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水彩人写生会、太東

2008-05-31 05:39:19 | 水彩画
房総半島の太東に、絵を描きに行った。2泊3日。水彩人では、毎年研究会を開催する事になっている。今回は参加者が、28名。いつもより10名ほど少なかった。それだけ、濃くなった感じがした。水彩人から、6名が参加。初めての参加者も何名かいた。こういう研究の仕方を、何故続けて来たかと言えば、自分にとって、唯一の勉強の場だからだ。一応担当と言う事で、もうこういう写生会や講習会の世話役というのを、30年はやってきたのだろう。東京にいた頃からだから、長い。水彩連盟にかかわって、すぐからそんな役回りに成った。水彩連盟では私が担当から外れてから、いつの間にか写生会そのものがなくなってしまった。大体に、絵を描く人で、写生をやると言う人が珍しい。ゴッホやセザンヌのように、風景と向かい合いながら、絵を描くと言うような事をする人は少数派なのだ。折角印象派の人達が、切り開いた探求法も案外短い命だった。

それは伝統的な日本画の方法でも、同じことで本画を現場でやる人は特殊な人だ。中国では写生をしていると、見ている前側にも人だかりが出来る。写生で絵を描くと言う事を理解しない人が一般的だ。絵の勉強は臨写法が何処でも普通なのだろう。学校教育で、写生が行われたことが、山本鼎氏などの教育運動から出来たわけだが、絵を描くと言う事だけで考えたら、絵を写しながら勉強する方が、普通であろうし、効果的であるのは当然だ。経済効率を優先するのが、この時代だから、自己探求などという、効率の悪い方法より、他人の絵から勉強するのが、当然の流れになる。これが行き過ぎると、和田氏のように、さらに効率を上げようと、ほぼ盗作と言う事にいたる。しかし、日本の工業製品がよく言われる。根本的な技術は海外に依存し、工夫の方で出し抜く。正に絵もこのやり方と言う事になっている。だから、写生をして自然から自己探求など、古臭い精神主義と言う事になっている。

自然に向かい合い、そこから自分の絵を探ろうと言う、在り方。これはある意味修行のようなものだ。座禅の世界と遠くない。だから、絵を描いているのか、自分を探っているのか。渾然一体としている。写生に行きましょうと言う、気楽な楽しみだと思ったら、とんでもない苦行の世界と紙一重。だからこそ、1人でやるのは良くない。「座禅は1人でやるのは良くない。」こう師山本素峰先生が言われた。とんでもない所に行っていても、気がつかない者が居る。こう言われていた。私の事をそう思われていたのかもしれない。ゴッホや、セザンヌはそうじゃないだろうか。絵画は病的な世界であるが故に人を打つと言う場合が、案外に多い。時代の病気に先行していると言うような、評論家的な意見もあるが、人間は多かれ少なかれ、偏ったものを内在しているから、ここに響くのだろう。

孤立せず、ともに探求すると言う事を、忘れてはならない。今回も多くのものを学ばせてもらった。すばらしい絵を見せてもらえた。私も描けないような絵を描かせてもらった。28名がそれぞれに素晴しい。苦闘していて、一歩も前に出れない人も居る。一日目と2日目で、全く別人のように何かを発見した人もいた。何故そうした事が起こるかといえば、ともに学ぶからだ、と思う。春日部洋先生と描きに行くといい絵ができた。先生から良い絵を描かせる電波が出てくるなどと、冗談を言っていたが、不思議な体験を良くした。春日部先生は、写生に行くと、描く場所を探してばかりいる。だから、大抵は前日から行って場所探しをしている。それで、笹村君きみが描く場所を探したよ。などと場所を指定してくれる。そんな親切な先生が居るだろうか。安心して、ただ描いた。そのことから学んだ。一人でも参加者が居れば、写生世話係りぐらいは続けてゆくつもりだ。
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ダライラマ

2008-05-30 07:33:37 | Peace Cafe
インドでの聖火リレーはどうなるかと心配したが、報道の範囲では、平穏なデモだった。ダライラマのチベットの騒乱状態に対する対応は、宗教者らしい見事なものである。この度渡米途中に日本にも立ち寄り、インタビューに対するコメントも、立派なものであった。従来ダライラマの行動および、言動は宗教者と言うより、チベット亡命政府代表の性格が強かった。中国政府批判も、強烈な所があった。1959年からの50年の亡命政権。13万人の亡命チベット人が背景に存在する。しかし、今回のチベット騒乱に対する対応、言動はむしろ宗教者らしい、見るべき変化がある。先ず、あらゆる意味での暴力を否定している。長年インドと中国の政治対立に翻弄される中。学習した、知恵に満ちている。自身のとるべき態度をよく理解している。暴力を否定した後に、チベット人の文化および教育の尊重、自立を求めている。国家としての独立はあえて求めていない。民族としての存在が、文化的尊厳が保障されることが、大切としている。

中国政府としてはここが難しい所であろう。ダライラマ信仰が、宗教として絶対的なものである以上、文化問題と言われても、単純には受け入れにくい。イスラム原理主義を考えればよく分かる。国家を超えて機能する。宗教の自由は保障すべきは原則論としてある。としても、文化の方が、、国家の権力、それ以上に人間をコントロールして行く。単純な正義側として、ダライラマを持ち上げる、ヨーロッパの姿勢は、もう一つアジア世界の理解不足を感ずる。反中国の政治的意図もある。イスラム社会についても、アメリカの理解不足が、戦闘状態の長期化の大きな原因になっている。西欧のキリスト教社会とは、又別の土壌が存在する事を、深く研究すべきだ。もちろん、西欧が獲得した、思想としての「自由とか、個人主義とか、民主主義とか」は、それはすばらしい理想であり、人類共通の成果ではある。だからと言って、それがあらゆる段階、あるいは状況に、即応することが平和につながるとは限らないこともある。

青蔵鉄道の完成が、チベット民族の危機意識に繋がっているのではないか。漢民族は経済的人種だ。世界の華僑の進出を見ればよく理解できる。生活圏を求めて、何処にでも進出する。チベット自治区に青蔵鉄道が通った、一番の目的は、中国政府のチベット人の軍事的支配にある。と考えるのが自然だ。同時に、インド、パキスタン、の国境線警備を目的としてだろう。2006年に全線開通した。開通して起きたことは、漢民族のチベットへの、ラサへの進出らしい。資本力の違いから、チベット人の経済支配が起きてきている。青蔵鉄道に伴う観光産業は、漢民族が大半を牛耳り始た。そこにチベット人の危機意識が、高まって来たのだろう。日本も同様の事が、起きて来た。拝金主義の蔓延だ。伝統的価値観の崩壊。チベットは経済的支配を受けるだけでない。チベット人の中に起きている。精神的崩壊の現象への危機感の高まりではないか。ダライラマを忘れて、金儲けに走る青年層が現われ始める危機感。

