素を求めない。

 その考え方を純化させる為に、色紙の作品の至る。筆が持てなくなって切り紙になったわけではない。マチスの優れたところは、その絵画的とは言えないような、ぶっきらぼうな色面の絵画の中に、マチスを存在させることは出来ないかと探求する。もランディーのような色面は実は情緒的で、調和である。

 見ている実際の世界をマチスの見方で、再現しようとする。色面の単純な組合わせの中にマチスの見ている世界を表そうとしている。それは味気ないものなのだが、マチスは味わいのない色面に世界を、集約させようとする。マチスの絵はあくまで見ていることが根底にある。

 色面の組み合わせだけでもマチスの見るが表現できるという考えなのだ。マチスはこの点科学者であり、画家とは到底思えないような色彩と形の組み合わせによる、論理性だけで作品を作り出す。その結果誰にでもほぼマチスという作品が再現できるような絵になる。



 マチスは見ることを通して、誰にでも可能な絵画方法を見付けようとしたのかも知れない。英国のテートギャラリーで子供達がマチスの絵をワークショップで再現していた。最晩年の作品の「えすかるご」を前にして、子供達が芸術的体験をしていた。大きな色紙を切り抜きながら、作品を床の上に作り上げて行く。

 これは素晴らしいワークショップだった。今でも行われているのだろうか。一つの色が置かれるたびに、一つの絵が現れる。マチスは絵を制作する喜びまで画面に残そうとしている。出来上がるまでの各段階が、一つの絵画になっているのだ。それはワークショップによってよく分かった。

 マチスの「エスカルゴ」は作られた手順が分かるように色紙が張られている。この「えすかるご」と言う作品を描くために、カタツムリのスケッチをしている。色々試行錯誤して、この単純に至るわけだ。誰にでも再現できる絵画。やはりマチスは絵画の結論と言うほか無い。

 マチスは不器用な画家である。並んで評価されるピカソと好対照である。私は器用なピカソには興味が無い。マチスは見ると言うことを絵画上で科学的に考える学者のような人だ。そのマチスの冷静な物の見方が興味深い。その導き出した論理的な思考が、後の絵画を変えたともいえる。

 それまでの情感を根底に置くような絵画から、絵画を人間性から切り離してゆくように見える。この方向は新しい絵画の始まりなのかと見えていたが、実はそれが絵画の終わりだったと今は思っている。絵画という形で、社会に対して表現するということが終わった。情感を消してマチスは結論に至った。

 絵画が個人の行為としての意味に変わった。マチスが分解しつくしていたことは絵画芸術というより、色彩論的なもので、個人の感性とは違う客観性を持った画面を成立させようというものだと思う。一面デザインのような構成の中に、芸術としての表現を成立させようとしている。

 そのマチスの求めたものがその後の20世紀の絵画に決定的な影響を残したと思う。今都美術館ではマチス展が開かれている。相変わらずすごい人だ。今回の作品でマチスの全体だと考えると、間違うだろう。作品の選択があまりに雑多で方向性がない。マチスのむしろマチスではないところが目立つ。

 マチスの意味を理解していない人が、網羅的に構成した展覧会なのだろう。例えば何を考えて、マチスの絵画と彫刻を並列したのだろうか。マチスの彫刻はマチスの一面を表してはいるが、また意味が違う、マチスはマイヨールと仲が良く、かたどりを手伝うほどだったという。

 「マイヨールももう少し彫刻が良ければ、」と語ったといわれている。マチスはそれほどの自信家だったのだが、マイヨールの彫刻のほうがはるかに素晴らしい。マチスのなんでもそぎ落とし、本質だけ残そうとする精神が、実は芸術としての肝心なことに、鈍感なところがあるのかもしれない。

 マイヨールの豊かさがマチスには理解できなかったのだろう。マチスは20世紀の人間性の失われてゆく時代を、見ていたのかもしれない。晩年に礼拝堂の装飾を行った。そのことをピカソは今更宗教か。と怒ったという。マチスの絵はある意味さみしい絵である。

 マチスの見ていた風景を、もう一度私絵画として見直してみることから、芸術としての絵画を、考える必要があるのだろう。絵画を個人的なものにする。自分の問題にする。そのことを進めてゆきたい。
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アメリカと中国の外交交渉

2023-06-29 04:39:44 | Peace Cafe


 ブリンケン米国務長官と中国の習近平国家主席は19日、北京の人民大会堂で会談した。習氏は協議の「進展」を歓迎した。会談は約30分間行われた。当初は習主席との会談はないと言われていたが、短い時間だが顔を合せる事ができたことは良かった。一歩前進である。

 アメリカではブリンケンがへりくだった形で、習近平と会談をした事に批判が出たという。確かに、中国の主席とアメリカの国務長官がどのような形で対面するかは、双方にとって難しいことなのだろう。習近平としてはアメリカがお願いに来ているという感じが重要と言うことだろう。

 アベ氏は習近平に苦虫を潰したような顔で、相手にせずとあしらわれたことがあった。中国というのはそういう国なのだ。国民にわかるように露骨に表現することが重要なのだ。長い複雑な歴史がそうした権力の姿を作り出したのだろう。いつも習近平の後ろにある絵を見て思うのだが、巨大な絵が中国のどこか幼稚な、こけ脅かし政権を表しているような気がしてならない。

 会談の形はともかく、アメリカは中国に国務長官が出向き、習近平氏と会談を行った。すばらしい急激な変化だ。話し合いを行うことが外交で一番重要なことだ。日本も見習う必要がある。岸田内閣の中国に対する外交方針というものは、そもそも無いのではないか。

 昨年11月APECの際に中首脳会談が行われた。その時の内容が外務省にあるが、
  1. 建設的かつ安定的な日中関係」の構築という共通の方向性を双方の努力で加速していくことが重要である旨述べました。習主席からは、日中関係には幅広い共通利益や協力の可能性がある、日中関係の重要性は変わらない、岸田総理と共に新しい時代の要求に相応しい日中関係の構築していきたい旨述べました。
  2. 岸田総理大臣から、尖閣諸島を巡る情勢を含む東シナ海情勢や、本年8月の中国による EEZ を含む我が国近海への弾道ミサイル発射等日本周辺における中国による軍事的活動について深刻な懸念を表明しました。同時に、日中防衛当局間の海空連絡メカニズムの下でのホットラインの早期運用開始、日中安保対話等による意思疎通の強化で一致しました。また、岸田総理大臣から、台湾海峡の平和と安定の重要性を改めて強調し、中国における人権や邦人拘束事案等について我が方の立場に基づき改めて申し入れるとともに、日本産食品に対する輸入規制の早期撤廃を強く求めました。
 どんな本音が背景にあるのかが見えない。尖閣問題を外交交渉にのせようという姿勢がない。顔を合せて話し合うのだから、もう少し未来に問題の解決の可能性を感じるような展望を日本側から提案すべきだろう。アメリカの言いなりだけが目立つ。

 アメリカは50年前ニクソンが中国を訪問し、平和交渉を行った。そして、日本も巻き込み、台湾との外交関係を断絶させ、中国との国交回復に進んだ。佐藤政権にしてみれば、何の相談もなく、一方的なアメリカの外交方針の変更だった。沖縄返還前後の話である。ベトナム戦争の敗北後のアメリカの世界戦略の変化。

 当時も今も日本には外交という考え方がない。アベ氏など盛んに外国巡りをしていたのだが、あれば一体何だったのだろう。特にプーチンの親友になり、自宅にまで招いて、何一つ得るものが無く極東シベリア開発に協力だけさせられた。アベ氏の見せかけだけの木偶の坊がよく分かる。

 ロシアでは国内の分裂が出てきた。当然のことだろう。大義のない戦争を続けていれば、さまざまな動きが生まれる。これ以上悲惨な戦争をやっていてはならない。ロシアとウクライナも何とか首脳会議を開いて貰いたいものだ。話し合いをしなければ、何も解決は出来ない。戦争では解決を導き出すことはできない。

 日本も是非とも、中国との独自の外交を開始してもらいたい。土下座外交でも、屈辱外交でも良いから、日本から腰を低くお願いして話し合いをしてもらうことだ。つまらないプライドなどいらない。中国と関係をよくすることが、アジアの平和の為だ。沖縄のミサイル基地よりよほど有効になる。

 尖閣問題の解決がまず第一である。尖閣に問題があることを日本から認めて、解決を第三者機関に委ねる姿勢で話し合うことだ。領土など国民の命から見れば、軽いものだ。日本には何千もの無人島がある。無人の国境の島など、それほど重いものではない。

 韓国のユン大統領は、日本に対して、下げにくい頭を下げたではないか。その国を思う姿勢は立派である。日本もユン大統領の英断を支えて行かなければならない。韓国国内の反日運動はかなり深刻な動きで、与党の支持率も下がったと言われている。それでもユン大統領が方針を変えないのは立派だと思う。

 韓国との外交では、何度も決まったことがひっくり返されてきた。それでは外交交渉は出来ない。今度こそ過去を清算して、未来の平和の為に連携しなければならない。何度謝罪するのもかまわない。必要ならば、10回が20回になったところで、まったくかまわない。日本は韓国を植民地化して、日本語を押しつけた歴史があるのだ。
 
 誇り高い韓国人にしてみれば、耐えがたい屈辱だったはずだ。今の韓国は日本より進んだ面が沢山ある。日本は韓国に学んできた国だ。またこれからも韓国から学ぶような気持ちで、韓国と付き合うべきだろう。それが東アジアの平和の為には重要なことになる。

