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鳥インフルエンザ以来10年、政府は感染症対策に見向きもしなかった。

2020-06-30 04:20:04 | Peace Cafe

 遠くに見える山の裾野当たりが、ゴルフ場が出来る場所だ。山の上にかすかに光って見える建物が、石垣島天文台である。すばらしい景観の場所だ。現状は農地である。行政が転用を進めている。現在牧草地が多い。パイナップルやサトウキビもある。環境破壊にならないように、ゴルフ場を作って貰いたいものだ。

 10年前高病原性鳥インフルエンザの流行で、鶏の放し飼いが禁止された。それでは免疫力の強い鶏を育てることは出来ない。この処置には本気で反対した。抗議文や意見書を各所に出したのだが、全く政府は見向きもしてくれなかった。

 そして、小さな養鶏場が経営できなくなるような馬鹿なことばかりを押しつけてきた。例えば、雀が入れないようにしろ。ネズミが入れないようにしろ。野外の草は与えてはならない。自然養鶏においては不可能なことだ。嫌がらせとしか思えなかった。家畜保健所の方はこの間違った政策に対して、何ら科学的な説明を出来なかった。

 その背景にあるのは国際競争力のある養鶏業一本である。大企業養鶏を保護するために、中小の養鶏場虐めをしたとしか思えなかった。徹底した消毒をする。規模はより巨大化して行く。卵は物価の優等生。現状では物価は上がる方が良いと言われているが。この方向こそ、鳥インフルエンザを誘発する道だ。新しい感染症を生み出す畜産である。

 鳥インフルエンザが鶏から、豚に感染する。そこで、ウイルスは変異してヒトヒト感染をするウイルスに変異する。中国の混沌とした野生と巨大畜産の隣り合わせのせめぎ合い。こうして、新しい感染症が登場してきたのだ。これが中国という新ウイルス発生大国である。

 新型ウイルスの危険を訴えるためにこのブログを始めたようなものだった。そしておりに触れて、その主張を繰り返してきたのだが、政府は何の反省もなく、巨大養鶏場を守る政策を繰り返すだけだった。あまりのことに、養鶏を止めることになった面もある。

 そして予想していたとおり、SARS、MERS、今度のコロナウイルスの感染が連続的に起きたのだ。予測したものとは少し形は違ったが、感染症が人類を襲うと言う図式は同じである。政府はその準備をしなければ行けなかったのだ。

 コロナウイルス対応には政府には組織としての準備がまるで無かった。重要な初期対応が出来なかった。幸い、ファクターXで日本では余り広がらずにすんでいる。政府の一番の失敗は、新しい感染症が必ず来る。と言う警告に全く耳を傾けなかったところにある。来ることは専門家では常識的なことだった。どうして日本政府は目先のことに追われて、大きな安全保障が考えられないのか。

 政府は今になって、新型感染症対策委員会を廃止して、政府の中に対応する専門家会議を作ることになった。いままで、対応をしてきた組織の何が行けなかったのかよく分からないし、説明もない。今更であるし、これでは専門家委員会のメンバーも寝耳に水と言うことで、やりきれないだろう。

 政府は専門家会議の議事録は残していない。その上に、決定に対する責任を政府はとりたくない。そして、都合が悪くなれば、ついに廃止である。アベ政権のデタラメさ加減は尽きるところがない。これほどひどい政府を未だかつて見たことがない。

 政治家が科学に無知のために、相手にされないのは仕方ないだろう。悔しいならば、もっと日ごろから勉強をすべきだ。学者は学者の立場で、科学的な見解を述べればいいことなのだ。ところが、未知の新型ウイルスには科学的には専門家であったとしても分からないことが出てくる。科学者としては可能性を述べるだけだ。決断は政府が行う。

 ところが政府が、特にアベ発言が余りに無責任できれい事なのだ。これでは専門家会議が怖くなるわけだ。例えば第2波のような問題が出てきたら、専門家会議での指示通り動いた結果だと言い出しかねない。政府には政治家としての覚悟がないのだ。

 政府には都合の良いこと以外には聞く耳がないのだ。新型インフルエンザ後も、いくつか起きたSARSやMARSなどの新型ウイルス感染症に対しても対応を変えることはなかった。そしてついに新型コロナの大流行が起きた。日本政府は対応の組織を作ることなく、マニュアルもないままにその場しのぎを始めた。その結果病院のマスクさえ底をついた。政府は国民に対して謝罪すべきことだ。

 高病原性鳥インフルエンザについて、養鶏業者としていろいろ勉強をした。素人なりにウイルスと免疫の関係について理解をした。ウイルスというものは無限に存在しているが、巧みに生き物と共存しているらしいと言うことだ。ウイルスもいなくならないし、生き物も生存を続けている。自然界では折り合いを付けて存在している。

 ウイルスが生きものに感染する。その生き物がウイルスで死んでしまうのではウイルス自体も消える。当然そういうウイルスもいたのだろうが、生きているウイルスというものは巧みに生き物との関係を成立させているものなのだ。それが生き物の免疫システムというものを作り出している。

 ところが、ウイルスというものは簡単に変異する傾向がある。例えば生き物の中で、10の違った個体に感染を繰り返すと、その間に最初のウイルスと、10番目のウイルスとは違う性格のものになっている可能性がある。ウイルスにはこうした変異をする性質がある。

 感染の連鎖と言うことは、ウイルスが病原性を深刻化する可能性がある。人間の感染の連鎖でもそうした可能性がある。ヨーロッパにコロナウイルスが広がる過程で、病原性が強まったのではないかと言う意見がある。それがアジアに戻り、再度の感染になったというのだ。大規模畜産のように環境で、何万回もの感染が繰り返されれば、ウイルスは病原性を高める可能性は高い。

 変異は違う宿主に入ったことで起こることもあれば、例えば放射線のような刺激を受けること。あるいは抗生物質のような物質と出合うことなどで、変異をして行く。未知の化学合成物質との出会いは変異の原因になるだろう。この変異の課程でヒトヒト感染をしやすいウイルスが登場することがある。

 そうして突然宿主を死に至らしめるような性格に変異することもある。今回のコロナウイルスの場合、コウモリにいたウイルスが変異したものらしいと言うことだ。直接人に感染したというより、コウモリから、何らかの小動物に感染をして、ヒトヒト感染をしやすい性格を持った変異が起きた可能性が高いのだろう。

 これと同じようなことは、いくらでも自然界には起こりうることだ。しかも、自然界にも化学物質の汚染が広がっている。化学物質を体内に取り入れた生物が体内のウイルスを変異させる可能性も出てくる。つまり、今や人間が感染をする可能性のあるウイルスは次々と出現してくる可能性が高まっている。

 どうすればいいかと言えば、化学合成物質などで自然を汚染させない。動物を一カ所で大量に飼うような畜産は止める。抗生物質の使用を控える。むやみに自然界を撹乱させない。こういうことを地道に行い、自然界の中で人間が折り合いを付けるほかない。

 しかし人間にはそれが出来ないだろう。快適な暮らしを求める人間の方角の先には新型の感染症がある。分かっていてもできないと考えざるえない。残念なことだが、そう考えて生きるほかない。ある程度孤立している生きることが、当分の間の人間の生き方になる。新しい人間の苦悩である。

 これからの人間は時々ひどい感染症の繰り返される世界に生きると言うことだろう。感染症で死ぬことも有ると思い生きるほか無い。都会というものはなくなるのかもしれない。ヒトヒトが濃厚接触する機会は減少するだろう。文化そのものが変容していく。もちろん人間はすぐ忘れるから、何度も感染症を繰り返しながら、自ずとそうした暮らしに変わって行くのだろう。

 新型ウイルス感染症に対する医学的な対応は生まれるののだろうか。ワクチンによる対応はあくまで対処療法である。ウイルスが登場して、ワクチンが作られる。インフルエンザワクチンでも、完璧ではない。ウイルスが変わればワクチンは無意味化する。今回のウイルスはワクチン対応は極めて難しいように見える。医学はワクチンや化学薬品以外の対応方法を見つけることが出来るのだろうか。


 
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「コロナ接触確認アプリ」と「マイナンバーカード」

2020-06-29 04:02:20 | Peace Cafe


 政府が進めようとしている「コロナ接触確認アプリ」と「マイナンバーカード」はいずれも広がらないとみているが、果たしてどうだろうか。政府は肝心な点で配慮が欠けている。国民が登録情報漏洩に不安を感じていることは分かるだろう。その上に、政府が情報を悪用するのでは無いかとも考えているのだ。

 日本人は不思議なところで、権力に対していつも不安を抱いている。それは自民党に投票する人でも同じである。お国のためにと言った戦時中でも、お国には帝国主義日本ではなかった気がする。たぶん歴史的なDNAに組み込まれたような性格に感じられる。

 アベ氏はコロナ給付金は、緊急性を重視して性善説で進めます。と記者会見で発言していた。つまり、政府の方も性善説で見て欲しいと言うことだろう。政府を性善説で見たらダメだ。何しろその給付金の業務は政府が行うのではなく、電通やパソナに丸投げしていただけだ。民間委託すると言うことは情報漏れの可能性は増大する。しかも、孫請け、ひ孫請けと続くのだ。

 情報がこうしてダダ漏れで大丈夫なのかという点に、国民の多くは不安を抱いている。孫請けの会社の臨時社員になりすました某国のスパイが情報を持ち逃げすることだって想定できないわけではない。何でも外部委託する行政に対して、性善説というわけにはいかない。日本人として恥ずかしいくらいIT後進国化している。

 情報は集まれば漏れる。必ず漏洩する。だから、情報を政府が集める場合、政府が悪用したくとも出来ない仕組みを、作り示さなければならない。当たり前のことだが、政府が仕組みを作るときには、現政府が野党になったときにも安心な情報管理の仕組みを考えなければならない。

 来年春からマイナンバーカードを健康保健証とを連携すると言われている。それはいいことだと思うが。その時医療情報がどう管理されるのかと新たに不安になる。もし医療情報が漏れるとすれば、これは人権侵害に繋がりかねないだろう。

 マイナンバーカードをどれほど有利なものにしても、問題は銀行口座と紐付けするという考えがある以上、登録者は増えない。国民の所得が完全把握されるのである。こうなるとタンス貯金と言うことになるのか。あるいはマイナンバーカードとは紐付けられない、海外貯金とか。

 アベ氏も病気で総理大臣を辞めた経験がある。政敵に医療情報が漏れることは、政治家としては致命傷になるだろう。こう言う情報を集めるのが、独裁政権のやり方である。政敵の弱点を押さえておくのだ。遺伝的な疾患や精神疾患に対して、人間淘汰が行うと言う、独裁政権も過去にはあった。

 政府がやるべき情報管理の大前提は、情報が限りなく安全に管理されていて、どんなことがあっても漏れ出るようなことはあり得ないという証明である。又漏れ出た場合、どのような補償が行われるか。どのように政府が責任をとるのか。どのような形で情報管理して行くかをわかりやすく説明することだ。それが出来ない間はマイナンバーカードは気持ち悪いものである。まして医療情報は不安が増す。

 個人情報は憲法に定めた人権に及ぶ問題である。マイナンバーカードでは、そうした人権に関する説明を受けたことがない。だから普及しないのだ。政府は性悪説で考えなければ成り立たないものなのだ。悪い独裁者が登場したとしても、情報収集が出来ないようにしておく必要がある。

 納税では納税者番号として、利用されている。つまり、国民の収入の把握のための番号なのだ。この番号事態は漏れても問題は無い。小田原市役所の納税課にいた友人が、ふとした会話の中で、私の市税の納付額を知っているなと感じたことがある。それはそうだろうと思うが、気持ちは良くないことだった。

 どの段階で情報が漏れ出すのかは分からないが、ともかく内部の職員が情報を持ち出す事件は後を絶たない。ひどい事例では、行政のパソコンの記憶装置が廃棄されて、外部業者に処理を依頼した。その記憶装置がオークションで販売されていた。そんな事件さえある。この場合情報はどこまで漏れたか分からずじまいだった。

 マイナンバーカードの情報流出は起きている。政府機関や自治体からマイナンバーを含むデーターの処理を請け負った業者が、許諾を受けずに再委託した。その結果、流出したマイナンバーの情報が少なくとも約233万6,100件にものぼることが、マイナンバー違憲訴訟神奈川・弁護団の調査で明らかになったと掲載されていた。

 東京都江戸川区では、A社が委託を受け、そのA社がB社に再委託、そのB社がC社に再々委託をしていた。許諾を受けない違法再々委託によって本人や家族の12桁のマイナンバー、氏名、住所、給与、年金、住民税の額などの秘匿性の高い個人情報が流出していたとのことだ。

 神奈川県内だけで13の国の機関や自治体が違法流出していたことから、全国的規模になると一体どのくらいの違法委託がされ、情報が流出しているのか分からないほどだ。結局の所行政改革で、外部委託が増加しただけなのだ。これでは情報管理は出来ないに等しい。

