魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

大陸

2008年04月19日 | 日記・エッセイ・コラム

中国を尊敬していると言うと、怪訝な顔をされる。
占いを学んだ者なら、古代文明を尊敬するのは当然だろう。
そして、中国は良くも悪くもその体質を保ち続けていると思う。

ただし、
中国を尊敬していると言っても、現・中国軍事政府を尊敬しているわけではない。
そもそも、中国としてひとくくりにする国家像があるかどうかさえ疑わしい。
尊敬する中国とは、黄河、長江文明と、そこに関わる文明の総体であり、いわば東アジア・シルクロード文明とでも呼ぶようなものだ。

日本の文明・文化はこの恩恵なくして考えられない。
様々な知識だけではなく、民族移動そのものも含めて、今の日本がある。

ネット・ナショナリズム
恐ろしいことに、近頃のナショナリズムは、日本列島の人や文明が、天から降ったか地からわいたかのような論調にあふれている。
これではまるで、北の将軍様の出自や瑞兆を崇拝する親衛隊とかわりない。つまり、戦前のあの神国ゾンビが甦っているのだ。

これは、政治や教育、マスコミが、無責任にシステムや制度を食いつぶしてきた結果だ。
権威たるべきものの醜態に、ネット社会が反旗を翻しているのだ。

ネット社会は無秩序な原野に集う烏合の衆だ。
いつの世も、秩序が崩壊すると魑魅魍魎が跋扈する。いわば三国志前夜のような状況に、怪しげなリーダーが次々と現れ、ネット意識を導いていく。

ネットにはすべての情報が開示されている・・・という思い込みが、客観性のない、直情的な行動を生み出す。

中国で、反日や反仏不買運動が起こるのはネット操作されているからだと言われているが、中国でなくとも、一つの言語ネット集団の意識は偏った行動をうむ。
最たる例は盧武鉉政権の誕生だが、世界的にも、情報制限されていないにもかかわらず、他国から見れば互いに奇異な、ネット・コンセンサスが生まれている。オバマ、プーチン、イスラムテロ・・・
つまりは、外から見れば日本のそれも大差ないということだ。

共有言語内の意識は、どうしても内向きな独善に走る。
仮に完全な翻訳ネットが普及しても、「アホとバカ」のように、環境の違う感性は理解できないだろう。生い立ちの感性こそがナショナリズムの原点だからだ。

単純思考
多くの異邦人が出会えば、言葉は単純化する。
「オマエ、クウ、メシ?」で通じる  (お食事になさいますか)
異邦人同士の共通言語として成長した現代英語も中国語も、他言語と比べれば単純化している。
単純な言語にはジェスチャーを必要とする。英語は言うまでもないが、中国語の、愛想笑いと決め口調も一つの補助言語だ。

中国語の単純さ、行動の単純さだけ見ていると、あの偉大な文明がどこから生まれたのか理解できない。

叡智は、言葉の美しさ、論理の整合性に一致する・・・
そう考えていては決して見えてこない何かがある。

大通りの中国人へのインタビューは、見事に政府の見解に一致している。保身のためか本気でそう思っているのか、とにかく中間的な意見がない。
ただ、言えることは、どうも中国人は、常に単純な答えに振り分けて生きているようだ。
三峡で、反日感情の中、一人で展望台作りをしている日本人のオジサンの話を聞いて感動した中国人の娘が、突然「嫁にしてくれ」とやって来て結婚したそうだ。まるで聊斎志異のような話だ。

単純明快な「意志と感情」に生きることで、結果は「時」にゆだねる・・・中国人は、そんな生き方をしているように思える。
考えようによれば。一人の人間が何でも解ろうとするのは人間の「思い上がり」なのかもしれない。

巨大コンピューター
コンピューターは「0・1」の二進法で動き、あの複雑な振る舞いをする。膨大な「YES・NO」が集積して一つの結果を出す。人間の体も膨大な細胞によって一個の意志が生まれる。

中国文明という一つの生命体は、人海の集積として存在しているのではなかろうか。そうだとすれば、個々の意志や時々の行動は、単純な方が良い。人権などにかまっていられない。これがいわゆる「大陸的」ないい加減さなのではなかろうか。
海と山に閉ざされて、個の感性や技の道を求める日本人には計り知れない、荒技の原理なのかもしれない。

チベット問題には怒っている。
しかし、この問題は単純ではない。「国家とは何か」「果たして国家は必要か」という問題だからだ。
近代国家の多くは、成立の線引き段階に多くの矛盾を含んでいる。
日本政府は、日本人は、もしも、沖縄や北海道が独立すると言ったとしたら、どう考えどう行動するだろう。