 米中首脳会談が早く実現することを願う。日本が間を取り持つぐらいの立場であってもらいたい。日本が敵基地先制攻撃ミサイル基地を持つなどと言うことより、平和外交に徹することの方が、よほど日本の安全保障に役立つだろう。アメリカの防人で居る必要ない。
 
 
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AIで人間は2分されてゆく

2023-06-28 04:53:44 | 身辺雑記


 良く出来なかった初めての田んぼ。様々な要因が考えられる。良い勉強になった。水が足りなかったのが一番の問題。田植えが1週間延びた。その間の苗の保管が悪かった。田植え後の強い風で苗が痛んだ。土壌が田んぼになっていなかった。
 
 AI がこの先人間の社会を急速に変えるて行くことは間違いがない。それは産業革命が人間の暮らしを変えたこと以上かも知れない。人間がこの変化をどう受け止めることが出来るのか。出来ない可能性もかなりあると思わざる得ないほどの変化が起こるだろう。

 絵を描くAIがイラストレーターや商品絵画の世界を一気に変えることだろう。たいていの絵はAIに任せることになるのは明らかなことだ。創造的な仕事と思われていた仕事でも、AIの方がましな物がいくらでもある。AIに影響されない物がないほどの変化が起こる。

 多くの仕事がAIに置き換えられてゆくことは間違いがない。しかし、AIを超えるような人間も必ず現れるだろう。天才というような人である。天才とAIが社会を作ってゆくことになる。天才はAIを超えた仕事をするひとのことになる。あるいはAIを使いこなす人が天才なのかも知れない。

 大多数の人間はAIと天才の想像の結果の恩恵に従い、それぞれの人生を生きることになるのだろう。みんなが天才をまねしたところが始まらない。どれほど将棋が好きでも、AIを凌駕するほどの能力はわずかな天才だけのことだ。だからと言って、将棋の面白さは以前とは様変わりといえるほど増している。

 私が将棋を覚えたころは将棋が強くなるためには定石を覚えて、詰め将棋を解いて将棋の考え方を身に着けるということが普通だった。それが完成すれば、3段ぐらいにはなれる。それからさらに強くなるために、勝負術のようなものが必要だったのかと思う。

 ところが、まず玉を固めるという定跡の基本が崩れた。居玉のままの定石が増えている。それは定石というより、広い視野で将棋を考えなければならなくなったということになる。定石という将棋の基本が、基本ではなくなったのだ。将棋はミスのゲームである。見落とした方が負けるのだ。

 見落としが少ないのが、AIである。見落としの多い定石ではない形が得意で、見落としで勝負が付いてしまうことが多い。十分に読み会う勝負はAIとは少ない。見落としがないように注意深い将棋に変わった。もちろんそれはプロでは当たり前の事なのだろう。

 将棋が変わっておもしろくなったように、人間の生き方もおもしろくなるはずだ。生きる事をおもしろいことにするためには、自分の行動重んじることだろう。何をするかである。どれほどAIが社会を変えるとしても、自分が行うと言うことはかわらない。

 自分と言う人間を知り、その思いを生涯をかけてやり尽くす。そのためにAIを役立てれば良い。この姿勢さえ間違わなければ、良いりおもしろい世界には入れるはずだ。AIは人間だけが行うことの出来る行為を、明確にして行くはずだ。

 人間の想像する喜びは、AIが造り出す世界にはない、深い創造の喜びが限りなくあるはずだ。AIは人間型と比較すると言うことを無くしてくれる。その人間が自ら判断し、行為すると言うことを、明瞭にして行くはずだ。何がその人間の行為であるか、あるいはものまねに過ぎないのかを突きつけるはずだ。

 禅の到達点は他者と比較したところで意味が無い。その人が自覚できるかどうかが問題なのだろう。次の時代には人間の行為の本質が純粋に問われることになるはずだ。AIでも出来るようなことを、人間がしていたのでは、人間の生き様としては無駄なことだと誰にでも分かるようになる。

  人間はAIによって分別されて行く。自らの生き方を見付けられる人間と、AIに支配されて行く人間。この分岐点は自分が何をしたいのかを自覚できるのかにかかっている。自分のやりたいこと、そのやりたいことを日々行い、生きがいと出来る者にならなければならない時代。

 自分が好きなこと。やりがいがある事。その重みが問われる時代。その重みを自覚できるのかどうか。ここが重要になる。何が好きでそのすきなことに充実できるのかどうか。何が人間にとって大切なのか。好きであるということと、生きる事の意味の合致。

 食糧を自給することの重要性を私は考えている。人間が生きるという原点だからだ。まず食糧自給の原点から始めると何が自分のやりがいかが見えてくる。例えば野球が好きだから野球をやっていたいと言うことも悪くはない。悪くはないが、そのことが本質にどれだけ近いかである。

 野球を観客もなく、収入とも関係が無く、野球をやっていればいいと言えるかである。それは絵を描くことでも同じである。それさえやっていれば満足であるならば、それでいいのだろう。経済で人間の本質がゆがめられて行くことが減って行く時代がくる。

 大多数の人間はAIにしたがうことを選択するのではないだろうか。自分の判断を必要としないことで、人間が劣化して行く。おもしろいことを自ら発見しないでも、AIがおもしろいことをいくらでも提示してくれる。そのうち自分が好きなことさえAIが指し示してくれることだろう。

 自分という者の自覚が重要になる。何が好きなのか。日々の行動を自ら決める事ができるのか。その日の充実度が生きる重さになる。それは何時の時代もそう問われてきたはずだが、AIの登場で、人間の生きる意味がより明瞭になると言うことだろう。

  好きなこと見付けなければ成らない。好きなことはやってみなければ分からない。絵さえ描いていれば満足と言うことは、中学生の頃には想像できなかった。それでも絵を描こうと決めた。決めて始めてみたら、今でも続けているほど好きだったのだ。

 続けていたから好きになったのか。その辺のことは分からないが、AIの登場で絵は変わるだろう。そういうときに遭遇したのはおもしろいと思っている。写真が現われて、絵が終わると思われたが、そうでもなかった。AIが絵を変える。私絵画の時代になると考えている。

 AIは人間を分断するかも知れない。人間力が問われているのだろう。AI出も可能な仕事をしていた人達が、泡を食っている。そうした人は要領の良い、商品製作を出来た人達だから、この先のことを考えて次の手を打つのだろう。AIデモできるような仕事しか発想できない人の場合、仕事が無くなると言うことになる。

 
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プラスチックごみは燃やすほか無い

2023-06-27 04:05:11 | 環境関連


 日本は、世界で最も多くのプラスチックごみを非OECD諸国に輸出している。リサイクルに出したはずのプラスチックごみが、他国の環境を汚染している。日本のプラスチックごみ850万トンのうち、材料として国内でリサイクルされるのはたった11.7%。

 プラステックゴミを分別してリサイクルしているという人が大多数だと思う。わがやでも熱心に分別がされている。そのプラステックがどうなっているのかはよく分からない。たぶん何らかの形でリサイクルされているのだろうと想像している。ところが世界はプラステックゴミで溢れている。

 
 2050年までに海の中に存在するプラスチックの重量が魚の重量を超えるかもしれないという話も聞いたことがあるだろう。たぶんそれはないと思う。その前にプラステックを出し続ける人間社会の方が終わっている。人間の体内も細胞の中まで、マイクロプラステックが入り込む。

 この海洋のプラステックゴミの内8割が街から来ている。日本の街は綺麗と思っていても、目を向け始めると街中にはたくさんのゴミが落ちている。街中に散らばるゴミは、ごみ収集の過程できちんと口が結ばれていないゴミ袋から溢れたり、カラスがゴミ袋をつつき破ることで散乱する。ふたのないゴミ箱やいっぱいになった自動販売機の脇にあるゴミ箱から風で飛ばされている。

 海洋に流れ着いたプラスチックは波に打たれ、紫外線にさらされ、少しずつ小さく砕けてゆく。そして5mm以下までの小さな破片に砕けたプラスチックがマイクロプラスチックと呼ばれるものになる。こうなったらもう始末に負えない。海から改修するなどほぼ不可能。
 
 プラスチックそのものにも、すでに難燃剤や紫外線吸収剤など人体に有害な添加剤や生殖機能に影響する内分泌かく乱作用をもつ化学物質が含まれている。そうした物が、細かくなり細胞内まで入り込むようになれば、ガンの多発や遺伝子の変化が起こるはずだ。

 プラスチックに付着した毒素が体内に侵入し、油を含む消化液に溶け出して脂肪などの組織に毒素が蓄積されます。そして蓄積された脂肪をエネルギーとして使うたびに毒素が体を巡り、繁殖や代謝、臓器(腎臓、肝臓)の働きが妨げられるようになる。

 マイクロプラステックを飲み込んだ小魚がより大きな魚に食べられることでマイクロプラスチックの濃度はどんどんと上がっていくことになる。世界のプラスチックの年間生産量は過去50年間で20倍にも拡大している。年間生産量は約3.8億トンで、これは全人類の体重に匹敵する重量になる。

 産業別の生産量では、容器、包装、袋などのパッケージが36%と最も多く、建設(16%)、繊維(14%)と続きます。特にペットボトルやレジ袋、食品トレーやストローなど一度利用されただけで捨てられてしまう「使い捨て用」に使われることの多いパッケージのプラスチック生産が、プラスチックごみの量の増加に大きく影響している。

 プラスチックごみ全体でみると、パッケージングがその約半分を占めている。日本は1人当たりのパッケージ用プラスチックごみの発生量が、アメリカに次いで世界で2番目に多い国です。 ゴミとして回収されたプラスチック類のうち容器包装の割合は全体の67.6%にものぼります。これは世界平均を20%も上回る数字です。  