ブラジルでは、若年層の自殺者の増加が言われる。原因はもちろん多様ではあるだろうが、伝統的価値観の崩壊、アメリカ式のグローバリズムの蔓延。ついて行けない、青年が精神的なダメージを強く受けているらしい。チベットで起きていることも、同様の背景を感ずる。過去にもどれとか、ダライラマ的世界が全てであるとは思わない。段階を踏みながら、人権とか、民主主義とか、西欧の獲得した人類の成果を、受け入れるべきだと思う。中国政府が今行っている事は、きわめて危険な綱渡りに見える。無理やりの経済成長の間は、問題の顕著化は起きない。一段落したところで、国内的にも混乱が起きると思われる。今チベットで起きていることは、中国全土の問題である。中国政府としては、ここで対応を誤ることは、国家の大混乱に繋がる。当然日本にも波及することだ。食品汚染でも見せている、中国政府のかたくなな態度は、そうしたことも含めた、深刻な事情の反映と思える。

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砂浜の喪失

2008-05-29 07:40:12 | 環境関連
湘南海岸では、砂浜の喪失が続いている。昨年九月の台風9号で、大規模な海岸浸食が起こった。西湘バイパスが6キロにも渡り崩落した。今直再建工事が続けられている。この付近は砂浜が、50m巾で存在していた。原因の調査結果が報告された。そこでは今回の西湘バイパス崩壊を人災と断定したそうだ。砂浜が形成されるためには、常に川からの砂の補給が必要である。相模川と、酒匂川の上流部に、ダムを作った事で、砂の補給が止められ、砂浜失われた。西湘バイパスが作られた。1964年に建設された時には、まだ充分に砂浜が存在し、まさか波に橋脚が洗われるように成るとは、想像もされなかった。所が、1960年代の酒匂川上流部に三保ダムの建設。1990年代の相模川上流部に宮ケ瀬ダムの建設。この頃から砂の補給が止まった。砂の補給のなくなった海岸部では、徐々に砂濱が失われてきた。

そもそも、海岸ほど素晴しい景観財産はないと言ってもいい。日本の景色の美しさは、海岸によって形成される。日本三景は丹後天橋立、陸奥松島、安芸厳島、と決まっている。それを、崩壊して来たのが、日本の近代化だった。いつの日か海岸の復活の日が来るだろう。山には杉の植林、海岸には道路。愚かな事をしたと笑われる時代が来るに違いない。砂浜というものが見えないが、大きな役割を果たして来た。ラムサール条約では、干潟たの価値をうたい、人工的であれ、回復を目指している。それは水際というものが、開発の危機にたたされていると言う事でもある。生き物にとっは、最も豊かで、多様性が保障された場所。ここだけは、人が手を加えてはならない場所であった。

「岸辺のアルバム」と言う山田太一原作のテレビドラマがあった。岸辺とは、AからBへの移行の境界線をあらわしている。時代の移り目であり、精神の岸辺の事だろう。陸地と言う自らの存在がよって立つ場から、海という果てしない未知へ。人はいつもその瀬戸際に立っている。未知への、未来への憧れであり、大地と言う安定した場所での、存在の根拠。心の岸辺。絵を描くと言う事は、岸辺を見つめると言う事だ。見つめるより、眺めるの方が近いかもしれない。この大切な岸辺を何のためらいも無く痛めつけて来た日本と言う国家。経済だけの開発行為ほど精神の奥底を揺るがしてきたことない。砂浜など、何の生産性もない、無駄な空地としてしか見てこなかった。見て来れなかった国。海岸線に道路を張り巡らした、ことの愚かさをしみじみと感じなければならない。便利さとか、経済効率で、失ってきたものの大きさ。

砂浜の復活。千葉県の堂本知事は三番瀬干潟保存を掲げ当選した。その結果三番瀬干潟の保存が計画された。三番瀬再生事業として、千葉県が策定した手法が、今度は環境団体から猛反対が起きている。又一方にはこの反対運動のまちが絵を指摘する、環境団体の動きもある。猫実川河口域の全面的埋め立て方式に対する、問題提起がされている。いずれ、土の手法がまさるのかは、一概に言えないが、壊してしまった自然の復元は極めて困難なことだ
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移民の事

2008-05-28 04:09:22 | Peace Cafe
移民する気持ちを想像して見ることがある。海外への憧れとか、現状からの脱出。しかし、その移民しようと言う本当の所の気持ちが、うまく想像できない。私が鈍いと言う事もあるだろうが。移民を送り出した状況と、現状が違いすぎている。何故、移民を選択するのか。それについては当時の、追い込まれた農村の置かれた立場の説明が普通される。これについてはリアルに想像できるつもりだ。農村の2,3男のことは、映画「大日向村」で和田傳氏が実感を込めて書いているところだ。その生の陰惨な感じは、実感としてわからないつもりはない。しかし、日本政府の行った移民推進政策は何だったのか。どうも整合性が無く。移民と日本の覇権的帝国主義や天皇制とは、どう関係してくるのか。もう少し民俗学的、民族学的に、日本人と言うものを考えてみないと理解できないのかもしれない。

アメリカ移民は特に関心がある。それはサクラメントに行った親類があると言う事も原因している。ドミニカ移民の地獄のような事例もある。移民と言うより、棄民だ。結局今になって政府は謝罪したわけだが、何故こうした事が起こるのか。耕地がないから、対策として移民、この発想の安易さにあきれるばかりだ。耕地がないならない成りに、地域開発は幾らでもできたはずだ。たぶんそれだけではないな、と言う感じがしているが、まだ分からない。わからないからなおさら、気になって仕方がない。

96歳の現役監督と言う事で、注目されている、新藤兼人氏。この人の書いた、北米移民「ある女の生涯」は、解らないながらも少しその本質を知る事ができる。監督のお姉さんがアメリカに嫁いだのだ。まるで私の祖母の妹さんと同じ状況だ。読んでいて身を切られるようだ。実にすごいものだ。最初に新藤氏がアメリカに行った時の報告として、様々事情はあるが、持参金で家族を助けようとして、アメリカに嫁いだと書いてある。しかし、それを読んだ姉が、二度目にアメリカに記録映画を撮りに行った際の、最後の言葉として、それは間違いである。自分の家は娘の持参金を当てにするような、落ちぶれた家ではなかった。必ず訂正して欲しいと、語って死ぬ。家というものが今とは違う重みで存在している。

