魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

アブラボウズ 2

2008年03月24日 | 日記・エッセイ・コラム

沖縄では昔、ハブは食べてもウナギは食べなかった。内地人が来てウナギを捕って食べるのを見て、驚いたが、強引に食べさせられて「うまい」と知ったそうだ。
日本では、ナマズはあまり食べないが、ウナギを食べなかったアメリカではナマズは好評で、湖の畔などでキャットフィッシュ祭(?)のようなものがあり、フライとコールスローをドカッと食べるのだそうだ。

近頃、日本の回転寿司のネタには代用品が多いが、値段に見合った味ならそれで良いようだ。むしろ、新ネタとして堂々と回っていれば好評だ。トロにしても、もとは誰も食べず、捨てていたものだ。

食や性ほど「思い込み」で成り立っているものはない。
人間の究極目的だから、社会の「思い込み」が反映している。
異国の市場やトイレに行くと、誰でもカルチャーショックを受ける。

同じはずだと思っているから、違っていると驚く。多くは、「よくもまあ!」と、相手が間違っていると決めつける。逆に、何でも相手が優れていると迎合する。

近代では、学校や本やテレビを信じ込み、与えられた価値を崇拝する。
それを欲しがり、涙ぐましい努力をし、持てる人をねたみ、持たない人を蔑視する。
時にはそうした幻の価値のために争い、疲れ果て、自分も家族も不幸にする。さらには、民族や国家という幻想が、地域全体、地球全体を争いに巻き込む。

付和雷同
ネットの普及によって、そうした公共の恣意的情報から解放されたかに見えるが、個々が判断を迫られるネット社会は、烏合の衆となる。

災害時のデマは、災害以上に恐ろしい。防災対策でも重大問題だ。
現代のように、事件や災害が世界的に共有されていると、世界中の人が日常でも「災害現場」の心理状態になっている。

正しい情報を流しても、それを疑う情報や、打ち消すデマが駆けめぐる。映像や情報も、「先ず疑う」習慣が身に付いている。
情報を信じられず、自分の判断力に自信を持てない時、人間は大勢に流れる。「みんなが行くから」だけで動く。

富士川の合戦で、驚いて飛び立った鳥は、恐らくフラミンゴの大群以上の群れと大音響だっただろう。
意思統一されている源氏には、ただの鳥と音だが、一元化された情報を持たない寄せ集めの大集団、平氏は、鳥と同じ行動しかとれなかった。周りの様子だけで盲動し、大勢に流れて大敗退した。

大群衆の中に独り立った経験のある人、祭りやラッシュの混乱に巻き込まれた経験のある人ならわかるだろう。個人の意志や判断は何の役にも立たない。世界中に、そういう混乱が広がっている。

ところで、クエの偽物にされたアブラボウズだが、始めから「北海たら」とでも銘々されて、「冬の東北の味」などと売られていれば、こんな汚名を着せられることもなかったかも知れない。

アブラボウズ1