 大きな塊から小さく砕けていくプラスチックの他に、歯磨き粉や洗顔料や化粧品全般などに使用されている初めから小さい5mm以下のビーズ状のプラスチック原料、マイクロビーズもマイクロプラスチックの中には含まれている。

 田んぼに播かれている肥料にも、マイクロプラステックは含まれている。一発肥料と言われる物は、小さなプラステックのカプセルの中に遅く効くように肥料が仕込まれている。プラステックが数ヶ月後に溶けて穴が空き、肥料が作物に効くように仕込まれている。 
 
  プラステックゴミは分別リサイクルという方向では始末が付かない。人間はダメな物だからだ。それならどうするかと言えば、ゴミとして燃やすほか無い。当面燃やすことも認めて、よりよい焼却炉で焼却する。そうしてプラステック類が、自然界に出て行くことを止めるほか無い。

 燃やすことは良いことではない。燃やせば二酸化炭素が出る。しかし実際の所、焼却炉に助燃剤という形で上手く混在して入れれば、炉内の温度を上げる効果がある。温度が上がれば、ダイオキシンは出ない。それも行けないというのであれば、火力発電所で燃料にすればよい。

 製紙工場などでは燃料として、プラステック類を集めて燃やしているところも実際にある。焼却炉を正しく管理すれば、焼却炉からダイオキシンが出て行くことは防げることだ。むしろ焼却灰の処理をさらに高温の、溶融炉に入れなければ成らないだろう。

 人間はどうしようもないところのある、不完全なだらしのない存在だ。プラステック類の分別など、完全にできる人は少数派だ。そうした人が増えることは有り難いことだが、できない人が多数派だ。海洋ゴミを見れば明らかなことだ。理想を求めるよりも現実的対応が必要なことになっている。

 先ずはそのへんにゴミが散乱しているのは窓から、コンビニで買った食べた後のゴミをポイ捨てしているのだ。昔はコンビニに行けばゴミが捨てられた。公共施設にはゴミ箱もあった。観光客などゴミの捨て場に困っている。困ればレンタカーの窓から投げ捨てるだけだ。
 
 そのゴミの大半は、プラステックゴミで海に流れて行く。それがどうしようもない現実である。いくら道徳に訴えたところでダメな物はダメだ。先ずはまたコンビニにはゴミ箱設置を義務化するところからだ。販売したのだから道義的責任はあるはずだ。岸田内閣の道徳のある資本主義だ。

 製造者には製造者責任で回収が義務づけられている。販売者にはゴミの回収を義務付ければいいわけだ。少なくとも石垣島の観光客ゴミを見れば、石垣島無いのファミマやスーパーにはゴミ箱の設置を義務化しなければならない。そのゴミは分別が大変だろう。焼却炉で燃やすほか無い。

 燃やしてもダイオキシンが出ていないことを、きちっと測定して、周辺住民と取り交わしたという協定書を書き換えてもらうほか無い。このままではゴミの島になってしまう。このままではマイクロプラステックの海になる。そんな海を見に来る人は居なくなるだろう。他人事ではないのだ。

 
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絵画はどこに向かうのか。

2023-06-26 04:17:36 | 水彩画

 梅原龍三郎


 中川一政


 小山敬三

小島善三郎


 小糸源太郎


 日本には洋画と呼ばれる絵画の分野があった。どこか明治時代の西欧への憧れから生まれた言葉だと感じてきた。洋画とは油彩画を中心とした分野なのだが、水彩画も一応ここに入る。洋画家というような言葉があるが、油彩画家というような言葉ない。まして水彩画家という言葉もないので、「水彩人」という言葉を考え出した。

 梅原龍三郎 小糸源太郎 小山敬三 中川一政 鈴木信太郎  児島善三郎  山口薫  須田刻太 松田正平 野見山暁治 の方々が私が評価し尊敬する10名の方々。洋画の代表的画家だ。岸田劉生とか、坂本繁二郎とか、岡鹿之助は違うと思っている。

 ここに名を挙げた10名の画家は日本独特の高い段階の絵画を作り出した人達だ。油彩画の人達であるが、東洋画の素養の元に、独自の日本絵画を展開したのだと思う。世界に誇ることの出来る、深い精神世界を持つ絵画である。ある意味日本の哲学絵画と言っても良いような人達だと思っている。

 その素晴らしい日本の絵画の時代は、この100年間で日本の洋画はすでに終わっている。昭和が日本の洋画の中心となる時代なのだろう。その後平成、令和は社会から藝術としての絵画が失われた時代だと考えている。草間彌生、奥谷博、絹谷幸二、の三人が洋画分野の文化勲章者なのだから、私が考える絵画とはもう関係が無い分野なのだろう。

 洋画という名前からして、不思議な分野である。日本の油彩画と呼ばれることもある。一方に日本画というものがある。国画と呼ぶこともある。この辺の感覚はよく分からない。装飾画という分野なのだろうか。日本画を芸術として見る事ができない。水墨画の富岡鉄斎はすごいと思うが、日本画のことは今は置いておく。

 10人の画家を挙げたのは、評価している画家を並べてみれば、自分の方角が見えるような気がするからだ。日本の画家を見る眼と海外の画家を見る眼も又違う。ボナールだけは日本の画家を見る眼で評価することが出来る。マチスは最も評価はしているが、違う角度からである。少し説明しがたいことだ。

 10名の画家はそれぞれに、現実から哲学に飛躍している。自分の世界観を表現しているところが見所。その世界観が一つの思想哲学、あるいは宗教にまで昇華されている。人間がすごいのだろう。絵を描くことで、修行をしている気がする。世界観に到達するまで描き尽くしているような気がする。

 日本の洋画の一番の特徴は線にある。線は水墨画や書の伝統から来ている。線で自分の意図を伝えることができると言うことは、東洋の伝統芸術にあった物だ。線の複雑さに優れているのは日本の伝統文化なのだろう。書が人を表すと考えられてきた。

 絵画が社会に対する表現力を失った。社会が余りに進展が早く、絵画というような表現法が藝術として成立しなくなったのだろう。絵画を見る眼が変わったのだと思う。現代でも美術展は盛況である。先日の東京都美術館でのマチス展は、整理券が必要なほど並んでいた。

 しかし、絵を見る意味が変化したのだと思う。絵画を精神の表現として、哲学を持つ表現としてみると言うことがない。そうした絵画評論がない。絵画に関する芸術論という物がないと言える。それは私の探索が足りないと言うこともあるのだろう。

 筑波大学とか、東京芸術大学には美学という物があるがその学科の説明を読むと、私の考えている芸術論とは違うもののようだ。マチスは芸術論を39歳の時に書いている。何度も読んだ文章である。マチスの絵画が理解できたわけでもないのだが、マチスに出発点があると考えるようになった。ところがマチスは出発点ではなく、結論だったというのが最近の感想である。

 その先を模索してきたのだが、そこに日本の油彩画があった。日本人の精神の表現である。自然と融合した世界観がある。禅の世界に通ずる物を感じるようになった。東洋の世界観にある修行としての道の絵画である。絵画道というのはないのだが、「私絵画」である。

 外に模索するのではなく、自分の内なる模索である。その模索の深さを日本の洋画の10名に見たのだ。その模索が社会に繋がっていた時代もあったが、現在は表現者の世界観が弱まったと言うこともある。また受け手の側の絵画に対する思いも変わった。

 それでも、この先自分の世界観を描くことによって、模索して行こうと考えている。それを私絵画と呼ぶことにした。自分の問題として絵を描くと言うことだ。描いた絵に社会的な役割はない。社会的な意味が無いのだから、それを藝術呼ぶことは違うような気がする。


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第167 水彩画 日曜展示

2023-06-25 04:12:32 | 水彩画
第167 水彩画 日曜展示

 6号前後の作品です。






277「あかばな」
2023.6







278「湾内」
2023.6







279「溜め池」
2023.6








280「のぼたん農園」
2023.6








281「箱根富士」
2023.6






282「富士」
2023.6







283「名蔵湾」
2023.6







284「黄色い花」
2023.6







285「のぼたん農園」
2023.6






286「国府津の海」
2023.6


  のぼたん農園の稲刈りが続いた一週間だった。今日が最後の稲刈りになる。農作業が忙しいときは絵が描けないかと思うが、案外にそうでもない。絵を描く時間が無いほど農作業を続けていないと言うこともあるが、絵は一休みしたときや朝早く、あるいは作業を終わった夕方と、十分に書くことが出来る。

 何故農作業が忙しいときまで絵を描くのかと言えば、その方が新しい絵が見つかるのかと思うからである。自分という物が現われるきっかけがあるかも知れないと思うからである。そういう意味で農作業と絵を描くことは、私には相性が良い。

 最近の絵はいわゆる水彩画とは違う。結構濁らせて、白を使い。塗り重ねても居る。もちろん薄い重ね塗りなどもしているが、概ねとことん描いている。ダメになるまで描くことにしている。良い調子で止めると言うことはまず無い。思いついたことは成否を問わずやってみている。

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石垣島でコロナ感染爆発

2023-06-24 04:25:56 | Peace Cafe

  コロナワクチンの証明書である。ここに掲載しておけば、どこかで役立つかも知れない。様々な資料が整理が出来ず、管理が出来ないだらしがなさなのだが、ブログに載せておけば先ずは間違いが無い。本を書いたときも、ブログから拾い出して書いた。