満州の移民がある。佐久の大日向村の話が、興味深い。国策で分村した村だ。戦後満州から軽井沢に移り、再度の開拓を行う。その開拓地も今は、農業を継続している人が、兼業農家で一軒と言う事だ。農村の悲惨を生み出したのは、明治以来の富国強兵だ。産めよ増やせよ。と言う標語があるくらいなのに、何故、移民政策になるのか。そして、何故、簡単とも思えるように移民を選択してしまったのか。長野県は全国で一番満州への移民を出した県だ。これには長野教育界の問題や、当時の商業資本による、農民の生活支配。等外部的問題も大きいだろうが、閉ざされた村からの、農民誰しもがもつであろう、新天地へ脱出願望。山村特有のものがあるのか。この辺りが私にはよく想像ができない部分だ。国策がどうであれ、騙されて行くとしても、騙される下地のようなものが、ないはずはない。

分村がおおなわれた当時大日向村の詳細な調査によると、他の長野県の村と比較すると、ほぼ中堅の村であり、困窮を極めたが為に移民政策がとられたという、結論とは異なる所があるのだ。困窮だけが原因なら、さらに困窮していた村は幾らでもあったわけだ。この村に何らかの力が意図が、働いていたようだ。どうも、この村の堀川と言う人物の影響が強いらしい。もちろん簡単な推測は出来ない。移民の背景に地主階級の土地飢餓に対する不安。これは、和田傳氏の盛んに書いたところだ。そもそも和田傳氏が農村の状況を、実に肌感覚で理解をしていながら、何故、大日向村という国策映画に協力して行くのだろう。和田傳氏は確かに、困窮する農民の側から書いている。しかし、映画は満州の農民の事には及ばない。何か抜け落ちた空洞を感じる。もっと考えてみなければならないことが、移民問題の背景にはある。
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養鶏業の先行き2

2008-05-27 06:15:48 | 自然養鶏
淡々と御説明されれば良いことでしょう (田蒸)と言うご意見がありました。そこで、もう少しこの事を考えて見たいと思う。確かに淡々と説明はさせてもらいました。それで終わったことであれば、いいのですが。なかなかそうも行かないのではないか。そういう不安が何時までも続いている。私が養鶏をやっている場所は、借りている土地です。2反ほどあります。10年契約で借りています。農地でありますが。標準小作料よりは、だいぶ高い価格で契約しています。それは養鶏業を続ける場合、借地で続けることは、不安があるからその分の上乗せです。農地を借りる場合、いつでも返す条件が契約に入っています。農地の性格上小作権が生じる貸借では、なかなか契約が成立しないため、行政が利用集積と言う形を提案し、安心して貸せる方法と言う事で、これで地主さんにお願いして借りております。借地での養鶏が、いつも不安な事は、ここにあります。地主さんは地域の方です。地域での養鶏業に対する不安が出てくれば、地主さんとしては、契約解除したい、ということはいつでも在り得ることです。

私の場合は、養鶏業は60歳までと考えて、やっておりますので、あと1年ですから、そうは不安はないのですが。これが始めたころであれば、不安はさらに強いものであったろうと思います。実は、農の会の友人の相原さんが、以前私の養鶏場の隣で、豚を飼う実験をさせてもらうことを、舟原自治会に申し出たことがあります。地主さんは了解してくれました。相原さんは舟原のさらに奥で、養豚のための土地の購入が進めていました。突然買って始めるというのでは、集落の人も不安であろうから、先ず、2,3頭飼って、どんな養豚か見てもらうと言う、計画であった。自治会長さんには、説明していいことだから協力すると、言ってくださり進めた。予定地も大変な苦労をして、きれいにして準備をした。正月の集まりで、突然自治会長さんが皆さんに話しをした。簡単な話の後、挙手で多数決を採った。反対となって、あっけなくやれないことになった。

今彼は、南足柄の苅野で、立派な自然養豚をやっている。舟原で出来なかった事は、今でも申し訳のないことだったと思っている。自治会で何かを決めるルールと言うものがない。突然養豚をやって良いか。と言う話が出て、充分の説明も無ければ、拒否になることは目に見えている。墓地が出来るとか、廃棄物の処分場が出来るとか。迷惑施設の建設のようなことですら、近隣住民の合意と言うことが、自治会長の承諾で済まされることがある。所が自治会での合意形成の手順が決まっていない。私が気になるのはこの点だ。地域での合意形成が、見えないところで決まるのは良くない。全てを法律に従う、と言う意味ではない。この地域のありようをみんなで話し、みんなでこの地域を作り上げていくような姿が、必要だと思うのだが、そんなことを言うと、めんどくさい奴だと言う事に、たぶん成るだろう。この地域にはこの地域の昔からのやり方があるのだ。こう言う事だろう。

鳥インフルエンザのことを説明する事は、実に困難です。農水省の検討委員会でも明確な説明が出来ないくらいです。感染原因は不明確な推測の範囲です。国連のWHOの展開予測も全く外れています。学説も様々です。新しい見解もどんどん出てきています。洞爺湖サミットなど開けないだろう、こう言った政治家すら居るのです。分からない事が差別に繋がるのは、エイズやライ病の隔離でもありました。私は大規模養鶏を止める以外に道はない。こう考えています。ヨーロッパではその方向です。日本の大勢は、むしろウインドレスの管理強化を目指しています。これをウイルス学から、免疫学に及んで、説明して、分かってもらうというのは、ちょっと無理な所があります。やるべきとも思えません。この辺が気が重くなる原因です。ただ、昔はなかった病気が何故出てきているのか。昔のように、家畜と人間が混在して暮らす事が、なぜできないのか。むしろこのあたりの事を、じっくりと話してみたいところです。

昨日の自給作業:草刈1時間  累計時間:36時間
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養鶏業の行き先

2008-05-26 05:20:05 | 自然養鶏
先日、舟原の自治会長と、副自治会長がお二人で突然訪ねて見えた。組長会議で、私のところの養鶏について、話が出たので、状況把握に見えたと言う事であった。「鳥インフルエンザが心配だという、意見が出たので話を聞きにきた。」そういうお話であった。そう言う事なのか。養鶏をやると言う事は、このような農村地域でも、そんな捉え方になってきたのかと。暗い重い気持ちになった。鳥インフルエンザの報道のゆがみや、最近の北海道の白鳥の感染などで、神経質になっていると想像される。状況把握に見えるというのは、そうなのかと、受け入れるしかないが、養鶏業を生業としている者としては、なんともやりきれない気持ちになる。自分の仕事は地域の人を不安にしてまで、やっていることなのかと思う。舟原は市街化調整区域である。小田原の地域割りとしては、農業を振興してゆく地域となっている。現在、里地里山地域としての認定を行うために協議が続けられている。