 マイナンバーが盗まれることはまだしも。マイナンバーカードはICチップが埋め込まれていて、実印の役割も果たすことになっている。今度は健康保険証も兼ねる。もしカードを紛失して、悪用されたとしたら被害は実に大きなものになる可能性がある。すぐに効力を消滅できるのだろうか。

 もちろんマイナンバーカードを盗まれたとしても、ナンバー情報さえ漏洩していないければ大丈夫だ。しかし、ナンバーは様々なところで記載はしている。どこかで漏れていない共限らない。このあたりの安全性をどういう方法で担保するか。これが普及の鍵である。

 こうしたことが、こんどは医療情報にまで広がる可能性がある。正直どういう形でどう漏れてくるのか分からないのだが、政府はどうやっても情報漏れが起きないような仕組みを考える方が先だろう。この先、IT化が遅れる国が後進国と言うことになるのだろう。

 世界最先端のIT国家、エストニアの事例ではIT国家が完成しているらしい。エストニアは北欧にあるソビエトから独立した小国である。国の方向をIT国家として方向付けて、世界で始めて、インターネット投票を行った国である。よほど情報管理に安心があるのだろう。

 誰でもが知っているのは大相撲の元大関バルトである。立派な大関で横綱なるかと思ったが、残念なことにケガで大関を陥落してした。バルトの名前はバルト海に面した、バルト3国のエストニア出身という意味であった。バルトの故郷に帰る映像でエストニアの美しい風景を見た人も多いいのではないか。バルトは今はエストニアの議員である。

ーーー2007年には、総選挙でオンライン投票を可能にした最初の国となりました。エストニアは世界最速レベルのブロードバンド回線と、1人当たりの起業率が非常に高い国として知られています。市民は、自分の携帯電話から駐車料金を支払い、すべての個人の健康医療データはクラウドに保存されています。約95%の人がオンラインで行う税申請は、5分ほどしかかかりません。

 エストニアはITセキュリティーでも世界一なのだそうだ。国が武力攻撃を受けて、国土を失ったとしても、エストニアのITは失われず、国家はITとして存続し国民はそこに登録をしているというのだ。だから、エストニア人には日本人も登録できると言うらしい。そこで3000人もの日本人が登録しているそうだ。国民が情報漏洩がないという安心の上に、国が成立している。

 今度はコロナの接触アプリである。これで行動が完全に把握される。まあすでにそうなっているのだが。情報管理が一元化されることになる。これがマイナンバーカードや様々なカード情報を総合化されているのだろう。私自身も忘れているようなことが多い、私の行動が、国の管理者にはいちいちに明らかになり得る。今後は、いつどこに行ったのかは政府に聞けばいいと言うことになるのだろうか。


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第7回 水彩画 日曜展示

2020-06-28 04:08:19 | 水彩画
第7回 水彩画 日曜展示




 
 19、「名蔵アンパルから屋良部半島」①
 中判全紙 クラシコ・ファブリアーノ
 2020、6





 20、「名蔵アンパルから屋良部半島」②
 中判全紙 クラシコ・ファブリアーノ
 2020,6






 21、「名蔵アンパルから屋良部半島」③
 中判全紙 クラシコファブリアーノ
 2020,6


 クラシコファブリアーノの中判全紙というサイズは56センチ×76センチである。手漉きの時代からの紙の大きさなので、大きさには漉く人によって違いがある。もう一つが大判全紙というものもある。70×105センチだ。これも漉く人でサイズは違っている。

 最近では工業用紙の紙基準のAサイズとか、Bサイズとかも紛れてきてしまい。紙の大きさ表示は不可解である。それでも本来の手漉き水彩紙の紙の大きさの意味を大事にしたいと思い、中判全紙という言葉を使っている。

 油彩画の大きさを表す。P25号というのが近いサイズになるのだが、この表記だとどうもしっくりこない。中判全紙が水彩画には十分な大きさだ。大きい水彩と言えば、大判全紙までと考えている。それ以上になると、水彩らしい表現から離れて行く。

 この3点は長く描いていた絵である。3月から6月まで時々描いた。田んぼの水が見える頃から、稲刈りの頃まで描いていたことになる。紙は泣いている。紙が泣くとは紙が湿気を帯びて、紙の目止めである礬水(どうさ)が効かなくなった状態である。それはそれで描き方によって独特の調子になる。紙は再度目止めをすることも出来るが、泣いたところを生かす描き方が好きだ。

  少しずつではあるが、自分の絵に近づいていると思える。何が自分がやりたいのかが、描いている内にわずかづつではあるが見え隠れしてきている。この3点の絵は繰返し繰返し描いて自分に近づく事ができた。何か惹きつけられるところがあるのだが、それがすっきりとは分からないが、間違えずに進んだような気がしている。

 描いている時に、何かひらめくものがあった。塗り方とか、色とかである。そういうことの中にやりたいことが繋がるなにかがある気がした。それを進めてみようと、この3枚を、心機一転の気持ちで描いてみたものだ。行き過ぎておかしくなったところもあるのだが、やりたいことに近づいた意識まで描けた。

 たぶんこの空間が、私が育った藤垈の向昌院からの眺めなのだ。下の方向に広がる空間があり、向かいにそれを止めるように何かがある。この空の下の世界を描きたくなる。こう言う空間を描いていると安心できる。色彩、筆触、塗り方などにはまだ至らないところがあるが、今後の課題だ。

 それで、その続きを松の木のある田んぼの絵6枚でもやることにした。自分にとっては安心して入り込める構図ではないのだ。これは来週の展示できればと思っている。

 
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コロナを契機にして人間は変われるか。

2020-06-27 04:00:40 | Peace Cafe

 風蘭。風蘭が Neofinetia (ネオフィネティア)属から Vanda (バンダ)属になったので、バンダ ファルカータ 余り成長は良くない。良くないときに花が咲くとそのまま枯れることがある。良い香りの花とされているが、この個体は匂いはしない。

 コロナウイルスの蔓延を契機に人間の暮らし方は変わった。旅行のようにしばらくは元には戻らないものもあるだろう。従来の形の経済のままでは衰退をする。しかも次に始まる経済の形には、数の増加と言うより、個別的なものが何か生まれてくることになる気がする。人間の距離の取り方は個別的になる。

 人間が親しく関われないことはとても辛いことである。集まって酒を飲めないというのはひどいことだ。一期一会である。茶道の家元では茶会は自粛しているのだろうか。こう言うときこそ、大茶会を開催するのも、茶道のあり方を示す姿かもしれない。命を共にして生きる茶道というのも、あるのではないか。

 それが出来ない自粛という変なワクのある社会になったのだ。いままで良いとされてきた文化が悪いこととして、否定されている。心を開き、裸になって人と付き合う。こういうことは悪いことになったのだ。人を見たら、コロナと思え。石垣のまち中で歩いているとそういう目でハットされることがある。旅行者に見えるからだろう。歩いているときにはマスクをしない。歩いているぐらいでは感染はさせないししない。

 コロナは自粛が解除され、東京では感染者が増えて、第2波ではないかと言われている。感染者数の目先の変化に惑わされることは判断をまちがう。あくまで死亡者数を見ていればいい。これが10名を超えずにずーと落ち着いている。この状態であれば、自粛は必要が無い。

 不要不急の老人であるのだから、自粛で別段何が困ると言うことはないが、ハットされて、白い目で見られるのは面白くはない。だから、自粛して町中は歩かない。もう人を見ると、コロナ警察のスパイかと見えてしまう。人間はこんなおかしな社会に慣れなければならない。

 人間は末世に生きていると言うことだ。人間界がどれだけ辛いものかの説明から仏教の教えは始まっている。生老病死を受け入れると言うことが、お釈迦様の思想である。この先の世に、すばらしい世界が作れるかもしれないと言うことが、努力する原動力であったのだが、今のところ努力した結果この末世に至った。まだまだ修行が足りないと言うことだろう。

 人間が生きると言うことはどうにもならないことだ。すべてがむなしいことである。そのむなしさを明らかにする。そして受け入れて、諦める。そう思って改めて、コロナ後の世界を想像してみる。個としての自覚以外にないと言うことに気付く。自分の安心立命を他に求めても仕方がないと言うことである。

 「連帯を求めて孤立を恐れず、力及ばずして倒れることを辞さないが、力尽くさずして挫けることを拒否する」全共闘闘争の根底にあった標語だ。大学の美術部の壁にも書かれていた。個の確立と自立だった。大学闘争は思想闘争と言うだけではない。既成の権威に対する服従の拒否、不合理に対する隷属の否定、これらが全共闘運動の主要な方角である。

 高橋和巳の言うところの、「これも拒絶し、あれも拒絶し、そのあげくのはてに徒手空拳、孤立無援の自己自身が残るだけにせよ、私はその孤立無援の立場を固執する。」孤立無援の思想。
 
 どこか青臭い思想であるが、みんな若く必死だった。あのさきの無いような世界が戻ったような気がする。人間は死ぬ存在である。その自覚の元に今何をすべきか。そういうことを、突きつけられたのだ。若い学生だった私は当然その場にうずくまっていたわけだが、今ここに至ると、すべての人が死というものをどこかで、ヒヤーと感じて目が覚めたのだ。

 人間は間違いなく死ぬ。それまでに何をするかだぞと、コロナが告げている。新宿のホストのお兄さんがテレビで言っていた。「だってホストで死んだ人はいないから、大丈夫だよ。」まさにこれだ。ヒヤーと死を感じながらも、別段どこ吹く風と暮らして行くのである。「これでいいのだぁー」生きる人間だ。

 これから日本の経済は深刻な状況に陥る。それは米中以上になるに違いない。その時自分はどうするかだろう。コロナによる外国との交流制限もあるが、それ以上の問題は日本は実は遅れ始めている。新しい産業が生まれない。既産業は陳腐化を始めている。そこにコロナが登場したのだ。

 不思議なことに東日本大震災は第一の予兆だったのだ。人間はこのままではまずいですよと、天が方角を示した。ところが日本人は変わることは出来なかった。元のいた場所に戻ろうと「がんばろう、にっぽん」と頑張るだけであった。そして、残念なことに日本は元いたところに戻り、世界の流れから遅れ始めた。

 困ったことには世界の現状から遅れてしまった自覚が政府にも国民にも不足している。政府はあくまでアベノミクスは成功しているという、根も葉もないことを言い続けるぐらいの無能さだ。負けを認められないから、次がないのだ。アベノミクスはアベノマスクだ。小さすぎて、遅すぎる。何度でも使えるが、効果は薄い。

 これでもかという形で、コロナが世界を襲った。人間はこの二回目の天の指し示した方角をも生かせないだろう。コロナは人間に温暖化。環境汚染。人口爆発と都市集中。このままではダメだという、天は示したのだ。たぶんそれでも人間は気付くことはない。頑張って元に戻ろうとする力は強いのだろう。

 アベ政権になって以来既得権益、つまり昔調和世界だけが尊重されることになった。そのために新しい産業が芽生えなくなってしまったのだ。例えば、循環型エネルギー分野では、原発事故を経験した日本はエネルギー政策を転換する大きなチャンスであった。ところが、明らかに循環型エネルギー産業は世界に遅れてしまった。

 原因はアベ政権の既得権擁護の姿勢にあるのは明らかだ。原子力発電産業の保護姿勢であった。何しろアベ氏はあの事故後に、原発輸出を主張したのだ。こんなにセンスの悪い方針は、アベノマスクと一緒である。あのときの愚策は何の成果もなく終わった。この間違った方針に対する、一言の謝罪も反省も聞いたこともない。

 コロナでも、アベ政権は日本モデルと自慢げである。確かに守る能力は高いかもしれないが、新しいものを切り開くという能力は危うい。大胆な発想は出来なくなっているのではないだろうか。未知への挑戦をする冒険心が失われ始めていないか。

 アメリカの1国主義も、中国の国家資本主義も、独善になればなるほど自分の首を絞めることになる。そんな当たり前のことを、両国とも見えなくすることで自国民を操ろうとしているに過ぎない。日本はこの両国の独善に巻き込まれない自立が必要と言うことだろう。

 天のもたらした2つの予兆。大震災とコロナ。それでも気付くことが出来ない日本人には、かなりの確率で第3の天の采配がある。それが何かは分からないが、次の崩壊は手に負えないほどであるだろう。政治は極めて頼りない。それぞれが個として対応するほか無いのであろう。

 自給自足の暮らしである。化石燃料など無くとも、人間は道具だけで自給自足は可能だ。100坪の土地と一日1時間か2時間の労働で、人間は食糧を確保できる。これは神奈川県山北町の悪条件の場所で、実践して可能だったことだ体験である。この原点に立ち戻る事はできる。

 そして一人の暮らしが出来るようになったときには、次の段階としてみんなでそれをやってみる。この原点に立ってみることではないか。次に来るだろう、さらなる苦難をおもうとよほどの覚悟が必要である。四苦八苦である。「ホストで死んだ人いないから、大丈夫だよ。」耳に残っている。人間は大丈夫の方を向いて生きるのだ。天がこのままではダメだと教えてくれても、どこ吹く風と流されて行く。

