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地場・旬・自給

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ラーメンのうまい店

2009-06-30 05:21:24 | 身辺雑記
ラーメン屋さんには年に何回かは入る。ちょうど出歩いていて、お昼になっておなかが減ってくる。さてどうしようと言う時、蕎麦にするか。うどんにするか。ラーメンにするか。スパゲッティーも麺類に入れるならそれもある。もちろん、カツどんが良いか、カレーが良いか。と言うような時もある。選択に迷う時もあるし、どこそこの、スパゲッティーが食べたい。名指しで食べたくなる時もたまにはある。たいていは何を食べたいのでしょう。と、お腹と相談している。理屈は抜きで、カロリーとか、腹持ちとか、健康とか、そう言う事は大体は考えない。ただ、お腹が何が食べたいかと決めかねるときもある。一番多いのが蕎麦となる。蕎麦が特に好きな訳ではない。うどんが好きなのに、上手いうどん屋がこの地域にはない。そこで蕎麦屋に入れば、うどんか蕎麦の選択は、蕎麦にならざる得ない。

蕎麦屋さんだから、蕎麦は当然の事で、蕎麦屋でラーメンのメニューがあると、ちょっと考えてしまう。考えてしまうのは、ラーメンにしようかではなくて、ここの蕎麦はまずいだろうな。と言う事である。案外にそうでもないらしいが。おそれをなす気分がある。うどんも置いてない蕎麦屋と成ると、これもちょっと敷居が高い感じになるのだから、勝手な客の心理だ。スパゲッティーが食べたいと言うのは、どこそこのという名ざしがつく。これは、わたしのなかでまだ一般食ではないのだろう。たまたま、その店のそばであると言うので、入る事になる。南足柄の松田線の、松田から来てトンネルの前にある店、マジェール・スパゲッティーは時に食べたくなった。先日久し振りに入ったら、全く味が変わっていたので驚いた。味付けが変わったというより、違うものになっていた。どうしてくれるのよ。と言う感じ。

ラーメンが食べたくなる。季節に一度くらいであろうか。疲れて居る時だと思う。エーイ、ラーメンでも食べるぞ。と言うような思い切った、よほどのお腹の気分だ。何でも好きだから、ラーメンも大好物だが、あの白いとんこつスープのこってり感が、素晴しくいいのだけど、たまらないときもある。255号線の大井町にあった。小田原から行って、第一生命に曲がる辺りの右側にあった店は、その線で一番の味であった。店には、激辛タイプを完食した人が張り出されていた。先日前を通ったら、あの店もなくなっていた。あしがらで一番好きだった店は、246号線沿いの松田・山北間にあった、「見晴らし亭」とか言う店。とうになくなった。しょっぱいのには困ったが、それでも食べたくなる日本一の上手さだった。なくなった店ばかり書いても、しょうがない。最近発見した店がある。

最近流行っているらしい、魚系のダシ。店構えは全くラーメン屋には見えない。完全に、いわゆる飲み屋である。何やらラーメンと言う旗が立てられているのには、気付いていた。飲み屋なのに、昼間はラーメンを食べさすのだな。と言う風に思っうのが、普通の感覚だろう。だから、極めて入りにくい。中に入ると外観以上に驚くばかりである。幸せの出会いを求める掲示板がある。そして、ローリングストーンズのコレクション展示には仰天。ミックジャガーのギターのコピーなのかな。鎮座している。さらに、さらに驚くのは、若い家族が仲良く働いているのだ。中学2年生ぐらいの女の子が、ラーメンを運んでくれる。奥さんとおぼしき人物が、真剣に、実に真剣にラーメンを盛り付ける。それがお花を生けるような調子で、少し離れては山盛りに盛った刻みネギの形を調整する。親父さんだけは、いかにもラーメン屋をやりそうな人物だ。本気の味で、一級品。場所のヒントとしては、小田原にある唯一の本物のギャラリーから、そう離れていない。
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小田原市補正予算案否決

2009-06-29 05:19:21 | Peace Cafe
小田原市議会議員多数派よる、加藤市長の手法への初めての明確な意思表示。加藤市長はなかなか尻尾をつかませないでここまで来た。議会・市議会議員対策をしてきた所である。しかし、いつかは対立は起こり、明確な意思表示をせざる得ないことは、当然起こること。小田原の不思議な芯にガツンとぶつかった。もっと早く、こうした事態が起こっていたほうが良かった。さすがに古くから小田原評定と言う事で、市議会議員の行動決定に時間がかかっていた。市民参加という加藤市長の作戦に対し、どう対応したら良いのか、まともに敵対していいものかどうか。様子見をしてきた。しかし、放置している内に、外堀が埋められ、内堀まで改革勢力が迫っている。さあーさあーどうする。このままの傍観では、戦う機会もなくなりかねない。重い腰が上がったのだ。立ち上がれば市民派など物の数ではないはずの、小田原の伝統を受け継ぐ、守旧派勢力。「小僧っ子ども、ヌエの正体を甘く見るな。」

そもそも、事の起こりは「城下町ホール」。山本設計の超モダンな奇妙奇天烈カタツムリ型ホール。「古い奴こそ新しいものを欲しがるもんでございます。」傷だらけの唄のごとく、何故、小澤元市長はあれが良かったのだろう。何かボタンの掛け違えがあった。今もって、元役所の担当職員から、市議会議員に転進した植田氏は、あのホールへの未練の市議会質問を繰り返されている。一体その評価の違いは芸術観の違いとも思えない。市民軽視も困る。市議会軽視も困る。さて、さて、検討委員会のそもそもの位置づけに問題があった。ここをスルーしたのが、市議会守旧派。とっさのパスで、良くある市民参加の形式主義と考えていた節がある。市民のガス抜き。言うだけ言わせて置けばいいと言うやつ。もうあきただろう、ほとぼりは冷めただろうと思いきや、本気にするとは驚いた。いよいよの、小田原本家の参戦ではないか。市議会が全員一致で承認した検討委員会である。後でホッポリ出せばかまいやしないでは、何とも困る。

委員会は、生ごみ堆肥化検討委員会委員として私も参加する。しかし、出した検討が拒絶されるのがわかっていながら、検討などできるものだろうか。権限がないのは当然であるにしても、市議会の方でも、この検討委員会に対する考え方を示す必要があるのではないか。検討をガス抜き法として、終わらすのでは予算の無駄使いである。ガスが抜けるどころか、マグマだまりとなって、今に大噴火が起こる。市民と称する、「プロ市民」。と言った議員の方がいらした。まっとうに挨拶するものではない。と言う、腹の底にたまった長年の経験は深いのだろう。下手に噛みつかれたらえらい傷になる。やり過ごすに限る。プロ市民でもごろ市民でも良いけれど、市会議員の方こそ市民代表のはずで、当然の前提だ。検討委員会の出した考え方を、本気で精査して戴き、市民代表として意見を出してもらうのがありがたいことだ。 まえむきにゆこうぜよー。