小田原は徐々にではあるが、人口の減少が始まっている。この先の国の機関の予測では、減少が強まると見ている。それに伴い労働人口は加速的に減る。地域の農業はいよいよ基盤を失いそうな情勢だ。話しに聞くところでは、舟原ではついこの間まではどの家でも、鶏を飼っていたそうだ。集落の中で飼育していたそうだ。そんな地域でも、養鶏はいまや嫌われ者になっている。話の中では、騒音の事や、臭いの事、土壌汚染の事、排水の問題。あらゆる畜産公害の話に及んだ。と言っても、自治会長も、副自治会長も、畜産について、特別な知識があるわけではない。マスメディアや、近隣地区での畜産のトラブルなどが、前提になっているようだ。そうも言われていた。私はこの地域に移って10年養鶏をやってきた。そのことはご存知の訳だ。いつでも見ようと思えば見れる。特別の問題をおこしたこともない。にもかかわらず、心配になっている。鳥インフルエンザの情報の出方が、間違っている。野鳥の白鳥が感染しているのであって、養鶏場には何の心配もない。白鳥全てを淘汰できない以上。どう折り合いをつけるかしかない。この辺りには白鳥はこないので、心配はない。

嫌がられてまでやることかと、がっかりしている。この地域に移っての10年の努力、50年を越える自然養鶏の研究は、地域の人に嫌がられる結果になってしまったのだろうか。寂しい事だが、そんな社会になってきたと思うしかないのだろうか。この地域でも当然大半の人が、たぶん全ての人が、勤め人だ。専業の農業者は居ない。この地域を守ると言う事は、農業を続けると言う事のはずだ。そう考えて、出来る限り農業を広げてきた。管理している農地も久野地域で1ヘクタールは越えている。誰かがやらなければ、荒れてしまうと考えての事だ。そんなに広げたくは無かったが、荒れるよりはと考えて引き受けてきた。農業地域は全体で維持される。一端竹薮が広がり始めれば、一部で農業を続けることは、極めて困難になる。害獣があれこれ悪さをする。農道や水路の維持も困難に成る。

舟原に新しく出来るのは、建設業の作業場だ。農村地域の調和を壊して、出来てゆく。農業が弱い産業になっているからだろう。しかも、そうした作業場には許可のたぶんない大きな建物が建てられている。しかし、推測だが、自治会でそうした建設許可について、状況把握をしているようでもない。藪になって荒れて行くよりはましだろうと聞いたことがある。それもそうだと思う。人が減ると言う事は、建設業だって、何時まで増えるかは分からない。世界情勢を考えれば、食料の増産は日本の緊急的要件だ。さらに、地域の暮らしを考えた時、農業は止めるわけにはいかないのではないか。養鶏業としてはもう何時まで継続できるかと言う段階だが、自給農業の永続性のある形は何としても、研究を続けたい。必ず意味が出てくる。その中にはどうしても鶏は必要だと考えている。しかし、地域の人の意識も変わってきている。その中での調和を考えなければ、循環型の自給農業もできないと言う事か。

昨日の自給作業:ガジュツの植え付け。ピーマン苗の植え付け。1時間 累計時間:35時間
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二宮金次郎

2008-05-25 07:01:22 | 
最近必要があって、二宮金次郎を再読している。色々の人が、二宮金次郎の事を書いているが、和田傳著のものを読んだ。本を読み出すと、連鎖的であれもこれもとなってとどまる所がない。しょうがないので、同時並行的に読んでいる。和田傳氏は大きな著作集が出ている。その内3冊だけは持っている。この人なるほどこのあたりの農民の事をよく知っている。もう少し研究したい。最初に和田傳氏を知ったのは、「鰯雲」と言う映画だ。あっと言うような懐かしい景色で出来ている。となりの秦野や厚木の話だけれど、足柄平野の戦後の空気もそのままの想像される。それは又別の事だけど、この人が二宮金次郎を書いたらどう書くのか。強く興味が湧いた。菜種の栽培に、実の揉みごろということが書いてある。分けなく8升の菜種をもめるらしい。当時油絞り屋さんがあり、8升の菜種の実を持ち込むと、一升5合の油に交換してくれる。こんなことが書いてある点に興味が行く。

私の栽培の経験では、畑で着ていた半てんを広げて、手で揉むと言うのは驚きだ。短時間で8升揉めたというのは、正にその丁度の状態であり、天候の乾きも適切であったはずだ。初めての栽培で、それが見えたというところに、二宮金次郎の類希な、観察眼を感じる。菜種は簡単にはじけてしまう。早めに刈り集め、ハウスで弾けるまで置くのが私には実際的だ。油やと言う屋号は聞くから、油絞り屋さんがあっただろうと思っていたが、実を持ち込めば、その場で油に交換してもらえたのだと言う所が、和田傳氏のなるほどと思える見方だ。金次郎は、その油をその場ではもらわない。つまり今頃の5月の時期には油はもらわない。農閑期の冬場まで油屋さんに預けておく。時間が取れる時に本を読むための油だから、早くもらえば腐ってしまう。ともかく和田傳氏は農業が身に付いた人だと言う事が分かる。

しかし、この人の文学は農民文学という枠とは違う。身には付いているが、農民ではない。私が朝市で「お前が畑をやっているわけがない。」こう言われたように、地べたの空気が違う。吉野せい氏とか、長塚節氏とは立つ位置の感触が違う。このあたりをもっと読んでみたい。これは、自分の立脚点とも関係してくる部分だから。「自給農業、市民農、」のありようが不時着地点として、いくらかの平地があるのか。市民農が平和な暮らしの基盤だという、単純な図式を、再度見直さなければ始まらない。おかしな見方だが、和田傳氏は現実主義者だ。鋭い観察眼ではあるが、どうも理想がない。理想では不確かだが、思想がない。何処へ向かうかの方向性がない。解きほぐしてくれるが、指し示してはくれない。

二宮金次郎を何故再読しているかと言えば、足柄地域の再建は二宮尊徳の作法を、加藤憲一新市長は念頭に置いていると思われるからだ。加藤氏の主張した、市民参加の思想の背景には、尊徳思想を感じる。いわゆる近代的な市民自治とは肌合いが少し違う。選挙戦では、彼を赤だといって批判した人がいたが、市長になれば、今度は保守反動だと言う批判を受ける可能性がある。もちろんどういった批判も勝手ではあるが、彼の目指すところは、知っておく事は重要だと思っている。軍国主義に利用された、二宮尊徳の形がある。地域再生家としての二宮尊徳の形もある。この辺の複雑さと、加藤新市長は重複してくる所がある。私としては、農村再建の達人としての、尊徳をもう少し研究してみたいと思っている。
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中国での国際緊急援助隊

