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安倍内閣の合憲主張の根拠

2015-06-30 04:16:32 | Peace Cafe

安倍内閣では、憲法学者の安保法制に対する憲法判断は、学者の現実離れであると断じている。私は、学問ほど尊いものはないと考えている。政治家ごときが、学者の発言を軽んずるとは身の程知らずも甚だしいことだと感ずる。憲法学者はそのときの都合で発言をしている訳ではない。様々な立場の学者がいるだろうし、様々な憲法解釈がある。学問を軽視するようでは、すでに人間として失格だと思う。それは、自分と意見の違う人間を、切り捨ててしまう思想が根底にあると言う事だ。憲法学者の意見が自分の考えと違うとすれば、先ず謙虚に聞く耳を持つべきだ。その上で、自分の考えを再検討して、それでも自分が正しいという結論至れば、その理由を述べる。それが政治の現実主義であろう。安倍政権のあげた、安保法制を合憲とする、3人の、全体から見れば一握りの学者がいる。その一人の日大の教授によると、国連憲章で集団安全保障が認められているからとして、憲法より国際法を上位法制として、合憲を説明した。

安倍氏は丁寧な説明をすると言いながら、一向に何を言っているのかわからなくなってきた。自衛隊ができたときには、大多数の学者が自衛隊を違憲だと主張したが、今は違うと言っている。私は素直に読めば自衛隊も違憲だと思う。しかし、警察が違憲でないように、あくまで警察予備隊の範囲である。国民に向けて、分かりやすい30分ぐらいの安倍氏のビデオレターを制作してほしい。学問であるから、全員同じ考えにになると言う事の方がおかしい。様々な異なる解釈があるのが学問である。学問を否定して、今度は最高裁判決を持ち出している。米軍基地の砂川判決である。カビが生えた60年前の最高裁判決を持ち出したのだ。(1)憲法は固有の自衛権を否定していない(2)国の存立を全うするために必要な自衛の措置をとることを憲法は禁じていない(3)だから日本を守る駐留米軍は違憲ではない(4)安保条約のような高度な政治性を持つ案件は裁判所の判断になじまない。というもの。

しかし、この判決は駐留する米軍に対する判決である。その為に最高裁判決に、アメリカの圧力があり、判決前には最高裁からアメリカに対して、判決文が示された事が分かっている。砂川判決では、確かに自衛権を認めた。国家に自衛権があるという解釈である。攻めてきた敵と武力を持って戦う権利である。しかし、それがホルムズ海峡まで出掛けて行って、機雷を除去する事まで認められる根拠にできるはずもない。自衛のための戦いというより、石油利権の戦いであろう。中国がミサイル攻撃を日本に向けて行う事が想定されるので、先制攻撃をする事が出来るかである。砂川判決では、いわば、先制攻撃的自衛権までは、認められていないのは明らかなことではないか。自民党は武器が当時より進化しているから、自衛のためには、他国の領土に向かって先制攻撃せざる得ないと主張している。しかし冷戦下、核戦争の危機は今よりも、世界情勢が緊迫していた。

加えてアメリカが攻撃されたときには、日本はアメリカのために、日本とは関係のない、国に攻撃が出来る。こう安倍氏は主張しているようだ。それなら、憲法を変えて、自衛のための先制攻撃が出来るものに変えるしかない。現憲法をいくら拡大解釈しても、無理なものは無理だ。実は、自民党も無理は承知でこの法案を提出しているのだろう。背に腹は代えられないと考えるからだ。それが橋下氏が言う現実路線なのだろう。さすがに憲法は簡単には変えられない。それなら、憲法解釈を相当無理をして広げてしまう。どうせ、最高裁など政府の主張に従って、正しい判断はできないとたかをくくっている。砂川判決と同じやり口だ。こうした、まともな正しさをゆがめてしまう、現実主義は日本国をだらしのない独善の国にするだろう。まだ間に合う。誇りある日本国として、ここは汚れた現実主義より未来につながる理想主義で行こうではないか。

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日本の存立危機事態とは

2015-06-29 04:13:43 | Peace Cafe

皮肉なことだが、日本の存立危機事態とは、安倍政権の成立だと思う。国会は95日間延長された。ぜひとも有意義な議論を展開してもらいた。今までの国会での議論は有意義な議論が行われているとは、誰も思わないことだろう。議論をしているふりをしながら、問題の周辺で空転しているように見える。一番の原因は集団的自衛権というものが、憲法違反というのは、総理大臣ですら本音では考えているように見える。憲法を改定して、集団的自衛権の行使のできる法律を作りたいというのが、本筋であると従前より主張してきた。しかし、それはなかなか難しそうなので、まず当面の対策として、憲法解釈を変更して、集団的自衛権を行使できるということにする。その根拠は、憲法より上位に国連憲章というものがあり、世界の軍事的行為を規定するものとして、集団的自衛権が認められているということのようだ。日本国憲法の解釈を国連憲章に従って解釈すれば普通の国になるということの説明をするが、意味不明である。

そして、集団的自衛権が行使できるときは、3つの要件がある事態としている。。(1)日本と密接な関係にある他国が武力攻撃され、日本の存立が脅かされる明白な危険がある事態(存立危機事態)(2)我が国の存立を全うし、国民を守るために他に適当な手段がない(3)必要最小限度の実力行使——の新たな3要件ということのようだ。この新3要件がなぜ、集団的自衛権につながるかの説明に、ホルムズ海峡の機雷の除去が出てきた。国民を守るということは、石油が日本に来なくなる事態を、取り除くこともそのひとつだという説明である。つまり、国民の暮らしの経済を守るためには、軍事力を行使できるという意味になる。日本が経済封鎖された場合、経済封鎖した国を攻撃することも、日本国民の暮らしを守るということだと説明されている。この説明をよく考えてみれば、いつでも経済のためには戦争はできるということになりそうである。北朝鮮が日本を攻めてきたとしても、それは、経済封鎖をしている日本としては、北朝鮮の権利として、覚悟しなければならないということなのだろう。

これらの説明がことさらに分かりにくいのは、アメリカの意向を忖度して、この法律を作ろうとしているからである。アメリカに隷属することが日本政府の長年の習い性になっている。アメリカに評価される事が、自分の立場を守るということになる。アメリカに逆らった。鳩山由紀夫氏、田中角栄氏が総理大臣にまでなった人ながら、どのような末路をたどったのか思い出してみればよくわかる。もし、その昔にこの法律ができていた場合、朝鮮戦争のとき参加することになったのだろうかと思う。アメリカの要請はあったのだ。ベトナム戦争のときもうそうだ。韓国のように参加したのか。そしてアフガン戦争では。イラク戦争ではどうなったのだろう。現在時点でいえば、イスラム国の攻撃には加わることができるのだろうか。こうした過去の事例を取り上げて、明確に議論してほしい。それが具体的でわかりやすい議論であろう。

