魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

ダビング10

2008年07月12日 | 日記・エッセイ・コラム

子供の頃、紙芝居屋は飴を売って、買った子は前、買わない子は後ろで観ていた。

古代より、吟遊詩人や大道芸人は、強制的に報酬を得ていたわけではない。納得すれば幾ばくかを払い、面白くなければ立ち去った。
一方では、権力を持つ者が、自分のためだけに奉仕する芸能奴隷を養い、それをまた、権力の象徴として公開もした。

「お金」が権力になると、金持ちは芸能を金で養った。

やがて、見せ物小屋が生まれ、料金を払った者が観られるようになった。「お金」による権力の一般化。市民権の向上ともいえる。

いずれにしても、「人が観たいと思うもの」を見せれば命をつなぐ糧になった。多くは、嫌々やっていたわけでもない。
現代の古代王国、北の将軍様の喜び組ですら、日々研鑽を積み、それを生き甲斐と考えている。

今日の芸術の礎になったのも、宮廷楽師や画家であり、経済の発展によって、浮世絵や歌舞伎などが、いわば庶民のお抱えになった。
さらに、技術が発達すると、レコードや活動写真が、芸の量産と低価格化を可能にした。
しかし、技術の発達は模倣を容易にするので、著作権という概念が生まれた。見たいと思うものを見せて糧にする、命をつなぐために、プロとして、人の見たいものを創り出す。

神との対話
生産をせずに糧を得るものを、河原乞食=庶民の芸能奴隷と見なすようになったのは、権力者に奉仕する「喜び組」奴隷と同様に、お金に奉仕するから乞食と呼ばれた。

有史以前、人類の放浪時代には、絵を描き、語り歌い踊ることは、神への奉仕、集団のアイデンティティー創成だった。
「われわれはどこから来て、何のためにどこへ行くのか」
芸能はそれを説明する行為だった。

初めはリーダーとシャーマンには区別はなかっただろうが、農業や牧畜で大集団になるに連れ、リーダーが神に代わる主人となり、神に奉仕する芸能はリーダーに奉仕し、やがてお金に奉仕するようになり、企業など経済システムに奉仕するようになった。

表現は元来、神、つまりは人間自身のための素朴な衝動だ。
プロの生活のためにあるのではない。
人類の表現すべてを、何でも見られるようになった今。素朴に見たいものが、神への奉納=人間に必要なものということだろう。

プロの「生活のための創造」は、一度、白紙に戻さなければならなくなっている。
今、誰も想像できないことは、「お金のない世界」、そして、お金を前提として成り立つ、知的財産権などの仮想世界の消滅だ。
これが消えなければ人類は進歩できないし、今の状況はどうにもそこへ向かっている。

著作権とかにこだわって、視聴制限をしようという発想はもう長くない。金を払わなければならないなら、立ち去るだけだ。
飴を買わない子供も観られるおおらかさがあって、みんなが紙芝居のオジサンを待つようになる。

ダビング10・・・
お情けちょうだい、ありがとうございます