地場・旬・自給

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経済破綻は近づいている。

2012-02-29 04:01:37 | Peace Cafe
半導体大手エルピーダ破綻。半導体は新しい産業のお米だと言われていた。大手企業が合同して作ったエルピーダが倒産した。日本経済の破たんは、そう遠くなくなっている。手も打てないまま、その日が近づいている。経済破綻の最大の要素は、製造業が日本国内では、競争力を失ったからである。日本の政府は、それを延命するために様々な方策を取ろうとしたが、無駄な努力である。日本の経済を輸出型製造業に依存している以上、韓国や中国をはじめとする新興工業国に対抗できるはずもない。企業として生き残ろうとするなら、日本を離れるしかない。その前提で日本の経済を考えない所が、日本経済の破たんを深刻化している主原因である。世界1の製品を作り続けて、成り立つような経済では、そもそもどこかで終わるのである。競争に勝ち抜ける、技術革新を常に開発続けることなど、不可能に決まっている。特に問題なことは、日本人の潜在能力も、徐々に落ち始めている。

今の政府に何か、企業以上の事が出来るとは思えない。まして、自民党に戻ったところで何の期待もない。その他の野党はどうだろうか。今のところ期待できそうにもない。とすると政治は何もできないまま、経済破綻の日を迎えることになる。その覚悟をしなければならない。まず起こることは、国の借金が今の倍にも膨らみ、行き詰まる姿である。あと10年くらいであろうか。そのつもりで、その日に備えると言う以外に出来ることは無い。原発を国民に止められなかったように、国の財政破たんへの道も、国民には止められない。それこそ、原発の危険を訴え続けるだけで何も出来なかったことと同じである。財政破たんを訴えることはできても、何も変えることは出来ないだろう。方法自体は簡単である。財政支出を減らす事である。それはあらゆる面で減らす以外にない。悲惨な理不尽と思われることも増えるだろう。

地域の助け合いが無くなるなか、福祉支出を減らすのだから、無残なことが増える。それでも減らす以外ない。そんなことをすれば、選挙に敗れる。そういう国民なのだ。政府が変わったとしても、状況は変わらない。目先のサービス合戦になる。まだ何度も失敗しなければ、民主主義が育たない。もうそれまで待てない状況。しかし、戦争に突き進んだ時代より国民一人一人の責任が問われている。国民が変われば解決できることなのだ。消費税の増税もこのまま上げれば、一時しのぎで終わる。日本の産業の構造を、輸出型の製造業からの転換を目指さなければだめだ。賃金に依存した産業では、安い賃金の国に勝てない。特別なことではない。工業的技術というものの性格は、特定の国が独占し、長く優位を保てるようなものではなくなっている。それは悪いことでもない。世界全体が良くなることの方がいいはずである。それでも韓国の優位も、中国の台頭だってそう続くものではない。

日本人が失ったものは、沢山ある。粘り強く働くこと。細やかに感じる感性。改善を工夫する力。その多くが稲作とつながっている。日本人の特性を生み出したのは日本の自然の中で、溶け込むように暮らして来た、生活からである。四季の中で作物を育てながら培った、日本人の感性。もう一度振り返って、暮らしの原点に戻る国づくりをすべきである。その中で人間の感性が育つような暮らしをすることである。そうすれば、日本人が個性を発揮して、世界での位置を確保できるはずである。人間の幸せな暮らしのあり方は、競争を越えた所にあるはずだ。誰かにまさるから幸せなのでなく、自分らしく生きることが出来るから、幸せだということに気づくべきだ。そう思えば、日本の経済破綻は不幸なことだけでない。軟着陸が出来る。もがいて、敗れる競争に目を奪われたままであれば、悲惨な墜落が待つだけだろう。
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孤立死と孤独死

2012-02-28 04:24:42 | 暮らし
報道と言うものは「死」と言うものに引き寄せられる。死は、何にも代えがたい絶対的なものだからだろう。しかし、孤立死という新しい言葉で、取り上げてもらうまでもなく、死は心中であっても孤独に訪れる。死は全く孤立したものだ。たまたま周りに家族が居て、見守ってくれている中であったので良かったとは、当人には言えない。孤独と、孤立は、似ている言葉ではあるが、本質が異なる。孤立という言葉で、問題になるのは、地域の崩壊と言うことではないだろうか。ご近所が気付かないということは、別段都会でなくても、ありうることである。死んでしまう事例は特殊であるが、困窮している、行き詰まっている。というようなことを、誰も周辺のものが気付かない。この個人情報時代においては、珍しいことではないだろう。それでも家で死になたいと言う人の方が多いいと言われている。病院嫌いであるので、孤独で死ぬこと位は覚悟している。

死後1カ月以上、死んだことすら気付かれない死。大まかにこうした死にかたを、孤独死と呼んだ。死んで行く人が孤独であったろうという、心情をおもんばかる観点を感じる言葉である。孤立死という言葉に変わって、その周辺の社会からの孤立という方に、視野が広がった。3人がいっぺんに死んだような事例では、孤独ではない。賑やかな死だ。その賑やかさが、一層の孤立感を深める。社会の病理性まで感じることばである。3人の人が死んでゆく姿が、周辺の社会から見えない状況で進んでゆく病理。他人のことに踏みこんではならない。かかわりのない地域社会が都会から始まっている。社会の疎外的状況の問題。都会の孤独という言葉がある。溢れるほどの人間が居るが、その大量の人間と、自分が生きているということが繋がらない孤独。しかし、孤独以上にさっぱりと、切り捨てたように、孤立させられて死んでゆく社会。こんなことでいいのかと思いながらも、これから孤立死と呼ばざる得ない哀れな死が、増えて行くことになるだろう、と思う。

わたしは孤独死の可能性は高いが、孤立死ということは無い気がする。むしろ死は孤独であっても良い。しかし、わたしという人間の生命は社会の中に存在し、孤立はしていないという状況で生きて、死になたい。一人で孤独に死ぬということは、過去いくらもあったのではないか。路傍に倒れて、行き倒れる。それは今も、路上生活者の死では珍しいことではない。報道されることすら少ない。路上で生活しているにしても、せめて孤立はさせてはならないのではないか。それぞれが孤立が深まる社会では、排除の思想の方が、強くなっている。異物を排除する気持ちは、すでに自分も孤立が始まっている。そんな社会であって欲しいではないか。最近ブログの更新が無いな、病気でもしたのか。1カ月もたって、ああ死んだのかもしれないという具合になる。誰かが書きこみに死んだようだと書いてくれるかもしれない。