探しても私の能力では、市長提案の予算を否決する根拠が、どういう物であるのかが不明。「その程度の事は、市の職員にやらせればいい。」こう言う事が唯一出ている意見なのだ。確かに市の職員も有能な方は多い。やってやれないことはないだろうが、さて、急場には間にあわない。先ず勉強から始めなくてはならない。それよりも、その分野の専門家に委託して、事業の形をわかりやすくするというのが、この際の普通のやり方だろう。市の職員の方がその筋の専門家より高給取りであり、安くは上がらないのだ。むしろ、市会議員の方達で、「その程度の事というなら、おまとめになっ見たらいかがでしょうか。」是否議論を深めて良いご意見を出してもらいたい。その責務もあるはず。市議会では何をどうしたいと考えているのか。明確に意見出す義務がある。そういえば、賛否すら、隠しておくべきと言う結論のようだから。とても考え方を出す、意見を公表するなど、思いも寄らないことかもしれない。
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民主党の農業改革案

2009-06-28 06:21:13 | Peace Cafe
「民主党が勝ったら、議論」を事務次官がしてはいけないという事で、鳩山民主党代表は、激怒していた。不偏不党であるべき公務員が、野党批判を公式な記者会見で、行ってはいけないと言うのだ。正確に言うと、民主党の提出した農業者の戸別所得補償制度の創設を含む法律案に対する見解である。随分了見の狭い、自信のないことだ。野党提出法案を該当省庁が論評してはいけないと言うのでは、かえって、偏ることになる。農業の大転換期に来て、本当の議論をしてもらいたい。これが全ての農家の気持ちであろう。農家にしてみれば、民主党のいう、戸別補償が正直理解できない。農家と言っても様々である。この様々を、ひっくるめて保証するなどできるわけがない。とすると、この考えの行く先は、高速道路無料と同じで、無駄使いをなくして、費用を捻出すると言う、魔法に到るだけではないのか。自民党のやり方で行き詰ったのは充分わかるが、民主党案に対する不安は大きい。

農水省の事務次官が民主党の農業政策批判を公式な記者会見の内容。
一つは、この法律の第5条に、この法律の施行後四年を目途として必要な措置は段階的に講ずる、と書いてあります。今の農林水産業、特に農業、それから、農山漁村の状況を見ますと、この「四年を目途」というのは、ちょっとスピード感が少し足りないのかなという感じがいたします。
それから、戸別所得補償制度本体では、これも言われておることですが、16条で、コメ以外の麦や大豆や畜産物につきましても、行政が生産数量の目標を決めるというふうにされておりまして、この目標に従って生産する農家に、所得補償をすると書かれております。ご承知のように、今、議論になっておりますコメの生産調整でも、その事務処理が、ものすごい大変だということで、自治体や農業団体が悲鳴を上げておるのが現状ですから、コメ以外の多くの農畜産物について、こういったやり方を拡大して実施するということは、現実的ではないのではないかと思います。
また、三つ目は、この目標数量の設定に当たりまして、同じ16条に、行政は毎年、農業者の意向を踏まえて決めると書いてあります。やっぱり、今は、消費者ニーズがどれくらいあるか、需要がどのぐらいあるかということを起点にものを考えないと、作ったけれども余っちゃいました、というのでは、まずいのではないかなと。そういう点で、農業者の意向だけを踏まえるというのは、いかがなのかな、という感じもいたします。
最後の四点目ですが、6条で、食料自給率の目標として、施行日の属する年度から10年度を経過した年度、つまり、10年後は、50パーセント、更に10年を経過した20年後は、60パーセントに達するようにすると、はっきり書かれてあります。今まで我が省がやってきた農政とはラインが全然違うということになってしまう可能性もありますね。

ちょっと長かったが、どんな内容か大切なことで、踏み込んだ議論がないので検証するために、挙げてみた。① 4年は時間がかかりすぎ。良くわかるが、何十年ほったらかしにして、駄目にした責任者の発言とは思えない。4年かかったって良くなるなら、かまわない。② 米減反の事務処理を煩雑にしたのは、農水自身だ。改善の余地大有り。③ 農業者の意向を聞いて何が悪いのだ。消費者後回しは当然。④ 自給率の目標を上げるのは必要。農水が自給率向上を主張しながら、ここまで下げたのは、数値目標のない責任が見えない仕組みにしてきたから。
この程度の議論をしてはいけないと言う鳩山氏の怒りは何だろう。井出農水事務次官の勉強したと言う内容は、この程度のレベルなのだ。日本の官僚が優秀であったのは、過去の事だ。議論や指摘がこの通り浅い。官僚に任せて置けないというのは、日本の舵取りをする能力がなくなっているからだ。しかし、政治家の方も怪しいもので、一体日本農業はどこへ行く。

昨日の自給作業:草刈1時間 累計時間:37時間
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「夜水」和田傳

2009-06-27 04:16:05 | 
和田傳の短編に「夜水」昭和27年の作品がある。もう消えて行った、水争いの感覚がここにある。私にとっては田んぼの浅水のことだ。ドンブラコと水を入れることは、罪悪感が伴う。ヒエが生えないように、8センチ以上の水張りを目指す。これが何となく申し訳ないことなのだ。あるいは、代掻きには水がいる。上の田んぼから順番に水を入れるとすれば、下の方のものは、田植え時期を待たなければならない。待っている間に何があるかも知れない。最悪、下まで水は来ないかもしれない。水が足りないと言う事は今はない。水がないのに田んぼをやる。どんな世界になるか子供の頃、夜水廻りについていったことがある。子供が居ればそうひどいことも起こるまい。そんなことではなかったか。和田傳の作品はいつも、のひんやりとする関係を、ことさら暴くようなことをしている。

浅水の普及の背景には、工業用水の需要の増大があったと思う。水を減らす農法の開発と普及は、農業技術の見えにくい方向性となった。これと、夜水の問題と相まっている。夜他所へ行く水を止めてしまうのだ。水路をいじって我田引水のこと。これは深刻なことだった。ここに、様々な力関係が働く。上の田の者は、永久に上の田。動くことが出来ない、閉鎖社会。ここで出来上がって行くエモイワレヌ関係が、今も変わりなく続いている。もちろん続いているのは、気分の上であって、水が余っていても、水をドンブラコと使う罪悪感だけはある。ここに今度は、管理の問題が重なる。水を管理する労力。金銭。田んぼが減少する中、管理の負担は年々増大する。足柄平野では、閉鎖されてしまった水路が半分以上に成ると、記録されていた。舟原の下流になる欠の上の田んぼが、水路がなくなり、田んぼの耕作を止めている所がある。自然水路果しかに環境には重要であるが、コンクリート3面張りは誰が見ても解り安い所が良い。

素人の田んぼが、ドンブラコト水を張るのは、面白くないだろうな。そう言う事を勝手に感じてしまうのだ。本当の所は解らないが、昔、水路の水でもめたことは、舟原でもあったと聞く。なかった地域など、日本全国でないに違いない。この水のことが、日本の地域の相談の方法を生み出したと思う。否が応でも、話し合わざる得ない問題である。そうして、延々とした話し合いと、長い体験をとおして、不思議な慣習が出来上がる。ここであるものは、平等とか、権利とか言う、ものではすまない、人間的であり過ぎるだけに善悪併せ持つような、理屈で割り切れない部分がある。これに耐え切れなくて、田舎はいやだ、都会に出てゆく。こういう若者の何かがあった。