 石垣島では感染が拡大すると予測して居たので、ワクチンはすぐに打ちに言った。無料であった。何故かは分からないが、ワクチン注射を打ってもまったく無反応である。熱も出ないし、注射カ所の筋肉痛すらない。それは過去6回すべてにである。それは有り難いことなのだが、本当に効果があるのかという不安はある。無反応では免疫が出来ていない可能性がないのか不安。

 県立八重山病院の和気亨病院長は22日、石垣市の院内で緊急の記者会見を開き、市内で新型コロナウイルスの患者が急増し「医療が逼迫しつつあり、このままでは破綻する」と訴えた。和気病院長は住民らに向けて、密室でのマスク着用や手指消毒など基本的な感染防止対策を再度徹底するよう強く訴えた。当然の要請だ。

 5月下旬から新型コロナウイルスの感染が再拡大して県内7医療機関が救急診療を制限する中、救急搬送の現場では病院への搬送照会が10回に上ったり、搬送先が決まらず最長96分も駆け付けた現場で待機したりする事態が起きている。22日に緊急記者会見を開いた県の糸数公保健医療部長は「救急医療を守ることが県民の命を守ることにつながる。軽症の方は救急受診を控えてほしい」と求めた。

 沖縄県全体では定点当たり28.74人で総数(推計値)は7280人だった。6月に入り、感染者が急増しており、一部の医療機関では救急医療や一般診療を一部制限する事態となっている。入院患者は18日時点で507人(重症9人)。12日は407人で、1週間で百人増加するペースとなっている。18日時点の病床使用率は県全体で57.8%。圏域別では本島59.8%、宮古23.1%、八重山54.5%だった。

 石垣島ではコロナは終わったような市民の生活状況が見えた。ハーリーやお祭りもコロナ前の状況に戻った。4年ぶりと言うことで、前以上に盛り上がっていると言われていた。そこに待っていた沢山の観光客が来ている。これでは感染爆発が起こると、このブログでも書いていたのだが、悪い方向の予測が当たってしまった。

 ここに来てやはり感染爆発が起こり八重山病院が受け入れが難しくなっている。交通事故など絶対に起こせない。生ものはしばらくは食べない方が良い。人混みにはなるたけ近づかないことだ。どうしても行かなければならないときにはイソジンをスプレーして、マスクだ。

 問題は数字の発表が無いから、実態が分からないところが怖い。コロナ死者数は発表がないから分からない。分からないから無いことにして自主規制もない。これが政府の思惑通りの結果なのだから、年寄は感染しないようによほどの注意が必要である。

 コロナは年寄が特に危険な病気だ。まさかとは思うが、これも少子高齢化対策の異次元の対策の一つだと、嫌みが言いたい。コロナ感染で福祉費用のかかる弱者を淘汰しようという思惑。そんな馬鹿なことはさすがにないと思うが、結果的にそうなる。

 厚生労働省でも5月9日以降は、数値の発表はしていないと出ている。確か25名の死者数が最後の発表だったと思うのだが、現在はそれよりも多くなっているとみなければならない。こうなることは想像されたことだが、経済のためには、コロナを忘れようというのが、日本政府の方針だ。当然の結果である。

 弱者を切り捨てている現実を、経済に反映しないようにコロナ終息宣言をした。そのように岸田政権のことを歴史は書くかも知れない。これが道徳のある資本主義の実態なのだろう。経済は怖い。政府には人の命よりもお金は重い。人は必ず死んで行くものだが、経済の低迷は続いていく。

 自助の国に暮らしている以上。病気にかかるのは自己責任と考えるほか無い。若い人が重症化しないというところが、救いである。年寄は自助の外出禁止ぐらいしないと行けない。と言ってきたのだが、日本の社会は政治家も、企業経営者も年寄ばかりだからそうも行かないのだろう。

 
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鈴木信太郎作品の絵画評が興味深い

2023-06-23 04:12:31 | 水彩画

 鈴木信太郎氏の作品(この絵がオークションに出ていたのではない。)この絵を見て成るほどと気付いたのは、線の色が違うと言うことだ。線の色を的確に変化させているところが何とも素晴らしい。絵をその場の思いつきや勢いで描いていないと言うことだろう。極めて冷静な作品だと私は思う。

 私の絵は鈴木信太郎の絵の影響を受けていると思う。どう影響を受けているのかと言えば、記憶の絵画ということになる。絵は記憶の蓄積で描くと言うことになる。私絵画というものはそもそもそういう物だ。自分の中に蓄積したものを絵として表現する。

 ボナールの絵も記憶の絵画である。ボナールは記憶の中の奥さんの絵を死ぬまで描いた。この絵がなかなかいい。これほど美しくまた人間を感じさせる絵画はない。記憶するという形で、濃縮整理されたものが絵に現われる。死んだ婦人の記憶の蓄積、その密度や濃度が深いために、素晴らしいボナールその人の絵になる。

 「記憶すること」と「見ると言うこと」の関係も重要になる。見ることの深さ。絵描きの見ると言うことは真実を見て、感動すると言うことになる。感動の蓄積が記憶に残って行く、絵における「見る」の原点である。風景でも花でも、何かものを見て感動すると言うことが無ければ、絵は産まれない。

 子供の頃から切実に生きている記憶の根底には、見てそこから染み込んできた感動を伴うものが溜まり続けて、ものの認識に繋がる。ゴッホの向日葵であれば、ゴッホが向日葵を見て、蓄積されてきた記憶が、今見ている向日葵の中に現われてくる。それが向日葵の絵になる。

 私の記憶はそれほど深いものではない。残念ながら通り一遍である。だから、たいした絵にはならないのだが、それは今のところは仕方がないことだ。今のところではないかも知れないが、そんなことは考えても仕方がない。鈴木信太郎やボナールよりも、農に関わることについては身体が記憶している。その記憶を絵にして行こうとしている。

 もし私の農業観察が絵に現われてくれば、それはそれなりのものに、いつかは成って行くのではないかと考えている。それくらい農業には打ち込んでいる。誰よりも田んぼを見ているつもりだ。子供の頃からの記憶の中に田んぼが詰まっている。それが絵に現われてくるところまでやらなければ、絵にはならない。

 ヤフーオークションに出ていた。鈴木信太郎の作品評が興味深かったので。以下コピーさせてもらった。8号で何と16万円である。昔の何十分の1の価格である。それでも今のところ売れては居ない。買いたいと思うが、買っても自分の絵の置き場で困っているので買えない。

 横浜で画廊をやられている人らしいので、今度小田原に行った時に時間があれば寄ってみようかと思っている。その時ならば、買って帰り小田原の家に置いておけば良いかもしれない。その時まであればのことだが。絵を欲しいと思うのはやはり学ぶところがある絵だからだ。

 絵に鈴木信太郎という人間が絵に現われている。これは存りそうで、滅多にないことなのだ。鈴木信太郎はどのように絵を描いていたのだろうか。どこか童画的な様相があるのだが、極めて厳しい人でなかったのかと想像している。見たことも無かった人なので様子は分からない。

 ここから引用文ーーー(絵は写真のものではない)
色彩鮮やかタッチで静物・風景などのモチーフを得意とし、非常に親しみやすい画風を描き出している。本作品は、松の木や奥の細道から庭園などを描いた作品であると思われる。何気ない風景画ではあるのだが、画廊に展示していた際には地味に見入っている人が多い作品でもあった。 鈴木信太郎の作品は購入して頂く事も多く、画廊でも人の足を止める絵を描く。

 私なりに理由を推測したのだが、これは鈴木信太郎の描く絵が風景を脳に記憶する際に情報を圧縮した風景に近いのではないかと推測している。

 細かく話をすると脳という情報処理機はパソコンと一緒で記憶する際に情報を削り落とし、圧縮して保存している。脳を通して、1つの風景の画像解像度を低くしていくと鈴木信太郎の絵に近くなるのではないかと考察できる。

 どこの論文だったかは忘れたが、学生時代に読んだ本の中に脳は情報が処理しやすいものほど早く処理するようになり、早く処理できる情報ほど脳に刺激を与えているという実験結果があった。正直に言えば無粋であるので普段はあまり脳機能的・心理学的な話は描かないようにしているが、これこそ具象絵画が買われる理由の1つなのでは思い書かせて頂いた。(あくまで推論です。)

  少し私とは違うのだが、見ているものを情報処理して濃縮する。と言う考えは記憶で描くに近い気がした。記憶で描くと言うことは学生時代に松木さんに言われたことがきっかけになっている。わたしとしては、50年前から考え続けていることだ。

 落ち葉を描いてみようとしていた。実際に拾ってきて、ボタニカルアートのように写していた。単純に美しい落ち葉の色を写したかったのだ。いくらそっくりに描いたところで、落ち葉には見えないのだ。あの落ち葉の美しさが画面には現われないのだ。

 何故目の前にある落ち葉は落ち葉に見えているのに、紙の上に移してみると落ち葉に見えないのかが不思議で成らなかった。下手だから落ち葉に見えないなら良いのだが、写真のように描いているのに、落ち葉だと感じないのだ。どうも落ち葉の匂いがしない。落ち葉という認識とみている落ち葉が一致しない。

 それで、色々考えた末に、落ち葉を見ないで、頭の中に残っている落ち葉を想像して描いてみた。すると、はるかに落ち葉らしいのだ。そっくりではないのだが、落ち葉の匂いまで絵から感じる。その時そのことが不思議でならなかったので、松木さんのところに行ってそのことを話した。

 すると松木さんはそんなこと当たり前の事だ。と言うのだ。見てそっくりに描くこと自体がおかしいのだ。そっくりであったとしてもそのものにはなるはずがない。と断言する。落ち葉の記憶の蓄積から、落ち葉を感じているので、一枚の葉を写したところで、落ち葉の絵を描いたことにはならない。このように言われた。

