魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

攪乱情報(2)

2011年11月16日 | 日記・エッセイ・コラム

支持率という妖怪は、清涼殿で啼く「ぬえ(鵺)」だ。
為政者を必ず滅ぼさずにはおかない。

メディアは、政権下ろしをタレントのスキャンダルと同じ手法で扱っている。
何でも良いからアラ探しをして、人間としてごく普通の行動を、何かトンでもない行状のように騒ぎ立て、それに、取り合っても取り合わなくても、その対応をまた騒ぎ立てる。そして、世間が反応すると、国民の総意のように、さらに叩き続ける。

要するに、自分で火を付けて、自分で煽り、騒ぎを大きくして飯の種にする。タレントなど潰れようが死のうがどうでも良いと思っているから、全く人格や人権を無視して、好き放題にしゃぶり尽くす。

政治家にも、これと全く同じ手法が通じることは、これまで世間の良く知る所だが、問題は、政治を良くしようという正義や善意や哲学がどこにもないと言うことだ。その上、言い方は正義の味方のような口調だから、なおたちが悪い。

タレントを飯の種として蔑視している態度が、そのまま政治家蔑視であり、そのことは、根本的に国民を蔑視していることになる。
そうした行為の中で、メディアは、教祖のように国民をどうにでも牛耳れると驕り高ぶって、自分が見えなくなっている。
記者会見で暴言を吐く記者などもその例だ。

タレントも政治家も、人気商売だから、悪い評判を立てられると仕事が出来なくなる。その弱点を突いて、メディアの好き放題だ。
しかし、政治家をタレントと同一視して、くだらないイチャ文に同調する国民であれば、メディアにナメられても仕方がない。

だって、みんなも・・・
このメディアの手法は、正しい情報や、論理的な解説で納得させるものではない。ムード作りによって、自分の目的や願望が、あたかも正しいかのように錯覚させるものだ。

子供が、何かを買ってもらいたい時、「だって、みんなも持っているよ」と、自分自身の欲望が、さも社会的必然かのように訴える。もちろん本人もそう信じ込んでいる。
すると、親が「みんなって誰のこと」と詰問すると、実は隣のケンちゃんだけだったりする。

メディアはこれと似たような、ウソではないけれど実態ではない、ムードを醸しだして、どちらでもなかった人まで、乗り遅れるなとばかりに、自分サイドに引き込み、石を握らせる。
メディアという公器が「だって、みんなも」と支持率を挙げてみせれば、多くの市民が、「支持率ってどんなもの」とは詰問しない。

論理ではなく感情操作による、ムード作りは、歌や物語の世界であり、それを得意とするのは、西日本に多く、九州には歌手や作家に憬れる人も多ければ、実際、その道で成功する人も多い。

確たる数字を知らないのだが、目立つという点では、九州出身のメディア関係者やライターも少なくない。これは誰かに検証をしてもらいたいところだ。