2008-05-24 06:15:33 | Peace Cafe
5月5日ミャンマー南西部を襲ったサイクロンでは、デルタ地帯を中心に不明22万人、死者6万~10万人(国連推計)の大きな被害を出した。被災から3週間たった今も最大250万人が避難生活を送っており、必要とされている食料や水、テントなどの緊急物資の2割も被災者には届いていない。軍政は各国からの物的支援は受け入れてきたが、人的援助は友好国の中国、インド、東南アジア諸国連合(ASEAN)加盟国などの数カ国に限定し、各30人までしか受け入れていない。
日本の「国際緊急援助隊」はJACAに所属する。理事長は国連で活躍された緒方貞子氏だ。独立行政法人と言う事であるが、日本の憲法の精神に従えば、防衛庁が省の昇格するより、このJACAが省になった方が相応しい。JACAの基本理念「人間の安全保障」の考えとは、人々が安心して生活できるような社会づくりを行うための枠組み。としている。

緒方貞子(現JICA理事長)、アマルティア・セン(現ハーバード大学教授)の2人を共同議長とする「人間の安全保障委員会」が作成した報告書では、「人間の安全保障」を「人間の生にとってかけがえのない中枢部分を守り、すべての人の自由と可能性を実現すること」人々の脅威について、同政策では、紛争、テロ、犯罪、人権侵害、難民の発生、感染症の蔓延、環境破壊、経済危機、災害といった「恐怖」や、貧困、飢餓、教育・保健医療サービスの欠如などの「欠乏」を挙げています。今回アジアであいつだ。大自然災害では、国情の違いから海外からの人的援助の受け入れをためらう機運があった。何故こういう不幸なことが起こるのか。日頃の付き合い方が悪いためだ。地域でも近所隣との付き合いは、簡単な事ではない。まして国情の全く違う国が付き合うわけで、信頼感を形成する努力が、されていなければ出来ないことだ。

大災害時に日本の援助隊なら受け入れる、こう言われるような国に日本は成らなければ、日本の安全保障はない。これも憲法で目標にしたことだ。武力によらない国際紛争の解決を目指すとは、そう言う事ではないだろうか。ミャンマーといえば、「カチン族の首かご」「ビルマの竪琴」を思い出す。いずれも日本が武力進出した歴史だ。どれほど迷惑をかけたことか。中国でも同じことだ。日本はこの機会に、お手伝いさせてもらわなくてはならないはずだ。それが上手くできない。アメリカの手先の軍事大国となっている状況では、アジア諸国が、喜んで受け入れてくれるのも難しい。実に残念な事だ。

ミャンマーの軍事政権の考え方には、国民の人権の観念が乏しい。一般に軍事政権は国民を武力によって統治している為、国を形成する基本に人間が存在しない。観念的な国家体制というものが絶対であり、その従属物としての人間である。民主主義が成立する基盤がないことになる。そんなことは各国の独立した問題で、諸外国が云々する問題でない。わが政権が国民に幸せを与えているのだ。こう考える事になる。これは、明治政府もそうであった。江戸時代の方が古い時代だから、人権の評価は当然弱い。こう考えるのは違っている。江戸期の日本では人権思想はないが、違う形の人間思想はあった。明治の富国強兵政策に基づく、国民への圧迫は天皇の存在をも歪め。列強の伍しての覇権主義。そこに関東大震災が起こる。そのときに起きた。朝鮮人の虐殺。人間はこうした悲惨を乗り越えなくてはならない。明治日本をそうした国にしてしまったのは、当時の列強の覇権主義だ。アジアで植民地化されないためにはそれしかなかっただろう。そんな思いが、ミャンマーにも今あるのだろう。

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市民自治に向けて

2008-05-23 06:12:27 | Peace Cafe
今回の市長選の結果をいかして、市民自治に向けて市民が動き出す、大きなチャンスをもらった。小澤市長も市民参加を主な主張にされていた。市民が主人公のキャッチフレーズは、加藤氏の専売特許ではない。この点に前市長の市民参加建前も偽りでは無かったと思う。実質的に市民が主体的に動き出すことと、市行政とのかかわり方が、上手く機能をしていなかった。このあたりの考え方に問題だった。場合によっては動き出した芽を摘んでしまうような事が、現実には起きてしまった。何故そうした事が起きてしまうのか。市民のごみ広域化の取り組みで、経験したことを考えておく。久野では、ダックの産廃焼却施設の問題があった。県との行政裁判までで行い、やっとダックの焼却施設は無くなる。このとき中心になって動いたの組織が、「久野の環境を守る会」だ。

この会は現在は特別な動きをしている訳ではないが。諏訪の原の最終処分場拡張問題。瀬戸建設の焼却施設の建設。荻窪と境で行われている、廃土場の取り決め。ことがあると、動き出す力を保持している。この会でも、小田原市の焼却施設については、一定の関心を持って、県の提案するごみ広域処理を研究してきた。市の環境課とも何度か話し合いを持った。当初は市の側も一緒になって考えましょうという、姿勢だった。市民のとともに考えなければ、ごみ問題は解決できない。こう考えていた。所が、1市3町そして県が加わり、広域検討組織が小田原市役所内に出来て、検討が進みだしてから、市民を排除する方針に変わる。これは行政答弁の中で、副市長答弁で迷惑施設の建設では、行政が責任を持って、計画を立てる。これを市議会に先ず伝える。その後アセスメントで、市民の意見を聞く。このような手順を答弁し、計画が完成するまで、市民には一切情報を出さない方針を表明する。

市民自治であれば、ナポリのようにごみが散乱して、大混乱が起きる。こう考えた。確かに小田原でも有り得る事だ。市民は身勝手で独善ばかり言う。君子厨房に入らず。ごみのような嫌なものは、見えないようにして置いた方が良い。それを長い行政の経験から割り出したのだろう。実はごみが散乱してから学んだ方がいい。身勝手が、どんな結果を生む紙を持って知るべきではないか。市民自治には、市民の責任がどれほど重いものかを、学習してゆく仕組みが必要だ。行政が要領よく、最善と思われる結論を、提案してしまうのでは、何時になっても市民参加の市政は生まれてこない。ごみの広域処理の問題を通して、市民自治の重さを学習することが、一番の目標ではないだろうか。市民の意見は多様で、とりまとめなど出来ないほど混乱するだろう。その混乱した話の整理係。法的な情報提供。財政的確認。県、国との調整。これが行政の役割。

市民がごみをどうするか考える所が、出発点だ。これがないなら、これを育てるのが、行政の役割。市議会の役割は何か。議員としては、広域ごみ処理問題が、国が提案した時点で、いち早く情報を知り。市民に知らせる役割が主要。ここには何が重要かを判断する、思想や方向性を持って市民をリードしてゆく見識が必要。そしてその問題に対して、行政が市民に開いた形で検討を進めているかに、特に目を光らせる。いずれにしても、市民がごみをどうするかを考える事から始まる。市民が行動を始めない限り、誰も何もしてくれない。こういう形が、目に見えるほうが良い。市民自治が進んだ地域の方が、地域が良くなって行く。行政の仕組みがこうなって始めて、市民の市民自治学習が始まるのだろう。
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縁台を作る