写真は舟原田んぼの入水路である。巾80センチ長さ8メートル。面積にして、2坪は水路に潰した。なんと、もったいないことである。しかし、昨年までは上の田んぼの入水口周辺は何時までも青かった。それを思えば、水温さえ上がれば、元が取れる。岩越さんが工夫して作ってくれた。水はジグザグ、さらに上下、渦を巻き淀みを作り、この狭い水路を進む。狭まった部分には石が置かれ、水が石に当るようにできている。この入水路の効果は、何と、なんと晴天時水温3度の上昇。曇天時1,5度の上昇の成果が出た。すごいことだ。子供だましのような工夫の積み重ねが、田んぼをとても良くする。水温1度上げれば、1俵とれる。こう言われた。今年はいいだろう。そう考えていたら、何故だか、今年は入水温自体が、高い。1度か2度必ず高い。17度か18度である。だから、20度もある日がある。と言って、6月で夏日という日が続いているのだから、今年は特別だ。
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東国原氏の衝撃

2009-06-26 05:23:32 | Peace Cafe
久し振りの仰天報道だ。一世一代の勝負の場面。。政治を志すものなら、当然の心意気と言う所だろう。騒ぐ報道に、冥利が尽きる。面白かったのは、自民党の議員面々である。当然のボケ役を充分に演じてくれた。はらわたが煮えくり返ったのは、麻生総理であろうが、意外にもまっとうな反応だった。案外体質は似ているのかもしれない。まさか総理になる順番はなかった所が、次々に本命が、リタイアしてしまうので、転げ落ちた総裁の席。アニメ好きが妙に秋葉原で受けて、藁をも掴んだ、自民党総裁選挙の結果みたいなものに。国民には見えている。そのことを充分この方はご存知。しかし、自民党議員にしてみれば、全精力をかけ、全ての望みを自民党内の先陣争いに費やしているかのごとくだ。日本をどうする。より、次の選挙で頭は一杯。選挙に勝てるなら、民主党に勝てるなら、毒でも飲もうと言う心意気の、古賀選挙対策委員長の奇策。

一方、連動する橋本大阪府知事も動いた。橋本知事は自民党の中川秀直元幹事長を訪問し、近く地方自治体の首長数十人規模の新グループを結成して次期衆院選で支持政党を表明する考えを伝えた。その中には、なんと開成町町長露木氏の名前もある。露木氏はその足で、大井町町長にも連動を要請。近隣市長には会って連動をお願いをするそうだ。小田原の加藤市長にも会うだろうが、どう反応するのか、しなのか、興味深い展開である。地方の意思表明。当たり前の事だ。町より、県。県より、国。上の方が偉いと思っているのが、今の行政の体制。本来下から下から、積み上げてゆくのが、民主主義の基本ルール。いつもごみになるが。ごみは一人一人がどうするかを決められる。それが自治会単位になり。行政区になる。一人が暮すと言う事を、尊重するためには、個々人の意志が反映してゆく仕組みが大切である。所が、国の法律があるので、指導があるので、仕方がないことになっていることが多すぎる。

国民の人気にいい気になるな。「権力の怒り」は暴発している。これが過ぎると、イランのようなことになる。お上の時代は去ろうとしている。これだけは刻々明らか。これも選挙対策で、景気は底を打った。こう言う事を大本営報道は繰り返す。株価の動きを見ていると、上がり始めると、じわじわ連れて上がる。少し下がると、狼狽気味にドット下がる。世論調査の支持率は、株価と同じ。民主党支持も政策支持ではない。反自民の連れての上がり。何時狼狽で下がるやも知れない。反自民に過ぎない。民主党は政策選挙にするなら、解散解散と言う前に、マニュフェストだろう。9条に対する姿勢を明確に出来ないのでは、いくら反自民であるとしても、投票をためらう。いずれ、東国原氏も、橋本知事も、開成露木町長も、自民党を目指している。東国原氏が自民党総裁になって、総理大臣は民主党では、すごい茶番。

露木氏は何故、国政に立たないのか。露木氏は17区の現3人の予定候補より、国政向きである。考え方のなかには、、国を変えなきゃ駄目という、思想が随所に現れる。開成町民であれば、是否もっと続けて欲しいと言う所だろうが、適材適所と言う事がある。また、どんなに優れた、適材と思われる人も、後継者を育て譲る必要がある。町長より、衆議院議員の方が偉いとは少しも思わない。むしろ、町長の方が、町民にとってははるかに、重要であると言う事を、開成町民はひしひしと感じているだろう。その、「下からの積み上げの思想」が国を変える必要がある。と言う所ではないだろうか。世界一有能な日本の官僚が、日本を作ってくれる、こういう時代は終わった。厚労省の実態を知れば知るほど、もう官僚に任せて置けない。官僚に負ぶさってきた自民党にも任せて置けない。
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ごみは解決できる。

2009-06-25 04:27:58 | 環境関連
小田原市から「ごみ処理広域化の考え方」と言う冊子が出た。正確に言うと、小田原市・足柄下地区ごみ処理広域化協議会からだされた。この組織は小田原市役所内に存在し、各行政から担当者が出向し構成されている。この考え方に対して、総務常任委員会で、充分な議論がなされたとはとても思えないまま、了承されたらしい。採決があったわけではないし、スルーという感じだった。ごみが素晴しいのは、市民が成熟できる課題であるからだ。では、本当はこの考え方に対し、何を議論すべきであったのか。この点を指摘したい。熱回収施設という名の「ごみ焼却施設を小田原市に置く。」と決めた理由。本来都市計画の中で決めるべきことである。1市3町どころかさらに広い南足柄や、足柄上郡を含めた。広域化も同時平行で検討されている。この地域の全体性を先ず眺める必要がある。結論としては、焼却施設は工業地域におくべきと考える。

住居地区、工業地区、商業地区、農林業地区、魚業関連地区、観光関連地区、水源地域。人口の濃度の今後の展開予測。首都圏全体との交通。港湾との関係。そしてどのような未来図に基づき、ごみをどのような位置づけの物として考えるか。ごみは資源であると言う言葉があるが、ごみは今後より高度な、選別と、処理が必要なものとなるであろう。ただ燃やせば良いとか、熱回収という名の10%程度の熱回収でお茶を濁していて良いのか。こう言う根本問題から、始める必要がある。環境が産業になる時代だ。32年に稼動を開始したときには、時代に合わない方法になっている可能性がある。大きく俯瞰すると、再生できるものは、資源としてより再生に回るであろう。生ごみの堆肥化は紆余曲折はあるにしても、少しは進むであろう。又、環境意識の高まりと共に、今以上に温暖化の問題や排出物質には、配慮が必要になる。そうした将来図に基づき、設置場所、処理施設の内容、全体の流れを考える必要がある。

重要な所は、経済性である。経費が、15年で見ると320億から、233億円に減少するとしている。これは施設の比較に過ぎない。はっきり言って嘘の数字である。本当の所は、廃棄物会計を1市3町で行い、広域枠でも行って見ない限り誰にもわからない。今の所資料がなく、解らないはずのものを、「安くなるメリットがある」と示していることは、大きな罪である。ごみについては、その不都合デメリットも含めて市民に示し、どうしましょうと共に考えない限り、後退するだけになる。小さく脚注として、「※生ごみと選定枝の資源化の方法によっては、堆肥化施設などを整備することがあります。」とある。実はこのことが、全てをかえる可能性がある。ごみの半分がなくなる。このことを早急に検討することが全体にとっても、緊急課題である。