 50年も経った今でも忘れられないでいる。先日美術部の同窓会の席で松木さんにお会いして、松木さんに教えられたことを今やっていますと話したら、そんなことを言ったのかと、しかし、それは今でもそう思うし、当たり前の事だと言われていた。

 記憶の絵画。見て、よくよく見て、その上で記憶を描いている。それが見たことから来る感動に繋がっているからだ。絵は感動を描くのであって、見た目を写しているわけではない。松木さんと一緒に登った雲ノ平の風景はいつでも頭の中にある。山の絵を描くといつも思い出す。記憶の絵画なのだ。

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ひこばえ農法について

2023-06-22 04:01:07 | 楽観農園
 ひこばえ農法を様々な角度から比較検討している。6月20日の写真を載せて、後で考える材料にしたい。今のところ、どうすればひこばえ農法が出来るのか見えていない。一番の困難は稲刈り後最初に出てくる芽はすでに幼穂が形成されていると言うこと。


 「ゆがふもち」のひこばえが出てきたところ。この出てきた芽に幼穂が形成されていることをどのように取り除くことが出来るか。以下のようなことを試行錯誤している。今のところまだ可能性が見えない。

1,早刈りをする。
2,稲刈り前に肥料を入れる。
3,稲の品種によって違いがある。
4,土壌の乾燥と水の深さの変化。
5,稲刈りの時の高さ。
6,再生してきた芽を二度刈りをする。
7,二度刈り時の高さを変化している。
8,出てきた幼穂をすべて抜き取る。


 3番田んぼの「ミルキーサマー」の6月18日の稲刈り後二日目のひこばえの出てきた様子。水は稲刈りの時もこの程度はあった。3番田んぼは水が乾くことは一度も無かった。それでいいのかどうかは分からないが、水を稲刈りも水の中で行うと、稲の乾燥が進まないことが分かった。

 穂の水分が28%ぐらいから下がらなくなる。根の活動が衰えず水分を穂に送り続ける為と思われる。28%か1週間経過しても28%であった。この状態は始めて分かったことで、ひこばえについてはどう考えれば良いのだろうか。

 


 7番田んぼのひこばえの様子。穂がほとんどの芽から出ているので、穂を抜き続けている。6月いっぱいは抜く予定。すべての幼穂の形成された株から穂を抜き去れば、その後再生された稲になるのだろうか。まだこの点も今後の観察課題だ。


 0番田んぼのゆがふもちのひこばえの様子。もうしばらくしたら、刈り戻そうかと考えている。品種によって、ひこばえの様子は違う。だとすると、ひこばえ農法向きの品種がある可能性が出てくる。


 0ばんたんぼのゆがふもちのひこばえの様子。


 8番田んぼの「とよめき」のひこばえ。稲刈り後二週間目に刈り戻した。再度出てきた芽に幼穂が形成されていなければ良いのだが、この点も今後の観察課題。


 7番田んぼ「とよめき」のひこばえの様子。堆肥を入れ、コロガシを行い。藁を戻した。穂が出続けているので、6月中はすべて抜く予定。


 8番田んぼは水は辛めに推移している。刈り戻した株からはまだ穂は出ない。堆肥を入れて藁を戻した。


 3番田んぼのひこばえの様子。稲刈りは水のあるまま行った。水は常にあるが、発芽していない株はほとんど無い。水をかぶっていても根が腐り発芽しないと言うことは少ない。


 ミルキーサマーのひこばえの出てきている様子。


 3番田んぼのひこばえは揃っている。


 ひこばえの様子も、ミルキーサマーととよめきでは異なる。



 0番田んぼ「ゆがふもち」のひこばえ


 ゆがふもちのひこばえはまた様子が違う。ひこばえは品種によって出方が大分異なる。このことはひこばえ向きの品種が存在することを示している気がする。


 7番田んぼのひこばえの様子。株の成長は良いのだが、穂が出てくるのに困っている。


 8ばんたんぼのひこばえ。刈り戻したので、まだ株は小さい。


 1田んぼの「とよめき」24日に稲刈りの予定。


 6番田んぼの「ミルキーサマー」6月25日に稲刈りの予定。

  ひこばえ農法はまだ見えてこない。現状で分かったことは1週間の早刈りしたところでは、幼穂が形成されない。そう言うことはない。28%で稲刈りをしているのだが、どこの田んぼでも幼穂が形成され続けている。

 幼保というのはいわば稲刈り後無効分ゲツが出て、すぐに穂を付けてしまう現象である。これがひこばえ農法が成立しない理由として、昔から言われていることだ。それでこのすぐに出てしまう幼穂を上手く育てる農法が、研究されている。鹿児島大学、農研機構の九州などの研究がある。

 しかし、そういう物ではなく、株が一新して、田植えしたのと同じようにその後に15枚の葉がでて、普通に稲作が出来るが、目標のひこばえ農法である。そう言うひこばえを出す方法は今のところまるで分からない。そう簡単ではないことだけは分かった。


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日本農業の困難な問題

2023-06-21 04:57:45 | Peace Cafe


 日本農業の三つの問題。
 1、高齢化(平均年齢が68歳)による農業者の減少
 2、耕作放棄地が増加し、農地面積が減少
 3、農家の経営が出来なくなっている

 政府はこの三つの深刻なはずの問題を問題であるという認識がない。ここが一番深刻なことなのだ。政府は食料を軽んじている。輸入すれば何とかなると、過去の幻想を未だに抱いている。もう食料はそれほど甘い国際情勢ではなくなっている。

 まず農業者の減少で一番深刻なのは40歳以下の農業者が減り続けていることだ。新規就農者は4~5万人くらい毎年居る。そのことだけ見れば、有望な産業に見えても良いくらいなのだ。ところが新規就農者が農業経営が出来て定着出来ることが、難しい農業の実態がある。

 新規就農するとすれば、2500万円くらいの資金がなければ無理だろうと言われている。どんな自営業でも開業資金が必要になる。農業の場合新規就農者には国から補助金が出る。49歳以下の新規就農者などが対象。農業を始めてから5年で経営が安定するのを見込み、最初の1~3年目は年150万円、4~5年目は120万円を交付する。これは以前のもので今は少し変わった。

 この交付金を目当てに新規就農したものの、5年後にどれだけの人が農業者として残るのかと言うことになった。補助金を5年間の生活費に充ててしまう。だから定着率が悪い。そこで制度を変えて、日本政策金融公庫が最大1000万円を無利子で融資するという制度。

 使い道は、就農してから3年以内に機械や施設を買うための資金とする。償還スケジュールは10年均等。この返済資金は10年営農をつづければ、国と地方が毎年肩代わりするのが制度の基本になった。しかし離農すれば、当然返済は当人が負うことになる。厳しい農業環境を考えれば、困窮する農家を増やしているだけになるだろう。(就農支援制度は変わっているので現状については正確ではないかも知れない。)

 他の産業と競べれば、桁違いに優遇されているのが、新規就農者である。それによって、新規就農者の数は4,5万人存在するのだろう。しかし、現実には農業者の減少は止まらない。平均年齢も増加しているのが現状である。農業に存在する根本的な問題があると考えるべきだろう。

 二番目の問題は、耕作放棄地の増加。農業者の総数が減るから耕作面積が減少するのは当然のように見えるが、この問題はかなり複雑な側面がある。一能か辺りの規模は増え続けている。止める人が多いので農地は集積されている。3,1㏊平均になっている。のぼたん農園が3,6㏊である。子供の頃1町歩1㏊農家は立派なものだったのだから、大きな変わり様だ。

 日本の農地の総面積は減り続けていて、令和4年耕地面積― 耕地面積は432万5,000haで、前年に比べ2万4,000ha減少 ―耕作放棄地も増加して行くが、あくまで農地に簡単に戻せる間が耕作放棄地である。数年を経過して、山林や雑種地に変わって行き、耕作放棄地でもなくなる。都市周辺では農地が公共事業用地や住宅にも変わっていく。石垣島ではゴルフリゾートになる。

 原因は地方の消滅が一番大きな要員だと思う。人が暮らせない状況になって農業だけがやり続けられるはずもない。中山間地や島嶼部では人の減少消滅が進んでいる。地方再生、創生が政府の大きな方針であるが、成果はまるで上がらない。その背景には少子化の問題が大きい。

 異次元の少子化対策が成功する可能性があるならば、話は違ってくるが残念ながら可能性はない。人が減って行く中で、東京一極集中である。政令都市ですら人口減少が進んでいる。当然、暮らしのインフラがそろいにくい地域は人が減少する。

 政府も地方全体を創成することを諦めて、地方の色分けを始めている。その結果中山間地や、農村地区の大半の場所がインフラ整備を断念することになっている。病院や学校の統廃合が進んでいる。止むえないことかも知れないが、都会的生活をしながら、農業経営をしたいと言う人には無理な状況が生まれているのだ。

 子供の教育とか、教育環境とか、副業の就職先とか、どんどん厳しい状況が生まれている。こうした中で、農地だけは維持すると言うことが出来ないだろう。地方が再生されるのかどうか。農地の維持はそこにかかっているはずだ。政府の本音には、農地の維持など無いはずだ。

 そして三番目が一番深刻な問題で、日本では農家経営が出来なくなっている。農地を大規模化して、企業農業にして、ロボット化して大型機械を入れて、AT農業化する。あらゆる現代農業を実現したとしても、農業経営が難しいと言うことになっている。
 