 
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コロナの時代の柿酢健康管理法

2020-06-26 03:54:56 | 暮らし

 竹富島と船である。ヨットなども走っている。何故かぼけ写真になってしまったが、それもいいかと思う。見えるより見えない方が見えるものもある。梅雨明け以来、二週間も晴れが続いている。こんな晴天続きはめずらしいことだ。

 コロナで注目されたのが、免疫力である。長年、自給的な生活を目指して心土不二を心掛けてきた。と言っても大して徹底したものではない。こだわっていると言うことになると、不健康なことになる。つまり、健康オタク病になりかねない。よい加減がいい。

 免疫を高めるには食べ物には注意した方がいい。毎日柿酢を10CC飲む。柿酢は自分で作ったものだ。ブログの中の記事に連携したので見てもらえると写真で様子が分かる。作ると言っても、熟した柿をただ採ってそのまま甕や瓶に入れただけでできる。

 木の下まで甕を運び、そこで木から充分に熟した柿をもぎながら、柿のへたも一緒につけ込んでしまう。もちろん洗わない。そのまま、寝かしておいて、飲んでいる。今飲んでいるのは2015年に作ったものを飲んでいるのだから、5年間熟成したものだ。柿酢でお腹が痛くなったというようなことは過去10年近く一度も無い。効果があるのか無いのかは、あと30年待って貰うしかない。100歳まで生きたら、柿酢のおかげだと言いたい。

 柿酢はとても酸っぱくて、ただでは飲めたものではない。この時期の美味しい飲み方は、保温ボトルに氷と石垣島の黒砂糖をスプーン二杯入れる。そこに10CCの柿酢を加えて、水300CC入れる。これを絵を描きながら飲んでいる。前はファミマのカフェラテを飲んでいたのだが、コロナ対応でファミマに行けないので、柿酢飲料に変えた。週に一回ぐらいは泡盛ソーダーの代わりに柿酢ソーダーで我慢をしている。

 朝食には、納豆卵キムチ入りを必ず食べる。納豆卵には買ってきたキムチを入れる。実は石垣島には美味しいキムチが売られているのだ。これは常備している。自家製味噌の味噌汁も食べる。今は海藻とタマネギを入れる。タマネギがある間はそれだけを食べる。今年はタマネギは余り採れなかったが、半年はあるだろう。

 そして小食が決めてである。タンパク質はおおめで、デンプン質は少なめ。歳をとり若い頃と同じものを食べていたのでは、燃焼しきれない。それで、夜ご飯は食べないことにした。本当のところは夜のご飯は泡盛に変更しただけである。体重は55キロにコントロールしている。1日朝と晩に2回計測して、確認する。一応体脂肪や、内臓脂肪なども記録できるタニタの体重計である。55,5キロを超えたならば、食事を控える。それでも増えるなら、泡盛を自粛にする。

 30年間ほぼこの状態を維持している。と言うかそれより前はひ弱な40キロ台だった。中学生の頃に40キロ台にやっとなって、そのままであった。せめて50キロを超えたいとは思っていたが、不健康な暮らしをしていたので、痩せこけたピーひょろだった。山北で始めた自給生活で、身体を酷使しよく食べた結果55キロまで体重が増加した。

 毎日食べると言えば、果物とヨーグルトである。ヨーグルトは家で作っている。今はマンゴーヨーグルトか、パイナップルヨーグルトである。何しろマンゴーが一個300円で昨日は買えた。マンゴーというものは毎日食べても飽きないものだ。7月いっぱいは美味しいマンゴーがある。

 そして運動である。運動は毎朝の太極拳、八段錦、スワイショウ、膝蹴り体操、腹筋80の一通りを50分間全力で行う。今できる自分の力を出し切るつもりで、本気でやる。形だけの健康体操ではない。終わったら鏡の前で、裸になりぬれタオルで体を良くこする。そして体組成計に乗って体を計測をする。常に変化を確認している。

 体を拭きながら、体の状態を観察する。内観法で体の中を感じてみる。おかしなことは無いかぐるりと感じてみる。そして外観からも見苦しい体ではあるが、一応観察する。まるでボッシュの絵に出てくるような年寄である。それは情けないとしても受け入れるほかない。

 この体操の主たる目的は今日の絵を描くためである。良い絵を描くということは自分らしく描けたときのことなのだ。自分になるためには、その時の心境が実に難しい。様々なことで心が揺らいで行く。朝の運動は気持ちを統一できる。絵を描いている間は、洗われた頭でいられる。

 お寺では朝の一香の時間が参禅の時間である。俗人の合理主義者である私としては、参禅よりも運動を禅のつもりで行っている。立禅というが、動禅と言うつもりである。俗物には動禅の方が気持ちが静かになる。頭の中が洗えるという感触がある。

 頭の中におかしなものが滞っていると、ろくな絵が描けない。見えているものも見えない。見えていないもの、隠れているものを感じて見なければならないのが、絵の描き方だから、よほど心落ち着けて、風景に反応しなければならない。反応を良くするための朝の運動である。

 そして散歩をする。今は街の中は歩けないので、絵を描きに行った場所で歩く。絵をしばらく描いたらば、周りをうろうろしている。これを繰り返している。今はあまりの日照強さで長くは歩けないのだが、できるだけ日陰を見つけて歩く。

 この散歩の不足分を夕方、拭き掃除をする。アトリエの床を磨く。歩数計で言えば、1000歩位は拭き掃除をやる。掃除はまさに健康法である。キレイになるのは床だけではない。アトリエで絵を見ると言うことは重要である。アトリエがキレイでなければ絵を見ることなど出来ない。

 そしてよく寝ることになる。出来れば8時間は寝たい。昼寝もいい。絵を描いていて、車の中で寝てしまうこともある。24時間の内3分の1の8時間は寝る努力をしている。眠くなればいつでも寝る。最近は7時頃に寝る日も多い。まだ昼間のように明るいが眠くなる。

 精神の健康が、絵を描くことになる。絵を描いていると、生きていることがすばらしいと思える。生きている自分が描いたものがある。その絵は自分である。良くとも悪くとも自分である。すこしづつであるが、自分に進んでいる。この充実が絵を描くことにはある。心の免疫力を高めている。

 良いものを食べ、精一杯の運動をする。そしてよく眠る。最後に絵を描く。この4つと実はもう一つある。それが唄を唄う事である。三線を弾きながら、好きな歌を大声で歌う。大声を出すと言うことはとても良い。しかし、そんな機会はなかなか無い。

 10曲ぐらい覚えた歌があるので、順番に唄う。そして新しい唄も練習する。今の練習している曲は「山河、今は遠く」作詞:岡本おさみ作曲:知名定男を練習している。楽譜がないので、聞いて唄うのだが、まだ工工四の拾い出しができない。岡本おさみさんの作詞で有名なものは襟裳岬である。文学的な詩になっている。

 この5つの免疫を高める方法を達成できた日は何か充実感がある。こんな良い日が続くといいなあと思いながら眠れることになる。そうか、もしかしたらブログを書くというのも入れてもいいのかもしれない。そうなると6つのことになる。

 
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生き方の変え方 ーーー私の場合

2020-06-25 04:05:02 | 自給
 

 石垣のすばらしい雲である。遠くに見えるのは屋良部半島である。日本一美しい村、崎枝が左の付け根辺りにある。崎枝からの眺めもすばらしいのだが、名蔵アンパル越しに崎枝を見るのも実に美しい。光の方向としてはこの角度の方が色がよく見える。同じ場所でも、位置を変えると随分違う物だ。

 位置を変えながら描いていて、いつの間にか両方での見え方が一枚の繪に入ってくることがある。つまり、絵を描くというのは今見ているものを描いているのだが、記憶の中にある凝縮されたものを同時見ていると言うことがある。それは幼い頃脳風景の記憶を含めてのことだ。

 30代後半に生き方を変えた。競争社会から逃げ出した。と言うか脱落した。早めに脱落を認めたことは今思えば幸運だったというか、逃げて良かった。仏教的に言えば、諦めたわけである。不条理が自分の中で明らかに出来たので、諦めることが出来た。

 そもそも絵を描く生き方をしようとしたのだから、その時から社会のレールからは外れていたはずだったのだが。おかしなことに当時の日本の社会には、絵描きになるレールのような物が存在していて、知らぬままにそのレールに乗ろうとしていた。

 コンクールで受賞して、絵が売れるようになるという道である。当時でも公募団体で会員になったとしても絵で食べて行けない状態ではあった。それでも、有名な公募団体で会員になるというのも、絵描きのレールの一つとも思われていた。私も必死に大公募展に出したこともある。落選したり、入選したりの状況で、到底その会の会員になることすら出来そうもなかった。

 絵を売って暮らすというのは余りに不合理に見えた。家が商売人だったから経済のことはよく分かっていた。絵を売って暮らすほど、割に合わない物はないように見えた。他のことなら稼ごうと思えば稼げるのに、何で売りにくい絵を売らなければならないのかが分からなくなった。残念ながら、生きることの正面突破が出来ない。それなら迂回して生きるほかない。

 絵描きになりたいわたしが、競争の中に必死に競っていた。芸術論ではなく、評価される絵画が話題になるような、状態であった。絵描きが生き残るレールの評価が私にはデタラメ以外の何物でも無かった。画商や企業がコンクールを開催して、登竜門にしていた。コンクールで評価される絵画の描き方のような物が、いつの間にか広がっていた。そんなことは絵を描くと言うことと全く違うとしか思えなかった。

 金沢で絵を描いていた頃には想像もしていなかった世界に、東京に戻り紛れ込んでしまった。そもそも人間として生きるための絵を描いていて、それを続けて行く以外に考えもしなかった。それは美術学校に居なかったことが幸いしていたのだろう。芸術としての絵画をただただ模索していた。何故絵を描くのかと言うことを哲学的に、思想的に模索していた。それは当時の美術部の周辺にいた人がそういう刺激をくれるひとだったからだと思う。

 医学部にいた先輩の松木さん。今でもあの存在を尊敬をしている。文学部の先輩の元木さんは毎日新聞の記者になられたが、若く死んでしまったが、出会った人の中で最も頭脳明晰な方だった。工学部の先輩の般若さんは人間の存在感が圧倒的な人だった。その優しい感触に生き方を教えられたと思う。

 そして、同級生だった理学部の坪田さん。ぶつかり合いながら絵を描く人生を教えて貰った。彼は今金沢で現代美術の画廊をやっている。相変わらず難解な人だ。みんなどちらかと言えば、その分野ではどこかおかしな人なのだろうが、私には生き方を模索する人間としての同志だった。対峙できる人がいるということは、成長には不可欠である。

 金沢からそのままフランスに行き、ただただ自分の絵を求めた。東京に戻る。東京の絵の世界は驚くべきものであった。入学試験のように、絵を競争していたのだ。どうすれば公募展で評価されるか。どうすればコンクールで入賞できるか。まるで予備校のような競争の世界だった。結果的にはそれは何も理解も出来ないままだった。レールから見れば実に要領の悪いままに落ちこぼれた。

 それでも10年間はその中にいたのだと思う。まさに失われた10年である。結局の所絵が描けなくなって、山北で開墾生活からやり直すことになる。あのとき東京暮らしを切り上げたことが、人生の分岐点であった。描くべき物が分からなくなったのだ。無理に描こうとすると吐き気をもようすようになってしまった。今でも描くべきものがわかったわけではないが、コンクールや公募展で評価されるような絵の方向とは明らかに違う。

 当たり前すぎることだが、絵は人と競争するような物ではない。絵は商品ではない。絵は自分の生き方である。自分自身が自分の描いた絵を、これが私の生き方だと示せる物であれば、それでいい。今はただそういう方角だけを目指して、描いている。

 少し残念なことは大して見栄えのない自分だと言うことに向き合うことになる。見栄えがしないが、まあ受け入れるほか無い。自分であると言うことはささやかな物であるから、情けないことであるようだが、どこか安心できる。自分という生をあきらめたのかもしれない。

 開墾生活に入るには、大きな転換点であったのだが、当時はそれほどはには思っていなかった。どう生きたいのかを考えてみて、やりたい方向に向かっただけである。自給自足の生活に憧れが強かった。子供の頃の向昌院の暮らしを思い描いていた。肉体としての自分の体だけで、自給自足が可能なのかどうか、試してみたかった。自分という人間を確認したかった。

 それは鶏を飼いたいと言うことや小屋を作りたいと言う子供の頃やっていたことに繋がっていた。条件として、機械は一切使わない。道具の範囲なら使ってもいいだろうと考えた。車を使わない生活。シャベルとのこぎりぐらいである。水は山北駅で汲ませて貰った。20リットルのポリタンクに汲んで、歩いて1時間かけて開墾地まで上った。それが自給自足を切り開けるかの前提条件であった。食料も持っていた。それを重いとはと思わなかったのだから、元気だった。

