魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

解らない

2013年01月30日 | 日記・エッセイ・コラム

近頃、「生きてる意味が解らない」というギャグ?が流行っているようだ。よく耳にする。

「生きる」意味など、誰にも解らない。宇宙の果てと生きる意味は、永遠の謎だ。強いて言えば、「解らないことが解っている」ということになるのだろうか。
人類のあらゆる思索は、それに費やされてきたと言ってもいいだろう。

そう考えると、聖賢聖典から、達人凡人、ボケ老人のつぶやきまで、すべてが、その答えのような気がする。
「こんなに苦労して、何のために生きているんだろう」と、思わず漏らす溜息から、「生きてて良かった」と、歓喜の叫びを上げる瞬間まで、すべてが、生きる意味を物語っている。

生きる意味を求め、ほとんどの人が自分で定めて生きている。でなければ、疑問さえ持たないで生きている。
子のため、親のため、世のため、人のため、愛するため、恨みのため、目標のため・・・

ところが、仏教ではこれを煩悩、執着と呼び、これを捨てよという。
聖書でも、思い煩うなという。それだけではなく、産めよ増えよ地に満ちよとまで付け加える。

もし本当に、人類が地に満ちたら亡んでしまうだろうが、現代はほとんどその瀬戸際にまで迫っている。
ということは、もしかするとそれが聖書の本音なのかも知れない。聖書はそういうつもりで書かれたわけではないだろうが、図らずも深遠な真理が隠されているのかも知れない。
人類が栄えようが滅びようが、すべては、「あるがまま」なのだと。

千の風
人は神に似せて土から造られたと、人間自己中の聖書だが、真の意味は、むしろ、「土に帰るのだぞ」と言いたいのかも知れない。
とすれば、神のもとに召されるとは、神に吹き込まれた魂が神に返されることであり、神とは何かによって、その意味が違ってくる。

仏教では魂が様々な生に生まれ変わる輪廻を、生きることの苦の繰り返しと考え、そこから解放されることを解脱と言うが、もし、魂というものが存在しなければ、別の解釈をすることもできる。

魂が肉体を渡り歩いたり、神のもとに帰ったりしないものだとすれば、魂も宇宙の一部と考えられる。現代人の科学知識では、こう考える方が解りやすい。

「魂」とは、地上に現れている生物のような「一個」の存在ではなく、宇宙全体を覆うエネルギー存在の一部に過ぎない。
バクテリアから人間まで、生物に宿るのは、その連続した「気」であり、それが個々を有機体として動かしている。

音の振動が、周辺の空気や個体を振るわすように、個と見えるものは一つの「気」として、影響し合い繋がっている。
そして、個々の生命の生み出す生成現象は、確実に環境に影響し、地球に影響し、さらには宇宙に影響している。

その「宇宙エネルギー」の意志が何であるのかなど、どこまでも解るはずはないが、生命の起こす変化は、他のどこかの銀河でも、同時的に起こっているのかも知れない。身体の細胞が日々生成するように。

この日々の営みの中で生まれる、思想や言葉それぞれが、「生きている意味」の答えであり、人生の達人ほど、「自分の至らなさに気づく」と、一様につぶやく。

個々の命が為しうるものは、「道半ば」であり、「無」であり、そのことが答えであり、そして、そのことが、宇宙エネルギー全体を支えるのに欠かせない、大無につながる個における「無」なのではあるまいか。

one for all, all for one


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