 小規模農家が経営できないと言うことでは無いのだ。大規模農家にしても農業経営が難しくなっている。資本主義では経営できないものは淘汰される。一時補助金で生き延びたところ、結局の所世界での競争に勝てない。農業は資本主義の枠から外さなければダメなものだ。

 その理由は農業の目的の最重要は食料生産である。食料は国の安全保障の最も重要なものなのだ。食料がないがしろにされている国では、安定した国家運営は出来ない。人心の安定は食糧が確保されて始まる。日本の不安定化の一番の原因は、国の本に農業が置かれていないからだ。

 農業は資本主義の競争から離れた別枠にしなければならない。日本の食糧を確保するためには国内の農業を守るための施策を採らなければならない。二つあると考えている。経営を中心に考えないでも良い小農を生かす道だ。農業以外に副収入をもちながら行う農業。

 一方で大規模農業である。大規模化出来る農地はできる限り集約して行く。そのためには私有権の制限も必要であろう。相続税の物納を農地で行うことを認め、一定有利なものにする。1000㏊規模の有機農家がどんどん現われるような状況を作り出すことだ。

 小さい農業が条件振り地域でも可能なようにしなければならない。機械の貸し出しなど行政の責任で確保する。機械の購入費の援助ではなく、貸し出しの整備を行うべきだ。農地についても、国が希望者に貸し出すようにすべきだ。農地を相続税に充てられるようにして、国の所有を増やす。農地の国有地化を行う。

 耕作放棄をしている農地には、所有していられないくらいの税をかける。まだまだ安すぎる。そして税金の代わりに物納で受け入れることもする。そうしてできる限り農地の国有化を進める。そして農地は貸し出す。営農可能な農地であれば、時代を国が取る。そうで無い農地は無償で貸し出す。

 小農を育てる。市民で農業をしたいという人には、国は農地を無償で貸し出す。農業外収入のある人に、農業をやってもらい。自給のための農業を推進する。一人100坪まではやりたい人には無償で国有農地を貸し出す。出来れば10人ぐらいで集まり、共同農場を運営する。

 もちろん機械は国の責任で貸し出す。製粉施設、乾燥脱穀施設、貯蔵施設なども国が準備をする。そうした農業インルラを整備して、国民の1割の人が自給農業を行う国を目指す。そうすれば耕作放棄地はなくなる。食糧の安定供給も自ずと整う。
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少子高齢化は悪い事ではない。

2023-06-20 04:26:48 | Peace Cafe


 1985年の「経済白書」は3章のうち1章を割いて、人口の高齢化とそれに対応するための社会保障制度のあり方をまれ細に記述している。

 2020年代にかけて高齢化が急速に進展していくこと、「こうした世界に例をみない急速な人口の高齢化に伴って、公的年金や医療保険の給付も大幅に増大する可能性が高い」こと、そうした中にあって、「給付と負担の両面において制度間調整を進めることが必要である」(公的年金)

 「医療費を適正・効率的なものにしていくとともに、国民の間で給付と負担の公平化が図られるよう、適切な措置を講じていく必要があろう」(医療制度)という指摘がなされている。ーーー中里透 マクロ経済学・財政運営 

 40年近く前にすでに政府は問題を把握していたのだ。40年無策で来て、いまになって異次元の対策をするという、少子化対策は40年間政府が無為無策の結果生まれた側面もあることなのだ。十分な備えがなされないままここまで来てしまった政府の責任が問われなければならない。

 日本の政治はいつも責任が明確にして、その責任を取ると言うことがないから、行うべき対策にも責任者がいない。異次元な少子化対策だろうが、過去に例を見ない対策だろうが、少子化は進むと誰もが考えていると思う。どのみちダメでも岸田総理大臣が責任を取るはずがないと考えている。

 ついでに書いておけば、少子「高齢化」と言われる高齢化の方はその一員として、早く死ねと言われてもそれはさすがに困る。40年前と言えば、33歳の頃に政府は気付いて心配をしていた人が居たと言うことだから驚く。人口減少が始まるとは考えていなかった。私に自身も反省がいる。

 打つ手打つ手が裏目に出て、40年前の予想以上に悪い状態になっている。分かっちゃ居るけど止められない。例えば、中国など何しろ10年前までは、まだ一人っ子政策を続けていたぐらいだ。中国は高度成長期が終わるときに、一人っ子政策を止めたことになる。

 政府が高度成長が続くと考えている間は自然に人口は増加すると考えがちなのだろう。経済成長が予測されれば、人口は増加するし、経済が停滞すると考えれば、人口は減少する。中里氏の考察でも経済と人口の増減のことには触れていない。

 触れていないが、少子化は対策でどうなるものではない気がする。社会の空気の反映なのだ。日本人は今現在未来に不安を抱えている。原発事故があっても、原発を止められない。止められないどころか使用期限を延長して、老朽原発を補強して使うことになる。こんな国が安心できるわけがない。

 お隣の国を仮想敵国にして、ミサイル攻撃を出来るようにしている。お隣の国は原発を保持して、ミサイル基地だけで300もあるらしい。日本をはるかに軍事力で上回っている。何故、お隣の国と対立しなければならないのかの理由は、人権が軽視されているからだという。まったく戦争しなければならないような理由ではない。戦争の方が人権を無視する。

 それでもアメリカの同盟国ということで、訳の分からない軍事国家日本が進んでいる。国民もそれを許容しているかのようだ。確かにロシアのウクライナへの軍事侵攻は許されないことである。まさか、大国ロシアがかつてのソ連の仲間のウクライナと戦争を始めるとは、恐怖である。理不尽の極みである。

 こんな国際情勢下で、日本の経済的低迷を考えると、子供を産むどころではないというのもうなずける。まして、AIが登場して、この点遅れがちな日本社会に暮らす若い人達の、将来に対する不安は当然増して行くことになる。財政が大赤字の中の対策にどれほど期待できるだろうか。

 少子化対策で唯一、子供が増えると期待できるのは現金給付である。3人子供を産めば、なんとか暮らして行けるぐらいの現金給付である。一人につき月7万円は必要だろう。5人子供が居れば、普通に暮らしが出来るぐらいにすれば、大家族が至る所に現われるだろう。10人居ればちょっとすごい。

 ここまでやれば地方創生にも成る。産業がないから、地方は衰退する。どこでも子供は育てられる。子供が増えれば一大産業が創出できたのと同じことになる。異次元と言っても良いが、そこまでやれるか問えば、財政を見れば不可能だろう。その度胸も岸田氏には無い。

 希望がある社会なら子供は増えて行く。その実感が団塊の世代の一人としてよく分かる。みんな頑張れば何とかなると感じて生きていた。前の東京オリンピック前はまだ貧しい国ではあったが、希望だけは十分にあった。前向きな空気が社会を覆っていた。現状とは又別のことなのだ。

 中学生卒業生が金の卵と言われて、都会に集団就職していたのだ。その人達が、日本の高度成長を支えて、経済先進国に日本は登っていった。そういう経済の中では当然子供は増えて行く。国家予算の半分以上が借金という状態では、何しろ子供に配るお金も借の財政赤字が異次元の状態である。

 国の財政赤字が異次元の状態で、少子化対策と言っても効果が出ない。まず財政赤字を解決することだ。解決できないのであれば、少子化の事実を受け入れ、人口減少の中での国家体制を考えるように、発想を変えるべきだ。出来ないことにしがみついて居れば、さらに悪い状況になる。

 このさきの日本は、子供が減り、地方が消滅し、経済は中堅国になる。発想を転換して、ゆるやなな安定した国造りを考えるべきだ。出来ないことを受け入れることが、次の道を模索する第一歩である。発想をもう一度し直す必要がある。

 幸いなことに日本には豊かな国土がある。確かに災害は頻発する地域ではあるが、四季に富み、雨量も十分にある。人間が生きて行くためには十二分な美しい国土だ。この日本で地道に生きる事を見直すべきだ。日本は農業を基盤にしなければならない。

 食糧自給率の低下が国の不安定を感じさせている。自給率が100%の国になれば、目標の出生率も少しは上がるはずだ。出来えば急激な減少ではないほうが良い。農業をして生きて行ける国になれば、国は安定する。農は国の本である。特に主食たる稲作をもう一度見直すべきだ。将来日本が米輸出国になるぐらいの気持ちでやり直すべきだ。
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SDGsと伝統農業

2023-06-19 04:29:07 | Peace Cafe
4番田んぼひこばえ農法の研究田

8番田んぼのひこばえ農法の研究田

 SDGsは持続可能な開発目標と訳されている。これは少し当初の成立した際の意味からは離れていると書かれている。国連加盟193か国が2016年から2030年の15年間で達成するために掲げた目標である。 日本ではどちらかとえば、開発目標が強調され、持続可能という前提を置き忘れている。目にするのは企業イメージを上げるための広告利用。

 石垣島は「自治体SDGsモデル事業」(10事業)に選定されている。石垣島のイメージアップ作戦ではあるが、島に暮らしていて持続可能な島という実感はない。建前としてのSDGsの島に見える。全国で一〇というモデル事業だから、かなりの持続可能な事業が実際に行われなければならないが、例えばミサイル基地を作るというような、持続不可能な開発目標の方に傾斜している。

 ゴルフリゾート開発など、市がむやみに進めているが、環境破壊そのものの事業といえる。白保の方に高級リゾートを作るなどと言うことも市は提案している。島のSDGsの方向が分からない。本当にこれらの事業が「自治体SDGsモデル事業」であると考えているのだろうか。

 アベ総理大臣は「日本は、これまで、持続可能な経済・社会づくりのため、国際社会のモデルとなるような優れた実績を積み重ねてきています。」と語っていた。これを読んだだけでも、政府の持続可能がまったくウソッパチであることが分かる。日本はこのままでは持続不可能な代表的な国だ。原発爆発をしてしまった国なのに、まだ原発にしがみついて居る国。