アメリカが北朝鮮がミサイルを撃とうとしているという情報を日本に向けて出す。ミサイル基地の先制攻撃の要請が来た。北朝鮮は建前は気象衛星の打ち上げと主張している。この時に日本の自衛隊は、集団安全保障に基づき、北朝鮮のミサイル基地を攻撃することができるようになる。果たして日本の安全は高まるのであろうか。世界情勢がより危険が度が高まっているという情勢判断である。中国の武力的圧力の増加ということが言われる。中国と領土問題になっている尖閣諸島を国際司法裁判所に提訴することが、日本人の安全を高めるのではないのか。わざわざ棚から下ろしたのは石原氏のやったことだ。その意図は憲法改定である。中国のアジア進出をさえぎるために、わざわざ中国との対立を高めたのだ。日本人の生命を守るためには、どういう選択が正しいのか、正面から議論してもらいたい。

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防音の鶏小屋

2015-06-28 04:58:21 | 自然養鶏

小屋の前に防音材が置いてある所。夜これをはめ込む。

以前から作ろう、作ろうとして踏み切れなかった。防音の鶏小屋を作った。これで上の小屋からすべて家のすぐ上の鶏小屋に鶏の移動が完了した。家の近間で合理的にやれる。家庭養鶏は庭鶏である。庭で鶏が遊んでいるくらいがいい。家族の数だけ鶏がいて、生んだだけ卵を食べるというぐらいがちょうどいい。子供のころもたくさん鶏を飼っていたが、おじいさんが卵を一人で1個を食べるなど、贅沢すぎるというので、良くて兄弟2人で分けて食べた。その話を友達にしたら、7人で分けたという人がいて、その人はほとんど卵の味のする醤油かけご飯だと言った。話はすぐわき道に行くが、防音小屋の作り方である。ネット検索で防音素材は簡単に見つけられる。どれがいいとかまでは分からないが、厚さは50ミリの40何とかと書かれていた。これを5枚買った。これの枠というものもあって、これは4本買った。あとはベニヤを5枚。併せて3万3千円ほどだった。もとからある鶏小屋のわきにあった倉庫を改造して作った。防音にはまあまあ成功した。

笹鶏の最後のめんどり。雄は、笹鶏と岡崎おうはんの交配。

小屋の大きさは1畳で高さが135センチの立方体である。床は土である。ここに現在雄鶏が2羽と雌鶏が2羽いる。前に遊び場があるので、昼間出してやることができるようになっている。その庭には、他にいる雌鶏も出してやれば、一緒に遊ぶことができる。慣れてきたら、雄だけその小屋に戻す方式にしたいと考えている。小屋の構造はこの立方体の後ろ側には前からあった、発泡スチロールの板を10センチくらい置いた。防音材が足りないのは分かっていたのだが、後ろ側は、あり合わせのものでいいだろうと考えた。後ろは人のいない山の方角なのだ。また空気の抜ける穴が欲しかった。まだつけてないのだが、夏場の様子では、そこに換気扇を入れる計画である。防音材はよく見るような、断熱材と似ている黄色のグラスウールのようなものだ。それに表面にシートが張り付けてある。このシートが鶏小屋にはありがたい。この倉庫だったところは、土台がしっかりしたコンクリート造りなので、下から動物が入り込むということはない。

両側の壁に断熱材を2段において、枠で止めた。枠の表面にはベニヤをあてがった。鶏がつついて穴を空けないためである。その天井部分にも断熱材を乗せてベニヤをあてがった。このベニヤはいらないかもしれないが、天井裏に当たるところに物をしまったのだ。問題は前面で、全面は金網でできている。下のほうの60センチほどは板張りである。下から網で後、害獣にやられやすい。その金網は開きのドアになっている。南向きで中に光が差し込むようになっている。奥まで十分明るい。その前面のドアの裏側にあたるところに1枚の防音材をあてがえる様になっている。朝取り外して餌をやり、夕方暗くなったら防音材で閉じてしまう。真っ暗であれば余り鳴かないだろうと考えていたが、光がわずかでも漏れこむのか朝を感じて、4時過ぎには鳴いている。鳴くが音が吸音されてたいして響かない。これは昼間前面を取り外してある時も防音効果があるようだ。吸音材効果なのか音が普通の小屋のように響き渡ることはない。

防音鶏小屋は都会では無理かもしれないが、農村地帯であれば、ほぼ問題ないレベルの効果をあげることができた。完全な遮断はできないが、それなりの遮音にはなっている。日本中で鶏を飼えなくなった最大の理由が、隣近所の騒音問題である。暮らし方が変わって、夜更かしになったし、明るくなるから起きるということもなくなった。鶏の声が響き渡る村の暮らしののどけさ。というようなことは江戸の遠くになりにけり。鶏の声が解決できれば、また鶏を飼う人が増えてくれるかもしれない。鶏好きとしては期待するところである。吸音材もいろいろあるようだから、まだまだ工夫できるだろう。そして、小屋の作りももっと完璧することはできるはずだ。まずは第1歩の成功である。

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ヤフーオークションの利用

2015-06-27 04:38:54 | 暮らし

ヤフーオークションを利用する。農業機械の購入を最初に行いやり方を覚えた。仕組みの全貌を理解しているわけでもないのだが、手探りでいろいろやっているうちに、何とか買い物ができるようになった。オークションはとおからず今の数倍の規模になるはずだ。実に便利だ。特に時間の足りない老人には便利な仕組みである。これから団塊の世代が消費者の塊になる。改善点の一番は、オークション終了時間を多くの人が、夜の10時過ぎにしている。それが一番の客が集中すると考えているのだろうが、老人中心に考えれば、夜8時ぐらいに終了時間を持って行ったほうが価格がせりあがるはずだ。私は8時ごろに価格をつけて朝見るぐらいなので、欲しいものでもセルということができない。この終了時間というのが、不思議なのもので、セリ上がる間は、10分ずつ延長されてゆく。これに気付いた時には驚いた。8%の消費税がない。1万円くらいのものであれば、送料分が消費税と同じということになる。

なかなか買えないのだが、一番良く見るのが、手織りの反物である。以前は草木染めをやっていた。周りにある植物で布を染められるということが、楽しかったのだ。やはり絹の布が一番染めやすかった。しかし、絹の白地の布を手に入れるのは難しかったし、高かった。そこで、結婚式の白いネクタイに目を付けた。東京の横山町というところに、衣料品問屋がたくさんあって、あそこならあるはずだと出かけてみた。ネクタイの専門店もたくさんあって、表通りの大きなお店に入って、草木染めをやりたいので、絹の白いネクタイを安く分けてもらえないか。少し日焼けしていてもかまわないということをお話した。そうしたら、10本で1000円でいいよ、ただしできたらば、見せてくれないかということになった。あれこれ、楽しく染めてみた。見せに行ったら、草木染ネクタイで、売り出してみないかと言われた。材料は自分が集めて、提供するから、染めてくれれば買い戻して販売をしてみるというのだ。