私案としては、
1、今の三つの焼却炉を総点検して、残存利用可能期間を見定める。できれば、メンテナンスを順次おこなう。
2、廃棄物会計を行う。
3、焼却を最小限にすることを基本方針にすえる。
4、堆肥化施設を早急に作り、実行の可能性を探る。
5、他地域と緊急時相互協力契約を結ぶ。

小田原の農業地域に生ごみ堆肥化施設を小さくいくつか作る。3町にも堆肥化をお願いする。これには農水省系統の様々な補助制度がある。その位置は、農地の配置できめる。そして、どの程度まで堆肥化が可能か、検討を進める。まず、生ごみと呼ばれる資源の中で、飼料化できるものであれば、飼料施設に回す。これには経済性が重要になるので、出来れば民間企業への委託も考える。堆肥になるものは、堆肥化施設に回す。両者に使えない物は、焼却処理。生ごみの堆肥化は、単一の手法では難しいので、様々な手法を実験的に行ってみる。この結果、どの程度の生ごみが減量できるか試す。平行して、堆肥の利用農家への呼びかけを行う。全体が経済の合理性に従うよう仕組みを工夫する。生ごみを分別する努力が、報われなければ、生ごみの堆肥化は進まない。

昨日の自給作業:お茶の草取り1時間 累計時間:36時間

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セブンイレブンの値引き

2009-06-24 04:23:11 | 地域
セブンイレブンに対し、公正取引委員会の指導が行われた。値引き販売を禁止する指導が、優越的地位を利用した、行きすぎた押し付けになっている。公正取引員会はときどき、よい仕事をしてくれる。価格カルテルや官製談合を含む入札談合事件。中小企業に不当な不利益を与える優越的地位の濫用,不当廉売等の不公正な取引方法に対しても,公正な競争環境の整備を図ることがその任務である。横浜で毎年行われている、憲法劇を見に行った時も、こうしたフランチャイズ制の加盟店に対する、様々な押し付けが劇化されていた。中でも食品廃棄物の事は、我がことでもあったので、辛い思いで考え続けている。公正取引委員会によると、1店舗あたりで年間平均約530万円分。加盟店のオーナーによると、月間1・5~2トンの食品が捨てられているという。何と言うもったいないことであるか。この廃棄費用だけで、月に30万円には成るという。

便利で安心の背景には、食べ物に対して、あってはならないもったいない行為が行われてきた。ごみを作るシステムも、利潤のために平然と組み込まれてきた。セブンイレブン本部側では、加盟店に販売した商品はすべて利益である。廃棄負担は加盟店側で持つことを、いわばフランチャイズの条件にしてきた節がある。毎日出る、期限切れ寸前のお弁当を集めて、路上生活者に配布する活動がある。定時に回って回収し、食べてもらう。加盟店は月に30万円が助かる訳だ。そして、毎日、50キロ分のお弁当、200食は配布できる。以前伺った、廃棄物処理の資格を持って、養豚業を大きくされている所では、箱から出して食べれるものだけにして、持ち込めば、ただで受け入れると言っていた。色々な形があるようだが、あくまで一部の事である。ほぼ全量がごみとして費用を掛けて燃やされているのだろう。

それなら、私が養鶏の餌として、久野のコンビニから引き取ることは出来ないだろうか。これを禁止しているのが法律である。もし、お弁当の引き取りが許されるなら、毎日引き取りだけで月30万貰うことが出来るなら、地域の養鶏や養豚は充分に経営できる。法律が出来る前は、そういう地域の畜産が沢山あったのだ。そういう地域の循環を止めたのが、食品リサイクル法という、リサイクルを切断する法律である。この法律も農水省は変えたいと言う意向がある。意向はあるようだが、実現できないでいる。一言で言えば、豚の餌だと言って引き取り、山の中にでも捨てかねない。こう言う疑いに基づいている。確かにありうるだろう。しかし、市町村規模で特例として、許認可を行えば、畜産である。生き物を見れば餌がどうなっているかなど、隠しようもないことである。つまり、地域が崩壊していると言う前提で、国の法律は優先する。

セブンイレブンでは、公取の指導に従い、食品廃棄の15%の負担を本部がすることを発表した。この15%だけで、本部は100億円の負担になるそうだ。と言う事は、1000億ものお金を、捨てられる弁当で本部は儲けていた事になる。一方、問題点を指摘する声が書かれていた。日本消費者協会では、見切り品の販売が「消費期限の改竄(かいざん)など、偽装表示につながらなければいいが…」と懸念。全国消費者団体連絡会(千代田区)は「消費期限の近い商品を、どのタイミングで食べるか、体調不良を起こさないよう、消費者個人が注意する必要がある」とした。情けない的外れなコメントである。改ざんとは別問題であろう。消費者がどう食べようが自己責任である。

昨日の自給作業:麦刈り2時間 累計時間:35時間
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ごみ処理広域化の考え方

2009-06-23 05:18:30 | 地域
小田原市から6月付けで、冊子とパンフレットが出た。これに基づき、本日総務常任委員会において、説明が行われた。3時からの説明になりそうだと言うので、慌てて鶏の世話を終わらせてかけつけた。何しろ、小田原に焼却炉を置くと言う重大なことが、議論されるはずである。拒否する委員も居るはずである。昼間、農業者が議会に出かけると言うのは、よほど調整しなくてはならない。しかし、市の生ごみ堆肥化検討委員でもあるので、委員会での議論は良く聞いておかなければならない、と考えてでかけた。市の広域担当課長から、パンフレットを読み上げる形で、一通り説明が先ず行われた。少し緊張した様子で、担当課長もさすがベテランの市会議員を前にした、説明と言う事でほおを赤らめた状態だった。多分、担当課長が4月からの新任と言う事であり、不慣れと言う事もあるようだった。市議会議員の質問は4名の方からあった。ホームページには写真と名前があるが、正確なところは、確認できなかった。

朝から総務委員会は開かれていて、例の城下町ホールについての市民参加の検討委員会の結果に基づく、予算を拒絶したと言う。

まず、関野議員がいくつかの質問をされた。神奈川県9ブロックの現在の進捗状況の質問があり、説明があった。溶融炉には問題がある。広域化にも問題がある。と言う立場からの質問としていた。その問題点の理由を挙げての質問と言う事でもなかったので、回答もパンフレットの範囲で行われ、それで済まされてしまった。そして、広域化することによる処理費用が安く成る。という計算式の説明の根拠を質問された。これには改めて資料をつけて解答する、と言う事になった。炉の耐用年数にも触れて、現状が説明された。
つぎに加藤議員が自治会等でもまだ内容が周知がされていない。説明会の方法、TRYフォーラムとの連動について質問があった。説明会は小田原市が単独で行うのでなく、広域検討委員会で行うと言う事と、TRYフォーラムとは連動していないと言う事の説明があった。
3番目の質問は横田議員であるようだが、名前が聞こえなかったが、溶融炉の事を質問した。まだ決まって居ないという事であった。又現在の場所の選定の進め方も出たが、小田原と書かれている点には質問も回答もなかった。この後、実際どうやって、誰が決めるのかは解らなかった。
最後にに杉山議員から、ごみ処理手数料の1市3町の違いを、市民にどう説明するのか。こう言う質問があった。上手く行政側がその違いの根拠を示せないので、説明会までには、わかるように調べるように要請が行われた。