 大きく暮らし方が変わった。しかし、それほどのこととは思わず、ただ自分の肉体を試してみると言うぐらいだった。まだ、世田谷学園に勤めていて、生活は出来るから、ある意味気楽なところもあった。いつか、自給自足が出来るようになったら、世田谷学園を止めようと考えて、妙に前向きな気分でいた。結局世田谷学園では30歳から37歳ぐらいの7年間働いたことになる。その暮らしを感謝している。

 始めて見た自給自足の暮らしが余りに面白く、そちらにのめり込んで生活をしていた。絵描きになるんだということはほとんど忘れることが出来た。もう絵を止めようと考えた。それで油彩画を止めた。決意するつもりで、絵の具や筆を廃棄した。絵を描くこともほとんど無くなり、わずかに水彩画で周囲の植物を描くぐらいになった。

 この水彩画を何気なく描いたことが次の生き方に繋がった。自給自足で生きる。そこから見えたものを描いてみよう。それが自分らしい絵の描き方だと思うようになった。絵描きという職業は諦めて、好きな絵を描く生き方。それで最後の個展を文春画廊で開催して終わりにした。絵描きとしての生前葬と銘打った個展である。

 自給自足の挑戦への転換は考えてみれば重大なことであったはずなのに、大きな決意もないまま始めていた。そして始めていたら、もう日々が面白くなり、この冒険をなんとしても成功させるのだという気持ちになっていた。母が元気で一緒に面白がってやってくれたことも、力強いことだった。親というのはありがたいものだ。

 母は向昌院で生まれ育ったのだから、自給自足の暮らしは身についていた。戦後の相模原での開墾生活も体験していた。山北の暮らしは3度目の自給自足生活だったことになる。私にしても鶏を飼うことは子供の頃から常にやっていたことだ。鶏を子供の頃から飼っていた経験が、結果的には自給自足の成功に繋がった。

 自給自足の生活が自分の体力で可能だった。この思いがけない結果は天啓のように感じた。この自信はその後生きる上で大きな物だった。自分一人で出来たことを、どうやってみんなの自給に出来るのか。そのことがその後あしがら農の会に繋がった。あれから、30年である。今はあしがら農の会が気持ちよい場として、継続されることに協力できればと思っている。

 
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在宅勤務は定着するか。

2020-06-24 04:17:08 | 暮らし

 
 石垣島は6月11日に梅雨明けになった。気象庁よりも一日早く私は梅雨明けを宣言した。例年のことだが、この梅雨明け宣言が少し遅れるのは気象庁の安全策だ。石垣島は徐々に観光客が戻ってきている。マスクもさすがにしている人は減ってきた。マスクをして夏の石垣島を歩くことは無理である。

 それでもマスクをしろと言う行政の指導車は島を巡り歩いて注意喚起している。何故こうも非科学的な対応なのだろう。行政は学校を休みにしたり、島への渡航を禁止したりした。島には感染者が多数存在するとしていた。これが結果的には間違いであった。間違って島民に恐怖を与えていた行政指導の責任を感じているのだろうか。

 日本全体で在宅勤務の実証実験が否応なく行われた。テレワーク体験者の70%が継続して欲しいと言っているそうだ。東京では企業の51%が在宅勤務を行ったという。国全体では26%が行ったという。石垣島ではテレワークはさすがになかっただろう。

  テレワークを歓迎していた人の意見で多かったのが、「通勤がなくなってストレスが減った」である。往復3時間分もの通勤時間がなくなり、その時間を仕事や余暇にあてられて快適だったという。通勤の過酷さは日本社会の大きな損出だったということになる。

 最近の日本は変化が出来ない状態になっているので、この在宅勤務も揺り戻されて、元の木阿弥になる可能性が高い。どうやってせっかくのテレワーク体制を続けるかである。一度在宅勤務の有利さを認識した企業も無いとは言えない。そうした企業が次の時代の企業になるはずなので、良い手本を示してほしいものだ。

 IT機器は使えば使うほど成れる。そして一度成れてしまえば手放せないほど便利である。日本の社会が新しいものに抵抗感が強かっただけだと思う。日本人の気分の中に変わりたくないというものがある。たぶん未来に対する不安が支配しているのだろう。下り坂の老人社会とはそういうものだ。じいさん子は3文安いという奴である。

 コロナウイルスは日本のそのままでいたい意識を無理矢理変えてくれるかもしれない。もし、コロナで在宅勤務が普通になったというようなことになれば、災い転じて福となす。原発事故でも脱原発が出来なかった日本である。どうなるだろうか。

 日本のおつとめは、休ま無いことが一番評価をされる。遅れず休まず働かずと公務員が揶揄された時代があった。勤務時間には職場にいることが何より重要になる。仕事が成果主義になっていないから、もたれ合いでいい。何とか終身雇用の中でつつがなくやるのが、おつとめである。これは日本の根強い伝統的意識である。

 それでも猛烈社員は存在して、戦後の経済成長が成し遂げられた。その結果会社に忠誠を誓うような生き方が奨励されることになった。モーレツ社員は「24時間働けますか。」と言うことになる。ところがもうそんなことは馬鹿馬鹿しいという世代交代になっている。

 その結果日本の生産性はOECD国中最低の状態になっている。気付かないうちに日本は最低の国になっているのだ。アメリカやドイツなどに比べると、半分の生産性なのだ。つまり日本人が2時間働いてもドイツ人の1時間にしか当たらない。これでは働けども働けども、楽は出来ないのは当たり前だ。この非常事態に日本人はまだ気付いていない。

 このとんでもない後進国化した日本を感染症が襲ったが、先進国では深刻化した病気が意外にも後進国化した日本ではそれほどでもなかった。コロナは先進国病だったのだろうか。まだファクターXは解明されていない。麻生氏によると民度の高さだそうだが、民度が高いから生産性が先進国の半分になっていると言うことになる。さすがにそんなことはないはずだ。

 日本の仕事の仕方にテレワーク化が進まなかった理由がある。仕事が成果主義になっていない。一人一人の達成目標が決められていない。さらに仕事がIT化されていなかったことがある。クラウド化されていないために、どこからも安全に会社内の情報にアクセスすることが出来ない。

 終身雇用制のもたれ合い勤務のため、明確な成果主義はまずい。ITに疎い上司がいれば、在宅勤務に立ち塞がる。人間関係が重視される中では、困ることになる。これは日本人の伝統的なものなのかもしれない。よく作用すると、戦後の経済成長期のように、集団としての力を発揮することになる。個人より集団の力が重視されてきた。

 しかし、新型コロナウイルス感染拡大を機に普及した在宅勤務の定着に向けて、企業が制度の見直しに動き始めている。うまくこの機会を利用できた企業が必ず次の時代で優位に立つはずだ。日本の生産性の改善運動がかつて成功したように、企業の在宅勤務の見直しが出来るかのどうかである。

 資生堂や富士通が業務の成果で評価する人事制度に本格的に移行すると書いてある。在宅勤務に限定した社員の採用を始める企業も出てきた。在宅勤務の広がりで、出社して働いた時間を前提とする日本型の雇用制度が変わり始めた可能性がある。一日のやるべき仕事が決められる。希望の光が見える。

 国内企業の多くは労働法制の制約もあり労働時間に応じて賃金を支払う仕組みが長く定着していた。しかし、会社でない場所で働く社員を時間で管理するのが難しく、労働基準法で定められた残業代支払いに抵触するかもしれない。社員の職務を明示して、その達成度合いなどをみる雇用の導入を進める。

 結局の所テレワークを取り入れて、成功する企業が実際に表われることが必要だろう。テレワークで良い人材が集まり、企業が成長する。その実例が表われれば、企業は競争主義だから、一気に変わる可能性がある。テレワーク勤務で有能な人材を他社から引き抜ける。

 若い人の半分が東京を離れる選択を考えているという。これは日本にとって、すごい可能性が出てきたと言うことだろう。何でも都会志向の一辺倒がやっと崩れ始めたのだ。もし石垣島で企業に勤務し、テレワークが出来るとしたら、その人材は独特の発想が生まれるかもしれない。月一回ぐらい会社に行くのなら、問題なくどこからでも通える。そうか私は小田原の田んぼへ通っているようなものだ。

 次の時代は在宅勤務の可能な時代にならなければならない。それが地方の維持になり、日本の多様性にもなる。人口減少を乗り切るためにも重要な要素になる。テレワークが成功すれば、日本は又元気になるの可能性が出てきた。企業自体が地方に分散する選択も出てくるだろう。

 企業の地方分散が成功すれば、日本も多様な文化を生み出す可能性が高まる。日本は小さな国とは言え、気候風土は実に多様で豊かである。すばらしい環境が豊かな暮らしを生み出してくれるはずである。地方の豊かな暮らしが仕事に良い影響を与えるようになるだろう。これは感染症に時代の安全保障でもある。

 地方の社会にも、若い有能な企業の人達が暮らすようになり、地方社会に子供達が加れば、地域社会も活性化するに違いない。これはどう考えても日本の再生の機会だ。原発事故で、再生エネルギー化することは逃してしまったに。今度はコロナで在宅勤務である。なんとしてもこれを生かしてもらいたい。

 その第一歩は日本が遅れてしまったと言うことを直視することからだ。直視すれば、変えなければならないと言うことに気付くはずだ。気付けば充分に間に合う。変えると言うことには痛みを伴うが、やる以外に日本に未来はない。


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与那国島でお米がなくなる。

2020-06-23 04:05:39 | 石垣島

   与那国島の耕作されない田んぼ。4月に行ったときに何故作付けしないのかと思って撮影した。こんな田んぼの跡地が実に多かった。寂しい風景だった。与那国島は風光明媚な島だが、田んぼが荒れれば見る影もなくなる。

JAおきなわ与那国支店によると水稲はことし、前年比で作付面積、収穫量ともに7割減まで落ち込む見込み。19年作付面積は21㌶で収量33㌧。20年は5㌶で10㌧を予定しており、面積76%減、収量70%減の計算になる。同支店水稲生産部会には7人加盟しているが、実際に活動している農家は4人という。
 作付け減は大口農家の離農が原因で、農家の高齢化と後継者不足が課題に。また、同町ではかんがい排水施設整備が不十分なため、圃田管理が天候に左右される状況から離農が進んだとも言われている。「20年前には年間650㌧ほどの収穫があった。現在は10㌶にも満たない」ーーー八重山毎日新聞


 この田んぼも作付けをしない状態だった。こんな感じで田んぼにすぐにでも出来るところが、作付けしない状態である。見ていてやりたくなるぐらいだった。与那国島の田んぼは意外に条件が良い。たぶん、八重山諸島の中では一番条件の良い田んぼがあると思われる。

 20年前には650トンの収量があったと言うことは1万人の人が自給できる田んぼがあったと言うことだ。与那国島には生産性の高い良い田んぼがある。最近まで120ヘクタールの水田があったそうだ。ところが現在の耕作面積は30ヘクタール。それがさらに、ことし5ヘクタールまで減少するという。

 与那国島に行ったのはこの田んぼの現状が見たいというのが主目的であった。120ヘクタールの田んぼがあると言うことは、1万2千人の人が自給できる可能性のある島である。残念なことに今年ついにその大半が放棄されてしまったのだ。残るは5ヘクタールとなってしまった。


 与那国島は人口1700人。1500人を切っていたのだが。自衛隊が来てから1700人を超えた。しかし、その後は徐々に減少を始めている。自衛隊関係者は300人ぐらいはいるのだろうか。このまま行くと、与那国島は自衛隊と与那国馬の島になるのではないだろうか。そうならないためには、田んぼをやる新規農業者を受け入るいがいにない。10人の新稲作農家が食べて行ける条件がある。

 田んぼは比較的最近放棄が進んだようだ。もう少し前に放棄されたような田んぼも、荒れ果てたという所までにはなっていないように見えた。まだすぐにでも出来そうな畦の形が残っている田んぼが沢山あった。この面積が30ヘクタールと言うことなのだろう。石垣島でも、宮古島でも農地が放棄されているという様子はほとんどない。

 ところが与那国島では田んぼの耕作放棄地が増えている。島が寂しい空気なのは田んぼが放棄されたからだ。主たる原因は観光が産業として成立していないからではないか。そこに自衛隊など誘致したのだから、衰退に拍車が掛かるのもむりはない。

 直接たんぼをやられている地元の4人の農家のお一人の方に、偶然お話を伺うことができた。後継者がいないので、放棄地が増えていると言われていた。高等学校がないと言うことは若い人が出て行くことになっている。子供の進学の機会に家族全体で出て行くことにもなると言われていた。

 同じ話を、石垣におられる知り合いで与那国出身の方2人からも聞いた。その方はまさにそういう形で、石垣に移り住んだのだそうだ。高校がないとダメだ。これを繰返し言われていた。自衛隊基地を受け入れれば、高校が出来るという話があったのだそうだ。とんでもないデマだ。

 与那国島の田んぼは見たところでは石垣島よりも、西表島よりも条件が良い。島には中央部に200メートルほどの山がある。海岸線に丘陵があり内陸部が窪地になっている。その窪地には山からの川が流れていて、田んぼが可能なのだ。だから風がかなり防げる。問題は排水が難しいと言うことはあるかもしれない地形であった。