面白そうだが、これはやらなかった。自分としては気付いていたことがあった。弱点として染めている間に、かっちりしたネクタイの場合型崩れが起こるのだ。これが結構微妙で、織の方向で、ネクタイは歪む傾向がある。だから、大きな布から斜め裁断して、作るらしい。一度ほどいて、もう一度縫製し直して、アイロンで形を成形するというところまでやらなければ商品にならないようだ。良くできたオシャレな黄色いネクタイを長沢先生にプレゼントした。喜んでくれたのだが、しばらくして、使わないからと言って返してくれた。先生に似合うと思ったのだが、先生がネクタイをしなかいのは知らなかった。他に白い絹の布はないか探したが、簡単には手に入らなかった。それが今は、ヤフーオークションだ。絹織物の白地の布が、格安に売られている。オークションだからいくらになるかわからないのだが、1000円くらいで一反がかえる。一反というのは、37,8センチ幅の12メートルくらいのものだ。これで着物が一着作れるということになる。アンサンブルと書いてあると、21メートルある。重さも記載されているものもあって、600グラムとか、700グラムとか、1キロ600グラムとか記載がある。何がよいのかまでは分からない。

白地の布も様々で、機械織りのものが多いが、中には手織りのものもある。白の絹布はちじみと呼ばれるものが多く出ている。これはたて糸とよこ糸のねじり具合を変えて作るとある。白に陰影が出る。そのほか、紬つむぎというのもよく書いてある。これは真綿から作る。真綿は本来、繭から糸にできないものが真綿になる。その真綿から糸を作りなおすから、すんなりした糸ではない。だから紬は庶民的な衣類であるが、むしろ風合いが良いというので、どれもこれも紬と書かれている。たぶん普通の糸から紬を作っているのではないか。ともかく白い布はありがたい。これに水彩画を書くこともできる。湯のしというような、糊に対応しなければならない。しかし絹に書くというような贅沢なことが、格安にできるのだから、不思議な世界だ。そういえば水彩紙を購入したことを思い出した。高価な手すきの水彩紙が大量に、格安に出ていたのだ。おかしいと思いながら注文したのだが、当然というか誰も買う人もなく安く手に入れた。それは本物であった。

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自治体消滅から介護難民へ

2015-06-26 04:39:20 | Peace Cafe

「日本創成会議」は4日、2025年に全国で約43万人が「介護難民」となり、特に東京圏(東京都、埼玉、千葉、神奈川県)だけで3割の約13万人に上るとする試算を発表した。対策として退職者の地方移住を提言している。日本創成会議は以前2040年の自治体消滅の試算を発表している。25年には私たち団塊の世代が、介護の必要な年齢に入る。団塊の世代は都市居住者が多いいので、都市を中心に介護施設が不足するだろうという予測である。この2つの課題を補い合う政策が団塊の世代の地方移住の提言という事なのだろう。介護施設での仕事を地方の雇用につなげ、地方の活性化に繋げられないかが問題である。以前、この事をブログに書いた所、地方に都市からの迷惑施設の受け入れをしろというのか。という怒りのコメントがあった。もっともな反発する気持ちである。しかし、元気な時には都会で仕事をして、老齢介護の年になったら、ふるさとの地方で暮らしたい。こうした気持ちがないわけでもない。

沖縄が好きなので、介護施設なら沖縄に行きたいと考えている。夜になったら、地元の民謡酒場で、三線を弾いて、カチャーシを踊っていたい。これが程よい老人イメージである。そういう地方の輪に入れてもらえるのだろうかという事になる。後10年したら沖縄の介護施設に移住する可能性もある。特に今帰仁が好きなので、その付近の施設には興味がある。今帰仁には、民謡酒場はあるのだろうか。どうしたら、介護施設の存在が、その地方の迷惑施設でなく、活性化に繋がる施設に出来るかである。全国展開の大介護施設が、地方に施設を展開する。多分利用者もそうした大手施設の方が現状安心である。大手介護施設は地方から利益を吸い上げる形になりかねない。そこに公共がどうかかわりをもつかである。地方の産業として、地方に税金が落ちる形を作る。大手企業の施設以上に安心な公共のバックアップの有る、地方自身による介護施設の設立の促進である。

日本は難民受け入れは難しい国柄である。介護難民も同様であろう。最先端医療施設の地方への分散という考え方もあるが、これも心情的に反対気分がある。地方の方が、都会より医療施設が充実している状態を作り出す。老人はどうしても医療施設と切り離せない。この事も、何で病気という迷惑なものをを地方に送り込むのかという事にならないように、配慮が出来るかである。医療費は今後うなぎ上りになる。例えば、世界から先端医療を受けるために日本に来ると言う患者もいる。また、最先端の人間ドック検診を受けるために、病院を探している人もいる。病院が病原菌をまきちらす悪い存在ととらえるのでなく、地方の産業と考え、国が地方活性化に配慮した形で、充分な施設を地方に建設して行く。田舎へ行くと病院がいいからというくらいのバランスになればいい。

都会の喧騒の中より、地方の自然環境の方が、病気からの回復の為にも良いに決まっている。私なら、検診施設の充実である。手軽な人間ドック。気軽に一項目1000円くらいで、検査の自己検診を出来る。というような機関があればと思う。。温泉施設も欲しい。今帰仁に行くにしても、何処のホテルは外部者の入浴を受けいれるいるか。沖縄では、田んぼは借りられないのか。畑はできないのか。こういうことは遠くにいては、皆目わからない。分かれば案外に動ける内に移住できるのかもしれない。田んぼの水はどうなっているのか、土壌はどういう土壌なのか。石垣なら田んぼがあるらしいが。今帰仁の博物館には、今帰仁の昔の田んぼの様子の写真があった。今どうなっているのだろう。勿論移住者が地域に迷惑をかけるのでなく、その地域の収入になるような存在になりたいものである。

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映画「あん」を見た

2015-06-25 04:17:11 | 身辺雑記

 

樹希きりん主演の「あん」を見た。樹希きりんファーンには、見逃せない一作である。本物の映画に出会ったんだという思いが続いている。素晴らしい映画の波動に包まれた。樹希きりんさんのすごさもあるのだが、河瀬直美監督の人間観が際立つ作品である。人間というものの見つめ方が、ふかい。底の、底まで見通している。映像で写す、わずかなことを、何気なく示している。ほとんどの事がただある物として示されている。見るものがそれをどのように受け取れるかにかかっている。つまり、良い本が読む年齢でその深さが変わってゆくように、こういう映画は見る人によって様々に見えるものだろう。こきりんと元木さんの娘であり、樹希きりんさんの孫娘である、内田伽羅の演技しない演技もいい。内田裕也さんの孫ということでもある。お母さんのこきりんさんの演技は忘れられないものがある。ふつうであるすごさのようなものを見せていた。その上に、えも言われる深いものを感じさせていた。しかし、あっさり映画から身を引いた。

あんは餡子。アンコの餡である。餡作りは和菓子作りでも、もっとも修行がいる事とされている。餡作りの難しさは、良く練り上げ方だと言われるが、この映画では、小豆に思いをはせると言う事の大切さが語られる。この小豆が、どんなお日様を浴び、どんな風に出会い、ある夜の月光に照らされ、雨にぬれる。その小豆の生きてきたすべてに耳を傾ける事ができなければ、餡を作ることはできない。畑で作物が育つという事の見つめ方があんを作ることのすべてだと言うのだ。歴史に思いをはせると言う事の意味が暗示されている。ハンセン氏病の問題が問われているのだ。その事を直接的に問う事は無い。ただ、人間が生きると言う事の意味に、いざなわれてゆく。それではお前はどうなのかという事だ。すべてを自分の事として生きる事が出来るのか。生きる上で、何を見逃してはならないのか。