2008-05-22 06:22:22 | 身辺雑記
この家に越してきたときから考えていた縁台を、10年経ってやっと作った。何度か取り掛かろうというところまで進んだ事もあったが、何やかやで後回しになり、立ち消えになり、もう作れないのか、などと思っていた。それを昨日、ついに作った。最小限の家の半端材が沢山出ていて、縁台に丁度良い材料が出ていた。ためておいたのだが、165センチの長さの縁台が、2台取れるだけ貯まった。巾は60センチだ。2軒の軒先に突き出して外廊下のように置けば、蓮池を眺めるにもよかろう。朝から半日時間が取れたので、急に取り掛かった。何しろ時間はかけていたら延ばす事になるので、半日で2台作ってしまう予定で始めた。1時には終っていたので、4時間で出来た。速さだけならプロ並のスピードだ。板も足の角材も。すべて、この場に生えていた、檜であるという所が自慢だ。

急いで作るからと言って、すぐ壊れるものは困る。頑丈な物にしなければいけない。だから、持ち上げるのにも困るような、重いものになる。かんなは持っていないし、持っていても使えないので、作ってから紙やすりをかけて仕上げる。接合部分の木組みは一切出来ないのでない。それでも丈夫にしたいので、見苦しいが当て木の組み合わせで作る。釘よりしっかり固定できると言う事で、全てステンレスのネジくぎ。「SUS XM7 コーススレッドスクリューW 65」と書いてある。サスくぎとか呼ぶこともあるようだ。これを先日購入した、インパクトドライバーで、ガンガンとめる。これなら技術もヘッタクレモない。誰がやってもしっかり接合できる。何しろもう3年もたつ、枯れ切った、節だらけの檜だから、下手をするとねじ切れる。

見た目としては、いかにもその辺に転がっていたあまり板を、寄せ集めて作ったな、という風にしたい。事実そのとおりなのだが、そう見えるようにするにはそれはそれでデザインである。それは場合によってはこの縁台が、朝市などの飾り棚に使えないかとも考えている。この上に野菜などが並んだ時に、なかなか農家風に見栄えがして欲しいと考えての事だ。農家の縁側に、野菜が並んだ感じだ。もちろん今時、そんな縁側のある農家はめったにない。それだからこそ、縁台に郷愁がある。これも団塊世代以上の事か。感じは成功したと思う。それでも持ち運べるものでなければ意味がない。餅つきのときに周辺で座りたい。田植えのときの弁当を食べる椅子にしたい。実際にその目的に、使うことはめったにないのだが、年に一度の事に備えておきたいと、思って作る。

縁台は机と較べて難しい。体重をかけてぐらぐらゆすっても、びくともしない風にしたい。天板と同じ材の10センチ巾のものを2本通した。それに裏から天板に向けてサス釘止めだ。天板に釘が見えないでしっかり止まる。その通した板に足を止める。あてがい板を使う。この辺が不恰好だが、しっかりさせて簡単な作業となれば、これしかない。その辺に雨ざらしにしてあった板だから、形が出来たらば、サンドペーパーで汚れ落としだ。ドリルの先に付ける、円盤状のサンドペーパーがある。ゴムのあてがいがあって、案外使える。ペーパーをかければ見違えるほど立派に成る。しかしあまり完全に磨く必要はない。製材のノコメが少し見えるぐらが、農家レベルだ。出来上がったら、キヌカを塗る。こうしておけば、感じ良く古びる。日に日に色変わりして、いいグレーになる。制作費は釘代の1000円だけ。釘も板が切り終わってから、もう開いただろう店まで買いに走った泥縄方式だ。

昨日の自給作業:赤じそ、青じそ、種蒔き。草取り。トマトの植え付け。2時間。 累計時間:34時間
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後期高齢者医療制度

2008-05-21 04:56:09 | Peace Cafe
お金がないから、よほどの事でなければお医者さんにかかれない。そんな気持ちが普通の感覚だった時代の記憶が私にはある。医療がよくなり、寿命もぐんと伸びた。悪い事ではない。しかし、いつか死ぬ事は、忘れているだけだ。
後期高齢者医療制度は、考え方の基本が間違っている。せめて死ぬ時ぐらい、普通でありたい。特別な事はいいけれども、人間らしく死を迎えたい。人間は誰であれ等しく死が待っている。それは大変不安な事だが、せめてその死に至る場面だけは安心なものでありたい。こう言う事が、平和に暮らす基本的用件でないだろうか。そう考えれば、後期高齢者の医療は無料である。そんな誰にとっても医療の平等な社会を目指すべきだ。ここまで受益者負担の考えを持ち込もうとした、小泉内閣の悪政のひとつが、今現われている。

まず、医療制度を考える上で、年齢で75歳を別けたことが、いかにもおかしいではないか。75歳ともなれば、それは人間の体の状態は、千差万別だ。三浦雄一郎氏のようにエベレストに登ろうとする人も居る。100歳で元気に働いている方も居られる。残念ながら、75歳を待たずに死んでしまう人もいる。医療分野で分けて考えるなら、終末医療の問題として考えるべきだ。医療費を低く抑えるには、人は必ず死ぬと言う事を受け入れるしかない。現在の医療は、何とかすれば死なないものと考えている節がある。それが昭和天皇の終末医療の姿だ。暮れのうちでは社会が困るだろうと言う事もあったと思う。正月三が日を過ぎての事となった。血液型がきわめて近い人を選び抜いて、輸血を続けたらしい。確かに社会生活の事を考えれば、そう言う事もあったかと思う。何か昭和という時代らしい死に方だと感じた。しかしお金はかかったとおもう。いわゆる社会的経済的損失と言う事からすれば、暮れの内は困る、というのもなにやら死に方としては、等しくない哀れがある。死ぬまで止められない仕事というのも、やはりおかしい。もし国民が等しくこんな医療をしていれば、いくらでもお金がかかるだろう。こう言う事は止めようというのが、終末医療の基本だ。

従前の医療制度では、自分の子供が加入している健康保険に被扶養者として加入していれば、お年寄りの健康保険料は事実上無料。それが、年金支給額が月1万5千円以上の後期高齢者すべてから年金からの天引きで保険料を徴収する。平均で月6000円。加えて、平均で月4000円の介護保険料の負担もあるから、軽減措置がなくなると、毎月1万円程度の保険料が年金から天引きされる。後期高齢者はいままで通り、医療費の1割を自己負担しなけれならない。(現役並み所得者は3割)。1割と言っても高齢者が入院した場合には莫大な医療費がかかるから、その負担は非常に大きくなる。もちろん、自己負担には毎月4万4400円という負担の上限がありますが、この負担限度額についても、今後大幅な引き上げが予定されています。しかも、現在でも食費と光熱費は保険の対象外で、全額が自己負担になっています。つまり、高齢者が長期入院すると、毎月の負担はいまでも10万円近くなる。