 土壌は琉球石灰岩ではあるが、赤土も充分にあり、代掻きをした田んぼでは簡単には水は抜けていない。雨が降れば元の田んぼだった場所はすぐ水たまりができている。植物は旺盛だから、腐植も充分ある。風さえ防げればそれなりの収穫が見込める。住む家さえあれば、新規就農者の誘致が出来る。広げようと思えば、100ヘクタールもの耕作放棄された田んぼがあるのだ。排水路の問題があるらしいが、交錯するとなれば、改善はそう難しいというほどでは無いと思われる。

 農業新規就農者のIターンやUターンを受け入れる環境づくりの一環として、与那国町が農林水産新規就業者用定住型住宅確保事業を進めている。今年度は同町祖納地区に1棟3戸の住宅を整備する。工期は7月18日から来年1月13日まで。来年度4月の供用開始を目指す。ーーー八重山毎日新聞

 与那国島の人達に外部からの新規就農を受け入れる覚悟があるかどうかだろうか。考えて貰いたいことは田んぼがなくなると言うことはふるさとの風景がなくなると言うことだ。日本人はお米というものと密接に結びついた民族なのだ。田んぼがなくなることは心のよりどころが失われるような喪失が起こる。全国の田んぼを見てきて、つくづく思うことだ。

 西表島を見て思ったのだが、亜熱帯の自然に飲み込まれて行く。立ち入れないようなジャングルになってしまい恐ろしいことになる。そうなってしまえば、ふるさとの風景ではなくなる。自然遺産の島ならばそれもあるかもしれないが、暮らしのある島としては消滅の危機を感じて暮らすことになる。

 沖縄本島は田んぼが失われた。たぶんもう昔には戻れないだろうとおもう。日本との距離は随分広がってしまった。沖縄本島だけではない。日本が失われて行く過疎地が沢山ある。本島の風景はどこか乾燥気味になっている。田んぼのない日本はあり得ないと思う。人間は風景の中で生きている。風景の中で育つ。田んぼが日本の環境を作った。あの美しい与那国島の風景は田んぼがあってこそだ。

 もし与那国島に田んぼがなくなってしまえば、取り戻すことは極めて難しいことになる。どうしても、なんとしても与那国島の1700人の人が食べるお米だけは作らない。お米が自給できなければ与那国島ではなくなってしまう。このことを深く考えて貰いたい。与那国島には潜在的に素晴らしいものがある。どうしても後15ヘクタールの田んぼが必要である。10人の稲作農家の誘致である。

 与那国島はすばらしい景観がまず第1だろう。その自然景観に田んぼの風景を育てていかなければならない。日本のふるさとの景観には田んぼは不可欠なものだと言う島に暮らす人達に共通な意識を持ってもらう必要がある。家に関してはここを貸してくれれば、直して暮らせるとみた場所は数件あった。それが又魅力的な場所なので、私がもう少し若ければ行きたいくらいだった。もちろん祖内街にすんで、田んぼまでの距離は遠くはない。

 次にあるのが、台湾との距離の近さだ。この国境の島というものが将来必ず魅力的なものになるはずだ。台湾は愛情の深い国だ。台湾の良い影響を受けることで、与那国の観光は道が開けるのではないだろうか。台湾は食文化が深い。石垣牛のような美味しい名物を作ることではなかろうか。

 台湾との関係を生かした観光業の創出である。観光客を受けいる条件を模索する。温泉は出ないのだろうか。自衛隊よりは星野リゾートの方がいいだろう。密貿易の女王ナツコ村を作るのがいいかと私は思っている。そうすれば、80軒もの夜の街が立ち並んだ時代が又来る。

 つまり、台湾との関税のない特例村。消費税のない治外法権地域に指定する。与那国島島内消費には消費税がない。自衛隊を受け入れた防人の島の見返りである。国境の村を育てるという意味で国民の納得も行くだろう。

 先ずは人口増加策である。新規就農者を受け入れればいい。条件は恵まれている。行きたいと考える人は必ずいるはずだ。行きたい人がいたら、与那国島役場に相談したらいい。もし、難しそうなら私が案内をしてあげたいくらいだ。こう言うときに歳をとったことを残念に思う。
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河合元法務大臣夫妻の選挙違反事件

2020-06-22 03:56:19 | Peace Cafe


 命を救ったアカショウビンの写真である。道路の傍で100匹ものカラスにもてあそばれていた。車をあわてて戻して、死んでいるにしてもカラスの餌食にはしまいと拾った。そしてこの場所に静かにおいて、見えないようにしておいた。そばで絵を描いていた。二時間後にはいなくなっていた。好きなアカショウビンの命を救えたかもしれない。

 河合夫妻の選挙違反事件は、日本の選挙がどれほど金権選挙であるかを表している。現金ばらまきをしたことが確かであっても、選挙違反になるかどうかは微妙なところなのだ。河合夫妻は96人に及ぶ関係者に現金を配ったことは認めている。その配布データーがパソコンに残されていて、復元された。それでも、これは通常の選挙に伴う行為で、買収ではないとしているのだ。驚くべき自民党の通常の選挙の姿である。
 
  黒川検事をあれほど検事総長にしようとしたのは、どうも河合選挙汚職が関連していたと考えるとつじつまが合う。黒川検事には検事総長にするので、逮捕は見送れとアベ政権の間に密約があったのではないだろか。いつものやり方からしてそう考えるのが自然だ。

 しかし世論の圧力で黒川検事が退職した。その後河合夫妻は逮捕されるに至った。黒川検事が常習賭博であったにもかかわらず、異例の軽微な処分で退職したことも、結局の所、忖度が働いたのではないか。想像もしたくないことだが、話が見えてくる。

 自民党本部から、始めて立候補した河合杏里氏に1億五千万もの多額な選挙資金が与えられている。それは、総裁か幹事長の判断によるものとされている。そしてアベ氏も応援に出かけたし、アベ秘書は張り付いて動いていたという。現金配布の指示もその当たりから出ているのではないか。選挙資金はその大半を印刷関係で使ったとしている。確かに印刷屋の領収書はあるらしい。

 しかし、もう播かれてしまった印刷物の実際は確認できない。何枚印刷してどう使ったかは闇の中である。よく考えられている。これがうまく出来た通常の自民党の選挙のやり方なのだろう。印刷屋とはあうんの呼吸が出来ていると思われる。長年のもたれ合いがありそうだ。これが何故選挙違反なのか、それならみんな同罪だというのが、河合氏の本音であろう。そうも主張している。

 そのお金は一部は印刷に消えた可能性もあるが、一部が県会議員等の選挙応援のお願いに使ったこともまちがいないことだ。はっきりしただけで、2700万円と言われている。陣中見舞いというのか、選挙に伴う慣例と言うことらしい。なんと汚い選挙が慣例として行われているのだろうか。要するに票を金で買うという姿の典型例だ。これが当たり前のことだから逮捕できないと言われていた。

 河合夫妻のことはともかく、こうした選挙で関係者にお金を渡すことを正当化する慣行をを止める必要がある。それでなければ、国民が国会議員の選挙のために税金を出している政党助成金の意味が歪んでしまう。政党助成金を止めると今度は財界のお抱えの自民党になるというのだろうか。日本の政治はお金にまとわりつかれている。

 アベ氏は渡したお金1億5千万円には明確な領収書がある。公認会計士の監査も明確にされている。買収のようなそんな使われ方をしていないことははっきりしていると説明した。しかし、印刷屋の領収書はごまかせるだろう。確かにその闇を証明はできないと言うだけのことだ。ウグイス嬢の倍額払いも公認会計士は見逃したのではないか。ごまかそうと思えば出来る仕組みなのだ。

 自民党関係者の選挙であれば、こう言うお金が動いて当たり前のようだ。これが小選挙区制の悪弊の一つとして、アベ一強の中で広がったものではなかろうか。金を出す方も、金を貰う方も、又こんな候補者に投票する有権者にもあきれたものだ。民主主義というものはいつもこう言う混乱が起こる。

 小選挙区では地域の党員から支持をされなければ、選挙に出ることすら出来ない。そこで地域で選ばれるための理由が必要になる。河合氏には支持を得るためにはお金を配る以外思いつかなかったのだろう。小選挙区制は一日も早く止めるべきだ。ところが、小選挙区制が既得権になり、廃止が出来ない状態なのだろう。誰も止めると言わない。

 間違えを間違えとして修正して行けるのが民主主義ではないか。アベ政権が余りに長期にわたり支配したことに、こうした露骨な弊害が噴出してきたのではないだろうか。様々な疑惑が起きても、有効な民主主義的な反応が起こらない状態になった。これが金権選挙の一般化の原因である。今回こそなんとしても、アベ政権を終わりにしなければ、さらに悪いことが起こるだろう。頼りない他の総裁候補のようだが、同じ人が長くやるよりは良いこともある。

 自民党ではお金で人を動かすことだけが有効ということだ。お金を挨拶として渡さなければ、選挙で非協力な態度をとられる不安がある。嫌らしい議員の世界だ。この裏には既得権の固定化がある。議員という立場が既得権化されているのだ。議員になれば、これだけの恩恵がある。その立場を守るというのが、今の自民党議員の姿勢になっているのだろう。

 だから、自民党内から強い反発が起きない。予算委員会の開催も拒否している。自民党としての説明責任を果たそうとしていない。こう言う金権選挙を一掃しようという意志が見えない。自民党議員の多くが後ろめたいところが、あるに違いない。そうでないなら、国会できちっと1億5千万円が何故、河合杏里に渡されたのかを説明して欲しい。

 アベ氏は河合法務大臣を任命した責任は痛感すると。いつもの聞き飽きた弁明をした。普通の人間は責任を感じたら止めるのだ。ところがアベ氏は責任を感じたから、これから一層頑張ると言うのだ。これは詭弁だ。もし責任を感じて一層頑張るなら、この事件をとことんあからさまにすることが、当事者の責任だろう。

 自分の秘書が河合杏里選挙でどんな役割をしたのか、明白にして貰いたい。何故、河合氏を法務大臣に任命したのかも、明白にして貰いたい。「安倍総理、あなたは疑惑の総合商社だ。」ちがうか、「安倍総理、あなたは疑惑のガレッジセールだ。」「安倍総理、あなたは疑惑の断捨離だ。」もう終わりの時が来たのだ。潔く退陣だ。

 議員の立場を既得権として守っているのが自民党だ。そして、その恩恵をおこぼれとしていただく、有権者の集団がいる。これが桜の会の参加者である。ホテルのパーティーで接待して貰える人達だ。並んだ写真を撮影できて、営業や宣伝に使える人達だ。

 桜の会が社会の功労者へ対する純粋な慰労の会であるならば、その名簿を破棄するなどあるわけもない。名誉としてむしろ長く残して置くことだろう。名簿を破棄するには理由がある。招待者に対する政治家の関与があったと言うことで、名簿を残せないことになったのだ。実は私の父はこう言う世界の人だった。それでおおよその感じは知っている。これは自慢ではなく、恥の暴露である。

 金権選挙という妙な慣習が生まれたのは、日本人の一番情けない習い性だ。私の中にもこう言う嫌なところがないとは言えない。議員は公務員である。お金を貰って動くのではおかしいだろう。後援会は利権集団なのか。この機会にこうした悪習を一掃しなければならない。そのためにも河合夫妻のやったことを厳罰に処す必要がある。

 もし河合夫妻の起訴が出来ないで終われば、今度は河合金ばらまき基準が出来てしまう。黒川賭博基準のように、この程度のことまでは許されるとなってしまう。さすがにそんな選挙では民主主義が公正に行われているとは言えないだろう。

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第6回 水彩画 日曜展示

2020-06-21 04:48:00 | 自給
 第6回 油彩画 日曜展示





 16, 油彩画 「崖の眺め:能登」
 F20号
 1973年8月







 17,油彩画 「沈思」
 F15号
 制作1974年 2月






 18,油彩画 「リンゴのある静物」
 1979年
 f20


 今回は最後に残っていた、古い油彩画を展示する。学生時代の物、2点とその後パリから戻って、描いた静物である。ここで記録しておかないと、失われそうだ。一番興味深いことは今に繋がっていると言うことだ。絵を描くと言うことはそう大きくは変わるものではない。

 むしろこの後描いていた絵の方が変わているのかもしれない。そして戻ったと言うことかもしれない。この辺は自分ではまるで分からない。自分が見ているものを絵らしきものにしようと言うことが変わらない。

 すこしこの機会に、昔のことを思い出して描いておく。油彩画を始めたのは中学1年生の時だ。世田谷中学に入り、すぐに美術部に入部した。絵を描くのが好きだったからだ。小学校の時は水彩画だけだった。小学校の時に世田谷学園で絵のコンクールがあり、出品した。銀賞だか貰った。それもあって中学に行ったらば、すぐに美術部に入ろうと考えていた。