川瀬監督は世界で高く評価されている。正直今まではその意味がよくわからないかった。少しかったるい感じを受けていた。ゆるやかに見えるのだが、骨格のようなものが弱い気がした。それがこの映画では、良い役者を得て、良いものが表面に出てきた。その良さがいかにも日本というローカルなもので、これは世界では理解されないのだろうと感じるが、実際はどうだろうか。あまりに日本の普通のことなのだ。ふつうのことの中にある、もっとも卑劣な差別のこと。その差別があまりに日本的な差別なのだ。最近のはやり言葉でいえば、風評被害という、無責任な置き換え。私は何の関係もありませんという、しらじらしい差別。じつは、私は知らなかったとか、私は関係のない、ということなど世の中に何もない。黙っているということの差別。

冒頭の写真は宮古島で手に入れた、黒小豆の種である。とても珍しいものだ。その後ろにある台は、三線の譜面台だ。小豆の栽培は難しい。難しいというのも違うか、私の力量を超えて手間がかかる。実は、今宮古島の黒小豆の種を見ている。毎日蒔かなければと思いながら見ている。大豆をまくついでになど思っている。何度か小豆も作ったのだが、うまく栽培ができないうちに、弾けて落ちてしまった。収穫いくらしたこともあるが、その後がまた大変で、食べるところまでゆかなかった。小豆のようなものは、どうしても必要というわけでもないから、ついつい、作らなくなった。この映画を見て、もう一度小豆を作ってみたくなった。手をかけて作ってみたくなった。小豆と一緒に、月や、風を感じたいと思った。

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派遣社員固定化法成立

2015-06-24 04:06:22 | Peace Cafe

会社にとって、派遣社員が使いやすくなる法案が通過した。安部政権の一貫した、企業原理優先処置である。そういうことで、将来企業が良くなるとは思えないが、ともかく、その場限りということでは、企業にとって都合のよい法案ができた。派遣で働いている人が、さらに増加することになるのは間違いがない。生涯、派遣という働き方で暮らす人が増えるのだろう。このことは日本の社会にとっては、良い方向とは到底思えない。その辺を心配しない日本の保守層というものは、経済にゆがめられ日本を見失っている。日本の企業は今回のトヨタの外国人女性常務に対する、豊田社長の会見でもわかるように、社長は父であり、社員は子供であると、説明していた。なるほど日本独特の発想がまだ生きている。おかしいとは思うがそれが日本の企業の強さなのではないかと感じた。トヨタはこの事件で打撃を受けるかもしれないが、単純には切り捨てるようなことはしないと言明したのだ。これは、社会に対してより、トヨタの社員の心にどのように響いたかである。

日本の会社というものは、江戸時代から、そういう身内感覚で成立してきたものだ。今も、そいうものは残っていて、それが日本発の企業の特徴なのではないだろうか。想像でしかわからないが、情に通ずるような人間関係を根底に持てるというところが、日本発企業の競争力のような気がする。もちろん、このままでいいとも言えない、封建主義的な不快なところもあるだろうが、そのあたりをうまく取り込んでいる企業が成功しているように想像していた。それが日本発のローカルでありながら、グローバルであるところなのではないか。ところが、そんな甘いことを言っているどころではない。世界の競争に勝つためには、人間を道具として、使い捨てて行くくらいの厳しさで、世界で戦わなければならない。というのが、安部政権の派遣永続雇用法なのだろう。

派遣社員というのは、当然企業に所属していない。うちのお父さんはトヨタに努めているんだと、誇らしげに子供が思うことができない。そういう腰掛け的な社員が増えてゆくことで、果たして企業というものは、大丈夫なのだろうか。日本の社会は大丈夫なのだろうか。何か目先のことにとらわれ過ぎている気がする。所属意識というものを持ちたくない人もいる。私などどちらかと言えばそういうタイプである。こういう人間はそもそも企業とは関係しない。近所の方から、うちのお父さんはフィルムに努めている、と言われたことがある。あえて、フィルムと呼んで、富士フィルムとまで言わないところに、独特の誇りの感じが伝わってくる。地域社会でフィルムに行っているということは、地域社会を支えているものでもある。そういうものに支えられた社会が、安部政権を支えている、保守層ではなかったのか。

ところが、背に腹は代えられないということなのか。個人が独立して存在し、どこにも所属意識をもたない。まるで私の主張のような事を安部政権が主張している。たぶん安部氏は瑞穂の国とか誰かに書いてもらったのだろうが、日本文化というものがどういうものかなど、考えもしない人のようだ。結果的に美しい日本は消え去ることになる。少子化が進み、結婚する人が減少する。派遣で生涯を送る、ある種の私のようなアナーキーな人が増加するだろう。この新しい派遣制度をうまく利用できるぐらいの能力の高い人ならば、企業は正社員として雇用したほうが、絶対に得なはずだ。だから、そういう能力主義を生き抜ける人の問題ではない。この法律を拡大解釈して、単純労働のような仕事の日雇い労働を、派遣で済まそうという、悪だくみが起こるだろうという不安がある。果たして労働の内容を、どこまで監督できるものか怪しいものだ。ブラック企業の悪用が、実際には一番多くなる可能性が高いのではなかろうか。

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高齢者の地方移住

2015-06-23 04:28:49 | 地域

政府の地方創生施策に関する2016年度予算編成の指針となる基本方針の素案が11日、明らかになった。東京圏など大都市から地方への高齢者の移住推進を明記し、受け入れ拠点の整備に向けたモデル事業を16年度に始めるとした。閣僚や有識者による「まち・ひと・しごと創生会議」で12日議論し、今月下旬に正式決定する。(東京新聞)

高齢者の地方移住を政府も方針に入れた。良い方向に進んでいると考える。地方創成会議の提言と連動しているのだろう。問題は地方にとって良いことになるようにできるかが難しい。地方に働けなくなった老人を押しつけるということになれば、状況は悪化することになる。私自身の事でも、どこか地方の施設に行くことが必要と考えている。地方の心配は、高齢者の介護を地方に押し付けるのかという反発であろう。もっともな不安だ。高齢者の介護移住を産業として成り立つものとしなくてはならない。年寄りが来たので仕事もできたし、経済も良くなった。こういう結果が無ければ、地方の心配するとおりの、高齢者の押し付けという事になる。政府の方針ではモデルケースを行うと言うぐらいで、まだ具体的な地方への補助をどういう形にするかまでは示されていない。働ける内に地方に行くようになどと、書いてもあるのを読むと、地方に押し付けて済まそうということかと思いたくなる。

農業分野のモデルケース事業では成果を上げているものは少ない。ただモデル事業をやったという事で、それが他に広がると言う事は起きていない。困難な分野でのモデル事業は、よほどのアイデアがなければ成り立たない。補助金をもらえる間はやると言う事になる。一つのモデル事業が終わるころに次のモデル事業が出てくるから、それに乗り換えるくらいの事になる。本当に動き出すためには、経済の循環の中に、介護移住が取り込めるかであろう。高齢者の介護施設を調べて見ると、都市部と地方では入居費用が大きく違う。当然東京にある施設は高額になる。高額所得者対象という事もあるのだろうが、似たような施設でも、ほぼ地方の倍額ぐらいになるようだ。それなら、地方がいいという事になるが、そう簡単ではない。安い上に、安心な経営でなければ困るし。介護の質が悪くて、ひどい目に合うのでは怖い。