医療費を低く抑えるには、健康管理だ。健康な人をどうするかを考えた方がいい。24時間働ける体とか、叫んで。サプリメント飲んで、元気が爆発するドリンクを飲んで、それでも働いて、身体も心も病んで、医療のお世話になる。ここがおかしい。こんな社会のあり方を変えてゆくことが、医療費の問題に繋がる。「カラダの見張り番ネット」というのを東芝が始めた。東芝の健康機器を購入すると、そこに記録されたものが、ネットで集計される。それを見てくれる医療スタッフが居るという形だ。このシステムを地域医療でやるべきだ。街の各所にこうした機械を設置する。市役所や医療施設場所によっては公民館。歩いてゆける範囲に、必ずあるようにする。市民は健康カードを持っていて、何処でも差し込んで、機械に乗る。そうすれば、いつも状態が記録される。急な変化やメタボ健康指導が入る。こうしておけば、医療費は間違いなく減る。年に一度の健康診断などより、はるかに病気の早期発見の可能性が高まる。病気になる前に分かれば、医療費はかからない。初期なら費用も安い。しかも、どこの地域より、安心な街になる。
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小田原の市民自治

2008-05-20 06:29:05 | 里地里山
舟原では時間雨量27ミリの強い雨が降っている。雨降って地かたまる。畑の準備は、今日の雨を目指して、進めていた。種蒔き、植え替え、収穫。今日の雨を予測して進めてきた。昼からは止むらしい。累計雨量では180ミリには成りそうだ。この時期としてはまとまった雨になった。小田原は今回の市長交替を契機に、何処まで市民が動き出せるか。市民自治を目指して、どこまで市民が変われるか。あしがら地域に住んで、20年を越えた。地域の暮らしを深める。このこと一点に進んできた。酒匂川を中心に、ひとつの生活圏を形成する。このことは、加藤憲一さんと出合った頃から、話していたことだ。彼はあしがらをトトロの森のようにイメージしていた。私はあしがら自給圏と言うような古臭い言葉で、考えていた。食の自給にとどまらず、教育の自給にまでいたる。総合的な自給圏構想を話した記憶がある。それは今でも変わらず、あしがら農の会の姿になり、ピースカフェの活動になった。

盛り上げなければならない反対運動も、幾つか経験した。しかし、反対の結果は、それが無く成るというだけだ。創り出す活動をしなければならないと、考えてきた。それでも、どうしてもやらないければならない、おかしな現実が登場する。嫌だ嫌だと思いながらも、反対の活動に入らざる得なくなる。そうした中でも、自分の暮してゆく形だけは、自給の姿に何処までも近づける。この原則だけは貫いてきたつもりだ。それは、これから考えて、学んでゆかなくてはならない、市民自治の原点だと思うからだ。食べ物の大半を輸入する国家が、何故危ういかといえば、それは生活の根底を失うと言う事にある。人間が生きるという基本に食糧の生産の姿がある。それを軸にした社会こそ、安定した社会となる。それは国単位というより、むしろ地域、流域圏という枠で、そうした食糧生産の循環が作られることが望ましい。

そのモデル地域といえるのが、酒匂川を取り囲むあしがら地域だ。ここに移り住んで以来、そのことをいつも頭においてきた。人間1人の食糧が、100坪の土地で生産することが出来るなら、あしがら地域には、30万人が丁度良い。などと考えてきた。だから人口の減少を、税収の減少からだけ見て、工業団地、企業誘致、宅地開発、人口増加策を模索するのは時代の方角の読み違えだと思う。この地域にくらす人々、一人一人が豊かな暮らして居るという実感は、経済だけではないだろう。庭にトマトを作り、このトマトが食卓を彩る豊かさは、金銭には換えがたいものだ。平和に暮らすと言う事の意味を、そうした暮らしの実感から育てる事。経済の合理性の追求では、押しなべて都会志向になる。1000メートルの高層ビルに暮せば合理性がある。庭など無駄なスペースと言う事になる。しかし、4人家族が、300坪の敷地に自給的に暮す。こうした暮らしが基本にならないだろうか。

市民自治を考える時に、暮らしの根がその土地に根づいていなければならない。この土地に暮らしがあってこその、市民自治だろう。今久野で里地里山協議会が進んでいる。この活動は、県と、市と、市民と、協働の活動を模索している。正直初めての経験で、何処まで踏み込んでいいのか戸惑いながらも、この活動の形こそ、この先重要な方式に成ると考えている。基礎に市民の独自の活動が複数存在すること。その活動が開かれた活動であること。行政は複数ある活動を、連携し、調整する。久野の里地里山事業は、市民と行政がかかわり方を学ぶ、よい機会だ。市民も行政も今までのやり方にこだわらず。久野の豊かな暮らしが、循環してゆくように、本気で取り組む必要があるだろう。小さくまとめない事。参加者を公募する事。この取り組みが、これからの地域のあり方の学習になるに違いないと思う。
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小田原市長加藤憲一氏

2008-05-19 01:51:29 | Peace Cafe
小田原の選択を、市民の決断を、どれほど重いものか、噛み締めている。ついに加藤憲一氏が新市長に選ばれた。3人が立候補していたが、豊島、山田の両氏の得票を併せても、加藤氏には及ばない大差での決着となった。すごく嬉しいにもかかわらず。何か緊張感で眠れない。市民に課せられた、重大な責任に気持ちが震える。いよいよ小田原市民の力が問われる時が来た。今回の市民の選択は前市長小澤氏の相次ぐ失政による所が大きい。小澤氏は4期の市長の間に、裸の王様になっていた。周辺に冷静に進言できる人が居なかったと思われる。批判するものを寄せ付けぬ体制になっていた。副市長の議会答弁などは、市民より、市長へのおもんばかりだけだった。正月には、市職員の市長詣での行列が出来る。せめて、話し合いをして欲しいという、市民の声に対しても、市民の声を自分に心地よい、自治会総連合とか一部の幹部の声を、唯一の市民の声としていた。

あまりの市長の王様ぶりに市民がついに怒った。王様は当然のように後継者を立てた。しかもその後継者の作り方は、自党である自民党の山田氏が自分の言いなりに成りそうもないというので、民主党の豊島氏だ。こんな姿に市民はいよいよあきれた。しかし、いまだ気がつかないのが王様。今回の得票数を全く理解できないに違いない。
加藤氏は理想主義だからいけない。こう発言した、市会議員が居る。裸の王様と戦うのは、理想主義者と決まっている。熟達の、政治屋では、この場には登場できない。加藤氏が今そう見えているのは当然の役回りで、彼の本質は現実主義というか、現場主義者だ。彼は実践してみながら判断してきた。前提の理想があり、それに向けて進んでゆくという人間ではない。今は、必要があってそう見せてきただけだ。つまり必要な風にやれる人間だ。と見てきた。彼はこの4年で実に変わった。彼は地方自治の何たるかを4年間みっちりと学んだ。小田原にとって大きな材料となるはずだ。市民の分析が変わった。

