魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

八重の桜

2013年01月08日 | 日記・エッセイ・コラム

大河「八重の桜」が始まった。
第一回は「ならぬことはならぬ」で、会津藩の什の掟を強調し、会津人の生き方の美しさを紹介していた。

これまでも、白虎隊のドラマなど、東北会津の実直な美しさが印象に残っているし、この度の大災害の渦中にあっても、世界を驚かせた東北人の、厳とした人間性は、日本人の面目躍如であった。

日本人ではあるが、西の人間として、東北の人々の愚直なまでの真面目さには、涙が出るほど感動する。
そして、日本の西と東の文化の落差は、世界と日本の関係に似ていると思っている。

同じ日本でも、西に行くほど外来文化に影響され、非日本的だ。いわゆる日本文化というものは、縄文文化をベースにする東の感性が、弥生文化を吸収感化したものだ。

日本独特の美意識は、縄文の「美への探究心」と、弥生の「合理性」が織りなしたものであり、これこそがデザインの基本だろう。

デザインは単なる美術とは異なり、ものに与える形、ものの持つ必然的な形、機能美がなければならないが、日本文化には究極のデザイン感覚が備わっている。形が機能を生み、機能が形を生む。
日本の「ものづくり」という言葉が、日本人の琴線に触れるのは、日本人の美への探究心が揺さぶられるからだ。

伊達と言われる美意識は、東北全域に根付く文化の結晶であり、源日本人の末裔である東北人の生き様だ。
伊達者として現れた東北の質実は、大海の孤島で醸成された、日本全体の文化となっているが、その日本でも、東西には大きな違いがある。

美しい日本
黙っていても見れば解ってもらえると、ひたすら実質を磨こうとする東北と、売り込んでなんぼ儲けてなんぼの、ハッタリ駆け引きで付加価値を売りものにする西との違いは、視点を引いて見れば、中韓と日本の関係に匹敵する。

日本が「ものづくり」にこだわっている間に、パクリを能力と心得て、活用したり、右から左に売って儲けた中韓が、逆に日本に命令を始める。
この構図は、蝦夷、奥州藤原、伊逹、会津と・・・律儀さ故に常に悲哀を見てきた東北と大和日本の関係と似ている。

「ならぬことはならぬ」と、戒めガマンする東北の生き方は美しいが、京・大阪を拠点とした秀吉のイメージ「鳴かぬなら鳴かせて見せようホトトギス」とは真反対だ。

東北復興で、東北舞台のドラマを展開するのは大いに賛成だが、今の日本に失われているものは、むしろ「鳴かせて見せよう」の破天荒であり、「ならぬことをなす」寛容性だ。

ドラマの舞台は、やがて西に移るだろうから、東北のガマンと保守から、破天荒、進取、知恵とアイデアへと価値観を転換させて行って欲しいものだ。

PS.
タイトル「ならぬことはならぬ」を「ならぬものはならぬ」と書いていた。 訂正\(_ _ )