政府は元気なうちに地方に移住して、いくらか地方の役に立って、受け入れてもらうようにという事の様だが、現実離れしたお役人的な甘い考えである。こんな表面的なことを主張するのは自分の事として、切実に考えていない証拠である。地方を軽視している証拠である。地方を維持する地方の人材は今やギリギリである。要するに経済である。年寄りが移住してきて、税金が増えるならいいが。仕事が増えるならいいが。年寄りは病気をするし、労働力にもならない。例外はあるだろうが、基本若い人の負担になる存在である。甘い方針を建てる前に、地方に年寄りが移住できる社会的インフラ計画を発表するべきだ。年寄りを受け入れることを表明した地域には、国立病院を作る。老人介護施設を作る。交通網の整備をする。社会インフラを整える。

移住を繰り返してきたものとして、地域社会の動いている感触を、切実に受け止めている。変わらない所と、変わり始めているところがある。地方は閉鎖的で、外部の人間を受け入れないと言うような状態は、終わったといっていい。それ以上に地方の暮らしが切羽詰まってきている。地域消滅の寸前である。地域のつながりは都会同様に失われてきている。地方社会も都会的な生活感になってきた。地域に根づいた農業的生活というものがなくなったということが大きい。地方であってもくらしの経済は、地域循環ではなくなっている。生まれた山梨の山村で話を聞くと、かなり深刻である。といって、何百年もそこに暮らしてきた人と、10年ほどそこで暮らそうと言う人と同じ訳が無い。だから、10年ほどそこで暮らすという仕組みを、地方の経済が潤う形で作るべきだ。

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田植え3週間目の田んぼ

2015-06-22 04:35:06 | 稲作

田植え3週間。種まき9週目。

6月20日の早朝の写真。 一番の入水口の田んぼです。奥の部分はため池を田んぼに戻しました。少し水路を迂回させて、そこで水温を上げています。なかなか調子がいい。その部分にはクワイが植えてあります。

ここは、6番の田んぼで、右側から来る湧水だけで栽培している。水が冷たいので生育が今のところ良くない。見た目でも、右側が生育が遅れ、黄色っぽい色をしている。

5番の3角田んぼ。ここは、狭くて機械が入れないので、シロカキなし。田植えは他より大変であるが、生育はとてもいいし。冬の緑肥の量が半端じゃないほど茂っていた。それが腐食しながら、田んぼの表面を覆っているから、草も全く出ない。全体がこういうことができればいいのだろう。

2番の田んぼ。今年は去年よりよさそうである。今年良ければ、冬のヘヤリーベッチと大麦の緑肥が効いているということになるのだが。昨年もそうだったのだが、秋になるまではそこそこで、最後に行って日切れと言うか、日照不足というか、何らかの原因でしりすぼみだった。河岸のがけ崩れで土が入れ替えられた影響がまだ残っているようだ。

3番の田んぼ。苗代跡の田んぼ。入水口にも関わらず。やはり生育もいいし、草も少ない。春水田んぼの成果ということもあるかもしれない。それなら思いきって、つながっている4番もシロカキをして水を張っておくというのもありかも知れない。

3番の苗代跡には、草のないところを写したが、分かるだろうか。ともかく一本も草は出ていない。というか、担当の吉田さんの手入れがいいということもある。昨年も草はなかった。

4番の田んぼは今年は肥料を控えたせいか、生育が今一つである。そこでそばかすの追肥をした。この決断が秋になってどう出るか。いつも迷うところである。

9番の毎年反収でいうと13俵あり、一番年取れる田んぼ。やはり今年もよさそうである。ここがいいということは上の田んぼの良い水が、ここに集まり、排水はなしだからと考えている。水温が高いということ。栄養分は排水とともに流れ出ているということ。また、水が溜まりにくく、渇き気味の栽培ということ。

10番の田んぼの11番に行く排水口あたりからの写真。去年はこのあたりが、水が滞って良くなかった。今年はだいぶ改善されている。やはり水が死に水になるのは良くない。ここは意外に草が出やすい田んぼだ。

11番のもち米の喜寿糯田んぼ。排水口のほうから、入水口方向を写している。昨年出来が良くなかったのだが、今年は担当者がとても熱心なこともあり、見違えるようによくなってきている。上にあった水路をつぶして、田んぼを直した成果も出ている気がする。これなら結構おもちが食べれそうだ。

8番の田んぼ。上の石垣の上にお隣の栗林がある。手前の稲の欠落したところは、カモと青鷺が毎日来て荒らしている場所。

 

8番の苗の様子。生育がよい感じがわかる。この田んぼも例年良くなる。ただし、草は一番出る田んぼで管理が大変である。

7番も今年はなかなか良いようだ。

 一番の入水口の水路。手前に補植用の苗が置いてある。余り苗は流水に置くとよいようだ。新しく作った。上の田んぼは昨年、クワイの畑だった場所。クワイは水路だけにした。

 

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コロナの湯のレジオネラ菌

2015-06-21 05:12:37 | 日帰り温泉

コロナの湯が閉まっている。出かけて行って、閉まっていたから何のことかと思った。再開はホームページで発表すると書いてあったので、ホームページを見てみると、レジオネラ菌が出たために閉めるということである。保健所からの営業停止命令ということなのか。どうも、病院のほうで、レジオネラ症の患者が出て、どこかでおふろでも入りませんでしたか、ということでコロナの湯が調査対象になったようだ。実はしばらく前からおかしい雰囲気があった。痴呆症とみられるお年寄りが、お風呂で糞尿をしてしまうのだそうだ。見たわけではなく、お風呂で常連の方たちがしきりにそのことを話していた。出入り禁止にすべきだという話だった。前に湯船の中で大便をしてしまい、大騒ぎになったときに、もう一回そういうことがあったら、入場禁止にするとなっていると話す人がいた。つまり、コロナの湯のほうでは、十分把握しているということらしい。痴呆老人への温情があだになったのか。

その他、掃除等についてもいろいろあったことを、話していた。私はそういうことは大丈夫なほうだ。銭湯などそういうものだと思っているからだ。むしろ困るのは、対策に塩素消毒を濃厚にする点である。皮膚がやられることがある。湿疹が出てひどい目にあう。だから、強い塩素臭がする湯舟には入らないようにしている。何しろ洗面器に塩素を溶いた水をドボドボ目の前でそそぎ入れるのだ。日に何度か各湯舟からお湯を取って、塩素濃度を測っているらしい。秦野の湯花楽などでは、塩素濃度を測るメーターで測っている。それがいくつなのかを知りたいと思うのだが、聞くことは何となくできないものだ。それでも、お客さんの前で塩素を加えることはないので、どこか裏のほうで入れることが可能なシステムなのかもしれない。コロナの湯の場合は、目の前で塩素を加えるというのは、無神経なのか、サービスのつもりなのか、その辺はよくわからない。