以上は記憶だけなので、間違えがあるとおもう。1ヵ月後には、議事録が出るので確認が可能。何しろただ聞いていただけなので、正確なところまではわからなかったが、やはり失望する議論であった。最後に3町の議会での質疑の状況が報告された。中にははっきりと止めるべきという議論も出たそうだ。委員会での説明と質問というものに不慣れだから、実状はわからないが、肝心の事が議論されているとは到底思えない委員会であった。どこかで肝心なことは議論されていると言うのだろうか。重大な焼却炉の設置場所が小田原と決められている。何時誰が何処でこんなことを決めたのだろうか。この重大な決定に、市議会議員は関わったのだろうか。ここではそのことには質問もなかったが、どう言う事なのだろう。総務委員会では小田原におくことを了解したとなるのだろうか。本来焼却炉の場所を決める為には、本会議で賛否を問う必要があると思うが、そんなことは小田原の市会議員の関心のないことなのだろうか。ともかく質問もなかった。
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川勝平太氏

2009-06-22 05:45:34 | Peace Cafe
静岡県知事選に出馬した。無駄の象徴とも言える、静岡飛行場の出っ張った立ち木伐採で知事が辞めて、その後の選挙である。民主党、社民党、国民新党の推薦である。川勝氏は農業にとても理解の深い、経済学者である。農文協の企画の集まりで、長時間にわたって、お話しする機会があった。そのときは、とても紳士的で、頼りになる農業応援団と言う印象だった。早稲田の政経学部の教授であったはずだ。以前にもそのことは書いた。「サラリーマン小作」をすすめることを提唱したい。日本人労働力の大半をしめるサラリーマンの間での農へのあこがれ、つまり自然と調和した生き方、家・庭一体、ハウス・ウイズ・ガーデン(家庭)へのあこがれには、根強いものがある。販売用農産物をつくるためではなく、半自給でも4分の1自給でも、8分の1自給でも、自然のなかでの自給的な「農」を楽しむために、農地を渇望しているのである。農業は専業農民がするものという固定観念を打破し、これをすすめたい。このように言われている。

川勝平太氏はその後「新しい歴史教科書を作る会」の賛同者になった。何故なのか。このことが気になり、その動向は着目していた。静岡文化芸術大学の学長に就任した。川勝氏は江戸時代の社会を分析することで、江戸時代の日本の独自性。又先進性を「勤勉革命」と言う形でアジア型農耕文化の到達を評価する。その視点から、「日本列島改造計画」に代わる「ガーデン・アイランド構想」を提唱する。自身、軽井沢に住居を移し、そこで農的生活の実践も試みている。その直後、静岡文化芸術大学の学長に就任する。この人の中で、渦巻いているものは今も不明だが、石原慎太郎東京都知事と同じで、著作よりも現実の方に関心が強くなった、と言う事だろうか。安倍慎太郎氏に請われて、「美しい国づくり」プロジェクトに参画している。民主党、社民党はこうした今までの活動をどう認識して、どう確認を取って、推薦する事にしたのだろうか。

農業に関心を持つと、極右か極左になる。こう言われたことがある。農的生活をただ行っていれば、平和的な思想の持ち主になるなど、妄想である。こうも言われる。最もな意見だと思う。農本主義と言うように農業を考えると、現代における就農の流れは、一種の反社会と言えば、大げさだが、脱とも違う、社会変貌的活動のように見える。川勝氏がサラリーマンも農業をする。として実践を行った。又それを奨める。その主張の背景にあるものは、このままの資本主義社会では駄目だ。こういう思いがあるに違いない。次の社会を想定するときに、「農に帰る」と言う思想が、社会の次の指針として、経済史的に浮かんで来たのではないか。食べ物や、手工業的な「生きるという原点」に結びつく、暮らしを行動して見る事で、存在の原点を見失いがちな、分業化された現代社会の中で、人間性の回復が出来る。それは一個人に始まり、地域循環が再生され、日本社会自体の目的の喪失感が、改善されてゆくのではないか。

農業の未来を論議すると、現実遊離になるか、現実否定になるか。あるいは革命家になるか、テロリストになるか。当たり前の暮らしの中で、良い塩梅の妥協点を見出すことが困難になる。農本主義が他の思想と違うのは、日々実証的であること。作物と言う結果が、毎日出てくる。卵の作り方を、こうあるべき主張すれば、その結果となる卵に現れなければ、自身の立脚点がおかしくなる。「トマトは10段出来てから。ファレのは10以上花を付けてから。始めて意見を言え。」となる。そういう世界で、意見を言う場合、「私のトマトは、生命力が違うから、病気が治る。」宗教型の登場。「私のトマトは、世界一美味しい。」味への逃避型の登場。川勝氏はたぶん、10段トマトが作れなかったのだろう。何がいけないかと言えば、社会自体を変えないと、10段トマトが作れないと考えたのではないか。それで静岡県知事選に出馬。紳士の中の紳士に見えた学者川勝氏が、エキセントリックにテレビで叫んでいた。あの辺りが、「新しい歴史教科書を作る会」の賛同者になった原因か。学問ほど尊いものはないので、何か残念な気がする。
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田んぼの土壌の変化

2009-06-21 05:31:33 | 稲作
今年の舟原の田んぼでの大きな特徴は、上の田んぼと、下の2枚の田んぼとの土壌の違いが目立ってきたことである。舟原では、あらおこし、水入れ、代かきと、田植えに出来る限り接近させることにしている。水を入れたときから始まる、草の発芽を出来るだけ遅らせたいと考えている。今年も、金曜日に水を入れて、土曜日に代かき、日曜日には田植えと一気に進めた。草は水を入れて、一週間が勝負。この間に大きくしてしまえば、もう後は何をしても効果は少ない。早めの代かきで一度雑草を出してしまい、2度目の代かきでこれを根絶して、田植えをするという考えもある。舟原田んぼでは、あまり土を練りたくない、浅く代かきをしたいという考えもあり、一気に進めると言う手法になる。ですから、12日に水を入れて現在1週間と言う所。17日には、下の田んぼでは大量のミジンコが発生した。そして、18日には中段の田んぼでも、大量発生。所が上の田んぼは20日でもまだ発生をしていない。朝5時の入水温16度である。

このミジンコの発生に象徴される複合的状態が、トロトロ層の形成に大いに役立つ。トロトロ層とは何か。定義はないが、田んぼの表面に出来る、ヨーグルトと水中に溜まったほこりの間のだのような状態の層である。代かきで機械的にもある程度は作れる。しかし、代かきでできた、微細粘土による層と微生物が作り出した層とは少し違うようである。粘り気が違うと言うか、普通のヨーグルトと、べたつき感のあるカスピ海ヨーグルトの違いの粘り気の感触に違いがある。そして、この微生物が作り出す、トロトロ層を出来るだけ厚い層に育てたいと言う願いがある。トロトロ層が出来ると、大抵の場合はコナギ等の草が抑制される。発芽して、一度は2,3ミリの双葉状態になっても、土壌の中に埋もれ、蕩けて行く感じがある。そうとは言えない場合もあるので、断定は出来ないが多くの場合、コナギの発芽はない。何故発芽が抑制されるかの科学的根拠はまだわからないが、体験的にそういう事が起こっている。