 中学では油彩画を始めようと決めていた。渋谷の道玄坂の上の方にあった、地球堂と言う名前の画材屋さんで、かなり高めのセットを購入した。親が中学に合格をしたらばと言う約束でそれを油彩画セットをくれたのだ。そういえばそのすぐ上に、世界堂という大きな鞄屋さんがあった。

 念願の油彩画のセットだった。確か8号の張りキャンも買ったのだ。同時に美術部に入部した畠山君と、井沢君と買いに行ったのだ。その頃の美術部の顧問が稲田先生で、すばらしい人だった。熱心な生徒が多くいて、毎年芸大に入る先輩がいた。そう、世田谷学園では中学も高校も一緒にクラブ活動をしていた。今は芸大に行くような生徒はいるのだろうか。

 中学や高校で描いた絵は一枚も残っていない。たぶん、小田原の家には残っていたのだが、先日捨てたのかもしれない。探したがもう分からなかった。ラツゥールの大工のヨセフの模写をしたものがあった。それと、シクラメンを描いた木炭デッサンもあったのだが。そうだスケッチブックがもしかしたらありそうだ。

 学校の中にお堂があり、そのお堂を描いた記憶がある。お寺がある学校というのもいいものだと思いながら描いた記憶がある。たぶん学校が好きだったのだ。学校には大きな木が沢山あった。一本の銀杏だと思うのだが、その上にはリスが住んでいた。日曜日に学校に行くと時に見ることが出来た。

 絵ばかり描いていたのは、高校1年までである。それから頭がぐるぐるしているような状態で、陸上部に入って走ることばかりだった。それでも、美術部の学園祭の展覧会には畠山さんから誘われるので、絵だけは出していた記憶がある。そうだ演劇部の小道具係で絵は描いていた。

 油彩画を始めた頃の現物はなくなった。大学に行って絵を再開した。やはり美術部に入ったからだ。大学では絵を描くと言うことははっきり決めていた。大学の美術部時代の2点と、フランスから帰ってから描いた油彩画が1点だけあった。そうだ、リンゴのある静物を描いたのはもう油性を辞めてからだ。油彩画はフランスから帰って辞めて、アクリル画に変わった。

 
 顔料を工夫する工芸的な作品が多い。今度展示したいと思う。以前金沢大学の美術部の友人が、フランスから帰って開いた個展を見てくれて、そんなに変わっていないと言ったのを思い出した。今描いている絵とも変わっていないのかどうか。


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6月1日に改正動物愛護法が施行

2020-06-20 04:19:13 | 石垣島
 

 6月1日に改正動物愛護法が施行された。いくらか日本の犬猫の飼育状況が改善されるだろう。しかし、まだまだひどい状況が続いていることも忘れてはならない。さらに法を改正して行く必要がある。一番はホームセンターの片隅で、生きた犬猫が展示販売されているようなことはあってはならないことだ。

 犬や猫を飼うと言うことは軽々しく行ってはならないことだ。命と対峙することになる。その覚悟がないまま、かわいいから飼う。こう言う安易な状態を助長することはあってはならない。飼い主としての覚悟と責任を重く定める必要がある。

 殺処分は急速に減少している。これは行政と保護団体のボランティア努力がようやく良い結果を導いているのだと思う。この点ではもう一息の所まで来た。犬やネコを飼いたいのであれば、保護団体から分けていただくと言うことが、普通のことになる。そんな社会を目指さなければならない。各地に保護団体はある。

 犬や猫を飼うことは人間らしい暮らしをするためには必要なことだとおもう。動物を飼うと言うことはすばらしいことだ。とくに若い人が成長するためには必要なことだ。私は犬から教えて貰ったことが実に多い。今はネコから支えて貰っている。

 犬や猫と共に暮らすことはすばらしいことだが、飼うためにはそれだけの覚悟とと環境が必要だ。是非、その点を整えた上で保護団体からわけてもらう選択をして貰いたい。保護団体では飼育についてのアドバイスやホローもしてくれているはずだ。

 ブリーダーという存在がある。日本犬の保存会は各地に存在する。天然記念物である犬種の保存のために長年努力している。もちろん、すばらしい環境での飼育をされている人が大多数である。こうした優良ブリーダーの認定制度を作る必要もある。もうけ主義の悪質なブリーダーを排除するためだ。

 国が飼育環境や飼育技能を評価し、認定する制度が必要である。国の評価を受けたブリーダーのみが子犬や子猫の販売を出来るようにする。ブリーダーには本当の意味の、愛護精神のある方が多いのだから、是非各県の保存会とブリーダー自身が優良ブリーダー制度を作り上げて貰いたい物だ。

 もし、犬や猫が飼いたいというのであれば、保護団体か優良ブリーダーからしか手に入れることは出来ないという制度が必要である。ホームセンターなどの片隅に、かわいい子犬や子猫がいることがある。こうした物を売るような販売法で、衝動買いを誘発させるようなことはあってはならない。

 朝日新聞によると2万匹の犬や猫が流通段階で死亡しているそうだ。どれほど劣悪な環境のペットショップや繁殖業者が存在するかである。例えば、子猫は小さいほど売れるというので、餌をわずかしか与えず大きくならないようにする業者がいるという。

 売れ残った犬や猫を殺処分している業者もいた。2022年6月からはICチップの埋め込みが義務化される。こういう劣悪な流通を防ぐためである。獣医師には虐待が疑われる場合、通報が義務づけられた。このような努力の結果、悪質繁殖業者とペットショップがなくなることを願っている。

 石垣島にも「シッポの会」という殺処分0を目指す会がある。なかなか考え方が柔軟な会で、会での犬猫の引き取りや飼育はしない。あくまで、譲渡会で犬猫の斡旋の活動に限定している。「犬や猫の引き取り、保護預かりは行っていません。保護されている犬猫について、条件が合えば新しい飼い主探しのお手伝いの協力をしています。」

 我が家もシッポの会の協力者である。と言っても月に一回譲渡会に行ってお手伝い程度である。特に困った猫がいるので預かってくれと言われたことはない。我が家には年寄の先住猫が3匹いて、微妙なバランスで暮らしている。とても新しい猫がは入れるともおもえない。

 日本の犬猫の状況は余りにひどい。その原因は繁殖業者にある。そのために、子犬や子猫にICチップを埋め込まざるえないのだ。ICチップなどない方がいいに決まっているが、迷い犬や迷い猫対策にもなるので、安心である。繁殖業者のひどいところになると、一定の月例を超えると淘汰してしまうところもあるらしい。

 繁殖用の親犬など、生涯身動きが出来ないような狭い檻の中に閉じ込められていて、繁殖だけを繰り返されている。散歩など全くさせてもらえない繁殖犬が多いのだ。こうしたペットショップの繁殖場が小田原の家のそばにもあった。真鶴に繁殖場があり、小田原にショップのあった悪徳業者は警察に動物虐待で止めさせられた。

 こうした劣悪なペットショップから、押しつけられるように衝動買いされた犬猫が、今度はたちまちに捨てられるのだ。全く人間のやることではない。生き物を飼うというのはよほどのことだ。命をおろそかにするような人には飼う資格がない。

 石垣島にも、見たことがあるペットショップが3軒ある。ここがどんなところであるかは全く知らないのでなんとも言えないが。心配はある。石垣島にはネコ島とよばれている島がある。困ると猫はそこに捨てられてしまうのだ。捨てることは絶対に行けない。譲渡会に持って行く選択がある。

 それでも隠れて捨てるにしても、せめても去勢手術だけはして貰いたい物だ。猫島にいつまでもネコがいるということは石垣島のねこの飼い方にまだ問題があるということである。いつかネコ島にネコがいなくなることを願っている。

 街に猫が歩いているのは悪いとは思わない。日本では猫の飼い方がおかしくなっている。外猫禁止である。これは猫には可哀想なことだ。外に出すならば、去勢するのが義務だ。ネコは外で暮らした方が幸せな生き物だ。家に閉じ込めて飼うのは可哀想なことだ。

 小田原にいたときにはネコは外に出ることが出来た。本当に楽しそうだった。山を毎日ぐるりと歩いて散歩をした。時にはけんかをしてケガをして帰ることもあった。それでも外にいるときのネコは家の中にいるときよりも数倍生き生きしていた。そして16歳18歳と長生きしてくれた。

 あの姿を見ているとネコは外に出してあげないのはよくないことだと思う。石垣にネコと一緒に越してきて、今ネコは家の中から出してあげられない。可哀想なことだと思うが、年寄のネコが初めての土地に来て、外に出たのでは無理だと考えて家から出せないでいる。

 日本の社会がネコが外に出して飼えるような社会であって欲しい。そのためには、去勢の義務づけ。マイクロチップの埋め込み。良いことばかりではないのは分かっているが、ネコや犬を行政が殺処分している状況がなくなってから、もう一度考えればいいことだ。現状では仕方がない。

 
 
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イージス・アショアは無人島に配備しろ

2020-06-19 04:10:28 | Peace Cafe

   中央部の赤い部分が沖縄の土壌の色である。この色はすごいと思う。耕作の難しい土だと思う。この緑の下に、この赤い土が広がっていると思うと、風景は又別に見えてくる。

 イージス・アショアとはアメリカ製の迎撃ミサイルのことである。秋田県と山口県に配備して、中国や北朝鮮からのミサイル攻撃を迎え撃つというものである。6000億円の費用だそうだが、本当に迎撃できるなら高いとは言えない。そもそもミサイルをミサイルで撃ち落とせるかと言うことは疑問視されている。銃弾を銃弾で撃ち落とす技術というのは、極めて難しいと言うことだろう。

 イージス・アショアはそもそも不完全な物とも言われている。アベ氏がトランプに売りつけられたとされている。初めから、ブースターが市街地落下のおそれは危惧されていたが、トランプに言われて否応なく買わされた政治的判断であったのだろう。それを河野太郎氏は明らかにし、購入を止めた。本当にアベ氏は無能な総理大臣だ。どうせ、イージス・アショアなど発射することはないのだから、どうでもいいと考えているのだろうか。

 今回のイージス・アショアの配備中止は、迎撃ミサイルのブースターと呼ばれる第一段ロケットが落下の制御が出来るかである。今まで出来ると自衛隊が説明をしてきて、強引に配備を山口県と秋田県に押しつけてきた。この配備の説明は余りにずさんで、していない調査まで適当に記載されていた。

 一方ににイージス艦というものもある。6隻の船に迎撃ミサイルを乗せている。従来は8隻体制だったのだ。しかしイージス艦の維持は乗員負担が大きい。300人必要という。固定基地のイージス・アショアの場合、20人程度で可能と言われている。そして、2カ所の固定基地で日本全土の迎撃ミサイル体制が可能と言われている。再度、新たにイージス・アショアを船に乗せられないかという案も出てきている。

 専守防衛という考えに立つ以上迎撃ミサイルは必要な武力と思われる。ただし、はっきりしているのは緊急事態に発射する物である。250キロもあるブースターの落下の制御は不可能に決まっている。これをアメリカの言い分をそのままに自衛隊がごまかして説明していたところに、罪が大きい。落下には風の影響や発射角度方向が影響する。初めから無理とされていたことだ。

 秋田県では自衛隊の説明の不備を突いて、反対運動が起きていた。反対運動の科学的な追求が今回の配備中止に繋がった。当然のことである。自衛隊には科学的な思考能力がほとんど無い。販売基のアメリカが言うことを鵜呑みにして、そうだろう程度のことで説明をしていた。自衛隊自身の調査は河野防衛大臣になってから行ったことなのだ。

 アメリカが日本に売りたい理由は、北朝鮮の核弾頭を日本通過時点で打ち落として貰いたいという理由も有るのだと思う。もっともなことだ。それなら、きちっとした性能と、欠陥も説明して貰わなくては困る。市街地周辺に配備できるような物ではない。

 こんなことになるのは自衛隊が戦後70数年も形式武力として存在したからだ。稲田氏が防衛大臣になるようでは、到底自衛隊を動かすこと等無理なことだ。国全体が、真剣に専守防衛とはどういう物かに向かい合っていないのだ。自衛隊は武力主義に傾き、専守防衛を不可能な物としている。防衛白書を読むと、そうとしか読めない。

 攻撃用ミサイルを持たないのが、専守防衛である。だからこそ、迎撃ミサイルは必要である。地上基地の迎撃ミサイルはまず攻撃目標になりやすいだろう。その意味では補足されない潜水艦からの迎撃ミサイルの配備も必要なのだろう。ただし、艦船や潜水艦には大きな人員的負担があると言うことのようだ。それならどうしたら良いのか。

 イージス・アショアの無人島配備である。日本近海に無数に存在すると言える、無人島に配備すれば、落下物の問題も緩和される。艦船と違い無人島であれば、人員の負担も少ない。こんな当たり前のことが何故考えられないのだろうか。それには想像できる原因がある。