それでもレジオネラ症の患者が出たということで、調べたらレジオネラ菌がいたというい事になった。レジオネラ菌はどこの湯でもいる。基準値を超えているかどうかの違いだろう。どうも毎日ふろの湯を抜いて完全に洗っているのかどうかが怪しい気がする。前日と同じゴミが漂っていたことがある。何度も書くが私はその程度のことは当たり前だと思っている。そこで入り方を気をつけてはいる。以前、循環型の温度維持の機械を使っていた。山の中に住んでいて、水が貴重だったからだ。水がもったいないから、お風呂に入りたいなら、沸かし返すしかない。そこで循環方式の機械を入れて何年も使っていた。この機械もレジオネラ菌が増殖するということで、一気に下火になってしまった。間に入れてある、医師のあたりで増殖すると言われたが、そんなはずはない。レジオネラ菌が増殖をするのは怖いが、まず家族風呂ではそんなことは起こらない。むしろ人なりの発酵作用で良いお湯を作り出すことができる。それは自分の体で分かった。

以前、さざんかの湯ではレジオネラ菌のことで、打たせ湯がなくなったことがあった。確かに打たせ湯の場合、鼻や口から吸い込んでしまうので、感染の確率が高くなる。お風呂も入り方である。銭湯でお湯に潜るなどもってのほかである。結構平気で潜水している人がいる。これでは感染症にかかるリスクが高まる。極力お風呂のお湯が口に触れないようにするのは当然のことだ。まあ、世間にはいろいろの人がいるわけだし、痴呆症の人も来る。銭湯など汚くて入れないという人もいるのだろう。しかし、基本的なおふろの入り方さえ守っていれば、問題はない。レジオネラ菌など、大したことはない。正直言って厳密にいえば、大半の日帰りの湯には大腸菌だっているはずである。そう思って入ればいいだけのことだ。それより塩素消毒が強まることのほうが私は嫌だ。

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防音鶏小屋を作る

2015-06-20 04:24:27 | 自然養鶏

鶏小屋の跡を均して、トオモロコシをまこうかと考えている場所。奥の棚が鶏の遊び場だった、キューイの棚。

養鶏場を縮小して、下のほうの小屋だけにした。いよいよ自給養鶏の始まりである。鶏は上の小屋のさらに奥にあった、小さな小屋と、家のそばの小屋に移動させた。残りが30羽くらいである。そこで一昨年の大雪で壊れかけた上の小屋を片づけた。小屋を片づけて、そこを畑にする事にした。上の果樹園の続きとして、ブルーベリーでも植えようかと考えている。まずは、鶏小屋の跡なのだから、肥料分が多いいのだから、肥料が好きなトオモロコシを蒔いてみようかと考えている。鶏小屋の下も、竹やぶから根が伸びてきていて、とても手に負える状態ではなかったので、穂田さんにお願いして、竹の根を機械で出してもらい、平ら地を広げた。新しく全部で100坪ほどの畑ができた。ソーラーパネルで減った地面の分の畑をもう一度広げたことになる。下に150坪の畑があり、上にやはり150坪ほどの畑ができた。丁度1反の畑ということになる。

新しく平らにした元竹やぶ。白く撒いてあるのが、ソバカス。これで、40坪くらいある。奥の竹やぶの前にある左に上ってゆくのが道で、上の平地に出る。

下の畑は、大豆と麦を裏表に中心に作っている。上は果樹を中心にということになる。中の畑がソーラーになった。上の畑は、ともかく竹林が押し寄せてこないように維持するということが、一番の目的である。維持しているうちに、だんだん収まりがよくなってくる。おさまり方が見つかってくるということもある。ヤギでも飼って、果樹の下に放してやるのがいいかもしれない。果樹の下にミツバチを置くのもいい。前ならすぐにやってしまったのだが。今は新しい農業に広げることにはためらう気持ちが強い。まず新しい土地にすぐにでもそばをまこうかと思って、早速まいてみた。他の草が出る前にそばで覆ってしまえば、そのあとのためにいいだろう。雨がやんでいる間に、ばらまいてやろうと明るくなってすぐにまいた。火曜日には新しく作った導入路にもソバを撒き散らしておこうと考えている。草が生えれば、地面も落ち着くし、ソバは若い間には、青物として食べることができる。

奥の木が太さが直径80センチもある大きな楢の木。その手前がアスナロ。この間に一番上の平地がある。

一番上の畑になるので、ともかく眺めがいい。日当たりもいいし、他所からの視線がない。犬はぐるっと回る散歩コースに入れられる。一番高いところの平地には、椅子を置いて、三線を鳴らす場所にしたい。気分がいいことだろう。しかし、ここに鶏小屋を作れば、間違いなく獣に襲われる。やはり、鶏は庭鶏というくらいで、庭に飼うものだろう。そこで家のわきの鶏小屋に全部を移そうと考えている。現在1坪弱の小屋が連棟で3つ部屋がある。そこに8羽づついる。そして上の小屋に、雄鶏が2羽とめんどりが3羽いる。これが上にいる最後の鶏だ。今度その鶏たちを家のわきに移すつもりだ。その小屋が防音の鶏小屋である。50ミリの防音材で取り囲んだ小屋にする。夜になったら防音材で閉じてしまう。裏側の方向に、換気扇をつける予定である。横80センチの奥行き2メートルほどの小さな小屋であるが。音は出ない小屋を作りたい。うまく作れたら、今度は、チャボでも飼いたいと思っている。

 

防音材は、ピアノ室を作るような材料をネットで取り寄せた。1畳の面積で5枚で、2万円だった。それを連結する材料が1万円した。防音材は23日に来ることになっている。うまく作れれば、鶏を飼いたいと考えている人の参考になると思っている。夜に、閉めてしまう。構造がうまく作れるのか。それと、奥の換気扇の付け方が問題かと思っている。まあ、奥のほうこうだから、少し音が漏れても大丈夫だと考えている。昼間は、めんどりたちと一緒に外の遊び場に出す。そして夜になったら、雄鶏だけを防音小屋に入れるようにしたい。3つの小屋にはめんどりがいる。それを3日に一回遊び場に出すことになる。そこに雄鶏も出す。そんな飼い方ができるのかどうか。うまくゆけば、全部の鶏が有精卵を生んでくれることになるはずだ。

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互いに信頼できない隣国

2015-06-19 04:04:28 | Peace Cafe

住んでいるお隣さんに疑念の思いを抱くというのは、珍しいことではないだろう。境界争いがあったり、騒音や、臭いで、暮らしの騒動は珍しいことではない。そういう面倒が嫌だから、都会に暮らすという人もいる。しかし、これが国家のお隣となると引っ越しもできないので、何処かで折り合いをつける以外にない。コロナウイルスの病院対応を見れば、韓国の病院は信頼できないと思う。原発事故を思えば日本が信頼できないだろう。日本政府の戦争責任をごまかしてしまおうという対応をみれば、韓国側が日本政府を信頼できないのも当然のことだろう。従軍慰安婦問題ばかりを言いつのるのもどうかと思う。互いに信頼できないという気持ちは、深く歴史に根ざしているのだろう。結局のところ、信頼できないけれどもお隣としてかかわらざるえないということだ。