このトロトロ層の形成には、水温が高い方が良い。25度以上あるといい。又、微生物の餌となる、糠物質、多分澱粉質のようなものがあるといい。所が、この二つが揃っても、ミジンコが発生するとは限らない。ここが又興味深い。今年始めてやった、鬼柳の田んぼは、30度近くの水温がある。ソバカスを撒いている。しかし、ミジンコの発生がない。トロトロ層も形成されない。何故なのかまだ解明できないが、微生物が乏しい感じである。今までの経験では、有機農業に変えて、3年目くらい経たないと、微生物の発生は少ないようだ。もちろん、土壌の性格が大きく影響するようでもある。粘土質が強いからトロトロになるともいえない。腐食質が多いと言う事は材料になりそうである。だから、冬場緑肥を繰り返し蓄積していると、トロトロ層が形成されるようになる。結局、総合的なもので全てがそろって始めて、トロトロ層に到る。何かが一つかけてもいけないようだ。例えば、ミネラル不足などもいけない。海水を撒くと良い効果の一つになる。

ことし、志村さんの実証圃場では、冬場の二見健やか堆肥のすきこみに加えて、ソバカス散布を行った。今の所とてもいい状態のようだ。チェーン除草の条件である、トロトロ層の攪拌による水の濁りが、長く続くらしい。ソバカスの発酵の速さが影響していると思われる。この点、米糠より有効である。冬の間に、土を育てておき、それを呼び水として、春の微生物の大発生に繋げる。ここで解ったのは、土壌の歴史によって、田んぼの履歴によって、同じ作業が同じ結果にならない。冬場に良く土壌を育てるというのは、生き物が居る、豊かに草がある状態。腐食質の発酵が誘発する、トロトロ層の形成。と言いながら、「良い土」という意味はまだまだ、不明。トロトロ層が何故良いのか。微生物が豊富であると何故良いのか。こう言う事は、明確に理解できる訳ではない。今の所経験的なものに過ぎない。この辺りを明確に言葉で理解できるようになりたい。トロトロ層という言葉自体が、随分曖昧なものである。人によって随分捉え方も違うようだ。トロトロ層は刻々変わってゆくのだから、当然の事か。

昨日の自給作業:麦刈り、ジャガイモ堀、タマネギ堀2時間 累計時間:33時間
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小田原市建設経済委員会の怪

2009-06-20 04:11:51 | Peace Cafe
「小田原駅・小田原城周辺まちづくり検討委員会」によって、3月に出された報告書では『今の経済情勢などから、今後は、公共施設のウエートを大きくした再開発というかたちでいくべき』という案が出ていました。その考えに沿った補正予算が、6月18日の市議会建設経済委員会で否決された。小松久信委員(公明党)による発議で奥山孝二郎、 俵鋼太郎、植田理都子、武松忠、細田常夫の5委員が賛同して修正動議が出され、可決されました。檜山智子、田中利恵子の2委員が削除動議に反対している。武松氏は自身のブログで、「この程度ならば市役所内部でまとめてもらいたいと思い減額修正に賛成しました。」と書かれている。 お城通り再開発の「事業化検討調査委託費」189万円を説明不足、時期尚早で削除。今回の予算では、調査委託料189万円が提案されていたのだから、調査もすべきでないという6名の市議会議員の考えは、お城通りを今のまま中途半端にして置くのがいいという、判断なのだろうか。市民検討委員会に対する嫌がらせにしては、度が過ぎていないか。調査して、それでおかしいと言うなら、まだ話がわかるが、何か不思議な動きが感じられる。

市会議員の本音は、市民参加を進める検討委員会方式に対し、市議会軽視だと考え、苦々しく思っている。こう推理すると、辻褄が合ってくる。市民から選ばれた市会議員が、市民の代表で、その代表を飛び越えて、市民が方向を決めるなど、おこがましいと考えているのではなかろうか。こう言う腹が読める。確かに、市議会が機能して来ていれば、そういう考えも成り立つ。ここに到るまでの駅前の再開発は、紆余曲折して、市民の貴重な駅前の財産を、倒産したアーバン・コーポレーションに丸投げする。と言う馬鹿げた経過をたどっていた。危うく全てを失いかねない事態に、気付いてやっと食い止められた。本来そうした機能が、議会の役割のはずだ。何故か十分検討すべき機会があったにもかかわらず、見逃してきたのは、動議を出した小松議員を始めとした面々ではなかったのか。以前のアーバン・コーポレーション計画が良かった、と考えているなら、倒産を見逃した責任はどうなるのだろう。確かアーバンは不動産を債権化するという、金融崩壊に巻き込まれていたら、と思う恐くなる。

市議会にお任せして、市民が安心できるような審議をしていただきたいものである。何も、いちいちの政策にまで、市民が出張る必要はない。しかし、小田原市議会では個々議員の賛否まで秘密にしておきたいという、不思議な状況が実状。本来検討委員会のようなものを市民がやることが良いとは考えない。市民の役割は、暮らしを通して、行動してゆくことだと思う。私なら農業者として、充分に農業を行う。久野という里地里山が、私が行う農業によって、少しでも活かされてゆく。そうしたことが市全体の運営に良き物として、反映してゆく。これが一番の願いである。ところが、今課題として上がってきた、ごみの広域処理問題においても、市議会で充分の問題点の認識があり、議論が何度も行われてきたと言う事ではない。何故か、この170億円もの予算が使われる事業に対し、先導者としての議論がされていない。行政から出てきた案を判断すれば良いと言う姿勢である。そもそもごみの広域処理を重要課題という認識がない可能性がある。本会議において1,2の議員を除いて、意見も述べていない。

行政が結論を出してから、検討はするつもりだろうが、本来市議会では、市民の暮らしを方向付けるために、「ごみをどうするか」を市議会独自に、主体的に議論してもらいたい。そうしてくれていれば、市民参加の検討委員会など不要である。ごみの事を良く勉強していない議員も多いい。先日ある議員に質問した所、今の状況すら把握していなかった。今度生ごみの堆肥化検討委員会に参加するのだが、検討委員会の位置づけを、議会が軽いものとしている中で、本当の検討などできるのだろうか。報徳小学校、久野小学校、に於ける先行実験の実態をどれだけの議員の方が把握しているのだろうか。二見産業の食品廃棄物の堆肥化について、どう考えているのだろうか。もちろん全ての議員があらゆる問題に、専門的知識を持つと言うのは無理であろう。市民の知恵を集めて、共に議論を深めようと言う事ではないだろうか。財政についても、専門家と言っても良い方々が検討委員に加わり、英知を集めてくれている。市議会を軽視すると言うのでなく、市民が一体となって補完しあう。こう言う方向には進まないものだろうか。
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豚インフルエンザの教訓

2009-06-19 04:14:26 | Peace Cafe
5月6日、ATTACフランスとフランス農民同盟が、「新インフルエンザの根本原因は工業化された巨大畜産にある」という共同声明を出している。豚インフルエンザの発生地域と特定されているのは、メキシコ東部ベラクルス州の小村、人口3000のラグロリアである。ここには、世界最大の養豚業者スミスフィールド・フーズが運営する大養豚場があり、年間に100万頭が飼育されている。不確かな情報だけで何かを書くことは、良いことと言えないことではあるが、豚インフルエンザに関して、今後の対応と言う意味で、肝心なことに一向に目が行かないので、想像を交えてではあるが、今回の騒動からの教訓をもう一度書いておく。今回の病気は大規模養豚場で発生したことは、状況証拠から異論を挟む余地がない。ところが、そこに目が向かないように全てが進められてきた、と思われる。グローバル企業とWHOの関係。

