田植えの終わった柿の下田んぼである。ここまで見事に順調に来た。半年前までは耕作放棄されていた場所が、これほどの美しさによみがえった。江戸時代と同じ景色が戻ってきた。こうして田んぼに戻せたことは、役割を果たせたような安ど感がある。
今回の復田は渡部さんと東さんの努力の結果である。そこに加わらしてもらえたことは大きな喜びである。ここから収穫までの無事を祈願したい思いになる。自然という物はどのように働くのかわからない。どれほど努力したとしてもどうにもならない力に支配されているのが、農業である。
この欠ノ上の河岸は数年おきに崩壊している。その都度田んぼの一部が流されている。田植えの前後に、吹き飛ばされるほどの風が吹いた。強風に翻弄されながらの田植えだったのだが、富田さんの田んぼは葉先の枯れる被害になってしまった。
こちらが欠ノ上田んぼである。こうして無事すべての田んぼの田植えが終わった。水面に漂って見えるのはそば殻である。近所に久津間製粉という大きなそば粉を精粉する会社がある。そこでそば殻の壊れたものを売ってもらえる。
そば殻は昔は枕の中に入れてものだ。正四面体をしている。そのような見事な形のものは製品として販売されるようだ。その破片のようなものを安く買う事が出来る。これを田植えが終わった後に蒔くと、水面を漂っている。その内田面まで水没する。
これが抑草すると考えている。少しづつ根気良く撒いて、2週間ほど覆っていれば、イネは7葉期になり、それなりに田んぼを覆い始め、今度は稲自体が日陰を作り抑草するようになる。これで草がかなり抑えられることになる。その頃には沈んだそば殻が分解をはじめ、その時出る成分で草の発芽抑制が期待できる。それがイネの肥料にもなる。
ここで考えている抑草の仕組みはどこでも通用する、科学的抑草効果とまでは言えないが、それなりには効果を上げているし、稲の生育にも悪くない経験をもう10年以上体験している。有機農業で畝取りするための一つの技術になると考えている。
今年は1反近くの田植えをやった。延べ時間で21時間ぐらいである。1時間で0.5畝植えることが出来たという事のようだ。やっていて昔よりずいぶん遅くなったとは思うが、根気が良くなって、楽しんで田植えをすることが出来るようになった。
まだ頼まれれば他所のグループ田んぼにも田植えに行く元気がある。老人力は飽きないことだわかる。同じことを繰り返す粘り強さは、若い頃よりも強くなっている。単純労働の中にある楽しみのようなものを馬鹿馬鹿しいことと感じなくなっている。
今日の午前中は捕植をする。風が強かったせいで抜けて浮き上がった株がかなりある。今日株のない場所やまだ植えられる場所を探してきれいに植え直す。2本植えればご飯1杯である。それが終わったところで、そば殻を播く。
そば殻は風上から流すように静かに播く。できるだけ全面を覆うようにする。出来れば少しづつ何回も撒いた方が効果が高くなるようだ。1回目のコロガシを田植え1週間後に行うが、コロガシの後にまた撒いた方がいい。
今回の田んぼは復田した初めての年だから、まず草は出ないはずだ。どれほど雑草の種が強いものであれ、60年間眠っていてまた発芽するとは思えない。今年は雑草取りでは楽を出来るのではないかと思っている。
田んぼのトンボ均し、苗取り、田植えと5日間の連続農作業であったが、別段疲れたという感じは全くない。明るくなったらすぐにでも田んぼに行きたいぐらいの高揚した気分だ。この年齢になって、これほど充実した農作業に加えてもらい、いくらかでも役に立てたと思えることのありがたさをしみじみ思う。
主食作物を作るという事の重さは、決して経済的な意味だけではない。お米など安いものだから、買うのが一番だと思う人は生きるという事の大切な部分が見えていないかもしれない。労働というものは決して経済だけのことではない。
一人で一日田植えをしているときに、動禅田植えになっている時間があった。ただ田植えしている機械化していた。行為の意味を問わないでただその行為になり切る。その時間の大切さは自らが自分の生きるを探して選択していることなのだと思う。やらされている感が全くない。
自分が食べるものをつくるという、根本的な生きるに向き合う時間になる。生きるという事の意味は「人はどこから来て、どこに行くのか」という日々なのではないだろうか。日常に紛れてしまわない時間がわずかでも必要なのだと思う。
今年の田植えもいろいろの人に出会えた。なかには数年ぶりの人もいた。それぞれの今を聞かせてもらえた。コロナの中でも、それぞれの人生を生きている。結婚した人。子供が生まれた人。離婚をした人。新しい道を歩み始めた人。
子供が10人ぐらいは来ていた。田んぼの作業には子供は邪魔なように見えるが、子供がみんなで遊んでいる中での田植えは良いものだ。今の時代子供が野外で走り回っているような光景はまずはない。子供には一番必要な時間のはずだ。
走り回っている子供を誰かが見守りながら、大人たちはひたすら田植えを続ける。両者が精一杯働いている。子供たちに伝わるものもあるはずだ。こういう光景の中で子供が育つことこそ大切なものだと思う。老人にも目が覚める大切な時間だった。
田んぼをやる時は絵を描くように、絵を描くときは田んぼをやるように、そう思ってやっている。柿の下田んぼはまさに絵を描くような田んぼである。過去にない美しい田んぼである。その美しさが土木的な合理性と地形にある必然の上に成り立っている。
まさに絵を描くというのはこの人為と自然の織り成す美しさを自分の目が確認するという事だと思う。そう思うようになれたことは絵を描いてきたおかげである。そして田んぼをやってきたおかげであると、改めて思った今年の田植えであった。