魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

長子と弟妹 2

2008年05月27日 | 兄弟関係

長子はよく、弟妹に、「お前はこうだから・・・」と説教や説明をしようとするが、弟妹は、「で、どうするんだ」という答えを聞きたがる。

功利主義の弟妹には、原理は無意味だから、自分を原理的に理解する習慣がない。
つまり、自分を客観的に理解しないから、「お前はどうの・・・」と言われると、「何か気に入らないのだな」と考える。

しかし、長子は「問題」を感じた時、老婆心のつもりで弟妹に解らせようとする。しかし、長子は、弟妹がそういう話に興味がないことを知るべきだ。

長子は、弟妹が対人関係を、「対応」でこなしていることを知り、弟妹に説教や説得をするより「対処」することが有効だと知るべきだろう。
だが、長子にとって、これは案外、辛い。
「何度言ったら解るんだ」と思い、説得もせずに「対処」するのは相手の人格を無視するようで、後ろめたい。

弟妹はキャッチャーだ。球筋の解説より、球を待っている。

長子の親と弟妹の親
長子が親になると、子供を説得しようとするが、弟妹が親になると、命令と無視をする。
長子の親は子供に対して、厳しさとあきらめが必要だろうし、
弟妹の親は子供の人格を認め、同時に、依存しないことが重要だろう。
長子の親は放任主義と言いながら、子供を精神的に拘束する。
弟妹の親は子供を子分のように扱いながら、子供離れができない。

しかしながら、えてして夫婦は、長子と弟妹の組み合わせが多いので、案外バランスはとれる。

中間児
同じ弟妹でも、末っ子と中間児は全くちがう。
中間児は実に複雑な性格だ。

中間児のことを悪く思う人は、滅多にいないだろう。
「好印象」は中間児の生きる術だからだ。
優しく親切で、嫌なことも言わない。
しかし、意地悪く観察していると、次のことに気づくかも知れない。

不満を溜めやすい
幸せそうなノーテンキを見るといらつく→いじめの黒幕
他人の手柄を認めない→偏屈
自分の過ちを認めない→他人のせいにする
自分の短所を認めない→執拗に否定する
気が小さい→病院好き医者好き権威好き
むっつり助平

中間児でも、4人以上の兄弟の中間児と、3人兄弟の中間児は多少違う。
特に、長子の兄がいる中間児がもっとも中間児の典型といえる。
姉は、弟妹にとって大きな壁ではないが、兄は大きな壁となるからだ。

長女は親から母親代わりを期待され、長女も積極的にそう振る舞う。
しかし長男は、やさしい母親どころか、勝手気ままなトムソーヤだ。

最も難物の中間児は、長子長男の下に生まれた、第二子の長女だろう。
責任はなく、親にも兄にも可愛がられ、その上、弟妹という道具ができる。
さんざん可愛がられていたところに、邪魔者の弟妹が現れた。恨みに思うと共に、それは人形のような玩具でもある。
その結果、自分は「優しい支配者」だと思うようになる。実際、穏やかで優しい言動だ。

どういう組み合わせであれ、中間児は、声を殺していることが一番得になることを覚える。
先ず、なんとしても責任から逃れようとするし、それは可能だ。
責任者は長子であり、下には罪を被せることができる。
黙っていれば、上下のいずれかが責任を取り、もし、自分に降りかかりかけたら、さりげなく、下のせいにする。
上の親兄姉から非難されれば下に被せ、下からの攻撃なら、仲間のような顔をして、内緒話で上のせいだと説得する。
幼児期からのこのトレーニングが、中間児を猛獣使いに成長させる。

しかし、こういう過ごし方は、思ったことが言えないわけだから、常に不満が蓄積する。親しい人には密かに愚痴る。また、常に周りの動向を気にしているわけだから、ビクビクで気が小さくなる。

その結果、無神経なヤツに腹が立ち、周りを扇動していじめをする。しかし周囲は、穏やかな中間児が張本人だとは決して気づかない。
扇動されていじめを実行するのは、たいてい末っ子だ。
長子の場合は扇動されても、限度ややり方を自分で判断するから、実際には過激にはならない。

中間児の、気の小ささが現れるのは、病院好き医者好きの権威指向だが、自分の短所や失敗を認められないのも、攻撃を避けたい習性から来ている。

意志を見せないようにする習慣が、「むっつり助平」を生む。
人間、誰でも助平なわけだが、自分勝手に意思表明する長子や、数打ちゃ当たる式の末っ子にくらべ、中間児は本心を隠し通そうとする。
でも、チャンスは決して逃さないことにしているから、想像以上に手が早い。また、口には出さずに、べったり接近して黙ってチャンスを窺う。これをもって、むっつり助平を任じることになる。

ただ、いずれにしても、中間児も元は末っ子だから、自分に対する客観性はない。
ここで挙げたようなことを、本人は決して認めないだろう。


長子と弟妹 1

2008年05月27日 | 兄弟関係

長子は弟妹になったことが無い。
弟妹は長子になったことが無い。
よほど賢い人か、修行のできた人でなければ、互いの立場や気持ちは解らないだろう。

あえて言えば、長子の方がやや理解力がある。
長子はもともと一人っ子だから、自問自答しながら成長する。
強い自意識が生まれるから、他人の自意識にも気づき理解もする。

しかし、初めから上との関係によって行動を判断する弟妹は、相手の立場を考えるゆとりなどないし、自分を省みるヒマもない。
憧れ、非難、感謝、闘争、恨み、僻み・・・のような、関係によって生れる「感情」で兄姉を見る。

長子の場合、弟妹に対しては、無関心、関心、遊び相手、邪魔、便利、管理責任・・・のように、親のような「物」意識で弟妹を見ている。
その上で、その「物」の人格、自意識について考える。
つまり、親の子供に対する理解の仕方とほとんど同じで、弟妹に対してペットのような、ご都合主義の接し方をする。先ず自分ありきだ。

親が子供のことを解らないように、長子も弟妹の気持ちを実際には理解できない。しかし同時に、弟妹に親のような愛着を持っている。

弟妹は、子供が親心というものに気づかないように、長子の思いやりには気づかない。恐怖、尊敬、依存、不満で長子を見る。

方法論より結果の弟妹
だいたい弟妹には、こういう「兄弟の分析」と言った、ややこしい話しはあまり性に合わない。
どういう理屈で、そうなるのかより、それは役に立つのか、どっちが良いもんで、どっちが悪もんだ・・・のように、
自分にとって「損か得か」を手っ取り早く知りたがる。

自分の短所をあげられると、基本的には受け付けない。逆に、自分の気に入らない人間の短所なら、大いに同意して、「兄弟関係では」などと攻撃材料にする。
これは何度も言うように、何事も、「身の施し方」の材料データとして受け止めるからだ。

だから、都合の悪い材料はアッサリ無視する。
原理原則より、とりあえずの利益と効果を考えている。
それは、弟妹にとっては当然の行動で、相手の出方に自分はどう対応するか、ということの方が重要だ。
そして、長子にはこの無原則が我慢ならない。

例えば、誰かに約束を破られた場合。
現実主義の弟妹思考なら、相手が約束を破ったことを攻撃する方が、自分に有利とみれば、トコトンそのことを主張するが、それに効果がないと判れば、サッと攻撃ポイントを切り替えるか、攻撃そのものを止める。

原理主義の長子思考では、約束が破られたことを大前提に押さえるが、強くは主張しない。相手が反省することを期待するが、一向に反省の様子がないと、やがて相手にしなくなる。