3000人の村の傍に、200万人分の排泄物規模の都市が存在していると考えなければならない。以前から、糞尿公害の告発と言う形で抗議は続けられていたが、無視されていたようだ。何故メキシコにあるかといえば、監視が甘いからであろう。弱い所に迷惑施設は流れる。養豚場に対して抗議する住民が逮捕されるような、状況があったようだ。スミスフィールド社はアメリカ大手であり、世界最大級の食肉業者である。豚インフルエンザを新型の名称に変えたのも、スミスフィールド社による、オバマ大統領発言への抗議が発端と言うぐらい力がある。日本ではBSE汚染牛の輸出問題で、何度も名前を目にした。日本ではこのことを発言する、厚生省、農水省関係者など居ない。報道もこの点には目を向けようとしないが。問題の根は巨大畜産にある。現在は、アメリカ資本の問題であるが、将来は中国の巨大畜産が問題化するであろう。肉を安く食べる為に、人類は大きなリスクをかかえた。

今回の豚インフルエンザのフェーズ6は、大きな予行演習であった。1、現在の医療体制、厚労省の体制が全く機能しない。2、水際作戦は機能しない。3、ワクチンによる防御は出来ない。次回起きた時に、今回の反省を活かさなければならないが、現状の厚生省の対応では、何も解決に向けて動き出した様子がない。今更ながら、ワクチンを作るなど、場違いなことだけを発表している。結論としては原因を絶たない限り、強毒のウイルスの感染が起きた時には、防ぎようがないという事がわかった。緊急に取らなければならない方策は、大規模畜産の禁止。EUではケージ飼いの養鶏はもうすぐ全面禁止になる。それが世界の趨勢であることすら、理解しないのが、日本の畜産業界の状況である。養鶏業を行うものとして、恥ずかしいし、申し訳もない。家畜保健所は全く無意味に養鶏場に消毒薬やら、石灰を無理やり配っている。私は絶対に受け取らない。

1、鳥インフルエンザが一番広がっている、インドネシアの状態。2、豚インフルエンザを起こしたメキシコでの状態。3、全てを淘汰すると言うエジプトの状態。これを調査する所からはじめる。豚に強毒のウイルスが存在していないか。各国の利害があるから、日本単独にはできないであろう。WHOの仕事である。日本が費用を提供し、充分な学術調査を要求する。スタッフが必要なら、日本から出す。問題が起きるのは、仕方がないことだろう。それへの対応、又そこからの学習が重要となる。今回の豚発インフルエンザは人類が試されている。やろうと思えばエジプトのようなことも可能。肉などめったに食べないでも、我慢すれば済むことだ。農業多国籍企業は何も良いことはない。グローバリズムによって世界の食糧生産、地域の農業が侵食されている。大資本と癒着しているとしか思えない、WHOの行動。
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加藤市長との関係

2009-06-18 05:30:19 | 地域
加藤市長があしがら農の会の古くからの仲間であることから、農の会との関係、あるいは笹村個人との関係で、様々な憶測があるらしい。そのために誤解が生じ、迷惑な結果も出ていることが予測される。市長と個人的関係は全くない。断ち切っている。後援会にも入会していない。選挙の時には、公選ハガキが来る位の関係に過ぎない。選挙の前後から、当選してからは無論の事、加藤氏と個人的に会ったことはない。メールもハガキ1枚来た事も出したこともない。協議会などの公式の場で顔を合わせたことは何度かある。その意味では前小澤市長とも何度かお会いしたので、少しも変わらないと思う。古い友人ではあったが、彼が公人に成ると決めたときから、一線を画してきたつもりだ。それは、もともとの彼の性格でもあるし、又私の対応法でもある。友人であることを止めたのだから、少し不自然なことではあるが、そう決めたことだ。

わたしが残された時間やりたいと考えていることは、行政の姿勢、対応も充分関係する。であるからこそ、知り合いの関係を利用して何かを進めると言う事は、全く面白い事ではない。又目的に反する。具体的な言葉にすれば、この久野地域が里地里山地区として、充分に機能する有機的結合に満ちた地域になることだ。そして、その一隅に生きる人間でありたい。私は「他」の人である。10年前に他所から来た部外者である。地元の人間になれるとも思わない。余所者としての位置づけで、役割を果したいと考えている。地域というものが巡り始めれば、その輪にも連結し、日本全体の循環が再生される。江戸時代の幕藩体制の民主主義版のようなものをイメージしている。閉鎖的循環系ではなく、輪と輪が関係しながら、全体がより大きな循環の輪になるイメージである。小田原は規模と言い、街の成り立ち、自然的条件、あらゆる観点から、挑戦してみるには、最適な地域である

江戸末期の経済的苦境の中で、尊徳が現れたのは、決して偶然ではない。身分制度だけが財産のような、武家社会に経済と言う科学性で、農民出身者が運営を任されてゆく。封建社会の特例である。栃木烏山と言う地域の再建に尽力した尊徳は、「他の者」である。小田原ではその能力は充分活かされることはなかった。久野地域にも見識ある人材も豊富だし、本来余所者が出る幕でもない。どこの地域でも同じことである。久野の田んぼが一枚でも再生する。その為にいくらかなりと、やれる役割があるのではないか。まずは、農業に市民が関わる仕組みづくりである。都市住民と久野の農業の関わりが、里親のような関係になる事。その橋渡しが立つ位置。農業は今の所、閉鎖的な産業である。閉鎖している間に、新規に入る人の居なくなった産業である。閉鎖を解いただけで、農業者が増える状況でもない。新しい仕組みを模索して、久野という地域全体が、農業地域として、再活性化することに何か道を探している。

今後も加藤市長とは、接触する気持ちはない。市長として立派にやって欲しいとはおもうが。大いに批判もある。何をやってんだと言う怒りさえある。しかし、そうしたことも発言するなら、公的な方式である「市長への手紙」という形がせいぜいである。個人的関係に基づいて、自分の考えを伝えることだけでも、趣旨に反する。そういう関係自体が存在もしていない。この点を誤解なきようにお願いしたい。間違った認識で、迷惑をかけているおそれがある。わたし個人は、迷惑など存在しない人間であるから問題はないが、そのためにやろうとしている地域の仕事に、悪影響が出てはならない。それで、あえて書いておいた。私という人間は配慮がないために、失敗を繰り返してきた。こうして書くことでの配慮のつもりが、かえって困難を増す場合もある。と言いながら、普通に暮す人間の当たり前を、思うことを思うように書いてゆく。まだ変えないで続けてみる。
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生ごみ堆肥化検討委員