 無人島配備であれば、攻撃されたとしても周辺住民への被害もない。唯一考えられる問題は自衛官が無人島勤務が辛いと言うことぐらいだろう。これは国防に携わる以上やむえないことではなかろうか。交代勤務にして対応して貰う。これも出来ないというのであれば、自衛隊という物がすでに成立しないだろう。

 米軍の辺野古基地もそうである。どこかの無人の島に米軍基地を置けばいいだけのことだ。石垣島の自衛隊基地もそうだ。無人島に置けばいいだけのことだ。何故、人家のそばに置きたいと考えるのかが問題だ。大きく言えば、国民に対する嫌がらせである。嫌がらせと言えば、少し誤解もあるかもしれないが。

 国民にも負担感を分かち合えと言うことだろう。誰からも見えないような離れ小島におかれて、島流しされていたのでは国防が余りに軽々しい。国民の見えるところで無ければ、国防をしている意思表示ができない。と言う自衛隊の妙な意識だと思う。

 確かに長年、無駄な自衛隊という目で見られてきた。その裏返しの地上配備の地域への押しつけなのだろう。自衛隊がどれほど大事な物かを見せつけてやるという意味なのだ。石垣島ではミサイル基地を島で一番大切な神の山於茂登岳に、自衛隊基地を建設している。自衛隊内部にある、自衛隊を甘く見るな、ざまーみろというような意識なのだ。

 俺たちを尊重しろ。俺たちをないがしろにしてきた長年の恨みをここで晴らしてやる。自衛隊の存在意義を認めろ。こう言う積年の恨みが、むやみな場所を考えない自衛隊基地建設に繋がっている。誘致の集会に集まる元自衛官の人達の、恨めしそうな、怒りに満ちた目を見るとそういう意識をひしひしと感じた。ある意味自衛隊のないがしろにさせてきたという、ひがんだ意識が爆発しているのだ。

 だから、離れ小島のミサイル基地では恨みが晴れない。又こう言う扱いか。と言う怒りが鬱積するのだ。それは国民から疎まれる存在と意識している、自衛隊の現状なのだ。それは国防という物に正面から向かい合ってこなかった政府と国民の責任である。日本の安全保障は何か。国民と共有できるような目線で、正面から考え直す必要がある。

 アベ政権であれば、憲法9条を改定し、自衛隊を明記すると主張している。確かに言葉では自衛隊が認知されると言うことになるのかもしれない。ところが、これが自衛隊の認知と言うより、平和主義の専守防衛を終わらせようと言うことなのだ。旧態依然の武力主義では、日本の国力では無理と言うことを考える必要がある。世界の軍事状況は全く変化してしまっている。

 攻撃的武力の保持をしたいというのが、アベ政権の本音である。当然原爆の保持まで行かざるえない。北朝鮮の姿を見れば分かるだろう。世界の軍事状況からすれば、そうでなければ自立した武力主義の国防は不可能である。しかし、日本の国力でそういうことは、現実的に無理である。アメリカでさえ、北朝鮮に脅されて、安心はできないと言っている状況なのだ。

 世界の武力主義は極限を超えたために、現実には武力の使用できなくなっている。武力を突発的に使うのは狂気の国家だけである。まともな国であれば、中国であれども軍事力の駆使は最終手段である。軍事力の前に経済戦争が始まる。すでに始まっている。先ずはこの経済戦争に備えるのも現代の国防である。

 経済戦争への供えがなければ、武力どころではないのだ。食料がたたれれば、武力攻撃以前に国は崩壊する。ウイルスが蔓延して国が滅ぶ可能性もありうる。国防とは極めて総合的な物だ。だから、国の安全保障は国民の理解が必要なのだ。ところが、石垣島自衛隊配備計画でも分かるように、国防は国の専権事項、住民が口を挟むような物ではないと、市長が説明している。

 そうした市長の時代錯誤の考え方では到底国の安全保障は成り立たなくなっているのだ。ぜひとも、地域住民も参加できるような国防論議が必要ではないか。秋田の方々はすばらしい結果を残した。地域行政と反対運動が国の専権事項を覆したのだ。石垣島でもやろうではないか。

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石垣島では一期米の出荷が始まった。

2020-06-18 04:18:01 | 石垣島

  トックリヤシの実です。いつも絵を描かせて貰っている崎枝にあります。ヤシは葉は屋根材、幹は建材、実は油や砂糖など、様々に利用されている植物ですが、トックリヤシの実は特に使われてはいないようだ。面白い姿だと思うのだが、この後色づいて行くのだろうか。

 石垣島では一期米の出荷が始まった。田んぼ面積は石垣市の少し古いデーターで474ヘクタールある。年間で1300トンの収穫量があるとされている。これは農協集荷分だけのことかもしれない。5万人の人口であるから、島内自給が可能と言うことになる。東京まで直接出荷している人も知っている。

 反収が300キロというところが、最大の課題と見える。農の会では反収がその倍の600キロが目標である。つまり、2600トンの生産は可能だ。加えて2期作をもう少し広げれば、3000トンの生産は可能な島だとみているが。台風の被害もあるから、そうも行かないのかもしれない。

 ここ3,4年の見た目での田んぼの状態は、耕作放棄地は広がっていっていない。これは何よりも嬉しいことだ。農業法人で田んぼを借りたいと新聞広告を出しているところもあるぐらいだから、大丈夫なのかもしれない。33歳の青年が農業法人を継いで頑張っているところもある。彼は1000万円の稲作農家の若者が2,3人出てくると石垣の農業も変わると言っている。石垣の農業意気高し。

 石垣市には農林高校がある。そして、今も大いに頑張っている。島の数カ所に農場もある。すばらしいことだと思っている。いつも絵を描かせていただいている、小嶺牧場の方は、農林高校の畜産の先生をされていた方である。

 稲作の収量の少ない原因は「あきたこまち」が奨励品種という所にあるだろう。それでも今年はできがよく98%が1等米になったそうだ。収量よりも品質を追求しているのかもしれない。西表ではすべて1等米と言うことである。これは小田原の状況から考えてもすごいことである。

 泡盛のための酒米を作るという試みも始まっている。石垣島には本気で農業をしている人がいる。石垣牛の生産が軌道に乗って来たので、若い人が農業に本気になったと思われる。石垣島の特長を生かし、地場消費を掘り起こせば、石垣の農業は大いに期待ができる。だから、観光は不可欠なことなのだ。石垣に来たら、石垣の産物で歓待できると言うことはとても魅力的なことなのだ。

 先日時間雨量120ミリ。12時間雨量が353ミリという過去最大雨量を記録する豪雨があった。農地の水没もあり心配されたが、幸い被害はほとんど無かったようだ。田んぼは一時的に水没しても、1日2日で水が引けば、収穫に問題が無いことが多い。

 普段ほとんど水のない川が、たちまちに激流に変わる。木や草の生い茂った河岸を巻き込んで、大河のような川幅になる。しかし、それは1日と続かず、あっと言うほど早く水は減衰する。ただ、あの青い海が茶色く濁るのは1週間は続く。これでは珊瑚が枯れてしまう。名蔵湾などは赤土の海岸になっている。

 6月の田んぼは、色づいてくる田んぼあり、田植えをする田んぼありと、真夏の石垣島では色とりどりの田んぼ風景が広がっている。面白い田んぼは刈り取った株から、田植えをしたように再生させる田んぼである。本気でこれを栽培したらどうなるのかには興味がある。

 是非石垣島に観光に来た方々は、この日本では石垣島にしか残っていない農村風景を見て行って貰いたいものだ。石垣島の美しさは海と空だけでない。日本一美しい田んぼがある。このことを忘れないでほしいものだ。機械を使わないで田んぼを作り上げた時代の痕跡が残っている。

 石垣島では、牧場とサトウキビと田んぼの風景が生活の風景である。今は日本では生活の風景のある場所は滅多にない。日本の原風景はすでに崩壊してしまっている。崩壊したことすら意識されないまま消えてしまった。これは日本人が日本人であると言う大事なことを失い始めていると言うことでもある。

 自給自足の石垣島には未来の日本の姿がある。日本を取り戻すというか、人間が生きる場所があると思っている。それは自然と人間が関わり、生きているという姿である。この生きている風景を描きたくて石垣島に来た。この石垣の風景がいつまでも続くことを願っている。

 石垣島の人には余りにも当たり前の風景のことで、日本の原風景が残っている。等と言っても余り、意識されてはいないと思う。日本全体で失われている。都市化と過疎で日本の風景はズタズタになっている。ますます石垣の田んぼのある風景が貴重だと伝えたいと思っている。

 こうした生活のある風景は西表島でも、小浜島でも、与那国島でもあったようだ。ところが風前の灯火である。高校がないから、若い人が島を出てしまうのだ。一度島を出ると、大学に行く人や就職で都会に出る人が多くなる。ここを解決しないとならないのだろう。みなさんそれぞれの島の良さは肌身に浸みている。

 石垣島のサンサンラジオでは石垣島のお米のおいしさを放送していた。ゆらてーく市場では、お米の試食が出来るそうだ。自給が一番なので、あんまり観光客の人に買って貰いたくはないが、物は試しなので一度お土産にふるさとに送ったら楽しいのでは無いかと思う。南の島のお土産はパインやマンゴーだけではないのだ。

 実はそう言いながら私は石垣のお米を食べたことがない。小田原の自分の田んぼのお米があるからだ。このお米のおいしさに比べたら、どこのお米も劣ると思っている。自分で作ればなんと言っても美味しいのだ。石垣島のお米がまずいとは思っていないのだが。

 石垣の美しい風景の中のお米は別格かもしれない。石垣島は確かに水が良い。山の湧水で作っている田んぼがいくらでもある。山の絞り水だけで作られるお米は美味しいだろうと思う。この土地にあったお米を満作で作る。そういう意味では、熱帯研と共同開発で石垣米の開発をすべきではなかろうか。

 熱帯研にはすばらしいお米の研究者がいる。石垣らしい南国の美味しいお米を作出して貰いたい物だ。石垣ブランドである。それは将来の石垣の田んぼの継続に繋がる快挙になるはずだ。サトウキビ栽培には限界が見えてきている。もう一度田んぼを見直す必要が出てくるはずだ。

 世界は食糧危機が近づいている。今回のコロナで国の安全保障の最も基本となる物は食糧自給だと言うことがはっきりとした。田んぼに戻せるところは戻さなければならない。石垣島は自給の島を目指して、主食の生産をしっかりと確保する必要がある。

 

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2020欠ノ上田んぼの田植え

2020-06-17 04:31:09 | 稲作
 


 欠ノ上田んぼの田植えが終わった。実に充実した3日間だった。こんな日々を生きることが出来るという、何というありがたさか。生きてきたかいがあったというものだ。欠ノ上の田んぼは耕作放棄地になっていた場所である。国の元気回復事業という事で、10数年前復田がされた場所である。

 里地里山協議会の一員として、欠ノ上の地主さんへお願いして事業を進めて頂いたものだ。毎日通る道路から見下ろせる美しい谷間が耕作放棄地になっていた。何とか昔のような田んぼに戻せないかと気になっていた場所だった。10年間かかったが、今年はついにすべてが田んぼに戻っている。感慨無量である。

 国の事業として、復田された後に誰か耕作をする人がいなくてはならない。という条件があり、あしがら農の会がその役割を引き受けたものだ。これが笹村個人の利益誘導ではないかと、里地里山協議会からは査問された。当時はまだそうした活動の意味が、会員の中でも理解されていなかったという事だろう。

 今はこの活動を含めて農林水産大臣賞を受賞している。やっと農の会の活動が認知され的他と言うことになる。国はその耕作放棄地の、1反5畝ほどを復田した。あしがら農の会が残り3反5畝を引き受けて復田したことになる。今は全体で5反近くある。農の会の耕作する田んぼはヘクタールぐらいだろうか。

 今年はコロナウイルスで、田植えにすら参加できないかと思っていたが、何とか田植え前に自粛が解除された。やっと参加できることになってほっとした。石垣島で暮らし始めてみると、小田原の農作業が実に懐かしい。遠くにいるにもかかわらず、仲間としてやれるという事がいかに幸せなことかとしみじみと感じた。



 一日目が終わり、まだ植えられていない上半分の田んぼ。水を抜いて、線を引き少し水を戻している。この時土の状態がいいと、田植えは早くなる。

 石垣島にいて、毎日田んぼを眺めて描いてはいるが、その田んぼに入ることはできない。田んぼの土に手で触っては見るが、さすがに入ってみることはできない。草が生えていても取ることもできない。それはなんとも残念なことだ。石垣島ではやらないと決めたことだ。

 29日に苗取り、30日と31日に田植えだった。準備に参加できなかったことは申し訳のないことであった。初めてのことであるが、皆さんが徹底して準備をしてくれていた。また、欠ノ上グループ全体の力量が上がっている。私がいなくなったことが良い形で反映していることが確認できた。

 分かったつもりの前からの人間が、心配になりあれこれ口を出してしまう事はやはり良くない事なのだ。みんな力のある人たちだ。その一人一人の力が上手く合わさるように進みさえすれば、すごい総合力になる。全員がそれぞれの部署で黙っていながら、補い合えるという姿が実現できていた。農の会の組織は、これからの組織作りの実験になっている。