小田原市の抱えている、目前の難問は誰が取り組んでも、簡単なことではない。我々市民は市長に難問解決の全てを、お願いし、お任せしたわけではない。市民の声が届く市政をお願いしただけだ。難問に取り組み解決するのは市民だ。問題解決の方法の学習機会を市民は必要としている。城下町ホールの事もあるが。私が気に成るのは、広域ごみ処理問題だ。市民がどのように参加して、学ぶ機会をもらえるのか。小田原の市民の活動はなかなかのものだ。と言っても、自治会総連合のように、民主主義の何たるかを、全く理解していない組織も厳然としてある。組織が、話し合いをして進める仕組みになっていない。仕組みがないにもかかわらず、上部の一方的な意見を組織の意見として、主張して恥じない。民主主義の志の何たるかを、市民は学ぶ機会をもらいたい。先日も、舟原自治会では、防犯灯の設置希望を申請するように回覧が来た。ものごとを決める仕組みがない中で、なるほどという新工夫がされている。

加藤新市長はこれからの仕事の重さに、気を引き締めているだろう。一市民の私だって、緊張するぐらいだ。このスタートが一番、注目されている。ここで、具体的な行政改革プランを、思い切って出して欲しい。今まで言われてきた事で、充分だと思う。市長に成ったからと言って、特別な事はないはずだ。今までの議論を充分に反映した主張をしてゆくことが、市民の参加に繋がってゆく。市民は加藤新市長を応援している。協力する市民は多数居るはずだ。市会議員の皆さんも、小田原の再生のスタートだと考えて、活発な議論をお願いした。市政の議論が、市民に見えるように、是非とも日曜議会や、ナイター議会を。その前提として、市民が行きたくなるような、深い議論がされるような、つまり城下町ホールのように、肝心な事を見逃す事のないように、研究を深めて欲しい。
今晩は眠れないほど嬉しい。

昨日の自給作業:ニラの植え替え、ニンニクの収穫。2時間。累計時間32時間
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大豆畑の畝たて

2008-05-18 06:02:24 | 自給
大豆の会の作業が、昨日あった。作業日というと雨が降ってしまうまわりで。延び延びだった作業が、昨日やっとできた。丁度半日の作業になった。田んぼの跡に大豆を作っている。雨が降ればすぐぬかるんで、なかなか乾かない田んぼだ。しかもそこはすぐ水が来てしまう田んぼだ。5月末には水路に水が入るので、それまでにはどうしても済ませなければならない。加えて田んぼの準備の方も、その水にあわせて進められているので、気持ちが急いていた。晴天が3日続き、何とかできる状態になった。難しいかなと思っていたが、意外に乾いていた。前より乾くようになって来たかも知れない。大豆は3年目だ。2年間は他より良く出来ている。大豆は案外に難しいものなのに、この田んぼに作る、畦くろ豆の応用法が上手く行っている。やまちの畑で作ると乾燥にやられる。虫がつく。連作障害が起こる。

何故か、田んぼの畦の大豆は毎年出来が良い。連作障害も縁がない。それなら、田んぼを全部畦にしてしまおう。そう考えた。その素人考えが意外な成功に繋がった。少なくともこの2年はとても良く出来た。それでいよいよ、3年目となる。これで出来るなら、安定してこのままやって行ける。昨日の作業は、できるだけ高く、畝を立てることだった。実は、松本さんがその前の作業として、トラックターで全面を細かく耕してくれていた。去年は、畝を崩す作業がはかどらず、難儀した所を、松本さんが平らにきれいにしてくれた。機械はありがたい。何日もかかった作業が、既に終わっている。さらに昨日は、2台の畝たて機が活躍した。1日では終わらないと思っていた作業が、半日で終わってしまった。15人が集まれた事も大きかった。

機械は、松本さんや、大樹さん、海さん、と専門の人が担当してくれたので、私は周りの草刈などしていた。みんなの畑の場合、周りの人に見られていると言う事がある。自分の所なら、まだやらない草刈も、熱心にやっておいたほうがいい。大勢で、機械が掘った溝をさらに、シャベルなどで掘り下げた。大勢いたから出来た事で、少人数ではとてもやりきる気力が出ない。松本さんはすぐ帰らねば、と言いながら、機械作業を続けてくれた。申し訳ない。他の専業の人もそうなのだが、みんな自分の農作業で精一杯のはずだ。大豆の作業に参加すれば、その分、早起きと、夜なべになる。今の時期やることは、幾らでもある。結局やりきれないことが必ず出てくる。その忙しい中で参加してくれる。そうした専業の人が、農家として立派にやってゆけるように、余計なことかもしれないが、私のできることとして、周辺部の充実を考えなければいけない。

立派な畝が出来上がった。深さが45センチはある。上部の巾も45センチぐらいある。そこに2列に苗を植える予定だ。雨が降ればこの水が、水路になってしまうぐらい排水が悪い。でも今年は植えの田んぼが、田んぼを止めて、野菜にしたようだ。あれでだいぶ違ってくると思うのだが、どうなるか観察。昨日は既にセルトレーと、種が配られた。これを、7月の始めに蒔くわけだ。この種から全員がかかわる。この仕組みが、大切な部分だ。最後の味噌、醤油、納豆、豆腐、食べ物になるまでの全工程にかかわる。それが農業体験だと思う。逆に言えば、やって見ればたいした事ではない。誰にでも出来ることだ。自分が食べるものに責任を持てれば、見えてくる景色が違う。「絵を描いていてもいいよ。」と言われたような気になった。百粒の大豆の会が、福島の方だかにあるらしい。ほぼ同じような発想だ。長野には、醤油の会がある。今年は大豆に余分があれば、もう一度醤油に挑戦したい。

昨日、と一昨日の自給作業:草刈、菜の花の種取、2時間30分。大豆の作業2時間30分 累計時間:30時間
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緊急報告:小田原市議会の会派の変動

2008-05-17 21:28:31 | Peace Cafe
小田原市議会では、大野・木村・佐々木・杉山・檜山・細田・三廻部・安野市議会議員で、新会派を結成したそうです。新聞ではすでに、報道済みだそうです。
これは明らかに、明日の市長選後の新体制に向けての、行動と思われます。
新市長を明らかに、加藤氏と決めての行動と推測されます。
さすがに、乗り遅れまいとする。市議会議員のすばやい行動です。今後、加藤新市長の小田原市議会の、与党として城下町ホールの見直しなどに、取り組む新体制と言う事でしょう。小田原もいよいよ面白くなりそうです。
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