仲間の存在ほど有難いものは無い。あしがら農の会の仲間。生ごみ堆肥化の仲間。田んぼの仲間になると、殆ど家族のようなわがまままで言える仲間である。やや方向を同じくする仲間である。すごく大きくとらえれば、似たような方角を目指している。もちろん厳密に言えば、それぞれ一人である。しかし、協働できる範囲である。小田原の生ごみがすべて、堆肥になるまで頑張る。あしがら地域に自給農業が広がる夢。こうした思いがあるので、孤立から救われている。孤立状態が広がる。困窮から、餓死する。ガス、電気、水道を止めるけれど、どこにも連絡はしない。プライバシーとか言うが、いい訳にすぎない。その前に、おかしいと思う感性が無い。そんなことまで仕事の内ではないという意識があるのだろう。誰かを責める訳ではないが、こういうことが当たり前に通る社会ということは、深刻な事態だと思う。
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小出先生の講演会

2012-02-27 04:21:18 | Peace Cafe
鶴川にある和光大学で京都大学の小出先生の「福島原発事故と放射能汚染の全体像」という講演会があった。直接表情を感じながら、話を聞いてみたかったので、出掛けた。想像どうりの信頼できる方であった。映像では分からないこともある。生に接してみたかった。原発事故に関する考え方は、ほとんどが小出氏から学んだことなので、当然のことなのだが、まるでわたしの考えていることと一緒であった。最後の話で、焼却炉の事なり、放射能はバブフィルターで排出の99,8%捕捉できると言っても、各々焼却炉で状態が違う。その焼却炉で実験を行い確認してから使う必要がある。と終わった。その後、市民と対話部門があるとのことだったが、夕方から他の用事があったので、小出氏の話を聞いて引き揚げた。会場は500人定員と聞いていたが、満杯で入れない人もいたらしい。小出氏の話を一言も聞きもらすまいと言う、こんな全員が集中した講演会は初めてであった。

放射能の安全基準は年間1ミリシーベルト以内のところで、人間は暮らすことになっていた。政府の発表では、福島から北関東に宮城に、20ミリに近い所が地域が大きく広がっている。1、子供を放射能から守ること。2、1次産業を守ること。この2つを強く繰り返し述べていた。一次産業と子供を守るということは、田んぼで採れるお米には、放射能が多く集積する、「入水口付近のお米」がある。これは60歳を越えた、わたしのような年寄りが食べる。放射能の影響はほとんどないことが分かっている。その田んぼで最も放射能が少ないだろうあたりのお米は子供に食べさせる。というようなことではないか。子供たちは責任もなく、放射能の被害者になりやすい存在。子供だけを高濃度汚染の福島から、逃げるのもあるが、家庭の崩壊も問題になる。国は汚染地域からの移住希望者を斡旋するべきだ。特に汚染地域農家には、全国に広がる、耕作放棄地に移住してもらえばいい。

今後の処理では、福島第2原発の場所に放射性廃棄物の最終処分場を作ることを提案していた。もう帰ることはできない。使うことなど考えられない。地元の自治体には、原発を推進した責任がある。最終処分場を引き受けるべきだ。原発周辺地域に暮らしていた人たちには申し訳ない事だが。戻れないし、戻るべきではない。今問題になっている、放射能焼却灰は東電に返却するということで、福島第2に運ぶ。今の政府では出来ないだろう。チェルノブイリが幸いしたのは、共産党独裁的に存在したことだ。ゆるんだ民主主義では、これを進めることはできない。神奈川県の受け入れも出来なかった。理由なき不安。迷惑処理はどこでも出来ない。しかし、あの気味が悪い、「頑張れニッポンとか、連帯とか、絆とか、」あれはどういう意味だろう。政府主導とも思えないが。どこかの宗教団体が仕掛けたのか。まさか右翼団体とも思えないが。

小田原の舟原では、普通の暮らしをしていれば、自給自足で暮らしていても、食べ物からを含めて、1ミリシーベルトを超えることは無い。何度もこの計算は書いた。東日本全域が海を含めて、汚染地域になったということも現実である。300キロ離れた小田原でも、子供には気をつけた無ければならないレベルの汚染である。一次産業を中心にした暮らしに戻る。これしか原発を止める方法は無い。エネルギー浪費社会に暮らし方をしていることが、原発を必要としている暮らしである。原発事故に対する、自己責任を感じなければならない。小出氏は東北大学の学生時代、原発反対の為に女川で暮らし、ビラ配りをして居たそうだ。女川は津波で何一つ無く成っていたが、必ずやまた人間が暮らす街が出来る。しかし、福島第一周辺はもう人間は住めない。この損失は日本が倒産しても返せないほどの、損害をもたらしてしまった。自己責任として誰もが受け止めなければならないと、必死に言われていた。
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ヒットラーの絵

2012-02-26 04:14:53 | 水彩画
ヒットラーは10代の頃は絵描きを目指していたということは何かで読んだ。その頃の絵が残っているが。良く集めたホームページがある。絵のレベルとしては絵を勉強したり、写していた範囲である。不器用な人の絵だ。芸術的センスが不足していたことが分かる。こうしたコンプレックスが独裁者への道になったと言われてもいた。独裁者になってからの、偏向した美術への口出しに現われる。もし最近ネットで競売された絵が本当にヒットラーのものでり、つまり偽物でないなら。2重人格者である。人の目が気になる人に変わっている。評価されたい人。何のために絵を描いているかが、芸術とは違う方向の人になったということがわかる。しかし、この絵がヒットラーのものとはどうしても思えない。初期のヒットラー絵とされるものが、当人も認めていて、保存されていた事も不思議である。まともならこれらの絵は廃棄しただろう。



こんな絵である。絵にならない一番の原因は、作者が居ない所である。絵という概念を写している感じだ。全体のバランスが狂っている。細部に固執するために全体が見えていないゆえである。固まってしまった感性。柔軟性とか豊かさとは無縁なもの。若いのびやかな感性が、まったく見えない。そっれ故にその後の人間性の欠落したヒットラーが想像できて、なるほどそうかと思えるものだ。良い絵描きになる人は、デッサン一つでも最初からそれなりの絵を描いているものだ。中川一政氏の20代の絵の良さなど好例である。結論から手っ取り早く、上手になろうと言うことが一番まずい。このやり方では、素早く進めるように見えるが、結局は自分の絵と言うものに到ることがない。前近代的なものが、実に古臭い匂いが漂っている。



今度ネットで販売された絵である。これが意外にも絵にはなっている。暗い情熱がある。わたしが興味をもったのは、夜の満月に照らさせる海の絵を描いている事だ。私も3月11日の後、やっと絵を描いてみようと思ったのは、この満月の海の情景である。それで何か引っかかるものを感じた。この2枚の絵が同じ作者とは思えない。多重人格者であったのだろうか。随分捨てている。リアルな手法だけは似ているが、作者というもののこころが出ている。出てきた作者がヒットラーではない気がする。どうしても違う作者の絵に思える。寄りかかる所は、こういう絵を描く人は一般に芸術というものを信じていない。芸術をプロパガンダに使うという意味では、いわゆる実用芸術を絵とする人かもしれない。割り切れないものを、ないものとする人が多い。何が芸術なのかを考える必要が無い。見えているものを巧みに描写する。絵をその程度のもので良いと出来れば、お手軽ではあるのだが。