 アベ氏は続けて以下のことを述べている。
一点目は、国際保健の推進です。国際保健機関に対し、総額約4億ドルの支援を行う予定です。
二点目は、難民問題への対応です。今般、新たに5億ドル規模の支援を行います。
三点目は、『女性の輝く社会』の実現です。2018年までに総額約30億ドル以上の取組を行います。

 金を出せば持続可能かと言えば、とんでもないだろう。日本政府は当初から、SDGsをお金換算しようと考え違いしていたようだ。日本は国際社会をリードするどころか、周回遅れてしてしまい、SDGsの意味すら理解できない国なのだ。 女性問題、難民問題、など日本が世界でも最も送れているのは、世界中の誰でも知っていることだ。

 地球の持続性ある開発とは、小さな農業による開発である。特に稲作農業の推進である。大規模開発はもう不要である。地球環境と折り合いを付けた永続性のある、稲作農業を小農として広げてゆくことが本筋である。大規模稲作農業開発も必要悪としては悪くはない。

 人間は自分の体力で、自給自足で生きる事ができる。食料のためには一日2時間の労働で、無肥料無農薬の有機農業で生きる事ができる。ここに立ち返ることしか、地球の永続性はない。このことは年々深刻な形で現実化してきている。地球は危ういところまで来ている。

 農業を主要産業としてやっている国が、飢餓に陥っているのだ。アフガニスタンなど、水不足のために食料が足りなくなっている。水が全くないわけではないが、灌漑設備が十分でないために、国土の砂漠化が始まっている。わずかな農地では食料生産よりも、輸出用の作物生産が行われている。

 持続可能な開発目標・SDGsの目標2「飢餓をゼロに」は年々深刻な状況が進んでいる。貧困や紛争、環境破壊、干ばつ、生物多様性の喪失など様々な要因で2018年時点で53ヶ国の約1億1,300万人が食糧不足による急性栄養不良に陥っている。

 その解決のためには自らが食料生産が可能になる、農地の確保が重要になる。水資源がある地域では水田稲作を広げる意味が大きい。しかし、日本国内では、水田の準備が出来ている場所でも、耕作する人間が居ない現実がある。稲作が経営できないのだから仕方がない。

 政府が主食作物から、換金作物への転換を主張している状況である。これは世界の食糧危機から目を背けた考え方である。世界はこれから一年一年より深刻な食糧不足に向かう。食糧自給率が三分の1しかない日本は三分の二の食料を世界から買わなければならない。

 このことは世界の飢餓を推進していることなのだ。日本はまだ買えるから増しだと、と考えている内に中国など経済が好調な国が買ってしまうことに成りかねない。円安が続き輸入はかなり厳しいのだ。日本の永続性も危ういところまで来ていると考えるべきだろう。

 日本に水田の耕作放棄地があるということは、あってはならないことだ。特に石垣島は自治体SDGsモデル事業の島だ。その自治体SDGsモデル事業に水田のことが触れられていない。何故だろうかと思う。つまり石垣島でも行政自体が水田のことを諦めているのだ。

 経営が出来ないのでは止むえないという考えに違いない。今までの所、企業的農家が水田耕作地を広げてきたのだが、現実にはそれが限界に来ている。優良な整備された圃場の大規模な水田が、今年は放棄されているところが目立つ。いよいよ、企業的な経営でもこれ以上広げられなくなってきたのではないだろうか。

 経営できないのだから、どうしようもない。仕方がないことだというのが、農協でも、行政でも考えているのでは無いだろうか。もし、本音で本気で持続可能な島を目指すのであれば、発想の転換が必要なのだ。水田がない島になれば、持続不可能な島になる言うことを考える必要がある。

 石垣島が持続可能であるためには水田を市民がやるようにならなければならない。市民の100人に一人がその気持ちになれば、500人が水田をやることになる。500人が水田をやれば、318ヘクタールの水田面積の内、1割の30ヘクタールは耕作できることになる。

 石垣市民の内1割の10人に一人が水田をやる気になれば、石垣の水田のすべてが耕作されることになる。そのくらいの気持ちで取り組まなければ、石垣島の永続性は維持できないだろう。決してこのことは荒唐無稽のことではない。

 先ずは稲作技術の開発からだ。市民の行う稲作の技術を開発する。そして、農業機械の貸し出しを、農協が行う。市民が行う農業には経営というものはない。私の経験では1万円の会費で120キロのお米を提供できる。一万円の会費で地代を払い、機械を農協から借りることができる。

 

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第166 水彩画 日曜展示

2023-06-18 04:15:35 | 水彩画
第166  水彩画 日曜展示

 10号前後の作品である。



267「白い壺」
2023.6






268「志摩半島」
2023.6






269「戸隠岳」
2023.6






270「伊豆別荘地」
2023.6






271「岬の松」
2023.6







272「小山の鯉のぼり」
2023.6








273「芦ノ湖」
2023.6






274「山の空」
2023.6








275「芦ノ湖」
2023.6








276「フサキ岬」
2023.6


  石垣に戻り描いた絵になるが、良いときもあるし、ダメなときもあるのかも知れないが、展示は続けたいと思っている。絵を描くことは楽しいし、描きたいと言う気持ちは以前より強いかも知れない。不安は自分の絵がどこに行くのかの先が見えない点だ。

 その日描く絵のことも余り考えないのに、その先のことは考えても居ないわけだ。こうして描いていれば良いのかと言うことにときどき不安がわく。抗して改めて絵を見ると、大丈夫なのかと思う。大丈夫なのだと自分を励ます。

 毎日の絵では分からないのだが、1年前と今では違う。ゆっくりだがどこかへ進んでいる気がする。さらに前の絵とも違う。やはり動いてはいる。良くなっているというようなことは言えないが、自分になって行くようなことかもしれないと思う。

 
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石垣島暮らしの面白さ。

2023-06-17 04:55:39 | 地域


 石垣島に暮らして、田んぼをやっている。水牛を飼っている。そして毎日絵を描いている。最高の暮らしを出来ている。こうしたいああしたいと考えても出来ないことも多いの生きると言うこと。石垣島に暮らして考えていた以上の暮らしをすることが出来た。この暮らしを一年でも長く続けたいものだ。

 石垣島の人口はこれから減少してゆくと予測がでている。自衛隊員が600人も来たから、5万人は越えるだろうと市長は考えていたそうだ。5万人を越えたときに。市を挙げてお祝いのお祭りをすると言うことが発表されていた。ところがどうだろうか。越えると予想された5月末時点でも、残念ながらあと45人不足で5万人を超えない。

 何とか6月こそと期待している。私も5万人超えを楽しみにしていたのだ。実際のところで言えば、住民登録をしていない人が1万人はいると言われているから、その人達の内45人が登録してくれれば、5万人超えのお祭りが出来る。6月が最後のチャンスになりそうだから、また登録を解除すれば良いのだから、この機会に是非協力を。

 どうしても越えたいというので、最後の手段として敵基地攻撃ミサイル基地を誘致するというのだけは止してほしい。自衛隊員が増えれば、必ずその後人口の激減を招く。与那国島も基地が出来れば人口が増加するという触れ込みであったが、基地が出来て人口は減少を始めたのだ。石垣島でも同じ事が起こる気がする。

 基地の島に移住したいと考える人は普通は居ない。桜井女史でも百田右翼作家だって防人の島には住まない。他人事なら色々強気のことを語るが、防人当事者にはならないのだ。基地のない平和な南の島だから石垣島は人口増加を続けて来たのだ。この島を防人の島にするなど悪魔の仕業だろう。

 日本全国の島が無人島化している。かつて人が暮らしていた島でも毎年無人島になっているのが現状である。島を返してもらったところで住む人も居ないのだ。人口減少は島だけではないが、ほとんどの島が存続の危機を迎えている。その点では石垣島の人口増加の健闘は画期的である。

 日本で一番美しい海。そして田んぼの広がる田園風景。島の中央にそびえる山深い於茂登岳。確かに西表島の自然の濃度は深い。田んぼもある。ところが生活をするためには、自然が深すぎる。病院やホームセンターなど若干生活インフラが不足している。石垣島に買い物に来なければならない。石垣島は小田原程度にはすべてがそろっている。

 石垣島の魅力は自然の輝きである。基地の方を見なければ良いだけのことだ。ミサイルが落ちてくるのを忘れていれば良いだけのことだ。基地の島のリゾート計画はどうかと思うけど、石垣のお歴々はどうもそっちの方向に進みたいらしい。これ以上自然破壊をしたら、リゾート計画は成り立たなくなる。自然豊かなリゾートを、リゾート施設が壊す。存在基盤の自己矛盾も甚だしい。

 石垣島に引っ越して5年になる。その大分前から通っていたから、石垣島に大分なじんだようだ。石垣島の90%というたまらない湿度の高さ。じめっとした暑さも、かなりなれてきた。去年の今頃は冷房を入れなければ寝られなかった。6月になって連日の熱帯夜なのに、よく寝ている。何でも慣れるものだ。

 やはり、石垣島の魅力は私には田んぼだ。石垣島では一年中田んぼが出来る。これは夢のようだ。毎日田んぼに関わることが出来る。やりがいがあるし、毎日がなにかしら作業があるし、発見である。実におもしろい。とくにひこばえ農法に熱中しているので、飽きることが無い。ひこばえを何時間も眺めていることがある。

