魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

気づかぬ

2016年08月08日 | 日記・エッセイ・コラム

30年ぐらい前から見えていたことだが、恐ろしい時代になったと思う。
世相の風潮の変化は、周期律などの理屈では簡単に解る。しかし、実際どの様にそれが変化していくのかは、現場で目の前の風景を見ていると却って気づかない。
それは、錯覚や錯視のゲームで、じっと見つめていて「ハイ、何が変化しましたか?」と言われても、大抵は気づかないことと同じだ。

日々起きる事件を、近頃おかしいなと思うことはあるが、その時は既に変化は終わっている。その前の、変化の兆候は、案外なんでもないところに転がっている。
今日の風潮を懸念したことの一つに、アニメでの集団規律や、先輩後輩の強調があった。終戦直後は、あらゆる規律、規範が取り除かれ、何を言おうと何をしようと自由だった。ことに戦後十年ぐらい、アメリカの息が掛かっていた頃は、学校でも自由にものを言うことが奨励され、何でも言ってみよう、何でもやってみようの時代だった。映画の社長シリーズや、無責任シリーズのようなノー天気な話しが喜ばれた。

その頃の日本人は、為せば成ると思っていたから、ドンドン海外に出て行き、多少の失敗は笑い話になった。
現在の日本は、ひたすら失敗を恐れ、金はもちろん、手も足も知恵も出ない。企業は内部留保をため込み二番煎じばかりを狙い、何かと言えば責任論に終始する。
役人は既得権を守ろうとし、がんじがらめの規制に、政治家も手を付けられない。

こうした、知恵の出ない風土では、何事も守りが優先され、「僕が守る」が格好良く聞こえ、打開策が出ないから、後退ばかりを繰り返し、じり貧になる。
そうして停滞すると、停滞の理由が他者になり、閉鎖的で排他的になる。そして、そうなっていることに自覚も無い。

経済の停滞による閉鎖性は、日本だけでもなく、世界で起こっていることであり、これが周期律だ。ここに、何かの切っ掛け、例えば異常気象による不作などが起こると、一気に争いになる。
天王星84年周期なら、今は昭和7年、1932年頃だ。