ゴッホは価値ある絵を描くことで、自分という存在の価値を確認しようとした。価値ある絵が描けないということで、絶望して自殺をする。評価されると言う事で、自己の存在証明をしようとした。確認をしようとした。わたしの場合は、価値のある絵を描がけているという自覚が無い。それでは自分というものに価値が無いかと言えば、そうでもない。わたくしというもののままを確認して行く他ない、と考えている。他からの評価で自分が確認出来るものではない。自分の目が見ているものは確かにある。あるという認識がある以上、それを画面に表現してみたい。それが出来ることなのかどうかはわからないが、それに近付きたい。ゴッホは多分、自分の目が見ているものを、画面に表現で来たのだ。その自覚があるのに、それを理解できない、世間に絶望する。出来ない内の方が苦しみは少ないか。
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★被災地で生まれた子犬たちの譲渡会開催★

2012-02-25 07:08:15 | 暮らし
★被災地で生まれた子犬たちの譲渡会開催★





日時 平成24年3月3日(土) 13:00~16:00

     雨天決行予定ですが、あまりに天候が悪い場合は

     中止の場合もございます お問合せくださいませ




場所 茅ヶ崎 BOWWOW様 茅ヶ崎市東海岸南」6-3-12

    会場には駐車場はございませんので、

     お車でお越しの方は近隣の駐車場をご利用ください。







お問合せ先

 UKC JAPAN湘南

 神奈川県高座郡寒川町小動341

 電話 090-1157-2499(タッズ母まで)

 E-mail j-tazs@amane-taz.com




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ギリシャの公務員

2012-02-25 04:30:02 | Peace Cafe
ギリシャでは4人に1人が公務員だそうだ。デマだという話もある。ギリシャ政府はうその申告をしてきたようだ。国家財政すら、粉飾決算をしてきた。その公務員が午後3時には仕事が終わる。退職後も給与に近い年金をもらう。国が破たんしかかっている。待遇を良くしてもろくな人間が集まらなかった好例である。EU全体の問題だということで、各国から支援の見返りに、公務員の正常化が計られた。公務員の暴動が始まった。そんなギリシャの公務員を育てたのは、民主主義の選挙である。公務員を優遇すると言わなければ、選挙に勝てない。どこの家族にも公務員が居るという計算である。本来なら国家崩壊。ところが、EUの中にいると言うことで、一定の信用を維持していた。その為に、国力はどんどん低下して行くにもかかわらず、問題に直面しようという政府が現れなかった。

ギリギリのところで、ギリシャへの金融支援が決まった。緊急に資金を融通すると言うだけの話だから、ギリシャ自体がこの間に立ち直り策を立てなければならない。当然馬鹿げた公務員待遇は止めるという約束を、ギリシャはEUに対して行った。しかし、国民投票をすれば、EU案に反対の方が多い国。このまま公務員でいたいという人たちは暴動まで起こす。社会主義政権下での公務員優遇の放漫財政。自分の待遇さえ確保できれば、国家等どうなっても構わないと考えているとしか思えない。しかし、ギリシャが破たんすれば、その国債を買ってささえてきた、EUの金融機関は連鎖破綻に陥る。ギリシャ政府に統治能力が無い以上、債務保証をしながら、金融支援を行い、ギリシャ政府の政策変更に圧力をかけて、普通の国にするほかない。どこまでEUは、特にドイツは我慢できるだろうか。

ギリシャの公務員を他山の石としなければならない。日本の国家公務員も2年間だけ7,8%の給与削減になった。やらないよりはいいが、2年間だけでは話にならない。毎年下げて、今の半額くらいまで下げるべきだ。下げないなら給与に相応しく、働いてもらおう。実は国家公務員よりも、地方公務員の方が問題が深刻である。平均給与で言えば、地方公務員の方が給与はさらに高い。地方行政を見てなるほどと思える、政策的業務になって居るだろうか。地方公務員の給与削減を、進める必要がある。小田原で言えば、小田原の平均所得程度の給与で良い。民間の平均給与はおおよそ400万円だ。農林水産業では、300万円を切っている。地方公務員は800万円だ。半減しても良いことが分かる。いや半減しなければ不自然である。半減しなければギリシャになる。

公務員の給与は、地域の平均所得と連動すればいい。スト権も認めたほうがいい。組合もあった方がいい。暴動は困るが当たり前の方がいい。民主主義の限界である。多数決の問題点である。社民党共産党は公務員の給与削減に反対であった。社民党の意見を読んだが、全く意味が分からない。「公務員の生活保障の観点からも問題がある。」「公務員は震災対応で大変だった。としている。世間全般の生活保障はどうなると言うのだ。「放射能汚染で農家がどれほど困難を背負い込んだか、分かっているのだろうか。共産党は憲法違反だと述べている。この緊急時に国家公務員の給与を7,8%下げることを、憲法の問題にするなら、日本人の給与の大半が、憲法違反である。両党には、視野を広げて、この先日本の事を考えて見てもらいたい。国家公務員の大半は社民や、共産を支持するような人たちではない。弱者がどこにいるのかに目を開いて欲しい。
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東電の国有化議論

2012-02-24 04:47:36 | 暮らし
東電の国有化を東電が受け入れない。経団連の代表は、政府の思い違いだと発言している。東電の置かれている状況は、電力を国としてどのように位置づけるべきかの、根本が問われている。原発事故に至った、チェック機能を育てられなかった体質が、独占民間企業という自己正当化に陥りやすい会社のあり方に原因があった。加えて原子力発電所の事故を起こし、300キロ離れた小田原にまで被害をもたらし、今だ解決の方針すら示す事が出来ない。最悪の企業内部の状況である。経団連代表は軽い人だ。東電の社長に頼まれて適当なことを発言したのだろうか。東電はそもそも民間企業ではない。電力を独占販売できる立場で、その販売価格も利益が出るように、法律で決められてきた会社である。いわゆる民間の競争の中で、問題点が自浄努力されるような会社ではなかったのだ。しかも、国の原子力推進の方針に基づき、自主的な判断などない中で、今の状況にまで進んだ会社である。いわゆる民間会社として、経営が磨かれる機会がない会社である。民間の良さなどないそもそもない会社なのだ。