未来志向での、隣国関係を考えれば、日本の政府は、国立戦没者墓苑を作ることだ。それをやらないで、靖国神社にこだわり続ける姿は、過去の亡霊を呼び覚ます行為に見えるのは当然のことだ。この程度の当たり前のことをやらないで、積極的平和主義とやらでアメリカとの同盟関係を強化する。今さらに法律を作って、にらみをきかそうとしている。このやり方に、日本の国家としての、怪しげなところが彷彿とする。韓国の最大の問題点は、国家の方向に前向きの主体性の無い所だ。韓国は他者批判で、自分の存在を意識する。あれこれに対する不満やふつふつとした怒りが、この国を形作っているようだ。否定的な負のエネルギーがこの国の原動力のようだ。その点を冷静に日本は受け止めなければならない。それを変えろというのではなく、そう考えた上でどうかかわるかである。日本を否定しているというより、あらゆることを否定することで、エネルギーを作り出す民族性と考えた方がいいのではないだろうか。つまり、負けてなるものか。こういう思いが民族の根底に感じられる。

しかし、韓国も豊かになり、段々にハングリー精神を失い。平衡感覚の良い国に、変化して行く可能性が高い。日本が、靖国の亡霊に縁を切るのに時間が掛かるのと同じことだ。未来志向といっても、仲良くなれるという事を考えるより、隣国としての付き合い方を見つける事ではないだろうか。過去はどうでもいいというのではなく。過去を認めて、前向きに行くとすれば、国立戦没者霊園を造ることだ。憲法を大切にして、軍国主義を遠ざけることだ。力の外交ではなく、平和的外交の手段を模索することだ。韓国や中国のほうが、外交的センスに優れている。長年国境を接する国と、どうかかわるかを体験的に身につけている。日本をどう攻め立てればいいかなど、よくわかっている。日本は力で対抗しようという、素朴な方法しか思いつかないようだ。アメリカの威を借りようということになる。しかし、それほどアメリカが頼りになる国とも思えない。アメリカにはきわめて良質な正義と、単純な暴力主義が混在している。やはり外交の下手な国なのだと思う。

ヨーロッパでも、隣国のことはあまりよくは言わない。フランス人はドイツや、イギリスをあまりよくいわなかった。それでも、世界大戦の反省から、EUを作りなんとか平和にやろうとしている。所属国家間の経済格差が、一番大きな問題のようだ。強いドイツだけが得をするような、事になっている。これはTPPも同じことになるはずだ。経済における平等主義というものは、強いものが有利になるのは当たり前のことなのだ。それでも何とかバランスを取ろうとしている。アジアも、いつかはお隣同士戦争にならないような仕組みを作る必要がある。そういう努力こそ、日本国憲法に攻めされる武力を使用しない、平和的努力である。中国を仮想敵国にして、敵対を強めるのはアメリカの戦略に乗せられているだけである。日本はまず、隣国との関係が戦争につながらないように調整しなければならない。

 

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「まれ」に出た養鶏場と麦畑

2015-06-18 04:44:55 | 自然養鶏

NHKの連続ドラマは今は「まれ」というものをやっている。能登の塩作り民宿で育った主人公が、横浜のケーキ屋さんで成長してゆくというドラマである。そのケーキの素材の卵に、良い卵を作る養鶏場ということで、養鶏場と麦の会の麦畑が、ロケ地として使われた。いつ放送されるのかと思っていたら、昨日ついに出ていた。養鶏場の親父は泉谷茂さんだった。私と同じくらい汚いところと、養鶏場の親父に見えないところが、良かった。テレビがよい卵の養鶏場を探してここに行き着いたというのは、よくわかる。産卵鶏の放し飼いの養鶏場が他にないからである。今は檀上さんという方が、養鶏をやっている。私がやっていた時とは、ずいぶん違う養鶏になってきている。私は最初から今まで、養鶏については口を出したことがない。だから、私のときとは、空気の違う養鶏場になった。それはとても大切なことだと思っている。それでも、同じ場所で、同じ鶏舎でやっているのだから、大きく変わらない様子は写っていた。下の麦畑が出てきた。麦畑の上の駐車スペースで写していた。

テレビで見てもなかなか美しい場所だ。実際にはもっと、もっと良いところである。養鶏場でも、田圃でも、畑でも、美しくなければならない。いわゆる養鶏場で、いつまでも居たくなるようなところはない。だから多くの人の養鶏のイメージが「うるさい、臭い、汚い」という嫌われる施設である。しかし、本来鶏は美しいものである。江戸時代、美を求めて作られた鶏だ。日本の天然記念物なのだ。卵を食べるというような、世俗を超えて作られた鶏なのだ。日本の文化のひとつなのだ。私は卵を販売して、生計を立てようとした。しかし、美しい鶏で養鶏をやりたいと考えた。それが笹鶏である。自分の作った美しい鶏で養鶏がやりたかった。汚い鶏小屋ではなく、美しい鶏小屋で鶏を飼いたかった。それが生計を立てることと、両立しないということは分かっていたが、それが私がやりたい事である以上進む方向は決まっていた。

それでも、おかげ様で25年。何とか養鶏業で生活を立てられた。食べてくれた人たちの現代まれなる協力のおかげだだと思う。よく、今時こんな養鶏を許してくれたと思う。自分を磨き、自分を貫けば、何とか理解してくれる人はいるものだと思う。そう現代まれ、というのがこのNHKドラマの狙いなのだろう。師匠のパティシェは採算など全く考えないで、ただ、最高と自分が考えるケーキにまい進している。どうすればより良いケーキをそれだけの人だ。何でも売れればいい物だという、世間の風潮の中に、こうした採算を度外視したものの価値を伝えようとしている。私の作っていた卵と同じだ。良い卵とは、良い雛がかえる卵だ。この一念でやっていた。美しい鶏が何世代も繰り返される、その要の卵である。人間の味の好みなど、どうでもいい。人間は良い卵の味を、おいしいとはどういうことなのか学べばいいと考えていた。

良い卵を思うとき、親鶏の幸せな日々がどうしても必要になる。自由に暮らしていなければ良い卵など産めるわけもない。安心して暮らしていなければならない。狭い小屋ではだめだ。獣に襲われるようではなだめだ。それは、あの美しい麦畑にも言える。麦はなにも、景色を見ているわけではない。しかし、美しい麦畑をとことん求めた結果が、良い麦になるはずだ。私はそういう麦畑の麦が食べたいのだ。自給農業とは、そういう農業だと思う。美しい場所で作る作物が、良い作物なのだ。作る人が楽しんで作る作物が、良い作物なのだ。こういうことは経済とは、別物に思う。確かにこんなことを考えると、農業では生きてゆけない。しかし、私は何とか生きてきた。あと10年くらいはこうしていることができるかもしれない。人間が生きるということが、どういうことなのか。鶏と同じだ。やりたいことを貫いて、楽しく生きなければ、人間の本当のところには、行き着けない。