 ひこばえ農法は出来ると信じなければ続けられない。何とも難しい。難しいからやりがいがある。このことに取り組めたことに感謝したい。この先何年かかるかは分からないが、何としても実現できるまで、やってみるつもりである。

 二期作の方はひとまず置いておき、ひこばえに挑戦したい。二期作はおおよそ一期作に競べて収量は半減すると言われている。だから、ひこばえ農法が収量が半減するとしてもそれくらいなら仕方がないことなのかも知れない。ひこばえがしっかり発芽してきたとしても、条件の悪い季候が影響してしまう可能性が高い。

 先ずはひこばえがきちっと発芽させられるかどうかである。何か見落としていることがあるような気がして成らない。一度土壌を乾燥を入れなければならないのだろうか。その点では8番田んぼはひび割れになるような乾燥した時期がある。この後の観察が重要。

 それよりも水を切ることが出来ない0番田んぼの方が、良い状態かも知れない。0番は水が常にあるから、むしろひこばえ農法には向いているのかも知れない。0番田んぼを二畝ある田んぼに直したい。その方が、ひこばえ農法に挑戦し安いかも知れない。「ゆがふもち」のほうが「とよめき」よりも向いているのかも知れない。

 果樹の方は植えてから4ヶ月は経ったが特に枯れた木はないようだ。果樹は気長に考えなければ成らないが、一応はスタートは切れたように思う。バナナは一度大きくなり、今年は成るのかと思えたのだが、何とイノシシに幹を大分かじられてしまった。

 猪柵で農場全体を囲ってから、イノシシの侵入はない。これは大変なことではあったが、一安心のことだ。大勢の人の協力があって完成までこぎ着けた。ジャングル化したしげみをユンボでどけて進むような大変な柵作りだった。柵の点検も時々しなければならないのは変わらない。

 次の課題はサトウキビ栽培である。なかなか取りかかれないのでもどかしい。畑は準備できているのだから、進めれば良いのだが、稲刈りが終わらなければみんなにその余裕はないだろう。一人でやるには気力が足りない。サトウキビの株出し栽培は、水牛を飼う場合どうしても必要になる。

 水牛は家畜だから、ただ放牧しているというのでは良くない。何か定期的に出来る仕事が必要だ。田んぼの代掻きだけでは3匹には不足だ。サトウキビ畑の耕耘畝立て、サトウキビ絞りなど、もう少し水牛の農作業を増やしたい。サトウキビ絞りは水牛メリーゴーランドにしたいと思っている。

 そして、絵である。絵はこのところのぼたん農園で描くだけになっている。もう少し石垣島の他の場所に描きに行きたいものだ。北部地域の開拓集落にも絵に描いてみたい場所がいくつもある。野底付近はおもしろい。大里付近もおもしろいところがある。平野付近にも良い田んぼがあった。

 のぼたん農園に張り付いていて、他の場所に行けなくなっているのは少々問題だろう。午前中はのぼたん農園で午後は他に描きに行くというようにしようかと思う。まだ石垣島でも見ていない場所もある。特に野底ヤーペーは頭に残っていて描いてみたいと常々思っている。先ずは野底展望台から描いてみよう。

 野底集落の畑も耕作放棄されたところがある。あの辺りの段々畑も記憶に残っている。一度開拓集落と放棄された畑も絵にしてみたい。のぼたん農園は午前中だけにして、午後は他に回るというのがこれからは良いかもしれない。そう考えただけでおもしろい気持ちが湧き上がった。

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有機農業の意味

2023-06-16 04:41:02 | 楽観農園

 八重山イシガメ 3匹があなのなかにいる。

 有機農業は志である。有機農業は哲学である。有機農業は人間の生き方である。化学肥料を使う近代農業を否定するものではない。近代農業は産業としての農業であるが、有機農業は自然の摂理に従い、自然との調和の探求である。人間の自然の中での折り合いの付け方である。

 先日現代農業で、有機農業と慣行農業を比較して、「思い込みと分断を乗り越えて」とう記事があった。肥料の吸収はおなじ物であるという酪農学園の教授の文章が出ていた。慣行農法の人がどこか有機農業に引け目を感じているのはおかしいと言うことのようだ。それはその通りだ。慣行農法も素晴らしい産業としての農業だ。

 ただ両者の科学的意味合いは、やはりまったく違うと考える必要がある。2つの農業の形は大きく異なるという大前提を忘れてはならない。農作物を作ると言うことではおなじだが、作り方が違うと言う事実は厳然としてある。化学肥料は農薬を使わざる得ない農法であり、自然と対立する農業である。

 有機農業の経験も、慣行農法の経験も無いひとが、農業のことを浅い知識で考えて口を挟むのは大学教授でもゆるされない。有機農業で生きると言うことは、よほどの覚悟がなければ不可能なことだ。その土地に適合する自分の農法を作り出す気概と観察力がなければ出来ない農業なのだ。

 その文章中に化学肥料だけで180年間作っている小麦畑の話がある。その畑の作物もまったく問題が無いので、化学肥料だけで作ることも問題が無いと結論づけている。その作物がどのように問題が無いものであるか、分析したのだろうか。作物の成分を調べれば異なることが分かる。おなじになるとすればその方がおかしい。たかだか180年である。有機農業は3000年の永続性がある。

 化学肥料で作る慣行農法は当然農薬がセットになる。農薬の残留など調べたのだろうか。周囲の自然環境に対してどのような影響があるかは考えたのだろうか。化学肥料を使うと言うことは、農薬を使わざる得ないことになる。何かが調和しないから農薬が必要になる。実際には農薬を使わない、化学肥料農業は存在しない。

 化学肥料を止めなければ、農薬を止めることは出来ない。農薬を止めるのが咲ではなく、まず化学肥料を止めるところから始めなければならない。化学肥料と農薬は組み合わせで成り立つ農業である。農薬は必要悪ではある。農薬の使用がいらない、化学肥料の農業があり得るだろうか。

 収量はどうだろうか。180年間化学肥料で作った畑と有機農業で作る畑では化学肥料の方が収量が多いとしている。有機農業だから収量が低いのは仕方がないという有機農業の方が居るが、それは努力が足りないのか、有機農業の技術能力が低いと言うことだ。有機農業には草は取ってはならないというような非科学的なものが混在する。

 有機農業の方が手間暇はかかるので、作物の価格は高くならざるえないが、収量が低い有機農業は間違った有機農業だからだ。有機農業は作物本来の能力を十二分に引き出す農業である。作物は満作になるのだから、当然収量も多くなる。しかし、雑草や病害虫などの問題があり、収量が上がらないことがままある。

 それは雑草を取る努力が足りない。あるいは自然との調和が崩れているだけのことだ。その収量が低いことを有機農業という農法の理由にするのは言い訳に過ぎない。有機農業を十二分に行えば、周囲の慣行農法よりも生産量は高くなる。

 あしがら農の会の実践では稲、大豆、小麦、ジャガイモなどで証明できている。興味のある方はどなたでも参加できるので、有機農業塾や田んぼの会に申し込んでもらえばいい。酪農学園の先生にも是非参加して貰いたい。有機農業とは何かが身体で感じられるはずだ。

 有機農業では、土壌を育てる5年間の時間が必要である。有機農業の土壌が完成するには5年間の土壌を育む期間が必要になる。農業を行うための土壌は促成では難しい。ここが化学肥料とは違うのだ。徐々に育んで、良くしてゆくものだ。一定良くなればその後は繰り返し手入れをしてゆけば良いことになる。

 有機農業は自然の摂理の中にできる限り織り込んでゆくものだ。だから自然に従える範囲でしか作物は作ることが出来ない。限度を超えれば自然との調和が崩れる。できる限りビニール資材を使わない方が望ましいことになる。当然、化石燃料もできる限り使わない農業である。あくまでできる限りのことだ。

 こういうことを書けば、必ずそれでは人間の食糧が不足すると批判する人が居る。その反論として、私は食糧自給を40年間試みてきた。有機農業で一人の食糧は100坪で自給できると結論を出した。そんなことはあり得ないとまだ批判する人は居る。それなら見に来いと言いたい。一緒にやってみれば分かるといいたい。

 私の自給農業は、人間が有機農業で生きていけることを証明するつもりで食糧自給を続けてきた。そして身をもって証明できた。国の食糧自給は農業で働く人が居るかどうかである。肉体労働が出来ない時代に突入している。日本では外国人研修生の力で、農業が行われている。これも遠からず終わるだろう。

 有機農業は慣行農法よりも手間暇がかかる。だから、食料は自給をするほかないのだ。この手間暇が資本主義では一番高く付く。自給農業は手間暇を、遊びと考えることで実現出来る。健康のための運動と考えても良い。人間の健全性を保つ活動と考えても良い。おおよそ一日1時間農業をすれば、自給は出来る。丁度良い1時間ではないだろうか。

 しかし、それはみんなでやる農業である。一人でやれば、2時間かかるとみなければならない。協力し合うことも現代人には必要な学びではないだろうか。他人を責めてばかり居て、口だけで身体を動かさないような人が必ず現われる。そうした人は有機農業には向かない。協働の農業は出来ない。

 有機農業は哲学なのだ。人の生き方なのだ。土壌が育まれるように、人間にも自然との調和が求められているのだ。自然との折り合いの付け方の中に、人間の成長がある。有機農業を自分の枠に収めようとしては自分の有機農業の完成はない。

 与えられた場所を最大限生かすように、自然との折り合いの付け方を探求するのが有機農業なのだ。それは化学肥料とか、農薬とかで、自然を制御しようという考えはここでは無意味になる。自然に従いながら、自分を自然に織り込んでゆく範囲での生き方である。

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