一方、国有化して良くなるはずがない。そう考える経団連代表の考えには同感だ。ギリシャではないが、公務員が国をつぶす。それでも、今の東電は最悪の形の民間会社なのだ。電力会社と癒着した批判を受け入れない原子力村の存在など、その悪い形が現れたものだ。耐用年数についても、長く使えば儲かると言う事だけで、安全性を企業の存続にかかわる、根本の事と考えていた形跡がない。安全を前提として、いかに国民を洗脳するかだけを模索した会社だ。本来原発の安全性を高めるためにかけるべき費用を、原発の安全の洗脳活動にかけていたのだ。それは、半分民間という、実に悪い経営形態に由来している。原発周辺の自治体に訳のわからない寄付行為を何10億円としている。それも電気代に上乗せできるのだ。もし、競争する民間会社であれば、一定の歯止めはあったはずだ。今でも、原発から足が洗えない姿は、マインドコントロールが政府ともども解けないかのごとくである。

国有化は緊急避難として止むえない処置であろう。原発事故の処理が付くまで、国が全面的に対応する以外、解決が出来ない。我々も東電と直接賠償交渉をしたが、全く良い交渉にならない。当たり前のことで、巨大な加害者と小さな被害者の直接交渉では、話し合いの場すら拒否されたまま、どうにも動かなくなっている。議事録を作るという約束すら、3時間の話し合いの結果が、東電の都合のよい10行程度の文章にまとめられて終わりである。東電の社員の態度も、日に日に投げやりになり、どうでもいいという空気が蔓延している。自己の責任を感じて、謝罪し解決に当たろうとするとする会社の体制にない。現状は、NPO団体への賠償の形が出来た時に連絡をするということのまま、今持って連絡がない。不誠実な加害者となぜ我々が努力しなければ、交渉を持つことすらできないのか。努力するのは東電の側だろう。こんな会社に再生の道は無い。

有機農業で耕作していたものは、それに応じた顧客を確保してやってきた。有機農産物の購入者が、セシューム100ベクレル以下どころか、0,1ベクレルでも厭なものは厭だ、という反応になる人が存在する。そして宅配を止める現実がある。その為に起きた損害に対しての賠償に応じない東電。こんなひどい会社をこのまま残しておいていいのか。長年のゆがんだ民営会社というおかしな形で存在していたため、危機に対する対応能力を失っている。再生できる能力が無い。国有化論の根底には電力全体の構造改革が必要ということを、据えなければならない。電力の自由化。これが基本の理念ではないか。各地域に小電力会社を育てる。自給電力ネットワークの構築。その為に国が環境整備をする。国が受け持つべき部門と、地域の会社が受け持つべき部門を明確にして、自然エネルギーの小電力会社を育成する。
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インターネットの革新

2012-02-23 04:51:27 | Peace Cafe
インターネットは、携帯化の時代に入っているようだ。携帯電は一人1台の時代に入ったということある。携帯と言うのか、A4サイズのものがある。GPS機能があれば、行方不明にはならないだろう。耄碌してきているので現実の問題になってきている。自分だけは大丈夫と言うやつだ。何も拒絶している訳ではないが、どんどん変わりすぎてタイミングを逃している。時々説明を聞くのだが、まだよく理解が出来ていないでいる。A4で、電話にもなり、メールも出来て、インターネットが出来る。写真が写せ、記録が取れる。つまり、キーボードとつなげる。カーナビにもなる。出来れば防水機能がある。そう言うものを私は欲しい。実はこういう事をお店で聞けないのが困る。恥ずかしいからというより、舟原でも可能ですかと聞いてみても、「どうですかね、無理でしょうね。」先日、新しく出来たPCデポで言われて、それ以上聞けなかった。

ネットが北アフリカや中東て、政府の報道制限を越えて、革命にまで結びついたと言われている。情報と言うものが、社会を変えてゆく大きな要因であることは間違いがない。多様な雑多な情報から、自分で拾いだす方式。この良さが、インターネットにはある。天気予報でも情報を集めて自分なりに判断することが出来る。将棋の生中継と言うものがあるが、毎日に近く行われているほど増えた。視る人が居るから、増えたのだろう。有料タイプもあるが、無料のものもある。ブログでも、報道でも有料タイプもある。ホリエモンは有料タイプで何千万円も稼いでいると言っていた。要するに金儲けの情報源だろう。金儲け法も注目を集める。何が注目されるかが、判断基準の社会。ユーチューブで音楽が無料で、多分違法で流れる。この違法性のある情報の流れ方が、著作権社会の方を変えるだろう。

中国ではネット情報を国家が管理しようとしているらしいが、無理なことである。情報は抑えるほど何処かから沁み出て来る。アメリカではネット制限をする法律が、通らなかった。この事でソフトの開発が衰えるという意見が出ていたが、ネットは資本主義をも突き抜ける新しい価値を生み出していると思う。知的財産権とか言うようなものは、無くなる方がいいと考える。儲からないから、工夫しないというようなものは無くなっていいものだ。損得だけで人間が動いていると思い込んでいるのは、古臭い資本主義に洗脳されているからに過ぎない。最近の人間が利益で動いていたに過ぎない。人間は時代によって違う価値観で動く。名誉を一番の価値に置いた時代もある。何かを作り出したいと言う気持ちは、人間の本源的なものである。絵を描きたいという思いは、別なものである。

創造物に権利を付けるという発想は、資本主義では普通である。しかし、ネットはこの資本主義の価値構造を壊し始めている。詩人が詩を利権として扱いたいとしても、そんなものすでに成立しない。そもそも作り出した詩で儲けたいという詩人は少数派である。詩を売って生活出来ないから、詩を作らないだろうか。売れないから良い詩が出来ない。資本主義と言うものはそう言う考えである。ネットでは、音楽の著作権が崩れてきている。映画やCDも忽ちにネットで流れる時代。ただで見れればだれも買わない。買わなければいいものが出来ない。そう言う主張をしているのは、一儲けしたいからものを作る人たちだろう。書籍の再販制度が無くなると良い本が無くなると主張している人が居るが。そんなものが無い時代の方が良い本がある。研究費が無くなると学問の進歩が無くなると言うが、本当だあろうか。違う質の学問になると言う事だと思う。ともかく、ネットは著作権のような、知的財産権を崩壊させる。これは善悪を越えて文化の質を変えて行くと言う事だ。

昨日の自給作業:キャベツ苗の植え付け等2時間 累計時間:18時間
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人口減少時代の日本の姿

2012-02-22 04:22:03 | 暮らし
国土交通省では人口減少時代を随分前から予測している。「国土の長期展望に向けた検討の方向性について」平成22年12月17日に国土交通省国土計画局が作っている。2050年の日本の姿であるから、生きていて見れるとしたら、100歳と言うことになる。興味のある所を抜き出してみる。