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麦茶づくり

2015-06-17 04:06:11 | 自給

麦茶は大麦で作る。今年は欠ノ上田んぼでは、冬の緑肥として大麦の春雷をばらまきした。予想より立派にできたので、アラオコシの日に穂先だけを集めた。それが13キロもあった。そこで10キロはみんなで麦茶にしようということになった。今田んぼは転がしがまっ盛りである。大勢の集まる日に、さなぶりを兼ねた、昼食会を行い、ついでに麦茶を作ろうということになった。今年の醤油造りのときに余った、二条小麦で麦茶を作っておいしかったので、今年も是非ともやろうということになった。

木漏れ日ガーデンにはかまどがある。いつでもバーベキューができる体制である。麦茶は大きなフライパンと、バーベキューの鉄板2つでやった。3時間ぐらいかかったか。少し焦げたが、焦げた香りが麦茶のおいしさでもある。昨年栗林の奥を整備をして、畑の家からいただいた、机やいすを置かせてもらった。木漏れ日がとても美しかったので、みんなが木漏れ日ガーデンだということになった。この日も30度という暑い日だったのだが、木陰にいると、川からの風が心地よかった。

大きな栗の木が10本ほどある。その手前にはカキの木が20本ある。1反ほどの果樹の畑なのだ。その向こうに久野川があるのだが、その川の手前が少し開けて広場になっている。栗の木の木陰にベンチとテーブルがある。栗の木の木陰で、具合よくよそから見えにくくなっている。樹木を片づけた時の枝などが、薪として置いてあって、すぐ火を起こせば気軽に食事ができるようになっている。

みんなで交替で大麦を炒っている。最初に炒った麦で早速麦茶を仕込んでいる。とてもおいしかった。麦茶を作るコツは、焦げるまでよく炒ることのようだ。そして、沢山入れれば美味しくなる。6条大麦より、2条大麦のほうがおいしい気もするのだが、まだ経験が少ないから、はっきりしたことはわからない。同時に味噌汁を作っている。材料はここで取れた玉ネギや持ち寄ったジャガイモを入れた。味噌は私の所の3年味噌。かまどは田んぼを整備した時に出た、U字坑である。その上に、家から持ってきた、U字坑のふたが置いてある。幅が合わないので、今度もう少し改善したい。

岩本さんが持ってきてくれた、五目ずしをいただいて食べた。おいしくて珍しくお変わりまでして、少し食べ過ぎて眠くなった。午後予定していた草刈は出来なかった。

昔庭林の会というのを、久野の天子台でやったことがあった。これはどうにもうまくゆかなかった。ただ庭を整備しても、楽しみがなかったからだ。家にある庭なら、まだ管理できるが、山にある庭では、整備が負担になるばかりであった。家の庭すら草だらけなのに、天子台の草刈りは正直負担だった。今回は、果樹畑の下草刈りをすることが、木漏れ日ガーデンの整備にもなる。田んぼの作業のときの休憩場にもなる。収穫があるということは、良い管理ができる。欠ノ上田んぼがここまで整備できるには、5年はかかった。毎年課題を決めて、一つ一つ片付けてきた。川の方の広場スペースをもう少し片づけたいと思う。前にジャンベのグループが来てくれた時もよかったのだが、手前の枯れた栗の木を根元から片づければ、良いスペースになる。今度三線を持って鳴らしに行きたいと思っている。

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戦争と自殺

2015-06-16 04:38:50 | Peace Cafe

政府は6月5日、アフガン戦争とイラク戦争に関連し、派遣された自衛隊員のうち、56人が在職中に自殺したと発表した。両戦争に派遣された隊員の総数は、延べ約2万2560人。単純計算で418人に1人の割合で自ら命を絶っており、激務から自殺者が多いとされる自衛官全体(13年度)と比べても約7・1倍、国民平均(14年内閣府統計)の実に約11・9倍という高確率である。

戦争は人間の精神を破壊する。他人を圧迫するというだけで、自らも影響を受けるものだ。自らの精神を傷付けることになる。戦争は嫌いだが、軍隊というものがさらに嫌いだ。人間という生き物は自由な、解放された生き方をしたほうがいい。自衛隊の中東での任務も、想像以上に過酷なものであったのだろう。アメリカでは戦争帰還者が精神を病む事例が極端に多く、特にベトナム戦争以降社会問題になってきた。どれほど正義の為の戦いだと国が強調しても、人を殺す体験が自らの精神を破壊して行くことは当然のことである。しかも、戦争というものは何かを解決できると言うような明確な自己目的が作れないものだ。解決できると信じて戦争に突入するのだが、問題はさらに悪化して中途半端に終わるものだ。日本は大東亜共栄圏という大義を掲げて戦争をした。しかし、今になれば、正義と思いこんでいた物が、実に危ういものである事が分かる。

中国が今の時代に、東アジアで昔の日本と似た様な主張をしながら、軍事力の増強を行っている。日本もそれに対抗する手段として、アメリカとの軍事同盟を強化すると言う事になる。誰が勝とうが負けようが、人間のやる事は愚かな競争の繰り返しである。国家間の競争という目標から、自分の国の中での自己新に目標を変える。他者と、あるいは他所の国と競争するのではなく、自らを高めるために努力することだ。それが人間の精神を深め高め、強靭にする事になる。自殺は減少する。暴力をふるうと言う事は、自分の人間性を否定することになる。人間としての感性を閉じなければ、暴力など振るう事はできない。しかも、国家の正義というものが、自己目的には出来ない矛盾に満ちた戦争であれば、さらにその精神のゆがみは深刻な事になる。原爆を投下した事は、アメリカ兵の犠牲を減らした事になり、正しい選択であったと多くのアメリカ人は主張する。しかし、その正義のアメリカが、原爆投下を心の負担にもしている。

現在の、一般の自衛隊員自体が激務の為、自殺者が多く一般の人の7,1倍という数字と書かれている。これは内部の空気が悪いという事が主たる原因だと思う。上下関係になじめない人間がいると考えたほうがいい。私にはとうてい無理だ。激務といっても肉体訓練を過酷に行うプロスポーツ選手に自殺者はそれ程要るとは思えない。軍隊的階級性とか、思想の自由度とか、国民からの認証度とか、むしろ差別とか、様々な問題があるのだと思う。加えて良く分からない、アメリカの戦争に加担することになるのだ。結果的に見れば何一つ解決するどころか、問題は悪化して跳ね返っている現状がある。何故、命懸けでこんな戦争に加担したのかと悩んで当然ではないだろうか。

平成26年度の自衛官の自殺者数が66人となり。最も多かった16年度の94人からは28人減少した。自衛隊の社会的な評価が上がったことが大きいのだろう。東日本大震災での自衛隊の活躍が、素晴らしいものだった。災害救助にがんばってくれている自衛隊員の姿は、感謝するばかりであった。自衛隊は、災害救助隊に変えるべきなのだ。災害救助の傍ら、国防的役割も担うぐらいが、日本らしい国防の枠組みである。当然海外の戦争に行くようなことはしない。海外の災害救助にはどこの国よりも、いち早く、大人数で、十分な装備を持って、駆けつける。これを日本の積極的平和主義と名づける。未来志向の総理大臣談話では是非ともそういう前向きなものを示してもらいたい。同時に、靖国神社から、国立戦没者霊園の設置も、未来志向の談話に盛り込んでもらいたい。未来志向とはそういうことだろう。

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