2009-06-17 04:27:35 | Peace Cafe
小田原市生ごみ堆肥化検討委員に選考された。小田原市では加藤新市長の新しい手法として、様々な市が抱えている課題に対し、市民を含めた委員会で検討を進める手法がとられている。1、行財政改革検討委員会 2、小田原駅・小田原城周辺まちづくり検討委員会 3、地域医療体制の整備に係る懇談会 4、地域コミュニティ検討委員会 5、ケアタウン構想検討委員会 と既に活動が始まっている。さらに生ごみ堆肥化検討委員会が作られる。多分どこの市町村においても、こうした検討委員会のようなものはあるのだろうが、あえて、広く市民の参加を求めて、課題を市民共通のものにして行こうと言う点が、新しい視点だと思う。先日、財政についての検討委員の方々から、検討内容と途中経過を聞かせていただく、集まりに出させていただいた。検討の視点が専門的なことに、ビックリした。つまり、市民の中にはかなりの専門家が存在していると言う事。

それはどの分野でも同様であろう。こうした役割は本来なら市会議員が担うべき仕事であろう。ところが、あれだけのレベルで財政を検討できる市会議員はがいるとは、失礼ながら、思えない。市会議員のなかに一人二人には存在するかもしれないが、企業会計レベルの知識を深く持ち合わせる、専門家が多数居るとは思えない。では、生ごみの堆肥化についていえば、深い知識を持っている人は、やはり、2,3人に限られるだろう。城下町ホールの問題でも、検討委員会で話されたようなことが、充分に市議会で話し合ってもらいたかった。市議会では全く、問題点を見逃したまま、着工となった。ここまで来て、これはひどすぎると言う、市民の反対署名が集まり、やっとストップをかける事が出来た。この間、市議会議員はこの問題でどういう考えを持っていたのであろう。どうも、市議会と行政が、充分の議論をする体制になっていないように思う。議会改革も急務である。何しろ、自分達の議会での投票行動を、明らかするという、当然の義務ともいえることすら、避けたい人が多数なのだ。

そこで、市民検討委員会が出てきたのだと思う。以前もなかった訳ではないが、一般市民が公募で広く参加してゆくようにはなっていなかった。「生ごみの堆肥化」はまさに、市民が当事者の課題だ。ごみを減少させる、最大のテーマである。山北の山の中に暮し始めて以来の課題でもある。自然養鶏を始めた動機のひとつでもある。循環型社会の構築。暮らしの見直し。正直、ごみの分別など面倒なことである。何でもまとめて、一袋に入れて捨ててしまえるなら、楽なことだ。実はそれでも良いが、それなら、費用が数倍になる。どこかで、誰かが、何かをしない限り、終わらない。ごみはただ燃やせばいいでは、すまなくなっている。能登の道路のない集落に1ヶ月居たことがある。海がビニールのごみで大変な汚染だった。その集落では、昔から、ごみは海に流していた。それできれいに消えていた。

人間が作り出すごみの内容が変わった。水に流せば、水を汚染して人間が使えなくなる。ただ燃やせば、環境を破壊する。ごみに手間暇をかけなければ、循環しなくなったのだ。根本は製造者責任がある。ごみになった時困るようなものを作らせるべきでない。作ったものに自ら責任を持たせれば、処理できないような物は作らない。今はその問題を一先ず置いて、生ごみの堆肥化である。先ず出口を塞ぐ。燃やせない状況を作らない限り、生ごみの堆肥化は出来ない。いくらでも燃やせば良いとか、どちらかと言えばごみは沢山あるほうがいいという状況の中で、堆肥化は不可能である。堆肥化は手間暇がかかる。お金はかからないが、ともかく面倒くさい。間違いなく暮らしの負担になる。堆肥化だけを別枠として問題にしても、解決不可能なことである。この機会に大いに勉強して、何としても小田原のごみが減少できるようにしたい。

昨日の自給作業:稲の補植3時間 累計時間:31時間
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50肩痛

2009-06-16 04:41:22 | 身辺雑記
去年の暮れ頃から、肩が痛くなって来た。3年ほど前、左肩が1年ほど痛かった。この時は激痛で、服が着れないほどになった。肩があがらない。右手でなかったので、何とか日常の作業は続けられた。そのときも肩痛の事を色々調べたりしたが、要するに老齢化と言う事で、致し方がないことのようだった。何時までも治らないような不安があったのだが、特に治療と言う事はしなかった。運動をすると言う事もなく、ほとんど肩が固まったように上がらなくなった。そこまで行ってから、無理やり動かし始めた。痛いときは動かすな。と言う考えもあるようだが、無理やり痛いのに、急に運動をした。それで居て、又動かさないと言う、最悪の態度で過ごしていたのだが、結局時間が来たのか、徐々に痛身が引いてきて、動かせるようになった。以前のように自由に動くと言う事でもない。綺麗に回せたり、真っ直ぐに上げたりはできないままである。

今度は、右手に来た。これは重くなったら、作業に差し障るし、大いに困った。そこで最初から、熱心に動かした。前回の反省である。今までの経過を記録しておく。11月頃、何となく肩が重い。肩凝りかなという感じで始まった。徐々に痛みが加わってきた。12月にはいる頃には、これは50肩が又来たと言う事がわかった。痛みの感じで近いのは、肩で歯痛が起きているような、熱っぽい鈍重である。まだこの頃は動かすことに不便はなかった。ともかく今回は、運動をして動かせなくなるのだけは回避しようと考えた。運動法などしらないので、ともかく肩を回す運動。次に、合掌をして、肘を近づけ、左右に開く。これの繰り返しである。後は肩周辺のマッサージ。筋肉を下から上に上げるように、満遍なく。肩甲骨辺りのこりが加わるので、こちらもほぐす。それでも痛みは徐々に増していくようであった。

1月に入ると、不安が増してきたが、前のときと状態が似ているので、まだ痛くなるだろうと考えて経過を見た。痛いから、運動は割りと熱心に続けた。2月になっても、さらに状態は悪くなった。過激な農作業なども、変わらずやっていたが、それで悪く成るという感じでもなかった。案外重いものをぶらさげて運ぶような、作業の翌日少し軽くなっている感じがした。3月には今思うと、一番悪い状態になった。手の上げ下げがきつくなった。しかし、左手の時のように上がらないという訳ではない。しかし、熱い物に触って思わず、手を引っ込めうような動作をすると、激痛が走るようになった。気絶してしまうのではないかと言うほどの、痛みで呼吸が出来ない。4月もほぼ同じ状態が続いた。しかし日常不便なほど重くはならない。5月に成ると、痛みが徐々に二の腕の方に下がってきた。これは前回回復の傾向だったので、ともかく相変わらず運動を続けた。

6月は田植えなどで、作業が連日になる。一番心配したが、作業が出来なくなるほどにはならない。そして肘が痛くなってきた。と言って肩が直ったわけではく、肩も相変わらずで、肘も時に痛いという状態が続く。途中何度も、弱気になって、病院が良いか、針、鍼灸、に行ってみようか。など気は迷ったが、自分で治せる。単なる老齢化だ。どこかで折り合いをつける。このままづーと痛いかもしれないが、そういう物と受け入れるほうが良いと、痩せ我慢をしている。時に激痛を走らせて、声を出してしまい。病院に行けと言われるが、言われるほどに行かない決意を高めている。前回の調子だと、手首が痛くなれば、そろそろ終わりが近づくはずである。前回と違い、手も上に上がらない訳ではない。回せない訳でもない。運動を続けている成果かもしれない。60までもう一息だから、50肩は、きっと60になれば治ると期待している。
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