○日本の総人口は、2004年をピークに、今後100年間で100年前(明治時代後半)の水準に戻っていく。
○国土の大部分で人口が疎になる中、≪高齢者1人あたりの生産年齢人口≫は、ほとんどの地点において2人を下回る
○地球温暖化の影響による平均温度の上昇のため、米粉米、飼料米、バイオマス米などの用途となりうる米の二期作や早期栽培米の栽培可能地が増大(現況実施面積1.4%→将来可能面積44.2%)
○主要産地である北海道の小麦作については、地球温暖化の影響による収穫期の降雨日数の増加のため、品質低下による大幅減収の可能性があるが、冬期の降雪期間の短縮に合わせた収穫期を図る栽培を行えば、概ね現況どおりの収穫の見込み。
○少子高齢化と人口減少により摂取カロリーは2050年には26~28%減少する。そのうち、米(主に炊飯)と小麦の摂取カロリーは22~32%減少する。
○里地里山とされる地域のうち現在人が居住している地域の約4割(国土全体の1割)が無/低密度地域になる
○降水量の将来推計は不確実性を有していることに留意が必要であるが、今回用いた気象庁の推計によれば、2050年には地球温暖化の影響により年降水量が大幅に増加する一方、人口減少等により水需要は減少するため、年間を通して見ると水資源賦存量に対する水使用量の比率は一時的に小さくなる可能性がある。


以上のデーターに基づき、私なりに将来を想像してみる。生産者人口が半減し、あらゆる分野に機械が入り込む。土地が暴落して、所有を希望する人が居なくなる。住宅地は特に土地価格が付かなくなる。就職は年々困難さがまし、会社の望む特殊な能力のある人だけが就職可能。社会の格差は、ひどく大きくなる。士農工商的な身分制度が見えない形で支配してくる。不動産収入を当てにするような農家の暮らしは、不可能になる。能力主義が支配し、それが差別問題になる。手に職をつけるのが一番というような、職人的な時代の傾向。公務員の給与は今の半分位になっている。新しい病気が増加してくる。気候変動が激しく、大災害が起こる。残念ながら悲観的な想像になる。当事者たる政府が、国交省の予測に向かい合っていなのだから、このままずるずる行く可能性が高いと見ておかなければならない。

農業生産の条件は、それほどは悪化しない。むしろ国土全体では農業向きの国土になる。人口は江戸時代に戻ると考えられている。このあたりに、軟着陸の姿が見えてくる。計画後の2年間をみても、この推計に近い動きが始まっていることがが分かる。少なくとも行政機関はこの資料に基づいて、各市町村の総合計画を立てる必要がある。小田原市の計画では考慮されていない。住宅は間違いなくいらないくなる。市街化調整区域の見直しなど、時代の先を見通せばあり得ない事。街中においても、所有者の分からない住宅やマンションが珍しくなくなる。10年もすれば、宅地や住宅、そして山林、農地の投げ売りが、地方から始まっているだろう。土地の資産価値の捉え方が、人口減少時代では様変わりする。所有していることの負担が大きくなり、資産的に土地と言うものを保有する人はいなくなる。農地なども、耕作する人が急速にいなくなるので、耕作するだけで何らかの対価がもらえる時代になる。この機会をとらえて農地の公有化を行えばいい。

2050年の時代、自給に生きる人間にとっては、悪いことは少ない。土地はふんだんにある。自給に生きる人間も当たり前のように増えているに違いない。自給農業の技術をまとめておくことは、今以上に重要なことになる。技術さえあれば、人間一人の自給は100坪の土地と、毎日1時間の労働で可能なのだ。田んぼが出来る場所を一人、1畝(100㎡)確保しておけば50キロのお米が出来る。2期作が可能なら、80キロ可能になるだろう。1畝に野菜を作り、1畝に鶏小屋付きの家を建てて住む。何の不足もない。足柄平野の農地面積では、食糧自給が可能になると言う事だ。人間の暮らしは食糧確保さえできれば、心配はいらない。病院も、学校も無くなっても何とかなる。天候異変は相次ぐことだろうから、異常高温、異常低温には常に気おつける必要がある。雨量は増える。水の力が大きい。その点でも稲作は有望である。大雨に強い山づくりは、今から取り組む必要があるだろう。
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「空海の空」

2012-02-21 04:00:43 | 
最近小説本にはまり、50冊以上の本を買ってしまった。それでも1カ月位で読んでしまう。ブックオフで1冊105円で買う本である。東京には3冊100円の古本屋があるのだが。お風呂の中でも読んだりする。読み終わった所から破り捨てる。書物に対して不謹慎な読み方をしている。こんな読み方なので図書館の本と言う訳に行かない。読んでない本がある安心。中学生の頃、試験の前になると本にはまりこむ。夜中まで読んでいて怒られるので、布団の中に明りを入れて布団を燃やしたことがある。テレビのがん保険のコマーシャルが刷り込まれた気がする。がんと診断されて、本を買い込んだというくだりである。好きな時に好きなだけ本を読みたかった。本を読む楽しさは他の何にも代えがたいものである。中学生3年間で図書館で一番本を借りた人で、賞状をもらった位である。その頃から変わらないのだが、中国ものが好きだった。毛沢東でも、三国志でも構わなかった。

「空海の空」は司馬遼太郎にしては読みにくい本である。空海をめぐる感想文と言う方がいい。密教の世界のことなど、予備知識のないものに分かる訳がない。現代でも空海研究会と言うのがある位だ。正密と雑密があると言われても、小乗仏教と大乗仏教と言うような、雑の方を蔑んでいる感じなのか。雑と言うのは修験道的な、仏教以前の呪術的土俗を言うのか。インドでの宗教としての発生の違いというようなことが書かれている。インド世界のことになると、仏教のような巨大な思想哲学を完成して置きながら、いつの間にか、ヒンズー教という一地方の宗教に変わってしまう不思議。それを受け入れ育て上げた7世紀中国の唐と言う時代の大きさ。そして、日本から仏教を学びに行く、天才中の天才。空海はサンスクリットを半年ほどでマスターする。中国で失われてゆく密教の継承者として、宇宙的で壮大な密教を体系化をする。そのご日本で1300年間、宗教として成立させた空海。御大師様として、身近なお坊さんであり、弘法水は全国いたるところにある。

だいたいに中国ものは読みにくいと決まっている。読めない漢字の名前が山ほど出て来る。探偵ものが好きなのだが、名前がカタカナだと厭だと言う人が居た。わたしは名前を覚えられないので、適当である。105円の本には、名前がメモったりしてある位だ。前半は空海の自分像が手探りである。明確に出来ないでいる。唐時代の様子が面白い。作者が頭の中で、勝手に思い込んで吐き出せないようなもどかしさがある。密教の内容が分からないレベルの読者を求めてません。と言われてしまうようだ。古代の日本社会の感触、唐時代の中国の感触、これが徐々に紡ぎだされるあたりは、さすが司馬小説である。外郭から迫り、中盤あたりで空海の天才性がくっきりし始める。このあたりから名前も呑み込めて、ハマり始める。あくまで小説である。