 形のない組織。仕組みのない組織。曖昧な組織。決まりのない組織。やりたい人がやりたいことだけをする組織。黙って補い合う組織。この新しい組織をやりきるためには、人間力が高くないと。


 
 ここはがけ崩れがあり、川際が崩壊した。右側の綱を張ってある当たりの下は空洞である。今年は植え付けない予定であったが、もったいないので狭めて、畔を作り急遽田んぼを作ることにした。新しく田んぼを作る体験にもなるとも考えた。

 今年は新しい仲間が3家族も増えていた。その人たちがすごい働きであった。良い関係が始まっていることが良く分かった。みんなでやるという事は難しいが、上手く行けばすごい力の出るものになる。この時代に農業をやってみようという人は皆さん自立されている方だ。自分流でやりたくて当たり前である。共同でやるという事に苦手な人もいる。

 人間の合わさる力というものは凄いものである。私自身にしても3日間気持ちよく働くことが出来た。大した疲れもせず、やり通せたという事がすごい。一人ではこれだけの力を出すことはできない。みんなでやろうという気持ちが合わさるから力が湧いてくる。

 自給農業の最終形は仲間との共同農場になる。一人ならやりたいようにやれていいように思うが、そうでもないのが農業である。一人でやれるようになったら、次はみんなでやれるようになる。この気持ちを忘れたらだめだ。どうあがいても一人の農業では生きていける社会ではないのだ。

 農業だけではないのかもしれない。人間はいつも一人では生きていけないものと言う事なのだろう。一人で生きる力をつけて、みんなでその力を合わせるそれが田んぼの協働なのだと思う。その一人として、今年も田んぼの仲間に加えてもらえたことが幸せだと改めて感じる。私のように石垣島からでも気持ちよく参加させてもらえることが出来る形は凄いことだと思う。

 苗作りで多く種をまき過ぎていた。来年は必要な本数を正確に計算して種籾を残さなければならないだろう。その分かれ目は1本植にするか、2本植にするかがある。中には3本植にしたいという人もいる。このあたりで種籾を多くは播種したくなるようだ。

 1本植なら、1反1キロで足りる。2本植ならば2キロになる。予備分も考えると2キロかける反数で3反がサトジマンなら、6キロの播種。選別で落ちる予備が1,2キロか。1反がマンゲツモチだとすると3キロ残せばいい。これ以上の苗の量だと、一日で苗取りが終わらない。今年は15人だった。又密になり良い苗にならない。そうか過密は何にしても良くない。

 田植えは25名と26名であった。この人数でゆっくりと確実に田植えが出来た。無理のない余裕のある田植えであった。今年は田植え希望者を受け入れなかったので、その分早く進んだのだと思う。手伝いに来てもらうことは活動にとって必要なことなのだが、そのお世話や説明で、むしろ作業は遅れる。

 活動を広げるという意味で必要ではあるのだが。自分たちの自給という事なら、気の合ったものだけでやる方が良いようにも見える。しかし、そうでもないというところにこれからの組織論がある。



 

 
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移住暮らし体験談

2020-06-16 04:01:17 | 石垣島


 随分あちこちで暮らしてきた。人生の最終盤に石垣島で暮らしている。日本だけでも随分と地域差がある。暮らしやすい場所もあった。暮らしにくい場所もあった。その時々、その場所によって暮らし方も変わった。これから移住を考える人にはいくらか参考になるかもしれない。

 東京一極集中がさらに進んでいる。都会の暮らしはウイルスの蔓延には大変なようだ。都会から離れる人が増えるのかもしれない。暮らして行けるのであれば、地方の暮らしは良い物である。移住体験の感想を書いてみる。

 生まれたのは、山梨県境川村藤垈。育ったのは東京三軒茶屋が中心。中学高校と通学した頃は、世田谷の松陰神社から1キロほどの所。そして、大学時代が金沢。その後フランス。そして、戻ってから三軒茶屋で画家を目指す。

 36歳の時に神奈川県山北の山中で開墾生活。最初は通いながら始めて、数年して完全に移住。その後53歳頃小田原に引っ越し。あしがら農の会中心の暮らしになる。69歳になって石垣島と小田原の2拠点生活。

 ざっと今までの暮らした場所を並べるととこんな具合である。と言ってもちょっと実際の所は想像しにくい感じもする。それぞれの暮らした場所は重複している。藤垈で生まれたが、三軒茶屋と行き来する暮らしだった。境川小学校に通ったこともあるが、三軒茶屋小学校に主に通った。

 子供時代は時間的には三軒茶屋にいた期間が長いが、自分の中にある濃密な時間は藤垈の向昌院の暮らしである。この歳になってみると、藤垈という山合いの
場所と向昌院と言う曹洞宗の寺で、私と言う人間が作られたという気がしている。人間は子供の時代は自然の中で育つことが重要だと感じる。子供は自然の中で暮らすほどいいという実感がある。

 山北から小田原に移動したのも、かなりの間重複生活であった。今は石垣島で絵を描いていて、離れた小田原に農作業に出かける。ある意味、いつの年代も2拠点生活のような状態であった。一カ所で暮らすよりも2カ所で生活することの方が、遙かに優れている。それぞれの地域の良さを受け入れることが出来る。その上に地域と距離を持てると言うことが重要だと思っている。

 どれほど良い場所でも、そこに止まっているよりも、時には離れた方がいい。離れることでその場所の良さもわかる。二地域居住をしてきたことは良かった。ただ地域から動きたくない人によっては、腹立たしいことかもしれないから、その点では配慮が必要かもしれない。

 移住しながらの一生である。この後は、死ぬまで石垣島暮らしだなと感じている。世間ではコロナ移住が始まりそうな風が吹いている。こんな時だからこそ、あちこちで暮らした体験は参考になるかと思う。移住の現実を少しお伝えできればと思って書きだした。

 山奥の小さなお寺で生まれた。おじいさんは役場に勤めて、お坊さんもやっていた。自給自足の暮らしである。お寺を維持して行くには、収入よりも支出の方が多かったのだろう。食べるものにまで困ったことはなかったが、それはつつましい暮らしであった。節約な暮らしを体験したことは、今になれば一番ありがたいことだと思える。自給自足はつつましい暮らしではあるが、食べるものは充分にあり、子供にも役割があり充実していた。

 私の役割は風呂焚きと鶏の世話。風呂焚きと言っても、水汲みから薪の準備までである。鶏は好きだったので勝手にやらして貰っていた。後嫌な役割は草むしり。

 中学三年までは藤垈暮らしが好きで、学校の休みの間は東京にいたことは一日もない。学校を休んで、藤垈にいたことも何度もある。余り長く休むので、境川小学校に通ったのだ。藤垈には好きで行きたかったと言うことが半分で、家の事情で東京にいるよりも、藤垈の暮らしをさせられたと言うこともある。学校に上がる前は夜になると、寝床で泣いた記憶もあるのだから、家が恋しいと言う一面もあったのだろう。つらかったというわけではない。

 自然の中で野良犬のように何かしらうろちょろやっているのが好きだったのだ。ほとんど一人である。川をせき止めてダムを造るとか、池に浮かべる筏を作るとか。穴を掘って横穴式住居を作るとか。金比羅さんに黄鉄鉱を掘りに行く。粘土を取りに坊が峰に行く。箒草を集めて売る。竹の皮を集めて売る。鶏を飼って卵を売る。昔は何でも買いに来る人がいた。

 よくもまあ、毎日遊びほうけていたものである。しかも一人で良くもあんなに危険なことをしていて、大けがもせずに居たものだと思う。しかし、この面白そうだと思ってやっていたことが、自分という人間を形成したことは間違いが無い。子供は山の中で育つ方が間違いなくいい。学校以外で勉強などする必要は全くない。生きて行く力は子供時代の藤垈暮らしで身についた。

 中学、高校時代は、世田谷1丁目の世田谷通りから少し入った住宅地に住んだ。世田谷の住宅地の暮らしは近所づきあいは全くなかった。お隣はお医者さんの家でどこかの大学病院に行っていると言う話だったが、全く付き合いがなかった。今思えばそこで暮らしたという記憶すら無い。

 唯一親しくなった家は入口の世田谷通り沿いにあった、下駄やさん家族だった。北朝鮮の人で、地上天国北朝鮮に帰国した。それで朝鮮のひとの印象が良い。北朝鮮に帰ったその後も気にはなったが、もちろん全く分からない。帰るときの言葉を覚えている。「帰るのですが、又来ますから。」と言ったのだ。もう2度と会えないだろうと私には思えた。松陰神社の家を思うと、どうしてもあの家族のことを思い出す。

 世田谷の住宅地の暮らしは、地域から何も得るものがなかった暮らしである。ああいう暮らしはダメだ。生涯で一番つまらない地域だった。地域はつまらなかったが世田谷学園は人間が形成される第2段階だった。中学高校は、良い仲間、良い先生との出会いがあった。曹洞宗の僧侶の先生がいるという点がやはり、重要なことだった。教育というものには無色透明よりも思想があった方がいいのではないかと思う。その点、曹洞宗は自己本位であるところが自分には合っていた。

 そして金沢での大学生活。金沢という地域性は面白いものがあった。金沢という独特の学生を大切にしてくれる文化の中で暮らせたことは、ありがたいことだった。大学に行くなら地方の大学がいいと考えて、金沢を選んだのだがそれは正しい判断だった。大学に行くならば、親元は離れてどこにでも行くべきだと思う。大学は自分の費用で行った。親が大学に行くならそうしろと言ったのだ。

 大学の友人との切磋琢磨であった。自分よりも明らかに優秀な人間に何人も出会うことができた。それは今も宝なっている。生の人間とぶつかり合いながらの暮らしは実に楽しかった。やりたいことをやりたいだけやれた。あれがなければ絵を描く一生ではなかったかもしれない。

 金沢では様々な暮らしをしたのだが、馬小屋で暮らしたことは面白かった。今で言うシェアハウスのような暮らしをしていたこともある。そういう暮らしが学生にはゆるされるところが当時の金沢の良さだった。学問は好きで真剣に学んだつもりだが、寺子屋のことを研究したいと思っていた。向昌院でも寺子屋をしていた時代があるという話だった。学者になる能力はなかった。

 そしてフランスに行った。最初ナンシーに行った。金沢とナンシーで交換留学生制度があった。私はその制度の生徒ではなかったのだが、結局の所ナンシーの日仏協会のお世話になった。何にも分からないままにナンシーに行ったのは、ラトゥールの大工ヨセフの絵がルネッサンス絵画展という物で展示されたことがきっかけだった。高校生の時に見て衝撃を受けた。これはナンシーの方は信じてくれなかったが、本当のことだ。

 一度は海外で暮らすのはいいと思う。フランスで日本人と日本の文化という物を考えることになった。自分の絵という物を突き詰めて考えたと思う。1年後パリに移動して沢山の絵を見て歩いた。ルーブルには毎日行くほど通い詰めた。マチスとボナールの絵がフランスの文化に根付いていると言うことが分かった。海外の暮らしも一度はした方がいい。

 東京に戻って絵描きを目指した。東京に戻るつもりはなかったのだが、父の入院で、家に戻る以外に選択はなかった。東京の暮らしは消耗する物だった。絵描きを目指すためには仕方がないと暮らしていたが、余り良い思い出はない。そして、山北で開墾生活を始める。

 山北の開墾生活からやっと自分の生き方が始まったような気がする。人間には自分の力で生きると言うことは、何より大事なことだ。直接絵を描いて行くことより、どんな生活をどうするかと言うことが大事だ。絵を売って生活する絵描きという形には成れなかったのだが、成れなかったおかげで、今では自分の絵を目指すことが出来たと思っている。

 芸術としての絵画には、絵を描く以前にどんな作者かという人間がある。自分という人間が表現すべき物がないのに、絵が描けるわけがない。絵を通して、絵の背景にある人間を見ている。人間のない絵画はあり得ない。そのいみで、自給自足を目指した開墾生活を30年続けたことは、生きたという気がしている。そこで表すべき何かを見つけたようだ。

 その意味では山北、小田原の暮らしは充実していた。山北では一人の自給。そして小田原ではみんなで自給。適度な東京都の距離が良かった。いわゆる田舎暮らしではあるが、東京まで通勤可能な地域。こう言う場所の良さがある。養鶏業はこう言う場所が適地である。

 小田原には今も家もあり、行くのだが石垣島の今の家より田舎である。小田原で農作業出来ることがありがたい。仲間がいるからだ。石垣島では特に暮らしは無い。絵を描くだけである。絵を描くだけにしないといけない年齢になったと思っている。

 石垣の暮らしは想像以上にすばらしい物だ。具体的にはカテゴリーで石垣島を選んでみていただきたい。何か聞きたいことがあれば、必ずお答えしますので、連絡くをしてください。コメント欄にメールアドレスをいただければ、公開はしないですぐに返信します。

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