お大師様の日本の民衆の受け止め方は興味が深い。我が家にも水が湧いている。この水と言う財産は私有しにくい。弘法の水と名付けたい心理がある。水には厄介な利権がある。利権があれば不安がある。大師様におすがりしたくなる。田村さんは諏訪の原の少し下で、湧水を見つけて養蜂場にまでひいてくれたそうだ。水の管理は天皇家である。それは国家権力といえる。そこで大師様で対抗する民衆的な知恵。大師様の杖の先に水が湧きだすリ有難さ。技術と言うものを秘儀として位置付ける密教を感じるがどうだろうか。天皇家も空海の密教も同根ではないか。民衆は技術と言うものを、信仰の対象にまつりあげながら、ムラ、地域公共の財産として管理運用して行く知恵。水神信仰による、管理。古代中国の開かれた精神。唐時代の特殊性。海外からの外交団を優遇する姿。遣唐使の話をもっと読みたくなった。
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「弥生ムラの出現とその背景」

2012-02-20 04:19:12 | 暮らし
小田原市教育委員会主催で、あしがら地域の弥生の村に関する考古学的視点からの、研究の成果を発表するシンポジュームが開催された。東大の放射能のシンポジュームに参加せず、こちらに出た。考古学的な成果であるので、例えば大津波ですべてが流されてしまえば、それ以前のことは分からないということになる。あしがら地域の平野部では、富士山から流れ出た、2600年前に御殿場泥流によって、一度すべてが流された。大井町山田の中屋敷は泥流の影響を受けなかった場所である。その後400年ほど平野部が恐怖によって利用されなかった。そもそも平野部には集落がなかったのかどうかは、考古学的には分からない。が、他所では河口付近に集落がある例は多いとの事。この点では異論がある。近畿地方から来た人たちが、平野部の泥流の体積の上に、タブーを破るように住み始めたものが、中里遺跡ではないかという仮説。大同毛織跡地であり、現在ショッピングモール。関東以北では、初めての田んぼ耕作地。

もう一つの意見は、弥生時代とは水田の時代と言う事だが、水田だけでなく当然、畑作も行われていた。畑作が考古学的には痕跡を残しにくいということ。当然のことで、議論の余地もない。ただし田んぼと言うものが、谷間では作りにくいとか、台地では出来ないとかいうのは間違え。山中に新しい田んぼを作ったことがあるので良く分かるが、作ろうと思えばどんな場所でも田んぼは作れる。また、イネの栽培温度を問題にしていたが、品種が違えば異なるので、当時の品種特性を考えた方がいい。稲と言うものは文化として、民俗としてとらえた方がいい。稲を携えた人は、生活と言う意味を越えて、宗教的な意味でも栽培にこだわったと考えられる。後の神田の存在。中屋敷で出土した炭化米、がそこで栽培されたのかどうかは不明。陸稲的な原始的水田である可能性もある。むしろ水稲と言う文化が、何時頃、どのような形であしがら地域に入るかが重要。その重要さこそ、未来のこの地域の姿を現しているという視点が必要。

歴史はいつも未来から見る必要がある。その意味では弥生の村の出現以降の、この地域の枠組みが固まって行く過程を解きほぐす視点は、未来どうあるかという視点から出なければならない。当然、先進文化である稲作が、富を集積することになる。その水利技術が、権力と結びつく。信仰や民俗とも結びついて行く。そして新しい地域が形成されたのであろう。それは武力的な権力構造より、生産的な背景を捉える必要がある。生産の形態と言うことの稲作では、江戸時代の以前の暮らしは、中里遺跡から一直線の2000年であったはずである。江戸と言う大消費地が生まれて大きく暮らしが変化する。生産物が自給的なものから、流通的なものへとの変化。この過程で薪炭の生産が大きくなる。石や材木も同様である。

「弥生ムラの出現とその背景」を考えることの重要さは、この地域の潜在的な価値を考えることに繋がる。水や土壌や気候と言うこの地域を形作っている、環境的条件を反映しながら村が出現して行く。その村もその後の災害を経過しながら、江戸時代をくぐりぬける。そうしてこの地域の人間とその社会が形成される。現代社会においては、地域の条件と言うものから、遊離した形で議論される。その足元を見ない経済のあり方が、地域社会を空洞化させている。一見弥生の村など、グローバル企業にはどうでもいいことかもしれない。しかし、この地域で暮らすためには、必ず振り返って考えて見る大切な原点だと思う。それは人間とその社会がどういう環境から、生まれて来るのかということである。そこには、稲作と言うものが大きく影響して来たこと。その水をめぐる、むら社会の形成。ご先祖様という意識。

昨日の自給作業:麦の追肥2時間 累計時間 :16時間
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水彩人同人展終わる

2012-02-19 04:32:48 | 水彩画

会場で制作中

水彩人同人展が終わった。18人の銀座一枚の絵ギャラリーの展覧会である。水彩画と言うものが良く表現されていたかと思う。むしろ、この場にない水彩画の事を考えていた。水彩と言う材料にこだわっている訳ではない。自分が何故水彩と言う材料に向かったのかということである。13歳の時に中学校の美術クラブに入り、油絵具を買ってもらった。渋谷の道玄坂の上の方にあった画材屋に買いに行った。確か一緒に美術クラブに入った、井沢君と畠山君が一緒に行ってくれた記憶がある。父親にお願いしたのだが、その時の父親の態度はとても複雑な態度だった。喜ばれる事だと思っていたのだが、そうでもなかった。私が何かをやることに対しては、とても尊重されていたので、意外だった。何か釈然としないまま、13,000円の油絵セットを買った。今はその時の父親の気持ちがわかる。大正時代のイラストレーターだった父親、彫刻家になった兄、学者になった弟。

その時の桂材の絵の具箱は、油絵を描かなくなるまで使っていた。フランスでも使っていた。30年は使ったことになる。油絵をやめるにあたって、油関係の画材をすべて捨ててしまったので、残念なことに今は無い。油絵を描かないということは、それくらい決意のいることだった。まず、アクリルに変わった。アクリルと言う材料に可能性を感じた。その方向が間違えだと気づいて、水彩画に移った。何時まで経ってもアクリル素材としての美しさに進まない。可能性も低いと思わざる得なかった。ではなぜ油に戻らず、水彩の方向に進んだのか。それは日本の自然と言うものを描いてゆくうちに、水彩と言うものが持つ水墨的調子が、適合すると感じたからが一番。その頃毎日書を書いていたので、和紙に墨と言う、表現の奥行きに気付いたという事がある。水彩画と書の中間のような仕事に気がついた、ということである。何故かその時に、セザンヌの水彩の事が気になりだした。

井上有一氏の書が絵画として見られたように、セザンヌの水彩を「書」としての角度から見ることもできる。わざわざそんな変なことを考えないでも、私自身はそう言う魅力をセザンヌの水彩に感じて見ていた。筆触に焦点を合わせると、変人セザンヌが現われる。そしてその意味を考えて見ると、日本人の伝統的芸術観に行きあたる。書と言うものを見ているのでなく、書を通してそれを書いた、偉大な人間を感じようとしているのだ。ああこれが坂本竜馬の書ですか。などと言う風である。先日マチスはとんでもない人間だったらしい。と言う話を、水彩人の松波氏に言われた。確かにマチスの絵を見るとき、マチスの人間のことなど関係もない。この違いを、もう少し絵の上で考えて見たいと。このことは結論が出ないまま、出ないがために、水彩画を掘り下げて、日本の芸術のあり方を深めて見たいと考えた。

何も偉人になって偉大な絵を描こうと言うのではない。自分と言う人間が分かる絵が描いてみたい。自分と言う人間が見ている眼前のものを、そのままに画面に描いてみたい。それには水彩という方法がいいと考えている。水彩という素材が、私には合っているということである。墨で色を見る等という事をインチキとしか感じられない人間である。油絵のように質感を伴うと、物質としての絵と言うものを作り上げている、彫刻のような余分な作業がはいる気がする。あくまで観念の事としてやりたい。網膜に写る、脳の中で展開されるイメージを表現したい。そのことは、要点のメモのような事だと思っている。頭の中で再構成されるイメージは、必要な肝心なもの以外は消されている。「ああ、あの空はもう春の色だ。」一昨日そう感じた。そのわたしと言うものが感じた空の色は、どういう色なのか、画面に描いてみたい。
絵を買ってくれた人が居たので、その代金は福島に寄付させていただく。

昨日の自給作業:果樹の消毒二時間 累計時間:14時間
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放射能の玄米への移行の想定

2012-02-18 04:34:54 | 稲作
稲への移行は土壌からではないと考えている。チェルノブイリのような、水とは縁の薄い作物や農法と、全く別の移行の状態を考えるべきであった。それは、土壌が50ベクレル以下の足柄平野の土壌であっても、福島の何万ベクレルの土壌であっても玄米への移行は、大した違いは無いという結果につながった。昨年の測定結果が出てきている。流入する水からの影響の方が、大きいと思われる結果である。この水の汚染レベルは、極めて低く、土壌への影響も出ないほどの低レベルの、多分0,1ベクレル以下の、検出限界以下のものであろうと思われる。水に溶け込むような(この状態については知識がない画、セシュームは水にも溶けるはずである。)小さな粒子のセシュウムが、直接稲の水根に吸収されてしまう恐れが考えられる。イネには下根と上根がある。栽培の方法にもよるのであろうが、わたしの田んぼでは表土を広がって這ってゆく、上根は水根と呼んでも良いものではないかと考えている。水生植物の根のように、水に溶けている養分を集めて植物体に送る。

水の力でお米は出来ると言う事実に観察すればするほど気付かされた。栽培法が上根を広げる結果になっていた。つまり、水耕栽培に近いと考えられる。雑草を抑制するために、自然とそうした栽培法にたどり着いた。今回の放射能はそのことが裏目に出た。足柄平野では、検出限界以下が普通の状態であるにもかかわらず、意外に高い値を出してしまった。本当に申し訳ないことをした。お米にとって良かれと考えて来たことが、崩壊して行く。心もずたずたである。参った。その衰えゆく過程で、気付いたことを記録しておく。トロトロ層を作り、雑草を抑制する。この仕組みがだんだんに見えてきたので、調子に乗って極端化するようになっていた。トロトロ層を作るために、田植え後にソバカスを散布をする。ほぼ1カ月間断なくソバカスを蒔いてきた。この事で田んぼの表土は発酵を始める。莫大な量の小さな生き物がステージを追って展開する。

稲は実を付ける後半になるに従い、耕盤を緩めるぐらいにトロトロ層が深くなる。この水を大量に含む土壌に根を広げて行く。その表土は微生物が大量に存在し、ミネラルも豊富で有ると考えてきた。いわば流入する水とまじりあうような、水耕栽培のような状態を作り出している。下根は植物体を支える役割。水を吸収しながら、微量な栄養分を集めている上根。田んぼは常に8センチ以上を目標に水を深く、入れ続ける。干し田もしない訳ではないが、稲が倒れない範囲を目標に、7月中には雨を見ながら控えめである。下手をするとずるずると稲が倒れ込む。稲は草取りで歩くと、深いぬかるみ状態の中に、びりびりと根を切るような状態で、表土の中に根を広げている。

以上を前提にもう一度、放射能の移行を防ぐための稲作法を整理してみる。しかし、放射能については、不明な点が多々あるので、あくまで個人的参考意見である。1、水を浄化しながら注入する。入水口に、ゼオライトなどを入れて、そこを通過させた水を田んぼに入れる。2、稲の栽培法として、深い根を中心に栽培する。深い耕転をする。後から糠やソバカスを蒔かない。表土には肥料分を減らす。3、入水口に溜池を作り、セシュウムを吸着しやすい水生植物を繁茂させる。多分、ホテイアオイは良いか。子ノ神田んぼで体験した結果。4、昨年の3月15日前後に山の広大な面積に放射能は降り注いだ。これが土壌100ベクレルである。そしてそれは、山に降り積もった腐葉土への吸着濃縮状態。今年の落ち葉のセシュームは50ベクレル。すでに間断なくにじみ出している。いつ流れだす放射能がピークになり、いつ流されてしまうのか。今年は去年以上に要注意ではない。5、土壌の腐植量、土壌のカリウム、カルシュームなどは、稲の場合はあまり考えても大きな影響は無いのではないか。
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TPPより市民交流

2012-02-17 04:23:11 | 地域
TPP反対の理由は何度も書いてきた。理由は明白で、日本がアメリカの食い物になるということだ。野田政権は、と言うより政治全体が東アジア経済圏構想を軽視したままいる。アジアの日本と言う事を考えずに、TPPにのめり込んでいる。国と国との付き合いを、人間同士の交流に変えることだと思う。経済の観点からだけ考えては、大局が見えなくなる。国と国がきちっとお付き合いするということは、人間同士の交流が先になければならない。互いに学び合い、高め合う関係が必要だ。ただ金儲けのために、他国との経済協定が必要と言うようなあさましいものでは、互いに蹴落とす関係になる。戦争への道である。確かに経済と言うものは、基盤である。日本にとって基盤であるように、相手国にとっても基盤である。互恵関係であればいいが、相手を利用して一儲けしようということが、腹の底にあるのでは信頼できる関係ではない。「TPPなくして日本の雇用は守れない」経団連の意見だが、TPPで日本の農業就労が失われる事だけは確かだ。

韓国は太陽政策の揺り戻しで、一気にアメリカ一辺倒になった。韓国でこれから起きることは、日本の10年後の姿である。最近韓国系世界企業がやっかみ半分で報道されている。韓国のグローバル企業の躍進で、韓国人の暮らしが良くなっているわけではない。人間の暮らしの視点から見なければならない。時々現れる、韓国との比較記事は日本人を焦らせようという、意図的な報道の気がしてきた。韓国は北朝鮮との関係があるから、アメリカへの接近も止むをえずという側面がある。沖縄の基地問題においても、日、米、韓の3国で話し合う必要がある。アメリカは太陽政策以来、韓国から基地を引き上げる政策を続けた。その分沖縄の重要度が増した。しかし、現状では韓国はアメリカの1とつの州のような状態に進もうしている。韓国でのアメリカ軍基地の重要度は経済から見ても増している。日本に必要なことは韓国と中国との3国関係を優先する。それが日本の安全保障にも重要なことになる。

人間の関係は、まず市民レベルの交流である。国が先に出る関係でなく、市民レベルで繋がりを作り出す。市民の交流は互いの理解である。学び合うと言うとになる。中国に自然養鶏の事で出掛けて、良く分かった。指導するということは学ぶということである。中国も今の一辺倒な政策では大きな困難に直面する。日中両国の目標は、中国が本来持っていて、4000年のアジア農業の知恵を互いに、再評価することではないか。日本は農業の困難さでは先輩である。養鶏で言えば、日本は細やかな技術にたけている。農家養鶏と言うレベルでは、世界に向けて発信できる技術がある。中国人には、まさか日本に中国にまさる自然養鶏技術があるとは想像もできないでいる。それは稲作においても同様の認識だ。日本には日本の、市民のレベルの技術蓄積があるだろう。中国にはさらに奥行きのある農業技術が存在した。今捨て去ろうとしているが、世界を救える農業技術になるに違いない。

人間が幸せに生きるための技術を温め、交流する。こうした姿が国と国の交流の基盤になければならない。そのことを怠り、経済での利益だけの関係は、競争の原理だけが特出してしまう。市民として協力させてもらう関係を、見つけ出すこと。日本はすべてを朝鮮から、中国から学んだと言っても良い。そしてその技術を、細やかに醸成させた。ところが残念なことに今だ、中国や韓国を蔑視する人たちが居る。もうそういう時代を乗り越えていいのではないか。日本で出来た合鴨稲作はまだまだ技術蓄積が浅い。中国伝統の水鳥飼育の技術と食文化と融合すれば、可能性は大きい。中国には、発酵にかんする深い技術が眠っている。市民レベルでの交流を暮らしのレベルで行う意味は、人間の幸せの発展につながる。経済よりもまず人間で行こう。
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維新の会の船中八策

2012-02-16 04:05:45 | Peace Cafe
維新の会の政策が出てきた。3ヶ月に1回世間を騒がさると橋下氏発言していたからこれなのかと思った。全文を読んだ訳ではないので分からないが、農業問題とエネルギー問題に触れていない。いかにも関西の感覚である。自分達を維新の志士にみたてるあたりは、タレント弁護士らしい感覚だとは思う。時代錯誤なグロテスクさが分からないことが少々哀れである。明治政府の見方がテレビドラマ的なのだろう。江戸幕府を変えると言うことは、歴史の必然だろうが、天皇制を採用したことや富国強兵策の方向性の間違いが、第二次世界大戦の敗戦に繋がったのである。今さら明治維新を想起する船中八策の言葉を持ち出す感覚の底には、国民の今置かれている、耐え難い不安感への理解が出来ていないのだろう。国民の多くは、国に何かをしてほしいではなく、これ以上迷惑をかけられたくないのだ。

テレビタレントとして現われた橋下氏への理由なき期待は、政治の失望感。しかし、ここで出てきた八つの政策を表面的に見ても、特別な解決策の提案は無いことが分かる。参議院の廃止を言えば世間が騒ぐ。震災を契機にした新しい国づくりの方角が、この八策には見当たらない。経済政策ではTPPを進めると言うことである。現政権とも自民党とも変わらない考えである。同盟国アメリカの要求には逆らいきれないという諦めと、日本のグローバル企業がこのままでは経営が成り立たないという、お前もかと言う感じ。経済が人間の力量に従うのは自然の成り行きである。今の日本の能力でTPPにはいれば、ずたずたになるだけである。グローバル企業にしてみれば、企業の存在の方が日本国よりも重要な理念である。能力の割に給与が高ければ日本人を雇用しなくなるだろう。企業が生き残った所で日本人が置いてきぼりになることは目に見えている。経済は人間作りから出直す以外ない。

経団連の会長は東電国有化するのは、政府の勘違いだと決めつけている。確かに今の政府の能力では、東電の始末は付かないであろう。しかし、何と何を勘違いと言うのだろうか。東電自身に何とかできる能力がないのも見る通りである。東電はそもそも民間企業ではなく、独占の半分政府に従うような企業であった。こんな企業形態のどこを経団連では評価しているのだろうか。競争原理が働く、本当の民間企業を目指すべきだ。いずれにしても、様々な分野で崩壊が続くだろう。どこにソフトランディングするかを考えるしかない。憲法改正を賛成多数で、簡単に出来るようにするなど、そら恐ろしいものがある。今の政治家たちのレベルで、あれこれいじれば、どう変えようが混乱を深めるに違いない。八ッ場ダムを見ればわかる。あんな調子で憲法をいじくれば、大きく方向を誤ることになる。

橋下氏は大阪市でまず、その力を見せて欲しい。足元の改革が出来るかどうかを見たい。改革するということは誰れもが公約するが、出来た人はまずいない。食糧自給の地域に戻る。これが地方の自立の基本だ。地方が権限を持つということは、市長ではなく、市民自身が権力を持つということである。権力の回復分散である。大阪市に政府が持つ権限を委譲し、橋下氏が大阪の権力者になるのは大阪市民の勝手であるが。その時には大阪市民の食糧に対しても責任が必要だろう。エネルギーについても同じことが言えるだろう。維新前のいわば幕藩体制のようなものだ。各藩がそれぞれにバランス良く成立していて、初めて国家と言う集合体が成り立つ形ではないのか。藩制度を復活する船中八策と言うのもおかしい。地方が自立するということは、地方そのものが一定完結する循環を持つ必要がある。一切の食糧を生産しないというような形では、安定した自立もないし、単なる自立した気分と言うに過ぎないのではないか。
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